先日、日本には左右のイデオロギー対立は存在せず、実際には世代間対立なのではないかと書いた。この考察を進めるに当たって出てきたのが他己像という表現だ。もちろんそのような言葉は辞書にはないのだが、漢字なので意味は伝わるのではないかと思う。
驚いたのはこれについてコメントがあったという点である。政治的な諸課題よりも緊急性が高いのかもしれない。ちょうどこの文章の下書きを終えたところなのでどこまでが共通認識になっているのかがわからずに中途半端な返信になった。いずれにせよ、今回出てくる「他己像」という言葉で説明できることが多い。
日本人の間に埋めがたい思想的なギャップがあり、それを説明するためには「相手がバカだから」という前提を置かなければならないということだと思う。さらに年代ごとの軋轢もかなり深刻なことになっているようだ。この文章ではバブル世代とその後の世代の対立について扱うのだが、終身雇用世代と非正規雇用世代の間にも埋めがたい深刻な対立があるようである。今回の課題はこれが正当なものなのかという点にある。
昭和の時代には日本人論というジャンルがあった。前回例として挙げたのは「日本人とユダヤ人」で、これは300万部以上のヒットとなったそうである。1970年代に流行した日本人論は主に日本人は遅れているので西洋化しなければならないという筋で書かれている。今風にいえば日本をdisっていたのである。
これらの本を書いた人たちは、日本が戦争に負けた理由は「遅れた日本性」にあると考えたのだろう。これ自体が一種の揺り戻しであるということがわかる。そしてそこからいち早く脱却したものが成功を掴めるという認識があったのだ。
日本人論にはいろいろな要素が含まれている。感覚的に挙げると次のような感じになる。
- 日本人は個が確立されておらず集団主義的である。中には「甘え」という概念でこれをポジティブに捉えたもの(甘えの構造)もあったが、たいていはネガティブに捉えられている。前回までの議論で「村落論」を書いたが、これは典型的な日本人論である。
- 日本文化は辺境文化に過ぎず普遍性がない。これは中華文明との比較によるものなのだが、のちにアメリカ方式=グローバリズムという図式にも影響を受けているのではないかと思う。世界に通用しない日本文化という図式だ。
- 哲学に興味のある人は、中心に空白があり責任の所在があいまいであり、意図的な意味のなさを伴っているという論に惹かれた。(河合隼雄の中空構造日本の深層)(ロラン・バルトの表徴の帝国)
しかし、この後、日本人論は極端に揺れ動く。1980年代の高度経済成長を受けて、日本企業は西洋の経営論の研究対象になる。そこで日本の企業はなぜ優れているのかという論が展開された。70万部も売れたジャパン・アズ・ナンバーワンが書かれたのは1979年だそうだ。
しかし、バブルが崩壊すると、今度は決められないダメな日本という面が強調されるようになった。日本人は集団主義なので何も決められないから、決められる政治が求められるというような具合である。これが政界再編騒動に結びつくのだが、結局野党はまとまることができなかった。そこで小泉純一郎という人が「自民党をぶっ壊しますから」と言って、こうした人たちを再び自民党に集めた。
いずれにせよ、この中で語られる日本人というのは自分たちのことではなかった。博物館でガラスケースに入った「日本」を鑑賞するような感覚で日本人が捉えられていたのである。
しかしながら、この日本人論は小泉後に別の展開を見せる。それが「反日」である。日本の遅れた精神性や文化などを攻撃する人たちを見て「自分たちが攻撃されている」と考える人が出てきたのである。中心にいたのは「ダメな日本人」ということで粛清されてしまったポスト小泉の政権だった。
安倍晋三は二重の意味で「日本」から排除されている。まずは吉田茂の時代に岸信介がGHQから排除されて戦後の意思決定の枠組みに参加できなかった。岸は日米安保には関わることができたが、憲法を自らの手に取り戻すことはできなかった。そして孫の安倍晋三はダメな日本の象徴としてテレビで民主党系の議員たちに叩かれた。彼の系統が見ている日本人というのは「日本性を脱却しよう」とするダメな日本人だった。そして、この動きに共鳴したのが高齢者と中堅以下のサラリーマン世代だ。彼らは「尊敬され優遇されるべき日本の男」なのだが、男女平等や機会均等という言葉の元に排除されていると考えたのだろう。
安倍晋三の答弁を見ていると、彼が政治について何一つ理解していないことがわかる。つまり能力がないから否定されたのであって、決して彼の「日本性」が否定されたわけではない。しかしながら、能力がない分だけ自分の力量を正確に見ることができないので、それを何か別のものに転移させようとしている。
彼の力量のなさは日本の政治をさらなる混乱に陥れようとしている。彼が憲法改正にこだわり日米安安保や地位協定にこだわらないのは、おじいさんが憲法からは排除されたが日米安保では当事者だったからである。しかし、日米安保を見直さなければ「日本がアメリカから精神的に独立」することはありえない。この堕落した精神は憲法議論を堕落にと追い込んでいる。
自衛隊が自分の意のままに動かせないならそれを「直接書いてしまえばいいじゃないか」というのは、アルゴリズムが破綻したプログラムを書いている人が、例外処置をそのままハードコーディングするようなものである。これは別のバグの原因になるだろうが、もっと深刻なのは同じようなことが常態化すれば、憲法は「スパゲッティコーディング」に陥ってしまうという点にある。
さらに自民党の人たちは「自分たちの選挙区を復活させるために参議院議員を県選出にしょう」と言い出している。安倍さんが自衛隊を憲法に書き込みたいのなら「取引として入れよう」というのだ。教育も「維新や公明党との取引」として入れなければならないが、お金がないので「努力目標にしよう」などと言い出している。野党時代の自民党は自分たちが否定されたルサンチマンをぶつける形で人権を否定する草案を書いたのだが、政権側につくと「取引材料として憲法を利用しよう」と考えるようになった。
一般支持者たちはさらに歪んだ精神を持っている。韓国人や中国人への差別と結びつける形で「日本を侵略しようとしている人たちが日本の中にいる一部の不心得な人や帰化政治家を使って日本を攻撃している」というストーリーを作りあげその中に逃げ込んでしまった。
戦前は戦後世代によって否定された。その戦後世代がポストバブルの「経済敗戦期」に生まれた人たちによって排斥されようとしているというのが今の状態だ。その中で何を自己を捉え、何を他己と捉えるかで出方が全く変わってしまうのである。
日本人を自分と他人という二つの極端な層にわけて考えてきた結果、日本人像は極めてあいまいなものになっている。ネトウヨの考える歴史は戦前に国家がでっち上げた神話を元にした歴史が多く含まれる。政治家の中には2600年前に樫原神宮が存在したと真顔で信じている人もいるらしい。
恵方巻きと大して変わらないものを日本の伝統だと捉える人も多い。鉄道会社のマーケティングから生まれた初詣を日本の伝統だと考える人も多い。正月はもっとも日本人らしさが感じられる季節だが、年賀状は郵便局が作った伝統だし、おせち料理ももともとはデパートが作った伝統がテレビに乗って広まったものである。全て企業のマーケティングなのである。
では、我々が排斥しようとしている日本や反日とは一体何なのだろうか。これが次の課題になるのかもしれない。例えば個人として生きなければならないという理想を持って大学を卒業したバブル世代の人たちが企業の中では何も決められない典型的な集団主義の大人になり、それ以下の人たちに嫌われるという現象がある。また、主体性を持って未来を切りひらけという老人に何かを提案してもあれこれ理由をつけて否定されてしまう。つまり、個人として言っていることと、集団で行っていることについての乖離がとても大きい。実は、私たちは自分たちの中にある個人としての私と集団としての私を収束させられずに、二つに分解して捉えているのかもしれない。
これが日本人論を「他己像」とした理由である。つまり、他人に見える己の像を嫌悪しているにすぎないのかもしれない。
つまり、日本人は個人としての考えを持ってはいても、集団になるとその振る舞いが大きく変わってしまうということである。戦前の日本人の中にも戦争は嫌だなと思っていた人たちは多かったのだが、それでも集団としては戦争に向かっていった。戦後人々は伝統的な生活から抜け出して個人主義的な生き方が理想だと考えたが、集団としての無責任な企業文化を変えることはできなかった。そして、それに反発する世代も偉大な日本民族は一致団結すべきだと考えていても、実際の政治論議をまとめることはできないという具合である。
振り返って考えてみると「個人として持っている理想」と「集団としての振る舞い」が違っているだけなので、日本人論も反日も、個人の日本人が集団としての日本人を攻撃しているだけだ。世代によって見え方が全く異なっており、これが不毛な相互対立につながっているということがわかる。
この仮説が正しいのかどうかはわからないが、このように見ていると差別発言を繰り返す人たちにそれほど腹が立たなくなる。彼らは戦う相手を間違えているだけであって、決して何かを信じて行動しているわけではなさそうだからである。免疫が暴走して自己を攻撃するという、いわばアレルギー症状のようなものなのだ。