千葉市役所の嘘

千葉市役所が市長への手紙で現場が嘘を重ねたという経緯を書いたのだが、結局業者の首を切って新しい業者を入れることで状況が改善した。現在のトイレはきれいに掃除されており、トイレットペーパーが切れることもなくなった。なんでも言ってみるものだとも思う一方で、結局業者さん次第なのだなという複雑な気持ちにもなる。


最近、オリンピックや築地の問題を通じて「なんで役人はあんなに簡単にバレる嘘をつくのか」と考えることが多くなった。マスコミはオリンピックや築地市場で「視聴率が取れる」ことがわかってしまったために厳しく監視しているのだが、実は同じような話はいくらでも転がっている。単に注目されないだけなのだ。

今回の問題は、おそらく炎上しないであろう「近所の公園のトイレ問題」である。現場は千葉市若葉区と稲毛区の間にある六方調整池に附設されている公園なのだが、水路の一部なので下水道維持課が運営管理している。千葉市は台地を流れる川を都市排水を流す通路に使っているようで、その一端が公園化されているのだろう。

そこのトイレにはいつも紙がない。そこで担当部局に電話をしたのだがいっこうに補充される気配がない。メールで通報する「市長への手紙」というシステムがあり、そこにも連絡してみたが音沙汰がなかった。

そこで「どうして対応してくれないのか」ともう一度電話をしてみた。すると驚くべき回答があった。「管理業者に問い合わせた結果、きちっと処理されていることがわかった」というのである。担当者は写真付きのレポートももらっており「何もしていないということはありえない」と職員は胸を張るのである。

だが、それは虚しい嘘に過ぎない。実際には数ヶ月に渡ってゴミが放置してある。僻地にある公園なのでめったに人が来ない。だから、お金を出して掃除をしたくない気持ちはわかる。

さらに、蹴飛ばした(蹴飛ばしたのは僕)ティッシュの箱もそのまま置かれている。紙がないからティッシュを持ち込んだ人がいるのだろう。この箱も数ヶ月置いてある。つまり、本当に誰もケアしていないのである。もしかしたら誰も使ってさえいないのかもしれない。

さらにホルダーには木の枝(多分桜なんだろう)がかかっていた。これも数ヶ月間そのままになっている。誰かがなんとかしようとした努力のあとは見られる。担当者は「トイレの紙も変えてますよ」と言っていたので、担当者が嘘をついているか、業者が嘘のレポートを出していることになる。が、誰が嘘をついているのかはわからない。

業者が一方的に嘘をついている可能性もあるのだが、市役所の職員が見て見ぬ振りをしている可能性も否定できない。業者は仕事をしなくても済むし、市役所もいちいち現場をチェックしに行かなくても済む。それはみんなにとって「優しい嘘」なのだ。

築地・豊洲の移転問題など騒がれる事件の裏には嘘がある。これを外から見ていると単に嘘にしか見えないのだが、実際には仲間内の「優しい嘘」である可能性が高い。見て見ぬ振りをすることで誰もが傷つかずにすむ。

そもそも誰もこないような町はずれに公園が整備されたのはなぜなのだろう。それは前市長の時代に原因がある。鶴岡市長は最終的に道路工事の収賄で逮捕されてしまうのだが、工事業者と市の関係者が握り合って「おいしい思いをする」ことが常態化していた。もともと東京からの住宅難民を受け入れるために農地や漁村が高く売れたというあたりからこの「優しい関係」は続いていたようだ。高度経済成長期が終わり土地バブルが終焉すると、仕事を求めた業者たちは「公園や道路の開発」などの仕事を欲しがるようになった。そこで川の周りの「環境を整備する」という名目でお金を使ったではないだろうか。

この「優しい関係」は千葉市が政令指定都市になってからも続き「さいたま市には負けられない」という名目で大きな建物の建築ラッシュにつながる。いくつもの別口のお財布が作られて赤字が隠蔽されるという事態になった。これについては現市長の有名なブログ記事がある。

千葉市民が「これはいけない」と気がつくのには市長の逮捕というイベントが必要だった。それでも自民党市議団は「借金にはいい借金と悪い借金がある」と言い続け、ついに自浄作用が発揮されることはなかったのである。

だが、嘘によって守られるのは市長と業者だけである。市職員はお守りだけを押し付けられるのだから面白くない。しかし、市職員はメンテナンス業者に仕事をあげる立場にある。市長と業者は施設を作れば儲かるのだし、市職員は業者との間に別の優しい関係を作る。

トイレの紙というのは別にどうでもよいことなのだが、裏にはオープンになっている危険箇所が放置されるという問題がある。市民は市政に関心がなく、公共工事に期待するような人たちばかりが群がってくる。当然出来た建物や施設のメンテナンスなどは「どうでもいいこと」だということになり業者に丸投げされる。

さて、この記事は「市長への手紙」に貼り付けてもう一度千葉市役所に問い合わせようと思うのだが、なんとなく嫌な予感はする。彼らが仕事をサボりたければ、トイレを封鎖してしまえばいいからだ。結局、市民が圧力をかけて「炎上」に持ち込まないと、どんどんと楽な方に流れていってしまうのである。


ここまでを2016年12月に書いた。結局、市役所は「きちんと対処してゆきます」と書いてきたのだが、状況は改善されなかった。そこで担当部局に電話をしたところ「そんなところまで手が回らない」と言ってきた。市長への手紙は市長が目を通すのでそこでは「ちゃんとやる」と書いて実際には何もしなかったのだ。

だが、状況が変わった。業者が契約満了に伴って首を切られたようだ。業者が変わってからトイレはきちんと掃除されるようになった。結局市役所は謝罪もせず態度も変えなかった。結局業者を変えて何事もなかったように済ませたのである。多分、市長は「市職員はちゃんとやってくれている」と思っているのではないだろうか。

そのピザを諦めたら日本人は幸せになれる

小林某という漫画家が中国人が新千歳空港で騒いだ件について論評している。航空機がキャンセルになったのだが「なんとかして飛行機を飛ばせ」と騒いだのである。小林氏は「中国人は民度が低い」という。普段なら「そうだよな」と思うのだが、これを読んで「そもそも民度は高くない方がいいのかもしれない」と思った。それはドミノピザの件を思い出したからだ。

中国人が大騒ぎしたのは、彼らがシステムというものを信頼していないからだ。イレギュラーなことが起こると騒いで解決しようとするわけである。だが、日本人はイレギュラーなことがあっても騒がない。それは「自分たちでなんとかしよう」とはもはや考えていないからである。一歩進んで「自分たちでなんとかできるはずはない」と考えている人もいるかもしれない。日本人は個人の力を信じておらず、システムを過剰に信頼する。しかし、実際にはそれが正しいかどうかを理解できていないことが多い。

ピザ屋の件に戻る。彼らが寒空の下でピザを1時間以上待ちながら注文をキャンセルしなかったのはなぜなのだろうか。それは彼らが予定や見込みというものを絶対視しているからだ。ゆえに一度決めたものを諦め用とは考えず、ひたすら「早くピザが焼きあがる」ことを望んだ。

一方、店側も一度売上の立ったピザを諦めるということはしなかった。並んでいる人に「もうピザは作れそうにない」と告白して次回の割引券などを配るという選択肢があったのだが、そうはしなかったのだ。

一見「理性的」に見える顧客とピザ屋だが、両者の現状維持バイアスは明らかに狂気のレベルに達している。なぜならば一部の店舗では予約管理システムが停止しており、誰がどのようなピザを注文したのかはわからなかったからだ。つまり、通常のオペレーションではピザを焼くことも逆にピザをキャンセルすることもできなかった。そこは「現場の判断」でなんとかするしかなかった。だが、彼らは何もせずピザを焼き続け、客は待ち続けた。

「現場の判断」はのちに「責任」を生む。客も店も判断することを避けたのだろう。未知のできごとについて自らが進んで判断することを「リーダーシップ」という。日本人にはリーダーシップが欠如している。

実は「列に並ぶこと」は日本社会に蔓延する病のようなものだ。例えば正規雇用を得るために大学に進学するのも列に並ぶことだ。誰も4年後に正社員になれるかはわからないし、正規社員にも副業が許される時代である。だが、それでも借金してまでも大学に進学し、それができそうになければ第二子の出産を諦めという行為が広がっている。それは列に並ぶ以外の選択肢が見当たらないからだ。

さらにこの列は、結婚して子供ができたら退職するという別の道に繋がっている。女性が退職したくないと望んでも、列は途切れている。その列からはみ出すことはできないので、女性ができないのは列から離脱するのを先延ばしすることだけである。子供を産んでも列に残り続けた人は過酷な運命をたどる。システムをごまかした人というレッテルを貼られるからだ。道は先細っているのでライバルは1人でも少ない方が良い。

この列はドミノピザに似ている。みなシステムが壊れかけており「みんなの分のピザはないかもしれない」ということに薄々気がついている。しかし、今まで待っていた時間が「サンクコスト」になり、ピザをキャンセルしようという気にはなれないし、列を離脱したからといって別の食べ物にありつけるかどうかはわからない。だから、幸運に期待し、別の人たちが列をはみ出したら、背中を押して列を短くすることしかできないのだ。

たいていの苦しみは列の途中から「もっと早くピザを焼けよ」とヤジることくらいしかできないという現実から生まれているようにも思えてくる。

ピザがほとんどなくなっても、日本人は列に並び続けるのかもしれない。もう出来る努力は「列からはみ出さない」ことだけになっているからだ。列から出てしまえば絶対にピザは食べられないが、列に並んでいれば2人に1人はピザが食べられるという世界だ。この列に並ぶ努力は、例えば会社に遅くまで残って過労死寸前まで残業することになったりするのだろう。

ドミノピザに見る日本の生産性が上がらないわけ

昨日はドミノピザの騒動について観察した。クリスマスの珍事であり特に問題ではないように思える。だが詳しく見て行くと日本の生産性が上がらない理由が凝縮されているように思えた。下記詳しく分析したい。

無責任な本部

ドミノピザはアメリカの会社でありオペレーションもアメリカ式だと考えられる。つまり最初の要因は日本固有のものではなさそうだ。本社は支店を休ませずに働かせるという傾向があり、来た注文は全て受けてしまう。しかしながら無理な注文は支店の責任でキャンセル処理をさせる。当然損がでるわけだがそれを支店の過失として処理するのではないかと考えられる。ジャーナリストであればこの辺りが調査の要点になるだろう。

同じような構造はコンビニに見られる。売損じの機会を少なくするために24時間営業しているが、人の手当ては「店の責任」だと考えられ、売り上げが落ちれば店主が責任を取る(たいていは契約解除になるそうだ)ことになっている。本部はこうして高い収益を確保するわけである。

真面目すぎる現場

一方で支部は真面目すぎる。彼らは並んで捌ききれなくなった客に「キャンセルしてくれればお客様に請求が行かない」ということを伝えなかった。また、注文がわからないから高いピザを我慢して持って行ってくれとも言わなかった。もしピザの種類が少なければ効率的に裁くことができただろう。

これは支店に権限がないことから起こる問題である。日本人は「言われたことを黙ってやる」ことが美徳だと考えている。これが生産性の向上を妨げている。「現場の工夫」はペナルティの対象になりかねない。

これも実は日本の伝統ではなかった。トヨタは現場の工夫を職場全体で共有する改善方式で有名だった。つまり製造業の成功の仕組みがサービス業には受け入れられなかったことになる。

もしアメリカであれば「できないことはできない」として生産性が著しく下がるだろう。ところが日本人はまじめなので「現場で何とかしよう」とする。そこで同僚をカバーして慣れないことをやるというオーバーヘッドが生じる。これが蓄積するとシステムダウンが起こるが、たいていは現場を疲弊させるだけで済んでしまう。

こうした疲弊を見つけるのは難しくない。自分が受けた仕事はなんとしてでもこなそうとするので、家に持ち帰って仕事をしたり、タイムカードを押してからこっそり居残り残業をするということが起こるわけである。余暇や回復時間を削っているのだから生産性が上がらなくても当然だ。だが、近視眼的に目の前の仕事をこなすことだけに集中するので、全体的なことが考えられなくなってしまうのだ。

高いサービスレベルを要求する客

最後の問題は高いサービスレベルを要求する客だ。ドミノピザの客は「この時間にピザが受け取れる」という時間から1時間以上待っても「もういいや」とは言わなかった。ピザができるまで待ち続けたのである。当然「キャンセル料を恐れた」ということは考えられるわけだが、それ以上に「頼んだから食べられて当然だ」という気持ちもあったのだろう。普通の感覚では客の離反が起こるはずなのだが、それは起こらない。だから当然本部はなにもしないので、現場に恒常的な負荷がかかることになる。

また現場も「安い金でまともなピザが食べられるはずはないだろう」などとは言わない。アメリカのファストフードではまともな待遇は受けられないが、誰も気にしない。よい処遇を受けるための選択肢としてレストランがあるからだ。だが、日本人は真面目なので笑顔で接客しようとする。

タダ乗りされる社会インフラ

ここでまで見られた構図はしわ寄せが「いい人」のところに行ってしまうということだ。つまり一番損をするのは真面目に働いている現場の職員たちだということになる。ドミノピザでは店員が泣きながらピザを焼いていたそうだ。だがこれらは企業内の問題である。

だが、問題はそれだけではない。ドミノピザの場合は周辺の道路に路上駐車が蔓延したそうだ。客は安いピザを求めているわけだからお金を払って駐車をするはずはない。もともとデリバリーが基本になっているが「ちょっとした路上駐車」を黙認することでピザを半額にして人件費を削ろうとした。つまり、路上スペースが企業にタダ乗りされたのだ。

社会インフラのタダ乗りはいろいろなところで起きている。例えば、企業が福利厚生として提供すべき子育てなども社会にタダ乗りされている。いわゆる共有地荒らしが横行しているのである。共有地荒らしが問題にならないのは、共有地を管理するという感覚を持った日本人が減ったからだろう。政治が消費型になり受益者としての感覚しか持たなくなってしまったことになる。もともと日本人は共有地を厳しく管理しており、これも実は伝統の消失なのだ。

日本人は生活保護バッシングなどには熱心だがこれは「俺が貰えるべきだった金をあいつが受け取るのは許せない」という歪んだ感情に基づいている。共有地の維持はコミュニティの持続可能性に基づいた感覚だから、社会的議論が歪むのも致し方ないところではある。

問題は政治家ですら共有地に興味を持たなくなっているという点にあるかもしれない。統治するという感覚を失ってしまったからなのだろう。

池上彰にドヤ顔でメディアリテラシを語る奴ら

つい先日Twitterで面白い投稿を見た。池上彰の番組に使われた日米の格差を比較したグラフの目盛りが違っているというのである。これはグラフをごまかす際に使われる手法であり、池上が印象操作をしている証拠だというのだ。

だが、池上彰はメディアリテラシに関する著作もあるので、ネットの人たちよりはグラフの目盛りについては詳しいはずである。

そもそも、なぜネットの人たちは池上彰に腹を立てたのだろうか。

番組を見ていないのでなんともいえないのだが、池上彰の訴えたかったことは、日本でもアメリカでも格差が広がっていることなのだろう。当然、テレビを見ている人たちは下位90%にあたるので、上位の人たちが富を独占するというのは許されるものではないという番組作りになるはずだ。

しかし、ネットの人たちが反応したのはそこではなかった。日本の経済的地位が落ちているという点に反応したようだ。そこで、アメリカに比べれば日本人の経済的地位はそれほど落ちていないという結論にしたかったのだろう。

さらにグラフが「民主党政権時代で切れている」という指摘も見た。日本の経済的地位が落ちているのは安倍政権の失策のせいだというのは民進党がよく使うロジックなのだが、リーマンショックの落ち込みがあまりにも激しかったので、その後若干回復した。円安政策も(少なくとも短期的には)よい方向に働いたものと思われる。そこで多くの人たちは「これで日本も大丈夫だ」と感じたわけだ。

しかし、日本が経済的に凋落しつつあるのは間違いがない。それは自民党と民進党の政策とは全く関係がなく、極めて構造的な問題である。これを民進党の問題にすり替えることで「自分たちは間違っておらず、このまま何もしなくていいのだ」という自己肯定感を得ている人は多い。

面白いことはいくつもある。最初のもんだは課題と感情の分離という問題だ。これができない人は意外と多いのだなあとは思うのだが、経済的指標を見ていちいち自分の能力のせいだなどと考えていてはないも読み込めなくなってしまう。これが平気でできるのは、課題と自分の境遇を切り離して考えているからなのだが、実際にはそれができない人が大勢いるのだ。

アメリカ人の所得はそれほど下がってはいない。しかし、それでも大きな動揺が広がりつつある。これがトランプ政権誕生の一因になったことは間違いがない。しかし日本は2割も下がっているのに、政権を非信任するという動きにはならなかった。代わりに選んだのは「日本は大丈夫」という幻想に浸ることだ。日本人の現状維持バイアスの強さがわかる。

さらに日本人が自己肯定感を持ちにくくなっている様子もわかる。「日本は劣等国だ」という本が出るたびにベストセラーになっていた時代がある。「小さな島国だ」などと言っていたのだが、今から思うと基底には自己肯定感があり、本気で劣等国だとは思っていなったのだろう。

なぜ自己肯定感がなくなってしまったのかというのは大きな疑問だが、「日本人」という意識の他に帰属意識を持てなくなっているのだろうということが予測される。かつての日本人はほぼ正社員として雇用されているか、農家や商業を自営していた。これが帰属意識になっており「日本人である」というアイデンティティには頼っていなかったのだろう。

例外的に日本人意識を持つのは海外に出た時だ。しかし、他者との比較があり、それほどかけ離れた自己認識を持つことはなかった。

現在、日本人という帰属意識を持っているのは知的に劣位にあるか感情的に劣位にあるような人たちだ。彼らにまとまった渡航経験があるとも思えないので、その帰属意識は仮想的なものであり、なおかつ自意識は内側に向かっているのだろう。そこで「反日」という仮想的な構造を作って攻撃していることになる。

池上彰はこうした仮想的な空間で「反日認定」されてしまったのだろう。池上さんがなぜ日本に対して破壊工作をしなければならないのかということになるのだが、あいつは反日だといって騒いでいる間はそんなことを考えなくて済む。これが知的に劣位でコミュニケーション能力に劣る人たちの癒しになっているのだろう。

福島菌は「美しい日本」の伝統

福島からの避難者が「福島菌」と呼ばれていたというニュースをテレビで見た。これをいじめと捉えて登校しなくなった子もいるという。関連するニュースを検索して読んだところ、ちょっとした違和感を感じた。全ての関係者が「いじめはいけないこと」と言っているのだが、当事者の発言は一切ない。あたかも「いけないこと」と騒ぎ立てることで問題を隠蔽しようとしているかのように見える。つまり、日本人は何かを考えないために騒いでいるのだ。

生徒たちが福島から転校してきた子を「菌」扱いする理由は明白だ。親がそう言っているのだろう。福島県への偏見の根強さがわかる。同時に、いじめがいけないと考えているわけではなく、それを表面化させることがいけないと考えていることになる。

そもそも「菌」とは何だろうか。菌にはいくつかの属性がある。

  • 菌は目に見えない。
  • 菌に触れたり近づいたりすると伝染する。
  • つまり、保菌者に近づかなければ安全である。

菌は「穢れ」を科学的に言い換えたものであると考えられる。つまり、かなり古くからある伝統とだ。最近では、つるの剛士さんのようになんでも長ければ美しいと考える保守の人たちがいるので、彼らのいい方に習えば「美しい日本」の伝統ということになるだろう。

さて、なぜ穢れという概念が生まれたのか。それは病気などの災厄があった時、それがなぜ起きているかがわからないからだ。わからないがよくないものを「穢れ」と括って現実世界から切り離してしまう。すると残りの人たちは安心だということになるわけである。

そもそも非科学的なものを科学用語に置き換えているだけなので「放射能は移らない」などと反論してみても(実際にそのように書かれたエッセイをいくつか見つけた)何の意味もない。

放射能(そもそもこの言葉も科学的に間違っているのだが)を穢れ扱いしないためには正確な情報が必要だったのだが、最近考察しているように日本人は言語を客観的には扱えないので、これはほとんど不可能に近い。そこで一般のレベルでは「何だかわからないが厄介なもの」と括って不安を処理し、それを具体的に体現する避難者たちにぶつけていたのだろう。つまり、避難生徒はスケープゴートで、原因になったのは様々な思惑から情報を「料理」した(東京電力を擁護した人たちと逆に必要以上に煽った)人たちである。

この報道でわからないのは、なぜ先生がこれに加担したかという点だ。生徒と背後にいる親の知的レベルは奈良時代の疫病に対する理解とあまり変わりはない。疫病が起こると大仏を作って穢れを沈めたのと同じということだ。それもできなくなると汚れた都を捨てて新しい都に移って行くのが日本人の伝統だった。

だが、先生は科学的知識を持っているはずで、生徒や親を啓蒙する立場にある。考えられることはいくつもある。

「名付ける」ことによって、生徒を支配するという万能感を満たしていたという可能性がある。次の可能性はクラスを維持できておらず、生徒におもねるために生徒の間にある風俗を真似たという可能性だ。さらに先生のパフォーマンスは学級の成績で決まるから人間関係を些末な問題だと考えていたこともあり得る。最後に先生は科学的な態度を持っておらず、単に教科書をコピーするだけのマシーンになっていたという可能性もある。このような先生は聖書を与えられれば、人間が猿から生まれたなどということはありえないと教えるだろう。

「いじめはいけない」のは当たり前のことだし、子供が勉強する機会を奪われたことは人権上の問題であることはいうまでもない。ただ、それだけではこの問題は防ぐことはできない。問題はさらに悪化し「地下化」するだろう。

だらか、先生がなぜ子供を「菌呼ばわりしたのか」ということと生徒の間に蔓延していた福島からの移住者は穢れであるという間違った認識を修正しようとしなかったのか、改めて検証するべきだ。

この問題の奥に見えてくるのは「かわいそうな福島からの転校生」ではない。たかだか電源の問題で不安を感じている社会の方である。そうした不安が解消できなかったので、子供達にぶつけざるをえなかったということになる。

健全な日米同盟のためにはもはや有害な「識者」たち

オスプレイが墜落した事故を受けて、小川和久という「軍事の識者」の人が「ある論理」を展開している。オスプレイは、クラッシュではなく、ハードランディングだというのだ。小川さんの定義によれば、ハードランディングとはパイロットがコントロールした上でオスプレイを着陸させたという意味でクラッシュではないと言っている。故にクラッシュハードランディングはミューチュアリエクスクルーシブだということになる。

日本語で問題になったのは、不時着か墜落かということだった。だが実際には「墜落であり、もしパイロットの意思が働いていたとすれば、その墜落は不時着だった」ということになりそうで、あまり意味のな議論だ。まだ調査結果が出ていないのだから、不時着だったとは言えないがその可能性は排除されない。墜落という言葉に「コントロールがない」という含みがあるから避けたいのなら単に「落ちた」というべきだった。

この言葉を最初に使ったのは防衛省だったようでアメリカ軍の報告をそのまま引用したようである。あとになってあるテレビ局は「不時着後に大破」と言い換えていた。ちょっとした騒ぎになったので情報ソース(多分防衛省だろう)が言い換えたのではないか。

ご存知のようにその後さらなる炎上事件が起きた。四軍統合官という人がててきて「パイロットが陸地の被害を避けるために海に誘導した」と「机を叩きながら」まくしたてたのである。正式な調査は行われておらず、日本人は調査には加われないので、高官の予断どうりの発表がされることは明白だ。すると、反対派は「どうせ嘘に決まっている」と騒ぎ続けるだろう。

この四軍統合官の外交スキルのなさは呆れるばかりだが、もともと駐留沖縄軍は一度沖縄経営に失敗している。政治・外交スキルは期待できないのかもしれない。本土の私たちは忘れているが、沖縄の人たちはアメリカ軍政(つまり本当に植民地だった)を経験しており、これに激しく反発するであろうことは間違いがない。

さて、小川さんの問題に戻ろう。「あれは墜落ではなかった」と言いたい気持ちはわかるし、状況的にはパイロットが海に誘導した可能性は高い。パイロット個人の判断としてはむしろ「美談」と言っても良い。しかし、調査が出ていないことには変わりがなく「なぜ、小川さんがパイロットの意思を確認できたのか」ということがわからない。単に憶測で物を言っているか、アメリカ軍のいうことを鵜呑みにしているとしか考えられなくなる。生活のために植民地経営に加担する現地人みたいなもので、本人の正義感や糸とは裏腹に「愛国的観点から見ると裏切り者」ということになってしまうのだ。

さらに新しい用語を導入したことも混乱に拍車をかけかねない。ハードランディングという言葉を画像検索すと、タイヤが出さずに着陸して煙を吐いている飛行機の絵が大量に出てくる。英語ではあれがハードランディングなのだろう。日本語のwikipediaには項目があるものの、英語版にはないので一般的な用語でもなさそうだ。その他、金融・経営用語として使うようだ。経済が悪化するのを覚悟で金融政策を変えることも「ハードランディング」と呼ばれる。例えばハイパーインフレで政府が国債を償還できればそれはハードランディングだ。いずれにせよもともとは着陸形態を指す言葉で、墜落の対概念ではない。

新たな概念を持ち出すと、余計話がややこしくなる。識者は狭い自分たちの領域のことしか考えないので、これが「正しい」と主張する。そして、それに追随する人たちが出てくる。

なぜ、小川さんの発言は問題なのだろうか。それは、安保法制が成立する上で彼らが果たした役割が大きいからだ。いろいろな概念が持ち出され、挙げ句の果てには「集団的自衛」「自衛」「他衛」などの言葉が乱立し「自衛と集団的自衛はミューチュアリエクスクルーシブではなく重なるところが出てくる」などと言い出す人まで出てきた。自衛の中に一国で行う自衛と集団的自衛が含まれているので、どちらの意味で自衛を使っているとしても「一部が重なる」ということはない。

この弊害は大きかった。反対派は最後まで納得しなかったし今でも納得していない。何か事故が起これば彼らは再び騒ぎ出すだろう。さらにこの手の議論は「あれは危険ではない」と言い張る政府が考えることを放棄させる一因になった。南スーダンは内戦状態(エスニッククレンジングが始まっているという報道がある)なのだが、政府は今でも局地的な衝突に過ぎいないと言い張っている。結果的に現地の自衛隊は法整備が十分ではない中で戦うことになる。

そもそもオスプレイ墜落事故の背景には米軍のメンテナンスのまずさがありそうだが、加えて、現地軍の高官に外交と統治のスキルがないことが露呈している。それを言いくるめるために言葉を弄ぶのは、風邪をひいて熱が出ているのに「これは準高熱状態であるから病気ではない」などと言い張っているようなもので「早く薬を飲んで寝なさい」としか言いようがない。

健全な同盟を維持するための議論の素地を作るのが識者の役割であるべきなのだが、状況を混乱させるだけなら、むしろいなくなってくれた方がよいのではないか。

ギャンブル依存症の解消はパチンコの解禁から

今回のお話は自動的に「お前は反日勢力か」という批判を受けやすそうなトピックだ。ギャンブル依存症を解消するためにはパチンコをギャンブルとして解禁すべきだという主張だからである。パチンコ業界には多くの半島系の人たちが絡んでいると考えられており「反日」批判に結びつきやすい。

パチンコの市場規模は23兆円だそうだ。日本のGDPは500兆円規模なので、その大きさがわかる。参加人口は1000万人だという話がある。(遊戯通信Web)パチンコはレジャーだということになっているのだが、実際には脱法ギャンブルである。

パチンコ人口や売り上げは減りつつある。もちろん原因はスマホの普及だろう。スマホゲームがギャンブルの代わりになっているものと考えられる。それでも10人に一人はパチンコをやっているわけで、その規模の大きさを実感することができる。

さて、依存症を国レベルで対策するとすれば、まずやらなければならないのはそれを「ギャンブルだ」ということを認めさせることである。例えば「アルコール依存症」を治療するならば、まず「アルコールだけどアルコール扱いされていない」という曖昧な存在を排除しなければならない。

ということで、パチンコはギャンブルなのだということを認めない限り、法的な枠組みを作ってギャンブル依存症対策はできないということになる。法的には単なるレジャーなのにギャンブル異存として治療できないからである。となると、カジノを解禁するなら、ギャンブル依存症を無視するか、ギャンブル様なものを全てギャンブルとして認めるべきだということになる。

グレーゾーンはそれだけではない。スマホゲームというもっと曖昧な領域がある。スマホゲーム依存症がどの程度蔓延しているのかというような統計はなさそうだ。これはスマホゲームの成果に換金性がないからだろう。加えて、スマホゲームは数少ないテレビの有力なスポンサーになっているので、テレビ局としてはスマホゲームの売り上げを削ぐ様なことはしたくないはずである。社会的に表沙汰にはならないことになっている。加えてスマホゲーム依存はインターネット依存に分類されがちだ。ソーシャリングにインターネットを使っているうちに、それなしではいられなくなるという対人不安の一種である。

日本人はギャンブルに依存しやすい傾向を持っているようだ。換金もできないスマホゲームに人々が夢中になることからも日本人がギャンブルに弱いことが見て取れるが、もっと客観的な統計もある。WIkipediaをそのまま引用する。

日本では2007年厚生労働省の助成を受けた研究班がギャンブル依存症のリスクのある人に関する調査を開始した[109]。多くの公営競技について地方自治体一部事務組合が主催しまたは投票券の発売を行っているにもかかわらず長らく行政がギャンブル依存症に関する実態調査を行っていないことは、かねてから批判の対象となっていた[110]2009年に発表された厚生労働省の助成を受けた研究班による研究調査結果によると、日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.6%、全体平均で5.6%がギャンブル依存症のリスクがあった[111]。これはアメリカの0.6%、マカオの1.78%などと比較して極めて高い数値であると言える。この年の成人人口(国勢調査推計)から計算すれば、男性は483万人、女性は76万人、合わせて559万人がギャンブル依存症のリスクを持つ人となる[112]

そもそも国際的にギャンブル依存が突出しているのだ。行政が放置しているためにギャンブル依存症が蔓延したのか、もともと心理的にギャンブルに弱い人種なのかということはよくわからない。日本の新聞が賭博に拒絶反応を示すのは、日本人がギャンブルと上手く付き合えていないからなのだということがわかる。

日本の成長戦略にはもうギャンブルに頼るしかないという弱気な見方もできるのだが、どうせ解禁するなら上手く付き合って行くに越したことはない。ということで、パチンコをギャンブルとして解禁した上で、依存症対策をきっちり行い、正しい距離を取れる様になってから、カジノを解禁してもよいのではないかと思われる。

そのためには国会での真摯な議論が求められるわけで、般若心経を唱えたり、審議拒否している場合ではないのではないかと思える。

フライデーの罪と現行憲法

フライデーで薬物疑惑報道が出た直後、成宮寛貴さんが引退した。直後のTwitterではフライデーは許せないというような書き込みがあふれた。その多くは「成宮さんはクスリなんかやっていない」とか「心情的に許せない」などというものだ。フライデーのTwitterアカウントには非難の声が殺到しているという。

しかし、問題はそこではない。フライデーは明確に憲法違反を犯したのではないかと思われる。ここは、理路整然と追い詰めるべきだ。

問題はセクシャリティの暴露である。「成宮さんはゲイだ」といううわさはあったのだが、本人は否定しないまでも表ざたにはしてこなかった。芸能人は女性からあこがれられる必要があり、邪魔だと考えたのかもしれない。

セクシャリティの開示はプライバシーにあたる。プライバシーは憲法第十三条で守られている。すべての国民には幸福を追求する権利がありそれを侵されてはならないとされているのだ。どこまでがプライバシーに当たるかは議論があるのかもしれないが、政治的信条、出自、信仰、セクシャリティなど人格の中核にあるものがプライバシーだ。自分で選んだものもあるし、変えられないものもあるが、そこが変わってしまうと「その人がその人らしくいられなくなる」ものを暴かれてはいけないのである。

もちろん幸福追求権は別の権利とぶつかることがある。それが表現の自由である。表現の自由は政治的な信条などを自由に発言するという民主主義の基礎の一つだ。このため、政治家のプライバシーは制限されることがある。公私混同を「プライバシーだ」と守ってしまうと民主主義そのものが破壊されかねない。だが、これは極めて例外的なケースである。

成宮さんの場合、報道で得られる公益は何もなさそうだ。フライデーは記事を出すことで「薬物汚染にメスを入れる」など主張するかもしれないが、薬物使用の証拠があるのなら警察に持ち込むべきだった。実際に事務所との間ではそのようなやり取りがあったようだ。しかし、警察に持ち込んでもフライデーには一銭も入らないわけで、つまりこれは単なる金儲けである。

成宮さんはプライバシー侵害によって「役者のイメージ」を損なわれ幸福追求の権利を失ったと言える。実際の損害は1億円に上るという報道もある。

成宮さんが薬物を扱っていたかということと、プライバシーの問題は独立している。つまり、クスリをやった人はプライバシーを暴かれて人生をめちゃくちゃにしてよいということにはならない。しかし、マスコミはこの事実から逃げている。普段からフライデーをコンテンツとして引用しており依存関係にある上に、クスリの使用を擁護するのかという炎上を恐れているのだろう。

また「自称インテリ」のリベラルな人たちの間からも成宮さんを擁護しようという動きは出てこなかった。欧米だと同性愛者の擁護は人権派が関心を寄せる問題なのだが、日本人の意識はまだまだ遅れている。日本の人権派は政権に敵対することが自己目的化しており、他人の人権には実はさほど関心がないのかもしれない。

ここまで書いてくると、不倫報道はどうなのかという疑問が出てくるのではないだろうか。もちろん「アウト」ということになる。こちらは不倫とプライバシーが直接リンクされているので、基準があいまいになりがちだ。

しかし、仮にマスコミに社会的に罰を与えるという機能があるとしても(そんな機能はないのだが)、妻がいる夫の側が裁かれるはずである。実際に裁かれるのはどちらか有名な方だ。「見出しとして強い」方がフィーチャーされるということになっている。これは単なる商業主義に過ぎない。他人のプライバシーを盗んで売っているということになる。

ここで「人権というものはそこまで守られるべきものなのか」と考える人も出てくるのではないだろうか。実際、プライバシーを切り売りしている芸能人は多いし、受け手の側もそれを当たり前だと考えている。制度上、裁判を3回受けるまで罰せられることはない(三審制)はずなのだが、疑惑が出た時点で社会的に裁かれることも横行している。

つまり、そもそも人権は日本の社会には根付いていない。それでも他人の人権侵害が最低限に抑えれているのは「押し付けられた」憲法という歯止めがあるからである。憲法改正には理想を現実にひきつけて、今でも横行している人権侵害を当たり前のものにしてしまおうという堕落があると考えられる。

いずれにせよ、成宮さんは今大変な混乱の中にいる。こういう時こそ周りの人やファン、一人ひとりのつてを使ってどういう手段で制裁ができるのかという世論を作らなければならないのではないだろうか。そろそろ他人のプライバシーを侵害してお金儲けをするようなことをジャーナリズムだと呼ぶのはやめた方が良い。それはとても野蛮なことである。

金持ちほどSNSを使うという事実

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グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

昨日、Twitter経由でリクエストをもらったので調べ物をした。「見栄を張るのに画像系SNSを使う」というのが確かなら、画像系SNSをは所得の関係はどうなっているのかという疑問だった。調査結果はこちら

実際にはSNSによってばらつきがあった。所得が高いほどSNSを使う率が高いというのは確かだが、その傾向はバラバラだった。例えばインスタグラムは所得が低い人の方が多く使っているという傾向があるのだそうだ。

ここから言えそうなのは弱い紐帯を持っている人ほど収入が高そうだということだ。弱い紐帯というのは聞きなれない言葉だが、もともと「転職―ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)」という研究に出てくる用語だ。転職に成功した人はあまり強くないつながりを多数持っているということがわかったという内容である。

この傾向は現在でも生きているらしい。つまり、経済的に成功する人は、単に弱いつながりを多数持っているだけではなく、それを絶えずメンテナンスしているということになる。ここでいうSNSというのは、単に政治的な発言を一方的に主張し合う「破綻したカラオケ」や「セレブを一方的にフォローする」というものではなく「承認し承認される」という相互的なつながりである。

実際に高い階層にあればあるほど「パブリシティ」を意識して暮らしているのではないだろうか。パブリシティというと広告費を支払わない広告というような印象があるが、実際には自己のブランド化である。例えばヘルス企業であれば「人々の健康増進に貢献する」という印象を与えるために努力するのがパブリシティだ。高い階層の人は自分が承認されるためには他人も承認すべきだということを理解しているから、ネットワークは「破綻したカラオケ」にはならない。自己のブランド化というといやらしい響きがあるが、実際にはコミュニティの中でどう自分を位置付けるかという作業だ。

日本ではLINEとFacebookの間に違いが見られる。LINEは閉じたネットワークであり承認をめぐる争いが起こりやすい。無視されたから排除したなどというような「LINEいじめ」が頻繁に起こる。これはLINE参加者の社会的な地位が低く、閉じることによってしか環境をコントロールできないからだ。

一方、Facebookは外資系企業に勤めていた人たちや留学生を通じて広まったために「Facebookいじめ」のようなことは起こらなかった。Facebook参加者は「コミュニティに影響力を与える」ためにはどうすればいいのかを知っているのだ。つまりリテラシが高いのである。このためリテラシの低い人が間違って参加して起こる「Facebook疲れ」が起きている。身の丈に合わない生活を維持しなければならず疲れてしまうのだろう。

ただし、世界的に見ると(冒頭のグラフ)Facebookは所得が高いほど多く使われているということはないらしい。

さて、ここまで見てくると「よりよい暮らしをしたいならミューチュアルな関係性構築の方法を身に付けよ」という結論が出せる。これは最近荒れてきたといわれるTwitterでも見られる。一方的に他人を罵倒するようなつぶやきもあるし、コントリビューション(そもそもコントリビューションということすら理解できない人もいるだろう)なしにRTする人もいる。が、情報の交換を心がけている人もいて、一概に荒れているとはいえない。情報交換はコミュニティに対する貢献で、そのコミュニティは「通りすがり」程度の弱いものかもしれないのである。

唯一心配なのが欧米で起こっている動きである。成功した人の中にはより多くのサイコパスが含まれているという研究が幾つか出ているらしい。こうした人たちにとってはSNSはよい狩り場のように映るだろう。他人が自分の生活や価値観を晒しているので、利用できるからだ。逆に共感が必要な仕事は収入が低く抑えられるという傾向もある。つまり、コミュニティへの共感がいつも収入に結びつくとはいえないのだ。

 

 

問題がおきたらマメに通報しておこう

日々の暮らしの潤いの一環としてTwitteで国政について愚痴るのも楽しいのだが、それにも飽きたら次は地域の問題に関心を持ってみましょうという話をしたい。

先日、公園を歩いていると、チェーンソーで草刈をしている人に出くわした。手に小石が当たったのだが、担当者は作業を止めるつもりはないらしい。そこで、担当者の会社名を聞きだしたうえで責任者に話を聞いた。

本来は安全義務があるのだが、作業者にそのことを伝えておらず、監督者も置いていなかった。なぜ、そうなるのかを聞いたところ「予算がないから監督者を置けない」という。

そこで市の担当者を聞き出してメールを送った。最近ではホームページにメールアドレスがある。すると「私は担当じゃない」との返事が返ってきた。市役所の関心事は市民の安全にはなく、誰の担当かとういうことだ。役所はバツが付くことを恐れるのである。

一週間ほどしてメールが来た。もともと業者は事業計画書の提出が求められている。事業計画書には安全管理者を置いて、従業員にも安全教育をすると書かれているのだという。

ただし、市としては事業計画を検証することはない。表向きは「対応をしている」としているのだが、実際には放置しているのである。つまり、事業計画とは建前を書いたものなのだということが分かる。予算が足りないということはないとも書き添えてあった。

面白いのは、こうした構造は草刈のような小さな公共事業から国立競技場の建設のような大きな問題にも共通だという点だろう。つまり、誰も関心を持たないことを前提に安い見積もりが立てられるのだが、国民の関心が集まると「ではもっと予算をくれ」ということになってしまうのである。最初から実施するつもりがないことを書いておいて、実際にやれということになってはじめて「その予算は組み込まれていませんでした」という話になるのだ。

市役所からの回答には「今後は気をつけます」と書いてあったのだが、これは過去に起きたことについては何もしませんという役所用語である。

ポイントになるのは「文書による回答を得た」ということだ。こうしたヒヤリの裏には同種の事故が隠れている。それが深刻になると表出し「炎上」が起きる。炎上が起きるほどの事故が起きたときには誰かの命が失われるということを意味する。すると事業者側は「想定外」だというはずだ。

だが、こうした文書が残っていれば「想定外」ではなかったということが分かる。結局、役所というのは監視がないと堕落してしまう運命にある。役所が堕落するのは成果を挙げることを求められていないからである。

よく「なぜいちいちなんでもTwitterで炎上するのか」という疑問を目にするが。基本的に日本の行政や企業は炎上を起こす運命にある。安全対策をとらず、自浄作用も働かないので、大騒ぎになって初めて問題化するからである。

ただし、いくつかのコツもありそうだ。第一のコツは消してパーソナルに取らないことである。小石が当たってムカッとしたのだが、多分担当者と言い争いをしても問題は解決しないだろう。背景にありそうな問題に当たる必要がある。

次のコツは「建前」を見つけることだ。この場合は、「市民の安心安全」というのが建前になる。法律は建前ベースで作られており、担当者がアサインされている。だから、建前をベースに責任者を見つけ出すべきなのである。

建前にならないことは「意見が分かれる」ということで政治家マターになってしまう。また地域間競争(どこの小学校を耐震化するかなどといった問題がある)なども政治家マターだ。こうした問題について興味があるのなら最寄の市議会議員に伝を付けるしかない。市議会議員に個人で当たるのは得策ではない。彼らは票のとりまとめをしてくれる人たちを期待している。多分、予算の使い方というような問題も政治家マターだろう。情報は公開されているが専門家でないと読み込めないからだ。

最後のコツは解決を求めないことだろう。どうしても「お前のためを思って言ってやっている」という気分になりがちなのだが(実際に僕はそう思った)こうした正義感が満たされることはない。解決を求めないのだから、忙しいのにわざわざ時間を潰す必要はない。できる範囲でやればいいのだ。

何回かやり取りをすると「役所ってこんなもんだなあ」と思える。まあ、Twitterで国政に対する愚痴を言うときにも新しい洞察が得られるかもしれないくらいの気持ちで取り組めば少しくらいはすみやすい世の中になるかもしれない。

かつてはたらい回しにされると、役所で何時間も待たなければならなかった。今ではメールでやり取りができるので、たらい回しもそれほど苦痛にならない。