家の近所で電話ボックスが壊れていた。この壊れた電話ボックスからいろいろなことを考えた。キーワードだけ拾うと、日本人と公共、自民党の憲法改正案、社会正義の暴走、そして衰退してゆく国の姿などだ。タイトルにするなら自民党の憲法改正案かなあと思う。本文を読まずに「いいね」してくる人がいるかもしれない。
家の近所で電話ボックスが壊れていた。ブルーシートがかかっており、ガラスが散乱したままで2週間ほど放置されていた。事故にあったようだ。危ないのでNTT に電話したところすぐに回収されたようだ。ところがガラス片は道路に散乱したままだった。
そこでNTTに再度電話した。しかし、このままでは解決しないなあと思ったので今度は「警察に行きます」と言ってみた。相手は慌てた様子だった。「警察沙汰」という言葉には無言のプレッシャーがある。加えて「安心・安全」というキーワードを織り交ぜてみた。最近よく聞く言葉で、自然に口から出たように思う。
結局、これを交番に引き取ってもらった。単に危ないとは言わなかった。「この手の人たち」にいうことを聞いてもらうためには、許認可責任とか、管理責任という言葉を使うとよい。単なる建前なのだが、公職の人たちにはこういう言葉が「効く」のだ。ちなみにテレビ局の人たちに「効く」のはスポンサーを脅かすことである。
「地域の安全・安心を損なっている上に、事故が起きてたら、知りながら放置したことになりますよね」と仄めかしてみた。女性の警察官はピンときていなかったようだが、男性警官は何を言っているのかわかったようだ。裏には「何かあったらあんたたちには責任取れないだろ」という恫喝めいた含みがある、割と暴力的な言葉なのだ。
自民党憲法草案の重大な問題
まず考えたのが「公共」についてだった。地域の人たちは(警官も含めて)地域の危険というものに対してそれほどの責任感を持っていないことがよく分かる。これは電話ボックスが大きな通りに設置してあるということが関係している。小さな通りであれば自治会が騒いでいたかもしれない。「自分たちの縄張り」にあるものには関心が向くのだ。
一方で「公共」にあるものは、お上がなんとかしてくれるだろうという意識を持つのが日本人なのである。日本人は公共に対して受動的な意識を持っている。クラスで先生の話を聞くようなもので、受動的に言われたことだけを儀礼的にこなすのが日本人としての正しい姿なのだ。
この「私に関係があるか」ということは集団主義の社会では割と明白に区別されている。
そこでいつも思うのは自民党の憲法草案である。憲法で国民に訓示を与えて、国というものを明確に意識させることになっている。「本来の正しい日本人は国に忠義を尽くす」というような説明がされるのだが、実際の日本人は国や地域というものに何の関心も持たない。自民党が国や家族というものにことさら関心を寄せ、国民に訓示を垂れたいと思うのは、実は日本人が公共に対して関心を寄せないことの裏返しなのであり、GHQの陰謀ではない。
そして、この手の人たちが国にことさらの関心を寄せるのは「国を私物化できる」という確信があるからだ。それは「公」とは対極にある国家観だ。
正義の暴走
さて、次の考えたのは「正義の暴走」についてだ。最初は自転車で走っていて「ああ、危ないなあ」と思っただけなのだが、きっちり処理されないということに腹が立ち交番に行った。つまり「なんで俺の言うことが聞けないんだ」という苛立ちがある。つまり「こうあるべきだ」という姿があり、それに従わないNTTに腹を立てていたことになる。時間を作って電話までしており、問題にコミットしてしまっている。すると問題が解決するまで「気になってしまう」のだ。
しかし、なんらかの理由でNTTは動かない。そこで出てくるのが「安全・安心」という最近よく聞くキーワードだ。安全はリスクを含んで計算される概念だが、安心は主観的で感情的な言葉だ。つまり、いくら危険が除去されたとしても、その人が「安心だ」と思わなければ、安心は実現できない。「安心・安全」が強調されるのは潜在的な危険をいつも感じているからだろう。そして「NTTは地域の安心を脅かしている」ということは、日本では重大な問題になり得るが、それを除去するコストは考慮されていない。一度脅威を感じてしまうと「それが気になって仕方がなくなる」からである。
ネットで様々な騒ぎの原因「正義の暴走」によるものである。今回の場合は交番で名前と電話番号を聞かれているので匿名というわけには行かなかった。それでも「モンスター化する気持ちもわかるなあ」という実感を持った。自分の主張が通って人が動くというのはそれなりの快感を伴う。しかも、ネットではこれが匿名できてしまうので、自分の考える正義を思う存分暴走させることができるわけだ。
正義はなぜ暴走するのか
正義が暴走するためには、動かない問題があるという前提がある。この場合はガラス片を放置していたNTTが悪ということになるだろう。逆に言えば「悪」がなければ正義の暴走はありえない。
もう一つの構成要素は「建前」の問題だ。この場合「管理責任」というタームだ。警察は危険を知っていながら放置してはいけない建前で、NTTは地域に貢献する会社であるべきだというのが建前になる。
正義の実現は難しいが、建前に沿って物事を動かすのは実は簡単だ。これがわかると物事がスムーズに動き、そこに快感が生まれてしまうということになる。
例えば、長谷川豊氏が仕事を失った時「企業に苦情を言えばよい」ということになった。目的は長谷川氏を困らせることだが、体裁としては「社会正義」を使ったのだ。みんな「組織は問題解決しないが建前の保持にはことさら気を使う」ということをみんなが知っているのだ。これが暴走を生み出すのである。
問題は一向に解決しないのに、フォーマットに乗ってしまうと社会は容易に動く。これが「暴走するネットの社会正義」を作るメカニズムである。豊洲の問題でも同じような構図が見られる。ここでは「安全・安心」が使われているが、実際には右往左往する人を見て楽しむという側面があることは間違いがない。つまり、コミュニティに対して影響を与えたいという社会的な動機があるのだ。
衰退する日本
さて、NTTが電話ボックスを放置したのは、人手が圧倒的に足りなかったからのようだ。つまり、放置せざるをえなかったのである。放置しているうちに「まあいいや」ということになってしまったのかもしれない。
誰が処理をしたのかはわからないが、受託業者だったのではないかと思う。言われたことさえできれば「あとはどうなっても関係がない」という人たちだ。逆にいうと無駄に気を遣ってもお金にならない。このせいで危険が放置されるのだ。
結局ガラスの後片付けをした人は、地域を担当する苦情処理係だったようだ。電話はまず複数県を管轄する故障窓口につながる。そこから地域の係に連絡が行くようだ。この人は盛んに謝っていたが「お客様から連絡がないと動きようがない」と言っていた。確かに故障の発見はできないと思うのだが、故障した電話ボックスがあることはわかっていたはずだ。しかし、状態を内部で把握している様子はなかった。中の人たちは情報を共有する仕組みがないようだ。
日本人は公共心を持たないが、チームで問題を解決するという気持ちもない。たいていの問題は逃げ遅れた個人が背負うことになる「自己責任責任社会」である。豊洲でも見られた「情報を共有しない」組織が、問題解決を難しくしている。かといって、その人に情報を分けてあげようという気持ちも働かないのだ。そもそも公共心がない上に、情報共有しても自分の得にならないからだ。
では、なぜNTTは公衆電話の保守をそれほどないがしろにするのだろうか。実は公衆電話事業は1995年以降赤字が続いているようだ。携帯電話が普及したせいなのだろう。それでもNTTが公衆電話を止められないのは法律で「一定間隔で電話を置くように」と決められているからだそうだ。赤字の原因は散らばって設置されている電話機の保守整備費用だ。
公衆電話は災害に強いという特性があるので「いざとなった時に困るかもしれない」と言われるとなんとなく廃止しづらい。「いざというときのため」にはお金をかける必要があるわけだが「それは公がなんとかしてくれるだろう」と考えているのかもしれない。しかし、実際には誰かがいやいやこなしている。
このような気持ちでいると「自分も社会正義のために誰かを動かしてみたい」という気持ちになるのかもしれない。これが結果的に次の社会正義の暴走を生むのだ。