「プロ障害者」を非難する人がいなくならないのはなぜなのか

先日来、Twitterに「車椅子は社会の迷惑だからすっこんでろ」という人がいなくならないのはどうしてなのかということを考えていた。最終的には、彼らは社会に愛されている実感がないんだろうという結論に達した。

社会には、なんのために生きているのかわからない人たちが大勢いる。会社に行けば部品のように扱われ流上に、やっていることの意味も社会のルールの意味もわからない。かといって、自分で社会を変えた経験もなければ、その意思決定にどう参加していいかもわからない。かといって理不尽なルールに反抗する勇気もない。いろいろな人に気をつかうが、自分に気をつかってくれる人はいない。かといってその苛立ちを誰かにぶつけることもできないし、その機会もない。

そんなときに別の誰かが社会から同情されていたらいったいどんな気持ちになるだろうか。それは車椅子の男性かもしれないし、子供を抱えたおかあさんかもしれない。彼らや彼女たちは社会に同情してもらっている上に、ルールまで変更される。

すると「自分は誰にも顧みられないのに、この人たちが愛されるのはどうしてか」と思うのではないだろうか。おまけにルールまで変わっているわけで、それはとてつもない特権に見えるだろう。

実際には不都合なルールがあればみんなで協力して変えて行けばいい。ルールは人を縛るためにあるわけではなく、できるだけ多くの人が幸せになるために存在するからだ。しかし、よく考えてみたら誰かもそんなことは教わらなかった。我々が学校で習うのは「規則だから守れ、それ以上は考えるな」ということだけだ。

自分はルールの奴隷なのだから、相手もそうなるべきだと匿名で主張してみる。なんとなく社会的に意義があることを言ったような気分になるし、ジンケンヤにひと泡吹かせることで自分にも影響力があるということが確認できる。

多分キーになっているのは社会的認知だろう。社会的に顧みられることには多分快感が伴っている。こうした仕組みは、人という動物が群れで暮らすに当たって協力関係を維持するために発達させたのではないかと考えられる。だが、社会に建設的な影響を与えられなければ、それが破壊につながることもあるということだ。

本来ならば、議論をすることで他人の人権を抑圧する人たちの態度を変容させることができるはずなのだが、これはあまり意味がないのではないかと考えられる。それはそもそも論題が「俺はなぜ愛されないか」だからだ。車椅子などどうでもよいわけだから、車椅子について議論しても仕方がないわけである。

そればかりか、彼らに対して反論すればするほど、彼らに餌を与えていることになる。だから、本来ならば、彼らに愛を向けてやるべきだし、そのような義理はないと考えるなら無視するのが一番よいのではないかと思われる。無視すれば社会認知による快感は得られないからだ。彼らは思ったような回考えられないから「都合が悪くなればだんまりですか」などというだろうが、それはアルコール依存症の患者がお酒をもらえないで暴れているのと同じような反応なのではないだろうか。

多分、他人の人権を制限したい人たちに躍起になって反論する人が多いのは、そうした人たちが社会の空気を支配することで、世の中が悪い方向に進むということを懸念するからだろう。

ここで、彼らが障害者の人と同じ飛行機に乗っっていたと仮定してみよう。障害者の搭乗に手間取って出発が遅れたとしても、彼らは文句を言わないはずである。彼らは名前と顔を晒して公共の場で「障害者よりも俺を優先しろ」などという度胸はないだろう。

だからといって、この状況に全く問題がないというわけではない。多分、一番深刻な問題は、社会から顧みられているという実感がない人が世の中に溢れていて、社会的認知を熱望しつつ、どうしていいかわからないという気分になっているということだろう。

第一の懸念は、社会に納得感がない人たちの生産性は多分それほど高くないだろうということだ。もしかするとかなり優秀な人の中にも、何のために働いているのかわからないと考えている人がいるかもしれない。それは現在の官僚機構をみればよくわかる。彼らがやっているのは、安倍政権の辻褄合わせだが、社会的には全く無意味である。石を積むようにして安倍政権を弁護するわけだが、その石を政治家が崩すという徒労を延々と繰り返している。ルールを作レル立場にいる人でさえそのような状況なのだから、普通の市民が徒労を感じるのも無理はない。

もう一つの問題は、こういう人たちを扇動するのはそれほど難しいことではないだろうということだ。冷静な判断力がなくなっているので、相手が困った顔をするような政策に簡単に賛成するだろう。実際にそうやって権力を得たいと考える政治家は出てくるはずだし、すでに現れているのかもしれない。こうした人たちがある程度のボリュームをもって可視化された時、それが社会に悪影響を与えないとは言い切れない。

こうした人たちが変わるためには「もっと社会から省みてもらいたい」というネガティブな感情も含めたアサーティブさを身につけることだろう。つまり「自分も社会に顧みてもらいたい」ということを社会にむかって押し出すことができて初めて、他人を大切にするということができるようになるのではないかと思う。が、これは日本人にとってはかなり難しいことなのかもしれない。

つまり、この社会に対して「もう疲れた」とか「やっていられない」と思っている人よりも、頑張って「やりがいがある自分」を演じている人の方が、実は「障害者はルールを守っておとなしくしていろ」とか「社会に迷惑をかけるな」などと言っているかもしれないのだ。

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金子恵美議員は謝罪すべきだったのか

金子恵美議員が子供を公用車に乗せて保育園に送っていたとして批判を受けた。現在総務大臣政務官だそうだが、総務省によると運用上問題はないということだ。他のお母さんが送り迎えに苦労しているのにずるいのではないかという指摘が多く、多分今後は自主規制するようになるのではないかと思われる。本人は一度釈明して「違法性はなかった」といった上で、今後はタクシーなどを利用するといっている。

金子議員本人はブログで問題はなかったがいろいろ考えるところはあったというような説明をしている。

個人的には1kmくらいしか離れていないので、一緒に歩けばいいのになどと思ってしまう。朝の良い散歩コースになるだろうし、子供もお母さんと一緒に歩ければいろいろな発見があって楽しいのではないだろうか。

が、ここでは、フォーマットに則って、金子恵美議員は何か悪いことをしたのかを考えてみたい。説明責任はエージェントである政治家が税金を適切に支出しているかを説明すればいいのだった。

例えば、私用で別の場所にある保育所に寄っていたとすれば、ガソリン代が無駄になることが考えられる。これは税金であり、厳密に言えば無駄遣いをしたと考えられても仕方はない。しかし、同一ルートにあるとすればこうした無駄は起こらないので、税金の無駄遣いという指摘は当たらないだろう。ここが舛添前都知事と違っているところだ。湯河原は東京から遠く、自宅と都庁との経路には含まれていないので「無駄遣い」ということはできる。

ところが、考えるべきなのは、それだけではなさそうだ。つまり、働くお母さんに保育所を提供するのはいいことなのかという問題が残る。国会議員や霞ヶ関の役人たちにだけ優遇された保育園を作るのはずるいのではないかという視点である。

一般に、働くお母さんでも仕事に集中できるように職場に保育園を作るというのは、企業利益にかなっていると言える。より多くの優秀なお母さんを雇用できるからである。これを国会議員や霞ヶ関に当てはめることは可能で、通勤時に子供を預けるということには、優秀な働き手が仕事をしながら子育てができるという意味では便益があると言える。

政治家の場合には、お母さん世代が政治に参加することでより現場の視点がわかるようになるというメリットもある。子育てを終わったおばあさん世代やそもそも子育てをしたことがない男性議員が作る政策はどこかちぐはぐなものになるだろう。

例えば。ヤクルトは職場に保育施設を作っていると宣伝しているが、ここに自動車通勤してくるお母さんが子供を同乗させたとしても社会的な問題にはならない。同じように、国会議員の場合には自分で運転をして事故を起こしてしまうと大きな問題になりかねないので、運転手付きの車を使うということは考えられる。

つまり、職場環境を整えるという意味で仕事の一環であるか、それとも福利厚生事業としてプライベートに留め置くかという議論はできる。例えば、東国原英夫氏は「子育ては私的領域であり」と一刀両断している。

少子化が進み、労働人口が減ってゆく中においてはこれまでの常識を乗り越えてでも働くお母さんに便益を図るべきだという考え方はなりたつだろうし、これによる経済効果も推計できるはずであり。つまり、視点を転換する必要があるように思えるので、これは十分に議論になり得ることなのである。

ここに出てくる問題は「バランス」と「信頼性」である。ベビーカーが電車に乗せにくいお母さんのために駅前に保育園を作ることも、同様に特別扱いではあるが十分に経済合理性がある。だが、一般の人たちが自民党は十分にやってくれていると思えれば、そもそもこれが問題視されることはないわけだ。

つまり、金子議員が考えるべきだったのは「個人の遠慮」によって丸く収めるということではなく、自民党が子育て世代からあまり支援されていないという可能性だったのではないだろうか。世論調査などから多くの有権者は、安倍政権の政策は特に支持していないが、他に変わる政党はないので黙認しているという状態になっている。このため、議員が特別扱いされているという負の感情が生まれるのだろう。

これを払拭するために金子さんがやるべきだったのは、働いているお母さんと一緒に現状を考えたり、どのような進捗があるかを説明することだった。ここまでやってくれれば、政治屋さんから政治家さんに昇格できるかもしれない。つまり、問題があるから説明責任を果たすということではなく、積極的に自身の説明責任を果たすために情報発信するということである。自民党には障害を持った子供を抱えている野田聖子議員のような専門家もいるのだし、民進党と協力しても(少なくとも有権者は)誰も文句は言わないだろう。

東国原さんの議論の浅はかなところは、政治コメンテーターの職業的な常識に溺れて、本来政治家が果たすべき役割について少しわからなくなってしまったことからきているのだろう。優秀な宮崎県のPRマンであり、発信力に定評があっただけに、そこが少し残念ではある。

この問題をややこしくしているのは、他者との比較なのだが、なんとなく「国会議員だけ優遇されていいのか」という嫉妬心を持った人が多かったのではないだろうか。だが、議論を見ていると、お母さんたちが「私が苦しんでいるのに、国会議員だけずるい」と言っているわけではない。あくまでも外野の人たちが騒いでいる。実は、自分たちの満たされていない気持ちを、配慮が必要な人にぶつけて楽しんでいる可能性が高い。説明責任と騒ぎながら、実は説明責任に関する議論が行われないのは、このような理由によるものなのだろう。

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なんでもできるようにしてきた世代と何にもできなくなっていった世代

先日、バニラ・エアに「歩けない人は搭乗できない」と言われた障害者が自力でタラップを上ったというニュースについて書いた。Twitterを見る限りでは、大抵の人は「障害者を排除するのはかわいそうだ」という意見を持ったようだ。このブログはこれは障害者だけの問題ではないのではないかと書いたが、そういう意見は少数に止まるようで、概ね企業のオペレーションの問題ではなく人権問題として捉えたのだろう。

だが、Twitterを眺めていると「航空会社はダメだと言っているのだから我慢すべきだ」という意見をいくつか見つけた。当事者である体が不自由な方の意見もあったのだが、やはり若い人ほどそういう感想を持つらしい。つまり、人権問題をみると「人権屋がわがままを言っている」と思う人が多いようなのだ。こうした若い人たちの中には自民党や現政権を応援する人が多いという印象もある。一方で、年配の人の中にはいわゆるリベラルを支援する人が多い。人権は追求されるべきテーマであって、あまりそのことに疑問を持つことはないのではないだろうか。

この違いはどこから来るのだろうか。乙武さんのつぶやきだ。切り拓くというキーワードが出てくる。この辺りがポイントになっているのではないかと思った。

これを読んで、もしかしたら木島さんは「わざとやった」かもしれないなあと思ったが、若い人はここに「活動屋」の匂いを嗅ぎ取るのかもしれない。活動屋は現状を壊す破壊者であり容認されるべきではないという味方だ。

考えてみると、我々は年々いろいろなことができるようになってきた世代に育った。白黒のテレビがテレビがになり、便利なコンビニができ、海外のブランドものが買えるようになっていった。海外旅行にも行けるようになった。そのうちにコンピュータが発達し、ネットを使って色々なことができるようなってゆく。

ただし、単にエスカレータに乗っていたという感じではなく、切り拓いてきた人たちも多い。顕著な例としては女性総合職だ。もともと女性というのは男性の補助的な仕事しかさせてもらえなかった。法律ができて状況は整ったのだが、会社側の準備は整わなかったので「戦ってきた」と考えている人も多いのではないだろうか。障害者にしても家に閉じこもっていたのだが、昔に比べれば色々なところに出かけて行けてゆけるようになった。これも勝ち取ったものであると考えられる。

実際に木島さんが意地で上ったおかげで「では昇降機をつけましょう」ということになった。つまりやればよかっただけのようだ。場合によっては無理に切り開かないといつまでも変わって行かないことがあるのだが、成長する年代に育った人たちはそのことを知っているのである。

しかし、「若者は奴隷としてしつけられてきた」と切り捨てていいのだろうか。確かに、若い人たちは「会社ができないって言っているんだから、無理をいうのはわがままだ」と思っているようだ。さらに誰かがわがままを言ったとしてもリソースは限られているので、別の誰かが損をするというゼロサムの世界に生きている可能性は多いにある。彼らはバブルが崩壊した後に生まれており、以前ならできていたことがだんだんできなくなってきた時代に育っているからだ。

企業もギリギリで回しているので、一人を特別扱いしていると、余裕がなくなり全体がうまく回らなくなるというような経験をしている。つまり、もともとが我慢を強いられる時代を育ってきており、自分が頑張れば後の人たちが楽になるという体験をしていないのかもしれない。

異議申し立てというのは、それによって世の中がよくなるという経験があってはじめて正当化されるのなのだろう。Twitterには障害を利用したプロ市民だなどとい書き込みがあり、年配の世代からみると悪魔のように思えるのだが、そもそも「みんなが工夫した結果社会が少しづつよくなってゆく」という経験がなければ、そう思っても無理はない。さらに、特別扱いして欲しければJALかANAに乗れなどという人もいるが、これも「安いんだから我慢して当然」という企業や社会に対する低い期待の表れなのだろう。

このことを考えると、心からかわいそうだなあと思った。と、同時にいくらすべての人が平等に扱われるべきだなどと説いても、そもそも我慢を前提に生きている人たちには響かないだろうなあと思った。こういう人たちを説得するためには、多様性が結果的に社会の成長性をあげるというようなことを証明しなければならないことになる。それは意外とやっかいな仕事なのかもしれない。

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バニラ・エアの何が問題なのか

バニラ・エアで障害を持った人が搭乗を拒否されそうになり自力でタラップを登ったというニュースが出た。バニラ・エアは「不快にさせた」と謝罪をし、アシストストレッチャーで搭乗できるように対応した。

この件、いったい何が問題だったのだろうか。本当に「不快にさせた」ことが問題の本質だったのか。


この件について、最初からアシストストレッチャーを装備していればよかったのか、それともアドホック的な対応に過ぎないのかがよくわからないことに気がつきました。なにかご存知の方やご指摘がありましたらご教示ください。

コメント欄に「空港側の問題では」という書き込みがあったのだが、どうやら航空会社固有の問題らしい。

今後のために、奄美空港の責任者に確認しました。
「歩けない人単独は完全NG」。「車いすを担ぐのはNG」。
「同行者のお手伝いのもと、階段昇降をできるならOK」とのこと。 このルールが認められていいんでしょうか?


確かに障害者が人並みに飛行機に乗れずに「かわいそうだ」という話があるのだが、当事者になった木島英登(ひでとう)さんがかわいそうかどうかは本人に聞いてみなければわからない。問題は多分別のところにあるのかもしれない

木島さんが搭乗を拒否されたのは、規則に合わなかったからであると説明されている。「危ないからダメ」ということなのだそうだ。確かに障害者が自力で搭乗できるように設備を改装するのはちょっと面倒だしお金もかかるように思える。しかしながら、実際にはアシストストレッチャーを使えば搭乗は可能だったのだから、あまり例外的な処理について考慮していなかった可能性の方が高い。当事者や専門家に聞かずに勝手に「面倒だから」という理由で判断していたのだろう。

当初このニュースを聞いたときには規則だからダメだといった融通の利かない現場社員が悪いなどと思っていたのだが、実際に規則の裏にある理由は理解されていたようである。ただし、そのルールがきちんと考えられていたのかと言われると「実はちゃんとした解決策があった」ということになり、組織的な問題であることがわかる。

奄美空港に行くキャリアはバニラ・エアだけではなく、格安だから仕方がないという見方はできるわけ、が、この航空会社は通常の安全対策はきちんと取っているのだろうかとか、現場や関係者の話を聞いた上で様々な対応をしているのだろうかという疑問がわく。

いちいち小うるさいかもしれないが、面倒なことをなかったことにして効率化を図るということはいろいろなところで行われており、時には大きな事故を招いたりする。それを「一人のお客さんを不快にさせてごめんなさい」というのは、残念ながら矮小化にすぎない。

いったん大きな事故が起こると「想定外だった」とか「気がつかなかった」ということになるのだが、実際には「めんどうだから考えないようにしておこう」としているだけということが多いのではないか。つまり、気がつかなかったのではなく目を背けていたにすぎないのだ。

確かに、足の悪い障害者の場合は少しでもお金をかけてちゃんとした準備が整ったキャリアを使うべきですよという論は展開できるだろうし、完全に安全が確保できないから事前に知らせておくべきだという論も間違っているとは思わない。だが、ちょっと考えてやればできたことをやらなかったというのは、実はちょっと深刻なことなのかもしれないと立ち止まって考えたほうが良い。

この件は、自力でタラップを昇る「かわいそうな」障害者のイラストがついていたせいで、わりと炎上気味になっているのだが、実際には「まさかの時の安全対策をきちんと取っていない可能性がある」ということの意味を考えるべきではないだろうか。

もっとも、まさかの時のことは考えずに安い飛行機代を優先したいという方もいらっしゃるだろうし、自分が旅行するにしてもそういう選択はするかもしれないので、そこは自己責任としか言いようがない。その辺りは一人ひとりの判断で選択すべきだろう。

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なぜ日本人はインフルエンザの予防にマスクが必要だと信じているのか

面白い質問を見つけた。なぜ日本人はあんなにマスクをするのだろうかというのだ。海外ではマスクは病気を連想させるので嫌われることがあるのだが、日本では多用されている。中には特に理由もないのに外出するときはマスクと決めている人もいるのではないだろうか。

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Don’t take it personally. 批判と人格攻撃は違う

最近、若い人たちが批判をされるのを極端に嫌う、という話をよく見かけるようになった。ははてなの匿名ブログが発端になっているのだと思うがよくわからない。いずれにせよ、大学教育の現場などで批判をすると怒り出してしまう学生がいるという話も読んだ。

が、この問題は実は昔からあったのかもしれない。以前、英語でマスターのコースを受ける機会があった。アメリカの学校なのだが校舎は日本にあるので日本人が半分くらい通っていた。そこで最初に言われたのが「Don’t take it personally」である。つまり、議論というのは論の否定であって、人格の否定のように受け取ってはいけませんよというのだ。

こんなことを言われる背景には、やはり日本人が論争を人格攻撃のように取って怒り出したという経緯があったのかもしれない。マスターコースなのでプレゼンと議論をしないと何も始まらないのだが、批判を恐れてシャイになったり、逆に人格攻撃を始めてしまうと、議論が成立しなくなり、授業そのものが成り立たなくなるのだろう。

しかし、ここから誰でも議論と人格攻撃の区別はつかなくなる可能性があり、お約束として「人格攻撃はしない」し「人格攻撃と受け取らない」ということを明確にしておく必要があるということがわかる。言ってみれば「ボクシングは喧嘩と違いますからね」というのと同じことである。実際に授業ではかなりムッとすることを言われるし、調査が足りなかったりすると全否定されることも珍しくはない。

このことから「最近の若い子は打たれ弱い」などと批判するのではなく、議論のときには人格を否定してはいけませんよと教えるべきなのではないかと思う。アンダーグラデュエイトだとまだ討論中心の授業はないだろうから、発表の講評も人格攻撃ではないということを明確にすべきだろう。

もう一つ思うのは、支持するトピックについて全人格を乗せてはいけないのではないかということだ。例えば、全人格を乗せて原子力発電所はいけないとか自民党はけしからんなどと言ってしまうと、それを否定された時にかなり感情的になってしまう。ということで、いったん別の立場から考え直してみることはとても重要である。

例えばこういう引用ツイートをいただいたことがある。

「思うと断言されていないですし、自身の考えに自信がないのでは」と言及されているのだが、Twitterの議論には全人格をかけないと論拠が弱いように思われてしまうということの裏返しなのかもしれないと思う。自分でも批判的に見るような癖をつけないと、間違えてしまう危険性があるように思えるのだが、それではダメなのだろう。が、こうした議論が殴り合いに発展するのも容易に予想できる。

何かを発言するためには全人格を乗せなければならないと考えるのはなぜなのだろうか。日本人は表向きでは和を保たなければならないという圧力を常に受けているので、意思表明自体がある種、人格をかけた最後の叫びのようになってしまうのかもしれない。いわば「殿に物申す時には切腹覚悟」という考え方があるのだろう。

ということは、普段から小出しに政治的議論をしていれば、全人格をかけた殴りをを防ぐことができるということになる。いわば、芸能人の結婚や今日のお天気について話をするのと一緒だから、いちいち全人格をかけるのは疲れるし馬鹿馬鹿しいと思えるのではないだろうか。

感情的にならないためのテクニックとして、最近メタ認知ということが言われるようになった。いったん議論を俯瞰してみることによって、別の視点が生まれ、トピックや論の構造自体を客観的に見ることができるようになるということだ。論の客観視は、自説の弱点を潰すのに役に立つということもあるのだが、客観的になった方が感情的に楽であるということも言える。

このメタ認知は例えばクソリプをもらった時にも使える。つまりこの人は論を攻撃しているのではなく、生活の中でつまらないことがあり、誰か攻撃する対象を探しているのではと考えるわけである。実際にそのことを指摘することで、相手の攻撃をかわすというテクニックもあるそうなのだが、Twitterなどだと別に関わらなければいいだけの話だし「ああ、これはネタに使えるなあ」などと思えば気分が楽になる。

この件で一番の懸念は、政治家が人格攻撃を多用するということだろう。彼らは議論のロールモデルとされているのだが自分たちの立場が弱くなると、議論をやめて殴り合いを始めることが多くある。

例えば、最近では獣医師の需要と供給の問題が、前川前事務次官の人格攻撃の議論にシフトされかけたという事例があったばかりだ。最近では戦略特区自体が否定されかねないという恐れから、前川さんを討論会に呼んでみんなで吊るしあげようという話になっているようだ。このように、政治や言論の現場でいじめまがいの人格攻撃が大手を降って横行している。罪深いのは、この人たちの中にアメリカなどで大学院レベルの授業を受けた人が混じっているということである。つまりアメリカではお行儀よく振る舞うし、そう振る舞うべきだと知っているのに、日本では殴り合いをしていることになる。

だから大学生だけに「議論は人格攻撃ではありませんよ」などと言ってもあまり説得力はないかもしれない。

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教室でのインシュリン注射を禁止した先生は説明責任を果たすべき

朝日新聞デジタルに教室でインシュリン注射を打つことを禁止した先生の話題が出てきており話題になっている。先生は、教育という事業を保護者から委託されているエージェントであり、そのために必要な権限を保護者から委任されている。「教室で注射を打つな」というのはその権限の行使であると考えられる。つまり、先生の行為には説明責任が生じる。教育現場であることも考えあわせると自主的に説明責任を果たすべきだろう。

この先生の判断は「インシュリン注射は危ない」という事実誤認に基づいているように思える。保健室で打たせるというのは、清潔で安全な場所で打てという意味合いで、まだわからなくもない。しかし、あまり清潔でないトイレでの注射を指示したということは「自分の視界から消えてくれ」という意味合いが強かったものと思われる。

他人が注射をしているところを見ると自分も痛いような感覚に襲われることがある。これは人間に共感能力が備わっているからだ。こうした感覚的なものは、当人も十分自覚していない可能性があるので、じっくり話を聞く必要があるだろう。

さらに、先生が「インシュリン注射は危ないのでは」と考えた時、周囲のサポートや情報があれば間違った判断をしなくて済んだかもしれない。だが、日本人には協力し合う文化がないので、間違った思い込みがそのまま温存されてしまったのだろう。つまり、何か問題があった時に周囲と話し合いをするという文化を学校が醸成することも実は大切なことなのだろう。

なぜ、隠れて注射させることがいけないのだろうか。それは、隠すことによってインシュリン注射が異常で恥ずかしいことのような印象を与えてしまうからだ。本人はインシュリン注射さえあれば普段通りの生活が送れるのだからできるだけ平常に過ごさせるべきだ。これはメガネは遺伝的な欠陥であり恥ずかしいものだから、人前では装着しないようにと指導するのに似ている。

記事の中で生徒は「将来このような無理解から注射する場所が確保されなくなるのではないかと不安を感じている」と考えていることが紹介されている。先生が与えた心理的プレッシャーは実はとても大きい。

さらに生徒は「インシュリン注射は安全である」と説明している。生徒は自分の健康状態に自分で責任を追っているだけで、その行為をとやかく言われる必要はない。にもかかわらず、先生は他人の行動を制限し、なおかつ話すら聞かなかったのである。

さて、このブログでは日本には説明責任という言葉がないと考えてきた。これは先生に説明責任を理解させるのが難しいということだけを意味するのではないようだ。学校側も単に「世間を騒がせて新聞ネタになってしまい申し訳ない」というようなことを考えている可能性もある。また受け止めたTwitterの反応も「実名を晒して社会的に制裁せよ」という声が大きい。

説明責任のような外来概念は理解されないのだが「和を乱したから制裁せよ」というような問題解決はそれよりも理解度が高いものと考えることができるだろう。村人が掟を破った人を制裁するのに似ている。村の場合は関わり合いをなくして、社会的に制裁するのだが、Twitterでは実名を晒して石を投げるのが制裁になっている。

社会的な制裁が説明責任に優先されれば、学校側は萎縮してしまい、インシュリン注射に対する正しい理解は進まないだろう。一方で、エピペンを禁止すると社会的に制裁されると考えた人たちがそれについて何も言わなくなる可能性はある。

このようにして、社会的制裁を通じて問題解決をするというのが日本人のやり方なのだろうから、それなりに尊重されるべきなのかもしれないのだが、いったんここから開き直って「問題そのものが存在しない」という、菅官房長官語法を使われると、問題があったことの証明に話が入り込み、社会を苛立たせるだけに終わってしまうといえるのではないだろうか。

こうした問題には意外と本質的な怒りが含まれている。

  • 組織が周囲と協力しつつ新しい知識を取り入れることができないため、社会的な偏見がいつまでたってもなくならならず、間違った知識が温存される。
  • 力や立場が弱い人が一方的に我慢させられる。
  • 責任の追求を恐れて問題そのものがなかったことになってしまう。

こうした不毛な議論をなくすためにも、教育現場なので、より正確な知識に基づいて、個人が説明責任を果たせるようにするべきなのではないかと考えられる。多分、一番深刻なのは知識を更新する役割を担った学校が偏見を温存して改める気がないという点なのだろう。

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須藤凜々花に説明責任がないわけ

AKB48の須藤凜々花が総選挙で結婚宣言をした。今回はこの行動に説明責任があるのかを考えてみたい。

前回、説明責任について考えた。説明責任とはエージェントの手がける事業について投資者に説明をすることだと定義した。その行動の裏にはなんらかの契約があるはずなので、契約について考えればよい。

では須藤さんの契約とは何なのだろうか。実は、恋愛禁止というのは暗黙のルールであって、契約ではない。そもそも契約はないので、果たすべき責任もなく、ゆえに説明責任もないことになる。この話は以上で終わりになる。つまり須藤さんには説明責任はない。果たすべきか、果たさなくてもよいかということではなく、そもそも責任がないので説明責任が追求できないのだ。

この件について須藤本人は「オタクは夢に投資しているから見返りがないからといって誰かを非難すべきではない」と言っている。つまりオタクが勝手にやったことであり、契約はないと言っている。ゆえに説明責任は生じないのだ。

では、恋愛禁止とは一体何なのだろうか。それは「原子力発電所が事故を起こさない」というのと同じような取り決めだと考えられる。原子力発電所が事故を起こすかもしれないという前提をおくと様々な責任が生じ、対応策を取らなければならなくなる。しかし「そもそも事故は起こらないのだ」ということにしてしまえば、対策は取らなくてもよいし、誰も責任を問われることはなくなる。かといって、事故は起こらないとみんなで思い込んでも事故はなくならない。

AKB48グループは取り立てて歌がうまいわけでも、踊りが上手なわけでもない女性の集まりである。売り物は疑似恋愛だ。そのことは売り手側も狙っているだろうが、実はファンもなんとなく了解している。そこで「恋愛はないことにしよう」と取り決めている。こう取り決めることで恋愛があった時のことは考えずに済むので丸く収まるのだと考えられる。

しかし、これを実際に契約にしてしまうと、複雑な問題が生まれる。一番厄介なのは憲法や各種労働法制上の問題だろう。なので、雇用者であるプロダクションやプロデューサーたちもこれをルールですよとは言わない。なんとなくほのめかしている。

この問題の面白いところは、誰も契約を定めていないのだから、誰も法的な執行を行わないということだ。つまり「エンフォースメント」に当たる概念がないことになる。そのため、実質的には野放しになっていて、ばれなければ恋愛をしてもよいということになっているのではないだろうか。ファンの中には純粋に「恋愛は禁止されている」と考えているものもいるだろうが、一方で「それなりのことはしているだろうなあ」と想像している人もいるだろう。

にもかかわらず、この取り決めが「全く存在しない」とはいえない。実際にメンバーは「AKB48は恋愛禁止です」と言っているし、この取り決めを破ったという理由で制裁されたメンバーもいる。峯岸みなみは、丸坊主になりAKB48から降格させられた。指原莉乃は博多のグループに左遷させられた。単なる機体なのだが、その期待が裏切られればそれなりの怒りが生まれるので、その怒りがグループ全体に及ばないように、自己責任という名目で私刑にしてしまうのだ。これはファンへのメッセージになっているだけではなく、同時にメンバーへの見せしめになっており、誰も責任を取らない約束を守らせる動機として機能している。

だが、須藤さんのようにいったん脱退することを決めてしまうと、特にこのルールの有効性は失われる。もともと法的な根拠など何もないのだから「ごめんなさい」で済んでしまうのだ。面白いのはAKB48の少女たちがこれをきちんと理解しているという点である。総選挙のスピーチを聞くと、彼女たちはまともな知的能力を持っているとは思えないのだが、それでも自分の処遇となると正しい判断ができるのだ。これは空気による暗黙の強制が日本人の行動にかなり早いうちから備わっていることを意味する。

空気は個人の我慢によってなりたっており、集団社会で生きてゆく上ではとても大切な取り決めである。芸能人だけが空気に縛られている話ではなく、会社勤めをする大人や官僚も空気に支配されている。そもそも我慢をしないで輪を乱したという理由だけで左遷したり降格したりするというのは、サラリーマン社会が原型になった一種のパロディーになっている。

空気による制限と私刑は日本人の行動様式に最初から備わっているので、すべての用語が日本語で片付く。空気、みせしめ、まるくおさまる、わ、我慢というのはすべて大和言葉か漢語である。我慢のように本来とは全く異なる使い方をされる用語もある。一方でアカウンタビリティに関係する言葉はすべて英語であって政治家のような人たちですら理解ができない。

須藤さんが掟破りをしたのを起こったのはファンだけではなかった。実際には恋愛禁止のルールを押し付けられた側の人たちの方が強い拒絶反応を持ったようだ。中にはインスタグラムを通じて無言の圧力を送った元メンバーもいた。これも我慢を強いる空気が相互監視的な圧力を強めて行くのに似ている。一番苛烈な例は第二次世界大戦下の日本だろう。息子を兵隊にとられて殺されたような一番の被害者が「あの人は浮かれている」などと言って、普通の市民を告発したりしたのである。

なお、この話は週刊文春に須藤さんの恋愛話が乗ることを予測したスタッフが「だったら結婚話にして話題を提供すればよいだろう」と演出した可能性があるという話が飛び交っており、秋元康が仕組んだに違いないなどと尾ひれまでついている。

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くそリプを処理する

このような引用Tweetをいただいた。あまりカラまれたことがない(それだけ取るに足らないことしか書いていないのだろう)のでちょっと有名人になった気分で嬉しかった。お前は考えに自信がないのだろうと書かれているが、それはその通りだ。決め込んで間違えるとろくなことはないので、考察や再考の機会は残しておくべきだと考えている。

ということで元ツイートを吟味して行こう。


維新の足立議員という方が「豊洲市場は選択と集中をしろ」と言っている。もともと選択と集中という言葉は大企業問題を扱うための理論だ。企業が大きくなるといろいろな周辺事業に手を出してしまい、企業効率が悪くなる。そこでコアコンピタンスを見直して、それが実現できる分野に経営資源を集中しろという使われ方をする。

維新の党は民営化を推進する立場なので、らしいといえばらしいなと思う。確かに、都は色々な事業に手を出しているので、例えば市場の観光的な側面などは民営化した方がいいのかもしれない。

考えるべき点はいくつかある。

最初の論点は「東京都のコアコンピタンスって何だろうか」ということではないだろうか。企業はいろいろなコアコンピタンスを持っているので、すべてのことに得意である必要はない。が、東京都は公益事業体なので、市場にない機能を補完する必要がある、かならずしも得意なことばかりをやっていればいいということにはならないはずだ。

得意なことばかりやっているのは危険ではないのかという視点もある。コアコンピタンス経営は1990年代にもてはやされた<理論>なのだが、その後批判にさらされることになる。学習を通じて新しいスキルを身につけて「変化に対応すべきではないのか」という批判や、自分でコンピタンスを得られないなら外部からM&Aなどを通じて獲得すべきではないのかという批判が出てきた。1990年代よりも企業環境の変化が早まってしまったからだ。

これは面白い視点だ。つまり都庁という官僚組織も学習機能を持って、現代にあった能力を身につけるべきではないかという批判が考えられる。例えば持っていた土地を活用する能力や有毒物質をコントロールする能力、さらに複雑化する技術にキャッチアップして見積もりを評価する能力などを身につけて行かなければならないのではないかということになるだろう。

さらに企業のコンピタンスとは切り離してとにかく儲かるものだけをやればいいという考え方もあるだろう。つまり、選択と集中をコンピタンス経営とは分けて考えるわけだ。実際にこうした経営は色々なところで行われていて、大抵は惨敗している。得意なことをやるから他の企業より安くて良いサービスが提供できるわけで、そうでなければ割高で質の悪いサービスを後発で出すことにしかならないからである。

維新の党のいう「民営化」は、中央政府の成功体験をトレースしたものであると考えられる。具体的にはJRと郵政民営化あたりが念頭にあるのだろう。民営化するとまとまったお金が入る。これで傷んだ会計を癒すことができる。が、その効果は一時的なものにしかすぎないのではないだろうか。確かに、企業が育てた事業をキャッシュにして次の事業に投資するということはあり得るだろうが、同じことをそのまま公共事業体に当てはめるというのはいささか乱暴な議論であるように思える。

豊洲の場合、集中と選択をすると「みんな魚なんか食べないから肉と野菜の流通だけして、あとはパックのマグロとサーモンだけ流通させればいいよね」という話になるだろうが、これが受け入れられるとは思えない。が、論題としては面白い、元になっている理論を紐解くことによって様々な視点を得ることはできるからである。

が、Twitterの<議論>はこうした背景理論を無視して党派性だけで繰り広げられることが多い。今回いただいたくそリプも「わかりやすい表現」だと言っている。これは集中と選択というのが一般的な単語なので、わかりやすいと考えたのではないかと思うし、多分コアコンピタンス経営というような元の考え方に興味があるとも思えない。さらに言えば豊洲にもさほどの興味はないのではないだろうか。

今回のリプ(厳密には引用ツイートだが)に興味を惹かれたのは、明らかに利益集団の一員ではない人が、特定の政党にこれほどまでにアタッチされるのはなぜなのだろうかということがわからなかったからだ。政党と個人の契約としては明らかに何かが欠損しているのだが、それが何かということがよくわからない。

ある議員に個人的に惹きつけられたのか、誰か仮想的な敵を想定しているのかもわからないが、周囲にこうした人がいないので、どうもよくわからない。その上、喧嘩をしたとしても経済的なベネフィットが得られるとは思えないし、心理的な承認欲求が満たされるとも考えられない。

アカウントを見ると色々な人に喧嘩を売っているようである。テストステロンの過剰な分泌によるものなのかななどと仮説を考えてみたが、本人から言語化された説明は見込めないだろうから、よくわからないままだろう。

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安倍政権と相対敬語社会

外国人がある質問を投稿していた。「お久しぶり」とお客さんに挨拶するのは失礼なのかというのだ。言われてみれば、ご無沙汰していますというのが正しい気がする。が、お久しぶりとご無沙汰していますとは何が違うのか、説明するのは難しそうだ。

お久しぶりは単に長い間会っていないということを意味する。だから関係は対等である。だが、ご無沙汰していますには長い間連絡しなくてすみませんという意味合いが含まれる。つまり、本来はこちらに連絡する義務があると言っていることになり、対等でないという気持ちを表現することができる、というのが一応の説明になるだろう。

が、よく考えてみると、関係が対等でないということは、相手に決定権があることになる。これは相手に運命を委ねていることになり、西洋的には危険な考え方だ。だから、西洋世界ではビジネスは契約関係なので、相手との間に上下をつけない。お客さんに会社の命運を握られるなどということはあってはならないからだ。

では日本人がへりくだることによって、運命を相手に一方的に委ねているのだろうか。そうではないだろう。つまり、いっけん上下関係に見える人間関係も実は単純な命令系統ではないということがわかる。

特に意思決定は「稟議書方式」と言って、下の人たちが提案したことを上の人たちが承認することになっている。逆に上の人たちが一方的にトップダウンで物事を決めることは嫌われるし「下の人たちがついてこない」ということになるだろう。数の上では下のほうが多いし、上の人たちは自分たちでは何もできないからだ。

つまり、表面上の上下関係の裏には相互のもたれ合いがあり、それを「甘え」と言っている。「甘えている」というとあまりよく聞こえないが、相互にもたれ合うことによって、不要な争いを避けつつ、アイディアを流通させているのだと考えることもできる。甘えは血液のようにアイディアを組織内に循環させるのである。

日本の敬語は相対敬語と言われる。社長のほうが平社員より偉いのだが、お客さんに対して社長の説明をするのに謙譲表現を使ったりする。これは韓国のような絶対敬語社会と違っている。韓国は儒教社会なので「誰が誰に従うか」ということを敬語を通じて表現する。これは異民族と接していたことと中華社会という階層構造にあったことに関係しているのではないかと考えることもできる。

いずれにせよ、西洋の人が日本を封建的で従属的な社会だと感じるのは、この絶対敬語社会と相対敬語社会の区別がつかないからだろう。甘え合いの構造は外からは見えないから、理解するのに苦労するわけである。

さて、ここまで敬語と社会構造についてくどくどと書いてきたのだが、最近の安倍政権を見ていると国家の中枢にいる60歳代の人たちが必ずしもこの相対敬語社会を理解していないのではないかと思えることがある。安倍政権は序列によって成り立っているのだが、次のような構造があり、敵味方を識別する中華思想に似ている。

  • トランプ大統領やプーチン大統領のように安倍首相が憧れていて近づきたい人たち(中華)
  • 加計学園の理事長、安倍昭恵夫人のような身内(小中華)
  • 萩生田議員や稲田防衛大臣のような安倍首相の下僕に当たる人たち及び菅官房長官のような下僕頭のような人たち(両班)
  • 文部科学省の官僚のように「外様」に当たる人たち(奴婢)
  • 蓮舫民進党代表や福島瑞穂社民党副党首のような非差別層の人たちや野党のような人たち(敵)

絶対封建的な社会では従から主への意思伝達はありえないし、ましてや敵や「生意気な女」たちが安倍首相に意見するということはありえない。意見の交流はなく、いずれ視野狭窄が起こる。

このように、安倍首相の頭の中には自分の価値観に基づいた序列のようなものがあり、周りにいる人にその序列を押し付けている。これが、この人に特有のものなのか、年代によるものなのかはわからない。問題はこうした単純化された序列関係を「日本社会に特有なものだ」と錯誤する人が若年層を中心に増えてしまうのではないかということだ。

いわゆる「ネトウヨ」と呼ばれる人たちの頭の中には、アメリカという中華に親しい自民党が偉くその次に自分たちが偉く、さらに女性や韓国人・中国人は自分たちに従属するのだという絶対的な序列の中に生きてるように見える。野党は従って「売国勢力だ」ということになる。

しかし、考えてみると、日本人は主に企業で相対的敬語社会を学ぶ。正規と非正規社員の間にコミュニケーションの断絶があり、簡単に正社員になれないという状態が続くと「相互のもたれ合い」ということが学べなくなってしまう可能性がある。そもそも、電話で知らない人と話すのが苦痛で会社を辞めてしまうという人が一定数存在するというくらいなので、友達、俺よりえらい人、俺のほうがえらい人、知らないからどうしていいかわからない人くらいの違いしかわからなくなっている可能性がある。

安倍首相が相対敬語社会を学べなかったことは、政治に深刻な影響を与えようとしているように思えるが、なぜ彼が相対敬語社会を学べなかったのかという理由はよくわからない。首相に親しい人たちが「天賦人権論を日本人から奪い取れ」と主張するのをみると、こうした人たちは少なからずいるようだ。

だが、実はこれは日本の伝統的な姿ではない。

文部科学省は下僕ではないので、一方的に従わせていると「実は納得していなかった」とあと出して反旗を翻されてしまう可能性がある。官僚社会のみならず、日本の社会はもたれ合いによる契約社会なので、それが切れてしまうと「実は納得していなかった」と言われる可能性があるのだが、日本人は「実は納得していなかった」ということに特に違和感を感じず、支持してしまうのである。これは日本人が絶対敬語的な序列の社会に実は強い忌避感情と警戒感を持っているからだと考えられる。

いずれにせよ、日本人は対等な個人が民主的に自分の意見を相手に説明して理解してもらうという社会には住んでいないし、かといって一方的に従属することに耐え忍ぶほど従順でもない。が、安倍首相やネトウヨを観察してわかるように相対的敬語概念は天賦的に身についているわけではなく、社会的に(多分非明示的なルートで)学習されるものなのだろう。

安倍首相の釈明記者会見は、首相が余り物を言わない有権者の相対敬語社会性をあまり理解していないのだなということをうかがわせるのだが「強いリーダーシップ」をあまり強調しなくなった。これは、理論的には理解していないが、日本では強いリーダーは嫌われる可能性があるということをわかっている人が背後にいることをうかがわせる。おそらく、態度が変わればこのまま支持率が下落しつづけるということはないのではないだろうか。

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