女性であると言う苛烈さ

つくづく、女性でいると言うことは大変なことなんだなと思った。常に他人の価値基準で生きており、数での競い合いを強要されているようだ。小島さんはバレンタインデーで男性が数のコンペティションを強要されているという図式を想像しているようだが、そういう実感はない。

なぜこういうプレッシャーを感じないのだろうかと思ったのだが、答えは簡単でまったくモテないからである。かといってこの世の終わりだとも思わない。モテについて女性ほどの苛烈さがないからかもだろう。もうちょっと難しい言い方をすると男性のほうが価値をはかる軸が多いということになる。

かといってチョコに興味がないわけではない。過去にビーン・トゥー・バーをもらったことがあるがよく分からなかった。くれた人はネスレのチョコと一緒にくれたのであまりこだわりがなかったのだと思う。が、産地で豆の味が違うならちょっと勉強したら楽しいだろうなあとは思った。

同じように、男性はシガーやワインを共有することがある。こうした農産物には土と関連するストーリーみたいなものがあるからである。シガーはアメリカのボーイズクラブでは頻繁にやり取りされているし、ワインも気の会った人としか飲みたくない。工業的に味が制御できないので、そういう違いを時間をかけて楽しむような人とじゃないと話していても面白くないのである。

確かに高いほうがおいしいものにあたる可能性が高いのだが、かといって高ければいいというものでもないし、そもそも「おいしい」という価値基準を構築するのに時間がかかる。だから「高いワインだからおいしいでしょ」といわれてもあまりぴんとこないし、口に出しては言われないが軽蔑されることさえある。

さらに土地の農産物は記憶とも結びつきやすい。安いジンファンデル(ドイツっぽい名前なのだがドイツでは知られていないのだそうだ)の方が思い出の味だったりもするわけだ。「あの時馬鹿話して楽しかったなあな」どという記憶が土のにおいとセットになっている。

ところが女性のチョコはコンペティションの対象になっていて、値段と数が評価の対象になっているようだ。つまり待遇の記号になっている。バレンタインデーにチョコを配ると言う昭和の風習は消えつつあるらしい。「バレンタインデーにチョコを渡すリスクが怖い」ということのようだ。ステレオタイプで考えると男性の方が食べ物に興味がなく、女性の方が細やかな知識と関心がありそうなのだけど、実際には逆なのかもしれない。

そういえば女性が見るグルメ番組にはやたらに権威付けの薀蓄が多く、男性が好きそうなカレーとかラーメンには系統とかのシステムに関する情報が多い。男性にとって食事は趣味の領域であり(日常的に準備する役割をになうことが少ないからだとは思うので、こっちのほうが優れているとは言わない)、女性にとっては待遇を決める材料なのかもしれない。

世の中の分析するのは楽しいのだが、ここら辺でやめておく。個人的には鯉にえさをばら撒くみたいにチョコをばら撒く人をみると、食べ物に関心がない人なんだろうなあと思ってちょっと切ない気持ちになる。

ただ、女性はチョコの数を競うような男性が好きなのかももしれないとは思う。何事も「競う」というのはテストステロンの強い影響下にあるということで、多分男性的な魅力は高いだろう。こういう人は競争に(例え負けたとしても)快感を得ているはずだ。

山本一郎騒動とフジテレビの凋落

山本一郎氏が炎上している。知っている人は知っていると思うのだが、ぜんぜん知らないと言う人もいるのではないだろうか。つまり、騒ぎは局地的に起きている。

「山本一郎氏はIT関連の投資をしているみたいだけど、本当は何をしている人なんだろうね」という人だ。もともと別のハンドルネームで知られていたのだが、いつのまにかフジテレビのコメンテータになっていた。コンテンツ業界のどろどろを面白おかしく書く作風はなかなか面白かったのだが、最近Twitterでおかしな言動を繰り返すようになった。

山本一郎氏はTwitter界隈ではとにかく評判が悪い。例えば豊洲では大方が「豊洲移転は無理だろう」という見方をしているのだが、それに逆らっている。のんさんが改名騒ぎを起こしたときも事務所は悪くないという側についた。体制側の弁護を買って出ることで1%の代弁をし、99%の不興を買うのである。

この山本氏に経歴詐称疑惑が持ち上がった。映画評論家の町山智浩氏が「追い込み」をかけたからだ。過去のプロジェクトや留学先を「盛っていた」らしい。これに小田嶋隆氏が参入した。ネット上ではすでに「病的なうそつき」とういう評判になっている。ネットにはこの手の揉め事のウォッチャーがおり頼みもしないのにこれを拡散する。山本氏本人は反論せずスルーしようとしている。今回の件について本人のコメントはこちら。訴訟をほのめかしていると言う話もある。しかし、いつもの作風だと「ああいえばこういう」はずで、スルーはちょっと不自然な印象だ。

この揉め事自体は言論プロレスの一種なので特に興味はないのだが、この人がフジテレビのコメンテータをしているのは問題だなあと思う。フジテレビはショーンK氏を司会にしようとした報道番組が頓挫したばかりだ。ショーンK氏は華やかな経歴を持ったイケメンハーフだったが、実際には整形した日本人で経歴も大方が嘘だった。

どうして山本氏が経歴を詐称したのかと考えてみたのだが、テレビではそっちのほうが受けがよかったからだろう。しかし、テレビの視聴者に受け企画を立てる人は企画書にインパクトのある経歴が書きたいのではないだろうか。だが、実際に企画書が通ってしまうとそれを確かめる必要はなくなってしまう。

そう考えるとフジテレビが凋落していった意味が分かる。フジテレビは何が受けるかより社内でどのような企画書が受けるかということを基準に番組を作っているのではないだろうか。受け手が何を求めているのかが分からないのに視聴率が取れるはずはないわけで、これが全体的な凋落につながっているのだろう。

こうしたことは経営コンサルの世界でも起きているのではないだろうか。経営コンサルの中には経営者向けの芸者さんが混じっている。重用されるのは美貌ではなく経歴書の美しさだ。多分、本当にアメリカの有名大学のMBAを持っている人もいるだろうし、そうでないのに偽装している人もいるかもしれない。しかし経営コンサルをありがたがるような会社の社長がMBAの知識を持っているとは思えない。本物と偽者の区別がつかないわけだ。そうしたコンサルを導入した会社の中には社員の意向や現実を無視して経営者に受けそうな「改革」を実行するところが出てくる。そういう会社は経営が傾いてゆくことになるだろうが、社長は気にしない。その痛みは一時的なものだと思い込んでいるからだ。

山本氏のキャリアが本物か偽者かは分からないのだが、そもそも自由を目指してフリーランスや経営者になったはずなのにテレビの要請に応えて自分の経歴をつまびらかにできないのだとすると本末転倒と言えるだろう。と同時に、昼間の世界にのこのこと出てこない限りは芸者さんの化粧を剥いではいけない気もする。

多分、もうテレビはまともな世界ではないのだ。

 

稲田防衛大臣と文脈の奴隷

いじめ問題についてみている。多分議論のゴールはいじめで死ぬ子供をなくすことなのだが、千葉市教育委員会の人と話をして考えこんでしまった。生徒や保護者の中には「学校にいじめを認めさせたいだけ」と考える人がいるのだそうだ。もちろん、この話は納得できる。報道でも「学校にいじめを認めさせたい」というだけで両親が奔走するケースがあるからだ。

なぜ学校がかたくなにいじめを認めないのかというと、それを認めてしまうと学校と教育委員会の管理責任という問題が出るからである。つまり解釈によって事実の意味づけがまったく変わってしまう。そこで千葉市の担当者は「いつも想定外のことが起こる」と言っていた。人間関係の問題なのですべてイレギュラーケースなのだろうが、役人は事前に規定してすべて管理できると思ってしまうのだ。

この裏には担当者の責任の希薄さがある。もともと先生に権限と責任感があればこうした問題が起こるはずはない。しかし現場の先生の意識は希薄化している。しかし、現場の意識付けをせずに(多分こういうと研修をやっていますなどと言うのだろうが)規則や制度でカバーしようとするのだ。そのために千葉市の「いじめ防止マニュアル」はとても複雑なものになっている。

文脈と意味づけが重要なので、家族はマスコミに訴えて文脈の構成を変えようとする。メンバーが変わると意味づけが変わる。横浜のケースはこの意味付けを当事者がコントロールできなくなった事例である。Twitterが意味づけ決め、教育委員会の独立性を無視して盛り上がってしまった。

ここらでふと考え込んでしまったのは「子供の苦痛」とか「その延長線上にある死」というものが、解釈によって変化しうるだろうかいう問題だ。

個人的には変化はしないだろうと思う。死という現象は変わらず、その意味付けが変わるに過ぎないと思うからである。いわゆる「文脈費依存」なのだが、これは少数派の考え刀のではないかと思う。

だが、死がいじめによる自殺だと認められないと「その子供の死が犬死になる」と考える人は多いのではないだろうか。つまり、現象より意味づけのほうが重要だという文脈依存の考え方だ。

日本人には合理的思考はできないというと悲観する人が多いと思うのだが、これは文脈が構成要因やその場の雰囲気やメンバーの範囲、数によって変わりうるからである。事象だけに注目すると合理的に考えやすい。ただそれだけのことである。だが、それができない。そこで範囲を限って文脈を固定しようとする。これが「隠蔽」だ。

さて、の文章を書こうと思ったのは、まったく別のニュースを見たからである。稲田防衛大臣が「戦闘行為だと認めてしまうと憲法第九条に抵触しかねないので、衝突と言った」と答弁したとして大騒ぎになっている。これも意味づけ(解釈)の問題だ。

安保法制を作るにあたって、まず政府は官邸で文脈を作ったのだろう。しかしそれは国民には理解されないことはわかっていた。想定外の衝突が起こる可能性を排除してストーリーを守った。しかし、その事態(武力衝突でも戦闘でもどうでもいいのだが、要するに武器で人が殺される可能性である)が起きてしまった。そこで「隠す」事に決めたのだろう。

解釈の問題は、現場の兵士自衛隊員の安全にはまったく関係がないのだが、国会ではこれだけが大問題になっている。もし、戦闘があったとすると、自動的に危険な区域に自衛隊員を送ったことになってしまう。すると政府の責任問題になる。だから「衝突です」と言った。

このまったく関係がない二つの案件に共通するのは「解釈」だけが問題になり、現場(自衛隊とか子供とか)のことは省みられないと言う点だ。国会は自衛隊員の安全については議論しておらず、教育委員会はいじめについては議論していないということになる。だから、問題は何も解決しない。

そもそも法律には目的というものがあるはずなのだが、その目的については誰も関心を寄せない。そして、いったん意味づけが決まってしまうとそれを覆すのはとても困難だ。いじめられて子供を亡くした親は「世間はそれを認めてくれない」といいつつ孤独な戦いを強いられることとなる。それを認めさせる戦いをしているうちに、疲弊して当初の目的がわからなくなる。次の自殺者が出て、教育委員会が頭を下げるか下げないかということを議論することになる。この繰り返しだ。自衛隊でも同じ問題が起こるだろうが、もっと念入りに隠蔽されるのではないか。

しかし、教育委員会が頭を下げたところで子供が生き返るわけではないし、誰に責任があるかによって恐喝をやめる子供などいないのだ。

稲田さんがなぜあのような答弁をしたのかはわからない。個人的には河野太郎さんがなぜこのタイミングで資料を「発見」したのかが気になる。散々「危険性はない」と言わせておいて、資料が出て「ほら危険を認識していたではないか」ということになれば政権が危機に陥るのは明白だからだ。つまり内側で文脈を破壊する行為が行われていることになる。あるいは役人が破壊工作をしているのかもしれないが、派閥の再編などが加速しているようだし、背景に何らかの動きがあるのかもしれない。

安倍首相は稲田防衛大臣に答弁を続けさせるべきだろう。最近彼女は場面場面で相手が聞きたいことをいっていたという主張を始めている。政治生命は終わったと言ってよい。これがボスである安倍首相に類焼しない(彼が言わせたのではなく、稲田さんが勝手に言ったことにする)ように、食い止めつつそこで炎に焼かれるべきなのであろう。彼女の解釈能力が失われると、政権の文脈生成能力自体が空白化し、誰も政権の言うことを信じなくなる。日本のような文脈依存世界ではこれは社会的な死を意味する。

と、同時に見ていた私たちも、去年の夏にいったい何をしていたのかを思い返してみるとよい。際限なく無意味な言葉遊びに興じているうちに、憲法第九条の意味とか、平和国家として再出発してから成功を収めたことの意味をまったく忘れていることに気がつくのだ。

われわれは等しく文脈の奴隷なのである。

いじめ問題 – 千葉市教育委員会の回答

千葉市の教育委員会にいじめ問題について問い合わせたところ回答をもらった。回答は文末にそのまま載せた。なお問い合わせは1月24日に行ったのだが、回答までに2週間を要した。担当者曰く部門間での調整が必要だったそうだ。皮肉なことにこれが一番の問題点だ。

いじめがあったときにどう対処するかというのは細かいマニュアルにまとめられている。一読してみたが素人がとても読みきれるものではない。いろいろなことを想定しているからだというと聞こえはいいのだが、責任者を置いて意思決定を分担させたほうがいい。これをやらないのは、誰も責任を取りたくないからだろう。そこで事前にあれこれと決めておくのだ。官僚的なリスク回避のために生徒児童が犠牲になっているのである。

このため「管理責任がどうだった」という文脈ばかりが重要視され、実態が掴みにくくなっている。

回答のポイントは以下のとおり。

  • 生徒・児童が訴えを起こすことができるルートは複数あり、制度は充実している。学校を通さないことも可能だ。つまり、制度には問題はなさそうだ。
  • (千葉の場合)市長は再調査を命じることはできるが、判断そのものを操作することはできない。横浜にこのような制度がないならぜひ作るべきだろう。
  • 制度上、教育委員会は裁定や判断には責任を追わないことになっている。これは法律上決められている。ただし「自主的な辞任」はあり得る。
  • 認定は教育委員会が行うことになっている。横浜の教育長は「第三者機関がいじめの事実はなかったと言っているから認定できない」と言っていたのだが、これは必ずしも正しくないのだろう。ただし、調査を依頼しておいてそれを全く無視した裁定も出せないかもしれない。このあたりの責任分担が実はあいまいになっているのだ。
  • 教育委員会や第三者委員会は「善意の第三者」ということになっており、組織的な隠ぺいに関わるかもしれないというような可能性は(少なくとも法律上では)考慮されていない。これは制度上は教育委員会と学校は別系統だからだ。

千葉市の教育委員会の担当者は(あくまでも話の中での個人の感想であり、他市の事情に口は挟めないのだが……)「教育委員会は最終裁定を出す前だった」のではないかと言っていた。つまり、運用にはある程度の「柔軟さ」がありこれが曖昧さを生んでいるようだ。

また、以前の繰り返しになるが学校側の管理責任を教育委員会が隠蔽するなどということは法律上は想定されていないので、教育委員の人選は極めて大切だ。横浜市民は「150万円のおごり」がいじめに該当すると思うのであれば、林市長には投票してはいけないと思う。人事と予算は市長の大切な仕事なのだからこれをお座なりにするような市長は不適格だからだ。

一方で、保護者の中には、いじめがあったということを学校にはわかって欲しいが世間的には騒いでほしくない(学校を変わっても特定されることがあり得る)と考える当事者もいるということだ。結局「自殺の意味づけ」の問題になってしまうのだが、自殺だと認定されたとしても、児童生徒が戻ってくるわけではない。しかも、学校がそれを認めてしまうと「管理責任」という文脈が生まれてしまうということになる。大人が右往左往しているうちに隙間が生まれて、次から次へと同じような問題が生じることになる。

もちろん、「みんな仲良く」が前提になっている学校教育の場に「被害者・加害者」という概念を持ち込むのは辛いことだろう。しかし、いじめで自殺を選ぶ子供がいることも事実だ。1月末には松戸市で中学生が自殺したが、市教育委員会はいじめを否定している。須賀川では数日前にいじめ自殺があり、市教育委員会が深々と頭を下げたのだが、子供が生き返るわけでもない。去年の11月になくなった生徒に親に加害生徒が謝罪したという報道もあった。

最後にこの話題はすっかり騒ぎが落ち着いてしまった。他罰的な感情で興味を持っている人が多いことがわかる。つまり騒げるならなんでもいいと考えている人も多いのだろう。

市教育委員会の回答内容は下記の通り。リンク太字はこちら側で加えた。なお途中当該児童生徒という言葉が出てくるがこれは「被害者」を指すそうである。

1)本市のいじめに関しての第三者的相談窓口としては、以下の機関等が主なものとなります。いずれも、児童生徒や保護者が直接相談できます。

  1. 24時間子供SOSダイヤル
  2. 千葉市教育相談ダイヤル
  3. 子どもの人権110番
  4. 千葉市児童相談所
  5. 青少年サポートセンター
  6. 千葉市教育センター
  7. 千葉市教育委員会学校教育部指導課
  8. 県警少年センター

なお、いじめによる重大事態における調査依頼窓口は、学校を経由しない場合は千葉市教育委員会学校教育部指導課となります。

2)「千葉市いじめ防止基本方針」で規定されており、いじめによる重大事態が発生した場合、教育委員会は市長に報告することになっています。また、重大事態についての調査が行われた場合、その結果の報告を教育委員会は市長に行うことになっています。さらに、その報告を受けて市長が、必要があると認めた場合は、市長の附属機関である第三者委員会が再調査を行います。

なお、「千葉市いじめ防止基本方針」は千葉市教育委員会指導課のホームページに掲載していますので御参照ください。

3)「千葉市いじめ防止基本方針」に規定されており、教育委員が自ら調査を行うことはありません。重大事態の調査主体は「学校」「教育委員会事務局」「教育委員会の附属機関である第三者委員会」のいずれかとなり、その決定は教育委員会が行います。

4)議事過程は原則非公開となっていますが、調査結果(第三者委員会の答申)は原則公表となります。ただし、調査結果について当該児童生徒や保護者が公表に反対の意思を示したときは、この限りではありません。

また、いじめの認定は、調査結果を基に教育委員会が行うことを原則としています。

5)校長や教諭等の教職員の処分については、千葉市教育委員会が定めている「懲戒処分の指針」に則って行います。なお、処分はどのような非違行為があったか等により判断するものであるため、いじめの認定だけをもって校長・教諭等を処分することはありません。

6)改正後の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」においては、教育委員及び教育長は、特別職にあたるため処分されることはありません。ただし、同法律の経過措置として、改正法の施行前から継続して在職する教育長については、処分されることは、制度上はありえます。その場合、対象となる事案がどのようなものかによって、処分されるか否か、処分の程度は異なってきます。

教育委員及び教育長の辞任については、制度上は可能です。

 7)教育委員会の附属機関の答申として出される調査結果については、教育委員会及び市長が修正等を行うことはありません。また、学校、教育委員会事務局の調査については、市長の意向とは別に行うものです。

保護者が調査結果に不服がある場合については、「千葉市いじめ防止基本方針」において、「(調査組織による調査結果の) 説明結果を踏まえていじめを受けた児童生徒又はその保護者が希望する場合には、いじめを受けた児童生徒又その保護者等の所見をまとめた文書の提供を受け、調査結果の報告に添えて市長に提出する。」という規定があります。また、2)でお答えしたとおり、教育委員会からの報告を受けて、市長の判断で再調査を行うことがありえます。

いじめられる側にも問題がある

NHKの「あさイチ」という番組でいじめ後遺症の特集をやっていた。いじめられた人がその後うつやフラッシュバックに苦しむというような内容だ。ここで、柳澤秀夫という解説委員の人がちょこまかと意見を言っていたのだが、はっきり言って有害なのでいじめ関連の話のときには外した方がいいと思った。

いじめ被害者は社会常識から祝福されていない

柳澤さんが有害な理由はいくつかある。まず、いじめ被害者が加害者の罪状に判決を下すことを有害だと決めつけていた。いじめられたことがなく、いじめについて真剣に考えたことがないのだろう。次に親が親身になってくれないことを不思議がっていた。これもとても有害な態度だ。共通するのは「社会常識」だ。

よく「いじめられる側にも問題がある」と言われるが、これはその通りだと思う。いじめられる側は「虐待してください」というシグナルを出している場合が多い。「違っている」ことが問題になるのだが、それだけではいじめは起きない。いじめ被害者はターゲットになりやすい。

これは誰かにそう仕込まれているからである。あサイチでは「自尊心のなさ」が大きなテーマになっているのだが、被害者は誰かに自尊心を奪われているのである。奪っているのはたいてい最初に接触した大人だ。すると結論としては「最初のいじめ加害者は親」ということになる。良識があるNHKにはとても受け入れられないだろう。

いい親もいれば悪い親もいる

よく「しつけの為にしかる」という人がいる。確かにそういうこともあるのだろうが、そうでない場合も多い。公共の場で騒いでいる子供をヒステリックに罵倒している親を見かけることがある。「静かにしない」ことに憤っているのだろうが、感情的にがなりたてて周りを不快にしているのは親そのものだ。自分が(所有物である)子供をコントロールできないことにかんしゃくを起こしており、周りが全く見えなくなっているのだ。「愛情」や「愛着」ではなく「支配・被支配」という関係があるのだろうし、客観的な状況判断ができなくなっていることがわかる。

家族という収奪者

人から物を盗むのは犯罪だが、弱いものから感情や自尊心を奪うのは犯罪とはみなされない。その「手口」にはいくつかある。

一つは最初から「奪って当然」と思っているようなタイプである。この人たちは相手の所有物には興味がなく自分のことしか考えていない。だから、奪っていること自体に気がつかない。いつも自分の問題に頭がいっぱいで相手が見えていない。そのくせ奪った相手が異議申し立てをすると「私は正しい」と主張しはじめる。つまりいつも何かと闘っているのだ。個人的にはこういう人を「トランプさん」と名付けている。毎日が選挙キャンペーンなのだが、一体何の為に戦っているのかわからないような人だ。

もう一つ経路は共依存である。自分に価値が感じられず、誰か「お世話をする人」を探している。お世話をする人はつねに自分より弱くてかわいそうでなければならない。ということで子供に「かわいそうで何もできない人」という自己認識を刷り込むのだ。最悪の場合には「トランプさん」に犠牲車を差し出すことも厭わない。さもなければ自分が闘争の相手になってしまうからだ。親が共依存の相手を探しているなどありえないことのように思えるが「母が重い娘」というのは珍しくなくない。

言語化できない苛立ちを弱いものにぶつける人もいる。いつもは普通に話しているがなんらかのスィッチが入り、子供のおもちゃを力任せに破壊したりテレビを壊したりする。しかしいじめらられる方は思い当たる節はないのでいつもビクビクと怯えていることになる。この怯えは対人恐怖となり学校でもなんとなく挙動不審になったりする。それがまた新しいいじめを生むのだ。

まずは第三者の存在が重要

個人的に幸いだったのは、いじめられていた時に先生が「いじめられる側にも問題がある」とはっきり言ってくれたことだった。先生の中にはシスターが大勢いたのでサラリーマン化した公立学校の先生よりも人生の苦難を多く見てきているのだ。ノン・クリスチャンの担任は成績で子どもを選別するような人が多かったが、クラスの他に課外授業のようなもののがあり「最悪の事態を防ぐ」仕組みがあったのも(後から考えるとだが)よかった。

よく「信じれば不幸はたちどころに消える」とか「災難が降りかかるのは信心が足りないからだ」などといって脅す宗教があるが、本物の宗教はそんなことはしない。それは宗教者たちが普段から理不尽な出来事に接しているからだ。信心があろうがなかろうが苦難は起こりうる。優しくしていればいつかわかってくれる人が現れますよというようにごまかしたりもしない。

こうした個人的な経験から「いじめられる側にもそれなりの理由がある」と思う。知らず知らずの間に犠牲者としての役割を演じているからだ。自分でそれに気がつくのはとても難しいので、第三者の目が欠かせないのだ。コントロールできるのは自分だけなのだから、自分を変えてゆくしかないのだ。

収奪されるものは繰り返し奪われる

被害者としての低い自尊心を根底から覆すのは並大抵のことではない。その時に助けになるのが心理学を勉強した第三者の存在だ。逆に邪魔になるのが柳澤秀夫解説委員に代表される「何も考えたことがないのに社会的な常識」を振りかざす悪意のない大人だ。何も考えたことがないのに当然何かが言えると思い込んでいるからだ。

例えば「親は愛情があって子供を虐待などするはずがない」という建前はサバイバーを大いに苦しめるし、横浜の例で見たように「福島からきた転校生さえ黙っていれば丸く収まる」ようなことは決して珍しくない。社会は「美しい社会常識をいきる美しい私たち」を守る為ならなんでもする。例えば、あの福島の子さえいなければ「良い子がすくすく育つ横浜市」でいられる。これに加担している人は善意で踏みつける。逆に犠牲者は何回も踏みつけられるし、誰も助けてくれない。弁護人は自分しかいないのだ。

柳澤解説委員が驚いていた「加害者に判決を下す」行為は、いじめられることを客観化することが目的なのだろう。つまり、いじめ加害者が問題なのではなく、その受け止めが問題なのだ。

自殺しても構わないけれど

自殺するのは(よく考えた結果なら)構わないとは思うのだが、たいていの場合、加害者は「いじめるなら誰でもよい」と思っているはずだ。つまりいじめる側は大した理由があっていじめているわけではない。そもそも人の物を取っても何も思わないような人なのだろうし、取ったとすら思っていないかもしれない。人の物を取るのは犯罪だが、自尊心を奪うのは「気軽な娯楽」なのだ。

つまり、死んでもたいして意味がないのである。

だからいじめサバイバーは、どうにかしてこれを越えてゆくしかない。残酷なことに奪われた自尊心は戻ってこない(だからこそ重大な犯罪なのだが)のだが、それに変わるなんらかの技術を身につけるか、感情をオフにする術を身に付けるべきだろう。

正直いじめの当事者がこの文章を読んでくれるとは思わないのだが(それどころじゃないだろうから)それでも周りにいる大人は理解できないのなら黙っているべきだ。なんとか生きようとしてる人の邪魔をしてはいけない。

 

Twitter バカの向こう側

NHKの「週刊ニュース深読み」を途中から見てちょっと暗い気持ちになった。東日本大震災の原発避難者がいじめられているというニュースに「いじめる側も放射能について漠然とした不安を持っている」という背景があるというのだ。知らないことが漠然とした不安を呼び、結果的に一番弱い子供に向かっていることになる。

嘘が飛び交っている

曖昧な情報が漠然とした不安を生んでいる。原子力発電所は国策で推進された歴史があり、自己保身のために様々な情報が錯綜することになった。さらにこれに是が非でも対抗したい人たちがいて不安を煽っている。

だが私たちは東日本大震災からなにも学ばなかった。豊洲の問題でも様々な思惑から様々な言説が飛び交った。中には豊洲移転を正当化するために築地の安全性を毀損する人たちが現れた。結果的に東京の魚そのものの信頼が揺らぐことに気がつかないのだろう。自分が正しいことさえ証明できれば、東京の魚なんてどうなってもいいという人ばかりなのかもしれない。

こうした状況で「正しい情報」を選択するのは難しい。さらに第一次情報がそもそも汚染されているということもわかってきた。「フェイクニュース」とか「オルトファクト」とか「ポストトゥルース」などという言葉が流行している。トランプ大統領が偽情報の発信源になり、日経新聞は政府関係者の「観測」を事実として流す。安倍首相は現実を捻じ曲げて建前を言い張っている。これらは「引用」が間違っているわけではない。「真実を隠蔽している」という見方はできるが、彼らが真実が何かをわかっているという保証もない。

私たちがやらなければならないこと

こんな中で私たちができることは何なのだろうか。最近の事例で考えてみたい。最近ネットではGPIFがトランプ大統領への貢物になるかもしれないというような言説が飛び交っている。このニュースを知るためにはかなり複雑な知識が必要になる。

建前上は独立しているので安倍首相が年金機構に指示をすることはない。かといって年金機構が忖度しないとは限らない。もともとは援助だったのだが、最近では国内外で「投資と援助」を使い分けている。援助の枠組みが使われるのは、多分国会の監視が必要ないからだろう。これを糊塗するのに安倍首相がよく使うのがwin  winだ。さらにアメリカが「投資」を受け入れてくれるかもポイントだ。基軸通貨国なのでファイナンスしなくてもいいのである。プライベートセクターの投資が歓迎されるのは政府の債務にならないからなのだろう。

結局この複雑な体系のバランスを見て、野党をうまく使いながら主権者として判断することが求められているのだ。

だが、そもそ何が不安なのかすらよくわかっていない

問題を解析するのは一大事だが、そもそも何が心配なのかということを言葉にすることすらできていないのではないかと思う。事実とされていることを習う訓練はしたが、自分が考えていることを表現する手段は学んでこなかった。

ブログを始めた頃には「意見があるならコメントに書いてくれればいいのに……」と思っていたのだが、最近それは日本人にとってとてつもなく難しいことなんだなあということを実感している。

最近、Twitterでメンション付きの引用RTをもらった。何か言いたいことがあるのかもしれないが、なにが言いたいのかわからない。「豊洲問題で合理的に事実が扱えない」という記事についてのコメントらしい。

最近は「そもそも計測するからイケナイ」という人もいるから驚き。安全に気を使うのは当たり前で、そもそも論なんてアリエナイ

そもそも計測するからだめとは言っていないのだが「そんなこと言っていない。よく読め」というコメントもだせない。ケンカになってしまうだろう。安全に気を使うのは当たり前というのは同意するが「そもそも論なんてありえない」というのは意味がわからない。意味がわかれば対処の仕方もあるのかもしれないが、意味がわからないとどうすることもできない。

考えてみると、感情を言葉にすることも難しい。「なにかを呟かざるをえなかった」ということは心理的な不調和を抱えていたということなのだと思うのだが、言語化しない限りそれは単なる怒りとしてしか知覚されないのではないか。それを140文字にまるめて「それが批判なのか賛同なのか」を示しつつ「批判の場合はなぜ批判しているのか」を書くことはとてつもなくハードルが高い。

どうして豊洲や安保法制の問題が議論(例え単なる罵倒合戦だったとしても)として成り立つのは、ある程度利害関係が明確で文脈が存在するからなのだろう。文脈がないとそもそも言語化すら成り立たないほど、知的な砂漠化が進んでいいるのかもしれない。

Twitterはバカ発見器という言葉の裏にあるもの

批判は特に「相手にわからせる技術」が必要になる。そもそも自分の感情を言語化する技術もない状態で異なる意見がぶつかるとしたら、これはもう「相手をバカ」と思わないとやってゆけないということになる。この状態で情報に被爆しても、情報は毒にしかならない。

意思決定できないのは情報が足りないからだと思われていた。しかし情報が増えてもそれに対処しない限り意思決定をする必要があり、そのためにはまず自分の中にある感情を言語化する必要がある。相手にそれを話すかどうかはそれ以降の問題だ。だが、これがとてつもなく大変なのである。

 

共謀罪をめぐる混乱

どうもよく分からない。国会中継で金田法務大臣がぐだぐだな答弁を繰り返している。金田さんはテロ等準備罪(共謀罪)を成立させたいらしいのだが、どうして共謀罪を整備しなければならないのか、共謀罪がないとなぜ困るのか、誰が対象になるのかがすべて不透明なのだ。答弁席の後ろに法務官僚が陣取っており、その場で「お勉強する」という体たらくだ。答弁は二転三転している。具体的な事例も挙げられないし、何が対象なのかもわからないので審議しようがない。

これを見て「まだ法案が準備できていないのに自民党の失点稼ぎを狙っているんだな」と思ったのだが、どうもそうではないようだ。そもそもは1月6日に「今年は共謀罪をやりますよ」と菅官房長官が言ったらしいいのだ。

だがこれも実は見出しマジックである。実際の記事をよく読むと「テロ等準備罪」を作る下準備になる法律を提出すると言っているだけだ。共同通信社がこれに「共謀罪「一般人は対象外」」という見出しをつけている。

共謀罪は「犯罪を準備しただけで処罰される」というものなのだが、犯罪の事実がなくても政府が一般人を拘束できるようになるので政治弾圧に利用される可能性がある。実際に日本は治安維持法が拡大解釈されてきた苦い歴史があるから、政府がいくら「一般人は対象外」と言っても誰も信じない。

これを「テロ」に置き換えたとしても無理がある。欧米の事例でもわかるようにテロに参加するのは外国から来た悪辣な人たちではなく「一般の市民」なのだし、裏をかいてやるのがテロなので「この犯罪だけ」ということを限定することもできない。

警察は共産党系の市民運動を監視している。政府がそれを望んでいるのかもハッキリしない。日本の意思決定は「空気の読み合い」なので責任が明確ではない。一部では暴力団が減っており警察が予算を縮小されないように「テロ監視を売り込んだ」という話がまことしやかに語られてる。実際には、「戦争法」デモが起きた時に「SEALDsデモは公安監視対象だからまともな就職ができなくなりますよ」という恫喝が行われた。こうした政治運動は政府を転覆するために行われているのだから(ただし民主的にだが……)これをテロだということは可能だし、時の権力者がこれを利用しないということはにわかには信頼できない。

さらに自民党は憲法草案で集会の自由を一部制限しようとしている。こちらは「公の秩序」というさらに曖昧な概念が用いられており、与党が勝手にカウンターを抑圧できるようになっている。

つまり状況を整理するとこうなる。

そもそも政府が信頼できないので共謀罪をきちんと運用してくれるかわからない。にもかかわらず政府は「雰囲気作り」を醸成しようとした。しかし通信社が「政府がやると言ったらもう通るのだろう」という見込みのもとに見出しを立てる。それがTwitter経由で拡散しコラムに書かれ野党が反対する。しかし、実際には法案はまだできていない。

実際には法案ができていないどころか「どれをテロ等準備罪」に含めるかということについて自民党と公明党で駆け引きしている最中だ。公明党は都議選を控えており「どの程度自民党にお付き合いするか」を思いあぐねている。自民党が右傾化しているので公明党の「平和の党」というイメージが毀損されているからだ。ある種の取引の最中だから、法務大臣も明確な答弁ができないのだろう。

ハッキリした混乱の原因が一つだけあるわけではなく、いつかの要素が絡まって「グダグタ答弁」になったようである。

 

サラリーマンは二級社員になる

今回はトランプ大統領が出したイスラム地域からの流入禁止とサラリーマンの将来について考えたい。「全く違った話ではないか」と考える人が多いかもしれないのだが、実際にはつながるのだ。つまり「閉じた国」で既得権益のある層を守ると国は衰退するのである。

急速に閉じつつあるアメリカ

このブログを書き始めた頃、アメリカに憧れていた。日本はITすらまともに使いこなせず、移民も排斥しているが、アメリカは世界から才能を惹きつけていた。リチャード・フロリダのクリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求めるのような本を読んで本気で羨ましいと思っていたし、ダニエルピンクがいうようにハイ・コンセプト「新しいこと」を考え出す人の時代が来ると思っていた。

だが、その見込みはたった数年で揺るぎつつある。「1980年代のアメリカ」が息を吹き返し「外国がアメリカの製造業をダメにしている」というような主張がみるみるうちに支持を広げた。そしてトランプ大統領は本当にいくつかの排斥措置を実行してしまった。

米国務省は28日、BBCに対して、イラク、シリア、イラン、リビア、ソマリア、スーダン、イエメンからの渡航者はすべて、二重国籍者も含めて、米国への入国が当面禁止されると話した。有効な査証(ビザ)を持つ人も含まれるという。

日本では移民問題を人権と関連付けて考える人が多いのだが、実は経済問題でもある。移民の中には教育にお金をかける人たちがいる。知識は持って逃げられるからである。アメリカのIT産業を牽引しているのは中国人とインド人だった。さらに「クリエイティブ都市論」で示されたように、才能のある人材は、開けた場所を好む。つまり自由は人々を惹きつける。東京のように外国人が家を借りるのに苦労するような場所よりもロスアンジェルスのような多様性のある街を好むのである。

自由は人を惹きつけることを知っているカナダ

ということで、カナダのトルドー首相が「トランプに排除された人たちを受け入れる」といったことは、人権に配慮したという側面もあるだろうが「優秀な人材が必要な産業はカナダに移動すべきだ」というメッセージでもある。つまりシリコンバレーは北に移ったほうがいいですよというメッセージになっている。

トランプ大統領が選択したのは製造業に強いアメリカなので、中国やインドあたり価格で競合することになる。実際にトランプ政権の貿易担当者は中国シフトだ。さらに、IT産業を直撃しそうな就労ビザ政策の変更もささやかれている。これは現在日本が経験しているようなデフレへの道である。日本はIT化が遅れ、未だに製造業が地域の就職の最大の受け皿になっている。当然人件費では中国に勝てないので、非正規雇用で補うか、外国人を安く入れて使いたおすという方向の議論が起こる。アメリカも日本を模倣した移民政策をとり続ければ、自ずと賃金の下落が起きるだろう。一部では「ロボット化が進むだけ」という観測もあるようだ。つまり外国人ではなくAIが使われることになる。そのAIはトロントあたりで開発されているのかもしれない。

実は高技能移民を議論し始めている日本

さて、実は安倍政権は移民受け入れに積極的である。安倍政権の移民政策は二つある。一つは高技能移民の導入で、ホワイトカラーエグゼンプションはこれに伴った措置だと考えられる。もう一つは労働者クラスの移民でこちらは「研修生」として受け入れて、子供も作らせず定住もさせず(定住すると福祉給付の対象になる可能性がある)に一定期間だけ働いてもらおうというような制度だ。

実はこの議論はとても面白い。毎日、国会を見て笑い転げている。議論をしている人たちがこれをよくわかっていないように見えるからだ。本当にわかっていない人たちと、わかっていてわざとボケている人が混じっているようなのだが、外からみると誰がどうなのかがわからない。

ホワイトカラーエグゼンプションは残業ゼロ法案というレッテルが貼られていて、日本人の正社員層が「残業ゼロ」になるような印象を与えている。これに対して管さんは「すべての社員に当てはまるわけではない」と言っている。管さんは知っているのだろう。

転落が予想される正社員

とはいえ、政府は本当の意図をおおっぴらには説明できない。高技能社員を輸入すれば、何のスキルもなく英語すら話せないのに非正規雇用の人に対して威張り散らしている正社員はホワイトカラーの元で働く「二級社員」になってしまうからである。加えて「同一賃金同一労働」が推進されている。これは正社員の特権剥奪だ。

実際には高技能移民の受け入れ政策はあまりうまく行かないだろう。普通の日本人は英語をろくに話せず外国人を受け入れる度量もインフラもないので、先進産業は香港やシンガポールなどの旧英国植民地に行ってしまう。高技能移民が来るとしても東京くらいだろう。東京の都市魅力度はかなり高いとされている。

そうなると大阪を含む地方都市は、二級社員になった正社員が海外にいる特急社員に使いたおされるというような国になるのかもしれない。そこからも漏れたような人達は大学で細かな法規制を学んだあと老人介護などをして過ごす。決して働きがいがないとは言わないが、給与は伸びず家庭を作ることはできない。

この予言は当たるか

日本は現在の支持者達を刺激せず、製造業も守り、なおかつIT産業に代表されるような高技能労働者重視の産業を惹きつけようとしている。いわばおいしいところ取りなのだが、政策に整合性がなく効果が出るかどうかよくわからない。

だが、トランプ大統領の政策をみると製造業を守る動きが高技能型の産業に対する競争力を削いでいるのは明らかだ。

ここから考えると、現在の日本の労働改革は失敗する可能性が高いと言えるのではないだろうか。

 

決めない国日本・決めすぎる国アメリカ

トランプ大統領が就任してからわずか一週間でさまざまな大統領令が発令された。ある報道では17に上るという。これを聞いた日本人は「革命でも始まるのではないか」と怯えている。戦後70年以上アメリカとお付き合いしているわけだが、日本はアメリカの新しい側面を知りつつあることになる。

「決めすぎる国」を知ることは「決められない国日本」を知ることでもある。この「決められない」性格は、長時間労働や豊洲移転問題の混乱などを解くカギになる。

決めすぎる国と権力の独立

アメリカにはWHY NOT?という言葉がある。WHY NOTには悪い含みはなく、積極的に推奨されている。「なんでやらないの」といような意味だ。つまりアメリカ人は「思いついたら試してみたい」人たちなのだ。

トランプ大統領は気に入らない国からの移民は入れないという方針を打ち出し、それをWhy Not精神で即座に実行してしまった。その影響でたまたまテヘラン生まれだったアメリカ人や戦争時に通訳とて貢献したイラク人などなどが入国を拒否されたり飛行機に乗れなくなった。中には空港で手錠をかけられた人もいるそうである。

「根回し」が何もなく、当局者は「ボスがそういうなら」と後先考えずに命令を実行してしまった。だが、この混乱はすぐに収束した。裁判所が人権団体の申し立てを受けて大統領令を差し止めたからだ。権力者は間違える可能性がある。だから権力が分散しておりそれぞれ独立性を保っている。同じような分立は議会との間にも働いている。トランプ大統領は「壁を作る」と言っているが、予算が通らなければ壁は作れない。

権力がにらみ合っているからこそ、トランプ大統領は安心してむちゃなことができる。「俺はやろうと思ったけど議会がねえ」と言えるのだ。トップが思い切った対応ができるのは、それぞれが独立しており、うまく機能しているからだ。

決められないし責任も曖昧な国日本

むしろ面白かったのは日本人の反応の方だった。大統領(つまりアメリカで最も偉い人)が決めたからみんな従うだろうと思っている節がある。だから「トランプの意向」を気にするのだ。だが、これは極めて東洋的な考え方だ。

日本人は集団で決める。そのため意思決定が遅い。さらに、誰が何を決めたのかはっきりしない。このため、意思決定が遅い。しかし一旦決めたことをやめるのはさらに難しい。誰が決めたかがわからなくなっているからだ。

実例1:もめ続ける豊洲移転問題

例えば誰が考えても破綻している豊洲移転問題はまだもめているようだ。外野からも「論客」の参入があり話がややこしくなっている。池田信夫さんなどはこれでフォロワーが増えたと喜んでいるくらいだから、世間の関心が高いのだろう。池田さんのような外野でも「ネットで揉めているから俺に発言権がある」と考えてしまう人が出てきて、それに同調して騒ぐ人がいるのだ。

こうしたことが起こるのは権限が曖昧だからだ。「誰が何を決めているのか」がさっぱり見えてこない。ボスは石原慎太郎だが、部下に権限を委託(しかもインフォーマルに)しており、それを忖度した周囲も言うことを聞いてしまう。浜渦武生さんは選挙で選ばれていないので責任が取れない。浜渦さんの無理を聞いているうちにいろいろと無理が生じるので数字の改ざんなどが起こった。数字や議事録を隠した人を探しているうちに、なんとなくトップの責任は有耶無耶になってしまう。有権者にとっては責任者だったはずの石原さんは「俺にそんな難しいことがわかるはずはない」と嘘ぶいている。

実例2:延々と調整を続けて過労死する労働者

この権限の曖昧さは長時間労働などの原因にもなっている。職掌が曖昧なので有能な人に仕事が集中する。また中間管理職は誰に話していいかわからず調整に右往左往する。ひどい場合には全く関係のない人が出てきて「俺は話を聞いていない」などと言い出す。そういう人を収めるのに長い会議を行なうのである。みんな責任は取りたくないのでいつまでもなにも決めない。しかし重要な会議のたびに膨大な資料が必要になり「情報が少ないから決められない」と言い出す人が出てくるのだ。

実例3:東芝の関東軍

東芝では巨額の損出が発覚するまでは「社長すら何が起こっているかわからない」という状態だったそうだ。実際は専門家集団が勝手に決めて、責任が取れなくなってはじめて経営陣に「どうしましょう」と泣きついてきた。このために切り売りされるのは儲けを出している(つまり一生懸命働いている)人たちだ。つまり東芝の原子力部門は、本部から独立して関東軍化していたのだ。

トップがぐだぐだでも回り続ける

安倍首相の「立法府の長」発言も記憶に新しい。実際には党の人事を握ることで立法府をコントロールしているのだが、表向きは「関係ないから知らない」と言い続けている。安倍首相は多分自分が今何をやっているかわかっておらず、普段は官僚答弁を読んでいる。「でんでん」が話題になっているが、読み言葉としては意味が取れない。つまり安倍さんは国会で「答弁朗読マシーン」になっていて、読んでいる内容を理解していない可能性が高い。つまりボーカロイドでも構わないのだ。

日本の場合は安倍首相がめちゃくちゃでもとりあえず混乱なく(改革も進まず)粛々と動いている。日本は集団合議制の国であり、個人の意思決定など最初から信じていないからなのだろう。だから「アメリカが優れていて日本はダメ」というつもりはない。今、アメリカの空港は大混乱していて「誰に話せばいいんだ」という弁護士の質問に「大統領に話してくれ」と応えている状態だそうだ。アメリカのビザ要件はしょっちゅう変わることで有名なのだが、いくらなんでもこれは前代未聞である。

アメリカを理解すると日本がわかる

この集団合議制は日本にあっていたのだろう。日本と同じようなもたれ合いのある韓国は個人に権力が集中しかねない大統領制を導入してしまったために大混乱している。日本でも二元代表制はあまり機能せず石原慎太郎のような混乱が生じた。つまり、日本がとりあえず回っているのは集団合議制を採用しているからなのだ。

「決めすぎる国」を知ることは「決められない国」を理解するために重要なのである。

流行はどこからくるのか – その4つの起源

日本のファッションカラー100 ―流行色とファッショントレンド 1945-2013を読みながらファッショントレンドについて考えている。この本は日本の戦後のファッショントレンドを100集めているのだが、「よく覚えているなあ」というものばかりだ。特に終息がいつだったかは意識していないと収集できないのではないだろうか。

この本はいろいろなトレンドを扱っているのだが、そのソースは4つに分類できるようだ。

  • モード界由来
  • 憧れの対象由来
  • 不良グループ由来
  • 余暇由来

これにプロダクトデザインを加えるとほぼ全てのトレンドを網羅できそうだ。それぞれを詳しく見てみよう。

モード界

モードが流行の源泉になったケースはそれほど多くない。戦争が終わって「女性は女性らしく」という流れがあり、Aライン、Hライン、Yラインなどが提唱された。このラインを破壊したのが日本人で、洋服を脱構築して黒で洋服を再構成した。明らかに着物のような「巻きつける」系統の伝統がバックボーンにある。

政治に関心を持つデザイナーは少なくないがストリートの動きや反戦運動に形を与えるということの方が多いようである。意外とデザイナーが主導してデパートが広めるというような動きは少ないらしい。

憧れの対象

憧れは流行の大きな源泉になっている。日本人が最初に憧れたのはGHQで、流行をもたらしたのはパンパンと呼ばれるGHQに群がる女性たちだった。その後、映画が憧れの対象になった。最初は洋画が憧れの対象だった(サブリナパンツなどが流行った)が、太陽族という余裕のある学生も映画から憧れの対象となった。余裕のある学生が憧れの対象になるという流れはその後も続き「余暇を楽しむ学生」はファッション流行の源泉になる。人々は加山雄三に憧れ、バブル直前の原田知世・織田裕二ごろまで余暇を楽しむ学生は憧れの対象だった。

さらにアメリカの学生(有名大学の学生やそこに行くための予備校生)のスタイルが輸入された。最初はアイビーと呼ばれ、のちにプレッピースタイルになった。もちろん、こうした動きは日本だけのものではない。イタリアファッションも映画の中の衣装に起源がある。

日本ではよく見られる「アメカジ」だが、当然アメリカにはない言葉だ。面白いことにバブル期までロスアンゼルスに古着を買い付けに来る日本人は現地の人たちから嫌われていた。質の良いものを買いあさるので値段が高騰してしまうのだ。こういう買い付け人たちが再構築したのが「アメカジ」だったわけで、当然日本人が作ったある意味どこにもいないアメリカ人に憧れていたことになる。

不良グループ

逸脱も流行のソースになる。ロカビリーがブームになり、モッズが流行した。モッズはテレビに乗って派手になってゆく。これがビートルズやGSなどの流行につながる。GSはモッズだけではなく様々な流行を取り入れて派手になってゆく。

そのうち竹の子族という美的感覚に欠落がありそうな人たちが独自の流行を作った。裕福な若者がトラディショナルファッションに身を包んでいたのと同じ時期に竹の子族もいるといるという状態いだ。黒人のだらしない格好も音楽を媒介にして日本に伝わった。渋谷できっちりした格好が流行している一方でダボダボのパンツを履いている人もいるというのが流行の特徴だ。つまり、流行は二本立てになっていたことになる。

これとは少し違っている流れもある。厭世観の中でLSDに逃避する若者が作ったのが「サイケ」であり、そのあと、ベトナム戦争反戦の為に街で軍服を着ようというミリタリーブームがあったそうだ。

スポーツ

最初の流行はスキーだったようだ。そのあとマリンファッションが流行して「日焼けがかっこいい」という時代が長く続いた。それと並行して、レオタードなどのトレーニングウエアもファッションアイテム化される。余暇を楽しむ学生が憧れの対象になるわけではなく、余暇のスタイルが街にも持ち込まれるのである。いわゆる「陸サーファー」が典型だ。

スキーブームはかなり長く継続し、バブル時期の「私をスキーに連れてって [DVD](1987年)」の頃まではスキーが主流だった。「私をスキーに……」のスキー場は、志賀高原と万座温泉だそうだ。

ワークウェアがファッション化したように、スポーツアパレルもストリートに接近した。しかし、これが効きすぎたのか最終的には街でナイキのシューズを狩るという「エアマックス狩り」にまで発展した。エアマックスは1987年に発売された単なる運動靴なのだが、マーケティングの結果プレミアムがつき、暴力団の資金元になるほど価格が高騰したのだ。このようにしてファッションそのものが壊れていったのがポストバブル期だ。

流行そのものが崩壊したポストバブル期

バブルが弾けてもしばらくの間は「いつかは回復するだろう」という見込みがあった。しかし、ファッションは確実に崩壊していった。「健康」の象徴だった日焼けすら過剰になり最後は「ヤマンバ」と称されるようになった。つまり化物になってしまったのである。

裕福さの象徴だったイタリアファッションも水商売の男性の制服になった。最終的には日焼けした男性がベルサーチなどを着るようになり、穴の開いたジーンズを買うようになると、ファッションが「下流の人たちのもの」ということになってしまった。つまり、洋服にお金をかけるのはドロップアウトの証拠だと見なされてしまったわけである。

一方で比較的余裕のある人たちは「無駄な出費をせずユニクロで倹約するのが正しい」ということになった。ジーンズの裾が広がったり、パンツが細くなったりという変化はあるものの、流行そのものが崩壊してしまった感じがある。ファッションを追求すると世の中から脱落してしまうのである。

アパレル産業はいろいろな施策を打って流行を動かそうとしているのだが、ファッションアイテムだけに注目しても誰もなびかない。それを育てるコミュニティが重要なのだ。

流行を作るのはコミュニティ

日本の流行を見てゆくと、銀座、六本木、渋谷、原宿、裏原宿、表参道、横浜、神戸、湘南、苗場などといった場所に集うコミュニティが源泉になっていることがわかる。流行が消えた裏には集まって余暇を過ごす余裕がなくなっているということを意味しているのかもしれない。

Yahoo!知恵袋には「このアイテムを着るのは正解か」とか「これは今着ていても大丈夫か」という質問が多く見られる。本来ならリファレンスになっていたコミュニティが消えてしまったので、誰もが不安になっているというところだろう。もう20年近くも「減点型椅子取りゲーム社会」が続いているわけでファッションは仲間作る記号ではなく、外れている人を排除する記号として作用しているのかもしれない。

この典型がリクルートスーツだ。「服装自由」と言っておきながら、少しでも外れていると排除されてしまう。かといって、みんな同じ格好をしていると「個性がなくつまらない」と言われてしまう。かといって、誰も正解を知らない。

とはいえ、嘆いていても仕方がないわけで、現実はこれに即した動きになっている。

  • 40歳代から上はかつての流行を知っているので従来型のファッション雑誌が売れている。
  • バブル崩壊期に育った人たちに向けては、シンプルで飽きのこないスタイルが推奨される。かつてのセレクトショップが「ファミリー向け」のラインを出している。
  • それより下の世代には教科書型のファッション雑誌が売れるが発行総数は多くない。