貴乃花親方と品格という十字架

日馬富士の暴行事件が思わぬ方向に展開している。最初は「暴力はダメだろう」というような論調だったのだが、次第に貴乃花親方の挙動がおかしいという話になってきた。診断書が二枚あり貴ノ岩も普通に巡業に参加できていたというのである。さらに協会側は医師のコメントを持ち出してきて「疑いとは書いたが相撲はできるレベルの怪我でしかなかった」などと言わせた。つまり、状況的には貴乃花親方が「嘘をついている」ということになる。さらに親方は普段から目つきがおかしく「何か尋常ではない」ものが感じられる。

これだけの状況を聞くと「貴乃花親方の挙動はおかしい」と考えるのが普通だろう。

いろいろな報道が出ているが毎日新聞は面白いことを書いている。相撲協会は力士の法的なステータスを明確化しようとして誓約書の提出を求めたが「親方が絶対だ」という貴乃花親方だけがそれに協力しないのだという話である。

普通に考えると相撲は近代化したほうがよい。いろいろな理由があるのだが、一番大きな理由はリクルーティングの困難さである。力士には第二の人生があり、そもそも力士になれない人もいるので、相撲について「仕込む」のと同時に相撲以外の社会常識を教えたり、関取になれなかった時の補償などをしてやらなければならないからである。

そう考えると、この問題の複雑さが少し見えてくる。貴乃花親方は「たまたま成功した」が「相撲以外のことを全て失ってしまった」大人なのだ。

第一に貴乃花親方の父親はすでになくなっており、母親はすでに家を出ている。さらに兄とも疎遠である。さらに実の息子も「ここにいたら殺される」と思ったようで、中学校を卒業してすぐに留学してしまった。現在相撲とは全く関係のない仕事をしているそうであるが、これは家族の離別ではなく「美談」として語られている。相撲界は個人としてもいったん外に出ると戻ってこれない片道切符システムなのだが、それは家族の領域にも及ぶ。

加えて中学校を卒業してからすぐに部屋に進んだため高校に進学していない。中卒が悪いとはいわないが、相撲で現役を退いたあとすぐに親方になっており社会常識を身につける機会はなかったはずである。しかし、相撲のキャリアとしてはいったん外に出て社会常識を身につけた上で復帰するという制度は考えられない。

さらに、相撲の影響で体にかなりの影響が出ているようである。Wikipediaを読むと「右手がしびれて使えない」とか耳が聞こえにくく大きな手術を余儀なくされたとある。

「相撲に命をかける」といえば聞こえはいいが、家族と断絶し学歴や社会常識を得る機会も奪われた。さらにそれだけではなく健康すらも害しており「もう相撲で生きてゆくしかない」ということになるだろう。そして、これは貴乃花親方個人の問題ではない。

もともと相撲は興行(つまり見世物のことだ)のために必要な力士を貧しい農村部などから「調達」してくるという制度だったようだ。

花田一族で最初に相撲の世界に入った初代若乃花(花田勝治)は青森のりんご農家に生まれた。しかし一家は没落してしまい室蘭でその日暮らしの生活をしていた。戦後すぐに素人相撲大会にでて力士の一人を倒したことで相撲界にリクルートされたという経歴を持つ。しかし、働き手を失うとして父親から反対されたので、数年でものにならなかったら戻るという約束で東京に出てきて「死に物狂い」で稽古をして強い関取になったとされる。これは美談として語られている。

しかしながら実態はどうだったのだろうか。厳しい練習をしても相撲で食べて行けるようになるかはわからない。東北・北海道の寒村というものは日本から消えており「全てを投げ打って相撲にかけるしかない」という地域は消えてしまった。

実は、モンゴル人の力士はこのような背景から生まれている。つまり日本で力士が調達できなくなったから貧しいモンゴルから連れて来ればよいと考えられるようになったのだろう。しかし、当初の目論見は失敗に終わる。

最初のモンゴル人力士たちは言葉がわかるようになると「これはあまりにも理不尽で将来に何の保証もない」ことに気がつき脱走事件を起こした。逃げ出さないようにパスポートを取り上げられていたので大使館に逃げ込んだそうだ。これが1990年代の話である。つまり日本がバブルにあったので力士調達ができなくなった時代の話なのである。

しかし、中国とロシアが世界経済に組み込まれるとモンゴルにも経済成長が及んでおり今までのようなやり方で見世物のために力士を調達することはできなくなっている。だから、相撲協会はなんらかの形で現代化してスポーツ選手としての力士を「養成」しなければならない。

ところが、相撲協会は、大相撲が興行だったころの体質を残している。もともと興行主である「相撲茶屋」が興行収入を差配していたようだが、これを力士で運営して利益配分しようという制度に変えつつあるようだ。つまり資本家から独立した労働者が利益を分配しようとした「社会主義革命」だということになる。相撲協会はソビエトのようなものだが、共産主義は例外なく労働者の代表が新しい資本家になってしまう。

2010年の貴乃花一門独立騒ぎでは、貴乃花は「改革の担い手」だと認識されたのだが実際には「旧態依然とした相撲道のために全てをなげうつ」という現在では通用するはずもない価値観の犠牲者になっていることが判る。

相撲はこのように多くの矛盾を抱えており潜在的には存続の危機にあるのだが、相撲ジャーナリズムはこのことを真面目には考えていないようだ。彼らは相撲協会と精神的に癒着した利益共同体を形成しており批判的な態度を取れば取材が難しくなる。

さらに相撲の商品価値を高めておく必要があり話を美しく「盛る」必要があり、全ての矛盾を隠蔽したまま「品格」というよくわからない言葉で全てを包んで隠蔽しているのである。

「品格」という言葉は聞こえはいいが、実は何が品格なのかというのは誰にもわからない。にもかかわらず相撲で成功してしまった貴乃花は家族と孤立し健康も失い社会常識を身につける機会もなく、変化にも対応できなくても一生品格という言葉に縛り付けられることになるだろう。それがどのような人生なのかは想像すらできないが、過酷なものであることだけは間違いがないだろう。

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「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

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空中分解社会

最近いろいろなことを考えている。ニュースを元にしているのでかなりランダムなのだがいくつか共通するモチーフが出てきた。

まずは憲法問題だ。何のために憲法を作るのかということがわからなくなっているようである。その背景を探って行くともともと島に囲まれた領域という意味の自然国家として成立し、他者と向かい合うことがなかった日本人が体裁を取り繕うために作ったという経緯がある。ゆえに改めて憲法を作ろうと考えるとどこから手をつけていいのかわからない。従って意見はまとまらずまともな議論さえできない。今の国会議論をまとめると「とにかく自前の憲法を持つのが立派な国家なのでそれが作れるということを証明したい」ということになるのだが、これは作家になりたい人が書きたいこともないのに小説を書き始めるのに似ている。

次に内田樹について取り上げた。内田はかつてのように日本人がまとまれば必ずしも経済成長がなくてもよいという主張の人なのだとおもうのだが、とにかく安倍政権が気に入らないようで、カウンターとなる立憲民主党を応援しているようだ。そこで護憲・解散権の制限というポジションが生まれる。ただし、科学や経済に対してはかなり貧困な情報しか持っていないようである。これは「日本の知性の最高峰」なのだから、日本人が外来概念をかなりいい加減にしか受容していないということがわかる。

さらに相撲について考えた。どうやらモンゴル人を文化的に受容できないままで、旧態依然としたイエの集合体に無理やり近代的な相撲協会というガバナンス制度を入れたことで、まとまりがなくなっているという事情がありそうだ。かといってイエがどのようなガバナンスを行っていたのかということが意識されていないためにそれをどのように守って行けばいいのかということがわからないようである。この問題は「品格の問題」としてまとめられると思うのだが、では品格とは何なのだろうか。

この三者には共通点がある。なんらかの共同体が雛形としてあり、それが日本人の頭の中でかなり明確な雛形を作っているようである。だが、日本人はそれを意識はしても、明確に形にして他者に説明することはできない。明確に説明できない上に、なんらかの外来概念が外からかぶさってくる。これが痛みを引き起こしている。

例えば憲法問題では民族国家とか近代主権国家のような概念があり、それが国家というものは自主憲法を作るものだというイデオロギーのもとになっている。また、内田の場合には民主主義が正しく施行されることでなんらかの日本的な共同体が再興できると考える。そして、相撲協会では近代的な仕組みを作れば近代的なガバナンスが行われるだろうという期待があったのではないだろうか。

このように見てみると、日本人は自分たちが持っていた元型を意識しないままで現代に突入してしまったという問題点があるようだ。その元型が理想社会のことなのか、それとも実際にあったのかが曖昧になっている。

では元型を意識すればおのずと問題が解決思想に思えるのだが、惨憺たる結果に終わることが多い。

憲法には中曽根憲法前文というポエムがある。この中曽根世界では豊かな自然に育まれている日本には何の問題も起こらないということになっている。しかしながら、実際には日本には貧しい人もいれば、利権をめぐる諍いもある。しかし中曽根日本にはそのような人は存在しないのではないだろうか。

同じような失敗はすでに経験済みだ。日本が満州国を作る時に五族が協力してアジアの共同体を作るという理想を掲げたが、田舎から出てきた日本人が満州人や中国人に対して威張り散らすというのが実態だっだ。また植民地経営はそもそも経済搾取のために行われるのだから、五族が満足することなどありえないのだ。

内田の場合はあの文章しか見ていないので、内田が考える理想世界がどのようなものかはわからない。わずかにわかるのは、内田が理想とする社会が、話し合いで様々な意見の違いが解決される世界なのではないかと思う。確かにそれはあるべき姿なのかもしれないが「お花畑」に過ぎない。

ただしこの「お花畑」は問題を解く鍵を含んでいるように思える。つまり民主主義というのは信仰であるということだ。信仰なんので純粋で完成された「正しい民主主義」はありえない。ゆえに民主主義社会では全員が「祈り続ける」しかない。憲法第9条も宗教だということを認めなればならない。だからこそ、実際の平和運動が重要なのである。

相撲の場合にはガバナンスに深刻な問題が起きている。相撲が理想としているのはサッカーのようにガバナンスが効いた協会運営なのかもしれない。例えばサッカーの場合には地域参加というオープンな事情があり、限られたイエが興行利権を独り占めするというクローズな組織にはなっていない。野球も近代的な株式会社方式のガバナンスが引かれておりある程度の法治が行われる。しかし、相撲の部屋は民主的な制度ではない。ここに利権をめぐる争いが起こるのは当たり前で、それが力士という格闘家によって行われれば実際のガバナンスが「拳による制裁」になるのもこれも当たり前である。

日本人は我々は本音と建前を使い分けることで、実際に自分たちが何ものなのかということがわからなくなっているのではないかと思う。そうなるとあとは腐敗してゆくだけなのである。

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日馬富士の暴力騒ぎに見る日本人が憲法を作れないわけ

日馬富士がビール瓶で後輩力士の頭を思い切り叩いたらしい。興味深いのは後輩力士が殴られたのが10月26日頃で表沙汰になったのが11月13日だったということだ。半月のタイムラグがあったということである。故に被害者・加害者ともに隠蔽しようとした可能性があるということになる。貴乃花親方はすでに事件直後に被害届けを出して「撤回するつもりはない」と言っているので、どちらかといえば日馬富士側が隠蔽と示談を模索していたのだろう。少なくとも警察はこれを知っていたのだが、捜査はしていなかったようだ。

この件については未だにわかっていないことが多い。かなりひどい怪我なのだという声もあるのだが27日には巡業に出ていたという情報もある。貴乃花親方も一方的な被害者というわけではなく巡業を監督する立場にあったらしい。また相撲協会はしばらくは知らなかったという情報がある一方ですぐに被害届けが出ているという情報もある。

これが事件化するかというのは相撲界の問題なのでさておくとして、ここではなぜ日本人が憲法が作ることができないかという問題に置き換えて考えたい。端的に言うと日本人は自ら最高規範たる憲法を作ることはできない。善悪の明確な区分けがなく多様な価値観も収容できないからである。

この件が表沙汰になった理由はよくわからないが、表沙汰になると相撲協会の体裁を取り繕うような報道が相次いだ。取り繕ったのは相撲の事情通という人たちで、長年の取材を通じて相撲界と心理的に癒着してしまった人たちである。これは明らかな暴行事件であり刑事事件なのだがこれを「事件だ」とい言い切る人はいなかった。さらに、これを隠蔽しようとした相撲協会にはお咎めがなく、NHKは相撲の中継を中止しなかった。

ここからわかる点はいくつかある。最初にわかるのは「横綱の品格」の正体である。ビール瓶で後輩を殴る人がいきなり豹変したとは考えにくい。普段からこのような激情型の人間であったことは間違いがない。少なくとも一般人の品格とは性質が異なっていることがわかる。許容されている行動の中には、一般人が行うと犯罪行為になるものが含まれているということである。

品格が非難されるのは「ガムを噛む」とか「挨拶をしない」などという村の掟的なものが多く、咎められるのはそれがマスコミに見られた時だけである。すべて外見上の問題なのでいわば「相撲村の風俗に染まる」ことが品格なのだということがわかる。外から見て体裁が整っているのが「品格」なのだ。キリスト教世界であれば品格とは内面的な善悪を指すのだが、日本語の品格は外面的な体裁のことであり、集団の掟と違った行動をとらないという意味になる。いずれにせよ、日本人は内面的な善悪を信じないしそれほど重要視しないのである。

次にマスコミ報道を見ていると、犯罪かどうかは警察が逮捕するかしないかによって決まるということがわかる。警察がまだ動いていない状態では、あたかも何もなかったかのように扱われる。しかしながら、いったん逮捕されてしまうと罪状が確定していない状態でも犯罪者として扱われてしまう。これはどの権威が罪人であるというステータスかを決めるまで周りは判断しないということである。つまり、いいか悪いかは文脈(相撲協会の支配下にあるか、それとも日本で働く一外国人として裁かれるか)によって決めるというかなり明確な了解がある。

例えば、薬を飲ませた状態で女性を酩酊状態にした上でホテルに連れ込んで陵辱したとしても、首相に近い筋であればお咎めはない。これは一般社会ではレイプと呼ばれるが警察が動かない限りこれをレイプとは言わない。さらに「女性にもそのつもりがあったのだろう」といってセカンドレイプすることも許されている。

このことからも日本人が善悪を文脈で決めていることがわかる。横綱は人を殴っても構わない場合があるし、政権に近いジャーナリストはレイプをしても構わない場合があるということである。

これが問題になるのは、相撲界の掟と社会の善悪が異なっているからであり、マスコミと一般の常識が異なっているからである。つまり、今回の一番の問題は日馬富士が貴ノ岩を殴ったことではなく、それがバレて相撲協会のマネジメントが破綻していることが露見したからである。同じようにレイプの問題では被害者が沈黙を守らずマスコミの慣行と一般常識が違っていることが露見して、マスコミが「バツの悪い」思いをしたのが問題なのだ。だから、れいぷされて黙っていなかった女性が叩かれて無視されたのである。感情的には受け入れがたいが、メカニズムは極めて単純である。

さらに、これが公になるのに時間がかかったことから、相撲協会は事件についてまともに調査していなかったことがわかる。多分調査というのは「いかに風評被害が少なくなるか」という研究のことだったのだろう。被害届が出ていたのだから、警察ですら「相撲協会の問題」と考えて捜査を手控えていたようだ。つまり、相撲協会の中の問題であるので、日本の法律は適用されないと考えていることになる。

これを「日本の問題」と捉えるのは大げさなのではないかと思う人がいるかもしれない。しかし、同じことが起こる閉鎖空間がある。それが学校だ。

大相撲では虐待・暴行のことを「可愛がり」と呼び訓練の一環だとする。同じように学校内での暴行はいじめと呼ばれ、それが自殺につながるようなものであっても生徒間の些細なトラプルとして矮小化されてしまう。この「いいかえ」は社会一般の規範が必ずしも集団では適用されないということを意味している。さらに、警察は学校に介入するのをためらう傾向にある。つまり学校の中には日本国憲法は適用されないということである。むしろ学校側は「人権などとうるさいことをいって、学校の事情と異なっているから憲法が変わってくれればいいのに」と考えているのではないだろうか。

さてこれまで日本人には内面化されてコンセンサスのある善悪が存在しないということがわかった。しかし、まだまだ解決しなければならない問題がある。これがモンゴル人コミュニティで起きたということである。モンゴル人の気質についてはわからないが日本人との違いが見受けられる。だから、日本人について分析するのにこの事件を持ち出すのは適当ではないのではないかという批判があるだろう。

モンゴル人と日本人の違いは日本人が擬似的な集団を家族と呼ぶことである。モンゴル人同士の交流がありそこに上下関係があったことを考えると、どうやら血族集団的なまとまりがかそれに変わる何らかの統合原理があったことが予想される。彼らは外面的には「イエ(つまり部屋のこと)の掟に従って師匠(イエにおける父親のようなもの)」に従うということを理解したが、その規範が内面化されることはなかったようだ。中学校や高校の頃から日本語を習得するのであまりモンゴル訛りがない日本語を話すのだが、それはあくまでも外見的な問題であって、実際には日本人化していなかったということになる。彼らは日本社会に溶け込んだ移民集団のようなものなのだ。

モンゴルがユーラシアを席巻するときに強みになったのは徹底した実力主義であるとされているそうだ。つまり年次によっての違いはなく、実力があればとって代われるということである。これも年次が一年違えば先輩後輩の差ができる日本人とは違っている。

マスコミはモンゴル人横綱は日本に溶け込んだと思いたがるので、このことが報道されることはないと思うのだが、社会主義だったモンゴルには敬語があまりないそうだ。貴ノ岩は「これからは俺たちの時代だ」と日馬富士を挑発したということがわかっているが、これが日本語でなければ「タメグチ」だったことになる、。日本人から見るととんでもない暴挙だが、モンゴル人にとってはこうした挑発は当然のことであり、挑発したら「実力で押さえつける」のも当然だったということになる。だからある意味ビール瓶は適当な制裁だったのかもしれない。

今回は、日本人と規範について分析しているのだから、こうしたモンゴル的要素が絡む事件は特殊なものではないかと思えるかもしれない。しかし、実はモンゴル人コミュニティが管理できていないということは、実は日本人が多様な価値体系を包含する規範体系を作ることができないということを意味している。これは日本人が価値体系を作る時に「イエ」というローカルな規範を部品として再利用するからなのである。

前回のエントリーでは、戦前の日本人論が破綻した裏には、国の1/3を占めるまでになった朝鮮人コミュニティをうまく取り扱えないという事情があるということを学んだ。日本人はこれを身近な集団である家族で表現しようとしたのだが、実はこの家族という概念は極めて日本的で特殊な概念だった。中国・朝鮮との比較でいうと「血族集団対人工集団」という違いがあったのだが、モンゴル人と比べると「年次による秩序の維持対実力主義」という違いがあったことになる。かといってアメリカのような完全な個人の集団ではなく、例えば年次の違いや風俗の違いに完全に染まることを要求され、その習得には一生かかる。

つまり、日馬富士問題を相撲協会が管理できず、マスコミが適切に報道できなかった裏には、第一に内在化された規範意識がないという問題があり、第二に家によって記述された秩序維持が必ずしもユニバーサルなものではないという事情がある。

これらのことから、日本人は国の最高法規である憲法のような規範体系を自ら作ることができない。それは必ず曖昧でいい加減なものになる。

もし、日本人が一から憲法を作るとそれは学校でいういじめが蔓延することになるだろう。つまり「校長という家族の元でみんな仲良く」という規範意識だけでは、生徒の間に起こる様々な軋轢や紛争をうまく処理できないということだ。相撲協会の場合には「みんなが見て立派な人間に見えるようだったら何をしてもよい」とか「部屋の父親である親方の顔にドロを塗るなよ」いうのが規範になっており、これではモンゴル人集団のような多様な価値観が収容できなかった。

保守という人たちは既存の体系に疑問を持たないので、決してこの欠点を超克することはできないのだ。

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座間の連続殺人事件について考える

座間の小さなアパートでクーラーボックスに9人分の遺体があるのが発見された。どうやら8月からの短い間に殺されたようだ。連続殺人事件としては日本で一番の犠牲者の数なのだそうである。当然のことながら殺人事件として扱われ、容疑者の人格などが問題になっている。

このニュースが一筋縄ではいかないのは「世の中には死にたがっている人がたくさんいる」ということだ。しかしながらこの人たちが本当に死にたかったのか、それとも別の何かを求めていたのかはよくわからない。こうした自殺願望を持った人たちはTwitterなどの可視性の高いソーシャルメディアを使っており、拾いあげようとすれば拾い上げることができた人たちである。しかしながら、日本の社会は生きている意味がないと考える人たちを大量生産しており、なおかつ可視化できるにもかかわらず放置している。もちろんそれだけではなく、生きていたいが貧困に苦しむ多くの人たちをも放置している。

そこで「1933年の死なう団」という昔書いた記事を思い出した。日本が第二次世界大戦という集団自殺行為を始める前に自発的に死のうとした人たちがいたという話である。つまり、死にたがる人たちが大勢出てくるという社会はなんらかの破滅的な行為に突っ込もうとしている可能性があるということである。

死なう団と今回の事件には共通点と違いがある。死なう団も今回の事件も死にたいという人たちが集団になっていたという共通点がある。人生に目的が見出せず、死だけが集団を結びつけていたのである。死なう団は集団で行動したが今回の事件は一対一だった。さらに死なう団は運命をともにしようとして活動したのだが、今回の事件には搾取の構造がある。

ここまで生きていたくないという人が多いということは、そうした主張にもなんらかの妥当性があるのだと考えざるをえない。こういう願望を持つ理由はよくわからないが生きていたくないと考えたときに、その願望を肯定してくれる人は多くない。

例えば「美味しいご飯が食べられるかもしれない」とか「楽しいイベントが待っているかもしれない」とは言ってくれるだろうが、だからといって一生美味しいご飯が食べられるように所得の保証をしてくれる人はいないだろう。さらに、このさきもっと苦しいことが待っている可能性も否定できない。ということは「生きているといいことがある」というのはとても無責任な主張であると言える。

よく考えてみると、公立の学校のカリキュラムでは答えのないことは教えてもらえない。宗教教育の代わりに道徳があるようだが、これは社会的常識にちょっと色付けした程度のもので、哲学というような領域にまでは踏み込んでいないはずである。生きてゆくことの意味を教えられることがないわけだから「もう終わりにしたい」と考えても、それが正しいのか間違っているのかを考えることができない。このジャンルに「リテラシー」があるとしたら、多くの人は文字が読めない程度の状態にあるものと考えられる。

しかも、道徳以外の授業では、すべてのことには意味があり正解があるということを教えられる。それを勝ち抜くのが人生の目的だということになる。従って人生に「意味」を失った人は生きていても仕方がないと結論付けざるをえなくなる。勝つことが人生の意味だから負けてしまっては続ける理由がない。

人生はゲームだというような認識がある。すべてのことには意味があり勝つことが目的になるからである。多くの人はこれを「成長」と呼ぶ。つまりステージをクリアしてゆくことが人生の目的になっている。では、もし目の前のゲームが「クソゲー」や「無理ゲー」だったらどうしたらいいだろう。そもままプレイし続けるべきだろうか。このままゲームを続けていてもいいことはあるだろうかと考えてもなんら不思議はない。だからリセットが一つの選択肢になるのだろう。

ここで興味深いのは、容疑者の言っていた「転生」理論だ。天国や地獄に行くのではなく、新しい人生が始まるというのだが、これはゲームでいうこところのリセットである。

ワイドショーにせよ新聞にせよこれは「自殺」や「殺人」だという思いこみで書かれている。しかし、実際にはこれは「ゲーム」なのかもしれない。唯一の誤算は、ゲームと違っているのは人生をリセットしたところで体が消えてなくなるわけではないということである。このことに気がついた容疑者は「処理に困って2ちゃんねるで処理の仕方を相談した」という話がある。

さらに、死ぬ側は一緒にゲームをリセットしてくれる人を求めていたが、死なせる側はそこになんらかのゲーム性を見出したようだ。中には「性的興奮を得ていたのでは」と変態性を持たせようとする人もいるのだが、感情的な盛り上がりをすべて性的と捉えてしまう点に性急さを感じる。いずれにせよ、効率的に犠牲者を狩ることが彼のゲームになってしまったのだ。

ここにある倒錯は「生きている意味がわからない」という人が「生きることをやめる」というイベントを生きる目的にしてしまうということである。つまり人生をともに終わらせることだけでしか他人と共感を結べないということなる。この考え方は狂っているように思える。

しかし、実際には人生には必ず意味がありそれに勝つ必要があるという考え方も狂っているし、人生はゲームであるという思い込みも狂っている。

容疑者の狂気はわかりやすいので話題になりやすいのだが、実際には我々の社会も同じ程度には狂っているのである。

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民進党のグダグダぶりに見る日本が集団主義ではないわけ

「日本は集団主義ではないのか」という疑問がツイッターで流れてきた。ホフステードについて教えたら、代わりに別の本を紹介してもらった。さらにQuoraでも日本は集団主義かという質問があった。

ここで「日本は特に集団主義でもないのにどうして集団主義だという人が多いのか」という疑問を持った。真面目に考えてみてもいいのだが、それではつまらない。そこで、民進党のグダグダぶりから日本が集団主義ではない理由を考えてみたい。

民進党は短い間に代表が何回も変わった。選挙の顔になると期待された蓮舫代表だったのだが、東京都議会選挙で惨敗すると途端に「蓮舫のせいだ」という声が起こった。そこで、前原さんが新しい代表になったのだが、独断で何の話し合いもしないで希望の党との合流を決めてしまった。しかし、希望の党のガバナンスがめちゃくちゃであることがわかり有権者の期待が失速すると、今度はたちまちのうちに前原批判が巻き起こり「今すぐやめろ」とか「いややめない」という話になった。だが、冷静に考えてみると、前原さんの方針は議員総会で示されてみんなで賛成したものだった。つまり、前原さんの思いつきにみんなで飛びついたのである。

ここまでのグタグダぶりはマスコミから伝えられる他、Twitterでも発信されていた。いくらなんでも反省しただろうと思ったのだが、今回の大塚代表になってもまだもめているようだ。共産党との連携に期待する人たちは蓮舫さんを担ごうとしたのだが「協力する」とか「しない」という話になり、独自路線を期待されている大塚さんが代表になった。しかし、共産党連携派の人たちは納得しておらず、さらに分裂する可能性があるのだという。背景には連合の中にある左派と右派の対立がある。連合は名前が示す通り複数の労働組合の共同体でありまとまりがない。大塚さんは分党を狙っているのではないかという懐疑派と共産党のような卑しい人たちとは組めないという人たちがいていつまでもいがみ合っている。

民進党が一貫しているのは「共通の目的を作って一致団結しよう」という気持ちが全くないという点である。つまり、個人が集団に貢献しようという気持ちがみじんも見られない。つまり、民進党は集団主義的とは言えない。

これを民進党固有の問題だとみなすことはできる。では、希望の党はどうだっただろうか。こちらは、小池さんの同意なしに代表を変えられないという規則になっているようだ。民進党出身者が大半を占めるのに、彼らは党のことは決められない。選挙名簿も小池さんの独断で決められるようになっており、民進党出身者には不利なものだった。その上「ガバナンス長」というような仕組みもあり、個人である小池さんが議員の言論を統制できるようになっている。つまり、集団の意思疎通と意思決定がそもそも最初から全く信頼されておらず、独裁主義と言える。独裁は集団主義とは言えない。

こうした独裁にもかかわらず民進党の一部が合流したのは「党の規則がどうであれあとでどうにでもなる」と考えた議員が多かったからだろう。つまり、民進党は「集団で決めたことでも都合が悪くなれば覆すことができる」という認識を持った個人によって構成されていることになる。

さらに、選挙期間中に細野さんや若狭さんは勝手に小池さんを代弁して好き勝手なことを言っていた。後になってわかったのは、彼らは話し合いをしておらず、お互いに何を考えているのかさっぱり理解していなかったようである。

ここまでを見て「集団で何かを決めてそれをみんなが守る」というような政党は皆無だった。しかし、それは民進党出身者がバカだからんではないのだろうか。

ということで、維新の党を見てみよう。こちらは丸山穂高という議員が「惨敗したんだから代表選をやるべき」だと発信した途端に、ほぼ部外者である橋下さんから罵倒された。しかし、橋下さんはそれがどのような影響を及ぼすかを考えなかったようである。丸山議員は選挙区で勝っているので票を持って外に出ることができる。そして、本当に離党してしまった。丸山さんは票を持って自民党に行くこともできる立場になった。今になって松井府知事・代表が「橋下さんは言いすぎた」などと言っているが、発信が始まった時には何も言わなかった。松井さんは代表でありながら定見がない。つまり党のガバナンスを行っている人が誰もいないのである。

この三党の事情を見てわかることは何だろうか。それは集団の中で意思疎通ができておらず、それぞれが好き勝手に自分の言いたいことを言い合っているということである。さらに集団は個人を守ってくれず、不祥事を起こしたりすると「党員資格停止」とか「除名」などの処分がいとも簡単に下される。それぞれの党がどのようなイデオロギーによって結びついているのかもさっぱりわからないし、ましてや血族集団のように離れようとしても離れられないような集まりでもない。

ここでわかるのは日本の政党は、意思疎通もできていなければ、何のために集まっているのかもわからず、また安全保障の装置としても機能していないということである。これではとても集団とは言えない。

では、自民党は集団としての体裁を整えているだろうか。自民党の人たちが安倍首相に逆らわないのは、政府の役職を安倍首相が決めるからだ。だからこちらも後ろから安倍さんを撃つような発言が時々出てくる。最近では麻生副総理が「北朝鮮のおかげで選挙に勝てた」などと言い出した。

日本で集団主義的と言える政党は公明党と共産党しかない。どちらも何のために集まる集団なのかということが明確であり、個人よりも集団の考え方の方が優先されるという世界である。だが、日本で政党を作ると集団になれるのはごく例外的な団体だけなのである。

では、なぜ日本は集団主義の国と呼ばれるのだろうか。第一に個人の考えは全く尊重されず、評価されるのも集団だという事情がある。例えば個人の主張はそれほど重要視されないが「東大出身の人が何か言っている」ということが信頼される社会である。

さらに、個人同士の調整をするのに顔を出した個人が出てくることが少ない。どちらかというと匿名のままで無言の圧力をかけたり、同調圧力を使って「規則だから」といって個人を抑圧することが多い。この個人を隠したがる態度はかなり徹底している。例えばTwitterでは個人で政治を批判する人はいない。リベラルあるいはネトウヨというポジションをとってコピペした意見が交わされている。これは個人でポジションを形成し、個人の名前で発言するという文化が全くないからである。

確かに政治的発言にはリスクがあると考えられるのだが、WEARでも同じような姿勢が見られる。こちらでは顔を隠した個人がうずくまるようにして洋服のコーディネートを披露するという構図がよく見られる。つまり、個人を表明するということは日本では避けられなければならない行為だと考えられているようだ。個人の意見は受け入れられないが、個人は攻撃の対象になってしまうからなのだろう。

ここからわかるのは、日本の集団は特に何かのために機能しているというわけではないということとだ。だが、個人主義が確立していないので他人に圧力をかけるために集団を使うということだけである。

これを集団主義と呼ぶことはできない。強いて言えば「全体主義」とか「封建主義」と呼ばれるべきだろうが、実際には個人主義が確立していないだけでなんとか主義とは言えないのではないかと考えられる。

政党の場合はこれがかなり悪い出方をしている。集団としてまとまることもできないし、かといって個人で何かを考えて打ち出すこともできないというような人たちが、まとまれないままで好き勝手なことを言い合っているように見える。

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なぜ維新の党は保守政党とは言えないのか

懐風館高校の髪染め事件について調べている。この件についての世間のリアクションは固まってきたようだ。「人権やマイノリティの問題だ」とする人が多い一方で、規則なんだから守って当然だという人も多い。マスコミは係争中の事件ということもあり「ネットで人が騒いでいた」という話と「芸能人も苦労したようだ」ということを伝えるのみである。

確かに人権の問題にするのは簡単なのだがどうも違和感がある。何か言ったつもりになるのだが、かといってそれに納得していない人も多い。最近では人権というと自動的に集団に意を唱える人は排除してしまえというようなカウンターがくる。だからいつまで経っても議論が収束せず、従って問題は何も解決しないのである。

この両者を統合するともう一つ別の問題が見えてくる。それは「価値の体系の根本的な混乱」である。価値の体系という概念を説明するのは難しいけれども、これを導入すると最近の日本型ポピュリズムが何なのか見えてくる。また、保守が実は保守ではないということもある程度はわかる。

価値の体系の混乱はわかりにくいので、まず基本的な価値をおいてみよう。学校は何かを勉強するところであるべきであるという価値観だ。

もちろん全ての正解を暗記することができればいいのだが、それは不可能だ。いつも教師がいて指導してくれればいいのだが、そうもいかない。だから、大人になる前にある程度自分で考えて自分なりの正解が導き出せるようになるために必要なものを学ぶのが学校である。これも価値観である。

つまり、学校のゴールはある程度自立した人を育てる場所であるべきだということになる。特に、この価値を受け入れる必要はない。ここで「これに賛成か反対か」を考えていただきたい。そして反対であるなら何に反対なのかを考えておくと良いだろう。

この価値を受け入れると、学校の規則というのは、こうした判断基準を教えるための教材であるべきであるということになる。もちろん、一人ひとりが生きたいように生きて行ければいいが、社会生活を円滑に送るためには他人と折り合う方法も身につけなければならない。そのためにはある程度の規則は必要である。ここで重要なのは「ある程度の」という点である。つまり、優先されるべき課題があり、学校の規則というのはその下位に位置付けられる。

ここで重要なのは「教育は生きてゆくための手段である」ということである。だから生存が脅かされるような規則はあってはならないということになる。こうやって価値の体系ができてゆく。

これを整理したい。

  • 生きてゆくこと。
  • 生きてゆくための知恵を学ぶこと。
  • 知恵を獲得する一環として社会と折合うために規則を守ることを学ぶこと。

ゆえに、規則のために生存が脅かされることがあってはならないのだということになる。さらに規則は教育なのだから「契約」という側面がある。つまり、社会に受け入れてもらうためには前提になる約束事があるので事前にそれについて合意を結ぶべきである。学校の場合、校則はある程度決まっているはずなので、それが守れるかどうかを決めた上で入学すべきだし、そこに抵触する可能性があるのであれば、何らかの調整がなされるべきであるということになる。

さて、ここまでを考慮した上で実際に何が起きたのかを見てみよう。

  • まず女子生徒は入学前に「中学校でも同じ問題があったので考慮してほしい」と言っているようだ。つまり校則については知っているが守れそうにないのでなんらかの配慮をしてほしいとお願いしている。学校がこれにどう返事したのかはわからない。
  • 口コミサイトを見ると髪の色には厳しいがその基準がどこにあるのかよくわからないという話が複数出ている。つまり、恣意的な運用がなされていて教育以外の目的に乱用される余地があるということになる。
  • 髪の毛の色を黒に保つために4日に一度髪染めを強要されておりそのために健康被害が出ている。しかも行きすぎた指導の結果過呼吸を起こしており、精神的にも追い詰められているようである。つまり、当初の目的を逸脱している。
  • 学校は生徒との調停に失敗したようで不登校が起きている。しかしながらそれを正直に申告せず「生徒は退学した」と嘘をついている。学校は教育機関であり、生徒に善悪を教えるべきだと考えると、これは学校本来の目的を逸脱している。

つまり、懐風館高校ではまず規則が優先されており、そのために生徒の生存が脅かされている。さらに、規則を守らせることを優先するあまり、生徒や保護者に対して嘘の申告をしている。つまり、規則が守られるなら嘘をついても構わないということである。規則がすべての上位に来ている。

こうしたことが起こるのはどうしてなのだろうか。それは規則の運用の裏に「本当の価値体系」があるからだと思われる。それは、学校というのは少ない予算で効率的に社会に部品を供給する工場であり、規格外品があればそれは排除しても構わないという価値観である。

ところが、実際には日本には憲法というものがあり生徒の人権は守られなければならないと考えられており、さらに教育機関であるという建前もある。しかし、大阪府からは学校のリストラという別のメッセージが来ている。この2つの異なる価値観がコンフリクトすることで、価値体系に本質的な揺らぎが出ている。

しかしながら、大阪府当局はほのめかしによる恫喝は行うが、具体的な行動規範は示さない。そこで、それぞれの執行は校長に一任される。しかし、校長は具体的な行動規範を示さず、現場教師に丸投げする。そこで「好き勝手な」執行が行われて現場が混乱するわけである。

前回のエントリーではこうした価値の焼け野原を作ったのは、維新流のパフォーマンスの延長にある新自由主義的政策なのではないかということを考えた。維新の党は「学校の統廃合」という危機感を煽ることで下位校をパニックに陥れて、価値の体系を撹乱したということになる。しかし、さらにその背景にあるのは有権者側にある価値体系の混乱であると考えられる。

価値の体系が崩れ去ったところで生産される人材は、すなわち自分自身で善悪を判断する基準を持たない人たちである。つまり、価値体系の混乱は今始まった問題ではなく、すでに進行していたものと考えられる。これが政治を通じて社会に影響することになり、拡大再生産のループが完成したということになるだろう。

この話を人権や少数派の話にしたくないのは、実際には価値体系の破壊はかなり広範囲で起こっており、決して少数派だけの問題ではないからだ。しかも一旦始まってしまうと拡大再生産されてしまい歯止めが利かなくなる。

面白いのは、維新の党は保守政党を名乗っているという点である。保守とは民族集団が持っている価値体系が大きく揺るがないように緩やかな変化を目指すという立場である。しかしながら、実際には価値体系を大きく揺るがすような政策をとっており、府民もそれを黙認している。

維新の党が保守だと見なされるのは、共産党や社民党のような左翼政党ではないからなのだろう。だが、実際には新しい価値を提示せず、単に価値体系を破壊しているだけで保守とは言いにくい。かといって革新とも言えないので、単なる破壊的簒奪者だとみなすのが良いのではないかと考えらえる。革新ならば、ある程度の行動規範を持っており、価値変化がスムーズに行われるように措置するはずだからである。

このことからわかるのは、価値を提示しない保守政党というのはとても危険だということだ。

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なぜ少女は髪の毛を染めることを強要されたのか

生まれつき髪の毛が茶色い生徒が髪染めを強要され最終的には登校拒否に追い込まれた挙句、学校を提訴した。

学校を訴える以外に解決方法がなかったところをみると、教育委員会などからの調整はなかったのだろう。さらに、学校や関係者の間には外見上の理由をもとに学業の自由を侵害するのは人権侵害にあたり憲法問題であるという認識がなかったことが伺える。だが、それとは別にこの問題にはなぜ学校側が追い込まれていったのかという背景がある。学校がなくなるという危機感があるが、どう対処していいかわからず、外見を取り繕おうとしたのである。つまり、体裁を守ることの方が生徒に必要な教育を施すべきだという理念や目的に勝ってしまったということだ。

問題になった学校は羽曳野市にある府立の懐風館高等学校だ。口コミサイトを見ると市内にある二つの学校が合併してできた学校のようで、偏差値が45であることがわかる。平均点を50とすると平均よりやや下の学校ということになる。

生徒が口コミを書き込むサイトを見ると積極的に入るというよりは、入れるから入ったという学生が多いようだ。制服はかわいいと評判が高いが、その一方で髪型や服装の検査は厳しかったのだという。外見に力を入れていたことはわかる。

大学進学はできないことはないが、あまり手助けをしてもらえなかったという声が散見される。が、高校受験で思うような成果がでなくても、思い直して勉強し近畿圏で名前が知られた私立大学に行くことはできる。先生が相談に乗ってくれたということを書いている生徒もいた。

しかし、どちらかというと専門学校に行く生徒も多いようだ。懐風館は専門や就職なども多く、進学を目指してる方はやめておいた方がいいという情報があった。一方で、専門学校に行きたいと言ったところ嫌味を言われたという人もいる。

口コミサイトには、一定以上の大学に入る人は面倒を見てもらえないという情報があり、また定員割れだったから入ったという情報が複数ある。また、先生が指導したにもかかわらず盗難が多い学年があったそうだ。羽曳野高校時代は野球部が有名だったので、今でも野球部の活動に力を入れているらしいが、学生の方はあまり熱心ではないらしくうちはほとんどがクラブに入ってないですねみなさんバイトや遊びの方を優先してますという評判もある。

つまり、外見の保持には厳しいが、その教育内容はまちまちであることがわかる。さらに、学校全体で取り組む行事がない。羽曳野高校時代には野球部が有名で、文化祭もそれなりの規模だったがそれが縮小されたという書き込みがあった。学校が一丸となって何かを成し遂げるということがなく、それが内面での風紀の乱れに及ぶことがあるということである。

中でも気になった書き込みは以下のものである。

ひとり学校で一番偉そうにしている先生がいる。みんなその先生を恐れているように見える。その人の言うことは絶対。間違っていても言うことを聞く。先生が言っていることは絶対。先生同士のほめあいなれあい、見ていてしんどい。

伝統的な神学校のように「伝統を守ろう」という共通の目的がないために先生の間でまとまりがないのかもしれない。まとまりがないから「皮膚がボロボロになる生徒がいるから例外措置をみとめてはどうか」という調整ができなかった可能性があるのではないだろうか。さらに不登校になったがどう処理していいかわからず、名簿から名前を決して、周囲には「いなくなった」と説明したようだ。マスコミの取材がTwitterに流れてきていたが「裁判で判断してもらえばいい」という他人事のような教頭の言葉だった。あまり、当事者意識もなさそうだ。

確かに多くの生徒はそれなりに学校生活を楽しみ、そこそこの進路を見つけて卒業してゆくのだろう。しかし「規格」にはずれた生徒は大変だ。名前が通った大学に行きたいといえば支援してもらえないし、髪の毛が茶色だと染髪を強要される。

今回の学生は母子家庭に育っているという。さらに肌に合わないのか髪の毛を染めて皮膚がボロボロになった。それで染髪を止めたいと言ったところ、それでは学校にこなくても良いと言われ、過呼吸を起こし、実際に登校できなくなった。

ここまでを読むと「学校の管理責任」を問いたくなるし、多分マスコミが取材をするときにも学校を責めるようなトーンになるのでは無いだろうか。だが、学業もそこそこで先生や生徒にもそれほどのやる気はないし、場合によっては窃盗も発生するというような学校で「生徒の品質」を守るためにはどうすべきだろうか。

一番良いのは、やる気のない生徒を退学させて良い生徒を集めることなのだろうが、そもそも学年によっては定員割れを起こすような状態なのでそれはできない。だから、外見を整えて「きちんとしようとしている」ように見せることが優先されるのだろう。このようにして少しでもよい学生を集め、企業からの評判を保とうとしている様子が浮かんでくる。

つまり、どうしていいかわからないから、間違った方向に努力が進んでしまったということになる。背景にあるのは先生のリーダーシップの問題なのだが、先生も「成果」によって、やりがいのある進学校に行けたり、どうしようもない底辺校に飛ばされるわけだから、それなりに必死だったのではないだろうか。

しかしそのリーダーシップが行き着いたのは人権侵害である。が、いったんモラルとモチベーションがなくなってしまった状態では「これはいけないからなんとかしよう」と言い出す人はいなかったのかもしれない。

結果的にうまくいっている学校はやり方のノウハウを意識的に持っている(つまり形式知によっている)か伝統という形で暗黙知的に持っている。前者ならふわふわなケーキを作れるノウハウをレシピ本にして持っているか、美味しい味噌ができる味噌蔵を抱えているということになる。どちらにせよ、美味しいケーキ屋さんやうまい味噌屋さんになれる。すると大勢のお客が集まり、店員にもやる気と熱意が生まれる。

しかし、それが失われたところではとりあえず店内をきれいにして、そこそこのケーキや味噌を売るしかない。そこに形の崩れたケーキや味噌があってはならず「規格外品」としてはじき出されてしまうのである。

こうした問題が起こっているのは何も学校だけではないのではないだろうか。「憲法問題だから人権は守られなければならない」という人が多いが、実は人権侵害の裏にはもちべーしょんの低下がある。つまり、どうやったら競争できるかがわからなくなると、組織は集団による弱いものいじめを始めてしまうのだ。

学校側には多分生徒をいじめるなどという意図はなかったのだろうが、結果的には生徒を育てるという最優先すべき問題を「とりあえず外見を取り繕う」という問題のしたにおいてしまったということになる。さらに、社会も当事者たちもそのことに全く気がついていない。

このような状況にある人が多いのだろう。多くの人の共感を集めた。しかしながら、これに共感する人たちもまた何が悪いのかがわからないので「憲法上の人権問題だ」と騒ぐだけだ。だから、逆に「だったら憲法から人権条項を取り除こう」などと言い出す人が現れる。

我々の社会が、意欲が低下したかなりまずい状態にあるということがわかる。

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選挙とデモでわかったリベラルの課題

選挙が終わって2日間、なぜ自民党が勝ったのかということを考えていた。選挙日から政治系の記事に多くのアクセスが多く集まったからだ。日本人は表立って何かを言ったりはしないのだが、かなり集団的に動く。だから、一挙に動向が変わるのである。

アクセスが集まったものを眺めていると、あるべき姿と現実との間にギャップがあり、それが受け止められなかったのではないかと推察される。政治的ブログというのは自分の理想とする政治をプロモートするのが目的なのだろうが、その意味ではこのブログは政治的ブログではないのかもしれないとも思った。それよりも認知的な不協和を癒して悩みを癒したいという人の方が多いのだろう。

認知的不協和を修正するためには現実か自分の認知を変える必要がある。現実が変わらないわけだから自分の認知を変えるべきだろう。これが叶わないと怒りの感情が生まれる。

例えばTwitter上では「有権者は愚民だ」とか「バカだから」という声が渦巻いていた。気持ちはわからなくはない。安倍首相に政治家としての意欲があるとも思えないし、困った人を助けるのが政治だとしたら目の前で起こっていることはでたらめとしかいいようがない。安直な言い方をすれば「正義はない」ということになるだろう。

ただ、見たことがない有権者を愚民とか家畜などと罵ってみても状況は改善しない。却って離れてゆくだけだろう。

例えば、選挙に行かないような人たちを選挙に行かせて正義をなすように働きかけるにはどうしたらいいだろうかなどということを考えてみるとよい。例えばお昼頃のコンビニの駐車場にはたくさんの車が停車していて車内でぼんやりと過ごしている人が多い。多分、昼休みに食堂に入るお金もないのだろうし、そもそも立ち寄れる事務所すらないのだろう。1日誰とも話さないで黙々と荷下ろしをしている人もいるだろうし、誰も話を聞いてくれないのに知らない家のドアを叩いて売れるはずもない品物について話をしようとしている人もいるのではないか。同じようなことを毎日繰り返して対して希望も持てなくなっている人と話すために、トントンと車のドアを叩いて「愚民ども選挙に行け」などと言ったら何が起こるだろうか。多分殴られるかもしれないが、選挙に行ってくれる人はいないのではないだろうか。Twitterで「愚民」とか「家畜」などというのはつまりそういうことだろう。

かといって「立憲主義は素晴らしいもので、あなたには理解できないかもしれないが、日本の政治にとって必要である」と訴えたところでどうなるものでもない。「ご高説を垂れる賢いあなた」に対して敵意を向けることになるのではないかと思う。人は誰かが自分よりも賢いと認めるのが嫌いだからだ。

こういう人たちを選挙に行かせるためには多分なんらかの欲求を満たしてやる必要があるのだろう。これを外的インセンティブという。例えば、金券を配るとかみんなで(多分きれいな女の人なんかがいいだろう)褒めてやるとか、そういった類のことだ。しかし、それで「立憲主義がなされるような」政治が実現できるだろうか。とてもそうは思えない。権力を私物化したい側の人たちが同じことをすれば、外的インセンティブで動く人たちは容易にそちらになびくに違いない。

そもそも、どうして多様性が包摂されるような政治がなされるべきなのだろうか。この答えを導くのはそれほど難しくはない。アメリカやヨーロッパで繁栄している地域は包摂性が高い地域が多い。これにはいくつか理由があり、その理由を知ることで少なくとも「なんだかモヤモヤとした気持ち」を払拭することはできる。それを自発的に知って理解するのは大切である。

例えば多様性がある都市は付加価値を高めて高度な産業と才能のある人たちを惹きつける。こうしたことはリチャード・フロリダダニエル・ピンクなどの著作を読むと理解できる。また、ダンカン・ワッツなどもスモールワールド現象を引き合いにして「弱い絆」が成功のためには有益であるなどということを書いている。人々が出入りすることで新しいアイディアが生まれて成功しやすくなるからである。新しいアイディアを生み出すためには多様なインプットがあった方が良いわけである。

実際には多様性の推進というのは経済的実利に基づいた話であって、共産主義などとはあまり関係がない価値観なのだ。

同じように女性が働きやすい環境にあった方が経済が豊かになる。単純により多くの才能が経済に向かうからである。さらに消費者の半分は女性なので女性に受け入れられやすい商品やサービスが生まれる。これも特に左派思想とは関係がない。

問題なのは当のいわゆる左派リベラルの人たちがこのことを信じていない点にあるように思える。そういう社会を見たことがないからだろう。農業しか国の経済がない人に「映画や演劇を見せる仕事がありますよ」などと言っても信じてはくれないだろうし「何も用事がないのに車で遠くに出かける」ために車を買う人がいるのですよなどといっても笑われるに違いない。それはエンターティンメントやドライブなどという概念を見たことがないからである。同じように多様性を知らなければ多様性を信じることはできない。

加えて、リベラル=共産主義という思い込みがあり、さらに共産主義=社会から受け入れられないという決めつけがある。つまり自分たちで自分たちのことを縛り付けている。考えてみると奇妙な状態になっている。

何人かの人と話をしてみた。

ある人たちはデモをやっても何も変わらない現実に負けかけているようだ。原発反対のビラがなくなり、特定の政党を応援するポスターが消え、戦争法反対のポスターもなくなり、憲法第9条の勉強会も行われなくなった。彼らが抱えている問題は例えば姑の介護の問題とか、子育てをしている間は会社のキャリアからは脱落するとかそういうことである。しばらくお勉強会や抗議運動をしているうちに、社会に怒ってみてもその声はどこにも届かないし、自分が見放されている現実というものは変えられないという現実に直面してしまうのだろう。そこで「難しいことはわからない」と政治から引きこもってしまうのだ。

こうなると、気がつけば「安倍政治を許さない」というビラだけが扉に貼ってある。もう「許さない」ということしか訴えたいことは残っていないということになる。彼らがこの数年で学んだのは絶望することだけである。希望を抱くから絶望するのであり、だったら最初から期待しない方がいいということを学ぶのだ。

また別の人たちは自民党のおごった政治に辟易しているのだが、よく聞いてみると「自分と同じ考えの人がいないか」を街に出て確かめたことはないようである。だが言いたいことは色々とあるので、長い返信を書いてきたりする。こういう人たちはまだ絶望できていないということになる。

ここでできることは何だろうかと改めて考えてみた。第一には現実とありたい姿の間に乖離があるということを認めることなのではないかと思った。その上でどうしたいのかということを考えてみるべきだろう。

ただ、こういう鬱屈とした思いを抱えている人たちは大勢いるはずだ。だから、仲間を探すこと自体はそれほど難しいことではないのではないかと思う。仲間を探すのが嫌だと思う人は多様性や創造性について勉強してみるのもいいかもしれない。いずれにせよ、まずは怒りや苛立ちについて見つめてみなければ、何をすべきかは見えてこないのではないかと思う。

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なぜテレビでキチガイと言ってはいけないのか

田原総一郎が朝生で「キチガイ」という言葉を使ったとかで、アクセスが伸びた。田原さんはテレビのルールを熟知しており、このエントリーを書いたときの小林さんとは状況が違っている。





小林旭がテレビでキチガイという言葉を使い、フジテレビのアナウンサーが謝罪した。この件についてネットでは「キチガイにキチガイといって何が悪い」という声があるそうだ。小林さんの言葉は「無抵抗の人間だけを狙ってああいうことする人間っていうのは、バカかキチガイしかいないよ」というものであり、なんとなくなるほどなと思うところもある。

テレビでキチガイと言ってはいけない直接の理由はそれが放送禁止用語だからである。民放は広告収入に依存している。広告を載せる以上は前提となるコードがあり、それに触れたのがいけないということになってりう。「テレビ局が勝手に決めた」という反論があるようなのだが、出演者たちは広告収入からギャラをもらっているのだからルールは守られなければならない。

だが、なぜそもそもキチガイは放送禁止用語なのだろうか。それは、日本の精神病患者が長い差別の歴史を戦ってきているからだ。もともと精神疾患は不治の病のように考えられており、いったん発症すると病院に閉じ込めて死ぬまで出てこれないように処置するのが当たり前だった。薬物治療ができるようになってもこの状態は変わらず、今でも社会的入院患者(受け入れ先があれば退院できるが、実際には入院している人たち)が18万人もいるとされている、これはOECD諸国では一番多い数なのだそうである。(#wikipedia「社会的気入院」)

つまり、よくわからないからとにかく閉じ込めておけという風潮があり、人権侵害の恐れが強い。このような差別を助長するので、精神病者や疾患保有者を示す「キチガイ」という言葉を一概に禁止していると考えられる。

例えば風邪のような病気を全て「病気」とひとくくりにして一度風邪に罹患したら一生社会に出てこれないという状況を考えてみると、これがどれほど異常なことだったのかということがよくわかる。だが、精神的な不調は外から見ても原因が観察できず、よくわからない。そこで「キチガイ」とひとくくりにされかねないのである。

このように正気とキチガイの境目はわかりにくくなっており、単に封じ込めておけば良いというものではなくなっている。

日本の例でいうと薬を処方されながら社会生活を送っているうつ病の患者が多くいる。つまり、薬があれば社会生活が送れる人たちがいるのである。うつ病だけに限っても100万人程度の患者がいるそうだ。こうした人たちをすべてキチガイの箱に入れてしまうと多くの人がキチガイになってしまう。

しかしながらうつ病の人たちはまだ診断名がついているという意味でわかりやすい存在である。BLOGOSによると最近問題になったラスベガスの銃撃犯はギャンブル依存に陥っており向精神薬の処方も受けていたようである。さらに薬そのものへの依存傾向があり精神科で薬をもらっていた可能性がある。さらに、正気の日常生活を送っており、フィリピン人の女性と交際もしていた。怪しまれずにホテルに宿泊することもできた。医者を含む人たちが彼を見ていたのだから、外見上はとても精神に異常があるようには見えなかった。このように、正気とそうでない人たちの間の線はかつてないほど曖昧になっている。銃撃した人を後からみると「なんらか精神に問題があった」ということは間違いがなさそうだが、だからといってそれを事前に察知することはできないのである。

アメリカではさらに状況が一歩進んでいる。パフォーマンスを上げるためにスマートドラッグという種類の薬を飲む人たちがいるのだ。。副作用はないということになっているようだが、現在は覚せい剤として指定されている薬も昔はパフォーマンス向上のために使われていたという歴史がある。さらに抗鬱剤のなかにもスマートドラッグ分類されているものがある。つまり、正常と異常の境界線はどんどん曖昧になっている。

小林さんが「あんなことをする人はキチガイに決まっている」という時、キチガイというのは外見からみて明らかに精神に異常をきたしている人だという前提があると思う。しかし、それはこのケースに関しては当てはまらない。実はこれがアメリカでこの事件が人々にショックを与えている一つの理由だろう、さらに、明らかに精神に問題がありそうな人がみんな人を殺すかどうかわからない。これは「精神に不調があればとりあえず閉じ込めておこう」という偏見のある日本では精神疾患を持った人たちへの差別につながりかねないという問題もある。

田原総一郎さんもかつてのように気楽な気持ちで「キチガイ」と言ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。小林さんは歌手でありそれほど社会問題についての知見は求められないが、田原さんには言論人としての経歴と責任がある。だから「アナウンサーが謝罪して終わり」にするのではなく、自らの口で説明すべきではないかと思われる。アナウンサーが「臭いものに蓋」と言わんばかりに謝罪して終わりにしてしまっては、言論人としての責任は果たせない。

いずれにせよ、民放はサザエさんのような「普通の社会」を前提としたスポンサーシップに支えられているのだが、実際にはその社会はもはやないと言って良い。これを民放の枠内で解消するのか、ネットメディアのように違った場所で解消するのかという議論派あっても良いのかもしれない。

誰が正常かというのは昔は自明のように思われた。ゆえに精神病を発症した人への差別があった。だから、いわゆる「正常な人たち」は、精神に問題がある人たちは閉じ込めておけば良いと無邪気に信じていたことになる。だから今でもテレビではこうした人たちを指す「キチガイ」は封印されてなかったことになっている。

小林旭がキチガイ発言をした番組は「ニュースを斬った」ように見せるエンターティンメントでしかない。政治ニュースですら消耗品として扱われており、そこに問題を解決しようという意欲はない。だから小林さんに期待されているのは、ぎりぎりの線を狙いつつ、本当に議論を呼び起こすような課題に触れないようにするというアクロバティックな技術なのである。一方で、田原総一郎氏の番組も言論プロレス的な要素がありこれをジャーナリズムとして位置付けて良いのかはわからない。

こうした問題が未だに議論を呼ぶのは、受け手も送り手も難しくて面倒なことはできるだけ考えたくないからだ。このため日本人はこうした厄介な問題を閉じ込めてしまいできるだけ見ないようにしてきた。隠蔽することで「自分がそういう状態になったらどうしよう」という不安を隠蔽してきたのだ。だが、こうした不調を隠蔽すると、実際に自分が同じような境遇に陥ったら社会から見放されるのだろうなという見込みが生まれる。

「テレビではこうした言葉を一切使わない」のも隠蔽の一種だ。一切見ないのだから知識も増えず対処もできない。実は、これが多くの人々を不安にさせているのではないだろうか。その意味では発言した人はそれなりの説明責任があると思う。単に謝罪して終わりにすべきではない。

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