なぜ自殺しないといじめ認定してもらえないのか

昨日は横浜のいじめについて書いた。その中で「死ぬと祟り神になる」と書いたので補足しておきたい。これを読むと「ああ、また日本人合理的じゃない論」かとウンザリしてしまう人もいるかもしれないからだ。

明確な形のいじめなどない

そもそも、世間が考えるような意味でのいじめは存在しない。つまり人間関係では誰かが明確な加害者で誰かが明確な被害者ということはありえないからだ。当事者から見ても外から見てもそれは同じだ。代わりにあるのは集団での個人の利害のぶつかり合いにおいて、下位にいる人が感じるプレッシャーがいじめなのだ。

群れで優位に立って「他人をいじめても当然」と思っているような子は先生に可愛がられている可能性が高い。人気があったり、成績が良かったり、あるいは足が早かったりといった具合だ。つまり、先生や周りの大人たちはある意味でいじめの当事者なのだ。つまり広義の加害者になっている可能性が高く、調停者にも調査者にもなれない。

裁きたがる大人

にもかかわらず、近年のいじめ事件は「明確な被害者と加害者」を作って放置した学校と加害者を罰したがる傾向にある。これは「罰によってしかいじめを抑止できない」という見込みがあるからなのだろう。犯罪まがいのいじめがマスコミ経由で伝わるにつれその傾向が強くなった。このズレは問題解決を難しくするが、第三者は一向に構わないと考える。

昨日「教育委員会に市民がプレッシャーをかけるべき」という人と対話したのだが、教育委員会には独立性があるということを知っても他罰的な発言をやめなかった。案の定「原発反対」論者だったが、元地方議会議員だということである。

「いじめは犯罪である」というのはかなり危険な思い込みなのだが、それでもやめられない人が多い。

「祟り神」の正体

不明瞭な「いじめ」であっても、明らかに「被害者」が決まる瞬間がある。それは、被害者が死んでしまうことである。

この構図は一般化できる。高橋まつりさんのケースを思い出して頂きたい。高橋さんが生きていれば「この人にも甘えがあって会社に対してごねているだけかもしれない」などと思う人が出てくるはずだ。新入社員に過剰な労働を押し付けたりセクハラがあったりと、明らかに「いじめ」の構造があるのだが、当事者間の紛争がある場合どうしても「社会的に有利なほう(学校でいうと成績の良い生徒)」の言い分が通りがちだ。電通でたくさんの過労死寸前の労働者がいながら今まで問題にならなかったのは、多くのまつりさんが死ななかったからなのである。

死んでしまうと、その人には「私利私欲がない」というポジションが得られる。死んでいるから私利私欲など発揮しようがない。日本人は個人が幸福追求する権利があるなどとは思っておらず、私利私欲やわがままだと考える傾向が強い。だから私利私欲がなくなった(同時に生きていたら得られたであろう楽しいことも全て放棄してしまった)瞬間に、同じような苦しみを抱えている人の代弁者に祭り上げられてしまう。

この同じような苦しみを持っている人たちのやり場のない不安が「祟り」の正体で、そのために「祭り上げられる」空白の中心が「神」の正体なのではないかと思う。

よく小学生や中学生が亡くなった時に「死んではいけない」などという人がいる。それを聞くたびに考え込んでしまう。死ななければ「わがままな個人」として扱われる可能性が高い人にどんな解決策があるのだろう、と思うのだ。

生贄としての弱者と中心の空白

いじめはそもそも何が原因なのか。陸軍では多くの兵士がいじめられたのだが、これは大きな目的がなくなってしまったことが原因になっている。戦争に勝つ見込みがなくなると人々は不安になり、下にいる人をいじめはじめる。トップは自己保身に懸命になっており、兵士を助ける決断などしなかった。

電通でも同じ問題が起きている。電通はデジタル化に乗り遅れて、数字の改ざんなどが横行している。しかし、トップは抜本的な改革をせず、不安になった中間管理職が成果を求められて下をいじめ始める。高橋さんの場合、女性であり年次が下だという理由でいじめられていた。つまり、電通が成果を上げられないことの犠牲になっていた。

つまり、目的がはっきりせず成果があげられなくなると下にいる人たちを見つけていたぶるのである。このとき上はリーダーシップを失っているといえる。ではそのピラミッドの上には何があるのか。「実は何もない」のではないかと考えられる。

この「中心が空白である」ことは日本人を語る上でよく使われる。上に相談してきます」といって、上り詰めて行くと誰も意思決定者がいなかったということがよくある。アメリカ人は「誰が意思決定をしているのかがよくわからない」とイラつくことがあるそうだ。会議に「責任を持って意思決定する人」が現れないので「馬鹿にされている」と感じてしまうのである。

この典型例として挙げられるのが、天皇という神である。強大な権力があったのだが、戦前であっても実質的にはなにの権限もなく、開戦を止めることができなかった。にもかかわらず大量の戦死者と原爆を含む都市空爆が出たのは、この空白に多くの人が群がったからだろう。

「天皇が神である」というのは実は西洋人が考えるように神格化されているわけではない。「物言わぬ中心」として祭り上げられていただけなのだ。「天皇制」への回帰が危険なのは、天皇が悪いということではなく、この権力の空白が危険なのである。権力の空白が危険というよりは、何か危機にあった時に何も変えられないというのが問題だと言い換えても良い。

なにも決められないということ

今回の横浜の件は「子供が親の金を持ち出して友達と一緒にさわいだだけなんじゃないの」という疑念があるようだ。よく分からないから加害者のいうことも被害者のいうことも聞かないということになっている。つまり、横浜市の教育は目的を見失っており、権力構造も空白化している可能性が高い。これは多くの大都市で見られる現象なのではないだろうか。

横浜のケースがさらに痛ましいのはこれが「原発」というリスクに関しての反応であるという可能性が排除できないところだ。これは「市の教育」という小さなレベルではなく、国民全体が感じている危機意識である可能性がある。つまり、市の問題ではなくもっと大きな枠組みの問題であった可能性があるのだ。

いずれにせよ、横浜市長は教育長に無害な人を当てることで中心を空白にして学校という権威を守ろうとしていた。教育長は市長の期待通りになにも決めなかった。

実際に必要なのは当事者間の利害の調整だった。こう主張すると「被害者のかわいそうな子供」にも過失があるのかという人が出てくると思うのだが、強く振る舞うべきだと諭すのも教育だと思う。

人は群れを作って弱いものをいじめる。これが抑止されているのは理性の働きではなく、残念ながら警察力のようなものが働いていて群れのメンバーが暴走するのを防いでいるからだ。これを認めない限り、また「死んで解決しよう」という子供がでてくるはずだ。

それに社会が圧力を加えれば加えるほど、教育委員会は閉じて行き、何も決められなくなる。これがさらに中心を空白化させ、事態は悪化する。しかし、決められない事態は救済出来ない子供を増やすのだから、さらに社会的なプレッシャーが増える。まさに悪循環だ。

 

 

「それでも生きる」と決めた少年に大人たちがしたこと

先日来、憲法改正、教育、および政治の中立性などについて見ている。今回は横浜の教育委員会が炎上している問題について考えたい。

震災で亡くなった方を思い出して子供は生きることを決めた

福島から転校してきた子がいじめられた。いじめが止むことはなく小学校の低学年から高学年まで続く。悪いことに先生も「この子は学校カーストの下位にいる」と認識したらしく、それを黙認したまま追随した。この子の偉いところは自殺して逃げることを思いとどまったところだ。神奈川新聞が手記を伝えているが、東日本大震災では生きられなかった人を思ったようである。まずは、この手記を読んでから読み進めていただきたい。

だが、このことが却って「学校のいじめ認定」を妨げることになった。かなり苛烈ないじめをうけており(ハフィントンポスト)友達と遊ぶお金150万円をおごらされたのに「いじめ」を認定しなかった。「自殺したらいじめを渋々認める」という相場観ができているのがわかる。つまり「大人にいじめを認めさせたかったら死んで抗議しろ」ということになる。日本はそういう教育をしているのだ。

大人たちは、まずかばい合うことを決めた

では、なぜ教育委員会はいじめを認めたがらないのか。それはいじめを認定すると、学校が遡って管理責任を問われるからではないかと疑われる。生命や財産が危険にさらされるようないじめがあった場合には学校が「しかるべき措置」を取らなければならないと法律で決まっており、これを怠ったことになってしまうのだ。これは最終的に「校長先生や学校の名誉が傷つき、退職金などに影響が出る」ことになる。教育行政と学校の間には親密な連帯があり、これが隠蔽につながるわけである。

つまり学校などの集団の名誉を守るためは個人は多少の不具合は黙っていろと教育している。集団の方が個人より優先順位が高い。ただ、死んでしまうとこれが逆転する。死ぬと神になって祟ると考えられているからかもしれないとすら思う。

ただし、こうした「相場観」は文脈として空気のように共有されているだけのようだ。ねとらぼが面白いインタビューをしている。学校は責任を取らされかねないが、明確な基準があるわけでもないというところなのだそうだ。つまり「不確定」が生まれることになる。集団はこれを嫌うのだ。

極めてお役所体質が強い教育委員会

今回炎上の対象になっている横浜市の岡田優子教育長はもともと市役所の出身のようだ。高卒の女性ながら高い地位に上り詰めたのだという。この人が「いじめ調査」を主導したというよりは第三者委員会をコントロールできなかった可能性が高いようだ。岡田教育長は「法律に従って第三者委員会を作ったのでその結果を覆すことが難しい」と言っている。

間違いが決して許されない役所としては正しい対応なのだろうが、一般常識に照らして適切な対応をとるという教育委員会としては全く間違った対応である。子供と法令のどちらを守るのかと聞かれて「法令を守る」と言ってしまっているのだが、その意味に全く気がついていない。結果的に「命は大したことはない」というメッセージを子供たちに送ることになった。学校はかばい合う。いじめられた君が守られることはないという過酷なメッセージだ。

判断から逃げた大人たち

この「役人的な対応」が何を意味しているのかということが、おぼろげながら見えてくるのだが、決して像を結ぶことはない。ハフィントンポストの記事を読む限り、教育委員会や第三者機関は独自調査は行っておらず、学校の調査に頼っている。だが、学校側は「生徒同士のお金のやり取りは警察の調査などに任せたい」と及び腰である。つまり「いじめはなかった」と判定したわけではなく、判断から逃げたのだ。

なぜ警察が犯罪扱いしなかったのかと考えてみたのだが、多分「おごらされた子供」がいっしょに遊んでいたからだろう。親からお金をくすねて遊興費に使っていたのか、それとも強要されていたのかということは外からはよくわからない。調査は教育の一環であるべきで、つまりそれは子供に「あなたの命は大切だから学校はそれを全力で守る」というメッセージを送ることだ。だが、教育委員会はそこから逃げた。

福島から来た「穢れ」を背負わされた少年は、例えば非常勤講師みたいなものだ。やりがいを得られない先生たちは「下には非常勤がいる」と考えることで溜飲をさげることができるし、非常勤講師もその中で生きてゆくしかない。これは他人を犠牲にする行為だがいじめとは言われない。大人の世界ではこんなことは日常茶飯事である。つまり、福島からの転校生は集団の犠牲にされたのである。「その子がお金を出せばみんなが楽しい思いができる」と子供が考えても何も不思議ではない。本当に罪の意識はなかったかもしれない。閉鎖された集団は「下」を探すようになる。

正義にこだわる人たち – 政治的に偏りのない市民などいない

大人たちが「決める」という責任を避けているという傍証がある。決める責任がない人は「教育委員会はいじめを認めるべきだ」と圧力をかけ始めた。原子力発電所は悪であると考える人たちが「原発がなければこの子は福島で暮らせたのだから安倍政権の被害者だ」と考えても不思議ではない。学校関係者は決めるという責任から逃げたのだが、こちらは匿名だから責任を取らなくてもいいのである。

今回個人的な考察の対象は「教育は政治から自由でいられるか」ということや「国がスポンサーシップを持った時、教育はどう自立できるのか」ということなのだが、今回の件を見ている限りそれは絶望的に難しいようだ。

教育委員会制度は政治から独立しているという建前なので市長は教育委員会の調査に介入できない。建前としては普通の市民が教育委員会を運営していることになっている。これを「レイマンコントロール」というのだが全く守られていない。

「普通の市民」から見るとこれはどう考えてもいじめだ。つまり教育委員会は学校コミュニティに寄りすぎたあまり市民感覚から乖離している。だが「市民」の中にはいろいろな人がいる。天皇を中心とした家族的な国を作ろうという市民もいれば、安倍政権が嫌いだから原発避難者は社会の被害者でなければならないという人もいる。だから一度出した決定を市民の圧力で変えてしまうのは「政治的圧力」になってしまいかねない。

調整されない意見が教育委員会という官僚機構に直接ぶつかっている。こうした政治的な圧力に晒されて教育委員会は閉じこもり、さらに防衛的な態度をとってしまう。そして炎上だけが強まってゆく。決めたがらない大人と決めたがる大人の対立だ。だが、そこに命を選択した子供に対するリスペクトは微塵も感じられない。

子供へのアドバイス – 大人を信頼するな

あらためて社会の大人の対応をまとめてみよう。

  • 学校はただただ責任を取らされるのを恐れて調査もせず、なかったことにしたがっている。
  • 教育委員会は学校を慮って「いじめとはいえない」といい繕う。
  • 市民たちは自分たちの想いを事件に乗せて炎上を作り出す。
  • これを見た市議会議員たちは「票になるかも」と問題を取り上げる。

このいじめにあった生徒に何かアドバイスをするには何を言えばいいのかと考えたのだが、こんな感じになった。

  • 先生を含めた大人は自分のことしか考えないからアテにするな。
  • 自分の身は自分で守れ。死んだらいじめ認定してもらえるが得られるものは何もない。後で祭り上げて利用するだけだ。よく考えろ。
  • 友達にたかられそうになったり襲われそうになったら証拠をとれ。自分は絶対に関わるな。ある程度証拠が溜まったら迷わず警察に駆け込め。
  • みんな自分のことしか考えていない。あなたもそうしろ。不満が溜まったら自分より弱い相手を探せ。

これは明らかに間違った教育だが、これくらいしか自分の身を守る方法はなさそうだ。これを「震災ではたくさんの方が亡くなった。だから僕は辛くても生きなくちゃ」と受け止めた子供に伝えられますかということだ。

結局この「心苦しさ」を受け止めて「一人ひとりの大人が防波堤になってよりよい社会を作らなきゃ」と考えない限り、教育も社会もよくなって行かないのだろう。

あの震災で私たちは多分何も学んでいないのだろう。

マスゴミは偏向しているという人に読んでもらいこと

さて、今日は「マスコミは偏向している」と考える人に読んでもらいたいことがある。教育の無償化について賛成か反対かアンケートを取ってみたい。

あなたは教育の無償化に賛成ですか?

このアンケートに反対する人はいないはずだ。教育はイイコトだし、無償化もイイコトだからだ。ちなみに戦争はワルイコトであるので良くないという人が多いかもしれない。多くの単語には色がついている。

じゃあ、これはどうだろうか。全く同じことを聞いている。

あなたが隣の子供の教育費を負担することに賛成ですか?

もし、あなたが子育て世代であれば賛成するかもしれないが、高齢者であれば反対というかもしれない。しかし、これは無償化のもう一つの側面であることは確かである。が、こういう聞き方をすると誘導であるという批判がでかねない。

さらに具体的なことを聞くと偏向度が強まる。単に具体的なことを聞いているだけなのだが……

  1. 教育無償化のために消費税増税するのに賛成です?
  2. 教区無償化のために成長の果実を使うことに賛成ですか?

これだと2を選びそうなのだが、2は「成長の果実がなければ教育予算を削減する」ということだ。

では、これはどうだろうか。

あなたは国家がすべての教育に介入することに賛成ですか?

明らかに「左翼が歪曲している」と取られかねない聞き方なのだが、実際に「国が教育を無償化する以上「フェアな形」で教育に介入すべきだ」と書いている国会議員の主張を見た。スポンサーがなんらかの形で内容に介入するだろうと考えるのはむしろ自然なことなのである。フェアという言葉が気になるが右翼の人たちにとってのフェアというのは「自分に都合が良いように」ということなので、ほぼ「国が(つまりは俺たちが)教育に介入してやるぞ」というのと同じことになる。中には「憲法は国が(すなわち俺たちが)国民に訓示するものにすべきだ」と真顔で書いている国会議員もいる。

ちなみに現行憲法はこの辺りを実に絶妙に表現している。全ての国民は教育を受ける権利があるとした上で、能力に応じた教育と、義務教育を分けて考えており、そのうちの義務教育は無償だとしている。「私学」が義務教育から廃除されるべきとは書いていない。

ところが今回の無償議論は「私学助成」を含んでいる。高等教育をここに含めてしまうと「最低限アクセスできる高等教育」にどれくらいの価値があるかという議論が生まれかねない。ゆえにこういう質問も成り立つ。義務教育の高等教育版だ。

あなたはだれでも通える大学を国が作ることに賛成ですか?

これ「わからない」という人が多いのではないだろうか。いわゆる駅前大学(県庁ごとに作った国立の大学をそういう)を想起する人が多いだろうし、いわゆるFランク校(偏差値底辺校ともいうそうだ)も該当しそうだ。つまり、選抜されない学校は就職に役に立たない可能性が高い。そんな大学を作って税金でまかなって何の役に立つのだということになる。


さて、ここまで書いてきて「政治的に完全に中立な」アンケートなど取りようがないことがわかる。単純な聞き方をすると「政府に白紙委任状を渡す」ことになる。これでは政府広報と同じである。教育無償化はイイコトだという議論のうらにあるべき制度設計が全くなされていないからである。

かといって、いろいろ疑い始めると「サヨク認定」される可能生が強まる。「民主的に選ばれた政府を疑うならお前は反日だろう」というわけだ。学校に通えない可哀想な子供の話を散々聞かされている市民団体のお勉強会などにいって「教育無償化」について聞いてみるのもいいかもしれない。多分「ムズカシイことを聞いて私たちをバカにしてる」と言われること請け合いだ。

つまり、政治的に中立なアンケートなど取りようがないことがわかる。こんな単純なことを聞くだけでも中立になりえないのだから、政治的に中立な報道などあるはずがない。すべての政治的意見は偏向せざるをえないのであって「単純な正義」などはありえないのではないだろうか。

民進党までもが教育無償化と言い始めた。もううんざりだ。

自民党や維新が「憲法改正で教育無償化を」と言っていてむかっ腹が立っていたのだが、ついに民進党も代表質問で同じようなことを言い出した。どいつもこいつも合理的思考ができないアホばかりだ……

と、釣りはこれくらいにして、今回は、少ない情報と限られたリテラシの中でどうしたら有意義な議論ができるかを考えてみたい。やることは小学生レベルに簡単で、白い紙を取り出して、企業、社会(国)、個人の立場から教育がなぜ正当化できるかを表にしてみることだ。

ここから見えることはいくつかある。

  • 教育が正当化されるルートは「投資」と「福祉」の通路があるので、それぞれ評価基準が異なるだろう。
  • 「経済成長」が、GPDを伸ばすことではないということや、「デフレ」が物価とは関係のない概念だということもわかる。

まずは図を見ていただきたい。もちろんこの図は間違っている可能性があり、少なくともラフな部分を含んでいる。一番の問題点は複雑に見えることなのだが、実は大して複雑ではない。

高度経済成長期のモデル

3つのセクター(企業、労働者、社会(国))の問題はそれぞれ連関しているようだ。なんとなく線で結んだところ、今までなぜ「教育無償化」という声が上がらなかったのかがわかる。これが国を通らない青い通路だ。この世界では企業や事業体が成長していて、自社(あるいは営利目的の学校)で社員が養成できる。正社員は将来世代の教育資金を提供できるし、教育を受けるほど給与が上がるので学校への投資が正当化できる。そして、このループに乗った人は将来給与が上がるのである。だから「借金(奨学金という学生ローンを借りる)してでもループに乗れ」ということが言えたわけである。これが起こる理由もなんとなくわかる。経済が成長すると稼げる金額も上がる。したがって、教育投資に利子がつく状態になるのである。いったんこうした効果が出始めると、自己強化が行われる。

問題は人工的に成長を作ると経済が成長し始めるという仮説の妥当性にある。経済には成長のポテンシャルがあるのになんらかの原因で妨げられている場合にはこれが成り立つかもしれない。だが、ポテンシャルがなくなっている場合にはこの仮説は成り立たない。つまり、原因と結果に正のフィードバック効果があるからといって、結果が原因を導くということにはならないのである。

社会の失敗

ところが、なんらかの影響でこの青ルートが壊れることがある。この図の中にはうまく書けていないのだが、いくつか考えられる。たぶんこれ以外にもあるはずである。

  • 企業は成長しているがノウハウがなく社内教育できず、営利目的の学校でも知識が調達できない。これは可能性としてはあり得るが現実性はあまりなさそうだ。
  • 正社員として働けるが、将来世代の教育費までは捻出できない。
  • 教育を受けないことが脱落要因になっている。つまり、もはや奴隷的労働にしか従事できず自分の家庭は営めない。これが社会を縮小させる。国からは納税者がいなくなり、企業は労働者と消費者が調達できなくなる。

これが進むと社会が縮小する。企業は経済成長できず、国民(消費者、労働者)は豊かになれない。消費するお金がないのだから、良いサービスや商品が買えない。そこで賃金も払えない。そこで企業が成長するために必要な正社員を雇えないという負のループだ。色が付いていない線は二つの例外を除いて「縮小」を示している。

2つの例外

1つ目の例外は「個人や企業は投資としての教育ができない」が「国」は正しい道を知っており、ダウンループ(ダウンスパイラル)や定常化を逆転できるという見込みがあるときである。このストーリーが正のとき、社会が教育費を捻出するということが「投資」として正当化できる。つまり、自民党が「教育費の無償化をやりましょう」と主張するのであれば、これを国民に示す必要がある。実際はこんなことは起こりそうにないのだが、発展途上国ではあり得る話である。実際に明治政府が成立した時期にはこれは正だったのだろう。

もう一つの例外は定常化の道である。企業はこれ以上成長しないのだが、パートの収入でもかつかつ食べてゆくことができるという状態だ。パートは維持できるので教育は最低レベルでよい。村の人たちも周りを見ているだけなのでそれほどの不幸は感じないだろう。これは江戸時代的だ。江戸時代の後期には経済成長もせず、寺子屋レベルの教育で社会が回っていた。これが成り立ち得たのは、多分経済が閉じていたからだろう。つまり、鎖国すれば教育はしなくてもよいというような結論が得られそうだ。もう一つ定常化社会で賄えないのが福祉だ。

つまり定常化は、土地がまかない切れる人工が決まっており、それが合理的に計測できるときにしか維持ができないのだ。江戸時代は、土地が生産できる米の量は決まっているので、それ以上に増えると「飢えて死ぬ」しか選択肢がなかった。これは福祉も、金融(外から入ってきたり海外に流出したりする)のない世界だ。

二つの例外以外は縮小につながっている

二つの例外以外は経済の縮小につながっている。だが、これまでの議論を見ていると「経済が縮小した」ということを証明するのは難しいようだ。多くの人がなんとなく「経済が長期的に下り坂だなあ」ということを実感しつつも、数字には現れないという世界である。多くの人が「デフレ」というときに表現したいのは、実はこの状態なのではないだろうか。

間接的に「縮小」がわかるのは次の点だ。

  • 給与は下がりつつある。経済学者は周期的なサイクルに乗れば「いつかは」正社員の給料が上がるはずだと言っているが、そのいつかはこない。どうやら給与削減が経営のトレンドとなっているようである。
  • パートが圧倒的に足りず、人件費が経営を圧迫する。エクストラコストを払ってまでも外国人の低賃金労働者を雇っている。正社員を投入して成長させるような新規事業が見つからない。
  • 学生の半数はローンを抱えて卒業し、ローンを返せない人もでてきている。それどころか学生のときからブラックバイトにはまり学業を諦める人すらいる。これは投資としての教育が正当かできなくなっていることを示す。

正社員とパートという言葉が乱暴に使われている点に注意が必要だ。企業に付加価値を与える人を「正社員」と言っている。将来の成長の見込みがあり、エクストラコストを投資として支払える。これが家族への投資につながる人を「正社員」と言っており、通常の正社員の概念とは必ずしも一致しない。パートはマニュアル通りに働く人で将来の余剰価値を生み出さないので、一定のリテラシのある人たちをできるだけ安く雇うのが正しいし、教育のオーバーヘッドはネグれる(無視できる)ので、必要なくなれば雇い止めすれば良い。

エネルギー系としての教育

この拙い表と限られた知識から何となくわかってくるのは次の点だ。

  • 社会はエンジンのようなもので、回してゆくためには燃料が必要だ。
  • エンジンなのだから、早くなる・そのままの状態が続く・遅くなるという3つの状態が起こり得る。
  • 状態は系なので、個別を取り出して議論しても意味はない。
  • 「教育」は実は系に知識を燃料として投下しているということになる。

なんとなく最低限の知識で効率よく回してゆくのが良さそうだが、現実的には「エンジンの回転数が下がりつつある」ことが実感できるので、なんらかのブレーキ要因があるのかもしれない。

自民党、維新、民進党への批判

自民党と維新への批判は簡単で、もし「教育によりダウンスパイラルを逆転できる」が「企業や労働者が探せていない見込み(いわゆる成長分野)」があるなら、それを提示せよということになる。企業や労働者の方が情報を多く持っているはずなので、儲かるセクターがあれば民間が先に手をつけているはずだ。だから、国がわざわざ出張ってくる必要はないのではないだろうか。自民党は同じようなことで一度失敗している。それが社会インフラの整備(つまり公共事業)である。

一方、民進党に対しての批判は少し込み入っている。まず教育を未来への投資であるとするなら、なぜ国が関与するのかという点を明白にする必要がある。先に見たように2つの通路がある。これは自民党と同じことを証明するだけで良い。

さらに福祉であれば、どれくらいの規模の余剰資金があるのか、いつまでこの状態が維持可能なのかを提示すべきである。民進党は「消費税など」を使って無償化を行うべきと提案しているのだが、どうやら消費税は所得勢や法人税の穴埋めに使われているようだ。つまりダウンスパイラルに対応する税なのである。同じことは保育にも言える。従業員に働いてもらうための投資なのか、困窮者のための福祉政策なのかが分からなくなっている。

まとめ

 

教育も何も知らない素人が、一枚お絵描きしただけで勝手なことを言うなという批判は考えられる。だが、実際にはこうしたお絵描きからわかることはたくさんある。日々の情報収集に追われているとなかなかそれを結びつけることができなくなる。一度新聞やTwitterから離れて、白い紙を広げてみるのも面白いかもしれない。

 

 

Twitterで正義に溺れる

今回は次の情報、提案、意見を含んでいる。

  • ソーシャルメディアにはアルコールと同じような依存性がある。
  • 依存に陥らないためには複数の発信チャンネルを持つべきかもしれない。
  • アートには多分存在意義がある。

ここ数日、かなりの数の閲覧があった。豊洲市場の記事を書いたのだが、これが移転反対派の人に見つかってしまったのだ。現在テレビで活躍している人でフォロワーと思われる人が殺到した。さらに悪いことに「日本人論」の類型に沿って書いたため「わかった!」と思う人が続出したようだ。だいたいこのようなサージは3日くらいで落ち着く。騒ぎは沈静化しつつあり、いつものまったりとした閲覧数が戻りつつある。

閲覧者が増えても誰もコメントを寄せない。これは誰も反論がなかったということになるのだが、これは記事そのものを読んでいるひとがいないからだろう。日ごろから思っていることがあり、それに合致する読み物を好むのではないか。考えるに、ソーシャルメディア上の文章には2つの効用がある。

一つ目は、認知的不協和の解消である。人は思っていることと実際に起こっていることの間に齟齬があることを嫌う。これが解消されるような文章を読むと「わかった」という気分が得られて気持ちが良くなる。実際には内容は読んでおらず、自分が解釈したいように解釈しているだけなのだがそれは気にならないのは、文章を読むことが認知不協和を解消する正当化要因として働くからだろう。自分が言ったというより、他人から聞いたと思いたいのだ。

次の効用は一体感である。誰かと同じ意見を持っていると感じると社会的な認知が得られる。これが快楽をもたらすのは間違いがないようだが、その仕組みはあまりよくわかっていない。参考に読んだWIredの記事によると単に気持ちが良いというだけでなく、脳内に化学物質が放出されるようである。

文章にはコメントはなかった。しかし、自分の個人情報を晒した上で「あなたは世界で一番論理的な文章を書く人だ」というメッセージを送ってくる人がいた。合理的な分析能力を一時的に喪失した状態になっており、かつ自分の境遇を話したいという人なのだろうと思った。社会的認知にどれほどの快楽性と中毒性があるかがわかる。事実は重要ではなく、つながりが重要なのである。

ただし、強い快楽には依存性がある。つまり、認知的不協和の解消と一体感の維持を求める気持ちはエスカレートしてゆく可能性が高い。今回はサージは豊洲問題について追求している人のエンドースメントがきっかけになっているのだが、かなり長い時間Twitterに張り付いている人のようだ。中にはかなり陶酔したつぶやきも見られる。軽い依存状態が起きているのだろう。

よく、取り憑かれたようにどちらかの政治的ポジションからリツイートしている人がいるが、本来であればこれはやめたほうがいい。それは依存だからだ。正義ではなくアルコールやギャンブルと同じなのである。しかし、依存に陥っている人に「それは止めたほうがいいよ」とは言えないし、取り上げると暴れ出す可能性すらあるだろう。

この陶酔は個人のレベルでは終わらない。社会的な絆というのはそれほど強い麻薬性を持っている。Wiredの別の記事によるとの集団になると倫理性が失われてゆくという研究もある。こちらも細かい仕組みはわかっていないようだ。

さて、ここまでなんとなく分析的に書いているが、アクセスが多くなると社会的に承認されたという気分になってしまう。するとさらに同じような線でさらに刺激の強い文章を書きたくなるのだ。するとやがて「真実などどうでも良くなる」可能性が高い。

これは依存なので、解消するためにはその対象物から離れるしかない。つまり情報発信すると決めたなら、離れることができる場所を持っている必要があるということである。だから、情報発信するなら複数のチャンネルを持っていたほうがよく、コミュニティも分けたほうが良いと思う。これはたまたま一つのチャンネルが受けただけで、人格そのものが受け入れられたのではないということがわかるからだ。普段から「課題の人格と分離」などと書いているが、結構難しいことなのだ。

と、ここまでは昨夜書いたことを書き直したものなのだが、今朝起きて「対象に飲み込まれないようにして自己表現するのが芸術なんだよな」と思った。アートがなぜ表現の安定装置として働くのはかわからないのだが、多分表現にある程度の技量が必要になるからだろう。

正義のシンボルコンドールマンと正義のありか

真面目な(本当は真面目を装っただけのものもあるのだが)話が続いたので、ゆるい話を入れたい。

コンドールマン絶賛”放送”中

現在、YouTubeでコンドールマンをやっている。全24話あるそうだが、2週間分のビデオが一週間限定で見られる。現在、食糧大臣が悪のモンスターであることがわかりコンドールマンにやられたところである。食糧大臣は食糧を買い占めて金儲けを企んでいたのだ。

この中で、友好国が援助食糧をタンカーで運ぶシーンがある。結局モンスターに空爆されてまうのだが、この画は数年前のオイルショックを想起させたはずだ。オイルショックは当時の人達から見ると「悪い奴らが金儲けを狙っていたから」起こったことだと理解されていたのかもしれない。

個人の欲求を肯定できなかった日本の正義

作者の川内康範はのちに保守思想で有名になる。正義という言葉にこだわりがあり、コンドールマンを「正義」そのものではなく、正義のシンボルであると記述した。先行する月光仮面も正義の味方(のちに助っ人と呼ばれるようになる)であり、正義そのものではないとした。私利私欲が悪だと規定しているので、ヒーローが正義として権威化されるのを嫌ったのだろう。川内のヒーローは匿名性が高く、コンドールマンもすでに死んだ人の化身である。日本人は個人の欲求を肯定的に捉えることができず、卓越した才能にも警戒心がある。そこでヒーローは悲しい宿命を背負わされたり、殺されたりして、個人の喜びを剥奪される必要があった。

コンドールマンでは悪を自明のものとして描いており、悪であることの葛藤のようなものはない。姿も醜く描かれており、コンドールマンの眼力(コンドールアイ)をつかえばたちどころに暴かれる仕組みになっている。国家権力は悪に操られており、これが現在の保守思想と異なる。現在の保守思想は実際には単なる権力迎合に過ぎないなのだが、高度経済成長期には、保守と国家はある程度分離していたわけである。

国家は悪なの、タンカーがモンスターに襲われても国家権力である自衛隊が出動することはない。テロという概念は冒頭に出てくるのだが「犯罪者組織」としてしか描かれていない。国家でない集団が軍事的圧力をかけるという概念がなかったのだろう。テロ集団が準国家化したのは冷戦が終了してから後のことなのだ。こうした状況を見ると現在の私たちはずいぶん遠いところまできたなあと思う。

大臣だけでなく警官も実はモンスターだった。体制に対する根深い不信感が感じられる。

「私だけは正義を知っている」という感覚

ということで、私利私欲のな子供(+現実的には無能な男)しか正義の側にいない。国家がコンドールマンを犯罪者認定したので、口コミでしかコンドールマンが正義のシンボルであることは伝わらない仕組みになっている。コンドールマンのシンパの子供達だけが、誰が正義かを知っている。

周りの人たちは「その他大勢」として描かれており、食べものが入ってこないならだれが正義でも関係ないと主張している。じつは彼らも食糧不足に悩む被害者であり、正義としてのコンドールマンに感謝しなければならないのだが、無知蒙昧で啓蒙が必要な人たちだと位置付けられている。主題歌には「汚れてしまって救う価値もない日本なのに」という意味の歌詞がある。

正義の眼力を持った人はそれほど多くない(が、俺だけは何が正義かわかっている)というのは、今でも日本人が持っている感性かもしれない。

悪は自明であり、正義は防衛的であった – のだが

先に書いたように、コンドールマンの悪は自明のものであり、正義はそれに対抗するものだと考えられている。だから正義には動機がなく「自衛的」だ。

こうした構図は今でも日本のヒーローものに引き継がれている。ただ、単純な勧善懲悪ドラマは現在ではめったに見られなくなった。だから「子供番組だから善悪がはっきりしているのだ」とは言えない。例えば、現在の仮面ライダーは「病気」と戦っている。私利私欲ではなくリスク社会と対峙しているのである。また、現在の戦闘ものでは敵(デスガリアン)はゲーム感覚で生き物の命を奪っている。正義が自衛的であるという点は似通っているが、扱う悪は享楽的で性質が異なっている。

享楽的な犯罪と病気は全く異なっているように思えるのだが、実は「社会には得体の知れない危険が溢れている」という漠然とした不安を扱っているという共通点がある。

現代社会は善悪の境目が曖昧になっているのだが、高度経済成長期に育った人の中には「白黒はっきりしていた」時代の記憶が残っているかもしれない。たとえば、Twitterには自分こそが正義で他人は騙されているか私利私欲にまみれていると考えている人たちが溢れている。同じ感覚を平成世代が共有しているかどうかはじつはよくわからない。

Twitterでは毎日コンドールアイが発動しており、モンンスター認定された人たちが容赦なく叩かれている。モンスター認定された人たちは社会的に抹殺されるのだが、一ヶ月も経てばそのことは忘れ去られる。これは現実世界で善悪の境目がはっきりしなくなっても、人々が正義の側にいるという感覚を求め続けているからだろう。つまりは、正義こそモンスターなのかもしれないと言えるのだ。

礒崎先生の悪文を書き直してみる

礒崎陽輔先生がマイナンバーとマイナンバーカードの違いについて書いているのだが、壊滅的にわかりにくい。原文はここにあるが記事ごとのURLがないらしく引用もできない。こういうウェブサイトを運営している人に「安心だ」と言われても信頼できないというのが率直なところだ。

こうしたわかりにくさが生まれるのは、論理積が欠如しているからなのだが、能力の問題というよりは、意欲の問題ではないかと考えられる。

批判すらできないので以下要約してみた。

マイナンバーカードは積極的に利用してほしい。政府が番号を厳重に管理するように推奨したのでカードの携帯を控える人が多いが、マイナンバーカードはマイナンバーとは別物で積極的に持ち歩いても安心なように設計されている。

マイナンバーには何重ものセキュリティ対策がなされている。最悪マイナンバーが流出したとしても官庁から個人情報が漏れることはない。企業はマイナンバーを厳重に管理するように政府から要請されている。さらに、マイナンバーカードによって企業に伝わる情報は基本4情報(氏名、住所、性別及び生年月日)だけであり、マイナンバーそのものが伝わることはない。表面には基本4情報が書かれており、裏面にはマイナンバーが記載されている。身分証としてコピーされるのは表面にある基本4情報だけなのだ。

マイナンバーは年金事務や税務など官庁間の連携に使われるが、利用者がそれを意識することはない。官公庁でもやり取りされるのは基本4情報が中心になる。

マイナンバーカードは公的な身分証明証として使える他、将来は健康保険証としても利用可能になる。さらに、マイナンバーカードに会員証データを持たせることによって、企業に基本4情報を引き渡すのにも利用される予定である。繰り返しになるが、民間企業はマイナンバーをキーとした名簿の収集は禁止されているし、会員証にしたところで民間企業のコンピューターにマイナンバーが渡ることはないので安心してほしい。

マイナンバーは政府で利用するものであり厳重な管理が求められるが、マイナンバーカードは民間への幅広い利用が想定されている。便利な機能が増える楽しみなカードであり、交付手数料は不要なので、積極的に求めていただきたい。

さて、ここからは懸念事項を書いて行きたい。磯崎先生の文章が壊滅的にわかりにくいのは幾つかの理由があるからだ。疑念を3つ挙げたい。

懸念1 – 技術的にできることと禁止していることの境目が曖昧

第一の疑念は「技術的にできること」と「禁止されているからやってはいけないこと」がまぜこぜになっている点である。「禁止されている」ということは「できる」ということだからセキュリティホールだ。役所から漏れるのではないかという疑念は残るが、それを言い出すと先に進めないので役所は完璧に番号を管理するという前提で進めたい。

ICカードには番号が記録されているはずなのだから、基本情報だけしか抜き取れませんと言われても、それができないのかできるけどやってはいけないのかがわからない。もしコピーできないとすれば「暗号化」などの具体的な方策があるはずなのだが、その情報が公開されていないのでは批判のしようがない。情報の非公開は安心なように思えるのだが、ハッキングの危険性が第三者の検証なしに放置されているということを意味する。素人が考えても、目の前でコピーしてもらわない限り、裏面の番号を収集できてしまうということはなんとなくわかる。不安が解消できないばかりか、却って犯罪を誘発するかもしれない。

懸念2  – 今できることと将来やりたいことの境目が曖昧

次の問題点は、今できることの利便性と将来礒崎先生がやりたいことがまぜこぜに書かれているという点だ。いまできることはそれほど多くないが、金融機関からカードを求められることがある(マイナンバーには政府が国民の財産を把握するという目的があるので礒崎先生は書きたくなかったのかもしれないのだが)ようで、必要に迫られて作らざるをえない人がいるはずである。また、カードを持っていると住民票をコンビニで発行できるようになる。待ち時間が大幅に減るだろう。

一方、会員証や健康保険証は計画であり、反対も多いことからどうなるかはわからない。原文は「用途をどんどん拡大していく考え」と言っているのだが「決まってから言ってくれ」と思うわけだ。結局、いま何が便利なのかがよくわからない。

懸念3 – 個人情報の認識が壊滅的に甘い

磯崎先生は基本4情報を「大したことがない」情報だとみなしているようだが、これも立派な個人情報であり、漏洩するといろいろな問題を引き起こすだろう。電話番号やメールアドレスなどはSNSなどから持ってくることができるので基本情報とマッチングができてしまうのだ。

しかし、そもそもの問題は「何がプライバシーか」という点にはないようだ。どんな個人情報が漏れるとどういうリスクがあるのかということを国民も含めてあまり理解していないというのが問題なのだ。そこに漠然と「個人情報は保護しないと危ないらしい」という情報が加わることで不安が増してしまう。リスクを理解するということは、それをコントロールする術を考えるということと同じなのだ。これを棚上げしたのが「安全神話」である。マイナンバーカード安全神話になってしまっているが、どんなに厳しく設計してもリスクが0になるはずはないのである。

一方で、一般人が学べる点も多い。ぜひ気をつけたいと思った。

学び1 – メリットとデメリットを明確に

先に安全神話について考えた。マイナンバーまたはマイナンバーカードが流出するどういうリスクがあるのかということが全く書かれていないという問題だ。漏洩にはどんな危険性があり、漏れたときにはどのような回復策があるのかということが書いてあれば「リスク管理」ができる。これがなく「大丈夫だ」と言われてしまうと、それって「原発と同じ安全神話ですよね」と思ってしまうのである。実際に情報が漏れた時の救済策や自衛手段がわかれば、安心感は高まるだろう。悪い情報を出すことも誠意なのだということが最初の学びだ。

学び2 – ポジションの確定と箇条書きの重要さ

礒崎先生はマイナンバーカードは怪しそうだという周囲の評判を気にしてか、カードを持つメリットを書いたり、予防線を張ったりと忙しく文章が移ろっている。これはあまり得策とは言えない。信じているならポジションを明確にした上で、メリットとリスクをわかりやすく箇条書きにすべきだ。リスク管理にも自信があるのだろうから、読み手の評判を過度に気にせず自信を持って書くべきだろう。

だが、いきなりパソコンに向かって文章を書く機会は意外と多い。散漫な考えをまとめるために文章を書くということもあり得るのだが、人にものを伝える場合には箇条書きにしたほうがよいのだなあと思った。

学び3 – 現場を取材しよう

さて、マイナンバーカードが普及しないのはなぜなのだろうか。実はマイナンバーカードにセキュリティ上の懸念があると考えている人はそれほど多くないのではないかと思う。それは実際に使っている人に聞いてみないとわからないことだ。

実際に市役所では、パスワードがわからなくなって役所でパーテーションのある一角に連れて行かれる人や、金融機関にマイナンバーカードをもとめられてはじめて「マイナンバーって何なのか」と問い合わせてくるケースなどを見かけた。

あれだけニュースになっているのだからみんな知っているだろうと思ってはいけないのだ。情報が溢れているので、広報しても伝わらない。これは多くのマーケターが苦労している点だろう。加えて「横着だから勉強しない」というわけでもなさそうだ。何がなんだかわからなくなっている可能性がある。

よくNHKが政府のプロパガンダだという批判を耳にする。しかし、現在のニュースは難しすぎる。情報の海に溺れている人たちに政府の情報を伝えるためには、池上彰さんを呼び戻すか、ストレートな広報番組を作るしかない。これを受信料で支えることは不可能なので、政府がスポンサーする番組を作るしかないのではないかと思う。現在は通常の情報番組に潜り込ませるようにして広報しているわけだが、これでは伝わらないのだ。

いずれにせよ、現場を取材していればこのような文章にはならなかったのではないかと考えられる。本当に普及させたいなら、リサーチをしたほうがよかったし、リサーチできなくても(視察ではなく)現場の窓口に半日立ってみて状況を把握するべきだろう。

 

「教育無償化」議論のために

橋下徹弁護士が「東京が高等教育を無償化するから、次は憲法改正で機運を盛り上げよう」と息巻いている。これになぜか同調しているのが兼ねてから教育無償化を訴えてきた社民党だ。埋没を恐れているのかもしれない。福島瑞穂参議院議員が大学まで無償化しても数兆円しかかからないとツイートした。こうした議論をポピュリズムという。つまり維新はポピュリズム政党ということになる。だが、ここは堪えて、本当に無償化を実現したい人向けに「教育無償化」について考えるためのヒントを列挙してみた。もちろん他にも論点はあるかもしれない。

名称

まず、名称問題から片付けたい。教育無償化を憲法で唄うというと、天から教育費が降ってくると思われがちだが、もちろん費用は国が負担するわけで、実際には納税者の教育費負担についての議論ということになる。納税者教育費負担とか教育の社会化という名称になるべきなのだ。

目的

なぜ名称が重要かというと「どうして親に代わって納税者が負担すべきなんだろうか」という議論が必要だからである。日本の高度経済成長期には多くの親が子供の教育費を負担できた。しかし、今では半数の子供が奨学金という名前の学生ローンを抱えている。これは教育資金を正当化できなくなっていることを意味する。この状態で教育費を国家負担にしても、家庭が国に変わるだけなのだから負債を抱える母体が大きくなるだけであることが予想される。

カリキュラムという難題

今の教育の目的は何だろうか。それはいい大学に入れる頭を持っていますよと証明することである。あの人は東大卒だということが重要であり、何を勉強したのかということは話題にならない。これが、大学が世間から取り残されているせいなのか、企業が大学教育をうまく取り入れられないかということはわからない。すると、地頭の証明をするために、社会が負担するのという議論になってしまう。

この議論を延長すると、職業教育って大学まででいいのかというような議論になる。実際には国が職業教育を行っているが、潰れそうな専門学校への助成のようになってしまっている。深刻な人手不足におちいっている、介護・保育分野などはさらに悲惨で、高いお金を払って職業教育を受けても家庭を維持できる給料は得られない。つまり、お嫁さんを要請するためだけの学校ということになり、人財を使い捨てている。

こうした議論を全て棚上げして「教育を社会が負担するのは、機械の公平を担保するためである」と仮定してみたい。貧しい家庭にも優秀な人はいるわけで、彼らが経済的な理由だけで教育から排除されるのは問題だという考え方である。実際には重要な議論は全て積み残しになっているのだが、もうこれ以上は気にしない。

ここで初めて次の議論ができる。

政治的公平

最初に重要なのは、政治からどの程度カリキュラムを独立させるかということである。社会に足りない人材(保育士)などは国が関与すべきかもしれないが、自由主義経済に携わる人材を国歌関与で育成するのはふさわしくないかもしれない。なぜならば市場原理が働かないと実際の企業のニーズに応えられないからである。たぶん、北朝鮮は国家が管理して人材育成を行っていると思うのだが(主体思想教育)、うまくいっているとは思えない。

だが、これはかなり絶望的だ。現在でも各種補助金をダシにした政治の介入が起こっている。日本ではこれに宗教が絡んでくる。神道系の団体が臣民型の教育を熱望しているからである。国家が「言われたことだけを従順にこなす」国民を量産したいという意識が強い。さらに高齢者には「奨学金をお国からもらうなら、社会に貢献せよ」などという人がいる。

例えば明治大学は「戦争につながるような研究はしません」と宣言したが、これは経済的な自由が前提になっている。国家が予算を握るとなればこうした自由はなくなってゆくだろう。議論になるのはこれが活力を削ぐか増すかという議論だが、前提にあるのは「なぜ社会が教育費を負担するか」という議論である。

面倒なことに日本の教育は政治思想と強く結びついてきた。高度経済成長期には学園闘争があり東京や埼玉では高校まで巻き込まれたそうだ。日教組が強かった時代には社会主義的な思想を生徒に押し付けようという先生も多かったし、今では逆に君が代を歌わない先生生徒に厳しい視線を向ける管理職もいる。日本人は議論ができないので「教育は政治に関わらない」とすることで政治教育そのものを排除してきた。スウェーデンでは逆に教育は政治的に中立にはなりえないと教えるそうである。日本とは公平性の方向が真逆である。

機会の公平性の確保

次の問題は機会の公平性の確保である。教育には選別という機能がある。フランスではすべての中等教育と一部の高等教育が無料なようだが、かなり厳しい選別が行われるらしい。これは予算枠が限られているからだろう。ここで「無料」としてしまうと、極論として「すべての人が東大に入れる」と誤認されてしまうが、実際には母親が家にいて勉強を教える子供のほうが有利に受験勉強ができるだろう。そういう家の子供は塾にも行かせてもらえるはずである。

ではアファーマティブを設けて貧困層を救済するのかという話になるだろうが、なぜそのようなことをしなければならないのかという議論が出てくる。当初の目的が曖昧だと細かな制度設計で必ず「不公平だ」という話が出るだろうし、実際には経済的な格差を埋めきることはできないだろう。

共有地化の問題

さて、ここまで来てやっと共有地化の問題が出てくる。一度制度ができてしまうと、制度に沿って受益しつつ、費用は払わないほうが得ということになる。これは「共有地の悲劇」として知られる。橋下徹弁護士はこれに関連して「高等教育の授業料が値上げになるからキャップしなければならない」と言っている。教育の社会主義化が今度は何をもたらすかがわかっているのだ。

具体的な例としてあげられるのが薬価の問題である。医者がやたらに薬を飲ませたがるのは、それが健康な人の支払いだからである。死に至らない程度の病期の場合、薬は飲んだほうが得なのだ。全体的には薬代の高騰につながっている。長谷川豊氏が「透析患者は迷惑だから死ね」と言って問題になったのが記憶に新しい。もちろん暴論なのだが、モラルハザードはおこりえる。この投稿を見て「社会のお荷物になるくらいなら」と透析を拒否して亡くなった方もいるそうである。実際には親身になって話を聞いても、右から左に診察して薬だけ出しても医者の報酬は同じだ。

薬価は国がコントロールしているが、教育にかかるお金は自由に決められる。これを「高い方に合わせるのか」「低い方に合わせるのか」という議論が起こるだろう。

教育者は人格者だからこんなことは起こらないと思いたいが、高校の助成金目当てに学校に来ない学生の名前だけ借りて、補助金を騙し取るという事件もあった。常に国が監視していないとこうした詐欺行為が横行するだろう。

ポピュリズムは何か

全てを網羅したわけではないが、教育の無償化には少なくともこれくらいの問題がある。これを「橋下さんが言ったから賛成」とか「私たちが昔から主張していた」というのは不毛の極みだ。実際には「投資として的確か」という議論になるべきで、当然「どのように効果を計測するか」という議論になるはずなのである。

実際には「タダって言えば票を入れてくれるだろう」くらいの目論見で議論が進んでいる。こうした単純化した議論をポピュリズムという。ポピュリズム化した議論は細かい制度設計で破綻する。目的が明確でないからだ。

にもかかわらずこうした議論が横行するのは、いち早く白紙委任状が欲しいからなのだろう。

 

 

 

犯罪すら生みかねない超人思考という洗脳

先日、和田秀樹という人が書いた小さなエッセイがTwitterで叩かれていた。50歳を過ぎたらSNSでカリスマ論客を目指すべきだという話だ。主に「バブル世代にこれ以上説教されるのはうざい」というような論調だった。

ある程度の年齢になったら社会にアウトプットしましょうという話はいいと思うのだが、それだけでは文章として完成しないと思ったのか「反論されるくらいの文章を書いてカリスマになろう」と過激目に結んでいた。これを読んで、和田さんのいる世界というのは病んだ世界なのだなあと思った。

50歳代といえばそれなりの経験を積んでいるのだから、それを社会に還元しようという意欲を持つのは悪いことではないだろう。だが、それをアウトプットしたところで、特に誰かの反論があるとも思えないのだ。自分の専門範囲のことなのである程度バランスが取れていて当たり前だからだ。

さらに、実際に書いてみるとわかることなのだが、人は意見には反応しない。何を言ったかということは意外なほど気にされない。人が過剰に反応するのは党派性である。その人が誰なのかというのを暴きたがるのはそのためである。

例えば、政治の場合「体制より」と「反体制」という枠組みがあり、多くの人がどちらかに帰属しているという意識があるらしい。だからプロフィールを見て自分と反対がわにいる人を罵倒するという仕組みになっている。反応があるのはせいぜいタイトルだけなので、中身などは読まれていない。だから、専門意見を書いたからといってそれが反論を受けるということはほとんどありえないだろう。

和田さんの意見の面白いところは、反論されることが情報発信の結果ではなく、目的と取られかねないところである。つまり、自分の意見を貫き通した結果反論されるのではなく反論されるような過激な意見を言うことが目的だと取られかねないわけである。

こうした倒錯が起こるのは日本人がそもそも分析を重んじないからだろう。このため専門知識が重んじられることはなかった。こうした人たちがかろうじて活躍できたのは「テレビのショー」のような世界だった。朝まで生テレビ!のような番組である。前進は本を売るために始まった文壇の内輪揉めではないかと考えられる。つまり、言論はプロレスなのである。

言論プロレスの世界に足を踏み入れると現実世界から排除されるという時代が長かった。普通の人は情報発信しないという世界だ。日本人は党派性を生きているので個人が意見を持ってはいけないのである。言論プロレス家はここから踏み出してしまった人なので、意見を表明することは刺青のようなスティグマになってしまう。例えば学者がテレビに出ると出世ができなくなるというような風潮も見られたようだ。

意見を発信することは「超人になる」ということであり、これは先日観察したテレビドラマの構造にもみられた。組織内での出世を捨て、人間としての感情を抑圧しなければならないという思い込みである。

この「超人論」の怖いところは、カタギでなくなるということがそのまま反社会性と結びつきがちなことである。YouTuberがなぜ「おでんを手で突いたり」「チェーンソーを持ってヤマト運輸を襲撃するのか」というのが疑問だったのだが、警察力を気にしない超人になろうとしているのだと考えると整合する。ネットで目立つというのは、テレビ討論会で目立つのと同じことであり、そのためには殴り合いに発展してもよいという理屈である。

和田さんの頭の中にある「反論されてこそ、その意見には意味がある」というのは、テレビで目立てなければ存在する意味がないというのと同義なのではないかと考えられる。これは社会を逸脱する覚悟があるのかと迫っていることになり、却ってシニア層の健全なフィードバックを妨げてしまうのである。日本にはそれくらいまともな言論というものがないのである。

 

超人になるべきというテレビドラマの洗脳

アドラー心理学がちょっとしたブームになったせいで、フジテレビが「嫌われる勇気」を下敷きにした刑事ドラマをはじめたようだ。番宣だけを見たがドラマはみる気にはならなかった。つくづく不思議な捉え方だなあと思ったからだ。そもそも、なぜアドラー心理学を実践すると他人に嫌われるのかがよくわからない。

アドラー心理学は課題と心情を分離する点に特徴があると思う。ただそれだけである。人々は他人に期待を持っており、それが裏切られると腹が立つ。だから、それを切り離してしまえば、余計な葛藤はなくなる。

ところが、ドラマの主人公は「感情がない」人ということになっている。代わりに与えられるのが「感情を度外視して問題解決に邁進する」というキャラクターだ。テレビにはこうしたステレオタイピングが多い。杉下右京は並外れた知能を持っており、代わりに組織内での出世が見込めないことになっている。大門未知子は天才的な外科医だが、フリーランスであり組織で出世できない。二人とも組織から「嫌われている」。

確かに課題を切り離すことで問題解決がしやすくなる。しかし、日本場合はそれだけではダメで、代わりに何かを差し出さなければならないことになっている。つまり社会的な制裁を受けるのである。これはスティグマのようなもので、例えて言えば「刺青」をして二度とカタギの世界には戻れませんよという宣言になってしまう。それでも生きてゆくためには並外れた技術が必要だということになる。

組織というのは社会的に容認された自発的な奴隷制度のようなものだ。問題解決をしない代わりに庇い合いをすることになっているが、主に庇われるのは上の方にいる人たちである。底辺の人たちは搾取されるだけということになる。底辺にいる人たちは、そもそも組織に参加しないかあまり組織に貢献しないのが合理的な選択肢ということになる。すると組織は持たなくなるので「感情から解放されて自由になってもいいですよ」と宣言した上で、2つの条件をつきつける。豊かな才能があり、なおかつ組織内での出世を諦めるべきだというわけだ。すると「さして才能もない」と感じている人たちは組織に貢献することを選ぶわけである。つまり、意図しているかどうかは別にして、テレビドラマのプロパガンダは悪質な洗脳なのだ。

この弊害は大きい。テレビでは「やらさせていただいている」という言葉が横行している。これは他人のおかげで仕事が与えられているという謙譲表現であっても、結果には責任を負わないということだ。それは「させられているだけ」であり本人の意思ではないからである。誰も責任を持たないので結果失敗すると「仕方がなかった」ということになる。第二次世界大戦は「天皇のために戦わさせていただいている」戦争だったのだが、結果誰も責任を取らなかった。もとともは内向きな政治家の無力と軍部のマネジメントの失敗を隠蔽するために、なし崩し的に戦線が拡大して行っただけなので、出口戦略がなかった。結局、誰かを犠牲にしないと成り立たなくなってしまったのである。犠牲になったのは飢えて死んだ兵士、捨て石にされた沖縄、空襲された都市の住民、最後に広島と長崎だった。

この洗脳から抜け出すためにはどうすればいいのだろうか。それに気がつくためには、組織がそれほどあなたに関心がないということを知ることが重要である。だが、所詮他人のことはわからない。そこで、あなたが他人にどれほど関心を持っているかを考えてみると良いと思う。

さして他人に興味を持っていないだろうし、他の人のために何かしたいなどとは考えていないはずだ。次に考えるべきことは、あなたに並々ならなぬ関心を持っている人を探すことだ。騙そうとして狙っている、自分の善意をデモンストレートする対象として利用しようとしている、凭れかかるためにあなたのことを知りたがるかのどれかではないだろうか。

そもそも誰も他人の話など聞いておらず自分の主張を叫んでいるだけなのに(つまり社会はTwitter状態なのだ)その集積である組織があなたに何をしてくれるというのだろう。そこから抜け出すのに何も感情を抑圧する必要などないということが簡単にわかるのではないだろうか。