繰り返される劇場型政治

先日来「不毛な国会運営」について見ている。変化を嫌う有権者に支持された与党と院内活動家として嫌がらせに走らざるをえない野党が劇場型の不毛な争いを繰り返す中で、次第に問題解決はおろか現状把握すらできなくなってしまうという光景である。




この様子を観察していると、「ああ日本人には議論はできないのだなあ」という諦めに似た気持ちが芽生えてくる。さらに二大政党制の歴史について研究する本を読むと劇場型政治は政党政治とともに始まったことがわかる。今回は筒井清忠という人の昭和戦前期の政党政治―二大政党制はなぜ挫折したのか (ちくま新書)という本を読んでみた。そもそも日本人に議論をさせてはいけないのである。

先日見た小西洋之議員の「クイズ型国会質問」は劇場型政治の一つであると考えられる。これは国会が国民世論の調整機能を失ったということを意味している。もともと国会は「裏ネゴ」で意見調整をしており会議には本質的な意味はなかった。これが安倍晋三という日本の伝統を理解できない首相が政権をとってしまったために裏側での調整ができなくなり、表に出てきてしまったのである。劇場型政治というと小泉純一郎を思い出す。言い切りで世論を挑発し選挙に勝つという手法である。安倍政治はその劣化版である。選挙という限られた期間劇場が開催されるのではない。毎日の議会が大騒ぎなのだ。

ここで、劇場型政治はいつ始まったのだろうかという疑問が出てくる。小選挙区制度のもとで劇場型政治が始まったのならそれをやめればいい。だが、筒井は「普通選挙が始まる時期にはもう劇場型政治があった」としている。

大正デモクラシーの結果、庶民を政治に組み込むことが必要だと考えた政府は、普通選挙制度の実施を決めた。が、その直前に朴烈(パクヨル)事件が起きた。朝鮮人のパク・ヨルが天皇の暗殺を図ったとされる事件である。だがこの事件は意外な展開を見せる。獄中でパク・ヨルと内縁の妻が寄り添っている当時としては「たいへん不適切な写真」が流出した。政権を転覆しようとした反対派が騒ぎを大きくするために写真を流出させたとされているそうだ。週刊誌がなかった当時の新聞がこの問題をセンセーショナルに取り上げ、実際に政権は退陣直前まで追い詰められたのだが、大正天皇が崩御し「政治休戦」になった。

この事件が政治問題化したのは「普通選挙を実施しないと国民が納得しない」というほど大正デモクラシーが盛り上がっていたからだ。だが、政治に関与したことがない国民は政策論争には興味を示さず「破廉恥な写真のスキャンダルを政治家がどう処理するのか」という肌感覚で政治を見つめた。世論を味方につけようとした政治家たちは、天皇を殺そうとした不逞の輩が獄中で内縁の妻とふしだらな関係を持っていると騒ぎ立てたのである。今でも政治的な失敗で国会議員のクビが飛ぶことはないが、不倫などの女性問題はすぐに進退に直結する。日本の政治状況は今も昔もそれほど変わらないのである。

この後も、政党は一つにまとまって議論をすることはなく、自分たちの勢力争いのために地域をも巻き込んだ罵り合いを始めた。大分県では、公共事業、医者、旅館、消防警察とも二系統に分かれていたという。ヤクザも二系統ありついに殺人事件が起きるのだが、それを阻止したところ両陣営から感謝されたらしい。あまりにも対立が激化し両陣営とも「ヤクザを持て余していた」というのである。

知識人たちは政党を見限り、第三極になりそうな無産政党に希望を持つことになるのだが、それもやがては見限られてしまった。最終的には「結果を出す」人たちが支持されることになる。それが軍部なのだ。日本は戦争に勝った結果大陸に権益ができた。軍部はそれを守る必要があったが財政が苦しくなっていたことから議会は軍縮に傾く。世界でも日本の軍縮を求める声がありロンドン軍縮会議が行われていた。結果的に軍部は単独でことを起こし満州事変が起きた。

マスコミも文化人も軍部こそが問題を打開してくれるとして応援するようになる。当初朝日新聞は満州事変に懐疑的な見方をしていたのだが、朝日新聞の満州事変の取り扱いが気に入らないとして不買運動が起こり購読者が数万人単位で減っていった。代わりに大阪毎日が拡大するのを見て焦った朝日新聞は満州事変支持を会社の方針とする。山本武利の研究によると、朝日新聞の購読者は日清日露の両戦争で23%づつ増えそのあと減少していた。朝日新聞が満州事変支持に転じると27%も購読者が増えその後そのトレンドは続いたのだという。つまり、一般の人たちは議会ではなくもう一つの劇場を戦争に見出したのである。当初日本人は戦争を「自分とは関係のないところで行う派手なショー」だと思っていたことになる。それが間違いだと気がつくのはずっと後のことで、その時にはもう取り返しがつかないことになってしまっていた。

議会は対立に陥り地域をも巻き込んだ全面対決があった。ちょうどTwitterで人々が罵り合っているのに似ている。日本の対立構造は表面化すると抑えが効かなくなる。リーダーになる人がいないので「誰にも止められなくなってしまう」のである。だが、この騒ぎは最終的に収まった。犬養毅が軍人に暗殺され萎縮した政治家たちは軍人に内閣を仕切らせたからだ。こうして政党は軍部を追認する大政翼賛会を作る。つまり不毛な対立は誰にも止められず首相が命を落とすことで怖くなってやめてしまうのである。

大正デモクラシーという改革によって生まれた普通選挙制度下の二大政党政治は何の成果を出すこともなくすぐに萎縮した。そのあと揺り戻しとしての軍閥内閣から大政翼賛会への道が開かれた。対立に嫌気をさした人たちは「軍国政治」という正解を賞賛する道を選び、国民もこの劇場型の政治を支持したということになる。原敬の最初の政党内閣は1918年、成人男子普通選挙法の成立が1925年、五・一五事件が1932年である。原敬から数えると14年、普通選挙法下ではわずか7年だった。

このことからわかることはいくつかある。一つは日本人が「表で議論」を始めるとそれは決してまとまらないということである。そして「最も成果が出ている」ところに流れてゆくか、正解がわからないとして延々と議論が続くことになる。つまり現在のような不毛な劇場型の<政治議論>が続いているということは正解を見失っており、軍部のように一発逆転してくれる大正解がないということである。もともと日本人は観客として派手な劇場に関わることと正解を叫ぶことが大好きであり、正解のない地道な議論には耐えられないのだ。

今回の国会議論を聞いていても「足元の数字をきちんと確認してもう一度考え直そう」という議員たちがいないわけではない。だが、彼らの声は派手な劇場型を求める人たちと正解を賞賛したい人たちにかき消されてしまう。クイズ番組化した質問や答弁者への恫喝が蔓延する国会中継は「この劇場型」の表れなのだが、こうした退屈なショーに飽きた国民が「さあ議論しましょう」と言いだす可能性は低い。リーダーシップが働かなければ国民はさらに派手なショーを求め、さらにわかりやすい正解を賞賛することになるだろう。

安倍政権が「停滞する国内経済を活性化するために勝てるチーム(米軍中心の同盟)で中国をやっつけたい」と考えていることは明白である。これは多くの日本人が持っている「何か派手なことをして勝ちたい」という気分を象徴している。だが、実はこれに反対する平和主義なはずの人たちも「とにかく派手なショーを演出して勝ちたい」と考えている。個人ではおとなしい日本人は集団の対立構造を提示されると「とにかく勝ちたい」として戦いをエスカレートさせてしまう悪癖がある。日本人はみんなで正解を模索するという退屈な行為には耐えられないのだ。

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何もしない人たちとCOBOLの村

これまで「日本人の政治姿勢」を見てきた。今の所「採集できた」のは次のような類型である。




  • 何もできないことがわかっていて受動攻撃性に走る人
  • 正義が実行されないとして怒るが、受動攻撃者の餌になってしまう人
  • 受動攻撃はしないが怒っている人を見て楽しんでいる観衆

なかなか荒んだ光景ばかりが集まったが、これは問題ばかりを見ているからである。問題だけを見ていると、状況がまずくなる前になんとか手が打てなかったのかとも思うし、日本人が全て愚かなバカに見えてしまう。しかし、その前段階には「問題の芽」があるはずだ。そこで、今問題になりつつある現象を眺めてみたいと思った。それがCOBOLである。

厚生労働省の統計偽装問題で「COBOLプログラム性悪論」が出てきた。COBOLは一般的には古びたコンピュータ言語と見なされており、日本のITが世界にキャッチアップしていない象徴とされることも多い。国会で統計偽装の問題が取り上げられた時「RではなくCOBOLが使われている」と非難していた国会議員もいた。汎用機でバッチ処理を行う話をしているのに、なぜRなのだろう?とは思ったのだが、多分質問者はよくわからないまま又聞きしたことをあたかも自分が発見したかのように話しているのだろうと思った。これを立憲民主党なども問題視しておりコンピュタの仕組みを知らないフリージャーナリストが面白おかしく拡散する。週刊ダイヤモンドIWJなどで中途半端に取り上げられているのが見つかった。

そこで現場はどう思っているのだろうと思って聞いてみた。先日思い立って官公庁ではなぜCOBOLが使い続けられているのかを聞いてみたのである。これだけ世間に叩かれているのだから現場もさぞかし吹き上がっているのだろうと思ったのだが、それはとんでもない間違いだった。現場はいたって平和なのである。

Quoraには大勢のCOBOL関係者がおり彼らに質問を送った。だから、当然COBOL擁護の声ばかりが書き込まれることになった。面白かったのでぜひリンク先を読んでいただきたいのだが「十分に使えるものをなぜ入れ替えるんだ」という声が多いらしい。経営者はなぜちゃんと動いているのに新しいものにするのだと入れ替えに渋い顔をし、担当者も何かあったら責任は誰が取るんだと言われると下を向いてしまうということのようである。そもそも現在の設計思想ではうまく動いており、機能的にも十分に支えているという。平和な村の声を聞くと「あれ、世間はなぜCOBOLを悪者にするのだろう」と思えてくる。ただ、問題が出てくると今度は逆に「なぜ今まで放置していたのだ」と言われてしまい「俺はコンピュータに詳しいぞ」という人たちがいきり立つのだ。

ただ、この村の意見に一人だけ違ったことを言っている人がいた。当然バッチ処理の世界にも「新しい要件」はあり、これを現場の工夫で乗り切ってきていたという。しかしそれが局所依存になっており「新しい仕組みに乗り換えるのにどれだけお金がかかるかわからない」ことになっているらしい。つまり、経営者の無関心の他に、現場が良かれと思って工夫をしてきたことが足かせになっているのである。

こんなことになってしまう理由もわかる。COBOLは「中央集権的」に全てのデータを一つの所に集めてくる仕組みになっている。大量の単純なデータを一括処理するにはとても優れている。しかし、仕組みが大きすぎるので「ちょっとずつ入れ替え」ができない。一方今のコンピューティングは分散型といい「いろいろなことをいろいろなところで行う」ことになっているので、パーツごとの入れ替えが(容易とは言わないまでも)可能なのである。つまり、設計思想が全く違うのだ。

こうした中央集権的な仕組みのため「担当者がいなくなったら中で何が行われているのかが全くわからなくなった」ということになる。だが改めてこの中央集権から分散処理という流れを踏まえて回答を読み直すと、中にいる人は「マイグレーションができればCOBOL自体は問題がない」と言っており、この時代転換(よくパラダイムシフトなどという)に全くついてこれていないことがわかる。だから問題が捉えられない。

一方外から見ており問題点を指摘した人は「ハードの供給がなくなりつつありこれからどうなるのか見もの」と言っている。部外者だから問題が見えるが、この人にも対処はできない。インサイダーではないからだ。

このように「村」ができると中からは村の問題が見えず、外からは手が出しようがないという問題が生まれる。今実際に問題が起こっている。最近、新幹線の予約システムが止まった。日経系の伝えるところによるとMARSで時刻表を組み替えた際に不具合が起き、鉄道情報システムが不具合を起こしたらしい。どのようなプログラミング言語が使われてるかはわからないが、中央集権的なシステムなので、中央が不具合を起こすとJRが全てが止まってしまうのである。

日本人は基本的に「村を作り昔と同じことを繰り返す」のが好きだ。現場の声を聞くとわかるように「新しい仕組み」に乗り換えようというと様々なやらない理由が考案され改革は潰され、それを一人ひとりの善意と職人技で乗り切るということになっている。COBOLは長い間(1959年に作られたので今年で60周年だったそうだ)安定的に動いており地味な裏方として使われていたために更新が遅れたのだろう。そして、いよいよ持ちこたえられなくなると「村がなくなるか」というような騒ぎが起きてしまう。しかしそれをまた村人の職人技で乗り切ろうとするので「結局何も変わらなかった」となり、最後は座礁してしまうのである。受動攻撃性の原因はこの「諦め」だが、実はその前段階には「村の平和」があるということになる。

さて、今回はかなり絶望的な前駆状況をみたのだが、興味深い発見もあった。かつてと違い、現場の生の声がマスコミの情報なしでも手に入るようになったということである。今回の話は加工もしていないし知見はすべてたった4人から集めてきたものだが、問題の輪郭がかなりよくわかる。よくインターネットの情報はゴミばかりだという人がいるが、実はそれは全くの誤りなのだと思う。必要なものは全て手に入るのである。ただそれをまとめて解釈して社会改善に生かせる人がいないのである。

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ネットの巨大な嫌韓いじめ需要

Quoraで韓国や北朝鮮を見下す質問が次から次へと出てくる。こうした質問に答え続けていたのだが「ああ、これは合理的に説得しても無理だな」と思った。いじめの対処に似ているところがあるのだ。




一つ目の「こりゃダメだ」ポイントは「どっちもどっち」という書き方をすると否定的なところだけをつまみ食いして高評価をつけてきたり「仲間だ」というコメントをしてくるという人が多いというところだ。彼らはもう「嫌韓を正解だ」と思い込んでいる。「バカの壁」現象が起きているので公平な論評を書いてもあまり意味がないのである。

書き込んで来る人はある程度能動的な人たちなのでまだ説得ができるかもしれない。しかし実はこの裏に何倍もの受動的な人たちがいる。嫌韓的な回答に多くの「高評価」がつくという現象がある。回答者はそれほど多くないのに閲覧がたくさんいるということになる。彼らは「観客」として「見ましたよ」という印を残して行く。一つだけならまだ偶然だと片付けられるのだが、こうした回答を飽きずに眺めている人がいるということになり事態の深刻さがうかがえる。

彼らにとって問題の対処方法は実に簡単だ。「韓国と断交しろ」という意見が時折見られるし、憲法改正をして自衛隊を軍隊にしたら竹島を奪還できますか?という人もいる。国連憲章の話をするとスルーされてしまうので、あまり深いことは考えていないし、実際にはそんなことをするつもりはないのだろう。単に「一泡吹かせてやりたいなあ」と思っているだけなのだ。

もちろん、こうした嫌韓回答に嫌悪感を持つ人もいるのだがそれは無視される。観客はPCな人たちを無視したり嘲笑したりすることで「シャーデンフロイデ(メシウマ感覚)」を得ている。これは人権擁護論にも言えることだが、感情的になった時点で彼らの餌食なのである。

これを合理的に否定するのは難しい。声高に否定すると笑い者になり、それがまた攻撃者の餌になるという悪循環がある。これがいじめの対処に似ているのである。

観客たちは普段自分の意見を求められていないかあるいは意見が組み立てられないのだろう。現代社会は「コミュ力」がもてはやされる時代であり、口が上手いやつのおかげで自分たちは割を食っていると考えている人が多いのではないだろうか。だから「正解」に加担することで自らも正解が持つ権威を帯びようとする。ただ、こうした沈黙する多数派の静かな怒りは日本特有のものでもない気がする。トランプ大統領を支える「失われたという怒りを持っている人たち」も同じようなものではないかと思う。正解に加担する人たちは容易に扇動に乗ってしまう。多くの人がファシズムやポピュリズムを恐れているが、日本にもすでに素地が整いつつあるのだろう。複雑な状況や不確定な状態を人々は嫌悪し単純な正解にすがりたがる。

この複雑さへの熾火のような怒りは百田尚樹の日本国記でも見られた現象である。日本国記はテキストそのものが面白かったわけではないのではないだろう。だが、その本を読んで「討論」に参加し、リベラルと呼ばれる人たちが抵抗する様子を眺めるのは楽しかったはずだ。最近では副読本まで出ておりそれなりに盛り上がっているようだ。これは慢性的な病のようなものだが、彼らは気にしない。産経新聞はこうした熾火のような怒りに頼ってまともなジャーナリズムを放棄したので経済的にはますます苦しくなってきているようだ。落ち目だった新潮45は過激さに走りついに事実上の廃刊に追い込まれた。でも、また別の落ち目のメディアが見つかればお祭りはずっと続く。

先日来、野党から「このような安倍政権が続くのはありえない」という声が聞かれるのだが、実は安倍政権は二つの無関心層に支持されているのかもしれない。一つは「政治などに関与しても無駄」というポリティカルアパシーな人々だが、もう一つは「特にいろいろな勉強をしたいわけではないが帰属感を得たい」という「仮想万能感」を持った人たちである。無関心層はそもそも政治に関与しないのだろうが、仮想万能層は自民党に票を入れる(つまり高評価する)ことでお祭りに継続的に参加できてしまう。そしてこの無力感が官僚の受動攻撃性を加速させるという悪循環が生まれる。つまりジャーナリズムだけではなく政治もこうした慢性的な病に罹患していることになる。

この病の解決策は騒ぎからは一定の距離をとりつつ「できるだけ穏健な意見を広げてゆく」ことなのだろう。だが、これはかなり絶望的である。いわゆるリベラルと呼ばれる人たちは「このようなことは感覚的におかしい」とは思えても、それを組み立てることができない。感情的になったところでネトウヨに捕まり、彼らの餌にされてしまうのである。

だが、この状況を一歩引いてみてみると、やはり「感情的に疲弊すること」を控えることだけが、状況の悪化を食い止める唯一の道なのではないかと思う。

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セブンイレブンが行うべき遵法闘争

セブンイレブンが揺れている。フランチャイズ店のオーナーが団体で「24時間営業をやめさせて欲しい」と申し入れたのだが、本部側がこれを断ってきたというのだ。セブンイレブンのフランチャイズは団結して「受動攻撃」すべきではないかと思う。




受動攻撃という耳慣れない言葉を聞くと「それは何だ?」と思われる可能性があるのだが、実は日本人はこれまでも管理された組織的な受動攻撃を行ってきている。それがサボとか遵法闘争である。サボるという言葉の語源になったサボタージュは大正時代から行われているそうだ。また、遵法闘争は、戦後になっても公務員の間で行われていた。国鉄がマニュアルを律儀に守りダイヤを遅らせるという手法がとられた。

こうした受動攻撃の怒りを沈めるために、私たちの社会は終身雇用と家族的労使関係という「温情的」な労使関係を作ってきた。が、それも高度経済成長期が終わると簡単に忘れ去られてしまった。つまり、私たちは新しい時代を迎えているわけではなく過去の「本来の形」に戻りつつある。それは「村の外は全員敵」という社会である。

本来、こうした闘争は資本主義社会では必要がない。セブンイレブンフランチャイズオーナーは契約形態が気に入らないのなら別の系列と契約を結べばいいだけの話だからだ。それができないのは、新しいアイディアを手に入れられなくなった各コンビニ系列がフランチャイズを搾取する構造に依存せざるをえなくなっているからだろう。つまり、閉鎖的な経済空間ゆえに、トもできなければ自由主義的な市場経済メカニズムも働かないという不思議な「失敗した市場」が生まれているということになる。

コンビニエンスストアはマニュアル労働なのですべてのことはマニュアルに書かれている。これを杓子定規に守ることで営業成績を落とすことができる。すべてサボタージュしてしまうと売り上げにも響くのだから「本部が政策的にやっている」ものだけを止めてしまえばいい。例えば(どうせ売れ残る)恵方巻きを大量に仕入れるというようなことはやめても良いだろう。コンプライアンス流行りなので「食料廃棄は減らせ」というようなルールもあるはずなのでそれを守ればいい。

24時間営業にしても、お客と協力して「夜中は開店休業にします」と宣言してしまえばいい。形式的に開けておいて何もしなければいいのである。本部のいう通りにするためにはバイトをたくさん雇う必要があるのならそれもやめればいい。問題なのは、本部に言われたことを全部やってしまうことなのである。この辺り「決められたことはきちんと守り顔を立てたい」という高度経済成長期の美風がかえって仇になっている様子がわかる。だがこれは労働が長期的に報われていた時代の文化であり、残念ながら過去の遺物だ。

もちろん、こうした受働攻撃性には問題がある。社会のすべてが「ちょっとずつ」頑張れば社会は少しづつよくなる。が、社会のすべてが「ちょっとずつ」反抗すれば、社会は少しずつ悪くなってゆく。だが、社会は問題を認めようとしないし、その環境から逃げ出せもしないという環境では他にやりようがない。

Twitterを10分くらい巡回すれば、今の日本社会には選択肢が少なく受動攻撃性とその怒りで溢れている様子が観察できる。安倍首相も厚生労働省も虚偽を認めながら決して反省はしない。小池百合子東京都知事は築地は守るが市場は作らないと言っている。アイヌ民族は存在せずあれはアイヌ風文化だ主張したマンガを載せた雑誌が売られる。また、女性がセクハラ被害を訴えるのは気持ちに余裕がないからであり、子育てをママが一人でやるのは昔からやってきた当たり前だと言われる。村に守られなくなった日本は慢性的な受動攻撃社会になり、その怒りが新しい炎上を生む。

いったん受働攻撃性が溢れ出すと怒り出すことはとても虚しくなる。この怒りそのものが「受働攻撃者の餌」になってしまうからである。他人が怒っているのをみて「気分がスッとした」経験をしたことがある人は意外と多いのではないか。「あなたは私が問題を指摘した時にはいうことを聞いてくれなかった」だから「今回は私たちの番なのだ」ということであり、これは報復合戦である。こうして管理されない受動攻撃性は社会を徐々に蝕みSNSに乗って拡散する。

今回ほのめかした「受働攻撃性」は行き場のなくなった怒りが自覚のないまま漏れ出てくるという悪性の報復合戦になり得る。例えば今流行っている「バイトテロ」は仲間内だけに見せる反抗が悪意の第三者によって拡散したものなので、これは悪性の受働攻撃性と言えるだろう。自分たちのワンクリックで社会が混乱する様子が面白い人たちが大勢いるのだ。

これを防ぐためにはもう「合理的なサボタージュ」くらいしか道が残っていないのである。選択肢のない閉鎖された社会で我々に残された選択肢は管理された受動攻撃性と管理されない受動攻撃性の二つしかないのかもしれない。

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正解社会について考える – 「パワハラだと思われたらパワハラ」というのは間違い

最近よく、セクハラだと思われたらセクハラだしパワハラだと思われたらパワハラだということが言われる。これは間違いだと思う。今回はこれについて考える。




今回の問題を考える前に、まず正義と正解を分けておきたい。これはこの文章の中の変数のようなもので必ずしも「こうでなければならない」ではない。正義は自分の気持ちから出てきた気持ちだが正解は必ずしもそうではないというのが今回の定義である。何がどうできたかということはわからなくても「とりあえずそう言っておけば間違いがない」のが正解なのだ。日本人は正解の中に居ることに居心地の良さを感じ、人にもそれを伝えたがる。

しかし正解には難点がある。正解は社会の中にあるので自分で書き換えができないのだ。このため正解でない人(男女しか結婚ができない社会での同性愛者など)や正解から抜け出せない人(いつまでたってもお辞儀ハンコを好ましいと思う人)などが出てくる。正解はいつかは形骸化し堅苦しく不機嫌な社会を作る。

日本の正解文化は根強い。例えば、過去に「内心」という言葉を使ったときに、これを内的規範と指摘した人がいた。これは内心(自分のキモチ)に「規範」という正解と正解でないという概念がつけ加わったものだ。内心は必ずしも正解や規範である必要はない。自分が他の他人とどう違っているかということを理解するのは重要だが、それを他人に承認してもらう必要はないからだ。だが、日本人はやはり社会や規範からなかなか抜け出せない。日本人は個人が個人であるというだけでは不十分な社会のだろう。


職場のハラスメントはコミュニケーション不全だ。正常な状態であれば不愉快な思いをした人は「それは嫌だ」と言える。中には職場を変える人もいるだろう。最初から不愉快な状態を我慢しながら働いているか日頃のちょっとした不愉快を言い出せなくなっているというのがそもそも問題なのである。問題は関係性と環境にあるので、問題が起きた時に「何を言ったか言われたか」を考察してもそこに答えはない。

子供の発達期に「イヤイヤ期」というものがあるそうだ。この時に「お母さんなんか嫌いだ」と言われるとショックを受ける母親がいるという。実は「自分の気持ちが整理できず、それを一番信頼している母親にぶつけている」という説明があるのだという。つまり、子供の状態には「私」がないので「そのイライラの原因が」私から来ているのか母親からきているのかがわからない。その状態で母親に何かを言われると、イライラが母親に向いてしまうという説明である。

つまり、人間は原初の状態では「私とあなた」という区分けを持っておらずそれをいずれかの状態で学ぶ必要があるということになるだろう。だが、これを学べないことで、大人になっても自分の不調を他人にぶつける人がいる。ハラスメントには「逃げ出せない」という部下側の気持ちと、問題の根っこがどこから来ているのかわからないという上司のとまどいがある。

つまり、組織が何らかの問題を抱えていて中間管理職にストレスがかかると、それを部下にぶつけてしまうのだろう。つまり、考えるべきなのは中間管理職と組織の問題ということになるのだが、それが部下の管理の問題に矮小化されかねない現状がある。さらに部下の側が「逃げるか殺してしまうか」という心理状態になってしまうともう問題の収拾は不可能だ。

言いたいことが言えないというのはかなりのストレスだ。言ってしまうと左遷されてしまうのではないかとか、下手をしたらやめさせられるのではないかとなると、部下は思っていることが言えない。そこでICレコーダーを持って証拠を残そうというところまで思いつめられたとなると、もはやICレコーダーに録音されている言葉には大した意味はない。持ち出した時点で「奴がいなくなるか俺(私)が潰れるかだ」ということになっている。協力関係は崩壊し組織としては「積んでいる」のである。

成果を上げたと上司は正解を知っている人だ。だからその通りに振る舞うことで周りから褒めてもらえたのである。だが、人を使って仕事をするようになると誰かを説得したり協力してもらう必要が出てくる。これは別の教科の問題集を買ってきて解き始めるようなものである。ここで正解がわからないと、自分の中にあった弱い部分が出てきてしまい、それが実行できてしまう。仕事の成果は壊せないので「外面上は極めて優秀で人当たりのいい」人が部下を執拗にいじめることになる。こうしたいじめにも体裁さえあれば、それは不正解にならないのだ。

だから、たいていのパワハラセクハラには「言い訳としての大義」が出てくる。曰く「指導であって愛のつもりだった」とか「女性にもその気があると思った」などというのである。内心に訴えれば正義は動かせるかもしれないが、正解は社会が持っている規範なので本人を説得してこれを変えることができない。だから、そもそもパワハラを行う人が自ら「これはパワハラである」という判断基準を持つことは、本質的にないしできないのである。彼らが内心や内的判断基準を持っていないのでもうそれは動かせないのだ。

もちろん解決策はある。例えば「硬直化した正解」でなく「様々なケースのソリューション」を教えることで、問題解決の手段を増やすことはできるだろう。だがその場合にも「自分がそうされたらどう思うか考えてみましょう」と説明する必要がある。がそもそも「自分がどう思うか」など考えたことがない人にはそれはわからない。これまで数十年も「正解」に従うことで成功してきた人にとってそれは世界の終わりでしかない。

これについて概念的に説明するのは難しい。そんな人などいるのかと思ってしまう。そこで、誰か具体的な例はないかなと考えたところぴったりな例が見つかった。それが安倍首相だ。

安倍首相は官僚や親から正解を教え込まれて政治家になった人である。単にその正解を暗記するか読むだけで良いのである。岸家の正解を母親に吹き込まれ、就職して一瞬内心を持ちかけるがこれは父親によって潰される。議員になったら上司に「北朝鮮問題に功績があった」として選挙の顔に利用される。一貫して「正解を生きてゆく」ことを余儀なくされてしまったというかわいそうな側面がある。今では部下である幹事長と政調会長に内政を握られているので、やれることは憲法改正と外交しかないのだが、どちらも失敗している。この人に自分の言葉で話しなさいと言ってももう手遅れだろう。

なので安倍首相は対話という「いきいきした活動」ができない。対話モードになると彼は不機嫌になり言葉が早くなる。どうしていいかわからないとき人はああなるのだ。その意味では現代日本の正解社会を象徴するような人なのである。人間の新しい未来を作れるのは人間だけであり、その芽はそれぞれの心の中にしかないのだから、安倍首相は本質的に国家の破壊はできても改革はできない。

ハラスメントにも同じことが言える。ハラスメントが発生したらもうそれは「家庭や組織の失敗」なので、当事者どちらかを取り除くしかないということになる。正解しかない社会は未来を作り出すことができないばかりか、目の前にある不満さえ取り除くことができないのである。

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改めて考える – 統計が読めない・作れないというのはどういうことなのか

今回は統計について考える。統計が信頼できずまともな統計が取れないとはどういうことなのかという問題だ。が、統計の話は最後に少しだけ出てくるだけである。




もちろん政府が統計を誤魔化すこと自体が悪いことなので、統計問題の是非など考えなくてもいい話ではあると思うのだが、一通り考えを巡らせたほうが立体的な像が描けるかもしれないと思った。

前回、人は答えがないとムキになるという様子を観察した。これを政治議論に当てはめたい。TwitterやQuoraの政治議論を見ていて不思議に思うことがある。普段の我々の暮らしでは政治について議論になることはない。それはなぜだと聞くといろいろな答えが返ってくる。しかしいまひとつ納得できるものがない。よくよく考えてみると生活実感のある政治ネタは少なく、憲法や外交といった大きな問題を語りたがる人が多い。そしてそれはなぜなのだと聞いてみても誰も答えを持っていない。

まず生活実感について聞いてみたのだが「景気がよい」と言っている人は一人もいなかった。かといって安倍政権が悪いと考えている人は実はそれほど多くない。大きな政治課題(外交や安全政策)についての議論は比較的好調なのだが、暮らしに結びついた政治になると途端に答えが減る。

ところが大きな問題についてもその基礎知識は実は極めて曖昧だ。イデオロギーの基礎概念の知識も不確かで、統計についての知識もほとんどない。実はかなり目をふさがれた状態で議論をしている人が多い。ところがなぜかみんな「正解」は知っているのである。

非常に奇妙な状態で、これをすんなり説明できる理屈がない。最初は「自分たちが動いたところで生活が変わるはずはない」という諦めがあるのではないかという可能性を探ってみた。だが、どうもそれだけではなさそうである。

しばらく考えていて別の要因を思いついた。それが正解へのこだわりである。Quoraの質問で怒られることがある。「背景情報」がわからないと言われることがあるのだ。最初はなぜこれが怒られるかはわからなかった。フレームがないなら仮置きして答えればいいからである。いろいろ話を聞いたりして「その場の正解」を言いたい人にとっては、この答えを書いても「正解にならないこと」がとてつもなく不愉快なのではないかと思った。さらに正解を暗記しているだけでは問題の穴埋めもできない。

文脈がわからないと正解を言えないので怒り出す人が多い一方で、揺れがある状態でフレームを勝手に決めて「楽しみましょう」という人はあまりいない。そこで、MBTIテストを思い出して「あなたは何のために議論をするのか」を聞いてみた。自分でもやってみたところ「議論を楽しみ場合によってはdevil’s advocateにもなる」という類型だった。いろいろ探してみて、MBTIだとだいたい三つくらいの類型があることになりそうだと思った。枠を作って回答を絞るとフレームが明確になるので答えが付きやすくなる。

  • 議論そのものを楽しみたいタイプ
  • 理解し合うために交流したいタイプ
  • 問題解決のために交流したいタイプ

聞いてみたところ、議論そのものを楽しめるし場合によっては悪魔の使徒にもなれる人もいた。逆に議論に嫌悪感を持ち問題が解決しないなら議論は意味がないという人もいた。そして少数ながら共感型の人もいた。だが、このほかに「正解を出してみんなをあっと言わせたい」人も多いのかもしれないと思った。これはユングの類型にもMBTIにもない類型だし、正解を言いたいと自己申告する人はおそらくいないだろう。

だが、日本人には意外とこういう人が多そうだ。例えば、MIDI規格についての知識とか専門の数学分野での知識とか調味料の違いについての知識などは時々専門家が出てきて詳しい正解を解説してくれる。つまり、ドメイン(専門領域)が明確であればあるほどやることがはっきりしてくるので基礎知識と経験に基づいた正解が出しやすくなり、フレームがはっきりせず正解がないと不安になってしまうのである。日本人はこうした職人型と職人の調整型は多いのだが、モデレータータイプはあまり活躍が出来ないのではないかと思う。

この正解を知っていて正解を代表していると思っている人が得られる心理的満足感はスパゲティ論争を見ていてもよくわかる。かつてはスプーンを使ってスパゲティを食べるのが日本の正解であり、今ではスプーンを使うのは不正解だ。そして正解を知っている人はどうしても自分が正解を知っているということを認めさせたいのである。が、冷静に考えてみるとどうしてすべての日本人がイタリア人に成り代わってパスタ・ポリスにならなければならないのかはよくわからない。それでも日本人は正解を語りたがる。

MIDI規格について書いている人が面白いことを言っていた。今のMIDI規格はシンプルで柔軟性があるそうで、それが残って欲しいと言っている。ところが現在MIDI2.0の規格化が進行していてこれが過去のものになりそうなのである。つまり、ドメインでの正解にこだわるとそこから抜け出せなくなってしまう可能性もあるということである。ドメインが人工的な村落になってしまうのだ。

正解のある製造業でも正解にこだわりすぎると時代について行けなくなる。ましてや政治経済のように正解を導く式から考えなければならなくなると、人々はとてつもない不安に襲われてしまうのである。現在の政治議論は相手の人格攻撃や業績の否定ばかりなのだが、これは実は正解がわからなくなりパニックを起こしているからなのかもしれない。一方「国家イベント→コンクリート工事」のようなものが得れれるととたんに雄弁になる。この正解を持っていて「かっこよく見える」代表格が宗教的正解に支えられた公明党の質問者たちだろう。

では、みんなで新しい正解をつくるために新しい式を作りましょうとなったところで、「今どうなっているのか」ということがわからなければ議論を始めることすらできない。そこでやっと出てくるのが調査と統計だ。調査と統計がないがしろになっているのは、実は正解にこだわり続けることによる安心感があるからもう現実は見なくてもいいですよということなのだろう。

生活実感のあるところで政治課題が語れないのは人々が自分たちの暮らしの中では正解が探せなくなっているということを意味しているのではなかと思う。そうなるとあとは他人を非難して毎日をやり過ごすしかない。そこで、人々は安心して語れる外交や安全保障といった政治議論に逃げ込んでお互いを攻撃し始める。この辺りだと括りが大きすぎるので他人の答えをコピペしただけで済んでしまう。これが現在の政治議論の正体だ。

実は、政治家も統計が読めないがゆえに経済政策が作れない。朝生で田原総一郎さんが「野党には経済対策がないから国民が自民党で我慢しているんだ!」といって怒っていたが、野党の人たちにも自前で統計を取ったり経済政策を組み立てられる基礎知識がないのではないかと思う。自民党は政府の言っていることを聞いていれば議員としてやって行けるのだが、野党は経済政策のフレームから作って行かなければならない。だから野党にこそ調査統計の基礎知識が必要なのであり、今すぐ政府攻撃をやめて自分たちで信頼できる統計を作るべきである。マスコミが野党統計を信頼するようになれば政府の統計は規模が大きくても紙くずになってしまうだろう。

多分、この国で政治経済の議論ができるだけの基礎学力がないというのは我々が思っている以上に深刻な問題を引き起こしていると思う。実は問題を解決するのは簡単である。政府の統計にはもう信頼はないのだから、単に信頼できるサンプル調査を自分たちで作ればいいのだ。

答えがわからないと人々は混乱して感情的な議論を始める

Quoraで面白い体験をした。女性がパスタをスプーンで食べるのはなぜかという問題にいい加減な回答をしたところ怒られたのである。答えは意外に簡単だったのだが、これがわからないままで適当に書いたのでちょっと面倒なことになった。




最初は「情報が曖昧なのにこれが正解だとか違っているなどと騒がないほうがいいのでは?」と書き、それなりに高評価がついた。つまりどう食べようが自由だと書いき、それが支持されたのである。他人からとやかく言われたくない人が多いのだろう。だが、イタリアを知っている人から「いやそれは違います」というコメントがついた。本場の事情を粗末に扱うなというのである。この辺りから話がややこしくなった。

こちらも答えを知らないのでいろいろな例を出した。英語圏の人も寿司の食べ方や箸の使い方について気にする人が多い。しかし、寿司は好きに食べればいいし、日本人の全て正しい知識を知っているわけではない。にもかかわらず日本人には「寿司ポリス(日本の正しい寿司についてあれこれ語りアボカドやサーモンなどを認めない人)」が多い。同じように日本人がイタリア人に成り代わって「パスタポリスになっても仕方ないのでは」と反論した。

だが、イタリアを知っている人にとってみれば「イタリア人はスプーンを使わない」のは明白なのだから、日本人が取り澄ましてスプーンを使っているというのはとても滑稽に見えるのだろう。反論したがっているようだ。こうなるとできることは二つしかない。無視するか調べるかである。

検索したところGoogleは知っていた。どうやらこれは渋谷で生まれた日本の文化らしいのだ。つまり、和風スパゲティのおしゃれがあたかも正式のマナーのように広がったというのが正解のようなのだ。日本航空で読める機内誌の編集をしている人のブログが見つかった。

もう1つびっくりしたことがある。パスタにスプーンを添えるのは日本だけといわれているけれど、これも同店が始めたことだったのだ。もちろん、ちゃんと理由がある。たらこスパゲッティは、器にほぐしたたらこ、バター、塩胡椒、隠し味の昆布粉をあらかじめ入れておき、そこに茹で上げスパゲッティを投入し、スプーンとフォークでザザザッと和えて作る。そのスプーンとフォークを、そのままお皿の縁に添えた、というものだったのだ。

パスタにスプーンを添える理由とは。JAL『SKYWARD』10月号和パスタ特集

諸説あるそうだが、多分正解なのは「もともと和風パスタの演出として始まったものがいつのまにかイタリアではそうなのだという誤解になって広がった」というものである。つまり、渋谷で中途半端に見聞きした人が「これが正解でございます」と語ったのがマナー担ったということになる。いかにも正解にこだわる日本人らしい。が、実際にイタリア人はそんなことをしていないので、今度はイタリアに行った人たちが「いやそんなことはない」と言いだしたということになる。これも正解にこだわる日本人らしい。寿司ポリスどころかパスタポリスまで誕生したということになる。

面白いのはその過程である。そもそも壁の穴のパスタはパスタを日本流にアレンジしたものである。が、おしゃれな渋谷に憧れた日本の若者たちは「ああ、これが本場のやり方なのだ」と思って、それを各地に広めたのではないかと思われる。つまり、イタリア人に成り代わって「正解」を伝えたのだ。「単なる演出に過ぎない」ものが正解ということになってしまい、それを紹介する雑誌などが増えた。しかし海外良好に行く人が増え「いやおかしいぞ」となるのだが、そこで正当化が起きた。

2004年の記事に「いやこれはアメリカのマナーなのだ」と紹介している記事を見つけた。イタリアでそのようなことをやっていないのは知っていて書いているにもかかわらずどこかに正解を見出そうとしたのだろう。英語で情報を探してみたところ、確かにアメリカではスプーンが用いられることがあるらしく「イタリア人からみると変だ」という話し合いがあった。なので諸説の中には「イタリアでなければアメリカだ」と言っているものもある。しかし、日本のスプーンが壁の穴起源だったとするとこれは本筋とは関係がなさそうだ。

この話が面白いなと思った点は二つある。政治や経済のネタについては厳密に調べるのだが、文化の話題は適当に流してしまうことがある。だが、人々は却って文化的なネタの方に強く反応することがあるという点である。次に、原典を示してきっちり解明せずに曖昧なまま議論が進むと「断片的な正解」を持った人たちが喧々諤々と議論を始めることがある。わからないからこそ声を大きくする人もいて、それに納得できないからという理由でさらにその声が大きくなることもあるのだ。

今回の場合は正解がなんとなくあったのでからあまりややこしい話にはならなかったのだが、政治経済の問題は問題も正解も自分たちで作らなければならない。そこに正解にこだわる文化があると「一緒に正解を探しましょう」ということにはならず、正解の押し付け合いみたいなことが生まれてしまう。さらに議論をずらす人がいて状況はますます混乱する。

そもそも正解がないところに感情的な議論が始まると、まともな人々は疲れ果てて政治議論そのものを止めてしまうだろう。こういう時こそ全体像を調べ直してみる必要があるのではないかと改めて思った。

かつては図書館に行ってあれこれ調べなければならなかったのだが、最近は検索するだけで概要はつかめる。大切なのは一次情報なのだが、それがどう変容して「その時なり」の正解になったのかを掴むのも、正解にこだわる文化では重要に思える。

いずれにせよ、全体がわかってから議論を眺めると自分も含めて無駄な回り道をしていたなと思った。わかってしまえばなんということはない話だったわけだ。

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高齢化に揺れる「社会インフラ」としてのコンビニ

フジテレビで朝からセブンイレブンの話を繰り返し流していた。奥さんが死んで店が回らなくなったセブンイレブンのフランチャイズが24時間営業をやめたところ1700万円の違約金を請求されたというのだ。確かにひどい話なのだがテレビが急にこういう話題を取り上げると「何か裏があるのでは?」と思う癖がついてしまった。夕方になってTBSでもやっていたので、まあ政府の陰謀とかではないんだろうななどと「安心」した。




ダイヤモンドオンラインもこの問題を取り上げているので、セブンイレブン側もなんらかの対策を取らないと社会的批判にさらされかねない。フジテレビの<報道>からはそうした企業側の苦悩も伺える。

セブンイレブン側は、コンビニは社会インフラだから24時間営業ではなければならず、24時間体制が維持できるようにサポートすると主張している。そして、テレビ局はスマホ決済すればレジが楽になりますよなどという「解決策」を伝えていた。しかし社会インフラを維持するなら過労死させるまで働かせてもいいなどという理屈が通るはずもなく、スマホ決済とセルフレジくらいで仕事が楽になるのなら最初からやっていればいい話なのだから弥縫策にしかなっていない。

特に気になったのは働き盛りのエリートたちが東京のオフィスで考える市場環境など足元にはもうないという点である。彼らエリートはこの店主の「革命」に怯えているだろう。もし、契約変更が可能ということになってしまえば全国の予備軍たちが一斉に契約変更を求めるようになり、それは自分たちの成績の悪化につながる。

現に人手不足から24時間営業を止めたいと思っているオーナーは多いようだ。だが、限界を感じているのはコンビニだけではない。戦況は現在の青年将校たちには圧倒的に不利である。

NIKKEI STYLEよると春から値上げラッシュが始まるらしい。今回の値上げの要因は様々なようだがやはり運賃と人件費の高騰が大きいようだ。日経ビジネスはステルス値上げが限界に来ていると伝えている。

コスト削減には集約化が効果的なのだから、小口商店や宅配に頼っている今の経済にはそもそも無理がある。その上に若者が考える「効率化・高収益化」に足元は付いて行っていない。

アベノミクスは「どうせ物価など上がらないだろう」という前提のもと大掛かりな金融緩和策を行っていた。こうすると円安誘導ができるので輸出製造業者には有利だからである。だが、どういうわけか日本の物価は上がらず通貨だけが切り下げられるという状態が続いていた。どうやらその経済は「最低賃金あたりで張り付いていた非正規労働と個人事業主」と「無理を重ねるフランチャイズ経営者」に頼ったものだったようだ。政府統計はぐちゃぐちゃなので本当のことがわかる人は誰もいないだろうが、ある程度の資産を蓄積した人たちが年金の足しにと働きに出ておりこれに頼ったものだったのである可能性がある。が、こういう人たちに効率化を押し付けても「もうしんどいから好きにやらせてもらうわ」となるだけだろう。若者のように過労死レベルで無理をして現状を支えるなどやりたくてもできないのだから。

停滞という名前の安定の時代も終わりつつある。元号が切り替わるタイミングとシンクロしているのは偶然なのだろうが、平成が始まってすぐバブル経済が崩壊したので「停滞という名の安定期」と平成がそのまま重なるのかもしれない。昭和を成長期だったとすると平成は疲れた中年の時代だった。もう若くはないが中年になった自分を認めたくないという時代である。すると次の時代はどんな時代になるのだろうといささか不安な気持ちになる。が、それほど悪いものにはならないかもしれない。老いを認めてしまえばいいのだ。

近所のコンビニエンスストアー「ミニストップ」ではフードコートがいつも賑わっている。しかし座っているのは客ではない。制服を着た従業員がときどき自分の携帯電話を取り出して誰かと何か話しているのである。でも、高齢者ゆえに誰も咎めないしそれほど悪い印象もない。若い人たちが同じことをしていれば咎め立てされるだろうが、高齢の人に無理をさせる人はいないのである。セブンイレブンもオーナーによって対応が全く異なっているようで、高齢の人ばかりの店もあれば若い人しか雇っていない店もある。だが、高齢者ばかりになってしまえばそれはそれで店は回る。若者に引け目を感じる必要もないし、高齢者は自分たちのネットワークで働き手を連れてくるだろう。彼らは最新のATMやややこしいスマホクーポンなどの仕組みは全くわからないが、そもそもそれを気にしている様子はない。

改革するつもりもなく働かなければならないのなら「まったりと」楽しく働けばいい。スーパーやレジでもまごつきつつ財布から小銭を探すお年寄りと、ゆったりとレジを打つ高齢のアルバイトというような風景が日常化するかもしれない。だが、もうそれでいいんじゃないだろうかと思う。

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アメリカは児童虐待にどう立ち向かってきたのか

野田市の栗原心愛さんの事件が早くも風化気味である。ブログなどのページビューを見ているとそのことがよくわかる。




与野党共に選挙のことで頭がいっぱいになっているのだろう。特に野党は「なんらかの失政を捉えて与党攻撃につなげたい」ので次から次へと様々な「問題」が出てきては積み残しになってしまっている。ページビューの推移を見る限り、有権者はこうした状況に疲れていると思う。いつまでたってもどこにも出口が見えないからである。

そんななかQuoraで「アメリカでは殺人として扱われるケース」がなぜ虐待にしかならないのかと憤る人たちがいるのを見つけた。どうやらアメリカは児童虐待についての法整備が進んでおり、例えば車に児童を放置したり送り迎えがしないだけで虐待とされるケースもあるのだという。野田市のケースも「殺人事件として立件される可能性が高いのでは?」というのだ。また、里親制度も充実しており日本の立ち遅れぶりがよくわかる。

ただ、こうした声は昔からあるようだ。少し検索してみたら「アメリカが羨ましい」という現場の声はかなり見つかった。アメリカは社会が子供を育てるという意識が徹底しているという。

大いにあります。極端に言うと、アメリカでは「子どもは社会のもの」と考えられているため、社会が虐待に積極的に対応する。しかし、日本では「子どもは親のもの」といった考えが根強く、他人の家庭には口出ししない風潮がある。

http://www.jinken.ne.jp/flat_special/2001/10/post_6.html

問題の根底に日本人の「子供」に対する考え方があるのがわかる。つまり必ずしも政府が悪いわけではないことになるだろう。

では、アメリカが最初からそうだったのかといえば必ずしもそうではないらしい。どうやって法整備を進めてきたのかということがわかれば日本でもヒントになるかもしれないと思って調べてみた。アメリカの法整備の大体の流れは国立国会図書館のPDFで読むことができる。実は日本政府にもこの辺りの事情を研究している人たちはいるのである。ただ、なかなか政治(つまり選挙)のアジェンダに乗りにくいのだ。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして― (山口亮子)という別の論文には次のように書かれている。

アメリカの児童虐待・ネグレクトの歴史はさほど古くはない。1962年に小児科医のケンプ医師らによる「被虐待児症候群(Battered Child Syndrome)」の発表により、児童虐待・ネグレクトの現実を世に知らしめたことで、その認識が高まったといわれている。そして、1974年に、児童虐待・ネグレクトに関する初めての連邦法である「児童虐待防止と対応法(Child Abuse Prevention and Treatment Act= CAPTA)」が成立し、児童虐待の定義、通告義務および児童虐待の調査・手続きに関する規定が置かれた。1988年の改正で、合衆国保健福祉省が全国のデータを回収し、プログラムを分析す る任務が指示された。

児童虐待に関するアメリカの法手続―フロリダ州を例にして―

もともとアメリカにも「親が子供をいじめることなど考えられない」という考え方があったのだろう。この背景にはアメリカの核家族化があるのではないかと思う。リースマンが「孤独な群衆」を書いたのは1950年だ。アメリカでは戦後すぐに社会の粒状化が始まり、密室化した家庭の虐待を働く親が出てきたのかもしれない。人間の歴史において「村が共同で子育てをしない」という現象が出てきたのはつい50年か60年ほど前の出来事なのである。日本も遅まきながらこれに追随していると言える。

時代背景も特殊である。ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任する頃と重なる。選挙で選ばれたわけではない副大統領のフォードが大統領だった時代にようやく児童福祉についての対策も練られ始めた。しかし、フォードはウォーターゲート事件をもみ消そうと関係者を恩赦してしまい、うんざりした国民は民主党のカーターを大統領に就任させる。

カーターは共和党の政策を否定するためもあり大胆な福祉政策を実行したのだろう。例えば「アメリカは支援国に人権順守を誓わせる」という人権外交が行われるようになったのはカーター大統領の時代だそうだ。また教育省もカーター大統領が創設したのだという。

つまり、児童福祉は諸改革の一環だったことになる。背景には政治や経済の行き詰まりと社会変化の同時進行があるということである。だが、この後の歴史を調べると改革はやがて行き詰まるということがわかる。そもそも改革の必要性が叫ばれるのは政治や経済がうまくいっていないからであり、改革政党はその結果がでないうちに国民から失望される運命にあるからである。

日本で言えば自民党の行き過ぎた腐敗政治に怒った国民が民主党を選んだというところまでは改革志向が結実したと言える。だが、結果的にはリーマンショック(これは民主党が引き起こしたわけではない)に対応できず、地震や原発事故の責任まで背負わされ、安倍首相からは「悪夢の時代」と罵られている。冷静に考えてみれば自民党はこの悪夢の時代を民主党に肩代わりさせて「逃げた」とも言えるのだが、自民党も国民もそうは考えない。

カーター大統領は国内経済を停滞させたことで知られる。人権外交もあまり成功せず、イランやソ連との間に深刻な対立がもたらされた。カーター大統領は「需要拡大に依存した」とあるが、これは「消費者に焦点を当てて企業に焦点を当てなかった」ということを意味する。共和党は企業よりの保守政党なので供給サイドに焦点があたり、民主党はリベラルなので需要サイドに着目するのだろう。改革がうまく行かないことに失望した国民は共和党のレーガンを大統領に選んだ。レーガン大統領の経済政策(レーガノミクス)は、政府の公共事業の拡大などで供給サイドを満足させたのだが、同時に双子の赤字と呼ばれる赤字を生み出したとされる。任期中は「強いアメリカ」と「レーガン大統領の人柄」で人気を保った。

日本の政治は現在改革失望期であり現実に安倍政権は憲政史上第一位の長期政権になろうとしている。2019年2月21日に吉田茂の政権を抜くそうである。日本の有権者は今現実の問題に直面したくない。そんな中で様々な問題が提起されてもそれは「今の年金制度が維持されているのだからこれ以上触りたくない」という有権者がいる限り、大方は無視されるのだろう。国民は景気がよくなることも正直な政治が行われることも、子供が安心して暮らせることも望んではいない。ただ、今の暮らしが崩れなければもうそれでよいと感じているのではないだろうか。

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建前と本音の分離すらできなくなった日本の議会制民主主義の混乱




アメリカでハワード・シュルツが炎上している。独立系候補として大統領選挙に出ようとしたことが反発されているようだ。

アメリカは民主党と共和党の中でコンテストを行い、最後「ガチンコ勝負」で最終決戦をすることになっている「二大政党制」の国である。キモになっているのは衆人環視の中で戦うということである。つまり、裏ネゴができない国なのだ。

イギリスも同じようなところがある。議院内閣制なので大統領選挙はないが庶民院は単純小選挙区制なのだそうだ。最近では選択肢がないということで比例代表制が必要だという人もいるようだが、これはイギリスでは難しいのではないかと思う。

イギリスは(国政レベルでは)まずマニフェストを決めてその良し悪しを2つ絞って良し悪しを決めさせるという制度になっている。そしてこの約束には極めて強い拘束力があるようだ。例えばリファレンダムで「EUから離脱したい」と決まったら、とにかくその結論は大切にして条件交渉をし、その条件交渉が決裂したら「とにかく決められた通りにEUを離脱する」という流れになりそうである。一旦決めたらやるのがイギリスなのだ。

アメリカの事例だけを見ていると、アングロサクソン系は裏ネゴができないのではなくしないだけなのでは?と思えるのだが、イギリスは本当に土壇場の当事者間調整ができないらしい。

Newsweekによるとイギリス議会はEU離脱議論では膠着状態に陥っており、このまま2019年3月29日にハードブレグジットやむなしという状態になっているようだ。ブレグジットはこのまま突き進めばかなりの不都合が予測される。確かにリファレンダムの結果はあるが、それが通らないとなれば当事者間でまあまあなあなあにしてもよさそうである。でもイギリスはそれができない。議会が一向にまとまらないのである。

ここから次のようなことがわかる。

  • イギリスは表の契約を重要視し、議論をオープンにしたがる。
  • 表の議論の結果は、あとで不都合がわかっても遵守される。
  • 個人の決定が重要視されるので、政党執行部主導によるインターナルな議論(裏ネゴ)がまとまらないことがある。
  • アメリカまで含めると、候補を二つに絞って民意を問うのが一般的。選択肢を多様にしすぎると民意が割れて最終的に割れなかった人たちが票を総取りすることがある。するとまとまれなかった多数派が不満を持ち社会が不安定化する。

同じように「個人主義」と見なされがちなドイツでは違った方法が取られる。ドイツは表だった契約で選挙が行われるが、そのあとで連立交渉が行われる。ここで政策の妥協が起こるのだが妥協の結果は公表されている。つまり、イギリスのようにいったん結論を決めたらそのまま突っ走るというようなことはせずに「結論を決める枠組みの交渉」に時間をかけるのだ。アングロサクソン式とは逆になっている。ロイターによると妥協はポストの配分で決まるようだ。BBCによると、どうしても納得できないことがあると、連立離脱を行うとのことである。

  • ドイツも契約を重要し、議論をオープンにしたがる。
  • 表の議論の結果は大枠を決めるだけで、細かい点については妥協と調整が行われる。この妥協も公表される。
  • 表の約束が維持できなくなると、再び選挙が行われる。
  • 有権者は多数の候補の中から自分にふさわしい人たちを選ぶ。

ここから現代の日本について考えてみたい。自分たちの国なので細かいところが目に入ってしまうのだが、割り切って丸めてしまいたい。日本は表向きの約束(マニフェスト)と裏の調整(利権配分)を分けて考える傾向にある。また、多数派が利権配分権を握ってしまい少数派が排除される。すると少数派は意思決定に携わる意味を失ってしまうので、意思決定の妨害を始める。このため本質的にアイディアのコンテストができない。

  • 日本は契約を重視せず、表の議論と裏の議論を分ける。
  • 表向きの議論は意思決定の正当化のためのキレイゴトという役割を持ち、受け手もそれがわかっており、裏の利害交渉とは明確に区分される。
  • 裏の議論はかなり緻密に行われる。
  • 裏側では長期的関係性を配慮した妥協が起こるが、違いが表面化すると妥協ができなくなり、膠着状況に陥る。
  • 個人の意思決定は重要視されず、個人は組織の損得(組織としての裏の決定)に支配される。
  • 有権者は自分属する集団の利益に基づいて判断し、表の議論を信用しない。日本人は利益集団以外の公共や社会を信じないし、内心がないので公共の名の下にまとまることはできない。

もちろん、利益共同体が崩れてゆくに従って日本にも社会を作るべきだという機運はあった。そこで、日本にも表向きの約束事に沿った選挙をしようという動きにつながってゆく。それがマニフェスト(コトバンク)である。

しかし実際には有権者は「絵空事である公共」のマニフェストを読まず、民主党の藤井裕久氏も「どうにもならなければごめんなさいといえばいいじゃないか」と吐き棄てた。大蔵省出身の官僚であった藤井は選挙の約束など単なる飾りごとであり実質的な意味はないと考えたのだろう。確かにそうなのかもしれないが、それは言うべきではなかった。

もともと、日本人は表向きの約束を信用しなかったが、かといってそれを無意味だと思っていたわけではなかった。すくなくともリチュアルな意味合いはあった。しかし、あからさまな約束破りが起き、野田佳彦が「結局消費税しかない」と言ったことで儀式的な神聖さもなくなった。その時にはわからなかったが、この6年で劣化はさらに進んだ。

なんでも言っていいなら何を言っても良いということになり、マニフェストは壮大な願望リストになった。そればかりかその願望リストに現実を合わせるようにさまざまな嘘が強要され、あるいは自発的に嘘をつく官僚まで出てきて現在に至っている。

今、国会で安倍首相が「日米関係は私とトランプ大統領の個人的な信頼関係に基づき未だかつてなく強固なものになった」と読み上げている。これに合わせた形で様々な官僚のステートメントが書かれ、現実の不具合は全て語れなくなってしまった。また、北方領土という言葉は使わないとロシアに内密に約束してしまったため、国会で安倍首相はそれが言えなくなっている。このように表向きの言葉が利害調整を阻害し、利害調整のための言葉が表の言葉を縛る。そしてその証明のしようのない嘘を「嘘だ嘘だ」と騒ぎ立てる野党が国会の時間を限りなく浪費しているという具合である。

このようにして、表の議論が裏を縛り裏の議論が表を縛るということが起きている。我々は本音と建前の分離を旧弊でアジア的な後進性だと思っていたわけだが、欧米式の「進んだ」国家統治方法を取り入れられるわけでもなく、かつての「旧弊な」組織運営すらできなくなりつつあるのである。

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