高橋英樹という放送作家の人が政治風刺について書いている。これを読むと日本でなぜ政治風刺が起こらないのかということがわかる。これは高橋さんが持っているある欠落によるものだが、多分日本人が普通に考えるとこういうことになってしまうのだろう。つまり日本人にはある感覚が欠落していることになる。
アメリカの政治風刺にはいくつかの種類がある。例えばシンプソンズのような漫画や夜の枠のショー番組などである。わかりやすいのでシンプソンズを見てみよう。絵を見ているだけである程度楽しめる。
シチュエーションは簡単なので細かいことがわからなくても楽しめる。ヒラリーとトランプのどちらが大統領にふさわしいかわからないので不眠になっている。
キーになるポイントはトランプ大統領が夜にツイッターをしているということをみんなが知っているという点だ。大統領は激務なので夜中に電話がかかってくるかもしれない。だから「トランプの方がいいのでは」という展開になる。
「髪型が不自然だ」とキャラがいじられてはいるのだがそれは副次的なものである。つまり、言いたいのは「普通の人は寝ている時間なのに、トランプは起きていてみんなを振り回すだろう」ということである。ベットには危ない思想の本が置かれていて、中国との間に壁を建設しろなどと言っている。当然壁は海に建設されることになるだろう。
つまり、一般常識とずれている「めちゃくちゃさ」が面白みを生んでいるのだ。これを積み重ねて周りが振り回されるとドタバタコメディーになるし、Stand upコメディーに仕立てることもできる。しかしStand upの場合にはお客さんのレスポンスが欠かせないだろう。つまり、Stand upはお客を統合するためのオーケストレータとしての役割をコメディアンが担っていることになる。
要約すると、政治風刺を笑えるためには「普通の人は夜は寝ている(もしくは〜している)」という一般常識を見ている側が共有していなければならない。これは一般常識から政治的な感覚にも及ぶのだが、地続きになっている。このずれを際立たせた上でキャラをかぶせて「ああ、あの人だ」と特定させるという筋立てなのだ。
高橋さんの文章に戻る。例示が全く面白くないのは「森友学園」そのものの面白さはせいぜい籠池夫妻のキャラくらいのものだからだ。森友事件が「面白く」あるためには、例えば周囲の常識と政府答弁がずれているということを認識する必要がある。何か都合が悪いことが起こると「書類をなくしたことにする」人は多分笑いの対象になるだろう。
こうした差異が感知されないということになると、いくつかの仮説が考えられる。
高橋さんという人が「常識に照らして政治を見たことがない」というのが最初の仮説で、次の仮説は「そもそも高橋さんが政治についての感覚を一切持っていない」というのが次の仮説である。どのような背景の方はわからないのだがBLOGOSにコラムを転載されているということは多分それなりの重鎮の方と思われるので「日本のお笑い界は政治に対して常識的で世間と共有できるような政治感覚を持っていない」ということがわかる。
高橋さんはこれ以上やると命がけになると言っている。が、シンプソンズが命がけでこれをやっているとは思えない。単に「夜中におもいつきであれこれ言っているけど、この判断って冷静なのか」と言っているだけである。
例えばこれは100日後のホワイトハウスのドタバタぶりを描いたスケッチだが、トランプ大統領は何も達成していないのに本人は大満足だということが面白おかしく描かれている。シンプソン一家ももともと移民(ネイティブアメリカン以外はすべて移民だから #1)なのだが「どこからきたのか覚えていないけど本国に送還される」ということになっているようだ。
#1. Wikipediaによるとエイブラハム・シンプソンは軽い認知症を患っており先祖が誰かという話がいつもめちゃくちゃであるというキャラ設定になっているらしい。
高橋さんが「政治批判は思い込みだ」という背景には少し深刻な事情があるように思える。
日本人は話し合いを嫌うので「全面的に従う」か「相手を全否定するか」ということになりがちだ。つまり、政治批判はそのまま政権打倒運動につながってしまうというゼロイチの思考があるのだろう。もともと、古い世代に学生運動的なラジカルなものが政治批判であるという思い込みが残っているからだろう。異議の申し立て=人格まで含めた相手の全否定なのだ。
ゆえに、日本のお笑いの主流は弱いものをみつけていたぶること(イジるという専門用語もある)になる。弱いものを全否定しても誰も危険を感じない。いじめられる人もそれでお金がもらえるので「おいしい」と考えてしまう。ゆえに、お笑いが政治を取り扱うと弱いものいじめになってしまう可能性が高いのではないかと考えられる。人民裁判で推定有罪になった人たちや明らかにブサイクな人などを全面的に叩いて人格否定するのがお笑いなので、政治に対してこれを行うと確かに命の危険を感じるかもしれない。
以前、日本のリベラルは民意を統合する役割を放棄していると書いたのだが、笑いにもちょっとした違和感を統合する役割があるはずだ。これを果たせないのは、日本人がそもそも協力を嫌っていて同僚を信頼しないので、自分たちより弱いものをいたぶって開放感を感じることだけを「安全な笑いだ」と認識しているからではないかと考えられれる。これを学校で真似をするので日本からはいじめがなくならないのかもしれない。が、重要なのは世論を統合するようなオーケストレータとしてのStand upコメディアンが出てこないということだろう。ゆえに日本では関係性を作って2人以上でコメディが行われ、観客は傍観者として関与しないで眺めるのが主流になるのだ。
こうした状況は安倍首相のような意味を解体する人には好都合だ。有権者の側に意味を統合され「あの人むちゃくちゃだなあ」と言われると権威は即座に失われてしまうのだが、がテレビや新聞も官邸のいうことを垂れ流すだけで誰も意味の統合を行わないので、好き勝手ができてしまうのである。現在はGHQが<押し付けた>憲法だけが日本の民主主義を統合しているのだが、これもまもなく解体されてしまうのかもしれない。