このところ村落共同体とその問題について考えている。だが、いろいろな事象を見ているだけでは統一的な視点が得られない。
気候変動について調べていたところ、牧畜文化が農耕文化に流入することで「統一的な視点」が持ち込まれたというような話が見つかった。論文の引用部なのでこの「統一的な視点」が何なのかはわからない。
気候変動 と文明の盛衰というPDFファイルに次のような一節がある。
紀元前1000年 頃の地 中海地域や東 アジア地域, ヨーロッパ北部における寒冷 ・乾燥化気候(T3) は,気候難民 としての大規模な民族移動を引き起こし(鈴 木,1978,1990;安 田,1993),定住農耕共同体であった都市生活者 に遊牧民が入り交 じることによって,農耕民の呪術的・儀礼的思惟が遊牧民 の合理的・統一的思索 に変革し,思想が合理化されて,紀 元 前8世 紀から紀元前4世 紀 にかけて高度な宗教や哲学を誕生 させた ことから,心の内部,すなわち精神の改革 を「精神革命」と呼 んでい る(伊東,1990,1996)。
日本人が未だに「呪術的・儀礼的思惟」を持っているとは思わないが、人の移動が起こることで精神的な変容が引き起こされるという視点は面白い。日本に置き換えると、戦後民主主義の受容によって人権意識が持ち込まれたことが文化接触にあたるだろう。
人権意識の基礎になっているのはキリスト教なのだが、これももともと牧畜文化から生まれている。こうした文明の変容は段階的に何回か進んだということがいえるのかもしれない。この精神革命は伊東俊太郎という人の本の引用のようだが次のようなウェブサイトが見つかった。
伊東俊太郎氏は、このときに人類の精神史が始まったとします。その内容を『比較文明 1』(比較文明学会誌 1985年 p12)のなかで次のように整理されています。
- (人類が)それ以前の神話的世界を克服して合理的思索に徹し
- 日常的個別的なものを超えた普遍的なものを志向し(ギリシャのイデア、インドのダルマ、中国の道(タオ)など)
- そうした究極的原理からこの世界全体を統一的に把握し
- そこにおいて人間の生き方を見定めようとする
これまで人権意識や合理的なルール作りを拒絶する日本的な村落意識を日本固有のものとみなしていたのだが、文明の中で起こりうる変容の過程の一つだと考えるとわかりやすい。ただ、伊東さんが指摘するように、合理的な考え方が抵抗なく受け入れられたのかということはよくわからない。
そうなると、背景の統一的な視点を受け入れない人たちがどのような考え方を持つのかということが気になる。日本人は普段の生活の中で政治について語ることはないのでよくわからない。
そんな中でQuoraで面白い質問を見つけた。「私はJKです」と自称する人が次のような質問をしている。犯罪者を特定する遺伝子があるのだとすれば該当者をあらかじめ罰してしまえば良いのではないかというのである。ある回答者が「かつてあったこのような考え方はすでに否定されている」という論を書いておりそれに付け足すことはあまりなさそうだ。だが、彼女(と自称している人)はなぜこのように思うようになったのだろうか。
この質問には「健全な社会」という揺るぎのない前提があり、犯罪という穢れを取り除かない限り安心して暮らせないという思い込みにつながっている。そしてそれが「犯罪に対する答えは刑罰と排斥である」という観念に結びついている。つまり普通でない穢れはウィルスのように罰せられた上に取り除かれなければ全体が病気になると考えているようだ。
彼女が持っている世界観では、異物を取り除いてしまえば再び穢れはなくなり普通の状態が戻ってくることになっている。これを非合理的だとか人権意識を理解していないと非難することはできるのだが、こうした呪術的な考え方を持っている人は実は少なくないかもしれない。
この呪術的な考え方には問題がある。人間はそもそもいい面も悪い面も持っているのだから問題が起こるたびに取り除いてしまうとそもそもの健全な我々という存在が削れてなくなってしまう。さらに、健全だった人がなんらかの形でそうではない状態に置かれた時に救済がなくなってしまう。普通でなくなったということを披瀝してしまうと「切り取られてしまう可能性がある」からである。
例えば「レイプされた女性は普通でなくなったのだから社会から切り離されても構わない」と考えるのも「普通でない患部は切り離してしまえ」ということだし「レイプされた女性がそれを言い出せない」というのは自分はもう普通でないのだから何を言われても構わないということになる。何の落ち度もないが「普通でない状態になったのだから、自分にも落ち度があったのではないか」と考えてしまうのだ。これをいじめに置き換えても同じようなことが言える。いじめられた人は普通ではないのだから切り取ってしまえという人もいるだろうし、いじめられたのは自分に落ち度があるからだと考える当事者もいる。
この健全な状態を日本では「普通」と呼んでいる。日本人は普通にしていれば問題は起こらないと考えるのだ。
この普通でない人を切り離してしまえという問題意識の向こうには普通でなくなった人は罰しても良いという了解があるようだ。特別支援学級で育った子の知られざる本音という記事には特別支援学級で育った子供が普通学級の子供からいじめられたという話が出てくる。
「たとえば、小2の男の子3人組から『特別支援学級のくせに、廊下歩いてんじゃねえや、気持ち悪い』と言われたり。図書室に行ったら、年上の小5の女の子に『気持ち悪っ』とか言われたこともありましたね。やっぱり、けっこうグサッとは来ました。もちろん、普通学級の誰もがいつも、いやな態度をとるわけじゃないんですけれど。でも、普通クラスの子の嫌な面は、たくさん見てきました」
このような意識が生まれるのは普通学級での学習を効率的に進めるために特殊な子供を切り離すという了解が先生と生徒の間にあるからだろう。
さらに学校は規範意識を失いつつあるようだ。体罰がなくなった学校で却っていじめが増えているが体罰を禁止された先生たちはもう何もしてくれないと訴える記事を見つけた。最後の文章はどきりとさせられる。この抑止力というのは先生の暴力(体罰)のことだが、これを核兵器に置き換えると現在の日本が置かれている自衛隊と核兵器の議論にそっくりである。
抑止力をなくした結果、ただの無法地帯になった。それは今学校で起きていることですが、日本全体、いや世界中に広がるのも時間の問題ではないでしょうか。先代たちの多大な努力によって私たちの健やかな生活は壊されました。
どうしてこうなってしまったのかはわからない。民主主義を知っている人から見ると、脅かされることによってしか法を守れないのであればそれは奴隷と同じような精神状態に思える。日本の学生たちは「社会を統一的に捉える規範がない」という社会を生きているといえる。そうなると「普通に止まって普通の人たちを排斥する」ことで求心力を保つか、暴力を使って全体を抑止するべきだというのが実感を伴った政治的意見担ってしまうのだということになる。
この考え方に基づくと、多数決によって作られる民主主義社会は誰から脅かされなければ無法地帯になるということになってしまうので、アメリカの軍隊を駐留させて日本を押さえつけなければ何をしでかすかわからないということになる。
これまでの村落の議論では、日本は村落から民主主義的な人権社会への移行に失敗したので、また村落に戻るという選択肢もあるというような議論を展開していた。これがいかに現実を知らない議論だったのかということがわかる。実際には戻れる村落はもうないのかもしれない。
中高年に属する人がこのように考えることができるのは、忖度的な共同体を具体的にイメージできるからである。先生はある程度尊敬されており、終身雇用についても具体的なイメージを持っている。¥
しかし日本人は背後にある統一理論を理解しないままで制度だけを取り入れてきてしまったために村落社会にも戻れず、かといってこれ以上民主主義と人権を基とする社会改革も受け入れられないというところにきているのかもしれない。
高校生や大学生はその最前線にいる。そこで「普通じゃない人は排斥しても構わない」とか「最後の望みは先生の暴力なのだ」などと思うことになる。こうした考え方は自民党の議員から披瀝される忌まわしい人権否定の意見とそっくりだ。もちろん選択的に記事を追っているのでこのような悪い記事ばかりが目についているのだが、こうした一連の「実感」を集めるうちに、事態は我々が考える以上に悪化しているのかもしれないと思った。