日本人が政治的議論をしないしできないのはなぜか – 文化が衝突するとき

日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。

これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。

このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。

まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。

バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。

しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。

この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。

この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。

日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。

前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。

日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。

もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。

この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。

このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。

「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。

であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。

もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。

そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。

ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。

現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。

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日大アメフト部と安倍政権の意外な類似性

この文章を書いた当時、加害者になった選手は内田監督に見出されたのではないかと書いたのだが、実際には内田さんが見い出した選手だったそうだ。


日大アメフト部について調べている。今回問題にしたいのは、親密で居心地が良いはずの日本型の村落がどうしてこのようになるのかという点なのだが、完全な答えは出ないかもしれない。

この文章を書いている途中で内田監督は辞任を表明したのだが、実権を手放すつもりはないと思われる。実際に「弁解はしない」という理由付けで説明を拒否した上に謝罪相手の学校の名前を「かんさい」と読み間違えており、相手に対するリスペクトどころか関心もないことがうかがえる。

これは日本人が集団による競争のみに熱中し、相手を「集団」ではなく、単なる倒すべき対象物としてしかみないからだろう。日本人は競争相手は人間ではないと考えるので「何をしても良い」と思ってしまう。内田監督の場合リスクを負うのは選手なので倫理のなさがそのまま表出したものと思われる。戦前の陸軍が勝つために若者を人間魚雷や特攻で使い潰したのと同じメンタリティである。日本人の表向きの調和を好む姿勢を重視する姿勢と集団による過度の競争に過度な乖離があり、外国人から見た場合「怖い」とか「信頼できない」と受け取られることも多い。

内田監督は反省をしていないようなので、日大の倫理のなさはそのまま温存された上で地下化することが予想される。選手がこれに従う必要はないためにチームとブランドの崩壊は避けられないのではないだろうか。

日本型組織に合致したボトムアップ型の組織がある種の病変を伴った歪んだトップダウンによって破壊されるのが「強いリーダーシップ」を目指す安倍政権と似ている。そして結果もそっくりである。破綻した結果ボトムを切り離して逃げ切ろうとして、外からバッシングされる。そして、何が起きているのかということを把握できていないまま、形式的に謝罪して内側に閉じこもってしまうのである。

しかし、外形が似ているからといって、そこに共通点を求めるのはいくらなんでもこじつけだなと思っていた。しかし、調べて見るうちに「政権交代」というキーワードが浮かんできた。内田監督はもともと名将と呼ばれた監督の元で働いていたのだが監督になった時にはすでに「根性論」による指導は時代遅れになっていたものとされている。結局、立て直しができないままで退任することになる。ここで「自分についてこない選手」にある種の歪んだ感情を持ったのではないかと予想される。

これが安倍首相に似ている。安倍首相は政治的リーダーとして官僚をコントロールした経験はなかったが、小泉政権のサプライズ人事で幹事長に抜擢されて首相候補の一人になった。だが実際にはトップマネージメントの経験がなく政府を掌握できなかった結果「お腹が痛くなった」として政権を放り投げてしまった。

この二人には誰かから抜擢されたという共通点の他に「仲間に優しい」という共通点がある。ボスにも忠誠心を尽くすタイプなのだろう。「かわいがられて偉くなる」タイプである。だが、これは裏返せば他人にも忠誠心を要求するということになる。

いくつかの媒体が執拗に田中理事長体制について攻撃している。途中で恐ろしくなったので引用はしないでおくのだが、ざっと読んだだけで「暴力団と関係がある」とか「金儲け主義で長期政権の歪みが出ている」というような記事が見つかった。

スポーツによる名声の獲得はこの「経営重視(あるいは金儲け主義)」の姿勢の一環である。日大は新しくスポーツ科学部という学部を新設したようだ。これはスポーツマネジメントを学ぶ学科ではなくトップアスリートを育て上げる学部のようである。なぜこのような学部を作ったのかはよくわからないが、熾烈な学校間の志望者獲得競争の結果なのかもしれない。スポーツで評判を取ればテレビでの露出が増えて志望者が伸びる。偏差値が上がるという評価の他にも、受験料が稼げるという実利的な理由もあるのだろう。つまり、日大にとってアメフトは「人格形成の一環」などという生ぬるいものではなく経営のための道具かもしれないのだ。

ここで出てくる問題は生徒との乖離である。プロのアメフト選手になれる人は少数だろうから、多くの人は日大アメフト部ブランドを求めてやってくるのだろう。しかし、このマインドでは「絶対に優勝しなければならない」という一生懸命さは生まれそうにない。

実際にはなぜ根性論が通じなくなったのかという点はスポーツライターたちが分析する必要があると思うが、ここでは仮説としてそのまま進めたい。

同じように内田体制も、3年ぶりに関東大会で優勝し、全国でも27年ぶりの優勝という形で成功を収めてしまう。これは前期の監督が成果をあげられなかったことを意味している。その原動力になったのは「根性でのし上がった一年生のスタープレイヤー」である。一年生のクオーターバック(内田監督が抜擢したのだろう)が活躍したという報道がある。この選手は勉強ができずに公立高校に移り活躍できなかったとされている。日大が浪花節日本一!大阪の公立高出身・林大、史上初1年生2冠/アメフット」という記事によると名監督の薫陶を受けたチームが再び栄光を手にしたと手放しで賞賛されている。今はほとんどのメディアがバッシングを繰り広げているのだが、当時は「恩に報いる」とか「浪花節」といったウエットで感情的な礼賛が多く出ていたことがわかる。このウエットな気風の裏には粘着質ないじめもあったことになるのだが、それは「成功」という結果の元に全く見過ごされていた。

ただこのウエットなチーム意識は村落の外では受け入れられそうにない。今回、日大のアメフト部からは大量の退部者が出そうなのだが彼らが心配しているのは就職活動だ。今回のように反倫理的な命令を無批判にこなしてしまうような特攻選手を出したチームで教育を受けた人たちを採用できないという企業も増えてくるだろう。さらに「なんでもありで勝ちにこだわる日本大学とは試合ができない」と言っているチームも多い。

これは安倍政権と似ている。安倍首相は政権から追い落とされたあと「なぜ自分は政権を手放すに至ったのか」を内省したとされている。そこで思い立ったのは「自分は調和型であり強引さが足りなかったので離反を招いた」という結論だったのではないだろうか。そこで内閣に人事権を集約して官邸主導の政治を行った。安倍政権は当初株価の上昇という形で成功してしまう。だが、その「力強さ」は二つの副作用を招いた。通産省からきた官邸組の強権的な他省庁への介入とそれに伴う資料の隠蔽や廃棄である。さらにその強硬な姿勢は東アジアでも嫌われている。日大のチームにある、コーチ、一部のスター選手、監督という構造は、安倍政権の官邸に当たる。この官邸に反発している内部が文書をリークする官僚であり、対外試合をボイコットするチームに似ているのが近隣諸外国である。

日本型の親密に否定された「トラウマ」が持ち込まれると自浄作用が働かない。日本型組織は内部では信頼ベースで対立回避のコミュニケーションスタイルをとるので、こうした「力強いリーダーシップ」を排除できない。かといってリーダーとチームは目標を共有していないので次第に亀裂が明らかになり、最終的に破綻してしまうのである。

日大アメフト部は内田体制が「院政」を行うだろうからさらに病化が進むことになる。これを内部から自浄することはできないので、ゆっくりとあるいは急速に崩壊してゆくだろう。却って純化されて強くなる可能性もなくはないが、対外試合を引き受けてくれるところはないのではないか。

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日大アメフト部から考える日本人が議論も会話もできない理由

これまで二回にわたって日本人は議論も会話もできないということを書いてきた。今回は「主語を日本人としてもよいのか」について検討しようと考えて、日大アメフト部と日本ハムファイターズの比較を行うつもりだった。結論だけを書いておくと、日本人でも議論や会話はできる。問題になっているのは古いマネジメントスタイルなのだ。

ただ、調べて行くうちに、もともと日本型のマネジメントスタイルは日大アメフト部のような問題を防ぐように<設計>されているということもわかってきた。今回、ところどころにそのことが出てくるのだが、最終的な結論には至っていない。答えが出てこないのでちょっとした消化不良感が残るのではないかと思う。

さて、本論に戻る。今回特に注目したいのは、集団が個人を成長させられるのかという問題と、集団が個人を成長させられなくなった時に何が起こるかという問題だ。前回ご紹介したホフステードによると「日本人は集団を通して<勝てる競争>に没頭する」のだった。この文章には二つの知見がある。一つは日本人にとって競争は自己目的であるということと、勝てる競争を好むということだ。端的に言うと日本人はとにかく勝ちたいのである。

先日来ワイドショーでは「日本大学のアメフト部」の問題が面白おかしく取り扱われている。かつて名将とされていた内田正人という監督が将来有望なトップ選手を追い詰めて使い潰したという話だ。当該選手はネットで名前がさらされ退部の意向を持っているという。一方で内田監督は9月になったらほとぼりが覚めるだろうからこのまま監督を続けるつもりのようだ。トップが無責任な命令をだしてプレイヤーが使い潰されるという図式が現在の政治状況と重なるので多くの人が批判しているのだろう。

内田監督は「試合に出たければ相手のクオーターバックを潰してこい」と指示をした結果、この選手は油断している相手選手に後ろから飛びかかり怪我を負わせた。幸い後遺症は残らないようだが、一歩間違えれば半身不随になりかねないというような危険な行為だったとされており、一部では刑事罰を科すべきではないかという議論すらある。

これがネットに乗って拡散した。すると監督側はバッシングを恐れて「あれは自分の指示を勘違いした選手が悪い」と取られかねない主張を始める。それが反発されて大騒ぎになっている。これが炎上していると気がついた日大側は最初は「勘違いだ」といい、それが言い逃れに取られかねないということがわかってから「直接謝罪する」と切り替えつつあるようだ。この「反応を見て小出しに譲歩する」というのも現在の政治状況に似ている。

ワイドショーではこの人が「日大の常務理事」だったために、学校ぐるみで隠蔽しているというようなストーリーが語られている。ところがWikipediaに出ている情報をみると別な側面も見えてくる。選手を発見して「濃密なコミュニケーション」で育て上げてチームを立派に育成するのが得意な監督だったようである。仲間内からは「温情的な」監督だと思われていたかもしれない。似たような指導者に栄和人志学館レスリング部監督がいる。栄監督も選手を発見して育成するのが得意な人だった。

こうした指導法がまかり通っていたのは日本人がマネジメントの科学をよく知らなかったためだろう。現在では国際的な<近代スポーツマネジメント>が浸透しつつあり、トップ選手は直接外国人指導者から教えを受けることもできる。このズレが表面化しているのだと考えることができるだろう。

彼ら二人の共通点は自分が見つけた弟子に対する並々ならぬ執着心だ。栄さんは吉田沙保里ら愛弟子を優遇していた一方で自分から離れて強くなろうとした伊調馨を排除しようとした。日大の内田監督もどうやら身贔屓が激しかったようだ。最近監督に復帰したことからわかるように、自分が発見したか目をかけている選手がおり、才能のあった当該選手を外そうとしたのかもしれない。あるいは前の監督を否定する意味で前の監督が集めてきた才能のある選手を代替え的に潰そうとした可能性もある。

こうしたことが起こる理由は二つ考えられる。ここではいろいろな<容疑>をかけているのだが、監督らがこれを客観的に自己分析することはできないものと考えられる。それは日本人が親密な関係に耽溺して言語による意識付けを怠る傾向にあるからだ。相手に説明できないだけではなく、自分が何をしているのかが本当にはよくわかっていないのである。

もう一つの問題は「自分が目をかけた選手を通して監督コーチとしての自己実現を図ろうとしていた」という点だ。集団と個人の意志が癒着しているのだ。個人の支配欲を集団に埋没させてしまうとこのような暴走が起こる。選手に無理難題を提示して忠誠心を試そうとしていたようである。「後ろからタックル」というのはアメフトではかなり重いタブーのようだ。これを吹きかけることによって「自分が支配できる人物か」ということを試していたのかもしれない。

このように日本人は集団になると個人で持っていた倫理観が吹き飛び指導者のためになんでもしなければならないと思い込むようになることがある。これが、日本人が持っている「集団主義」のよくある一つの例として認知されたために社会から批判されることになった。

ところがここで一つ大きな疑問が浮かび上がってくる。日本のマネジメントシステムを勉強したことがある人は「稟議システム」という用語を聞いたことがあるはずだ。アイディアは末端が持っており、末端から出た儀式的なリーダーが形式上の意思決定を司るという形である。この方法だとトップは実質的には意思決定をしないので、内田監督のような暴走行為は起こらないはずなのだ。つまり内田監督は名将である必要はないことになる。

決定的なことは言えないまでも、日大にもかつてチームを強くする仕組みのようなものがあったのかもしれない。結果的に内田監督が名将ということになる。そして、言語化が苦手な内田監督はそれを「自分の才能だ」と思い込むようになったのかもしれない。しかし、実質的にはリーダーとしての才能を持っていなかったので、今回のような暴走行為に出てしまったということになる。

「内田監督や日大のアメフト部は言語化が苦手」というのはかなり確度が高い。相手側の関西学院大学の小野宏ディレクターはもともと朝日新聞社の出身なので、問題点を言語化し謝罪文の矛盾点を整理している。つまり謝罪相手に言語化してもらわないと自分たちが何をやっていたのかということすらわからないというかなり深刻な状態にあることがわかる。

さて、ここまで安易に「日本人が」という言葉を使ってきた。集団での言語を介在させない親密さを重んじるあまり個人が無批判に集団に埋没してしまうというのは確かによく見られる光景だ。このために個人としての日本人は批判的な内心を持てず、個人どうしの会話が成立しないことも多い。だが、本当に主語に「日本人」を設定してもよいのだろうか。

ホフステードは日本社会のかの解説の中で次のように集団による競争を解説する。

At 95, Japan is one of the most Masculine societies in the world. However, in combination with their mild collectivism, you do not see assertive and competitive individual behaviors which we often associate with Masculine culture. What you see is a severe competition between groups. From very young age at kindergartens, children learn to compete on sports day for their groups (traditionally red team against white team).

日本は95ポイントという世界でももっとも高い男性性を持った社会である。穏やかな集団主義と合わせられているので、男性的な社会に見られがちな打ち出しの強さ(アサーティブさ)や個人での競争的な姿勢は見られず、競争は集団間で行われる。幼稚園から運動の日に集団(伝統的には白組と赤組に分かれている)で競い合うことを学ぶ。

ところが、集団による自己実現を図らないスポーツチームも出てきている。つまり、日本人は個人による自己実現や自己表出が全くできないということはないということになる。それが大谷翔平を生み出した日本ハムである。調べると栗山英樹監督のインタビューが複数見つかった。栗山は、監督はリーダーではなくマネージャーだと表現している。調べてみても栗山監督の話が出てくるだけなのだが、企業としての集団マネジメントそのものが「近代化」しているのではないかと思う。監督だけがこのように主張しても企業体がその理念を理解しなければ機能しないからだ。

日本ハムファイターズの特徴は個人のモチベーションと企業のモチベーションを「言語化」した上ですり合わせているという点である。インタビュー記事を読んですぐにわかるのは、栗山監督の頭の中では、集団ではなく個人が前に来ているという点だ。いちど成功した栄監督や内田監督は「集団への埋没」を自己への支配欲と執着に転嫁してゆくのだが、日本ハムのマネジメントにはそれがない。内田監督は「排除」と「恫喝」により選手の理性を奪ってゆくというアプローチをとるのだが、栗山監督らが相手を説得するためには数字を使う。

大リーグしか頭になった大谷翔平選手に対して「いったんチームを通った方が成功率が高い」ことを合理的に説明した上で「二刀流」という新しいビジョンを提示したというのは有名な話である。

数字は単なる統計として使われているわけではなく、内的な動機とリンクしている。大谷選手のビジョンを整理した上でそれを具体的な数値に落とし込んで行くという作業が行われていることがわかる。当時学生だった大谷選手がそこまでできていたかは疑問なので「マネジメントの最初の仕事」として可視化を行ったとも解釈できる。

さてm個人を客観的な指標で動機づけた上でそれを集団の目標をと重ね合わせるためには集団も「勝つ以外」の目標が必要だ。日本ハムファイターズはこれをスポーツコミュニティという理念にまとめている。

スポーツは人々の健康に貢献し、人と人が触れ合う交流の機会となり、人と人との心がつながるコミュニティを創造する力となる。ファイターズは「スポーツと生活が近くにある社会=Sports Community」の実現に寄与したい。

この企業理念と選手の個人的目標が合致している時には「協力」すれば良いし、それが終わればまた離脱しても構わないというアプローチを取っている。幸い国際野球には育成した選手に値札をつけてバイアウトする仕組みがあり、日本ハムファイターズのマネジメントスキルには市場的な意味がある。

日本ハムのアプローチを見て初めて見えてくる内田監督の問題点がわかる。日本の旧来のマネジメントは親密な信頼関係を構築できない人とは一切の人間関係を結べない。日本ハムファイターズが「個人の理念」と「集団理念」を言語化して結びつけるスキルを持っていることから、日本にいる日本人にもこれが学べるというのは明らかである。つまり、内田監督は「かつて成功してしまったがために、新しいマネジメントスタイルを学ぶの機会を放棄してしまった」監督なのである。これがSNSで新しい価値観とぶつかることで今回の大騒ぎが起きたということになる。

コメントの全文が朝日新聞に出ている。これをみると日本大学に問題の客観視ができていないことがわかる。例えば、謝罪と言い訳が交互に出てきて、誰が誰に何を謝るべきなのかの整理が全くできていない。さらに当事者意識もなく、文中で「起きてしまった」と言っている箇所もある。謝罪に関する部分を抜き出してみよう。

平成30年5月6日に行われました定期戦において発生した弊部選手の反則行為について、負傷された貴部選手にお見舞い申し上げますとともに心より謝罪いたします。そして、一日も早い回復をお祈り申し上げます。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫(わ)び申し上げます。

[中略]

弊部選手による反則行為を受けました貴部選手及び保護者の方に心よりお詫び申し上げます。

[中略]

当該事案が発生したことについて、ご迷惑をおかけしました関係者の皆様に指導者として謝罪いたします。

[中略]

重ねてではございますが、このたびの反則行為により負傷された貴部選手並びに保護者の方に対し、心より謝罪いたします。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。

混乱している「日大指導者」は内省しないままで「結果的に意思疎通に齟齬があった」と原因をまとめてしまっている。これが自動的に「勘違いした生徒が悪い」と受け取られることになったが、指導部にそうした明確な自覚があったかはわからない。さらに別の段落では「そのつもりではなかったが世間が誤解するといけないので発言はなかったことにする」とも説明している。

弊部の指導方針は、ルールに基づいた「厳しさ」を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており、指導方法に関し、深く反省しております。

[中略]

しかし、真意が伝わらず反則行為を容認する発言と受け取られかねないものであり、本意ではありませんため、ここに、試合終了直後にメディアに対して発した弊部監督のコメントは、撤回させていただきます。

言語化能力の低さと個人の徹底的な無視が問題の根底にあることがわかるのだが、日本ハムファイターズが大谷翔平をメジャーリーグに送り出したことからわかるように、必ずしもこれがすべての日本人の本質ではないということもわかる。ここから得られる仮の結論は、かつてあった成功を言語化しないままで再現しようとすると、このような失敗が起きてしまうのではないかというものだ。

こうした混乱やあからさまな嘘はスポーツマネジメントの世界だけでなく政治の世界でも起きている。しかし、ニュースを通じて知り得る情報は言語情報だけなので「なぜこんな理不尽で誰が考えても嘘と分かるようなことを平気でやるのか」というような感覚になってしまうのかもしれない。

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日本人は会話をしていないし、それを気にしていない

面白い議論を読んだ。議論の元になったと思われる投稿によるとBBS世代の人が文章を書き込んでいるのに比べてSNS世代の人は頭の中の会話をそのまま書いていると分析している。この人は「SNS世代の人とは話がかみ合わない」と言っているのだが、そもそも日本人と議論が噛み合ったと思ったことはないなと思った。

この説によるとBBS世代の人は推敲をしてから文章を書くので会話が呼応するということになるのだが、推敲しても会話が呼応しない人もいるし、そもそも答えるつもりがなくコメントをよこす人もいる。思い返せばフェイストゥフェイスでも噛み合わない会話というものはいくらでもある。

例えば先日こんな経験をした。ある人が「お金があっても買えるものがなければ景気はよくならないのではないか」とTwitterに書いていた。多分Twitterというのは個人メモのような側面があり答えは期待していないと思うのだが、構わずに「サービスが交換できるので物資がなくても大丈夫」ということと「それよりも流通に障害があることが問題だ」と書いた。

少し戸惑われたのかもしれないが、しばらく時間があって「ふと思って書いただけなのでとりとめもないのだが……」として返答が戻ってきた。戻ってきた回答はこちらの問いかけには呼応していないのだが、それは特に問題がない。なぜならばそもそも会話を発起した人が特定のフレームに依拠して書いてあるわけではない上に、こちらの思考フレームは伝わらずに結果だけが転送されてしまうからである。さらに日本人は相手が特定の思考フレームを持っているということやフレーム合わせをやらないと会話が成立しないとは思わないのだと思う。

もし真面目に会話をするならばフレームを伝えた上で会話を続行すべきだが、そもそも思いつきをメモにしているだけであり、特に仕事として取り組んでいるわけではないのだから、そこまでやるのは大人気ない。ここでまた重ねてしまうと会話が延々と続くことになるので、よくわからなくても「いいね」で〆ることにしている。すると次の会話に移れるからだ。

だが、もう一回返ってきた。しかし、その答えはある種の正解に固着してゆく。今回のそれは「マーケティング先行で本当に必要なものが少ない」というような認識だった。これを真面目に考察するとすれば、以下のような反論ができる。

例えば自動車の本質は「移動する」ことであり、それ以外の全ては「マーケティング的に捏造された本質でない部分」ということになる。もし本質だけだと車は今でもフォードT型かトラバントのようなものになっていたはずだし、用事もないのに海辺に出かけて行ってわざわざバーベキューを楽しむなどというような需要もなかったことだろう。

最初の人はモノがないのに信用だけが増しても景気はよくならないだろうという疑問を呈しているのだが、製造業から抜ける過程でこのフレームワークから抜ける必要がある。それは農業主体の社会が家電を思いつかないのと同じことである。例えば家をきれいにするという仕事のためにわざわざ電力網を張り巡らせた上で掃除機を稼働させようなどとは思わないのである。

しかし、そう答えることに何か意味があるだろうか。そもそも我々の年代は「浮ついた」1990年代のマーケティングを知っているので「真面目なものづくりを通して真の需要を追求すべき」というような一種の<正解>を持っている。だから「そうですね」という共感を示して会話を〆るのが良い。そうすればお互いに気持ちよく次の話題に移ることができるだろう。そもそもTwitterは娯楽なのだから、わざわざ気分を損ねるような会話を行う必要はないのだと思う。

日本人は集団の理論と個人の理論を分ける。こうして、個人の思い込みが社会にぶつけられないまま固着することが多い。「ものづくりをしている人は真面目に仕事をしているが、商売をしている事務屋がめちゃくちゃにする」という世界観もこうやって形成されるのではないかと思う。戦中・戦後すぐに生まれた世代だと「職人は真面目だが、商売人は全て金儲けをして人を騙そうとしている」と思っている人も多い。実際にこの投稿にはいいねが2つほど付いたことからこれが社会の中で一種の正解化していることと、その正解が言語化・社会化されないままで内心を漂っていることがわかる。

このことから二つのことがわかる。そもそも日本人は思考をまとめてから発信することはないし、まとめようとすると「ある種の正解」に固着してゆく。もともと不定形なので外的な刺激によって変形する。今回も「サービス業」というワードを投げかけてしまったために影響を受けて当初の思考が変更された可能性は高い。しかし、オリジナルの思考は不定形なのだから「もともと何を考えていたのか」を正確に復元することは難しいかもしれない。

逆にまとめてから発信するということは「ある種の正解に固着してしまった後」ということになることが多い。根拠が外部にあるので、それを議論で修正したり介入することはほとんど不可能だ。個人の態度が外部と一体化しているので変われないからである。このために日本人の政治議論は極端に二極対立することが多い。いわゆる「保守」も「リベラル」も経緯によって作られた特殊なものだがそれがコピペされて広がる。しかし例えば保守の人がオリジナルの主張を理解した上で意見をコピペしているかどうかはわからない。例えば最近起きた「弁護士の懲戒請求騒ぎ」では、訴える弁護士が何をしている人なのか何がいけなかったのかを論理的に説明できた人はほとんどいなかったそうである。

アメリカ人の場合は異なった経路を通る。アメリカ人は個人の意見を持っている。根拠が外部にある可能性は高いが、賛成・反対は内的なので態度変容が可能である。そもそも最初から「興味のある話題について」「賛成か反対か」を表明するので、賛成するか反対するかは別にして対話が成立しやすい。英語のQUORAには日本人がいるが彼らは会話を成立させている。また初期の日本語のQUORAにも会話はあった。しかしこの会話は日本人の参加者が広がることで心情の吐露に変化しつつあるようである。

日本人でも英語だとこの「賛成・反対」による会話が成立するところから、これが日本語文化特有の問題であるということがわかる。英語では個人として「論拠を納得した上で」賛成か反対かを決めるのだが、日本人は「社会化させないままで固着する」か「論拠を持たないままで賛成して一体化したり反発したり」するので、いったん態度が決まってしまうと後で態度を変えることができない。

こうしたとりとめのなさと固着した正解は人によって様々な現れ方をする。例えば日本で流行した私小説は自分のとりとめもない心情をそのまま記述したものである。これが娯楽として受け入れられていた。

「社会に共感すべきだ」とされている女性が集まると「そうだよね」とか「それでね」などと言いって相手に相槌を打ちながら全く関係ない話を始めることが多いという話を聞いたことがある。話を理解していなくても「わかる」といえば満足なのだそうだ。会話が成立しているという雰囲気は残しつつ自分の意見は共感してもらいたいという気持ちが強いのだろう。相手の歌は聞いていないのに拍手をするという意味ではカラオケに似ている。会話は論理を記述しているのではなく「共感を得るための道具」に過ぎない。

一方で、政治家や先生のように地位を保障されたと感じる人は、他人の共感を気にしないで正解や心情を垂れ流すスタイルを取ることが多い。現在では麻生副総理がそれに当たる。麻生副総理が何を披瀝しようとしているのかは定かではないが、とにかく「自分は意見を発信する側で、言い聞かされる側ではない」という気持ちだけは伝わってくる。この麻生副総理を見ていると福岡の県立高校の高校の校長先生を思い出す。文集委員として校長先生が生徒に贈る言葉を取りに行ったところ、それとは全く関係がない旅行エッセーを渡されたことがある。「自分はこれを載せたい」の一点張りであり、それを悪いと考えてい様子はなかった。この類の人たちにとって「相手を理解した上で会話を進める」ことは負けなのである。

共感を求める人たちはとりとめもない思考をそのまま表現し、正解に固着した人はもはや相手のいうことを聞かない。このためギャップは広がるばかりでついには世代間に大きな溝ができている。

最後にBEAMSの若者で見たように、スマホで情報検索する人たちはそもそもメンタルモデルが立てられない。だから相手のメンタルモデルを類推してソリューションを提案するということがない。

会話が成立しているように見せるためには相手がどうプログラミングされているかということをこちらが認識した上でこなせるタスクに分解して与えてやらなければならない。しかしこれは若者がバカだからではない。ソリューションを組み立てて調整する「総合職」的機能が社会から消えてしまったためである。

ただしメンタルモデルを持たない方は「指示が明確ではない」というフラストレーションを感じているようである。この日経ビジネスの記事ではタイプとなっているが、つまり相手のメンタルモデルを構成した上で調整しようという提案だ。この裏にはそもそも中高年の側がメンタルモデルを「話せばわかる」として提示してこなかったからである。

冒頭の文章を提示した人はアスベルガーの診断を受けているそうで「自分は普通ではない」という認識を持っていると思うのだが、そもそも日本人は会話を通じて情報交換をしたいなどとは思っていないのでそれほど心配する必要はないのではないかと思える。「会話が成立しないで好きなことをいい合う」のが日本人の定常状態なのである。

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BEAMSの店員にムカついたという話

今日の話は若者バッシングなので「自分が若いな」と思う人は読まないほうがいいと思う。その若さの判断基準だが、今回の定義ではスマホで情報を得ている人は年齢が55歳でも「若い」と思って間違いがない。

今回の話はBEAMSに行って店員の態度にムカついたというただそれだけのものである。最後に安倍政権批判が入っているがこれはおまけである。

BEAMSのジャケットを持っている。麻が入っておりボタンをとめるとちょっとタイトになる感じのものだ。今シーズンもこれを着ていいものかどうか悩んだ。カジュアルものはシルエットの変更が大きいというイメージがあるからだ。そこで、オンラインで見てみたのだがどうもよくわからない。ウェブのカタログをみてもピンとこない。カスタマーサポートに相談したところ「お店に行ってもらわないとわからない」という。カスタマーサポートはやたらと店に行けと言ってくる。よほど来店が少ないのかなと思ったのだが話の種に行ってみることにした。

そもそも近くに店がない上に、最近では店が細分化されていて「ここに行けばたいていのことはわかる」という状態ではなくなっている。近くだと千葉駅前に店があるのだがカジュアルしか置いていないという。本格的なジャケットを手に入れるためには東京に出る必要があるのだそうだ。仕方がなく千葉の店に行ってみたが、案の定会話が全くかみ合わなかった。

だが、会話がかみ合わない理由がわからない。最初に目につくのは「自分の知識体系を明文化も体系化もできない」という点だ。自分の知識体系も明文化できないので、顧客の曖昧な探索態度も明文化できない。つまり「コンサルテーション」ができなくなっているのである。ここまでを感想にすると「先生のいうことを聞いているだけの教育が悪いのだな」などと思ってしまう。「最近の若者は」的な愚痴である。

日本人は先生のいうことだけを聞いているので正解がある場合にはすぐに答えが見つけられる。しかし、正解がなくなるとコミュニケーションそのものが成立しなくなる。そこで出てくるのが「自己責任」である。「お客様の好きなものを選んでくださればいいですよ」ということになるわけだ。

何が欲しいのかを明確にしてくれればお探ししますよというのだが、それが掴みたいからお店に来ているということは理解されない。そのうち「オンラインショップでもっと見てみたい」となった。何か勧めなければならないと思ったのだろう。定番のチノパンを押してきた。これがユニクロだと普段着ているから出来上がりが想定できるのだが、高い上に「なんか違っていたらイヤ」なので、だったらユニクロで見ようかなという気持ちになった。

BEAMSが神宮前にあった頃は「自分たちがトレンドを作っている」という気持ちがあったのか、聞かなくても洋服についてのうんちくを持っていた。銀座の店にも「店の方針はともかく自分はこんな洋服が好き」という人がいてそれなりに話が楽しかった。しかし、千葉店に勤めている人たちはそれほど洋服は好きではないのかもしれないし、本部から「これを売りなさい」というプレッシャーが強いのかもしれない。

あまりにも話がかみ合わないので、何が違っているのだろうと思い始めた。例えば今年のトレンドについて聞いている時にもそれを感じた。今年の流行は90年代風らしいなのだが、それは彼に言わせると90年代にはやったとされているフレッドペリーやチャンピオンズのアイテムを取り入れることを意味しているらしい。だが、それをどう「全体に位置付けるのか」ということを聞いてみても答えは返ってこない。

最初は「この人はめんどくさがっているのだな」と思っていたのだが、帰り道に別の可能性を考えて恐ろしくなった。冒頭に「若い人は読むな」と書いたのはこれが中高年固有の問題であって若者には関係がないからである。

かつてのトレンドはある程度構造化されていた。例えばバブル期のインポートもののスーツは少し大きめだったので国内のブランドもなんとなくそれに合わせていたし、渋カジと呼ばれる流派の人たちが「着るべきブランド」が決まっており、全体のシルエットがなんとなく規定されていた。つまり構造化された傾向を一つかみにして「トレンド」と言っていた。さらに情報の経路にも構造があった。BEAMSは例えば情報ソースであって、それが下流の消費者に流れていたのである。

だが、むかつくBEAMSの店員にとってのトレンドというのはアイテムの売り文句に過ぎない。いわば今期のマーケティングキャンペーンであり、本部に言われたことをコピペして行っているに過ぎない。これを雑誌に流して顧客を捕まえているのである。だから単なる独立してそれぞれに関係がないマーケティングキャンペーンが彼にとっては「トレンド」なのだろう。

その証拠に商品知識そのものは豊富に持っていた。「カナダ産のアウトドアアイテムが置いてあってこのラインナップは流行に左右されない」などというように一つひとつの知識は決して浅くない。気分としてはwikipediaで情報検索している感じだ。一つひとつにはそれなりに深い答えが帰ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。

「全体的な傾向」を聞こうとしてもそもそもそんなものは存在しないのだろう。「今の若い人たちに全体的な傾向を聞いても要領をえない」などと愚痴ること自体が不毛だということになる。なぜならば全体像がない世界を生きており、かつてのように物事が有機的な意味を持って結びついた場外をそもそも知らないからである。

この仮説を確かめるとすれば、雑誌などで聞いたキーワードをそのまま店員にぶつけてみるのがよいのだろう。お互いに関連がないなりに情報は豊富なのだからそれなりに話ができるはずだ。実際に帰ってオンラインショップを調べてみると「Begin掲載商品」と書かれていた。つまり断片的なコンテクストは雑誌が作っており、店頭は商品の受け渡しポイントに過ぎないのだ。「雑誌の知識は断片的なので全体像がつかみたい」などと思って店頭に行くということ自体がナンセンスだったということになる。

そうなるとWEARで気に入ったモデルを見つけてその評判を見た上で似たものを商品検索したほうが効率的だ。BEAMSがやたらと来店を勧めていたのはそもそも時代に乗り遅れ始めているからなのかもしれない。メーカー別にみるとファーストリティリングには遠く及ばない。ではファーストリテイリングの従業員が「楽しく洋服をお勧めしている」かというとそんなことは全くない。彼らはとにかく忙しく走り回っており接客という概念はなくなりつつある。

アパレルを離れて「コンテクストのない世界」について想像すると、現在の政治的な状況が違って見える。安倍政権を支持している人たちを見ていると項目が別々の語られていて全体像がぼやけている。これまでの文脈で政治を見ていると「デタラメでイライラ」してしまう。それは我々が全体のコンテクストを通じて構造的に政治を理解しようとしているからだ。

まとまりのないTwitter政治論評は、この脱構造化で説明ができる。安倍政権は加計学園の選定過程について整合した説明はしないが、部分だけを取り出すと「その都度問題がない」ことになっている。これはその時々の出来事について「その場限りの理解をしている」からということになる。つまり構造を持たずその場限りでわかりやすいことをいうから受けるということだ。文脈に支配されてしまうと柔軟な判断ができなくなり「全てがうまくいっている」などとは言えなくなってしまう。

現在、立憲民主党などの野党は「立憲主義」という構造を元にしてあるべき政治を提示した上で有権者に訴えかけている。これは立憲主義や民主主義という「お作法」を学んだ人たちには訴求するだろうが、その場その場で良し悪しを考えている人たち何の意味も持たないのかもしれない。

こうした情報の受け取り方の違いはブラウジングという概念で説明ができる。私たちがセレクトショップに行くのが楽しかったのは「お店がセレクトしてくれる」からである。だから用事がなくても「時代の気分」を観察するために定期的にお店に行っていた。しかし、もはやそのような意味でのトレンドはないのだからセレクトショップ自体が成り立たない。

「世の中で何が起きているのかな」と思いつつ新聞を一面から順番に眺めるのもブラウジンだ。しかし、新聞は「反日」か「政権べったり」という批判のための指標に過ぎなくなっている。全体的な社会合意(つまりトレンド)がなくなり、自分たちの好きな情報だけをやりとりするようになっているからである。

政治の文脈で見ると、少なくとも若者に訴求するためには「文脈の認知」とか「サポーターの醸成」みたいなことは意味がなく、その場限りの成功をみんながわかる形で主張するやり方のほうがふさわしいということになる。失敗したらもう人生終了で情報だけがたくさんあるという縮小型情報社会では「すべての結果がうまくいっている」と主張して全体の整合性を犠牲にしたほうが訴求しやすい。

トランプ大統領はその場その場の「ディール」に夢中になり、安倍首相は知的な能力の限界から文脈を形成する能力がないのだと思うが、これが意外と現在にマッチしているのかもしれない。するとその場その場の失敗について揚げ足を取り上げてそれを批判するのがベストのアプローチということになる。そう考えるとTwitterの政治批判は「政治を知らない人たちのバカな衆愚行動」ではなく割と本質的な政治議論だということになる。政治への理解というリテラシーそのものが意味をなさないからだ。

こうした世界がどうなるのかを考えてみたのだが、なんとなく一つの流行に人々が殺到するか、あるいは細かいコミュニティにわかれて相互理解が不能になる世界だろう。それは意外と現在の状況を正しく描写しているように思える。

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日本人は責任をどのように理解したのか

レスポンシビリティ(対応性)という言葉に責任という訳語を与えたのは誰かということを調べた。前回紹介した橋本大二郎の短い文章の他に「西周が訳した」ということを証明できる資料はなかった。

そもそも荘子(そうし)が天子について書いた文献の中に天子の責任という言葉が出てくるようで、責任という言葉は新しく作られたものではなさそうである。明治時代に宮内省が編纂した辞書にも「責めと務め」というような定義が見られる。明治時代には民法の中でも負債を弁済する任のような意味合いで責任という用語が使われていたようだ。連帯責任も同じように負債に関する概念だったようである。

この他に責任内閣制という言葉がある。内閣が君主ではなく議会に対して責任をとるという制度だと考えられている。この責任はレスポンシビリティの訳語なので古くからこの二つの概念が同居していた可能性は高い。

日本語には古くから責任という言葉が存在し民法では「債務を弁済する義務」のように用いられれていたようだ。このため各種の国語辞典を見ると、どれも同じように「責を負う任務」というような定義が最初に出てくる。中にはこれをレスポンシビリティの訳語としている辞書もある。

英語では「対応性とか即応性」という言葉が当てはまると書いたのだが、ケンブリッジ辞典は「duty/義務」や「blame/非難」に結びつけている。国や社会によって何を責任とみなすのかについては若干の違いがあるようだ。

いずれにせよ、明治憲法は恩賜の欽定憲法なので政府が国民に対して説明をしなければならないというような意識は希薄だったのだろう。さらに庶民の生活の中では、概念的な「社会契約による権限委託」というのは理解されにくいが、具体的な「何か問題を起こした時に金銭的な補償をする」という行為の一部として責任が理解されていたと考えて良いのかもしれない。

ただ、日本人がまったく政治的な概念に理解や関心がなかったということはないようだ。西洋に比べて日本は遅れているということを実感した日本人は慌てて西洋の社会制度を学び始める。この中で概念的な人権や契約という概念をフランス語や英語で理解した人たちがいた。日本人は何をかんがえてきたのかというNHKが出している書籍によると、日本にはフランス流の民主主義を模索する自由主義者とイギリス流の立憲君主制を模索する立憲改進という二つの民主化勢力があったそうで、草の根的な民権運動も存在した。自由主義者だった中江兆民が社会契約の考え方を日本に紹介したとき日本には「社会」という考え方はなく、民の約束という意味の民約という言葉が使われたそうだ。

「原語でコンセプトを理解できてすごい」という見方もできるし「余計な概念がなかったのですんなり受け入れることができた」という見方もできる。今回観察している「責任」をめぐる諸概念は契約と権限移譲という基本コンセプトを理解した上で英語で読んだ方がわかりやすい。これを日本語に訳した上で漢字の意味に引っ張られると話が複雑になる。漢字の縮約能力が仇になっていると言えるだろう。

いずれにせよ「経済的補償」の一環として責任という概念を理解した日本人はGHQが憲法を書いた時に不用意に同じ訳語を使ってしまったと考えられる。内閣がグループで国会に対応するという意味を「連帯して責を負う」という法的補償の概念で理解してしまったことにより誤解が生まれる素地が作られた。これは内閣は天皇ではなく国会(つまり国民)に対応するのですよということと首相が勝手に決めてはいけませんよということを言っているのだが、これを訳者がどのように理解したのかは今になってはよくわからない。

「政府は国民から社会的合意に基づいて作られた概念的な契約によって権限を委託されている」という理解はさらに遅れた。昭和の時代に「政府」の問題は行政責任の問題だった。つまり公害を放置した時に国が補償してくれるのかという具体的な補償の問題として政府の責任を捉える人が多かった。

このため平成が終わりを迎えつつある現在でも、アカウンタビリティ(説明責任)という言葉は辞書に載っていない。現代用語の基礎知識に「行政責任」と「アカウンタビリティ」という項目が立っており、未だに「現代用語」扱いになっている。

これらの言葉がいつ使われ始めたのかということはよくわからなかった。Google Trendは2004年以前の傾向が調べられないのだ。いろいろ調べると「企業統治用語」として日本語に定着したのではないかという可能性が見えてきた。

アカウンタビリティは「企業の株主に対する説明責任」というコンセプトで使われ始めた。同じように最近使われるようになった言葉に「コーポレートガバナンス」や「コンプライアンス」がある。もともと持ち合いが多く株主に対する責任が曖昧だった日本企業の中に西洋流の「契約と説明責任」とか「社会責任」という概念が広がっていった頃である。日本でこれが顕著になったのは2000年代初頭の村上ファンドやライブドア(堀江貴文)あたりではないかと思われる。お金が絡んだ方が日本人の理解は早いのだが、これが道義的責任とか社会的責任となると途端に暴走が始まることがわかる。

例えば連帯責任という言葉はもともと「連帯保証」という債務に関する用語だった可能性が高いのだが、これが軍隊やスポーツチームなどで使われるようになったという経緯がある。この連帯責任という言葉は軍隊では見せしめにチーム全体を殴るための口実に使われていたようで、用例がいくつも出てくる。

ここに出てくる文章を読んでいると気分が悪くなるが、要するにマネージメントの失敗を八つ当たりの暴力によって目下に押しつけるのが「連帯責任」だ。しかしこれを制裁と呼びたくないので「体裁のある」用語を使ったのではないだろうか。これが戦後になって体育会系のマネージメントに応用されたのではないかと考えられる。お金のやり取りがない時に通貨として使われるのが村八分のような社会的な非難と制裁という名前の暴力なのである。

この二つに共通するのは現場が「金銭的なマネジメント」に関わっていないという点である。兵隊が補充されてくる場合「兵士を雇うことに関する費用対効果」は考えなくてもよい。すると現場マネージャが暴走して私的制裁を練り込んだマネジメントを行うようになる。日本のスポーツの近代化が遅れたのも「無償の努力は美しい」というアマチュアスポーツが過度に賞賛されたからだ。すると現場のコーチが思い込みで選手をしごくというのが当たり前になってしまう。こうした現場で責任が曖昧になると「連帯責任」という「無責任」が横行することになる。

自己責任という言葉はその最たるものである。もともと債務関連の言葉だった。これが集団で責任をおう連帯責任という考え方になった。行政責任という言葉も生まれる。これは借金ではなく保証金という形での支出を伴う。行政責任はないという意味合いで、だったら誰に責任があるのかということになる。本来なら会社などの集団に補償責任を負わせたいのだが、フリーランスの場合には問責する主体がないので「自己責任」という言葉を無理やり作って押し込んでしまったのだろう。しかしこの「無責任用法」が生まれてしまうと一人歩きし、力が弱いものに対して「お前が悪いんだろう」と単純化されて使われるようになった。政治家など力のある人に「自己責任だ」という言い方はしない。

日本人はこのようにグループ間のお金のやり取りを通じて社会契約的な概念を理解していることがわかる。これが溶解してしまうともっと概念的な「社会」を作ってルールを普遍化するか、個人と個人の間の無秩序な指の差し合いに陥ってしまう。日本人は後者を選んでおりそれが現在の混乱の一員になっている。

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自己責任という言葉はいつ生まれたか

自己責任という単語がある。例えば生活保護を受けている人が困窮しているのは自己責任であるというように使われる。説明責任という言葉はいつまでたっても定着しないが、自己責任という言葉は「正しく」行き渡っている。理由を考えたのだが、これは責任という言葉が日本語では独自に解釈されているからではないかと思った。責任はやまと言葉の「〜のせい」の訳語なのだ。




まず、レスポンシビリティの訳語として責任という言葉が当てられたというところまでは確認ができた。原典は確認できないが明治時代に西周が訳したという話がある。橋本大二郎のブログに「対応力」とでも訳すべきだったという話が出てくる。どうやらこの<誤訳>はその筋では有名らしい。

そこから連帯して責任を負うという用語が生まれる。日本国憲法に連帯して責任を負うという言葉があることから戦前から使われていたことが伺える。

内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

The cabinet, in the exercise of executive power, shall be collectively responsible to the diet.

この時にすでに日本語には責任を持つではなく「負う」と書かれているので負債めいたニュアンスがあることがわかる。英語は集団で対応しますよという言い方になっている。これは内閣総理大臣が一人で対応するのではなく内閣全体が対応するのですよということを言っており、権限についててほのめかしている。内閣には固有の権限(exercutive power)があるが、総理大臣一人に好きなようにさせませんよというニュアンスがあるのだが、なぜか日本語では削られている。そして「負う」という動詞が充てられている。原文は形容詞であえて日本語に訳せば「責任がある」となる。だから「固有の権限を行使するにあたって、内閣は国会に集団で対応する」が正しい訳語になるのではないだろうか。

余談ではあるがresponsibleにはforという使い方とtoという使い方があるそうだ。forは物事に対して使われ、toは人に対して使われる。そしてこのように「〜に対して(説明などの対応をする)責任がある」という言い方になる。

この「〜に対して責を負う」という言葉は集団主義的な使われ方をすることが多かった。体育会系で「チームの連帯責任」などということがある。責任の所在が曖昧になっており、なにかあったら罰を与えるからお互いによく見張っておけよというような意味合いがある。この集団が溶解することで、自己に責務を負わせるという考え方が出てきた。これが「自己責任」だ。ではいつ頃から自己責任という言葉が多用されるようになったのだろうか。

英語では自己責任という言葉はかなり限定的に使われる。本来人間は神様から治癒能力を与えられており投薬なしでも病気が治ると考える人たちがいる。彼らは病気に対して反応できるという意味でセルフレスポンシビリティという言葉を使っており、2004年に限定して調べた時にもそのような意味で使っている文章が見られた。この「セルフ・レスポンシビリティ」を引き寄せの法則などに関連付けて「自分の幸せには自分が責任を持つべきだ」などと使っている文章は見かけた。本来の英語の意味が誤解されているのか、原典通りに理解しているのかはよくわからない。

この言葉が「お前のせいだ」という意味を持つようになったのは比較的最近のことだ。Google Trendで自己責任を調べると2004年に山があるのが確認できる。この時に書かれた共産党のウェブサイトが見つかった。イラクの人質事件は自己責任であるという政府の主張を糾弾したものだ。いくつか調べたがどれも「イラク」との関連の中で使われていた。

イラクで数名の邦人が拘束された。日本政府には彼らの人命を守る義務があるのだが実際には何もできない。そこで「勧告を無視して危険を承知で出かけて行ったのだから結果的に救出できなかったとしても政府のせいではない」という論が展開された。これが2004年なのだ。こうした使い方が昔からあったのかはわからないが、自己責任が今のように使われるようになったきっかけのひとつは小泉政権が「政府の責任を被害者に転嫁した」ことにありそうである。

「政府に責任がある」というのは「対応しなければなりませんよ」とか「そういう機能があるんですよ」という意味なのだが、日本人はこれを「イラクで人質が誘拐されたのは政府のせいだ」と取る。そこで政府は「いや、のこのこと出かけていった人たちのせいだ」と言い訳した。それに追随したマスコミが騒ぎ出し「帰ってきた人質たちを非難してやろう」という空気が生まれ、実際に彼らは避難にさらされることになった。ハフィントンポストのこの記事を読むと当時の激しさが少しだけわかる。

2015年には後藤(健二)さんというジャーナリストが「責任は自分にある」と宣言してイラクに行って実際に人質になり殺された。これが名詞化されて「自己責任という言葉が一般化する」という考察がある。QUORAで聞いたところ「自己責任」に当たる英語は、at one’s own riskではないかと指摘してくれた人がいた。リスクを取るという意味だがそのリスクの中に他人から責められるというニュアンスはない。しかし、日本には責任を負うという概念があり、その中には何かあった時には「ムラ」が叩いても文句を言わないというニュアンスが含まれている。

現在、私たちはセクハラ問題や強制わいせつ問題などで「被害を受けたとされる女性にも責任の一端があるのではないか」という議論をしている。いわば自己責任論である。イラクに出かけて行った人たちに同じような視線が向けられていたことがわかる。とにかく誰かを叩きたいという日本人の心象がこの「自己責任論」には色濃く映し出されている。常に問題を「誰かのせいにしたい」という気持ちがあるのだろう。

責任は「説明や対応ができるように準備しておく」という概念であり「責を負わせる」という罰則概念ではない。だが日本語の責任という言葉には「責」が入っているので「誰を非難すべきか」という議論に陥ってしまう。叩く資格は「普通で善良な暮らし」をしているという簡単なもので、叩くにあたって実名を公表する必要はない。これが、結果的にではあるが過剰さの要因になっている。

その一方で「職務を明確にして対応する」のはとても苦手である。それは役割分担が不明確で誰が何を決めているのかよくわからないからだ。レスポンシビリティは明確な役割分担と権限移譲によって生まれるので、それがない社会ではそもそも責任の取りようがないのである。だから説明責任という言葉はいつまで経っても日本には定着しない。

連帯責任の源流は連座制や五人組などの制度だと説明する人たちがいる。中国起源概念が日本に取り入れられたという面白い議論をOKWebで見つけた、またスポーツの連帯責任について考えているコラムの中に河合隼雄の母性集団・父性集団という概念が出てくる。今回の考察では日本人は契約概念が理解できないという見方をしているのだが、河合は責任の所在が曖昧な集団を母性集団として区別しているようだ。

責任の所在が曖昧な社会では連帯責任という言葉がよく使われる。野球部員がタバコを吸っているのを見つかると甲子園に行けなくなるとか、正座させられて殴られるというようなものが一般的な使い方である。今回のTOKIOの騒動でも連帯責任という言葉が使われた。テレビでは疑問を持ちつつも流されてしまったコメンテータが多いようだが、個人が責任と向き合えなくなると批判する人はいなかった。周囲の人たちは個人が償うためのサポートはできるが、向き合うのはあくまでも山口達也さんなのだが、母性的(あるいは体育会的)な傾向の強いジャニーズ事務所ではどこまでも責任の所在や一体何にたいする謝罪だったのかということは曖昧にされ続けた。

このように役割が曖昧なまま結果的に集団を叩いて管理をしていたという事情があり、集団が溶けてしまった現在はそこから浮いてしまった人たちに必要な権限は与えず「個人の資格で叩く」行為が蔓延している。その発端になったイラクで叩かれたのは会社に属している人たちではなくボランティアという個人だった。仮に企業が派遣していたとしたらその企業が叩かれていたはずなのだが、叩く企業がないので個人を叩いて「自己責任だ」と言っていたことになる。

だが集団だと責任を取るのかと言われると疑問もある。自衛隊は「戦闘状態にある」という日報を送り続けてきたのだが、それはすべて隠蔽された。そして最終的にはできの悪い通販番組のように「それは個人の感想です」という注釈をつけられて「自衛隊員は戦闘状態だったと言っているがあくまでも個人の感想にすぎず、あれは戦闘状態ではない」などと言い出している。日本では個人は非難の対象にはなるが権限は与えてもらえず発言も無視されてしまうのである。

いずれにせよ「連帯して責を問う」という伝統的な考え方があったからこそ、個人で責任を負うという考え方がで出てくるわけだ。だが、個人には対応力はないので個人責任という言葉は不当なものになりがちである。それに加えて「結果的にリスクを負う」くらいのことはあっても、集団の憂さ晴らしのために叩いて良いという根拠はどこにもない。

だが、私たちは不思議なことにこの自己責任という言葉をすんなり理解して、あたかも昔からあった言葉のように使うのである。

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バベルの塔に住む日本人は民主主義を理解できない

荒れる学校について考えているうちに、そもそも日本語には民主主義に関する用語の理解が欠けているということがわかってきた。これについて考察しているブログは多いのだが、議論そのものがあまり注目されてこなかった。例えば責任とResponsibilityという用語で検索するといくつかの文章を読むことができる。

今回は「先生が体罰という抑止力を失ったために学生がやりたい放題になった」という投稿をきっかけに、荒れる学校について考えている。この問題を解決するためには、まずコミュニティをどう保全するのかを話泡なけければならない。しかし、話し合うための言葉すらないうえに問題を隠蔽したがる人たちもいる状態では話し合いすらできない。

先生や保護者が協力して適切な監視体制を作ったり生徒に自主性を持たせれば暴力を使わなくても問題は解決するのだが、日本人は民主主義社会が持っているはずの協力に関する用語を持たないためにお互いに意思疎通ができない。これはバベルの塔に閉じ込められた人たちが協力して塔を建設できないのに似ている。

前回のエントリーでは学生か先生に権限を与えるべきだと書いた。ところが日本語でこの議論を進めようとするとややこしいことが起こる。権限と責任という二つの言葉だけを見ても、これを好きなように定義する人たちが現れるからだ。「日本人がバカだから民主主義が理解できない」という言い方をしても良いのだが、英語の表現を漢字語に置き換えた時に生じた問題が修正できていない。

例えば先生の権威を認めるべきだと主張すると、権威という言葉から絶対王政の権威のようなことを想像する人が出てくる。これは言葉に「威」という漢字が含まれているからだろう。畏れて従うというような意味がある。しかしこれを英語で書くと先生の権限を認めて委譲すべきだという意味になる。権限も権威も「オーソリティ」の訳語である。この言葉はラテン語からフランス語を経由して英語に入った。元々のラテン語の意味は「増える・増やす」ということのようだ。これが「書く」という意味になり、書かれたものを引用して「誰もがそうだな」と思える概念を「オーソリティ」と呼ぶようになる。ここから派生して、権限を裏書きして認めることも「オーソリティ」と呼ぶようになった。

つまり、民主主義的な用語では「社会的な合意のもとに先生に学校を管理する権限を認めること」を先生に権威を与えるべきだということになる。だが漢字に「威張る」を思わせる言葉が入っているので「先生は偉いから逆らわないでおこう」という意味に取る人が出てくる。逆に先生は税金で雇われているだけであり、自分たちの使用人だから威張られるのはたまらないと考える人も出てくるだろう。

「権限」を「威張ること」と考える日本人は多い。例えば日本レスリング協会は「自分たちは選手を選抜して指図する正当な権利がある」と考えており問題になっている。パワハラが認定されたあとでも間違いを認めない上に、スポーツ庁には平身低頭だが選手に対しては「威張って」しまう。これは権威を間違えてとらえている一例といえる。このように何かを遂行するために権限を与えてしまうと人格そのものが偉くなったと考える人が多い。「権威」とか「権限」の裏にある契約や権限移譲という概念がすっぽり抜け落ちてしまうからだろう。

そんなの嘘だと思う人がいるかもしれないので、英語の定義を書いておく。慣習的に認められた権威はあるが、最初に書いてあるのはendorse(裏付け)である。語源の「書く」という概念がそのまま受け継がれているように思える。

: to endorse, empower, justify, or permit by or as if by some recognized or proper authority (such as custom, evidence, personal right, or regulating power) a custom authorized by time

続いて責任という言葉についても考えてみよう。責には「咎める」という意味合いを持っているので、どうしても「何かあったときに責められる役割」というように思ってしまう。だから責任を取るというのは叱られることか辞めることを意味することが多い。これも英語の意味をみてみると、元々の意味は法的な説明を求められたときに反応ができるように準備をしておくという意味になる。だから反応する・対応するという言葉の派生語が使われているのである。

例えば日本語ではよく自己責任という言葉が使われる。これは何か悪いことがあったらそれはお前のせいだから俺たちは知らないというような意味合いで使われる。これは自己を責め立てるという言葉の響きのせいだろう。しかし英語で検索すると「生命は治療のために必要な力を全て持っている」という意味しか出てこない。ある界隈で使われている特殊な用語でしかない。そもそも他人に説明するという意味の言葉なのでそれが自己に向くことがないということなのではないかと思う。連帯責任という言葉もレスポンシビリティの訳語にはならない。これにはグループで連帯的な法的責任を負うという意味でライアビリティが当てられることはあるようである。英語と日本語ではこれほど違いがある。

語源を調べてみるとわかるのだが、これらはすべてラテン語を経てフランス語から英語に入った概念だ。それを日本人が取り入れる時に「法律で定めてはっきりさせておくこと」「記録を残して説明できるようにしておくこと」「役割を明確にして説明できるようにしておくこと」をすべて一括して「何かあったら咎め立てをすることだ」と理解してしまい「〜責任」という用語を当ててしまったことがわかる。つまり法的な契約の概念がなかった当時の日本には「咎め立てる」という概念しかなかったのだろう。現在はここから「では咎められなければ何をやっても良いのだな」という自己流の民主主義の理解が広がっている。

生徒が責任を持つべきだと英語でいうと、生徒が自分たちの意思でクラスの運営を決めてその結果にも責任を持つという意味になる。このためにどんな権限が必要なのかということが議論されることになるだろう。だが、これが日本語になると、何かあった時に生徒をグループで叱責するという意味に捉える人が出てきてしまうのである。

ついでなので他の「責任」についても見てみよう。

説明責任という言葉がある。accountabilityという。もともとは「数える」だが、これは借金などの記録をしておくことを意味していた。つまり貸し借りを数えた帳簿を作っておいていざという時に説明・証明できるようにしておくことを意味している。これがビジネス全般に広がり、何かあったときに説明できるようにビジネスの詳細を記録することをaccountabilityというようになった。これも「説明系」の言葉であり、説明に失敗したら叱られるという意味ではない。また、相手の疑念に答えずに言葉遊びでごまかすことも説明責任とは言わない。問題は相手の疑念であり、その背景には相手が権力を移譲しているという前提がある。現在の安倍政権が説明責任を果たさないのは民主主義が一時的・条件付きの権限移譲であるということを理解していないからだと考えられる。

こうした契約意識の希薄さは国会議員を交えた政治議論にも多く見られる。

国民は天賦人権ばかりを強調するが国を守る義務を負うから自衛隊に入って叩きなおすべきだという意見がある。権利と義務が非対称でありその間のつながりが一切説明されていない。これは権利と義務を個人的な「貸し借り」概念に置き換えて、これだけ貸してやっているのだから借りは兵役で返すべきだというように解釈した上で、都合よく「俺に従うようになるようにお前の根性を叩き直している」という主張に利用しているからだろう。

この権利義務関係は「税金を払って恩を売っているのだから、当然あるべきサービスを受け取れる権利を持っている」という貸し借りの概念に置き換えられている。途中のプロセスが抜け落ちてしまうので、過剰な権利意識と呼ばれるのだろう。

契約概念に置き換えて「権利・義務」を厳密に使うと、「日本国民は私有財産を持つ権利があるから同時に他人の財産を尊重する義務がある」のように裏表概念として用いるべきだということになる。父兄は子弟に教育を受けさせる権利があるのでそれが行使できるように適切な努力を払うか誰かに権限を移譲して環境を整えてもらうべきだということになる。また父兄は自分たちが持っているのと同じ権利を他の子弟の父兄にも認めるべきだからお互いに協力して他人の権利を遵守する義務を負うということになる。過剰な権利意識にはつながらないし当たり前のことであり「日本人には天賦人権などおかしい」という話にはなりようがない。つまり「天賦人権などおかしい」と言っている人はそもそも権利・義務という概念をよく理解していないのだろうということになるだろう。

学校の問題は「自分たちの権利を行使するためには他人の権利を守る義務もあるということなのですよ」というだけの単純な話なのだが、権利だけを主張するわがままな人が増えたからみんなに兵役の義務を課して自衛隊にぶち込んでしまえなどということをいう人がいては却って問題は複雑化する。本来は法律について理解すべき国会議員が却って議論を混ぜかえしているという残念な状態にあるのだ。

こうした問題が起こるのは、封建的な政治意識しか持たなかった日本人が契約概念を理解しないままで英語を適当に訳してしまったことに原因の一端があるようである。

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安倍政権を倒してもバラまかれた種は消えないだろうという話

暴力のない「平和」な学校:真の恐怖とは? を改めて読み直した。短い文章なので全部読んでもらったほうがよさそうなのだが、論旨は次の通り。

先生が怒っても最終的に体罰がないことがわかっているので真剣に捉えない子供がいる。 怒られるのも嫌なので隠すがバレても反省しない。これがエスカレートして行き、全てではないが性的な嫌がらせや犯罪といえるものに行き着くこともある。 彼らにひどいことをされた人は先生と社会に不信感を持つようになる。 良かれと思って抑止力をなくした結果、学校はもっと耐えがたい場所になった。

それに対する感想も読んだ。書いたのは先生だそうだ。懲戒がないのは懲戒の実行が面倒だからなのだそうだ。現在の学校システムは普通の子供が損をする仕組みになっていると指摘する。

今回はタイトルを「安倍政権が蒔いた種……」にした。しかし、実際にはこのような風潮があるから安倍政権が生まれたのか、安倍政権がこうだから学校現場が荒れたのかということはわからない。安倍政権が学校システムを悪くしたのは学校への支出を減らし(あるいは不足を黙認している)からなのだが、先生と生徒が書いたものをみると問題点をあえて言い出す人はいないようだ。明らかな嘘をついていても認めないのだから潜在的な問題点を認めるはずはない。従ってこの問題はさらに悪化するものと思われる。このため安倍政権が蒔いた種は今後政治の規範として残り続けるのではないかと思う。さらに無責任教育が蔓延する中で道徳教育にまで手を出してしまったのだから混乱はますます広がることになるだろう。すでに先生の思い込みを正解とみなしそれ以外の意見を排除する道徳教育が行われているという指摘もみられるようになった。

原因や対策をあれこれ考えた。原因はなんとなくわかったが、対策を日本語で書くのは難しそうである。

対策は先生に権限を与えて学校を立て直すか、生徒に自主性をもたせて自律的に問題を解決することなのだろうが、日本語にはこの類の「民主主義用語」が著しく欠けている。今回「権限」「説明」「責任」「義務」「法的責任」といった言葉が出てくるのだが、裏付けがあまりにも貧弱であり一つ一つ個別にみてゆくとかなり時間がかかりそうである。

日本が国際社会において「民主主義社会の一角」とみなされつづけるためには自主的なコミュニティの運用ができて当たり前の社会にならなければならない。

抑止力がないとコミュニティが健全に保たれないという概念を国際社会に当てはめると抑止力としての軍事力や核の脅しがなければ世界の平和は保てないということになる。日本は平和憲法を持っていると言っておきながら、実際には「押し付けられた平和を嫌々守っている国」ということになってしまえば国際社会からは「反省なき国家」だとみなされることになるだろう。70年も平和憲法を抱えていたのに反省していないのだから、日本は常に監視しておかければ何をしでかすかわからない国ということになってしまうだろう。中国や韓国が責任あるアジアの大国になれば日本は用済みである。

さて前置きが長くなった。まず取り掛かりとして「なぜ学校が生徒を懲戒しなくなったのか」を考える。今回引用した先生の感想文を読むと懲戒を実行するといろいろと面倒だからだそうだ。ではなぜ面倒なのか。

高度経済成長期の学校は「先生には従うべきだ」という意識で運営されていた。これは高度経済成長期の子供達の親が今よりも権威主義的な時代を生きてきた戦中世代だからである。なんとなく先生には従うべきだという規範意識が残っていたのだろう。当時の学校には理不尽で厳しい校則があった。例えば地元の福岡県には中学生になったら丸坊主にするという校則を持った中学校があった。

ところがこうした理不尽さは徐々になくなってゆく。それは民主主義意識が進展していったからだ。この民主主義というのは保守派に言わせれば「権利ばかり主張し義務を果たさない」悪い制度である。しかし実際には見返りばかりを主張するが責任を果たさないと言い換えた方が良い。そしてこの責任という言葉が日本では極めて曖昧に使われている。

しかし、学校を健全に保つためにはなんらかの権威は必要である。天賦の権威はなくなったのだから、誰かが契約をし直して権威付けをやり直す必要がある。だが、日本はこれをしてこなかった。

一つ目の選択肢は学校というコミュニティを運営する責任は学生にあるのだから学生に任せて規範的な運営を行うべきだというものである。これが民主主義型の解決策である。学生をエンパワーメントして権威を与えるということになる。

もう一つの選択肢は生徒にはまだ判断力がないのだから先生に権限を移譲するというやり方がある。つまり先生の権威を認める「契約」を交わせば良いということになるだろう。

ここで、責任とか権限という言葉が出てきた。権限は英語でいうとオーソリティで権威とも訳される。権威というと日本語では「王様の権威」というように天賦である印象が強い。ところが英語のオーソリティはオーサーが語源になっている。なぜ作者が権威になるのか、そして合意を得ることを「オーソライズする」というのか、日本語で生活していると答えられないのではないかと思う。実はこの概念は全てつながっている。そして、英語のオーソリティには天賦のという意味はない。だから王様の権威という言い方は実は間違っている。

先生の感想に戻ると「権限も委託されていないし、それどころかどんな権限があるのかすら明確ではない」人たちが集まってもソリューションを提示することができない。だから次第に面倒になり野放しになってしまう。さらに予算が少なくなった上に消費者化した保護者から過剰な要求を突きつけられると、先生は「面倒に関わっていては自分に課せられた課題が果たせず、悪い学校に飛ばされてしまう」という意識を持つようになる。つまり、先生には権限が与えられていないどころか過剰な要求ばかりが課せられており、これが見て見ぬ振りを生んでいると言える。

もう一つの問題は生徒に話し合わせて解決策を導き出すというやり方なのだが、これは時間と手間がかかる。この解決策の一番の問題点は自治を行う学生に自由度がないということがあるのではないだろうか。例えば「私はこのように荒れ果てた学級に参加するのが嫌なので授業の時だけ来ます」と決めたとしても、それが認められる可能性はない。実行するためには予算も必要になるだろう。つまり、生徒は管理責任だけを押し付けられて権限が与えられないということになる。これも実は生徒が責任を果たすために十分な権限がないということを意味している。英語だとエンパワーされていないので責任を果たさないということになる。これも実は権限移譲の問題なのである。

問題はこればかりではない。問題行動が起こす生徒がいると保護者たちはこれを「学校の破綻」と捉えるようだ。これまで数回で見てきたように日本人は「普通は問題のない円満な状態だ」と考える。先生が書いた方の文章には、先生に必要なサポートが与えられていないという一節がある。このサポートが何を示すのかは不明であり、ここに問題の一貫があるといえるだろう。さらに次のような一節があり、その深刻さは想像以上だ。

教員も保護者も「見たいものしか見ない」し「聞きたいものしか聞かない」ものなのでした。「学級経営はうまくいっていませんが、最大限努力します」と言おうものなら、保護者は「わが子のクラスがそんな状態になっているなんて」と卒倒しそうになり、逆上して烈火のごとく怒りをあらわにします。

つまり、普通の学校はうまくいっているはずなのに、自分の子供が通っている学級だけが問題を抱えているということで「損をしている」ように思えてしまうのかもしれない。そもそも、解決策がない上に問題そのものが認知されない。するとますます問題が温存される。すると普通の学生は「誰かが上から力で押さえつけない限り人々は自制的に行動しないはずである」と考えるようになるのだろう。

こうした人たちは次世代の有権者や消費者になるのだが、関わりを最小化して自分たちが得られる見返りばかりを主張するようになるはずである。また、監視や罰則がない政治家や官僚が嘘をついても「世の中はこんなものだろう」と思うようになるはずだ。

実際にTwitter上ではこうした議論が多く見られる。ということは、学校の見て見ぬ振りはもっと前から横行していたことになる。話し合うための共通の素地がないというのがいかに恐ろしいことなのかがわかるが、これについては次回以降考えたい。

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サヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけ

このところ様々な問題をネタに「村落と普通」について考察している。これを見ていて気がついたのは日本人は一般的な理論にはあまり関心を持たないということだ。日本人が気にするのは例えば「貴乃花問題で悪いのは貴乃花なのかそれとも日馬富士なのか」という問題だったり、TOKIOの山口達也が断罪されるべきなのかそれともジャニーズ事務所が責められるべきなのかという問題だ。

この文章はサヨクも含めて日本人が絶対に人権を理解できないわけというタイトルなのだが、これはサヨクが人権を理解できないという意味ではない。人権が重要だと考える人たちさえも人権が理解できないだろうという意味である。人権はそれぞれの人たちが自分たちの価値観を持ったままで活躍ができる社会を作るための道具だ。しかし日本人は人権をそのようには考えない。だからある人たちは「そもそも人権などなくしてしまえ」というのである。

確かに、社会の特殊性や一般性について考えても自分たちの生活の役には立ちそうにない。その一方でジャニーズ事務所が悪いということがわかったところでそれも全く生活に影響はしない。にもかかわらずワイドショーは犯人探しに夢中になる。このブログもこのような話題のほうが閲覧者数が多い。わざわざ検索して訪問する人までいる。

その最も顕著な例が政治問題だ。政治問題は結局のところ安倍政権がいけないのかそれとも野党がいけないのかという問題に行き着く。一方で、日本は今後どう進むべきなのかとか、どうやればお互いが意思疎通できるのかという問題に興味を持つ人はほとんどいない。

人々が犯人探しに熱中するのはどうしてだろうか。それは自分たちの住んでいる社会を「きれいな状態」に保っておきたいからだろう。汚れはどこからともなくやってくるので、いつも掃き清めなければ「全体が汚れて」病気になってしまう。誰が悪いのかということを議論した上で、時には関係者を含めて全て追放してしまうことで清潔さを保とうとしているのだろう。さらにこれが娯楽にもなっている。誰もが叩きやすい人を叩くことで気分がスッとするのである。

この文章を書くにあたって思い浮かんだビジュアルは、全員がいつも道徳・倫理テストを他の誰かに課しているという映像だあ。人々は採点に夢中になっていると言ってもよいし、採点に疲れ果てていると言っても良い。採点している間は他のことが考えられないので、問題解決などもうどうでもよくなってしまうのだろう。

こうしたやり方にはいくつも弊害がある。

今回のTOKIOの謝罪会見ごっこではこれが顕著に表れており現在進行形で事態が進んでいる。そもそも問題の発端は山口達也さんの強制わいせつだったのだが、当事者たちが出てくることはもはやない。なぜならば当事者が出た時点で「社会を騒がせた」ことが問題になり叩かれるからである。山口さんには商品価値がある上にアルコール依存の問題もあるため守られるのだが、被害者女性には商品価値はなく守ってくれる人もいないだろう。実際に犯人特定を急ぐマスコミがいるようだ。ジャニーズ事務所はスポーツ紙を通して特定はするなと言っているが、するなと言われると「ああ、何か隠しているんだな」と思うのが人情というものだ。やがて過去の行状も含めて「汚れ」が面白おかしく暴き出されるのかもしれない。日本人はこれくらい暴いて裁くのが好きなのだ。

このことを考えて行くといろいろなことがわかる。日本人が道徳を守るのは誰かに裁かれたくないからである。つまり裁かれないという特権が与えられれば「道徳を守らなくてもよい」と考えるようになるだろう。前回「体罰がなくなったら学校が無法地帯になった」と指摘する高校生の文章をご紹介した。しかし、彼女だけが特殊なのではない。官邸がこの5年間何をやってきたのかを見ればそれが世間一般に広く浸透していることがわかる。官邸は「憲法違反に当事者がおらず誰も訴えないのであれば、憲法違反をしても良い」と理解するようになった。しばりつける縄がなければ逃げ出してもよいというのは家畜と同じである。学校が無法地帯になるのはより良い空間にして協力ができる体制を作ったほうがメリットがあると誰も思わないからだろう。伝統的に楽しい学園祭があったり、自主的に勉強して進学したい人が多い学校ではこうした問題は起こりにくいのではないか。

このように「自分は管理する側なのだ」と考えてしまうと、道徳を守る気持ちが薄れてしまうようである。それどころか自分たちは道徳を押し付ける側なのだから裁かれるのは我慢ならないと考える人もいるようである。自民党は裁かれて下野した時に「自分たちは法律を作る偉い人なのになぜ裁かれるのだろう」と考えて天賦人権という現行憲法の最も大切な理念を否定しようとした。最近レスリングでも同じようなことが起きている。伊調馨選手のパワハラが政府に認定されたので、日本レスリング協会がスポーツ庁に謝罪に訪れた。当然世間は「具体的な対応を伝えるのだな」と期待する。ところが日本レスリング協会はここで「これは誤解だった」と言ってしまった。心のどこかに裁かれることに対する拒絶心があったのではないだろうか。

「(伊調選手)本人は、パワハラを受けたという思いがあったかもしれませんが、伊調選手から私が聞いていなかったといいますか。私は伊調選手と会っていないので、会いたいなと思っております。2人で話せば誤解が解けるところもあるかなと思っております」(日本レスリング協会 福田富昭 会長)

このように戦後の日本人は道徳を誰かに価値を押し付けて管理を楽にするか、他人を娯楽的に罰するための道具だと考えるようになった。その一方で暮らしやすい社会を作るために自主的に道徳を守るべきだと考える人は少ない。

保守という人たちは、既存の道徳律に照らし合わせれば自分たちは他人に道徳を押し付ける特権を持っていると勘違いしている人の集まりなのだろう。これは実際の保守思想とは違っていると思うのだが、彼らにはどうでも良いのかもしれない。対峙するサヨクの側も採点に夢中になっており、一般的な人権意識というものを抜き出してそれを世間に定着させるべきだとは思っていないのではないかと思う。彼らが考える道徳規範は「他人を管理する」という視点か、罰して社会から取り除いてしまうという視点にしか立っていない。すると「罰則から逃れることができれば道徳は無視しても良いのだ」と思ってしまう。だから日本人は普遍的な人権が理解できないのだ。

最後の問題は彼らの採点表が普通という名前で語られていても、実は自分たちの特殊な常識の塊にすぎないということである。日本は薄暗い図書館のようなところで全員が下を向いて次から次へと流れくる回答用紙を採点しているような状態だ。すべての人が自分たちが持っている答えが普通だと考えているわけだが、それを話しあう余裕はない。だから、それが本当に普遍的な正解かどうかはわからない。時々自分たちもテストに呼ばれることがあるのだが、この時に初めて「自分が持っている答案が正解なのだろうか」と考えて立ちすくんでしまうのだろう。

これはとてつもない徒労のように思われるが、それでも顔をあげることはないので採点からは逃れられないのである。

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