ロンドンの高層アパート火災でBBCが伝えられなかったこと

ロンドンの高層マンションで火災があった。日本ではタワーマンションだと伝えられたりしたのだが、伝わらなかったこともある。実はこのマンションはスラム対策だったのだ。

BBCは公営とだけ伝えており、このマンションの社会的な問題については一切触れていない。普段はNHKのニュースのバックアップにBBCのニュースを使ったりしているのだが、今回は逆だ。つまり、どの国にも外国には伝えたくない問題があり、意図するかどうかは別にして「隠蔽」が起きてしまうのである。

Wikipediaにはランカスター・ウエスト・エステートについての項目がある。もともとは近隣スラム対策として1967年に構想されて1970年代に完成した。当初の問題はドラッグだったが、のちに拳銃事件が起こるようになったとのことである。さらに人種間の緊張も増していった。

最近になって階層が行われていたそうなのだが、これが却って状況を悪化させた可能性があるとのことである。だが、BBCは次のように伝えている。

建物を管理するケンジントン・チェルシー地区の行政事務所によると、タワー棟は24階建てで120戸が入っている。1974年竣工で、2年間にわたる予算1000万ポンドの大規模修繕を昨年終えたばかり。外装や全館共通の暖房システムを新しくしたという。

日本のタワーマンションでは一室に回った火が全体に燃え広がるということはないそうで、この大規模修繕も十分でなかったのは明白だろう。外装を変えたということだが、これが可燃性だったために全体に火が回ったということまではわかっている。

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ちょいワルジジと安倍政治に共通するグロテスクさとはなにか

「ちょいワルオヤジ」という言葉を作って一世を風靡した岸田一郎という人が「ちょいワルジジ」という言葉で炎上した。

特に悪質とされたのは、美術館でうんちくを行って女性を口説こうという提案である。美術館に対しての尊敬の念はなく、ちょこっとwikipediaで調べた知識があれば女性を感心させることができるという薄っぺらい洞察の裏には、人文科学に対する軽蔑心が見て取れる。芸術家が一生をかけて築き上げたものを単なる高級時計のようにしか捉えられないのだろう。

ちょいワルジジというコンセプトは実は安倍政治との共通点も多い。

安倍首相といえば、人文科学は不要という政策を掲げており大学の予算を削減している。「もっと役に立つことを教えるべきだ」というのだが、彼ら政治家の口から成熟して行く国で何が必要とされているかというビジョンが語られることはないだろう。せいぜい、軍隊を持って強い国になれば世界から尊敬されるだろうというような浅はかな見込みが語られるだけである。新しい獣医学部を作りたいなどというが、教育を第二の公共事業として利権をむさぼるための道具として利用しているだけだ。徹底的な智への反逆心が感じられる。「美術館くらいすぐに理解できる」というのと同じように「獣医学部なんて簡単に作れる」と感じているのだろう。

社会が成熟して行く過程で人々はより良い何かを追い求めるようになる。例えば単なる繊維産業だったファッションも、個性の発露や相互コミュニケーションのような役割を纏う。実は人は成長の過程で文化への欲求を持ち、それをうまく利用すると産業に価値を創出する。

しかし、岸田さんにとってファッションとは単なるお金もちを示す標識にしか過ぎないようだ。だからイタリアブランドの職人のこだわりなどを表面的に勉強しただけで、女の人たちを驚嘆させられるという単純な思考を何年も保持していられるのだろう。

もともと岸田さんが高齢者層に目を向けたのはマーケティング的な動機があるのだと思う。が何が彼らを動かすかわからないので、そのために女性を利用しようという魂胆が透けて見える。つまり、芸術家が真摯に新しい境地を獲得しようとした過程も単なる道具なら、女性も高齢者にお金を使わせるための道具なのである。

女性は欲望を対象であり、優れた知識を持っている自分たちを賞賛する存在でなければならない。つまり女性は男性の人生の添え物なのだ。かつては「効果的だった」と感じる人も多いのかもしれないが、それは男性優位の終身雇用制度に守られており、女性より経済的に優位に立てていたからである。女性は「ああ、そんなこと知っているよ」と思いつつも、黙って話を聞いていただけかもしれない。経済的な理由もあるだろうし、せっかく得意になって話しているのだからプライドを傷つけてはならないという気持ちもあるのではないだろうか。

すべての男性は女性を道具としてしか見ていないという視線は実は同世代の男性にも失礼だ。

ユングは人間が成長する過程をモデル化し、個性化という概念を創出した。人は成長の過程でさまざまな挫折を経験するのだが、それを乗り越えて、それまで使ってこなかった不得意な側面をも統合させ、その人なりの成熟を目指すようになる。個性化が誰にでも起こるかどうかはわからないが、一つのことを追求してきた人にはそれなりの蓄積があるはずだ。もし、他人に(女性だけでなく)尊敬されるとしたら、そうした成熟を社会に還元することなのではないだろうか。

日本人は真面目な民族なので、個性化に成功した人も多いのではないかと思われる。が、企業社会以外にそれを活かせる場がまだまだ少ないのが現実である。こうした場を提供することこそ、メディアや政治の役割なのだが、文化に興味がなく、他人を自分の欲望を満たすための道具としてしか見ない人たちから、そうした提案が語られることはないだろう。

さらに、高齢者がお金を使えないのは、将来に漠然とした不安を持っているからだろう、性的に刺激してやればお金を使うようになるだろうというのは考え違いも甚だしい。

他人は利用されて当然だという考え方はいろいろなところに受け継がれ社会に害をなしている。

例えば、山口敬之というジャーナリストは、こうした欲望の系統を受け継いでいるのだろう。山口氏は女性を欲望の対象としてしか見ておらず、女性がキャリアを築きたいという気持ちを弄び自分の欲望の道具として利用した。だが、山口氏は一人ではない。それをかばっている検察や警察の人たちも「女もいい思いをしたんだろう」とか「それなりの狙いがあって近づいたんだろう」などと考えてしまう。彼らもまた、他人を自分の欲望を満たす道具としてしか見ておらず、キャリアを追求している女性の真摯な思いを二度も三度もふみにじり、社会的に殺してしまったのだ。

先進国が成熟して行くためには、一人ひとりの心地よさに目を向けて、それを製品化したり政策化するというプロセスが必要である。その芽は一人ひとりの心の中にしかないので、誠意を持って育ててゆくことが必要だし、他人が持っている芽を大切にすることも必要だ。が、美術館は女を口説く場所でしかないと考えるような人たちが跋扈しているおかげで、それが阻害されている。

美術館で新しい洞察を得ようとする人たちは老人にしつこくつきまとわれ、キャリアを構築しようとした女性は酩酊状態にさせられた上で欲望のはけ口にされる。そして、大学を出て成長したいと考える若者たちを「教育無償化」で釣り上げて憲法改正を実現しようとする。共通するのは、人々の成長の欲求を自らの欲望を満たすために利用するという考え方だ。

 

「ちょいワルジジ」にはそうしたグロテスクさが隠れており、それは今の政治と共通しているのではないだろうか。

Twitter民はなぜいつもイライラしているの?

ある「フリーランスの作家だか他称自称ジャーナリスト」氏が民進党が参考に呼んだ人が筋悪だったと書いていた。「嫌な予感しかしない」と書いたのだが「どうして俺のあのツイートを読んで、民進党の議員が何かをしでかすと思い込むのかわからん」というような内容でキレ気味に返ってきた。

面白いなと思ったのは、その返事が全く的外れだったことだ。僕は前回民進党の掲載しているPDFに改ざんの後があるのではないかと書いた。どうも筋の悪い情報や人が民進党に集まってきているなあという疑念を持っているのである。つまり、民進党の議員が何かするに違いないというのは、作家さんの脳内補正の結果であって、コミュニケーションの結果ではないということになる。

日本人は党派性に反応しているだけで、事実は特に重要視しないことはわかっているので「民進党には頑張って欲しいから心配しているんですよね」というようなことを書いた。返事はこなかったので納得したか、その他の炎上しそうな何かに突入していったのだろう。

普段から喧嘩腰のひとなので特に驚きはしないのだが、面白いのはこの人に「情報が役に立たないと思うんだったら自分で調査しろや」というような喧嘩を売っている人がたくさんいるということだ。つまり、わざわざ喧嘩をふっかける人がいて、自分が言っていることが100%理解されないと怒り出すという人がいることになる。結果<議論>が荒れるわけだが、どうしてこういうことが起こるのだろうか。

一つにはこの作家氏がどうも「自分が考えている通りにことが進まない」ことに大変イライラしているという点だ。自分の判断基準がありそれに沿わない人がいることが許せないのではないかと思う。こういう人はよく見かけるが、議論には向いていない。議論とは誤解や知識のなさを埋めて、相手を説得するための技術だからである。そもそも成功するかがわからない上に、人と自分は意見が異なるということが前提なっている。村落的な状態で育った人たちはそもそも議論に向いていない。

ということは裏を返せば「知らない」ことが前提になっているソーシャルネットワーキングサイトは荒れないということである。

さて、最近新しいSNSを二つ始めた。一つは外国人の疑問に答えるQUORAというものだ。何回か答えを書いたが、普段当たり前と思っていることを改めて調べるといろいろな発見ができて面白い。例えば「日本のレストランに箸を持ち込んでも怒られないか」という疑問について調べていて、割り箸をやめてマイ箸を持ち込もうという運動があるのを知った。さらには割り箸は間伐材だから特に環境を破壊していないという意見もある。

次にWEARの投稿もやっている。こちらはみんな自分の服を褒めて欲しいわけだから、あえて他人の服を悪し様にいうことはないし、そのような仕組みもない。興味がなければそのままスルーすれば良いという仕組みになっている。実践が中心のSNSは荒れることが少ないわけだが、知らない人が知っている人を参考にするという仕組みがあり、うまく機能していると言えるだろう。

Twitterが荒れがちなのは、参加している人が答えを知っていると思っているからだろう。例えば、反安倍の人にとっては、日本の政治がよくなるためには安倍首相が今すぐ退陣しなければならない。これがなかなか起こらないからみんなイライラしているわけである。

これを打破する方法はいろいろあるのだろうが、SNSの例からみちびきだせる答えは2つあるように思える。一つは新しい視点を取り入れてゆくことで、もう一つは実践を伴うということである。新鮮な視点を得ることには喜びがあり、その分イライラが軽減される。

そう考えると、日本語のTwitterで議論が成り立たないのは、日本人のメンタリティや言語の構造などとは全く関係がなく、単に新しい情報や視点が入ってこないことの裏返しなのかもしれない。いつも同じような人たちが同じようなことを言っている環境というのは、改めて考えてみるとかなりフラストレーションが溜まる状態なのではないかと考えられる。つまり、新しい視点や知識は酸素のようなものなのだ。

だが、それを打開するのは極めて簡単だ。最近では様々なSNSがあり、特に海外旅行したり、繁華街に出かけて行かなくても様々な体験をすることができる。例えばかつて流行を知ろうと思ったら街に出て写真を撮影するしかなかったわけだが、これは一歩間違えると「俺を撮るな」と通報されかねない行為だった。だが、今では自分から進んでコーディネートを紹介して、アイテムを買う場所まで教えてくれるのだから、つづづく便利な時代になったものだと思う。

やはりネットというのはうまくつかえばとてつもなく便利な場所なのである。

マスコミは政治を二度殺す

「自公」ではなく「維公」で大阪が壊れる?〈AERA〉という記事を読んだ。大阪が維新によってめちゃくちゃにされ、それを公明党が支えているということが書かれている。これを読んでマスコミの罪について考えた。

大阪市と千葉市には共通点がある。自民党を中心にした翼賛政治を放置したおかげで財政的にかなり苦しい状況になった。違いはいくつかある。大阪市は過去に発展していた歴史があるので、収奪できる資産がある。一方、千葉市は東京の近郊として発展した歴史があり、農地を住宅地に変更する以外の財産を持っていなかった。

もう一つの違いがマスコミだ。大阪には在阪のマスコミがあるのだが、千葉にはそれほど顕著なマスコミがない。千葉日報と千葉テレビがあるのだが、大した存在感はない。千葉市民も千葉の動向にはたいして興味がないので、地元の政治ニュースというものが存在しないのだ。

大阪でマスコミが果たした役割は大きいはずだ。地元がうまくいっていないというニュースが広がり、それがマスコミによって拡大する。するとあまり政治に興味がなかった人が受動的に「大阪がうまくいっていない」というニュースを受け取る。しかし、中には判断能力がない人もいる。そこでインスタントソリューションに飛びつくことになる。例えば「民営化したら全てがよくなる」とか「大阪市職員が怠けているせいで大阪は発展しない」とか「非効率的な二重行政が問題だ」といった具合である。大抵は誰かを指差して非難するのだ。

一方、千葉にはマスコミがほとんどないので、こうした増幅は起こらなかった。結局市政を改善するためにやったことはとても細かい。例えばゴミをできるだけ減らすとか、今まで業者に委託していた事業を住民に委託するといった類のことである。つまり、うまくいっていない原因ではなく、何をやるのかに注目したのが千葉市と言える。こうした地味な取り組みはマスコミの注目を集めない。最近かろうじてニュースになったことといえば、中心部からデパートが消えたことと、ドローンを使った配送特区ができたことくらいだ。もう少ししたら駅ビルができたことがニュースになるだろう。

もちろん、全てが完璧によくなったわけではないのだが、職員の意識は少しづつ変わってきたと思う。財政はいくらかマシになり、住民の中には協力する人もでてきている。もちろん、興味がない人がほとんどなので、直近の市長選挙の投票率はあまり高くなかった。低い投票率があまり問題にならないのは(意地悪な味方かもしれないが)それほど潤沢な利権がないので「独り占め」のインセンティブが高くならないからだろう。つまり、今後市が財産を蓄積すると、それを利権化したい人たちがでてくるかもしれない。その時には注目度の低さは裏目にでるかもしれない。

一方、インスタントソリューションに飛びついた人たちは数年経って何も改善しないと文句を言い始める。しかし、それでも変わらないと「やっぱりダメだったんだ」ということになり、やがて関心を失ってしまうだろう。現在、国がそのような状態にあると言える。民主党政権のインスタントソリューションに飛びついた人たちがやがて離反し、安倍政権が放置されるようになった。今はめちゃくちゃな状態だが「もう何をやってもダメ」という気持ちが強いのではないだろうか。大阪市でも民営化が進んだおかげでかなりひどいことが起きているようである。それでも、自民党はダメだし、民進党は全く当てにならないと市民が考え続ければ、さほど政権担当能力のない維新が政権に居座り続けることになるかもしれず、それは衰退を一層加速させるだろう。

このように考えると、政治にはいろいろな関わり方があることがわかる。

  1. 政治に興味があり、政権を支える人たち。彼らはほっておいても政権を支持してくれるので特に何もする必要はない。これでうまくいっているのなら、特にいうことはないし、参加して社会をよくしてくれる分には特に問題もない。
  2. 政治に興味があり、政権に反発する人たち。何をやっても反発するだけなので、こちらも実はあまり気にする必要なはない。実際には社会を作るのに参加したりはしないからだ。
  3. 政治に興味はなかったが、積極的に参加する意欲を持った人たち。参加することによって、協力の面白さを知ることができるかもしれない。
  4. 政治に興味はなかったし、積極的に参加する意欲もないのだが、マスコミが提供するインスタントソリューションに飛びつき、効果がでないと離反してしまう人たち。大騒ぎして、反発する人たちを叩いたりする。社会参加には興味がなく、誰かを叩きたいだけなのだろう。

マスコミは第4カテゴリーの人たちを刺激し、間違った政策をチョイスさせた挙句、彼らを離反させることで、うまく行かない政権を放置することになるのではないかと考えられる。一方ソーシャルメディアは使いようによっては第3カテゴリーの人を刺激することができる。個人でも情報発信ができるので、市長なり政治家が一人で支持組織を作ることも可能だからである。

つまり、マスコミはまず極端なインスタントソリューションをあおることによって政治を殺し、次に失望によってもう一度殺す。そう考えると、あるいは政治報道から手を引くべきなのかもしれない。

なぜ政府批判は封じてはいけないのか

最近、政府の記者会見などでは記者がキーボードを打つカタカタという音だけが聞こえるのだそうだ。忙しい記者たちが仕事を早く片付けたいからだと思うのだが、多分自分たちが何をやっているのかという意味が見出せていないのではないだろうか。これは民主主義がじわじわと自殺しつつあるサインだと言える。

最近、政府と反政府の人たちの間の対立が激しくなり、政府批判は自民党の追い落としを意味するようになった。「安倍政権もうなんでもいいから消えろよ」というわけだ。この極端なゼロイチ思考は様々なところで見られる。最近では不倫疑惑を持たれたカップルのうち有名な方を晒し者にして社会的な死を求める運動も見られる。覚せい剤を使った息子を持った有名な俳優に仕事をやめさせるという圧力も働く。批判に慣れていない分、一度批判が噴出すると誰にも止められなくなる。そこで、社会的な死をもたらすまで晒し者にし続けるという悪い習慣ができた。

そもそも批判とは何だろうか。いろいろな考え方があるだろうが、ここではプログラミングのバグ取りだと考えてみよう。つまりより良いプロダクトを作るためにみんなで協力するという作業がジャーナリズムなのだ。

誰かが作ったプログラムにはミスが起こり得る。これを防ぐために何回も見直してから出すことは可能だが、時間がかかりすぎ効率的ではない上に、完全に問題を取り切ることはできないかもしれない。ちょっとしたミスが出る前提でβテスト版を出せれば、それが一番効率が良い。民主主義も同じで、人が作ったコードである以上間違いを含んでいる、だから、モニターしてチェックするわけである。

誰も間違いを犯さないという前提はなんとなく権力者には都合が良いように思えるわけだけれど、実は検証のコストが極めて高い。間違ってもその間違いを認められなくなる。だから、周りの人たちが間違いを指摘してくれた方が楽なのだ。

安倍政権の中の人たちは「俺たちは絶対に間違えない」という前提でいるようだが、これは自分たちの責任を軽視しており、何かあっても責任を取らないからなのだと思う。が、実はそれを批判する側も批判することの役割を放棄している。右から左に情報を流し、あからさまな間違いがあった時だけ大騒ぎした方が楽だからだ。

間違えるつもりがなくても間違えるということはある。例えば、地元の千葉市では財政再建が行われる過程で人件費の抑制が行われているようである。いろいろと無理が生じているらしいが、お互いの職域を侵犯しないという不文律があるようで、問題を是正したりお互いにカバーすることができない。評価に絡むことなので、市長に指摘して睨まれたら大変だと思っている人もいるようだ。このため、些細な問題が積み重なっている。

そこで通報制度を使って「どうなっているんですか」という問い合わせをすることがあるのだが、決まって担当者が「責められている」と感じるようである。直接電話がかかってきて「説明したい」という人もいる。公式ルートで上がると文書として記録が残る上、市長にも見られてしまうので、それを避けたいのかもしれない。

特に誰かが私服を肥やしたいと思っているわけではなくてもこうしたことは起こるのだ。それを放置することもできるのだが、結果的には恒常的な不満につながるか、大きな事故に発展することになると思う。が、普通市民が関わるのは選挙の時だけである。

これに対応していると、思い込みの強さを感じる。誰かに問題を指摘されると「その人の人格が否定された」という気分に陥るようだ。さらに、問題を対処する側も「誰が犯人なのかを特定して、その人にバッテンをつけて終わり」ということが多いらしい。組織が責められていると感じ、それを個人に転嫁したくなるのだろう。日本の社会に特有の「個人のせいにして終わりにする」という悪い癖が抜けないようなのだ。だから、問題は隠蔽されることになり、公の場に持ち出して改善して行こうという動きにつながらないのだろう。

さらに、関係者が問題を表に出して、検討しようという文化がそもそもないらしい。何人かの人に「この機会を利用して、みんなで話し合ってはいかがですか」と言ってみたが、全くピンときていないようだった。すべて個人の能力に帰結させてしまうのだ。昨日電話をかけてきた人は、自分は責められていると思い込み「直接会って説明したい」と言っていたが、責めているわけではなく、問題がどこにあるのかを探す機会にしていただきたいというと黙り込んでしまった。多分、何を言われたのかはよくわかっていないと思う。日本の組織にはそれくらい「自分たちで考えて、仲間同士で助け合う」という文化が欠落している。

民主主義にとって批判はバグ取りにすぎないと考えてみるのはとても大切だと思うのだが、現場の記者たちがその気になれないのは、受験勉強が個人競技であって、そのあと「絶対に間違えない(何も実行しないのだから当然だ)」マスコミに入ってしまったからかもしれない。QAのつもりで行動するという気持ちになれないのだろう。その上、日本の組織にもお互いに助け合うという文化はないので、それを他の組織にも応用してしまうわけだ。

菅官房長官の「批判は当たらない」は、プログラマーが「俺の作ったプログラムには絶対バグがないから、動作不良に見えてもそれは気のせいだ」と言っているのと同じだ。自動車に言い換えれば「俺の作った自動車は完璧にプログラミングされているから、事故を起こしたらすべてユーザーのせいである」というようなことになるだろう。誰も、そんな人の作った製品は買わなくなるだろう。にもかかわらず、それしか選択肢がないというのがこの国の抱えている不幸なのかもしれないのだが、実は政府の側だけでなく、それを見ている人たちにも問題はあるのだと思う。

 

表現の自由について説教する

百田尚樹さんという人が一橋大学の学園祭への出演をキャンセルされたようで、これについて局所的な議論が起こっているらしい。これを「表現の自由の圧殺」と言って擁護する人がいるとのことである。左翼の謀略だと騒いでいる人もいるらしい。

とても不毛な議論だが、なぜこれは不毛なのか整理してみたい。表現の自由が重要なのは。民主主義が一人ひとりの参加を前提にしているという前提が受け入れられているからである。特定の人だけしか意見が表明できないと、結果的に決まったことが歪んでしまう可能性があり、歪んだ決定は大抵なんらかの間違いを含んでいるのだろうというのが基本的な線である。

表現の自由を気にしない人は「俺の方が賢いから、相手の意見なんか聞かなくても正しい判断ができる」と考えている。しかし、安倍政権やトランプ政権を見ていると、その決定には穴がとても多い。トランプ政権は目の前にいる人にウケるために言ったことが、そこにいない人を怒らせている。本来なら他人の意見を入れて、その意思決定を間違いのないものにしなければならない。安倍首相に至っては批判や検証もすべて「印象操作」で片付けている。自分だけが正しくて相手は間違っているという確信があるのだろう。

ここで重要なのは、表現の自由が「言うこと」だけを指しているわけではないということである。つまり、聞くことも「表現の自由」に含まれているのだ。とにかく、表現の自由は「自分の言いたいことを一方的に捲(まく)したてる」ことではないということがわかる。

百田尚樹さんといえば、過去に特定の新聞社が潰れてしまえばいいといったことで知られている。自分が聞きたくないことは聞きたくないが、言いたいことは言いたいという人である。ということで、特定の人たちを集めて自分の考えを一方的に捲し立てても構わないわけだが、公の場に出てきて自分の表現の自由を主張してもあまり説得力がない。ということで、一橋大学の有志の判断は正しかったと言える。

さて、これについて百田さんを批判して終わりにすることもできるのだが、我々は何を学ばなければならないのだろうかについて考えてみたい。それは表現の自由を標榜する以上は「聞くための窓は開けておかなければならない」ということである。政治のような大きな問題に直面すると意見が固まってしまいがちだし、よく考えている問題ほど、自分の意見は変えにくくなる。が、時には努力して考えを変えることも必要なのではないだろうか。

表現の自由が大切なのは、多分我々は間違えることがあるからなのだ。つまり、自分が何を話すかというのは表現の自由のほんの一部にしか過ぎないのだろう。

逆に表現の自由を否定するということは、自分の意見をより良いものにするチャンスを逃すということになる。自分の考えが機能しているかどうかを検証する機会を失ってしまうのは、実はとてももったいないことなのかもしれない。

安倍首相はなぜ嘘をついてはいけないのか

東洋経済ONLINEを見ていたら中島義道という人が人は嘘をつくのになぜ政治家は嘘をついてはいけないのかというような疑問を提していた。有名な雑誌のWeb版なので有名な哲学者の方なのだと思うが、答案を書いてみる。

まず、民主主義を、話し合いによってできるだけ多くの人が幸せに暮らすことができる社会を作ることだと定義する。社会は一人ひとりの貢献によって成り立っているので、納得感が得られなければ社会そのものへの信頼がなくなる。信頼がなくなると人々は努力を出し惜しみすることになるはずだ。幸せという言葉が気に入らなければ「できるだけ嫌な思いをしない」と言い換えても良い。

そのためには、話し合ってみんなが納得するように物事を決めて行くことが必要だ。話し合うためには「今はどういう状況で」「こう決めたらどうなるか」ということをできるだけ正しく提示する必要がある。完全に読み切ることは難しいので「できるだけ正確に」ということになる。話し合いの過程を記録しておけばあとで見直せるので、間違えたとしても見直すことができる。

ところが、人は嘘をつくことができるし嘘もついている。ということで、判断を自分に都合の良いように誘導することも可能だろう。が、嘘をついて話し合いの過程を歪めてしまうと、人々はやがて「あ、これはおかしいぞ」と考えて、社会への関心を失ってしまうかもしれない。嘘をついて得する人は嘘をつくだろうし、得がない人たちは話し合いに参加しなくなる。さらに人には自分が納得して決めたことには従おうという特性がある。決めるのに参加しない人は、公然と逆らうと何かと面倒なのでこっそりと従わないことになるかもしれない。

つまり、嘘が横行すると、決めたことへの信頼性が失われ、結果としてみんながいろいろと大変な思いをする。が、現実としては嘘はつける。だから、信頼性を損なわないようにするために「嘘をつかない」というタテマエが必要だということになる。嘘をつけるのだが、嘘をつかないようにしようということである。嘘をつかないようにしようというのはキレイゴトなのである。

人は嘘がつけるから「嘘をつかない」としないと話し合いがうまく進まないというのは、スポーツのルールと同じようなものだ。ゴルフでは誰も見ていない時にボールを穴に入れてしまえば優勝することができるが、誰もそんなことをしない。そんなことを許せばゴルフではなくなってしまうからだ。

こうしたことが哲学の考察対象になるのは日本人の特性によるものと思われる。なお中島さんが本気で「嘘をついてはいけない」というのを考察の対象にしているのか、それともわざと言っているのかはこの東洋経済ONLINEの記事からはよくわからない。

年配の日本人は終戦を経験している。そもそも民主主義ではない時代を記憶していて、急に民主主義が入ってきた。またアメリカに上から頭を抑えられていて民主主義以外の選択肢がなかった。中島さんは1946年の生まれということで、物心ついた頃にはみんなが「なんだかよくわからないが民主主義はすごい」と言っていた時代の人なのだろう。自分たちで民主主義を獲得した国では「タテマエ」の大切さを理解しているのだが、民主主義が上から降ってきた日本では、その重要性が理解されなかったのかもしれない。例えばトランプ政権下のアメリカは場合によっては独裁体制になってもよいわけだから、その切実さにも違いがあるだろう。できるけどやらない、のだ。

次に日本人は個人の話し合いで物事を決めてこなかった。いろいろと裏で話し合いをした結果が全体に承認されるという形態を取る。一人ひとりの話し合いがあまり重要な意味を持たないから、表向きの議論で嘘をついても大した影響がなかったのかもしれない。だが、最近では裏での話し合いがうまくゆかないことが増えてきているので、嘘が影響を与えるようになってきているといえるのではないだろうか。

この論の一番の弱点は「そもそも話し合いなんか必要ないのではないか」というものである。完全な個人がすべてを間違いがないように決めてくれればそれでよいはずだ。だが、実際にはそうした試みはおおかた失敗している。完全独裁のままの国はそれほど多くないし「優秀な共産党がみんなの代わりに決めてあげる」という共産主義はほぼ絶滅した。

なぜ、話し合い型の社会の方がうまく行くのかはよくわからない。もともと類人猿として脆弱だったので助け合いが発達したという学説すらある。こんなことを科学で証明したいと考えるのは「話し合い」や「助け合い」の効用が自明ではないからだろう。

理論がわからないので過去の事例を参照するということもできる。

例えば北朝鮮と韓国は北朝鮮の方が進んだ工業国だったのだが、長い間に大きな差がついてしまった。西ドイツと東ドイツも同様だった。東ドイツは反逆者を押さえつけるの大掛かりな秘密警察を作ったがすべて徒労に終わった。長い間「気に入らなければ出て行っても良い」と言っていたのだが、ある時期多くの国民が「じゃあ、出て行きます」ということになった。どちらも同じ民族なので社会的には似通っているはずだから、体制の違いが結果に現れているとしかいいようがない。限られた人が決めるより、みんなで決めた方が成功する可能性が高い。

一方で、サウジアラビアのように独裁的な政権が比較的うまくいっている国もある。が、石油資源を抱えていて国民に不満が出ないように富が分配できるから成り立っている。ロシアも天然資源を抱えているので、ある程度反対勢力を懐柔することができる。こうした「何をすれば幸せになれるか」ということがわかっている国では、ある程度の独裁もうまく行くのかもしれない。

ということで、よくはわからないが話し合いや助け合いは大切らしいということがわかる。

だが、もう一つの欠点は少し答えを出すのが難しい。みんなで一生懸命に話し合ってもすべての人が納得できる答えなど見つからないという可能性があるのだ。この場合は「優しい嘘」をついて、決して満足できない人たちにかりそめの満足感を与えるか、犠牲にするほうがよいということになる。民主主義の発達した先進国は、実は周辺国から資源を安い価格で買い入れて高く売ることで成り立っていた。国境という区切りがなくなったので、今かなりの混乱が起きている。この問題は多分、政治学の世界では「グローバリズムをどの程度展開するのか」という問題になっているのだろう。そもそも「話し合いでみんな仲良く」というのが壮大な嘘だったという可能性はあることになる。

この可能性を考えると、実は政治家は嘘をつかざるをえなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。かつては見なくて済んだものを直視せざるをえなくなっているというわけだ。つまり「政治家は嘘をついて良いのか悪いのか」という疑問の立て方が間違っていて、なぜ嘘をつかざるをえなくなっているのかということを考えなければならないのかもしれない。

有能感に苛まれる人たちと意味の盗人

江川紹子さんが池田信夫さんに反論しているのを見つけてかなり気分が悪くなった。池田さんは獣医師さんについて書いているのだが、これはいったい何のための議論なのだろう。ひどい言葉が並んでいるが、中でも衝撃を受けたのは「ペットは単なる愛玩品だ」という発言である。

池田さんはネットで挑みかかってくる人たちを論破して有能感に浸っているようだ。たしかに筋は通っているように思える。が、そこには実感がない。

個人的なことになるが、最近犬が倒れた。池田さんに言わせれば単なる愛玩品でお人形などと変わりはないのだろう。つまり捨てるか安楽死させてしまうのが「合理的」なのかもしれない。しかし、家族の悲嘆は大変なものだった。倒れて食事ができなくなった犬にスプーンで砕いた餌を与え、倒れるのは痛かろうと周りにカーペットを敷き詰めた。散歩に行けなくなると糞尿の世話もしなければならない。

好きで犬を飼ったわけだから自己責任だし、人間より寿命が短いのでやがてはこういうことになるのはわかっている。が、動物はやはり単なる愛玩品ではない。それが理屈で説明できるかと言われるとできないし、その検診や犠牲が何か合理的な役に立つかと言われればそれも疑問だ。例えば牛や豚は食べるのに犬は救いたいと思うのかと言われると合理的には対応できない。実際に餌は食べなかったが、牛の缶詰などは喜んで食べていた。食べるということで「動きたい」という意思が生まれ少しばかりよくなったりするのだが、やはり他の動物を犠牲にしているという見方はできるだろう。

さらに獣医師さんはお休みの日にも診察をしてくれた。「金をとっているから当然だろう」という考え方もできるわけだが、1日病気の犬に付き添ってくれたようで本来ならそれなりの対価を支払わなければならない。休診日にも見てもらったが、猫の薬を求めてくる別の人にも親切に対応していた。経営の能力は必要だと思うが、それだけではやって行けない仕事だと思った。動物が好きなんだろうなとも思うが、好きだけでも続かないだろう。

確かに、獣医の供給に関して利権があることは認めるし、それは「抵抗勢力」だということはわかる。獣医と言っても畜産関係が多く、ペットドクターが全てではないということも学んだ。だが、それは集団としての獣医学会と業界の構造的な問題であって、個人の問題ではない。つまり、獣医学会のあり方を批判するのは良いのだが、それを一人ひとりの獣医の否定に繋げるのはとても乱暴な考え方だ。

議論が複雑なのは命を扱っているからである。政治は単なる理論家のお遊びではなく、生活につながっており、人はそれを合理性だけで判断ことはできない。問題解決のために、努めて理性的になる必要はあるだろうが、人々の暮らしは理性の奴隷ではない。それは問題を解決するための手段に鹿すぎない。

多分池田さんの過激な発言の裏には2つの動機があるのだろう。1つは安倍政権の擁護である。政権を擁護することでさまざまな優遇が期待でき、ついでに自分の有能さをひけらかすことができる。そのためのポジションをとって議論を楽しんでいるのだろう。本来は倫理的に許されない行為だが、日本のトップリーダーが進んで意味を破壊しているのでこうした行為が可能になる。ものを盗めば犯罪だが、意味を盗んでも犯罪にはならない。

もう1つの動機は少し複雑だ。安倍首相を擁護する立場の人たちは単に利権を求めているわけではなく、言葉にできない感情のはけ口として安倍政権を支持しているようだ。例えば、動機の一つには女性蔑視があるようで、小池百合子都知事や蓮舫民進党代表などはかなり嫌われている。女が自分たちの両部を侵犯することに反発心を持っているが、それを主張する力がない。だから、池田さんが女性を蔑視しているというわけではなく、そういう満たされない人たちの代弁をすることに需要があるのではないだろうか。が、彼らのルサンチマンを満たしてやったところで、彼らの境遇が改善することはない。

結局、商売と利得のためにやっていてついでに有能感を満たしていることになる。コミュニティについて特に貢献しているわけではないし、他人の問題を一緒になって解決しようという気持ちもない。

これは、本来問題を解決し人々を救うはずだった議論の空間に入り込んで、盗みを繰り広げているようなものだ。法律と違って、問題を解決しようという人々の了解だけが空間を支えているので、いったんそれが崩れてしまうと元に戻すのは容易ではない。

こうした議論のための議論が行われる背景には安倍首相の抗弁がある。もはや問題を解決することには興味はなく、理屈を弄び、言葉の解釈を無効化して、議論の空間を無茶苦茶にしている。こういう政権は今すぐ消え去るべきだと思う。

安倍政権が破壊しているのは、人々が助け合って解決策を見出して行こうという人々の熱意と意思なのだ。

専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。

ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのか

アゴラの編集長という人にブロックされている。その影響からなのか(Twitterにはブロックリストをやり取りする機能があるそうだ)関わりがないのにブロックしている人がいるらしく、ときどき引用ツイートが読めない。中身が読めないのでどういう人たちなのかはわからないのだが、安倍政権側の人が多いように思える。たいてい誰かに批判的に引用されているからだ。それにしても、ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのだろうか。

ブロックするのは、自分と違った考え方が受け入れられない人たちだと考えられる。つまり、自分の作ったシナリオ通りにことが進まないと、その意見を排除するためにブロックして「なかったこと」にしてしまうのだ。自分と同じ考えの人たちしかいなければ否定されることもないので、彼らには居心地がよいのだろう。

その意味では百田尚樹さんという人はネトウヨが高かったように思う。普段ネトウヨ系のサロンで発言を繰り返しているうちに仮想的な有能感に浸るようになり、朝生で罵倒されて帰ってきたそうである。作家さんなので知性がないということはないだろうが、知識が偏っていて議論にならなかったのだろう。

自分の意見があまりないという点ではサヨクの人たちと違いがないのだが、サヨクとネトウヨには大きな違いがあるように思える。サヨクの人たちは自分たちの意見や正義感が世間に知られていないと感じているので、異論を唱えてきた人には「布教活動」が始まる。ここでブロックしてしまうと自分が相手を説得することができなくなる訳だから、ブロックすることは少ないのではないかと考えられる。サヨクの人たちの言動で多いのは「安倍政権についてテレビ報道が増えれば人は真実に目覚める」というものである。

だが、ネトウヨの心性を考えるとよくわからない点に突き当る。他人と意見が違うことがなぜ問題になるのかということだ。心理学の類型を調べてみたいところだが、しくりくるものが探せなかった。が、相手の意見に影響されて「それに従わなければならない」という気持ちが強いのではないかと考えられる。つまり自己肯定感の低さが影響しているのだろう。つまり、ネトウヨは相手に服従しなければならないと考えており、同時にあまり自分の考えに自信がないのだろうということが予想されるのだ。だからこそ、主張を強化しなければならないわけである。

サヨクの人たちも放射能や戦争などの外部からの脅威を怖がっているように見える。つまり、不確実性に対応できないという意味では共通しているように見える。が、実際には内心というものを持っていて、それと現実が異なっていることが許せないと考えることもできるだろう。つまり、ネトウヨとは反対に過剰な自信があり、それと違っていることが許せないという可能性があるのだ。つまりネトウヨとサヨクが同根なのかそれとも対になっているのかということはよくわからない。

まとめると、ネトウヨもサヨクも、危機・脅威・不確実性に対する防御反応なのだが、一方は内面に自信がなく常に相手に影響されてしまうと考えており、一方は内面に自信がありそれが現実世界に反映されないことにいらだちを抱えているのかもしれないという仮説が立てられる。もし同根だとすれば、他人の考えや指示に恐怖心を覚えるのがネトウヨで、環境に恐怖心を持っているのがサヨクということになる。両者に共通するのは多様な考えが共存することを認められず、相手の説得もできないという点である。

両者とも、世間と自分との間に明確な境界を築けない。他人は他人でありコントロールできないと考えれば、感情的な行動にはでないのではないだろうか。相手を説得するのに戦略を立てたり、コントロールできないなら放っておこうと考えるはずである。あるいは自分の好きなことに夢中になっていれば、あまり他人の価値観は気にならないはずだ。

その意味では安倍政権はきわめてネトウヨ性が高い政権だと言える。もともと戦前に陸軍が間違った行動を取ったことを一切認めることができなかった人たちが母体になっている。南京で虐殺がなかったと主張したり、日本軍は韓国人の性奴隷を持たなかったという主張をしていた。が、こうした主張はWiLLなどの一部のネトウヨ系雑誌で行われているだけで、全体にはさして影響がなかった。

よく考えてみれば、南京で虐殺があったとしても、それは陸軍の兵士たちがやったことであって、日本人全体の犯罪ではない。ネトウヨの人たちには関係がないことだ。しかし、ネトウヨにはそれが認められない。日本軍が中国人の主張通り犯罪行為をおかしたのなら、自分が日本人を代表して中国人に屈服しなければならないと感じてしまう。これは、他人と自分の間に区別がついていないということを意味するのだろう。このように勝ち負けは彼らにとってとても重要である。

勝ち負けが重要なのだから、強いものへの妥協も安倍政権の特徴だ。プーチン大統領にすり寄ってみたかと思えば、トランプ大統領に諂ってみせたりしている。トランプ大統領に忖度して、その主張を聞くようにヨーロッパに懇願することを「強いリーダーシップ」と言い換えるあたりもネトウヨ性が高い。これは、影響力のある相手に対して自分を保てないというところからきているのではないだろうか。一方で、中国や北朝鮮という自分たちが蔑視している存在には必要以上に居丈高な態度に出る。国内では女性に対する蔑視感情が顕著で、民進党の蓮舫代表を呼びつけにしたり(国会でもたびたび呼びつけにしそうになる)社民党の福島元党首や民進党の山尾しおり議員に敵意をむき出しにしたりしている。

このネトウヨ性のせいで、自分を持っていて距離を置くヨーロッパやカナダのリーダーとは折り合わない。

ネトウヨの最大の特徴はブロックだ。自分たちの論理で憲法の解釈をねじ曲げて、アメリカ軍と協調行動がとれるようにしてしまった。これが全面的に悪いとは言わないが、本来なら国民を説得するべきだった。しかし安倍政権はそれをしないで、あの夏のデモを「一部の人がやっているだけ」と言ってブロックしてしまったのだ。さらに、批判は当たらないという紋切り型の台詞を繰り返して様々な無理な解釈を繰り返し、あったはずの資料をなかったことにした。それだけでなくマスコミにも手を伸ばし、恫喝したり取り込んだりして、自分たちに都合の良い解釈を繰り返すようになった。

あったものをなかったことにするのがブロックなのだが、権力がこれをやり始めると他人にもブロックを強要しどんどん社会がおかしくなってゆく。

例えば金融経済の世界でも「ブロック」が起きているのだが、これはやがて市場経済の法則に復讐される可能性が高い。その時巻き込まれるのがネトウヨと安倍政権だけならいいのだが、国を巻き込んだ大惨事になる可能性も否定はできない。

ネットにいるネトウヨの人たちは、大した情報は持っておらず、偏った情報から作られた理論も間違っている可能性が高いので相手にする必要はないと思う。が、こういった人たちに大事な仕事を任せてはいけない。社会全体がおかしな方向に進んでしまうからだ。