ニュースやTwitterを見ると日本の社会に嘘が蔓延していることがわかる。特にひどいのは嘘をついてなんら反省する様子を見せない醜いトップの人たちの姿である。
この文章は個人の生育歴に焦点を当てて書いたのですが、その後少し改良を加えて、彼らが嘘をつくのは「勝てなくなった組織では少々のごまかしや反社会的な行為は仕方がない」という気分が蔓延するからではないかという理論に行き着きました。こちらも併せてご覧ください。
嘘をつくトップのある共通点
日本のトップと呼ばれる人たちの嘘が問題になっている。小池百合子東京都知事は1952年生まれ、安倍晋三内閣総理大臣は1954年生まれ、そして内田正人前日大アメフト部監督は1955年生まれである。年齢があまり違わない。
彼らの特徴はシステムのフリーライダーだという点にある。社会は誰からリーダーシップをとって統治する必要があるのだが、その自覚と責任がないままで出世競争を勝ち抜いてきた。つまりプレイヤーのままリーダーに上り詰めてしまったことになる。このため彼らの倫理観には偏りがある。これが社会に露出することによって様々な軋轢や衝突を生んでいる。統治についての責任感と社会的な倫理に関する理解がないので彼らは人の人生を左右する地位につくべきでなかった。このため多くの人が亡くなったり、長期間拘留されたり、廃業に追い込まれたり、前途のある競技人生を諦めることになった。
古い社会からの恩恵を受けながら新しいシステムのメリットも共有している。古い社会からの恩恵は「相互信頼に基づく優しくて曖昧な関係性」であり、新しいシステムは不安定化する先の読めない環境である。ところが「フリーランチはない」という言葉通り、このスキームはやがて破綻する。私たちが見ているのはその破綻と崩壊の過程であって、嘘はその副産物とも言えるものだ。
私たちがここから学ぶべきなのは、彼らが何を間違えたかという失敗の本質であって、嘘そのものではない。嘘に着目すると却って本質的なところがわからなくなってしまうのではないかと思える。
安倍首相は古い「お友達優遇」や「曖昧さを許容する政治風土」を利用しているのだが、一方では人事権を握って官僚組織に圧力を加えていた。さらに、改革という名目で特区を創設した。現在の政治風土では、古い政治姿勢を保っていると有権者からは支持されないが、古い政治姿勢を持っていないと仲間内から離反されてしまうのである。そもそも一貫した態度は取れないのだから誰か二嘘をつく必要がある。
小池都知事の場合は、自分は新しいアイディアを持ったキャリアウーマンであり旧態依然とした政治風土を変えるのだという刷新者・改革者としてのイメージを巧みに作り上げてきた。しかし実際には周りをコンサルタントや広告マンといった取り巻きで囲み、さらに政治経験はないが自らのいうことを聞きそうな議員を促成栽培するというような「ぬるま湯的な」コミュニティも作り上げた。これが次第に露出されると有権者は小池都知事に興味を持たなくなった。
内田監督は古くからあるスパルタ式の軍隊的な組織運営をしていた。その背景にあるのは「昔の軍隊式のやり方をすれば勝てる」という幻想だ。だが、その源泉にあったのはイエスマンのコーチたちだったようだ。彼らは人事権を握られており「成果を出すために」選手を反倫理的な行為に狩り立てるしかなかった。これは日本が持っていた終身雇用による長期の安全保障とはかけ離れた雇用形態である。人事権を使った半ば恫喝的な指示は日大全体に広がっているようで教職員組合からは反発が出ている。
日本人とモチベーション
彼らは「人事」や「ポジション」を使って人心を掌握するという手法をとる。これは日本人がどのようにモチベーションを維持するのかという点に理解がないからだろう。日本人がチームに期待する点は実は二つしかない。それは、長期の安全保障と勝てる競技への没頭だ。勝てる競技を行っている限り日本人を特に動機づける必要はない。だが、勝てなくなると不満が噴出し日本の組織は空中分解する。これは多くの大企業が崩壊と身売りの過程で経験していることだ。
日本人が内向きの倫理を守るのは長期的な安全保障からはみ出さないように内部の対立を避けているからである。そして外向きの倫理を守るのは勝てる環境を維持しようとするからだ。チームと個人の利益が一致している場合、このスキームはうまく働く。ところがこれが乱されると日本人は反倫理的な行動に追い込まれることになる。
例えば、官僚組織は情報の隠蔽を働くようになった。しかしながら「自らの安全保障」のために書類を「手控え」として残していた。上司への信頼というのは表向きのものであって、官邸は所詮「よそ者」である。日本人はよそ者を信頼しない。日大の場合は「反則行為をやらされるがチームは守ってくれない」ことがわかったので、今後選手たちはコーチのいうことを聞かなくなるだろうし、高校のレベルで日大への志願者は激減するのではないかと思われる。
ここからわかる点は信頼というのは実は道徳的価値として守られているのではなく、実利的な効果がある通貨のような存在であるということだ。だから、信頼が毀損されるとそれを元に戻すことはできない。その意味で嘘をつく日本のリーダーは社会全体から信頼という無形の資源を盗んでいることになる。
政治の場合はある程度重層的な人材システムがあるので安倍首相がいなくなれば信用通貨は価値を取り戻すかもしれない。しかし東京都の場合は歴代の都知事が積み上げてきた嘘がありいったん信頼が毀損してしまえば回復は難しいのかもしれない。
さらに日大に至っては回復不能のダメージを生むことになるだろう。学生を犯罪行為に走らせる監督やコーチにはそれほどの責任意識がなかったことがわかった。内田監督は忙しい中「何気なく」コーチを追い詰めるのだが、これが切迫感を持ったコーチによって増幅され、選手には犯罪へのほのめかしにしか聞こえないように伝達されたようだ。このような体制では、選手はチームを信頼することはできない。
西洋と日本の違い
信頼という曖昧でパーソナルな通貨を使わなくても契約と約束によって社会の公平公正を担保すれば良いのではないかと思う人がいるかもしれない。確かに西洋型の社会ではそのようになっている。個人には個人の目標があり、それが集団と合致した時に契約が結ばれて、権限の一部が移譲されるという社会である。この契約は重層的に積み重なっていて、最終的には国の法律や憲法に行き着く。法律を破ると司法が介入してきて交通整理をするという順番になっている。
ところが日本人はこうしたやり方をしない。日本人は勝てる競技を行い安全保障をしてくれる集団を最初に選ぶ。そこにあるのは信頼という見込みだけである。この中で責任は曖昧にされている。これはその時々に「柔軟に」判断ができるようにするためである。集団の中で人々は個人的な信頼によって結びついた私的な関係と公的な構造という二本立ての世界を生きることになる。このプライベートな関係が崩れるとそれを公的な仕組みで補完することはできないのである。
フリーライダーたちはどんな社会で育ったのか
フリーライダーたちが生まれた時期は日本の動乱期が終わったころだった。朝鮮戦争特需が起こり高度経済成長が始まる。彼らが生まれた時期に当たる1956年には「もはや戦後ではない」という有名な宣言が出された。さらに、10歳の時には新幹線や東名高速道路が開通して東京オリンピックも開催された。つまり、彼らが物心ついたころにはすでに高度経済成長が始まっていたことになる。この頃の日本人は右肩上がりの経済成長を実感しており「努力すれば報われる」という言葉を素直に信じることができた時代だ。
大学を卒業した時代はまだ高度経済成長期であり彼らは終身雇用制度に守られながら企業人として生きてゆくことができた。安倍首相が神戸製鋼所に入社したのは1979年だそうだ。バブルが崩壊した時安倍首相は30代の後半だった。企業であればエントリーレベルのマネジメントを卒業してミドルクラスからトップのマネジメントになるくらいの年代であろう。
1979年の日本人は海外から「ジャパンアズナンバーワン」などと言われておりその自信はピークに達していた。カイゼン運動に学んでアメリカも品質向上を目指すべきだという意見もあった。もともと日本人はアメリカから品質管理技術を学んだのだが、モトローラが「シックスシグマ」品質管理運動の熟達者を柔道に習って「黒帯」と褒め称えた1980年頃にはすっかり日本人が優秀だから品質管理が良いのだと思い込むようになっていた。
前の世代がバカに見えたのではないか
一方で、政治の世界には戦後の処理に奔走した人たちが残っていた。戦前に大蔵官僚になった宮沢喜一はバブル崩壊時には60歳であり、今の安倍首相らと同じ年代だった。この人たちはバブル崩壊の意味を理解できず、従って適切な対応もできなかった。
安倍晋三の父が亡くなったのは1991年、内田正人が名将と呼ばれた監督のもとで甲子園ボウルで優勝したのが1990年、小池百合子が日本新党に参加したのが1992年だそうである。
政治の世界では金権政治家が次々と地位を失っていった。戦前の「情にばかりとらわれる遅れた政治家」の代表が田中角栄などである。政治改革世代の安倍晋三や小池百合子の目に彼らがどう映っていたのかはわからないが「情けないアジア的な政治を排除して、もう少し合理的な政治を実現できる」という自己認識があったのではないかと思われる。こんな中で彼らが「信頼」という通貨の実利的な価値を軽視していた可能性がある。
その統治原理を明確な言葉にするような文化はなかったので「上司の背中を見て覚えた」世代である。彼らは日本流の組織統治を理解した上で西洋流の合理的な統治システムと融合させたと認識していたのかもしれない。彼らは「戦前の人たちの中には不合理な日本人性が残っているが、我々は西洋流の進んだ気風がある」と考えることでき、その結果優秀な日本人は高度経済成長を達成して本家の欧米人に羨ましがられることになったと思うことができた世代である。
嘘つきのトップリーダーの共通点 – イメージ依存と失敗からの逃避
信頼を食い尽くし、自分のものではないかもしれない成果をあたかも自分たちのもののように宣伝しているうちについに彼らはトップリーダーになってしまう。しかし、実際に自分で組織を作ったわけではないので、組織をどうモチベートし統治してゆくのかということはわからない。そこで失敗を隠蔽するために嘘が横行することになる。するとコントロールされる側の組織にも嘘が横行しやがては組織全体が取り返しのつかない機能不全を起こすことになった。
日大の場合は少し違っている。追い詰められた選手が特攻することでチームの信頼は壊滅的に破壊された。のちにわかったことだったのだが、相手のチームは仲間を亡くしており、アメフトには命の危険があるということをわかっていた。つまり、相手の意識はすでに変質していたのである。追い詰めた監督は軽い気持ちで「関西学院大学も汚いプレーをやっていたから自分たちも少しくらいはいいだろう」などと考えていたようだ。
しかし、これをトップリーダーだけの責任にするわけには行かない。成功や失敗にはそれなりの原因があるはずである。ところがこうしたプロセスは無視され表面的に成功を達成したとされる人だけが褒められ、失敗したとされる人が罰せられて出世競争から脱落してしまう。
きれいなところばかりを歩いてきた人たちは失敗から逃げてきたので、失敗から何かを学び次に生かすということはできない。勝てているうちはそれでもいいのだろうが、勝てなくなってくると失敗を誰かに押し付けて逃げ切る人がトップに立つことになる。ただこれができるのもしばらくの間だけだ。小池百合子も内田正人も逃げ遅れており、世間のバッシングにさらされている。しかしこれまで失敗から学んでこなかった彼らは問題の対応ができない。安倍首相の場合はこれがさらに進んでいて「周りを抱き込みながら社会ごともろとも堕ちて行こう」としている。
内なる倫理と外側の倫理が両方とも欠如している
彼らは日本流の信頼に基づく通貨をうまく理解できなかったが、その一方で西洋的な社会的責任という概念もうまく理解できなかった。西洋での社会的責任は日本の個人間の信頼と同じ機能を持っている。違いはそれが個人的な関係に基づいているか、社会全体で共有しているかの違いだけである。このため彼らの「西洋流」にはどこか自分勝手な解釈が見られる。
安倍首相のいう力強いリーダーシップとは部下にすべての面倒ごとを丸投げして、自分は最後の演説をするという意味だ。責任を引き受けて自ら率先して部下にビジョンを示すということはない。
小池百合子都知事のアウフヘーベンは本来は二つの対立する概念を別の視点によって解決することだが、彼女の理解しているアウフヘーベンは「まあまあ・なあなあ」という日本的ないい加減さの言い換えにすぎない。
内田監督の「相手が潰れたら自分たちが得」という発言からは、個人主義に基づく成果主義の概念が歪んで捉えられていることもわかる。相手を潰すのは選手だ。監督は自分が傷つかないような安全地帯を作った上でリスクを指導すべき選手に負わせて「自分たちの得」といって成果だけを受け取ろうとしている。
現代的な成功の理論の上澄みだけをすくい取り、泥臭いところを人に押し付けた上で、不都合があると他人を切ってきた。このことが多くの人の反感を買っている。
私たちは彼らを糾弾すべきなのか
彼らの世代は古い日本の資産を食い尽くし、かといって新しい概念も理解しなかったという点にあった。しかし、これを批判して社会的に抹殺するだけでは問題は持ち越されるだけである。つまり、それに続く世代も同じような間違いを繰り返す可能性があるのだと思う。
私たちができることは、彼らの失敗から何を学ぶかだろう。