「普通」という牢獄

このところ村落共同体とその問題について考えている。だが、いろいろな事象を見ているだけでは統一的な視点が得られない。

気候変動について調べていたところ、牧畜文化が農耕文化に流入することで「統一的な視点」が持ち込まれたというような話が見つかった。論文の引用部なのでこの「統一的な視点」が何なのかはわからない。

気候変動 と文明の盛衰というPDFファイルに次のような一節がある。

紀元前1000年 頃の地 中海地域や東 アジア地域, ヨーロッパ北部における寒冷 ・乾燥化気候(T3) は,気候難民 としての大規模な民族移動を引き起こし(鈴 木,1978,1990;安 田,1993),定住農耕共同体であった都市生活者 に遊牧民が入り交 じることによって,農耕民の呪術的・儀礼的思惟が遊牧民 の合理的・統一的思索 に変革し,思想が合理化されて,紀 元 前8世 紀から紀元前4世 紀 にかけて高度な宗教や哲学を誕生 させた ことから,心の内部,すなわち精神の改革 を「精神革命」と呼 んでい る(伊東,1990,1996)。

日本人が未だに「呪術的・儀礼的思惟」を持っているとは思わないが、人の移動が起こることで精神的な変容が引き起こされるという視点は面白い。日本に置き換えると、戦後民主主義の受容によって人権意識が持ち込まれたことが文化接触にあたるだろう。

人権意識の基礎になっているのはキリスト教なのだが、これももともと牧畜文化から生まれている。こうした文明の変容は段階的に何回か進んだということがいえるのかもしれない。この精神革命は伊東俊太郎という人の本の引用のようだが次のようなウェブサイトが見つかった。

伊東俊太郎氏は、このときに人類の精神史が始まったとします。その内容を『比較文明 1』(比較文明学会誌 1985年 p12)のなかで次のように整理されています。

  • (人類が)それ以前の神話的世界を克服して合理的思索に徹し
  • 日常的個別的なものを超えた普遍的なものを志向し(ギリシャのイデア、インドのダルマ、中国の道(タオ)など)
  • そうした究極的原理からこの世界全体を統一的に把握し
  • そこにおいて人間の生き方を見定めようとする

これまで人権意識や合理的なルール作りを拒絶する日本的な村落意識を日本固有のものとみなしていたのだが、文明の中で起こりうる変容の過程の一つだと考えるとわかりやすい。ただ、伊東さんが指摘するように、合理的な考え方が抵抗なく受け入れられたのかということはよくわからない。

そうなると、背景の統一的な視点を受け入れない人たちがどのような考え方を持つのかということが気になる。日本人は普段の生活の中で政治について語ることはないのでよくわからない。

そんな中でQuoraで面白い質問を見つけた。「私はJKです」と自称する人が次のような質問をしている。犯罪者を特定する遺伝子があるのだとすれば該当者をあらかじめ罰してしまえば良いのではないかというのである。ある回答者が「かつてあったこのような考え方はすでに否定されている」という論を書いておりそれに付け足すことはあまりなさそうだ。だが、彼女(と自称している人)はなぜこのように思うようになったのだろうか。

この質問には「健全な社会」という揺るぎのない前提があり、犯罪という穢れを取り除かない限り安心して暮らせないという思い込みにつながっている。そしてそれが「犯罪に対する答えは刑罰と排斥である」という観念に結びついている。つまり普通でない穢れはウィルスのように罰せられた上に取り除かれなければ全体が病気になると考えているようだ。

彼女が持っている世界観では、異物を取り除いてしまえば再び穢れはなくなり普通の状態が戻ってくることになっている。これを非合理的だとか人権意識を理解していないと非難することはできるのだが、こうした呪術的な考え方を持っている人は実は少なくないかもしれない。

この呪術的な考え方には問題がある。人間はそもそもいい面も悪い面も持っているのだから問題が起こるたびに取り除いてしまうとそもそもの健全な我々という存在が削れてなくなってしまう。さらに、健全だった人がなんらかの形でそうではない状態に置かれた時に救済がなくなってしまう。普通でなくなったということを披瀝してしまうと「切り取られてしまう可能性がある」からである。

例えば「レイプされた女性は普通でなくなったのだから社会から切り離されても構わない」と考えるのも「普通でない患部は切り離してしまえ」ということだし「レイプされた女性がそれを言い出せない」というのは自分はもう普通でないのだから何を言われても構わないということになる。何の落ち度もないが「普通でない状態になったのだから、自分にも落ち度があったのではないか」と考えてしまうのだ。これをいじめに置き換えても同じようなことが言える。いじめられた人は普通ではないのだから切り取ってしまえという人もいるだろうし、いじめられたのは自分に落ち度があるからだと考える当事者もいる。

この健全な状態を日本では「普通」と呼んでいる。日本人は普通にしていれば問題は起こらないと考えるのだ。

この普通でない人を切り離してしまえという問題意識の向こうには普通でなくなった人は罰しても良いという了解があるようだ。特別支援学級で育った子の知られざる本音という記事には特別支援学級で育った子供が普通学級の子供からいじめられたという話が出てくる。

「たとえば、小2の男の子3人組から『特別支援学級のくせに、廊下歩いてんじゃねえや、気持ち悪い』と言われたり。図書室に行ったら、年上の小5の女の子に『気持ち悪っ』とか言われたこともありましたね。やっぱり、けっこうグサッとは来ました。もちろん、普通学級の誰もがいつも、いやな態度をとるわけじゃないんですけれど。でも、普通クラスの子の嫌な面は、たくさん見てきました」

このような意識が生まれるのは普通学級での学習を効率的に進めるために特殊な子供を切り離すという了解が先生と生徒の間にあるからだろう。

さらに学校は規範意識を失いつつあるようだ。体罰がなくなった学校で却っていじめが増えているが体罰を禁止された先生たちはもう何もしてくれないと訴える記事を見つけた。最後の文章はどきりとさせられる。この抑止力というのは先生の暴力(体罰)のことだが、これを核兵器に置き換えると現在の日本が置かれている自衛隊と核兵器の議論にそっくりである。

抑止力をなくした結果、ただの無法地帯になった。それは今学校で起きていることですが、日本全体、いや世界中に広がるのも時間の問題ではないでしょうか。先代たちの多大な努力によって私たちの健やかな生活は壊されました。

どうしてこうなってしまったのかはわからない。民主主義を知っている人から見ると、脅かされることによってしか法を守れないのであればそれは奴隷と同じような精神状態に思える。日本の学生たちは「社会を統一的に捉える規範がない」という社会を生きているといえる。そうなると「普通に止まって普通の人たちを排斥する」ことで求心力を保つか、暴力を使って全体を抑止するべきだというのが実感を伴った政治的意見担ってしまうのだということになる。

この考え方に基づくと、多数決によって作られる民主主義社会は誰から脅かされなければ無法地帯になるということになってしまうので、アメリカの軍隊を駐留させて日本を押さえつけなければ何をしでかすかわからないということになる。

これまでの村落の議論では、日本は村落から民主主義的な人権社会への移行に失敗したので、また村落に戻るという選択肢もあるというような議論を展開していた。これがいかに現実を知らない議論だったのかということがわかる。実際には戻れる村落はもうないのかもしれない。

中高年に属する人がこのように考えることができるのは、忖度的な共同体を具体的にイメージできるからである。先生はある程度尊敬されており、終身雇用についても具体的なイメージを持っている。¥

しかし日本人は背後にある統一理論を理解しないままで制度だけを取り入れてきてしまったために村落社会にも戻れず、かといってこれ以上民主主義と人権を基とする社会改革も受け入れられないというところにきているのかもしれない。

高校生や大学生はその最前線にいる。そこで「普通じゃない人は排斥しても構わない」とか「最後の望みは先生の暴力なのだ」などと思うことになる。こうした考え方は自民党の議員から披瀝される忌まわしい人権否定の意見とそっくりだ。もちろん選択的に記事を追っているのでこのような悪い記事ばかりが目についているのだが、こうした一連の「実感」を集めるうちに、事態は我々が考える以上に悪化しているのかもしれないと思った。

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オタクはなぜ差別されるのか – 現代オタク差別論争

今回のテーマはオタク差別である。時々タイムラインにオタク差別というTweetが流れてきたのだが何を言っているのかがよくわからなかった。だが問題を眺めているうちにこれがフレームワークの問題を含んでおり、多分当事者同士では解決しないだろうなということがわかった。さらにこれを非当事者から見てもよくわからない。年齢的な壁があるからである。最初は特殊な差別の話なのかなと思ったのだが、実は現在の人権論争にも通じる一般性があるように思えてきた。これらを順番に考えてゆく。

オタク論争というのは「オタク差別なんかない」という人にたいして「いやオタク差別はある」というカウンターがあるという話なのだが、そのオタクが何なのか全く理解ができなかった。Twitterで問いかけてみたが当然答えはない。

そこでTwitterをオタク差別で検索してこの文章を見つけた。すべてを理解したわけではないと思うのだがなんとなく概要はつかめたと思う。オタク差別と呼ばれているものは様々な差別の集積であるということを考察している。

個人的な体験から話をしたい。大学では文芸系のサークルに2つ所属していた。一つは純文学系でもう一つはSFである。筒井康隆が好きで文学部に通っていたのでこれは普通の選択だった。文芸系の人たちは周りがどういう趣味を持っているのかを気にしない。不思議に思ったのは、SF系のサークルの人たちが被差別感情を持っているという点であった。彼らは漫画が好きで漫研と掛け持ちしている人もいた。首都圏出身者が多く「コミケ」というところで同人誌を売ったりしていた。

大学に通っていた時に宮崎勤事件が起きたのでオタクという言葉や概念はあった。だからコミケに通う人=オタクという概念はあったはずである。だが、地方にはこうした非差別感情はあまりなかった。今にして思えばコミュニティがなく非差別集団としての意識が希薄だったからではないかと思える。

逆にSFが好きな経営学部出身の先輩もい。この名古屋出身のの先輩からやたらと友達を紹介され、丸井とか笹塚のバーなどに誘われた。ファッション雑誌にスナップを撮られるようなおしゃれな人だったので、多分脱オタクを志向していたのだろうが、当時はその意味もよくわからなかった。非差別集団的なオタクがおり、いや趣味として認められるべきだが外見が見すぼらしいと差別されてしまうのだと思っていた人がいたということである。

つまり、オタク文化に触れており、容姿と趣味はオタク的だったのだが、純正オタクというほどオタク文化に埋没しているわけでもなく、かといっておしゃれでもなかったということになる。

数日前にQuoraで「大学デビューしたから普通に見えないといけないと考えると底知れないプレッシャーを感じる」という質問を見た。今回のオタク論争に関する文章を読んだ時に似ているなと思った。つまり普通から滑り落ちたらまずいという感覚である。この感覚はバブル期にはなかった。

Quoraの説明を論理的に考えると「普通」というものを統計的に割り出して定義するところから始めなければならない。だが、実際には普通というカテゴリは存在しない。大学は多様性を許容するはずなのだから「自分なりの普通を見つければ良い」というようなことを書いたのだが、今にして思えばそれは綺麗事でしかなかったのかもしれない。

現在には普通という存在しないものから「逸脱してはならない」というプレッシャーがあるのだろう。そして普通というものが存在しないからこそ人は「何をしでかしたら普通だと思われないのだろう」と怯えながら過ごすことになる。

なぜこんなことが起こるかというと、中流に止まるのが難しいからなのだろう。ファッションで普通でないとみなされると「オタク」という烙印を押されるし、趣味が違っていても「オタク」になる。下流になったらそこで差別されてしまう。排除する理由は趣味でも外見でもよいわけだから、趣味から見たオタクと見すぼらしい格好をしていて体型が不恰好なオタクという区別にはあまり意味がないということになる。

我々がこれを理解できないのは高度経済成長期に育っているからなのかもしれない。高度経済成長期は頑張れば上流に上がれるがそうでなくてもそこそこの暮らし(中流)があるという世界だった。だが今は縮小社会なので黙っていると下流に転落してしまうのだ。そして転落した人たちのことをオタクといって差別しているということになる。

逆にいうと転落を恐れる人はオタクという下層を作ることによって「自分たちは普通なのだ」という満足を得られる。これは統計をとって「普通」を定義するよりも簡単にまとまりを作ることができる。前回の韓国の全羅道差別では「普通をまとめるための被差別集団」を観察した。これと同じことが日本でも起きているということになる。自分たちが普通だということを感じるためにはオタクが必要なのである。

すると、オタク差別はなくならない。そして何をしたらオタクになるのかという定義も存在しえない。多数の人たちから「お前は違うよね」と宣告された人が結果的にオタクになるからだ。

さらにオタクを差別する普通の人たちは「見下して当然」の人を差別しているだけなのだから、そこに差別意識を感じない。これは女性差別に似ている。女性差別は存在するが、女は男よりも劣っていて当然だと思っている人が「当たり前の処遇」をしているに過ぎない。だから女性が「差別はあるだろう」と言っても「当たり前のことをしているだけなので差別などありえない」と答えてしまうのである。

結果的に差別されている人がオタクなのだから「オタク」という属性は存在せず、従って何がオタク差別かどうかということは決められない。だから定義について議論しても何も生まれないのだ。だが、それが決められないのは実は普通が決められないからだ。

オタクという言葉の定義はこのように「普通でない」ことを意味し、何が普通なのかがわからない。にもかかわらず何がオタクなのかという了解がなんとなくあるようだ。この問題について藤田直哉という人がまとめたものを見るとそのことがよくわかる。それはかつてあったコミケのような社会的集団が続いているからなのだろう。

オタク差別は確かに存在するが、それは「非普通差別」である。そして非普通差別される人たちをオタクと呼んでいるので、オタク差別というのは別の言葉でいうと「差別者差別」であり、議論の対象にはなりえない。差別者という属性は存在しないが、差別そのものは存在するので、お互いに話がかみ合わないのだ。

だがその背景にあるのは普通の不確かさである。常に脱落する恐怖にさらされているのだが、何をすると脱落するのかがわからないので被差別者を作って安定を図っているのではないかと思われる。これは韓国の士林派が神学論争を繰り返しお互いを差別しながら結束を図ろうとしていたのに似ているし、朴正煕大統領が地域差別を利用して韓国の他地域をまとめようとしていたのに似ている。

ここからがこの一連の話の一番残酷なところである。そもそも人権運動というのは多様性を認めるところから出発する。オタクであればオタク的趣味やルックスをそのまま認めろということである。女性差別であれば女性的な行動様式が認められなければならない。しかし日本人は差別を内在化しているので、オタクを普通の人と同列に扱えとか、女性にも男性並みの普通を認めろということになりがちだ。

だが普通というものが溶解しているので「普通に扱う」ということに実態がない。だからいつまでも普通に扱われることはないということになる。これは差別者の側の問題でもあるのだが、差別される側も「ゴールを持たない」ということになる。さらに多様性を前提にした人権問題のフレームワークを使って問題を処理しようとしている傾向も見られるのだが、これは破綻が見えている。西洋の人権意識は多様性を前提にしているのであって普通への復帰運動ではないからである。

オタク差別は確かにあるのだが、それをブレークダウンしようとするといくつもの問題にぶちあたる。だから議論をすればするほど解決から遠のいてしまうということになる。

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「山口メンバー」報道に思うこと

TOKIOのメンバーが2018/5/2に記者会見を開いた。過去何回か病院を巡ったが「アルコール依存症」との明確な診断は出ていないそうである。メンバーが知っていて無関心ではなかったということと、無関心でなかったとしてもプロの助けなしでは問題の解決が難しかったということがよくわかる。


TOKIOの「山口達也メンバー」が会見を開いた。ニュースが飛び込んできてから半日空いたので最初はジャニーズ事務所が隠蔽しているのではないかなど周辺のことが気になっていたのだが、本人の記者会見を聞いて考えが変わった。

一晩経ってまた考えが変わった。テレビ局も芸能事務所も「世論を侮っている」と思った。

初動対応はまさにパニックだった。関係者は表向きは反省しているようなことを言っているのだが、頭の中ではこの騒ぎが大きくなって自分たちに損害が及ぶことだけを恐れているのだろう。

NHKが最初にこの問題を伝えたのは火元が自分たちの番組だからだろう。子供向け番組の出演者を管理していなかったせいで起こってはいけない問題が起きてしまった。内部調整して発表する時間はない。調整の兆候が見えた時点で週刊誌は面白おかしく伝えるだろう。そこでまずニュースとして伝え「自分たちは知らなかった」風を装ったのかもしれない。

「NHKが不祥事に対して隠蔽体質なのはむかしからですが、報道局からあがってきた性犯罪をジャニーズだから、微罪だからといって握りつぶしたとしたら、どうなるか。特に今回は加害者被害者が、子供たちを育む役割のEテレから出たことは絶対に見過ごせない。万が一それが変な形で露見して、やはり組織ぐるみで隠していたのかとなったら、国民から受信料不払いが巻き起こり、へたすりゃNHKがつぶれるほどの大変な事態になります」(NHK幹部)

TBSはメンバーの国分太一が司会者をやっていることもあり、表面上は「山口メンバー」を糾弾するような様子を見せつつ、どうにかして穏便に抑えたいという気持ちを持っているようだった。テリー伊藤さんは「相手のあることだから」と言って相手に寄り添うような風を見せていたが、実際には「ことを大きくすべきではない」ということを主張していたのが印象的だった。

印象的だったのは国分さんが「福島の野菜は」と唐突に言及していたことである。まず頭にスポンサーなどのことがよぎったのだろう。ところが、徐々に国分メンバー(あるいは国分司会者)も山口メンバーのお酒の問題を知っていたことが明らかになる。知ってはいたが大した問題だとは思っていなかったようだ。実はこのことがこの問題の本質をよく表している。彼らは多分お酒の恐ろしさを知らなかったのだ。

問題を複雑にしているのはジャニーズ事務所の「隠蔽体質」と放送局の「忖度」体質である。大勢の有力なタレントを抱えているジャニーズ事務所は常々「メディアを押さえつけているのではないか」という疑惑が持たれている。だから放送局はことを荒立てたくないと考える一方で、忖度しているように思われてもならないということで頭がいっぱいになっているのだろう。確かにその意味では脚本はよく練られておりそのあとの対応も含めてよくできていた。芸能デスクという人が全てを統括してバラバラな意見が出ないようにしていた。TBSの芸能ニュースにとってジャニーズ事務所は重要なネタ元に当たる。それを守ることが最重要課題である。

だが、実際にジャニーズ事務所が隠蔽しているのは事件やタレントの商品価値ではないのだと思う。

視聴者は明らかに煮立っている。政治でも同じような問題が起こっているからだ。Twitterの一部には同じ山口である別の人を指差して比較する人たちもいた。権力者は決して不祥事を認めようとしない。だから、不倫や性的な問題に関してはすぐに「社会的生命に対する死刑判決」が出るようになった。これが累積し「この類の問題を起こしたら一発退場」という相場が作られている。普段政治問題について面白おかしく伝えているマスコミは自分たちが「忖度し隠す側になった」として視聴者から襲撃されることを恐れている。政治もテレビ局もこの問題はもはやバスティーユなのだ。

だが、その裏にある認識は「視聴者はバカだから問題について深く考える頭はないだろう」という侮りである。彼らは普段そういう「バカな視聴者」を念頭に番組を作っているのだろう。

だが、本人の会見でわかったことはかなりショッキングだった。本人はアルコールの問題で入院していたのに帰ってきてすぐにお酒を飲み酩酊状態になったということがわかった。さらに本人には自分がアルコール依存におちっているという認識がない。

焼酎を一本空けたという証言があることから山口さんがアルコールに対して歯止めを失っているのは明らかだ。一升瓶か5合瓶かなどと言っていた人もいるが、どちらにせよ「たしなむ程度」で一本空くことはない。このことから、病院では酒量を管理されていたことがわかる。病院から仕事場に通っていたのは多分私生活でこの人がお酒の量をコントロールできなくなっていたからである。つまり、周囲の人は異常を知っていたということになる。

テレビ局が侮っているはずの大衆は実は冷静だった。これはアルコール依存であり周囲のサポートなしには回復できないという意見がTwitterで見られるようになった。つまり世の中には問題を抱えている人やそれを専門的知見からサポートする人が大勢いるのである。だから、相談さえしてくれれば良かったのだ。

このズレの原因は明らかに事務所にある。もともと同性愛志向のある男性が自分の理想の少年を売り出したのがジャニーズ事務所である。そのこと自体は責められるべきではないし、女性たちとの間に共有のシンパシーもあったようだ。ただ、このため少年として魅力がなくなった男性アイドルは放置されることが多い。そこに商品価値を見つけているのが女性たちである。成熟した男性に商品価値をつける。

ただ彼女たちは女性であるがゆえに、男性が持つであろう問題については知識がなくまた無関心だった。

夢を売ること自体は悪いことではない。例えば宝塚はある年代の女性を使って夢を売っているが、彼女たちには第二のキャリアがある。宝塚歌劇団はそれ以降の女性を活用することができないからである。宝塚から巣立って女優になった人は多く、このシステムがうまく機能している。

一方ジャニーズ事務所はその特有の嫉妬心から独立を許さない気風がある。だから中年になってもアイドル以外の選択肢が持てない。彼らが抱える特有な問題はSMAPの3人が「テレビから干された」ことからもよくわかる。

山口さんは会見の中で「事務所の誰に相談していいかわからず」「メンバーにも言い出せなかった」と言っている。私生活上の問題については放任されていたのだろう。

少なくとも、メディアコントロールも含めて会社のマネジメントは極めてずさんだったということがわかる。なぜ酒量が増えたのかはわからないが、本人がコントロールできるような状態ではなかったようなので、周りが親身になって止めるべきだった。これができなかったのは、大人の男性が当然抱える問題に対する事務所の無関心があるのではないだろうか。

ジャニーズとお酒という問題は実は珍しくない。草彅剛さんが全裸で逮捕されたという事件もあったし、最近では「錦戸メンバー」が瑛太さんを殴ったという事件が伝えられた。逮捕が伴わない事件は他にも起きているのだろうがテレビが伝えることは滅多にない。

この問題を「では誰が悪いのか」というところに落とし込んでしまうと、もちろん本人が悪いということになるのだろう。しかしながら、実際には関係性の中で起きていたことがわかる。イメージが損なわれるようなことはできれば考えたくないという気持ちがここまで問題をエスカレートさせたということは認めたほうがよさそうだ。

もし人間が完全に理性的な存在であればこれほど複雑なことを考える必要はない。だが人間であれば自分ではコントロールできない問題を抱えるのが普通だし、トップアイドルも例外ではない。だからこそ周囲がサポートすべきだし、サポートできないなら潔く手放すという選択肢も考えるべきだ。

人間には様々な衝動がありそれを理性で押さえつけることができるとは限らない。我々はこのことを十分に知っておくべきだし、それを感知したら周りは助けの手を差し伸べるべきだろう。だが我々は一人ではない。同じような経験をした人がたくさんいるのである。

テレビ局は「ジャニーズ事務所を怒らせたらどうしよう」ということを考える前に「人間は弱い存在だが助け合いによって救われることもあるのだ」ということを再認識するべきではないかと思う。

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福田事務次官問題の議論を今後に役立てるには

今回は福田事務次官の問題を今後の議論にどう役立てれば良いかを考える。Twitterの議論はまだ犯人探しに終始しており、ここで意識を変えられれば他の人たちに先んずることができるかもしれない。

女性記者たちの間では問題の客観視が始まっているようだ。これをきっかけに昔を思い出し「あの時はどうしてもとくダネが欲しかったがそれは本当に必要だったのか」という考察が始まっている。これはとても大切なことだ。この先の彼女たちのジャーナリストとしての意識は男性よりも進んだものになるだろう。

これを女性たちだけの経験にするのはもったいないことのように思える。だが、改めて考えてみると我々がとらわれているものから抜け出すのはとても難しい。これについて考えているうちにあrる結論に達した。結論から書くのは簡単なのだが、ここは思考の過程を追いたい。もしかしたら解決策よりも「もやもや」の方が重要かもしれないと思うのである。

前回はトランプ大統領と親密な関係を築こうとする安倍首相は危ないと書いた。だがこれを正面から証明するのは難しい。そこで、トランプ大統領を金正恩朝鮮労働党委員長に置き換えてみた。トランプ大統領とのゴルフコースでの約束や密談について疑う人はいないのだが金正恩に変わった途端に「怪しい」と感じる人は多いだろう。

我々は北朝鮮とアメリカを別の存在と認識していることはわかる。だがそれが何でなぜそう考える人が多いのかはよくわからない。

今回のセクハラ問題でも同じようなことが起きている。例えばテレビ朝日を悪者にしてしまうと「加害者性」が損なわれるので財務省の「悪者度」が下がると思う人が多い。実際には両者の親密すぎる関係が問題なわけだが、そう思う人はあまりいないらしい。さらに、テレビ朝日側に問題があったというと「お前は誰の味方なのか」と言い出す人が出てくる。そこから自動的に「お前は男だからセクハラを是認するんだな」などと言われかねない。つまり人々は問題そのものよりも文脈を問題にしている。北朝鮮との違いはその定着度である。まだ構図が定着していないので自分の持っている文脈を定着しようとして争うのだ。その間はセクハラ問題については考察されない。文脈の方が問題よりも大切だからだろう。

実際の政治的な対立を見ていると、それぞれの人は異なる文脈を持っている。だがそれでは所属欲求が満たされないのだろう。次第に二極化してゆく様子がわかる。ある人たちにとっては安倍政権が究極の悪者であり、別の人たちには反日野党が打倒すべき存在だ。こうして左翼・右翼対立が生まれるのだが、実際のイデオロギーとはあまり関係がない。

この辺りで文脈の問題が行き詰まったので別の視点を探してみることにした。それは当事者の視点である。

ハフィントンポスト編集主幹の長野智子さんが85年、私はアナウンサーになった。 セクハラ発言「乗り越えてきた」世代が感じる責任という胸の痛む文章を発表している。彼女たちは男女機会均等方の第一世代で「後に続く女性のために頑張らなければ」と考えていた。一生懸命仕事をして今の地位を築き上げた。にもかかわらず「私たちに問題があったのでは」と考えているようだ。

この影で語られないことがある。男性側も「男の聖域である職場が奪われてしまうのではないか」という危機感を持っていた。男性の立場から見ると補助的な仕事をしてくれる「女の子」を見繕って結婚するというのが人生の「普通」のコースだったので、これは公私ともに重大な変化だった。何が起こるか話からないという不安定な気持ちがあったのである。

しかし。法律上女性を排除することはできない。さらに、日本も西洋なみにならなければならないと考えていたので、「仕事というのは生半可ではできないのだ」というポーズで防衛していたとも考えられる。特権を手放してしまえばそれを取り返すのは難しいだろうと考えていたのかもしれない。財務省の主計局は「自分は予算を配る特別な部局である」という歪んだエリート意識がありこの防御が病的な形で温存されたように思える。彼らは男性優位の職場を経験した後で女性を初めて迎えた時代の人たちだ。

男性は「潜在的な敵」としての女性を捉えていた。また女性も「敵地に乗り込む」つもりで男性に向き合っていたのだろう。男に負けてはならないと感じていた。彼らは職場の同僚ではなく、敵味方だったことになる。我々が考える文脈は固定的な村落では利害関係を考慮して細かく決定されるのだが、流動的で不確実な領域では単純化されるのだなと思った。それが「敵と味方」である。

この敵と味方という思考はなぜ有益なのだろうか。それは北朝鮮の事例を見てみるとよくわかる。北朝鮮が悪者だということにしてしまえば日本が変わる必要はない。悪者である北朝鮮がさめざめと泣いて許しを求めてくるというのが安倍首相のシナリオである。物語はめでたしめでたしで終わり日本は何一つ変わる必要はない。安倍首相はこの桃太郎のような物語から抜けられない。

だが実際には国際社会は「北朝鮮を悪者扱いするのをやめよう」と考えているようだ。それは北朝鮮が反省したからではない。その上で北朝鮮の出方を探っている。まったく反省するつもりがない(つまり国際社会に復帰するつもりがない)なら軍事オプションも取り得ると言っているわけである。国際社会が考える常識と桃太郎思考の日本は折り合うことができない。

もともと女性の社会進出が求められたのは女性の才能を社会に活かそうという気持ちがあったからであろう。例えばジャーナリズムの場合は読者の半数は女性なのだから女性的な視点を入れた方がよいということはわかりきっている。だからこの問題について話すのであれば目的に注目した議論をした方が良い。つまりそれは女性が変わるということであり、男性も変わるということでもある。お互いに話し合って妥協点を見つけるしかない。

ここで「敵味方思考」から抜け出せないと、女性が撤退するか、あるいは男性が一方的に変わるのかという思考に陥ってしまうのだろう。そして男性は追い詰めると現実否認を始める。最も見苦しいのが「字が小さかったから」といって読むのを拒んだ麻生財務大臣だ。

福田事務次官が「ボーイズ幻想」に陥っていたことは誰の目にも明らかである。彼は女を口説着続けることが「現役でいることだ」と勘違いしていたのではないだろうか。こうした人が指導的に地位についているのはよくないことなのだが、それが社会的に広がるためには「性別にかかわらず社会進するべきだ」という合意が男女問わず広がる必要がある。協力が必要なのだ。

どちらが敵か味方かと考えると、誰かが悪かったと批判しなければならないし、私が悪かったのかと悩む人も出てくる。実際にはお互いに話し合って変わってゆくというアプローチもあるはずなのだが、これが提案されることはほとんどない。大抵は犯人探しが始まり、そのうちに言い合いになり、解決策が見つからないまま次の問題が起こり、また犯人探しが始まるという具合だ。

北朝鮮の例を見てもわかるのだが、日本は列島という隔絶された地域で他者と対峙してこなかったために他者と折り合うという体験をしてこなかったのだろう。このため他者を許容できず、また他者に囲まれると自分が異物とみなされてはならないと考えているのではないだろうか。だから、国際社会でとりあえず妥協して共存を目指すという他の国では当たり前にやっていることができなかった。さらに、西洋社会に入ってしまうと「白人なみにお行儀よく振る舞わなければ」と考えてしまうのだろうが、その笑顔が「何を企んでいるのかわからず見苦しい」などと言われてしまうのだ。

今回は男女機会均等問題と外交問題をパラレルで走らせて考えてみたのだが、こうした「敵味方思考」が日本人に根付いていることがわかる。これは様々な問題の根になっているので、まず敵味方思考からの脱却を試みる必要がある。解決策を探したり社会的合意を模索するのはその先になるのかもしれない。

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分かり合えない原因は教育にある

アエラで「なんで話が通じない」という特集が組まれていた。読んでみると「最近の人の指導を理解しない人が多い」と書かれており「それは教育のせいではないか」というほのめかしがあった。そして、AIの専門家が最近の人は読解力がないと指摘し、読解力は文明が作る高度な能力なのだなどと続いていた。いわゆる「相手はバカ論」なのだが、読んでいるうちに「アエラの指摘とは違うが確かにこれは教育のせいかもしれない」と思った。もし、この仮説が正しいとしたら、日本人はこれからもコミュニケーションギャップに悩み続けるに違いないと思った。

アエラには例えば「パソコンなどのツールを使い方を教えてもすぐにキレる」というようなことが書いてあったのだが、これは自分の知り合いの高齢者にも当てはまる。学歴がないわけではないが、順序立てて理解したがらないのにどうやったら動くのかという結果だけを知りたがる。そしてすぐにキレるのである。

これは脳の制御機能が衰えた老人特有の問題だと思っていたのだが、むしろ日本人によく見られるありふれた態度のようである。そこで特集をざっと読み直してみると、経験の違いがギャップを生んでいるのではないかと思えた。それぞれの世代で最初に接触したコミュニケーションツールが違っているからだ。アエラはパソコン世代に照準を合わせた記事を集めており、これが文明的な態度だと解釈されていた。

高齢者が最初に接触したのは家電だった。だから経験上は物理的なボタンを押して単機能が働くものがデフォルトになっている。電話などがそれにあたるのだが、やがて年賀状作成機のようなものまで作られた。プリンターと簡易ワープロが年賀状の作成という一年に一度の行事のためにだけ組み込まれているという実に非効率な機械だ。このため高齢者は一つの目標を達成するのに複数のパスがあるパソコンに苦労する。「どのボタンを押せばいいのだろうか」と考える上にそのボタンは物理的に存在しない。なかには画面の中にある四角い「絵」がボタンであるということを決して理解しない人もいる。

一方で、若者は最初からスマホを使っている。スマホはマルチタスクなので同時に様々な用事をこなせるだが集中力が犠牲になる。マルチタスクは集中力が削がれることが学術的に証明されているそうだ。若者は一つひとつのコミュニケーションに時間を割くことができない。そんなことをしていたら「ゲームオーバー」になるだろう。これが中年層には「深く物事を考えず、自分の考えを伝えるボキャブラリに欠ける」と映るらしい。中高年から見るとこれは「退化」なのだろう。

これに挟まれているのがいろいろなタスクをこなせるが、一つ一つのタスクが割合と切り離されているパソコン世代だ。パソコン世代はメールをやりながら文章を書くというようなことをしないので動作の連続性と集中力は確保されているのだが、スマホ世代に比べてレスポンスが遅くなるという傾向がある。メールに季節の時候を織り込む我々の世代は「説明が回りくどくレスが遅い」と思われているはずである。

かなり急激にコミュニケーションツールが変わってしまったことがわかり、さらに思考がそれに支配されていることもわかる。だから、我々は違った世代の人たちが理解できないのだ。

こうした違いはコミュニケーショだけでなく情報の取り入れ方にも現れている。中高年までは図書館にこもって調べ物をしていた経験があるので「十進分類」に従って情報を整理している。そのあとハイパーリンク世代があり、最後に検索エンジンが現れる。若者はスマホでググるのだからそもそも分類法には支配されないが代わりに自分が興味のないことは検索ができない。

こうした違いも随所に現れる。例えば新聞はブラウジングメディアなので、一面から順番に(あるいはテレビ番組表から順番に)何があるのかを総覧することができる。本屋もブラウジングメディアである。

中高年世代の思考はブラウジングと分類法に支配されている。例えば長島昭久議員はブラウジング世代なので文書管理をするためには専門部署が必要だとしている。文書の量が膨大で「調べるのに時間がかかる」からである。だが若い世代は「なんで防衛省の日報はググれないんだろうか」と思うのではないか。文章をデジタル化したうえでクローラーを走らせるのがデジタルネイティブ世代の発想だ。長島議員はこれからはAIだと言っているのだが、AIの本質は理解できないし、理解しようともしない。日本ではこの世代の人たちが政治に参加しないので、デジタルネイティブな発想が出てこないうえに、政治家も新しい思考法を理解しようとはせず、自分たちの常識の上に新しい常識を組み上げてゆく。

スマホ世代は編集されない情報をTwitter仲間から仕入れるかもしれないが、興味のない情報は「スルー」される。確かにブラウジング世代は編集された情報を網羅的に取得しようとするが、編集から漏れた知識は持っていないかもしれない。これが「NHKが報道しない」と言って怒る人が多い理由である。NHKの編集から漏れた政治的課題は「なかったこと」になる。ブラウジング世代の人たちは若い人たちを「情報が偏っている」と非難するのだが、ブラウジング世代の情報も偏っている。

アエラでは「中高年は優れていて若者はダメ」とほのめかしつつ結論は避けていた。そもそも雑誌を読む人は網羅的に情報が知りたい人なのだろうから若者の見方をしても仕方がないのだろう。これもブラウジング世代の特徴だ。編集を通じて一つの視点を採用しているがそれには気がつかない。

このように大きな違いがあるように見える各世代だが実は共通点もある。だが、この共通点は日本の教育だけを見ていてもわからない。これが冒頭に「日本人はコミュニケーションギャップに苦しみ続けるだろう」と予言した理由である。原因ははっきりしているので修正方法はある。

例えばMBAでは様々な分野について網羅的に見る。ITマネジメントも見るし、経理も見るといった具合である。まずはその特定領域ではどのようなものの見方をするのかを学んだ後で、専門知識を少しだけ学び、様々なバックグラウンドの人たちと入門編的な問題を討論しながら解いてゆく。

これをやっている間は「専門的なことをやらないので物足りないなあ」と思ったりする。たまたま自分のバックグラウンドの問題だと「知識があることを認めさせなければ」とも思う。だが、今回コミュニケーションギャップについて考えているうちに、全く異なった領域のものの考え方を短時間に詰め込むことに意味があったのだと気がついた。専門知識を持っている分野について学ぶときには「物足りない」などと思わずに相手に説明する方法を学ぶべきだったのだ。

マネジメント教育が「物足りない」と感じられたのは、日本の教育では職人の育成が重要視されているせいだと思う。一つの領域を決めてその道を極めるのが良いことだと考えられていることになる。一方で、総合マネージャーは「なんでも屋」だとして嫌われることすらある。

日本の初等教育の原点は寺子屋だろう。寺子屋ではそれぞれに職人に専門の教本のようなものがあり、速習が可能だったのだと聞いたことがある。漢字は複雑な体系だが、基礎的な漢字を習った後で職人に必要な漢字だけを習えばよかった。だから、効率的に職人(あるいは農業従事者も)を育てることができた上に、日本は識字率が高かった。

識字率が高かったおかげで日本の近代化は短い間に進んだ。富国政策を強力に推進することができた上に民族意識も高揚させられたからである。アジアの他の漢字圏では漢字学習が学者に占領されており庶民は文字すら学べなかった。こうした国々では漢字を簡単にしたり、そもそも漢字を廃止することによって文字を普及させるしかなく、民族意識の高揚に時間がかかった。

「手っ取り早く学習する」ためには、常識の上に新しい知識を積み重ねてゆくしかない。だから、違った環境に育った人たちとはお互いに意思疎通ができなくなってしまうのだろう。違った経験をした人たちのことを理解するためにはまず他の人たちがどのような価値体系で動いているかを理解するのが早道である。

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西部邁さんの自殺幇助はなぜ許容されるべきではないのか

西部邁さんの自殺を幇助したとして二人の知り合いが逮捕された。最初の感想は不謹慎だが「これが本当の確信犯だな」というものだった。これについて島田裕巳さんがこのようにツイートしている。人によってフレームワークはそれぞれだなと思ったが安楽死の問題だとは思えなかったし、そもそも議論の対象にしてはいけないのではないかと思った。

いろいろ考えていて、この問題は戦後の保守思想の限界をよく示していると思った。がさらによく考え他結果、保守思想ではなく日本の戦後思想の限界があるのではないかと感じるようになった。事前に安倍首相が国際情勢に乗り遅れてゆく姿を観察したからだと思う。

安倍首相が国際情勢に乗り遅れた理由は、彼と彼の取り巻きが「国際情勢をよく理解している」と思い込んでいるからだった。価値観を含んだ言い方をすると「知っていると思い上がっている」ということになる。ところが「自分たちだけが真実を知っている」と思っているのは保守だけではない。護憲派が盛り上がらない理由として共産党の人が「自分が戦争の悲惨さを一番よく知っていて、それ以外のすべての取り組みはすべて不完全である」と考えていることを観察した。

どうやらこの全能感は広く共有されているようである。ではそれはどこから来るのだろうか。

一足飛びに話を始めてしまったために西部さんの問題に戻る。西部さんは自分の人生の価値は自分がよく知っており役に立たなくなったら自分で終わらせて良いと考えていたようだ。つまり、自分の人生を「アンダーコントロール」な状態にしたかったということになる。そして、彼の信奉者たちはその思想に乗ったのだ。

このニュースについて聞いた時に最初に思ったのは、誰かの自殺を認めてしまうと別の人たちの自殺を考え直してもらうことができなくなると考えたからだ。学生たちは極めて閉鎖的な空間で「学校だけが人生だ」と思い込むようになる。周りの人たちも学校生活から脱落したらこの先社会から受け入れられず、人生は終わりだと考えることで、さらに追い詰められて行く。だが、この考え方は必ずしも正しいとは言えない。

島田さんがいう安楽死の問題は苦しい病気を逃れられない上に治癒の見込もない場合には死期を早める選択肢がありうるという話であって、西部さんには当てはまらない。加えて西部さんが学生と同じような心理状態に陥っていた可能性すらある。多分西部さんは「自分はよく考えた」というだろうし「衰えてゆく恐怖はお前にはわからないだろう」というののだろうが、それは多分学生たちも同じようなことをいうだろう。

そもそも、人間は自分の人生の意味を自分で理解できるのだろうかという疑問がある。キリスト教ではこの考え方を明確に否定している。人生の価値を知るのは神だけであり人間はそれを知ることができない。だから自殺はキリスト教圏では犯罪なのである。だが、わからないから考えないということにはならない。わからないからこそ追求しようという姿勢が生まれるのだし、人知を超えたものだから他人の命も大切にしようということになる。

日本はキリスト教圏ではないのだから、こうした考え方を当てはめることはできないように思える。日本の場合には村の外に人知を超えたものをおくことで「畏れ」を通して人間に謙虚さを教えていた。

最近、欠損村落について考えている。日本人は書かれた契約を大切にしないので社会が作れないのだが、それでも村落コミュニティを持続させるための知恵を置いていてそれを「伝統」という名前で括ってきた。

だが、日本人が村落を捨てた時にこの人知を超えたものを捨ててしまったのかもしれないと思った。人間はすべてをコントロールできるのだから、自分の命を自分で処分してもよいと考えるようになったのである。これは何も保守だけの心情ではない。

ではこのアンダーコントロールは何を生み出すのだろうか。

例えば、安倍首相は世界に向けて福島原発の問題はすべてアンダーコントロールだと宣言した。多分、その当時安倍首相は本気だったのではないかと思う。しかし、実際には原発の問題をコントロールすることはできない。廃炉の見込みが立たないばかりではなく、放射性物質が海に撒き散らされる事態も収束できないようだ。しかし、安倍首相はアンダーコントロールだと宣言してしまったので、戻れない人たちを「自己責任だ」といって切り捨てたり、放出される放射性物質をなかったことにしようとしている。

自分はすべてがコントロールできるはずだという傲慢さは現実の否認につながり、さらに他人の人生を否定することになる。保守の場合「日本の伝統についての解釈はすべて自分が知っているのだから、それに当てはまらない人は生きている価値がない」という展開になる。

「自分の人生は自分で処分できる」と考えているうちは自己責任だから良いではないかと思えるのだが、実際には他人の人生を巻き込んで暴走してしまう可能性があり、実際にそういうことが起きているのである。安倍首相は「国際情勢は自分がよく知っており、実際に自分が言った通りになった」と思い込むことで国力を衰退させてしまう可能性が高い。しかし彼らはそれを反省せずに「脱落した人は自己責任だから自分で自分の命を処分すべきだ」と言い出すことになるだろう。

もし、西部さんが保守であったとしたら日本人が持っていた畏れのようなものを織り込んでいたはずなのだが、その根をみると多分出発点は日本の伝統ではなかったのではないだろうか。

こうした倒錯がどうして起こるのかを考えてみた。科学というのは神の領域に近づこうとする人間の試みである。しかし、その成果だけを見るとすべてのことが「ぱっきりと」説明できているように思えてしまう。追求や探索の過程がすべて終わっているからである。

日本人は戦後西洋から「科学的思考」を取り入れた際に、科学を正解の束だと誤解した可能性がある。一方で村落が持っていた鎮守の森の得体の知れなさなども捨ててしまい「自分たちが知っている理論だけがすべてをコントロールできるのだ」と思い込んでしまったのかもしれない。

平たく言ってしまうと「日本人はもっと謙虚になるべきだ」ということになるのだが、かつてはそうした謙虚さをきちんと持っていたのではないかと思う。本来ならばそれこそが保守が追求すべきことなのではないかと思う。

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どうせ誰も助けてくれない

このところ毎日のように村社会について書いている。日本には村社会的な慣行が残っていて成長を妨げているというような話である。ただ、これは概念的な話で、やはり現実的には村空間は破壊されており援助が得られない人もいる。今回はそんな話である。

先日、Twitterで「この人の言っていることはどの程度本当なのだろうか」と思う人を見かけたというような話を書いた。結論からいうと虚実が入り混じっていた。この件についてさらに話を聞いたのだが、いろいろ考えさせられることが多かった。Twitterは顔が見えないのでいろいろなバックグラウンドの人がいるということと、他人を「助ける」のはそれほど簡単ではないということがわかった。

この人の主張をまとめると、いろいろな政治家のところに行ったがみんな悪い人ばかりで、結局は誰も助けてくれないというものだった。どうせ誰も助けてくれないというので「そんなことはない」と言いたくて話を聞くことにしたのだが、どうも一貫しない。そこで話をまとめてもらえるようにお願いしたところブログのURLが送られてきた。途中まではまとまっているのだが、最後がかなり乱雑になっている。そして、まとまった話の内容がどうも少しおかしい。

前回のビートたけしの件でも書いたのだが、日本人は「どちらが悪いか」ということを経緯の中からわかってもらいたいという傾向が強いようだ。この人にも同じ傾向がある。だから「何がしたいのか」とか「何がして欲しいのか」ということは後に来る。「何がして欲しいかわからないのに、誰も助けてくれないと思ってしまう」というのはよくあることなので、そこを整理すれば良いのかなと思った。だが、DMなどを使って話を聞いていると何かがおかしい。

そこでわかったのはこの人が「情報の刈り込みができない」ということだった。話をしているうちにいろいろな思いが溢れてきて「全部伝えないといけない」と思ってしまうようである。その中に「逮捕された」とか「強制入院させられた」というワードが出てきた。投薬経験もあるようで「眠らされたと」いうこともあるようだった。それが「医療過誤」という話につながり、だから訴えたいとなる。

ここで病気の名前を書かない理由はいくつかある。まず、精神科医ではないので適切な診断名がつけられない。どこからが正常でどこからが正常ではないという境目がない。この人もいろいろな人からそれを指摘されて「自分は違う」と考えているようである。さらに、大した診断もしないで適当に病名だけつけて薬漬け二するということも行われているようである。本人は納得しないままに薬だけが増えてゆくということになる。

病気が重いか薬の量が多いと作業はできないと思うのだが、ブログサービスやTwitterに登録して自分の情報を発信することもできているようだ。さらに、政治家のところにいって意見をいうこと自体はできているようである。だが、言っていることがまとまらず終わりもないので最初は親切のつもりで聞いてあげていても途中で嫌になってしまう人が多いのではないかと思う。

こうした人の話を聞くのにはスキルが必要だ。だが、突然こういう体験をすると何をしていいのかわからない。そこで市役所の福祉の窓口に相談をしてみた。職員は「福祉メニューは紹介できる」という。だが、プライバシーの関係から家族でもなく資格もないという人は大したサポートはできないようである。

そういう意味では、こういう経験をしたときに最初に聞かなければならないことは「サポートできる家族がいるのか」ということと「すでに福祉サービスに乗っているのか」ということのようだった。そこで家族について聞いてみたのだが、失踪したとか見捨てられたとか、家がなくなったなどと辻褄があわなくなったので、市役所の人とコンタクトできているのですかと聞き変えてみた。すると「市役所(この時点ではどこの市役所なのかがわからない)の人は気に入らないからお付き合いしていない」と始まり、市職員にいかにひどい目に合わせられたのかという話が始まった。

この拡散がこの人の特徴なのだろうと思った。誰でもいろいろな経験をすると良い可能性や悪い可能性を思い浮かべる。普通の人であれば対話を通じて情報を刈り込んで行き最終的にもっとも高い可能性を残す。これが他人の推論と合致してはじめて「現実」だと認識されるわけである。だが、刈り込みがないと突拍子もない可能性について言及してしまい、それが他人の推論と合致しないので結果的に「幻想」などと言われるのかもしれないと思った。

ここまでで「聞いてもらえていない」とか「適当にあしらわれている」という感じを与えずに思考の拡散を防ぐためには、必要なことを「はい」か「いいえ」で答えられる形式で聞くべきだということがわかった。ここで「優しい私」をアピールしようとするとかえって曖昧な態度になってしまい相手を怒らせるか、手応えがないといってやめてしまう人もいるのではないかと思う。

Twitter経由ということもあり、聞けたのは「生活保護は今でも受けているか」ということのみだった。生活保護を受けていれば(本人は市役所とコンタクトがないと主張していても)少なくとも市役所の福祉網には捕捉されているということがわかる。

ただ、家族との連絡は取れていないようなので、不安は大きいだろうなと思った。さらにいろいろなところに助けを求めるうちに悪い人に騙されてもいるようだった。どうやらこういう人を騙して保護費を中抜きする人がいるようなのだ。

よく生活保護とか精神的に不安定であるということに対して概念的な話を聞くのだが、いざ自分が接したときにどうしていいかわからないものだなと思った。精神的な介助だけでなく例えば車椅子の介助であったとしてもある程度の知識がないままでは手出しができない。また「いい人」をアピールしたいとか生きがいを見つけたいというような動機で手を出すと続かないだろうと思う。話を聞いてもそれが賞賛してもらえることはないからだ。ただ、今回の場合は相手は納得したのか「話を聞いてくれてありがとう」と言ってもらえた。「大して役に立たなかったな」とは思われたかもしれないのだが、まあ怒られるよりはマシといったところではないかと思う。

「誰も助けてくれない」という感覚は自分で経験しないと苦しいものなので、なんとかしたくなってしまうのだが、やはり社会的な仕組みがないとサポートは難しいと思った。また、よく他人に勝手に病名をつけて排除しようとする人がいるが、世の中には過酷な体験をしている人もいるのだろうから、それは本来控えるべきだし咎められるべきでもあると思う。

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私利私欲と公益性の間で

先日、投げ銭をいただいた。投げ銭システムを導入した時「この人もお金が欲しいのか」と見られるのではないかとちょっと躊躇した。また、いただいたらいただいたでお礼をすべきかなどと迷っている。今のところこちらから連絡はしないでお気持ちだけいただこうと思っているのだが、これはおいおい考えることにしたいと思う。

「お金が欲しい」と思われて何が悪いのかということを改めて考えてみると「無私・公平」とか「私利・私欲」という言葉にある印象があることがわかる。どちらかというとお金をもらうことは悪いことで、お金とは関係なしに正義を追求するのは良いことだと感じられる。これが正しいのかどうかについての答えはすぐに出ないので、疑問を持ったまま先に進みたい。

今回、投げ銭システムについて書こうと思ったのは、一緒にコメントをいただいたからである。PayPalのコメントは130文字近くしか入らないらしいのだが最後の方に「やるせない気持ちに……」と書いてあったので、少し申し訳ないと思った。扱っている様々な問題について解決策が見つからないことでがっかりすることは少ないのだが、読んでいる人がそう思っているとしたらそれは少し申し訳ない。

解決策をあまり書かないのには理由がある。

もともと、このブログを書く前に「世の中はこうなるべきだ」というようなことを書いたことがあるのだがその文章は全く読まれなかった。そこでそれをやめて読んだ本のことを書き始めたのがこちらのブログのはじまりになっている。

その時には、日本人は個人の意見を受け入れないから影響力のない個人の解決策は読まれないのだと思っていた。日本人にとっては影響力のある組織に属している人とか、名前のある人の意見を好む傾向がある。その他に外国人を連れて行って「アメリカでは」とか「スウェーデンでは」などというと話を聞いてくれる人もおり、実際にそういうアドバイスがお金になることもある。「東大を出た人の意見」や「MIT卒業の人の意見」などというものもあり、意見よりも人間関係などの背後にある文脈を見られることが多い。

影響力を保つためにページビューを集めれば良いのだろうかと思ったのだが、それも違うようだ。ページビューを集めること自体は実はそれほど難しくはない。最も簡単なのは人格に注目することである。誰かを批評するか同調するのが一番簡単だ。だが、それは個人の意見ではなく誰かの意見だ。そしてその誰かの意見も別の人の意見だったりする。玉ねぎの皮を剥くようにどこまでも個人の意見というものが存在しないし、有名人がメンションしたコンテンツは2日程度で読まれなくなる。ページビューを集めてある程度のプレゼンスを維持するのも重要なので、時々安倍政権の悪口を書いたりもするが、問題の解決にはあまり役に立たないし、ブランド構築にも役に立たない。

しかし、解決策を書かないからといって、解決策が見つからないというわけではない。

例えば森友学園を巡る文章改竄事件について見ていると、その動機はさておき、改竄自体は村落の際で起きていることがわかる。問題を解決しようと思えば関係者をひとところに集めて、実際に何が起きているのかを聞けば良いはずだ。そこで本来力を発揮するはずなのが情報ハブである官邸である。官邸は省庁間の調整機能なので中立な立場でものを見ることができるはずだからである。

ご存知のように問題になっているのは実は官邸そのものである。司令塔であるという役割を放棄してプレイヤーになっている。これは日本人が村落の共同体として社会を認識し、リーダーとは何かということを教育されてこなかったからだと考えられる。つまり、官邸も村になってしまっており、力の強い村として近隣を押さえつけているのである。

一方で、野党も安倍政権打倒に夢中になっている。こちらは安倍村を潰そうとしているまとまりに欠ける村々の集まりである。だから安倍村は影響のある村に命じて「情報を出さないように」と指令して問題は隠蔽されつつある。

だから、問題を解決するためには野党が「民主主義にとって記録は大切なので、政権に関する議論は棚上げにいたします」と言ってしまえばよいことになる。すると国民は「野党は本当に日本のことを考えているのだろうな」と思うだろう。何が起きているのかがわからなくなってしまえば民主主義国家としての体裁をなさなくなってしまう。政府が恣意的に法律を運用する国に投資をする人はいないだろうから、経済的な打撃も大きい。

だがこんなことは起こりそうにない。それで「日本終了」かとか「絶望だ」などと思ったりもするわけだが、自分の意見をあえて持たないことであることに気がつく。つまり、与党は問題を隠すことで問題を大きくしており、野党は政権奪取の口実に森友問題を利用しようとすることで積極的に「問題を解決しないこと」を選んでいる。つまり、問題を解決できないわけではなく、積極的に解決しない道を選んでいるということになる。そして、政治に関心がある人はたいていどちらかの立場で積極的に問題を解決しないことに加担している。

もし、その気になったなら政権選択という村同士の小競り合いをやめて問題を解決するためのプロジェクトチームを作れば良い。それがリーダーシップというものである。だが、積極的に解決しない道を選んでいるのだから、それも民主主義というものだということになるだろう。

人間が党派性に夢中になる気持ちもよくわかる。例えばマクドナルドのwi-fiの問題について調べている時にカスタマーサポートや店長と話していると「彼らはこんな簡単な問題」についてなぜ非を認めないのかという気分になる。逃げると追いかけたくなるのだ。だが、よく考えてみるとwi-fiがつながらないで困るのは彼らであって、自分は別の店に行けば良いだけだ。だが、その問題に直面しているとつい「相手に自分の正しさを認めさせたい」という気持ちになる。

日本人が個人の意見を聞かない理由の一つには、相手に支配されたくないという気持ちが強くあるからではないかと思う。強い党派対立の世界を生きているので、相手の言うことを一度受け入れてしまうともっと無理難題を聞かなければならないのではないかと思うのだろう。また、個人が情報を受け取っても組織の説得という問題が出てくる。日本人はリーダーシップを嫌うので問題意識を持つことすら拒否するということになる。だから、問題をなかったことにする方が楽なのだ。だが、このような気持ちを持てば持つほど「隠蔽している」と怒り出す人が出てきて炎上案件が増える。でもやりたくてやっているのだから、それも通らなければならない道なのだと認めるしかない。

公益を追求しているつもりで自分だけの正義を押し付けることもあれば、逆に自分が面白いと思うことが他人の役に立つこともある。また、解決策を探そうとすると問題そのものが見えなくなることもあれば、答えを出さないと決めると答えが見えてくることもある。この辺りの頃合いは試行錯誤しながら見つけて行くしかないのかなと思う。

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問題は村と村の間にある


右側にあるシステム経由で投げ銭をいただきました。テスト的に導入したので入金があるとはおもわず、お礼をどうするか、どう報告するか、ご本人にお礼を出すかなどの詳細を考えていませんでした。毎日あまりあてもなく書いているのでこうした励ましはとてもありがたいです。なお文字数に制限がありメッセージは137文字で切れるようです。いろいろ行き届かず申しわけありません。


貴乃花親方の問題を見ながら、日本の村落共同体について観察している。小さな村落の集まりである日本社会では村と村は緊張関係にある。だから、村を超えた協力は起こらないというような話になりつつある。逆に緊張関係が破られてしまい一つ強い村ができると「ガン化して暴走する」ということだ。村構造には利点もあるが欠点も多い。しかし、日本人は村に慣れ過ぎておりそれ以外の社会統治の仕組みを村統治に置き換えてしまう傾向があるようだ。

観察の過程でわかったのは、すべての問題は個人に落とし込まれるということだ。問題を指摘して改革を起こそうとした人、組織の限界を超えて成長しようとした人などはいじめられて貶められることになる。その時に問題ではなく人格が攻撃されるのが常だ。

今回は貴乃花親方問題について考えたのだが、もともとのきっかけは「日馬富士暴行問題」だった。このブログのタグは今でも日馬富士暴行問題となっている。解決されるべき問題は暴力の根絶だったのだが、いつのまにか部屋の長である親方同士の人格攻撃に矮小化されて鎮圧されてしまった。その過程で日馬富士暴行問題を起こした構造上の問題は解決されることなく、八角理事長が再選されたことで「禊がすんだ」ことになった。

だが、同じような問題はいくらでも見つかる。例えば伊調馨選手の問題は、才能があり国民栄誉賞まで取った伊調馨選手が成長を求めた結果排除されかけたという問題である。大切に扱えばまだ金メダルが取れたかもしれないという問題の他に、成果をあげたのにさらなる成長を目指した結果組織に反逆して潰されかけたということになる。このため「あの人は選手なのか」と存在を無視されかけている。この裏には至学館という村が女子レスリングを支配しているという問題があった。日本人は個人は村の限界を超えて成長してはいけないという掟の中で過ごしており、もし限界に触れてしまうと追放の憂き目にあうということである。フジテレビの取材によると練習場所を提供する大学は極めて少ないそうだが、これは栄監督ら至学館派閥が女子レスリング強化選手の許認可権を握っているので大学側が「忖度しているのだ」という観測がある。この問題がうやむやになれば、成長を目指す日本の女子レスリング選手は海外に拠点を移さざるをえないかもしれない。

またマクドナルドでwi-fiがうまく動作しない問題の裏にはフランチャイズ店と本部がお互いに問題を押し付け合ってあうという事情があった。単にwi-fiをつなぐという問題を解決しようとするとなぜかマクドナルドのフランチャイズ店が本部に不信を持っているという事情がわかってしまうのだが、wi-fiを接続するというコンビニエンスストアでもできているような簡単な問題は解決しない。これは彼らが顧客サービスなどという「どうでも良い問題」には興味がなく、普段からの人間か安慶に夢中になっているからである。

このことから森友学園問題が解決しない理由もわかる。官邸(その実態は特定の経済産業省の官僚らしいのだが)が財務省に干渉することにより内部で問題が処理できなくなった。加えて迫田さんから佐川さんへの引き継ぎが行われてしまい問題の隠蔽に失敗したのだろう。つまりこれは村を超えて起きた問題なのだと言える。問題が大きくなっても安倍官邸や財務省官房(つまり麻生大臣のことだ)は問題を他人事だと考えている。さらに本省と地方組織という問題もある。問題の全容はさっぱりわからないのだが、ニュースを追っていると「誰が悪い」という指の差し合いが始まるので有権者は組織図に詳しくなってしまう。だが組織図は問題を解決しない。安倍首相はこれを財務省が勝手に解決すべき問題だと認識しているし、自民党の議員たちも「安倍政権を変えれば自民党に実害は及ばないかもしれない」などと考える。

問題はいつも村の外にあると誰もが認識しているのだが、実は村と村の際に落ちているということになる。

相撲、女子レスリング、マクドナルドの問題は村と村の争いごとだと考えられる。日本人はそもそも村の争いが大好きなので人間関係や組織図に注目する。ここで誰もが忘れているのは「競争力の低下」という結果だ。村の中の争いに夢中になると外が見えなくなる。例えば、暴力が蔓延している相撲に弟子が集まるはずはないのだから中期的に相撲は弟子を集められなくなるだろう。レスリングは才能のある選手を潰してしまうのだから国際競争に勝てなくなるはずだ。そしてマクドナルドの客はスターバックスやコンビニのイートインスペースへと流れる。内部闘争に夢中になり個人の人格攻撃を繰り返す裏では競争力の低下が起こるということになる。絶対にそうなる稼働かはわからないのだが、どの小競り合いを見ていても競争力低下の結果であり新しい競争力低下の原因になっている。

となると森友問題も実は透明性や法治主義の問題ではないということがわかる。内部で問題が解決できない組織を放置すると国際競争力が低下するのである。多分北朝鮮問題に日本が関与できないという問題は偶然起こったことではないのではないだろうか。同時に、安倍政権を変えたところで日本の競争力は高まらないかもしれない。もちろん、放置することはできないが、かといって変えただけでも問題は解決しないだろう。

問題の原因は実は人にあるわけではなく、村と村の際にあるからだ。

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マクドナルドのwi-fiはなぜつながらないのか

千葉市のマクドナルドでwi-fiが接続できないという経験をした。近隣の三店舗あるのだがそのうち二店舗がアウトだった。たまたまなのかもしれないのだが、構造的な問題があるようだ。大げさに聞こえるかもしれないのだが、森友学園問題で安倍政権に感じる「もやもや」との共通点も多い。キーワードになるにはまたしても「村落」である。マクドナルドのような外資系の会社にも村はある。




日本国民は政府のユーザーだ。疑問への答えが返って来ればそれ以上は追求しないはずである。森友学園の問題も説明さえしてもらえればいい。しかし、現実はどうだろうか。財務省の内部のセクションの名前や担当者の名前はたくさん出てくるものの、一向に「森友学園へなぜ割安の土地が払い下げられたのか」という問題についての説明はない。そのうち「わざとだろう」ということになり問題はエスカレートしてゆく。

同じようにマクドナルドのwi-fiはつながらずそれについて説明を求めても明快な返事はない。そして同じようにマクドナルドの内部で何が起きているのかということに詳しくなってしまうのである。具体的にはフランチャイズが本部からwi-fi設備を押し付けられているのである。

どうしてもつなぎたい場合にはいったん電波を掴んでから電波の強度チェックをするといいと思う。二階の席でギリギリでここから外れると電波が途切れてしまった。全ての席で使えるようにはなっていないのだ。

近辺の3つのマクドナルドはどれもフランチャイズだ、人の出入りが多いショッピングモールにあるマクドナルドでは問題なくwi-f-接続ができたのだが他に店舗ではダメだった。

最初の店舗ではそういうものなんだろうなと思いカスタマーサポートの技術担当にクレームを入れて終わりになった。「本部に伝えます」とのことだった。しかし二店目ではもっとひどい問題が起きた。

お店のルーターはカウンターに置いてあるのだが「ルーターは二階の店長の部屋にある」し「お客様に勝手に対応してもらうことになっています」と言われた。実はルーターはカウンターの下にあるのでこれは嘘だということがわかっていた。そこでカスタマーサポートに連絡した。直接話してほしいというと、まず従業員同士で電話の押し付け合いが始まった。チームリーダーみたいな人があまり詳しくない人に電話を押し付けていた。そして押し付けられた人は電話を取ったままで延々とカスタマーサポートの人と話しはじめた。ギロッと睨まれたので多分恨まれているんだろうなあと思ったのだが、こちらもだんだんイライラしてきた。お客さんの私物の電話で延々と話し続けていたからだ。

結局、休憩していたというマネージャークラスの「SHIMIZUさん」が飛んできた。お客さん用の接続マニュアルがありルーターは下にありますという。SHIMIZUさんはマニュアルの存在と初期対応を知っていたのだが、その下の人たちがいうことを聞かないのだろうと思った。

この従業員のやる気のなさの原因は程なくしてわかった。店長が連絡してきて「お店はハンバーガーを売っているだけであって、wi-fiを提供しているわけではない」と言い放ったのである。正直な感想だとは思うのだが、それをお客さんに直接いうんだと思った。さらに「こうなったら設備の電源を切って、ステッカーも剥がして、このwi-fiはつながりませんという但し書きを店内に置く」と言い始めた。

だが、店長にも言い分があった。実はwi-fiの費用はフランチャイズ持ちなのだそうだ。本部に言われるがままに店を改装しパソコンが使える電源を配備した上で、ソフトバックに月々の金を払っているのだという。だが、マクドナルドは何の情報も渡さずあとは勝手にやってくれと言わんばかりだというのである。

さらに店長は「お前は前にもクレームを入れてきただろう、あの時にも本部に連絡したが、機械には問題がないと言われたぞ」と凄んでくる。つまりいちゃもんをつけていると思われたらしい。確かに別店舗についてのクレーム入れたがこの店を利用するのは初めてだった。前にも本部にクレームを入れて適当にあしらわれたということと、この店がwi-fiルーターを持て余しているということはわかる。さらにルーターを再起動してもらったときにSHIMIZUさんにIPアドレスが取れていなかったが取れましたよねと説明してあるのだが、多分誰も理解していないのだろうなと思った。ルーターは再起動しないということなので問題は長い間(もしかしたら1日以上)放置されていたのかもしれない。

だが店長はテクニカルサポートに対しても怒っていて「接続したままで文句を言われなくなるまで」設備は提供しないと客に向かって宣言したのである。具体的には、ちゃんとした技術的案内があるまで設備の提供を中止するのだという。

店長は本部への不満をぶちまけたのち電話を切った。そこでマクドナルドに電話をして「企業の公式見解を求めます」と宣言した。マクドナルドのカスタマーサポートは謝罪はしてくれるが、決して原因究明はしない。本部にレポートはあげるかもしれないがその結果をお客さんにフィードバックする権限はないのである。だから、問題は本部の人が認識するまで放置される。前回の安全偽装の問題でわかったのは、本部の人はネットやテレビで炎上するまで問題を放置するということなのだが、多分この問題も同じように放置されるのだろう。業績は上向いているとはいえ企業体質は変わってしないのだ。

サポートのたかみさんという女性は国会対応に置ける太田理財局長のような役割を担っている。つまり、謝罪はしてもよいが抜本的な改革は約束してはいけないし、顧客に報告する権限もない。それはマクドナルドでは本部と店側の問題だ。太田理財局長は行政府と議会にかわって問題解決を約束してはいけないのだ。

だが、本部も議会も責任はとらないのだから、謝りつつも具体的な約束は何もしないというのが「リスク管理」になってしまう。たかみさんの話を聞いていて「国会答弁みたいだな」と思ったのだが、多分日本中でこの「太田話法」が広がっているのだろう。

マクドナルドでwi-fiが使えなくても特に問題はない。今回は返金してくれた上にポテトのサービス券もくれたのでコールセンターと会話した無駄な時間以外に実害はない。それに、居心地のいい空間が必要ならスターバックスにゆけばよい。不思議なことに同じ機材を使ってもスターバックスやコンビニで接続できないという経験はない。

しかし国の場合には別の国に移住するわけにも行かない。そして相手が逃げようとしていると思うと自動的に追求したくなってしまう。野党が「もりかけばかりに集中する」気持ちがよくわかった。明らかな問題があるのに権限がない現場の人が決して認めようとせず、怪訝がある人たちは決して責任をとろうとしない。するとついつい追いかけてしまうのである。

マクドナルドはwi-fiがまともに扱えない理由はいくつかある。まずは古い体質のフランチャイズの人たちが抵抗していて新しいサービスを覚えようとしない。彼らには拒否権がないのでいやいや設備は導入するが決して納得はしていない。そしてその不満を平気で顧客にぶつけてくる。従業員は「そんなお金はもらっていないから」と言って拒否し、店長は「本部が悪い」と罵る。しかし考えてみればwi-fi機器の仕組みはそれほど難しいものではないし、定期的に状態をチェックすべきだ。しかし、彼らはそれをやらない。

だが、こうした問題は認識されることがない。なぜならばwi-fi環境についての責任者がいないからである。本部は売り上げをあげるのが仕事であり、フランチャーズはハンバーガーを焼くのが仕事だ。そしてサポートセンターはお客さんに謝って何もしないのが仕事になっている。テクニカルサポートはそんな中で「端末を再起動して、ルーターの近くに座って、ダメなら諦めてください」というのが仕事になっている。つまり、それぞれのムラができているということだ。ここに足りないのは新しい技術なりサービスの導入をするために責任と権限を与えられた組織横断型のプロジェクトマネージャーだが、日本的な村落共同体には村の領域を超えたリーダーは生まれない。だからこの問題は村落の構造問題なのである。

この経験から、なぜ私たちが財務省の中の組織に詳しくなってゆくのかがわかる。日本人は「問題が起きた責任」は自分の村の外にあると考えるからである。実際には協力して対処しあえないことが問題なのだが、日本人は決して他人とは協力しない。だから村人が指ししめす通りに歩いていると「村を一周したね」ということになって終わる。もしくは、不満が爆発し「リーダーの首を挿げ替えろ」ということになるのだろう。

今回の森友学園問題の問題では「安倍やめろ」コールが起きている。もしかしたら安倍首相はやめてしまうかもしれないが問題そのものは残るだろう。さらに悪いことに問題の記憶が政権ごと消えてしまうので、また一からやり直しになってしまうのだ。

次回のエントリーではなぜ問題が解決に向かわないのかを貴乃花親方の事例をあげて説明したい。これも村落が絡んでいる。

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