日本人論と反日は実は同じもの

先日、日本には左右のイデオロギー対立は存在せず、実際には世代間対立なのではないかと書いた。この考察を進めるに当たって出てきたのが他己像という表現だ。もちろんそのような言葉は辞書にはないのだが、漢字なので意味は伝わるのではないかと思う。

驚いたのはこれについてコメントがあったという点である。政治的な諸課題よりも緊急性が高いのかもしれない。ちょうどこの文章の下書きを終えたところなのでどこまでが共通認識になっているのかがわからずに中途半端な返信になった。いずれにせよ、今回出てくる「他己像」という言葉で説明できることが多い。

日本人の間に埋めがたい思想的なギャップがあり、それを説明するためには「相手がバカだから」という前提を置かなければならないということだと思う。さらに年代ごとの軋轢もかなり深刻なことになっているようだ。この文章ではバブル世代とその後の世代の対立について扱うのだが、終身雇用世代と非正規雇用世代の間にも埋めがたい深刻な対立があるようである。今回の課題はこれが正当なものなのかという点にある。

昭和の時代には日本人論というジャンルがあった。前回例として挙げたのは「日本人とユダヤ人」で、これは300万部以上のヒットとなったそうである。1970年代に流行した日本人論は主に日本人は遅れているので西洋化しなければならないという筋で書かれている。今風にいえば日本をdisっていたのである。

これらの本を書いた人たちは、日本が戦争に負けた理由は「遅れた日本性」にあると考えたのだろう。これ自体が一種の揺り戻しであるということがわかる。そしてそこからいち早く脱却したものが成功を掴めるという認識があったのだ。

日本人論にはいろいろな要素が含まれている。感覚的に挙げると次のような感じになる。

  • 日本人は個が確立されておらず集団主義的である。中には「甘え」という概念でこれをポジティブに捉えたもの(甘えの構造)もあったが、たいていはネガティブに捉えられている。前回までの議論で「村落論」を書いたが、これは典型的な日本人論である。
  • 日本文化は辺境文化に過ぎず普遍性がない。これは中華文明との比較によるものなのだが、のちにアメリカ方式=グローバリズムという図式にも影響を受けているのではないかと思う。世界に通用しない日本文化という図式だ。
  • 哲学に興味のある人は、中心に空白があり責任の所在があいまいであり、意図的な意味のなさを伴っているという論に惹かれた。(河合隼雄の中空構造日本の深層)(ロラン・バルトの表徴の帝国

しかし、この後、日本人論は極端に揺れ動く。1980年代の高度経済成長を受けて、日本企業は西洋の経営論の研究対象になる。そこで日本の企業はなぜ優れているのかという論が展開された。70万部も売れたジャパン・アズ・ナンバーワンが書かれたのは1979年だそうだ。

しかし、バブルが崩壊すると、今度は決められないダメな日本という面が強調されるようになった。日本人は集団主義なので何も決められないから、決められる政治が求められるというような具合である。これが政界再編騒動に結びつくのだが、結局野党はまとまることができなかった。そこで小泉純一郎という人が「自民党をぶっ壊しますから」と言って、こうした人たちを再び自民党に集めた。

いずれにせよ、この中で語られる日本人というのは自分たちのことではなかった。博物館でガラスケースに入った「日本」を鑑賞するような感覚で日本人が捉えられていたのである。

しかしながら、この日本人論は小泉後に別の展開を見せる。それが「反日」である。日本の遅れた精神性や文化などを攻撃する人たちを見て「自分たちが攻撃されている」と考える人が出てきたのである。中心にいたのは「ダメな日本人」ということで粛清されてしまったポスト小泉の政権だった。

安倍晋三は二重の意味で「日本」から排除されている。まずは吉田茂の時代に岸信介がGHQから排除されて戦後の意思決定の枠組みに参加できなかった。岸は日米安保には関わることができたが、憲法を自らの手に取り戻すことはできなかった。そして孫の安倍晋三はダメな日本の象徴としてテレビで民主党系の議員たちに叩かれた。彼の系統が見ている日本人というのは「日本性を脱却しよう」とするダメな日本人だった。そして、この動きに共鳴したのが高齢者と中堅以下のサラリーマン世代だ。彼らは「尊敬され優遇されるべき日本の男」なのだが、男女平等や機会均等という言葉の元に排除されていると考えたのだろう。

安倍晋三の答弁を見ていると、彼が政治について何一つ理解していないことがわかる。つまり能力がないから否定されたのであって、決して彼の「日本性」が否定されたわけではない。しかしながら、能力がない分だけ自分の力量を正確に見ることができないので、それを何か別のものに転移させようとしている。

彼の力量のなさは日本の政治をさらなる混乱に陥れようとしている。彼が憲法改正にこだわり日米安安保や地位協定にこだわらないのは、おじいさんが憲法からは排除されたが日米安保では当事者だったからである。しかし、日米安保を見直さなければ「日本がアメリカから精神的に独立」することはありえない。この堕落した精神は憲法議論を堕落にと追い込んでいる。

自衛隊が自分の意のままに動かせないならそれを「直接書いてしまえばいいじゃないか」というのは、アルゴリズムが破綻したプログラムを書いている人が、例外処置をそのままハードコーディングするようなものである。これは別のバグの原因になるだろうが、もっと深刻なのは同じようなことが常態化すれば、憲法は「スパゲッティコーディング」に陥ってしまうという点にある。

さらに自民党の人たちは「自分たちの選挙区を復活させるために参議院議員を県選出にしょう」と言い出している。安倍さんが自衛隊を憲法に書き込みたいのなら「取引として入れよう」というのだ。教育も「維新や公明党との取引」として入れなければならないが、お金がないので「努力目標にしよう」などと言い出している。野党時代の自民党は自分たちが否定されたルサンチマンをぶつける形で人権を否定する草案を書いたのだが、政権側につくと「取引材料として憲法を利用しよう」と考えるようになった。

一般支持者たちはさらに歪んだ精神を持っている。韓国人や中国人への差別と結びつける形で「日本を侵略しようとしている人たちが日本の中にいる一部の不心得な人や帰化政治家を使って日本を攻撃している」というストーリーを作りあげその中に逃げ込んでしまった。

戦前は戦後世代によって否定された。その戦後世代がポストバブルの「経済敗戦期」に生まれた人たちによって排斥されようとしているというのが今の状態だ。その中で何を自己を捉え、何を他己と捉えるかで出方が全く変わってしまうのである。

日本人を自分と他人という二つの極端な層にわけて考えてきた結果、日本人像は極めてあいまいなものになっている。ネトウヨの考える歴史は戦前に国家がでっち上げた神話を元にした歴史が多く含まれる。政治家の中には2600年前に樫原神宮が存在したと真顔で信じている人もいるらしい。

恵方巻きと大して変わらないものを日本の伝統だと捉える人も多い。鉄道会社のマーケティングから生まれた初詣を日本の伝統だと考える人も多い。正月はもっとも日本人らしさが感じられる季節だが、年賀状は郵便局が作った伝統だし、おせち料理ももともとはデパートが作った伝統がテレビに乗って広まったものである。全て企業のマーケティングなのである。

では、我々が排斥しようとしている日本や反日とは一体何なのだろうか。これが次の課題になるのかもしれない。例えば個人として生きなければならないという理想を持って大学を卒業したバブル世代の人たちが企業の中では何も決められない典型的な集団主義の大人になり、それ以下の人たちに嫌われるという現象がある。また、主体性を持って未来を切りひらけという老人に何かを提案してもあれこれ理由をつけて否定されてしまう。つまり、個人として言っていることと、集団で行っていることについての乖離がとても大きい。実は、私たちは自分たちの中にある個人としての私と集団としての私を収束させられずに、二つに分解して捉えているのかもしれない。

これが日本人論を「他己像」とした理由である。つまり、他人に見える己の像を嫌悪しているにすぎないのかもしれない。

つまり、日本人は個人としての考えを持ってはいても、集団になるとその振る舞いが大きく変わってしまうということである。戦前の日本人の中にも戦争は嫌だなと思っていた人たちは多かったのだが、それでも集団としては戦争に向かっていった。戦後人々は伝統的な生活から抜け出して個人主義的な生き方が理想だと考えたが、集団としての無責任な企業文化を変えることはできなかった。そして、それに反発する世代も偉大な日本民族は一致団結すべきだと考えていても、実際の政治論議をまとめることはできないという具合である。

振り返って考えてみると「個人として持っている理想」と「集団としての振る舞い」が違っているだけなので、日本人論も反日も、個人の日本人が集団としての日本人を攻撃しているだけだ。世代によって見え方が全く異なっており、これが不毛な相互対立につながっているということがわかる。

この仮説が正しいのかどうかはわからないが、このように見ていると差別発言を繰り返す人たちにそれほど腹が立たなくなる。彼らは戦う相手を間違えているだけであって、決して何かを信じて行動しているわけではなさそうだからである。免疫が暴走して自己を攻撃するという、いわばアレルギー症状のようなものなのだ。

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左右対立は実はイデオロギーの対立ではないかもしれない

本日は政治の左右対立について考える。この対立はイデオロギー対立のように見えるのだが、実は年代対立ではないかというお話である。

この文章は、最初に対立が年齢対立であるということを示した上で、なぜそうなったかを書き、最終的に日本人のものの見方について短く考える。全部で3000文字程度あるので、途中で読むのをやめても一向に構わない。

先日来「自衛隊を国軍にしてもよいのでは」という文章と「安倍首相がサンドバッグのように叩かれている」という記事を二日続けて書いた。するとアクセスする人たちの年齢構成に変化があった。前者を書いた時に18歳から34歳くらいまでの読者が顕著に増えた。ページごとの年齢構成まではわからない(多分ページビューが足りないのだと思う)のだが、多分「自衛隊を国軍に」という主張が右派的な主張に見えたのだろう。

いわゆる「ニュースジャンキー」と分類される人たちは自分の主張と合致した記事を次から次へと読みたがる。だから、この傾向はしばらく続くものと思われる。だが、次の日にはまた34歳より上の人たちが伸びていた。彼らは「安倍首相が叩かれている」という記事に反応したのだろう。それぞれの年齢で読みたがる記事が違うのだ。

このことから、いっけんイデオロギー対立に見えているのはたんにデモグラフィー上の対立なのだかもしれないと思った。普段、日本人はイデオロギーなどの対象物には興味を持たず、人間に興味を持つのではないかと書いているのだが、その仮説がまた補強されたことになる。

実際に若年層の政治動向について調べている人たちの間でも、若年ほど安倍政権の支持率が高いことが観測されているようだ。イミダスの「若年層の内閣支持率はなぜ高い?」は次のように分析する。

まず、年長世代とは違い、若年世代は安倍内閣という政治的光景が標準的なものになった、言い換えれば、他の政治状況を少なくとも経験的には知らない世代と見なすことができるということです。安倍首相は戦後の歴代首相の中でも、長期の政権維持を続けていることは紛れもない事実です。この層には、安倍政権こそが日常の光景であり、安倍内閣になれ親しんでいる世代であるということです。

東洋経済も「若者の自民党支持率が高くなってきた理由」という分析記事を書いている。この記事で特筆すべきなのは、それぞれの世代が最初に見た失敗を強烈に覚えていて、それだけで「あの政権はダメだ」と考えているということだ。自民党政権が不安定だった時のことを覚えている人と小沢一郎が民主党政権をかき回したことを覚えている人で政治に対する見方が全く違っており、日本人の減点主義をよく表している。日本では、一度失敗したものが再び浮かび上がることはない。

バブルの最終期に就職した人たちが子供の頃、日本をよく言う人はあまりいなかった。戦後第一世代の親を持っている世代で「日本式」というのはつまり脱却すべき戦時体制を意味したからである。親からそう聞かされいたという人もいたかもしれないが、テレビの子供向け番組でも旧弊で時代遅れの日本を脱して豊かで進んだ西洋流の個人主義を受け入れるべきだというようなメッセージが流れていた。

面白いことに当時の日本人は外国人からダメ出しされることをとても喜んでいた。「イザヤ・ベダサン」という自称ユダヤ人の書いた「日本人とユダヤ人」という本が300万部を超えるベストセラーになったこともある。この筆名をよく読むといささか下品な日本語になっている。著者は著名な日本人の評論家だった。

いずれにせよ、多くの人は「日本人」はだめな存在だと信じてるのに、自分たちはそのだめな日本人に含まれるとは考えていなかった。つまり日本人というのは自己像ならぬ他己像だったのだ。

なぜ、中高齢者にとっての日本人が他己像なのかというのは興味深いテーマだ。個人で追求したい理想と集団での現実が乖離しているせいなのかもしれないと思う。実際にバブル期に入社した人たちは、内心では個人主義に憧れを持っていても、どちらかというと個人を抑圧する側に回っているのではないだろうか。一方で若年層では集団そのものが壊れていて、いざ帰属集団を求めると日本人という漠然とした集団しか思い浮かばないのだろう。

政治状況は日を追うごとに劣化している。確かに昔の政治家が全て立派だったとは言わないが、今の安倍政権ほどひどくはなかった。先に引用したイミダスのコラムでは「若い人には安倍政権はデフォルト」と書かれているのだが、高齢の世代にとってはかなり劣化した政権であることは間違いがない。しかし、若年世代にとっては先行きが見えないのに内紛が続く民主党政権こそ不安の象徴なのだ。

このように、ポストバブル期のあとの就職氷河期世代とゆとり世代は全く異なった世界観を持っている。若年層といっても自民党末期のゴタゴタと民主党末期のゴタゴタを覚えている人たちの差は数年しかない。こうして細かい違いが積みかさなっている上に他世代への反発もあり、政治的な意見が形成されているのだろう。だから、政治的な諸課題について相手を説得しようとしても無駄なのだ。

戦後生まれた「日本を脱却して西洋基準に従おう」という運動は屈折した形で「ダメな日本を攻撃する人たち」という民主党政権に行き着く。民主党は「ダメな日本人」という他己像を自民党に重ねてテレビで宣伝することで支持された政党である。いったんはこれが受け入れられたものの民主とは統治に失敗する。あくまでも他己像なので詳細に日本人性を分析せず、同じ罠にはまってしまったのであろう。そしてそれを今度は次の世代が攻撃する。言語化してみるととても不毛な論争だ。

さて、このくらいの文字数で若年層は脱落しているのではないかと思う。あくまでも統計的にみればだが、「国軍化」の滞留時間は2分程度であり「反安倍」の人たちの滞留時間は4分だった。じっくりと長い文章が読めていた時代の人たちと比べると、若い人たちはもはや長くて複雑な文章は読めない。これは能力差というより環境の差ではないだろうか。かつては図書館にこもってじっくり本を読んだ人が多かったが、現在ではスマホがあり注意力は普段から分散している。

安倍政権は短いフレーズを連発しヘッドライン作りを得意としている。一方で立憲民主党の主張は文章を読まなければわからない。政治的経験だけでなくリテラシの問題も両者の乖離を大きなものにしている。いずれにせよ、中堅の域に入った人は若い人に何かを伝えたければ1分以内に読める文章を箇条書きで書くくらいでないと伝わらないと考えた方が良さそうだ。「説明すればわかってもらえる」などと考えてはいけないのだろう。

そもそも世代間対立なのでトピックはそれほど重要ではない上に情報処理の仕方も違っているのだから、両者が折り合うことはなさそうだ。

日本人がかつて語っていた日本人論は「自己像」ではなく他己像なのではないかと書いた。これが揺り戻しを受けているのが過剰な日本擁護なのだが、これも自分たちのことではなく、実は上の世代への反発を投影したものにすぎないということになる。

こうした対立に魅せられてしまうと、そこから「利点と欠点」を洗い出して冷静に見ることができない。我々のような一般の庶民もそうだが、分泌を生業にしている人たちの中にも対立に溺れている人たちが少なくない。自転車操業的に思索を繰り返しているうちに対立に取り込まれてしまうのだろう。

ここまでで3100文字程度なのだが、ここまで読むことができた人たちは、こうした心地の良い不毛な対立構造から抜け出して行く努力をし、できればそれを自分の周りに伝えて行くべきなのではないかと思う。

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これは何かおかしいぞと思うことの大切さ

このところ、日本の村落構造と不安社会について考えることが多くなった。数年前に危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)という本を読んだ時には、これからは市民レベルでリスク対応がくるなどと思っていたのだが、日本の場合どちらかというと「よくわからない漠然とした不安」に苛まれているのではないかと思える。人間はいつまでも不安な状態でいることはできないのだから、これを解消する方法を探さなければならない。

不安の原因はどこにあるのだろうか。いろいろなニュースを見ていて思うのは「あれ、何かおかしいぞ」とは思うものの、それが言語化できないことが多いという事実である。すぐに解決策が見つかるというわけでもないのだが、こうした言語化できない問題をあれこれと転がしているうちに、なんとなくいとぐちが見つかるケースも多い。

泰明小学校問題の場合には「地域にとって小学校とは何なのか」ということを考えると良いいうことがわかった。コミュニティは現在の繁栄だけを問題にすべきではない。未来に向けて投資しなければやがて縮小していってしまうからだ。この縮小の予感は不安の原因になる。泰明小学校を抱える銀座は次世代に対する寛容性を失っており、背景は銀座の社会的没落も関係しているようだ。これまでの繁栄の理由がわからないので、銀座の価値が「ブランド物のお店が多いこと」になり、高価な服装を子供に着せれば銀座っぽくなるという狂ったソリューションが出てくるのである。

佐賀のヘリコプター墜落事故は、本来国を守るはずの自衛隊が住民の財産を壊しているという問題である。一人の住民の財産が守れないのに国全体が守れるはずはないので、何かおかしいということがわかる。その背景には「機材の老朽化」という問題があり、そのまた背景には防衛省の人たちがまともに器材選定ができていないという事情があった。そしてこの構造は在沖縄アメリカ軍の問題とも共通している。アメリカ軍もまた予算の縮小と士気の低下に悩んでいるのである。

この二つの事例からわかるのは「本来の目的」に着目すれば、答えは見つからないかもしれないが、問題そのものはある程度分析できるということだ。問題が見つかればあとは解決して行けば良いだけである。これを裏返しに展開すると「本来の目的がわからなければ、問題が分析できない」ということを意味している。こうした事件・事故・騒ぎの報道を目にして「なんだかおかしそうだ」とは思いつつも、なんとなく「よくわからない」と感じるのは「本来の目的」がわからなくなっているからなのかもしれない。

もちろん相撲協会のように「本来の目的がわからない」問題もある。相撲はスポーツなのか神事なのか興行なのかがわからなくなっており、それに伴った混乱が見られるようだ。しかし、その背景を見てゆくと、相撲が興行として成り立たなくなるにつれて、いろいろな目的を「でっち上げて」きたことがわかる。もともと相撲はラジオの勃興とともにメジャーになったようなのだが、他のエンターティンメントやスポーツとの競争に勝てなくなり経済的に行き詰まった。しかしそこで相撲を面白くする努力ではなく「公益法人化」を目指すようになり、後からガバナンスの問題が出てきているということになる。

組織は経年劣化する過程で本来の目的を見失う。すると組織や社会は暴走する。この本来の目的を「本分」などと言ったりする。泰明小学校の本分は地域に向けて開かれた教育を提供してコミュニティの維持発展に寄与することであって、おしゃれな小学生を集めて街の飾り物にすることではない。自衛隊の本分は地域を守るということであって他国を威圧して尊大な気分に浸るものであってはならない。また相撲の本分は伝統神事を模した真剣勝負を見せることによって観客を楽しませてお金をもらうということであるはずなのだ。

しかしながらニュースを受け取っている人も「何が本分」なのかがわからなくなっていることが多いようだ。そのために議論が迷走することがある。相撲の場合は特に顕著でテレビに相撲ファンと称する人たちが出てきてそれぞれの質問に自分たちが満足できる答えを出してゆく。しかしそれはその場その場の反応でしかないので、全体として像を結ばない。テレビのワイドショーはCMを売るためにこれを延々と流している。

自衛隊の問題ではこれは部族間闘争に発展している。自衛隊は「地域を守る」という本分を持っているのだが、自衛隊そのものが自己目的化すると「大義を守るためには一人くらい犠牲になっても構わない」などと考える人が出てくる。実際に家を破壊された人は心ない中傷にさらされているとも聞く。このニュースに関心を持つ人の多くは、特に日本の防衛には興味がない。単に左翼・右翼の部族に別れて相手を叩きのめすことが目的になっている。当事者同士の闘争なら「勝手にやってくれ」と言えるのだが、「辺野古を二度蹂躙するな」で書いたように、当事者になった人たちは彼らの抗争に巻き込まれて二次被害を被る。辺野古もそうだったし、今回家を焼かれた人もそうなりつつある。

こうした現状を見ていると暗澹たる気持ちになるのだが、救いもある。本分がわからなくなったことからくるニュースを見て「なんだかわからないけれどもおかしいぞ」と考える人は多いようだ。こうした人たちが検索をしてニュースについて考えることが増えている。「あれ、おかしいぞ」という洞察や直感は最初のレベルでは正しいことが多いのではないだろうか。もちろん、そのあとでいろいろな物語を「まとう」ことでおかしくなったりもするし、抗争に参加することでいったい何を話あっていたのかがわからなくなる場合もあるのだろうが、少なくとも最初の洞察というものは信頼しても良いのではないかと思う。

「あれ、これは何かおかしいぞ」という気持ちを持つことは社会にとって意外と重要度が高い。不安を解消するための第一歩はこの「あれ?」という違和感を大切にすることなのだろう。

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日本型村落の暴走はなぜ起こるのか

泰明小学校の狂気について考えた。最初は校長先生が暴走しているのだと思っていたのだが、どうやら銀座とその公立小学校の校長がいっしょになって狂気に蝕まれているらしかった。持続可能なコミュニティには再生産機能があるのだが、銀座ではそれが失われている。しかしながら過剰な選民意識とプライドのせいでそれに気がつかないばかりか、外から見ると狂っているとしか思えない思いつきを実行に移そうとするというのがその筋書きだった。子供というのはある程度騒ぐものだが、高齢化して活気を失いつつある街はそれを「品格がない」と抑圧する。

ここに見られるのは「社会の寛容性が失われてゆく」という過程である。社会の寛容性が失われると優秀な人たちが遠ざかるというようなアメリカ型の考察(クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める)も成り立つのだが、銀座では子供は騒ぐことも許されずアルマーニの服をきておとなしくしていなければならないのである。こんな街でゆっくり子育てができるはずはない。街はすでに中国人観光客頼みになっており、新住民も引き付けられないとしたら衰退してゆく他に道はなさそうだ。

なぜこのようになったのだろうかと考えた。どうやらコミュニティが持っているべき機能は何なのかというアイディアを日本人が持てなくなっていることに原因がありそうだ。そこで、もともとはGHQに原因があるのではないかと思った。GHQは日本人が狂った戦争に突入する理由をヨーロッパと同じように全体主義に求めた。しかしながら核となる首謀者がいないことに戸惑う。それはあまりにも謎めいていたのでカルト宗教的な怪しさを感じ、国家神道が悪いのだろうという結論にいたる。そこで、国家神道を中心とした集団主義を破壊する中で、日本の伝統的村落が持っていた再生産機能が破壊されたという筋書きだ。

こうした村落の斬り崩しは40歳代から50歳代の親の世代から始まった。団地に住む核家族がもてはやされて、料理などの伝統は全てテレビで覚えるというのが、今の70歳代の人たちが始めたライフスタイルである。例えば我々が伝統だと思っているおせち料理もデパートのマーケティングがテレビによって流布したもので、恵方巻きとあまり変わらない程度のありがたみしかない。これが行き着いたのが「土日には私鉄に乗って公園のようにデザインされた街に出かけ、ショッピングを楽しむ」というようなライフスタイルだ。私たちはこうして「一人ひとりが自由に幸せの形を見つけるのだ」という信仰を獲得してゆく。

日本型村落について考え始めた頃は、日本型村落をかなりネガティブものだと捉えていた。これも個人主義信仰と関係がある。バブル期ごろまでに成長した人たちは多かれ少なかれ「日本型の村落と集団主義には欠陥がある」と信じており「アメリカ流の個人主義こそがかっこいい」という刷り込みを持っている。考えを進めるうちに、むしろ村落的共同体に戻るのも処方箋としてはありなのかなと思えるようになるのだが、「日本は集団主義的であり近代に目覚めるためには個人が大切」という思い込みはかなり強い。

後ろに戻るにしても前に進むにしても、私たちが本当に持っていた共同体について理解した上で、それが今後も成り立ちうるのかということを考えなければならないように思える。

さて、ここまではGHQが悪いという前提で論を進めてきたのだが、必ずしもそうとばかりは言い切れないなと思った。昔、CS放送で「腰の曲がる話」というミニ映画を見たことがある。1949年に農林省が作った映画だ。もともと医療を呪い師に頼っていた村で女の人たちが立ち上がり共同診療所を作るという話なのだが、実は農業協同組合の設立を女性に訴えるために作られた映画である。旧弊な男性たちは当初は女が仕事を放り出して住民自治に立ち上がるのはけしからんなどと考えているのだが、やがて考えを改めざるをえなくなるという筋になっている。

このことからわかるのは、GHQは国家神道体制が悪いとは考えていても、集団主義が悪いとは考えていなかったということである。むしろ、住民自治を強めて自治に参加させた方が国家に騙されることはなくなるだろうという見込みがあったように思える。そしてそれに協力した国も「個人の考えをすり合わせて」などという面倒なことはいわず、みんなが協力して力や智恵やお金を出し合えば、もっといい暮らしができますよと言っていた。

そうなると、GHQを責めるのはお門違いだなと思える。つまり、我々の祖先は村落は当たり前にあるものなのでそれがなくなるとは考えていなかった可能性が強い。都市に出かけてゆく人たちというのは例外だと考えていたか企業が新しい村落になり得ると信じたのかもしれない。そう考えると共産党と公明党がイデオロギーによる共同体を作ったことも納得ができる。彼らは大企業に守られる立場にはなく、自分たちで共同体を再創造する必要があった。そのために選んだのが日蓮やマルクスといった彼らにとっての神々なのであろう。

その一方で、自治組織として作られた集団はどれも男性中心の既得権益獲得手段に変わってしまった。女性と再生産機能が否定され「戦いと規律」によって暴走してゆくのである。このことからいくつかのことがわかる。

  • 一概に、集団主義が悪いというわけではない。
  • 集団の中には男性的機能と女性的機能があるのだが、集団が暴走する過程で女性的機能が抑圧されてゆく傾向がある。(ジェンダー論として「女性」に再生産機能を割り当てることについては異論があるかもしれない)
  • これはGHQのような外からの圧力の結果として生じているのではなく、我々の社会に内蔵されているようだ。
  • こうした、コミュニティに対するある種の欠落はいわゆる左翼と呼ばれる人たちには顕著に見られる。「個人が大切」と考えるあまり、いつまでたっても考えがまとまらず、自民党に変わり得る勢力が作れない。

この欠落は保守の人たちの中に顕著に見られる。彼らは口では個は集団に尽くすべきと言っているが、実は搾取のために集団を利用しているに過ぎない。日本型村落に戻ろうと考えた時一番障害になるのが集団への回帰を求める保守の人たちだ。彼らのなかには、過剰な自己防衛本能と他人への懐疑心に苛まれた「自裁信仰」の持ち主か、安倍首相のように自分の家族の利益のためには他人を利用しても構わないという利己主義者しかいない。そもそも我々がどのようなコミュティを形成していたのかということには興味がなく、戦時下ででっち上げられた国民を戦争に動員するためのカルト的な物語を持ち出して「これが伝統である」と騒ぎ立てるばかりである。

当初このブログを始めた時には「社会が再び成長するためにはどうしたらいいのか」ということを考えるはずだった。しかし気がついてみると我々の社会は成長どころか現状維持すら怪しい状態いあるようだ。ここから抜け出すためには、私たちがどのような集団を形成していて、どこに向かいつつあるのかということをもう一度冷静に考えなければならないのではないかと思う。日本人が「居心地の良い空間で次世代をはぐくみ育てること」をこんなに軽視する理由がわからないからである。

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泰明小学校の狂気

この件について冷静に問題を分析するのは良いと思うのですが、子供に被害が出ているようです。辺野古の話のところでも書いたのですが、どうして弱い人のところに攻撃が向かうんでしょうかね。


泰明小学校が炎上している。アルマーニの制服を標準服に採用したがそれが高級すぎるというのである。最初の印象は「アルマーニってもうこういうことでしか評判にならないんだ」という絶望感だった。アルマーニは歴史的に男性服を「あるお約束事」から解放することで、男性性に新しい意味合いを持たせたブランドなのだが、日本ではついに「ブランドの高いお洋服」としてしか理解しなかったということである。

だが、このニュースを考えているうちに狂気は別のところにあると感じた。当事者である校長が社会を成立させるために必要な「あること」を忘れており、社会もそのことを指摘できないという狂気だ。そして、それは文字通り「社会の衰弱死」に直結している。

そもそも教育の目的とは何なのだろうか。「社会」どんなものであっても構成員を養ってゆくだけでは不十分だ。社会が存続するためには次世代を産んで育てて行かなければならない。これが実現できるのであれば教育はどんな制度でも構わないし、この機能がなければ社会を維持することはできない。

これまで日本の村落のデメリットにばかり注目してきたのだが、もちろん日本の村落は次世代を育てるためにそれなりのしくみを持っていた。家を中心とした「なりわい」という事業体が子供を産み育て訓練を施して次世代の担い手を作っていた。なりわいは主に血族集団から成り立つのだがある時は思い切ってよそからの血も取り入れたという特徴がある。

このニュースを読んで、まず特認校という制度に疑問を感じた。公立小学校は誰でも義務教育にアクセスできるように設けられているわけだから経済的な理由で排除される人がでてきてはならない。そもそも特認校など作ってしまっては地元の子供が教育を受ける権利が奪われてしまう。これは憲法違反ではないかと思ったのだ。

このニュースの反応を見ていると銀座というブランドに人が群がっていることもわかる。つまり中央区はブランドを生かして選民だけを教育する場所を作ろうとしているのではないかと思った。ハフィントンポストの和田校長のインタビューを読んでその印象は確信へと変わる。校長の説明はだいたいこんな感じである。そこにあるのは選民性と排除の理論だ。

  1. 泰明小学校は銀座にある特別な学校である。
  2. 生徒の中にはその特別さがわかっていない人がいるので、生徒たちに自覚を持たせなければならない。
  3. だからブランドで服を作ることにした。

もちろん、説明が全て嘘であるという可能性はあると思う。つまり松屋やアルマーニと和田校長が結んでいる可能性があるからだ。アルマーニはブランドとしては日本では忘れ去られかけている。斜陽産業であるデパートも含めて制服事業に乗り出したいと考えても不思議ではない。ランドセルのように「子供のためならいくらでもお金を出す」親は多いだろう。

特別さがわかっていない生徒に高級ブランドの服を買わせると選民意識が生まれると考える時点で何かしらの社会常識の欠落が感じられる。アルマーニといえばバブルの印象が強い。経済的に選ばれた人たちの服を使って、そうでない人たちを排除しようとしているのではないかと思えてくる。

ここまでを読むと「特認校制度」というのは学校のブランド化を進めるための中央区の狂気に満ちた制度なのだなと思える。つまり中央区と校長は結託して、金儲け主義に走ったブランドと組んでいるという図式である。中央区は銀座を抱えているのでそこに住んでいる人たちも足立区や北区とは違うという鼻持ちならない自己意識を持っているのだろうなどと思うわけだ。

ところが、この「選民意識」という前提は必ずしも正しくないようだ。

中央区の特認校について調べてみると、実際にはドーナツ化が進んだ都心部の学校に生徒を割り当てるための制度であるということがわかる。該当するのは日本橋、銀座、東京駅の4学校である。そもそも「銀座の子は特別」というような制度ではなく過疎対策なのだ。

特認校制度とは、この通学区域を前提としながらも、施設に余裕のある学校を「特認校」として指定し、その特認校には通学区域に関係なく、希望により就学できる制度です。平成30年度は4校を指定しています。(全16校から自由に選択できるものではありません。)

この地域は見かけ上は繁栄しているのだが、実は滅びかけている。なぜならば銀座で個人が店を構えることはできないからである。なりわいが成立しないので、地域で子供を産み育てることなどできないのだ。そもそも特認校は地域の子供達を受け入れて「余裕があれば」よその地域から子供を受け入れるという制度なので、すべての子どもが「銀座の特別の子」になる必要などない。

だが、これは校長の問題だけでもなさそうだ。ハフィントンポストの別の記事を読むとなりわいを維持できなくなり高齢化したコミュニティはそれでもプライドを持っており、それをよそから来た普通の子供に押し付けている様子がうかがえる。

「先生の表情もどこか少しずつ険しくなっていきました。最近は子供たちよりも周囲の関係者にどう思われるか、という事ばかりに目がいっていたように感じていました。『登下校時に街中を走るな』とか『校外でも泰明小の児童らしく振る舞え』とか、学校からは、そればかりが話に上るようになりました」

いずれにせよ校長の説明は全部間違っているのである。

経済的な癒着があればある種の合理性は感じられるのでむしろ安心ができる。なんらかの理由で「僕は特別な学校のえらい校長先生になるんだ」などと思い込んでいるとしたらこれは狂気である。優秀なお金持ちの生徒を通じて「えらいぼくになる」ということだからだ。

そもそも教育は、その教育母体や人が持っている「何か特別なもの」を受け継いでもらいつつ、生徒の中にある特別なもの(これを個性という)を掛け合わせることで、その人らしい生き方を追求する基礎を作ることである。

このニュースを見ていても先生の教育観は感じられないのだが、この図式はもう見慣れたものとなった。いわゆるネトウヨ性というのは自分の中にないものを壮大な物語や他者を通じて見つけようとする無謀な試みだからである。自分の中にないからこそ物語は際限なく膨らみ、やがて暴走する。今回はそれが9万円の制服だったのである。

この校長が感じたのは「銀座にはブランドのお店がたくさんあってなんだか誇らしいな」というような幼稚な特別感だけである。これをイオンモールに置き換えるとわかりやすい。村にイオンモールができてなんだか誇らしかったのでその学校の校長が「うちの生徒はイオンモールが似合う子供にならなければならない」などと言い出したらどうなるだろうか。その校長先生は頭が変になったと思われるだろうし、村の人たちは村にはイオンモール以外にもいいところがたくさんあると呆れるだろう。

そもそも「自分たちは特別である」という万能感が狂気なのだが、その万能感を持たせるための道具立てが「高級なブランドのお洋服」でしかなかったという点である。さらに付け加えるとしたらアルマーニの思想についても理解しておらず「どこでもよかったけど、あそこだけ話を聞いてくれた」と説明していることからもその薄っぺらさがよくわかる。

これをまとめると次のようになる。自分の中になんら尊敬できる個性を見つけられなかった先生が、生業が消滅してコミュニティの内部で次世代を育てられなくなった集落に赴任する。そんな中で目にした外国のきらびやかなお洋服に魅せられて、意味はわからないもののこれを着せれば自分たちは特別になれると信じるようになる。だがそれは笑われるどころか、東京中にいる同じように思い込んだ人たちをひきつけ最終的に九万円ができあがった。よくはわからないが高いから良いというわけだ。だが、もともと公立の特認校というのはそのような制度ではないので、制服とも呼べず標準服と言っている。

この問題は地域コミュニティがその基本である次世代の再生産という機能を果たせなくなったことが出発点になっている。これが問題にならないのは日本人が自分たちを産み育てたコミュニティについてさして関心をもたなかったからなのだろう。少子高齢化、地方大学の衰退、次世代技術者や研究者の育成制度の不具合など、あらゆるところで再生産に絡む問題が起きている。成長するどころかコミュニティを維持することすらできないのだから、この問題を単にブランドもののお洋服の話にしかできないようではやがて日本は本当に滅びてしまうだろう。

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なぜ不安を他人と共有すべきなのか

昨日は安倍首相が社会との間で問題を共有できていないということを書いた。反安倍ネタというのは政治ブログの鉄板になっていて今でも多くのページビューを集める。新聞が反安倍と親安倍に別れる理由がよくわかる。多分、商業上の需要があるのだろう。

読んでもらえるためには有効な手段なのだが「これで良いのか」ということもよく考える。

最近、夜中に犬が鳴くことが増えた。昨年の1月に前庭障害という病気で倒れてしまっい、その後徐々に状況が悪くなっている。動けなくなってしまい、餌も満足に取れない。そこでどうして良いかわからずに鳴くのである。

犬は鳴くのだが人間ができることは少ない。何もしないと「苦しんでいるの煮詰めたすぎるのではないか」と思うのだが、かといって犬のそばにずっといればこちらが倒れてしまいかねない。正解は全くないのだが、なんとかして対処して行かなければならない。

もちろん獣医師に相談することはできるが、獣医師もできることは少ない上に、お金もかかる。どの飼い主さんも大いに悩まれるそうである。つまり、正解はないが、こういう問題で悩んでいる人はたくさんいる。犬の数だけ問題があるわけで、つまり正解がない上に実は割とありふれた問題であるということにも気がつく。

これは犬の話なので割と気軽に話をすることができる。もしこれが人間の話だったらと思ってしまう。例えば、一緒に住んでいる家族とそうでない家族の間に認識の差が出るだろう。一緒に住んでいない人は「もうちょっとちゃんとやれるのではないか」と同居している家族を非難するかもしれないし、逆に同居している方は「じゃあ、お前がやってみろよ」となる可能性もある。これもありふれた話なのだが、家族にとっては初めて直面する正解のない問題である。

最近はこうした問題にも社会が絡んでくる。医療費は税金で支えられているからである。医療がどの程度延命に関わるかという問題には正解がない。そして正解がなく誰でも悩むのだということは、多分その時にならないとわからないのだろう。

社会が大きな負担をする一方で、社会のあり方は変わってきている。かつては家庭や親戚に病気の高齢者がいたのではないかと思うのだが、核家族化が徐々に進行した。全くこうしたことを経験しないままで負担する側に回ることが増えてしまったのである。

だから、長谷川豊さんのように「透析患者は自己責任なのだから云々」という人も出てくる。長谷川さんの発言は暴論だと思う。かといって、管につないでいつまでも生かしておき、その間に医療費を支払い続けることが良いことなのかはわからない。社会の負担が増えるばかりでなく、支える人にも大きな負担になる。

犬の場合には「積極的な治療はしないで、衰弱させるのもあり得るのかな」などと言える。しかし、同じような問題であっても人間には同じことは言えない。いくつかの理由がある。

  • 人の命と人権という漠然とした意識があり問題が複雑になっている。単に費用対効果の問題として語ることが難しい。
  • 経験した人と経験していない人の間の認識に大きな違いがある。
  • 個人によって延命治療を受けたいか受けたくないかということに意見の相違がある上に、その場になってみないと本当のことはわからないという事情がある。
  • 自分の「不幸」を他人に話すべきではないという文化的な態度がある。弱みを見せたくないという気持ちがある人もいるだろうし、自分の問題で社会を煩わせるべきではないと考える人もいるのだろう。
  • 自分の優位性や存在感を示すためにわざと暴論を述べて社会を刺激する人がいる。
  • 個人の問題を語ると「それはお前の問題だから自分でなんとかしろ」と言われるおそれが強い。

そもそも、課題や悩みの共有が難しい上に政治家もシンパシーを持たないという意味では、我々はかなり難しい社会を生きている。その上別の技術的な問題もある。

実際にTwitterでフォローさせていただいている人の中には自分が病気を抱えていたり、病気の家族を抱えている人もいる。中にはベットから動けないがそれをあまり感じさせず趣味の話などをしている人もいるのだが、家族の問題をつぶやき続けている人もいるといった具合だ。家族の問題を共有することには社会的な価値があるのだが、技術的な問題から単なるエンドレスな愚痴にしか聞こえないということがあり得るのである。たいていの場合はそれを当人にとっては重大な問題だが実はありふれているという認識を持てていないことが理由になっているように思える。個人的な悲劇に浸っているように聞こえてしまうのである。

経験を共有する技術を磨くために最初からオリジナルのやり方でうまく情報発信ができるわけはない。だからなんらかのモデルを真似する必要があるだろう。

そこで、昔の人はどうやって共有していたのかなと思うのだが、よく考えてみるとモデルが思い浮かばない。学校がミッションスクールだったので割と日常的にこうした話は聞いていた。多分、キリスト教の教会などでは信者同士で経験と感情の共有しているのではないかと思う。

仏教の法事は家族単位なので他者と悩みを共有することはない。それでも、昔は親戚も多かったので遠い親戚とこうした悩みごとを相談することがあったのかもしれない。こうした行事に参加していれば、後継者問題や親子の不仲などの問題を全く抱えていない家族はいないということがわかる。だが、戦後すぐの世代は「子供達には迷惑をかけたくない」という気持ちが強いらしいく、却ってそれに続く世代が、悩みを共有する機会を奪っている。悩みを学習することを「負担」や「迷惑」と感じてしまうようだ。

このところ「政治の課題」についても考えている。その基礎にはすべての人は問題を抱えており、少なくともその経験を社会で共有すべきだという認識を持っておくべきだと思う。そうでなければ、硬直した物語で問題を糊塗することの問題点は見えてこない。物語は物語にしか過ぎないのだから、問題を解決することも課題を共有することもできないのだ。

いずれにせよ、自分の問題をできるだけ冷静に語るのは難しい。すぐにできるようにはならないと思うのだが、できるだけそうした技術も磨いてゆきたいと思う。

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どうでもいいかもしれない「個人」と「村落規範」の問題

先日来、日本の村落構造について考えている。その中で日本人は個人を徹底的に嫌い内的規範を持たないと書いてきた。しかし、あることを考えていて「内的規範がない」わけではないかもしれないぞと思った。ほとんどの人にとってはどうでもいいことなのかもしれないのだが、気になったので短く書いてみる。なおこの話には結論はない。

気になったのは、情報系の番組で出演者が出された食べ物を残した時に「あとでスタッフが美味しくいただきました」というテロップが出るという問題である。これは「あの残した食事がもったいない」というクレーム電話が来るからなのだろうと思う。

ではなぜクレームが来るのか。それは「出されたものを残してはいけない」という規範意識を持っている人が多いからだろう。これは完全に内的に受け入れられていて生活にも根ざしているので、その人の価値の中核をなしていると考えらえる。つまり、この話の由来がどこにあるかは別にして、この人は「規範が内部にない」とは言えない。

しかし、内的に規範が存在するということとテレビ局の電話番号を調べて抗議の電話をするという行為の間にはかなりの開きがある。この人はテレビで「食べ物が無駄になっているのだ」と考えて居ても立っても居られない気分になりわざわざ電話番号を調べて電話したことになる。しかし電話をしたからといって修正されるかどうかはわからない。また、テレビ局から「規範に優れた立派な人」として讃えてもらえるわけでもない。完全に匿名の行為なのでその行為は無駄になってしまう可能性が極めて高いから他人の目を気にしてやっているとは言えない。

にもかかわらずそれを言わざるをえなかったのはどうしてか。それは彼(彼女)が持っている内的規範が守られないことに対して「いてもたってもいられない」気分になったからではないだろうか。例えば、自分の右手が自分と違った行動を取ればその人は「思い通りにならない」といって腹をたてるだろう。心理的に自己が同一性を保持したいと思うのは自然なことだ。

つまり、この人は「自分の内側に起きていること」と「外で起きていること」の区別がついていないということになる。認識されていない可能性もあるが、最初からない可能性もある。

同じようなことがドメスティックバイオレンスでも起きる。ドメスティックバイオレンスを働く男性は(あるいは女性でも)自分の家族は自分と同じようなものだと考えており、予測と違った行動を取ることが心理的に許容できないのだろう。これを「支配」だとみなす人はいるだろうが、もしかしたら当事者はそうは考えていないかもしれない。あくまでも「期待通りに動かないから、それをただしただけ」と感じるのではないだろうか。これを言い換えると正義になるのだが、本質的にはもっと別の問題だと考えているのではないだろうか。

もちろん、自分の手が自分の思い通りに動かなくてもあまり気にしない人もいるだろうし、別のことに気を取られて気にしない人もいるだろう。例えば、抑うつ状態に駆られている人が部屋を片付けなくなったり、何日も同じ服装で過ごすという場合もある。だから「何かが自分の考える規範通りに動かなければ気が済まない」という人はむしろ社会的には「きっちりした仕事ができる良い人だ」と捉えられている可能性すらある。しかしその一方で、支配したがる人は自我と社会の境界が曖昧であるとも考えられる。自分が生活を律するのは良いが、それを他人にも要求してしまうからだ。

このような気分になったことがないので、どうして他者が自分と違った行動を取るのが許容できないのかがわからない。同一性が阻害されることで世界が崩壊するような気分になるのかもしれないし、違った価値観を持つ人たちが自分を侵食してくると感じるのかもしれない。日本人と接しているとこの「気の小ささ」を感じることが多い。自分の知らない人が隣に座っているだけでなんだか落ち着かなくなる人がとても多い。欧米だとこんな場合アイコンタクトをとって微笑みかけてくる。別にその人が「良い人だ」ということではなく、なんとなく敵愾心がないか確認しているのだ。アジア系の留学生でも同じような人がいた(違う人もいて「馬鹿にされたのでは」と感じている人もいるようだ)ので、文化的な違いはありそうだ。

ここまでをまとめると支配したがる人は

  • 規律正しいいい人である。
  • 自分と他人の区別が付いていない。あるいは自己というものが(少なくとも西洋と同じ意味では)存在しない。
  • 気が小さいが緊張の緩和の仕方を知らない。

という三つの仮説が成り立つことがわかる。これが正しいのかを聞いてみたいところだが、多分このような人たちはうまく自分の気持ちを言語化できないのではないかと思う。

確かめようがないものの、こうした人たちはそもそも「自分」と「環境」を不可分なものと考えており、そもそも「個人」というものが存在しないということになる。いわば赤ん坊が母親との間に境界を持たないようなものだ。つまり、個人の中に価値観がないのではなくそもそも個人がないということになる。フロイトの発達段階にはない生育の仕方だし、多くの日本人心理学者が「甘え」の社会構造に着目したことがよくわかる。環境の中で違和感のない生活をするのが理想でありそれが自然なのだろう。

多分、Twitterで政治に関するつぶやきが多いのは、実は社会には多様な考え方をする人がおりそれが許せないという人が大勢いるからなのだろう。しかし、裏を返せばそれまでの人生で自分の価値観と異なる人たちと接したことがなかったということになり、それはそれで幸せな人生だったのではないだろうか。

ということはTwitterで流れてくるような情報が気に障ってついついブロックを多用する人はTwitterなど使わないほうが幸せに暮らせるということになる。その人は多分甘えられる環境を持っているはずだからだ。

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私らしさとドメスティックバイオレンス

前回までは日本の村落構造について見てきた。人間関係が濃密な村落的環境がもたらす安心感とそれが崩れたときの再構築を巡るお話である。

今回はここから少し離れて「私らしさ」について考える。私らしさという概念はどこか漠然としているのだが、絶対に手に入れなければならないものと考えられており、多くの人を苦しめている。ではなぜ私らしさはこれほど人々を苦しめるのだろうか。そこには「個人主義的な私らしさ」と「日本人が個人を徹底的に嫌う」という問題がある。

「私らしさ」とはつまり人生の成功の指標を自己責任で見つけてくださいということだ。ところが、日本人は個人を徹底的に嫌うので、内面に指標を見つけることができないし見つけたとしてもくだらないものとしか思わない。そこで外に向かって「私らしさ探し」が始まる。自分の中にないわけだから当然どこかからコピーして持ってくることになる。例えば女性の場合には「ドラマの主人公のように生きること」だったり「海外セレブのように」愛されるということかもしれないし、男性の場合には「明治維新の志士」だったり「戦国武将」がそれに当たるだろう。

ロールモデルを持ち込んでそれに近づきたいということ自体はそれほど悪いものではない。最初からオリジナルを作ることはできないわけだから「戦国武将とあなたは違う」とか「海外セレブのようなスタイルを持っているわけではない」という点を除けば模倣もある種の入り口にはなり得るからである。

ところが、外からモデルを持ってきたとしてもそこから満足を得ることはできない。ここで問題になるのは慰安婦問題のところでみた対象物と関係性の問題だ。

慰安婦問題の基本構造は、韓国は日本の慰安婦問題について語っているように見えて実はアメリカのレスポンスを問題にしているという点だ。つまりコミュニケーションの相手と議題がずれているのである。これは村落でのポジションが「みんながその人をどう思っているか」という周囲の目によって決まるからなのだろう。つまり、アメリカを代表とする国際コミュニティの評判で韓国の国際的位置が決まると考えるのだ。

これを「私らしさ」に置き換えてみよう。男性が女性にモテたいと考えているとする。すると彼がやるべきなのは相手の女性が気に入るように変わるか自分の長所を伸ばすことのはずである。しかし、実際に彼が気にするのは周囲の人たちが「自分をモテる人間だと認めてくれるか」ということなのだ。

だが、これだけでは終わらない。なぜならば女性の方も「付き合った男の価値で自分の価値も決まる」と考えているかもしれないからである。そうなると、付き合っている男がどの程度のランクにいるのかということが気になる。女性の場合は常に「自分が付き合っている男の品定め」が行われいるのである程度「村のランキング」がわかるのだが、それはコントロールができないし当然男性の方では操作ができない。

この状況に勝利するためには「全ての事柄において平均以上」の点数を取らなければならない。男性の場合は仕事さえしていればそれなりの社会的評価が得られるのでこのゲームに勝利するのは割と簡単である。しかし、女性はそうはいかない。職業的にも成功しなければならないが、それだけではダメで同窓会で自慢ができる程度の男性と結婚して、子供を作り、姑との間の関係も良好でなければならない。つまり、いつの間にか減点ゲームになってしまい、それが手に入らないと「負けた」ことになってしまうというわけだ。

世間が無理を要求するという見方もできるのだが、逆に自分の内面にあるありもしない過剰な成功事例に縛られているとも言える。この鎖は自分を縛るだけではなく他人をも縛り付ける。比較によるゲームの始まりだ。序列がはっきりしない世界ではこれはたちまちのうちにマウンティング合戦に発展する。こうして新しい村ができるのだが、この村は利益を伴わない無駄な村である。

村から解放されて自分が好きなように人生の価値を追求できるようになったにもかかわらず、個人の中に価値観がないために進んで価値観の鎖に縛り付けられていると言えるだろう。

女性の場合は不機嫌さを溜め込むだけなのだが、男性の場合はこれをコントロールしようとして暴力に走る場合もあるようである。女性よりもさらに自分の気持ちを言語化することに慣れていないからだろう。

NHKの番組でドメスティックバイオレンスの加害者の特集をやっていた。「従属物である」妻が自分の思い通りに行動しないとカッとなって女性を精神的に追い詰めたり、代替物(例えば車のシートや机)を叩いたり妻に暴力を振るったりするというのが典型例のようである。彼らは「自分の従属物である妻」が自分の思い通りにならないことを怒っているように見えるし、番組でも「コントロールできないという怒り」が注目されていた。しかし、実際にコントロールできていないのは自分の感情であろう。自分の感情をうまく補足できておらず、それを相手に伝えることもできない。これが蓄積して暴力に訴えかける。

この結果、多くの男性は妻や子供にさられることになるという。中には経済的に独立的ないという女性もいて、被害者意識を受け入れて共依存関係に発展する人たちもいる。女性は永遠の被害者として生きるのだが、男性は時々湧き上がる怒りとそのあとの反省という感情の奴隷になって一生を過ごすのだ。

内面的な規範がないにもかかわらず全てをコントロールしなければならないという気持ちは「自裁権」という形で破壊に向かうかもしれないのだが、実際にはコントロールできる(と自分が勝手に思っているもの)への暴力という形で顕在化しやすいのだろう。それが社会において自分より弱いものを叩くことに向かいやすいのではないかと思われる。例えば気の弱い友達であったり、経済的に従属した妻なのである。

日本人が環境や村落と一体化している「個人」という考えを持たなかった。個人が出てくるのは「責任を取らされる生贄」か「村八分にされた仲間はずれ」だけである。ところが、戦後西洋流の個人主義というりんごの実をかじってしまったために、個人主義の毒が我々を苦しめる。その最たるものが「自己責任」でこれは「お前ら勝手にやれ」ということでしかない。

ここから脱するためには個人主義を捨てて「自分の運命は自分の思い通りにはいかない」ということを認識するか、自分の問題を言語化して相手に伝える技術を学ぶかの二つの選択肢があるのだと思える。

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日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

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社会的劣等機能の発露としてのTwitter

先日西部邁さんについて書いた。いろいろと曲がりくねって書いたのだが、最終的には自決権(ご本人は自裁権と言っているそうだ)というのは考えようによっては、創造性をなくし自滅の道に進むのではないかというような筋になった。保守は日本人の美点を見つめるのと同時にその欠点をも無自覚のうちに内包してしまい、これが破滅への指向性になりえるのではないかと考えたわけだ。

保守の欠点は明らかだ。彼らは「不確実性」が取り扱えないのである。西部さんの著作は読んだことがないので詳しいことはわからないのだが、バブル期の「朝まで生テレビ!」が殴り合いに近い言論を繰り返していたことからみると、協力して不安やリスクというものを分担しあうのが苦手なのだと思える。リスクを計算して分散したり出方がわからない人たちと対話するのが苦手なのである。

こうした指向性がどこから出てくるのかはわからないのだが、彼らが西洋流の左翼思想をキリスト教の伝統なしに理解し後にそれを保守に取り入れたからなのかもしれない。もともと日本人は神道の伝統と中国的な思想を通して「曖昧さ」を理解していたはずだ。しかし、なぜだか戦後の保守思想は一神教的を偽装した何か別のものに変容してしまう。

一神教の概念はいまでは「国体」という絶対神への帰依として理解されている。これはかなり一般的に浸透しているようだ。先日、Twitterで軍事や憲法第9条について考えている専門家に「自衛隊は国民を守っているわけではない」と突っかかっている人を見かけた。この人は明らかに日本を日本人の総体とは考えていない。つまり日本国ー国民=何者かが残ると考えているのだろう。

もともとの日本の神道が教義を持たないことを考えるとそれはかなり奇妙な転向である。もちろん個人で見ると保守論壇にも曖昧さを理解できる人たちはいるのだろうが、少なくとも集団としての彼らは他者が理解できないだけでなく、日本が本来持っていた曖昧さすらできなくなっているように思える。そして、それが絶対的な教義を生み出している。

日本の神道が教義を必要としていなかったのは、人間が理解できないものへの畏れを主に実践を通して示していたからなのだろう。今のように「国体」という教義を使って他人を恫喝したり従わせようとするのは少なくとも伝統的な神道ではないように思える。

さて、ブログをお送りする側としてはそこで「人間は全てを見透せるわけではなく、だからこそいつも可能性が残されているのである」というようなことが言いたかった。創造性の源としても不確実性は重要である。例えば、政策議論としては「やはり文系の学問も大切だ」というような結論に誘導されるだろう。

ところが、どうもそう受け取った人たちばかりではなかったようだ。中には「本当にそんな気がする」という感想を書いてこられた人もいたし、Twitterでも「言語化してもらってありがたいが不安が増した」などという人がいた。「日本は確実によくない方向に向かっている」という印象があるのかもしれない。

このブログは当初「創造性」を扱っていた。第一次安倍政権が倒れた頃には、日本にもアメリカに倣ってイノベーションを起こすべきだなどという機運があったからである。特にシリコンバレー風のイノベーションセオリーやユングについて扱っていた。

例えば「イノベーションの達人」のようにイノベーションを起こすためにはどのようなチームを作るべきかとか、ミンツバーグの「戦略サファリ」のように成功する戦略には決まり切った形があるわけではないというような本を読んだりしていたのだ。

さらに心理学の中にも「人間には扱いかねるような危険な創造性」があり、それを磨いてゆくことでそれぞれの人の「私らしさ」を追求して行くことができると考えている人もいる。ユングのタイプ論の要点は「表に出ていない」危うさをどう成長に結びつけて行くことができるかということを研究している。

しかしながら、こうした記事が読まれることはあまりなかった。日本人は手っ取り早く成功事例を取り入れたいと思うのだろう。成功者の話は読みたがるがその背景にある理論などには無関心だ。

そうこうしているうちに政治について扱うようになった。東日本大震災の不安もあって民主党政権が挫折し、リベラルな風土に根ざしたアメリカ流のイノベーションもリーマンショックとともに流されてしまったという扱いきれない不確実性が波状的に襲ってきていた時代である。

現在はあまりにも大きかった不確実性にうまく向き合えないという時代だ。日本では「自分たちでも改革ができる」と主張していた民主党が「失敗」したし、アメリカでも「Yes, We Can」と人々を鼓舞していたオバマ大統領が否定されてトランプ大統領による「Make America Great Again」が支持を集めている。

保守と呼ばれる人たちは「不確実性などなかった」と考え、自分たちが理解できる価値体系に戻ることができれば全ての問題はたちどころに解決すると考えている。しかし、それ以外の人たちも漠然としていて言語化されていない不安を持っていると同時に「もう社会としては成長などできるはずがない」という確信を持っているようである。

問題さえ見えてくればあとは克服する方法を考えればよいだけなのだが、どうもそうは思えないという人が少なからずいるということになる。むしろ、問題そのものを見てそれに圧倒されているというのが現状なのかもしれない。

ユングは個人の問題としての劣等機能に着目したのだが、社会や集団にも劣等機能があるということになる。不確実さを扱えないことだと規定したのだが、直線的で分析的なものの見方が得意な社会であり、不定形で感覚的なものを扱えないということなのではないかと思う。これについても引き続き考えて行きたい。

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