意気消沈する左派リベラル

たまたま行きがかりで政治ネタを書いている。だが、マスコミやネットの情報だけだと現実的なパースペクティブを失ってしまうので、時々現場の人に会うようにしている。だが、今回はかなりショッキングだった。左派リベラルは壊滅しかかっているとすら思えた。

だがもともとさほど実体のない運動であり、下手に政治に関わってしまったゆえに無力感を感じているのかもしれない。つまり、反政府的な盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

民進党の市議の事務所は「来週はどの政党の応援をしているのかわからないが、ボス(奥野総一郎)が比例票頼みなので政策に構っていられないだろう」といっていた。この人は特に政党に思い入れがあるわけではないパートのお留守番の人である。だが、お手伝いなどで他事務所との交流があるらしく、先生方に対して独自の見解を持っていた。

例えば「小西ひろゆきさんが一夜にして豹変したのは面白かったですね」というと「東大出身の人は変な人が多いんですかね」と言っていた。小西さんは変わり者として知られているようだ。中央からは指示はないが民進党ののぼりは表に出さないようにしているということである。賢明な判断かもしれない。だが、意思決定はできないしそのつもりもない。単に「上から降りてきたことを守るだけ」だという。

しかし、本人が信じていないことに対して相手を説得できるはずはない。この辺りが野党の限界だったかなとも思う。

もう一方の市民ネットワークの事務所はさらに悲惨だった。もともとは主婦の助け合いグループをやっている団体で、その傍らでお勉強会をやっている。ここでは「私は単なる留守番なので政治のことはわからない」と必死の形相で断られたのだが、これも以前にはなかったことだ。本部に連絡したところ「情報がなくよくわからない」という。本部には戸惑いの表情があった。このままでは改憲勢力が多数になるのではというと「それは避けたい」と言いつつ「もう国政には関わりたくない」というスタンスのようだ。左派リベラル政党がいろいろと好き勝手なことを言ってくるので、かなりまいっているのではないかと思われる。

このスタンスは徐々に広がっているようで参議院選挙の時も自主投票だったようである。つまり左派リベラルの亀裂は徐々に進んでおり、市民団体が手を弾きつつあることがわかる。つまり無党派層が政治から離れているだけではなく地方の支えても距離を取り始めているようなのだ。

もともと彼女たちが政治に関わるのは「なんとなく社会にも意識があってえらい」と思ってもらいたいからである。にもかかわらず、政治に参加すると難しい議論を吹きかけられたり揶揄されたりする。これでは「立派だ」と思ってもらえないのだから、彼女たちが距離をおくのもわからないことはない。

いずれにせよ、どちらにも「私は政治のことはよくわからない」という諦めに近い気分が蔓延している。これが現在の左派リベラルの実体2近いのではないかと思う。盛り上がっているのは永田町だけである。

地震の後の反原発運動や、安保法制の制定時にはそれなりに盛り上がりがあった。

それは一連の運動が「戦争はダメ」とか「きれいな環境を子供達に残そう」という単純で立派なメッセージに依存していたからであろう。

だが、現在では同じ人たちが意気消沈している。目の前で議員たちが右往左往しているのを見ているのだから恥ずかしいという気持ちになっても当然といえば当然なのだが、一方で革新というのは今はない社会の実現を目指すのだから本来的に孤独であるとも言える。だが、均質な村落社会しか知らない人たちにそんなことを言ってみても無駄であろう。

デモに参加していた人たちは勉強会などで同じような考えの人たちに囲まれているうちに「これが99%の声である」と思い込んだのかもしれない。デモに参加しても同じような人たちがいて一体感を味わっていた。しかし、デモは現実の政策に何の影響も与えなかったし選挙結果も変えなかった。それどころか戦況はどんどん悪くなる。

つまり盛り上がりがあったからこそ、現在の意気消沈ぶりがあるということになる。

だがこれを左派リベラルの壊滅と考えるのもまた一方的すぎる見方かもしれない。

2009年の政権交代のときには自民党の人たちが同じように感じていた。「公共事業は全て悪である」というような極端な空気があり「話を聞きたい」などというと「お前は民主党の差し金で俺たちを笑いに来たのだろう」という極端な被害者意識があった。

どちらも実体のない被害者意識だが、現実に存在し、我々の周りに蔓延している。自民党はこの被害者意識から抜けらえず「民主党が勝ったのは国民がバカだからだ」という世界観を持つに至り、憲法改正案に天賦人権の否定という極端な主張を取り入れることになった。

デモが盛んだったときにはわからなかったことだが、デモはかりそめの一体感と引き換えに、その後の極端な鬱状態という副作用を引き起こすようだ。

その裏には政治リテラシーがない人たちがかろうじて政治を支えているという事情がある。自分で考えることがなく、答えをコピペしていることから起こるのだろう。

この状況をどう見ていいのかはわからないのだが、とりあえずありのままに報告しておきたい。

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冷笑と炎上の間で日本の政治は徐々に悪くなってゆく

面白い発見をした。この発見を元に、日本の政治家が変わらないのも政治家がバカばかりなのも日本人が鏡を見ないからだという説を唱えたい。

ある日気になるTweetを発見した。日本人は権力に唯々諾々と従っている奴隷思考だというのだ。多分、安倍首相のようなでたらめが放置されていることに憤っているのだろう。気持ちはよくわかる。だが疑問に思ったこともある。「自分は政権の奴隷だから決められたら従うしかない」と思っている人を見たことがないのだ。俺に政治をやらせたほうがうまく行くと考えていそうな人は多いし、政治系のニュース番組も人気がある。「政府がこんなことを決めましたから守りましょう」などという話はなく、政治家がいかに愚かでめちゃくちゃかということばかりを報道している。このブログでも「なぜ政治家は馬鹿なのか」というエントリーにはとても人気があるくらいだ。

そこで、素直にそれを聞いてみることにしたのだが、聞くときに「これはレスがつかないだろうなあ」と思った。だが、そう思った理由はわからなかった。30分ほど経って「私」が主語になるのがいけないんだろうと思った。

冒頭のツイートの「日本人は」というのは、実際には「私以外のみんなは」という意味である。つまり自分は政府に唯々諾々と従うつもりはない。そしてそれは「私以外のみんなは劣っている」という含みを持っている。つまり「有権者も他人もみんなバカ」という意味である。

だから、これが自分に向いてしまうと「私は劣っている」ということになってしまい、許容できないのだろう。だから、聞くならば「日本人は政治の奴隷ですか」というような聞き方をしなければならなかったことになる。この主語だと「私は違うけどね」という留保ができるからである。

結果的には7票集まった。「私が政治を変えられる」という人が2名いたのが救いといえば救いである。

あまりレスがつかなかったので、野党に対して冷笑的なツイートをしてみた。こちらにはぼつぼつレスポンスがあったので、特にツイッターが壊れているとか、嫌われたということではなかったようだ。

野党がだらしないとか安倍さんが戦争を従っているというようなツイートには人気があるので、政治に興味がある人は多いはずだ。では、なぜ「私」がこれほど忌避されるのだろうか。

試しに自分で同じ質問をしてみたが、答えは「私は政治を変える力を持っている」になった。実際にはそれは大変難しい作業ではあるが、社会は個人の集積に過ぎないので実際に変えられるのは個人の力だけであると言っても良い。

しかし、実際にやってみるとうまく行かないことの方が多い。地方自治体に話を聞きに行ってもたいていは相手にされないし、政治家の事務所などでも「感じ方はそれぞれですからね」などと言われて終わりになることが多い。実際に接してみて感じるのは、日本人は個人の意見をないがしろにするということだ。肩書きやどれくらい仲間がいるかということが重要だ。言い換えれば騒ぎになりそうなら対応してもらえる。よく炎上が問題になるが、これは仕方がない側面があると思う。つまり、炎上させないと個人の意見は放置されるが、いったん燃え広がると相手が右往左往することになり立場が逆転するからだ。この間がないので炎上がなくならないのだろうと思う。

だが、時々こういうことをやらないと、逆の万能感に支配されることになる。つまり何もしないで単に政治批評ばかりしていると何もしないがゆえに自分はやる気になればなんでもできると思ってしまうのである。つまり、鏡を見ない限りは優越的な立場でいられるわけである。

これは例えていえば、プロ野球で金本監督をヤジっている阪神ファンが実はプロ野球の現場では一球も打てないという現実を突きつけられるようなものである。だから「阪神は打線を充実させるべきだと思いますか」とは聞いてもいいが「じゃあ、お前はどれくらい打てるかの」などと聞いてはいけないとううことになる。

日本人の集団に対する期待と個人を信じない態度はなにも国民の間に見られるだけの態度ではない。

例えば、安倍首相は軍事的には何のプレゼンスもなく、国連で聴衆が集まらない程度の人望の指導者に過ぎないが、世界一強い国とお友達であるという理由で気が大きくなっているようだ。世界中が呆れる中で「北朝鮮を追い詰めるべきだ」と叫んで演説を終えた。これは個人(日本一国)では何もできないという気持ちの裏返しなのだろう。

この危険性は極めて明確だった。つまり、安倍首相は集団思考に陥ってくれる。つまり「アメリカがなんとかしてくれるだろう」とか「国際世論を北朝鮮避難に向けることができればあとはなんとかなるだろう」という態度になっている。日本には当事国意識はなく、北朝鮮が暴発した時に責任をとるつもりはなさそうだし、その能力もないだろう。

全体主義について見ていると「私が声をあげても何も変わらないだろう」という無関心が、やがて社会を破滅に導いてゆくというはっきりとしたストーリーが見える。日本がそうなっているとは思わないのだが、悪い兆候も見られる。若い人たちの中には、右翼的なことをいうと注目してもらえたり、左翼的な人たちを「釣れる」と考えている人がいるようだ。また、漠然と普段から右翼的な物言いをしていると政治的に優遇してもられるのではないかと考えている人もいそうだ。つまり、炎上と冷笑を繰り返すこの政治的態度は次の世代にかなり歪んだコミュニティ像を作っているように思える。

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All for All – 日本は全体主義の国になったのか

このところ全体主義について書いている。テーマになっているのは日本は全体主義の要件を満たしていないのに、なぜ「全体主義になった」といいたがる人が多いのかというものだ。実際にこのブログの感想にもそのようなものがあった。多分、安倍首相が全体主義的だと言いたいのだと思う。

全体主義には幾つかの背景がある。なんらかの競争があり、弱い個々のままでは勝てないから個人を捨てて全体に奉仕することを求められるという社会だ。しかしそれだけではなく全体から零れ落ちる人が出てくる。例えばナチス政権下のユダヤ人や障害者は全体には入れてもらえず、排除されなければならないと考えられた。

前回「シングルマン」を見た時に中で出てきたハクスリーの「すばらしい新世界」について少しだけ調べた(シングルマンにすばらしい新世界が出てくるわけではない)のだが、このディストピアではエリート層を支えるためには知能が低く外見的にも劣っている下層な人たちが必要と考えられていた。イギリスとドイツの違いはここにあるように思える。ドイツでは下層で醜いとされたユダヤ人は抹殺されなければならなかったが、イギリスではエリート層を支えるためにはこうした人たちが必要だったという認識があったようだ。階級社会であり、なおかつ古くから植民地経営をしていた国と後から乗り出した国の違いだろう。

このことからグローバリゼーションのような枠組みの変更が全体主義の成立に大きな役割を果たしていることがわかる。冷戦化の世界では下層で醜いとされた人たちは社会の外側におり直視する必要がなかったし、それに保護を与える必要もなかった。ところが、グローバリズムが進展しこうした人たちが社会に流れ込んでくると、それをどう扱うのかということが問題になる。建前上は同じ人間だからである。

特にアメリカは奴隷出身の人たちにも市民権が与えられており、本来は法的に保護を与えられないはずの不法移民たちまでが社会保障を要求している。経済的に豊かな白人はそれでも構わないが、余裕のない人たちにとっては許容できる範囲を超えている。そこで白人至上主義という全体主義的な主張が生まれるわけだ。だが、自分たちが下層階級の仕事をやろうという気持ちがあるわけではない。社会の外に追い出して自分たちだけは特権を享受したいという気持ちなのだろう。

アメリカやヨーロッパは移民の流入を許したことが全体主義を蔓延させる要因になっている。だが日本はそこから「学んで」おり、技能実習生という制度を作り労働力だけを移入したうえで社会保障の枠外に起き、定住させないように結婚や子供を制限するという制度を作った。ゆえに日本で全体主義が蔓延するはずはない。唯一の例外が植民地として支配した朝鮮半島なので、未だにこの人たちの存在が過剰に問題視されたりする。

にもかかわらず「日本は全体主義化しているのでは」などと書くと強い反応が得られる。これはなぜなのだろうか。日本は全体主義とは違った「社会を信頼しないバラバラな大衆が住む」社会になっているので、政治家たちはなんとかして個人の関心を社会に集めなければならない。そこで全体主義的なスローガンが持ち出され、それが却って反発をうむということになっている。

この観点から全体主義のメッセージをみるとちょっと違った見方ができるかもしれない。二つのメッセージがある。一つは一億層活躍社会でもう一つがAll for Allである。これは、社会に対する「すべての人の」動員を求めるという意味で共通している。

例えば一億総活躍社会は一見全体主義的に見えるが、実際にはエリート層が下層階級の人たちを搾取し続けるためのメッセージになっている。先進国から滑り落ちてしまったために外部からの労働力に期待できない。そこで、高齢者も安価で動員しようという主張である。これが全体主義と言えない。大衆から発せられたメッセージではなく、’誰も発信する政治家を信じていないからだ。

一方でAll for Allも全体主義である。その証拠にAllが二回もでてくる。これは笑い事ではない。これは、誰も民進党を支持してくれないからみんなで支持してくれよというもので、すでに政治的なメッセージですらない。前原さんが悪質なのは全体主義はエリートが大衆に与える幻想だということを理解した上で、それを「みんなのために頑張るのですよ」とごまかしている点だろう。が、実際には無害なメッセージだ。民進党も含めて誰も前原さんのいうことを本気にしていない。カリスマ性がない全体主義の訴えは無視されてしまうのだ。

小池百合子東京都知事は自分とお友達で都民ファーストの会の人事を決めており、これは全体主義的だと言える。だが東京都民がこれを放置しているのはどうしてなのだろうか。それは政治のような汚いことに関与せずに、いい思いをした古びた自民党を掃除してくれるからだという認識があるからだろう。つまり、政治というのはそれほど汚いもので関与したくない。かといって誰かが陰に隠れておいしい思いをするのをみるのも嫌だ。そこで誰かが処理をしてくれることを望んでいるのである。誰も築地や豊洲がどうなるかということに関心はない。この感情を「シャーデンフロイデ」というのだそうである。

こうした主張が出るのは、日本人がもはや社会を信頼していないが、経済的にはそこそこ満たされており、なおかつ社会的秩序も保たれているからだろう。経済的にある程度の豊かさがあれば引きこもるスペースもあり、引きこもっていても豊富にやることがある。さらに政治は完全に私物化されているので(首相が自分たちの勢力を維持するために特に理由もなく国会を解散し、そこで得た勢力を利用し、特区を作って友達に利益分配している)社会に対して積極的に貢献する理由がない。そこで、政治はなんとかして有権者を引きつけようとして全体主義へと誘導しようとしている。

つまり、日本と欧米は真逆の位置にあるのだが、不思議なことに同じように見えてしまうということになるのではないか。

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全体主義と「言論圧殺」そして安倍さんの罪

アーレントの全体主義の起源についての番組を見ている。今回はいよいよヒトラーが大衆の被害者意識に形を与えるというところまで来た。アーレントの定義では、大衆は何にも所属せず、どうしたら幸せになれるのかということがよくわからない人たちを指すそうだ。それは物質を形成することができない原子のようなものである。経済がうまく回っている時にはこれを苦痛に考えることはないのだが、一度苦境に陥ると陰謀や物語などを容易に受け入れる母体になるというようなことが語られていた。

しかし、今回は少し別の実感を持った。現在、安倍首相が日本に与えている形のない不安について実感したからである。これは全体主義者やポピュリストが与える物語とは別の形で社会を蝕むのだが、その帰結は同じようなもので、人々は信じたい物語を捏造し、別の意味での全体主義へと突き進む可能性があるのではないかと考えて、少しおびえた。

菅野完という人がTwitterのアカウントを凍結されたという「事件」があった。人々はTwitter社はなぜ人種差別主義者を放置しているのに菅野さんだけをアカウント凍結するのだと文句を言い始めた。

いろいろな指摘を読むと全く別の指摘もある。菅野さんは最近、性的暴行事件の裁判に負けていた。毎日新聞によるとその後控訴しているが、好ましくない行為があったこと自体は認めている。しかしながらその後もこれに関係する言論を続けており女性側が苦痛を感じて「Twitterをやめるべきだ」と要望したのではないかというのだ。

もし、これが事実だったとすると、Twitter社が「この事件のせいでアカウント停止したんですよ」などとは言わない方がよいことになる。菅野さんが余計恨みを募らせて言論活動を活発化させる可能性が排除できないからである。

もちろんこのせいでアカウントが停止されたかどうかということはわからないのだが、安倍首相らがわざわざTwitter社に手を回したり、電通が忖度したという込み入ったストーリーと少なくとも同程度には信憑性がある。問題はそれをツイッター社以外の人は誰も知らないということだ。第三者委員会のようなところに判断を委託した方が公平性は確保できるのだろう。

しかし、この件を批判する側が選んだストーリーは、日本の言論は圧迫が進んでおり、そのうち政権が「言論弾圧を行うようになるだろう」というものであった。そして、それを阻止するためにTwitter社に乗り込むべきだなどという人まで現れた。

この件の裏側には何があるのかと考えた。第一に被害者意識を持っている側のTwitter依存が挙げられる。Twitterは確かに便利な道具ではあるが唯一のプラットフォームではない。言論に対する攻撃ということを考えると、複数の言論装置を持っているべきで、1つの言論装置に執着するのはかえって危険である。だが、依存している立場からすると他にも使えるプラットフォームがあるという知識がなく、さらにそこに人々を動員する技術もないのだろう。だから人が多くいるところで騒ぐようになるのだ。


本題からは脱線するがミニコラムとしてネットワークの脆弱性について考えてみよう。

これが現在の状態。Twitter依存になっているので「悪の帝国」がTwitterを支配するとすべてのネットワークが切断されてしまうことになる。

プライベートなネットワークを混ぜたもの。一つひとつのネットワークは脆弱でも全体のつながりは維持されるので「攻撃」に強くなる。

実際のコミュニティは細かく分散している。ここで同質な人たちどうしがつながっているだけのネットワークは広がりに欠けるが、異文化間の交流(緑の線)があるとネットワークが強くなる。こうしたつながりを持ったネットワークは緊密さが増すのだが、これを「スモールワールド現象」と呼んでいる。だが、政治的なネットワークの場合「右翼の島」や「左翼の島」ができるので、それぞれのネットワークだけを見ているとあたかも自分の意見が世界の中心のように見えてしまう。

実際のネットワークは島を形成している。スモールワールド性がなく広がりに欠ける。

こうしたことを行っているのは左翼活動家だけではない。著名なジャーナリスト、脳科学者、政治学者などもいて「疑わしい」と騒ぎ立てている。もし本気で言論弾圧を心配するなら、今の装置も維持したうえで、自前のプラットフォーム「も」作り人々をそこに誘導した方がよい。

しかし、彼らが過剰に心配するのにも根拠はある。安倍首相は控えめに言っても大嘘つきでありその態度は曖昧だ。さらにマスコミの人事に介入したり抗議したりすることにより言論に圧力を加えているというのも確かである。さらに犯罪を犯したのではないかと疑われる人たちを野放しにし、国会審議を避けている。そのうち本当に人権が抑圧されるのではないかという人々の不安には根拠がある。

その上「解散を検討している」と言い残して渡米してしまった。マスコミでは解散が決まったなどと言っているのだが、実際には本人は理由も時期も説明していない。帰ってきて「いつ解散するって言いました」などと言いかねない。このように人々を宙ぶらりんな状態にして混乱するのを楽しんでいる。国民を1つにして安堵させるのが良い政治なのだとしたら、安倍首相の姿勢は悪い政治そのものである。不安を煽り対立を激化させているのだから。

このように考えると、戦うべき相手はTwitter社ではないということがわかる。実際には安倍首相を排除しない限りこうした不安定な状況はいつまでも続くだろう。ここで冷静さを失うのは得策とは言えないのではないだろうか。

Twitter社は日本の言論がサスペンデッドな状態に陥っており、政治プラットフォームとして利用されている現実を受け入れるべきだ。しかし、個人的にはあまり期待できないのではないかと思っている。

このように考えるには理由がある。個人的にアカウントを凍結された経験がある。もともとTwitterにはそれほど期待していなかったので自動で発言を飛ばすツールを利用していたのだが、これが規約に引っかかったらしい。「らしい」としかわからないのは、Twitterがなぜアカウントを凍結したのかということを言わないからである。ということで、機械ツイートを避けて時々関係のないつぶやきを混ぜることにしている。

最初は「面白い騒動だな」などと思って見ていたのだが、人々の根強い不安感を見て少し考えが変わった。本来なら政治が変わり、ツイッターが心を入れ替えるべきではあるのだが、他人を変えるのは難しい。できるのは正しいITの知識を持ち重層的なプラットフォームを構築することではないだろうか。人々はそのために自ら行動し、お互いに助け合う必要がある。

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水原希子に関する雑感

水原希子というアメリカ人が差別の対象になっているとして大騒ぎになっているようだ。どうやら母親が在日の韓国人らしいということで「日本人の血が入っていないのに通名で通すのはは厚かましいのではないか」という非難の声があり、擁護する側も通名を使ってなぜ悪いなどと言っている。

所詮他人の人生なのでいろいろ書くのはやめようかなあと思ったのだが、違和感というか思うところがあって書いてみる。彼女は日本人を思わせない名前で活動すべきだったと思うのだが、それは彼女の過去の言動や血すじなどとは全く関係のない話である。つまり、日本人は社会として公平にその人の力量や価値などを見ることができないのだ。つまりこれは日本人の問題であると言える。

水原さんが「オードリー・ダニエル」という名前で、主に英語を話すがときどき日本語を話すくらいであればこれほどのバッシングを受けることはなかったと思う。いわゆる外タレ扱いということになり「日本語も話せてすごい」ということになるからだ。なので、差別を避けるならこの線で行くべきだったということになる。

自分が好きな名前で暮らせる国になるべきだという人がいる。確かに理想なのだが、これは日本人には無理だろう。外国人に対する偏見がひどすぎるからだ。一概に差別意識というが、実際にはかなり複雑だ。見くだしによる差別もあるがその逆もある。だから実際に自分が出自によりステレオタイプでしか見られないという絶望的な体験がない人には補正は無理なのではないかと思う。

個人的にはこんな体験をした。例えば外国人(スウェーデン人だったりカナダ人だったりする)のデザイナーを連れていって英語で話をしているととても信頼されることがある。多分、英語がかっこいいとされているからだ。日本人(その人も英語ができる)のデザインと混ぜて持っていってもすべてのデザインがすばらしいという。が、その外人がプロジェクトを外れることになった瞬間に「仕事をキャンセルしたい」と言われることがあった。「外人が作ったデザイン」というのを売りにしたかったのだと言われたこともあるし、そうでない場合もある。日本人だけが来ると「特別感」がなくなり、色褪せて感じられるのだろう。

面白いことにこれはタイ人(アメリカで教育を受けており英語に訛りがあまりない)のデザイナーにも当てはまった、つまり、英語を話すコミュニティは高級だと考えられているので、それがアジア人でも構わなかったのである。と、同時に誰もデザインなど見ておらず「英語でミーティングができる俺はかっこいい」と考えていたのかもしれない。英語に特別感があると思うのは、タイ人がたどたどしい日本語で話すと「アジア人のデザインは本格的ではないのだ」などと思われかねないからである。

だが、面白いことに外人だけで営業に行かせてもダメだった。つまり、外人だと融通が利かないので無理が言えないと思うようなのだ。つまり、ちょっとしたニュアンスが必要なことは日本人に伝えて、かっこいい部分だけ外人と仕事がしたいと思うようなのだ。つまり、たいていの日本人は英語のデザインはかっこいいが、ガイジンは日本人のように融通は利かないと漠然と思い込んでいるのである。

もう一つの事例は日系アメリカ人についてである。英語で話をしている分には一級国人として扱ってもらえるのだが、日本語で話すと途端に「日本語が下手な二級市民」扱いされてしまう。だからアメリカでは積極的に日本語でコミュニケーションをとっていても、日本では日本語を話したがらなくなる人がいる。これは印象の問題ではなく、実際にアパートが借りられるかなどという実利的なことにもかなり影響が出てくる。だから、例えばなんらかの取引に出かけるときには、たとえ日本語ができたとしても日本人の友達を連れて言ったほうが、いろいろな話がまとまりやすいかもしれない。こちらも何かトラブルがあった時日本人の知り合いがいればちょっと無理が利くなどと思うようだ。

つくづく思うのだが、日本語が話せるだけでなぜ「この人は、業者の分際というものを理解しており、無理が言えるのでは」と思うのだろうか。

ここから言えることはいくつかある。一つは差別というのは一方で無条件の卑屈さを含んでおり、それには大した根拠はない。

例えば水原さんが「オードリー」という名前で活動しても水原さんの実態は変わりはないはずで、わざと日本語をたどたどしく話すのは「本当の自分」ではないと感じるかもしれない。だが、そもそも日本人は「ありのままの人間」などという概念を信頼しておらず、東大卒業のだれそれさんとか、英語が堪能なだれそれさんという漠然とした肩書きを通じてしか人間を見ていない。

これは日本人にも当てはまる。外人と普通に話している私と、普通に日本語で話している私では扱いが異なるということはあり得る。例えばレストランやカフェでの席の位置が変わったりすることになる。つまり、中年が一人でレストランに入ると「詫びしい」感じになるが、外人さんたちと一緒だと「英語ができる有能な人」扱いになったりするのである。

もちろん、マイノリティとマジョリティでは感じ方は異なるかもしれない。マジョリティはこうした待遇の違いを選択的に感じることができるわけだが(「普通の日本人」を選択することもできる)マイノリティにはそうした自由はないので「本当の私」というものがあるのではないかなどと思ってしまうのかもしれない。が、日本ではマジョリティでもアメリカに行くと「英語があまりうまくない」というラベルが強制的に貼られてしまうので、クロスカルチャで生きる以上、こうした差別感情とは無縁ではいられない。だから、そうした経験をしたことがない人がいろいろ論評するのは、実はあまり意味がないようにも思える。

いずれにせよ、日本人が外国人(これは在日の人を含む)に対して持っている感情にはほとんど根拠もない。根拠がないのだから、受け入れられやすいラベルを作ってもあまり関係がないのではないかと思える。

この話の悲劇的なところは同化しなければしないで叩かれ、かといって同化しても認めてもらえず、帰って異質なものを強調して日本人を見下すように行動すると尊敬されるというところにある。日本人であってもこの浅はかさに辟易してしまうほどなので、当事者の外国人の中に日本人を見下す人がでてくるのも想像ができる。

面白いことにこうしたことはソーシャルメディアの世界でもしばしば問題になる。つまり「自分を盛ってしまう」ことに罪悪感を感じ、本当の自分を見せるべきだとか本当の自分を見て欲しいなどと思い始めるのだ。だが「日本人は誰も周辺情報ばかり気にして中核を見ていない」とわかれば、こうした罪悪感は減るかもしれないと思う。

つまり、本当の私などどこにも存在しないのだ。

 

人がブロックしたりブロックされたりするのを楽しむのはなぜか

前回、ある人のツイートを引き合いにして、北朝鮮と核についての一文書いた。が、ちょっと長めの文章なので、その人からは何の反応もなかった。今のところはブロックもされていないようである。だが、中には反論してブロックされた人もいるみたいだ。その人の名前をTwitterで検索するとブロックという用語が候補として出てくる。

何が違うのだろうかと考えたのだが、党派性が関係しているのではないかと考えた。この人のツイートを見てゆくと、社会党に対する強い反発心を感じる。これはコンテクストの集積になっていて一つの物語というか概念の塊を作っている。だからここに触れるものに対してアレルジックな対応が起こり、それを理性で包むとあのような対応になるのだろうと思われる。

もう一つの可能性は、ストーリーの一貫性にこだわる人がいて、社会党の主張がそれに対してノイズとして働いているというものである。実際の物語は多面体になっているので認知するためには複雑な知性が必要なのだが、多面体を扱えない人というのもいるのだろう。もっとも単純なのは陰謀のせいにして夾雑物を取り除くことだが、ある程度の知性が残っていると「理性的に夾雑物を取り除こう」とするのだろう。

どうやら、議論と対話は二重通信になっているようである。一つは論題そのもので、もう一つは待遇と関係性に関する通信だ。つまり、論題そのものは反対意見であっても、党派性は同じですよといえばこうした対立は起きないだろうし、待遇表現をつけてやれば相手は攻撃する材料を失ってしまうということになる。どちらにせよ、複雑な多面体は扱えないので、こうした要素は「ないもの」としてキャンセルされてしまうからである。

それでは複雑さとはなになのだろうか。それは認知力ではないかと思う。つまり、ある事象があったとして、それを自分の立場と相手の立場から検討した上でその関係性を把握しなければならない。だが相手は自分とは違う認知をしているということがそもそもわからないか、相手の立場から状況がどのような思考を与えるかということがわからなければ、そもそもそのような検討をすることはできない。

これは「努力していないからわからない」のではなく、そもそも最初からそのような認知力がないのだろうと思われる。

少なくともこのことから、北朝鮮ミサイル問題というのは別に彼らにとってはどうでもよいことなのだということになる。そこで改めてスレッドを見てみると、反論してきた人を諭したり論破してみせたりしていることがわかった。つまり、関係性をうまく結べないために、反論という形で相手を煽っているのだ。論題は一種の承認欲求を満たすための道具なので、利用できないとわかるとブロックしてしまうのではないだろうか。だが、それがコミュニケーションの稚拙さなのか、先天的な認知の問題なのかはよくわからない。

しかし、考えてみるとこれは異常な事態だ。なぜならば北朝鮮という隣国が核兵器を開発して日本に打ち込むことが可能なのだ。国連を中心にして経済的に結びついた世界では、主権国家が過剰な被害者意識を募らせて勝手に武装を始めるというのは想定していない状況であり、全体の秩序にとっては大きな脅威である。にもかかわらず、これを<議論>している人たちは、それよりも自分がどのように待遇されているかということの方が重要なのである。

いずれにせよ、こういう人はそもそも議論というものに意味があるとは思っておらず、単に「自分が承認してもらえるか」ということにしか興味がない。しかしそれは当たり前だ。そもそも相手が違う立場を持っているということがわからないからだ。議論というのは立場のすり合わせなのでそもそも議論は成立しない。

相手と一緒にアウトプットを作ろうとは思っていないのだから、こういう人たちと関わるのは問題解決という意味では時間の無駄である。ただし、関係を結んでおくと「トク」になる人もいるので、そういう場合には、逆らわずに頷いておくと良いのかもしれない。裏返しにすると論題についての態度は意思決定になんら影響を与えないからである。だから賛成しようと反対しようとアウトプットには影響がないのだ。

こうした事態に問題があるとしたら、それは別のところにある。それが絶望感である。

組織や集団に無力感が進行すると、すべての人たちが待遇をもとめて、問題解決をそっちのけにして議論を繰り広げるということになる。ここから生まれるのが党派の細分化である。コミュニケーションの稚拙さと絶望感がないまぜになった状態の例として昔の左翼運動がある。過激な左翼運動はやがていくつものセクトに分裂し、世間から見放されながら権力闘争を繰り広げた。「自分たちは世界を帰ることができない」という絶望感が内部に向かうと、つぶしあいが始まるのである。最近では民進党が自滅への道を歩み始めたが、実際に政権を担当してみて何もできなかったという絶望感が根底にあるのだろう。

 

 

Twitterにおいてブロックというのは自分がコントロールできる唯一の表現なので、待遇にこだわる人はブロックを多用するのだろう。が、こういう人が増えるのは問題解決によって状況をコントロールするのを諦めた人であるとも言える。

安倍首相は国際コミュニティを無視して、自分の方が北朝鮮よりえらいということを一生懸命になって証明しようとしている。かといって、自分で軍隊を持っているわけではないので、彼ができることは、国連安保理に泣きつき、北朝鮮を挑発し、アメリカをけしかけるだけである。

多分、ヨーロッパのリーダーたちは世界の秩序を維持することが自国の安定に重要であるということがわかっており、中国やロシアのリーダーたちはアメリカを牽制することで自国のプレゼンスを高めようという意識があるのだろう。だが、安倍首相は自分の政府すらコントロールできていないので、世界の秩序を維持するために日本がどう貢献するかということにまで頭が回らないのだろう。目的意識を失ったリーダーというのは恐ろしいもので、核不拡散条約を批准していないインドに原子力技術を売り込みにゆき、北朝鮮には核不拡散条約に従うべきだなどという主張をしている。

そのように考えるとこうした「自分たちは状況を変えられない」という気分は国のトップからかなり下の方にまで蔓延しているのではないかと思う。考えてみると、バブル崩壊以降何をやっても状況が変えられなかったわけで、こうした絶望感が深く根付いているのかもしれない。

全体主義・教育・戦争に関する漫然とした雑感

今日は、漫然とした雑感を書く。一応つながりはあるが、それを最初から説明するのは難しい。

アーレントについての番組を見て、全体主義が生まれる背景には国家間の競争があるということを学んだ。その当時は帝国がそれぞれの経済圏を自前で作る必要があった。しかし、その経済圏はお互いに衝突し、最終的に戦争がおきた。もはやお互いにぶつかることなしに経済圏を拡張することができなかった。

第二次世界大戦後はその反省から世界経済圏が作られた。このため各国は自前で経済圏を防衛する必要がなくなったはずだった。冷戦構造がなくなると、それはいよいよ現実のものとなるはずだった。

もし国家間が競争しないとしたら、国民はまとまる必要がない。したがって内外に敵を作る必要はなくなる。ということは全体主義も生まれずパリアのような存在も必要がないということになるだろう。

例えばアメリカには州間競争があり、多様性が重要視される良海岸と内陸部の対立がある。ここで競争に取り残された内陸部の白人が白人至上主義意識を持つことは理解ができる。両海岸部では、人種差別思想というのは、知的弱者のスティグマであり、それが内陸部では却って反発意識を生むだろう。トランプ大統領が嫌われるのは、こうした知的な劣等さの象徴のような人がアメリカを代表しているからだ。一方でトランプ大統領が成立し得るのは、内陸部が競争に負けてはいても、量海岸部から豊富な資金が流れ込むからである。つまり人種差別的な白人は実は両海岸部の移民に食べさせてもらっているという側面があるのだ。

アメリカでポリティカルコレクトネスが叫ばれるのは、少なくとも都市部では人種差別者だと見なされると社会的に抹殺されかねないからだ。IT産業のエグゼクティブの中にはインド系や中国系が多く、エンターティンメント産業で働くとユダヤ人(主にお金を持っている)やゲイの人たちと働くことになる。地方部では、もはや白人の間に希望がなく、こうした人たちを恐る必要がない。

日本には二極化がなく、したがって強烈な差別意識が生まれる必然性はない。しかし同時にアメリカの内陸部のように希望のない状態になっており、これが野放途に差別発言を繰り返しても特に社会的に罰せられないという状態になっている。

一方、競争の消滅には別の側面がある。国家間から競争がなくなると政治的支配者は国民に投資をする必要がなくなる。

民主主義は国民のコミットメントを勝ち取ることにより強い国力を生み出す。それで国家間競争に優位になる。絶対王権より議会王権が優れており、議会王権よりも民主主義の方が優れていた。ところが、競争からドロップアウトしてしまうと教育などの投資をする必要がなくなる。

安倍首相は教育についての壊滅的な考え方で知られる。国民にはリベラルアーツは必要なく、単に職業訓練をするべきだと考えているようだ。これは、自分で考える人間は一握りでよく、あとの人たちは自分でものごとを考えずに、エリートにしたがっていれば良いという思想だ。

こうした思想は未開な段階の社会主義圏によく見られる。例えば毛沢東は都市の知識階層を「下放」する政策を取った。山崎豊子の「大地の子」では日本人である(つまり潜在的には裏切り者の子供である)陸一心が地方の「労働改造所」に送られるというエピソードがある。ポル・ポトも知識階層を虐待した。さらに、北朝鮮も似たような状況にある。

こうした社会はどれも、世界経済から切り離されて、自前の経済圏を作ろうとしている。北朝鮮の場合は国民を飢えさせても核爆弾さえ持てば強国の仲間入りができるわけだから、特に国民に投資する必要はない。さらに兵士を食べさせる必要もない。指導者が核爆弾さえ抱えていれば世界の強国から尊敬してもらえるという世界だ。中国にも同じ段階があったが、最終的には経済ネットワークの重要性を認識して方向転換を図った。

ここでわからないのは、安倍首相がこうした思想を自前で考え出したのか、それとも毛沢東やポルポトなどに影響を受けたのかという点である。もし、前者なら権力者というのはこうした思想を持つ可能性があるということになり、これを制度的に防がなければならない。なぜならばいったん世界に向けて開かれた国が引きこもった例はないからだ。開かれながらも国民から考える力を奪うというのは、世界経済圏の中で没落してゆくという意味にしかならない。

いずれにせよ、国家と競争ということを考えてゆくと、色々疑問が湧く。さらに安倍首相やネトウヨの考え方を観察してゆくと、それぞれ都合の良い理論をつぎはぎしてミノムシのような思想体系を形作っており、一貫性がないということがわかる。安倍首相は国力を増すために国民をどう教育してゆくのかという基本理念がなく、さらに北朝鮮を挑発して戦争になった時にどれくらい戦費をまかない戦線を維持できるのかということについてもアイディアを持っていない。さらに安倍首相は議会の承認なしに勝手に徴税して予算を獲得する権限はない。しかし、これらのことは安倍首相には「どうでもいい」ことなのだろう。

しかしながら、戦争がない社会では「国力をどう維持してゆくか」ということを考える必要がないのだから、こうした考え方が蔓延してもしかがたないようにも思える。北朝鮮が核開発一択に陥ったように、安倍首相はアメリカ追随一択になっているのかもしれない。

実は戦争と教育というのは相互につながっている。日本は70年以上もアメリカとコンパクトのような契約を結んでいるので、国民の教育にどれくらい投資すべきなのかという国家観が持てなくなっているのかもしれない。一方、ドイツは同じような集団的自衛の枠組みに組み込まれているが、常時国家間で比較され続けており「正気を保っている」のかもしれない。

つまり「次世代に投資すべきだ」と考える人は、同時に戦争や経済競争について考えなければならないのではないかと思う。

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関東大震災の朝鮮人虐殺はなぜなかったのか

報道特集で、ある人が関東大震災の時に朝鮮人の虐殺はなかったと主張しているのを見た。報道特集としては、実際には朝鮮人が虐殺されているのにそれをないことにする勢力があり、小池都知事はそういった人たちに慮っているからけしからんと言いたかったのだと思う。だが、それは裏を返せば「朝鮮人虐殺はなかった」という人がある程度いて熱心に都知事を応援しているということになる。

ここで気になったのはインタビューを受けていた人の「日本人の名誉を回復しなければならない」というようなコメントだ。どうやら、この人は日本人というものが「完全に良いものでなければならない」と考えており、それが傷つけられていると考えているのだろう。本来なら丸い玉でなければならないものが欠けているというイメージである。

もちろん「相手が嫌がることをして快感を得る」という可能性もあるわけだが、本当に「日本人の名誉が傷つけられている」と考えている可能性もあるだろう。では、なぜこの人は本来玉は丸くなければならず、それが傷つけられていると考えているのだろう。そして、日本人という玉がなぜそれほど大切なのだろうか。少なくともこの人たちは顔を出して「朝鮮人の虐殺はなかった」と主張しているわけだから、それなりの強い動機があるはずだ。

そもそも日本人に限らず、すべての民族はなんらかの殺し合いを経験している。が、一方で人道的なこ側面もある。つまり、人間も民族も「良い面もあれば悪い面もある」ということになる。たいていはこうした両側面を統合して理解ができるようになる。これを成長と呼ぶ。

と、同時にこの理解は「私」にも成り立つ。つまり、意思が弱く目的を完遂できない自分もいれば、それなりに成果や仕事を積み上げてきた私というのもあるわけで、これを統合したのが私である。

朝鮮人虐殺などなかったという人は、集団が持つ悪い側面を受け入れられないということだ。つまり、いったん認めてしまうと「いつまでも一方的に民族全体が謝罪し続けなければならない」と思い込んでいることになる。

そこで、こうした分離が起こるのはどうしてだろうかという疑問が湧くのだが、ユングが面白い観察をしている。例えば良い母親と悪い母親の二元論的な分離はどの神話にも見られるというのだ。すなわち、人間は原初的に二元論的な理解をしており、成長に伴ってそれを統合してゆくだろうというモデルである。

すると、疑問は次のように展開できる。つまりこの人はどうして「良い日本人」と「悪い日本人」を統合できなかったのかという問いである。

いくつかの原因が考えられる。当初の人間関係に問題があり「良い人」と「悪い人」が統合ができなかったという可能性がある。これが統合できなかった理由としては、統合ができる環境がなかったという生育論的な可能性と、環境はあったが認知に問題があり統合ができなかった可能性があるだろう。ここではどちらが原因で統合が果たせなかったのかはわからない。

そもそも「日本人」というのは丸くて透明な玉ではなかった。だが普通の人はそれを受け入れつつ、良い部分を伸ばし、悪い部分を抑えようとする。しかし統合ができない人は悪いものを排除して良いものだけを取り出そうとしているということになるだろう。

同じような関係性をアメリカで見たことがある。トランプ大統領が「Make America Great Again」といったとき、ヒラリークリントン候補がwholeという概念を使って次のように表現した。

英語にはwholeとかheelという概念がある。これは不完全なものが再び健全な全体に戻るという概念である。ドイツ語のheilももともとは同根で、現在でも「癒す」という言葉の語感として残っている。

つまり、ありのままを統合しようというwholeと純化してひとつにまとまろうというwholeがあるということになる。クリントン氏は多様性を受け入れて健全さを取り戻そうとしているのだが、トランプ大統領は悪いものや異物を取り除いて丸い玉を作ろうとしているということになる。そして、これは日本だけではなく、英語圏やドイツ語圏でも見られるのだと言える。

最近日本で人気のヒトラーがheilという言葉で表現していたのはユダヤ人のいないドイツ社会だったが、実際にはまとまれないドイツ人への苛立ちが込められているように思える。同じようにまとまれない日本人への苛立ちが在日差別へと向かうのではないかと考えられる。

だが、朝鮮人の虐殺がなったことにすることで「日本人の名誉が回復する」ことができるかということを我々は真剣に考える必要があるのではないだろうか。もともと人にせよ集団にせよ良い面と悪い面が統合されているものだから、そこから「悪い面」を排除してもwholeにはならないはずだ。だが、純化欲求のある人はそうは考えない。

同じような錯誤は白人至上主義者にも見られる。例えば黒人がアメリカからいなくなっても社会の最下層にいる白人たちの「名誉が回復される」ことはない。かえって社会の最下層として蔑まれることになるだろう。同じように朝鮮人が日本からいなくなったとしても、日本人が再びひとつにまとまるということはないだろう。そもそも最初からまとまってなどいないからである。

例えば東京都知事の小池百合子氏はこうした純化欲求を利用している。多分トランプ大統領の手口にかなり学んだのではないだろうか。敵を作って純化欲求を持った人たちを扇動してゆくというやり方である。最近では家でタバコを吸っている人を槍玉にあげて、有権者の支持を集めようとしているようだ。

関東大震災のときに朝鮮人虐殺がなかったのは歴史的事実ではないが、こうした純化欲求の表れなのではないかと思う。それは実は実感できる集団というものを見たことがないから起こる錯誤なのだろう。同じように小池百合子都知事が支持されるのは、東京が帰属集団を実感しにくい年だからなのではないだろうか。

つまり、こうした錯誤を取り除くためには、本物の帰属集団を誰もが実感できる社会に戻す必要があるのではないかと思う。

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高須克弥さんが<血迷っている>理由に関する考察

いつのころからか高須克弥さんのtwitterをミュートしていた。不快だからだ。だが最近頼みもしないのにいろいろな人が高須さんのTweetをRetweetしてくれる。ミュートしているので隠れているのだが、アカウントまで行くと読むことができる。きになるのでいくつか読んでみたのだが、やはり気持ちが悪くなった。

中でも気持ちが悪かったのが、香山リカという人に対して「日本人の名誉を回復してくれる人なら誰でも歓迎だ」というようなコメントを返していた部分だった。日本人は原爆が落とされて反省しているのにユダヤ人は虐殺されて反省していないのかなどというようなことを言っている。なお気持ちが悪いというのは「グロテスク」という意味ではない。論理的な整合性がなくても人は気持ちの悪さを感じるのである。

そこでこの人をどうやったら説得できるのかということを考えてみた。説得できないにしてもメンタリティがわかれば整理はできるかもしんない。だが、戦争の壊滅的な破壊行為のいくつかを比較してあれこれ並べてみても何も整理はできない。加えて「名誉」とか「反省」とはどういうことだろうか。日本人はそもそも第二次世界大戦について「俺たちが悪かったなあ」などとは思っていないのではないかなどと思った。いずれにせよ、この人の言っていることは「自分の意見が絶対的に通るべきなのだ」ということであり、論理的な裏付けや事実関係などどうでもいいのだろうと思った。

ただ唯一面白いなと思ったのは第二次世界大戦に関する日本人の被害者意識である。一方的に悪者にされているという意識があるのかもしれない。が、これは本当なのだろうか。

先日Quoraで第二次世界大戦について書いた。だいたいこんな筋である。

日本は遅れて植民地獲得に乗り出したがアメリカなどと対決することになった。アメリカは日本包囲網を作って日本の石油資源を枯渇させる作戦に出た。日本は外交と軍事の双方のパスを使って問題を解決しようとしたが最終的に軍事的な解決を選択した。官僚のシミュレーションでは、日本がアメリカと対決するとソ連の参加などもあり負けることがわかっていたが、官僚や政治家は戦争を止めることはできなかった。

こういう書き方をしても「日本人は戦争について反省していないのか」とは言われない。概ね事実であり日本にも事情はあった。また当時の国際社会では植民地獲得は犯罪行為ではなく、主権国家(これは欧米の独立国の特権だったのだが)の当然の権利とみなされていた。ここにアジアの国が挑戦することは国際社会への挑戦だと見なされてしまう恐れがあった。アジア人はタイのように自国に止まるか、中国やインドのように植民地を差し出すかの選択しかないと見なされており、キリスト教が世界を支配すべきだと真面目に考えられてきたのである。

しかし、これだけでは考察は不十分だ、日本は憲法に欠陥があり実質的に権限を持たない天皇が軍事組織と政治組織をそれぞれ別々にマネジメントする建前になっていた。さらに、総理大臣の権限が小さかったので、大臣たちが「閣内不一致」を宣言すれば辞職するしかなかった。政治勢力はまとまることができず経済問題の解決に失敗し、成果を挙げていた軍に対する期待も高かった。さらに日本人には集団思考に陥りやすいい傾向があり、主導者がいないままで「空気のように」戦争への関与がエスカレートしてしまった。つまり、日本だけが悪いわけではないが、システム上の欠陥やマインドセットの問題などもあり、戦争を止めることができなかった。

さらにそもそも戦争が持続可能でなかったのに加えて、植民地経営も下手だったようだ。満州国は日本と同等の国だということになっていたが、実際には日本人が満州国皇帝を指導監督し、現地経済を搾取するという露骨な植民地経営が行われたようだ。

つまり、日本が絶対的に悪者であって第二次世界大戦が引き起こされたというのは世界的に共通した視点ではない。しかし、やり方に稚拙な点が多く完全に弁護できるような状態でもなさそうである。にもかかわらず「日本の名誉が傷つけられた」と感じる人がいるのはなぜなのだろうか。

一つは東京裁判を通じて「日本の行為は戦争犯罪であって、これは絶対に受け入れなければならない」という占領国側のプロパガンダがある。これを植民地を持っていた国だけでやってしまうと価値の押し付けになるので、アジアの非独立国(フィリピンとインド)を巻き込んで「公平な」裁判を演出しようとした。だが、当時植民地だったインドの判事がこの一方的な歴史観に反発したことが記録に残っている。

しかし、これも結果的に先進国側が植民地を放棄して世界的な経済圏を作るという方向に進んだ。さらに賠償金の請求も手控えられた。つまり「ドイツや日本が悪かった」というメッセージとは裏腹に、誰かを一方的に悪者にすると戦争が終わらなくなるという認識があったのである。つまり、価値判断と実際に行われたことは少し違っているので、高須さんのいうような「名誉回復」は特に必要がない。

もう一つは中国と韓国が日本の抑圧から独立したという事情がある。彼らの支配の正当性を国民に説明するためには明確な敵が必要であり、日本の植民地支配にも良い点があったなどと言えるはずはない。親日と言われる台湾だが、とても特殊な地域だ。日本支配から脱した後に中国本土から逃げてきた人が現地人を抑圧した歴史があり、国民党の抗日プロパガンダがそのまま受け入れられるようなことはなかった。かといって「台湾は日本の支配に感謝している」というのは言い過ぎであり、よりまともだったくらいの印象だろう。

高須さんの話に戻る。そもそもあの戦争を冷静にみつめると、日本人の名誉が一方的に毀損されるというような事態にはなっていない。だが、中国と韓国の話ばかりを見ているとあたかも「日本だけが悪者である」というような印象を持ってしまうのだろう。サンプルが偏っているので地図が歪んでしまっているのだ。

その上地位が高くなると「俺が言ったことが正解になる」と思いたくなるのかもしれない。日本人は内的な規範を持たないので、相対的に地位が高かったり数が多いことで正解を操作できると考えている節がある。チャレンジするものが大きければ大きいほど自分の偉大さを仲間に誇示できるのだ。安倍首相が右翼雑誌で押し付け憲法感を披瀝し、麻生元首相が派閥の勉強会でヒトラーの動機は正しかったというのも同じようなメンタリティによるものだろう。これがソーシャルメディアに乗って流れることで海外からの批判を招くのだ。

欧米人は当然「内的規範に基づいて自説を開陳しているのだろう」と思う。つまり「この人たちは心底それを信じているのだ」と考えてしまう。そこで日本は戦前に回帰しようとしているのではないかというような感想を持つのだろうが、実際にはヤンキーが仲間内でタバコを吸ってイキがっているというような心情なのではないかと想像する。

高須さんの県で重要なのは実はカウンターのリアクションだ。加山さんのようにヒトラーは絶対悪なのだから反省しつづけろというと、なぜヒトラーのような人が生み出されたのかがわからなくなってしまう。同じように日本は絶対的に悪いことをしたのだから謝り続けるべきであるなどと言ってしまうと、集団思考の問題や統治機構の欠陥などに目が行かなくなる。

実際に集団思考によってなんとなくプロジェクトが止められないということは現代でも頻発しているので、実は第二次世界大戦の問題は現在とは無関係ではないのではないかと思う。

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なぜ24時間テレビは取りやめるべきなのか

今年も24時間のチャリティー番組が行われたらしい。「らしい」というのはそれを全く見ていないからなのだが、ブルゾンちえみが走ったことだけは知っている。興味はなくてもTwitterの人たちが教えてくれる。要は国民的な番組の一つになっているのだ。

24時間テレビを見ないのはそれが胡散臭いからだが、なぜ胡散臭いのかは言語化してみないとよくわからない。突き詰めていえば「搾取に加担したくない」からである。搾取する側に回ろうと覚悟を決めた人は心行くまで楽しめばいいと思うが搾取社会特有の帰結は受け入れるべきだ。搾取社会では誰もやる気がなく、最低限のことしかこなさない。

24時間テレビ「愛は地球を救う」自体は1978年から続いている。そういわれると、なんとなく子供の頃からやっているという印象がある。マラソンが行われるようになったのは1990年代からだそうで、最初のランナーは間寛平だった。間寛平のマラソンはライフワークだった。だがそれが繰り返されるうちに儀式化しててしまった。多くのコンテンツが「昔成功した」という理由で儀式的に行われているのではないかと思う。

24時間テレビが搾取なのはタレントのギャラを見れば一目瞭然である。障害者はタレントが高額のギャラを得るための口実になっている。これをオブジェクト化という。感動ポルノという言葉を使う人もいる。ポルノという言葉を使うのは、ポルノ映画に出てくる女性(時には男性)は対象物であり人間ではないからである。

広告を出している会社はさらにここから収益を得ることができるし、見ている方も何もしないのに「自分たちが弱い人を助けてあげている」という優越感に浸れる。だが、日本人はそれに違和感を感じない。

もし、これがもし障害者を支援する番組であれば、特定の目的を決めてそのためにどうファンドレイズするかという番組になるはずだし、多分障害者本人がファンド集めの先頭に立つだろう。例えばパラリンピックでメダルを取ったアスリートとか乙武さんとか障害者でも普通の人と変わらないんだなという人はいくらでもいる。だが、24時間テレビでこういう人は司会者にはならない。

こうした、お題目を唱えて何もしないというのは日本ではよく見られる。例えば日米同盟というお題目を唱えて防衛や世界秩序の維持について全く何も考えず、他人を馬鹿にする口実にしている人たちは大勢いるし、逆に憲法第九条についてお勉強しているから戦争についてはよく知らないし考える必要がないと思い込んでいる人も大勢いる。24時間テレビは障害者について考えているからそれ以上何もしないという意味で相通じるものがある。

こうした意図的な搾取に加えて、集団的な陶酔という日本ならではの特徴もありそうだ。

高校の時に野球の応援に楽隊として「動員」されたことがあった。不良が集まった応援団の金切り声にあわせてフォルテッシモで音を流し続けるという非人間的な所業である。芸術的に作られた曲をただただ大音量で流すというのは音楽にとっては虐待に近い。木管楽器は熱に当たるとチューニングが狂い、パッドの部分が痛む。それに加えて何度抗議しても応援団が水をばらまく。水が当たると楽器が傷んでしまうのだが、そんな些細なことなどどうでもよいだろうと言われる。

こうした行為が正当化されるのは、集団での競い合いに興奮を伴う一体感があるからである。音楽は陶酔感を得るための装置なのだ。

そもそも日本人は他人を応援するのが嫌いだ。だが、自分たちの集団のために誰かが苦しんでいるのを見るのは大好きである。高校野球や箱根駅伝などはその良い例だろう。24時間テレビは障害者をネタにお金を搾り取るという搾取ショーになっているので、できればすぐにやめるべきだ。しかし甲子園や箱根駅伝を見ているとこうした搾取ショーには需要がありなくすことはできないだろう。

この裏には「もう伸びしろがなくなってしまった」という無力感があるのではないかと思う。つまり成長をあきらめているから搾取に走るのだ。例えば欧米ではエクストリームスポーツのように個人が能力の限界を目指すような競技が人気である。これは「人間は頑張ればどこまでいけるか」ということを競っている。

この背景にあるのは「人間にはいずも能力を伸ばす余地があり、それを追求することが人生にとって重要である」という認識だろう。これに従えば、障害者であれば自分ができる範囲で限界を突破できることにフォーカスを当てることができるし、健常者が限界に挑戦することの素晴らしさを伝えることもできる。

だが、日本人は個人をそれほど信用しないので、こうした極限への挑戦はあまり重要視されない。代わりに他人が当惑して苦しんでいる姿を見るのが好きなのだ。例えばブルゾンちえみは数日前まで自分が走るということを知らされず、ショーに出してやるからといわれて、ジャージを渡されたそうである。当惑が売り物になっていることが分かる。もし、限界に挑戦することが目的ということであれば、いつも走り込んでいるような人が参加するはずだが「それはテレビ的においしくない」のだろう。普段からがんばっている人が何かを達成しても「自慢になる」だけだからだ。

その意味では24時間テレビというのは現代日本にふさわしいショーになっている。何もしないし目的も提示しない高齢者が、とにかく若い人たちを目的のない競い合いに巻き込んで消耗してしまう姿を眺めるというものだ。だから、このまま日本が何のためにがんばっているのかは良く分からないのだが、とにかくみんな疲れているという社会にしたいのなら、このままこういう類いのショーを楽しみ続ければ良いと思う。

人には選択の自由があるからだ。

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