日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。
これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。
このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。
まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。
バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。
しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。
この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。
この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。
日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。
前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。
日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。
もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。
この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。
このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。
「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。
であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。
もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。
そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。
ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。
現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。