自己責任社会 – 安田純平さんはなぜ責められているのか

人質になっていた安田順平さんがシリアから戻ってきた。この話題がかなり盛り上がっているのだが違和感も大きい。日本人はシリアに興味がないにもかかわらず、なぜ安田さんの帰還がそれほど問題になるのだろうか。一方、これに呼応して「自己責任」という言葉による流入が増えた。物言わぬ人々は安田さんの自己責任について語りたいらしい。

はじめに「自己責任」について考えておこう。英語の責任(レスポンシビリティ)とは呼応するという意味なので「担当者」というニュアンスに近い。説明責任もアカウンタビリティで記録しておくくらいの意味しかない。ところがどちらにも「責める」という漢字が使われているために、日本では「誰々のせいだ」の高級な用語としてこれらを利用することがある。つまり、自己責任とは「お前のせいだ」と罵倒するための高級な言い換えに過ぎない。

安田さんの自己責任論を唱える人たちの理屈は、人質にお金を払ってしまうとそれが悪いことに使われることになるだろうというものだ。だがこれが非難のための非難である。シリアがどうなろうが中東がどうなろうが日本人には関心がないのだから、お金がどう使われるかに彼らが関心があるはずがない。さらに、そもそも日本政府には当事者能力がなく国民を助ける意欲もないので、お金を支払わなかったらしい。

それでも人々は「自己責任」を言い立てるのは、誰かを責めたくて仕方がないからなのだろう。一部の人たちは熱心に「日本すごい・韓国は駄目だ」とか「障害者には生産性がないからすっこんでいろ」いう主張が書かれた本を読んでいるようだが、別の人たちは週替わりで非難する人が登場する雑誌を読み、不倫やパワハラを暑かったワイドショーを熱心に眺めている。日本でもっとも商品価値の高いコンテンツは誰かを指差して社会全体で非難するというものなのかもしれない。大衆の側に立って安全に石を投げたい人が多いのだろう。

安田さんが責められる表面上の理由は、彼に左派リベラルの匂いがするからだろう。過去に反政府的な言動があったようだし、今回も「日本政府に助けてもらったとしたらそれは本意ではない」というようなことを言っている。名前や折り鶴などから在日なのではないかという憶測(本当なのかもしれないが別にどうでもいいことだ)も出ている。反原発、反戦、在日外国人というのは歴史的な経緯からセットとして語られており、そこに当てはまったので自動的に叩いて良いと考えられている。これもある種の正解(テンプレート)で、そこにもあまり意味はなさそうである。

NHK出身の木村太郎がかつての体験を語っていた。日本でオイルショックが起きた時、人々は「なぜマスコミはこれを伝えなかったのか」と非難したそうである。そこで木村は志願して中東に行った。そこで木村は中東のメカニズムを肌で感じたという。だから、ジャーナリズムはリスクを取ってでも危険地域に出かけるべきだという。

しかし、NHKが木村を中東に送ったとすれば、やはり国内経済と中東情勢には関連があるという正解を学んだからだろう。つまり、集団や社会は個人の感覚とは違ったメカニズムで動いている。

現代でもこの正解の感覚は根強く残っている。南スーダンが語られるのは自衛隊との文脈においてだけであり、日本人は南スーダンの紛争がその後どうなったかを知らないはずだ。つまり、国内で秩序を決めている正解が揺らいだ時にだけ日本のマスコミは反応する。日本人が反応するのは、自分の振る舞いが変わる可能性のある国内政治の序列と経済だけだ。

村の中の決まりにしか興味がない日本人には欧米流のジャーナリズムはよく理解できないだろう。村の外で起きている事は自分たちには関係がないし、とやかく言ってみても仕方がないことだ。他人の世話を焼いている暇があったら自分のことをやれというのが日本人である。

一方、欧米では人道はキリスト教的な価値観に基づいた大切な価値観だ。天賦人権(Natrual Human Rights)という名前はついているのだが、天賦を自動的に守られる正解だと考えている欧米人はそれほど多くないはずである。

人道は、常に監視がなければ失われてしまうかもしれない。だから何が起こっているのかを監視し、問題があれば介入する。人々が環境汚染企業の不買運動に参加するのはこうした介入行動の一種である。

西洋世界から見た国際社会は巨大な公共空間になっていている。彼らは西洋村に住んでいるとは考えない。国際社会の価値観を自分たちに好ましいものにしておくためには判断材料が必要だ。これを集めてくるのが欧米のジャーナリストの役割の一つになっている。その情報には需要があり、需要があるとスポンサーもつく。つまり、社会に支えられた欧米のジャーナリストは全てを自分で担当する(自己責任)必要はない。

しかし日本人にはこれが理解できない。日本が人道主義を取るのはそれが世界的に受けるという事を知っているからに過ぎない。だから日本人は積極的に人道主義を守らなければならないとは考えない。政府も円借款などで権益を確保する「援助」には熱心だが、人道については国際社会から非難されない程度に「お気持ち」を示すだけだ。日本村が他の村から非難されないように最低限のお付き合いをして、できるだけ利権を村に引き込もうと考えるのが日本人である。

だから、日本は難民の受け入れなどには全く関与していない。日本にやってきた難民申請者は非人道的な扱いを受けるが国民からは非難されない。また人道や民主主義的プロセスを監視するジャーナリストを経済的に支えようなどとも思わない。

日本政府は国民の保護には興味も意欲も持っていないし、その能力もない。彼らが国民保護や少数民族の人道確保という概念を持ち出すのは自衛隊という軍事組織をおもちゃにしたい時と、国際会議で拍手をしてもらいたい時だけだ。そもそも国際紛争に自分たちが関わって行く事態も想定していない。そこにわざわざ飛び込んでいった安田さんが目障りなのはよくわかる。

だが、日本政府が国民保護にも人権にも興味がないということを知らない人は産経新聞の読者くらいだろう。だから、わざわざ「政府は国民を保護すべきだ」などと大人気なく言い立てる人はそれほど多くない。安田さんの場合は家族も政府に助けてくれとは言わなかったはずだ。誰も責めていないのだから、それが議論の対象になることはないはずだ。

でも、それでも安田さんは責められた。第一の理由は安田さんがフリーのジャーナリストであり、自分の意思で行動していたからだろう。組織の論理に隠れて自分では何もしない日本人にとってこれ自体が大変危険な思想である。さらに、安田さんは今までのジャーナリスト像と異なっている。これがよくわからないがゆえに気に入らないという人もいたのではないか。

安田さんは組織に守られた日本人が考えるところの「正規のジャーナリスト」ではないし、扱っている問題も「普通のジャーナリストが関心を持つべき」メインストリームのアメリカやヨーロッパではない。さらに、自分は安全なところにいて貧困に苦しむアフリカの惨状を伝えるというかつてあった正解の雛形にも合致しない。

型に依存する日本人はメインストリームの情報を語ることで自分を「賢そうに」見せられるし、アフリカの惨状をみて「憐れみ深い自分」を演出できるという正解を知っている。つまり正解があるジャーナリズムには恩恵があるのである。だが、どう解決していいかわからない問題を突きつけられると自分が無力だということが露見してしまう。これはとても不快なことなのである。

社会派のジャーナリストは型に依存する日本人には危険な存在である。解決できない問題を常に突きつけてくるからだ。だからこうした人たちには「左派リベラル」のレッテルを貼って押入れにしまいこんでおきたい。普通のジャーナリストには反日のレッテルを貼り、失敗した人には自己責任というラベルを押し付けて非難する。これが正解に依存する人たちの「正しいジャーナリスト処理方法」である。

ただ、この正解は徐々に崩れつつある。

アメリカは人権警察である事に疲れ果てている。その結果生まれたのが価値観ではなく「損得」で考えるトランプ政権だ。だから今の日米情勢はかつてあった正解では語れない。ヨーロッパも域内の統合が危いのであまり他国の事にかまってはいられない。そして非人権国家である中国が経済的に伸びてきている。こうした状況をイアンブレマーはG0社会と呼んでいる。いわば正解がない社会である。

朝鮮半島のように正解がころころ変わる状況に慣れている地域もあれば、それに耐えられない地域もある。日本はその代表格なのだろう。これまでは「欧米と価値観を一つにする」とか「アフリカの貧困は根絶しなければならない」などといっていれば拍手してもらえるという事を丸暗記していればよかったのだが、それは難しくなるだろう。

日本人は正解がないという状態には耐えられないので、いろいろな<議論>が起こるのだが、結局は「安田さんが普通でない事をしなかったら問題は起こらないのだ」ということになってしまったようだ。だが、安田さんがいなくなったとしても混沌とした状況はなくならない。正解がないためにどう振る舞って良いかがわからないという苛立ちを安田さんにぶつけようとしているだけなのである。

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防弾少年団(BTS)ジミンと原爆Tシャツ

日本公演に合わせてBTSの事務所が日本公演に合わせて2018年11月13日に謝罪文を出した。原爆についての謝罪は十分とは言えないが、関係諸団体と連絡を取るとしている。この際に原爆被害者への理解を深めるべきだろうが、いずれにせよ当事者間の問題であり、周りが代弁者になってバッシングすべきではないだろう。





防弾少年団(BTS)のジミンが原爆Tシャツを着て日本を挑発したとして話題になっている。韓国人歌手の「反日活動」は珍しくないのかもしれないが、紅白歌合戦の歌手として選ばれるのではという観測があり、国連で演説をしたグループ(Courrier Japon)としても知られているので、よりやっかみも強まるのだろう。

この件について調べてみると、BTSがなぜアメリカで人気のグループになれたのかということがわかってくる。BTSは実は韓国の芸能人が守ってきたあるルールを破ることで人気になっているのである。

まず、この原爆Tシャツ騒ぎが本当にあったのかを調べてみた。Googleによると、原語で지민(ジミン) 원폭(原爆) T 셔츠(シャツ)となるそうだ。ニュースサイト(韓国経済)では次のように説明されている。翻訳はGoogle翻訳を使った。つまり、韓国では原爆は祖国解放のために役立ったものとして位置付けられているということがわかる。対日(對日)となっているのはGoogleの間違いではなく、ハングルに漢字の振りをつけているからだ。

Tシャツの説明では、「国を奪われ、日本の植民地支配を受けた日本植民地時代という長い闇の時間が経って国を取り戻し、明るい光を見つけた日がまさに「光復節」である。1945年7月26日、米英、中は「ポツダム宣言」で対日(對日)の処理方針を明示するとともに、無条件降伏を要求した。日本がこれを無視すると、米国は8月6日、広島では、9日長崎に原子爆弾を投下した長崎原爆投下6日後の8月15日、日本は連合軍に無条件降伏を宣言した。9月2日降伏文書に署名し、正式に太平洋戦争と第二次世界大戦が終わった。韓国の光復をTシャツに表現したルーズな感じの長袖Tシャツだ」という紹介がされていると伝えられた。

もちろんネトウヨ業界では韓国人が紅白歌合戦に出場するのはいけないことに決まっているのだから、BTSは「日本で商売しなくても結構」となるだろう。逆にBTSのファンやリベラル界隈はこのニュースをなかったことにしたいはずである。では、このうち「どちら」が正しい態度なのであろうかということになる。原爆は「議論の別れる問題」だが英語ではこれをcontroversialという。日本語には訳語がなく「物議をかもす」などと訳される。実は英語圏ではBTSはcontroversialな議論に勇気を持って立ち向かうというイメージがあるのだ。Rolling Stoneの記事を見つけた。

BTS, who just became the first K-pop act ever to top the Billboard 200 album sales chart, have become a record-setting success story in part because of their willingness to buck this convention. The seven young men who make up the group have been speaking their minds since their debut, openly discussing LGBTQ rights, mental health and the pressure to succeed – all taboo subjects in South Korea. Their stance is particularly bold given the Korean government’s history of keeping an eye on controversial themes in pop music. By straddling the line between maintaining a respectable image and writing critical lyrics, BTS have offered a refreshing change from what some critics and fans dislike about the K-Pop machine.

デビュー当時から彼らはLGBTの権利やメンタルヘルスについて語ってきたと説明されている。これらは韓国の芸能界ではタブーなのだそうだ。韓国政府は芸能人がこうしたcontroversialなテーマについて触れるのを監視してきたと書かれている。つまり、もともとギリギリのところを「攻略する」グループだったわけである。だからジミンが原爆を扱ったというのも偶然や気の迷いとは言い切れないのである。

原爆は戦争という極端な現実の会社の正解が必ずしも一つではないということを示すよい材料を与えてくれる。日本では原爆というと被害の側面しか強調されないのだが、世界の認識は必ずしもそうではない。例えばアメリカにはもっとひどい認識がある。日本が続けていた戦争を科学技術で「一気に解決」し、戦後のアメリカ主導の国際秩序を作るのに役だった「クールな発明品」という認識がある。科学技術の結びつきから放射能マークや原爆のキノコ雲をかっこいいという人もいる。日本人が感情的に反応すると、とても戸惑いを覚えるようなので、彼らは悪びれずにそう思っているのではないかと思う。

しかし、我々はアメリカを見て反日とは言わない。アメリカは日本より強くて上という意識があるからだろう。だから、オバマ大統領が広島を訪れた時に、反核運動の人たちはこれを過剰にありがたがり、謝罪をしなかったことを無視しようとした。だが、下に見ている韓国人が同じようなことをすると「反日」ということになる。また、日本のファンもBTSは応援できても、原爆に肯定的な見方をする人がいるなどとは思わない。だからもともと韓国を面白く思わなかった人も、BTSを応援していた人も同様に戸惑うことになる。

世界に通用するバンドを応援するということは実はとても大変なことなのだということがわかる。相手がどうしてそのような認識を持っているのかを学び、なおかつそれが許容できないなら真摯に伝えて行かなければならない。もちろん、芸能と政治は分けて欲しいという人もいるだろうが、そもそもBTSはそのようなバンドではない。相手が自分の思っている通りではなかったから嫌いになるという人もいるだろうが、それはそれだけの愛情だったということだ。だからといって、嫌われるのがいやで全てを受け入れるというのもまた愛とは言えない。愛を歌うことの多いK-POPの歌詞にはよく다가와다/다가가다という言葉が出てくる。近づいてゆく/近づいてくるという意味の言葉だが、このしんどさとその裏側にある尊さが試されているとも言えるだろう。

日本人なら誰でも原爆の被害について広く伝えて行きたいと思うはずだ。だからこそ、相手が持っている原爆の認識について受け止め、同時に広島や長崎で何が起きたのかということを伝えなければならないということになる。やはり我々の国は原爆に傷つけられたのだし、その影響は長い間消えなかった。一方で、日本の決断の遅さがあの惨状を招いたのもまた確かである。軍部は失敗を認めるのを嫌がり、インパール作戦で多くの兵士を見殺しにし、沖縄を捨ててもなお間違いを正せなかった。だが、誰の言っていることが正義で誰がそうでないかという線を引くことはおそらく誰にもできない。それが戦争である。

あの犠牲者たちの写真を見せられてもなお「原爆が戦争という矛盾を一気にきれいに解決した」と言える人はそう多くないはずだ。だが、あの写真も実は真実の一面であって、未だに世界では原爆を解放者のシンボルとして捉える人が多いという側面もある。私たちは戦争を起こした当事者ではもないのに、それを丸ごと受け入れなければならない。戦争はとても不当な過去からの贈り物である。

BTSのジミンが情報を得た上で確信犯的に「原爆はかっこいい」と思っているのか、単に被害の写真について見たことがないだけなのかは実はよくわからない。相手が説得できるかはわからないが、事実としての広島や長崎の惨状について粘り強く語ってゆくしかない。過去は変えられないが未来は変えることができるかもしれないからである。もちろんそんな義務を背負う必要は誰にもないが、それが分かり合うということである。

もし、ジミンの態度が変わらなかったとしても、チケットを買ってコンサートに行くような人がチケットを買う自由はあるし、誰かがそれを責めるべきではない。さらにけしからんからテレビ局を囲んで潰してやろうという行動は「相手にわかって欲しい」いうファンの切実な願いを踏みにじることになるだろう。

一方で、態度が変わらなかったのなら、紅白歌合戦には出るべきではないかもしれない。紅白歌合戦はK-POPファンのみならずいろいろな人が見る番組であり「広島や長崎でどんなひどいことが起こったとしてもそれでも原爆を支持する」という人が受け入れらる余地はやはり少ないだろう。亡くなってしまった人の他に、生涯差別を受けた人もいるし、原爆二世というだけで複雑な思いを抱えてきた人たちもいる。こうした人たちも紅白歌合戦を見るだろう。NHKがそれでも彼らを出すのなら、多分問題を整理したうえで全てを受け止める責任がある。

この「知らせた上で相手に選択肢を委ねる」ということはとても大切だと思うのだが、日本ではこうした発想が起こりにくい。個人の主張や選択をあまり信じない日本人は「相手もまた変わらないだろう」と思いがちだ。だが、こうした諦めを持っている限り、原爆や戦争というものが時に取り返しのつかない被害を与えるのかということは伝わらない。

戦争のような劇的な行為が深刻な価値観の分裂を後世に残すのは当たり前のことであり、それを後の人たちが変えることはできない。戦争で助かった人がいることも確かなのだろうが、かといって亡くなった人も帰ってこないからである。

だから、戦争はいけないことだということを再認識するためにも相手の認識を受け入れた上で、自分たちの感覚や感情も率直に語ってゆかなけばならないのではないかと思う。ファンとは辛いものだと思うのだが、日本のファンは組織的で粘り強い。真摯な気持ちを表明した上で相手を説得するという作業をやってできないことはないと思うのだが、いかがだろうか。

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小川榮太郎と高橋源一郎

面白い文章を見つけた。高橋源一郎が新潮45を潰した「あの小川榮太郎氏」について論評しているのだが、それが無料で読めるのである。この論によると、小川榮太郎には文学を愛する青年という側面と安倍晋三を擁護する評論家としての二つの側面があるという。この二つは決して折り合わないだろうとも書いている。

ただ、ここに高橋本人を持ち込んで対比するとまた別の面白い絵が描ける。

小川榮太郎の文章を読むと文学という偉大なものに心酔しきっていることがわかる。文学といってもそれは古典文学である。クラッシック音楽も好きらしい。つまり「古くて偉大なもの」に依っている自分が好きなのである。そしてそれは文学界では受け入れられなかった。高橋の文章から引用する。

その候補作「川端康成の『古都』」について、選考委員の福田和也氏は「冒頭の(……)文章は、もちろん滑稽、諧謔として書かれているのだろうが、そうだとしても失笑をしか誘わない(……)批評文としても、完成度がきわめて低い」とし、同じ選考委員の町田康氏は「乙にすました文章が、なんでそんな言い方をするのか分からず」としている。小川さんは、書き直したようだが、おれの受ける印象も、15年前の選考委員諸氏のそれとあまり変わらない。

高橋ら文学界の人たちのなかにも非常にナイーブな文学好きという青年が住んでいて、それをあからさまに見せられると「気恥ずかしさを感じる」のではないかと思った。文学や評論の世界では受け入れられなかった小川だが、この後別の村から受け入れられる。それがネトウヨ村だった。

一方で、高橋源一郎の文章は短いながらも魅力的で軽妙な書き出しから始まる。これを読んで「これがお金になる文章なのだな」と思った。普段、ネットで新聞や雑誌の記事情報を読むことはあっても、文学界隈の人たちが書いた文章を読むことはない。そういえば以前文学者にとって文体と冒頭というのはとても重要なのだという話を読んだことがある。軽妙さが受けるのだろう。が、同時にどこか無理して明るくしているのではないかという違和感があった。普段、文学や評論などを読まないからだろう。最近最もよく知っている文学者は室井佑月なのだが、彼女をワイドショーで知っていて、たまに週刊誌の文章を立ち読みするくらいだ。あとは阿川佐和子だがこれもインタビューは読んだことがあっても小説は手に取ったことがない。

ここから、どの村にも匂いがあるが、そこに住んでいる人には気がつかないのだろうということがわかる。つまりどちらも村なのだ。

軽妙さというのは文章と距離がないと作れないように思う。高橋の文章には距離があるが、小川の文語による文章には「純文学とかクラッシック文学に浸っている俺ってかっこいいでしょう」という臭みがあり耽溺しきっている様子がわかる。これが「文学・評論界隈」では邪魔だったのだろう。普通の人にはわずかな臭みかもしれないが、同じ経験をした人たちにはかなり強烈な臭みとして感じられるのかもしれない。

結果から見ると既存の出版界では高橋は売れて小川は売れない。が、意外と似ているのかもしれない。それぞれの村の香りをまとっているのである。そして小川の文章は出版界の異端児的存在である別の出版社に受け入れられ結果的に売れてしまった。

小川にとって「何か大きなものに依る」という意味では、文学でも安倍でもどちらでもよかったのではないかと思われる。そう考えると小川Aと小川Bは完全に同一になる。だが、高橋の価値世界において、文学と安倍信仰は対極に位置する。重要なのは、街の本屋にはAとBの境がないということだ。だから最近本屋では楽して痩せられる本や手間がかからないおかず作りの本と並んで嫌韓本が山積みされている。

日本人にはイデオロギーはないと思っていたのだが、それは内心の価値体系から選び取ったイデオロギーがないというだけなのだとも思った。文学にしろ「保守」にしろ、みんなが選択している正解だという理由で選ばれているのだが、どちらも特定の環境によってたまたま作られた価値体系にすぎない。つまり、選択していないつもりでも選択をしているのであり、そこに属さない人が「対極」に見えるという共通点がある。

日本人の多くが無宗教といいつつ仏教や神道の影響を受けているのに似ている。自分が心地よく生きるために自己主張をすると我慢をしろと強要され、主張ではなく個人を攻撃することが許容される日本では、自己責任が生じる個人の選択を嫌う。かといって何も選択しないというわけではないのだ。

イデオロギーとこの村の違いは、イデオロギーがある程度個人が選択可能な論理的な構造を持つのに比べ、ムラオロジーには論理的な構造はなく経緯で決まり集団的であるという点だ。どちらが悪いとか下等であるいうことはないが、それぞれ欠点がある。イデオロギーは選択した時点でコミットメントが生まれ別の選択肢を排除したいという欲求が生まれる。ムラオロジーは村人の違いを吸収するが、一旦壊れると修復できない。つまり、環境が変化して他に魅力的な選択肢ができると過疎を起こすのがムラオロジーなのである。より一般的には暗黙知と言ったりする。構造としては町工場がメインの職人(実はメインとみなされていなかったかもしれない)の年満退職で崩壊するようなことが起こる。

高橋の文章の結論部を見ると、小川が分裂しているように見えているようだ。

「小川榮太郎・A」と「小川榮太郎・B」は、お互いのことをまるで知らないように存在している。同じ人間だと知ったら、内部から崩壊してしまうことに薄々気づいているからだろうか。その構造は、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「二重思考」にもよく似ている。あれは、強大な権力に隷従するとき必要な、自らの内面を誤魔化すための高度なシステムだったのだが。

高橋と小川は極端に異なっているとも言えるし、単に違うムラオロジーに受け入れられたというだけで大きな違いはないともいえる。それぞれのコミュニティは村を形成している。文学界には文学界ならではの「感覚」があり、ネトウヨ論壇にはネトウヨ論壇ならではの「感覚」があるのだろう。そしてそれらは同じTwitterで論じられ、同じ本屋で売られる。

このムラオロジーはジャーナリズムの世界にもある。最近消費税についてアプローチの違う文章をいくつか書いた。他罰的な文章は読まれやすいのだが、それよりもよく読まれている累計がある。これを勝手に「池上累計」と名前をつけた。もともと財政再建の材料だったものが福祉財源と説明されるようになった経緯を個人の意見をあまり入れずに書いた。マスコミはこの辺りの経緯を理解した人が書いており、経緯を知っている中高年読者が読んでいるので経緯をくどくどしく説明しない。だから背景を改めて説明すると多く読まれるのだと思う。これは「そこからですか?」といういわば池上彰的アプローチである。マスコミとその読者が村を形成しておりそれ以外の人たちが排除されているということなのだろう。これが、村人以外の人たちを遠ざけるのだ。新聞を読んで理解した位という人はどの年齢層にもいるのだろうが、入ってくることができないからである。

高橋の文章からは面白いヒントが得られるのも確かだ。立憲主義や人権の信奉者は、民主主義をどこか論理的に見ている。天賦人権のようにあるべき原則があり、それに従っていると経済的に優位な欧米とうまくやって行けるという実利もある。だが、安倍晋三や憲法第9条を文学として捉えると、かれらが「そうした価値観を嗜んでいる」という可能性が見えてくる。

例えばドストエフスキーを「非人道的だ」と攻撃しても無意味だ。彼らはその行間にある余韻を嗜んでいるのと同時に、世間的に認知された正解である古典文学でもあるからそれを好んでいるだけだからである。理論的に反論しても「わかっていない」ということになる上に、世間が正解だと言っているものが理解できない相手がバカなのだと考えることもできる。ゆえに理論的に反論したとしてもそれが彼らの心に響くことはないだろう。経験からきた正解は持っているが、明示的な知識に依存しているわけではないので、自分が変わることもないし相手を説得することもできない。日本で政治的な議論が二極化するのはこのためなのかもしれない。

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なぜ、プリンセス駅伝の選手は途中棄権しなければならなかったのか

福岡の宗像市で開催されるプリンセス駅伝のある選手の「頑張り」が議論を呼んでいる。岩谷産業の飯田怜選手が途中で四つん這いになりたすきをつないだのだ。後になってわかったのだが骨折していたのだという。これについて、チームのために貢献する姿は美しいと感動する人がいる一方で、これはやりすぎなのではないかとする声もある。この議論を見ていて、日本人は本質が理解できず周囲に流される傾向があると思った。実はこれは飯田選手だけの問題ではない。女子陸上界が抱える(そして実は関係者なら誰でも知っている)事情がある。

「本質」という言葉を曖昧に使うことに躊躇はある。この言葉を気軽に使う人が多いのは確かである。だが、今回は構成上とりあえずそのまま議論を進める。

スポーツの本質はそれほど難しくない。スポーツは健全な状態の人がその能力を精一杯生かして限界に挑戦する活動であり、またそれを応援する気持ちもスポーツの本質に含まれる。つまり、健全さと挑戦がスポーツの本質だ。

人間には健全な状態のもとで成長欲求を持つ。例えば、怪我をして下半身麻痺が残った人でも医学的に無理のない範囲ではあるが残された能力を磨くためにスポーツに没頭することができる。人が生きてゆく上で「意欲を持つ」ことが重要だからなのだろう。今の自分の限界に挑戦してみようという意欲がある限り、その人は健全と言えるだろう。

ところが、飯田選手にはこの健全さがなかった。怪我のせいで走れる状態になかったということもあるのだが、どうやらそればかりではなさそうである。結果的に骨折していたのだが、練習の時に痛めていたが選手から外れるのを恐れていたのか試合で折れたのか報道の時点でははっきりとしていない。では、これは飯田選手だけの問題かということになるのだが、どうやらそうではなさそうだ。実は、多くの選手が練習中などに骨折を経験するのだ。今回のケースはたまたま試合中に折れて走れなくなったのが目立っただけなのである。

女子の陸上選手の中には「体重が軽ければ軽い程よい」という信仰がある。以前、ある女子マラソンの元トップ選手が万引きで捕まったことがある。厳しい食事制限から摂食障害に陥る。食べては吐くという行為が止められなかった。最終的には目の前に食べ物がある状態になると理性を失うようになり、思わず「手にとって店を出てしまったのだろう」とも言われている。

日本では男性が女性を支配する文化がある。朝日新聞はこのように伝える。

鯉川准教授は、「目先の結果を優先し、『太ったら走れない』『女はすぐ太る』などとプレッシャーをかけて選手を管理する指導者があまりに多い」と指摘します。日本の女子長距離界では、「体重を減らせば速く走れる」という短絡的な指導がはびこっているといいます。

そこには健全な選手とコーチという関係はない。あるのは「短絡的な」脅しによる管理である。そこでは深刻な事態が起きている。約半数が疲労骨折を経験しているのだ。先に「多くの」と書いたのだが、実は約半数が疲労骨折を経験している。明らかに健康を損ねて走っているのである。

鯉川准教授が2015年、全日本大学女子駅伝に出場した選手314人に行った調査によると、体重制限をしたことがある選手は71%。指導者から「ご飯を食べるな」などと指導されたことのある選手も25%いました。月経が止まった経験のある選手は73%。栄養不足や無月経が原因で起きる疲労骨折も45%が経験していました。

実は今回の報道で「ああ、こんなのはよくあることだ」という反応が多かったのは半数が疲労骨折を経験しており、これくらいやらなければトップになれないと考えているからなのだろう。中には精神がボロボロになってしまい、摂食障害の末に万引きで捕まってしまうという例もでてきてしまうということになる。江川紹子は万引きした元トップマラソン選手について調べている。このルポを読めば女子陸上界が異常な状態にあり、これが改善されていないということがわかる。

その映像が、逮捕の決め手になったのだが、原さん本人は、格別カメラの存在を意識せず、店員の目も気にしていなかったようだ。

「摂食障害による万引きの典型ですね」――そう指摘するのは、日本摂食障害学会副理事長の鈴木眞理医師(政策大学院大学教授)だ。

元女性トップマラソン選手にいえるのは「個人としての自分」が完全に成熟しきっていないということである。この中で早く走るのがいいことなのだという他人の作った価値観が刷り込まれ、そのためには健康を害しても良いのだと考えてしまう。摂食障害を起こしてもそれを他人には言えず一人で抱え込んだ挙句に追い込まれてゆく。彼女を取り巻く社会の側に「健全な状態であってこそのスポーツなのだ」という価値体系がなかったことがわかる。が、これは女子マラソン界の問題というより、日本社会全体が共有する状態なのではないかと思える。例えば働く人のやりがいや意識よりも組織の成果のみが強調され、それが事故や隠蔽につながってゆくという組織はいくらでもある。

ここまでの情報を見せられば、誰も「あれは飯田選手の気持ちの問題だからそのまま走らせてやれ」などとは言えなくなるはずだ。だからテレビ局は表面上議論したことにしてことを済ませたかったわけである。なぜならばテレビ局にとって「個人がチームのために身を賭して頑張る」という「さわやかな」コンテンツは広告を売るのは、間にある広告枠を得ることだからだ。視聴者もまた広告を見ることでこの虐待に加担している。

つまり、実はこれは個人の問題ではない。飯田さん本人の状況や資質も問題ではないし、コーチが試合を止めたかったらしいということも実はそれほど重要ではないのだ。こうした不健全な状態を「スポーツ」として消費していること自体が問題なのだということである。だから、本人たちが納得しているからよいではないかという議論は成り立ちはするだろうが、それを受け入れるのは難しい。なぜならば表面上は健全さを強調し、裏にある不都合からは目を背けるということになってしまうからである。

仮にこれをスポーツと呼ぶとしたら、コロシアムにライオンと戦士を入れて戦わせるのも立派なスポーツと呼ぶべきだろうし、相撲部屋のイライラを解消するために弟弟子が試合にでられなくなるほど「かわいがったり」ときにはなぐり殺すのも教育・指導の一つということになるだろう。

しかし、女子陸上がこの問題に真摯に取り組むとは思えない。冷静な議論は期待できず炎上しかねないのだから、当然テレビ局は炎上防止に躍起になる。私たちは、今一度冷静になってスポーツの本質、つまりなぜ我々はスポーツに感動するのかということとそれが誰かの犠牲の上に成り立っても構わないのかを考えるべきである。

最後に「本質」について考えたい。日本人が本質を考えないのは、本質によって良いことと悪いことの境目が明確になってしまうからだろう。すると問題が起きた時に誰かが責任を取らなければならなくなる。これはある意味柔軟な弁護の余地を残した寛大な社会である。

ただし、この寛大さは最近おかしなことになっているように思えてならない。管理する側やルールを決める側にとっては都合が良いが、実際に価値を生み出す(例えば選手のような)人たちの犠牲が前提になることが増えた。やはりこれは社会の好ましいあり方とは言えないと思うのだが、皆さんはどのような感想をお持ちだろうか。

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消費税議論から見る、議事録を隠蔽してはいけない理由

今回は前回の議論を踏まえて、なぜ議事録の隠蔽や改竄をしてはいけないのかということを考える。これは間接的に安倍政権がこれ以上政権にい続けてはいけないということを意味するだろう。

前回、消費税議論がどう扱われてきたのかということを勉強した。もともと国債の穴埋めに使うつもりだった消費税の使用目的を「福祉のため」といいかえたのが源流になっている。このため今でも消費税議論は錯綜をつづけ、その度に政治的リソースが消尽される。さらに野党もこれに共犯者として加担しているので有効な対抗策が打ち出せないでいる。つまり、嘘は意思決定を麻痺させるのである。

「政府が身を切る改革をしてから増税する」という約束は度々裏切られてきた。このため無力感を感じた有権者は懲罰的・報復的に政権政党への投票を控えるという投票行動をとるようになった。これが今でも続いているので、自民党・公明党はあの手の手で有権者への懐柔策を模索する。そしてそれが裏目に出てますます議論が混乱するのである。

本来なら、財政再建に果たして今回の消費税増税が寄与するのかという議論を行わなければならないのだが、実際には外食の境目はどこかというテレビショーが面白おかしく取り上げられるだけになっている。ポイント還元に至っては、わざわざカードで買い物をして2%くらいポイントで返ってきても旨みがないとか、商品券は転売されて暇な人が税金を食い物にして儲けるだけになると冷笑される始末である。

今回はこの議論の「本当の」源流を探そうと試みたわけだが、途中までしか遡れなかった。財務省の記録によると、ある日突然政治の側から「消費税をあげましょう」という議論が始まったことになっていて、まるで他人事のように書かれている。

大平内閣(昭和 53 年-昭和 55 年)の「一般消費税」構想や、中曽根内閣(昭和 57 年-昭和 62 年)の「売上税」構想の挫折を経て、竹下内閣(昭和 62 年-平成元年)は、消費税の導入を政 権最大の課題とした。昭和 63 年 12 月、「消費税法」(昭和 63 年法律第 108号)が「税制改革 6 法」の 1 つとして成立し、平成元年 4 月に、税率を 3%とする消費税が導入された。消費税は、ほとんど全ての国内取引(商品とサービス)と外国貨物に課税される。消費に対して広く薄く負担を求めることで、所得課税中心の戦後税体系を見直す端緒が開かれた。 消費税の導入にあたっては、所得税、法人税等の大幅な減税が実施されたため、ネット では 2.6 兆円の減税となった。しかし、食料品などの生活必需品を含めて一律に課税され る点や低所得者層の負担が重い「逆進性」への反発は大きかった。 事業者の納税事務負担を軽減するための諸制度(帳簿方式、事業者免税点制度、簡易課税制 度、限界控除制度)は、新税の円滑な導入に役立った。しかし、零細・中小事業者への手厚い 措置は、消費税の一部が事業者の手元に残るとされる「益税」への批判を招いた。

しかし、政治が単独でこんなことを言い出すはずはない。多分源流は大蔵省にあり、大蔵省の意見を聞いてくれるような識者を集めて議論をしたはずである。だが、大蔵省・財務省はこのねじれ切ってしまった議論の矢面に立ちたくないので源流の議論を隠蔽している。実際には世代が変わっているので忘却されているはずだ。

百歩譲って、嘘を管理できるなら、政府が嘘をついてもも構わないとしよう。本来の民主主義ではあってはならないことだが、国民にも主権者意識はないのでこれも致し方がないことだ。しかし、大蔵省の議論は隠蔽されてしまっているために当初の意思がよくわからない。だから、そこから同変質してしまったのかということがわからないのだ。例えば、当初は何パーセントくらいを想定していたのかもわからないし、特定の財源として使うつもりだったのか、あるいはそういう意図はなかったのかもわからない。

意思はわからないものの当事者世代の人たちは多分嘘を含めたストーリーを共有していたはずである。もともと、大蔵省と政治家の間には交流があり彼らは一つの塊(つまり村だ)を作っていたからである。

ところが、細川政権とか自社さ政権など政権が変わると政治家の間ではストーリーが共有されなくなり、安倍首相の代(自民党が政権基盤を失いかけた時に政治家になっている)になるころにはこのストーリーが完全に失われてしまった。藤井裕久氏などはもともと大蔵官僚なので「ストーリーを知っている側」の政治家である。だから「まずは行政改革から」と言えるのだが、安倍首相は官僚経験も大臣経験もないので経緯がわからない。しかし、福祉が言い訳になっていることだけは知っているので、突然わけがわからないことを言い出すのである。

日本には公共という概念がなく、ある緊密な結びつきを持った集団がストーリーを共有することで村が周囲の村を従えるという仕組みを持っている。形態としては邪馬台国が周辺の「国」と称される村の代表になっているようなものだ。だからこの支配村が失われてしまうと統治に必要なストーリーも失われてしまうのだ。

すると、誰も何も決められなくなる。決められないのは自民党だけではない。立憲民主党も「とりあえず今は緊縮財政もできないし、消費税もあげられない」と言っている。しかし立憲民主党も財政の立て直し経路が提示できない。ということは彼らは支配政党になるまで消費税増税はできないが、政権を取ったら「時はきた」として消費税増税に踏み切り、また国民の怒りを買うことになるだろう。

なぜいくら必要でということを正直に話していればこんなことにはならなかったはずであり、その大元は大蔵省の限られた役人が「どうせ国民は理解してくれないだろう」と気軽な嘘をついたことが、その大元になっている。

ところが、今の安倍政権にはその反省はない。安倍首相は同じようなことを憲法でやろうとしている。石破茂との議論のなかで憲法は変えたいが自衛隊を軍にしたいと言っても国民の理解が得られるはずはないと呆れ顔で石破を諭していた。これは消費税は必要だがどうせ国民は理解してくれないだろうから福祉税と言い換えたいというのと同じメンタリティである。

これは民主主義の建前という意味では許しがたい暴挙なのではあるが、一万歩くらい譲って「嘘が管理できるならば許容しても良い」と一旦飲み込んでみよう。だが、この嘘が管理できるのは安倍政権当代限りである可能性が高い。では次はどうなるかというと3つの方向が考えられる。

第一に、自衛隊は何でもできる軍隊になるが、何か決めるたびに国民に懲罰的な感情が芽生えることになる。消費税議論は税率をあげるたびに大騒ぎになるが、これと同じような労力を日本の防衛も負担することになる。ご存知のように東アジア情勢はとても緊迫しており、米韓が分裂するかもしれないという可能性さえ見えている。これに乗じた核保有国の北朝鮮が韓国の攻撃に転じれば、韓国はレーダー網という目を持たないままで北朝鮮と軍事衝突することになりそうだ。この時に、消費税増税のような議論が怒っては困る。ゆえに国民には正直に話すべきである。

第二のシナリオは非自民政権が何も決められなくなるというものだ。内閣は自衛隊に戦争をするように指令が出せるような権限を持っているが、それを使ってしまうと政権から転落するということが分かった場合、その政権は何もしないのが最も合理的な選択になる。また過去に反対してきた経緯から賛成に転じられなくなる。これは消費税を上げないといっていたのに上げたというのと同じ効果を生むからだ。つまり、周辺で紛争が起きているのに日本は何もできないということになるのだ。

第三のシナリオはこうした意思決定ができないままで「翼賛的体制」に収束するというものである。国会は関与しないで自衛隊の報告のままに事後承認する。政治が関与すれば責任を問われかねないからだ。そこで自衛隊が動くが作戦が失敗する。それを隠蔽するためにもっと過激な行動にでると、第二次世界大戦型のシナリオができる。これも終局は破綻である。

つまり、記録を残さずに曖昧な意思決定をしてしまうことは却って日本国民を危険にさらしかねない。どれも実際に起こったシナリオなので、将来に全く起こらないとはいえない。

今回の憲法や消費税の議論はおそらく不毛な各論になることが予想される。それはそれでお付き合いして行かなければならないのだが、同時に俯瞰的に状況を見る目を養うべきだろう。我々は何も決めないことで将来に大きな負担を与えているのである。

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日本人はなぜ韓国崩壊論が好きなのか

Twitterで何かブログに使えるネタはないかなと考えていたところ「韓国崩壊論」が飛び込んできた。以前、ある経済学者徒渉する人がこのネタで一山当てた人がいたなと思ったが未だに人気のようだ。それにしてもなぜ日本人は韓国経済崩壊論が好きなのだろうかと思った。

論を読んでみたが、外貨準備高が少ないので経済基盤が脆弱であるという主張だった。確かに当たっているところはあるが、結局願望に接続されている。

外貨準備高が少ないことにはメリットもある。外資を当てにせざるをえないので新しいアイディアが入って来やすい。常に投資家にアピールする必要があるからだ。このため経営論が更新されるので、結果的にサービス産業に特化した経済構造ができやすい。いわゆるIMF危機で経済が動いた時に「なんとなしなければ」と思った人も多かったようだ。

一方日本経済は資産を蓄積してしまっており外から資金を調達する必要がない。すると経営者が変わらないので古い経営知識が温存されやすくなる。足元では労働力の崩壊が起きており非正規社員依存も強まっているのだが、経営者と正社員層は相変わらずであり、これがいろいろな問題の原因にもなっている。日本は「衰退してゆくなりになんとかなっている」ので構造が変化しない社会と言えるだろう。結局変化を先延ばしにしているだけなので、構造が変化を吸収できなくなった時、津波のように救い難い変化が押し寄せる可能性がある。理想的には小さな変化が常に起きている状態が一番良いのだが、韓国はかなりショッキングな経済挫折体験をしているのでその対応も進んだものと考えられる。現在も実は失業率が増えているので「安閑としていられない」という気分が継続しており、競争社会が維持されている。

いずれにせよ、こうした崩壊論は基本的には「相手が聞きたい歌」を歌って聞かせるのが目的なのだろう、こうした分析よりも「韓国経済はいずれ崩壊する」という歌の方が耳障りがよい。では人々はなぜお金を払ってでもこういう歌が聞きたいのか。

韓国経済が伸びると「日本が得るはずだった利益」が韓国に取られてしまう可能性があるばかりか、自分たちが不調であると感じられて「惨めになる」と思う人が多いのだろう。LGBTも同じで「あいつらの主張が受け入れられてしまえば、いつも我慢している自分たちが惨めだ」ということになる。成功している人を憎んだり、対話を要求する人を無視したりして相手が苦しむのを見るのが好きな大人が多いということになるだろう。

実際にこうした歌「だけ」が売れるという現状がある。ワイドショーを見ていても「悪いことをした人たちが、我々の社会の常識によって裁かれて落ちてゆく」という題材と、自分を捨てて勝負に邁進した人が勝利したのでこれからも自分を捨てて「日本のために戦ってくれるだろう」という題材だけが生き残っている。

彼らがこういたマインドセットを持つのは、個人競争前提の教育を受けて安定はしているがマネージメント枠が限られたサラリーマン生活を送ってきたからだろう。特にバブル崩壊以降は若い頃の格安労働の見返りが得られるポストが減ってしまいゼロサムですらなくなっている。平成は結局、相手を脱落させて新しい有資格者(正社員)が入ってこないようにしないと利得が守られないという時代だった。選ばれた人はいつまでもこうした利得にしがみつけるが、定年してしまうとやることがなくなり、政治や国際経済に新しい生きがいを見つけているのではないだろうか。つまり、こうしたマインドセットはDNAに刷り込まれているというようなものではなく、環境と教育によって形成されたものと考えられる。ただ、作る側のテレビ局にもこうした椅子取りゲーム的な正規・非正規の構造があり、受け手側の退職者たちも同じような世界を生きているので、共鳴しやすいのではないかと思われる。

こうした協力できない姿勢がよく表れているのが政党間協力である。自民党は税外収入(つまり政府の借金のこと)の使い道を自由に差配できるので派閥内での協力ができる。ところが、野党にはこうした求心力が働かないのでいつまでたっても協力体制が整わない。すると党内での発言力を巡って争いが起きる。とはいえ野党に政策立案の能力と意思はないので問題になるのは他者との距離である。自民党と協力して利権を分けてもらいたい人たちと、選挙に勝つためには共産党と共闘して戦った方が得だと考える人たちの間の議論になっているようだ。前者は「憲法改正議論に参加しよう」と言っており、後者は共産党と選挙協力をして安倍政権批判を強めようと言っている。日本人が相手との距離感にどれだけ敏感なのかがよくわかる。いずれにせよ有権者には関係のない話なのだから野党に支持が集まることはない。

こうしたマインドセットを作っているのは、弁護士出身の議員と官僚出身の議員たちである。彼らには共通点がある。官僚は決められた法律の中で動き回る人たちなので法律を制約と考える。さらに失敗すると浮びあがられない。加えて予算の額は限られていて自分たちで動かせない。彼らは日本教育の成功者なのだが、そのゴールは「変化せず総枠が決まった」ゼロサム社会なのだ。弁護士も「今ある法律を利用していかに有利に物事を運ぶか」という職業なので、環境を動かして物事を拡張させてゆくという発想はできない。だから、彼らは基本的に協力して環境そのものを変えるという発想ができないのだ。

つまり、野党は今まで成功してきた人たちだからこそ政権が取れない。言い方を変えれば「教育に洗脳されている」から協力できないのである。協力ができないから、妥協したり話し合ったりして政策がまとめられず、だから政権も取れない。

こうした洗脳を施したのは誰なのだろうか。例えばGHQあたりが怪しい。だが、この仮説は簡単に棄却できる。なぜならば、戦前の体制も似たようなものだったからだ。軍部は立憲君主制という枠を崩すことはできなかったが、自分たちは立憲君主制の枠外にいると主張することで制約から逃れ「大陸進出」という成果をあげた。しかし「失敗すると失脚する」という構造は変わらなかった。そこで失敗を認めず言葉の言い換えによってさらに暴走した。天皇を中心とした田布施システムも怪しいのだが、天皇が結果的に傍観者に置かれたところを見るとこれもあまり説得力がない。

日本人はもともと協力しないのだ。

「成果だけを組織に差し出し、失敗は自分たちでなんとかしろ」というマネジメントには複雑なテクニック必要ない。だからこれが広がりやすいのだろう。実際に軍隊の下士官レベルの「殴るマネージメント」は日本のスポーツ教育に取り入れられ「成果」を上げているようだ。だが、この成果は国内では通用しても、選手を動機付けてコーチと選手が二人三脚で協力しあう文化のある海外組には通用しない。テニスの場合でも錦織圭も大坂なおみも海外組である。個人的にモチベートされた人たちだけが世界レベルの活躍ができる世界が日本の外側には広がっている。

いずれにせよ、野党は協力できないし、自民党の議員もお互いに協力しない。だから、安倍首相は「下手に議員間・省庁間で協力などしなくても自分に従ってさえいればよいポジションを与えますよ」という子供騙しのメッセージで霞が関と永田町をハックできてしまったのである。やりたいことがある人たちが違いにのみ着目して協力しないことは、なにも達成するつもりがなく権力維持だけが自己目的の人たちにとってはとても都合がよい。

「教育に洗脳されている」というのは単なる物語なので、信頼してもらう必要はない。ただ、この物語の結論は「単なる思い込みを捨てれば協力する体制は作れる」ということである。日本人は言語呪われていたり、DNAに協力や対話ができない遺伝子があるから協力できないわけではないのだ。

安倍政権の嘘が好きなら今まで通りのマインドセットを変えてもらう必要はないのだが、そろそろ次のステージに進むべき段階に来ているのではないかと、個人的には思う。

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アメリカ人はどれくらい議論をするのか

Twitterを見ながら今日は何について書こうかなと思っていたところ、日本人と議論についてのつぶやきを見つけた。多分テイラー・スウィフトを見た感想だと思う。テイラー・スウィフトの表明でリベラル系の登録者が増えたとされているので、それを日本でも広めるべきだという意見がある。それをやっかんだ人が「日本の芸能人は政治的に意見を言わないといっているが、普通の日本人でも政治的な話はしないだろう」というような意味の書き込みをしていたというわけである。

確かによくある議論で、これを一般化して「日本人は議論をしない」という話をよく目にする。ではアメリカ人はよく政治的議論をするのだろうか。だとしたらアメリカ人は何のために議論をするのか。

アメリカの地上波は昼にソープオペラと呼ばれる主婦向けの番組を流し、夕方にはニュースをやる。その間を埋めている番組の一つにオプラウィンフリーショーという番組があった。1986年から2011年まで放送されていたそうである。Wikipediaではトークショーとして紹介されているのだが、このトークの内容が実は議論担っているものが多い。だが、やはりこれは討論番組ではない。

試しにYouTubeで「the oprah winfrey show discussion」と検索してみた。議論には本の作者が持論を展開するもの、政治家が批判に答えるもの、普通の人たちが自分の体験について語るものなどさまざまな形式のものがある。英語がわからなくても「喧嘩をしている」ように見えるものがあるはずだ。意見が別れる(英語ではcontroversialという)見解をよく扱うのが、オペラウィンフリーショーの特徴だった。

例えばこの議論では、ムスリムのアメリカ人が9.11のあとに自身の体験を語っている。この後、ブッシュ大統領はこの時の憎悪感情をナショナリズムに利用し中東への戦争へと傾いてゆくのだが、その前夜といえる。

彼らは訓練された人たちではない。途中でオプラ・ウィンフリーがムスリムの人たちに拍手されるところがあるが彼女は「普通の白人のアメリカ人」に「あなたの考えるアメリカって何なの?」と聞いているからだ。つまり、司会者は政治的に中立のポジションを取っていない。

この番組帯を見ているのは主に昼間に家庭にいる主婦か子供である。つまり「普通の人」が議論している番組を「普通の人」が見るのがアメリカなのだ。そして彼らはControversialだから見る価値があると感じている。それくらいアメリカ人は対話が好きであり、対話は議論になる。

対話が結果的に議論になるというのがアメリカの特徴なら、対話そのものが起こらないのが日本式である。このために日本では本音を語らせるために議論の体裁をとるという手法が考えられたが、それでも誰も本音を語ることはなかった。例えば田原総一郎の朝まで生テレビでは「訓練された」人たちが「議論をするために」集まってきて「議論が好きな人」が見るという番組になった。つまり議論はお金を貰うための道具であり、相手に理解を求めたり社会的な解決策を導き出すための手段ではないのだ。

また、議論をしていると自然と「リベラル対保守」のような枠組みが作られる。他人に鑑賞してもらう議論なのでキャラを作る必要があり、そのキャラと技術を品評するのが日本の議論と言えるだろう。朝生の議論はこの過程で曲芸化してゆく。ここからネトウヨ雑誌のスターがうまれ、これが政治的に取り入れられたのが「ご飯論法」である。それ自体が曲芸であり鑑賞の対象なのだが、そもそも国会はショーではない。

アメリカ人は対話のために議論をする。つまり彼らには解決したい問題がある。もう一つ重要なのは民主主義国家では一つの共存すべき空間があるということだ。これを「公共」と呼んでいる。日本に議論がないのは、共存すべき空間がないからである。お互いに村に住んでおり資源の奪い合いや譲り合いが起きているので、そもそも対話も議論も発達しない。

「みんなが好き勝手にいろいろ言い出したら収拾がつかなくなるのでは」と恐れる人たちも出てくるのではないかと思う。それは日本にはマネジメントスタイルが三つしかないからだ。

  • 「昔からそうなっている」:つまり、自分の前の担当者はそうやっており、自分もその真似をしてやっているということである。その前はどうなっていたのかはわからない。
  • 「みんなそう言っている」:居酒屋で愚痴交じりに文句を言ったら同僚の一人が同調してくれたので、多分みんなもそう思っているのだろう。
  • 「コミュニケーションを円滑にしろ」:専門分野の細かいことは俺にはわからないから、現場で適当に話し合って解決しろ。俺は成果だけがほしいのであって、お前らの保護者ではない。

だから、日本のマネジメントスタイルの根本は「みんなに我慢させること」である。マネージャーは自分が知っているやり方でしか組織が管理できない。だからそこから外れたことがあっても我慢して文句を言うなとしか言えないのだ。

しかし、議論は何も政治的なことばかりではない。日常生活の中にも議論はある。

昔みたフレンズのエピソードの中でスターバックスを念頭に置いたセリフがあったのを思い出した。スターバックスでは短い時間の間にカフェイン入りにするかそれともカフェインなしにするかとか、ミルクは普通のミルクにするかソイミルクにするかなど様々な選択を迫られるというのである。つまり、こうした選択にプレッシャーを感じている人もいるということになる。さらにその選択によってこの人はつまらない人だなど評価される可能性もある。デキャフを選んだ人はその理由を他人に説明しなければならないし、それも議論の対象になる可能性があるということだ。選択は価値観を意味し、それはその人の本質だと見なされる。表明されない意見には意味がないというのものアメリカ式だ。

このフッテージではロスがフィービーに「進化は確かな科学的真実である」と説得しようとしている。最終的にはロスがフィービーに説得されてしまうのだが「あなたの信念ってそんなものだったの?」とからかわれるというのがオチになっている。

https://www.youtube.com/watch?v=cXr2kF0zEgI

こちらでは、ファーストキスがどれくらい大切かについて男性と女性との間で意見の隔りがある。男性が女性に同意する必要はないが、それでは「彼女ができなくなる」と脅かされている。ここでいうコメディアンはコンサートの前座のことである。

フレンズには様々な議論が出てくるが大抵はくだらないものであり、理由付けも雑なものが多い。それでも、自分の言いたいことを言って、お互いに心地よい空間を作ってゆくのが友達であるという前提がある。だが、日本のマネジメントは友達の間であっても基本的には「我慢する」ことなので、誰かが自己主張を始めたらみんなで足を引っ張って潰してしまう。「話が崩れる」とか「しらける」というのがそれである。日本人は意見が違う人を見ただけで「自分は否定された」と感じてしまう。アメリカ人はお互いを理解し合うのが友達だが、日本人は君は間違っていないと相互承認して慰めあうのが友達である。

さらに、自分に関係がない空間がどうなっても構わないので、Twitterのような空間でだれかが自己主張をすると、ご飯論法などを交えながら「お前が言っていることは実にくだらない」といって潰そうとするのである。普段から我慢しているので、相手の意見だけが通ると「損をした」と感じてしまうからだろう。

このことから日本人は言語や脳の構造が非論理的だから議論ができないわけでなく、そもそも対話そのものが成立しにくいということがわかる。このような状態で不特定多数の好感度を前提とするテレビタレントが特定の政治的ポジションを取れないのは当たり前だ。タレントとは相手の好ましい思い込みが商品になっているので、それをつぶすようなことは言えないのである。

しかし「アメリカがこうだから未来永劫アメリカ人は対話や議論が得意」ということにはならない。

今回ご紹介したプレゼンテーションでは普通のアメリカ人が「それは本来のアメリカでない」として集団に沈黙させられてしまっている。この「普通のアメリカ人」を代弁したのが実はトランプ大統領だったのだろう。トランプ大統領は小学生のように腕をぶんぶんと振り回して「そんなのは全部デタラメだ」と主張して、これまで発言できなかった「普通のアメリカ人」を満足させた。

逆に日本では「普通の日本人は政治的な発言をしない」ということになっているが、これも大きな揺り戻しを経験する可能性がある。安倍政権化の数年間でわかりやすく政治が劣化しているからである。

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豊洲移転騒動の原因となった対話できない私たちの社会

豊洲が新市場に移転した。この報道を見ていて最初は「報道管制があるのでは」と思った。だが、しばらくワイドショーを見ていてそうではないということがわかった。これをTwitterでは「制作会社の内戦状態だ」と表現する人がいた。テレビ局がある視点を持って問題を追っているわけではなく、各制作班がバラバラに情報を追っているのである。

よく我々は「テレビが情報を統制している」とか「あの局は偏っている」などということがあるのだが、実は今のテレビ局は自分たちが何をして良いのかがわからなくなっているのではないだろうか。かつてはテレビ局の中に村があって、その村の意見がそのままテレビ局の意見になっていた。SNSがないので全国民がこの「村の意見」を一方的に聞くしかなかったので、結果的にテレビ局は国民の意見形成に影響を持つことができた。だが、この村がなくなることで、私たちの社会は共通認識を持つ能力を失った。あるいは最初からそんなものはなかったのかもしれない。

現在でも例えば「与党対野党」というようなはっきりした構図があるものは意見がまとまりやすい。永田町記者クラブという村の意見がそのまま全国の意見になるからだろう。しかし、築地・豊洲のような「新しい問題」には対処できない。築地・豊洲問題には核になるお話を作れる村がないからである。

実はこの問題は豊洲の混乱そのものともつながっている。豊洲は明らかに目的意識が異なる3種類の人たちがそれぞれの物語に固執しつつ「どうせわかってもらえない」という諦めを持ったままで仕事をしている。これは結果的には経営の失敗を生む。端的にいえば数年後に東京都民は「市場会計の赤字」という問題を抱えるはずだ。すでにこれを指摘している識者もおり、テレビ局の中にはこれを理解している人たちもいる。しかし、その認識が全体に広がることはなく、問題が具体化した時に「想定外」の新しい問題として白々しく伝えられるはずである。

今回は主にフジテレビとTBSを見た。まず朝のフジテレビは「今日は豊洲への市場移転だ」というお祭り感を演出しているような印象があった。若い藤井アナのたどたどしいレポートをベテランの三宅アナが盛り上げるという図式で演出していたのだが、手慣れた三宅アナが盛り上げようとするたびに虚しさだけが伝わってくる。

だがこの目論見はうまく行かなかった。まず渋滞があり、続いてターレが火を吹いたからだ。小池都知事もいつものように前に出てくる感じではなく「早く終わって欲しい」という感じが出ていた。彼女のおざなりな感じは短いスカートに現れているように思えた。気合を入れたい時には戦闘服と呼ばれる服装になるのだが、どうでもいい時にはどうでも良い格好をしてしまうのである。

この時点からTwitterではネガティブな情報が出ていた。まるで世界には二つの豊洲新市場があるような状態に陥っており、マスコミが「嘘をついている」という感じが蔓延していた。実際には「お祭り感を演出して無難に終わらせたい」東京都の意向を受けたテレビ局と現場の対立が二つの異なる世界を作っているように思えた。

午前中は、TBSも豊洲を推進する立場からの放送をしているように見えた。恵俊彰の番組では「2年の間すったもんだがあったが、全て解決した」という態度が貫かれており、早く終わらせて次に行きましょうというような感じになっていた。八代英輝という弁護士のやる気のないコメントがこの「事務処理感」を効果的に際立たせる。

いつも「俺が俺が」と前に出てくる恵俊彰は一生懸命に「豊洲に移転できてよかったですね」感を演出していたのだが、専門家や業者さんたちの様子は冷静だった。彼らは問題があることも知っているのだが、ことさら移転に反対という立場でもなさそうだ。恵俊彰が得意とする、下手な台本を根性で料理しようとする感じが床から0.5cmくらい浮いていた。彼らは時に「体制派なのでは」と誤解されることが多いのだが、実は何も考えていないんじゃないだろうかと思う。

様子が変わったのは午後のフジテレビだった。安藤優子らが問題のある豊洲について報じていたのである。朝の情報番組とは様子が全く変わっているので、テレビ局としての統一見解はないのだと思った。この番組は視聴率があまり芳しくないようなので取材に人が割けない。彼らはTwitterで拾ったような情報を紹介して「問題が起きている」というようなことを言っていた。TBSでは築地に人が残っていざこざが起きたことも紹介されていた。

面白いのは安藤優子が長年の勘で問題をかすっていたところだった。「除湿機がないならおけばいいじゃない」と言っていた。聞いた時にはバカバカしい戯言だと思ったのだが、実はこれが本質なのだ。週刊文春を読むとわかるのだが、実は安藤のアイディアは一度採用されていたが「通行の邪魔になる」として撤去されていた。そして文春はなぜそうなったのかについては分析していなかった。安藤の不幸はこの「ジャーナリストの勘」を深掘りしてくれる人がいないという点だろう。意識低い系ジャーナリストである大村正樹には興味がない。

この市場はコールドチェーンとユビキタスを売り物にした市場建築である。これも広く指摘されているが、簡単にいえば巨大な冷蔵庫である。冷蔵庫が冷蔵庫として成り立つためにはドアがいつも閉じられている必要がある。しかし、これまでのオープンな築地に慣れている人たちはこれを理解していない。このため冷蔵庫のドアは開きっぱなしになってしまう。そこで温度湿度管理がめちゃくちゃになるという具合である。ユビキタスに関しては理解さえされないだろう。コンピュータで在庫管理できてレシピも検索できる冷蔵庫が主婦に理解されないのと同じことである。つまり、そんなものは売れないのだ。売れないからユーザーのいうことを聞かずにとりあえず作って押し付けたのかもしれない。

多分、フジテレビは当初東京都のオフィシャルな人たちからしか情報を取っておらず、午後はこれにTwitter情報が加わったのだろう。これを全く分析することなしに単に紹介して「報道した」ような空気を作っているわけである。さらに安藤優子の番組と小倉智昭の番組には人的交流がないのではないだろうか。小倉の番組に出ている識者の中には経営問題を指摘している人もいるので、彼らが交流していればこの「冷蔵庫の失敗」に気がつけていたと思う。が、彼らにはもはや目の前で起きていることから学ぶという能力はない。能力が低いわけではないと思う。だがお互いに話をしないのだろう。

豊洲で温度湿度管理がうまくゆかず、道路渋滞で近づくことすらできなければ、他の市場から魚の買い付けをする人が増えるはずだ。実はこれも情報が錯綜している。自分が指摘したから通行が改善されて問題がなくなったのだと主張する記者や、噂が広がり豊洲離れが始まっているとする「一般業者」の声を伝える人たちもいる。

すでに週刊ダイヤモンドが指摘している通り豊洲市場は物流量がV時回復することを前提として経営計画が作られている。ところが実際には品質管理の問題と周辺の道路事情の問題などから「豊洲離れ」が起きかねない状況になっている。これを築地の売却益(もしくは運用益)だけで穴埋めし続けることはできないのだから、将来的には東京都は「これをどう穴埋めするか」という問題に直面する。しかしその時には担当者も(多分都知事も)変わってしまっているので誰も責任を取ることはないだろう。

テレビ報道の混乱だけを見ていると問題がよくわからないのだが、週刊誌情報を入れると実はそれほど難しい問題が起きているわけでもなさそうだ。多分、東京都は当初「コンピュータで物流管理された巨大な冷蔵庫」というコンセプトを持っていたのだろう。ただこれを「ユビキタス社会に適用したコールドチェーン」と格好をつけて言ってしまったために誰にも理解されなかった。さらにここに「巨大なバカの壁」である小池百合子都知事が登場したことでさらにややこしくなる。小池さんは自分でも理解できない専門用語をニコニコと語るのが大好きなのである。

しかし、築地の現場の人たちが「巨大な冷蔵庫」を欲しがっていたとは思えない。彼らが欲しかったのは「今まで通りに好き勝手に出来る柔軟なスペース」である。多分、壁や柱などは直して欲しいとは思っていたのだろうが、それ以上のことは望んでいなかっただろうし、ハイテク冷蔵庫はお金もかかるので小口の業者がついて行けなくなるだろうなという予測は立ったはずだ。

政治家はそもそも、これが冷蔵庫だろうがこれまで通りの市場だろうがそんなことはどうでもいい。彼らは「銀座の隣にある平屋の土地」が地上げできたら自分の懐にはいくら入ってくるだろうということを夜な夜な会議室や料亭で考えるのが好きなのである。なぜ彼らがそれに惹きつけられるのかはわからないが、多分それが好きだからなのではないだろうか。高級なお酒やお寿司の味が美味しく感じられるのだろうが、それが誰の手で作られているのかというところにまでは関心が及ばない。

テレビ局の関心は視聴率だけなので、何のために情報番組を作るのかという意欲や方向性は失われている。だからお互いには競争の意識は働いても協力の意欲はない。ところが、取材対象である東京都と市場関係者の間にも意思疎通がなくなっている。つまり、理由はわからないが、日本全体で同じような「協力し合わない」という問題が起きていることになる。

社会に共通認識がないゆえに築地・豊洲問題には正解がないのだが、市場離れだけは確実に進んで行く。だから、最終的に東京都民の目の前には巨額の請求書が突きつけられるはずである。

この問題は共通認識を持てなくなってしまった社会の混乱がそのままの形で「プレゼン」されていると考えるとわかりやすい。目の前に見える景色は単なるカオスである。このまま進めば同じことがオリンピックでも起こるはずであり、その混乱は国際社会を巻き込んださらに大きなものになるだろう。

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ネトウヨおじさんと日本の学校教育の欠陥

今日のお話はネトウヨと日本の学校教育の欠陥についてである。誰にでも(もちろん私にも)当てはまるところがあるので、自分ごととして読んでいただきたい。

ある人がTwitterで池上彰に噛み付いていた。池上彰が「国が借金をし続けたらお金が消えてなくなる」と言っているというのだ。添付してあるビデオを見てみたのだが、そんなことは言っていないのでそうリツイートした。するとツイートした本人からフォローされた上で「直接は言っていないが池上彰は確かに貯金が消えると言っている」と主張する。本人は続けて「こんなことはお金が消えてなくならない限り起こらない」と言うツイートを送ってきた。

この時点でこの人がわからない点がわかった。お金が消えてなくならなくても価値が失われるということが起こり得るのだが、その可能性に気がついていないようだ。国が個人から一千万円の借金があったとして、それが「一夜のうちに」千円分の価値しかなくなれば、実質的に国は借金が軽くなり、国民は財産を失う。これを一般的にハイパーインフレと呼んでいる。ハイパーインフレは課税の別形式(あるいは実質上の政府課税)と言われることがある。

池上彰はかつて日本で起きたハイパーインフレを念頭に置いているのだと思う。が、池上には失念していることがあるようだ。つまり、これを知らない人が脳内の常識で「勝手に」穴埋めしてしまう可能性を忘れているのだろう。何も知らないのがあたりまえの子供には起こらないが、大人は「予断を持つ」ことがあるのだ。

日本は第二次世界大戦の時に軍票を印刷して戦費を調達したので戦後になってハイパーインフレと財産課税が起きた。Wikipediaでは敗戦の混乱からハイパーインフレが起きたと説明しているが、Diamond Onlineにもうすこし分かりやすい説明があった。戦前から返せる見込みがない金融政策が行われており、戦後になって破綻が表面化したと説明している。ただし、これでも金融は安定しなかった。そこでアメリカから専門家が呼ばれて急激な財政緊縮を行われた。この緊縮財政をドッジラインと呼ぶ。この一連の出来事が安倍政権が2012年に政権を取った時に話題になったので、池上はこれを「当然のことであり興味がある人は理解した上で知っているだろう」として議事を進めているのだ。

だが知ってはいても内容を理解していない人もいるということになる。実際に安倍政権の側からは「日銀が面倒を見てくれれば消費税増税さえも必要がない」という主張が出ているし、自由党も「今は財政出動だ」と言っている。これは言い換えれば「政府がなんとかしてファイナンスしろ」と言っているのと同じである。この副作用に言及せずに支持できる人が多いところをみると、仕組みを理解しないで結論に飛びついてしまう大人が多いということがうかがえる。

Wikipediaによると1945年から1949年の間に物価が70倍に上がったそうである。1000円が14円の価値になったということになる。1000円でうまい棒が1.4本しか買えなくなったというとなんとなく感覚がわかるかもしれない。

池上彰に突っかかった人は「自分が理解できない点」を常識で補っていたことになる。だが、自分が何がわかっていないかということがわからないがゆえにどこを常識で補っているのかがわからないのである。ところが、相手を避難する時には「経済政策をわかりもしないでいい加減なことをいうものではない」と言っているので、自分は経済について知っているという自意識を持っていることもわかる。

なぜこのようなことが起こるのだろうかと考えた。しばらくして思いついたのが日本の学校教育の特徴だ。穴埋め式のテストが主なので日本人は知識を溜め込むことを「穴埋め」の概念で捉えがちなのではないだろうか。大人は知識量が豊富なのでいろいろな穴を埋めることができるのだが、中には単なる勘違いや予断なども多く含まれていて、正確な知識とそうでないものの区別がつかないのだろう。だが、穴埋め問題は穴さえ埋まってしまえば一応の答案が作れる。答え合わせの必要もないし、そもそも問題が間違っているかもしれないなどと疑う人はほとんどいない。「先生が間違った問題など出すはずはない」からである。

だが、こうしてできた知識体系が常識外の主張と出会うと摩擦を起こす。大人は心の中で過去に解いた穴埋め問題をたくさん知識として蓄えている。だから彼らが「お金が消えて無くなるはずはない」と考えるのはとても自然なことである。このチャンネル桜を視聴しているという方はこの「常識」を知っているからこそ池上に反論したということになる。

だが、よく考えてみると、普通の大人が金融政策に詳しい必要はない。実際に「戦後のハイパーインフレと預金封鎖の説明をしろ」と言われたら答えられないと思う。だが「仕組みがよくわからない」ということは自覚しているので、他人に説明する前に下調べをしたりする。その時に「なぜ、日本人は短い期間の間に財産を失ったのか」という疑問を持つことが大切である。つまり、知っていることではなく、知らないことに着目するアプローチもあるのだ。

だが、よく考えてみるとこれはかなり贅沢なスキルであると言える。日本人は大学まで穴埋めで過ごすので、小論文(つまり他人に何かを説明すること)を書くチャンスが少ない。人によっては小論文が卒論だけだったという人もいるのではないだろうか。そのあとの社会人経験でも経営陣や経営企画室が考えた筋に従って穴を埋めてゆく仕事が多いので、自分で何かを調べたり身につけたりするスキルを持たないままで大人になってしまう人の方が実は多いのではないかと思った。

だから、ネトウヨの人たちの決め付けたような言い方を聞いても「バカだなあ」とは思えない。そういう教育を受けているのだからそういう大人が量産されて当たり前なのだ。だが、その一方で価値観や世界観が急速に変化しており、この穴埋め式だけでやって行けないことも確かである。

一般的な常識では「借金は真面目に働いて返さなければならない」し「政府が国民からお金を取り上げるような酷いことをするはずはない」ので、池上さんに反発するのも当たり前である。今回の議論を通じて池上彰の番組は見ないほうが良いのではないかと思った。子供にわからないことを伝えることはできても、常識でガチガチに固まった大人に短い時間で「一見ありそうもない」ことを説明してしまっては却って誤解や反発が生じかねないからである。

今回もう一つ感じたのが社会的方言の大切さだった。タイムラインをみると多分同年代からそれより上の方のようである。「チャンネル桜を見ている」と書いているのでもしかしたら定年されているのかもしれないなと思った。そこで、普通の日本語ではなく「おじさん言葉」で返信することにした。「おじさん言葉」はかつてサラリーマンの間で使われていた共通言語だが今では社会方言化している。すると返事がなくなった。

もし仮に普通の日本語で書いていたら「この人は若いのだな」と認識されて罵倒されていたかもしれないと思った。つまり、我々の年代から上の人は女子供をみると居丈高になりかねないのである。「社会常識的に」女子供は補助労働者だという認識があるので「この人はバカにしてもよいのだろう」と思うのではないだろうか。店頭でおじさんが女性店員に上から目線で話しているのをみると実に嫌な気分になるが、これが一般的に浸透してるのもまた確かなことだ。

おじさん語というとわざとぞんざいに話すことだと考える人も多いと思うのだが、実際には相手の面子を立てるためにあらゆる手段を使う。今回も「知識がおありのようなのですでにご存知ですよね」と書いたので、それ以上突っ込まれることはなかった。これも「先生や年長者は文句なしに偉いのだ」という学校教育を引きずっているように思える。実際に走らないことが多くても、やはり知識がある大人としての体面は保ちたい。しかし、妥協したりへりくだったりするのもよくない。逆に侮られてしまうからである。「おじさん語」は実に面倒な社会方言だ。

さて、この穴埋め世界観の脱却ということを考えていて問題に直面した。穴埋め世界観から脱却して疑問を持つためには「人に説明をする」という機会を作ることが重要である。だが、人に説明をするために調べ物をするという機会を日常的に作るのはとても難しい。

多くの人が知っていることではなく、知らないことを自覚できるようになれば政策議論も進みより暮らしやすい世の中が作れるとは思うのだが、自主練はなかなか難しい。結局「学校でディベートや論文を書く時間を増やすべきだ」というありきたりな結論になってしまったが、学校を卒業した人が今から学びなおすのは不可能なので、できれば「エア説明」をしてわからない点に目を向ける訓練をしたほうが良いと思う。

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相撲協会の崩壊とガバナンス

昼間のワイドショーで面白い議論が展開されていた。「ガバナンスとは何か」という問題だった。面白いのは誰一人ガバナンスについて説明ができないのに、ガバナンスは必要だとして議論が進んでいたことである。誰も不思議に思っていないことが面白くもあり不思議でもあった。

ワイドショーでは今、貴乃花親方の引退が騒ぎになっている。だがその問題の本質は「言った言わない」である。当初は貴乃花親方優位だと思われたのだが、一部のスポーツ新聞が「貴乃花親方が勘違いしていた」という情報を流し始めた。スポーツ紙は今後も相撲協会から情報をもらう必要があり親方たちの意見に疑問を挟めない。そこで貴乃花親方の勘違いで相撲協会のいじめはなかったのだという情報を流しているのだろう。ジャーナリストの中にはこれを無邪気に信じて情報を流していた人もいた。

ここからわかったことは相撲協会の統治の仕組みはかなり前近代的であるということである。メールが発達した現代でも知り合い同士の口頭伝達が主な連絡手段なのだ。だがそれをおかしいという人はいない。なぜならば相撲協会に集まってくる人たちは彼らを利用して商売をしているからだ。みな「伝統社会なのでそんなものなのだ」という。

話の流れから、相撲協会は補助金の分配の管理を一門に任せることにしたということがわかってきた。一門に所属していない親方は「お金を何に使ったのか」がわからなくなるからダメなのだそうだ。だが、よく考えてみるとこれはおかしい。そもそも、暴力問題が起きたのは一門の内部で管理が行き届いておらず、これまでもお互いにかばい立てして暴力を隠蔽してきたからである。隠蔽ができているうちは良かったが外に漏れるようになり、騒ぎになったというのが事の発端だった。だが、相撲協会は身内の暴力問題も管理できない一門にお金の管理をさせようとしている。

一門にお金を管理させるという決定は口頭で「なんとなく」行われ、知り合いの親方たちに口頭で「なんとなく」伝えられた。その時に異論を挟んだり再検討を促した人たちはいなかったのだろう。結局、難しい問題に対応できないと人は知っているスキームに戻ってゆき、問題はなかったことにされる。

だが口頭連絡では誰が何を言ったかがよくわからず、その解釈も人それぞれである。理事会で口頭でなんとなく決まったことについて、それぞれが合意しないままでなんとなく理解したのであろう。だから理事会から出た人たちの解釈も最初から実はバラバラで、それが伝言ゲームを起こす中で「なんとなく」誤解されたのだ。これを、予備情報と思い込みがあって聞いていた貴乃花親方は諸般の事情もあり「ああ、これは自分がいじめて追い出されようとしたのだ」と感じ、「じゃあ俺はやめる」となった。それを突然聞いて慌てた田川の講演会の人たちは東京にやってきて涙ながらに「俺たちは何も知らされていない」と訴え、テレビは親方たちの「言った言わない」について一時間以上も話し合いを続けているということになる。全部がなんとなく行われており、それぞれが勝手に解釈した情報が飛び交っているというのが、村落的なガバナンスの欠点である。

このワイドショーの議論の中で、相撲ジャーナリストの人が面白いことを言った。相撲も一門を廃止しようという話が出たそうなのだがうまく行かなかったそうだ。ある程度票の取りまとめをしてくれる一門がないと「選挙がぐちゃぐちゃになる」というのである。そこから先はスルーされていた。誰もこれが重要だとは思わなかったのだろう。そして別の人が「そもそも誰がガバナンスなんて言い出したんですかね」と言った。「横文字で言われてもわからない」というのである。

もちろん相撲協会にはガバナンスはあった。それは一門というくくりの中で「なんとなく」行われていた。それがうまく行かなくなったので新しい統治方法が必要になっているのである。古い統治方法がうまく機能しなくなっている理由もなんとなくはわかっている。弟子の数が減っており外国人に頼らないとやってゆけなくなっているからである。相撲協会は引きこもるか、透明性の高いガバナンス方法を学ばなければならない。全てがなんとなくなのは、結局理事会で話し合ってこれを公式見解として一つに統一しないからである。

日本人は意思決定ができない。

相撲でガバナンスという言葉が出てくるようになったのは、例の暴力騒動以降のようだ。相撲は公益法人なので「ガバナンス」が求められるのだが、それができていないというわけである。では、ガバナンスとは一体何のことを意味しているのかと問われると、日本人にはうまく答えられない。にもかかわらずみんなで「やれガバナンスがなっていない」だの「日本にはガバナンスは向かない」だの言っているということになる。「公益法人にはガバナンスが必要だ」とみんななんとなく信じており、それぞれが勝手に解釈している。

実際の相撲協会は日頃から冠婚葬祭などで結びつき合っている地縁血縁的集団がないとどうやって理事長を決めていいのかすらわからない。地縁血縁の縛りがないと、ある人は貴乃花親方のように理想にこだわり続けるようになる。また、別の人たちは「票を入れてくれたら優遇してやる」とか「あの親方は普段から気に食わなかった」と言い出して選挙が荒れてしまうのであろう。

相撲協会が古いガバナンスに依存してしまうのはどうしてなのか。それはお金の流れに関係があるのではないかと思う。

「公益法人だからさぞかしたくさんの補助金を受け取っているのだろう」と考えて調べてみたのだが実際の補助金の額はそれほど大きくなさそうだ。つまり、透明性を持って扱わなければならないお金はそれほど多くない。一方、放送権料はかなりのもので一場所あたりの収益は5億円になる。これが年間6回も行われるので、NHKは30億円を相撲に支払っている。ちなみにこれは大河ドラマと同じくらいの予算規模なのだそうである。

大相撲は現在の仕組みを維持している限りにおいては黙っていても年間に30億円が入ってくる仕組みになっている。これを理事長が差配して山分けするということになれば取り合いになるのは必然である。一門という伝統の縛りをなくすと手近な親方を買収して多数派工作をしてあとは山分けということができてしまう。だからこそ一門のような固定的な仕組みを作って、これを相互監視によって防がなければならない。伝統はしがらみとして変えられないからだ。

ガバナンスは日本語で統治の仕組みと置き換えることができるのだが、英語由来の言葉なので英語経由で「後から検証可能な」というようなニュアンスが付帯している。一方、日本にも古くからの統治の仕組みがあるのだが「なんとなく緩やかにふわっと決まる」という日本流の仕組みが紐付いている。みんなが勝手に解釈できるので「自分が否定されている」という気分になりにくいのだろう。

ここにも過剰適応の問題がある。人は知らないものではなく知っているものに惹きつけられる。だが、その中で視野の外側にあるものが見えなくなってしまうことがあるのだ。

相撲は将来的に行き詰ることが見えている。スポーツファンたちはもっと透明性が高いところにゆく傾向があるからである。国際社会に接触しプロ化も進んでいるサッカーや野球には契約の概念があり努力が報われやすい。こちらのほうが実力どおりにの見返りが得られる仕組みが整っている。将来的にはメジャーリーグやヨーロッパサッカー界での活躍も可能である。

相撲は中学生で入門した後は相撲しかやらせてもらえないので幕内になる前に怪我などで廃業しても「全くつぶしがきかない」ことになる。今回の元々のきっかけになった日馬富士暴行事件では被害者に味覚障害が残った。相撲しか知らずつぶしがきかない上にちゃんこ屋も開業できない。暴力事件に向き合わなかったことで再び暴力が起こる素地は残されたままなので、今後、まともな親が相撲部屋に弟子を預けるはずはない。田川から来た泣いていた支持者の子供たちは貴乃花親方が去ったあとの大相撲を応援することはないだろう。「おじいちゃんたちが惨めな思いをした」のを目の前で見ているからだ。

また「モンゴル人閥」ができることで相撲協会のガバナンスは危機にさらされた。彼らはモンゴル人のままでは親方になれない。モンゴル人も日本の親方たちが見えないがそれは同時に日本人もモンゴル人社会が見えないということを意味している。だから日本人理事にはモンゴル人は管理できない。

これを緩やかに変えるためには徐々にお金の流れを変えてゆくべきなのだが、NHKの年額30億円は少し大きすぎる。これが貴重な財源であるということは確かなのだが、これがあるせいで将来の収入が閉ざされつつあるというとても皮肉である。スポーツ新聞を黙らせるには十分な金だが、相撲ファンを増やすには十分ではない。

実は同じようなことが日本の政治や社会でも起きているのではないかと思う。日本は債権国なので外国からお金を持ってくる必要がない。製造業が稼ぐ必要も農産物を売る必要もないのだ。すると外から新しい価値観を取り入れてでも海外にものを売ったり資本を調達しようという意欲は失われる。そこで、ガバナンスが必要なくなり「今入ってくるお金を好きな人だけで山分けにしようぜ」というような気分が生まれるのだろう。

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