すでに監視社会に住んでいる日本人

面白いつぶやきを見つけた。監視されていると感じることによって息苦しさを感じることを「パノプティコン」と呼ぶのだそうだ。

共謀罪の議論が明後日の方向に進みつつあるなと思った。この議論が難しいのは西洋のように個人が内心の自由を持っている国とそうでない日本に大きな違いがあるからだ。以降の議論は「そもそも日本人には内心の自由を持っていない」という前提で進める。

日本の会社に入ると大抵は飲み会に参加することになる。上司がいるわけではないが、居酒屋で愚痴をこぼし合う。しかしこれは懇親会ではなく、相互監視のための組織で「抜け駆け」しないようにお互いを監視しつつ、どの程度の行動なら許されるのかということを探り合っている。日本人にはこうした非公式のコミュニケーションパスがあり、例えば上司への稟議などもこうしたルートが使われるし、ここから排除されることで「根回しされていなかった」と騒ぎ出す。

Wikipediaを読む限りではベンサムの考えるパノプティコンの概念には、権威が貧乏でだらしない人たちを監視して、社会全体の幸福度を上げて行こうという考え方があるようだ。つまり、ベンサムは街でダラダラして貧困に落ち込んでいる人たちを「自己責任だ」と考えていて、監視しないと身なりを整えたり立派に働いたりしないダメな人たちだと考えていたことになる。つまり、内心にディシプリンがないから、彼らはダメなのだと考えていたようだ。しかし、日本人はディシプリンがないのに、社会的にはお行儀がよいことで知られている。それは、お互いを常に監視しあっているからなのであろう。

このディシプリンのなさとコンテクスト依存は時に大変な問題を起こす。二階派には有権者を大切にしようというディシプリンはなく、関心事は「誰がどれだけ偉くなれるか」ということだけだ。だから今村復興大臣が「東北でよかった」と発言しても誰も疑問に感じない。彼らにとって政治とは大臣の地位とそこで扱えるお金のことであって、東北の被災し者たちの相手ではないのでそれは当然だ。これが問題になったのは、記者という「コンテクストが異なる」人たちが失言を求めてたむろしていたからである。彼らの目的は政治家の失言を集めて視聴率を集めたり、名前を売ることなので、二回幹事長からすると「排除されなければならない」のだ。

このパノプティコンの考え方が否定されるのは、自分のことは自分自身が一番よく知っているので、他人からあれこれ指図されなくても、身を保ち得るし、社会全体としても高い功利が得られると考えるからである。実際には東ドイツはパノプティコン社会だったが、経済的には西ドイツとの競争に負けてしまった。

いずれにせよ、日本にこうした非公式な縛りあいの関係を見つけるのは難しくない。そもそも学校で友達同士の相互監視があり(先生は排除されるので告げ口すると嫌がられる)PTAでもお互いの目が光っており「私はこんなに苦労したのだから、次の役員も苦労すればいい」と考える。さらに引退すると自治会などの組織があり、お互いのライフスタイルについて干渉し合っている。

窮屈だという人もいる。例えば先生に縛られるのが嫌だという子供は先生に隠れてこそこそと自分たちだけの集団を作る。ではそこで自分たちの生き方を追求するかといえばそんなことはない。LINEで自発的な監視網を作り24時間監視し合うのだ。

ここまでで言えるのは「共謀罪」などなくても日本人はお互いに監視し合っていて、それに息苦しさを覚えているということだ。日本が監視社会なのは政府の陰謀ではないというのも重要だ。つまり日本人は「自発的にお互いを縛りあって」いるのだ。

では、共謀罪ができても社会は変わらないのかという疑問が出てくる。これに応えているコラムは多くないが、ニューズウィークに「共謀が罪なら、忖度も罪なのか?」というコラムを見つけた。つまりもともと相互監視的な性質があるので、ちょっとした変化があっても社会の雰囲気が一気に変わってしまう可能性があるのだ。つまり「単なる犯罪防止のために」とルールを変えてしまうと、非公式のコミュニケーションルートが過剰に反応するので、コントロールが不能になってしまう可能性が極めて高いのだ。冷泉はこれは「ハイコンテクスト」という概念で説明している。

この実例を見つけるのも簡単だ。内閣が人事を握るようになると、法令を破ってでも内閣の要望に応えなければならないという気持ちが生まれた。一方で、自分たちで「人道的に」就職先を作ろうという天下りスキームができた。これは内閣の指示が曖昧で成果が出しにくいにもかかわらず、数値目標で処遇が変わるようになってしまったからだと考えられる。今言われている「忖度」はハイコンテクストな組織の暴走なのだ。

ここから言えるのは「お互いが抜け駆けしないように監視し合う」内なる相互監視をやめない限り、パノプティコンは無くならないということになる。何もかも政府のせいにしてはいけないのでである。と同時に日本人が極めてハイコンテクストな(日本語でいうと「阿吽の」)社会に住んでいるという理解なしに制度を変更したり批判してはいけないのである。

知らずに自治会の役員なんかをやるとちょっと危ない? 法律の改正

いつものようにFeedlyを見ていたら政府広告が挟まっていた。個人情報保護法が変わるのだそうだ。もしかしたらニュースを見た記憶があるのかもしれないのだが、元来ぼーっとしたタチなのであまり意識していなかった。

ポイントは2つで、5000名以下の名簿も保護の対象になるということと、匿名化した個人情報の活用ができるようになるという点だ。後者はこれまでは統計データなら利用はできていたのだが、今後は統計処理しなくても個人の購買履歴や移動履歴などを活用できるということになる。活用というとよくわからないが、ぶっちゃけ「定期券を持っている人がどこからどこまで移動したか」という個人単位のデータを売り買いできるということである。マーケティングデータとしてはかなり貴重なものなので需要は高いだろうが、自分の購買履歴や行動履歴を勝手に売り買いされるというのはどうも「面白くないなあ」という気がする。こうした議論を恐れてか、広報ページの書き方は「公益」を全面に押し出した書き方になっている。

が、意外と見落とされそうなのが「5000名以下の名簿」の方である。タイトル立ては「5000名以下の個人情報を扱う事業者」となっているので、一般の人たちには関係なさそうだが、広報ページには次のようにある。

例えば、これまでは大勢の従業員を抱える企業や大量の個人情報を事業に利用していた企業などが個人情報保護法の主な対象でしたが、これからは中小企業や個人事業主も対象になります。また、個人情報を利用する事業が営利か非営利かは問われないため、町内会・自治会、学校の同窓会などにも、個人情報を取り扱う際のルールが義務づけられることになります。

つまり、自治会の役員を引き受けて名簿を作ったら「事業者扱い」されてしまうのだ。注意しなければならないことはいくつもあるが、管理にはこのような決まりが課せられる。

取得した個人情報は漏洩などが生じないように、安全に管理しなければなりません。

  • 紙の個人情報は鍵のかかる引き出しで保管する
  • パソコンの個人情報ファイルにはパスワードを設定する
  • 個人情報を扱うパソコンにはウイルス対策ソフトを入れる

など

Excelのパスワードの設定の仕方がわからなかったり、ウィルス対応ソフトが入っていなかったりすると、漏洩した時に「注意義務違反」になる可能性があるのだ。具体的には次のようなアドバイスがあるという。名簿を集める時に「親睦と連絡のために使いますよ」などということを明示した上で、了解を得る必要があるということだ。

そのため、同窓会名簿や自治会名簿を作成する場合には、①利用目的の特定(改正法第15条)、②利用目的による制限(改正法第16条)、③適正な取得(改正法第17条)、④取得に際しての利用目的の通知等(改正法第18条)、⑤第三者提供の制限(改正法第23条)等の個人情報取扱事業者としての義務を遵守する必要があります。これらの義務を遵守しているのであれば、従前と同様に名簿を作成することはできます。
なお、名簿を配布する先の会員が個人である場合には、個人情報保護法の適用はありませんが、会員に対して、名簿の紛失や転売をしないように注意喚起をすることが大切です。

もちろん、注意義務違反で直ちに逮捕されるということはない。しかし、注意義務違反が見つかった後で、監督官庁(個人情報保護委員会)の命令に従わなかったりして悪質性が認定されると、最終的には六ヶ月以下の懲役(または30万円以下の罰金)まで行くことがあるということになるようだ。逆に「いい加減な管理をしたから情報が漏れた」などというクレームも監督官庁へ報告することになるという。だが、現行法下で罰則を受けた事例はないとのことである。また、名簿が漏洩して、経済的な損出が出た時にも民事上賠償の責任が出てくることになる。

難しいことはわからないからパソコンでの名簿管理はやめようとする人たちもでてくるだろうが、そうなると手書きということになるので、あまり現時的とは言えない。今のうちに名簿管理ソフトのパスワード設定方法とか、ウィルス管理ソフトの勉強をしておくべきだろう。現在集めている名簿については取り直しは必要ないとのことだが、新しく取る名簿は適用対象になるということなので、五月末以降は運用に気をつけたい。

みんな仲良くと人権意識は相容れないのか

最近、コンビニや100円ショップのレジで違和感を感じている。が、記事にするほどでもなさそうなので今まで書かなかった。これを記事にしようと思ったのはある弁護士のツイートを見たからだ。この人の極端な意見ということではなく、これに賛同する人も多いらしい。が、アメリカのように本質的な理解が難しい多民族が混在して生活しているところで得た実感とそれを受け取る日本人の認識が一致しているのかはよくわからないところだ。

100円ショップでは、レジで虚空を睨んでいるお客さんをよく見かける。ちょっとした挨拶をすることが「面倒だ」と感じる人がとても多いらしい。そこで「こんにちは」などと言ってみるととても戸惑われたりする。特に若い人ほどこの傾向が強いようだ。都市や近郊では「相手はいないことにする」のがマナーなのだ。

だったらすべてセルフレジにしてしまえばいいと思うのだが、セルフレジはお酒を購入するための年齢確認や特売品の割引に対応していないらしい。が、セルフレジがもっと便利になれば「対面で買い物するのは面倒」と考える人が増えるのではないだろうか。

他人がインビジブルであることが前提になっている社会で、なんらかの接触が生じると、慌てて「なかったこと」にする人たちも多い。接触によってなんらかの感情が生じるので、それを解消するために自分が今まで話していた相手に話しかけるのだ。誰も話し相手がいない場合はスマホなどが話し相手になるのだろう。これを感じないのは犬の散歩をしている時だけだが、この場合、犬が緩衝装置になっており、同時に「同じものに興味がある」という安心感が警戒心を少しだけ軽減させるのだろう。

都市や近郊に住んでいる日本人にとって公共とは極めて不愉快な場であって、できるだけ自分たちの親密さが保てる村落に引きこもりたいと考えている。こうした考えかたは学校や職場などにも広がっている。つまり「みんなで仲良く」というのは誰の欲求も満たされない牢獄のような状態だということになる。

こうした公共を勝手に「不機嫌な公共」と命名している。

が、不機嫌な公共は民主主義の成立過程を考えると極めて違和感のある概念だ。民主主義はキリスト教圏で発展したので「私がしてほしいように相手を扱う」べきという認識がもとになっている。自分の意見を主張する代わりに相手の意見も聞くというような認識を持てないと、その先にある民主主義がよくわからなくなってしまう。つまり「公共は自分を殺す」のか「自分を活かすために相手の意見も聞いてあげる」と考えるのかで、社会に関する見方は180度変わってしまいかねない。

だが、冒頭に引用したツイートとその反応をみると日本人にとって公共とは抑圧の別の言い方にすぎず、誰もそれを疑っていないことがわかる。政治はさらにひどくて、公共とは人権を抑圧するための大義名分だと考えている政治家が多いようだ。

背景には、余裕を失った社会があるのではないかと考えられる。わかりきった仕事をこなすだけの時間しか与えられず、例外的な処理をこなす時間も、裁量も、知識もない。これが私生活にも広がっている。すると問題は放置するか誰かに押し付けるしかない。問題を起こさないためには、自分を殺して決まったやり方に従うしかない。こうしてどんどん個人の裁量が削られていってしまうのだ。

もちろんこの代償も大きい。不当な扱いをされたと感じた人が一度騒ぎ始めると歯止めがきかなくなる。透明な社会が前提になっているので「今後のお付き合い」を気にする必要などないわけで、であれば体面を気にしたり協調したりすることなく、法律や道徳などを盾にして自分の欲求だけを相手にぶつければいいのだ。こうした人たちはクレーマーと呼ばれるが、これがますます不機嫌な公共を拡大させる。だが、不機嫌で余裕のない社会で自分を通すにはけんか腰になるしかない。

この不機嫌な公共を念頭にしてTwitterの政治議論をみると、保守とは「不機嫌な相手を無理やり動員するために人権を取りあげてしばりつける」という考え方であり、革新とは「社会は不機嫌なので、汚いものから遠ざかる」権利の主張だということだということがわかる。

リベラルの視点から眺めると、彼らに政治的な提案がないのは当たり前だ。そもそも社会や公共は自分たちとは何の関わりもないことなので、そこに提案をしても意味はない。例えば民進党は不機嫌な人たちの注意を引くことはできても動員はできないので、政府への批判が票につながらないのだろう。野党が軽くなると、保守が増長し、ますます不愉快な決まりを作る。するとさらに不機嫌な人たちは怒り出し、社会から引きこもってしまうのだ。

こうした認識はかなり広がっているのではないかと考えられるが、これが続く限り現在のような政治状況は無くならないんだろうなと思う。

料理本と民主主義

Twitterを見ていたらフリーライター氏が料理本についてコメントしているのをみつけた。多分、仕事の宣伝か新しい仕事の獲得絡みだとは思うのだが、今の料理本はよろしくないと主張している。この中に「分量」や「火の通し方」について、経験がものをいうのであり「誰でもわかる(ような)書き方」になっているのはけしからんと書いてあった。

料理職人のようで面白い感想だなあと思った。料理本のレシピというのは実はかなり民主主義の浸透と深い関わりがあるのだが、これはイデオロギーベースというよりも庶民の実感に基づいているように思える。一方で、技術の囲い込みというのも極めて村落的な感覚で「自分が獲得したものを教えてしまうと搾取される」という恐れが残っている。村落は発展ではなく維持存続が目的化した社会なのでこうした感覚が生まれることになる。ここから民主主義は成長を前提としたイデオロギーなのだということがわかるのだ。

もともと日本の料理本は料理人から聞いた通りを掲載していたようだ。しかし料理人は細かな情報は伝えようとしなかった。やはり自分たちが苦労して獲得したものを簡単に人に教えたくないという気持ちがあったのだろう。

ところが戦後になると、料理の作り方を詳細に記録したレシピが出てくる。料理の手順を写真付きで載せた「暮しの手帖」を題材にした朝の連続ドラマが有名だが、香川綾と岸朝子の「大さじ・小さじ」もよく知られている。産経新聞に掲載された岸朝子のインタビューによると、料理を計量する体系は香川が発明し戦前から使っていたが、岸朝子が本格的に広めたということになっている。巷では岸朝子が「大さじ・小さじの発明者である」という認識が広がっているようで、そのように書かれた記事が多く見つかる。

なぜ「みんながわかるような」料理のレシピが作られたのかということはあまり語られていない。飢餓を経験したすべての人が食べることに関心を持っていたというのは間違いがないのだろうが、雑誌編集者たちが「暮らしにまつわることであってもすべての人が正しい知識を持たなければならない」と考えたことも大きかったのではないかと思われる。第二次世界大戦は情報統制と暮らしの破壊だったので、その揺り戻しとしての側面があるのだ。

こうした動きが民間から広まってのちに政府を動かしているというのは着目すべきポイントだろう。アメリカの圧倒的な豊かさを目の当たりにして、すべての人々がきっちりとした生活の知識を持たなければ豊かにはなれないという認識が生まれたのではないだろうか。つまり、国力は国の軍事力や企業の力ではなく、民衆一人ひとりの知識にあるという認識が生まれ、そのために情報の標準化が行われたというわけだ。

確かに「料理には勘や経験」が必要なことは間違いがなく、レシピがあるからといってその通りに作れるというものではないかもしれない。しかし、分量を標準化すれば誰でも簡単に料理を学べ、それが家庭の活力につながり、さらにそれが社会の豊かさにつながる。つまり生活こそが大切であるというイデオロギーである。明治政府は家庭を国家統治の道具だとみなしたのだが、戦後の日本人は豊かさの追求こそが家庭の目的であると考えたのだ。

まあライターの人が新境地を開拓するために今のレシピ本をdisるというのは他愛もないことなのだが、現在の政府のやり方を見ていると、情報を隠したり嘘をついたりして自分たちの身を守ろうという話があまりにも多すぎる。つまり情報の大切さが見落とされている。企業もできるだけ人件費を抑えるために、労働者にあまり知識を与えず単純な労働ばかりをやらせようとする。それだけでは生産性が上がらないので、長時間労働がまかり通るという具合である。豊かさや強さがどこから生まれるのかという認識が根本的に欠落しているのだろう。

さらに、豊洲移転の問題を見ていると、東京の人たちが、本来自分たちが持っていた豊かな魚文化をそれほど大切にしていないことがわかる。国を憂うような発言をする人ほど「魚なんかどうでもいい」とか「築地はアジア的な汚らしさで恥ずかしい」などと言っている。

伝統を源泉とする豊かさが国の強さにつながるという認識が今の保守の人たちの頭の中から全く欠落している。とても嘆かわしいことだ。代わりに彼らが熱中するのは、ビデオゲームのような戦争ごっこだ。いわゆる真の保守と言う人ほどこのような「大きな絵」を語りたがる。

戦後、我々の先輩が敗戦の中から学んだ「正しい情報や知識が社会の活力を作るのだ」という真摯で謙虚な姿勢をもう一度思い出すべきなのではないかと感じる。

いずれにせよアプリで簡単に料理レシピを検索できて、作ったものを相手に見せられるというのは、なんでもないことに見えて日本に民主主義が根付いているという証なのである。

働き方改革を論じたければバラバシを読もう

昨日は「プログラマーとして成功したければ海外に出るべきだ」と書いた。賛成してもらえたかどうかは全くわからないが読んで頂いた人は多かったようだ、なんとなく「ああそうだな」と思った人もいるだろうし、反発した人もいるかもしれない。日本はもうだめだと思っている人は「やっぱり日本はダメなんだ」と考えてなんとなく安心感を感じたかもしれない。

観測としてはただしそうだが、少しだけ理論的に考えてみたい。理論が話からければ批判もできないし、対応策も見つけられないからだ。

収穫加速という理論がある。発明はさまざまな基礎技術に基づいて成立するのだが、基礎技術が充実すればするほど、あるアイディアが現実化する時期は早まるという理屈だ。こうしたことが起こるのは、知識がネットワーク状に連携しているからだ。

このように、ネットワークの価値は点の数と点の結びつき(線)の数によって決まる。やみくもに広がっているネットワークには、実は中心と周縁があり、中心にいたほうがなにかと有利になる。

例えば、ITの場合は日本語で得られる知識は英語で得られる知識よりは少ないはずだ。ここで重要なのは、その有利さはプログラムの価値だけに止まらないということだ。効率的なプログラミングができる人がいると企業の生産性が向上する。企業は有利に競争できるのだから、英語で情報が取れる会社のほうが勝ち残る確率が高まる。良い顧客が残ると、プログラミングの会社はさらに良い顧客に恵まれることになる。するとプログラマの給与が高くなり、さらによいエンジニアが集まる。よいエンジニアが集まるとその周りには学校が作られ、よい先生が集まり、収入アップを目指す生徒が押し寄せるという具合である。

こうした「中心と周縁」の形は日本人が考えるものとは違っているかもしれない。日本人は中心と周縁をピラミッド状に捉えることが多いのではないだろうか。例えば自動車産業は顧客網を持っている大手メーカーがトップに立ち、その裾野に多くの部品産業が集積するという形をとっている。また、広告代理店はテレビ局の枠を買っているので、他社よりも安い値段で広告を売ることができるし、テレビ局も顧客を握っている広告代理店を頼らざるを得ない。

ピラミッド型の場合、知識は頂上に蓄積されてあまり流通しない。例えばマクドナルドやコカコーラの収益の秘密は本社が握っていて、周縁の人たちの賃金はあまり高くない。

しかし、プログラマの場合そうはいかない。知識はネットワークのそのものに溜まっている。具体的にはプログラマ個人とそのつながりである。その「すべり」をよくするためには、粒をそろえておく必要がある。つまり最低賃金でプログラマを使い倒すようなことはできない仕組みになっている。

日本では「最低賃金を1500円にしろ」という運動はあるが、技能労働ができるような職場やフリーランスの環境を用意しろというような運動は行われない。それは労働者自身が自分たちが最低賃金で働くだけの技能しかなく、それ以外の職業機会もないということを認めていることになる。だれもが中心になれるわけではないので、当然ながら数としては、周縁の人たちが目立つことになる。

一方で政府の側も政策的に最低賃金の仕事を量産している。アベノミクスを労働の側面からみると正規雇用を非正規に置き換えて行くという動きなのだが。これはバブル期以降の企業のマインドがそうなっているからだ。収益が見込めないので人件費を削るしかないと考えているのである。これが足元の労働市場を荒らしている。イオングループはアベノミクスは幻想だったと言い切り、自社ブランド製品を値下げするそうである。収益の悪化は従業員の賃金に影響を与えるはずだ。

官僚や政治家の情報源は、旧来型の製造業と運輸や小売などのサービス業なので、知識ネットワークが競争力の源泉になるような職業を念頭においていないのだろう。

今まで見たことがない現象を理解するためには、表面の制度(例えば高度技能移民を増やすとか、最低賃金をあげるというような類だ)を見るだけではだめで、その裏に何があるのかを理解する必要がある。

とても難しそうに見える「ネットワーク」の振る舞いだが、2008年ごろに「複雑系」として話題になった。中心にいるのは、ダンカン・ワッツやバラバシなどである。ちょうど、労働の国際間移動が経済を活性化すると言われていた頃である。

なんとなく話だけきいても良く分からない複雑系やネットワークの議論だが、基本的な考え方が分かりやすく解説されている。

「各国では移民の制限が始まっているではないか」という声が聞かれそうだが、高度技能移民を使って産業競争力をあげた国々と、そうでない日本では状況が全く異なる。いわば周回遅れを走っているわけで、同じ土俵で議論することはできないのではないだろうか。

このネットワーク理論は例えば「なぜベータはVHSに負けたのか」という考察にも使える。クリステンセンなどが「バリューネットワーク(リンク先はITメディア)」という理論を使って説明している。これも応用編だけ読むと「なんとなくそういうものかなあ」というだけで終わってしまうので、理論的なところを読んでおくといろいろな考察に使えるのではないだろうか。

百田尚樹という割れ窓

百田尚樹という作家が「朝日新聞の社長を半殺しにする」とツイートして世間の反発を買っている。これを読んで「どうしようか」と考えたのだが、とりあえず世論に同調することにした。

考え込んでしまった理由は、もし「百田尚樹は目の前から消えろ」という声に同調すると、自分にも戻ってくる可能性があるち考えたからだ。世論が「何が正しくて何が正しくないか」を決めて反論も許されないというのはあまり愉快な体験ではないだろう。

では、百田尚樹的なものがこのままTwitterに残ってもよいのだろうか。それを考えるためには、そもそもTwitterが何のために存在するのかを考えてみる必要があるだろう。

つい忘れがちになりそうになるのだが、Twitterは営利企業で、その収入は広告のはずである。つまり、ヘイトスピーチや事実に基づかない言論が跋扈することになると、よい広告主が集まらなくなる可能性が高いのだ。Twitter側も荒れ果てた2ch状態になったサービスを温情で運営し続ける必要は全くない。電話や郵便のような「ユニバーサルサービス」に慣れているので、受益者は努力しなくてもプラットフォームが維持されるものだと思いがちだが、実はそうではないのである。

どうということのないおしゃべりに使うことが多いTwitterだが、時々災害インフラとしても役に立つことがある。またマスコミの情報もTwitterでの補足があって初めて理解できるような状態になっている。つまり、このサービスは公益性が高いが、実は民間がプラットフォームを提供している、という珍しいサービスなのである。

公益性が高いが私的に運用されているということは、それを整備するのも参加者の仕事ということになる。参加者が2chのような荒れた雰囲気を望めばそれなりのコミュニティができることになるし、道徳水準をを高めに設定することもできる。道徳水準が高い方が、よりよい広告が集まりそうだが、これはショッピングモールと同じ理屈である。寂れた地方のシャッター通りにやコンビニの前ではヤンキーたちが集まり、きれいなショッピングモールにはそういう人たちはやってこない。

問題なのはネトウヨさんたちというヤンキーの集まりが「変なゲーム」を仕掛けてくることだ。大通りで「あいつマジ気に入らないから、なんかあったら半殺しにしてやる」と叫んでいるのだが、そういう人たちが多く集まると「もしかして居心地のよい空間を探すというのは個人のわがままなのかもしれない」などと思ってしまう。それどころか「自分の主張がなぜわがままではないのか」ということを議論しなければならないような気持ちに落ちってしまうのである。

だがよく考えてみるとショッピングモールに百田尚樹的な人がいたら、多分かなり白眼視されるはずで、別になぜその発言が不適当なのかを証明しなければならないようなことではないのではないだろうか。

ニューヨークの市長が割れた窓を修繕することで街の治安を回復したという話がある。つまり、居心地のいいコミュニティを維持するためには、一人ひとりのちょっとした心がけが必要だ。百田尚樹さんがというより、百田尚樹的なものはいわば我窓であり、見つけ次第塞がなければならないのではないだろうか。

テレビのように、無責任な発言でもとりあえず数字が取れればいいというメディアのことはよくわからないが、ネットは記録が残るメディアであり双方向性もある。テレビの常識はネットでは非常識だし、多分近所のカフェからも追い出されるレベルなのではないかと考えられる。そこで変なゲームを仕掛けられてもそれに乗る必要など全くないのだ。

PTAと日米文化の違い

菊池桃子さんのPTAは働く親にとって負担が大きいのではないかという発言が支持を集めているという記事を読んだ。日本ではPTAというと、タダ働きを押し付けられて気苦労ばかりというイメージが強い。もともとはGHQが押し付けた制度なのだが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

まず、これはアメリカの制度なのでアメリカでも問題が起きているのではないかと考えた。確かにPTAには加入しないでPTOを作る学校もあるということで一定の不満はあるようだ。PTAは全米的なピラミッド型の組織になっているようだが、それはいやだという人たちがいるのだろう。

ではPTAやPTOはアメリカでも嫌われているのだろうか。

これについてはアメリカ暮らしを経験した日本人がいくつかの体験談を書いている。まずPTA/PTOはそれほどの負担を求められない。どちらかというと「学校の教育に参加する権利を買っている」という側面が強いようだ。それだけではなく「PTAが寄付を募って先生に渡す」ということすら行われているという。つまり、無償労働だけではなく経済的なサポートもPTAやPTOの役割になっているようだ。これには教会のような寄付文化に慣れているという事情がありそうだ。

大きく違っているのは「アメリカ人はいやなことやメリットのないことはしない」という点である。このためそもそも「自発的に発生した集団でいやいや何かをやる」ということが存在しえない。

PTAに入ると学校の事情がわかり、寄付を通じて学校教育にも参加できるというのがメリットだ。その他、保護者との関わりを持つことができて「コミュニティに参加できる」こともメリットになっている。一方、活動に参加してもそれほど負担になるようなことはないという。

一方日本は強制参加であるうえに一部の暇な保護者たちや実力者に「タダ働きを強制される」ということになっている。中には親と学校の揉め事の仲介者として気苦労を背負わされるということもあるようである。誰がタダ働きを強制しているのかということは実はよくわからないが、先生や教育委員会と心理的に癒着してしまった上層部の人たちが「あるべきPTA像」という空気を押し付けてくるのが日本のPTAということなっている。

この裏側にあるのは「コミュニティに参加はしたくないが」「何かあったら自分の主張を押し付けてくる」人の存在である、いわゆるモンスターペアレントだ。普段から保護者たちとの間に親密な関係があればよいのだが、実は集団の中で孤立するケースは日本の方が多いのではないかとすら思える。

日本でPTAをなくすと多分「言いたいことがある時だけは騒ぎ立てるが、普段は何も協力しない」という親が増えるのではないだろうか。政治を観察するときに「消費者型の有権者」という絵が観察できるのだが、日本人のコミュニティに関する考え方を如実にあわらしている。自分たちが公共を運営して問題も共有するという意識は極めて希薄なのだろう。

そうはいっても「協力したくても協力できないのだ」という親も多いのかもしれない。それは会社組織が学校と同じようなフルコミットメントを求めるからではないかと思った。つまり働いている親は「会社という村」に所属することを求められ、その監視網に置かれる。その上保護者のネットワークに組み入れられてLINEで24時間監視されるようになると神経が持たなくなるのだろう。「どちらもほどほどに」というのは日本人にとって極めて難易度が高い。

この問題を考えていて興味深いのは「わがままな個人主義」であるはずのアメリカではチームワークを発揮してコミュニティが運営できるのに「集団主義で和を重んじる」日本社会の方が集団で孤立感を感じやすいのかということである。

最近「日本人の規範意識」について考えているので、ついその線から分析したくなってしまうわけだが最後にちょっと触れたようにコミュニティの関係が緊密すぎるという問題もありそうだ。「どうしてこんなことが起こるのか」ということを一度整理して考えてみるのも面白いかもしれない。

なおアメリカの学校の方が優れているというように取られてしまうと誤解を生むのでいくつか問題点もあげておきたい。給食が著しく貧相だったり、地区の財政により教育の内容に大きな格差があったりもする。公立学校は予算の捻出に苦労しているところも多いのではないかと思う。さらに最近では銃の問題があり学校で度々殺人が起きている。あくまでも日本のコミュニティを考察する上での参考であって、アメリカの学校制度の方が優れているなどというつもりはない。

有名人がTwitterで絡まれるのはなぜか

Twitterで有名人が絡まれるのをよく見かける。そこで「絡まれるにはメカニズムがあり、そのメカニズムを解明すれば、絡まれることはなくなるだろう」と考えた。だが、いろいろ考えてみて「やはり有名な人が絡まれないようにするのは難しいんだろうなあ」と思った。今回は最終的に教育勅語の話に着地する。

有名人が絡まれる背景にはどうやら「単純化」と「情報の追加」があるらしい。140文字は少ないので言いたいことがすべて伝わらない。そこで、曖昧な部分を脳内で補強するらしい。すべてを網羅的に観察したわけではないので、単なる思い込みを含んでいるかもしれないが、党派性が起きているように思える。つまり、あらゆる人たちは白組と紅組に分かれており、ある意見を提示しただけで、受け手の脳内で「この人はどちらの味方か」という分類が行われるのではないかと考えられる。

例えばトランプ大統領のシリア攻撃を「適切な判断だった」というと、自動的にトランプ大統領の他の政策にも賛同しているように見えてしまうという例がある。その人が様々な情報を流して立体的な判断をしようとしていたとしても御構いなしだ。表現の自由のために戦っているように見えた筒井康隆がリベラルを侮辱する(あるいは体制側に賛同するように見える)メッセージを発信すると、それが今までの立場を「全否定」したように見えてしまうということもあるだろう。

いっけん、単純化されているように見えるのだが、よく考えてみるとすべての事象について「右か左か」というソーティングがされているのだから、かなりの情報量がないと成り立たないことがわかる。すべての事象を「右と左」に分けていて、それを常に確認し合っているからだ。つまり、単純化だけではなく情報の付加が起きているということになり、なおかつ頭の中には様々な人間関係が整理されていることがわかる。

日本人の「関係性」に対する執着の例を卑近なところで挙げたい。アメリカのドラマのウェブサイトには日本ではおなじみの相関図がない。彼らはドラマをプロットで説明する。しかし日本人はプロットにはそれほど興味がなく、誰と誰がどんな関係にあり、それがどう変化するかということに強い関心を持っている。そこでドラマのウェブサイトには欠かさず相関図が出てくるのだ。日本人は、誰がどの党派に属するかによって、その人の意見が読めると考えるのである。こうしたことは政治報道でも起きており、政策よりも派閥の動向により強い関心が向けられることになる。

つまり、日本人は、集団に属する人間には個人の考えというものはなく、どの党派に属するかということさえ分かればその集団の考えが自動的にその個人の考えになるとみなしていることがわかる。

以前に「交流分析」を見たときに、人間を、理性、感情、スーパーエゴに分けるという整理方法を学んだのだが、ここには「党派」という全く違ったパラメータがあるのではないかと仮説できる。まあ、思いつきレベルだがいちおう絵にしてみた。

党派性が強い人は、あるその党派を認めてしまうと、自動的にそこに従わなければならないという前提が生まれるという仮説ができる。だから、自分の中の何か(それが感情なのか、理性なのか、スーパーエゴなのかはわからないのだが)とコンフリクトを起こすので、それを認めるわけにはいかないということになる。

この疑問を考えたときに「なぜ僕は絡まれることが少ないのだろうか」と考えたのが、それは文章がうまいわけではなく、権威ではないので「否定しなくてもべつに構わない」からではないかと思った。つまり、どこにも属していない個人の考えというのは、ないのと同じなのだ。

が、商業雑誌で活字になったり(それが例えばWillやSPAであっても)権威となるので、それを認めるわけにはいかないということになるだろう。つまり、有名になることで権威性を帯びてしまうので、攻撃の対象になるということになる。これは防ぎようがないから「無視するのがよい」ということになる。

まあ、ここまでは他愛もない分析なのだが、いくつかの派生的な観察が出てくる。

第一に「安倍政権を倒せ」という党派性の高いメッセージは発信しないほうがよさそうだ。「この人は立場的にそう言っているのだな」と思われて、あとの客観的な事実はすべてスルーされてしまうだけだろう。客観的に事実を並べて、相手に投げたほうがよさそうだ。

逆に、安倍政権側も党派性の強い考え方を国民に押し付けようとしている。日本人はそもそも内的な規範ではなく村落的規範(ここでは党派と言っているが、他人様の目といってもよいだろう)によって制限されているので「共謀罪が成立したから言いたいことが言えなくなった」ということはありえない。そもそも最初から「個人が言いたいことなど言えない」社会なのだ。

だが、それは相互監視によって文章にならない規範によって支えられている。それを言葉にしようとするといくつかの問題が起こるのだろう。それは「個人のアイディアは聞いてもらえないので、誰からも文句が出ない権威」が言葉を発するべきだということと、実際に自分の中を掘ってみてもそれほどたいした規範意識は出てこないということである。

そこでできた貧相な規範体系が例えば教育勅語ということになる。西洋には立派な規範体系があり、そのカウンターとしてでてきたのが教育勅語だが、結局は「親を大切にしよう」とか「みんなで仲良くやろう」などといった、村のおじさんたちが酔っ払って子供に諭すようなことしか出てこなかった。しかし、権威づけは必要なので「いざとなったらお国のために命を捧げるんだぞ」という言葉をつけて終わっている。

本来は個人の意識(それは感情などの無意識を含んでいる)を抑える役割を持っていた規範意識を自分で操作できるぞと思ってしまったとたんに、歯止めが利かなくなる。つまり、人間で言うところのスーパーエゴの暴走が起きてしまうのだ。これが国家レベルで行われると、植民地の無制限の蹂躙ということだし、個人レベルでは「本当は理解していない保守主義」という党派規範を身にまとい、個人のエゴを暴走させて、他人を貶めたりする態度につながってゆくということになる。

「そんなことはない」という人もいるかもしれないが、教育勅語を信奉する人たちは内的な規範を持っていない。首相は平気で嘘をつくし、気に入らない子供は虐待される。さらに、危なくなったら「俺は知らなかった」といって仲間を裏切る。これらは内的に規範が作られていない(つまり親が弱い)ことを示している。だからこそ、集団の規範体系によって相手をコントロールしようとするのだろう。

つまりネトウヨというのは、戦前回帰ではなく、西洋流の規範意識を理解できないままでいた人たちが個人のエゴを暴走させている状態に過ぎないということが言える。その筆頭でエゴを暴走させているのが日本の首相なのだろう。

 

松井一郎さん率いる日本維新の会のタチがわるいのはなぜか

今回考えるテーマは「良い愛国と悪い愛国」なのだが、それだと誰も読んでくれそうにないので、日本維新の会に関係したテーマを付けた。さらにアベノミクスはなぜ詐欺なのかを考えた。これを考える直接のきっかけになったのは、森友学園問題で自称愛国者の人たちが我先に逃げ出したのはどうしてだろうというものだった。なぜ利己的な人ほど愛国思想を語りたがるのだろうか。

印象的には「あの人たちのいう愛国は本物じゃないんだろうな」と思うのだが、面倒なことに文章にするには本物の愛国主義を定義しなければならない。だが、愛国主義はさまざま悪用されてきたのでなかなかニュートラルに考えられそうにない。そこで、愛国主義は集団主義の一種であり、集団が家族や企業などではなく、国に拡張されたものだと定義することにする。すると「良い集団主義」について考えればいいことになり少々気が楽になる。

「よい集団主義」を定義するうえで重要なのは持続可能性だろう。つまり、各個人のがんばりが、集団を通じての方がより効果的に蓄積されるとき、その集団主義は「機能している」と考えることができるはずだ。

すると、個人主義は個人間の契約に基づいた価値の交換が行われている形態だと定義できる。個人が価値の交換に納得でき、なおかつそれが全体を活性化させられればそれは機能している個人主義だ。個人主義はイメージ的にはブラウン運動みたいなものなので、運動を阻害する規制は排除されなければならないということになる。

すると集団主義は「個々の契約でみると一方的な価値のやりとりがあるかもしれないが、それが集団を通じて何らかの形で再分配される」から機能するのだということがわかるだろう。それは時間的な蓄積かもしれないし、あるいは空間的な蓄積かもしれない。もし一方的に簒奪されるのなら、それは奴隷制であって集団主義とは言えない。

例えば、終身雇用はよい集団主義だった。若い頃の労働は持ち出しになるが、それが数十年後に戻ってくるからである。再配分が機能している限りにおいてその集団主義は正当化される得ると考えると終身雇用は機能していた。またかつての農村もよい集団主義だったのだろう。若い頃働けば最後まで養ってもらえるからである。

ということは、集団主義が成り立つためにはいくつかの要素があることがわかる。まず集団主義には「生業」が重要で、時間的な蓄積が伴う場合には、その生業が長期間変わらないという条件がつく。再配分が成り立つためには創造された価値を蓄積しておく必要がある、ゆえにそもそも生産設備を持っていなければならない。つまり、集団主義は価値の創出がある場合においてのみ正当化されるということになる。武士のような寄宿層がいたとしてもそれは生産集団としての藩の一機能に過ぎず、単体では存在できない

アベノミクスが失敗したのは、政府と有権者の間に「生産者」がいないために価値の創造が起こらないからだということが言える。価値の創造を行っているのは企業なので、小規模生産者と自民党の間には関係が成り立ちうるのだが、企業が抜けてしまうとプロレタリアートと政党の間には再配分が起こらないのだ。公明党は企業とは関係がないではないかと思われがちだが、島田裕巳の研究によれば農村コミュニティが都市に同化した形態であり中小企業経営者らとのつながりが強く、やはり生産との関係があることがわかる。

ここから得られる景色はちょっと変わっている。つまり「良い愛国」と「悪い愛国」には主張そのものの違いがないということである。違っているのは背景であり、主張だけを見てもそれが良いものか悪いものかは判断できない。しかし、再配分の裏打ちがあることだけは重要である。

この点、アベノミクスは私物化と言われるが、それは必ずしも正しくないことわかる。彼らは生産を持たないかあるいは持続可能性を欠いているので、何らかの形で有権者一般から収奪して、自分たちのシステムに利益を誘導する必要がある。集団の中では利益を分配するのだから、支持者たちの中では私物化ではない。が、その他大勢の有権者にとっては単なる「支持者への利益誘導」であり私物化のように見える。つまり、安倍首相はよいリーダーということになり支持者たちの期待に応えているだけだということになる。唯一の問題は彼が日本全体の首相であるべきで、日本国憲法と法律の許容する範囲で行動することを期待されているということだ。だが、法律を遵守していては集団が維持できないほど、日本は持続可能性が低くなっているのだろう。

このように、集団が持っている再配分機能が失われると、政治家は集団的な人たちのコントリビューションが期待できなくなるということが予想される。それは集団的な考えを持った人たちのコミットメントが将来のリターンによって動機付けられるからだ。だから、政治家は何らかの形で利益が配分されない有権者を繋ぎとめておく必要が生じる。しかもリターンはできないのだから時間軸はより壮大である方がよい。すると「来世で報われる」というさらに長期の時間軸でもよいわけだが、さすがにそれは信じ難いので「国」という壮大な物語で時間稼ぎをするのだろう。社会の再配分機能があるときには「ことさら愛国を叫ばなくても集団主義が機能する」ということになり、ことさら愛国を叫ぶ人はすべからく詐欺師である可能性が高いという結論が得られる。ここでいう詐欺師は約束を守るつもりがあっても、それが実行できない人を含む。

さて、それでも物語を約束出来る人たちはまだ恵まれている。それすら約束できない場合にはどうすらばよいのだろうか。ここで、維新の会が出てくる。彼らは自分たちの支持基盤も生産手段も持たず、自民党から利権を収奪する形で大阪で成立した。しかし、そのままでは衝突が予想されるので協力者の形を取りながら自民党に擦り寄る戦略にシフトした。しかし彼らは自分たちでは価値が創造できないので「彼らの敵である民進党を攻撃する」という形をとるしかなかった。しかし、民進党は野党としての存在感を失ってしまったので、敵としての価値がなくなった。だから維新の会は今行き詰っているはずだ。

日本維新の会のタチが悪いのは、彼らが浮動層を支持基盤にしており、自分たちで価値が作り出せないからということになる。価値が創造ができないから、それを蓄積することもできない。ゆえに常にどこかから簒奪してくる必要があり、なおかつ利用価値がなくなれば捨て去るしかないのだ。ゆえに党首(松井一郎さん)の人格はあまり関係がないということになる。しかし、もし彼が自民党にいたら一生雑巾掛けで終わっていたかもしれない。浮かび上がるには奪い盗るしかないのだ。

さて、集団主義が機能するためには再配分が重要だと考えた。もしこれが正しければ、集団主義が成立するためには「生産が固定的であり」かつ「長時間持続する」必要があるということがわかる。しかし社会が変化してくると、集団主義に依存することはできなくなるはずだ。ここから集団主義は個人主義に移行する可能性が高いということが言える。一方、アメリカでは真逆の動きが出ている。個人主義が行き過ぎると、勝者と敗者の二極化が起こる。すると敗者の側は我慢ができなくなり、集団主義を頼み勝ちすぎた個人を淘汰するような動きが起こるはずだ。このように集団主義と個人主義はどちらかが究極ということはなく、つねに振り子のように揺れているのかもしれない。

 

豊洲移転問題を解決する3つの処方箋

昨日の減価償却についてのつぶやきを見たあとで、錯綜した議論の原因を探そうとおもいいろいろと調べてみた。簡単におさらいすると、豊洲市場移転問題の議論で「減価償却はサンクコストだから考えなくて良い」という話があり、それに対して築地存続派の人たちが「どんなのデタラメだ」と言っていたというのを見かけたという話だ。

これを例えるとこういう話になる。

バカ息子が突然訪ねてきて「築地の家は汚いし補修も大変だ。で豊洲に家を買っちゃったんだけど、ローンが払えなさそうなので代わりに払って欲しい。」と申し出る。豊洲のタワーマンションの景色が気に入ったらしい。

で、バカ息子は続けてこう説明する。でも、もう豊洲の家を買っちゃったし、これってサンクコストでしょ。サンクコストはネグっていいんだよ。築地は維持費がかかるけど、豊洲はそういうの(しばらくの間は)無視できるから、豊洲のキレイなマンションに住んだ方が生活が楽になるんだよね。

僕だったらバカ息子をぶん殴って<議論>は終わりだ。が、経済用語が出てくると「あれ、これってバカ息子の方が正しいんでは」という疑念がでてきてしまうのだ。

この議論はそもそも、豊洲移転について試算をやり直したところ「移転は難しい」という報告書が出たというのが端緒になっているようだ。移転ができる(つまり豊洲移転プロジェクトが正当化される)条件はいくつかあるのだが、利用料金を二倍にする(収益を増やす)か、初期投資費用を税金で賄う(負債を減らす)か、他の儲かっている市場と会計を合一にする(枠を変える)必要があるらしい。その中に「減価償却」という用語が使われており、それが一人歩きしたようだ。減価償却はイニシャルコストと追加でかかる補修費を指しているらしい。

この議論が混乱した最初のきっかけは小池さんだったようだ。カタカナ語が多いことで知られているのだが、付け焼き刃的な知識も多いのかもしれない。小池百合子都知事は「無駄な投資」の意味でサンクコストを使ったのではないかと思う。どうやら「私が介入した結果豊洲は安全になった」というシナリオがあり、豊洲の投資が無駄にならないようにという意味で「サンクコスト」という言葉を使ったのかもしれない。それを聞いた経済学の専門家(多分わかっていて)が議論をまぜっかえし、お調子者の政治家が追随した。そこで「それはおかしい」と直感的に考えた人が騒ぎ出したようだ。

減価償却がサンクコストかどうかが問題になるのは、キャッシュアウトしているにもかかわらず、会計上の支出はあとで起こるからだ。つまり、お金の出入りと会計上の処理が時間的にずれるために錯誤が生じるのだ。プロジェクト計算をする時に「あれ、キャッシュベースで考えるんだっけ、会計ベースなんだっけ」と迷うことがあるので「減価償却はサンクコストですよ」と暗記するわけである。過去の投資の失敗をなかったことにするために使う魔法の言葉ではない。

もともと豊洲の収支計画は議会に提出されており、工事も終わっているわけだから、何らかの形で支出は終わっているはずだ。つまり、議会が承認した結果キャッシュは外に出ている。だから今更「費用の負担をどうしましょうか」という議論が出てくること自体「あれ、何かおかしいな」という気がする。

その上、実務はもっとややこしいことになっているようだ。つまりキャッシュアウトと会計処理に時期的な違いがあるだけでなく、ローンの話が絡んでいるのではないだろうか。豊洲が失敗したと仮定して「無駄金」を払い続けることになっても、過去の承認がなかったことになるはずはない。つまり議論としては簡単で「あてにしていた収支計画がデタラメだったから、それを税金で補填しなければならない」というだけの話なのだ。移転しなければお金は全く入ってこないし、移転してしても期待ほどのお金は得られないということになる。

いずれにせよ「どうお金を工面するのか」という問題は「A/Bプロジェクトのバリュエーション」と分けて考えなければならない。それを一緒くたにするとわけがわからなくなるのは当然じゃないかと思うのだが、この一連の議論を追ってみると、それを気にしている人はいないように思える。

ではなぜそんなことが起こったのか。気にしてテレビを見ているとコンテンツビジネスに詳しい国際弁護士を名乗るコメンテーターが「イニシャルコスト」の意味で「減価償却」を使っているのを見つけた。わかって使っているのかもしれないが、これは議論をややこしくするだろうなあと思った。

ここで豊洲がいいのか築地がいいのかという議論をするつもりは一切ないし、そのような情報も会計知識もない。一つだけ言えるのは、議論の参加者に会計の基本的な知識がないために、いろいろな人がそれぞれの勝手な思い込みで議論を理解して問題を複雑化しているということである。その上雪だるま式に様々な問題が一緒くたになるのでいったい何を議論しているのかということがわからなくなっているようだ。

この状況を改善するためにはどうしたらいいのだろうか。3つほど処方箋を考えた。

一つは外野を黙らせることだ。誰が何を決めているかが明確になればこの問題は解決する。この原因を作っているのは小池都知事である。小池さんは「いつまでに何を決めたいのか」がさっぱりわからない。従って、誰が責任を持って何をどこまで決めるかが明確にならない。

次にやることは、何を議論しているのかというスコープを明確にすることである。政治問題なので実行は難しそうだが、いつまでも揉めているよりは楽になりそうである。この場合は「リスク要因の確定」「投資のバリュエーション」「政治的な責任問題」などに分けられる。多分予算の話ができるのはそれ以降ではないだろうか。不確定要素が多い上に単純な意思決定もできていないのに、総合的な意思決定などできるはずがない。

最後にやることは共通言語の獲得である。が、これはすぐには難しい。今回の議論では会計用語の基礎と倫理問題(持続性や安心安全に関わる)の基礎を知っていないと議論に参加できない。アメリカでこういう不毛な議論が起こりにくいのは、マネージメントを行う人が、修士レベルで経営の基礎知識を学んでいるからだ。一つひとつは実務レベルの知識ではないので「こんなの勉強してどうするんだろう」などと思うわけだが、よく考えてみると、基本的な知識の粒を揃えておかないと議論すらできなくなってしまうのだなあと思う。その意味では日本人はバベルの塔に住んでいる。同じ言語を話しているつもりで全く相手のいうことがわかっていないのである。