このところ「日本人には内心がない」という話を書いている。後述するように内心という概念を入れると厚生労働省の不正の問題の議論は簡単に整理ができる。だが、みなが功利によって動いているので、国会運営は部外者から見ても見ても大混乱している。だが、日本には内心という言葉がないので、議論が混乱していることにすら気がつく人は多くない。
「内心」についてもうちょっといい用語がないかなとは思うのだが、思い当たらないので具体的なことを説明することにした。
小学校か中学校かの英語の授業で先生が怒っていた。英語のテストでRとLを混ぜて書いてきた人がいるのだという。何の単語かは忘れたがrabbitとlabbitみたいに書いた人がいるのだろう。最初は何を怒っているのかよくわからなかった。先生の説明するところによると、テストは自分の理解力を計測するものであってスコアを競うものではないのだから、自分が「信じているもの」を書くべきだというのだ。この先生は英語圏のシスターだった。
この「自分が何を信じている何かに基づいて行動する」というのは英語圏の人たちによくある指向性である。英語はこれをfaithと表現することが多い。だが、このfaithには日本語の適当な訳語がない。辞書には複数の訳語が載っている。ラテン語由来なのだそうだが「相手への信頼」と「自分への忠実さ」という意味を合わせて持った概念である。
6年+3年はこれが当たり前だと思っていたのだが、県立高校に入ってそうではないということに気がついた。日本の教育だとテストでは「より良い点数を取ること」が目的になる。だから「わからなければ保険をかけておいてRとL」を混ぜこむということは容認されるのではないかと思う。日本人は「個人の内心の忠実さや正直さ」はあまり重要視されず、したがって相手が「自分らしくあること」も許容しない。代わりに求められるのは「結果を出すこと」であり、それがチームの結果だとなお賞賛される。
ここに、いつも戦争反対を唱えており、授業で白土三平を勧めてきた現代社会がいた。しかし、彼の頭の中にもfaithはない。そこで「憲法では保証されている」とか「欧米の進んだ国ではそうなのだ」というように外の権威を持ってきて民主主義の正当性を説明することになる。今にして思えば「日教組的な」思考だと思うのだが、自己の選択を肯定するにおいても外側にある権威を持ってこないと語れないのが日本人なのだ。
しばらくはこれは特殊な経験なのだと思っていた。カトリックのミッションスクールと世間は違うはずだからである。が後になって、これが英語圏で一般的な思考なんだなと思うことがあった。
英語で受けたの倫理の授業で、doing things right と do the right thingの違いを話あった。経営の世界にはまず「物事をきちんとやる」というマネージメントの「doing thing right」があったが、やがてビジョンを持ったリーダーという概念が生まれる。マネジメントとリーダーシップの違いについては日本語でも解説記事が出ている。
英語だとこの二つについて議論が成り立つ。人によって理解は様々である。もちろん、どちらが正しいというわけではなく解釈も人それぞれのようだが、これは「何をすべきか」という内心がないと成り立たない議論だろう。マネジメントの文脈ではこの後「何をすべきかという倫理観がなければ組織運営は成り立たないが、それは暴走することがある」という話や「社会正義はときにコンフリクトする」という話が出てくる。このレベルになると、心理学や哲学の知識が必要になる。さらに、エンロン事件の反省から企業の社会責任(コンプライアンス)への理解が強化されて現在のような倫理学体系ができている。
ただ、日本にはこうした議論がない。そこでコンテクストを隠して質問をするとこのような「議論」になる。
3名の回答者のうちドラッカーを読んだことがあるがうろ覚えだった人は「英語の訳し方が間違っている」とコメントで批判してきた。ここから日本人のネトウヨがどのように誕生したのかが見えたように思えた。西洋にある民主主義の正解がわからない人がその恥ずかしさを隠しすために始めた議論がネトウヨ議論だと思うのだが「正解がわからない」というのは日本人にとっては絶対に隠しておかなければならない秘密なのだろう。そこで知っていて理解ができる「事実」を並べ立てて対抗するのである。
もう一人はちょっと深刻なのかなと思った。彼はキリスト教の牧師である。faithを信仰としてくくってしまってもなんら問題はないと思うのだが、日本人は個人の正義はわがままだと捉える。だからこの人はマイケル・サンデル(とNHK)という正解を持ち出して、正義感を整理する方法について語り始めた。日本人は個人の正義は社会という装置に通さないと「わがまま」担ってしまうと考えるのだろう。そして、必ずしもfaithという概念がキリスト教由来ではないことがわかる。これは多分極めて欧米的な考え方なのである。
「日本人に内心がない」といった時、それは空想上の麒麟や哲学上の難しい概念を扱っているわけではない。だが、個人の信条を単なるわがままと考える日本人にははこの内心を語ることはできない。日本人は集団なしには個人が成立しないと考える国なのだ。
例えば統計の議論は次のように整理できる。そもそも統計をきちんと取るという「doing things right」があった。そして統計の職員は個人の倫理観を頼りに「正しく」ことに当たるべきであった。そしてガバメントはその「正しくことをなす」人を応援すべきだ。ところが、規則に沿って正しく統計を取っていてもその規則が「正しく」設計されていないと全体としては機能しないし、結果は「正しく」解釈されるべきである。これはマネージャーではなくリーダーの仕事になる。これが「doing right things」になる。そして有権者は「自分たちの信条や心情」を反映した政治家を「できるだけ正確に」見極める必要がある。
この議論があってはじめて「ではその正しさ」は絶対に揺るぎのないものなのかという議論が生まれ、その先にマイケル・サンデルのような「正義には幾つかの組み立て方がありそれはコンフリクトすることもある」という議論が出てくる。だが、これはもともと「正しいことをなすべきだ」という最初の動機があって生まれる議論である。日本にはこの「個人の信条や心情」がないので、議論がそこから先に進めないのである。
この統計の問題から日本社会の劣化を語ることもできる。もともと戦前の日本の統計は恣意的でデタラメなものだった。経営でも統計の重要さを認識した人はいなかった。最近語られるようになった吉田茂がアメリカの指摘により統計を見直したという話(日経新聞)とデミング博士の指摘により統計に基づいた経営が行われるようになったという話はリンクしている。つまり、日本は「きちんと測る」ことを覚えたことで高度経済成長が可能になったのだ。
しかし、日本はこの後に入ってきた「ビジョナリー」という経営哲学を学ばなかった。1980年代・1990年代といえば日本の経営が世界からうらやましがられていた時代であり、多くの人が「もう欧米から学ぶことはない」と考えていたのである。だが、この慢心から劣化が始まり、個人の信条を基に正しいことをなすということができなくなり、やがて結果も出せなくなる。
すると、結果として戦後に体得した「正しい統計を出す」ということすらできなくなりつつある。つまり、doing right thingsができなくなった先にあったのはdoing things rightの喪失だったのだ。
この内心のなさは普段はそれほど問題にならない。すでに見てきたように、問題になるのは結果的に勝てなくなった時である。全ては結果によって正当化されるのだから、結果が正当化されないと行動がすべて正当化されなくなってしまう。正解がわからなくなるとどうしていいかわからなくなるので、なかったことにしたり、泣き叫んだりということが起こる。
そして、国会で起きている選挙をめぐる争いは「内心」のなさから泥沼化しつつある。