何もしたくないが話題には乗っかりたい都知事

目黒の五歳児の虐待問題について考えている。摘発があったのは3月であり、あの「かわいそうな」手紙が公開されるまでそれほど話題にならなかったのだから「社会が見殺しにする」などと声高に叫ぶつもりはない。しかし、それにしても今回の政治家の対応はひどいなと思った。浮き彫りになるのは、話題にはなりたいが何もしたくないという政治家の姿である。こういう外見の良い人たちに期待したことがあるので余計腹立たしさを感じる。リーダーシップのなさというより有権者はなめられているのかもしれない。

小池都知事は会見で記者たちに児童相談所の体制を24時間365日にすると表明したそうだ。区役所と児童相談所の連絡体制も密にするとのことである。「早速、動いてくれているのだな」という印象を持つ。

ところがこれとは全く違った情報も出ている。上田令子都議(「かがやけ東京」という音喜多都議との二人会派のようだ)が関係各所への連携について都議会に質問した所「現状維持」という回答が戻ってきたのだという。小池都知事も「現状維持」回答だったとのことである。文中に次のようにある。110番通報とあるところから関係各機関が警察を含んでいることがわかる。

先にあげた事例は、関係各機関が機動的に動いていれば防げた事案です。このような痛ましい虐待死事件が繰り返され手遅れになる理由として、虐待を把握していながら児相が家庭訪問をしなかった、不在だった、子の現認を怠ったケース、110番通報が入っても、児相との情報共有がないため見逃してしまうケースが散見され、児相、区市町村が関与しながら虐待死に至った子供は、過去10年で26名に上ります。

小池都知事が言っていた「連携」とは区役所と児童相談所という自分の縄張りの連携である。一方、上田さんが言っているのは「警察も含めた」連携である。つまり、東京都はなんらかの理由で他の役所が介入してくるのを嫌うのである。また、小池さんは予算については言及していない。同じ予算でカバーする領域はそのままでも「児童相談所に頑張ってもらう」ことで24時間体制は実現できる。つまり、ポーズのために職員を犠牲にしているということになるだろう。

もちろん、警察がやみくもに様々な役所と「連携」することは慎重に議論されるべきだろう。しかし、実際には予算が足りないなどとの制約が出ている。政治家は予算措置が講じられないなら進んで各所との連携を議会に諮るべきだろう。警察介入を嫌うはずの共産党が賛成に回ったことからもその緊急性が想像できる。

もちろん小池都知事が関係各機関との連携を拒否しているわけではないだろう。だが、少なくとも彼女はこの話題に「乗りたい」だけであって、関係各所に頭を下げてまでは子供の状況を変えたいとは思っていないということがよくわかる。豊洲や築地の話から見てわかるように、記者会見で格好の良いことは言いたいが何もしたくない人なのではないかと思う。

引用した上田さんの文章は政治家とは思えない下品な書き方がしてある。キャラを立たせたいために却って信頼性を損ねるように思える。言いたいことが真っ当なだけにもったいない印象を持つ。

世論はひどい親を叩きたい人たちだけかもしれない。だから、本格的な議論には繋がらないだろう。しかし事件に注目が集まったのだから政治家はそれを利用して状況の改善に努めるべきだし、また世の中をよくしたいと考える人が政治家であるべきだ。しかし、実際に政治家たちは単に世間の注目を集めたいだけで、その意欲がない。

同じような思惑で動いているように思えるのが東京選出であり過去都知事に近い動きを見せていた長島昭久衆議院議員である。希望の党を作って民進党を破壊した中核のいわゆる「保守」の人たちである。この人も、どうにかして「児童相談所」のやる気の問題にしたいようだ。援護射撃のつもりなのかもしれないが、あまりにもあからさまである。

彼らはネットは劣情の渦巻くところであり、誰かを指差せば勝手に炎上してくれると侮っているのではないだろうか。せめてもの救いはネットにはそれなりの判断機能があり、彼らの主張が全く顧みられておらず、全国的にも支持が広がっていないという点だろう。現在無所属を含めた旧民主党系右派に注目が集まらないのはいいことだ。保守を自認しながらこの程度の認識しかない。

安倍政権はトカゲの尻尾切りで政権の延命を図り、日大アメフト部の監督は選手が勝手に勘違いしたという言い訳をして逃げ切ろうとした。日本では声をあげられない人たちに責任を被せて逃げ切ろうとする自称リーダーが多すぎるように思える。さらにネットは劣情渦巻く空間であり何をしても構わないし、有権者はバカだから見栄だけ切っておけばあとはなんとかごまかせると考えているのだとしたら、それは考え直した方が良いと思う。

小池都知事は学歴を誇大に伝えたという疑惑があるそうだ。その件を聞いた時も「前から噂があったことだし、みんな知っていて黙殺していたのだから、それくらいで騒ぐのは如何なものか」などと思っていたのだが、もしかしたら本当に政治をやってはいけない人たちなのかもしれない。今後良識のある政治家が登場して状況が変わることを期待したい。

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母性という密室が子供を殺す

目黒の女の子の虐待死について考えている。外側からの規範意識を無自覚に受け入れた結果として子供を殺してしまう母親についてだった。エントリーでは母親が自分の理解した「母親像」を押し付けた結果子供が亡くなったというように分析したのだが、その後に読んだハフィントンポストの記事によると、父親が子供たちを支配しており、母親はそれを黙認していたというような図式になっている。いずれにせよ東京の子育て環境が密室化しており、両親の病んだ支配欲求を満たすのにおあつらえ向きの空間になっていたということがわかる。

この件に関する政治家の動きで一番腹が立ったのは小池百合子都知事の対応(日経新聞)だった。非難の矛先が自分に向くことを恐れたのか、早速政治的なポーズを見せた。なんの総括もせず具体的なことも部下に丸投げするのだろう。この人にリーダーシップを期待しても無駄なのだが、それにしてもひどすぎると思う。

ただ「支援がなかったのだろう」とか「この人は特殊なのだろう」と考えること、気持ちを収めたいという受け手側の事情もわかる。こう考えることで日本人が持っている母性信仰に逆らわずに済むからだ。だが、実は母性は適切な環境なしにはそれほど頼りにならない。病化すれば却って母性が子供を苦しめることになる。

この母親は生きてゆくために夫の規範を受け入れた。つまり生きてゆくにはそれが最適なのだと子供に教えたかったのだろう。それは子供が動けなくなるくらい衰弱しても「勉強のノルマを果たせなかった」という理由で折檻するというような病んだ規範意識である。確かに病んではいるが「無批判に大人のいうことを聞く」というのは典型的な良い子の姿である。先生のいうことを聞いていればそれでいいのだと教えられて、内的な批判精神を一切持たないまま育つ日本人はこの母親の姿勢を笑うことができないのではないかと思う。

これは、国や社会が「子供は国のために犠牲になって死ぬべきである」という規範を持った場合、母親が援助者として機能するということを意味する。つまり、国が戦争を求めた場合、母親は喜んで子供を戦場に送り出してしまうようになるだろう。それがその社会の「良い子」の姿だからである。

この無批判な精神は大人になるとさらに強い規範意識に縛られる。それが「女の人はうまれながら優しい母親である」という思い込みだ。こうした議論に加担する人は、優しい自分を見せたいだけであって、対象物にはそれほど興味がないのだろ。しかし、正解であるという思い込みが強ければ強いほど人気の題材になる。前回の聖書の例で見たように「これさえ掲げておけば安心」という正解だからである。

もし仮に「母性は病化する」などと主張してみても「お前の個人の意見など聞いていない」と黙殺され罵倒されるはずである。政治家の中にもこうした論調に乗ろうとする人がいる。冒頭に挙げた小池東京都知事もその例である。「わかりきっている」とされたことに乗って人気を取るという薄っぺらさが彼女の戦略だからだ。

今回のケースの場合、母親は周囲に助けを求めることができたし、実際には救いの手が差し伸べられていた。それをやらなかったのは母親が「合理的な」選択をしたからである。彼女は二人の男性との間に子供がいた。一人は子育てをするつもりがなく、もう一人は子育てをするつもりがあった。「どちらかを選ばなければならない」となった場合、子育てをするつもりがない父親の子供ではない方を「取った」ということになる。先程は「母性は不健康な状態になる」と書いたのだが彼女にとっては「合理的」ですらあったかもしれないのだ。

目黒の事件は確かに極端なケースだ。しかし、あるべき母親像に苦しめられる人は多い。「母が重い」と感じる娘が話題になったのはもう数年前になる。この日経WOMANの記事は2014年に書かれている。主に問題なっているのは「女性は家のことを完璧に取り仕切るべきだ」という社会規範に囚われてしまった母親だ。子育てがその人の「中核的な事業」になってしまうと、子育てが終わっても子供に依存することになる。家庭に入ることで母親は全てを諦めなければならなくなり、同じ生き方を娘に押し付けたり、あるいはその反動として娘に違った生き方を強要するというケースがあるようだ。BuzzFeedは5冊の本を挙げて「毒親」について解説している。

密室になった親子関係が子供を精神的に殺してしまうというケースは日本では見逃されがちである。それは親密な親子関係が美談として語られるケースが多いからである。小池都知事の他にもこれを利用しようとする人がいる。男性はさらに無責任で、子育てを女性に丸投げしようとする。

適当なラベルがないので「保守」とするが、父親から見た理想の家庭を国民に押し付けたい人たちは、家の問題を母親に押し付けて「あとは自動的に健全な子育てが進む」と考えている。例えば萩生田光一は「子育てはママがいいに決まっている」と言っている。これは「子育てを母親に押し付けている」という反発を受けている。はっきりした統計はないがと開き直っているところから、この主張には何の根拠もない。

母親は毒になる。これを防ぐためには「どのような関わり方の育児がいいのだろう」と考えた。家族という密室を作らないためには、社会全体が子育てに携わる必要があるのだが、それは何も地域の人たちが保育施設を作って子供の面倒をみるというようなことではないのではないのではないか、と思った。むしろ、子育てに専念するような環境を作ってはいけないのだ。

もともと人間にはいろいろな役割がありその役割の中でいろいろな関係に囲まれている。例えばあるお父さんは会社では課長であり地域の野球クラブの一軍コーチであるという具合である。この中に子供が組み込まれれば良い。お母さんにも職場、地域のネットワーク、家庭があれば一つのところに閉じ込められて子供に依存する必要はなくなる。

実はこのようにして解決できる問題はいくつもある。学校が世界の全てだと思えばいじめから逃げるために自殺する人が出てくる。会社の評判が全てだと思い込むと過労死でなくなる。そしてアメフトが全てだと考えると違法タックルに追い込まれる。全て「社会の密室か」の問題が背景にあることがわかるだろう。

ただ、こうした複合的なネットワークを実現するためには、変えなければならないものがいくつもある。例えば職場に子供を連れて行って良いことにしなければならないし、お父さんもお母さんも自分の裁量で仕事が調節できるようにしなければならない。さらに、今学校に丸投げしている課外活動に両親や祖父母が参画することになる。そのためには、誰かがビジョンを作ってそれを実行することが求められる。これをリーダーシップと呼ぶ。

日本人はビジョンを作って協力し合うのがとても苦手だ。代わりに箱を作って全てをその中に密閉しようとする。小池都知事の方針について反発したのは彼女の方針が「密室作り」の延長でしかないからだ。リーダーシップのない政治家は適当に口当たりの良いことだけを言って箱を作りあとは何もしてくれない。児童相談所の人たちが他部門に協力を求めたとしてもその調整は彼らが独自にやらなければならない。実はこの「社会の密室化」は社会全体の問題であり、母性はその中でこれまでも静かに病変を育んできたのだろう。

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船戸結愛ちゃんの届かなかった叫び

目黒で5歳の女の子が殺された。警視庁が子供のメモを公開し「親が許せない」というトーンで報道されている。今回は「人が育つ・育てる」というのはどういうことなのかということについて考える。

なおこの文章は「孤立した母親が自分が理解した規範を娘に規範を押し付けている」という見方で書いているがハフィントンポストの分析だと父親が規範を押し付けていたというように読み取れる。女はモデル体型ではないといけないと言っていたのは父親だというのである。

確かにこの訴えを聞いていると両親が許せないというような感情が湧き上がる。毎日新聞に子供のメモの全体が掲載されており、ワイドショーの中にはタレントに涙まで流させて扇情的に扱ったところもあった。

ママとパパにいわれなくってもしっかりとじぶんからもっともっときょうよりかあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします

ほんとうにおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだから やめるから もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします

だが、本当にこの話は単に扇情的に扱われて良いのかという疑問がある。結愛ちゃんの叫びは我々には届かなかった。親が子育てに失敗したという見方もできるだが、社会が母親を育てるのに失敗したとも言える。社会が人を育てるというのはどういうことなのだろうか。リベラルの識者がいうように単に児童相談所の予算を増やせば良いのだろうか。

最初、報道を見ないで考察したのだが結果的にはかなり外れてしまった。この後フジテレビの情報番組で情報を補足した。その中で見えてきたのは二つの行動原理である。夫の方は動物の基本通りに行動している。自分の遺伝子を確実に残すために邪魔な子供を消そうとしたのだ。報道によるとリーダーシップもあり仕事もできる普通の社会人だったというだけに恐ろしさが際立つ。一方で母親の方がもっと屈折しているのだが、報道では「夫の暴力を黙認した半ば被害者」のような扱われ方になっていた。

夫の方は比較的単純に分析ができる。父親と結愛ちゃんの間には血のつながりがない。このことからこれが一部の猿などで見られる典型的な子殺し案件だったということがわかる。普通の男性は何らかの理由でこれを抑え、代わりに共感と愛情を育んでゆくがこの人にはそれができなかった。「経済的に余裕がないから虐待したのではないか」と思ったのだが、年齢も離れており仕事も持っていたということで、経済的に余裕がなかったということは言えないようだ。

猿の中で子殺しをするので有名なのは、ハーレムを作るハヌマンラングールという猿だ。強いオスがハーレムを乗っ取ることがあり、前のオスの子供をすべて殺してしまうそうだ。サルの場合は子育てをしている間は発情が抑えられるので子供を「取り除いて」発情を促すという側面もあるという。遺伝子を残すという意味では合理的な行動である。だが、これは人間の世界ではやってはいけないことである。

痛ましいのは、児童相談所の摘発が転居のきっかけになっている可能性である。東京新聞によると食品会社を退職して東京に移っているのだが勤めていた会社は摘発(書類送検されたが不起訴)について全く知らず「子供のことを考えているよい父親だ」と感じてたという。しかし、結局この転居は「逃げるため」のものになった。東京ではさらに念入りに隠蔽工作が施される。結愛ちゃんについて知っている人がほとんどいなかったうえ、事情を知っていた児童相談所も結愛ちゃんに会えなかったようだ。目黒には児童相談所はなく品川などの広い区域を少ない人数でカバーしていたそうである。

問題は母親である。子供を安全保障に使っているということと夫の行動を黙認しているという点では動物的な側面を持っていると言える。だが、本当にこの人は、新しいオスに子供を殺されるだけの被害者だったのかという問題がある。

まずフジテレビのワイドショーは「支配」というキーワードを用いていた。児童相談所勤務経験のある人の証言では、虐待する母親ほど子供に執着することがあるのだそうだ。この手紙も自発的に書いたものではない可能性があるという。つまり、結愛ちゃんはこれを忖度して書かされていたことになる。忖度と言っても支配するためには直接的な暴力や言葉による罵りが行われることがある。つまりこれは結愛ちゃんの考えではなく母親の規範である。政治の忖度と同じように児童相談所にこれを見せて「子供が言っている」として正当化の道具に使う親もいるそうである。

次のキーワードは「理想の(あるいは普通の)家族」である。結愛ちゃんは近所からも隠されて「あんな子供がいたことを知らなかった」という証言があった。つまり近所には「完全な(つまり血のつながりだけで形成された)家族」を演じていたということになる。

母親は子供に「社会的規範」を移していることがわかる。手紙から伝わっているキーワードは「こつこつ努力すること」「遊びのような無駄なことをしないこと」であり、供述からわかるのは「モデルのように美しくなること」である。が、このキーワードは一体どこから出てきたのかはわからないが、コツコツ努力できなければ叩かれても良いとか、モデルのように美しくなるためには成長に必要な栄養を与えなくても良いというのは明らかに暴走だろう。

例えばこれを自分に向ける女性もいる。モデルの女性を見て羨ましく思った女性が自分に価値がないのは美しくないからだと考えて拒食症に陥ってしまうというのがその例だ。彼女はそれぞ自分には向けずに娘に押し付けていた。つまり、社会が彼女を「育て」て、彼女は娘を「育てて」いたことになる。この規範の移転も実は母親の「機能」なのである。

だが、この機能には修正装置もついている。それが社会である。この社会がなかったのなら「社会が悪い」で済むのだが、実はそうでもなかった。

人間は猿よりも寿命が長いので祖父祖母という存在がある。つまり、祖父母が間に入って介入できれば「惨劇」が防げていたのではないかと思った。だが、これ想像とは異なっていた。母親は親と同じアパートに住んでおり、新しく結婚するまでは交流もあったようだ。最後に食事にも出かけていたことから放置されていたわけでもなかった。

国も制度を持っていた。児童相談所は虐待について知っていたわけだし、それなりに心配もしていたようだ。香川では二回の虐待騒ぎが起きているから「移動させると大変なことになる」と指摘した人たちもいたという。だが、目黒ではそれがうまく行かなかった。

今でも不十分なセーフティネットだが、それが取り除かれあるべき規範意識を社会が押し付けるだけになるとどのような問題が起こるのかが予想できる。そしてその時に最大の「加害者」になるのは無批判に外的な規範を受け入れてしまう母親である。

ここに出てくる人たちは核家族という集団で規範を作ろうとしていた。ただし、核家族は拡大家族や地域社会から閉じこもる道を選び、さらにその中では家族から母娘が閉じこもる道を選んだ。この小さな集団は短い間に暴走し、最悪の結果がもたらされた。結愛ちゃんの叫びは何重にも密閉され警察に発表するまで誰にも聞こえなかったということになるだろう。

自民党の憲法草案は「あるべき家族像」を政治家が国民に押し付けても良いという考えのもとに作られている。と同時に社会はこれ以上のお金は出せないからそれは家族がお互いに助け合って何とかすべきだとも主張する。

よく「子供を戦場に送らせない」というリベラルの主張がある。この母親が特殊な人であったとしたら暴力的な社会から子供を守る母親たちが子供を守ることになる。しかし、もしこの母親が特殊でないとしたら、夫や社会の暴力にさらされた時、母親はそれを黙認するばかりか、子供を進んで危険な場所に送り出すようになるはずである。どちらが多いのかはそうなってみなければわからないが、もし悪い方の予想が当たればそれは取り返しのつかない社会の失敗になるだろう。

自民党は社会を作ることに関心がない政党である。働き方改革でも、彼らなりのビジョンを押し付けた上で「柔軟な働き方ができるように規制を取り除く」と言っているが、その労働市場がどうやったら作られるかということについては一切興味を持っていないようである。

もちろん、自民党が今回の事件を引き起こしたなどと主張するつもりはないのだが、今でも母性というのはかなり危険な状態に置かれており、家族も密室化している。社会がどう形成されるべきかという視点を持たない政治はこの状況をさらに悪いものにするだろう。

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内田イズムが復帰する時

また日大のアメフトの問題である。「もういいよ、加計学園問題について追求しろよ」と思う人もいるかもしれない。だが、ちょっと嫌な話を思いついたので書かずにいられない気分になった。

内田監督は断罪されて少なくとも関東のアメフト界からは追放された。しかし経営者として学校には残るようである。今、テレビ朝日のワイドショーを見ながらこれを書いているのだが、テレビ朝日はややリベラル寄りの姿勢なので「理不尽な監督の支配から脱却して民主的で合理的なスポーツに戻るべきである」という論調で話を進めていた。これは「普通の」感覚であろう。

確かにそうなのかもしれないのだが、もしこれで日大が勝てなくなったらどうするのだろうかと思った。この件で普通の私たちは大いに清々しい思いをしたのだが、勝てなくなった時に「ほら、昔のスパルタのほうがよかったでしょ」などと内部の人が言い出す可能性があるのではないかと思ったのである。

同じ感覚を共有しているコメンテータはアメリカ流のコーチングを採用すべきだと言っていたが、司会者らにスルーされていた。現在の経営陣がこれを許容する見込みはそれほど大きくなさそうである。

もしそうなった時チームはどうなるのだろうかと思った。内田監督はいなくなったが経営陣には残るので同じように成果を求めるだろう。そして内田さんは「正解」を知っていると思っている。それは選手を恫喝して追い込むという方法である。もし、新しいやり方で成果が出なかった時、現場のプレイヤーはそれでも新しいコーチングを続けることができるのかと考えると、かなり気持ちが揺れるのではないかと思う。新しいコーチングが正解かどうかはわからないのだが、少なくともシゴキでは一度結果が出ているからである。もし、そこで古いマインドセットが復活すれば、中から自浄作用を働かせるのは以前より難しくなるに違いない。

すでに日本のアメフトはアメリカのレベルから遅れていることはわかっている。アメリカでスポーツを学んだ人たちは異口同音に「日本のやり方は不合理だ」と指摘する。アメフトにもそのような声がある。さらに新しくわかってきたところによると「日大のOBでも日大には子供を入れたくない」という人が現れているようである。こうして、新しく変わることに失敗した組織はそのまま衰退してしまうのである。

なぜこのような話を思いついたかというと、もちろんこの話を政治と重ね合わせているからだ。2009年までの数年間、政治には「有権者の手で政治が変えられる」という期待があった。しかしながらそれが失敗に終わってしまった(あるいは失敗に終わったと見なされた)ために、やはり政治を変えるのは無理なのだというような失望に変わっている。そう考えると日本は一度内田監督が退任た世界ということになる。

日大の例に戻ると、日大はこれから独自の指導方法を確立する必要がある。スパルタ指導はよくなかったという認識はあるわけだが、同時にスパルタ以外の指導方法は実践も研究もしてこなかった。彼らは今期は試合に出ることができないので、これからの一年を新しい指導方法を確立するのに充当すべきなのだが、学校側が外部からの指導者を受け入れそうな様子はない。

同じように日本も「今のような曖昧な意思決定と縁故主義に侵された政治は嫌だ」という気分はある。ただし、一度それ以外のマネジメントを実践しようとして失敗した過去がある。加えて自分たちが麻生政権まで行っていたマネジメントがどんなスタイルだったのかということを整理できておらず、そのために反省ができないという状態である。さらに野党側は首相の不正追求に執着しておりマネジメントスタイルを整理した上で国民に提案するというようなことはやっていない。日本人は内省を嫌い集団での競争に熱中するからである。

「まともな人であれば安倍政権は支持しないであろう」という感覚は当然なのだが、ではどのような政治を希求するのかということを、これを読んでいる人たち一人一人に聞いてみたい。多くの人は「まともな民主主義が回復されるべきだ」という普通の感想を述べても、それがどんなものなのか他人に説明できないはずだ。「普通の民主主義で<成果>が出ると確実に保証できるのですか」と聞かれると言葉につまってしまうからである。

たかがアメフトの問題という言い方はもちろんできるわけだが、実はかなり大きな学びがある。体制を崩すのはそれほど難しくないが、新しいものを作るのはとても難しい。そして、一度失敗したところから学びなおすのはさらに難しいのである。

日本人は「民主主義というのは誰かが正解を与えてくれる社会体制ではない」ということを理解しなければならない。ただ、明治維新以来「こうすれば勝てる」というゲームを政府から与えてもらっていた「普通の人たち」にとってこれはかなり恐ろしい社会なのかもしないと思った。

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日大の危機管理はなぜ世間からの怒りを買ったのか

今回はこのTweetから、日大の危機管理の問題について考える。このお話を読むとなぜ日大病にかかると時代から取り残されるかということがわかる。

永江さんは、日大の危機管理と我々が考えている危機管理は違っていると言っている。だが、この細切れのTweetからはいったい何が違っていて、なぜそれが起きているのだろうかということはわからないので、自分なりに補足してみた。

今、大げさに「日大は日本の問題が凝縮されている」と騒いでいるのだが、実は半分嘘である。日本の「日大病」には特有のメカニズムがある。非言語によって獲得された知識が客観視されないままで暴走すると歯止めが効かなくなる。個人の判断も停止されており、トップも状況を客観視できなくなる。だが、勝てなくなった組織が不正に手を染めるという現象自体はそれほど珍しいものではない。

同じことが20世紀終わりのアメリカでも起きていた。エンロン事件ととかワールドコム事件という言葉を聞いたことがある人もいるかもしれない。エンロン事件はもともとエネルギーを扱っていたエンロンが会計操作をして業績をごまかしたという事件である。エンロンには社会的非難があtまり2001年に破綻した。エンロンが不正に手を染めたのは株価維持のために「勝ち続けなれればならない」と考えた。株価を維持するためには業績がよくなければならないので、様々なテクニックを使って会計をごまかした。しかし、当時の会計基準ではこのエンロンの不正を暴くことはできなかった。さらに関わっていた会計事務所のアーサーアンダーセンも多分知っていたのであろうが「知らなかった」で押し通したので、アメリカ全体を巻き込んだ大きな騒ぎとなった。

こうした背景や経緯は今の政治の文書不正問題や今回の日大のアメフト部の問題と似ている。だが、その対処方法はかなり違っている。

アメリカは幾つかのことをやった。まずエンロン事件を防止できるようにサーベンスオックスレイ法を制定して会計監査を厳しくした。結果、アーサーアンダーセンは閉鎖に追い込まれたのだが、当時の基準では違法ではなかったのではないかと言われているそうだ。にもかかわらず炎上を恐れたアーサーアンダーセンは操作の段階で資料の廃棄も行ったそうである。さらにMBAでは倫理教育を行うようになった。エンロンやアーサーアンダーセンにはMBAホルダーが多く、このままではMBAホルダーが悪の根源だという認識が広まりかねなかった。

この結果、MBAではコンプライアンスという考え方を教えるようになった。コンプライは遵守するという意味だが、遵守する対象には法律と社会的規範が含まれている。

アメリカ政府が法律を作ったのは金融市場を守るためである。不正が蔓延すれば金融市場の透明性が失われて外国からの投資が引いてしまいかねない。MBAにも優秀な生徒を集めなければならないので「倫理も教えており不正にはコミットしない」という姿勢を示す必要があった。

日大病は「内と外」が乖離することによってコミュニケーション障害が起きるという問題があった。一方でアメリカ社会は移動を前提としており透明性を確保する必要があった。日大と他大学お対応を見ているとよくわかるのだが、日大は「自前で囲い込んで生徒にいうことを聞かせる」ことを前提としているので不正が蔓延しやすい。一方他大学は「生徒を確保する」必要があり他校との交流もあり自浄作用が働きやすいと言える。つまり、日大と他大学のアメフトコミュニティでは「関係者」が違うのだ。関係者をステークスホルダーと呼ぶ。

このような経緯からMBAを通じてコンプライアンスという言葉が一般化することになった。「ステークスホルダー」という考え方もここから生まれる。つまり、企業は株主の利益の最大化のためだけにあるのではなくその他の関係者である顧客・従業員・納入業者など全てを満足させるべきだというような理念である。健全な日本の企業にも「三方よし」という考え方がある。

このことからリスク管理の理念も変わってゆく。もともとはダメージコントロールのような理論だったのだろう。永江さんのいうところの「警察的な総会屋対策」などはそれにあたる。だが、今の危機管理理論ではそのように考えないはずである。クレームを行ってきた人がどのようなステークスホルダーなのかということを理解した上で、危機管理をこの人たちに「正しい価値を伝えるためのオポチュニティ」として捉えるというように変化した。

永江さんは返信の中で総会屋対策は耳を貸さないことと言っている。これは総会屋がルールに則っていることを偽装しながら総会を破壊しようとするからである。内田前監督らの記者会見は「タックルしてくる危険なマスコミ」から内田監督らを守るために行われたのである。

一方で、日大の当該選手のインタビューには幾つかの目的があった。表向きの目的は謝罪だが、その謝罪を通じて「監督の指示があった」ということを伝える機会を作った。これは危機管理としては極めて正しいやり方である。と、同時に選手の弁護人は「できるだけ正確に包み隠さず伝えること」により、受け手が常識的な判断の元に「正しく判断してくれるであろう」と信頼した。つまり、関係性を結ぶことに成功したことになる。つまり、インタビューアは敵対者ではなく協力者になり得るのである。

内田前監督と同じことをやろうとしているのが安倍政権だ。野党は「政府の揚げ足を取って政権を奪取しようとする総会屋」のような存在であり、デモに扇動されるような人たちはすべて「総会屋に操られた手先」である。だから彼らのいうことに耳を貸さないのが危機管理の基本になっている。このため、自分たちに投票しない有権者もマスコミもすべて「潜在的な敵」である。確かに防衛には成功しているが、潜在的敵からアイディアをとってくることはできない上に、弱みを見せると攻撃されるので不都合な情報は隠されることになる。こうして騒ぎが広がってゆくのだ。

安倍政権は「自分たちの正義を実現するためには職員が自殺したり書類が改竄されるくらいは構わない」と思っているはずだし、内田前監督は「日大が勝ち続けるためには、相手選手が潰れるくらいは少々の犠牲に過ぎないし、選手の一人や二人の将来が「あんなことくらいで」なくなるなら、最初からアメフトなどやらなければよかった」と思っていたはずだ。彼らはある意味ディフェンスに成功している。だが倫理観もディフェンスされてしまうために「外側とは異なった倫理観」を持つことになってしまうのだ。

アメリカの経営がエンロン事件から学んだのは「インチキはいけない」ということなのだが、それにとどまらず、危機が起きるということはチャンスでもあるのだということを学んだ。彼らは好んで「漢字ではリスクは危機と書く」という。つまり日本では危機というのはデンジャーであると同時にオポチュニティだというのである。

日大は周囲から隔絶される道を選び、それに沿った形での危機管理を発展させた。周囲からの攻撃を恐れているので、政府からの天下りを受け入れて警護を固めようとしている。日本政府にも同じような考え方があり、彼らの基本戦略も情報鎖国である。日大アメフト部はこの結果アメフト界から排除されようとしているのだが、日本政府にも同じような状況に向かっているのかもしれない。ただ、この時点では国際社会から排除されるのか有権者から排除されるのかはよくわからない。

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日大病の病理と起源 – なぜ「日本の闇」が日本大学に集まるのか

もはや日本語が話せない日大病患者

ワイドショーで面白いものをみた。日大の常務理事の一人が政府への説明に訪れた。記者たちに囲まれたこの理事は一言も発することがなかった。代わりに視線をちょっと動かす。すると機械仕掛けのようにお付きの人が「すみませんでした」と謝るのである。

この光景をみてかつて1980年代にアメリカ人が日本人に対して持っていたであろう心情を味わっているのではないかと思った。日本人ビジネスマンは何を考えているのかわからない。代わって説明をするのは英語通訳なのだが、どうやら正確には翻訳をしていないようだ。日本では英語通訳者の地位はとても低く、日本のビジネスマンが何を考えるいるのかはよくわからない。日本人は内なる言語日本語と外向けの説明言語英語を使い分けており、英語の地位はとても低いようだ。これが、当時のアメリカ人が日本人に持っていた感想だ。

この構造が21世紀にも引き継がれているらしい。日大は内なる言語と外なる言語を使い分けている。外なる言語は記者向けの「ごめんなさい」というボキャブラリしかない。説明責任どころか説明する言語しか持たないのが日本大学なのである。これは「説明責任」という言葉に抵抗を示している麻生財務大臣に似ている。麻生大臣にとって記者に説明することはすなわち自らの敗北を意味する。ルールを設定し話したいことを決めるのは偉大な自分のはずなのにそれが周りに理解されないから麻生大臣は苛立っている。この日大の常務理事も同じような「屈辱」を味わっていたのだろう。

この外なる言語を持たないのが今回ご紹介する「日大病」の症状の一つである。日大病は毎日のようにワイドショーに取り上げられている。いろいろなキャラが出てくるが全て罹患者で説明をすればするほど「嘘つきだ」とか「何も説明していない」と言われる。しかしこれは表面上のことである。世間が炎上するのはすでに人々が日大病の毒素にさらされていてアレルジックな症状を引き起こすからだ。

もう少し日大病について見て行こう。

言葉が信頼できない社会では反社会的行為が信用の通貨になる

アメフトの学生連盟が内田監督とコーチの関与を認めたようなので、内田前監督とコーチが嘘をついていたと認定しても構わないようだ。以下はその前提の元に分析を進める。ただ内田前監督は嘘をついているわけではない。内田前監督は内向きの言語で語ったのである。だが「組織のために個人が切り捨てられても構わないではないか」というのは外から見れば反社会的な信仰だ。

あるワイドショーが面白い理論を提唱していた。コメンテータが持ち出した理論によると選手は直系の弟子として見込まれたと想定する。そこでボスに絶対服従するかどうかを試すために無理な課題を出されたというのだ。篠竹監督・内田監督・井上コーチは同じ高校の出身のようで選手はその直系にあたる。そこで「忠誠心を試すために」このような課題を出されたのだという説明になっている。背景にあるのは学校ではなく学校の外局のような存在の事業会社だ。すでに一部のメディアで取り扱われていて、ここでは「殺人タックル」という名前までつけて事件を煽っている。それを取り上げたいが証拠がないのでコメンテータの作家に言わせたのかもしれない。

一度コミットしたら逃げられない

背景には組織としては反社会的な行動をとらなければ勝てないという見込みがある。みんなやっているのだから仕方がないということなのだろう。そのためには自分の良心でなく組織に従って動く「コマ」が必要なので選手はそれにリクルートされたのだ。これは彼らの社会では栄誉なことであった。彼らの誤算は彼が少しばかりやりすぎたこととビデオとSNSが存在していたという点である。

だが、それだけでは「コマ」たちが余計な良心の呵責を感じて逃げてしまうかもしれない。そこで彼らは別の手段をとる。それは日大アメフト部を途中退部すると有名企業の人事部にお触れが回るというような話だ。なぜかITメディアが伝えている。

日大アメフト部のOBからは「もし内田監督から嫌われたり、自主退部したりしたら『○○は使い物にならないよ』と各一流企業の人事担当者に通達されてブラックリスト入りしてしまう危険性もある。だから部員は是が非でも監督にだけは逆らえない環境が整う」と指摘する声まで聞こえてくるから、開いた口が塞(ふさ)がらない。

これを見たとき北朝鮮のようだなと思った。金正恩に忠誠を尽くせば栄達が得られるかもしれないが、時には反社会的な命令に従わないと「脱北者扱い」されて就職できず社会的に抹殺される。日大の学生は高校でアメフト部に入った時からこの収容所にいて死ぬまでそこから離れることはできない。

日大病の起源 – なぜ人々は安倍首相の政治と内田監督の行為を重ね合わせて考えるのか

このアメフトの一件を見ると日本のいろいろな闇が「デパート」のように凝縮されていて面白い。では、その起源はどこにあるのだろうか。

日本大学の前身は国家神道を普及させるための皇典講究所なのだそうだ。日本の法律はヨーロッパからの輸入品である。例えば明治大学はフランス流の自由主義に基づいた法律を研究したいという同期で作られた。こちらの流れは自由民権運動につながり、戦前の政党政治の一翼を担うことになった。

日本大学は「日本独自」の法律を研究するという動機で作られたようである。皇典講究所は戦後GHQに否定されて神社本庁に合流する。この神社本庁と人的な交流があるのが日本会議なので、流れとしてはつながっている。

勝てる見込みがなくなった時に日大病が発病する

勝てている時には問題がないのだが勝てなくなると「少々無理をしてでも勝ち続けなければならない」という認識が生まれるものと思われる。こうして反社会的行動が信用通貨になり組織内に蔓延するのが日大病である。国家神道が必ずこうした病気につながるとは思えないが、集団行動と非言語的な習得という二つが重なると病気の進行が防げなくなるのだろう。

日大はプライベートで収容所のような環境を作ろうとしたのだろうが、これを国家レベルでやろうとしているのが今の自民党ということになる。公共という概念を持ち出して個人から判断力を奪おうとする方向性は似ている。彼らにとっての関西学院大学は中国と韓国なのだろう。まともに当たれば人口の多い中国には勝てないのだから、こちらはなりふり構わず多少の反社会的行為を行わせても(決して自分ではやらないのだが)構わないと考えるようになる。これがリベラルが恐る「戦争」の正体である。

組織の活性化を図るためにはメンバーを鼓舞したり目標を定めたりして個人を活性化させる必要がある。そのためには集団と個人の目標を照らし合わせて共通点を見つける「コミュニケーション」が必要である。これは「個人の自発性」が結果的に集団を活性化させるという世界観である。これを一般的には「民主主義」と言っている。スポーツと体育を比較した中でこのような論法を展開する識者も出てきた。これは極めて現代的でまともな態度だ。スポーツと民主主義が対応し、体育と全体主義が対応している。

日大アメフト部では「無理難題を要求」したり「辞めていった人たちを見せしめ的にブラックリストに乗せたりする」というように逃げられないようにしてから恩恵を与えて忠誠心を誓わせるという手法を取っている。この環境に慣れると反社会的行為に違和感を持たなくなると同時に外の世界と同じ日本語は話せなくなる。

日本会議は「個人というのは集団に尽くすことによって初めて活きる」という一貫した世界観がある。逃げられないようにして服従させた上で全体を反映させるというやり方なのが、彼らに言わせればそれは無力な個人に優しい共同体だ。これに安倍首相の人材掌握術を重ね合わせても行動原理は一致している。官僚の人事権を握り逃げられないようにしてから、その指示に従った人たちを優遇してゆくというやり方をとる。こうしたやり方は批判的な含みを持って「全体主義」と呼ばれるのだが、安倍首相にとってみれば「友達や親類に優しくして何が悪いのだ」ということになる。全体主義は優しい共同体でもある。

どうやら日大アメフト部の出身者たちはそのブランド価値は気に入っているようで「顔を出してまでは大学に反抗したくない」と思っているようである。つまり、彼らは全体主義が日本で重んじられていて自分たちもその構成員であるということを知っている。全体主義は優しい共同体でもあるのだ。

勝てなくなると反社会的な行動が信用通貨になるという現象は日本社会全体にも起きている。立場が使える人たちは国民に嘘をついて安倍政権への忠誠を誓っているのだが、立場が使えない人たちは常識的な言動を否定したりごまかしをいうことで忠誠心を発揮しようとする。これがいわゆる「ネトウヨのヘイト」であり、外から見れば日大病が日本全体に蔓延していることを示している。ただ、外の世界からみればヘイトでも彼らにとってみれば「正義のための戦い」ということになる。ネトウヨは正義を取り戻すために戦う聖戦士でもあるということだ。

日大病は治癒しないが壁にぶつかり破壊される

このように優しい日大病社会の問題は嘘やごまかしが蔓延することで本来の実力が発揮できなくなることなのだろう。

当該選手が黙って指示に従っていたら、フットボールには反則試合が蔓延することになっただろう。あるいはすでに蔓延しているのかもしれない。すると彼らは肉体的鍛錬や技術の向上を図らなくなるので国際的な水準にはついて行けなくなる。同じように日本企業は国内では競争力を保つことはできるが、国際的な競争力は失いつつある。しかし、病状が進めば冒頭で見た常務理事のように「日本語が話せない」状態に陥り、自浄どころか自己認識すらできなくなるだろう。日本の経営者はやる気のない社員が日本をダメにしていると考えている。

「日大病」にかかった組織はどこかで必ず壁にぶつかる。例えば、日本陸軍は国際秩序に挑戦した結果国際秩序とぶつかって敗れた。しかし、沖縄を切り捨て長崎と広島が犠牲になるまで自浄作用は働かなかった。

同じように安倍首相も民主主義への挑戦者と呼ばれるようになり、国際競争力は落ち、また北朝鮮を巡る対話からも排除された。アメリカから忠誠心を試されることがあれば喜んで反社会的な手段を使ってでも法案を通したり資産を差し出したりすることになるかもしれない。孤立したまま残るかなんらかの財政的な破綻が予想される。

日大アメフト部はすべての対外試合に出られなくなった。学際社会から排除されてしまったのである。ただし、これは日大アメフト部だけの問題だ。経営体としての日本大学も別の壁にぶつかるかもしれない。経営陣は反省している様子はないので、このままでは「患部」として切り捨てられなければならない。もし中途半端な状態で復帰させれば、反則行為が蔓延し「勝つためには日大レベルの反則行為を行わなければならない」という内田ルールが全体を支配することになるだろう。

宮川選手がいつでもアメフトに戻れるようにチームは待っているという話があるのだが、これは脱北者にキャンプに戻っておいでという含みを持っている。日大のアメフト部は単なるスポーツ集団ではなく利益共同体であり、彼らもまた「忠誠心のためには個人の倫理を超える」ことを期待されている。これが彼や彼らにとって良いことなのかよくわからない。だが、すでに彼らはそのような生き方にコミットしており、今から「自発的で自由な」世界では生きて行けないのかもしれない。

日大病に侵されると自分たちが病気なのだということがわからなくなる。やがてその反社会的行為で相手を攻撃して消滅するか後世まで癒えない傷を負うまでそれが続くのだ。その意味では日大病はとても恐ろしい病気だ。

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宮川泰介選手が止めたものはなにか

前回の嘘についてのエントリーは何人かの識者に紹介されたこともあり多くの人の読んでもらった。少し申し訳ない気もするがエントリーを少し修正したいと思っている。それに加えて今回は宮川選手を実名で紹介する。

内田前監督の「嘘」の分析について、最初に思いついた切り口はサイコパス分析だった。以前「平気でうそをつく人たち」という本をご紹介したことがある。サイコパスの人たちと内田前監督の共通点は、嘘を認めないことと他人に対する共感を著しく欠いているという点である。サイコパスは相手が苦死んでも罪悪感を持たないので嘘が平気である。ところが内田前監督の記者会見での様子を見ると、内田さんは嘘をついているように思えない。

彼の心理状態についてある仮説を唱える人がいる。ダークペダゴジー(黒い教育)だというのである。この仮説に従うと内田前監督は組織を支配するために用意周到な罠を張り巡らせて選手を支配していったことになる。この中で使われる用語は組織的犯罪に使われるような用語であり、もはやスポーツチームではなく反社会的な集団というような意味合いで取り扱われているようだ。

被害者から警察に被害届が出されている。今後、刑事事件としての評価も問題になってくる。彼が心理的に操作され、回避・抵抗する道がほとんどなかったことを重く見るべきだ。

 そのように見ると、指導者の責任は「教唆」とか「共謀共同正犯」にとどまらない。選手を道具的に使った「間接正犯」とするべきか検討し、実行犯であっても選手の責任を極小化する方向で考えねばならない。

ダークベダゴジー仮説では内田前監督は悪の帝王のように扱われている。しかしながら、この分析はいささか一方的なのかなと思った。ダークペダゴジーの方法は緻密だが、内田前監督が会見で緻密な嘘をついているようには思えないからである。

加えて、ワイドショーの識者たちの見解はある点でとまってしまう。つまり内田監督のやり方は反社会的集団のやり方に酷似しているというのだが、テレビでは暴力団という言葉もヤクザという言葉も使えない。だからそれ以上思考が進まないのである。

そこで調べてみると田中日本大学理事長と暴力団関係者がバーで一緒に飲んでいる写真が海外メディアに一部出ているようだ。理事長は相撲部の出身で故篠竹監督の後輩にあたる。つまり内田前監督は彼らから見ると弟子筋に当たるのである。

2014年にこの写真を流出させたのは右翼(ネトウヨではない本物の人たちだ)のメディアのようだが、これが日本のマスコミで取り上げられることはなかった。右翼メディアが襲撃されて捜査が行われたということである。記事の中では写真は本物だと警察が認めているという記述がある。

これらをうすらぼんやりとつなぎ合わせると、内田前監督が緻密なやり方をどこで学んだのかということが見えてくる。内田前監督がどうやってこの複雑な行動様式を体得したのかということは説明がつく。つまり、篠竹イズムを理論化しないで体で学んだのであろうということである。そこには正の側面もあればそうでないものもあるのではないかと思える。

日本のアメフト界では日大の影響力は大きくOBもネットワークを作って重要なポストについた人もいるのだろう。だから「アメフトには格闘技としての位置付けもある」といって負の側面も含めて容認してきた。あるいは怖くて言い出せなかった人もいるだろう。さらに新聞社も内田監督の優勝を美談として伝えた。甲子園のように感動できるコンテンツには商品的な需要がある。彼らは内田監督の人となりや篠竹イズムが何を意味したのかを知らないわけはない。だがそれは売り物にならず却って厄介なので知っていて伝えなかったのかもしれない。この辺りはスポーツジャーナリズムの専門家のご意見を伺いたいところである。

日大のOBたちの側に立つとこの姿勢は正当化できるかもしれない。彼らは4年間この反社会的な状況に付き合えばあとは立派な就職先が見つかる。チームに従順でブランド価値もある彼らの人材としての商品価値は極めて高い。母校が勝ち進めば勝ち進むほど彼らのブランド価値は高く評価されるだろう。内田前監督もそれを利用してお金を作ればこの「理想的な」教育環境を維持することが可能になる。多少の犠牲はあるかもしれないがそれは全体のために仕方がないことだと捉えても不思議ではない。

内田前監督が「嘘をついていない」と思うのは、彼が確信的に「アメフトというのは潰し合いであり、選手たちもそれを覚悟してきているのだろう」と思っているだろうことがわかるからだ。この姿勢は一貫して現れておりブレていない。

そのように考えてゆくと宮川選手の止めたものは極めて大きい。彼が「反社会的な格闘技にコミットしない」としたことで、自浄作用を働かせることができなかった周囲の大学も「反省していないのだったら日大はリーグには加えない」と堂々と宣言することができるからである。確かに彼は間違えたことをしたが、最後には踏みとどまった。その彼の犠牲と勇気の上で仲間たちは安心してスポーツとしてのアメフトに打ち込むことができるようになったと言ってもよい。つまり大人たちがなんらかの事情でできなかった改革を、仲間を失った事実に直面したであろう関西アメフト界と宮川選手の勇気が成し遂げたということになる。

ただ、宮川選手を犠牲者のままにしていても構わないのかという問題は残る。被害選手の父親はすでに宮川選手の救済に動いているということだが、アメフト界は彼が行ったことを正当に評価し保護すべきなのではないかと思う。なんでもありの見世物がよいのか、少しおとなしくなってもスポーツとして発展するためにはルールを守ったほうが良いのかという選択である。ただ、宮川選手の行動を受け止めるためには彼らもまた勇気を持って自分たちの間違いを見つめる必要がある。受け止めるにも勇気がいるのだ。

前回の「嘘のエントリー」に戻る。安倍首相はこれまでの決められない政治を否定して首相になり、小池百合子東京都知事は利権まみれの政治を変えると約束して都知事になった。これ自体は間違った主張とは思えない。しかし彼らには実務経験がなく、結局はその場限りの「説明」をせざるをえなくなった。一方、内田前監督の場合はこれとは異なり「素直に自分が体得したもの」を追求してきただけである。

両者には統治者としての自覚がなくプレイヤー意識が強いという特徴と、チームや部下たちの自己ガバナンス能力を失わせるという共通点がある。最終的にこれが組織や社会の機能不全につながるという意味では到達点も同じなのだが、その動機とメカニズムにおいては違いがあると言えるだろう。

そして彼らに嘘をついているという自覚はなさそうだ。彼らはルールを作る側におり、ルールさえ決めてしまえばいつまでも勝ち続けられるという確信がある。だから、彼らにとっては当然の主張をしているとも言える。しかし、それが我々の価値観とは著しく異なっており「嘘」と認識されるのではないかと思う。ただ、内田前監督の主張が嘘になるかそうでないかは周りの反応にかかっている。これは法律というルールを決めることができる安倍首相の言っていることが嘘になるかそうでないかが有権者の問題であるのと同じことだ。

今回、反社会的勢力と政治の結びつきについても書いたのだが全て消した。書くと厄介なことになるなと思ったということもあるのだが、アメフトの人たちの立場にたつと彼らが集中しなければならないのはアメフト界を健全に保つことであって、別の分野のことはそれぞれの立場の人たちが勇気を持って変えればよいからだ。ただ、政治やオリンピックの問題がいつまでも尾をひくのは、アメフトのような勇気を持った人たちが現れないからなのだろうと思うと残念な気持ちにはなる。

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安倍首相、内田正人前監督、小池百合子東京都知事はどうしてすぐにバレる嘘をつくのか

ニュースやTwitterを見ると日本の社会に嘘が蔓延していることがわかる。特にひどいのは嘘をついてなんら反省する様子を見せない醜いトップの人たちの姿である。


この文章は個人の生育歴に焦点を当てて書いたのですが、その後少し改良を加えて、彼らが嘘をつくのは「勝てなくなった組織では少々のごまかしや反社会的な行為は仕方がない」という気分が蔓延するからではないかという理論に行き着きました。こちらも併せてご覧ください。

嘘をつくトップのある共通点

日本のトップと呼ばれる人たちの嘘が問題になっている。小池百合子東京都知事は1952年生まれ、安倍晋三内閣総理大臣は1954年生まれ、そして内田正人前日大アメフト部監督は1955年生まれである。年齢があまり違わない。

彼らの特徴はシステムのフリーライダーだという点にある。社会は誰からリーダーシップをとって統治する必要があるのだが、その自覚と責任がないままで出世競争を勝ち抜いてきた。つまりプレイヤーのままリーダーに上り詰めてしまったことになる。このため彼らの倫理観には偏りがある。これが社会に露出することによって様々な軋轢や衝突を生んでいる。統治についての責任感と社会的な倫理に関する理解がないので彼らは人の人生を左右する地位につくべきでなかった。このため多くの人が亡くなったり、長期間拘留されたり、廃業に追い込まれたり、前途のある競技人生を諦めることになった。

古い社会からの恩恵を受けながら新しいシステムのメリットも共有している。古い社会からの恩恵は「相互信頼に基づく優しくて曖昧な関係性」であり、新しいシステムは不安定化する先の読めない環境である。ところが「フリーランチはない」という言葉通り、このスキームはやがて破綻する。私たちが見ているのはその破綻と崩壊の過程であって、嘘はその副産物とも言えるものだ。

私たちがここから学ぶべきなのは、彼らが何を間違えたかという失敗の本質であって、嘘そのものではない。嘘に着目すると却って本質的なところがわからなくなってしまうのではないかと思える。

安倍首相は古い「お友達優遇」や「曖昧さを許容する政治風土」を利用しているのだが、一方では人事権を握って官僚組織に圧力を加えていた。さらに、改革という名目で特区を創設した。現在の政治風土では、古い政治姿勢を保っていると有権者からは支持されないが、古い政治姿勢を持っていないと仲間内から離反されてしまうのである。そもそも一貫した態度は取れないのだから誰か二嘘をつく必要がある。

小池都知事の場合は、自分は新しいアイディアを持ったキャリアウーマンであり旧態依然とした政治風土を変えるのだという刷新者・改革者としてのイメージを巧みに作り上げてきた。しかし実際には周りをコンサルタントや広告マンといった取り巻きで囲み、さらに政治経験はないが自らのいうことを聞きそうな議員を促成栽培するというような「ぬるま湯的な」コミュニティも作り上げた。これが次第に露出されると有権者は小池都知事に興味を持たなくなった。

内田監督は古くからあるスパルタ式の軍隊的な組織運営をしていた。その背景にあるのは「昔の軍隊式のやり方をすれば勝てる」という幻想だ。だが、その源泉にあったのはイエスマンのコーチたちだったようだ。彼らは人事権を握られており「成果を出すために」選手を反倫理的な行為に狩り立てるしかなかった。これは日本が持っていた終身雇用による長期の安全保障とはかけ離れた雇用形態である。人事権を使った半ば恫喝的な指示は日大全体に広がっているようで教職員組合からは反発が出ている。

日本人とモチベーション

彼らは「人事」や「ポジション」を使って人心を掌握するという手法をとる。これは日本人がどのようにモチベーションを維持するのかという点に理解がないからだろう。日本人がチームに期待する点は実は二つしかない。それは、長期の安全保障と勝てる競技への没頭だ。勝てる競技を行っている限り日本人を特に動機づける必要はない。だが、勝てなくなると不満が噴出し日本の組織は空中分解する。これは多くの大企業が崩壊と身売りの過程で経験していることだ。

日本人が内向きの倫理を守るのは長期的な安全保障からはみ出さないように内部の対立を避けているからである。そして外向きの倫理を守るのは勝てる環境を維持しようとするからだ。チームと個人の利益が一致している場合、このスキームはうまく働く。ところがこれが乱されると日本人は反倫理的な行動に追い込まれることになる。

例えば、官僚組織は情報の隠蔽を働くようになった。しかしながら「自らの安全保障」のために書類を「手控え」として残していた。上司への信頼というのは表向きのものであって、官邸は所詮「よそ者」である。日本人はよそ者を信頼しない。日大の場合は「反則行為をやらされるがチームは守ってくれない」ことがわかったので、今後選手たちはコーチのいうことを聞かなくなるだろうし、高校のレベルで日大への志願者は激減するのではないかと思われる。

ここからわかる点は信頼というのは実は道徳的価値として守られているのではなく、実利的な効果がある通貨のような存在であるということだ。だから、信頼が毀損されるとそれを元に戻すことはできない。その意味で嘘をつく日本のリーダーは社会全体から信頼という無形の資源を盗んでいることになる。

政治の場合はある程度重層的な人材システムがあるので安倍首相がいなくなれば信用通貨は価値を取り戻すかもしれない。しかし東京都の場合は歴代の都知事が積み上げてきた嘘がありいったん信頼が毀損してしまえば回復は難しいのかもしれない。

さらに日大に至っては回復不能のダメージを生むことになるだろう。学生を犯罪行為に走らせる監督やコーチにはそれほどの責任意識がなかったことがわかった。内田監督は忙しい中「何気なく」コーチを追い詰めるのだが、これが切迫感を持ったコーチによって増幅され、選手には犯罪へのほのめかしにしか聞こえないように伝達されたようだ。このような体制では、選手はチームを信頼することはできない。

西洋と日本の違い

信頼という曖昧でパーソナルな通貨を使わなくても契約と約束によって社会の公平公正を担保すれば良いのではないかと思う人がいるかもしれない。確かに西洋型の社会ではそのようになっている。個人には個人の目標があり、それが集団と合致した時に契約が結ばれて、権限の一部が移譲されるという社会である。この契約は重層的に積み重なっていて、最終的には国の法律や憲法に行き着く。法律を破ると司法が介入してきて交通整理をするという順番になっている。

ところが日本人はこうしたやり方をしない。日本人は勝てる競技を行い安全保障をしてくれる集団を最初に選ぶ。そこにあるのは信頼という見込みだけである。この中で責任は曖昧にされている。これはその時々に「柔軟に」判断ができるようにするためである。集団の中で人々は個人的な信頼によって結びついた私的な関係と公的な構造という二本立ての世界を生きることになる。このプライベートな関係が崩れるとそれを公的な仕組みで補完することはできないのである。

フリーライダーたちはどんな社会で育ったのか

フリーライダーたちが生まれた時期は日本の動乱期が終わったころだった。朝鮮戦争特需が起こり高度経済成長が始まる。彼らが生まれた時期に当たる1956年には「もはや戦後ではない」という有名な宣言が出された。さらに、10歳の時には新幹線や東名高速道路が開通して東京オリンピックも開催された。つまり、彼らが物心ついたころにはすでに高度経済成長が始まっていたことになる。この頃の日本人は右肩上がりの経済成長を実感しており「努力すれば報われる」という言葉を素直に信じることができた時代だ。

大学を卒業した時代はまだ高度経済成長期であり彼らは終身雇用制度に守られながら企業人として生きてゆくことができた。安倍首相が神戸製鋼所に入社したのは1979年だそうだ。バブルが崩壊した時安倍首相は30代の後半だった。企業であればエントリーレベルのマネジメントを卒業してミドルクラスからトップのマネジメントになるくらいの年代であろう。

1979年の日本人は海外から「ジャパンアズナンバーワン」などと言われておりその自信はピークに達していた。カイゼン運動に学んでアメリカも品質向上を目指すべきだという意見もあった。もともと日本人はアメリカから品質管理技術を学んだのだが、モトローラが「シックスシグマ」品質管理運動の熟達者を柔道に習って「黒帯」と褒め称えた1980年頃にはすっかり日本人が優秀だから品質管理が良いのだと思い込むようになっていた。

前の世代がバカに見えたのではないか

一方で、政治の世界には戦後の処理に奔走した人たちが残っていた。戦前に大蔵官僚になった宮沢喜一はバブル崩壊時には60歳であり、今の安倍首相らと同じ年代だった。この人たちはバブル崩壊の意味を理解できず、従って適切な対応もできなかった。

安倍晋三の父が亡くなったのは1991年、内田正人が名将と呼ばれた監督のもとで甲子園ボウルで優勝したのが1990年、小池百合子が日本新党に参加したのが1992年だそうである。

政治の世界では金権政治家が次々と地位を失っていった。戦前の「情にばかりとらわれる遅れた政治家」の代表が田中角栄などである。政治改革世代の安倍晋三や小池百合子の目に彼らがどう映っていたのかはわからないが「情けないアジア的な政治を排除して、もう少し合理的な政治を実現できる」という自己認識があったのではないかと思われる。こんな中で彼らが「信頼」という通貨の実利的な価値を軽視していた可能性がある。

その統治原理を明確な言葉にするような文化はなかったので「上司の背中を見て覚えた」世代である。彼らは日本流の組織統治を理解した上で西洋流の合理的な統治システムと融合させたと認識していたのかもしれない。彼らは「戦前の人たちの中には不合理な日本人性が残っているが、我々は西洋流の進んだ気風がある」と考えることでき、その結果優秀な日本人は高度経済成長を達成して本家の欧米人に羨ましがられることになったと思うことができた世代である。

嘘つきのトップリーダーの共通点 – イメージ依存と失敗からの逃避

信頼を食い尽くし、自分のものではないかもしれない成果をあたかも自分たちのもののように宣伝しているうちについに彼らはトップリーダーになってしまう。しかし、実際に自分で組織を作ったわけではないので、組織をどうモチベートし統治してゆくのかということはわからない。そこで失敗を隠蔽するために嘘が横行することになる。するとコントロールされる側の組織にも嘘が横行しやがては組織全体が取り返しのつかない機能不全を起こすことになった。

日大の場合は少し違っている。追い詰められた選手が特攻することでチームの信頼は壊滅的に破壊された。のちにわかったことだったのだが、相手のチームは仲間を亡くしており、アメフトには命の危険があるということをわかっていた。つまり、相手の意識はすでに変質していたのである。追い詰めた監督は軽い気持ちで「関西学院大学も汚いプレーをやっていたから自分たちも少しくらいはいいだろう」などと考えていたようだ。

しかし、これをトップリーダーだけの責任にするわけには行かない。成功や失敗にはそれなりの原因があるはずである。ところがこうしたプロセスは無視され表面的に成功を達成したとされる人だけが褒められ、失敗したとされる人が罰せられて出世競争から脱落してしまう。

きれいなところばかりを歩いてきた人たちは失敗から逃げてきたので、失敗から何かを学び次に生かすということはできない。勝てているうちはそれでもいいのだろうが、勝てなくなってくると失敗を誰かに押し付けて逃げ切る人がトップに立つことになる。ただこれができるのもしばらくの間だけだ。小池百合子も内田正人も逃げ遅れており、世間のバッシングにさらされている。しかしこれまで失敗から学んでこなかった彼らは問題の対応ができない。安倍首相の場合はこれがさらに進んでいて「周りを抱き込みながら社会ごともろとも堕ちて行こう」としている。

内なる倫理と外側の倫理が両方とも欠如している

彼らは日本流の信頼に基づく通貨をうまく理解できなかったが、その一方で西洋的な社会的責任という概念もうまく理解できなかった。西洋での社会的責任は日本の個人間の信頼と同じ機能を持っている。違いはそれが個人的な関係に基づいているか、社会全体で共有しているかの違いだけである。このため彼らの「西洋流」にはどこか自分勝手な解釈が見られる。

安倍首相のいう力強いリーダーシップとは部下にすべての面倒ごとを丸投げして、自分は最後の演説をするという意味だ。責任を引き受けて自ら率先して部下にビジョンを示すということはない。

小池百合子都知事のアウフヘーベンは本来は二つの対立する概念を別の視点によって解決することだが、彼女の理解しているアウフヘーベンは「まあまあ・なあなあ」という日本的ないい加減さの言い換えにすぎない。

内田監督の「相手が潰れたら自分たちが得」という発言からは、個人主義に基づく成果主義の概念が歪んで捉えられていることもわかる。相手を潰すのは選手だ。監督は自分が傷つかないような安全地帯を作った上でリスクを指導すべき選手に負わせて「自分たちの得」といって成果だけを受け取ろうとしている。

現代的な成功の理論の上澄みだけをすくい取り、泥臭いところを人に押し付けた上で、不都合があると他人を切ってきた。このことが多くの人の反感を買っている。

私たちは彼らを糾弾すべきなのか

彼らの世代は古い日本の資産を食い尽くし、かといって新しい概念も理解しなかったという点にあった。しかし、これを批判して社会的に抹殺するだけでは問題は持ち越されるだけである。つまり、それに続く世代も同じような間違いを繰り返す可能性があるのだと思う。

私たちができることは、彼らの失敗から何を学ぶかだろう。

日本人に蔓延する嘘とコリント人への第一の手紙

聖書の中に遠くにいる信者にあてた手紙の一群がある。後世の創作が混じっているという意見もあるそうだが、主にパウロという人が書いたものとされ、今のトルコ、ギリシャ、イタリアなどに送られている。2018年5月22日は日本の社会に嘘が蔓延しているということについて深く考えさせられる日になったのだが、聖書を読みながら、社会に蔓延する嘘をどのように評価すべきなのかということを考えた。

日大の監督が選手に犯罪行為を命じたが直接は指令せずにコーチに伝えさせた。断りきれなくなった選手は実際に行為に及んでしまうわけだが、そのあとで深い反省の念にとらわれて顔を出して謝罪した。一方で監督とコーチは一切の説明を拒み社会から逃げてしまった。後から経緯をみると、監督は末端を切れるように準備していたのではないかと思える。まずは生徒が「行き過ぎた行為をした」と切り捨て、逃げきれなくなったら今度はコーチが勝手に指示したことだと言い逃れるつもりだったのではないかと思う。

さらに首相が加計学園の問題で嘘をついていることが明白になった。安倍首相は記録を確認したがなかったと口を滑らせたが、後になって慌てた官邸側は「記録はなかった」と軌道修正した。もう嘘はバレている。しかしながら支持者たちは「もっと証拠を出せ」と騒いでいる。これも、最初から悪いことをしているという認識があったのではないかと思える。だから記録に残らないように友達を官邸に招き入れたり、ある特定の日時までは何も知らなかったと主張しているのだろう。そして嘘が露見すると、周囲を切り捨てて行く。

日本社会はこの状況をどう理解して、彼らの嘘をどう裁くべきだろうか。

現在、Twitterで枝野幸男さんなどの野党の政治家が「裁判だったら」というような論調で話をしている。これがかなり恐ろしいことだなと思った。国会議員に不逮捕特権があることからわかるように、政治は司法からは切り離されている。対立に埋没してゆくうちに野党はこのことを忘れてしまっている。

蔓延する嘘は社会に様々な悪影響を及ぼしつつある。国会は他人を断罪する場になっている。このような場所で建設的な議論ができるわけはない。日本社会で建設的な提案がなされることはしばらくないだろうし、第三者的な野党によるチェックがなくなれば、与党は倫理的に問題がある法律を平気で通すようになるだろう。

すでに野党の死は確定的だ。建設的な議論をしたい人たちが野党に集まってくることはない。彼らの元に集まってくるのは何者かを破壊したい人たちだけである。そうなると野党側は安倍政権の矛盾を通じてしか自己像を構築できなくなる。彼らは細かな党派に分かれてお互いに牽制し合うようになった。

次の問題は社会に蔓延する嘘である。法律を定める国会議員が嘘をついてもいいのだから、その法律は誰かの胸先三寸でどうにでもなる程度のものに過ぎない。その目をかいくぐることさえできればそんな法律は破っても構わないと思うようになるだろう。罰則がない努力義務など忘れてしまった方が良いことにもなる。

一部の人たちは律儀に政府の矛盾点を指摘し、時々デモに出かけたり勉強会に参加したりする。しかし日本人は表向きの対立を嫌うのでわざわざこのように言い立てたりはしない。彼らは身内の間では不正を働き、他人は厳しく罰するようになるだろう。集団で顔が出ていないと考えるならば、大勢で一人を責め立てて社会的生命を奪うことすら厭わない社会はすでに実現している。一方で、難しい社会的な問題には関心を寄せない。一人ひとりが何かをしたところでどうにもならないと感じているからである。社会的な公正や正義という意味では日本社会はすでにある種の破綻状態にある。安倍政権は統治に失敗したと言えるが、失敗したところで社会がなくなることはない。

さて、ここでコリント人への第一の手紙に戻りたい。もともとのキリスト教はユダヤ社会に現れたカルト宗教の一つである。キリスト教団はユダヤ社会の倫理観に挑戦したために教祖が殺された。それに納得できない弟子の3人が集まって「教祖は復活して俺たちはそれを目撃した」と主張して、周囲からはキチガイ扱いされてしまう。

初期のキリスト教はある意味でオウム真理教事件とあまり変わらないような経緯を辿るのだが、ここから先の展開が違っていた。弟子たちはラビたちに復讐することはなく、教えを周囲に広め始める。ユダヤの戒律は弱者への差別につながる。この時代の弱者も病気になった人や結婚システムに救済されない女性などであり、これは現在とそれほど違いはない。

周囲からキチガイ扱いされながらも、弟子たちは各地を周りユダヤ世界を飛び出してローマの支配地域に広がってゆく。ローマ領域には様々な宗教社会があり、それぞれに律法と差別があったのだろう。そこからあぶれた人たちが集まって原始的なコミュニティができた。

キリスト教からみると、世界は不誠実で道徳に反する行いが蔓延する汚れた場所である。コリントに集まった人たちは外の世界を糾弾し、また内部でも主導権争いを繰り返すことになったようだ。コリント人への第一の手紙はその様子を聞いたパウロが教団をたしなめた上で綱紀粛正をするために送った手紙なのである。

初期のキリスト教団は智恵をあまり信用しなかったようだ。ユダヤ社会が論理に支配され社会正義の実現をおろそかにしたからだろう。パウロは「外の人たちを裁くな」と主張した。代わりに「自分たちは道徳律を守り、キリストの教えを実践すべきである」と言っている。

もちろん、パウロの教えそのものが妥当だったかという点には疑問もあり、現在の教会がこれを守っているとも言えない。例えば、女性は男性の従属物だと書かれており、同性愛(男色)は明確に否定されている。このことが現在のキリスト教圏の同性愛者を苦しめている、教皇は「同性愛者はそのように作られた」として許容する姿勢を見せているが、内部には少年に対する性犯罪などの問題がある。

今回、日大の選手が顔出しで謝罪した上で釈明したのを見たとき「このように選手を追い詰める社会はまずいのではないか」と感じた人たちは多いのではないかと思われる。さらに関西学院大学の現在の2年生たちは高校生だった時にアメフト部の仲間の死を経験している。死因ははっきりしないようだが彼らは仲間の死を通じて「アメフトに対するあり方」を真剣に考えたのではないか。関西学院大学の生徒の名前は公表されていないのでこのことが表立って語られることはないだろうが、生徒たちは真剣にこの問題と向き合っている。

しかしながら、今でも日大は「生徒の勘違いだった」という姿勢を崩しておらず本質的に反省する様子は見受けられない。もともとブランド価値を維持するために経済的な理由から選手を追い詰めているようである。大人たちは自分たちがいい思いをするためにアメフトを利用していおりスポーツの倫理性を軽視しているのだが、生徒たちにとってはそれは命と人生がかかった真剣な実践の場なのである。

「嘘が蔓延する社会を放置してはいけないのではないか」と我々が考える時に頭の中では何が起きているのだろう。脳の働きだと理解することもできるし、私たちの頭の中には他の動物とは違う「霊的な何かがあるのだ」と考える人もいるかもしれない。

日本では宗教的な言論には拒絶反応があり、理性的な人たちの間で「霊的な言葉」という表現がそのまま受け入れられないことはよくわかっている。だからパウロのようには「私たちは霊的な言葉に従うべきだ」などとは主張しない。しかしながら、キリスト教がどのようにして社会的な公正をローマ社会に広げていったのか、なぜ多神教だったローマ社会がこうした社会的公正を受け入れざるをえなくなってしまったのかということを理解するのと同時に、私たちの頭の中に芽生えた「これはよくないのではないか」という気持ちが何に由来するものなのかをよく考えてみるべきではないかと思う。

いったん立ち止まってこのことを考えた上で、私たちはこのまま声高に他人を裁く道を選ぶのか、それとも別の選択肢を模索すべきなのかを考えるべきなのだと思う。

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朝鮮は植民地だったのかという<議論>

本来は日本人が議論をしたがらないしできないということを調べているので、朝鮮についての言及は最小限に止めておくべきだ。しかし、ついつい面白くで4,000文字を越えてしまった。

趣旨としては答えがないということがわかっている問題で「議論」ができるということは、議論自体には取り立てて興味がないということなのだということを書いている。

だが、調べているうちに、この朝鮮併合という事業そのものが日本人が意思決定できないというよい事例になっていることがわかった。自分自身は党派間対立には興味がなく、こうした構造を調べるのが好きなので、議論好きの日本人以外にも一人で調べ物をしている「オタク系」の人がいるのではないかと思う。ただ、そうした人たちはTwitterではあまり目立たないのかもしれない。


先日ネットで面白い議論を見かけた。それは朝鮮は植民地かという議論である。友利新というタレント医師がネットの番組で「日本は朝鮮を統治したのであって植民地化したわけではない」と主張したのをきっかけに、朝鮮は明らかに植民地だったという反発が起きている。香山リカはこう憤る。

この話を観察するポイントは朝鮮が植民地であったかという議論そのものにはない。その議論がなぜ人々を惹きつけるのかという点にある。しかしそのためにはそもそも朝鮮は植民地出会ったかという議論そのものに答えがないのだということを納得してもらう必要がある。

文字どおりの意味での植民地は資源の収奪を通じてある地域を搾取することを意味している。資源には、土地・資源・人間がある。土地を搾取して自国民を植民させたり、資源を収奪して貿易に使ったり、地元の人たちを奴隷として使役することがあるのである。だが、その他に「保護国」という全く違ったカテゴリもある。これは帝国と帝国の境目として利用する。攻撃を受けるのはこの保護国であって、保護国を盾にすることで自国の安定を保全しようとするのだ。この二つは搾取するために別の地域として区別するのだが、その他に自分の国の一部に編入してしまうこともある。北海道などがその事例である。もともと北海道の北部は日本の領域ではなかったのだが、内地と同じ法律を適用し、北海道に移住した人を戸籍上区別することはなかった。

日本は明治維新で近代化してすぐ「帝国主義」について学ぶ。清やロシアに勝ったことで幾つかの海外利権を獲得し、朝鮮半島の実質的な宗主権もその時に獲得した。正確には清が宗主権を放棄し、朝鮮半島を独立させた上で実質的な監督権を得た。のちに総督府を通じて外交を主管することになり、保護国化が進行した。

ところが、日本人は帝国主義諸国がどのような目的で海外領土を持つのかをよくわかっていなかったようだ。

日本は北海道や樺太をロシアとの緩衝地帯と考えていた。日本の内地は松前半島までで、その向こうはアイヌ民族などが住む「蝦夷地」と認識されていた。日本は南クリル(北方領土)を含む北海道全域を領土化して日本と同じ法律を適用した。つまり、日本は北海道を日本に編入したのだ。アイヌ人はその過程で1871年に日本の戸籍に平民として編入された。しかし、行政的には旧土人という区分があり、旧土人保護法が廃止される昭和時代までこの概念が存在した。

日本人は保護という美名のもとでアイヌ民族を差別してきたのだが、アメリカ先住民に習って先住民としての権利を主張するようになると今度は一転して「アイヌ人などなかったからアイヌ利権はない」と言い出す人が現れる。このように日本人の態度は一定しないことが多い。差別できるときは差別するが、その現実は認めたくないので「保護」という。しかし権利を主張し始めると一転して「そもそもアイヌ人などいないのだから差別も利権もないのだ」などと言い出すのである。

このように曖昧な態度をとるに日本人にとって、人口が多い朝鮮はさらに厄介な問題だった。当初形式上は独立国だったが、実質的には保護国だった。しかし大韓帝国の皇帝がロシアに接近を繰り返していたこともあり、大韓帝国から外交権を奪い保護国化した。それでも安心できずに日本に併合して朝鮮半島の既得権を維持すべきだという議論が生まれ、やがて実行される。

もし、朝鮮半島事情についてよく知っている人ならばこの間に起こった国内の論争を知っているはずである。これは単に朝鮮人だけの問題ではなく日本人の意識にも幾らかの動揺を与える。この過程は小熊英二の「単一民族国家神話の起源」という本にもまとめられている。朝鮮を日本に組み込むべきだという人の他に、朝鮮半島を日本に組み込むことで日本が純血でなくなり劣化してしまうという議論もあった。伊東博文ですら意見がぶれていた。併合派に反対しなかったという<事実>が語られる一方で、いずれは独立させるべきだというメモが見つかったという指摘もある。

ここから、日本が朝鮮という大きな領域を組み込むにあたって、単一民族国家であることを捨てて帝国になるのか、それとも朝鮮を搾取の対象である植民地として内地とは切り離した上で搾取するのか、それともロシアとの緩衝国として押さえつけておくのかを決めかねていたということがわかる。北海道を併合する時に曖昧にしていた問題に直面するのである。ゆえにその<統治>は中途半端なものになった。

前回日本人は意思決定ができないと書いたのだが、状況に振り回されて意思決定を先延ばしにしたままで事態だけが進行した。北海道を併合した時にはっきりと理論化しておけば良かったのだが、日本人はそれをやらなかった。大韓帝国の中にも、ロシアに接近すべきという人たちと近代化を進めるためには一度日本と併合されても構わないという人たちがいた。併合の請願が現地の一進会からなされれたのもまた<事実>である。

朝鮮半島がなし崩し的に帝国の一部に加えられたために日本は帝国として何を統合原理にするのかということを大急ぎで考えなければならなくなった。これまでのような「日本人」という民族意識は帝国の統合原理にはなりえないからである。議論の結果「天皇をお父さんにする家族なのだ」というとってつけたような議論に修練して行き、やがて第二次世界大戦で破綻した。

朝鮮半島の法整備を急ぎ朝鮮人を「平民」化して解放し。ある程度のインフラ整備も行われた。これが<統治的>側面である。それまでの朝鮮半島には奴婢制度が残っており、現地の治安を安定させるためにも彼らを解放して識字率を向上させる必要もあった。実際に学校を整備させたのは伊東博文総督で最後には帝国大学まで作られたとされる。

朝鮮半島の人たちも日本に移住しており朴春琴という衆議院議員が民族名のままで当選し二期つとめたりしている。驚くべきことにハングルによる投票すら認められていたそうだ。日本の政治に日本語以外の言語の関与があったのである。とはいえ完全に内地化されたわけでもなく、朝鮮は内地政府とは異なる総督府が管理し朝鮮戸籍という別個の戸籍もあった。(この項一部「★誰が朝鮮人なのか (朝鮮戸籍と日本国籍との関係ノート)からの」抜粋あり)

選挙権についてであるが、戦前の内地に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があった。1920の衆議院選挙では所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使し、1925の普通選挙法成立後には納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになった。また1930131日の内務省法令審議会はハングル投票有効とし、ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には諺文字(ハングル)書が配布された。32年と37年の衆議院議員選挙で東京4区から当選した朴春琴など、地方議会でも立候補した朝鮮人は当選していた。

日本には朝鮮半島出身者に対する差別感情もあり「朝鮮人に恨まれているのではないか」と考える人がいた。関東大震災で治安が混乱した時に「この機に乗じて復讐されるのではないか」という恐れもあり朝鮮人やそれに誤認された人たちを殺傷する騒ぎが起きた。

朝鮮半島を解放したというのも間違っている。東洋拓殖が現地の農民から土地を奪い取り日本人に分け与えたとしている。東洋拓殖は移民事業に失敗したが地主となり朝鮮半島が日本から解放されるまで土地を所有し続けた。土地を奪われた朝鮮人は数百万人にもなったという話もある。

両班から農民を解放したという図式を作り朝鮮人による間接統治をすれば日本人がこれほど恨まれることはなかったかもしれない。むしろ解放者として扱われていた可能性もある。しかし、直接乗り込んで土地を接収して「両班にかわる新たな吸血鬼」とさえ認識されていたとなると話は全く違ってくる。イギリスの狡猾なやり方と比べるとその稚拙さや戦略のなさが際立つ。イギリスはもっとおおっぴらに搾取したが今でもコモンウェルスという共同体を持っていて定期的に会議やスポーツ大会などを開催している。

いずれにせよ、朝鮮は内地として統治されたのかそれとも植民地として搾取されたのかという議論にはそもそも答えがない。当時の日本人もよくわかっていなかったし、朝鮮半島にも様々な認識を持った人がいた。ここから自分の好きな論拠を<事実>として抜き出すと好きな議論をいくらでも展開できる。

しかし、この稚拙さを無視して独自議論を展開してみたところで全く意味がない。その後国際的な議論があり「統治」と「植民地支配」の議論自体が無効化されてしまったからである。

それまでの帝国主義は「民族自決」の原則で解放されるべき地域と植民地として「善導」されるべき地域に区分されていたが、第二次世界大戦までの間に整理しきれなくなっていた。それが行き着いた先が核戦争の可能性だった。つまり、これ以上植民地獲得合戦を繰り返していると人類全体が広島・長崎化しかねないということになったわけだ。

しかし、帝国主義諸国がはそれを率先して整理できなかったので、日本とドイツを戦争犯罪と断罪した上でなし崩し的に帝国主義を解消しようとした。イギリスがコモンウェルスを持っており未だにイギリス王室のリーダーシップを認めているのは変異の仕方がうまかったからだろう。

いずれにせよ帝国主義そのものが否定されたのだから、民族自決の原則がすべての地域に適用されることになる。すなわち「統治だったから良いこともした」という議論は、朝鮮半島の人たちが自分たちを独自の民族だと主張する限りそもそも成り立たたない。国際的には主張できないのだから、インターネットテレビでのやり取りは単なる自己満足にすぎない。

しかし、こうした<議論>に熱中する人が多いことから、日本人が仲間をまとめ上げるためにうちわでわざわざ倫理に挑戦して喜びを見い出したり、それにわざわざ反発することに熱中する人たちがいることがわかる。保守が「スカートめくりをする男子」だとしたら、リベラルは学級会でそれを問題にする「女子」である。男子はAbemaTVで大騒ぎしているのが関の山で、その議論を国際的に展開しようという意欲はない。

こうした議論に参加するとすればそれは遊戯の範疇であり実質的な意味はない。楽しみとして参加するのはよいが、もし「こうしためちゃくちゃな意見を説得しないと今に大変なことになる」と考えているのであればそれはやめたほうが良い。その悩みに全く意味はないからである。

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