面白いつぶやきを見つけた。監視されていると感じることによって息苦しさを感じることを「パノプティコン」と呼ぶのだそうだ。
「パノプティコン」とは外から監視室が見えない監視塔で、監視がいなくても監視塔があるだけで囚人達は監視されている気持ちになる。ミシェル・フーコーの言葉で監視による管理・統制社会を指す。共謀罪制定後の日本社会を象徴。「パノプティコンを許さない」を今年の流行語にしたいとやく みつる氏。 pic.twitter.com/AJW0Ht0alz
— 澤田愛子 (@aiko33151709) 2017年4月27日
共謀罪の議論が明後日の方向に進みつつあるなと思った。この議論が難しいのは西洋のように個人が内心の自由を持っている国とそうでない日本に大きな違いがあるからだ。以降の議論は「そもそも日本人には内心の自由を持っていない」という前提で進める。
日本の会社に入ると大抵は飲み会に参加することになる。上司がいるわけではないが、居酒屋で愚痴をこぼし合う。しかしこれは懇親会ではなく、相互監視のための組織で「抜け駆け」しないようにお互いを監視しつつ、どの程度の行動なら許されるのかということを探り合っている。日本人にはこうした非公式のコミュニケーションパスがあり、例えば上司への稟議などもこうしたルートが使われるし、ここから排除されることで「根回しされていなかった」と騒ぎ出す。
Wikipediaを読む限りではベンサムの考えるパノプティコンの概念には、権威が貧乏でだらしない人たちを監視して、社会全体の幸福度を上げて行こうという考え方があるようだ。つまり、ベンサムは街でダラダラして貧困に落ち込んでいる人たちを「自己責任だ」と考えていて、監視しないと身なりを整えたり立派に働いたりしないダメな人たちだと考えていたことになる。つまり、内心にディシプリンがないから、彼らはダメなのだと考えていたようだ。しかし、日本人はディシプリンがないのに、社会的にはお行儀がよいことで知られている。それは、お互いを常に監視しあっているからなのであろう。
このディシプリンのなさとコンテクスト依存は時に大変な問題を起こす。二階派には有権者を大切にしようというディシプリンはなく、関心事は「誰がどれだけ偉くなれるか」ということだけだ。だから今村復興大臣が「東北でよかった」と発言しても誰も疑問に感じない。彼らにとって政治とは大臣の地位とそこで扱えるお金のことであって、東北の被災し者たちの相手ではないのでそれは当然だ。これが問題になったのは、記者という「コンテクストが異なる」人たちが失言を求めてたむろしていたからである。彼らの目的は政治家の失言を集めて視聴率を集めたり、名前を売ることなので、二回幹事長からすると「排除されなければならない」のだ。
このパノプティコンの考え方が否定されるのは、自分のことは自分自身が一番よく知っているので、他人からあれこれ指図されなくても、身を保ち得るし、社会全体としても高い功利が得られると考えるからである。実際には東ドイツはパノプティコン社会だったが、経済的には西ドイツとの競争に負けてしまった。
いずれにせよ、日本にこうした非公式な縛りあいの関係を見つけるのは難しくない。そもそも学校で友達同士の相互監視があり(先生は排除されるので告げ口すると嫌がられる)PTAでもお互いの目が光っており「私はこんなに苦労したのだから、次の役員も苦労すればいい」と考える。さらに引退すると自治会などの組織があり、お互いのライフスタイルについて干渉し合っている。
窮屈だという人もいる。例えば先生に縛られるのが嫌だという子供は先生に隠れてこそこそと自分たちだけの集団を作る。ではそこで自分たちの生き方を追求するかといえばそんなことはない。LINEで自発的な監視網を作り24時間監視し合うのだ。
ここまでで言えるのは「共謀罪」などなくても日本人はお互いに監視し合っていて、それに息苦しさを覚えているということだ。日本が監視社会なのは政府の陰謀ではないというのも重要だ。つまり日本人は「自発的にお互いを縛りあって」いるのだ。
では、共謀罪ができても社会は変わらないのかという疑問が出てくる。これに応えているコラムは多くないが、ニューズウィークに「共謀が罪なら、忖度も罪なのか?」というコラムを見つけた。つまりもともと相互監視的な性質があるので、ちょっとした変化があっても社会の雰囲気が一気に変わってしまう可能性があるのだ。つまり「単なる犯罪防止のために」とルールを変えてしまうと、非公式のコミュニケーションルートが過剰に反応するので、コントロールが不能になってしまう可能性が極めて高いのだ。冷泉はこれは「ハイコンテクスト」という概念で説明している。
この実例を見つけるのも簡単だ。内閣が人事を握るようになると、法令を破ってでも内閣の要望に応えなければならないという気持ちが生まれた。一方で、自分たちで「人道的に」就職先を作ろうという天下りスキームができた。これは内閣の指示が曖昧で成果が出しにくいにもかかわらず、数値目標で処遇が変わるようになってしまったからだと考えられる。今言われている「忖度」はハイコンテクストな組織の暴走なのだ。
ここから言えるのは「お互いが抜け駆けしないように監視し合う」内なる相互監視をやめない限り、パノプティコンは無くならないということになる。何もかも政府のせいにしてはいけないのでである。と同時に日本人が極めてハイコンテクストな(日本語でいうと「阿吽の」)社会に住んでいるという理解なしに制度を変更したり批判してはいけないのである。