日本人の男性はなぜ議論ができないのか

先日コンタクトフォームからメールをいただいた。全文掲載したいのだが著作権について取り決めをしていないので二次使用は控えることにする。本来なら全文掲載した上で論評しないと公正にならないのではないとは思う。編集の時点で、どうしてもなんらかのバイアスが生じてしまうからである。

ただ、コメントは著作物なのでそのまま引用してしまうとあとで編集ができないという問題が生じる。このためこのブログではDisqusという仕組みを導入しているのだが「名前が残る」ことに拒絶反応があるようだ。コンタクトフォームはデタラメなメールアドレスが通ってしまうので一方的に気持ちをぶつけるためには利用しやすいのだろう。

まずこのメールの良い点から見て行こう。たいていの人は「日本人はバカだ」と言われても「自分を除いた日本人はバカなのだ」と読み替えてしまう。心の平安を守るためにはよいがそれでは何も変わらない。最初は違和感を持ったり怒ったりするかもしれないのだが、当事者としての違和感を持つことは重要である。今回はどこかで日本人男性は共感を訓練する場所がないと書いたのを「決めつけだ」と憤っているようだった。当事者感覚を持っているという意味では他の人たちより一歩先に行っているのではないかと思った。

「お前には共感がない」と書かれていたが、これは当たっている。周囲との間に共感を求めることにあまり興味がないので「冷たい人」と呼ばれることはよくある。このため技術的ではあるが一致点を見つけようとしたり「わかりますよ」でとりあえず文章を始めるようなことをしている。

Twitterなどでは特に有効な手法であると思う。が、今回は「日本人男性には共感を訓練する場所がない」と書いたことへのカウンターになっている。これもTwitterでよく見られるが自分が指摘されて嫌だったことを相手にもオウム返しにする人がいる。自民党支持者が野党支持者に対して行うことが多い。相手の指摘を呪詛とうけとめ呪詛返しをしようとしているのかもしれない。

最初の問題点はオンラインツールへの理解不足だ。反論であるためには何に対する反論かが明示されており、さらにそれが他者に開示される必要がある。オンラインで履歴が追えるならハンドルネームでも構わないと思う。オンライン上でレピュテーションをためて行けるからである。このためこのブログではDisqusのコメントシステムを採用している。記事ごとにコメント欄があるのでどの記事に対する意見なのかがわかり、縦軸ではその人のコメント一覧が表示される仕組みになっている。また編集もできるので自分の発言をコントロールできるというメリットもある。反論は冷静にDisqusを使っていただきたい。

次の問題は心理的障壁だ。「異議申し立て」に対する日本人の心理障壁の大きさは想像を絶するものがあるようだ。「ああ、また日本人批判か」と思う人もいるかもしれないが、後でアメリカ人も自分の意見を表現するのに苦労しているということをご紹介する。いずれにせよ技術的な難しさがある上に日本は社会が異議申し立てを嫌うので個人がさらに抑圧されてしまうのである。

今回は共感が問題になっているのになぜ自己主張の話になるのだと思う方もいるかもしれない。しかし、相手の話を聞くということと相手に主張を伝えるということは実はワンセットになっている。つまり、共感ができない人は相手に自分の気持ちを伝えることもできない。論理的な主張でなくてもよい。悲しかったということを言わなければ悲しかったことは伝わらない。

今回は、メールアドレスがtokumei@gmail.comになっている。匿名である裏には「悪口をいって攻撃されたらどうしよう」という恐れや「失礼になってしまったらどうしよう」という気持ちがあるのだと思う。しかし、メールアドレスを伝えたくないならデタラメでもよかった。メールアドレスを書く欄があるのでわざわざ体裁を整えてしまっている。この「相手のフレームに乗ってしまう」と弱気さとその代償としてのアグレッシブさ(攻撃性)の表れではないかと思う。

文章の中にも同じ葛藤がでてくる。つまり、相手に従わなければと思うが、根底に違和感があるのでそれが整理されないままに攻撃性になってしまうのである。途中で人格を罵倒した上で、最終的には「机上の空論じゃまともな人間はついてこねえぞ。」という罵倒で終わるのだが、最初は「あなたの記事ですが、意見は正論かもしれませんが、」と丁寧な口調で始まる。文章全体は255文字しかないので、書いているうちにかなりの心理的コンフリクトを感じていたことがありありと伝わってくる。もともとは大変従順な人なのではないかと思う。

なぜ日本人は異議申し立てに葛藤を抱えるのだろうか。それは異議申し立てが「相手を否定することにつながる」とみなすからだろう。例えば、クラスで手を上げて異議申し立てした時点で「先生、それはないわ」とか「お前らみんな間違っている」と言っているのと同じだとみなされる。日本人には自分を殺して全てを受け入れる、影で悪口をいう、相手を全否定するという三種類しか違和感に対する対処方法がない。そして、現実にはこれがないまぜになってしまうのである。

実際には相手を否定しなくても議論はできる。「日本人男性は共感ができない」という課題が間違っていると主張したければ、反証になるデータを持ってくるか、そうではないという個人的な経験を共有すれば良いだけの話なのだ。それは相手を否定することにはならず、そういう事例もあるのだという新しい知見を与えることになるだろう。

こうした反証を持ち合わせていないとしても「自分が気分を害された」ということを素直に開陳するというオプションがある。これも相手を罵倒して否定する必要はない。議論の目的は勝ち負けだけではない。別の視点を持ち込むことも「議論への貢献」である。

しかしいずれにせよ議論を成立させるためには「お互いにわかりあおう」という共通の目的がなければならない。だが、日本人は問題をなかったことにし、異議申し立てを人格の否定と受け止めて禁止してしまう。この反動がTwitterに出ている。抑圧された感情はより激しい形で表出するのである。そして、このために日本人はますます表向きの政治議論を避けるようになる。政治家はヤバい人ばかりで、政治に興味を持つ人もヤバいということをTwitterを見て「知ってしまう」からだ。こうして悪いフィードバックが生まれるということはすでに過去に観察した。

では自分の主張をうまく伝えるためにはどうしたらいいのだろうか。それが「アサーティブコミュニケーション」である。今回はGoogle検索して最初に出てきた英語記事をご紹介するのだが、日本語でもリクルート関係の記事が見つかる。最近では学生を中心にアサーティブコミュニケーションへの関心が高まっているようである。人事面接が高度化してきており面接をクリアするために必須の能力になっているのだろう。

引用した文章は簡単な英語で構成されており誰にでも理解ができるはずだ。さらにアメリカ人であっても「アサーティブになる」には心理的葛藤があり、ついつい弱気になったり攻撃的になったりすることがあるということがわかる。一方で、アメリカ人は定型的な知識を大切にする。これを克服するための方法論もまた共有されているのである。

  1. Understanding the Difference between Assertiveness, Aggression, and Passiveness:アサーティブさと攻撃的なコミュにケーションや受け身のコミュニケーションの違いを学びます。
  2. Learn verbal features of assertive communication: 冷静に理路整然と話す。
  3. Learn the non-verbal features of assertive communication: 感情的になるべきではないが、怒りを感じた時にはきちんと眉を潜めて表現しましょう。
  4. Learn thoughts associated with assertive communication: アサーティブなコミュニケーションでは自分の意見は堂々と主張しましょう。
  5. Understand aggressive communication: アサーティブさとは違う攻撃的(アグレッシブ)なコミュニケーションの違いを学びます。
  6. Understand passive communication: 受け身(つまり弱気な)のコミュニケーションについて学びます。
  7. Think about your influences: これはアメリカ的で翻訳が難しい。本文では年配の男性は感情を表に出すことは弱さの表現だと教えられており、女性は自分の要求を伝えることが怒りの表現であると教えられていると言っている。つまり、新しい世代が新しい規範意識のロールモデルになるべきだと読む人の美徳に訴えかけているのである。
  8. Do not blame yourself for your communication style: アサーティブになったからといって自分を責めてはいけないと言っている。このブログでもよく「日本人は」と書いているので西洋人は最初から自己主張ができるのだと思っている人もいるかもしれないが、アメリカ人であっても冷静に自分の要求を伝えることは難しいのである。

特に、最後の知見は重要だろう。つまりアメリカ人も最初からうまく自己主張ができるわけではないということになるからだ。しかしこれを裏返すと「技術さえ学べば誰でも自己主張ができるようになる」ということになる。

ここでいただいた「お問い合わせ」についてみると改めていろいろなことがわかる。異議申し立てを感情を交えずに理路整然と伝えるには技術が必要だがそれができていない。だが伝え方以前にそもそも自分が何を伝えたかったのかがわかっていないように思える。何かを伝えたいということを整理するためにはまず自分が何を感じ、何をしたいのかという欲求を言葉にしなければならない。

その上で、異議申し立てをすることで相手の感情を害してしまうのではないかという恐れと、それでも自分を主張したいという欲求の間で感情が揺れており、結果的に「いったい何を解決したかったのか」がさっぱりわからない文章になってしまっている。何回か読み直してみたが、この文章を送りつけた目的がわからない。共感を得ようとしたのか、慰めて欲しいのか、泣いて謝って欲しいのか、認識を変えて欲しいのかがわからないのだ。

Twitterのダイレクトメールでも時々この手のクレームをいただくのだが「何が目的なのか」と聞くと話が流れてしまうことが多い。「主語が私」になると途端に話をそらそうとする人がいるのである。日本人はとても私に興味があるが、私を相手に伝えることは嫌う。

ショッピングモールで一方的に子供を叱りつけている親をみると「この子供は自分の欲求を罪悪感なしで伝えることができるように成長するのだろうか」と考えることがある。子供が何か要求すると親の計画が狂ってしまう。子供に邪魔されたことに腹を立てて子供を上から押さえつける母親がとても多い。学校に上がると今度は「お教室で静かにしなさい」という教育が始まるので、多分自分の欲求を伝える技術を身につける機会を持たないままに成長するのではないかと思う。

日本人が学校で「先生のいうことを聞く」技術は学ぶが「自分の意見を正しく伝える」方法を学ばない。先生には無条件に従うのが良いとされている。引用した文章でいうと「アサーティブさ」が禁止された空間で最低9年を過ごすのである。最近では先生が忙しくなってきており「問題を起こさないためには抑圧して管理するしかない」という風潮もあるようだ。こうした教育をうけた親の場合も「自分が何に腹を立てているか」がわかっていないのではないかと思う。「欲求を言葉にしない」ことで、とても悪いフィードバックループが生まれるのだ。

こうした環境で自分が何をしたいのかがわからなくなると共感の持ちようもなくなる。「日本人に共感がない」という時に重要なのは、実は相手が要求を伝えているのに受け取らないということでではない。お互いに何がしたいのか、何がして欲しいのかがわからないなかで、自分の価値観を押し付けることになってまうのである。

男性の場合には「男は黙っているべきだ」という風潮がある上に、仲間同士で「わかってもらえる」相互依存的な環境が作られやすい。みんなが同じような環境にいて居酒屋で相互承認するというような環境である。これを「共感」と呼ぶ人もいるだろうが、何について同意しているのかがよくわからないそれは果たして共感なのだろうか。

だが、日本も契約型の社会になりつつあり、お互いのニーズを確認したあった上で労働契約を結ぶという方向に移行してゆくことになるだろう。そんな中で共感を学ばなかった人たちだけが取り残されて、社会に不満をぶつけるということになってしまうのかもしれない。

だが、自分の言いたいことを伝えるというのは単にスキルの問題なので練習すれば習得することができる。半匿名が許されるオンラインコミュニケーションは本来「自動車教習所」のような場所であるべきだろう。これが多様な価値観を折り合わせるために話し合いをする成熟した民主主義が育つ唯一の道なのではないだろうか。

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虚しさだけが残るエアコン論争

エアコンの設置論争が熱い。小学校1年性の子供が熱中症で死亡したのだが、このとき対応した教室の室温が37度だったそうである。外気温が32度のところで熱中症になったのにさらに熱がこもったところに連れて行ったことになる。先生に救命救急の知識がなかったようだという観測もあったし、もともと体調が悪い子供を無理に外に連れ出したのもまずかった。

命にかかわる問題なのでさっそくなんとかした方が良いのだが、行政の腰はなかなか重いようだ。しかし、今回の論争を見ていると行政の他にエアコンがつかない理由があるように思える。それが日本人の議論の稚拙さである。

もちろん、行政にもっとも重い責任があるということを認めた上で、日本人の議論の稚拙さについて考えたい。有権者は問題が持ち上がった時に騒いですぐに忘れてしまう悪癖がある。多分、暑さが緩む頃にはこの話題は完全に忘れ去られているであろう。

今回は千葉県と千葉市を例にあげて説明するのだが、千葉市の公立学校のエアコン設置はほとんど行われていないようで、共産党やリベラルが行政の不備を攻撃する材料の一つになっている。隣の東京都の設置率が比較的高いために攻撃しやすいのだろう。だが、こうした問題が出ても有権者は見向きもしなかった。彼らが無名だからだろう。

実際に「すでに話題に出ているが有権者の耳目を集めなかった」ということがわかっているので、熊谷千葉市長の態度は強気である。逆に船橋市や八千代市など100%設置が終わっている自治体もあるので、住民がその気になればエアコン設置は実現不可能ではない。

もともと日本が子供にかけるお金は少ないとされており、これが政府の政策に疑問を持つ人たちの不満の一つになっているのだろう。議論が複雑すると教育予算全般の正当性は証明しにくくなる。そこで死者までだしてしまった事例が引き合いに出され「エアコンの導入は善であり、それに抵抗するのは悪である」というわかりやすい図式ができてしまったのだろう。

今回の熊谷市長への反発は、このコミュニケーション能力に問題がある市長が議論に全く関係がなかった「共産党ボタン」を押してしまったことが引き金になっている。このことが「無視されつづけているリベラル」の苦々しい記憶を呼び覚ましたのだろう。

実際にきっかけになったつぶやきは、むしろ大阪のプロパガンダに乗ったものと思われる。つまり維新系信者なのだろう。この人がどこの人かはわからないが千葉市外の人であれば、千葉市の共産党対自民・民主連合という情勢については知らなかった可能性が高く、共産党の「ミスリード」の影響を受けているとは思いにくい。

プロパガンダと書いたのだが、大阪市長を経験した橋下徹は350億円をかけてエアコン設置をやりきったそうである。大枠の大阪都構想には疑問があるが、弁護士である橋下さんが基本的な経営の知識を持っており予算の捻出ができた。あくまでも橋下さんの主張によればだが平松さんにはその技量はなかったようだ。確かに1000万円でエアコンは設置できない。

大阪市よりも人口が少ない千葉市の場合にはエアコンの設置には70億円がかかるそうだ。

確かに千葉市の財政は厳しい。数年かけてゴミ処理の費用を削減しようとキャンペーンを行っており、数億円の費用を減らすという努力をしている。また、市役所を建て替えることによってランニングコストの低減と耐震化の向上を狙っている。こうした涙ぐましい努力からわかるように、千葉市は2017年まで財政危機状態にあった。こうした状態で一挙に70億円の支出を決め流のは難しいので「それでもエアコンが欲しい」なら増税の必要がある。市長としてはそのための議論をみんなでしてくれと言っているのだが、増税などという主張をすれば落選してしまう市議はこうした議論の主導には消極的だろう。

実はこの構造は国全体が借金まみれになる原因になっている。そして千葉市はその借金がのちの世代にどう影響するのかという良い実例になっている。予算が出せない千葉はある意味、破綻はしなかったが財政が緊縮した国の姿なのである。

だが、それにしても「共産党ボタン」を押してしまったのはよくなかった。総論としては正しい路線を進んでいる熊谷市政だが、市長のコミュニケーション能力にはこうした稚拙さがある。実質的にはオール与党体制になってしまっている千葉市には野党が共産党しかない。そして共産党は数字を理解しない。数字とは具体的には「どこからお金を持ってくるか」ということと「その投資によってランニングコストがどう変化するか」という視点である。残念ながら共産党は単に「あれが欲しい」というだけなのである。

財政的に厳しい千葉市は開発を民間資金に頼るしかない。これが借金に頼ってでも自前の開発を続けようとした自民党時代との違いである。千葉市の自民党政権は巨額の借金を残し最終的には逮捕者を出して終わった。自民党議員団が利用してきた官僚経験のある市長が汚職で逮捕されてしまったのである。受け取った金額は100万円に過ぎないのだが、懲役2年6月、執行猶予4年、追徴金200万円の判決が確定している。そしてその結果として思い切った投資ができなくなってしまったのである。

しかし共産党は自民党時代との変化を理解せず「大型開発はすべて悪でありこれが可愛い子供達の未来を奪っている」というような理解をしているようだ。最近のキャンペーンではランニングコストの低減を狙った清掃施設の建て替えもすべて「悪だ」と言っている。もしかすると共産党は本当に誤解しているのかもしれない。だが、共産党の側もいうことを聞くわけには行かない。なぜならば聞いてしまえば唯一の反対材料がなくなってしまうからだ。

しかし、市長側にも問題がある。市長選挙で共産党と対峙しているうちに被害者意識が芽生え「ミスリード」と言い切ってしまったのだろう。最終的にかなり挑発的なつぶやきになった。


このようにエアコンは「子供達の未来を考えない悪政の象徴」という地位を得てしまったので、設置が自己目的化してしまった。そもそも暑いのがダメならば学校をおやすみにしてしまえばよい。定期的に夏休みの期間を見直すか、基準を作って登校禁止日を作れば良いのである。しかし、今回の議論の目的は「現在の政治が子供達をないがしろにしている」という主張を認めさせることにあるので、夏休みの長期化というような代替え提案をしても受け入れられる余地はないし、予算について話し合いをしましょうというような提案が受け入れられることもないだろう。

自分たちが無視されることについて憤った人の中には「学校にエアコンをつけるまで官公庁からエアコンをなくすべきだ」という極論を持ち出す人さえいた。俺たちに我慢させるならお前も我慢しろということだが、市長などの偉い人たちではなく、市役所職員などの末端の人たちがいる空間や市の施設などで「我慢の政策」が実施されることになるかもしれない。ルールを決めている人たちはエアコンの効いた部屋で涼んでおり、市職員の人たちだけが暑い思いをするということでは、何の議論なのかさっぱりわからない。

子供の命を守るというのは大切なテーマなのだが、人々はつい「自分の意見が無視されている」ということに過敏に反応する。結局問題は解決されず無視されたと考える人たちの不満だけが高まって行くわけである。だが、それでは問題は解決しない。

議論が噛み合わない背景には「自分をわからせる技術」のなさがある。今回は実際にいただいた読者の感想(実際にはクレームだが)を元に、アサーティブさとその技術について考えたい。

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自ら進んで奴隷になりたがる若者

QUORAで「若者が野党嫌いになるのは若者がコミュ力を重視するからだ」という素っ頓狂な質問を見かけた。全力で否定しようと思ったのだが一度落ち着いて元の文章を読むことにした。この文章でいうコミュ力というのは、空気を読んで同調的に動く人のことを意味するのだそうだ。ああ「コミュ力」の定義が違っているのだなと思った。文章として読んでもらえるようにキャッチーなタイトルをつけたのかもしれない。ただ、一生懸命勉強すると忖度官僚になってしまうのだから、あながちないとは言い切れないなとも思った。

コミュニケーション能力というと、例えば会議のモデレータのような能力を思い浮かべる。参加者が持っている漠然とした違和感や疑問などを掘り下げて問題を発見させるというような能力で、アクティブリスニングなどと言われる。自分を知らせるにせよ問題を聞き出すにせよ、コミュニケーションには技術がいる。いわゆる「聞く力」や「話す力」である。

だが、コミュ力が同調性・協調性を意味するとすると、日本では受信力や発信力はそれほど重要視されず、形式的な同意が好まれるのだということになる。こうしたコミュ力が横行するのは学校が「何も変えたくないが少ない人数で効率的に生徒を管理しなければならない」からではないかと思う。

例えばいじめについて考えるときに「お互いに相手のことを思いやってうまくやって行きましょう」というようにわかったようにまとめるのがコミュ力である。実際には何も変わらず、したがっていじめはまた起こるだろう。しかし、参加者は(いじめられている人を除いてはだが)気分良くその場を立ち去ることができる。逆にいじめの原因がわかったりすると「何か嫌なものを見た」ことになり、問題を発掘して解決を試みた人は嫌われてしまうのかもしれない。

実際には大人もこうした「そつない」コミュニケーションを取ることがある。だがよく観察していると大人たちには魂胆がある。自分たちの持ち出しを少なくしてできるだけ相手に持ち出させるために「より切実な気持ちになっている人」の方が動かざるをえないように仕向けるために議論をする。そしてどちらも動かないと「鋭意努力はするが誰も何もしない」ことを決める。これは日本人が村落を生きているからである。小さな経済単位の損得ですべてを決めているのである。

高齢になればなるほど腰が重くなるのでますます何もしなくなる。過疎地の高齢者たちは「このままでは村がなくなる」などと言っているが自分で動いて若い人たちが暮らしやすいように村を整えるなどということは考えないし、実際によそから若者が越してきたらあれこれ難癖をつけ面倒な役員を押し付けて使い潰してしまう。こうした議論は今では国中に広がり、少子化対策のためにお金を出さないで、外国から便利に使えて福祉の対象にもならない単純労働力が自然発生してくれないかなと夢想している。日本は全体として過疎集落のようになりつつあるとも言える。

ただ、高齢の村人たちは自分がなぜ動きたくないかを知っており、なおかつ相手もなぜ動きたくないかがわかっている。自分たちが村落に住んでいることを知っているのである。彼らが公共を持ち出すとき、彼らはそれが絵空事であるということを知っている。何もしたくないので相手を非難して見せたりするのだが、たいていの場合それは単なる演技であり、周りを諦めさせるためにわざとやっている。こうしたことができるのは変わらなくても既得権だけでなんとかやって行けるからである。

ところが管理されている若い人たちはこの村落がわからなくなっている。日本人が最初に村落を意識するのは会社で正社員になったときだろう。つまり終身雇用で動く範囲が彼らの村になる。ところが最近の若い人たちはもともとこうした利益構造から取り除かれており、地域もないので村を意識することができない。

これが被害妄想だと感じる人たちに一つだけ例をあげたい。今度の東京オリンピックは建設村などに利権を引き込むための言い訳である。ただ、自分たちだけで投資ができないので「公共」という概念を用いることにした。彼らのいう公共とはつまり政治家の人たちが私物化できる範囲というような意味しかない。彼らは、国民にかわって税金を使うという意識はなく、国民から税金をとりたてて好きなように使うという感覚を持っているので、公共を私物のように捉えてもそれほど違和感を感じないのだろう。

だから政治家はオリンピックの運営に協力してくれた人にはびた一文払うつもりはない。そんなことをしたら彼らの損になってしまうからだ。すでに「これくらい儲けよう」という見込みがあり、それが減ることを考えただけで嫌な気持ちになってしまうのである。そこで「感動を見せてあげるから」などと言いつつ、公共を仄めかして無償労働をさせるのである。

オリンピックのボランティアの内訳をみると、ITや通訳といった特殊技能を持った人たちを無償で使い倒したいという願望が大きく現れている。彼らは本当はこれを企業にも導入したい。こうしたITの知識が語学能力にどれだけお金を払ったのかということなど考えもしない。そんなことは彼らには関係がない。そういう人たちが政治の運営をしているのだから、次第に「専門性を持つ努力をした人をいかに安く使い倒すか」ということを考える社会が作られるだろう。

ただ、周囲との軋轢を避けて「嫌だ」と言わず黙々と働きたいならそれはそれで若者の希望なので、こちら側がとやかく言う筋合いのものではないのかもしれない。ただ、「コミュ力」の高い人たちは意義を唱える人たちは同調圧力をかけて周囲を巻き込もうとする。やはり村落共同体が崩れかけた現代ではコミュ力は有害に働くのではないかと思える。

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日本人と社会 – ブロック塀について思うこと

ブロック塀が倒れて女児がなくなってからしばらく経った。深刻な事故であり心を痛めた人も多かったのではないか。こういうことが二度とあってはならないと調査に取り組む自治体もある。ところが自治体が大きくなるとこうした責任感は薄れてしまう。誰かがやってくれると思うのかもしれないし、余計なことをして仕事を押し付けられる人になってはいけないという危機感もあるのかもしれない。人口が300万人を超える横浜市のある父兄からはブロック塀のチェックをPTAに丸投げされたというツイートがあった。高槻市の場合は危険が認知されていたのに専門家でない人がチェックをして死者が出たのでこれは問題が大きそうだ。

このツイートの真偽はわからないがありそうな話であり、日本人が協力できない理由がわかってくる。日本人は協力が苦手だ。

横浜市がPTAに協力を求めることに問題はない。人手が足りないのなら誰かに頼むべきだし、父兄はこのさいに通学路を再点検しておくといいかもしれない。地域の学校は避難場所にもなっているのだから自分たちが逃げる時にも役に立つ情報だからである。地域の問題なのでお互いに協力し合えば良いのである。だが、PTAはそうは思わない。「PTAに命令を下している」と考えるであろう。ではなぜそう考えるのか。

もし、PTAと教育委員会や横浜市が協力関係にあるならば、PTAが自発的に行った調査に関して「ここを直しましたよ」という事後報告があるはずだ。PTAとしても地域の問題に関わったのだから、自分のインプットがどう役に立ったかが知りたいはずである。人は誰でも自分は役に立ったと思いたい。だが市役所はPTAに事後報告するのを嫌うのではないか。それは報告することによって「なぜここを変えないんだ」というクレームに発展することを恐れているからではないだろうか。

横浜市はPTAを下請けのように考えているだが、形を変えるとPTAは住民・有権者としてお客さんの立場になる。千葉市役所も市民のことを「お客さん」と呼ぶように指導されているようである。納税者なのだから大切に扱うという意思表明なのかもしれないが、実際にはカスタマーとしてクレームを入れてくる迷惑な存在であるというような含みが生まれる。

日本人はミューチュアルな(相互的な)関係を持つことができず、命令する人とされる人という関係性を常に意識しりようになる。だからお互いに関わるのをやめようと思ってしまうのだ。

本来ならば、PTAのみならず地域住民と市町村は協力すべきである。だが、そうはならない。もともと日本人は自分とは違った人たちを潜在的な対立者として捉えて協力してこなかった。いったん協力する関係が生じると上限関係が生まれる。このため日本人は関係性が生まれるところではどこでもマウンティングをして、どちらが優位なのか白黒させたがる。

Twitterもまたこのマウンティングの舞台になっている。ネトウヨ系の議員がめちゃくちゃなことを言って安倍政権の擁護をしたがるのも「私はルールを決める側の人間なので、たとえめちゃくちゃであっても絶対にあなたたちには従わない」というメッセージになっている。麻生財務大臣はこれが芸になっていて記者たち相手に一人マウンティングをやっている。麻生財務大臣が滑稽なのはこれが誰にも相手にされないからである。

最近Quoraで地域で問題を解決するために様々な専門家を集めて作業するのは極めて難しいという観測を漏らす人もいる。地域振興のための議論の場では誰も異業種間のコミュニケーションを取ろうとはしないという話を聞いた。型通りに意見を集めて総花的なレポートを上げて終わりになることがあるそうである。

この人には「問題解決が複雑化する現代では、自治体であってもビジネスマンのようにいろいろな意見の人を聞いてプロジェクトマネジメントをする指揮者のような役割が必要だ」というようなことを書いて送ったのだが、あまり満足してもらえなかったのではないかと思う。そんな概念的なことを言われても自分一人で組織文化を変えることはできないので「もっと具体的で即効性のある提案」が欲しいと考えるのではないだろうか。すべての地域が即効性を求めた結果、地域振興はプレゼンテーションの技術を競うコンペになっている。中央官庁に受けが良いパワーポイントが「優勝」するのだ。

本来ならば、専門家がチェックリストを作った上でPTAや地域に協力を仰ぎ、PTAや地域住民がチェック結果を市町村に伝えればよい。市町村は上がってきたリストをどうチェックしたのかということを公開して協力してくれた人たちに公開すればみんなが満足できるだろう。もし仮に予算が足りないなら市議会議員を交えてミーティングすればよい。だが、和を以て尊しをモットーとするはずの日本人にはそれができないのである。

そこで市役所は言い訳に走ることになる。

千葉市もマニュアルのようなものを市役所のウェブサイトに掲載しているが、規定を丸ごと書いて「これで勝手に確認しろ」と言わんばかりの態度である。ブロック塀が倒れる写真が掲載されていることからこの問題がすでに周知されていたことがわかるのだが、死者がでているにもかかわらずこれを変えようとする人はいない。千葉市は全国の政令指定都市の中で地震の危険性が一番高いと言われている。それでもこの程度の認識である。

埼玉県は学校を緊急点検したところ1/4の学校で建築基準法違反の疑いが出たと発表したそうだ。彼らが考えるのは危険を減らすことではなく自分の身の安全を守ることのようでこのように弁解している。

県教委は、定期検査で不適合の可能性を把握していたにもかかわらず対策を取っていない学校があったことについて「著しく危ない部分を優先して修繕していた」と説明した。

このように公共心が全くない日本人だが、こと憲法になるとやたらに公共について語りたがる。マウンティングに利用するためである。日本国憲法によると国会議員や政府は主権者に奉仕するのが仕事である。だが、政権にいるうちに「それでは面白くない」とか「誰かを従わせてみたい」と思い始めるのだろう。

例えば、佐藤正久外務副大臣は一部では「人権人権とバカじゃないか、もっと大きなものを護るために命を捨てろ!」と言ったとされている。現在このビデオはチャンネル桜の申し立てにより削除されており、本当にこのような発言があったかどうかは確かめられない。礒崎陽輔議員は日本国憲法は国が国民に規範を示す訓示的憲法にしなければならないとTwitterで発言したことがある。このように折々にこうした発言を観測気球のようにあげて徐々に陣地を広げてゆくのが彼らのやり方なのだろう。

常に「誰が偉いのか教えてやろう」という気持ちが強いために民主主義の規範を踏み外す人が後を絶たない。だから、有権者の監視が欠かせないのである。多分こうした不心得な人たちはいなくならないのではにだろうか。

そのためには監視する側が常に規範意識を持ちかつ毅然と行動し発言する必要がある。確かに乱暴な声は届きやすいが隠れた反発者を生むだろう。個人的な記憶を呼び覚ましてみても高校の社会科の先生の中に現実を見ないで夢のようなことばかりを訴える現代社会の先生がいた。もしかしたら日教組的な影響を受けていたのかもしれない。最初は物珍しさもあり話を聞いたりするのだが、そのうちに「ああ、また何か言っているよ」としか思わなくなった。このようなことを避けるためにも、どう見られているのかを意識し、課題を勉強した上で発言したほうが良さそうである。ましてやマウンティングに参加してしまうと「この人もえらく見られたいだけなのか」と思われて終わりになるだろう。

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ワールドカップロシア大会に見る日本人とルール

先日来、リベラルについて考えている。一環として日本人とルールについて考える。日本人はどのようにルールを理解しているのだろうか。

フットボールのロシアワールドカップで日本チームが「フェアでないプレイで16強に勝ち上がった」という悪評が立った。驚いた日本人も多かったようで戸惑いや正当化の議論が盛んに行われた。日本人は一生懸命に西洋社会から認められようとして頑張ってきたのに「本質を理解していない」と言われたことに戸惑いがあったのだろう。木村太郎は「これは人種差別だ」と言い切った。

だがBBCの記事を読むとイギリス人の反発には理由があることがわかる。イギリス人はフットボールをフェアにやってもらいたいのである。このため、消化試合を避けるためにグループごとに試合が同時進行するように運用ルールが改正しており、イエローカードの枚数で優劣を決める今回の改正もその一環だった。日本はこれを通信機器で「ハック」することでルールの背景にある精神を踏みにじったと見なされた。ルールを変えるべきではという指摘すらなされたようだがFIFAはルールを変えるつもりはないと言っているそうだ。

背景には日本人とイギリス人のルールに対する考え方の違いがある。イギリス人やFIFAはフットボールを健全に保つためにルールを作っている。目的はフェアな試合だ。だが、日本人は本質ではなく「ルール」という外形を保つことによって良いコミュニティのメンバーであるということを見せたがる。だから、ルールで決まった範囲なら「何をしてもよい」と思ってしまうのである。

面白いことに日本のマスコミは海外で西野監督の決断が問題視されていることは伝えたが「ヒホンの屈辱」とその精神について取り上げたところはなかった。日本人は自分たちがどう見られているかは気にするが、どうやったらコミュニティを健全に保てるかということにはほとんど関心を示さない。見た目だけを気にしているのである。

西野監督の決断は、日本の政治で横行するルール破りについて考察するよい材料になる。安倍首相がやっていることと非常に似ているからだ。

日本人は決まったことを守ることがよいコミュニティメンバーの条件であると考える。だから、決まりにはチャレンジしない。決まりを変えることでコミュニティに対する異議申し立てをしていると見なされたくないからである。これは西洋のコミュニティがメンバーの合意で成り立ち恒常的な貢献で保たれるという考え方が日本にはないからだろう。村人を縛る村落をメンバーがあえて保つ必要はない。

例えば憲法第9条が変わらないのはこのためであろう。日本人は憲法はルールを守るという意識はあるが、その向こうにある「主権国家が協力して国際秩序を守って行くべきだ」という理念にはあまり関心を持たない。国際社会でいい子であればそれで満足なのだ。そして憲法第9条を「縛りである」と理解する。

このように窮屈な村落観を持つ日本人は「決まりは相手を牽制するためにも利用できる」と考える。体面のために決まりを守らなければならないし、それを押し付けることで相手を牽制できると考えるのである。ルールの範囲内で「ハッキング」する「ズルさ」はある意味大人の条件だ。だが西洋ではこれは単なるズルにしか見えない。こうした違いが文化摩擦を引き起こすことがあり、今回の西野采配もこれに当てはまる。

この「ちょっとずる賢く立ち回ったほうがいいのではないか」という考え方は、「大人な有権者」に広く受け入れられており、今回の自民党総裁選挙でも大きな影響を与えるかもしれない。

最近野田聖子さんや石破茂さんらが安倍首相を公然と批判し始めている。総裁選で「フェアな政治」を求めたほうが有利だと感じているからだろう。だが、これは野田さんや石破さんに不利に働くかもしれないと思う。なぜならばサイレントマジョリティである日本の男性は「日本が国際的に有利にやってゆくためにはまともにルールを守っていては損だ」と感じているかもしれないからである。こうした人たちは「ちょっとしたズルをする安倍首相」を大人だと感じるだろう。実際に石破茂さんには「あの人は真面目すぎて国会の筋論にこだわる」という評判があるそうだが、これは悪口である。女性も男性のように尊大に振る舞う事で「器が大きくなった」と見なされる事がある。その意味では野田さんは「女性的」すぎる。野田さんを支持しない人は「きれいな水に魚はすまないというではないか」と感じるかもしれない。

競争に勝つためには女性を低く使ったり外国人労働者を安く使ったほうが有利だと考えている人は意外と多そうだが、それが表立って語られることはない。安倍首相の嘘に一定の支持が集まるのはこの「ルール内でのずるさ」が支持されるからなのだろう。民主主義的なプロセスさえ踏めば嘘をついても良いと考えるのが日本人なのだ。

そんな日本人でも民主主義にこだわる事がある。

1999年の小渕内閣で自民党は金権政治から脱却できていないという批判にさらされていた。田中角栄のロッキード事件の影響が払拭できず細川内閣で一度下野した。その後も単独で過半数が取れなくなり連立相手を変えながらなんとか生き残っていたという時代である。当時、より近代的でかっこいいスマートな民主党が台頭し始めており「このかっこよさを取り入れたい」という思いがあった。党首討論が導入されたのはそんな気分があったからなのだ。

党首討論はイギリスを真似てクエスチョンタイムと呼ばれた。「西洋流のかっこいい俺たち」を見せたかった民主党と俺たちも負けていないという自民党の利害が一致したのである。議事録を読むと議論は朝ごはんに何を食べたかという鳩山さんの問いかけで始まっている。当然鳩山さん流の洋食(とはいえピザなのだが)のほうがかっこいいわけで、小渕さんは少しためらいながら日本食だったと明かした。この後、鳩山さんはピザの話を政権批判につなげた。「具材が混ざってよく味がわからなくなった温め直したピザ」は連立相手を組み替えて政権にしがみついている自民党を揶揄している。この中に小渕さんが強がりから発したと思われる「冷たいピザも温め直せば美味しい」という発言が出てくるが、小渕さんはこの後「冷めたピザ」と揶揄されることになった。自民党は賞味期限が切れた政党と見なされてしまったのである。

安倍首相が様々なルールを破って党首討論をめちゃくちゃにした上で「党首討論の役割は終わった」と言い放った。それももっともな話だ。政権交代は失敗し民主党(主に鳩山さんだが)のかっこよさも見掛け倒しだということがわかった。民主党にはスマートな政治家が多かったがそれはたいていは意志薄弱さの裏返しだった。自民党はもはや強がってみせる必要がなくなってしまったのだから面倒な議論などしなくてもよいのだ。さらに「ちょっとルールを破ったほうが勝てる見込みが高まる」ということになると議論でもルール破りが横行することになる。

高度プロフェッショナル制度にそれほどの反発が起きなかったのは日本人の多くが「誰かが犠牲にならなければ今の豊かさは維持できない」という見込みを持っているからだろう。だが、自分だけはそこから逃げ出すことができるという楽観的な見込みも同時に併せ持っている。第二次世界大戦でも、日本人の多くが政府に取り入って儲けたいと考えた一方で、家族や財産を失うと想像できた人はそれほど多くなかったはずだ。ズルさを支持する裏にはこのような見込みの甘さもある。

西野監督や安倍首相を見ていると、日本人がルールを曲げようとしているのは負ける見込みがある時だということがわかる。だから、脱法的なルール運用が横行するようになったら日本人が逃げの姿勢をとっていると考えたほうがよさそうである。西野監督は自分のチームがポーランドに勝てると思えばあのような戦術は取らなかったであろう。また、試合を続行すれば選手が焦ってイエローカードをもらうという見込みもあったのかもしれない。西野監督は選手をうまく乗せて勢いづかせることができるという自信はあったのだろうが、選手をコントロールできているとは考えていなかったのであろう。

安倍政権を応援する日本人も「負けるかもしれない」という認識を持っているからこそ安倍首相を応援し続けるのだろう。もっとも安倍首相が西野監督のように客観的に状況を判断しているとは思えない。西野監督は試合後の会見で「本意ではなかった」と発言したのだが、安倍首相はルール無視をしている俺はかっこいいなどと主張してますます拒否反応を呼び起こしている。選手を西野ジャパンの試合後のインタビューを見るとかなりフットボールコミュニティを意識してい情報を集めていることがわかる。せっかく強いチームなのだからもっと好きにやればいいのにと思うくらいだ。これは国際的なプレイヤーが多くマイノリティとして自分の文化を客観視する姿勢が身についているからなのかもしれない。これが永田町と選挙区しか知らない政治家との決定的な違いだ。

今回の議論はリベラルとポピュリズムについて考えている。これをトピックに当てはめると、まず「まともにやっていても勝てる」という見込みがなければルール順守を訴えることは難しい。リベラルの人たちの人権と多様性を保護すればより豊かになれるという見込みは実は自信の表れであり、それを自信のない人たちに信じさせるのは難しい。もしかしたらリベラルを自認する人も自分に自信がないから騒いでいる可能性もある。ここを越えるのはとても難しい。

それに付け加えて「ルールはなぜできたのか」ということを考えるべきだ。日本の平和憲法はある理念の元に作られている。これを理解しないで単に平和憲法には指を触れるべきではないと考えていてはいつまでたっても平和国家を実現する事はできない。もし「平和国家日本」を守りたいならば、もっと外にでて多くの人と意見交換をすべきであろう。

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「リベラルさ」を保ち続けるのはなかなか難しい

少し罪悪感を感じている。久々に投げ銭をいただいたのだが、例によってメッセージ欄が途中で切れている。システム上の制約で100文字ちょっとで切れてしまうのである。「左派に属していると思うのだが途中で行き詰まる」というところまでは読めた。「この記事」がどの記事かはわからないが、多分前回の記事ではないかと思う。リベラルのほうがポピュリズムの温床になるのではないかというのが前回の主張だった。が「何が行き詰まる原因になっているのか」という点はわからない。

もしかしたら前回の主張が悩みを生んでしまったのかもしれないとも思った。あまり真剣にリベラルや保守を考えない人は気軽にポピュリズムに走ることができるが、真剣な人ほど悩んでしまうのかもしれない。

この断片的な状況から今回のお話を展開しようと思う。だが、断片から出発するので全く間違っているかもしれない。その点についてはあらかじめお詫びをしておきたい。

まず左派の定義からしなければならない。この文章では、左派の代わりにリベラルという言葉を濫用しようと思う。人間は理性によってお互いの多様性を許容できるという見込みをリベラルと定義する。つまり多様性の尊重と人権の尊重がこの場でのリベラルであり、言い換えれば「多様な価値観を前提にした協力の文化」である。経済的に私有財産を制限する左派とは違っているし、政府の制限なしに活動ができるという意味での(つまり新自由的な)リベラルでもない。また均一性を前提にした協力の文化でもない。

このカウンターにあるのは、防御的な保護システムである。「協力」は人間が種として遺伝子レベルでもっている種の特性だが、自己保存の本能もまた、人間が生物として持っている特性と言って良い。

協力を前提にしているリベラルな民主主義を考察する場合「経済的な豊かさ」と「経年」は有効な指標になる。経済的に豊かであれば分け与えることで発展が望めるし、共有のための社会資本が蓄積されていた方が共有の文化を実行しやすい。一方で貧しさを意識するようになると自己保存の本能が働き「できるだけ資産を独占して冬に備えなければ」という気分になる。日本はかつて教育に力を入れて発展した。これは世代間協力の成果だ。そして冬の時代を予感するようになると教育費が削減され実際に経済の成長も鈍化した。次の世代に投資するより目の前の生存を優先しているからだ。

自分自身がリベラルな社会を良いと考える理由は二つあると思う。まず「先進的なアメリカ西海岸」を見ているので、多様性が経済的な豊かさに結びつく社会を知っている。カリフォルニアには農業中心の内陸部と豊かな海岸部があり、多様性を保障した方が豊かになれるという実感が得やすい。だから都市がクリエイティブな人災を集めるとか、自由が経済を発展させると信じやすいのだ。また、民主化と高度経済成長が同時に実現していた時期も知っている。

ところが、現代ではこうしたリベラルさを信じるのが難しくなっている。日本の経営者はやがて冬の時代が来ると信じている。このため従業員に十分な賃金を支払うのを嫌がる。出したお金が戻ってくると信じられないからである。自分たちは協力を拒否してお金を内部に溜め込むのだから従業員や消費者もそうするだろうと見込むのだろう。

最近のアメリカでもリベラルが行き詰まっている。経済的に取り残された人たちが民主主義や移民社会のあり方そのものに疑問を持つようになった。すでに一体的な西海岸はなく、カリフォルニア州を3つに分割すべきだという議論すら出ているようだ。自分たちの社会も停滞している上にモデルにするものもないのだから、こうした中で「リベラル」という信仰を保つのはなかなか難しい。

さらに日本のリベラルはもう少し厄介な問題を抱えている。無自覚の差別意識である。

先日テレビで「著しく差別的な」光景を見た。フジテレビのアナウンサーがディズニーのプリンセスが大勢出てくるアニメをみている。彼女は時間がない中で画面の中にいるプリンセスの名前を当てなければならない。そこで女性アナウンサーは有色人種を全てスルーしていた。ポカホンタス(ネイティブアメリカン)、モアナ(ハワイアン)、ティアナ(アフリカンアメリカン)である。これは偶然としては出来すぎている。

第一に画面をランダムに切り取っているのに有色人種が必ず一人含まれているという問題がある。これはディズニーが意図的に有色人種を混ぜているからである。つまりお姫様は白人であるという前提があり、そこから脱却しようとしているのであろう。第二にフジテレビのアナウンサーがこれらの名前を呼ばなかったのはなぜかという問題がある。それは彼女がプリンセスは白人であるべきだと思い込んでいるからだ。

無意識の差別は根深い。例えば二階さんが「子供を作らないのはわがままだ」という時、支持者の中にそういう気持ちを持っている人がいるということを意識しており、さらに蛮勇をふるって何かをいえば「男らしい」として賞賛されるであろうという見込みがある。彼はこれを意識的に扱っているので、外から攻撃しやすい。だがその向こうにはそもそもそれを不思議に思わない大勢の有権者がいる。リベラルが問題にしなければならないのはこの無意識の差別であるが、意識がないので攻撃が難しい。

ここでフジテレビのアナウンサーを指差して「お前は差別主義者だ」と名指ししたら何が起こるだろうか。多分彼女は泣き出してしまうか色をなして怒るだろう。つまり他人の「反リベラル的意識」を指摘しても問題は解決しないのだ。二階さんのような人はわかってやっているのだから「不快に思ったなら謝ります」といって涼しい顔をするだろうし、そうでない人は「リベラル」を嫌うようになるに違いない。

加えて、リベラルを自認する人でもこうした無自覚な差別意識を持っているはずである。それに気がつくことができるのは他の文化に触れた時だけだ。つまり文化が均質的な日本人はそもそも差別に気がつきにくいという特性を持っているのだ。

最近、フットボールでこの文化差の問題が起きた。日本対ポーランドの試合で日本が後半のゲームで何もしなかったことに対する批判が起きた。これについては様々な議論がでた。そのほとんどは日本の態度を正当化するものだった。中にはこれに「もやもやしたもの」を感じているサポーターもいたようだが、その気持ちをかき消して正当化議論に同化していた。

ここで問題にしなければならないのは行動の良し悪しではないように思う。イギリス人はフェアプレイという理念がありそれを実現するためにルールを作っている。できるだけフェアプレイが保たれるようにイエローカードを基準に加えたのだろう。だが、日本人は集団の中でルールを守ることそのものに価値を見出すので、ルールがどのような行動原理に裏打ちされているかということを考えない。だから、結果的に「ルールを守って理念を守らない」ということが起きるのだ。日本人は頑張ってイギリス流のフットボールを学習して心からフットボーラーになろうとしたのにそれでも反発されるということに驚いたはずである。

つまり、問題を解決したければ理性的な対応が求められるということになる。つまり「人種差別はいけないことだ」とか「フェアプレイでなければならない」という規範を一旦捨ててみることが必要だということになる。相手に対してもそうだし自分に対してもそうだ。

これまでの議論を整理すると、経済的な不調や格差の拡大で「協力する文化」を信じるのが難しくなってきているのに加えて、そもそも外側から自分たちの文化や規範意識を客観的に判断するのが難しいという事情がある。ポピュリズムは不安や不確実性に対する本能的で自然な反応なのでこちらに乗ったほうが簡単なのである。

こうした状態から完全に抜け出すのは難しい。あえてやれることがあるとしたら状況をできるだけ客観的に判断するためにいろいろな情報を集めてくることなのではないかと思う。これができるようになれば「どこかで行き詰まる」のがそれほど不自然ではないことがわかるはずだし、それが最終的な行き詰まりではないということがわかるのではないかと思う。

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ネトウヨ対策について考える

先日来、政治議論にまつわる様々なテーマについて考えている。「政治家の嘘」「民主主義の死」「政治議論の呪い」などである。今回はこれについておさらいしながらネトウヨ対策について考えたい。

もともと日本の政治家は嘘を「本音と建前」として管理していた。ウチとソトの境目が曖昧になり本音の一部が「嘘として露出」することになった。これを攻め手に欠け有権者から見放された野党が攻撃して「民主主義の死だ」と叫んでいるというのが真相だろう。野党も組織や社会を管理する側に回れば「本音」という名前の真実を建前で隠蔽するようになるはずだ。一方、彼ら(野党と与党の支持者たち)の政治議論の多くは基本的にフレームワークの押し付け合いである。これは、身内がお互いが気持ちよくなるための言い訳と他人への抑止なのだから集団を共有するつもりのない議論は全て無意味なのである。基本的に他者を前提としないのが日本人なのでルールがないときには違いを前提とした外交交渉はできない。ただ、建前を真実だとして語ることが一種のマニフェストになってしまうので、これが呪いとなりお互いの選択肢を狭めてしまう。だからこれは無意味であると同時に有害でもある。

日本人は民主主義の本質について理解しているわけではないし特に興味もない。ゆえに双方の議論はめちゃくちゃになりがちである。例えば基本的人権は「自分は人生の主人公であるべきなので、自分の内心を表現したり、同じような気持ちを持った仲間と協力する自由がある」から存在する。ところが早いうちから集団に頼って自我を増長させる日本人にはこの民主主義はあまり意味を持たない。このため日本人の人権に対する理解は控えめに言ってめちゃくちゃになる。政治家は「公のためにわがままである人権はちょっと抑えるべき」などと発言し、ネトウヨの人たちも「表現の自由というなら朝鮮人は国に帰れという自由もあるはずだ」などと言い出す。とはいえリベラル側も基本的人権についてよく理解していないので「憲法に書いてあるからダメなのだ」などという水準の説得しかできない。彼らもまたルールを作る側になれば規範を押し付ける側に回るはずだ。

他にも山の登り方はいくつかあるのだろうが、これを観察すると二つの疑問に行き着く。一つは民主主義など存在しないのにどうして民主主義社会が崩壊しないのかという疑問である。実際に日本の民主主義は破綻していないので、なんらかの別な仕組みが独裁制を防いでいるのだろうという仮説が立つ。そしてもう一つ、なぜ日本人は表で本音の議論をすることが前提になっている民主主義的な行動ができないのだろうかという疑問がある。日本人は早いうちから集団に自我を同化させるので、個人の資格で誰かから反対されることを極端に嫌うのだろう。表で反対されると嫌なので「甘えることができる」環境でしか自分の欲求を表出することができない。

こうした本音の議論では身内の結束を高めるために「他人に対する嫉妬や陰口」とか「自分は社会の約束事からは自由なのだといった強がり」などといった甘えた感情によって結びついた「とんでもない」議論が行われる。派閥の会議がたいてい下卑た冗談で埋め尽くされるのはそれがボーイズクラブだからだし、逆に女性が多い会合では「規範の押し付け合い」や「嫉妬」が渦巻くことになるのではないかと思われる。

安倍首相が反発されるのは「選挙に負けた」時に生じた内輪の強がりを社会の要請として誤解して「社会一般の規範」に格上げしようとしたからだろう。もともとネトウヨ的議論はこれまでも一部の右翼的な雑誌で横行していた。こうした議論がそれほど問題にならなかったのはそれが影響力のない雑誌での「サブカルチャー」的な議論だったからである。

生涯を通じて自分を拡張させてくれる集団を見つけられなかった人たちが最後にたどり着くのが実体のない「国家」だ。もし彼らがアメリカに生まれていれば原理主義的なキリスト教に傾倒していたはずである。しかしそれは彼らの満たされなかった所属欲求を満たしてくれるものでなければならないので「日本というのは無謬であり世界に尊敬されていなければならない」という主張を繰り返すことになる。

だが、そんな国はありえない。だから例えばGHQであったり日教組であったり国内の少数民族であったりあるいはその人たちに協力する「反日分子」を持ち込んで合理化を試みるのだろう。

ところがこの甘えた議論がそのまま表出することはない。それが「世間」にさらされるからだ。この文章の冒頭で「何が独裁制を抑えているのだろうか」という疑問があったのだが、この世間が抑制装置になっている。民主主義を理解しない日本人にとって公共とは政治家が好き勝手に解釈できるどうでもいいものだが、世間はそうではない。「世間体」とか「世間の目」に実体はないがこれこそが日本人を縛り付ける。

日本人は世間を恐れている。例えばこのような事例がある。安倍首相はなんとかして憲法を変えたい。中には人権を否定するような動きがある。内輪で話し合っている時にはかなり勇ましい議論がでる。だが自民党が「世間」を意識するとき、その議論は萎縮する。自民党の憲法草案はかなり勇ましい内容だったが、今ではこれを表立って擁護する人はいない。また安倍首相は「憲法第9条を改正したい」と提案しているが、具体的な議論になると及び腰になるのが常である。未だに安倍政権は末期の麻生政権よりは支持されている(最終的には20%以下まで下落したそうだ)なので、安倍首相の機嫌を損ねたくはないのだが、かといって世間と戦ってまでこれに勝ちたいと考えている人は一部のネトウヨ議員たちを除いてほとんどいない。彼らは世間がよく理解できないがゆえに安倍首相を支持するが、世間がわからないがゆえに失言で失脚する。

こうした世間の目はかなり微妙な形で日本の政治に作用している。例えば森友・加計学園の問題では問題が報道されると支持率が下がる。しかし、政権を追い詰めるまでには下がらず微妙なラインを保っている。つまり「政治について監視するのは面倒だが、かといってあまり羽目を外しすぎるとどうなるかわかりませんよ」というラインが維持されていることになる。

もしここで「ネトウヨ」と呼ばれる人たちが顔出しで自分の主張を喧伝し、それを世間が支持するようになればそれはかなり危険な兆候になるだろう。しかしこの「世間」はとにかく政治について極端なポジションを取らず、いかなる変化も拒む。とにかくリアクションがないのでその層に訴えることはできない。彼らが好む答えは「とにかく何も変えない」ということだけだからである。

さらに世間が民主主義や人権について正しい理解をしているということもなさそうである。女性は家にいるべきであり「ふらふらと外でお勤めすべきではない」と感じているだろうし、犯罪者を糾弾して問題を切り捨ててしまえば問題そのものがなくなると感じている人も多いことだろう。かといって同性婚や夫婦別姓に反対するということもない。自分が強制されれば嫌かもしれないが、特に関係がないと思うと彼らは関心を寄せないのだ。しかしこうした制度ができても同性婚や別姓を差別し続けるかもしれない。今でも夫が妻の姓を名乗るのは自由だがそれを選択する人は多くない。世間で「なぜそんな不自然なことをするのだ」といって抑圧されることが容易に予測できるからである。

世間から相手にされないネトウヨと呼ばれる人たちには観客が必要になる。世間には異議申し立てができないが、リベラルは話を聞いてくれる。挑発すれば怒ってくれる上に危機感も持っていて脅しがいがある相手だ。ネトウヨの実体はそれほど多くないことが知られているので、相手にさえしなければ彼らのメッセージがそれほど広がることはない。するとそういう思想に触れる人は少なくなる。逆に彼らのお相手をすることで彼らの思想を広め、無批判な人たちにその思想を感染させる可能性がある。

政治家の「勇ましい発言」はその都度潰しておいた方が良いと思うのだが、それは「ここは内輪ではなく、従ってあなたたちの強がりを聞く義務はない」といったトーンにすべきだろう。選挙に勝つ必要がある政治家は世間の建前を意識せざるをえないので建前で潰してしまえば良いわけだ。さらに社会的な影響力のないネトウヨは相手にするだけ無駄だし却って彼らを増長させる可能性がある。Twitterでネトウヨに対して何かを書きたくなったらそのことを考えるべきだろう。

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「貧乏人はカップ麺を食べるからダメなんだ」について考える

先日来、リベラルの呪いについて考えている。今回は知らず知らずのうちに他人を呪う人について考える。ここから得られる教訓は二つだ。日本人は知らず知らずのうちに他人にフレームワークを被せてしまう。多分自分も含めてそこから逃れることはできない。そしてそれが他人だけではなく自分の行動を制約してしまうのである。これが「人を呪わば穴二つ」の意味である。

先日「貧乏人はカップ麺を食べるからダメ」というTweetが回ってきた。普通の日本人は日本人であるだけで「誰かに何かの意見を押し付けている」と思った方が良いんだなと思った。特に自分がリベラルだと考えている人は要注意である。無自覚に価値観を押し付けるのだが、他人から何かを押し付けるとことさらに怒り出す傾向にあるからである。思い込みが激しい人しかリベラルになれないのではないかと思えてしまう。

実際に「低所得の人ほど安価なものでお腹を膨らませたがる」という傾向はあるようで、一定の真実が含まれているのは確かである。しかし、これが中途半端に科学的なので、自分の思い込みを接ぎ木してしまうと結論を間違えてしまう。

このTweetは「カップラーメンは高い割に健康に良くないから和食を食べなければならない」と主張していた。その背景には「人間というのは和食を食べなければならない」という思い込みがあるようだ。実はこれがリベラルの人が嫌っている「日本人は夫婦同姓でなければならない」という思い込みと相似形になっているのだ。

具体的には米を炊けと言っている。「和食がよい」というのがその人の「聖書」になっており、それを主張する自分に酔っているのだろう。だが、なぜそれが呪いになるのか。

和食を成立させるためにはおかずをどこかから調達してくる必要がある。自分で作ると手間がかかり割高になるので「調理」という選択肢はない。この人は、当然スーパーかコンビニに行けばいくらでもおかずが調達できると考えているのだろうが実はこれが間違っている。

コンビニエンスストアは「いつでも一定のものが手に入る」という便利さを売っているので、ある程度の所得以上の人しか利用できない。割引サービスがないこともあり、年金暮らしの高齢者などはコンビニには行かない。

もちろんスーパーに行けばそれなりのおかずは購入できるだろうが、そもそも地方には徒歩圏内にスーパーがない場所がある。統計に出てくるわけではないし政治課題にもならないので、小型スーパーがなくなっているということに気がついていない人は多くないかもしれない。

人件費がかかる小型スーパーは斜陽産業になっている。代わりに台頭しているのが地域の大型店と簡便なミニスーパーだ。ミニスーパーは商品入れの作業を軽減したり陳列を簡素化したりして対応しているので生鮮食品が置けなくなる。つまり、生鮮食品を作って並べるということがそもそも「贅沢な行為」なのだ。

それでも「頑張って」安い値段でおかずを提供していた店はある。記憶に新しいのはポテトサラダを提供して食中毒を出してしまった北関東のスーパーだ。できるだけ手間をかけずにお惣菜をおこうとしたのだろう。このニュースのインパクトは凄まじかった。日本農業新聞によるとジャガイモの需要が減るほどの影響が出ているそうだ。

日経新聞のこの記事によると、去年食中毒を出したスーパーは全店閉鎖になってしまった。ブランドイメージが毀損したという理由のあるのだろうがそれだけではないだろう。手間のかかる上に収益の上がらない業態が成り立ちにくくなっているのではないかと思える。普通に見ているだけではこういうニュースの後追いには気がつきにくいだろうし「リベラルな自分」に酔っている人はなおさらであろう。

「手間がかかる惣菜」の代わりに安くなっているのが加工食品である。日持ちがするので無駄が少ない上に箱や缶に入っているので輸送費が安い。

それでもご飯食に拘ると保存食品かレトルト中心となり、塩分過多の問題が出てくる。もちろんインスタントラーメンも塩辛いのだが、漬物と味噌汁(そもそも味噌汁は贅沢品なのだが)でもつけようものなら塩分はインスタント食品よりも高くなるかもしれない。日本人はインスタントラーメンのような工業製品的な食品にはうるさいのだが、梅干しや漬物などの塩分はなぜか度外視してしまう。和食は体に良いという刷り込みがあるのではないだろうか。肥満と並んで高血圧も成人病の元になる。

お金もなく、買い物も頻繁にできないという条件下では加工食品にうまく依存しないと選択肢の少なさに苦しめられることになる。これが「呪い」になるのだ。加工食品ばかりという制約された条件ではこうした思い込みを解体して「必要な栄養をどうやって摂取するか」ということを考えなければならない。

調理が必要な「野菜」は贅沢品なので、野菜ジュース(これは1日分の野菜というようなものが100円以下で売られている)と炭水化物の組み合わせが「現実的な」ソリューションになる。もう少し贅沢すればビタミンを補うような補助食品も売られている。この<野菜>には繊維質が含まれていないので、健康に気をつけるならば小麦粉を使った菓子で補うことになる。こうした食事を「普通でまとも」と思える人は少ないのではないだろうか。

さらに一回あたりのカロリーが低いので三食も難しいかもしれない。つまり、こまめに食事をして空腹を防ぐことになる。実はこれは「ダイエット」の基礎になっている。

一番安いのは一番安いのは袋入りのラーメンである。ガスがないなら炊飯器で調理できる。次が安売りのインスタントラーメンだ。50円くらいの違いがあれば卵が二個足せる。日清のカップヌードルなどは廉売されないので「贅沢品」と言える。つまり「インスタント麺を同列で語る」時点でその人は「何にもわかっていない人」なのである。

ここからわかるのは、思い込みは他人と自分の選択肢を同時に狭めてしまう効果があるということだ。そしてそれを否定すると今度は慌ててそれを否定する情報を探してしまう。実はサヨク・ネトウヨ対立にはこうした呪いが満ちている。

もちろん「何も知らずに上から目線で貧困について自分の意見を押し付けてくる人」を非難するつもりはない。なぜならば自分もやっているからである。だが、知らないのなら当事者を否定するのではなくまず何が起きているのかを実際に聞いてみるべきだと思う。だが、意外と「自分は知らない」ということもわからないので、少なくとも情報が取得できるように対話の窓は開けておくべきかもしれないと、自戒を込めて思う。

その一方で具体的に社会問題を考えてみることで様々なニュースが面白く読み取れることもわかる。思い込みを捨てた方がいろいろなことがわかるのではないだろうか。

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なぜネットの人民裁判は完全に追い込むまで終わらないのか

今回は短くネットの人民裁判が個人を完全に追い込むまで終わらない理由について考える。

先日、至学館の栄監督が伊調馨選手に謝罪した。しかし「コミュニケーションの問題だ」として実質的には非を認めなかった。さらに学長も「選手はたくさんいる」と従来の主張を繰り返した。つまり自分たちが可愛がってこなかった伊調馨選手に振り回されたくないというのだ。ワイドショーでは情報が錯綜しており、伊調馨さんを会見場に呼びつけたという人もいれば、実はレスリング協会側が気を利かせて問題を終わらせようとしたという人もいる。伊調馨さん側は「まだ内閣府の処分も出ていない段階で手打ちに応じた」ことにしてしまうと問題がうやむやに終わりかねないということを恐れているようだ。組織防衛のために問題を終わらせようとした学校側と納得しない選手側」が対立していることになる。学校が勝てばパワハラが正当化される。

謝罪に意味があるのは再発防止策を伴うからなのだが、栄監督は組織に守られており、至学館では同じような問題が繰り返される素地が温存されたことになる。「こう謝罪しておけばよい」というフォーマットができたことで問題の構造が温存される可能性もある。実際に政府はそうなっている。いつの間にか「文書はごまかしても刑事罰がない」し「官僚を形式的に罰しておけば政治家にはお咎めがない」というニューノーマルができてしまった。

学長が謝罪したくない気持ちはわかる。世間に負けたことになってしまうからである。麻生財務大臣が世間に部下の問題を謝罪することを「負けた」と感じるのに似ている。村のなわばりを気にする日本人には自然な感情だろう。コンプライアンスを気にするアメリカは企業を社会の構成要素の一つと考えるが、日本人は組織を独立した閉鎖的な村であり、他人からとやかく言われたくないと思うわけである。

この問題はこのままで終わるかもしれないし終わらないかもしれない。終わらないと考える人はレスリング協会という「公共性の高い」組織の問題を指摘している。栄さんはプライベートな空間で活動することはできるだろうが、この先公共性の高い組織には出てこれないかもしれない。日大はここで失敗した。学連という公共性の高い組織に対して非を認めなかったことで学連は排除された。問題は日大の反社会性の問題になっており、今後は企業や学生の親たちが日大をどう承認するかという問題になるだろう。

同じことはなんちゃって軍歌を歌ったRADWIMPSの野田さんにも言える。騒ぎに驚いて謝罪文を出したがライブでは「自分の国を愛して何が悪い」と開き直ったそうだ。つまりネット世論には屈したが、自分は愛すべきファンに囲まれており「このコンテクストでは自分は悪くない」と感じているというのである。彼らの村がどの範囲なのかはわからないが一体化した陶酔感に包まれているのかもしれない。

これらに共通するのは村という閉鎖空間の問題とそこにある「甘え」の存在である。親密な集団に囲まれている人は「集団から守ってもらえる」と感じて反省しない。もちろん形通りの謝罪はするが同じことを繰り返すだろう。

もし仮に日本人がしっかりとした個人を持っていれば「少なくとも公の場ではこういうことをいうのはやめておこう」という規範を身につけるだろう。しかし、集団に守られていると感じると結局それを忘れてしまい外側にいる人たちを苛立たせる。

例えばアメリカにも反社会的な人種差別感情はあるがこれが表に出ることは絶対にない。だが、白人同士の仲間内でどのようなことが話し合われているかはわからない。それはプライバシーとして保護されている。日本は「組織」が間に介在することでこれが複雑化するのだろう。

苛立った人たちは様々な手段に訴える。問題が加熱している時には「集団が白旗をあげて捕虜を引き渡す」ことを確認するまでいつまでも叩き続けることがある。これが炎上である。だが、非を認めない集団がそのまま残り続けると「アンチ」と呼ばれる人たちが蓄積する。安倍政権はアンチを過激化させたままで存続しており、何をしてもアレルギー反応が出る。

つまり、日本人の人民裁判が過激化するのは、個人の倫理が組織と癒着してしまうからなのだろう。問題を起こした人が「新しい約束」を交わす経路ができていれば問題は沈静化できる。また、甘えがあり「やはり認めてほしい」と従来の主張を繰り返すと問題が再燃する。組織や仲間が絡んでくると「自分だけで約束を交わす」ことができなくなり、問題が複雑化するのではないだろうか。

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なぜ安倍首相の周りには嘘が蔓延し、SNSでは人民裁判が行われるのか

今回は安倍首相の嘘について罰という視点から書くのだが、タイムリーなことに東なにがしという人(何をやっている人かはしらないが)が安倍首相の嘘は囚人のジレンマであるといって世間の反発を買っている。この現象は囚人のジレンマから構造的に生まれていると言っているのだが「おそらく」であり根拠も示されていない。首相が日常的にごまかしを行うようになり、信者の人たちは正気が保てなくなってきているのだろう。数学的用語を持って来れば正当化ができると考えているあたりに趣を感じる。

正確にいえば安倍首相は事実を認めないだけであって嘘はついていない。代わりに周囲に嘘をつかせておりその悪質性は自身が嘘をつくよりも高いといえるだろう。しかし、これを安倍首相の資質の問題にしてもあまり意味はない。同じような人がまた同じようなことをやりかねないからである。では、それは何に由来するのか。

これを分析するためにはいろいろな切り口があるのだろうが、我々の社会がどうやって社会公平性を保っているのかという視点で分析してみたい。

私たちの社会は問題を切り離すことで「なかったこと」にしようとする。加えて「社会的規範を逸脱すると社会的に殺される」と示すことで抑止力も生まれる。単純な戦略だが、多くの場合はそれで問題が解決できる。

QUORAで「罰には正当性があるか」という面白い質問を見つけた。12の回答の中身を分析すると、何を言っているのかよくわからない2件、罰には正当性がないという1件を除くと、「社会は罰がないと正常に機能しない」という視点で書かれている。しかし、個人同士の報復が蔓延すると社会が管理できなくなるので国家が管理しているのだというのが大体のコンセンサスになっているようだ。中には弁護士の回答もあった。

自分でこの回答を書くにあたって「だいたいこうなるだろうな」ということは想定できたので前提を外した回答を書いた。

今回の場合「原罪」という西洋文化の背景が無視されている。日本人はもともと人間には罪がなく罪人には印をつけて隔離すべきだという考え方が強い。一方で、キリスト教文化圏には原罪という概念があり、正しいガイドなしには人は誰でも罪を犯しかねないという考え方がある。これが刑罰に関する考え方の違いになって現れるのである。

この補正は内部に蓄積されて内的な規範を作る。一方で日本人は常に誰かが監視していないと「抜け駆けをする」と考える。抜け駆けを「同調圧力」で監視するのが日本社会なのである。西洋社会では徐々に補正が進むが、日本人には補正という意識はないので補正は最終告知であり、その帰結は「社会的な死」である。人間は外的な規範の抑えなしには「人間になりえない」という外的規範優先主義をとっているといえる。内的規範がないと考えるので、一旦踏み外した人は補正ができないと考えるのが普通である。

ただ、意識されない罰は常に存在する。いわゆるしつけと呼ばれるものと仲間内の監視である。後者には同調圧力や役割期待などいくつかの道具立がある。

日本人は普段から様々な集団と関わっており、かなり複合的な人間関係を生きていた。例えば家庭では「お父さん」と役割で呼ばれ、会社でも「課長」として認知され、学校では「◯◯ちゃんのお父さん」と言われる。他称が文脈で変わるというのは、日本固有とまでは言えないがかなり特殊なのではないかと思える。そしてその役割にはそれに付随する「〜らしさ」があり、これが内的規範の代わりになっている。先生は「先生らしく」振る舞うことで規範意識を保っている。また、同僚の間には「自分たちはこう振る舞うべきだ」という同調圧力がある。

このため、こうした分厚い集団が適切な罰を与えていれば、国家や法律が出てくる幕はない。これについて「オペラント条件付け」という概念で説明している人がいた。日本人は、複雑な背骨を形成せず、分厚くて多層的な集団を前提に健全さを保っていたということになる。つまり、外骨格がいくつもあるのが正常な状態なのである。

例えば公立高校の先生は「単なる公務員」になることでこの規範意識から解放される。と同時に羽目をはずしてしまい、プライベートでも「先生らしくない」振る舞いをすることがある。逆に様々な期待を受けて「先生らしく振舞っていられない」と感じたり、労働条件が悪化して「先生らしさ」を信じられなくなったりする。このようにして「らしさ」は徐々に崩壊する。「お母さんらしさ」にも同じことが言える。お母さんらしさの場合には「らしく」振る舞うことが要求されるのに何が正解か誰も教えて来れないということすらある。

安倍首相に向けられる批判の中に「安倍首相の振る舞いは首相らしくない」というものがある。首相らしさという規定されたルールはないのだから、いったん壊れてしまうと修復ができない。そればかりか安倍首相は「加計理事長の友達」とか「ドナルドトランプの親友」という別の振る舞いをオフィシャルな場に持ち込むようになった。彼は法律を作って運用する側のトップなので好きなようにルールを設定することができるしそれに人々を従わせることもできる。首相らしく振る舞わなければならないというルールがあるわけではないので、いったん「尊敬される」ことを諦めてしまえばかなり自由度は高く、外的規範に頼ってきた分抑止は難しくなる。内的な背骨という抑止力は最初からないので、日本人はある意味自由に振る舞うことができるのである。

だから、日本人は村落から自解放されると、罰からも自由になった錯覚を持ってしまうのだ。罰からも自由になったのだから「何をしてもよい」ことになる。統計は歪められ、文書はごまかされ、何かあった時には部下やプレイヤーを指差して非難するということが横行しているが、これは彼らに言わせれば「自由」である。

するとそれを受ける人々の間にも「アレルギー反応」が出る。ああまたかと思うわけだ。村落の場合は、罰を与えたとしてもその人を切り離すことはできないがSNSは村落ではないのですぐさま「切り離してしまえ」ということになる。だからSNSで炎上するとそれは「辞めろ」とか「活動を自粛しろ」という非難に直結する。SNSは村落的な社会監視網の続きなのだが十分に構造化されていないので、それは「炎上」というコントロール不能な状態に陥りやすい。

このように直ちにコントロール不能になる社会で「間違いを認めて適切な罰を受けて復帰する」ということはできない。地位にしがみつくのであればひたすら嘘をつく必要がある。すると、社会はアレルギー反応を悪化させて問題が起こるたびに社会的な死を求めることになるだろう。そして、その順番が回ってくるまでは嘘が蔓延することになる。

今「日本型人民裁判の順番を待っている」人は誰かを検索するのは簡単だ。「テレビは〇〇ばかりやっていないで、これを報道しろ」として挙げられているものはすべて人民裁判のリストである。リストには罪状と罰がすでに記載されている。もともと法律そのものが信じられているわけではなく牽制と抑止の道具である。それが機能しないなら「何をやっても構わない」と考える人と「自分が罰せられることがないなら直接手を下しても構わない」という人が同時に増えるのだ。

改めて、普通の日本人と言われる人たちは「一切の間違いを犯さない」という根拠のない自信を持っていることに驚かされる。間違えが起きた時に適当な罰を受けていれば致命的な間違いは起こらない上に、内的な規範を強化することができる。マイルドな国家を介在させない罰は社会を円満なものにするが日本にはこうした優しい罰はない。学校の体罰はほとんどいじめになっており、教え諭すような罰はない。日本は片道切符社会なのである。

この片道切符社会の弊害はすべての人が「ありとあらゆる手段を使って罪を認めない」し「いったん人民裁判にかけられたら温情判決はない」という堅苦しさになって現れる。その転落は誰にでも起こることであって、決して他人ごとではない。これを払拭するためには、西洋流の「内的規範の蓄積」を覚えるか、私たちが過去に持っていてあまり顧みてこなかった伝統について丁寧に再評価する必要があるのではないだろうか。

ここで改めて冒頭の東なにがしという人の論を見てみるとその空虚さがわかる。安倍信者と呼ばれる人たちは形成が徐々に不利になっていることに気がついており「数式を持ってくれば合理的に説明ができる」と思っているのかもしれない。だが、それは何も証明しないし、嘘が蔓延するのは誰の目にも明らかなのだから大した説得力は持たないのだ。

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