日本体操協会のゴタゴタについて勉強する

日本体操協会で揉め事がおきている。またかという気がする。

スポーツをめぐっては、内柴事件(2011年)、女子柔道(2013年)、相撲(2017年)、女子レスリング伊調馨事件(2018)、日大アメフト部特攻タックル事件(2018年)、水球女子日本代表パワハラ事件(2018年)、日本レスリング連盟事件(2018年)と数々の事件が起きているが、どれももやもやを残したままで消費されているのが実態である。

それぞれの問題には特徴があり一概に共通点を見つけることはできない。個人スポーツもあれば団体競技もある。オリンピックだけでなく興行的な色彩を帯びた相撲でも問題は起きている。唯一の共通点はどれも閉鎖空間で起きており周りの目が行き届きにくいという点である。問題は長い間放置されているのだが、一旦マスコミに漏れると大騒ぎになり「ガバナンスの問題だ」ということになるという経緯がとてもよく似ている。村の恥が外にさらされると世間の目が「酸素」のような役割を果たして炎上するのである。

今回の問題はその中でも最も複雑な部類に入るのではないかと思われる。問題の経緯が複雑で一概にどちらが悪いとは言い切れない。選手とコーチの間の暴力問題があり、それとは別に女子体操の私物化問題がある。この二つの要素が絡み合っており「悪者」が特定しにくい。

問題の発端は、宮川紗江選手のコーチが暴力問題を起こしたとして「期間を定めずに」コーチの資格を剥奪されたというものだった。これに怒った宮川選手(なぜかコーチではなく)が実名で記者会見をした。そこで宮川選手が訴えたのは朝日生命体操クラブへの不自然な勧誘行為だった。コーチも「裁判に訴える」などとと言っていたのだが、話が大きくなったことに驚いたのか仮処分の訴えを退けてしまったため、宮川選手の告発が宙に浮いた。最終的には塚原千恵子(強化本部長なのだが女帝という言葉の方がふさわしい)と宮川選手の直接対決になっている。

当初テレビ朝日が問題の沈静化を図ったので、フジテレビが宮川選手に単独インタビューを行い「対立」の構図がクローズアップされることになった。

こうした経緯がわからないとハフィントンポストの記事を読んでも何が何だかさっぱりと見えてこない。

キャラの濃い登場人物たち

日大アメフトの問題ではものが言えない選手たちと高圧的な監督という権力格差があったが、今回の場合宮川選手が告発に踏み切ったために「キャラの濃い」人たちの群像劇になっておりワイドショー的には極めて面白い。

まず宮川選手は単なる被害者ではなくかなり腹が据わった女性のようである。こういう強さがないとオリンピックで代表になれないんだろうなとは思う。だが「このコーチでなければダメだ」という思い込みも見られる。中には共依存という言葉を使って説明しようとする人もいるくらいである。つまり、表向きの強さと暴力さえも許容してしまう態度が共存してしまっているのである。

それに比べてコーチは様々なしがらみがあったのだろう。暴力癖があり感情が抑えられない上に、永久追放ではなく体操協会に従えば戻れる可能性があるということがわかると訴えを取り下げて宮川選手を見放してしまった。

さらに塚原夫妻(特に奥さんの方)は恰幅がよくワイドショーで悪役を努めるのにもってこいの顔をしている。フジテレビは彼女を悪役に仕立てるつもりのようで悪い女性の声色を使った演出を試みていた。夫の方も終始一貫しない態度が際立っている。「100%悪い」と言ってみたり「記者が指摘する意味とは違う」などと発言がコロコロ変わる。

どうやら昔から朝日生命体操センターに選手を引き抜くためにオリンピック強化プログラムを私物化していた疑惑があるようで、今回も正規の強化選手枠と塚原夫妻が立ち上げた強化プログラムの二本立てになっていることが問題になっている。正規のプログラムに従うと私物化ができないので、独自のプログラムを使って「裁量権が行使できる」ようにしていたと指摘されているのである。また谷岡学長が「伊調馨さんはまだ選手なんですかね」と切り捨てたように塚原千恵子さんは「宮川さんは最近成績が悪かった」と切り捨てるような発言をしている。小池百合子東京都知事にも言えることなのだが、女性の方が切断処理があからさまで容赦がない。これも彼女を悪役キャラに見せている大きな要因だろう。

体操協会もはっきりしない。「まだ何もわからない」としつつも「膿を出さなければならない」などと言っている。これまで「となり村で何が起こっても感知しない」というような態度だったのだろうが、世間の矛先がこちらに向かいかねないので慌てているのだろう。

この問題で唯一出てこないのは体操協会の会長だ。元ジャスコの社長で二木英徳さんという。実質的に体操には関与しておらず「体操協会の象徴」のような存在なのだろう。つまり統一的なガバナンスはなく男子と女子が「好き勝手に」運営していたのが日本体操協会なのだということになる。

自我の不形成と閉鎖集団

この問題を見ていると、自我が形成されていない人たちが閉鎖的な集団を作るとどうなるかということがよくわかる。この点では早くから入門して世間を知らずに育つ相撲とよく似ている。

体操は10代の後半から20代の前半がピークなので、自我が形成されていない早いうちから指導が始まる。そこで行き過ぎた暴力が生まれるのだが、団体競技ではないのでコーチと選手の間に親密な関係性が生まれやすい。宮川選手はPC的な観点から「暴力はいけない」などと言っているが実は家族も含めて暴力も「愛情表現がたままた行き過ぎただけ」だと容認している様子がうかがえる。プロになったりすると「自分で判断」する必要が出てくるのだ、プロのない体操では自我の不形成はそれほど大きな問題にならないのかもしれない。

さらに競技団体の私物化も行われていたようだ。当初、塚原負債が朝日体操クラブになぜ傾注するのか疑問だった。Wikipediaを読むともともと塚原千恵子コーチらが朝日生命の協力の元で立ち上げたクラブが母体なのだが、朝日生命は経営から手を引いており「協賛」という形で名前を使わせているだけのようである。つまり実態は「塚原体操クラブ」に有力選手を引き抜いて経営を安定させようとしていたということがわかる。問題は私企業の経営者が長い間体操協会の握っていたという点なのだろうが、それにしてもこうした慣行が長い間放置されていた理由がよくわからない。

だが経営能力の欠如は致命的だ。女子柔道も朝日生命体操クラブも行き詰っている。女子はオリンピックでは何大会もメダルに手が届かない。男子では塚原直也、内村航平までは選手が順調にメダルをとっていたのだが、そのあとの選手が出てきていない。リオオリンピックの団体選手もコナミスポーツが目立っているくらいである。コナミスポーツの方が組織的に運営できており選手層が厚いのだろう。こういった焦りが強引な勧誘行為につながったのではないかと思われる。有力な選手の引き抜きはかなり認知されていたようで、元選手たちも含めて「宮川さんを応援する」と言っている人が多い。中には「元朝日生命体操クラブなのだが宮川さんを応援する」と言っている人もいる。

対立に拍車をかけた偏向報道

このニュースでは当初テレビ朝日が協会側に立った報道をしていた。羽鳥慎一のモーニングショーでは、司会の羽鳥が元アナウンサーの宮嶋泰子を「この人はすごいひとなんです」と紹介したのだが、予断を与える言い方に「いくらなんでもこれはひどすぎるな」と思った。宮嶋は過去の取材経験から体操協会側の人間であることがあからさまである。背景を調べてみると、テレビ朝日がようやく獲得した放送権をめぐる事情がありそうだ。テレビ朝日は2018年10月の世界体操の放送権を持っている。フジテレビがNHKから引き継いで放送をしていたのだが、2017年からはテレビ朝日が担当しているということである。

テレビ朝日がこのようなポジションをとったので、これを好機とみたフジテレビは多分夏休み中だった安藤優子を召喚して宮川選手にインタビューを試みていた。こうして対立構造が作られてしまったのである。

ただ、選手が宮川側につき体操協会の側も「膿を出し切らなければ」ということになった途端にテレビ朝日は「やはり塚原夫妻側にも問題があったのかもしれない」などと言い出している。こうした態度が一貫しない日和見的な局が安倍政権批判をしても「結局は商売でやっているだけなんだな」ということになる。結局政権批判ごっこに過ぎないわけである。

経営のプロがいない

改めて考えてみると、体操選手出身の人たちが協会やクラブの経営を任されるという状態になっており、日本には経営のプロがいないことがわかる。経営文化という意味では町の少年野球団と変わりはない。これまでなんども見てきたように、こうした人たちが自分たちだけでどうにかしようとしているうちに状況が悪化してきてしまい、周囲を巻き込んで大騒ぎになる。

スポーツでは多額の金が動く。さらに選手の側もオリンピックに出られるか出られないかで人生が大きく変わる。つまり、もはや少年野球団の素人経営者だけでは運営ができなくなっているのだ。かといって全てに国が出て行って関与することもできないしやるべきでもないだろう。プロの経営者がスポーツマネジメントに積極的に関与する必要がある。

最近ワイドショーであまりにも同じようなパターンが繰り返されるので「政治のいざこざを忘れさせようと政府が何か企んでいるではないか」という人もいるのだが、実は外からの文化をまったく受け入れない内向きな姿勢が制度疲労を起こしているのだろうと思う。ただ、マスコミには問題解決をする姿勢は見られない。視聴者の様子を見ながら日和見的に態度を決めているだけなので、いつまでたっても「膿」が外に出てくるばかりで治癒しないのである。

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憲法は権力者を縛るものという嘘

前回は「権利と義務」について考えた。国家は社会契約であると考えると契約者の間には権利と義務が生じる。だから権利には義務が伴うという言い方は必ずしも間違いではない。ただし、契約という前提条件があるので、その契約が不当な場合には破棄することもできるのではないかと考えた。そもそも義務は国家から押し付けられるものではないので「単に押し付けられた義務を唯々諾々と受け入れるべきだ」という主張は正しくないと言ってよさそうである。

ここから得た知見は「国家は社会契約によって成り立っている」という多分一般教養課程で習ったまま忘れていた前提だ。だが、私を含めて多くの日本人はこの社会契約という概念をうまく飲み込めていないのではないかと思う。そう思う理由の一つに「憲法は権力者を縛るものだから変えてはいけない」というものがある。とてもおかしな考え方だが一般的に受け入れられている。日本人の心性にあっているからだろう。

国家が契約によって成り立っていると考えると、憲法は国民と権力者の間に交わされる「契約」を文章にしたものであるということが言える。契約はどちらか一方が義務を負うものではない。例えば家の売買契約の場合、住宅メーカーは品物の品質を一定期間保証し約束した品物(やサービス)を提供する義務を負う。だが、一方で買い手側も期日どおりに対価を支払う義務が生じる。つまり売り手と買い手の間の関係は「相互的」である。つまり契約は相互的(ミューチュアル)である。

日本国憲法の場合にはやや特殊な事情がある。それはこれが国際社会と日本との間の契約になっているという点である。つまり、体裁としては日本人が国際社会に復帰するにあたって民主主義と平和を守りますよという約束が含まれている。が、基本的には国家と国民の間の約束である。

その意味では憲法は「権力者を縛る」という片務的な説明は間違いであると言える。そもそも、すべての国民が平等であるとされる民主主義国家に特権を約束された「権力者」という人はいないので、権力者を縛るという言い方そのものが成り立たないはずである。

ではなぜ「憲法は権力者を縛る」という言い方ができてしまうのか。

日本は村落だという話を始めた時に最初に使ったのは水を引くという比喩だった。日本人は有利な場所を確保してできるだけ多くの水を引き入れたい。多く水を引くと多く稲が取れるからである。これを利権という。そして同時に負担ははできるだけ軽くしたいと考える。このやり方だと「ズル」をする余地が生まれる。水門を操作して水を多く引き入れようとするのである。それをピアプレッシャーで防いでいるのが日本型の村落である。利益は村落単位で収集し分配する。そして周りの村はプレッシャーをかけることで行き過ぎを防ぐ。そこには村を束ねる社会という単位はない。社会がないのでお互いに協力することもない。

日本人はこの村落的な理解を背景にし「永田町という集落に多く水を引かせないために」プレッシャーをかけようとしているのである。これを「縛る」と表現しているのだろう。

ここからわかるのは「憲法は権力を縛るもの」と言っている人は実は永田町を権力者とは見ていないということである。もし永田町を権力者と認めるとしたらある程度の尊敬を持って協力を申し出るはずだ。つまり本来は「永田町だけにおいしい思いはさせない」と言っているだけなのである。牽制が目的なのだから対案などでてくるはずもない。

ではこの見方は単に立憲民主党支持者たちの被害妄想なのか。必ずしもそうは言えないだろう。「どっちもどっち」だからだ。

永田村が憲法を変えたいなら、社会契約説を取ってとなり村を納得させた上でプロセスを透明化しなければならない。しかしながら、実際には彼らはプロセスを秘密にし「日本型の統治」というブラックボックスを持ち出して一人で騒いでいるようにみえる。つまり、品物の中身は明確にしないで「とにかくこれを買え」と言い続けている。つまり、保守の人たちも独自の村を形成しようとしているだけである。彼らは「周りの村をまとめるから協力してくれ」と頼んできたのに実際には自分の村に多くの水を引き入れようとしているだけだったのである。

憲法改正の話はちょっと大きめの契約に似ている。そこで安倍政権を住宅メーカー「安倍ハウス」に例えて説明したい。

住宅メーカー安倍ハウスと買い手の間で契約して家を建てようとしている。営業の人の愛想はよく、なんだか素晴らしい家が立ちそうだった。いろいろ不安もあったのだが、安倍ハウスの営業の人は「なんら問題はない」と言っていたので安倍ハウスを選んだ。よその住宅メーカーの営業ははいろいろな心配を並べ立て「資材が高騰したら価格の見直しもあるかも」などというのだが、安倍ハウスだけは「どーんと大船に乗ったつもりで任せてください」という。なんだか安倍ハウスは安心できそうだ。

だが、実際の建物は何か変である。設計図とは違っており、なぜか安倍ハウスの事務所ばかりが立派になってゆく。これは違うのではないかと買い手が説明を求めると黒塗りになった指示書が出てきた。どうも安倍ハウスは大工さんへの支払いをちゃんとしていないようだし、材料も安いものを使っているようなのだが、なにぶん指示書は黒塗りなのでよくわからない。そこで買い手が怒ったら、安倍ハウスは「もともとこの契約書は我々の気風には合わないから変えたい」とすごんできた。どう変えたいのかと聞いても要領をえないが、「客が住宅メーカーに指図するとは生意気だ」という社員がいるという噂も聞く。なぜか定期的にそのような声が聞こえてくるのである。

そこで後から出てきた弁護士が「契約書は安倍ハウスを縛っている」というのも無理からぬ話だ。実際には契約書は「ミューチュアル」なものなので、どちらか一方が縛られるということにはならない。だが問題は実はそこではない。信頼が生まれれば契約書について考えても良いわけだが、とてもそのような状態にあるとは言えない。だからまず「契約を守ってくれ」というのが先なのである。

「契約書は未来永劫変えられない」とか「契約書は安倍ハウスを縛るためだけにある」というのは間違いだし無理筋だということは普通の社会人なら理解できるはずである。だが、契約書というものを理解できないにもかかわらずサインしてしまった人(あるいは投票という契約に行かなかった人)は「とにかく、この契約書じゃなければダメだからな」とすごんで見るしかない。いかんせん契約がわからないから「なんらかの理由で変えられてしまったらどうしよう」という不安を抱えることになる。つまり、社会契約という概念を理解しないでいるととても不安な気持ちを抱えたまま生きて行かなければならなくなるわけである。

白紙委任(つまり投票に行かなかった)人も含めて、安倍ハウスで家を買ってしまったわけだから、この人たちに付き合う必要はある。そしてそのためにはそれなりの常識を持つ必要があるということになる。

憲法に戻ると「社会契約などという概念は日本の気風に合わない」という人が出てくるのは想像に難くない。だが日本の憲法は国際社会に復帰するために交わした約束であるという側面もある。それを無視するのかということを聞いてみると良いだろう。相手は多分話をごまかすだろうが、その時点で護憲派の勝ちである。

落ち着いて考えてみると、法律も哲学もすべて大学の「パンキョウ」で習ったものばかりである。授業には出ていたが正しく理解はしていなかったし、わからないならちゃんと質問しておくべきだった。その意味であの時サボッたツケは意外と大きいのかもしれないなどと考えた。不安をなくすためには自分の頭で考える必要があるわけだが、そのためにはある程度の知識の集積が必要なのである。

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権利には義務が伴うという馬鹿はどうやって撃退するのがいいのか

Twitterを見ていたら面白い議論があった。権利には義務が伴うというのは嘘っぱちなのでそんな人のいうことは聞かなくても良いというのである。権利には義務が伴うという人はもともと公益を私物化したい社会の寄生虫なのでこのような対応でも良いと思うのだが、ここはひとつ大人になってその背景について学んで行きたい。

結論だけを知りたい人に短く答えると次のようになる。「権利には義務が伴う」という言い方はできるが、社会や国家が契約によって成り立っているという前提をおく必要がある。もともと契約による国家という新しい概念を説明するための言葉だからだ。だが、日本の議論はこの前提がわざとぼやかされており、いつの間にか他人の権利を侵害して義務だけを負わせることができるという謎理論が生まれた。

さらにそれも面倒で覚えられないという人は、権利には義務が伴うが、気に入らなければ政府は打倒してもいいという前提があるといえば良い。つまり「お前、覚悟はあるの?」ということになる。

過激な考えだと思われるかもしれないが、訪問販売詐欺にあったらクーリングオフ制度を使ってキャンセルするのが常識なのだから、選挙も売買契約が成立したら「あとは何をしてもよい」ということにならないのは当たり前である。


そもそも誰がこれを言い始めたのがよくよくわからなかった。道徳の授業を受けたことがないのだ。そこで直感にしたがって「民約論」あたりを調べてみようと思った。つまり、近代国家の「契社会約」という概念を説明するために作られたのではないかと思ったのである。中江兆民の民約論について研究したPDFには次のようなが説明がある。少し長いが引用する。

ルソーの社会契約説は、人間社会の構成原理を解き明かしたものだから、きわめて複雑 な構成と豊富な内容をもっている。しかし本稿との関連においてその骨幹を提示するなら、 それは以下の三点であると思う。

①人類の歴史は、共同の力を発揮できる新しい結合形式(社会契約)をみつけだすことによって自然状態から社会状態へと移行したこと。 ②社会の平等な構成員はみずからの自由を確保したままで市民として「一般意志」 (volonté générale)を策定し(主権者として「法」を制定し)、かつそれに服従せね ばならないこと。 ③社会の平等な構成員として政治的(市民的)自由を保障された人間は、真に自らを 主人たらしめる「道徳的自由」(liberté morale)を体現せねばならないこと。

①は人間社会の形成史にたいする重要な新視角であり、人民主権論の論理的前提である。 全能の神による天地創造説が常識だったのだから、これは冒頭で述べられ、随所でくりか えし説かれる。②は本書の根幹をなす社会の成員相互の契約関係であって、全構成員が主 権者として法を制定するとともに個人としてそれにしたがう義務をもつという「二重の関 係」がいろいろな角度から丁寧に説明されている。③は実際には考察の対象としないこと を第一編第八章末でことわっているのだが、社会契約に対応的な市民精神をあえて提示し ているのである。

中江兆民は社会という概念がなかった時代に「民」という概念を使って社会と法治主義国家の理念を説明しようとした人である。天皇が臣民に国家を与えるという従来の考え方を否定して、国家というものは国と国民の間の契約であるという概念を広めようとしたことになる。同じことはフランス革命期のフランスでも起きている。今回は触れないのだが、大前提として基本的人権がある。これも誤解されている概念だが「人間は生まれながらに等しく平等である」ということだと思ってもらえればよい。逆にいうと「最初から特別扱いされる人は誰もいない」という原則だ。

日本では、フランスから輸入されたこの考えが自由民権運動や一部の大学の基礎になっている。法政大学と明治大学はフランス法を学んだ人たちによって作られた。一方で国家神道的な系統から出てきたのが今問題を起こしている日本大学だ。彼らは民主主義のカウンターから出てきたので雛形のバグがそのまま騒ぎになって表出しているのである。

フランス式の法概念では、主権者は主体的な契約に基づいて国家の運営に参加することになっている。主体的な契約があるということは、政治家も有権者も契約について熟知しておりまたそのプロセスも透明化されているということになる。だから民主主義には説明責任がある。

国家と国民の間には契約があるのだから、社会の害悪になる不当な権力には従わなくても構わないし、それを打倒する権利もあると議論が発展させられる。ヨーロッパでは抵抗権として知られる考え方である。不透明な政治には従わなくても良いのである。

さらに少し踏み込んで調べてみようと思い、普段は読まない哲学書を読んでみようと思った。だが、何を読んで良いのかわからないので「覚えておきたい人と思想100人」という本を取り寄せた。だが、哲学の素養もないのに辞典を取り寄せても何がなんだかさっぱりわからない。一般教養を積んでこなかったツケだろう。

そこでGoogle先生に「who said the rights comes along with duties?」と聞いてみたところ幾つかのページが見つかった。AIってすごいなと思った。そこで見つけたのが「義務論(Deontological ethics)」というジャンルである。そこで義務論について調べたところBBCのページが見つかった。

哲学は苦手なのであまり深入りもしたくないので概要だけをかいつまんで見る。人間の行動には動機(インプット)と結果(アウトプット)がある、このうちインプット側に着目したのがDuty Basedの哲学だである。日本語のWikipediaの義務論のページには功利主義との対比が書かれている。「覚えておきたい人と思想100人」のカントの項目にも功利主義と対立するというようなことが書いてある。逆にイギリスでは功利主義というアウトプットに注目する哲学が生まれる。みんなが結果的に幸せになれるのがよいというのである。

さてどちらが「正しい哲学なのだろうか」などと思えてくる。そこでBBCのページをよく見ると「義務論の良い点と悪い点」が書いてある。内心に着目すると結果についての責任は追わなくて済むので、悪い結果が出ても気にしなくなる。また絶対的なルールを設定するので硬直的になりがちだという記述もあった。どちらが「正解」ということはなく、目的に応じて使い分けるべきだという理解があるようだ。

ここまで見てきて「この議論は前にも見たことがあるぞ」と思った。一昔前にNHKきっかけで流行したマイケル・サンデルの白熱教室だ。改めて、サンデルのWikipediaの項目を読むと「共通善を強調する」と書いてある。つまり、サンデルは功利主義者ではなく義務論の人なのだが、授業ではどちらも教えている。

ここまで見てみると、哲学の「義務」の意味が見えてくる。義務は誰かから背負わされるものではなく自ら進んで選び取り遂行するものを指すのだ。このような装置を置いたほうが社会が円滑に運営できる(結果に着目)し、より多くの人が善を追求できる(内心に着目)からである。そして「なぜ人間は善を追求すべきか」についての説明はない。つまり、人はそういうものなのだという前提が置かれている。

私を含めた多くの日本人は義務と権利を「税金と公共サービス」という概念で捉えているのではないかと思う。つまり、なんらかの義務を支払うことで公益サービスを受ける権利を買っていると考えるのである。これは国と国との関係ばかりではなく村落共同体でも「お互い様理論」として受け継がれている。お歳暮をもらったら送り返さなければならないという程度のことだが、常識としては深く浸透しており、立派な哲学と言えるだろう。

こう考えてみると働いていない人(杉田水脈流にいうと「生産性の低い人」)は対価を支払っていないのだから、公共サービスを受ける権利がないのだという理解が成り立ちうることがわかる。だが、実際の民主主義ではこのような考え方はしない。本来平等であるべきものが歪められているから社会で補填しようというのが人権保護の基本的な考え方である。

社会契約説に従えば権力者は統治権限を委託されているだけなので、契約を示し、過程を提示し、信任を失えば抵抗される可能性がある。選挙だけが民主主義ではなく、やり方によっては社会の写し鏡にならない可能性があるので、途中で抵抗される可能性は残されている。それが東洋の伝統に合わないというのなら「徳」という天との契約がありそれが履行されていないという言い方をしても差し支えないだろう。東洋では徳を失えば革命が起こる。

ルソーの社会契約説での義務は契約締結に伴って生じる。また、義務論の義務はより良い社会の構成員になりたい人が内心に従って自発的に義務を果たすことでより良い社会を実現すべきだと考える。つまり、これらの考え方を理解するためには、内心や社会という概念を受け入れる必要がある。だが、日本人には内心(良心)という考え方もなければ、社会や公共という概念もない。だから議論ができないのだろう。

これを稲田朋美を例にあげて説明してみよう。稲田さんは、国民一人ひとりに価値はなく日本という全体に価値があるのだから、いざとなったら戦争にいって犠牲になって全体を守れと主張している自民党の国会議員だ。

稲田さんら、自称保守の人たちは、国民は国の従属物であり歴史の総体という前提がない個人は無意味だと考えている。生産性は経済性に着目しているが、保守の人たちは精神性を取り入れている。歴史に従属する公共善という概念はあるので、ここまでは西洋と近い。

だが、その義務を負うのは「日本人」である。日本人というのは彼女とそのお友達を除いたすべての日本人という意味であり、彼女たちだけは「歴史によって形作られた保守的な価値観」を知っているのだから特別な存在であり、責任からは除外されるか「もっと重要な責任を担うのだ」として「低位の責任」は免除される。

最終的に「国民は生まれながらにして私たち(統治者)に負債を負っているのだから義務を果たして死になさい」という謎理論が生まれてしまうのである。

ここで二つのことが起きている。西洋では全体は不可知なので「全員で追求して行こう」ということになるのだが、なぜか稲田さんは答えを知っているという前提がある。だからこそ歴史の総体としての善を国民に知らせることができるのである。だが、それが何かということは開示されないし、その途中経過も明かされない。

なぜ彼女たちだけは特別な知識を持っていて特権を享受できるのかということは決して明かされない。さらに途中のプロセスも黒塗りされていてわからない。自称保守の人たちが政権をとると政府資料はことごとく黒塗りされ、外交文書はそもそも明かされず、その他の話し合いはなかったことになる。それは彼らだけが知り得る秘密であって、国民が知る必要がないものだからである。

こうした状況下では議論は成り立たない。そもそも日本人の側は言葉を持たないわけだし、政治家の側は言葉を明かさないからだ。

かつてカトリック教会が「神の意志はラテン語で書かれており庶民には理解できない」といったのと似ている。カトリック教会はこのロジックを使い「免罪符を買えば罪は洗い清められる」と主張し、神の意志を私物化したのだが、ヨーロッパの人たちは「神の意志は個人の中にも存在し、従ってローカルの言葉でも理解し得る」と考え方を改めるまではカトリックの権威に対抗できなかった。その意味では日本の政治状況は中世と同じなのである。

だから、これに対抗するには耳を塞いで「そんなのはデタラメである」と泣き叫ぶしかない。

そのように考えると、サンデルが倫理や哲学について語ることができ、BBCが「倫理」についてのページが持てることの意味がわかってくる。サンデルは自分の立場にも「ベネフィットとデメリットがある」ことをわかっている。それは哲学は単なるツールにすぎないからであろう。聖書がドイツ語になり活字に乗って普及したのと同じように、サンデルは哲学という言葉を広めようとしているのである。自分にも主張はあるが、主張があっても理解されなければ何の意味もない。

その前提になっているのが社会である。サンデルは自分も相手と対等に社会の一員であるということを自覚しているからこそ、言葉を広めて「一緒に考えましょう」と言っている。民主主義とは問題を「みんなで一緒に考えること」である。

少々長くなったのでこの辺りでまとめる。私たちが「真理は一人ひとりの心の中にある」と考えない限り「権利には義務が伴うから、あなたたちはボランティアで無料奉仕したり、徴兵に応じて権力者を守るために戦わなければならない」というデタラメな主張に対抗することはできない。言葉がないのだから唸り声をあげながら逃げるしかないのである。

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わかっているのに変えられない日本社会

今日のお話は「迷っている」というものである。情報発信としてはかなり伸びているのだが、それは同時に問題解決から遠ざかるということを意味している。これをどう折り合わせて行こうかと思っているわけである。

朝、投稿を終えてからメールをみたら深刻そうな問い合わせが入っていた。外国人だが職場いじめられているという。まず本当のことかはわからないし、メールだけでは詳細なことはわからない。書き言葉の日本語は堪能である。

一応、本人にはメールを書き、QUORAにも相談を載せたのだが、どちらからもレスポンスはなかった。つまり、当人は「わかった」とも「がっかりした」とも言わないし、周囲の人からも有益な情報は得られなかったわけである。以前ならがっかりしたり憤ったりしていたと思うのだが「ああ、やっぱりな」と思った。(本当のことを書いてあると仮定して)相談してきた当人はレスポンスどころではないだろうし、日本人は個人での協力を嫌がるので具体的な問題を提示すると逃げてしまうのである。

日本社会はこのように閉塞した状態にあるので相談してきた本人が「ああ、相談してよかった」というようなアドバイスは書けないだろうなと思った。普通なら、できるだけいじめに対処してそれでもダメなら転職を考えろくらいの話になると思うのだが、外国籍の場合スポンサーシップの問題がある。つまり、日本人ほど転職は楽ではないかもしれないのだ。日本は経済的にも未来のない状態なので、外国籍があるなら、在日韓国人・朝鮮人のように実質的に日本社会に居場所を求めざるをえない場合を除いては没落しつつある国にこだわる必要はないとさえ思うが、それも書くのはためらわれる。

プライバシーがあるのでメールの詳細は書けないし書かないのだが、これについて書こうと思っているのはそろそろ年頭からやってきたことをまとめようと思っていた矢先だったからだ。村落の問題から始まって組織されない「群衆」の問題にまでたどり着いた。構造はなんとなくわかってきたが、閉塞感の背景はわかっても理由はあっても解決策はないだろうことも明白になってきている。日本人は個人に自信がなく、社会を信頼していないので、根本的に社会の問題解決に向かわない。しかもその状態に直面したくないのである。

閉塞感が自分たちに起因していることは認めたくないので、社会問題に構造を与えることで「他人や社会が悪いのだ」という主張には需要がある。だが、問題を作り出しているのも日本人なので原理的に問題が解決できない。日本人はという大きな主語はこの点便利にできている。実体はあるが、そこから自分だけを取り除くことができる。

例をあげると安倍政権が信任される理由はわかってきた。有権者が何もしないことを好んでいるからである。背景には「もう何をやっても日本は衰退して行くばかりだし、自分たちはなんとか逃げ切ってきたのだからこのままでいけるだろう」という意識があるのだろう。そして、安倍政権を首相に選んでいる日本人は馬鹿だと主張してもその中に自分が含まれることはない。

しかし、介護やいじめなど問題の当事者になった場合には事情が全く変わってしまう。根本的な治癒方法が見つからないので病変として切断されるかなかったことにされてしまう。これはいじめ、差別、介護の問題で私たちが日常的に見ている光景である。いじめはなかったことにされ、あったという事実認定に数年かかるのが当たり前である。しかも「当人が自殺した」という取り返しのつかない状態にならない限りいじめが認められることはまずない。女性のレイプ問題も同様で海外のプレスに英語で自分から情報発信するくらいのことをやらなければ社会にもみ消されてしまう。

今回の問題もいじめなのだが、組織としては「なかったこと」にするんだろうなと思う。一応公的な窓口があるわけだが、これがどこまで外国人の見方になってくれるかはわからない。あるいは「日本の恥」と認識されてしまうこともあるわけで、その場合には社会が総出で「問題をなかったこと」にするのだろう。

本来ならば、これについて「どうするべきだろうか」と相談したいところなのだが、これまでのコメント欄の反応などを見ていて、提案はないだろうなと思う。外から問題を語りたい人はたくさんいるのだが、中から問題を解決したいという人はこの社会にはいないと考えてよい。

日本人はすることよりもなることを好む。だから、個人の意見で「こうすればよい」という提案が来ることはないだろう。それは責任に直結するし、責任は社会から切断される危険を伴うからである。だが、流れを掴んで訴えかけるようにすれば「なった」ことになり閲覧は増える。一転して「切断する」側に回れるからである。

メールにはそのことが端的に書かれていた。「日本人の構造はわかるのだが、自分が抱えている問題についての解決につながりそうもない」というのだ。いじめは閉鎖的な空間で起きているわけだが、その閉鎖性が個人を苦しめ、中期的には組織も閉塞するということは目に見えている。まともな文明社会から来た人は「で、あればなんとかすべきではないか」と思うわけだが我々の社会ではこれが通用しない。

このため理不尽に突き当たると大変悔しい思いをすることになる。我々にできることは、これが個人の問題ではないということを認識することと、ありふれているということを自覚することくらいかもしれない。「自分だけが苦しんでいる」と考えてしまうとどこまでも追い込まれる。そして問題を発信すればするほど切断される側に回るリスクが増える。だから、回復したら立ち上がって、また普通の側に立って歩き出すしかないのである。

もちろん、自分の問題について情報発信し続けることには意味がある。普段からそうした情報に接している人は、いざ自分がその状態に直面した時に「自分一人が孤立しているわけではない」と考えることができるからだろう。例えばTwitterには、体が不自由で動けなかったり、普段から介護についてつぶやいている人がいる。日本の介護事情は細かく理不尽な規則のためにとても大変な思いをされている人が多いようだし、逆に自分の好きなことを見つけて精一杯に楽しんでいる人もいる。いろいろな選択肢があり一人ではないことは少なくともわかる。こういう人たちは「誰にも理解されないし、社会の役に立っていない」と思うかもしれないが、実はパイオニアになって同じ問題に直面するであろう人を先達している。杉田水脈流にいえば「生産性」があるのだ。

だが、やはりなんらかの問題に直面している人たちにとっては「問題ばかりみつめても何の役にも立たなかったな」というがっかり感の方が強いかもしれないなと思う。いくらあなたは一人ではないと言ってみたとしても、役に立つと説得してみても、問題は一人ひとりに違って見えるものだし、その時に協力を求めても同じ境遇の人はそれほど多くはない。さらに、自分が「生産性がある」と考えない限り他人からどう言われても嬉しくもなんともないにちがいない。

そうしたがっかりされるリスクを受け入れるべきなのかということについてはやはり躊躇がある。どうしても「問題を解決して有能だと見られたい」という意識が働いてしまうからである。

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「いい人」が日本社会を滅ぼす

昨日書いたように、サマータイムについて考えている時に面白い反論があった。介護が必要な高齢者はベットの環境を変えただけで亡くなってこともあるのに、サマータイムなどとんでもないという。

確かにそのようなことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

がそこで、当事者が気がついていないであろうある面白いことがわかる。「なぜ命に危険のある高齢者の時計を変えなければならない」のだろうかという問題である。介護に直面している人の声を聞くと(直接は聞けないがTwitterには経験者の声が溢れており、フォローしている人の中にもそいういう人たちがいる)中央が決めたルールに翻弄されている人や現場が勝手に決めたルールに苦しんでいる人が多いことがわかる。社会から切り離されていると感じているうえに「上が勝手に決めるルール」に憤っているとしたら、その気持ちは理解しなければならないなと思う。

今回のサマータイムは「政治家を引退した無責任な人があまりよく考えずにとりあえず言ってみた」ということがきっかけになっているので、議論する必要はないし、議論になったら冷静に反論すれば良いと思うのだが、仮に通ってしまったとして実際に行動すべきかという議論はできる。サマータイムは時計というわかりやすいものを扱っている。だが、実際には無理な指示の結果裏で「ズル」をせざるをえない人も多いのではないだろうか。こうして、結果的に誰のためにもならない社会ができるのなら、最初から無理なルールには無理というべきである。

もし仮に「オフィシャルの時計が変わるわけだから当然病院や介護施設の時計もとにかく変えるべきだ」ということになるとしたら、それは専門性の放棄である。つまり、命に問題があることがわかっているのに「とりあえず世間がそうなっているからそうするのだ」ということになるからだ。その人は考えることを放棄している。だから、上から無茶苦茶な命令がきたら「専門家の良心に従って拒否」すべきだ。

ただ、実際にそれをやるのは難しい。日本人にはとにかくいうことを聞くというマインドがあるからである。

先日区役所に行ったのだがそこのカレンダーが8月10日の金曜日になっていた。そこで「今日は月曜日ですね」と言ったところ担当者は札を月曜日に変えた。だが、10日の札はそのままになっていた。この市職員は「言われたことはやるが本質は理解しようとしない」という癖がついているのだろう。つまり、曜日が間違っているねと指摘されたら曜日は変えるが、カレンダーを正しい日付にしておくべきだという規範意識はないのである。

そこでカチンときて「なぜ13日にしないのだ」と怒鳴ってしまった。彼はきょとんとしていた。つまり「言われたことをやったのになぜ怒られるんだろうか」と思ったのではないかと推察する。これも日本人としては割と普通の対応である。日本人は内部に規範は作らない。つまり「自分が正しい判断をして他人に正しい日付を教えるべきだ」という様な規範意識はできない。社会がどうなろうが知ったことではないからである。学校教育が先にあるのかこうした日本人のメンタリティの結果今の学校制度ができているのかはわからないのだが、学校教育も本来の目的意識よりも「どう決まりを守るか」ということに重点が置かれる。そのため、熱中症で死者が出かねないのに学校行事を優先させることが起こる。決まりを守るとき生徒の命は忘れられているが、日本の学校ではそれはきわめて当たり前のことなのだ。

日本人言われたことだけをやるが、特にそれを悪いこととは考えていない。ここで異常だとされるのはカレンダーの間違いを指摘した方である。日本人は「この人は自分のことでもないのになぜ怒るのだろうか」と不思議になってしまう上に「きっと何か面白くないことがあったから八つ当たりしているのだろう」と考えてしまうのである。

介護施設の話に戻ると、時計が変わるから時間をずらすのが当たり前で、その結果高齢者の命がどうなっても構わないと考えているとしたらそれは大変問題なのだが、実際にはその様なことはありふれている。

しかし、持ち場を守るということを考えた場合「影響を抑えるためには時間をずらさない」という選択をする人たちが出てくる可能性はある。さらにこのほかに「現実的に時計がずらせなかった」という人たちが出てくるだろう。技術的に不可能だという人と、費用的にそれをやる余裕がないという人が出てくるだろう。例えば中小業者はレジを変えられないという理由で時計をそのままにするところが出てくるだろう。技術的にはそれほど難しくないかもしれないが、レジを変える改修費が出せない人は多いだろう。

ここで「時計は変えません」と宣言すればそれで治るのだが、実際にはごまかしが横行する。なんとかその場を取り繕ってやり過ごそうとするのだ。この結果社会に嘘が蔓延する。政府はすでに行政文書を隠したりなかったことにして嘘をつく人で溢れかえっている。

さらに「政府の時計が変わっても好きな時間に起きればいいじゃないか」などと言うと逆に怒り出す人おいるのではないだろうか。それは日本人が「みんなが決めたことには従わなければ罰せられる」と思っているからであろう。つまり、いい子でいたいのである。

このいい子は社会の害悪になっている。官僚は上から無茶なことを言われた時、とりあえず体裁を守らなければと、なんとなく理屈にがある様なないような答弁を考えて首相にメモとして手渡したりしている。そのうち、そのメモにつじつまを合わせるために嘘をつかなければならなくなる。ただこれも官僚が自己保身を図ったという側面の他に「いい人でいたかった」という気持ちがあったのだろう。

いい人でいることを優先したために、プロとして「国家の秩序を守るにはどうすべきか」とか「職務を公平に全うすべきか」ということを忘れてしまっていたことになる。外から見ていると恐ろしいことなのだが、意外と当事者の人たちは市役所の職員のように「言われたことをやっているだけなのに何がいけないのか」と思っているかもしれない。教育委員会が決まりを守ったら死者が出たのだがそれは仕方がなかったと思うのと同じように、官僚も組織の秩序を守ろうとしたら結果的に嘘が出ただけだと考えて反省はしないのである。

もし仮に官僚が「いい子」でなかったなら、首相は二つのことをやらなければならなくなる。一つは政府がきちんと回る様なロジックを自分で考える必要が出てくる。さらに、自分の人格を律していうことを聞いてもらえるように振る舞う必要がある。英語だとこれをリーダーシップという。日本はいい子に囲まれておりかばい合うので、影響力のあるリーダーが生まれにくいのだ。

安倍首相の問題は彼個人の資質によるところが多いのだろうが、あんな人がリーダーになってしまったのは周りにも責任があるということになる。

実際に社会に反抗する行動を取るのは難しいのかもしれないが、まずは「その指示には従わなければならないのか」を考えるべきではないかと思う。そして、考えがまとまったら感情が擦り切れない様に淡々とそれを発信すべきだろう。

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ホモモベレ (移動する人)

タイトルのラテン語はデタラメ。Google翻訳で移動するを調べたらmovereとでてきたのでそれをそのまま使っている。

ZOZOスーツを手に入れたのだが動かせる端末がないのでiOS機器を入手した。結局ZOZOスーツは動かなかったのだが、型落ちでそこそこ使えるiOS9.3.5の機器が手に入った。iPod Touch第五世代でヤフオクで5000円だった。iPod TouchはiPhoneの電話ができないバージョンだ。

今回買ったやつはアプリがそこそこ使えるのでお猿さんの様にアプリを入れた。LINEが使える様になったが通話する人はいない。最初に入れたのはPinterest、Instagram、TwitterといったSNSだった。やたらに「通知」したいと言ってくるので「いいよ」とばかりに通知を許可した。すると、SNS経由の通知が入ってくる様になった。あのピロリとかピロロという音がなんとなく自己承認欲求を満たしてくれる様でなかなか気分が良い。スマホが手放せなくなる気持ちもわかるなあと思った。現代はこの小さなガジェットで承認欲求が充たせる良い時代なのだ。

次に思いついたのがポイントカード系である。これを使うとプラスティックのカードを持たなくても済むのである。もっとも外では通信できないところも多いので実際に使えるかどうかはわからないのだが、これも財布を広げてお猿さんのようにアプリを入れた。パスワードを入れたり面倒な登録作業を済ませるとこれも使える様になった。

そこであらためて「これ無くしちゃったら大変だな」と思った。iPodなので決済機能はついていないわけだが、それでもこれだけの「アイデンティティ」がこの機械に詰まっている。Mac製品には「なくしたらリモートで使えなくできる」という機能が付いているのでそれもオンにした。

次に気がついたのがいわゆるアイデンティティがポイントカードとSNSなのだということだった。つまりスマホは私が私であるための名札の様な役割を果たしている。そして、そうした名札はほとんどが「消費」や「購入」に結びついている。つまり、私たちは「何を買ってどう使いそれをどう表現するか」ということがアイデンティティのほとんどになっており、それを常に持ち運ぶ存在なのだということになる。

果たしてそれが正しいことなのかと思った。常々「個人はそれぞれが持っている理想を追求するために生きるべき」みたいなことを書いているのだが、実際にはイデオロギーはその人のアイデンティティにはそれほど結びついていない。その証拠に人々は民主主義や保守思想そのものにはあまり興味がなくその理解は乏しい。政治が満たしてくれるのは所属欲求なのだが、デモの一員になったり逆に少数者を叩いて良い気分になることが目的になっている。中には経済のことなんか考えたこともないのに専門家を攻撃する人もいる。社会としてはとても危うく、中核のないそれは群れとしか表現しようがない。問題は解決せず、問題が次から次へと湧いてきては忘れられてしまう。その繰り返しである。

さらにかつてはその人の部屋に遊びに行き本棚を見て「その人の人となりがわかる」と思ったものだった。今でも中高年のある一定以上の年齢の人はその様なやり方で「アイデンティティ」を判断している人がいるのかもしれないのだが、最近では本棚のない家も多いのではないだろうか。

ただそれを「正しくない」と断罪してみたところで、実際のアイデンティティがポイントカードに残る購入履歴ややSNSのアカウントによって形作られているという事実は変わらない。財布を持って外に出ないということは「裸で街をうろつく」と同じ感覚なのだが、今ではスマホがその役割を果たしているのだろう。スマホにはいろいろなアイデンティティが鍵束の様になってぶら下がっているのだが、それを総合的にみて「あなたは一体何者なのですか」と聞いてみても、よくわからないということになりかねない。

我々人類は「賢い優れた」という意味のホモサピエンスという属名を持っている。このほかにホモルーデンス(遊ぶ人)という定義もある。本質的に生き延びたり働いたりすること以前に「遊び」があるのが人類だというわけである。ソーシャルメディアで消費を評価するのは遊びの一種かもしれないのだが、評価と社会的承認には単なる遊び以上の意味があるのかもしれないと思う。人類は基本的に群れの中で生きる存在だからである。

政治や社会問題は実はアイデンティティと関わったこうした動きと競合しなければならない。弱者救済とか人権などと言ってみてもSNSのいいねには勝てないわけだし、他人の人権を蹂躙することでいいねが得られるとわかった人はこの魅力には抗えないだろう。むしろ自分で表現できない人が他者をあげつらうことで初めて「自分が表現できた」と考えても不思議ではない。それを評価することによって政治の私物化に利用しようとする人が出てくるのも自然な流れと言える。それは無料で与えられる数少ない贈り物だからだ。

また企業もお知らせを一方的に消費者が受けてくれると思ってはいけないことになる。褒めてもらえるという承認欲求の甘美さを加えなければ、消費者から最も簡単に見捨てられてしまうことになるのだろう。このためにポイントを贈って購入者を常に「褒めてあげなければ」ならない。

前回インドと韓国の関係を観察した時に「良い商品をローカル市場が受け入れる形で提示してやれば売れる様になるだろう」という見込みを提示したのだが、アイデンティティが内にこもってしまい他者のリファレンスを必要とする日本人はSNSでの承認などのエンカレッジメンとが必要ということになる。そうなるとより内に篭った特殊なマーケティングが求められることになる。逆にこうした内向きのマーケティングに慣れてしまったら、製品が受け入れられる様に学習しようという意欲は失われるに違いない。

人は褒められるために政治的意見を選択し、褒められるために消費する。こう考えるといろいろな不合理に思えるものの別の意味が見えてくるかもしれないと思った。そして誰にも褒めてもらえない人が、自分より劣っている弱者を探して結びつくことにもなるのだろう。

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日本の家族制度はなぜ崩壊させられなければならないのか

さて、先日来杉田水脈議員の妄言とも言える「ゲイは生産性がない」という議論を考えている。いろいろ寄り道をしつつ「同性愛者も子育てに動員されなければならない」というところまで来た。そのためには、前回は従来の両性の合意のもとに作られる家族制度は邪魔なので解体されなければならないと考えた。今回はこれを反対側の観点から見てみたい。つまり、家族制度は存続しなければならないという視点である。

マウンティングにしか興味がない自称保守の人たちに代わって日本の家族制度を弁護してみよう。保守の言っている家族という価値の尊重はなかなか複雑な過程で作られている。もともと日本の家族は「家業」と呼ばれる事業体を支えるための作られた制度がもとになっている。東洋的な目上尊重という文化は残っているが違いも大きい。メンバー間の権力格差はそれほど大きくないし、血縁にもさほどこだわらない。が、西洋式の個人主義とも違っておりあくまでも家族という集団が一つの単位になっている。つまり、日本の家制度は中国より柔軟で融通がきく制度であり、西洋のように個人が社会に放り出されることもない優しい制度であると言える。

家業においては職業と再生産(つまり子供を産んで育てること)が不可分である。だからイエには事業体(表)と再生産のための主体(奥)という二つの側面があった。これを拡大解釈して、祭祀のための存在に過ぎなかった天皇にまでつなげたのが明治維新である。明治維新は徳川家のようなイエが頂点になかったのでそれに変わる統治原理が必要だったのだろう。こうして一部一神教的な世界観を入れつつ保守の人たちが考える人工的なイエ制度ができてゆく。西洋のように理論化を試みる動きはその過程で萎縮してゆく。現在のTwitterの政治議論を見てもわかるように、日本人は議論ができない。戦前の日本ではこのために仮説のつぶしあいと弾圧が起こった。天皇機関説事件が有名である。

Wikipediaを見てもわかる通り天皇機関説事件はもともとは政党間の非難合戦だったのだが、これが美濃部達吉の個人攻撃に変わった。美濃部は反論を試みるが炎上して貴族議員を追われてしまう。この事件のおかげで「国家に関する研究をすると炎上しかねない」という空気が蔓延し、その後は「日本は天皇を中心にした家族なのでみんなで仲良くして、戦争があったら協力して死んで行こう」というような当たり障りのない説に収斂してゆく。この過程は小熊英二の「単一民族神話の起源」にも書かれている。

このため日本は単一民族国家から帝国に至る過程で周縁を統合できなかった。すでに観察したように数があまり多くなかったアイヌ民族をなんとなく統合することには成功したが、朝鮮人をどう扱って良いか分からなかった。内地では参政権を与えハングルによる投票も許したのに、外地では植民地として土地を種脱するといったちぐはぐな動きが起きた。こうして日本は短い帝国期を終えてしまい、後には不毛な議論だけが残った。今でも在日差別やアイヌ民族などいないという議論にこの影響が残っている。統合できなかったので「なかったこと」にしたがるのである。背景には他者に脅威を感じて生きるのも嫌だし、かといって支配者として嫌われるのも嫌だという日本人の気弱な心もちがある。このためこの文脈で語られる家族は「和気藹々としてお父さんが尊敬されている」家族である。いわゆる「サザエさんシンドローム」だ。

日本で保守と呼ばれる人たちは家族という序列が復活すれば自分が他人から尊敬されるという見込みがあるのだろうが、そもそもしり切れとんぼで終わっている上に幻想に支えられた議論なので理論化ができない。唯一胸を張って「これが日本の伝統だ」などと言える議員は杉田水脈や三原じゅん子など限られた人たちである。後の人たちはさほど議論には興味がないので「俺が父親として威張れる家族が復活すればいいな」と考えているのであろう。自分は強制したくないが周り(つまり女性である)から言われると気分が良いのだ。

このように詳細に見てゆくと議論する価値すらなさそうだが、もう少し辛抱して家族の復活について考えてみよう。家族が復活されるためにはまず土台になるものを復活させなければならない。それは家業である。日本は戦後この家業に少し変更を加えて男性が主な稼ぎ手となって家族を支えるという制度を作った。企業という殿様に仕える武士が正社員だとしたわけである。企業は社宅を整備して専業主婦である妻と子供を支えることができる程度の給与を支払い企業年金で老後の面倒を見た。いわば終身雇用制は日本の公私が一体になった家族制度を支えていたことになる。

この制度は国家としては一度破綻している。職業軍人制度により近代化した侍を維持していたのだが「弾」が足りなくなると徴兵制に移行する。これは民間や家業から労働力を収奪して戦争に割りあてるという乱暴な制度だ。しかし食料調達などの兵站が作れなかったので、収奪された労働力の多くは餓死した。この時に作った年金制度が発展したのが今の年金制度だといわれているそうである。国はいったんは奪った労働力の面倒をみようということまでは考えたのである。

つまり、もともと日本には、家業、企業、国家の間に労働力と福祉・再生産機能を奪い合う構造がある。国民、企業、国家が一体の時にはこの制度でもうまく行くのだが、いったん不信感が芽生えると内部留保が起こる。国は独自の事業を行い利益を政治家や官僚が山分けするようになり、民間は海外への資金逃避や内部留保によって蓄える動きが出てくる。企業と国が協力関係にあった時にはなんとなく分担ができていたのだが、これが崩れたので国が国民の面倒を見るためには国家として家業がなければならないということになってしまう。だがそれは戦争かオリンピックくらいしかない。

すると取り残された国民が困窮する。国民の唯一の抵抗手段は費用を抑えることである。とりあえず今食べて行かなければならないので未来の投資を減らす。だから子供が減り、教育にお金が回らなくなるわけだ。極めて合理的に「少子化」が進行している。そしてその結果去年は37万人が日本から消えた。

終身雇用制度がどうして崩壊したのかはわからないものの、現在の企業は家庭を丸ごと雇っているという気分ではいないであろうことは想像に難くない。さらにバブルの後始末に失敗してから企業は国や社会を信頼していない。だから自分の手元にお金を残そうとしており、金融機関すら信頼されていない。人件費の削減は、今まで企業が持っていた再生産機能の保持を外部化しようという試みだ。賞味期限が切れてしまい家庭が維持できなくなったのだからこうした企業は解散させられるべきなのだが、日本は雇用などを企業に丸投げしているためにこれは難しい。

このように冷静に整理すると問題のありかはわかってくる。子育てにはお金がかかる。この費用を誰かが出さなければならない。かつての封建制のもとでは収益の源は家族だったのだから家族が子育ての費用から教育費までのお金を出していた。ところが戦後になって収益の源が企業に移るとこの責任も企業に移転した。企業がこうした責任を果たさなくなったということは、それよりも大きな単位である国がこの責任を持つか責任を企業に戻すべきだということになる。かつて国が国民の面倒をみようとした時には戦争という事業があったが今は事業がない。それでも国は国民の面倒を見るべきなのだろうかという議論になる。

もし保守と呼ばれる人たちが従来の家族制度を復活させたいのであれば、企業と話をして家族に十分な支出をするように説得するか法律を作ってこれを是正すべきである。もはや個人を主体として民主主義・資本主義とは言えず「日本型」の社会制度を新しくつくるということを意味する。やってやれないことはないだろうが、発明する部品は多くなるだろう。このやり方の欠点は日本人が議論ができないということである。現在のネトウヨが成立しているのはそれがリベラル叩きを主目的にしているからだろう。問題解決の議論が始まれば相手の人格攻撃が始まり議論は萎縮し「安倍首相を中人にみんなで仲良くしましょう」というような結論に終始するはずである。さらに杉田議論を見てもわかるように「役に立つ・立たない」という議論が出てくる。彼女はこれを生産性と言っていたが、生産性が議論になるためには国が事業体でなければならない。彼女の議論は「人権無視」というコンテクストで叩かれているのだが、日本的な文脈で見ると「家業なき集団」の問題なのである。

世界に目を転じてみると、先進国は企業ではなく社会が責任を持って再生産の費用を分配しようとしているようにみえる。いわゆる社会民主主義という制度である。よくリベラルの人たちがモデルにしている北欧は国が再生産の費用は国が出すという仕組みで運用されている。スウェーデンなどでは職業訓練などもしてくれるようだが、企業も簡単に潰れるし、首も簡単に切れるという話がある。産業の移り変わりが激しいので一企業が社会的責任をすべて追うことはできないという認識があるのだろう。このやり方はコピペで済むので議論はあまり必要ではない。が、議論を見るとわかるように、国が生産集団だから国民の面倒を見ているわけではない。個人主義なので社会の相互協力という認識ができる。もともと集団性の強い日本では経済主体が成員の面倒を見るのでこうした社会の相互協力という概念が育ちにくいのだ。

日本は「災害レベルの人口減」に見舞われているという認識があってはじめて、保守やリベラルの人たちがソリューションを模索することができるのだが、今回の議論にはそうした兆候は見られない。みんなまだ「なんとかなる」と思っているからなのだろう。

雇用システムはいち早く脱日本化してしまったのだが、家族の意識はそれほど大きく変化していない。夫が妻の姓を選択すると「婿養子に入った」と言って笑われ、妻が夫の姓を選択すると「入籍した」として家族と一体になることを強制されるといった状態が続いている。お盆になると旧来型のイエの価値観を押し付けられた嫁が一斉に発言小町に「もう夫の実家には帰りたくない」という投稿をすることになる。

こうした問題が起こるのは発言小町的には「舅姑理解がない」か「夫が優柔不断」か「嫁の我慢が足りない」からなのだろうが、実際には家の制度と社会システムのズレが問題なのである。

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新潮45と中年の危機

先日来、杉田水脈さんの差別発言から日本の政治の問題を考えている。多様性を許容できない人たちが「差別できるような自分より下の存在」を探しているという問題だと考えた。ここでは視点を変えて新潮社の立場からこの問題を見て行きたい。最終的に見えてくるのは「アサーティブネス」と「新潮45の読者が抱える問題」の対比である。アサーティブネスは自分の意見をしっかり持ちそれを他者に伝える技術のことだった。

新潮社はもともと小説の出版社だった。日本の小説は私小説がメインストリームだった時代がある。実生活では自己実現できない人が夢の世界で物語に耽溺するというのが普通の小説だとすると、それも叶わずに鬱々とした感情をそのまま伝えるのが私小説である。戦後になって新潮社は週刊誌を成功させた。1956年だそうである。新聞がカバーできない領域をカバーするのが週刊誌の役割だ。その後バブルの時代にFOCUSを成功させる。これはきらびやかな芸能界の表向きの姿の下にある芸能人の赤裸々な私生活を暴いたものでありこれも「裏メディア」だった。もともと新潮社はエスタブリッシュが取り損ねた人たちを狙った「傍観者向けの裏的」な位置付けの会社だということがわかる。そして、当事者たちが作る本格的なサブカルが出てくると衰退してしまうメディアを抱えている。そこで、新しい「弾」を準備して生き残るという戦略である。

例えば今私小説が流行らないのはTwitterをみれば十分だからだろうし、FOCUSよりも刺激的な記事はネットでいくらでも見つかる。が、新潮社としては次さえ見つかればそれで構わない。問題は新潮社が次の弾を見つけられなくなっていることくらいだろう。

この中で45歳以上をターゲットにした雑誌が新潮45だそうだ。Wikipediaには最初から「保守・反人権」的な立ち位置だったと書いてあるのだが、保守が反人権と結びつくとは考えにくいので「変化を拒む守旧派」を狙った雑誌だったのだろう。これも政治問題の当事者というよりは傍観者を狙った雑誌だ。一時は女性を取り込もうとセックス特集などを増やしたが成功せず「ジャーナリズム路線」に戻ったのだという。

では彼らがターゲットにする45歳以上とはどのような人たちなのだろうか。現在の45歳といえばちょうどバブルに乗り遅れた世代である。大学時代までは右肩上がりの経済成長が(少なくとも見かけ上は)続いていたのだが、それが蜃気楼のように目の前で消えてしまったという体験をしている「失われた世代」だ。

日本の終身雇用は若い時の丁稚奉公があとになって報われるという仕組みだ。だが、この世代の人たちには下がいない。さらに上の人たちは老後の不安を抱えておりポジションを手放さない。直近の先輩たちは「バブル世代に雇われた無能な」人たちなので尊敬はできない。成果をあげろとは言われるが経済成長期のようには行かないし、後輩も入ってこないので役職にもつけず、マネージメント経験もできない。これより下の世代はそもそも経済成長を知らないので会社に過度な期待はしないから自分のためにならなければついてこない。

50歳にもなれば諦めてしまうのだが、まだ諦めきれないが自分の人生が何だったのかよくわからないという年齢域である。他人から良いと言われた進路を真面目に選択したのにちっとも報われないという人が「自分の人生って何なのだろうか」と考えることを「中年の危機」と呼ぶ。つまり、新潮45が今回たまたま掘り当てたのは「真面目なのに認めてもらえず達成感も得られなかった中年の危機にある人たち」の受動攻撃性だと考えられる。

今回、同性愛の人たちが杉田発言に抗議行動を起こそうとしているのだが、これに対して冷笑的なコメントがついている。問題を認めないし何もしないという態度なのだが見ていると「受動攻撃性」という用語がぴったりなのだ。表面上は穏やかなのだが悪意と攻撃性に満ちている。

ハフィントンポストに受動攻撃性に関する記事があるので、対処方法などを見て行こう。

時にして誰もが受動的攻撃行動をとってしまうことがあるのだが、そこでしなくてはならないことは、あなたが最後に“ノー”と言いたかったのに“イエス”と答えてしまった時のことについて考えることである。受動的攻撃行動をする傾向がある人の中にはいくつかのタイプの人間がいる。衝突を避けたり怖がったりする人々は、自尊心が低く自信がない人ほど受動的攻撃性格になる傾向があり、ブラント博士によると、そういった人々は「感情、特に怒りの感情を持つことを許された経験がない」のだという。

つまり、自分が本当にやりたかったことをやらずに妥協をしてしまったことに憤っているのだが、それを怒りとして表出できない。そのために誰か代理で叩く人を見つけようとするのである。

ハフィントンポストの記事はこうした人たちに対処するためには「毅然と対応すべきだ」と書いてある。つまり、彼らがマイノリティを見つけ出して叩くことを決して許してはいけないということだ。つまり、もし当事者であれば「そのようなことは許されない」と毅然と対応すべきだ。

ただ、例えば同性愛の場合「この人生で納得している」という人は毅然と対応しやすいだろうが、そうでない場合には「承認されたい」という気持ちから弱腰の対応をしてしまうかもしれない。前回見た乙武さんの「自分で選んだわけでもないかわいそうな人生」という自己像は極めて危険である。こうした構造は学校でのいじめにもよく見られる。一見先生に従順な良い子が裏で弱い子供を執拗に攻撃するというケースである。そして、いじめられる側はなんらか自己肯定感の問題を持っているケースが多い。

さらに、今回の杉田発言に関する反論を見ていると「自分たちも見捨てられ不安を持っており」「このままでは大変なことになる」と慌てているようなものが多い。つまり非当事者が進んで獲物として議論に参加しているということになる。こうした感情の揺れは彼らを利することになってしまう。

この「世代論的理解」は意外と重要なのではないかと思った。この風潮を日本社会全体の風潮とみなしてナチスドイツと同一視するような考察がある。野党政治家の中にもそのようなほのめかしをしている人たちがいる。確かにアイデンティティクライシスの側面はあるのだがそれが全体に広がっているとは考えにくい。ドイツの場合は帝国が領土を失ったことにより民族全体に危機意識が芽生えた。さらに民主主義の体験が乏しかったために議会政治が無効化されることになってしまった。だが、日本にはそうした喪失経験は見当たらない上に、それなりの議会運営の実績がある。日本の近代議会運営の歴史はアジアでは一番長い。

ある年代に限ってみると、確かにナチスと重なる側面はある。だが、それが全体に広がることはないだろう。逆に「このままでは日本社会全体が大変なことになるのではないか」と怯えることは、彼らの感情的な餌になる。

個人的に興味深かったのは「村落共同体」との関連である。日本社会を概観するときに「村落共同体」的な構造が抱える問題と、村落がなくなってしまったが多様性に踏み出せない社会という全く異なった二つの問題がありこれが統合できなかった。だが、これを逃げ切った60歳台の人たちとその下の掴み損ねた人たちの問題と考えるとわかりやすい。掴み損ねた人たちは新しい行動様式を獲得する時間がなかったために「自分の権利を主張する」という非村落的な行動様式を獲得できなかった。だから怒りを誰かよそに向けるしかないのである。

受動攻撃性は自分の欲求を外にうまく伝えることができないために起きている。これを解消するのがアサーティブさである。改めて、杉田発言に抵抗する人たちを見ていると、ゲイの差別に同調するというよりは「あまり騒ぎすぎるとためになりませんよ」とか「そんなことより建設的なことを考えましょうよ」などと問題を無視したがるような発言が目立つ。多分、彼らは普段からそのようなことを言われており、自分たちの欲求が抑圧されているのではないかと思われる。

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多様性社会へようこそ

先日、杉田水脈という人の発言について考えた。下を向いて生きて行きたい人たちが犠牲者を探すという物語だった。杉田さんの発言には商業的価値があるとされ、自民党もある層に訴求力があると考えて杉田さんを「泳がせて」いるのだろうということもわかった。つまり、下を見つけたい人たちがたくさんいて、お金を払ってでもあの手の話を読みたいと考えているという事実がある。新潮社が週刊誌では政権を叩き、別のところでは差別を煽っているところをみると、会社全体としてはかなり追い込まれているのではないかと思われる。かつて戦争の荒廃から立ち上がるためにいち早く文化の風をと思っていた日本の出版社も今や国民の劣情にすがって日銭を稼ぐしかない。実は彼らも役割を見失いつつあるのだろう。

その意味では日本のエスタブリッシュメントとされた政党から差別を助長する発言が繰り返され、言論や文化を牽引していた会社から差別的な書物が発行されるということには大きな意味がある。

この荒れ果てた状態で、マイノリティと呼ばれる人たちが誰かから承認してもらえる可能性はそれほど高くない。杉田さんの発言が反発されるのは「自分が見放される側にいるのかもしれない」という恐れがある程度共有されているからだろう。つまりそれは従来のマイノリティとは違って「いわゆる正常域」から外れることがそれほど珍しいことではなくなっていることを意味する。裏返すと「正常」と呼ばれる人生を生きている人でも、それに確信が持てないので、異常を探し出して叩きたくなってしまうのだ。

よく、今の日本をかつてのナチスドイツと重ねる人たちがいる。帝国が崩壊しつつあったドイツ人がアイデンティティクライシスに陥った時によりどころにしたのがマイノリティの排除である。今回も同じ動きがあるのだから、日本人もアイデンティティクライシスに陥っていることになる。ではそのクライシスとは何なのだろうか。

かつての日本には望ましい人生というものがあり、その人生に乗っているだけである程度承認欲求が満たされた。男性であればいい会社に入ってお嫁さんをもらい子供を作って子育てと家のローンの返済で一生を終えるというようなコースだ。女性の場合は三年ほど腰掛けにお勤めした後でそこそこの相手を見つけて結婚して子供を作り自分の趣味などを諦めて子育てに専念するというのがよい人生とされていた。男性の場合は演歌を聞いていれば承認欲求は満たされたし、女性の場合もテレビドラマなどが「あなたの人生はこれで良かった」と慰めてくれた。

だが、人生の選択肢が増えた現在では人生の価値は自分で決めて行かなければならない。しかし自分で何かを決めたとしても誰かが承認してくれるわけではない。これが正解だからと考えて人生を選択した人が焦り出すのも実はとても自然なことなのである。

積極的な承認が得られないから、コースを外れたとみなされる人たちをみて「まだ自分は安心なのだ」と考えたい人たちが多いのだろう。そこに杉田さんの「あの人たちの人生は異常だ」という指摘に「目から鱗だ」などと考える人たちがでてくるわけである。

すべての人たちが自己承認を求める現代、待っていても自分の人生が正当化されることはないということになる。よく「多様な価値観を認めるべきだ」ということが言われるのだが、実は自分たち自身が多様な価値観を認めることができていないのかもしれない。と、同時に多くの人が実はいろいろな選択肢のある人生を生き始めている。つまり、我々はすでに多様な社会を生きている。

SNSが発展したこともあり自分が誇れることをインスタグラムあたりで自慢してみるのもよいかもしれない。いいねの数はある種の承認になるし、あるいはお金を払って特別な体験をしてみるのもよいかもしれない。自己承認を求めることはそれほど不自然なことでもいけないことでもない。しかし「自分の欲求をあからさまにしてはいけない」という教育を受けている人たちはそのようなことはできない、でああれば黙っていればよいのだが、他人を叩いて「ああ、自分は正常だった」などと考えてしまうのだ。

他人から承認をもらう前に、まず正常でなければ自分の人生を認められないという偏見を捨てるべきであろう。なぜならば厳密に正常などと言える人生はもはやないからだ。多くの人たちは「あるべき人生」と自分の人生がどれだけ違っているかということを基準にして自分の人生を裁きつづけるかもしれないのだが、それをあなたがやらなければならないということはない。さらに、正常な人生から転落したという一種の喪失感を持つ人もいるだろうが、嘆いたところでその正常は戻ってはこないし、本当にそれほど素晴らしいものだったかは実はよくわからないのではないか。

余力があるのなら社会正義のために動いても良いのだろうが、もしそうでないならまずは自分の人生を承認できるように、一人ひとりの場所でできることをやるべきなのだろうし、その上で余力があるなら他人の人生をあるがままに承認してゆけばよい。こうした人が増えれば増えるほど、世の中は暮らしやすくなる。

待っていても誰も承認してくれないということは自分で自分の権利は主張すべきだということになる。先日来「自分の意見を他人にいうことにためらいを持つ」ということについて考えてきたのだが、もうそんなことを言っていられるような社会ではない。何しろ政権政党が徳を失いあの状態なのだから、社会全体がどうなっているのかは推して知るべしである。すでに変化してしまったのだからあとはそれに対応してゆくしかないのである。

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杉田水脈論法の罠

杉田水脈という議員が「同性愛者は生産性がない」と発言したとしてTwitterコミュニティから反発されている。自民党のおごりがでた発言であり許しがたい。だがその反論もあまりにもめちゃくちゃでとても議論と呼べるような筋合いのものではない。却って人々の持っている偏見を浮き彫りにしている。もともとの論があまりにもくだらない上にそれが人々の劣情と無知をさらけ出すので見ているうちにだんだん腹立たしい気持ちになった。

この際避けるべきなのは正面から向かい合うことであることはいうまでもない。調べてみるとお子さんがいらっしゃるそうだ。つまり自分は議員にもなれた勝ち組で「生産性もある」ということを自慢したいのだろう。ただ、この手の人は自己評価が低いので他人をまきこむことでしか自己評価があげられない。そこでマイノリティを刺激して「私よりも下がいる」ことを確認して自己満足を得る。そして、そうした自己評価の低い人が大勢いて彼女のようなネトウヨ政治家を支持するのである。新潮社がそこに商品的価値を見出したということは日本人の自己像は大いに傷ついているということなのだろう。

だが、反論する人も「国会議員」として選ばれた身分の人に生産性が低い人物だと差別されたくないという気持ちが働いてしまう。つまり、かってに上(国会議員)と下(生産性の低い人)を作って「生産性が低い人でも見放されるべきではない」という理屈を考え始めてしまうのである。要は見放されたくないと言っているのだ。

こうした気持ちが働くのは普段から人を生産性で裁いているからではないだろうか。他人の稼ぎが低い人を見下す人もいるだろうし、あるいは体が動かなくなった自分を責める人もいるだろう。

民主主義のもとになったキリスト教では人は人を裁くべきではないと考える。たとえそれが自分であってもである。私たちが神ではないのですべての価値を知りえず、裁くことはできないからである。現に生きているということはなんらかの許しがあるということなので、それをどう使うかを自ら考えるべきなのである。

「他者を裁いてはいけない」という論をキリスト教の信仰として受け入れることもできるのだが、肝は他人を裁いているスケールで自分を見下したり罰したりすることになるという点にあるのではないかと思う。つまり、人を裁く人は自分の未来も限定してしまうのだ。

例えば半身不随になった人が「自分は今までのように生産性がない」と考えてしまうと、自分の未来を自分が限定してしまうことになるだろう。その変化は苦しいだろうが、諦めなければ新しい可能性が見えてくるかもしれない。「そんなことはない」と考える人もいるだろうが、なんらかの苦難を経験した人の中には実感として理解できる人も大勢いるのではないかと思う。

いったん落ち着いてこれを受け入れると、別の視点が見えてくる。それは生産性という用語である。生産性とはもともと資本投入とアウトプットの比率のことで、生産の効率を計測する指標のことである。同性愛と仕事の効率には因果関係はない。つまり、これは議論としては最初からデタラメなのだ。

この「生産性」とは経済効率のことを意味しているのだと思う。なので「ない」という言い方はせず「生産性が低い」とするのが本来の使い方だ。こうした誤用が起こるのは「稼ぎが多く社会的に役立つ」という概念とリプロダクティブ(生殖)を故意に混ぜているからだろう。つまり女性は稼ぎがなくても子供を産む機械として役に立つだろうということだ。つまり、人間が持っている多様な価値を矮小化した議論に過ぎない。もっと簡単な言葉でいえば「意味のある人生」と「意味のない人生」である。稼ぎが多かったり子供がいるのは「意味がある人生」であり、そうでない人生があると言っており、誰が意味を持っているかは私たちが決めると宣言しているのである。単なる倒錯した暴論だが、これが議論を巻き起すのはつまり「自分の人生に意味があるか」を疑問視している人が多いからなのではないだろうか。だが、そんなことを自分で決めてはいけないと思う。

いずれにせよ、この構図がわかると問題を処理しやすい。第一に国会議員が有権者の人生を決めるというのがおこがましい。自民党政権は自分たちを殿様か何かのように思っているのだろうが、実際には税金の使い道を決めて監視するためのエージェントに過ぎない。こうした勘違い発言は時々出てくる。前回びっくりしたのは礒崎陽輔という人の「憲法は国民に規範を示す役割を担うべきだ」という発言だ。そもそも今は封建時代ではないし、仮に封建時代であったとしても徳のない嘘つきの政権にあれこれ指示はされたくない。

「意味のある人生とない人生があり人々がそれを裁く」というのが最初の差別意識だった。次の差別意識はマイノリティはかわいそうな存在だしそうあるべきだという意識である。

この発言は乙武さんのものだが、普段から障害者も普通の人間だと言っておきながら、性的少数者だとこのような「かわいそうな人」発言が出てしまう。では同性愛者とはかわいそうな存在なのだろうか。例をあげて考えたい。

日本人の同性愛に対する偏見を「変だな」と思うのは、アメリカの同性愛コミュニティを見ているからだと思う。例えばハリウッドには同性愛者のコミュニティがある。この人たちは「芸術的なセンスが優れている」とされており独自のニッチを形成している。こうした人たちをサポートするバックオフィス系にも弁護士や会計士などの同性愛者がいる。

彼らは特に「私は同性愛者です」などとは言わないのだが、言葉遣いからそのことがわかる。他人に断りを入れることがないのは別に恥ずかしいことでもないし、他人の許可がいることでもないからだ。

彼らは可処分所得が高いのでマーケティングのターゲットになっている。実際にファッションインダストリーが出しているYouTubeなどを見ると同性愛者向けのショートフィルムなどが見られる。つまり、一種のエリートなのである。

この「選ばれし」コミュニティに異性愛者が入るのは難しい。センスが違っていると考えられてしまうからだ。つまり、マイノリティ、マジョリティというのは局所的な問題であり、人口全体でマイノリティであったとしても必ずしもマイノリティでなければならないということはない。

もちろん全米がこうだというわけではないだろう。全米各地から居心地の良さをもとめて特定の年に集まってくるのだ。つまり、アメリカの中にもまだまだ同性愛という特殊性が受け入れられない地域がある。だが、彼らの一種の「傲慢な振る舞い」を見ていると、同性愛者がかわいそうだとはとても思えなくなる。日本だと美容業界などにこうした「選ばれし」コミュニティがあるのではないかと思う。

確かにこの人たちは生きにくさも抱えている。トムフォードの映画「シングルマン」は傷ついたゲイの大学教授の話だ。長年付き合っていた恋人を失い傷心状態にある。しかも恋人の家族からは気持ち悪がられており葬儀に呼んでもらえなかった。しかし、経済的には成功しているし、演歌的にウエットな「かわいそうさ」はない。

よく考えてみると、性的指向が選べないのは同性愛者だけではない。例えば普通の男性の中にも痴漢を働いたり盗撮を試みる者がいる。彼らはそれが露見すれば仕事を失うことはわかっている。でもやってしまうのだ。つまり、そもそも人間は自分の性的指向を完全にはコントロールできない「かわいそうな」存在なのである。

杉田議員は自分の価値を高めるために弱い人を見つけて叩こうとしているだけである。これは逆に彼女たちが「強い人」を目の前にしたら靴をなめてでも媚びへつらうだろうことを意味している。だからあの手の人たちに復讐するためには成功すればよいわけである。最後の問題は日本の経済が縮小を予想しており「成功するコミュニティを作ろう」という意欲がわきにくい点なのではないかと思う。そこで「生産性がなくても見放してはならない」という論が出てきてしまうのかもしれない。

泣きそうな顔をして「いじめるな」訴えるのは逆効果である。なぜならば相手が泣いて困るのを見て喜ぶのがいじめの目的だからである。で、あれば環境を変えるなりして得意分野を見つけた方が良い。最初は見返したいという気持ちがわくかもしれないが、得意分野が見つかりそれなりのコミュニティができたところでいじめていた人のことを見返したいという気持ちもなくなるのではないかと思う。

もちろん、自民党がこうした議員を抱える裏には長期政権のおごりと自分たちは支配者であるという倒錯した世界観があるのだろう。こうした発言を商売に利用している出版社の反社会性も糾弾されるべきかもしれない。

杉田議員の発言がたしなめられることはなく、むしろ「頑張ってくれ」と言われるという自民党の風土は深刻なのだが、こうした政党がいまだに政権与党である裏には「下」を探して生きるしかない大勢の人たちの存在があるのだろう。

こうした事実を受け止めつつ、当事者たちはそれぞれその人なりの成功を目指すべきだと思う。

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