憲法第9条の維持はなぜ若者に響かないのか

今年も終戦記念日が近づいてきた。テレビ局では昔の戦争の映像を見せながら「日本は再び戦争ができる国になってはいけない」と言っている。これを見ながらいろいろと考えた。最初は、なぜ東京オリンピックは戦争のメタファーで考えられるようになったのかという筋で一文書こうと思ったが、どうも面白くない。

最近、オリンピックが戦争のメタファーで語られるようになった。オリンピックは一部のお金持ちをさらに儲けさせるために誘致されているのだが、予算が足りないので、多くの人々が物資やサービスの無償提供を求められるようになっている。そもそも国威発揚を目的とした集団の競い合いであり戦争に似たようなところがあるのだが、日本では経済的に行き詰ってスキームを維持できなくなってきていることも第二次世界大戦に似ている。

ここで重要なのは多分オリンピックの是非ではなく、多くの人が経済スキームの維持を「徴用」のように感じ始めているということではないだろうか。

第二次世界大戦は、基本的には老人が外交政策の稚拙さの結果を若者に押し付けたという図式でからることができる。当時の金本位制をうまく扱えなかったことと人口が増え続ける農村部に十分な農地を与えられなかったことなどが経済の行き詰まりを産んでおり、中国大陸に進出することでその行き詰まりを解決しようとした。そこでアメリカとぶつかり、さらに傀儡政権の運営にも失敗した。満州国は傀儡政権に他民族を抑圧させておけばよかったのだが、日本人が他民族を抑圧し、後々とても恨まれることになった。この辺りの事情はよくわからないが、日本では社会的に下位のグループだった人たちが、いきなり主人のように振る舞ったのが原因なのではないかとも思う。つまり支配することの怖さがよくわかっていなかったのではないだろうか。

同じように現在では土地バブルから以来の経済政策の行き詰まりのツケをバブル期以降に大人になった人たちに背負わせている。このため先行きが見えないという人が多いのだが、老人たちは反省するどころか「生活態度がなっていない」とか「仕事も子供も両立させたいなど贅沢だ」などといってさらに恨みを買うことになっている。

その意味では日本は戦争状態にあると言っていいだろう。今ある体制を守るために、年が若く立場が弱い人たちから使い捨てられるという世界である。

で、あればこの人たちは誰が救ってくれるのだろうかという疑問が出てくる。誰か外にいる敵と戦っているわけではないのだから負けることはありえない。ということはGHQもやってこない。したがって、この戦争はずっと続くことになるのだろう。

さて、こうしたことを考えながら終戦の日の特集を見ていた。すると識者と言われる人たちはほとんどが老人であって、日本は戦争から解放されて平和になったと言っていることに違和感を感じるようになった。この人たちは高度経済成長を経験していてそれなりの達成感に裏打ちされた成功体験を持っている。つまり、日本が平和国家として国際社会に参加することによって経済的なメリットがあった世代だった。だから平和憲法を肯定することができ、なおかつその美しさを称揚することによっていい気分に浸ることもできるのである。

だが、今の若い人たちにはこうした体験がない。そしてどうしたら同じような体験ができるかどうかはわからない。さらに上の世代からは説教がましく憲法第9条は素晴らしいなどと言われる。こういう人たちに日本は平和国家なのだからそれに感謝しようなどと言ってもほとんど意味がない。それどころか恨みを買う可能性すらある。

行き詰まりを感じている人たちが、何を経済停滞の原因だと考えているのかはわからないのだが、一部の人たちは中国や韓国が侵攻してくることが停滞の原因だと考えているかもしれない。彼らは中国を叩きたいが、どうしていいかわからないので、日本が軍隊を持てば国際的な力がまして日本が有利になるだろうという提案に乗っている可能性はある。

このため、高度経済成長を知っている世代と知らない世代では政党に対するものの見方が全く違っている。高度経済成長を知っている世代は、現実的な政策に終始する自民党を牽制する存在としての左派勢力が先進的に見える。一方で若い世代は左派勢力は弱者のわがままか中国の手先のように思っているかもしれない。

いずれにせよ、現在のように「戦争は庶民の暮らしを破壊する」というような観点で戦争に反対する番組を作るのは、ある程度以下の年代の人たちにはあまり受け入れられないのではないかと思う。それどころかそうした番組に陶酔することで、却って若年層の反発を招く可能性すらある。

いろいろな対策が考えられるが、第二次世界大線だけでなく、それ以外の戦争でも庶民の生活が破壊されるということを例示する必要があるだろう。例えばシリアなどがその事例である。いわゆる若年層のネトウヨという人たちを非難しているだけでは、次世代に戦争をしてはいけないというメッセージを伝えることはできないのではないだろうか。

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憲法第9条はなぜ変わらなければならないのか

さて、今回は憲法第9条について考えたい。意外に思われるかもしれないが、憲法第9条は改正されなければならないと考えている。もともとは護憲だったし、人権に関する条項などはそのまま守られるべきだと考えているので広い意味では護憲派なのだが、憲法第9条だけは例外である。

なぜ憲法第9条は変わらなければならないのか。それは、設計思想が変わってしまった唯一の条項だからだ。

日本国憲法の設計思想は侵略戦争の禁止だ。戦勝国から受け入れてもらえるために日本が侵略戦争を行うことを禁止し、植民地を放棄させられた。当時はまだ国家の主権に「戦争をする権利」が入っていた時代だった。

その後、戦勝国は現在の体制を固定するために、戦争そのものを禁止した。日本は戦争に負けて主権が制限されていたので、憲法レベルでこうした操作ができる数少ない国の一つだった。もう一つの例外がドイツだったがこちらはヨーロッパの集団的自衛体制に組み込まれる。こちらの方はスキームがあったためにより新しい設計思想を取り入れることができたのである。

戦勝国にとって計算外だったのは、戦勝国が2つの大きなグループに別れてしまったことだったのだろう。このため二つの大きな国が自衛を名目にして戦争をするというスキームができてしまった。日本ではこれに合わせて後付けで自衛隊が作られた。自衛隊は東西冷戦を前提にした集団的自衛の一翼を担っているのだが、日本はあまり信用されていなかったので、日本の領域だけに活動領域が限定された。

設計思想が変わってしまったのだから、ここで憲法と自衛隊の役割は見直されるされるべきだった。が、日本はそれをやらずに乗り切った。大きかったのは岸信介総理が国民を説得するのに失敗し第反発を招いてしまったことだろう。国民を騙すような形で日米安保を改正し現在の状況を作った。のちの政権は国民の反発を恐れてこの件には触れられなくなった。司法も砂川事件で介入された歴史があり、この件については判断しなくなった。こうして岸信介の孫が首相になって憲法解釈をかき乱すまで、触れなくなってしまったのだ。

横道にそれて安倍晋三の功績を考えてみよう。安倍は無理やり理屈をつけて集団的自衛を解禁した。その他の私物化スキャンダルもあったので、集団的自衛は「ごまかし」ということになってしまい、今後また何十年も議論すらできない話題になってしまうかもしれない。祖父と孫は同じような禍根を日本の歴史に残そうとしているのではないだろうか。

ところが設計の前提はさらに変わってしまう。東西対立という図式がなくなってしまったのだ。だが、同時に核になる国もなくなった。「Gゼロ世界」などという人もいる。つまり、大きな巨大領域の中で反乱勢力が動くという状態になっているのだ。領域は統合されたが、中には主権国家が残っていて、国連は政治的には主権国家への干渉はできないという仕組みが残っているウエストファーレン体制というそうだが、1648年にできたスキームである。これが現在の矛盾のもとになっている。

例えばアフリカの状態を見てみるとこのことがよくわかる。国内政治が失敗すると抵抗勢力が現れるのだが、抵抗勢力は軽々と国境を超えて「国際紛争化」する。さらに混乱の結果、難民が流出し、周辺諸国やヨーロッパが混乱するのである。この抵抗勢力を戦争主体として位置付けるかというのは大きな問題になっている。

70年前の世界はそれぞれの国が国益のために行動すればよかった。つながりは限定的だったので、適当な相手と組んで軍事同盟を作ることもできた。ところが現在は、曖昧な枠組みの下で一つにつながったとても過渡的な世界になってしまっている。

こうした経緯があるから「戦争」と聞いて思い浮かぶことが人によって全く違ってしまっている。ある人は日本という国の栄光のために近隣国を武力で圧倒することが戦争だと思っているだろうし、別の人はアメリカが経済的利益を追求するために弱小国を傀儡化する手伝いをするのが戦争だと考えているのだろう。これが議論が曖昧になる原因である。

防衛で一番大きな説得材料は「中国が攻めてくる」というものだが、中国のような大国が日本のような大きな国に直接侵攻した事例は戦後70年の間起きていない。世界が緊密に連携しているために直接対決するリスクの方が大きいからだ。現在こうしたスキームに依存するのはもう失うものがない北朝鮮くらいだろう。周辺国に代理戦争させるというスキームはあったがこれすら過去のものになりつつある。

一方でアフリカ情勢などに興味がある人はほとんどいないので、現在型の戦争と呼べるかどうかがわからない状態について議論する人は少ない。アフリカでは南スーダンのほかにも中央アフリカで戦乱があるそうだ。

もちろん、アフリカは遠い地域なので、日本にはこうした厄介ごとから引きこもって、自国の防衛だけに専念するというオプションもあり、これは極めて合理的な選択だろう。あとは災害救助などに活躍する軍隊の装備を持った別の何かを作るという方向性もあるわけだ。

が、ここで考えるべきなのが日本国憲法のもともとの設計思想である。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

旧世代の戦争という概念を残しつつ、実はかなり国際協調を念頭において書かれていることがわかる。つまり、この憲法前文を尊重するという前提に立つのであれば、日本がどういう貢献ができるかということを考えて行かなければならない。今日言いたいのはこのことだけだ。

護憲派であろうとすれば憲法第9条を見直さざるをえなくなるのである。

国際的な経済協力についての憲法の規定はないので、皮肉なことだが軍事貢献だけがこの世界情勢の変化に影響を受けてしまう。外に開かれた唯一の条文なのである。

安倍首相の「積極的平和主義」という言葉はそれ自体は間違っていないということになる。彼が悪質なのは、こうした誰も否定できない題目を利用して憲法を私物化しようとしているという点である。そればかりか無能な防衛大臣を放置することを通じて、PKOを通じた国際貢献すらタブーになってしまうかもしれないという状態を作り出してしまった。

安倍首相は多分憲法前文を気に留めていないのだろう。韓国や中国を挑発して東アジアで協調関係をとるのを邪魔しているし、南スーダンに武器が流れ込むのを抑止する枠組みも黙殺した。さらに原子力爆弾を禁止して行こうという条約も無視したままである。

しかし、憲法第9条の擁護をしている人も日本国憲法前文をきちんと理解した上で世界情勢を見ているとは言えない。確かにすべての人たちがおとなしく現在の国際秩序に従ってくれればいいのだが、現実問題として紛争が頻発しており、何らかの対策が必要である。だから、戦争や争いごとという厄介な問題から目をそらしてはいけない。憲法第9条を守って前文の精神をないがしろにするということはあってはならないのではないだろうか。

憲法改正議論で重要なのは、国民が理解納得した上で憲法を変えてゆくということである。だから日本人が国際貢献をして憲法前文の精神を世界に広げて行こうという意欲がないなら、憲法第9条だけを変えても仕方がない。

現在、日報を隠したとか、報告を受けていたというようなことが問題になっている。これも元を正せば、設計思想が曖昧な上に法律を作ったことのツケなのだろう。稲田大臣はあまり質のよくない法律家なので、法律の設計思想が実は曖昧でそのまま実行するとエラーが起こるということを想定していなかったのではないだろうか。プログラムも法律も人間が作ったものにはバグがつきものなので、バグ取りはユーザーが行わなければならない。

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安倍政権は今度は何に負けたのか

稲田防衛大臣の件が大炎上している。巷では日報問題というそうだ。背景には安倍政権が政府の掌握に失敗したという事情がある。さて、安倍政権はなぜ政府の掌握に失敗したのだろうか。そもそも政府とは何なのだろうか。

このブログではこのところ、日本人は競い合いが大好きで、競い合いは集団の形をとるという仮説を展開している。つまり、個人ではなく集団単位で動くのが日本人で、その行動原理は競い合いだ。つまり日本人は毎日が運動会なのである。

この問題を解く鍵は「自衛隊」と「政府」の関係である。実は自衛隊は一体ではなく、統合幕僚監部と陸上自衛隊に分かれていることもわかる。PKOを指揮命令するのは統合幕僚監部だが、実際に行動して命を落とすのは陸上自衛隊だ。今回の情報リークには陸上自衛隊が関わっているという説が濃厚なのだそうだ。この事から防衛省の分断が問題視されている。

この件を自衛隊による神のクーデターだなどとわけ知り顔で言う人がいるのだが、そういう見方をすると状況がわからなくなる。PKOが成功して褒められるのは統合幕僚監部と稲田防衛大臣だが、実際に犠牲になるのは陸上自衛隊である。つまり、自衛隊も防衛省も一体ではないのだ。陸上自衛隊は現場から「もうこれは戦闘状態で命が危ない」というSOSを受けていた。しかし、これが報告されると統合幕僚監部と稲田防衛大臣が困る。だからこれを「なかったことにした」のだろう。

つまり内部リークがなければ「ジュバは平和でした」で終わってしまうことになってしまい、統合幕僚本部がいい思いをするので、情報がリークされたのだ。しかし、集団が組織の論理によって動くという事を知らない稲田大臣は自分がスターになろうとして「私が状況を掌握する」と大見得を切ってさらにポイントを稼ごうとする。だから、さらに炎上したのだ。

このような観測がある。

つまり、現場としてはせっかく警告を発したにもかかわらずそれが無視されたばかりではなく、一方的な悪者として処分されようとした。これで得をするのが誰かという話になり、それだけは許せないということになった。そこで「今回の監査は納得ができない」とマスコミに告げ口したのだろう。

日本人は何かの目的のために手段が正しく行使されているということには全く興味を持たないのだが、組織の競い合いにはとても敏感なのである。

安倍政権は組織を動機付けるのがとても苦手だ。この動機付けに関するスキルのなさこそが「ネトウヨ」性の本質なのではないかとさえ思う。そこで、組織の中の誰かに取引を持ちかけて組織を動かそうとする。「私もえこひいきされたい」という個人が協力を申し出る。

当初、やり方はとてもうまくいっているように見えていた。人事権を握って役職を差配すれば組織は動かせなくても個人は動かせる。日本の組織もこすればチートできるんだなあなどと思っていたのだが、とんでもない誤解だったようだ。誰かをえこひいきするということは当然悪者が出てくる。すると、その人たちはたまりかねて最終的には怒り出してしまうのである。

文部科学省の場合も組織防衛が前川蜂起の動機になっている。特区に反対した腹いせに天下り利権を取り上げたことで、文部科学省が「悪者にされた」と感じたのだろう。特区は安倍政権のお友達を優遇するための制度なので、これも集団と集団の争いということになる。

この件を見ていて面白いのは日本人が事実をどう扱うかということである。先の布施さんのツイートでは「真実」と言われているものだ。まず最初に集団という視点があり、その集団の利益が最大化されるようなファクトが事実として認定される。だが、別の集団には別の利益と視点があり、従って事実も異なっている。今回は、稲田防衛大臣と統合幕僚監部から見たファクトだけが事実として編集されて国会で固定化されようとしていたのだが、噂レベルで陸上自衛隊からの情報が入ることで事実が確定しなくなってしまった。

もう一つ重要なのが、個人の位置づけである。第一に集団をかばうための行動は美化されるが、個人の利益を確保する行動はわがままだと一蹴される。

さらに、事実の固定化も集団のフィルターを通して行われる。今回、日報の一つひとつのデータは「単なる個人の主観」として片付けられてしまう。毎日新聞は次のように書いている。

2月15日には岡部俊哉陸幕長から説明を受けた黒江哲郎事務次官らが、公文書ではない「個人のデータ」として非公表とする方針を決定したとされている。

つまり、個人がファクトを捕捉したとしても、個人の意見だというだけで簡単に切り捨てられてしまうということである。が、よく考えてみると現場を見ているのは自衛官だけなので、東京のオフィスで冷房にあたってパソコンのキーボードを叩いているだけの人のほうが事実をよく知っているなどということはありえないはずだ。つまり、日本人が言っている事実というのはデータの解釈であって、データそのものではないということだ。これを事実と呼んで良いのかというのはとても疑問である。

この事は、実は現場の自衛官にとって切実な問題をはらんでいる。南スーダンで死んでも戦闘で死んだとは絶対に言えない。統合幕僚本部と内閣の失敗だということになってしまうからである。だから彼らの死は事故死ということになるだろう。これは「靖国なき戦死」のようなもので日本人には許せないことなのだ。第二次世界大戦の戦死者の多くは餓死者なのだが、それでも祖国のために戦って死んだということにしてもらえれば、それが事実として定着する。日本人にとっては解釈だけが重要なのである。

ここから導き出されるのは、与野党の攻防も「言った言わない」の水掛け論になってしまうという予想だ。民進党も自分たちの利害に沿ってファクトを編集して事実を作り出してしまうので、視点が違うということが明らかになるだけで、誰かの言っていることが正しいということにはならない。これは日本という国家が分断されていて、日本にとっての解釈が定まらないからだ。

そして日本人はこうしたどっちつかずの状態をとても嫌う。これは内閣を不信任する理由になるだろう。自衛隊を送り出すリスクを永田町は扱えなくなる。つまり、今のままの状態で今後平和安全法によってPKOを派遣するのは難しくなったのではないだろうか。

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為末大さんはなぜリベラルから叩かれたのか

為末大という人がリベラル界隈の人から叩かれている。進化論を持ち出して競争に負けた人は淘汰されても構わないと「言い放った」からだ。この人バカだなと思った。

Twitterだけではコンテクストがわからないので、過去の発言やブログなどを読んでみた。彼のいう競争とは多分スポーツなどの競い合いが元になっているものと思われる。そして、これを進展させた上で「福祉予算が膨らんで国がそのまま衰退して行くからなんとかしなければならない」という問題を解決に結びつけようとしているようだ。

面白いなと思ったのは、為末さんが「弱者に足を取られて国が沈んでゆく」と感じているという点である。にもかかわらず国民にはやる気がないというのだ。

しかし、この認識は多分為末さんだけのものではないのかもしれない。この世代の人たちは、国が成長する様子を見たことがないのだろう。高度経済成長期にある人は競争と成長を結びつけるのだろうが、ポストバブルの人たちは弱者の除外を前提にする。これが「為末さんがバカ」である第一の理由だ。つまり情報が偏っているのである。

為末さんがバカである理由の第二は、彼が競争に参加するように人々を動機付けするスキルを持っていないという点だ。だから脱落をほのめかして、関係のない外野の人たちを巻き込んでしまっている。主に「左側の人たち」が強く反応しているのだが、為末さんの目的である「人々を競争に参加させ」「強い社会を作る」ことには全く関係がない。どちらかといえば排除された経験があるか、その可能性に怯えて拒否反応を持っている人である。

さらに、為末さんがそもそも目的意識を明確に持っているようには思えなかった。何のために議論しているかがわかっていないまま論を組み立ててしまったために、不用意に進化論や淘汰などを持ち出してしまったのではないだろうか。歴史を知っていれば、このような理屈がナチスのユダヤ人淘汰に用いられたということがわかったのだろうが、そこまでの知的な広がりはなかったのかもしれない。

「競争」が定義されていないのに、彼が認知しうる「競争」についてのみの考察しているために話が迷走しているということになる。バカは途中経過なのでバカであっても構わない。だが、そこから脱却できないのは少しもったいない気もする。

多くの人がスポーツの競い合いに参加するのは、競争を通じて自分の能力を伸ばすことができるからだ。例えば合唱や吹奏楽にもコンクールはある。芸術に競い合いがあるのは不思議なのだが、目的を持つことで技能を磨くことができる。コンテストにはいくつかの種類があるのだから、吹奏楽が嫌いな人はロックミュージックのコンテストに出ても構わない。

が、これを少し加工してハードル競争に負けた人は殺されても構わないのかと置くと話が全く違ってきてしまう。加工されたのは「競争の目的」だ。つまり、成長から生存競争へと目的が変わっている。しかし、これを変えるだけで意味合いが全く変わってくる。

例えば吹奏楽競争に負けた人がフルートを折って二度と音楽を演奏してはいけないなどと言われれば、その異常さがわかるはずだ。コンクールは技能を磨くためにあるのであって生き残り競争ではない。

人は競争を通じて個人的にまたは集団的に成長することができる。競争は成長という目的を達成するための手段だ。だから、スポーツは管理された競争になっている。だが人が競争するのは成長のためだけではない。人は限られたリソースのを巡って生き残り競争をすることがある。

いずれにせよ、成長のための競争が是認されるからといって、自動的に生き残りのために相手を犠牲することが是認されるわけではない。つまり、ボクシングが是認されるからといって、殴り合いが是認されるということではない。

為末さんは文章の中で「世界は競争を前提にしている」と決めつけているのだが、この競争が生き残りの闘争を意味しているのか、成長のための競い合いを意味しているのかがわからない上に、世界がどの範囲を意味しているのかがよくわからない。

世界の中には競争を是認する競争型の社会と包摂性を是認する非競争型の社会があり、すべての社会が競争を前提としているわけではない。アメリカを念頭に置いているのかもしれないが、アメリカは個人が競争の結果を受け入れる社会なので「負けた人がどうするのか」ということがある程度社会化されている。つまり、負けた人が次に再チャレンジすることが認められている。つまり、競争を前提にすることと負けた人は滅びても構わないというのも実は同じことではない。

為末さんが「競争」の目的について考えずにいきなり競争を是認した上で、歴史的に大いに悪用されてきたダーウィニズムまで持ち出してしまうのは、日本人が競争そのものを自己目的化してしまう傾向が強いからかもしれない。日本の競争が集団化しやすく個人の力でコントロールするのが難しい。このため、競争に参加しないと集団的な圧力にさらされやすい上に、個人が競争に意義を感じられないということが起こり得るし、実際にいろいろなところで起きている。

例えば、組体操はチームで身体のコントロール力を高めるためのトレーニングだ。だから、管理されたぎりぎりの範囲で人間ピラミッドを作るという手段はぎりぎり正当化されるかもしれない。実際には競争のための競争が横行する。多分、十段ピラミッドを作るような人は「何のために競争をするのか」ということは考えないで、とにかく隣の学校よりも高いピラミッドを作らなければならないと考えるのだろうし、自分ではやらずに人にやらせるのだろう。

競争の目的が失われてもそこから抜け出すのは難しい。下にいる人たちは意味もわからず支えられるはずもない荷重をかけられたうえで半身不随になるような事故を起こす可能性がある。が、とにかく競わなければならないという空気があると足抜けすることも許されず、「どうしてもやりたくない」というと「わがままで例外的なのだ」とみなされて村八分にされる。

このような極端な競争の裏返しが「競争そのものがいけないのだ」というような競争の全否定だ。つまり、意味もなく競争したがる為末さんのような人と、意味もなく競争を嫌がる人たちは実は裏表になっているのではないだろうか。どちらにも、競争には目的があるという当たり前の認識が失われているという共通点がある。

戦争は制度化された殺し合いだが、すべての人が司令官になることはできない。トップが、戦争の目的を管理し、下士官レベルの人はとにかく勝つことだけを考えることになる。役割分担があるから下士官レベルは何かを考える必要はなかった。これが日本で<バカ>が量産される理由なのかもしれない。将校レベルがいなくなり下士官だけが暴走しているのが今の日本の現状と言えるだろう。為末さんはバカではなく青年将校なのだ。

例えば人間ピラミッドで将校に当たるのは校長や教育委員会だか、彼らの関心は別のところにあり、現場には無関心だ。そこで一部の先生が暴走してとにかく高いピラミッドを作ることになる。例えて言えば、中央軍司令部が壊滅したのに、現場では戦争が続いているようなことになる。こうした青年将校たちが一生懸命に働いた結果「とにかく競争が好き」という人と「とにかく競争が嫌い」という二極端の社会を生み出す。

この為末議論の一番の問題は、日本人が一体何のために戦っているのかがわからなくなっており、だからどのように勝つのかということもわからなくなっているということなのかもしれない。

にもかかわらず日本人は目的の振り返りをしなかった。とにかく社会を維持したかったので「競争に参加しなければ社会的に抹殺しますよ」とか「あなたの価値はなくなるのですよ」と脅すことで負の動機付けを続けた。一方、個人主義のアメリカでは個人が競争に参加するためにはしっかりとした意味づけをしなければならなかった。例えば、アメリカにはコーチングの技術として勇気づけのための「ペップトーク」などという手法があるそうだ。

個人社会は一見バラバラで弱そうなのだが、動機付けられた個人がコミットメントしたほうが競争には勝ちやすくなる。こうしたコーチングの手法が日本で発達しなかったのは、集団により圧力を加えたほうが簡単だったからだろう。

が、このことが「とにかく競争が好きな人」「とにかく競争が嫌いな人」そして「やる気がなく単に競争に参加するだけ」というバラバラな個人を生み出している。つまり青年将校たちが日本を弱くしているのだ。

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情報を鵜呑みにする人々の漠然とした不安

先日、Twitterで加計学園問題について言及したところ絡まれた。かなりムッとしてサディスティックな気持ちがよぎったのだが、ネガティブな感情は自分にはねかえってくる可能性が高いので、事情を聞いてみることにした。なぜ絡んでくるのだろうか。

そもそもの問題は何に怒っているのかがわからないということだった。これがこの手の人たちの特徴になっている。概して言葉足らずで特攻してくるのである。

こういうのは「私の話を聞け」という叫びなので、まずは整理する必要がある。どうやら、加計学園の問題について、加戸前県知事の言いぶんが取り上げられなかったのが悔しかったということらしい。一部、マスコミが取り上げてくれなかったという言説が飛び交っており、それを鵜呑みにしたのだろう。

問題はこの人がなぜ加計学園問題で安倍首相を応援しなければならないほど、心理的にアタッチしてしまったかということなのだが、いずれにせよ止むに止まれぬ気持ちがあるのは間違いないだろう。

加計学園を安倍首相が呼び込んで戦略特区にねじ込んだと思っている人も多いのだろうが、それは違っている。今治市が随分古くから獣医学部を誘致しようとしていたことは広く知られており、そこに応じたのは加計学園だけだった。だから、安倍首相がお友達を連れてきて今治市に「よろしく」といったわけではない。

しかし、だからといって安倍無罪ということにはならない。多分、加計学園には獣医学部を作るような実力はなかったし、そもそも永続的に学校を経営しようとしていた意欲があったかも怪しい。様々な無理を重ねる中で安倍首相が関与したことは間違いがないだろう。このことが様々な歪みを生じさせている。

さらに特区構想にも問題がある。諮問機関が自ら提案したプロジェクトを審査するというのも珍しくないようだ。その審査には関係する省庁の大臣が関与できない仕組みになっている。民主党政権時代の制度を悪用したのかと思っていたのだが、どうやらこれは安倍政権独自の仕組みのようである。首相がほぼ独断で利権を囲い込めるようなっているのだ。

いずれにせよ、野党の追求の見込みも正しくないし、かといって自民党の説明も正しくない。しかし、両陣営ともそれぞれのストーリーを持っている。反自民の人たちは安倍首相がすべてを指揮していたというシナリオにしたいようで、朝日新聞などはそのストーリーにとって夾雑物になる加戸前知事の発言を削除してニュースを伝えたという。一方、自民党の側も岩盤規制を突破しようとしただけだという無理筋のストーリーを押し通そうとしている。そのために、岩盤規制になんども跳ね返されてきたかわいそうな老人というストーリーを作ったのだろう。

実際には、いろいろな情報が出回っているので、その気になればそれを集めてきて自分で判断することは十分に可能だ。例えば銚子の事例から加計学園の実績を調べることもできるし、加計学園が安倍首相に近い政治家たちを支援してきたこともわかる。今治市の土地開発が行き詰まっていて、高速道路網から取り残された結果として地盤沈下が起こっていると訴えている人たちもいる。多分一時間もあれば、与野党のストーリーに無理があることはわかるのだ。

話を聞いてみると、絡んできた人は、どうやら「地方が衰退しているのに都市だけが優遇されている」ということに怒っているらしかった。つまり、自分が主張したいことがあり、それを主張するためにストーリーに乗っかろうとしている。しかし、今治の住人というわけでもなく、瀬戸内海の土地開発の事情や高速道路の状態などについては全く知識がなく、興味もないようだった。

そのことを指摘すると一転して「正解を教えて欲しい」と言い出した。考えてみるとこれは不思議なことだ。まずフォローもしていないのに検索ワードだけを頼りに「こいつは加戸前県知事の話を知らないに違いない」と思い込みいきなり突っかかってきて、話を聞いてもらっただけで「この人は正解を知っているに違いない」と思い込んでしまったのだ。

普段ないがしろにされている人はちょっと話を聞いてもらっただけで簡単に相手を信頼してしまうのかもしれない。だからこそ、ニュースで飛び交っているストーリーにいとも簡単に乗せられてしまうのだろう。

この背景には、自分が何に苛立っているかということが言語化できず、したがって相手にもそれを伝えることができないという事情がありそうだ。そうした状態で党派対立を見てしまうと、どちらかの陣営に簡単にアタッチされてしまうのだろう。あとは、パソコンかスマホの前に張り付いて、それとは違う発言をする人を叩いて、それを政治的議論だと思い込んでしまうのだ。

いずれにせよ、こうした人たちは簡単に騙されてしまう。多分、地方の衰退に苛立ちを感じていて「なんでも都市に持って行かれてしまう」と思い込んでいるこの人は、実は地方の窮状に漬け込んで補助金などを獲得しようとする人を応援するというような皮肉なことが起こるのだ。

自分で判断できないと悪意を持った人たちに先導されやすいのではないかと思うが、そもそも原因は、自分の欲求を言語化できないことにあるように思える。言語化できないとそれを分離して行動に変えられないので、集団の扇動に乗ってしまうのだろう。

背景には学校教育の問題があるのかもしれない。正解を次から次へと詰め込んで行くので、何にでもオーソライズされた正解があると思い込んでしまうのだ。例えば高校程度の授業で「先生の言うことや教科書に書いてあることは正しくないかもしれない」と疑うような授業はない。

日本人は今正解のない時間を生きていて、自らで何が正解なのかを考えなければならない。多分、与党も野党の正解は知らないのだが、他人のストーリーを振りかざしているだけでは、なんとなく不安な気持ちを抱えたままになってしまうのではないかと思う。

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説明責任と言論コミュニティの質

先日Quoraで説明責任について考えさせられるできごとがあった。説明責任をきちんと果たせば心地の良い言論空間が作れる。だが、それを維持するのが難しい。

韓国人は外国にものを売り込むのが得意だが日本がダメなのはどうしてかという質問があった。この違いが出るのは、韓国人が英語を話せるからなのだが、実は国内のマーケットの大きさが関係しているのではないかと思う。韓国は人口が少ない上に同じ言語を話せるマーケットがほとんどないので、海外に出たのだろうと書いた。

その時に、1970年代の人口を使って説明した。韓国は現在5000万人ほどの人口があるのだが、当時は3000万人に満たない程度だった。が、これにたいして「韓国の人口は5000万人なのに、なぜわざわざ1970年代の人口を使うんだ」というクレームが入った。

ネトウヨ系の韓国人だと面倒だなあと思った。これはつまり日本は韓国より大きいということを言っており、であるから日本のほうがえらいというようにも取れるからだ。

だが、一応説明を書いておいた。説明責任というのとはちょっと違うのだが、一応書いたから製造者責任くらいはあるだろう。多分、現在の人口よりも産業が起こった時代の人口の方が関係があるだろうと説明し、さらにGoogleで調べて書いているので(人口を調べるとグラフが出るのだ)変化はわかっていますよと書き加えた。

ほどなくしてupvoteされた。どうやら納得してもらえたようである。少し拍子抜けした。

拍子抜けしたのは日本語での(主にTwitterだが)の議論に慣れすぎているのだと思う。Twitterの議論は一方的な賛同か、敵意をむき出しにするものが多い。両極端のように思えるのだがどちらも人の話はあまり聞いていないという共通点がある。みんな「自分はすでに十分に知っている」と考えているので、説明などは求めておらず、自分の主張を一方的に展開するものになりがちなのだ。

一方、Quoraは「説明を聞いてから納得できなければ反論しよう」という文化が維持されている。議論が建設的になるというメリットがあるばかりか「何かあったら説明しなければならない」というよく説がかかり、書き手もいい加減なことを書けなくなる。さらに、システム側のモデレーションがあり本名でなければならないという規定もある。ただし、名前をチェックされるわけではないので、偽名にしても露見はしないかもしれない。

だが、一番大きいのは、質問者の質だろう。Quoraは英語なので、外国人の場合はある程度アカデミックなバックグラウンドがないと、情報そのものにアクセスができない。日本人が英語で書いているものもあるが、中には「英語がわかりにくい」という理由で後ろに表示されているものもある。つまり、論証した上である程度順序立てて書くことに慣れた人が書き込んでいる可能性が高いのだ。

ただし、こうしたサイトをいつまでも無料で続けるのはかなり難しいのではないかと思う。もでレーションが聞かなくなり、政治的に極端な意見が溢れるようになれば崩壊してしまう可能性もありそうである。

一方、Twitterは誰でも書き込める短文投稿なので、敷居が低き簡単だと思われがちだ。が、実際には詳細な情報を書き込めないので、誤解を生じないように書くのは極めて難しい。そもそも「どう誤解されるか」を予想しないと、誤解されないようには書けない。

さらに、日本人は公の場で発言をすることに慣れていないので、相手を説得するのに不利だなあと思うことがある。いくつかの点で劣っている。

  • 最初から立場を決めているので、客観性にかけると判断されやすい。
  • 敬語の距離関係を間違えている。
  • 議論ではなく一方的な主張になっている。

例えば、こういうツイートをいただいた。安倍首相に帰ってきてほしくないというのは同意見なのだが、こういう書き方をすると、あらぬ反感を持たれかねない。

絶叫調になっている上に、文脈が破綻して途中から自分の言いたいことを言っている。日本人は普段締め付けられている(自粛しているだけなのかもしれないのだが)ので、匿名になると、こういうことになりがちだ。左翼系の人にこういう人が多いのは、自分たちのやっていることが正義であり、当然受け入れられるべきだと思っているからなのだろう。しかし、こうしたコミュニケーション技術の欠如によって、政治にあまり興味がない人たちがいつまでたっても同調しない。そこで結果的に安倍政権が何年も続くという悪循環が生まれている。

さらに不幸なことに、こうした言い切り型のツイートは、実は今の政権中枢にいる人たちに影響を受けている。

どうやら「ぞんざいに書いたほうがえらい」という思い込みがあるのではないかと思われる。こうした「ぞんざい教」は意外と深く広がっている。例えば経済的にあまり豊かでない層の女性たちが子供達にこうした言葉遣いで接しているのをよく見る。一方ある程度教養のある人たちはそれなりの言葉で話すので、言葉の使用方法を聞いただけである程度教養がわかってしまい、乱暴な人たちのいうことはあまり聞いてもらえなくなるのだ。

この「ぞんざい教」の教祖は麻生太郎氏と安倍晋三氏だろう。麻生さんは多分育ちの良さを隠すために偽悪的に使っていると思う。一方、安倍首相は社会主義者や女性といった「弱者」を人間とは思っておらず乱暴な言葉遣いをする。そこで「地位の高い人たちは人の話を聞かず乱暴だ」という思い込みが生まれるのではないかと思う。

こうしたぞんざいで一方的な言葉遣いは教養のなさを示すスティグマになる。安倍首相が説明責任を果たさないのは、そもそも自分が何を議論しているかよくわかっていないからだと思う。つまり、知的に劣っているというスティグマになっていて、これが教養のある人たちに嫌われる原因なのだと思う。

つまり、使っている人たちは気がつかないが、たいていの人はこうした言葉遣いからは距離をおいてしまうか反発を強めてしまうのだ。社会的差別の一種なのだが、そういう差別は存在する。

議論の空間を作るためにはある程度のモデレーションとロールモデルが必要になり、トレーニングも欠かせない。そうしたトレーニングを受けるためにはお金と時間もかかる。日本語で生活しているとそうしたロールモデルすら得られない上に、悪い手本はいくらでもあるという状況があるようだ。それがさらに日常的な議論の質を下げ、悪い政治状況が変わらない原因になってしまっているのだ。

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日本人の<奴隷根性>について

Twitterで、「不都合があっても決まりを守って我慢しろ」という人が多いのはなぜかという疑問を見つけた。「日本人は都合の悪い決まりでも上から押し付けられたら守るようにしつけられた奴隷根性があるからだ」と理解する人が多く、例えば障害者にこのように主張するのはブラック企業と通底する悪い根性があるという。が、本当にそうなのかと思った。

日本人は確かに決まりを変えられないのだが、実はいわゆる「上」の人たちも決まりが変えられない。つまり、奴隷根性のせいで規則を押し付けているわけではなく、何か別の要素があると考えることもできる。

その顕著な例が憲法である。憲法は未だに一度も変わっていないのだが、憲法改正をアメリカに禁止されているわけではない。占領政策の一環という意味合いはあったのだろうが、いずれは自分たちで変えるだろうと考えていたのだろう、だが、政党の中でも意見がまとまらず、まとまったとしてもある程度の数の人たちが大反対してくることになっている。

決まりを絶対視しているわりには、決まりを大切に思っているような様子もない。あらゆる決まりはなし崩しになってしまう。例えば、戦争しないし武力も持たないという決まりはすぐに無効化して、今では完全に形骸化してしまった。1/4以上の国会議員が請願すると国会を開かなければならないという決まりがあるそうだが、多分これも「禁止規定がない」といって無視されるのだろう。「芸能人が不倫をしてはいけない」という決まりのほうが憲法より重大なものだとされている。

これは、高速道路を80km/hで走れという決まりのようなものだ。実際に運転する際には周りに合わせて少し早い速度で行かなければ走らなければならない。警察の目があり「取り締まりがありますよ」ということになってはじめて制限速度が守られることになっている。

憲法が守られるのは「憲法警察」という取り締まり官がいる場面だけなのだろうが、裁判所も重要なことについては判断しないし、国民もあまり憲法には関心がない。ということで政府はスピード違反をやり放題になっている。

さらに決まりを守れという圧力は変な方向に進むことがある。例えば下村文部科学大臣が200万円の献金を「11人で分割した」というのはそれほど問題にはならなかった。こう「説明」すると、’形式的に法令に合致するからだ。本来は国民の疑念を払拭するために始まった制度だが、いつの間にか形式を守るゲームになっている。

こうした事情を考え合わせると、日本人は決まりをやたらとありがたがるのになぜ守らないのだろうという疑問が出てくる。

日本人はかなりユニークな決まりの使い方をしているようだ。相手にプレッシャーをかけて我慢させる時に決まりを持ち出すのである。「決まりなんだから障害者は安い飛行機に乗るな」というのは、実は声をあげて権利を主張する障害者に対する嫌がらせになっている。萎縮させて黙らせようとするのだ。

憲法第9条は政府を非難するための道具になっているが、かといって北朝鮮と直談判してミサイルの開発を止めさせようという人は多くないし、政府に働きかけて核兵器禁止条約への積極的な関与を求めるような世論も盛り上がらない。あまりそれを実のあるものにしようという動きにはならない。

例えば、障害者の声が通ってしまうと「自分よりも彼のほうがえらい」ということになってしまう。それは彼の得点になってしまうので、それを制限しようとするのだ。つまり、決まりを作る人が偉いという気持ちがあるのではないだろうか。

実はこの心情は安倍首相にも通底している。安倍首相は「誰も変えられなかった決まりを変えてみせる」ことで「俺は偉い」という印象を与えたいのだろう。

こうした「決まりを作れる人は偉い」という気持ちを持っている日本人は多い。理不尽な決まりであればあるほどその権力が誇示できることになる。

このように決まりを作る裏には「決められる人は偉い」という気持ちと「勝手に変えられると面白くない」という気持ちがあり、その二つの気持ちが衝突することになっている。

そこで、実際に憲法議論は「どの条項を変えるのが一番受け入れられやすいか」というわけのわからない闘争になっている。つまり、誰の声が大きいかという競争になっているのだ。障害者に関する議論もその延長にすぎない。特に理屈があるわけではなく、ネットの(匿名だが)多数の声のほうが一人の<わがまま>より大きいのだということを納得させたいのだろう。

本来、決まりとはある目的を達成するための手段なので、変えたければ変えればいい。例えばオリンピック競技には決まりがよく変更されるものがあるが、大抵はテレビ映えするようにしたいという動機があるようだ。実力ではなく水着競争になってしまうのを防ぐとか、スピーディーに試合結果が決まるようにルールを調整するというような実利的な変更が行われている。

だが、日本の決まりは、自分の声の大きさを証明するための道具として使われることが多いようだ。コンセンサスを得て新しい決まりを作るよりも、今ある理不尽なルールを押し付けるほうが<経済的>だから、人々はルールを押し付けるのかもしれない。それでは実務が回って行かないので決まりを形骸化させる道を選ぶのである。

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日本をぶっ壊さないために私たちができること

さて、先日来「日本人は元来闘争好きなので、政治が劇場化する」みたいなことを書いている。日本人をディスっている文章なので、閲覧者が減ってゆくのではないかと思っていたのだが、日に日にページビューが増えていて、書いている方が逆に心配になってきている。多分「世の中狂ってる」と考えている人が多いのだろう。

が、政治が劇場化すると問題解決をそっちのけにして、分断が深刻化する。すると社会が弱体してゆくので、どうしたら劇場化が食い止められるかということを考えてみたい。考えては見たいのだが、もしかしたらそれほど興味はひかないかもしれない。

通路は2つある。一つは集団を通じて争うのをやめて個人ベースの競争に移行する方法で、もう一つはかつてのように集団的な闘争心を別の生産的な方向に向けることだ。日本の政治が劇場化するのは、日本人が集団での競い合いに陶酔するからなのだから、それを阻害してさえやればよいのだ。

第一の方法は、集団ではなく個人に焦点を当てることである。個人としての日本人は比較的穏やかなので、個人のままで社会的な交渉をしたり、社会参加する方法を見つけてやればいいことになる。自分たちでモデルを作ってもよいが、すでにこうなっている社会もある。それがアメリカだ。

だが、この解決策には大きな壁がある。日本人は個人としてはとてつもなくシャイなのだ。WEARというファッション系のSNSでは顔を隠している人が多い。中には目だけを隠している人も見受けられる。正体がバレるのがいやというより、目から魂が抜かれるのがいやなのではないかと思うほどだ。それほど、社会に顔をさらすことには抵抗が強いのである。

次の方法は、闘争心を生産的な方向に向かわせることだろう。高度経済成長期の日本人は取り憑かれていたように働いていたのだが、これは経済戦争を通じて負けたはずの相手と対決できたからだろう。このように企業が絶対に負けない戦争をしているうちには問題がない。

自民党が比較的穏健な政党だったのは、利益共同体が母体になっているからだ。「生業」を保証することで生涯賃金を保証したのである。これが崩れて宗教的な団体が支持母体になったころからおかしくなってしまった。前回のエントリではAKB総選挙と企業活動のどっちを優先するかという話を紹介したのだが、実は政治にも同じようなゲーム化の傾向が見られると思う。何かにつけて外野の人たちが集まってきて騒ぎ出す。彼らは問題とは関係がないので、解決したり収束したりということがない。逆にいつまでも騒いでいたいのだ。

例えば、豊洲・築地の問題は「変化する日本の食糧流通に公共がどう関わるか」ということと「観光資源としての日本の伝統をどうやって世界に発信するか」という課題に限っていればこれほどの大騒ぎにはならなかっただろう。しかし、小池百合子東京都知事が東京都の利権を簒奪するために利用したために、全く関係のない人たちを大いに引きつけることになった。

よく、日本の政党はイデオロギー型から問題解決型に移行すべきだなどという人がいるが、それは間違った考え方だ。そもそも現実の政治課題もうまく扱えないのに、どう生きるかなどというイデオロギーを扱えるはずなどないのだ。社会主義イデオロギーに見えていたのは「今の政治はくだらない」というルサンチマンに過ぎない。

日本人が政治による問題解決ができないのは、話し合いではなく集団での闘争を通じてものごとに「白黒をつけようとする」という精神があるからなのだろう。どうしても集団間の闘争によって勝ち得たものが正義だということになってしまうので「どう正しくあるべきか」ということは問題にならない。「勝ったものが正しい」のである。そもそもイデオロギーなど成立しようがない。もし、第二次世界大戦でソ連に占領されていたら世界一うまくいった社会主義国になっていたかもしれないが、どちらにしても深層は民主主義でも社会主義でもないのではないのだろうか。

さて、ここまで「問題は解決できるけれど」「それは日本人の性質上難しいのでは」と書いてきたのだが、政治から生活に戻ろうとする動きはすでに自民党の内部で始まっているようだ。自民党には「正解を目指す闘争」と「経済的利益の追求」という二つの流れがある。前者を象徴しているのは、岸信介・安倍晋三・日本会議・天賦人権の廃止。憲法第9条の廃止などの強さを希求する動きである。が、この動きはすべて分断を前提にしているし、実際に国家を分断させてきた。一方で、経済的利益はある程度自治の効いた利益集団の水面下の話し合いによって決まる。このためある程度は抑制が効いており、多くの人々に受け入れ可能なものになっている。池田勇人が入ったように「みんなの給料が二倍になりますよ」の方が受け入れてもらいやすいのだ。

だから自民党が政権にあるときに憲法改正を言い出すと支持率が急落するのである。どちらが原因でどちらが結果なのかはわからないものの、憲法改正は現実の問題を解決するための道具ではなく、とにかく何だかわからないが「闘争に勝つ」ための手段なのだろう。これは学校の規則を変えて毎日運動会をやるというのに似ている。

現在の懸念は、自民党の一部を代替しつつある小池百合子東京都知事がこの二つの流れをどのような割合で含んでいるかである。自民党内で勝ち上がるために日本会議を<利用していた>のなら、今までの間に、プラクティカルではないと有権者の支持が得られないということを学んでいるはずだがそうでない可能性もある。多くの人たちが自民党の補完勢力になってしまうのではと懸念しているようだが、果たしてそれはどちらの自民党だろうか。

いずれにせよ、西洋的な民主主義をモデルにしている人は、個人が契約を通じて社会と結びつきそれが最終的に政治になるというようなルートを目指すべきだろう。そののちに、北欧のような社会包括性のある国家づくりを目指すべきだが、そのためにはこれには揃えなければならない牌が多く、なかなか実現しないのではないかと思う。それよりも、目的意識が明確な集団を通じて、利得の獲得を目指す高度経済成長型の社会に戻す方が簡単なのかもしれない。

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日本人はすでに新しい戦争状態にある

最近。車椅子の人は飛行機に乗る時に遠慮すべきだという人や、お母さんは国会議員であっても子育てに便宜供与を受けるべきではなく、黙って歩くべきだなどという声がある。これを聞くと「日本は愛のない冷たい社会になった」などと思いそうだが、必ずしもそうとは言えない。そもそも日本は個人にはとても優しくない社会だからだ。

各国の企業文化を研究して指標化したホスフテードは、日本社会が極めて競争的な社会であることを「男性性」という軸で説明している。なかなか面白い指摘を含んでいる。


日本は競争や達成によって、その分野で一番の人が評価されるという社会である。この競争は教育現場から始まり社会人になっても続く。

女性的な社会では相手を思いやったり、生活の質をよくすることが大切になり、生活の質がよいことが成功として評価される。男性社会のように、秀でていることが評価されるわけではない。男性的な社会ではベストであることが評価されるが、女性的な社会は自分たちのやっていることが好きかを評価する。

95というスコアは極めて高く、日本が男性的な社会であることを示している。一般的に男性的な競争というと個人が競い合うことだと見なされそうだだが、個人主義がそれほど強くない日本の競争は集団間のものになりがちだ。例えば、幼稚園児が運動会で白組と紅組にわかれて競争したりするほどだ。

社員がもっとも一番やる気を感じるのは、勝ち組に入ってチームで競争している時である。例えば、ものづくりのように完璧な製品を作る競争に価値を見出す。また、ホテルやレストランのサービスでも、ギフトの包み方や食べ物のプレゼンテーションのやり方で競い合ったりする。悪名高い日本のワーカホリックは、男性性のもう一つの表れだ。労働時間が長いので、女性が出世の階段を登るのはとても難しい。


これを読むと、日本はそもそも優しくない社会であるということがわかる。社会を居心地よくすることにはあまり関心がなく、競争そのものに価値を見出している。ホフステッドは他にも様々な指標を持っているが、男性性だけをとっても日本文化の特殊性が説明できる。

第一に日本人は集団の競争が好きなので、勝ち組に乗って負けた人たちを叩くのが好きである。最近では自民党が勝ち組と認識されているので、負け組である民進党・自由党・社民党・共産党を叩くのが大流行した。人生の中で「勝っている」という実感が得られない人ほど、こうしたグループで「勝ち組に乗っている」というような仮想的な優越感を得ることができるのだろう。

こうした人たちにとっては、競争こそが善なので、居心地の良さや優しさというのはそれほど価値がない。そればかりか、女性や障害者というのは競争の足を引っ張る足手まといで弱い存在なので、それを叩いたとしてもそれほどの罪悪感を感じないだろう。

彼らは勝てる競争を選んでいるわけで、障害者や女性のような弱いものに勝つこと自体が目的になっている。そもそも競い合いが目的なので、彼らを説得しても無意味である。これは運動会で「紅組と白組は仲良くすべきである」というのと同じことだ。そんなことをしたら運動会が盛り上がらない。

韓国の同じ項目を読むと、対立は妥協と話し合いで解決されると書いてある。同じ東洋圏にあっても、韓国は女性型社会なのだ。日本は競争での解決を目指すので、妥協が起こりにくい社会と言える。よく、多数決が民主主義だという人を目にするが、これも競争型社会の特徴である。日本のような競争社会では、勝てば何をしてもよいのである。韓国は女性型社会なのだが、関与によって意思決定が行われるとされる。だから、日本と韓国ではデモのあり方が違っている。競争型の日本ではデモは「負け犬の遠吠え」とみなされるのに比較して、韓国では民意だと考えられている。韓国のほうがより包摂性が強い。

スウェーデンは極めて女性性が高く、すべての人に役割が与えられている状態がよい状態だと考えられているという。ラゴムという「過不足ない状態」をよしとする文化があるそうだ。みんなが納得するまで話し合いを続け、どんな人で社会参加ができる状態をよしとする文化は、日本のリベラルの人たちの憧れとなっている。が、スウェーデンは極めて包摂性が高い社会なので、彼らの制度をそのまま日本に持ってこようとしても支持されない。

が、現代の問題は競争が自己目的化しているばかりか、情報が古いままで止まっているという点だろう。韓国や中国に関する情報も昔のままで止まっているので、中国や韓国は「自分たちが勝てる」存在と認識されていると言える。多分、憲法を改正して軍隊が持てれば勝てると考えているのだろうが、それには根拠はないかもしれない。実際には、韓国の所得水準は日本と並びつつあるし、中国の技術水準は日本を上回りつつある。

この分析を読むと「何のために戦っているのだろうか」という疑問に意味がないということがわかったからだ。例えば組体操の目的は近隣の学校で一番高い人間タワーを作ることであって、それに何の意味があるのかとか、安全にできるかとか、それを作るのが好きかという質問には全く意味がない。とにかく、集団で競い合うことに夢中になっているのだから、事故で脊髄を痛める子供が出てきたら隠蔽されなければならない。競争の邪魔だからだ。

いわゆるネトウヨという人たちは戦争が好きなように見えるのだが、彼らは何のために戦うのかという点にはあまり関心がないのかもしれない。その頂点に立っているのが安倍首相であり、首相は彼らにとってみればヒーローだ。ここで、ポイントになるのは、この戦争はネトウヨの人たちの犠牲を伴わないという点だろう。何の代償も支払わず、勝っている実感が得られるという点が重要なのかもしれない。

そのように考えると、こうした永遠の闘争を繰り広げる人たちを右翼という言葉でくくるのはあまりよくない気がする。さらに面倒なのはこれに対峙する左翼の側の人たちも「紅組と白組」に分かれて戦っており、彼らにとってみても「その戦いにどんな意味があるのか」という問いにはそれほど意味がないのかもしれない。少なくとも闘争好きな左翼の人たちは「負けつつある戦い」を戦っているという意識があり日本人としてはあまり愉快な状態ではない可能性はある。

こうした、極めて競争的な国民性は発展途上国から先進国になるためにはとても有利だったと言えるだろう。が、先進国としては不安の方が大きいかもしれない。車が行きわたったら、今度は行った先でどう快適い過ごすかなどということが大切になってくるわけだが、日本人はそうしたことを考えるのが極めて不得意だ。さらに、競争に意味を見出せない人が増えてくるので、韓国や中国を叩いたり、弱者をいじめたりする競争へと移行してゆくのだが、これはあまり国力の増強には役に立たない。

つまり、日本は新しい戦前なのではなく、極めて無意味ながらすでに戦争状態に突入していることになる。だが、その戦争にお付き合いする必要はないように思う。闘争のための闘争などどう考えても無意味だからだ。

が、それがあまりにも日本の社会に深く根付いているために「居心地のよい社会を作るために、敵を倒す闘争に参加する」という、冷静に考えるとわけがわからない状況が作り出されている。

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