好きなことをしよう

ということで、Twitterに渦巻く不満の1/10でも生産的な活動に充てれば日本はもっとよくなるだろうシリーズの最終回。今回は好きなことをしようというものだが、サブタイトルは「狭き門より入れ」だ。

これまでの考察をまとめる。経済が成長しない理由はいくつかあるのだが、経済が複雑になりすぎていることが要因の一つになっている。このため単純で簡単なソリューションが求められているのだが、それは今までの経済の延長線上にあるものではないだろう。

組織が大きくなるとオペレーションが複雑になるだけでなく、労働者がコントロールできる領域が減る。労働者は自分の興味のあることにしか一生懸命になれない。成長とは余剰の蓄積なので、自分のやりたいことを通してしか経済成長はできないということになる。やる気を外から操作することはできないし、できたとしても持ち出しになる。人が自治できるのは自分が影響を及ぼせる範囲だけなので、影響を及ぼせない範囲では努力を控えるか、あるいは奪い合いが始まることになるだろう。

つまり自分がコントロールできる範囲で「やりたいことを追求したほうが」みんなが幸せになれる可能性が高いということになる。いろいろ遠回りしたのだが、市場経済のもっとも基本的な価値観を再学習しただけなのかもしれない。自分が得意なことをやって、相手の得意なものと交換するというのが市場主義経済であり、これを国レベルまで拡張したのが自由貿易構想だ。

ところが、これがなかなか難しいのではないかと思う。

第一に日本人は自分の意見を持たない。自分の考えに固執せずに回りにあわせるほうがよいことが多い。例えば「あなたはどんな政治的な意見を持っていますか」といわれても「みんなが受け入れられるようなふわっとしたこと」しかいえない。そのため、そもそもやりたいことがないかあったとしても言語化できない人が多いはずだ。この現象は子供のころにはすでに始まっているらしい。日本人はSNSで創造的な発信が世界一低いという国際的な調査すらある。

次にやりたいことを実現するために必要なスキルがない人が多い。文章を書いたり、絵を描いたり、プログラミングをしたりなどするためにはある程度の技術の蓄積が必要だが、「嫌なことをこなせてこそ仕事でそれ以外は単なるお遊びに過ぎない」ということを言う人がおり、そういう人たちが暗黙のルール(文脈依存でしか使えないことも多い)を押し付けてくる。すると、やっていることがなんとなくつまらなくなってしまうのである。

これを超えても、誰か他人のために何かがしたくなる傾向がある。いわゆる「大義のために」何かがやりたくなるわけだ。この大義がなかなか厄介だ。自分の願望を混ぜ込んだ大義はたやすく暴走する。それぞれの道には伝統からくる自律性があるはずなのだが、伝統から切り離された大義はその自律性を欠いていることが多い。これを原理主義という。

まとめると、意識化・技術・自発性という3つもの関門をくぐる必要がある。その関門を越えてやっと、私はやりたいことがあるからあなたのやりたいことも協力してあげるというミューチュアル(お互い様)の関係ができるのだろう。

ということで、今一度「自分のやりたいことって何だろうか」ということを考えてみるのがよいのではないだろうか。議論がはじまるのはずっとその先だと思う。

森友学園とトランプ大統領に共通するもの

おもしろいツイートを見つけた。一連のツイートから見ると森友学園について言及している。

多分、誰かに反論しているのだと思うのだが、これ多分どちらとも間違っている。A→BではなくB→Aであろうと言っているのだが、AもBもCの結果なのだ。じゃあ、隠れたCって何ですかということになる。

さて、隠れた事象を見つけるのはなかなか難しそうだ。多分、実際にこういう硬直した教育観を持った人を身近に見たことがないと想像が難しいのではないかと思う。類推するしかないのだが、かといって決め付けてしまっても問題の本質が分からなくなりそうだ。

ヒトには共感作用があり、お互いに影響を与えることができる。ただし、この共感作用にはさまざまな能力が関係しており、それが先天的・後天的に損なわれると共感ができなくなるのではないかと思う。

教育は社会の寛容性を利用してよりよい社会に参加するメンバーを増やすと言う作業だ。つまり「良い」と思ったことに人は従うのだ。だが、これが分からない人もいる。共感というルートが使えないので無理に従わせると言うことになる。教育と虐待や強制の境目があいまいなのは、従わせるルートが共感か強制かという違いしかないからだ。

「相手を操作する」わけである。いろいろなルートがある。

  1. 規範に従わせる:先生がそういっている・法律がそうなっている
  2. こっちが得である:取引を持ちかける
  3. 私のことがかわいそうとは思わないのかと脅す
  4. 相手のほしいものをちらつかせて操作する
  5. 暴力を振るって脅かす

1が暴走しているのが日本会議である。そもそも国旗国歌の法律を作ろうとしていた運動体だと思うのだが、法律は憲法に縛られるということに気がついたらしい。だったら憲法を変えてしまえというように変質していったのだろう。子供のころから教え込めばいいだろうと考えている節もある。日本会議の特徴は「言うことを聞かせられなかったら、もっと偉い人に働きかけよう」と考えている点だ。つまり、行動によって影響力を行使できていないということで。多分これは行動が間違っている。

トランプ大統領は別の経路を使っている。取引を持ちかけているのだ。自伝の中で「取引自体が楽しいからやっている」と言っているそうだ。取引自体が自己目的化しているので、それに合わない事実はすべて「フェイクニュースだ」ということになっている。

ちなみに3番は共依存の持ち掛けである。相手のことを親身になって考えているようではあるが実は対象物としてしか見ていないという状態だ。入院した娘を放り出して別の人の世話を焼きに言ったのを見て「長年の呪縛が解けた」という話を読んだことがある。

さらに4番目がいわゆるサイコパスの中で最も成功する部類の人たちの類型だ。共感回路が壊れているので、却って相手の考えていることが良く分かるそうである。

最後は犯罪化しやすい。しつけの一環として虐待したという親がいるが、多分本当に区別が付いていないのだろう。

共感ルートが壊れた人たちはいろいろなヒントを落とすことがある。例えば「汚いものが受容できない」というのもその一つだ。なぜそうなるのかは分からないのだが、他人が「害をなすものだ」という認識があるようだ。相手はばい菌に満ちており、それを排除するために相手をコントロールしたいという欲求があるのだろう。

トランプ大統領は極度の潔癖症で知られるそうで、検索するといろいろなエピソードが出てくる。子供のころから攻撃的な性格だったようだ。森友の事例を聞いてこういう強迫的な性格の人は相手を汚いと考えて恐れるのだなあと思った。

この手の人たちには「相手の話が聞けない」という特徴もある。これは相手が言っている論理経路にしたがって自分の中で論理が形成できないことを意味している。ただし認知に問題があるのか「聞かなくていい」と思っているのかは分からない。本から知識を得ることはできるので「教育勅語」のような固定したテキストに自分のストーリーの乗せることを「分かった」と考えてしまう。コンテクストとか書いた人の気持ちなどは読み取れないからだ。

共感による影響力を行使できず相手も理解できないからこそ、固定したテキストを暗唱させるなどという無茶なことができる。例えば普通のキリスト教の学校では聖書を暗唱させてそれを事実だと教え込むというようなことはしない。聖書を事実として教え込む人たちをキリスト教原理主義などというが、アメリカでも白人の多い地域では増えているようである。

ここまで見てきたのは、日本でもアメリカでも共感を欠いた人が台頭してきているという現象だ。こうした人たちは毎日が闘争なので(闘争をやめてしまうと相手にコントロールされてばい菌を移される)競争に勝ちやすいという側面がある。

どうしてこういう人たちが台頭してきたのかは分からないのだが、少なくともアメリカがこういう人たちに侵食されてどうなるんだろうというのはこれから行われる社会実験でよくわかることになるだろう。と、同時に森友学園も早く小学校を作ればいいと思う。多分、硬直的な教育が子供にどういう影響を与えるかということが分かる社会実験になるだろう。

シナリオどおりに子供が育てばたいした問題にはならないだろうが、いったんいじめのように人間関係から起こるトラブルなどが発生すると対処できなくなるのではないかと予想できる。

最後に「相手の分析をして頭がおかしいというレッテルを貼っている」という批判があることが予想される。確かに安倍晋三はサイコパスだというつぶやきを見つけたことがあるがこれは安易だなと思った。反社会性人格障害という別名があるのでそれに引きずられたのだろう。安易なラベル貼りはやめたほうがよいと思うが、完璧に育った人などいないのだということも知っておいたほうがいいだろう。

つまり、私もあなたもなんらかの問題を抱えているはずなのである。ただそれを個性化させて昇華できるか、それとも周りを巻き込んで苦しみ続けるかということには大きな違いがあるはずだ。

Twitterの議論が絶対に生産的にならないわけ

Twitterの不満の1/10でも生産的な活動に向けたら日本はすごいことになるだろうということを考えていたら「わがこと圏」という概念に行き着いた。今回はこれを延長してTwitterの議論が「生産的にならない」わけを考えたい。

ここまで、日本人は社会を「われわれ」と「あなた」に分けているということを説明してきた。「われわれ社会」では利益の創造や蓄積と分配を行うが、わたしとあなたの社会では不利益の押し付け合いが起こる。つまり「あなた」が多い世界では生産性が向上しない。

これはわれわれの世界では蓄積した利益を分配してもらえる可能性が高いが、あなたの世界で利益が出ても分配してもらえないからだ。あなたの世界はわたし(あるいはわたしたち)の世界と競合する可能性が高いが、そうでなくても比較利益が得られる。だからつぶしあいに発展するのである。

現在のTwitterは「わたしとあなた」の世界である。大きな「あなた」はウヨクとサヨクだ。基本的に行われているのは罵倒合戦で、罵倒がTwitter議論の基礎をなしている。Twitterは相手を罵倒するコストが低いために、罵倒がエスカレートしやすい。最終的には社会的な死まで追い込まれることさえある。相手が社会的に死んでもTwitter民には何の利益もないはずなのだが、なぜか「飯ウマ」な気分になる。それはわれわれが幸せを相対的に計測しているからだろう。

利益分配のない世界はつねにいけにえを必要としているという結論が得られる。

Twitterが荒れるのは日本に特有の現象ではない。アメリカのトランプ大統領はTwitterの言論空間の特性をうまく利用して大統領になった。行き詰まった白人層の怒りが源泉にあると言われているが、必ずしも貧しい人たちだけが支持者ではなかったようだ。複雑さに耐えられない人が多いのだろう。

これを個人主義の社会でも弱者たたきが蔓延しかねないと考えるか、あるいはトランプ大統領が集団主義化しているのかという点は議論が必要だろう。トランプ大統領はユダヤ人の娘婿を重用し、娘と自らの事業に利益誘導するというようなことを行っている。これは身内をひいきする韓国(集団主義的な傾向が強い)の大統領よりもあからさまだ。だからこそ理念で結びついている個人主義の人たちが反対するのである。各地で「われわれの大統領ではない」という拒絶反応が起きている。

この議論を延長してゆくとアメリカもかつては集団主義的な価値観があったのではないかという考察ができる。ヴォネガットのスラップスティックの中にはさびしかったアメリカ人が人工家族を作るという話が出てくる。つながりをなくしつつあったアメリカ人が個人主義に移行する過程で拡大家族を志向するという物語だ。すると、社会が複雑化すると理念を中心にした個人社会に移行するかもしれないというシナリオが作れる。

その意味では日本社会はその過渡期にあるのかもしれない。一方アメリカ人が「われわれの集団を第一にしよう」という価値観を選択したと考えると、集団主義と個人主義はゆれうごきがある可能性もある。ヒトは社会的な動物なので個人主義には耐えられないということがいえるのかもしれない。

日本人がバラバラで価値を創造できないといっても、もちろんTwitterが悪いわけでも日本人が無能なわけでもない。東日本大震災の時にはTwitterで有効な情報が交換された。これは地震というショックのために一時的にTwitterがわがこと圏になったことを意味している。もちろん流言もあったが「落ち着いてくれ」という言葉もあり、ある程度自治があった。

つまり、わがこととして発言する分には日本人でも生産的な会話ができるわけで、これはつまり現在のTwitterにそうした意識がないことを示唆している。だが、これが必ずしも悪いことだとは思えない。日本人の一大事業といえば侵略してくるアメリカを打ち負かすというものだったが、これは破綻した。集団主義傾向の強い北朝鮮がどうなっているかを考えると、あまり良い道とはいえないのだが、自民党の憲法草案を見ると「もう一度国民が一つの夢を追いかけたい」という倒錯した願望が見え隠れする。自民党の憲法草案は、時代においてゆかれつつある政党の妄想ともいえる。

このシリーズを書き始めたときに「生産性を増すためにみんなで話し合いを始められたらいいのに」というような感想を見た、残念ながらこの状態での話し合いは何も解決しないだろう。そもそも話し合いをする素地がない上に、議論は相手をつぶすために行われているからだ。どちらかといえば、みんなが議論に参加すればするほど、生産性を下げる方向に進むことになるだろう。Twitterに参加している人たちには「自分のやりたいこと」がないのだ。

ということで、Twitterはそこそこにとどめて、各人が手を動かすことを始めるほうが生産的になれる可能性は高いということになるのではないだろうか。

政治とわがこと圏の縮小

前回のエントリーでは日本人は他人に関心がないということを論じた。多分保守を自認する人たちは嫌がる結論なのではないかと思う。ここでは政治とわがこと圏の縮小について考えたい。

安倍政権は政治家が官僚をコントロールしやすくするために人事権を内閣官房に集約したとされている。内閣人事局と呼ばれ、2014年に設置されたそうである。このとき野党から「官僚組織が機能不全に陥る」という批判があったそうだ。しかし、官僚組織は機能不全には陥らなかった。

この一連の議論は、日本人がどのように意思決定するかという根本に対する理解不足を露呈している。

かつて官僚組織は省庁とその植民地が「仲間」だった。これがサイロ化を生んでいるという批判があったわけだ。仲間とは、自分の意見がとおり、なおかつその成否が自分の生活に影響すると言う範囲だ。これまで家族と呼んできたが「わがことのように考える範囲」ということで、わがこと圏と呼びたい。運命共同体とかいろいろな言い方ができるだろう。

「官僚は所属する組織だけでなく国のことを考えるべきだ」という理想はわかるので、内閣に人事を一元化するのはよいことのように思える。しかしながらこれは2つの意味で間違っていた。もともと官僚が自分で影響力を行使して変えられる範囲は限られていて、国は単位としては大きすぎる。さらに政治家には「俺たちの意見を反映させたい」という気持ちがあり、これも官僚の意見を通りにくくする。意見が通りにくくなり、成果も分かりにくくなる。するとわがこと圏は縮小するのだ。

その結果起きたことが2つある。官僚が助け合う「人道的な」互助組織ができた。ここで天下り先を開発していた。生涯いくら賃金がもらえるかということが「わがこと」なので、こうした組織ができるのは当たり前である。文部科学省はかなり組織的に念入りな互助組織を作っていたようだが、こうした組織はほかの省庁にもあるのだろう。

確かに、内閣人事局ができたから天下りの互助組織が蔓延したという議論は乱暴なような気がする。民主党が「政権に乗り込んできた」ころから徐々に始まっていたのではないかと考えられる。もちろん国の組織の肥大化も一因なのだろう。

次におきたのは隠蔽だ。官房が決めたシナリオと違う情報は上げなくなった。どうせ責任は取ってくれないだろうし「単にどうにかしろ」といわれるのは目に見えている。

これが一番危険な状態で現れているのが稲田大臣の件だろう。官房が作った南スーダン派兵のシナリオは安全神話となっており、南スーダン政府が瓦解することは想定されていない。しかし現場からは悲鳴が聞こえる。行き場のない報告書は「なかったこと」にされたのだが、実際には防衛省のデータベースに残っていたそうである。

稲田大臣は防衛省をコントロールできていない。つまりシビリアンコントロールが利かない危険な状態が放置されている。これは防衛省本部にとって、現場も政府も「わがこと」ではないからなのだろう。稲田大臣は私が調査するといっているようだが、感情的に防衛省幹部を怒鳴りつけている絵しか浮かばない。

重要なのは、人を縛り付けて言うことを聞かせるわけには行かないし、お金を払って言うことを聞かせることもできないということを理解することだろう。「わがこと圏」が意見の流通を伴っているのだが、文化によって情報の流通には癖があるように思う。

組織には血液のように意見が巡っている。上から下に流れる意見もあれば、下から上に登る意見もある。これが非公式のルートで比較的上下格差なく流れるのが日本の特徴だ。非公式なのは、個々人の役割が明確ではなく非公式に構築される傾向があるからである。日本の組織にはジョブディスクリプション、ジョブレスポンシビリティとかアカウンタビリティにあたる概念がない。だから、誰がどんな「わがこと圏」を持っているかが分かりにくいのだ。

では政治家も含めたわがこと圏を作ればいいのではないかと思えるのだが、日本人は「同じ釜の飯を食った仲間」以外を信頼しない。「血縁以外でも家族を拡張できる」のが日本人の強みだという分析をした(例えば韓国は血縁が強すぎるのでたいてい大統領の家族が汚職問題で逮捕される)のだが、かといって経験を共有しないと「仲間だと認めてくれない」という側面もあるのではないだろうか。官僚にとって政治家は「あなた」に過ぎないのだ。

今回は、日本人にとって「わたしとあなた」関係は搾取と不利益の押し付け合いであり「われわれ」は利益の分配機能だという分析になっている。これが正しいとすると「わたしとあなた」になった官僚機構は余剰価値を生み出すことはないはずである。省益を奪い合い植民地獲得競争に明け暮れるようになるのではないかと予想されるのだが、これが正しいかどうかは表面的には分かりにくそうだ。前に寡占化した企業が現場と消費者を疲弊させるのではないかと言う軽い分析をしたのだが、同じようなことが国レベルで起こることになる。できれば外れてほしい予想だ。

最近気になっている別の事例がある。大阪の国有地が格安で森友学園に譲渡されたというのが問題になりつつある。これが本当だとすると、国有地もやり方さえ知っていれば格安で収奪できるということになる。報道によると補助金などを足し合わせると「学校で儲ける」こともできるようだ。

ここに参加している人たちは誰一人として「これはいけないことなんじゃないか」とは思わなかったらしい。自分の持ち場を果たしているだけで誰も総合的な判断をしていない。つまり「国の土地がどうなろうが知ったこっちゃない」ということになる。まあ、違法なら誰かが何とかしてくれるだろうというわけである。

豊洲のように集団無責任体制が大きな損失に発展しているケースもある。つまり余剰価値が生み出せないばかりか、不利益の押し付け合いと、富の収奪にまでつながってしまいかねないということになる。この予測ばかりは外れていることを期待している。

どこかで「こういうのはいけないんじゃないか」と正義感に目覚めた政治化が現れて魔法のように状況を改善してくれるという見込みを持ちたいのだが、こうした結論に至る筋書きを思い浮かべることができない。消耗社会に長く居すぎたのかもしれない。

日本人は他人には全く関心がない

西田昌司参議院議員と有志が「税金を安くして子供の数を増やそう」と検討しているという。この人たちは、いつも日本の伝統を取り戻そうなどと騒いでいるが日本人のことを何も知らないんだろうなあと呆れ果てた。

かつてあった「家族的な価値観」がよみがえれば、社会が俺たちの言うことを聞くだろうと思っている自民党議員がいる。憲法まで使って家族的価値観をよみがえらせようとしているのはそのためだろう。だがこれは皮肉なことに、彼らの政治的スキルの欠如の告白にしか過ぎない。つまり日本人をどうドライブするかということを知らないまま政治家になったのだ。政治家は決まりを作る人なので日本で一番えらいはずだという中学生のような見込みがあるのだろう。

このことを考えるためには「そもそも家族とは」ということを考えてみなければならない。家族とは社会保障と事業の単位が血縁で構成された集団を指す。血縁だけで自動的に家族が構成されるわけではない。日本の場合、血縁だけで家族が構成されることはなく、養子縁組して優秀な人をよそから迎え入れることも少なくなかった。結婚しても家に入れない韓国とは家族のあり方が違っている。このため血族集団は古くから記号化した。

こうして記号的になった家族は多くの集団のモデルになった。ところが国家が第二次世界大戦で家族を裏切り、企業がバブル崩壊で家族を見限ったために、残る集団は宗教だけになってしまった。

自民党の支持者が減少して公明党に依存しているのは偶然ではない。宗教団体だけが「家族的な」結びつきを持っているからだ。

第二次世界大戦でかつてあった事業体としての家族が崩壊した時の記憶はないが、企業の家族性が崩れてどうなったかということを体験している人は多いのではないか。この家族制度は終身雇用制度と呼ばれていた。

有名な松下幸之助の逸話がある。松下は宗教から経営を学んだとされている。リンク先のエピソードでは宗教と使命感の話が中心になっているのだが、ポイントは使命感を教団メンバーが共有しているということである。教団メンバーは奉仕を通じて宗教団体の運営にかかわるのだが、多分リーダーのいうことをただ聞いているだけではなく、下からの改善要求などもあったはずである。

つまり教団は「集団のことをわがことのように考える」団体のモデルになっている。この「わがことのように考えることができる」集団が家族なのだ。宗教団体にヒントを得た松下は家族的な経営を推進した。従業員だけでなく代理店も「家族的に扱う」ことで持続性のある企業を作ったのだ。

従業員は生涯松下に食べさせてもらうので、会社を「わが社」と呼び、社長を「親」だと感じる。そして会社のために尽くすようになる。こうして徐々に生まれたのが終身雇用制度だったと考えられる。日本の労使関係は対立が少なく「家族的」といわれることが多かった。

われわれが今体験しているのは、社会から「わがことのように考えられる」一体感が失われるとどうなるのかという壮大な実験だ。会社は労働者を搾取するようになり、労働者は自分が得た知識を出し惜しみするようになった。地域も崩壊しつつある。学校はPTAの労働力を使い倒すか、あるいは先生を土日に稼動させて「無料のクラブ活動」に動員させようとするという奪い合い社会になりつつある。日本人の「われわれ」の親密さの裏側にあるのは「私とあなた」の極端な冷淡さである。日本人は「あなた」を決して信用しないし、そもそも感心すらない。

「われわれ」が失われるとリソースの奪い合いになり、協力から得られるはずだった余剰利得も失われる。余剰理屈を蓄積したのが経済成長だと考えられる。

そもそも、自民党の暴走議員たちが「憲法で国民を縛って国家(それはつまり俺たちエラい議員のことなのだが)に協力させよう」と考えるのは、国民を「わがこと」のように考えていないからで、すなわち社会の荒廃の一現象に過ぎないのだ。

こうした社会では相手を動かすためには短期的な利益誘導をするしかない。そこで出てくるのが「税金を優遇して世論を操作しよう」とか「価格を下げて買ってもらおう」いうような作戦である。だが、短期利益で世論が誘導できるのは、財源がある場合だけなので、当然持ち出しになる。つまり、利益だけで誘導しようとすると、消耗戦になってしまうのだ。

最近ではふるさと納税制度が消耗戦を起こしている。二十三区の区長が「やめてくれ」というほど利いているようだが、流出を食い止めるためには「お礼」を増やすしかない。このようにお礼合戦がエスカレートするので「お礼」を転売する商売まで生まれている。税金で「われわれの社会を支えている」というようなマインドは日本人は持たない。それは、地域社会は「所詮他人事」だからである。

自民党議員たちは日本人がどのような動機付けで動くかと言うことを良く知らないので、家族的な価値観を強制するか、インセンティブで誘導するかという二者択一しか思いつかないのだろう。だから自民党は(多分民進党も)日本経済を成長させることができない。

では日本は宗教国家化すべきなのだろうか。日本人を大きな家族にするためには、一生を国家が丸抱えするような目的が必要だが、そんな目的は提供できない。あるとしたら戦争くらいだろう。

では終身雇用のような制度を導入するか、奪い合いによるダウンスパイラルが続くという二者択一しかないのかと思う人もいるかもしれない。もう一つのとりえる道は「目的」とか「理念」のもとに協力すると言う個人主義的な結びつきである。

だが第一に「私はこれがしたいから」協力してくれということがいえない。自分のやりたいことを宣言するのはわがままだと考えられてしまう上に、危険が多いからやめておけと言われかねない。

第二に、日本人は理念を持ちえるかという根源的な疑問がある。厚切りジェイソンが「日本人は政治的信条をテレビで言わないのに外人には政治的理念を聞くからずるい」というようなことを言っていた。個人主義社会に育った人としては当然の感情だろうが、日本人は「そもそもなぜ厚切りジェイソンが個人的信条を持っているのだろう」という点を不思議がるのではないか。

日本人は周りに合わせてそのときに得になりそうなことを言うのが正しい態度だと考えている。理念は文脈が持っているもので個人はどの文脈に従うかという自由があることになっている。ここであるポジションにコミットしてしまうことは「危険」でしかないのだ。

「日本人は他人に関心がない」などというと、自虐史観だなどと言う人が出てくると思うのだが、これを受け入れないと社会を成長させることができない。泣いても叫んでも人は「わがこと」のためにしか全力を尽くさないのだ。

集団が崩壊しつつある学校

「Twitterで渦巻いている不満が解消すれば1/10でも解消すれば日本は良くなるのでは」ということを書き始めたのだが、生産性の問題よりも組織の問題に目が行ってしまった。そんな目でTwitterを眺めていると学校と個人の関係が崩壊しているというケースが目に入った。

東洋経済の記事によるとPTAに参加したくないと言う親が増えているらしい。PTAにはいると労働を搾取されるからなのだろう。足抜けしたいのだが子供が人質になっているのでそれも難しい。そこで「じゃあみんなで抜けよう」ということになる。そのために使われるのが「権利としてのプライバシー」という大義である。

一方で親も搾取する側に回ることがある。土日のクラブ活動で先生が休めずに疲弊していると言う話がある。親は土日のクラブの継続をしてほしいと考えているらしい。なぜなら学校の活動は(親から見れば)た無料からである。つまり「利用はされたくないが利用はしたい」というのが日本人なのだ。

学校は「利用したり利用される」という取引に基づいた集団になっていることが分かる。できるだけ自分の持ち出しは減らしてあいてにかぶせたいというのが取引の基本である。

ここは家族的な集団が持っているはずの自浄作用がない。その自浄作用の正体は構造の上と下にある情報の流通なので「意見が言えるか」どうかで解析可能だ。例えば、家族的企業の場合「カイゼン活動」が下から上への情報伝達手段だったのだが、終身雇用制がなくなることで、こうした通路がなくなりつつある。同じことが企業や政府だけではなく、学校でも起こっているのだろう。

PTAには無駄な活動がたくさんある。新しい手段を使ってこうした無駄を省いてゆく(企業だと生産性向上運動)ことが可能なはずで、そうした知恵を持っているのは新しい世代の保護者であるべきだ。つまり、下から上への情報伝達手段が失われていることが問題なのだが、家族的な環境がないと「下からものを言いづらい」のだろう。

さらに厄介なことにこの「家族的」というラベルも「自民党改憲草案によると国家支配に使われる」という悪い印象が付いている。本来は自分らしくいられるところが家族なのだから、PTAを突き詰めてゆくと、保護者が自分たちも楽しめる取り組みを見つけてそれに子供も参加すると言うようなものが理想の形態と言うことになるのだろう。だが「他人の私らしくありたいという欲求を認める」というのは日本人が一番嫌いなことなので、こうしたことは起こりそうもない。

こうなってしまうと「あとは個人で何とかする」しかないといういうことになる。それは使いつぶされるか逃げるかと言う二択になる。すると最終的な答えは「殺される前に逃げろ」ということになってしまう。どうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からないが、考えるとどうしても「とにかく逃げろ」という結論になる。

だまされて疲弊された人は最後に宗教に利用される

Twitterで愚痴っている時間の1/10でも生産的な活動に結びつけば……の第三回目。今回は面倒な話題なので一部固有名詞抜きでお届けする。

前回は代理店システムについて観察した。代理店システムは忠誠心をお金と暖簾代(ブランド)だけで支えている形態のことだ。これが蔓延すると最終的に宗教が台頭するのだろうなあというのが今回の考察だ。

ある芸能人が突然辞めて騒動になっている。どうやら宗教団体の広告塔に使われるようだ。最初は切羽詰って脱獄したのだろうと思われていたのだが、手回しよく告白本が出されるらしい。日本の芸能人は基本的人権が無視された奴隷状態にあるようなのだが、そこから足抜けすることは難しい。だが、スポンサーとプロダクションが合体したような団体になら脱獄させることは可能なわけだ。今それができるのは宗教しかない。

なぜ宗教にそれができるかというと、ある一人のリーダーのもとで結束するからだ。つまりリーダーがあって信条があるという組織は日本にはもう宗教しかないということになる。とはいえ既存の宗教にはそこまで強烈なリーダーシップはないので、残っているのは個人崇拝に近い新興宗教のうちで、オウム真理教のようにテロ組織化しなかったところに限られる。

集団が利益だけで結びついたのが代理店方式である。代理店方式はインセンティブと暖簾(つまり信用のこと)だけを借り受けた契約なので、これが切れてしまうと統制ができなくなる。政党も基本的には代理店方式をとっている。顧客は自分で見つけてこいということである。だから本体が駄目になると離反者が出る。ちなみに正社員がいなくなった会社も社員が代理店化するだろう。代理店は本体のプロセスを改善する権限もないし意欲も持たない。

政党が代理店化した結果、有権者は無党派層になった。日本人は基本的に自分が作る小さな集団にしか興味を持たない。集団主義の国から見るときわめて冷淡な精神構造を持っている。代理店は本部に忠誠心を持たないので、そこを通じてつながっている人たちも本部に忠誠心を持たないのだ。

ただ、宗教団体だけは別格だ。自民党が公明党なしで選挙できなくなってしまったのは、宗教団体だけが集団として機能するからなのだろう。自民党の一部が神道を利用しようとしているのは自民党が公明党化すれば信者の心をつかめると信じているからなのだろう。ここに家族と言う集団を組み込んで国家的に統制しようとしているというのも特徴である。

GHQが入ってきて国家神道が崩壊したのは、GHQにいた共産主義者の陰謀でもなんでもない。国家神道は国民を利用したが、国民には必要な保護を与えなかった。日本人はそういう組織は集団として認めないというだけの話なのだ。

だから、自民党の改憲は破綻するだろう。日本人は自分の価値観に合わなければ家族にすら関心がない。これが集団主義の国とは違っているところである。かといって個人の意見を押し通すほど個人主義も強くない。すると誰かにすがりたくなる。これが宗教が台頭する素地になるのかもしれない。

政党の中で唯一宗教化したのがマルクス経を頂く共産党なのだが、これは宗教の要件である「家」が欠けていた。このため急速に衰退しつつある。今回芸能人を引き込んだ宗教も次世代の人たちをリクルートしようとしているのだろう。Twitterを見ると「生産性を食いつぶされている若い世代の不満」が渦巻いていることは明白なので「ブラック企業対策をすれば若い人たちにアクセスできるな」と考えているのは間違いがないだろうし、これは戦略としては合っている。

Twitterで渦巻いている……で目指したかったのは、こうした不満がポジティブな活動に結びつけば世の中は変わってゆくだろうねという見込みだ。しかし、個々の生産活動というのは、割と地味なものばかりだ。しかも普通の人は表現する手段(プログラミングとかのこぎりのひき方とか料理のやり方などなど)を持っていないので、かなり厳しい道のりである。

政党は不満の掬い取りにまじめに取り組んでいるとは思えず、政党は脱集団化している。企業も脱終身雇用化しているので、無党派と集団がよりよい取引だけで結びつくというデフレの形態を作りつつある。

そこで一生懸命に活動しているのは「他人をだまそう」としている人たちだけなのだが、宗教集団はそれなりの条件を備えている。今回のような事例は増えるだろうし、それにひきつけられる人たちも増えてゆくのではないだろうか。

ここまで一生懸命書いてきたのだが、この構図は「かつて来た道」だ。バブル後期には「企業に入っても私らしい生き方ができない」が「一生が決まってしまう」と考える学生が多くいた。そういう人たちがはまったのがオウム真理教などの新興宗教だ。彼らは急速に国家を真似た集団を作りマスコミや弁護士などを攻撃し始めた。最終的には地下鉄に毒ガスをばら撒きテロ集団になってしまった。最終的に分かったのは彼ら(学歴の高い人も多かった)が従っていたのは、他人をだますことをなんとも思わないサイコパス傾向のある一人の男だったのである。

弱っている人はさらに毟られる。だからこそ本来は「狭き門」を選ぶ必要があるのだ。

破綻する日本のサービス産業

Twitterに渦巻く不満の1/10でも生産性のある方向に向ければ日本はすごいことになるんじゃないかということを考える第2回目。本当はもう少し概念的なことを考えようと思ったのだが、ちょっと卑近な例を見つけたので、そちらを先に通すことにする。

家のものが携帯電話を変えたいと言い出したので、調べてみることにした。なぜ調べることにしたかとういうとNTT DoCoMoで電池パックを買うのに5時間待ちというのを経験していたからだ。知らないでうかうか携帯電話ショップにゆくと大変なことになる。ちなみに家のもののキャリアはauである。

日曜日にカタログをもらいに行ったのだが「カタログください」と店員に話しかけるのに1時間以上かかりそうだった。機種変については今日は受け付けられないかもしれませんという紙が張ってある。店の人に強引に話を聞いたら「午前中は機能の客を捌いていた」のだという。なんだか泣きそうである。ショップは明らかに疲弊していた。

人が足りないのは、auが代理店に渡す金をケチっており人件費が捻出できないからだと思うのだが、理由はそれだけではなさそうだ。携帯電話の機種の値段がどこにも書いていない。それにも理由がある。各種「インセンティブ」と抱き合わせになるので機種の値段がいくらになるか「買ってみないと分からない」のだ。

まあ、こうなる理由もわかっている。つまり、顧客に価格を明示してしまうと「じゃあ、余計なものいらないから安いほうで」となるに決まっている。言ってみればデフレが悪いのだ。こういう無駄なものにほいほい飛びつくのは若者と相場が決まっているのだが、今の若者には無駄なものにお金を使う余裕がない。新しいサービスが生まれないので企業は永遠の消耗戦を強いられることになる。その結果疲弊してゆくのは現場なのである。

そこで、ウェブに回ろうとした。auで機種変の見積もりを出そうと思ったら、IDとパスワードを申請してログインした上で各種割引を理解しなければならないようだ。IDはauの携帯電話で申請するそうだ。面倒なのでやめた。だから店頭に客が殺到するのだろうと思った。これに携帯電話に疎い高齢者という要素が加わる行列はもっと長くなる。携帯電話のキャリアはどこも客が捌ききれなくなっており、事実上破綻しているといってよい。

自然成長率という概念がある。産業を続けてゆくと資本と知的資本が集積するので放置しておいても経済は発展するとされているのだそうだ。これがかつては日本の場合4%程度と見込まれていたのだが、実際の成長率は3%程度だったそうだ。現在は人口が縮小しているので成長率は鈍化するのだが、それでも0にはならないはずだと考えられている。にもかかわらず日本の成長率はとても低い。どこかでロスがおきているはずなのだが「それが何なのかとてもいえない」というのが経済学者の合意するところらしい。

しかしミクロのレベルで見ると、壮大な無駄が起こっているのは明らかだ。料金体系をシンプルにしさえすれば代理店の待ちはかなり減るはずである。そうしないことで現場は混乱し、客も待たされる。つまり客の生産性すら奪われているということになる。だが、それを止めることはできない。

永遠の消耗が起こるの理由は明らかだ。誰も経済が成長するとは考えておらず、いわばバブル崩壊期の続きを生きているからだ。

ポイントはいくつかあると思うのだが、経済成長を誰も信用していないと言う点が大きいだろう。政府は間接的に信用を作ることはできるが、直接市場に働きかけることはできない。日本には信用があるとされているので通貨発行を増やしても価値が毀損することはなかった。だが、足元の国民がそれを信じていないのである。実際に「政府の金融政策についてどう思うか」と聞いてみると「私たちには関係がないし良く分からない」と言う人が多いはずだ。日本は臣民型政治ではなく「他人事政治」なのだ。

今回は携帯電話という卑近な例で「信用」を見ている。自分たちの生活が豊かになる確信がもてないから、誰も新しいサービスに飛びつかない。そこで価格競争を防ぐために料金体系を複雑にしたところ、生産性が打撃を受けるということになっている。すると携帯電話がほしかったと言う人まで排除されてしまう。まさに悪循環だ。

もちろん「信用」だけが原因ではないのだろう。同じようなことは運輸の現場や小売の現場でも起きている。みんなが忙しくなり深夜まで労働するようになると、それを支えるサービス産業の生産性が落ちてゆく。もっと単純な体系にすれば休める人たちは大勢いるし、もう少し生産的な活動にリソースを振り向けることができるようになるだろう。こうした産業には共通点が多い。

第一の特徴が寡占状態である。大手が生き残り顧客の奪い合いをやっている。全国的なインフラ網があり他社参入が難しいと言う側面を持っている。いきなり大手のようなサービスは作れない。次に、複雑な代理店方式をとっているのも特徴だ。最大のサービス産業は全国政党なのだが、これも代理店方式を採用している。日本の産業が行き着く最終的な形態なのだろう。代理店は忠誠心をお金と暖簾代(いわゆるブランド)だけで支えている点が特徴だ。

代理店方式は情報の流通と倫理に弊害がある。これを防止しようとして発展したのが終身雇用制なのだがバブル後にこれを放棄したことで、サービス産業の生産性が大きく損なわれているのではないだろうか。

日本のサービス産業は発展の最終形態に達している。多分このことが生産性の低下に結びついていることは間違いがないだろう。

日本の保守はどこにいっちゃったんだろうと言う話

ここ数日、政治っぽい話を書かないでプログラミングの話を書いていた。案の定アクセス数が減る。今のネットがどれだけ不満に満ち溢れいているかということを実感できるよい機会だと思った。今は「世の中はけしからん」と言う話に需要があるのだろう。これにはいろいろな理由があると思うのだが、比較的高い教育水準があるのにそれを生かしきれないことが背景にあるのではないかと思っている。

プログラミングしながら国会論戦を聞いていると無駄な議論が多いように思えてくる。現状を否認したまま「うまく行った演技」をしている人たちと、うまく行かないことを安倍首相に対して絶叫している人たちの二種類がいる。何が原因で行き詰まっているのかよく分かっていないんだろうと思う。稼ぎがなくなっただんなを奥さんがなじっていると言う図だ。そのうち奥さんも働かざるを得なくなり家庭がぎすぎすしてゆく。

議論の中に感情が持ち込まれているのも大きな特徴だ。稲田大臣は頑として自分の論を曲げようとしない。さすがにあきれ果てた民進党議員はそれをなだめすかしていた。後は、保育施設がないと詰め寄っていた山尾しおり議員と、北海道の鉄道が立ち行かないからJR東日本が支援するべきだと絶叫していた共産党議員が印象的だった。

働き方改革も揉めていた。政府は高技能の仕事を作ろうとしてホワイトカラーエグゼンプションを導入しようとしているのだが、残業ゼロ法案だと疑われている。だが、制度を作ってしまうと人件費を削りたい企業に悪用されることは目に見えている。つまり政府や企業に信頼がないので、改革は何も進まない。改革はすなわち誰かが損をすることなのだ。これを「不利益分配の政治」という。

こうした議論のあり方に違和感を感じたのはプログラミングをしていたからかもしれない。プログラムが動かない(あるいは意図したとおりの結果にならない)のには理由がある。だから動かないと小さなプログラムに分割したり、すべてを取り去ってから少しずつ戻してゆくというような方法をとる。「動かない」のはプログラマが間違っているからなのだが、プログラマを責めたりはしない。そんなことをしてもプログラムは動くようにならない。「会議するならデバッグしろよ」とみんな思うわけである。

プログラミングから学べることはいくつもある。すでにある込み入ったものをなおすより作り直したほうが早い場合があると。作った実績はあるので、前のものよりもよいものができる可能性が高い。今あるシステムをすべて再現しようとすると大変なことになるから、新しいものは単機能で簡単なのものになる可能性は高い。でも簡単で軽量のほうが使い勝手が良い。

今までのシステムを捨てて新しいやり方をするということに不安を覚える気持ちは良く分かる。だが、今までのシステムは大きく複雑になりすぎているので、修正が難しい。

不連続はリスクのように思えるが実はそうではないということになるのだが、ほとんどの人はプログラミングの例で説明されてもピンと来ないだろう。だが、日本には中国から受け入れた農業を基にした知恵がある。

例えば、子丑寅卯……と続くシステムは種ができてから枯れるまでの植物の動きを追ったものだ。このシステムが教えるところは簡単で、できたものはやがて枯れてしまうのだが、枯れたからといって終わったわけではなく、種ができるということだ。つまり不連続なように見えて連続しているということを昔の人たちは知っていたのである。

こうした伝統は最近まで保守の政治家も持っていた。例えば政界への影響が大きかった安岡正篤などはこういうことを一生懸命研究しており、つまり昭和の保守の人たちは「大きくなったものはやがて滅んでゆく」と言うことを学識レベルで知っていたはずだ。今ある枯れかけた木を生かすのではなく、種を取るか挿し木をしたほうが早いということが分かっていたことになる。

今では「軍隊を作らないと諸外国に征服される」というのが保守だと解釈されているらしいのだが、これは開国時のトラウマにすぎない。天皇を中心に一つの家を作るのだというのも行き詰まった戦争に国民を総動員するために無理やり作られた反応である。つまり、激烈な印象として残っているトラウマを保守と思い込んでいるわけだ。日本の保守はレスポンシブさにアクティブの仮面をつけているだけなのである。

現在支配的なのは「縮小の原理」だが、これもバブル崩壊後の急性期のトラウマが元になっている。終身雇用制度が支配的だったので急に業務規模の縮小ができなかった。5年くらい「人を切れば生き残れるのに……」という気持ちがあり、それが20年以上続いている。今ある木を急に枯らすわけにはいかないという気持ちは分からないでもないのだが、もうその時期は終わっている。現在は新しい苗を探す時期なのだ。

苗を育てるためには、一人ひとりが何かを作ってゆく必要があるわけなのだが、何かを作れる技術と時間を持った人はほとんどいないのではないだろうか。そうした不満がTwitterに渦巻いており、非難合戦が繰り広げられているのことになる。そのエネルギーの1/10でも生産につなげれば状況は改善するはずだ。しかし、今は何かを生産してもマネタイズする手段がなく、それは単に無駄なこととみなされる。

実はお金はうなるほど余っているのだが投資先がないとされている。日本人はお金を米のように思っている。つまり無駄に消費すると減ってしまってお腹がすくと考えているのだが、実はお金は回さないと何の役にも立たない。うそだと思う人は一万円札を食べてみるといい。このように意外と古いマインドセットは単なる思い込みである可能性が高い。

万物は一定の状態をいつまでも保っていない。その時々にあったマインドセットを持つことが重要だ。保守思想とはこうしたサイクルをまわしてゆくための知恵を持っていたはずなのだが、いつの間にか失われてしまっているのだろう。古いものにしがみつくのは、少なくとも農業国だった日本では保守思想ではなかった。だから本当は保守的な思想はもっと見直されるべきなのだ。

 

NHK大阪とオルタナティブファクト

べっぴんさんを見ている。大して面白いわけではないが、なんとなく時計代わりというかつなぎになっている。嘘もあるのだが、嘘ではなくファンタジーだと思えば気にならない。

これについて面白い感想を持っている人がいた。時代設定と学生活動家の扮装が合わないと言うのだ。単に設定ミスともいえるが、意味づけまで考えてみるとちょっと見逃せない点もある。

もともと日本の学生運動家はそれなりの意識を持って活動していたはずだが、時代が経つにしたがって「ファッション化」してゆく。専門的なことは分からないが、まだ切実さがあった時代を扱っているはずなのに、ファッション化しつつあった時代の学生運動家を扱っている点に違和感を感じているのではないかと拝察した。さらにひどいことに「冒険したいから一生懸命バイトする」などと言い出しており、大して反体制の意欲はないことになってしまっている。

ある意味これは普通の人たちが学生運動にもっている感想なのだと思うが(ヘルメットと角棒でなんかしてはるわ)やはり専門的に見ている人たちから見ると失礼なのかもしれない。

ただ、NHK大阪が<蹂躙>しているのはこれだけではない。ヴァン・ヂャケットの創業者について、闇市でふらふらしていた若者が十年経って戻ってきたらトレンドセッターになっていたみたいな話にしている。モデルになっている人物はもともと裕福な家の出で大学でもいろいろな遊びを経験した人だ。これが戦後アメリカの上流階級と接触しそのライフスタイルを日本に紹介した。その途中でアメリカ流のマーケティングが日本に持ち込まれることになった。つまりアパレル業界から見ると、この人物設定はかなり乱暴な改変なのだ。いまだに信者も多い人なので、NHKは誰がモデルになったか明かしていないはずである。

さらに今朝は使用人だった2名が「二人で冒険に出る」ことになっているが、これは使用人の死を扱わずに捌けさせるためだろうが、冷静に考えてみるとかなり乱暴だ。「最後まで面倒見ろよ」などとつっこんでしまった。

このようにかなり乱暴なドラマなのだが、NHK大阪が考証に手抜きをしているわけではないだろう。例えば「ごちそうさん」では食べ物に並々ならぬ関心があり念入りに時代考証もされていたはずだ。つまり専門的なことに対してはとても大きな関心があり、それ以外のことにはまったく関心がないということが伺える。

昭和の暮らしを描くということは、本来ならば専門家集団の考証が必要なはずなのだが、自分の守備範囲以外の点にはまるで興味がない。それだけではなく、自分の印象でいとも簡単に情報を操作してしまうのである。見ている人もアパレルとか活動かとか老人の行く末などには興味がないのでそれほど違和感を感じないのだろう。

ただし、学生運動に興味があった人もアパレルにはそれほど関心がないわけで「ほかの設定もめちゃくちゃですよね(笑)」みたいなことを指摘すると面倒になったのか「朝ドラには興味がありません」と返信してきた。まあ、専門分野には興味があるが、それ以外のことが分からないというのは特に珍しい現象でもないのだろう。

こうした視野の狭さは日本ではあまり非難されないし「専門的だ」として賞賛されたりするのだが、さまざまな弊害を生み出す素地にもなっている。例えばプログラマはプログラミングにしか興味がなく操作性の悪い仕様を運用側に押し付けたりする。営業もプログラミングに関心がなく「できますよ」などと気軽に言う。かつての日本の企業はこれを防ぐために正社員をローテーションしたりしていたのだが、正社員を削減した結果知識のサイロ化が急速に進むことになった。

専門性のわなについての事例には事欠かない。例えば大本営などはさらに悲惨で、現場で何が起きていても「よく分からないから」という理由で、仲間内の都合のよいストーリーを押し付けてしまうだけでなく、作戦が失敗すると現実を曲げ始めた。悪意を持って騙そうとしたわけではなく、当事者たちは「仕方がなかった」と思っているのではないだろうか。

NHKの朝ドラは「女の人が仕事をするのはとっても大変」ということを描きたいドラマだ。そこで受け手が興味を持つ点については念入りに考証するのだが、それ以外ことにはたいして時間をかけない。多分、日本型のオルトファクトというのは人を騙そうと言う悪意から生まれるわけではないのだろうが、結果として生じることがありえるのだろうし、多くの場合にはそれほど害もないものなのだろう。