NHKの受信料を払いたくない人が大勢いるらしい

NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。

普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。

月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。

ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。

にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。

日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。

NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。

一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。

NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。

今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。

むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。

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日馬富士暴行問題から日本人が学べること

テレビを見ていたらまだ日馬富士暴行事件を扱っていた。当初からちょっと変わってきたのは在日モンゴル人に取材が入るようになったことである。これを見ていて、日本人として学べるところがあるなと思った。

どうやらモンゴル人特有の事情があり、日馬富士は貴ノ岩に謝れなかったようだ。年上の人が年下の人に誤ってしまうと、年下の人の運気を下げてしまうという。東洋的な面子の問題かもしれないし、別の行動原理があるのかもしれない。その代わりに非言語的な謝罪表現があり、それもモンゴル人から見ているとわかるということであった。

この「非言語的表現」は他の文化からみると違う意味に取られるか無視されることが多い。多分日本人は「日馬富士は言葉に出して謝るべきだ」というのだろうが、これは彼らの非言語的なシグナルが読めないからである。

そして、同じことは日本人にも起こる。日本人は誰かに指名されるまで会議の席ではおとなしくしているのが礼儀だと考える。これは教室で先生のいうことを聞くのが良い生徒だと見なされるという事情があると思うのだが、アメリカでは「会議に非協力的」か「無能である」と取られることが多い。日本人が会議に非協力的ではないことは、盛んに司会者にうなずいたりすることを見ればわかるのだが、このような非言語的なサインはアメリカ人には見逃される。

さらにアメリカ人が「日本人は会議の時おとなしいから積極的に話すように」などと指示をして、日本人がニコニコとうなずいたのに、結局会議では話さなかったということがあると、中には怒り出すアメリカ人もいる。わかっていなかったのかというわけだ。だが日本人は相手を遮ってまで自分の主張を話すことが「会議への貢献であり、自信の表れである」などとは思わない。

ところがアメリカ人が怒り出しても、普通の日本人は申しひらきができない。第一に自分たちが特殊であるということを知らないし、知っていたとしても「自分たちが会議に消極的に参加する文化を持っている」ということを言語的に説明できないからである。日本人を会議に参加させるためには会議の時に指名するか、発言者を遮って発言する練習をさせるべきなのだ。

さらに、白鵬らモンゴル人力士は極めて特殊な立場にある。彼らは確かに「モンゴル人性」を持っているのだが、その上に日本の文化を受容するような社会的・組織的圧力がかかっている。この日本性には表向きの「品格を持ちなさい」という言語的・意識的ものと「先輩から後輩への可愛がりという名前の暴力があたりまえにある」という非言語的・無意識的な側面がある。

実はモンゴル人力士が置かれた状況は、極めて現代の日本人に似ている。日本人にも意思決定やコミュニケーションにおいて「日本人性」があるはずなのだが、戦後アメリカ式の自己主張型民主主義を受け入れたためにかなりミックスされた状態になっている。どちらかを意識して身につけたのであればまだ整理ができるのだが、実際にはごちゃごちゃになっていて「何が日本人的で何がそうでないのか」がよくわからない。

ここから類推すると白鵬らモンゴル人力士も「何がモンゴル的であるか」ということが明確にはわからなくなっている可能性が高い。だから文化的な軋轢があってもそれを理論的に説明できないので、誤解されることになってしまうわけだ。

日本人とモンゴル人はコンテクストを共有していないので、日本人がこれを知ることは不可能であり、従って日本人の文化コードによって一方的に「裁かれる」ことになる。だから正当な判断のためには文化コードをモンゴル人に説明してもらう必要がある。しかし、当のモンゴル人がこれを整理できないということは、誤解が解けることがないということを意味している。

モンゴル人が日本人に申しひらきができないということは彼らの問題なのだから、彼ら自身が解決すべき問題だとは思う。だが、同じことが日本人にも起こりうる。日本人が考えている民主主義は西洋人が考えるところの民主主義でない可能性が高い。だが、日本人はそもそも元になった日本性をうまく説明できないのだから、その上に乗っている西洋性もうまく説明できないはずだ。さらに、この二つはケーキのスポンジとクリームのように層になっているわけではなく、混ざり合っているはずである。

つまり、外国文化に対して自分たちの立場を説明し弁護できないということは、日本人にも起こり得る。白鵬から学ぶのはこの点で、つまり日本人もその日本性が何なのか言語的に説明できるようにしておいた方が良いということになる。

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白鵬バッシングに邁進する愚かな日本人について考える

白鵬バッシングが強まっている。万歳がいけないと言われ、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻したいといったことがいけないと言われた。Twitterをみると貴乃花親方の下では巡業に出たくないと言ったということが咎められ「嫌ならモンゴルに帰ればいい」などとバッシングされている。

どうしてこのような問題が起き、どうしたら解決できるのかということを考えてみたい。しかし、相撲界だけで考えるのは難しいので、全く別の事例を考えてみる。それが日系企業の中国進出である。全く別の状況を当てることでその異常さがよくわかる。

日本市場が先細りした企業が中国への進出を考える。そこで日本語が堪能な現地人の留学生を採用する。彼らは日本の特殊な企業文化を学び必死に同化しようとする。偉くなれば自分たちの地位が向上すると考えるからだ。彼らは期待通りに成長し、現地市場を開拓する。その成果が上がり、中国市場はこの企業の稼ぎ頭になった。

モンゴル人が最初に直面するのは「可愛がり」という常軌を逸した暴力である。日本のジャーナリズムは相撲界と経済的・心情的な癒着関係にあり何も伝えないがBBCは白鵬が経験したかわいがりの感想を掲載している。

白鵬は、私の顔は今幸せそうな顔をしているように見えるかもしれないが、(かわいがりを受けいていた)当時は毎日泣いていた、と語った。力士は、最初の20分はただただすごく痛いが、殴られても痛みが感じにくくなってくるので、それまでよりは楽になる、と話した。

白鵬は当然泣いたと言うが、兄弟子に「お前のためだ』と言われてまた泣けた、と振り返った。

中国人が日本の婉曲な企業文化を学ぶように、モンゴル人もこのように混乱したメッセージを受け取る。表向きは「日本人のように尊敬されるような人になりなさい」と言われるのだが、裏では容赦ない暴力があり、これを抜け出してまともな生活ができるようになるためには番付で上に上がるしかない。この文章には、番付が下の力士は配偶者と一緒に住むことすら許されないという「成果主義的な」状況についても言及がある。

さて、中国人の話に戻る。彼らは本社での待遇向上を期待するが、いつまでたっても重役以上にはなれない。重役たちに聞いてみると「日本国籍が必要であり」「中国人には日本の難しい文化は理解できないからだ」と言われるばかりである。では日本の難しい文化とは何かと質問しても明快な答えはない。最初は深淵すぎてわかりにくいのだろうかと思っていたのだが、どうやら日本人にもよくわかっていないのではないかと思えてくる。

モンゴル人力士はいつまでたっても日本人らしく振る舞わなければならないし、何かあれば「やはりモンゴル人だから」などと言われる。国籍をとって親方になれたとしても「二級市民扱い」は一生続く。日本のしきたりだからと言われて理不尽な暴力にも耐えてきたし、日本文化についてよく勉強した。しかし、だんだん様子がわかりトップである横綱にまで上り詰めたところで白鵬は「この理不尽さには一貫した思想などない」ということに気がついたのだろう。

中国人の話に戻ろう。ある日本人のプロパーが理不尽な要求を持って重役たちを振り回し始める。しかしながら、重役たちは彼のいうことを聞いているようである。そこで中国人たちは「自分たちが改革を要求しても聞き入れられないのに、日本人が重役を振りまわせるのは「差別があるからだ」ということに気がつく。

これが貴乃花親方である。貴乃花親方は「日本の伝統」という言葉を振りかざして改革を要求する。改革自体にはそれなりに根拠があるかもしれないが、周囲と協力しようなどという姿勢は見せない。「品格」には強くなっても威張らずに周りと協調してやって行くという価値観を含んでいるはずなのだが、どうやら貴乃花親方はおかまいなしらしい。それどころか貴乃花親方には同調者すらいるようである。そこで初めてモンゴル人たちは「部屋に分離されてバラバラにある状態」は不利であり自分たちも固まってプレゼンスを持つべきだということに気がついたのだろう。しかし、彼らにとってみればそれは当然の要求である。

そもそも相撲界はモンゴル人に依存している。相撲に強い日本人が入ってこないのはなぜだかはわからないが、前近代的な仕組みが日本人に嫌われているのかもしれない。体力に恵まれているのなら柔道やレスリングの方が栄誉が得られる可能性が高い。オリンピック種目であり金メダルをもらえればその後の生活には困らないし、選手の裾野も広いので指導者としての道も立ちやすいからだ。

そこで白鵬は自己主張をするようになる。巡業が多すぎると言って親方に注文をつける。バスの中では良い席を実際に働いている力士に譲るべきだと言って巡業の責任者である貴乃花親方の席に座る。バスの時間に遅れてやってくるなどの示威行為である。日本の伝統からみると「親方を敬っていない」と感じられるかもしれないが「商品である力士を大切にせよ」というのは実は当然の行動だとも言える。親方だけで相撲巡業を行うことはできないし、巡業がいくら増えても給料は変わらないのだろう。

もちろん貴乃花親方を責めることはできない。中学校を卒業してから親方が威張るのは当たり前だという世界で過ごしてきたのだから自分が親方になり巡業部長になったのだからその世界に君臨するのは当たり前だと考えるだろう。

Twitterの心ないコメントに見られるように「気に入らないならモンゴルに帰ればいい」と日本人は気軽に言うが、実際にはモンゴル人なしに日本の相撲はもはや成立しない。これを単に品格の問題だけで片付けることはできない。これは労働組合と経営者の間の対立でもある。貴乃花親方が土俵に上がるわけではないのに、なぜ威張るのだろう。

これは、例えばプログラマが「なぜ自分でプログラムを組みもしない部長にペコペコしなければならないのだろうか」と思うのにも似ている。さらに、プロジェクトマネージャーがクライアントを説得できなかったせいで時間が足りなくなり土日も犠牲にせざるをえなくなったというようなことがあればプロジェクトマネージャーに一言ガツンと言ってやりたくなるはずだ。そこで「プロマネに楯つくとはお前には品格というものがない」と言われたらどんな気分になるだろうか。しかもどんなに尽くしてもプロマネはエンジニアに感謝などしない。「お前らが無能だから赤字になったじゃないか」などと毒付いて「もっと優秀で土日も休まないエンジニアが欲しい」というのである。

日本人はこれに耐えるかもしれないが、他の国の人は別の企業に行くだろう。しかしこのような状態が続けば日本人ですら英語を覚えて外国企業に就職するかもしれない。

実はこの問題を見ていると、日本企業が国際化できなかった理由がよくわかる。原因はいくつもあるのだろうが意思決定が特殊なため異質な人たちを受け入れられないという事情がある。また、若い頃に「いじめられていた」のを「後には良いことがあるから」と我慢させていたという事情もある。だから、貴乃花親方のように全てを捨てて相撲に没頭してきた人に「これからは力士を労働者として普通に処遇しなさい」とは言えない。

さらに都合が悪くなると「労働者と経営者は親子同然なのだから、親を敬わないのは品格がない」と言い切れる。その場はなんとか取り繕うことができるのだが状況が改善するわけではないので、人はどんどん逃げて行ってしまうのだ。

つまり、日本企業が過剰な日本人らしさを求めて衰退して行くのと同じことが相撲で起きているということになる。「国技」という小さなプライドを持ちながらゆっくりと衰退して行くことになり、これは製造業が「日本の誇り」と言われているがゆえに衰退し、品質偽装を繰り返すようになったのと実はとてもよく似ている。

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日本とアメリカの笑いの違いについて

日本語版のQuoraに「日本とアメリカの笑いは何が違いますか」という質問があった。特に学術論文ではなく無責任にかけるので、書いてみると以外と面白かった。そこでこちらにも載せることにした。

いったん、答えを書いてみて「一番顕著だな」と思ったのは場の構成の違いだった。つまり、アメリカと日本の笑いの一番の違いは笑いの輪の中に観客が入るか入らないかということではないかと思ったのだ。これを平たく説明するのはなかなか難しいが、日本人が抱える「公共空間」への不信感というか恐怖心のようなものが現れていると思う。つまり、なんらかの同質さが確認できない限り日本人は他人を信頼しないのだ。これが泥だんごを投げ合うTwitterの政治議論にも影響を与えていると思う。

よく考えてみると、日本人は人前では感情を表に出さない。日本人は「おとなしい」とか「何を考えているのかわからない」と言われるのはそのためである。西洋文化圏の人は慎ましいと言って終わりにすることも多いようだが、東洋系の人たちは日本人が閉鎖的で差別的だということも知っているので、Quoraでは「日本人は本当に礼儀正しい人たちなのか」というような質問が時々出てくる。

一方、アメリカ人は笑いたければ笑う。その上笑いには社会的な機能もある。

例えば日本人は映画館で笑わないで黙って映画を見ている。アメリカ人は面白ければ笑うし、解放感が得られるシーンでは全員で拍手をしたりする。アメリカ人はこうやって社会的な一体感を感じるのに笑いを使うわけだ。

笑いは緊張感の緩和にも用いられる。ある政治家が真面目な集会で言い間違いをする。みんな言い間違いだとわかっているが指摘できない。この時誰かが「笑う」とみんなもつられて笑う。そこで政治家が気がついてそれをジョークにして笑うということがある。結果的には誰も傷つかないし、一体感を得ることもできる。むしろ、政治家にはジョークの才能が必要であるとされる。そしてそのジョークは必ず「ボケ」である。

しかし日本人は誰も笑っていないのに自分だけ笑うわけには行かないと考えるし、そもそも大衆の面前で笑うのも恥ずかしいので笑わない。さらに、えらい政治家を嘲笑することには侮蔑以上の意味はないし、笑われたえらい人もジョークで返すスキルがない。つまり、日本人は笑いによって緊張を緩和することはない。

日本人は笑うのに相手の許可を必要とする。つまり「笑ってもいいですよ」という許可がない限り笑えない。日本語が堪能なアメリカ人のジョークを聞いていると「ボケ」なのか「無知」なのかわからないことがある。例えば今回答えを書くのにパックンの外国人記者クラブでのインタビューを読んだ。パックンは政治的なジョークで何回かボケていたが、日本人向けなのか「これは冗談です」という情報を挟んでいた。しかしながら、アメリカでは「これは冗談です」とは言わない。日本人は「これは笑っていいことなのだろうか」と考えるが、アメリカ人は「笑いたければ笑う」のである。

このため日本には「ツッコミ」と呼ばれる人がいて、その人が「なぜおかしいのか」を指摘する。つまり、ツッコミは観客に笑う許可を与えているのである。かなり回りくどい仕組みだが、そもそもこの構造に気がついている人はそれほど多くないのではないだろうか。

このようなことを改めて考えていると、アメリカ人はスタンドアップ・コメディアンと個人の観客がいて笑いの世界を構成していることがわかる。つまり観客は笑いの当事者になっている。しかし日本では笑う人と笑われる人が目の前におり、観客はそれを第三者的な視点で眺めているということがわかる。その場に入って感情的に巻き込まれてしまうことは日本人にとっては危険なことであり、距離をとって初めて安心感が得られるのだろう。

アメリカでは政治的な笑いというものが存在する。「やっぱりあれは間違っているよね」という感情を共有することができる。これは笑いだけではなく様々な政治的判断に用いられる。判断基準は内在化していて、この違いを「イデオロギー」と言っている。

しかしながら、日本だとそれを笑っていいかということはいろいろな条件によって複雑に決められるし、笑うことによって社会的な避難を受けかねないなどと考える。つまり「個人の資格で笑っていいかどうかは判断できない」ということになる。だから日本人は政治を判断しない。周りをみてどうするか決めるし、周りが無関心なら何もしない。つまり日本人には内在化したイデオロギーはない。一見、リベラルな人は「平和主義者」であり、保守の人たちは「拡張主義者」のような気がするが、必ずしも態度は一貫しない。自分の立場の権威付けのためにポジションを利用しているだけであって、特に一貫性を求めてはいないからである。

イデオロギーがないので政治的なことは笑えないが、社会的な序列には敏感である。そして、この序列を守るためには暴力も許容されている。このことは相撲を見ているとよくわかる。外からきて日本文化の良い学び手であった日馬富士は素直にこの価値観を取り入れて、貴ノ岩をカラオケのリモコンで殴りつけたと言われている。

このため、例えば美貌に恵まれていない女性の容姿や体型を笑うとかのろまな人を笑うことは比較的おおらかに許容されるし、序列上弱者だと見なした人を嘲笑したり頭を叩いたりするのは文化的にはよいことであるとさえされる。

相手の頭を小突くことは多くの文化では暴力であるが日本人は「ツッコミ」を暴力とは見なさない。日本人には社会的に許容された弱者への暴力というものがあり、相撲の世界ではかわいがりと呼ばれ、学校では生活指導と呼ばれる。

どれも暴力なのだが、生贄を作って社会が緊張のはけ口を持ったり、秩序維持のための見せしめにするのは日本では許容されたコードだ。つまり、いじめは公衆の面前で自分の考えを明確にしたり、感情によって表現することを許されない日本人にとっての「安心できる」緊張の解決策であり安全対策なのだろう。

しかしながら、自ら容姿に恵まれていない女性を嘲笑するのは憚られるので彼女たちがいたぶられているのを外から見て楽しむのである。

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学校はみなさんがいじめられても飛び降りるまで何もしないですからね

いじめの話がなくならない。今度は神戸でおきた自殺未遂事件だそうだ。机が悪口を書いた紙切れで覆い尽くされていたのだが、当事者は写真を撮影しただけで何もいわずに授業を受け続け、そのあと公園の石垣から飛び降りたのだという。

この話が拡散したのは、机の写真があまりにも非日常的でインパクトがあったからだろう。これを「生徒同士のじゃれあい」と感じていたそうだから、感覚がかなり麻痺していたことがわかる。

この事件には2つの問題がある。一つは学校側が「学校に何か物申すなら命を捧げよ」というかなり明確なメッセージを出しているという点で、もうひとつはそれを敏感に感じ取った学生が「学校は何もしてくれないのだから身を守るためにはいじめに加担しなければならない」と感じているという点だ。

学校は何もしないことで「もし深刻ないじめだと感じるならそれなりの行動を起こせ」と言っている。「それなり」というのは命を賭けて抗議をしろということである。学校のような神聖な秩序にチャレンジするのだから、それなりの対価を支払うべきだと言っているのだ。いったん自殺や自殺未遂が起こると今度はプロトコルに従って「調査委員会」が作られるが、それまでの間紛争を処理する仕組みはない。先生は秩序に反して仕組みを作ろうとは思わないので、自動的に放置されるというわけだ。

このプロトコルは日本人を考える上で重要な概念だ。例えば家庭内のいじめの対応には社会的な二つのプロトコルがある。一つは児童虐待でこれは児童相談書で「処理」される。もう一つはドメスティックバイオレンスでこちらにも専門の仕組みが用意されている。つまり、それ以外の暴力(例えば親子間とか兄弟とか)には適切な仕組みがないので、例えば高齢の親を子供が殴ったなどというケースには行政は介入しない。制度がないのに動くと調整が面倒だからだ。

同じように学校には生徒間の紛争を事前に処理する仕組みがない。法律に従って重大インシデントに対応する仕組みはある。これに合わせるには飛び降りるしかないのである。カフカの「城」を思い出させるような話だが、実際には学校も「お役所」の一つになっていると考えられる。

もう一つの問題は相撲や企業不正について観察した時に見た「世間を騒がせる」罪である。本来平和であるはずの教室にいじめが起こっているということを告発することは、担任教師のマネジメント能力に対する疑問なので慎まなければならないし、同僚の教科教師が疑問を挟むこともできない。さらに生徒がこうした秩序を「飛び越えて」教育委員会や第三者委員会に強訴することは決して許されないという学校内封建秩序である。

この話を聞いて思い出したのは佐原惣五郎の話である。「伝説だ」という話も多いようだが基本的な路線は次のようなものである。

佐倉藩の農民は重税に苦しんでいたのだが聞き入れられず家綱に直訴した。願いは聞き入れられたのだが、佐原惣五郎は処刑されてしまう。本人だけではなく妻も男子の子供も処刑されたという。つまり、一家根絶やしになってしまったのである。

この背景にあるのは、個人が体制に文句をいうことは決して許されないのだが、もしやるとしたら一家が根絶やしになっても構わない覚悟でやりなさいということである。直訴を許してしまうと、気に入らない時には直接幕府に訴えればよいということになってしまい、幕藩体制が揺らいでしまうからだ。

学校を一種の封建社会だとみなすと、生徒の人権というのはそれほど大切なものではなく、学校の秩序維持が重要だということになる。もし訴えたいことがあるならば、命をとしてやりなさいということで、飛び降りる生徒というのはその仕組みに従っただけということになる。こうした社会秩序が前提にあるのに「命は大切だから」などと訴えても全く説得力はない。

このブログで自殺や死にたい人について考える時に、常に「訴える手段として自分の命を使うな」と言っている。時には「訴える側にも意地になっている側面があるのではないか」といって反感を買ったりすることがある。つまり、自分がいじめられているということを社会に認知させるためには死ねば良いという「正解」が出てくると、そのことで頭がいっぱいになり、自分が何を犠牲にしているのかということがわからなくなっているのではないかと思うのだ。

このような問題を防ぐためには、第三者の恒常的な介入は欠かせないのではないだろうか。また、生徒が気軽にノーコストで「直訴」できるような仕組みを作り、それが当然の権利であるということを丁寧に教えこまなければ、似たような問題はなくならないだろう。結局のところ「死ぬほど悩んでいるのか」ということは当人にしかわからないからだ。

その意味で、この学校と教育委員会のやり方は許容されるべきではないと思う。

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日本人が政治議論ができない意外な理由

質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。

日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。

問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。

今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。

糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。

もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。

日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。

それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。

質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。

ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。

と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。

これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。

このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。

もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。

これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。

今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。

このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。

多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。

現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。

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政治から相撲まで – 崩壊過程を観察する

各種の崩壊過程について調べてみた。中の人たちからみると「こんなに単純化はできない」のだろうが、あえて単純化した。さらにあるパターンを作り、それにストーリーをあてはめた。だからこの文章は「すべての崩壊過程には必ずパターンがある」というものではない。

これらのストーリーには、ある成功体験に特化した組織が、変化を察知できないくなるという基本パターンがある。しかし、集団には閉鎖性が強く新しい知識が入ってこないので問題が解決できなくなるという図式である。しかし、実際に崩壊するのは「組織」ではなく「社会」である。社会が成り立つためには信頼という通貨が必要なのだが、組織防衛を優先すると失われてしまうのだ。そのコストは計り知れないがいったん社会が崩壊すると信頼を回復する手立てがなくなる。そこで組織だけが残り構成員がコストを支払い続けるということになる。

政治

高度経済成長期に入り、自民党は企業の儲けを地方に還元するという利益分配型の政治を行うようになった。高度経済成長の中身はブラックボックスだったが政党はそれを気にかけなかった。しかし経済は変質しており、大蔵省の通達で資産バブルが崩壊する。これは資産バブルについて大蔵省が意識していなかったことを意味している。しかし、自民党は利益分配に特化しており経済の諸課題を解決できなかった。そこで動揺と権力闘争が広がり、それがマスコミを通じて伝わるようになった。政党は集団を組み替えたり新しい党首を求めたが戦略の変更はできなかった。世襲化が進んでおり新しい知識は入ってこなかったからである。最終的に民主党政権が誕生するのだが、政権交代で世間から否定されたことに耐えられなくなった自民党は民主主義そのものを憎悪することになり、戦略を立て直したり外部から新しい人材を迎え入れることはせず、民主主義を否定する憲法草案を作り有権者に対するルサンチマンを晴らそうとする。しかし相手を非難するだけで建設的な提案ができなかった民主党も国民から飽きられてしまった。この結果、かたくなになった自民党が政権に復帰した。この政権は民主主義に懐疑的で、どうやれば有権者を騙せるかということが政権運営の基本方針になった。有権者も政権交代での混乱が怖くなり目の前の矛盾を意図的に見過ごすようになった。そのようにして日本の議会制民主主義は壊死してしまう。

人材

資産バブルが弾けると人件費調整の必要が生まれたが、企業は終身雇用を前提として雇われた人たちを雇い止めることができなかった。そこで企業は人件費さえ削減できれば問題は解決できるのにと考えるようになり、非正規雇用に依存することで人件費削減策を採用するようになった人件費はしばらく高止まりしたのちに下落を始めたが、直ちに企業活動に影響は出なかった。しかし、この頃から経済が成長しなくなり一時は「デフレ」と呼ばれる物価の低下すら観測されるようになった。企業はデフレ対応を強めて低価格商品を市場に提供する一方で、政治的な圧力を加えて非正規雇用を拡大させた。日本は再び経済成長することがなくなり、政府は金融緩和などでその場しのぎの対応を行うほかなくなった。非正規雇用の通路は、正規雇用から転落した人、そもそも就職氷河期で正社員になれなかった人、年満退社後非正規雇用に転換した人というという正規から非正規への一方通行だったので、新しい知識は入ってこなかったし人材の流動化も起こらなかった。経済が再び成長する見込みがないので、人件費が低く抑えられており、海外に人材が流れることになった。この結果、企業内では知識が継承されなくなり、残った知的資産が外国に流れるようになった。地方では人材が調達できないからという理由で潰れる企業も出てきたが、企業収益は過去最高を記録しているため、企業がこの方針を変えることはあまり期待できそうにない。

金融機関

とにかく土地さえ購入していれば経常利益が黒字になるという時代が続き、金融機関は企業の価値を正しく測れなくなっていた。企業に資金を貸し出して土地を買わせて利ざやを稼ぐというのが金融機関のやり方になった。しだいに、必要な土地を買うという状態からとにかくみんなが買うから土地を買うのだというような状態になっていたが銀行は気がつかなかった。資産バブルが崩壊すると今度は一斉に貸しはがしが起こりその結果企業は金融機関を信じなくなり自己資金の蓄積を始める。経済が上向かないことに苛立った政府は紙幣を増刷して市中にばらまいた。その結果、利息が下がり金融機関は利息によって儲けることができなくなった。しばらくは国債を購入させてその利ざやで経営を支えていたがそれも難しくなる。かといって企業は潤沢な自己資金を持っているので金融機関には頼らなくなった。新しいフィンテックなども始まっていたが自前の社員でなんとかしようという気持ちが強く外資系の人たちを採用しなかったこともあり、新しいサービスへの適応は限定的なものだった。金融機関はリストラを進めざるをえなくなり、中期的に人材の数を減らし、支店も閉鎖する見込みである。合併した銀行は残ったが、一般消費者は近隣に支店が見つけられないという状態になっている。しばらくはコンビニのATMに頼っていたが、これも維持費が稼げなくなり削減の方向だという。

相撲

かつて困窮する農村部の人材の受け皿として発展した相撲部屋だが、高度経済成長期に入ると農村部から人材を引き受けられなくなった。しかしながら、相撲は近代スポーツに転換することはできず、相撲部屋という利益集団もなくならなかった。そこで、日本の農村部と変わらないだろうと考えられたモンゴルなどの発展途上国から人材を調達することになる。調達先が変質しており、当然ながら担い手の文化も変わっていた。しかしながら、当初はパスポートを取り上げて逃げられなくしていたが、やがて横綱が出てくると「品格」という曖昧な基準でしばり、モンゴル的な変質を受け入れなくなった。しかしながら、モンゴルでも高度経済成長が起こりいつのまにか世代間で考え方のずれが生まれた。これが軋轢となり問題が起こるが、一方的に価値観を押し付けていただけの日本人にはモンゴル人が理解できず、したがって危機管理もできなかった。それどころか、相撲協会の中にも考え方の違いがあり「協会が信用できないから危機管理はやらせない」と宣言する親方まで出てきた。相撲経験者だけが相撲協会の理事になるという形態なので特殊な文化が温存され、世間の常識が入ってくることはなかった。その軋轢が疑心暗鬼になりモンゴル人横綱がその場でジャッジに抗議するという「品格の面からはあってはならないこと」が起こり、品格という曖昧な基準は崩壊した。モンゴルでは日本の相撲界は揺れているという懐疑論が生まれており人材の調達は難しくなるだろう。

相撲は、政治経済とは比較的離れて固有な位置にあるので文化の変質が追いやすい。相撲は基本的に興行なのでお互いに完全な潰し合いをせず選手生命を長く保った方が良い。しかし、それが外に見えてしまうと競技性が失われ単に「プロレス化」してしまう。そこで、表向きは競い合っているような体で相互調整をする。これが貴乃花親方が嫌っている「馴れ合い」である。貴乃花親方が馴れ合いを嫌うのは相撲にすべてを捧げて健康を失い家族も崩壊しているからだ。しかし、すべての力士が親方になり雇用が保証されるわけではないのだから、特定のチャンピオン以外はすべて失ってしまうというような競技に人が集まるはずもない。つまり、相撲が現在のような体制である限り馴れ合いはなくせない。一方、この馴れ合いは選手間・部屋間で暗黙のうちの行われる。つまり、ハイコンテクストなのでモンゴル人が入れなかったのだろう。モンゴル人社会にも強くなれば認めてもらえるだろうという期待があり、それが頑張りにつながっていたのだが、最高位になっても二級市民扱いされるという状態が続いている。モンゴル人は穏やかな人たちだが、強さを誇示したいという気持ちもあるようで日本人とは強さの表現がかなり違っている。平成になって成功したチャンピオンは貴乃花のようにすべてを失ってしまったひとかモンゴル人しかいない。つまり馴れ合っているとチャンピオンにはなれないが、かといって馴れ合いなしには雇用が維持できないという状態になっている。だからすべての人を満足させる回答が決して見つけられないということになる。

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異文化理解力

先日Twitterで教えてもらった本を読んだ。「異文化理解力」というタイトルがついている。Twitterで何かを教えてもらうというのはとても珍しい。

多国籍企業で働くと、誰でも自分の意思が相手に通じないと思ったり、相手が自分の思った通りに行動してくれないという経験をしたことがあるはずだ。文化が違うと行き違いが起こりやすいのである。外国に行くときにはガイドブックを持って行くのだから、当然相手の地図のようなものがひつようになってくる。エリンメイヤーはこれを「カルチャーマップ」と呼んでいる。つまり、この本は外国の人と仕事をするためのガイドブックのような本である。

2017年の新刊ではないのだがこの本はとても人気が高いようだ。それだけ海外赴任を命じられたり、外資系の会社で働く人が増えているのだろう。最近、建設現場で中国語などが飛び交うようになっているので、もしかしたら日本の会社に勤めていても外国人と働くことになる人もいるのかもしれない。

地図を作るにあたってエリン・メイヤーは8つの指標を用いて文化の間にある違いを研究した。8つの指標には名前が付いているがここでは詳しい説明ができないので簡単な説明をつけた。

  1. コミュニケーションがどれくらい文脈に依存するか
  2. 評価を直接伝えるかほのめかすか
  3. 物事をどう説明して相手にやる気を出させるか
  4. みんなで協力するのが好きかそれとも誰かがリードする方が好まれるか
  5. だれが意思決定するか
  6. 信頼の対象はものなのか人なのか
  7. 見解の相違をどう解決するか
  8. スケジューリングは柔軟か

メイヤーはどちらかというと実用的な側面からこれらの指標を抽出しているようで、指標を一通り読めば日々のビジネスシーンに役に立つティップスが身につく仕組みになっている。

同じような研究にホフステードの文化指標がある。どちらかといえばこちらは文法書のようなもので、全ての傾向を限られた指標で点数化している。ホフステードは様々な質問の傾向を抽出して違いが出やすい指標を抽出しているのだが、メイヤーは実務書として書いているので、指標の中にはお互いに関連しているようなものがある。メイヤーは会話書のようなものなのかもしれない。

例えば「説得」は全ての文化の指標になっていない。理由を説明して相手を説得しようとする文化と具体的なやり方を示す文化があるとされているのだが、これは欧米文化の違いを記述している。東洋人はこのようなやり方は好まず「包括的に」問題に対処するとされている。そして、これが対象物に注目する西洋人と背景を含めてものを見る東洋人という図式で説明されるといった具合に展開してしまう。東洋人の視点からは、この包括性と文脈依存は関係しているように思えるのだが、西洋人にはそれぞれが別のものに見えるのかもしれない。会話書なので本自体がある程度印象に左右されているように思える。

この本はインターナショナルマネジメントについて書かれている本なので、日本人だけの会社に勤めている人にはあまり役立たないのではないかと考えられるのかもしれないのだが、そうとも言い切れない。むしろ外国人と接したことがない日本人こそ読むべきではないかと思われる。それは日本人が外国人の作った文化をそのまま日本に取り入れて失敗することが多いからである。

この本を読むと、ほぼ全ての指標について日本人はかなり極端な位置に置かれている。極めて文脈依存的で婉曲なコミュニケーションを好みきっちりしたスケジューリングが好きであると言った具合だ。ある意味「ユニーク」なのだが「極端でわかりにくい」文化と言えるだろう。だが、こうした極端さは当たり前すぎて日本に住んでいるとあまり実感できない。

例えば、稟議システムは独特のものだと考えられているようである。ほとんどの文化はトップリーダーが決めたことに従い、その決定が覆らないか、平等な人たちがその都度必要なことを決めて行くというどちらかにプロットされるようなのだが、日本人だけはみんなで決めたことが覆らないという独自の文化を持っている。

これを「稟議システム」と呼ぶ。具体的には「持ち帰り検討します」といってなかなか返事がない(ものによっては数年かかることさえあり、誰が何を決めているかよくわからない)のだが、いったん「社の決定である」というコンセンサスが得られるとその後はとてもスムーズに物事が進むのが稟議システムである。いったん合意が形成されると、あとからそれが合理的な決定ではなかったということがわかってからも覆すのはとても難しい。

日本人には当たり前に思えるシステムなのだが、こうしたシステムを持っている国は少ないのできちんと説明しないとわかってもらえない。それどころか、日本人の中にもコンセンサスシステムについて理解していない人がいる。

最近の例で言うとトップダウンで物事を決めてしまったために全てが大混乱してしまった小池百合子の例がある。小池さんがこの稟議システムについて理解していればこのような混乱は起こらなかったのかもしれない。だが、海外でのトップリーダーを見よう見まねで模倣するうちに、日本でもトップダウン型の合意形成ができるだろうと誤解してしまったのだろう。

特に民進党のように「いつまでも何も決められない」人たちとトップダウン型の相性はとても悪かった。小池さんは文章による明確な意思決定を行ったのだが(これはメイヤーの本の中にも出てくるが、コンテクストに依存しない文化では明文化が好まれるとされている)あとから「やはりこれには従えない」とか「いや、実はこういうつもりではなかった」という人たちが大勢現れた。つまり、文脈を作ることで影響力を保持しようとした人や、いったん支持者たちとの間で稟議された暗黙の取り決めを破れない人が続出したのである。

もし、小池さんが強いリーダーになりたいのであれば、文脈依存はやめて西洋型の意思決定をしますとせんげんしなければならなかった。が、そのためには希望の党に入る人たちが自分たちは文脈依存で合議型の意思決定をしているということを知らなければならないという具合である。

文化というものがいかに大きな力を持っているのかがわかるとともに、それが普段は全く意識されていないということもわかる。つまり我々は文化に支配されているわけだが、その文化を知ることである程度その支配から自由になることができるのではないかと思う。

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もはやデフレではないのにデフレ対策が必要なのはなぜか

当初、参議院の代表質問を聞いて当初「どうやったら安倍首相のように答弁できるか」ということを研究しようと思った。大塚民進党代表が「論理的に説明せよ」と迫るのに対して、安倍首相は全く無茶苦茶な答弁をしていたのだが、聞いているとそれほど無茶苦茶には聞こえないのである。これは相当なテクニックがあるだろうと思ったのだ。

注意深く聞いていると、いくつかの戦略があるようだ。全体を見ると整合性がないのだが、パーツごとを見ているとそれほど破綻しては見えない。安倍首相はこれを「やっている感」と呼んでいるそうである。全体像を見せずに、個別のことだけを答え続けていれば良いということになる。

わかりにくいので営業社員を例にあげて「やっている感」を説明したい。「売り上げが上がらないのはなぜか」と聞かれても全体については答えず個々の活動を拾い出して「これだけ一生懸命にやっています」といえばやっている感が演出できる。営業は数字が出てしまうのでこのテクニックはあまり使えそうにないが、それでも事務所に戻ってこずコンビニの駐車場で時間を潰して「やっている感」を演出する人はいる。つまり、安倍首相は売り上げに貢献しないダメな社員ということになる。

だが、これが結果が数字に出ないマーケティング部員だと意外と使えるテクニックなのかもしれない。それぞれのチャネルで整合性のないことをやっていても「効果は出そうだったがマーケティング予算がつかないからうまくゆかなかった」から「もっと予算をくれ」と言えば良い。いずれはクビになるだろうが、その時にはやったことのリストを携えて別の会社に移れば良い。外資のマーケティングにはこうやって渡り歩いている人はたくさんいるのではないだろうか。

だが、やっている感だけではさすがにどうしようもない。そこで、北朝鮮のような危機を煽り「外にこんな脅威がある」といえば良い。さらに最近では国難という言葉を使っている。これは少子高齢かがあたかも外からやってくる敵のように思えるという意味で優れた言い換えの発明と言える。自分たちが克服しなければならない課題だとしてしまうと、国民は責められているように思うのだが、よそからやってくるとするだけで、自分たちは悪くないと思えるのだ。この言い換えに気がついていない人は意外と多いと思うのだが、実は自称保守には多いメンタリティである。

例えば小池百合子東京都知事は立派な保守政治家だが、自分の言動が築地豊洲問題を混乱させたり、希望の党を大惨敗に陥れても一切責任を取ろうとしない。それは全て「彼女が女性差別にさらされているからだ」という被害者意識に変えてしまう。つまり、それは憎むべき敵のせいであり、決して自分が悪いわけではないのである。

しかし、安倍首相の子供騙しのような<国会対策>がうまく行く理由は実はこれだけではない。質問をしている方も戦略を間違えている。この顕著な例が「デフレ対策」である。

この中で大塚代表が面白いことを聞いていた。安倍首相はもはやデフレではないと言っているのだが、実際にはデフレ対策を続けている。これはアベノミクスがうまくいっていないということなので、それを自ら証明してみせろと質問していた。

多分安倍首相はよくわかっていない。このよくわかっていないというのはかなり強烈なパワーを持っている。だから、これまでの主張を繰り返し、さらに「日銀を信頼しているから日銀に任せている」などと言って終わらせていた。急場がしのげているので「これでいいじゃないか」と思っているようだが、出口戦略が失敗すると悲惨なことが起こるとわかっていれば、とても怖くてあんな答弁はできないだろう。子供が日に触るまで「火傷するよ」という言葉の意味がわからないのと同じことである。

だが、聞いている大塚さんがこの質問の答えをわかっているかというのにも疑問があるし、さらにそのやりとりを聞いている国民もよくわかっていないかもしれない。

そもそもデフレは二つの意味で使われている。一つは、経済学的な定義である。不景気になりものが売れなくなる。すると企業は良い製品を作って売り上げを伸ばすか、コストを下げて売り上げのい低下を埋めあわせる。後者を選ぶと、価格の下落は賃金の下降につながる。賃金が下降するとさらに物が売れなくなる。こうして生まれるのがデフレで「デフレスパイラル」と呼んだりする。

では、いつからがデフレなのだろうか。物価をグラフにしたものがあるので自分で見て調べてみていただきたい。だいたいの人は「あれ、それほど価格が下がっていないな」と感じるだろう。もう少し細かくグラフが読める人は1996年と2009年ごろから価格が低下しているのでこれがデフレなのではないかと考えるかもしれない。しかし、もっとリテラシのある人がグラフを見ると日本はなんらかの理由で経済が成長しなくなっており、上がったり下がったりしていてもそれは誤差の範囲なのではないかと気がつくかもしれない。つまり、日本はデフレではなく、成長が極めて低い(あるいはまったく成長していない)ということになるのである。

このデフレという言葉はいつ頃から使われるようになったのか、時期を限って検索してみたい。

2003年に榊原英資という人が世界経済は低成長に入ったので世界規模のデフレであると言っている記事が見つかる。だがその後、消費者物価指数はわずかに上昇し、榊原さんもこうした主張をあまりしなくなった。

その後、リーマンショックをきっかけに物価の下落が起きた。2009年の民主党政権になった瞬間にデフレが起きたのではないかと思えるのだが、実際には欧米の大規模な金融不安が原因である。誰もが疑心暗鬼に陥り日本は輸出が大幅に落ち込んでいる。さらに2011年には東日本大震災で東北を中心に生産施設が被害を受けたので、これも(民主党のせいで日本列島が天罰を下したというオカルト説を信じるならば別だのだが)民主党とは関係がない。

だが、印象という意味では、民主党政権にも大きな責任がありそうだ。2009年11月に「デフレ」の検索が大幅に増えた期間がある。政府があまり配慮しないで「現在はデフレである」と宣言してしまったようだ。これで不安に思った人が多かったのだろう。だが、実際にはこれは初めてのことではなかった。文中には次のようにある。

政府は2001年3月に物価下落が2年以上続いていたことから、月例経済報告で初めて「日本経済は緩やかなデフレにある」と認定した。2006年6月を最後に、月例経済報告から経済が「デフレにある」との文言は消えたが、その後もデフレに後戻りする可能性が払しょくできないとの判断から「デフレ脱却」宣言を見送ってきた。

つまり、自民党政権はこれをあまり大げさに書かなかったが民主党政権は国民の不安を大幅に煽ったのではないかと思われる。

さて、景気が低迷しているだけなのにそれを「デフレ」と呼び出したのは誰なのだろうか。資産バブルが弾けたときこれをデフレと呼ぶ人はいなかった。金融不安はあったが終身雇用が完全にきれなかったので賃金は高止まりしていた。だから物価にはそれほど影響が出なかった。

しかし、政府が経済政策に失敗したために物価の上昇が止まり現在のようなほとんど成長がない時代がやってくる。さらにそれに追随して非正規雇用を増やしたために物価の上昇が止まってしまった。日本人は現在の稼ぎだけでなく将来の予測も加味して消費する「長期志向」が強いことも原因の一つになっているのだろう。

その過程で価格破壊が起こった分野があった。最初に影響を受けたのは外食などの分野のようだ。1996年ごろには、価格があげられないことを「デフレ不況」と呼ぶようになっていた。この頃の文書を検索すると「デフレ不況でモノが売れない」という文章が散見される。だが実際にこの時期にも物価はわずかながら上がっているので実は定義としては「デフレ」とは言えないのである。

つまりこの頃は「景気が悪くなること」や「高度経済成長(と、それに続く資産バブル)」が起こらないことを指してデフレと言っていたことになる。

そこで、どの経済学者がデフレという言葉を「低成長・無成長」の意味で使い出したのかということが気になって調べてみた。検索上見つかったもっとも古い記録は1994年の稲垣武というジャーナリストが書いた「デフレ不況」だった。稲垣はもともと共産主義に傾倒し朝日新聞に入り最終的には週刊朝日に移った。その過程で共産主義に大いに失望したらしく今度は反共に転じたというような経歴の人らしい。

つまり、週刊誌の記者崩れの人があまり経済について理解しないで「すごい不況」という意味でデフレというパワーワードを見つけてきた可能性が高い。週刊誌などではよく使われる手法だが、新聞で「ポリティカルコレクトネス」に疲れた人が「自由な週刊誌」で好き勝手書けるようになったことからこうした無責任な姿勢が生まれたのではないかと推測した。なお稲垣さんはすでに亡くなっているので当時どんな気持ちでこれを書いたのかを尋ねることはできない。

つまり、そもそも日本経済は定常的な無成長の時代にあり本当の意味ではデフレではないのだが、無成長をデフレと呼ぶことが広まり、政府も物価が少し下振れするたびに「これはデフレになるのではないか」と言い続けていたことになる。そこで国民はなんだかよくわからないがデフレとはとても悪いもので、日本はなんとなく大変なことになるのではないかと重ようになったのだ。

さらにモノが売れないのはこのデフレというオバケのせいであると考えることになった。企業努力をしていないとか怠けているとか言われると腹がたつが、デフレが悪いのだから仕方がない。これがデフレの二番目の意味である。

つまり、安倍首相は「無成長をデフレと呼んでいたが、それをやめた」ことで「もはやデフレではない」となんとなく印象操作している。さらに低成長・無成長の原因である少子高齢化も「国難」と呼んで北朝鮮と並べることで、なんとなく「自民党がそれらを成敗してくれる」という印象を生み出しているのではないだろうか。

一旦この事情がわかると「どっちが正しい」という話ではなく、マスコミや当事者である政治家がふわっとした理解をもとに印象だけで話をしているだけだということがわかる。つまり、安倍首相が言い逃れできてしまう原因は実は聞き手である国民にあるのだ。

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保守主義と農業

植木鉢の整理をしている。植物は、ものすごく調子が良かったのに、ある時を境に著しく調子を崩すことがある。たいていの場合根がなくなっている。だが根がなくなってもしばらくはわからない。勢いがなくなって初めて「ああ、根がなくなっていたのだ」と思うわけである。だからその前に挿し木を作ったり種を育てたりして株を更新する必要があるわけだ。

植木鉢を育てていると、日本人が今でも植物を育てていれば、根の大切さがわかるのになあと思った。日本の保守思想は農業民族だった日本人の知恵を基礎にしているので、農業への理解は非常に大切である。国や会社などの組織を植物に例えると栄枯盛衰が予測できるため、運勢学に応用されたりしている。

今の日本人は根の大切さがわからずに表面だけをみていろいろな議論をしようとする。西洋流にみると目的意識を持たないでその場限りの議論をすると批判するのが妥当だが、日本流にみると根の大切さを学ばずに議論をするから、いつまでたっても「地に足のつかない」議論になるのだと言える。

農作業の場合には、毎年植え替える稲のような植物を除いては、定期的に畑を変えたり、数年に一度植木鉢を分解して根の調子を点検する必要がある。主に見るものは、土壌と根の2つである。

土の中にはさまざまなものがあることがわかる。例えばコガネムシの幼虫が繁殖して根を噛み切っていることが多い。さらに大きかった土の粒が崩れていたり有機質が消費されて土が粘土状になる。こうなると根が窒息するので土をふるいにかけて細かな粒を取り除いてやる必要があるのだ。古来の農法だと山から有機質を持ってきたりして土壌を改良するのだが、現在では化学肥料をまけば栄養分は補給できるので、土の粒を整えるのが大きな仕事になる。

かといって毎年植物を植え替えていると根が伸びる時間がなくなるので却って植物が傷んだりする。だから、毎年掘り返して根を確かめるのもあまりうまい方法とは言えない。

農業的な文化を持っている地域では全てのものは永遠だとは考えない。このようにして盛りのものはやがて衰退する。衰退の仕方は様々だが時々取り出して点検をする必要がある。中国の暦は十二と十を組み合わせて六十の組み合わせでひとまわりになり、どちらも季節の組み合わせを意識している。

では、組織にとって根とは何だろうか。それは多分人材である。人を育てるには時間がかかる。あまりにも入れ替わりが激しいと人が育たないし、かといって全く人が動かないと腐敗してしまう。また、教育は空気に当たるものと考えられる。

例えば日本の自称保守は根の大切さを全く忘れている。そこで本来は国の基礎になる教育を人気取りのための取引材料に使ったりする。見た目にあたり枝葉ばかりを茂らせたがるのだが幼児教育の大切さには全く気がつかない。そこで「幼児教育は大切だから無料にする」などと言っておきながら「ただし例外がある」などということが平気でできるのである。もし、彼らが自称通りの保守であれば、自分たちの国を大切にするはずなので、どうやったら根を育てることができるかに心を砕くはずである。

教育議論一つを見ても保守と呼ばれる人たちほど関心がないことがわかる。国防や戦略といった議論にばかり熱心で、子育てや教育などは人気取りのために適当に利用できるおもちゃだと考えているわけである。彼らは大きな木を育てて周りを威圧したいが、実は全く根っこがない。だからその木はすぐに倒れてしまうだろう。

さらに単に戦争ができる国になれば日本人の民族の誇りが蘇るとか、他の民族をないがしろにすることで自民族の優位性が保たれるなどと考えている人も多い。

こういう人たちのことを「ネトウヨ」と呼ぶのだ。

農作業が日本の保守のこころねであると書いたのだが、もちろん日本の保守思想には欠点もある。農業は日光と水の量で収穫が決まってしまう。つまり誰かが儲けているということは、誰かが損をするということだ。儲けるためには上流で水を自分たちの田んぼに水を流すか、日当たりの良い場所を人から取り上げる必要があるということである。こうしたゼロサムの思想は日本人に染み付いており、ビジネスは「金儲け」という偏見の目にさらされることになる。つまり、日本の保守には「協力して新しい何かを成し遂げよう」という精神的な素地はないので、これは外から持ってくる必要がある。

根の大切さを忘れた国には未来はないし、人を育てることを忘れた組織には未来はない。いずれにせよ、日本人として保守思想を体感したいのならば、まず何かの植物を育てるべきである。

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