日大ラグビー部の部員が大麻所持の疑いで逮捕された。これについて大麻での逮捕履歴がある女優が「もう一度考えませんか」と訴えかけ問題になっている。この話題だけを見ても「我々が大麻に関してどういう態度をとるべきか」ということが見えてこない。ここから視野を広げることでこの議論に何が欠けているのかが見えてくるのではないかと感じた。つまり我々は何を目的にして議論をしているのかということを考えたいと思ったのだ。
“大麻合法化に関する別の視点” の続きを読む7年ぶりに感じる政治的議論と潮目の変化
先日来、ブログのトピックを揺らしている。ちょっとずつ新しいものを取り入れたいのだが需要がどこにあるのかよくわからないからだ。「読まれている」という実感が出てきて欲が出てきたのかもしれない。これまでは政府批判系の記事が多かったのだがそれをやめて別の記事を書いている。「やっぱり批判記事が読みたい人が多いのだ」ということを確認したかったのだがどうやら外れつつある。却って閲覧数が上がっているのである。
“7年ぶりに感じる政治的議論と潮目の変化” の続きを読むコミュニティマネジメント実践編 – 「引用」を徹底して大混乱する
フェイクニュースが多い。特にネトウヨ系の人が自分の言いたいことだけをいう絶叫型の記事が多く困っていた。軽く「引用をしっかりさせれば収まるだろう」と思っていたのだが、これが大間違いだった。日本人には引用を理解できない人がいる。説明してもわかってはもらえないのである。日本人は「理由を気にしない」という性質があるので制御するのにかなり癖のあるやり方をとらなければならない。
“コミュニティマネジメント実践編 – 「引用」を徹底して大混乱する” の続きを読むアメリカ人はプロセスを気にしないのか?
これまで日本人はプロセスを気にせず結果だけをありがたがるというよう話を書いている。このため一旦できた正解を動かせず「正解に縛られるだろう」と分析した。そうなると「じゃあ日本人以外はそうならないのか」という疑問が生まれる。アメリカの事例を考えたい。
“アメリカ人はプロセスを気にしないのか?” の続きを読む日本人はプロセスを気にするのか気にしないのか
先日来、西洋のメディアはプロセスを気にするが日本のメディアは気にしないという話をしている。だが、ちょっとそれが崩れそうな事例を見つけた。文書管理のようなプロセスを気にして安倍政権を批判している人が多いのだ。実は日本人はプロセスを気にするのかも知れないなと思った。
“日本人はプロセスを気にするのか気にしないのか” の続きを読むカルロス・ゴーン被告の会見から締め出された安藤優子さんの怒りと日本の病
カルロス・ゴーン被告の会見がレバノンのベイルートで行われた。この会見には朝日新聞・小学館・テレビ東京は入れたようだが、フジテレビはアクセスできなかったそうだ。安藤さんが興奮気味に自分たちが排除されたことを憤っていたのが印象的だった。
“カルロス・ゴーン被告の会見から締め出された安藤優子さんの怒りと日本の病” の続きを読む議論と対話実践編 – 意見を募集してみる
Quoraでスペースと呼ばれるコミュニティ運営をやっている。自分の意見を言いつつ投稿にも目を通して場所を作って行くという作業である。漫然とやっていたのだが、定期的にまとめたいと思う。今回はその第一回目である。今回は「参加を促す」ことの是非について考える。色々考えているとかなり本質的な問題にぶち当たる。
“議論と対話実践編 – 意見を募集してみる” の続きを読む政治的中立性とは
先日「Quoraは政治的に中立か」という質問を見つけてずっと気になっていた。似たような質問に「中立な新聞が読みたい」というものがある。前提として政治情報というのは中立でなければならないという思い込みがあるらしいのだが、この「中立」にどうにも違和感がある。最近、早稲田大学の近藤孝弘教授が書いた「日本の若者の「政治ぎらい」と〈政治教育〉の深い関係」というエントリーを読んで違和感の一部が解けたような気がした。中立ではなく正解だとわかったのだ。つまり「どの新聞が正解ですか」と聞いているわけである。
ワイマール共和国は民主主義を受け入れない人たちに支えられた民主主義国家だった。その失敗から学んだ西ドイツの教育現場では政治に意見を持って議論参加することが要求されるようになった。つまり西ドイツでは民主主義という制度を学ぶだけでは民主主義は機能しないと考える。また、政治について学ぶ政治教育と政治議論は分けて考えられる。
そんな中で生まれたのが、対立する問題は対立する問題として扱うべきだという「ボイテルスバッハ・コンセンサス」である。Wikipediaから参照した。
- 圧倒の禁止の原則。教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
- 論争性の原則。学問と政治の世界において論争がある事柄は、授業においても議論があるものとして扱う。
- 生徒志向の原則。生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない。
この二番目と三番目にあるように「教師は対立点を紹介し生徒に意見を持つべきだと促す」というのがドイツ流だそうだ。教師が自分の意見をいう場合もあり、意見が片方に傾いたとき対立意見を言ってみることもあり、対立点を提示するファシリテータとして機能することもある。先生がどう対処するかは場合によって異なるのだが、先生もまた意見を持っている。つまりそれぞれが意見を持っていることが期待されそれらの意見を公平にあつかおうとするわけである。
ところがこうした伝統がない東ドイツではAfD(ドイツのための選択肢)のようないわゆる右翼ポピュリスト政党が「教員が自分たちの政党に批判的な政治的意見を持つこと」に対して否定的な見解を示すことがあるという。先生は偏っていて「政治的な中立性を損なっている」というのである。
この文章から読み取れるのは、政治的な中立性はドイツでも期待されてはいるが、それは日本とは異なっているということである。日本では意見が分かれる問題は「あえて触れない」という同調性が重んじられることが多い。つまり中立な意見というのが「みんなと同じ意見だ」と理解されている可能性がある。つまり世間一般の正解を中立と言っているのである。
西ドイツ領域ではそれぞれが意見を持っているのは当然であり、それは偏りではなく主体性と位置付けられる。一方AfDに代表される東ドイツでは日本と同じように自分たちの意見が中立でありそれに逆らう意見が「偏っている」とみなされることがある。東ドイツは長く社会主義を経験している。指導政党の意見が「ドイツの正解」だった時代が長い。
日本人が「政治的に中立な意見が聞きたい」という場合、正解が知りたいと考えることが多いのではないかと思う。例えば、原発設置には反対の声も強いが実際に存在している。そこで日本人は「どっちが正解か」ということを知りたがる。中立な意見が読みたいというのは誰かが決めてくれた正解が読みたいというのと同じことだ。世の中の趨勢が原発維持であればそれに従っておくのが無難である。逆に原発反対を表明してしまうと「変わった人」と見なされて世間から浮いてしまう可能性がある。
現在の新聞は右と左にわかれていてお互いに対立しているように見える。正解がないという状況に戸惑いが生まれて「みんなの正解が知りたい」と考え「政治的に中立なメディアはどこですか?」と聞いくるのだろうと理解できる。正解のメディアがあればそれを読んでそれと同じことが言いたいのだろう。
これはおそらく「世の中が戦争礼賛に傾けば自らも戦争を礼賛する」という態度につながる。毎日新聞が戦争を礼賛し朝日が戦争支持に転じる。そこでみんなが戦争を支持しているということになり、日本は第二次世界大戦に突入していった。
ドイツにも同じような経験があり民族の虐殺にまで発展している。ドイツは「みんなの意見に従うこと」は危険だと考え政治議論を教育の一環に取り入れているのだろう。主体的な意見を持つと偏っていると罰せられる傾向が強い日本では、自分で考えた意見を持っている人ほど「自分は孤立した少数派なのでは」と考え萎縮してしまうかもしれない。ネトウヨは自分で意見を考えられないがゆえに「自分は正解の側にいる」と考えてしまう。極めて不当なことだが政治的リテラシが低い方が却って自信を持ってしまうといういびつな環境だ。
一方、自分で考えた意見を固着させた人は過度な攻撃性を身につけてしまうことになるだろう。自分の意見に予防線をはり少しでもそれに異議を申し立てる人がいればアレルギー的に攻撃する。護憲派や原発反対派にはその傾向が強いように思える。いわゆる世間が見る攻撃的なリベラルの姿だが、そこにあるのはある種の病化した被害者意識だろう。少数派だが正解と信じる人たちの末路である。
すべての人間は偏っていて政治な正解などないということに気がつくまで、日本では誰かが正解を提示してくれるまで日本は三層に分かれたままだろう。
- 政治に関わるのはやめておこうと考え、正解に飛びつく人
- 被害者意識を募らせる少数派
- 多数派の意見をコピペして少数派を攻撃する人
誰も主体者として関与する人がいない政治は魂が死んだ巨大な生き物に過ぎない。ただ単に食べ物を求めて右往左往するようなグロテスクな姿を晒して、他人を批判する咆哮を上げ続けるのである。
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日本人はどんな具合に議論が苦手なのか – シンクライアント方式の場合
日本人は議論ができない。これを読んでいるあなたも私も議論ができない。あなたはダメ人間だ。そんな話を書いている。
今回はシンクライアントについて考える。いまや「シンクライアント」と言われると多くの日本人は「証拠が隠してしまえる怪しいシステム」と思っているはずである。私もそう思った。「安倍政権が情報隠蔽のためにシンクライアント方式を画策したのだ」と……
ところが、テレビのワイドショーに文書管理を担当していた元総務相の官僚が出ていて、彼の説明を聞いて考えが変わった。どうもそうではないらしいということと、導入が始まったばかりなので内閣府が全部このシステムに移行したのかというのも実は確かではないようだ。
私がシンクライアント方式は悪だと思ったのが、私の嫌いな安倍首相がそういう説明をしているからだ。これは正確にはシンクライアントシステムに対するある一つの印象なのだが、日本では多くの人に同じ情報が共有されるとそれが事実として扱われることがある。つまりシンクライアント=情報隠蔽は私に取っても事実だし、Twitterのみんなもそう言っている。だから悪いに違いない。
ではなぜそういう印象がついたのか。それは安倍首相やその取り巻きの人たちが文書管理の実業務に興味を持っていないからだろう。設計思想がわからないのでシンクライアント導入の意図を説明できない。安倍保守というのはおそらく仲間内の認識を優先して他者を理解しないという現象だからこれは当然のことだ。議論をするためにはその辺りを忖度して自分で問題意識を持った上で調べる必要があるが「問題意識」を日本人は持てないのだろう。
シンクライアントは悪いシステムなのだろうか?
シンクライアントシステムは大手ITベンダーが長い間官公庁に売り込もうとしていたシステムである。2006年のThinkITに記事を見つけた。随分と古い記事だ。
NECのマーケティングページにはシンクライアントシステムのメリットが4つ書いてある。このうち今回関係があるのはその2つである。「評価」という観点から要点を2つに刈り込んだ。
- 情報漏洩が防げる
- 運営コストが低減できる
官公庁のメリットはおそらく「情報漏洩が防げる」ことである。情報の持ち出しが難しくなるのだ。これは国家機密管理という意味では妥当な判断だし住民情報を扱う地方公共団体にとってもメリットだろう。問題は安倍首相がこれを理解しているかどうかである。
ここまで刈り込むと、今回の問題は本来の利点を「安倍政権のために私物化」したことが問題になっているということもわかる。つまり議論が最初からねじれているのである。だから安倍政権の言い訳を聞いていても議論ができない。実際には「もともとはこういう意図だったのにその説明は違いますよね」と言ってあげなければならないのだ。実に面倒だが議論するならそうする必要がある。
つまり、本来なら国の情報やあなたの大切な情報が他人に盗まれないために導入したシステムを「あなたに代わって行政を監視する」はずの野党議員から隠したのが今回の問題の一つですよねということだ。シンクライアントシステムの利点を悪用しているのが問題であるということで、問題が一つ解決した。
問題意識を持てば情報を刈り込むことができる。情報を限定すれば考察がしやすくなる。すると問題が一つ解決する。あとは「国家機密を守りつつ情報の透明性を高めるにはどうすればいいのですか?」と質問して、問題意識を共有する人たちで話し合えばいい。実に簡単なことなのだ。
ところが日本人は「安倍=シンクライアント=隠蔽」と思ってしまうので、シンクライアントシステムに「後ろ暗い印象」をつける。あるいは安倍首相が推進する最新鋭のシステムだからいいことに決まっているという印象で話す。お互いに違った印象を持っているからあとは河原で合戦してもらうしかない。我々はそれを遠巻きに見物するだけだ。
2009年当時の民主党政権は公共事業が悪いという単純化を行い、多くの国民もこの単純な図式を支持した。今後野党が支持されれば「シンクライアント導入計画を止めて政府情報透明性確保」というような過度の単純化が行われるはずである。こうして印象ベースの議論はどんどん「いいか悪いか」の議論に落ちてゆく。
ここまでが本筋なのだが、今回シンクライアントシステムを調べていて別の懸念も見つけた。おそらく運用側の大手ベンダーにとってみればシンクライアントシステムは「都合の良い」システムであった。次の問題意識は「これは果たして利用者にも都合のよいシステムだったのだろうか」というものだ。2006年の文章を再び読んでみる。
私が知る限り、シンクライアントという言葉が世に出たのは1990年初頭であり、シトリックス社がマイクロソフト社のシングルユーザOSであるWindowsをマルチユーザで利用するために、Windows上で動作するサーバソフトウェア(WinFrame)とマルチユーザにアクセスするためのクライアントソフトウェア(ICAクライアント:Independent Computing Architectureクライアント)を開発しました。
シンクライアントの歴史
今度は少し追加調査が必要なようだ。実はシンクライアントというのは平成初期に考えられた仕組みである。昭和の大手ベンダーは大きなホストコンピュータを社内で運営しそのリソースを貸し付けるというビジネスモデルを持っていた。Windows95が出るちょっと前の話である。レガシー(古びた遺産)と揶揄されていたIBMはそれを新しいビジョンで転用しようとしたのだろう。汎用機を持っていた国内メーカーはおそらくその流れに乗ったのだ。
平成前期はパソコン全盛時代だった。OSはMicrosoftのものであり日本の大手ベンダーには旨みがない上に客先のパソコンにすべてOSをインストールしなければならないので極めて効率が悪い。本来なら組織的学習をやり直さなければならないがそれをやらずに「楽に売り込める先」を探したのだろう。
日本の大手ベンダーは家庭やビジネスへの浸透を諦めてすでにパイプを持っていた官公庁に取り入る戦略に転じたのではないだろうか。シンクライアントならホストコンピュータ型のビジネスがそのまま展開できて「ベンダーにとってコスト効率が高い」。ベンダーのメリットなのだ。
家庭やビジネスがこれを導入しないのはおそらく使い勝手が悪く割高だからだろう。そのあと、平成後期に入ると家庭や企業はパソコンを使ってクラウドにデータを預けるという、スマホとクラウドコンピューティング型の事業が一般的になる。国際スタンダードが英語圏に握られていて日本のベンダーが苦手な分野だ。
シンクライアントもクラウドも同じ「サーバー」を使うのだが、小さなコンピュータに分散できるクラウドのほうがシンクライアント(正体はホストコンピュータ)よりもコスト効率が高くまた使い勝手も良いだろう。多くの開発業者が参加して便利なシステム作りを競っている。
つまり、政府はガラパゴスなシステムを押し付けられている可能性が高いのだが、おそらく日本の世論がここにたどり着くことはないと思う。そもそもシンクライアントすら満足に説明が出来ていない。
ガラパゴスなシステムであるということが評価できない人たちが官僚や政治家として日本のIT行政を支配しているのは明らかに弊害である。例えば教育も「世界では通用しない日本独自のシステム」を押し付けられる可能性が高い。そしてそんな教育を受けても世界では使い物にならない。
ただ、かつての日本の政権はこの辺りをわきまえていて実務は評価ができる官僚に任せ、自分たちは説明だけを担当していた。だが、これが安倍政権に入って破壊されてしまったようだ。
テレビのワイドショーでは未だにこのお花見問題を扱っているのだが、ジャパンライフとの絡みで出演を見合わせている(と一部で噂される)田崎史郎さんの枠が空き、総務省で文書管理をしていた元官僚が頭を抱えながらシンクライアントシステムについて説明していた。業務に精通していた官僚は遠ざけられ安倍政権に取り入った政治的には強いが実知識がない人たちが残っているようである。つまり日本にも「評価できる」官僚はいたが遠ざけられてしまっているのだろう。
もともと全体として議論が苦手な上に知識があった人たちが排除されてしまったとしたら、政治には「損か得か」か「いいか悪いか」という乱暴な議論しか残らないだろう。
安倍政権の後の政権が問題意識を持って官僚機構を立て直せば物事は再びスムーズに動き出すだろうが、次が安倍政権が利用した仕組みを使って専制に走れば事態はさらに悪化するように思える。おそらく民主党系の政権の方が「安倍政権の独断」を引き継ぐ可能性が高いのではないかと思える。知識に乏しく政権運営経験がないので官僚との協力関係を構築できないからだ。
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日本人はIT時代の読解力を持っていない
テレビで「日本人の読解力が急落して文部科学省が重く受け止めている」というようなニュースをやっていた。日本人の日本語力が急に悪化するわけはないのだからテストの内容が変わったんだろうと思った。つまり騒ぎすぎだと思ったのである。
これについてQuoraでいろいろ聞きまわってみて、日本人に議論ができない理由がよくわかった。そして、おそらくそれが改善することもないだろう。事態は極めて深刻だが問題を深く受け止める人はおそらく多くない。原因は「自分で考える教育」を見たことも聞いたこともないという点にある。
読解力調査では、インターネットで情報が行き交う現状を反映し、ブログなどを読んで解答を選んだり記述したりする内容が出された。文科省によると、日本の生徒は、書いてある内容を理解する力は安定して高かったが、文章の中から必要な情報を探し出す問題が苦手だった。情報が正しいかを評価したり、根拠を示して自分の考えを説明する問題も低迷した。
日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず
教科書は読めるがネットは読めないということらしい。つまり書いてある内容をそのまま覚えることはできるのだが、それを応用することができないのである。急落については端的に指摘が出ているので、これをそのまま読み解けばいい。
OECDのシュライヒャー教育・スキル局長は「日本の生徒はデジタル時代の複雑な文章を読むのに慣れていない」とみる。
日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず
ここでいう複雑な文章とは何だろうか。それは教科書のない世界のことである。教科書がないので自分で情報を取捨選択して刈り込む必要がある。そしてそれを人と共有しなければならない。日本人はその基礎となる刈り込みそのものができないのである。
教科書がないにもかかわらずSNSが発達しているので情報が飛び交っている。情報の取捨選択ができないということは教科書が作れないということなのだが、なぜか巷には「俺が言っていることが正解だ」と叫ぶ人が大勢いる。だがそれを共有しようという人は誰もいない。自分の教科書こそが正しいと主張し、相手の言い分を聞かないのである。おそらく日本人は誰か外国人が新しい正解を提示するまでこの教科書闘争を続けることだろう。ことによったら数世代の間そんな状況が続くかもしれない。
日経の記事は明後日の方向に行っている。シュライヒャー教育・スキル局長の言葉をスルーして「ITを活用ができていない」と言っているのだ。これは日経新聞が経済界の意向を忖度しているからだろう。先行して「学校パソコン、1人1台に」と言っている。家庭用パソコンで負けてしまったので世論の力を使って学校に売り込みたいのだろう。
産経新聞はさらに深刻だ。ITではなく本を読まないのがいけないのではという結論にしてしまっている。道徳的に「本を読む=賢い」というレベルに落とさなければ産経新聞の読者への「わかりみ」が深くならないのかもしれない。
新聞であっても日本人は情報の刈り込みができないのだから質問サイトで聞き回ったくらいで刈り込み賢者に会えるはずはない。この場合は「取捨選択ができないことが問題だ」と具体的な指摘が提示されているのだが「実際に触れるもの」を媒介させないと思考ができないのである。おそらく日本が製造業からサービス業に移行できなかったのは思考力に限界があるからなのだとさえ思ってしまう。
つまり、日本人の読解力のなさというのは子供に限ったことではない。Twitterには因果関係がめちゃくちゃな政権批判が並んでいる。情報は豊富にあるのだがここから必要な情報を「たとえ」や「実体の媒介」なしに抜き出せない。一般有権者だけでなくマスコミも政治家もこのような調子である。
問題意識を持って質問をするととてもわかりにくい長い文章が返ってくることがある。常々「何かが足りない」と感じていたのだが、考え直してみると彼らは教科書を書いているということがわかる。日本人は問題意識を共有できないので、人に何かを教える時に「全般的に使えるような」教科書を書く。万人向けだが誰にも帯に短し襷に長しになってしまうのである。
例えば歴史で重要なのはそこからどんな教訓を学ぶかということなのだが日本人はそれができない。だから年表を覚えることを歴史を学ぶことだと思い込んでしまう。一事が万事そんな具合だ。
全く訓練を受けていない人は印象に流れてしまうし専門家は教科書を書きたがる。問題意識を抽出して概念的なビジョンを作って共有ができない。今までもしてこなかったしこれからもやらないだろう。そしてそれは実は「訓練された人」ほど重症なのだ。つまり教育者が一番危ないという厄介な状況になっている。
日本人がバカだからということではなく「考えて掻い摘む」教育を見たことがないからだろう。像やキリンを口だけで説明できないのと同じように日本人に「考えさせる教育」は説明できない。
このことから、豊富にある情報の中から必要なものを抽出する「IT時代の読解力」の基礎になっているのは「問題意識」だということがわかる。これはパソコンを1人1台あてがってもどうこうなる問題ではないだろうし、英語教育を施しても使い物になる英語は身につかないだろう。道具立の問題ではない。考え方が違うのだ。
今回はいろいろ聞きまわってみて「日本人には理解が不可能なんだろうな」ということがわかった。説明不能なのだから「どうやったら成長に結びつく思考が身につくだろうか」などといちいち考察するのは時間の無駄だと思った。適当に相槌を打っておく方が楽である。
よく日本人は議論ができないなどというのだが、実際にはそれ以前の問題なのかもしれない。