他人を変えたい人と一発ドカンと変えたい人

ダイエットして少しスリムになったので「このまま腹筋が割れるのかな?」と思った。最初はベッドの中でちょっとした腹筋をやっていたのだが、15分くらいの運動にまとまった。最近腕立て伏せを加えたら体つきがちょっとだけ変わってきた。だいたい1年くらいかかっていると思う。変化はとてもわずかなのだが確実に変わっているという実感がある。




「やれば変わるんだな」という達成感は嬉しいものだ。体つきが変わるとちゃんと変化として実感ができるので自分の体をコントロールできているという実感が生まれる。だが、逆に言うとちゃんとやらないと変化が感じられないということでもある。体に気に入らない部分はきちんと努力していない部分なのである。

「毎日コツコツやっていると変化は現れる」のが実感できるということは「やらないと変化が現れない」ということがわかってしまうということでもある。つまり、今まで変われなかったのは誰のせいでもなく「何もやらない自分がいけなかったのだ」ということになる。いわば「自己責任」の世界である。ただし、他人が協力を拒むために使う自己責任ではない。あの自己責任は困っている人の眼の前で扉を「バタン」と閉める拒絶の音である。

前置きが長くなった。今回は虐待やネトウヨという病について見ている。他人を操作したいのにどうしていいかわからないという人たちが増えているのではないかという前提を置いた。ネトウヨや虐待者はその極端な例だが、潜在的にはもっとたくさんの「他人が思い通りにならずイライライしている」人たちが多いのかもしれないと思った。それは裏返せば自分が変われない、変わるために動き出せないということなのかもしれない。

「自分は変えられる」とキレイゴトをいうのは簡単なのだが、ダイエットで一番難しいのは自分の食事のコントロールだ。忙しくて健康に良いものが食べられないとか、子供の頃から習慣で食べているものがやめられないというのが最大の障壁になってくる。中には栄養知識のない人もいて「炭水化物まみれ」の食事が出てくることもあるだろう。コンビニ飯も外食も油と調味料に「まみれて」いる。ストレスがたまるとどうしてもビールを買ってスナック菓子と一緒に流し込みたくなるかもしれない。つまり、こうしたしがらみを断ち切って一人で始めないとダイエットそのものに着手できないという難しさがある。

ネトウヨはそもそも自分の意見を構築するまとまった時間が取れない。情報を集めようとするとすでに極端な思考で炎上商法に走る人たちが大勢いて容易に引っかかってしまう。さらにそれを社会に確かめようとしてうっかり何かを発信すると「それは人権侵害だ」という非難にさらされるかもしれない。食事を見直そうというところまでは良かったが探せたのがコンビニ飯だけだったというような状態だ。

こうして人々は実名で何かを発信するのを諦め、集団になって暴走する道を選ぶ。ただ、これは今に始まったことではなくバブルが崩壊した1990年代からはじまっている。サラリーマン雑誌がLight Right(軽右翼)的なコンテンツを取り上げるようになってきたのがその頃なのだ。

日本社会は、変わりたいのに変われない人たちが持った素朴な政治感情を社会化するのに失敗した。代わりに蔓延しているのが、人権が悪い・憲法が悪い・中国と韓国が悪いという恨みである。政権交代によって政治を変えたいという運動は3年で挫折してしまったので、結果的にこれだけが残った。そしてそれが政権内部にまで浸透してしまったというのが平成末期の政治状況だった。考えてみれば悲惨な話である。

日本は1990年代から経済停滞が始まっていて、それ以降「成功体験」が持ちにくくなっている。ダイエットの例でいうと「やれば痩せるんだな」というのはすなわち「やらないとダメなんだな」ということに気がつくことだ。だが、そういう成功体験そのものがサラリーマン社会にはない。というより成功体験を目指すことすら許されていない。彼らにできるのは現状の維持だけである。買い替えが必要な車をもっと早く安全に走らせろと脅迫されているのだ。

こうした中で変化を望む気持ちだけは大きく膨らんでいるようである。最近気になっているのが、テレビのビジネス向け番組で盛んに語られる「なんとか革命」の類である。政権が使い始めたのが浸透したのだろうが、安倍首相が自力でこんな言葉を発明できるはずもない。大河ドラマと日曜劇場が好きなおじさんたちが考えたのだろう。努力したり話し合ったりして変化をもたらすことが苦手な日本人が「なんか世の中がガラッと変わってくれないかなあ」と思い始めているのかもしれない。例によってQuoraで聞いてみたが「大阪都構想の時にはサラリーマンの支持者が多かったですよ」と教えてくれた人がいた。なるほどなと思った。

自分はどうせ変われないし周囲も動いてくれない。相手を非難しても状況は変わらない。中には弱いものをいじめてうさを晴らす人も出てくる。内に篭ればいじめになり、外に出ればネトウヨ的言動になる。だが、それでも何も変えられないとなると「一発逆転」を狙うようになってくる。状況はそこまで積み上がっている。

革命志向が大きくなり、地道な議論のプロセスを信じられなくなった社会はやがて、全体主義やポピュリズムという政治的機能不全に侵されてゆく。それを防げるのは実は個人の継続的な変化だけなのだと思うのだが、そのためにはしがらみを断ち切って一人で何かを始めるしかない。今の道を降りたらよりひどい選択肢しか残っていないことがわかっているのだから、多くの人たちにとってこれは単なるキレイゴトにしか聞こえないのだろうなということもよくわかる。

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「自分を良く見せたい」というもう一つの麻薬

前回は、ネトウヨ発言を内心の社会化というキーワードで考えてみた。今回は積み残し課題を整理する。それは社会化されない内心を暴走させる善意についてである。




前回は、虐待当事者でない人が虐待問題に首をつっこむことの是非について考えた。東ちづるさんには何の恨みもないのだが、虐待者は取引をしようとしているという仮説は危険だろう。

東さんは「人間は共感的であるべきだ」という立場から飴と鞭を使い分けて取引する虐待者を非難していた。このように取引をする人格を「サイコパス」と呼ばれることがある。助け合いを社会の基礎理念とするリベラルには許し難い「新自由主義的な」人たちである。つまり、東さんは知らず知らずの内にリベラル対抑圧者という構図を作っている。その上で「リベラルを擁護する私」をアピールしていたのだ。

だが、実際は違うのではないかと思う。虐待者は共感概念を持てないと仮説立てすると全く別の可能性が出てくるからだ。ある構図を自動的に当てはめてしまうことで、あるいは救われるはずだった被虐待者が取り返しのつかない傷を負う可能性があるのだが「リベラルな私」に酔ってしまうととてもそんなことには気がつけないだろう。

虐待者に「共感を持つべきですよ」と言っても虐待者は理解しない。が、理解できていないことも理解できないので自分の目に見えているものからなんとかして「共感のようなもの」を想像しようとする。虐待者は慈悲深い自分であるということには価値を置くので「慈悲深い私」を演出するようになるのだ。これは却って怒りを増幅させる。本当の私は慈悲深くないし、相手は依然理解不能だからである。こうして虐待は繰り返される。

これをネトウヨに当てはめてみたい。ネトウヨは何らかの理由で病的に相手をバッシングしたいと考えている。これを正論で諭すのは危険である。なぜならばネトウヨは何らかの理由でリベラルの言っていることが理解できない可能性があるからである。虐待は内にこもる病巣だったが、ネトウヨは外に向かって暴発する。

虐待とネトウヨは攻撃の方向性は異なるのだが共通点もある。自分と違う他者を予測不能な異物と捉えているのである。子供や動物は内心が想像できない人にとってとても恐ろしい存在である。例えるなら自分の手が勝手に動くようなものなのだ。一方でネトウヨは自分たちで勝手に秩序世界を作っており、それに逆らうものの存在を許容しない。例えば女は黙ってお茶を出し食事を作るべきであるのに「いきなり怒り出す」というのは彼らにとって恐怖なのである。

つまりネトウヨという人たちは、韓国人にも民族の誇りがあり、アイヌ人も自分たちの年間行事を通して心の底から「ああ、アイヌの伝統を引き継いでよかった」と思うことがあり、女性が不自由な選択を迫られることなく人生を享受したいのだということは基本的に想像できない。彼らは自分たちの社会を構成する書き割りのような存在であり、それが勝手に動き出してもらっては困るのである。彼らだけでなく世の中の他人は全て自分の人生の書き割りなのである。

つまり虐待は個人的な予測不能性に対する防御反応である可能性があるのに対して、ネトウヨという病は組織的・社会的な防御反応であると仮説できる。だが、柔軟に相手の気持ちを思いやる共感というものが持てている人たちはそれが想像できない。その想像できない人たちが「何でそんなこともできないの?」と詰め寄ってきた時に予測もつかないような反応が返ってくるということである。

そもそもネトウヨが追い詰められたのは2009年に自民党が政権を追い落とされたからである。蓮舫議員の「二位じゃダメなんですか」に代表されるようにこれは善意による粛清だった。彼らは社会的に不正解と見なされて迫害されたという自意識があるのだろうし、安倍首相が「悪夢の出来事」というように実際にそのような動きも多かった。これが補強され「さらに厄介になって戻ってきた」のが安倍政権だ。ある意味社会的正解に対する耐性をつけてきた人たちなのではないだろうか。

アレルギーを根性で克服できないのと同じように虐待のある人間関係は基本的に修復できない。だから虐待は恐ろしいのだが、そんなことをしみじみと語っているような場合ではない。逃げないと社会生活が送れなくなる可能性すらある。同じようにネトウヨも官僚の秩序を破壊しつつある。蔓延する嘘を何とか誤魔化せていた時代は過去のものとなり、外国に出かけた厚生労働省の課長がヘイト発言で逮捕されたり、匿名でヘイトの書き込みをしていた年金事務所の所長が更迭されたりしている。もう彼らは何が正しいかわからなくなり混乱が始まっているのだろう。

我々はわからないならわからないなりにこの状況を変えなければならない。そして、その時に私たちが持っている正解を彼らに押し付けるべきではない。そんなことをしても何の役にも立たないし却って反発心を強める恐れがある。最優先しなければならないのは問題の解決であり病根の粛清ではない。

こういう文章を書いていて私にも「自分を良く見せたい」という気持ちはある。それもある種病のようなもので完全に除去することはおそらくできないだろう。だが、自分にもそういう気持ちがあるのだということは自覚しておくべきだろうと思う。

いずれにせよ「相手が自分の言うとおりにならない」ということが多くの問題を引き起こしているようだ。忙しい人たちは、余裕のある社会なら笑って許せていたことが許容できなくなってきているのかもしれない。昨日も「子供を虐待して殺した」というニュースを見た。こうした苛立ちを社会と共有することができず内側に抱えているという人は意外と多いのではないだろうか。

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問題行動を起こした虐待者にマウンティングする無慈悲な人たち

匿名のネトウヨが、仕事を失う危険を冒してまで嫌韓発言を繰り返す理由を考えている。調査のしようがないので別のモデルを探すことにした。たまたま、虐待についてアンテナにひっかかるものがいくつかあったのでこれを利用したい。虐待とネトウヨにはいっけん関係がなさそうだ。




先日、東ちづるという女優さんが虐待者を非難するツイートをしていた。「あ、これは危険だな」と思ったのだが、何が危険なのかは自分でもよくわからなかった。

東さんは「飴と鞭」という言い方をしていた。飴と鞭を取引概念として使っているように思えた。取引概念ということは相手がいるということになるのだが、これは危険な誤解である。東さんは自分の価値体系を他人に押し付けたままそれに気がついていないのである。リベラルな人たちによく見られる危険な態度だ。ちなみに虐待者が飴と鞭を使うのは「いい自分」と「悪い自分」の間を行き来しているからである。虐待者は虐待相手には興味がなく自分のことしか考えられないので「優しくする相手」とか「罰するべき相手」は存在しない。

別の日にテレビのワイドショーで犬の虐待について取り上げていた。これを見てこの虐待非難の危険性が一層よくわかった。問題行動者の非難は商業的価値があるのだ。つまり売れるのである。このワイドショーはネットに出回る無料動画を使って社会の敵を作りして企業広告を売っている。目的は社会の敵を作り出すことなので虐待そのものには興味がないのだが、まあそれがワイドショーというものなのでこれを非難するつもりはない。

ニュースショー出身の安藤優子さんはそのことを自覚しており、高橋克実さんは傍観している。だが、三田友梨佳という女性のアナウンサーは多分それがわかっていない。結果的に三田友梨佳さんは社会の側に立って「優しい自分」アピールをしてしまうのである。つまり、扇動者になってしまっているのだ。これがどれだけ危険なことなのか誰も教えてやらないのだ。

ワイドショーの目的は社会の連帯感を作り出して「その中に埋没する心地よさ」を提供することである。社会的ニーズがあり、それで広告が売れるのだから、これは第三者がとやかく言う問題ではない。だが違和感を和らげるために安藤優子さんというジャーナリストだった人を利用している。

問題行動者とされていた女性は「犬をどうしつけていいかわからない」と言っていた。これはかなり正直な内心の吐露だと思う。そして「私が躾けないと誰かを噛んで殺処分になってしまうかもしれないから私が躾けた」と自分なりの理論を展開していた。つまり犬というコントロールできないものを抱えてどうしていいかわからなくなっているということが明らかなのだ。

この人は自分の頭の中であるストーリーを「勝手に」組み立てている。一方で犬のことは全くわかっていない。というより頭の中に犬がいないのだ。だから「首輪を締め付けたら犬が死んでしまうかもしれない」ということや「犬がどうして好ましくない行動をとるのか」ということが基本的に想像できない。だからいくら「共感を持たない人間はダメですよね」と言ってみても、そもそも共感がどんなものなのかわからないのだから問題は解決しないのだ。

このビデオを撮影したのは息子なのだが、この母親が息子にどのような「しつけ」をしていたのかもわからない。だから息子は面白半分で撮影して虐待に加担したのか、あるいは社会に助けを求めていたのかはわからないということになる。いろいろな気持ちが錯綜していて「整理されていない」可能性もある。ワイドショーは密室の中で混乱する内心を全て見ているのだが、そもそも虐待には興味がないので、全てスルーしている。そして三田友梨佳さんはそれを「優しいアピール」に利用してしまうのである。三田さんの興味は「ジャーナリストな私」をアピールすることなのである。

社会化されずに混乱したままの内心が社会にぶつかった場面が赤裸々に映し出されている。だが見ている方は視聴者も含めて社会に興味がないので、誰も気がつかないというかなり凄惨なショーがおそらくメジャーなニュースがなかった時間の穴埋めとして展開されている。

もちろん、三田友梨佳さんが「生半可な気持ち」でこの問題に首を突っ込んでいるとは思えない。おそらく社会正義の側に立って「真面目な気持ち」で問題に取り組んでいるのではあるまいか。おそらく冒頭の東ちづるさんのつぶやきも同じなのだろう。

犬の虐待問題を解決したいならば、まず虐待者のメカニズムについて考えなければならない。そしてそれが解決可能であれば手助けし、解決可能でなければ(先天的に共感が持てない、あるいは心理的に固着していて解決に長い時間がかかる)なら関係を解消する必要がある。「そもそも犬を飼うべきではない」とか「子供を育てるべきデではない」とは言えるが、実際に犬は飼われており子供は存在する。

密室化した家庭での虐待問題が解決しないのは内心を社会化する機能がないからだ。子供やペットを愛するということすらできない人がいるということを、これが当たり前にできている人には理解できない。

さて、ここまで長々と虐待について考えてきた。個人の内心が歪んだ形で発露するがそれを受け入れ可能な形に矯正することができないので問題が解決しないというような筋である。

前回、ヘイト発言についてみたのだが、これがどこからやってきたのははよくわからなかった。結果的に内在化した苛立ちが「韓国をいじめる」という正解に向かって暴走していることはわかると同時に「社会に表明すれば必ず問題になるだろう」ということもわかっているようだ。つまり、そもそも病的であるという自覚はあるのだ。

これまで「日本人には内心はない」と考えてきたのだが、実は内心はあるようだ。問題はそれを社会に受け入れ可能な形に躾けることができないという点にあるようだ。社会にはあらかじめ決まった<正解>があり、そこに内心の入り込む余地はない。そこで内心は家庭という密室の中で暴走するか、匿名空間で暴走するのだということだ。

西洋的な内心(faith)は個人が持っている感情を社会に受け入れ可能な形でしつけて外に出す役割を果たしている。だからFaithという好ましい印象のある言葉を使うのだ。匿名で暴走する正義感はユングで言う所の「劣等機能」のようになっている。つまりヘイトというのは社会版の「中年の危機」ということだ。

この社会版の中年の危機は社会に受け入れられることはないのだが、逆に「抑圧を試みる」人たちに逆襲を試みることがある。先日Quoraで見た「ヘイト発言もひどいが、逆差別にもひどいものがある」という訴えはこのことを言っているのかもしれないと思う。さらにその鬱屈した感情を利用すれば「票になる」と考える政治家もいる。

劣等機能から出た歪んだ正義感が社会に居場所を見つけて正当化したらどうなるのだろうかと思った。あるいはナチスドイツの暴走もその類のものだったのかもしれない。ドイツ民族という傷ついた民族意識はナチスドイツに議席を与え、最終的にはユダヤ人の大虐殺に結びついた。彼らが傷ついた民族意識を持っていたということに気がついたのはずっと後のことだった。

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「バカ」について再検証してみた

前回「バカ」について書いた。ここでいう「バカ」とはコミュニケーションを阻害する要因のことであり、知能について言及しているわけではない。




前回はかなり決めつけて書いたところがあるのだが、本当にそうなのかなと思ったので後追いで検証してみた。今回はアンケートをつけたので参加型で楽しんでいただけた方も多かったのではないかと思う。参加者の皆さんには改めて感謝申し上げたい。

前回「バカ」と書いたので論理構成を読むのが正解だと思った方もいらっしゃるかもしれないのだが、アンケートの結果には実はあまり意味がない。実は論理構成こそ全てで心理行動特性について考えない人も「第三のバカ」である。前回「全員がバカ」とかいたのはそのためだ。

ここで重要なのはこの文章には二つのことが書かれているという点である。つまり党派性に着目する人は「結果としてアベノミクス」が失敗だったということに着目するだろうし、論理構成や問題解決に興味がある人は「その原因が何だったのか」ということを気にするはずなのである。

ここで重要なのは「一方に着目したから一方が見えなくなる」というわけではないというところである。つまり、色に着目したから形が見えなくなるというようなことにはならないのだ。だが、党派性はなんらかの形で論理理解に影響を与えるはずである。

いずれにせよやりたかったのは「ああこの文章にはいくつかの側面があるんだな」ということを知ってから文章を読んでいただくということだった。そもそも「日本人は正解にこだわりすぎる」などと書いているブログで「正解のあるアンケート」など出るはずはないのだから、二者択一はおかしいのでは?と思った人が多かったのではないだろうか。ちなみに文章にはアベノミクスは「失敗」とは書いておらず「ごまかし」と書かれている。

さて、これを踏まえてQuoraの質問の方をみると面白いことがわかる。読んでいる人はちゃんと両面を読んでいる。当たり前のことだが、みんなそれほど「バカ」ではないのだ。そして読んでいない人もいる。4人の回答があったののだが切り口は様々である。

一人目は論理構成に注目して「失敗したとは書いていないですね」と冷静に分析している。この人は福島第一原発の問題にも食いついてきていて「原発事故のあとに乳児の心臓奇形手術が増加したのは検診制度が上がったからだ」と回答していた。つまり反政権を冷ややかに見ていて「パヨクが騒いでいるだけ」と思っているのではないかと思う。別の要素があるからといって全てを棄却してしまうのは科学的とは言えないとは思うのだが、それはそれとして「個人の意見」としては尊重すべきだろう。

別の人はかなり長く書いている。この人は論理構成を見ているのだが、質問者が「党派性に着目した質問をしているのだろう」と決めて書いている。自らは政権擁護の立場なのだろう。この文章そのものが彼の党派の意見とは異なるので、論理構成を眺めた上で「こんなものは認められない」と言っている。これが党派性を意識した回答だ。前回「第一のバカ」を書いた時には論理構成が「見えない」としたのだが、この人は論理構成は見えている。ただ、いくら彼を説得しても無駄である。党派に合わない意見は全て棄却されてしまうからである。つまり党派性は情報の取捨選択に影響を与えているのだ。ただ、よく読むとこの人は実は消費税増税には反対なのである。このため彼の党派性は崩壊しかかっている。かろうじてこれを防いでいるのは「反対党派を否定したい」という気持ちなのかもしれない。

別の質問でも一貫してアベノミクスについて攻撃を続けている人が書いた回答は絶叫になっている。この人は多分文章を読んでいない。いつも同じような図表を取り出して同じようなことを書いているからだ。この人は「みんなこんなに正しいのに聞いてくれない」という気分になっているのだろう。情報の取捨選択以前に視野が狭まっている状態だと言える。

この二つを読むとなぜ野党が支持されないかがわかる。つまり、野党の支持者はアベノミクスが失敗でなければならないので「そもそも人の話を聞かない」のである。さらに、こうしたコメントは定型化されているので、反対側の信念を持っている人はこれを聞いておらず「ああまたか」といって自動化された(政権が準備してくれている)コメントで情報を遮断する。ただ、人は自分の話を受け入れてくれる人を好ましいと思うわけだから、アベノミクス反対を叫び続けている人に好感は持たない。「聞いてもらえていない」という態度がますます人を遠ざけるという悪循環がある。

重要なのは彼らのコメントにはそれぞれ受け入れるべき点があるだろうということだ。だが、ここまでくっきりと前提条件が異なる二つの「お話」になってしまうともはや統合は難しい。

我々は「最初のテキストが党派性と論理構成の二段構えになっている」ということを知っているので、これらのテキストをいくぶんかは冷静に読むことができる。そして、実質賃金そのものについて考える人は意外と少ないのだなということもわかる。経済政策なのだから当然「良かった点」「良くなかった点」「そもそも関係のなかった点」がありそれを冷静に分析しなければ問題は解決しないというのは、考えてみれば当然のことなのだが、休みなく<議論>していると意外と気がつかない。そして、冷静になって初めて残りの一人が「よくわからないけど、すすきのにはアベノミクスはこなかったようです」というつぶやきに近いコメントの意味を考えることになるのだろう。

最初の文章で「みんなバカだ」と書いたのだが、実は「みんな騙されてしまう危険性を孕んでいる」という意味であって「理解しようと思えば理解できるのだ」のである。だが、政治運動会はそんなことを全て忘れてしまうほど楽しくて麻薬的な魅力に溢れているのだ。

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日本の先生はなぜダメになったのか

Quoraで面白い質問を見た。日本の先生はなぜ質が悪いのかというのだ。これに「質が悪い」という前提の回答を書いたところ先生から怒りのコメントが来た。「偏見」と決めつけて上から目線で批判されたのだが。腹は立たなかった。むしろ「あ、これは釣れるな」と思ってしまったのである。ネットで悪が生まれる瞬間を自分の中に目撃してとても面白かった。




前回NHK問題を見た。NHKという身分保障がある貴族階級の人たちには政治問題で翻弄される人たちが「雷に当たったかわいそうな人たち」に見える。取材対象としては利用したいが彼らに寄り添うことはない。そして見ている私たちも洪水報道を見るように「うちの地域じゃなくてよかった」という安心感を得られるようになっている。同じことが教育にも起こっているようだ。

このクレームを入れてきた先生は、高校の先生で東京大学教育学部を出ているらしい。まだQuoraでの活動は少ないのであまりネットには慣れていないのだと思う。学校という狭い世界の成功者でネットの常識がわからないという点では十分に釣れる条件が整っている。なので彼女は「先生の質が悪いというのはあなたの偏見であって」「Quoraでみなさんのコメントを読むよりは研究書を読んだ方がいい」と言っている。そして「一部不心得な先生はいるかもしれないがそんなものは例外に過ぎない」と続く。彼女は自分たちの評価に悪影響が及びかねないという点を気にしており、現在いじめに苦しんでいる生徒や学校の勉強に意味を見出せなかった大人には意識が及ばない。いわば「問題が起きたら地価が下がって困る」といって問題を認めない地域住民みたいなものである。

Twitterで政治議論や炎上の仕組みを散々見ている私たちはすぐさまこれが「炎上するやつだ」と気がつくはずだ。政治家にしろ相撲協会にしろ最初は「自分達の方が状況をよく知っており、知らない人たちが騒いでいるだけ」と考えて状況への対応が遅れる。彼らが気にしているのもまた「社会的評価の低下」であり問題そのものではない。このズレでソトの怒りが増幅し大抵は絶対的服従に追い込まれることになっている。

以前の「Quoraスパゲッティ論争」でみたように、人々は正解のない状況に置かれると自分の眼の前にある真実を相手が受け入れないことに怒りを感じるようになる。つまり正解がない状態で話し合って社会を再構成することが日本人にはできない。実はこの時点で相転移が起きている。最初は問題そのもの(スパゲッティーとスプーン)について議論していたはずなのだが、そのうち「自分が知っている明確な事実」を頑なに認めない「上から目線」に腹が立ってくるのである。これが定着したのがTwitterの政治論議である。

いったんこの容赦ない炎上を経験した人たちは、ネットは恐ろしいところだと感じて身をすくめることになる。相手が何で怒っているのかはわからないが、あまりにも炎上が苛烈なので「とにかく謝っておこう」となるのだろう。この「とにかく謝っておけ」フェイズに移行したのがピエール瀧騒動である。同じようなことはアメリカでも起きるのかもしれないが、少なくとも日本の炎上では「村と外の温度差」が重要な役割を果たしていることがわかる。

我々はこうした「ムラ」と「外」の温度差によって起こる炎上の仕組みを繰り返し繰り返し見ているので「なぜ、みんな対応を間違えるのだろうか?」などと思うのだが、中にいるとそれに気がつかないのだろう。だが、実は気がつかない理由はそれだけでもなさそうだ。上から目線の成功者は実は村の内部で起きている問題にも気がついていないのだと思う。

これとは別に非正規雇用の先生が使い捨てられるという問題について聞いたのだが「先生が尊敬されなくなっている」という声を聞いた。都会では父兄の学歴が高くなっているのだという。学歴が高く実際の社会を生きている都会の親には先生の行っていることが「絵空事」に見えるという乖離が起こっているようだ。非正規で不安定な人ほど村には疑問を持っているはずなのでこうした問題に敏感になる。が、体制に守られていると思う上層部の人たちは問題を過小評価する傾向にある。企業でもよく見られる態度だ。現場の声を「あなたたち非正規の人たちは狭い視野でものを見ているから大騒ぎしているだけ」といって無視する正社員がいる会社はそれほど珍しくないのではないだろうか。

危機感を抱いている先生たちとそうでない人たちの間にはかなり絶望的な乖離があるのだろうが、立場が弱い人たちほどそれを社会には訴えられない。問題提起をすれば首を切られてしまうからだ。例えば、非正規で「前線に立っている」都会の先生と、地方で尊敬されながら一方的な教育観を現場に押し付けているような先生の間で認識を共有することはとても難しいだろう。そもそも社会が再構成できない上に、状況すら違って見えている。

教育界というムラは「教育とは聖域であって社会全体が予算を取って尊重すべきである」というきれいごとをいい続けていればいいし、身分保障のある人たちは面倒を避けてこの幻想にすがっていればいい。だが、実際に問題に直面するのは現場の教師であり、私学では36%が身分保障のない非正規先生になっている。そしてその外側には意見は言わないが「今の学校教育は現場のニーズにあってない」と考えて不信感を募らせる多くの人たちがいるのである。

日本人には公共がないという話を延々としてきているのだが、人件費削減から始まった村の分断は想像以上に社会に蔓延する病になっているのではないかと思う。つまり、もともと公共がなく社会を再構成することができない上に、村という日本独自の構造体も崩されようとしているのである。

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NHKの思考停止と考えないことを決めた私たち日本人

新潟のある地区から精神病院がなくなるという。国が精神疾患に関する保険の支払い方式を変えたからだそうだ。このため病院の経営が成り立たなくなり地域から撤退するのだそうだ。NHKのニュースでは統合失調症の患者を抱えた母親が途方に暮れていた。




ところがNHKはこのニュースをまともに扱えなかった。ネットへの権益拡大を狙うNHKは安倍政権に恩を売っておかなければならない。そこで忖度が働き「政権がこれを決めた」ことは伝えないのである。最近のNHKの困窮者のニュースは全てこのような調子である。忖度だ改竄だと言いたくなる。

だが、このニュースは奇妙なバランスで成り立っており破綻していない。NHKの職員はある意味優秀すぎるのだろう。

このニュースは「地震で家が倒壊した人」や「津波で家族を流された人」と同じような扱いになっていた。日本人はこうした天災系のニュースに慣れていて、これが成り立ってしまうのだ。考えてみると変な話なのだが、結果的に政権批判は避けられる。運が悪いかわいそうな人を哀れんで「ああ、うちじゃなくてよかった」という感覚を助長することになる。NHKは自分達の食扶持のためにこうした「運が悪かった人報道」を繰り返している。稲妻系と言ってもいい。雷に当たったのは運が悪かったが、雷はそうそう落ちてこない。

視聴者は何の行動も起こさないから、自分がこの「かわいそうな人」になった時には誰からも助けてもらえないことになるだろう。そしてそれを悟り静かに「迷惑にならないように」息を潜めて暮らすのだ。

数年前なら多分「安倍政権は長期政権だったのでその膿が出てきた」などと書いたのだと思うが、今はそうは思わない。その代わりにNHKは思考停止を決め込むことにしたんだなあという淡々とした諦めの気持ちがある。そしてその背後にあるのは「もう何も考えたくない我々」の諦めがあるのだろうなと思う。人生何が起こるかわからないからもうそんなことを考えても意味はない。だったら今を生きようと健気に決意してしまうのである。

NHKはもう議論の分かれるテーマは扱えないからジャーナリズムは成立しない。これは、センセーショナルなバラエティ情報番組でもない日本独特の何かである。が、NHKが扱えないのはニュースだけではない。

朝の連続テレビ小説「まんぷく」では、日本人がインスタントラーメンが作られるまでの話をしている。チキンラーメン開発が終わったので視聴率的には停滞しているようだが、このドラマには、みんなが知っているが誰も言わない「秘密」がある。萬平さんは実は台湾出身なのである。台湾出身なので憲兵に目をつけられたりGHQに目をつけられたりするというのが多分史実だったのだろうが、これを「差別に当たるかもしれない」といって避けたのだろう。

だが、戦前に台湾が日本領だったことは誰でも知っていることだし、安藤百福が台湾出身だったといっても別にそれはおかしいことでも恥ずかしいことでもない。見ている方が偏見をもっていて「自分は理解できるが、これを理解しない人もいるのでは?」と勝手にやっているだけだ。

大河ドラマ「いだてん」はもっとひどいことになっているようだ。NHKはオリンピックに向けた世論誘導に失敗した。視聴率は低迷傾向にある。加えてピエール瀧さんがコカイン吸引容疑で捕まり「過去から全てのシーンを撮り直す」そうである。ピエール瀧さんで放送した事実は消えないのである意味「歴史改竄ドラマ」になった。

だが、それでもみなさんのNHKは「全く問題がない無菌の日本社会」というありもしないリアルを追求せざるをえない。安倍政権には全く問題がなく、戦前の台湾統治の歴史もなく、出演者に私生活上の問題が全くなく、国民が一致団結して国家的プロジェクトを盛り上げるという幻想の「美しい日本」がNHKの中にだけは存在する。

この「オリムピックばなし」の失敗は、もはや日本人がみんなで喜べることがなくなってしまったことをかなり残酷に映し出していると思う。しかし、NHKはこの幻想を捨て去ることはできない。そうなると「ああ、あれも都合が悪い」「ああ、これも扱えない」となってしまう。結局もう自分たちでは何も考えられないだろう。何かを考えたらどこかで「地雷」を踏んでしまう。でもそれを地雷だと思っているのはNHKだけである。普通の人はそれを「現実」というのだ。

だが、これを見ていて日本人はNHKを笑えるのだろうかと思った。これは我々が望んでいる日本なのではないだろうか。何の社会問題もなく、政治家は嘘をつかず、みんなが健全な「丸い村」というのが私たちがNHKの中に見たい日本なのである。

そんなものはもうどこにもないのだがそれを見つめることすらできない。だからそれを他人と共有して話し合うことすら許されない。そう考えた時、私はとても惨めで傷つけられた気分になる。

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情報発信は問題解決にはむしろ有害なのではないかというまとまらないメモ

毎日色々なネタを書いている。このところわかったことが色々とあるので少し整理したい。今回は個人的なメモなので結論はない。




情報発信をしているとなんらかの経済的なサポートが必要になる。例えば政党は支持者が必要であり、雑誌は購読者が必要だ。そして、ページビューが伸びる話題というものがある。それは「誰かや何かを叩く」というものである。毎日何かを書いているとこれが顕著にわかる。誰かを叩くと露骨にページビューが伸び、内省的・考察的なものになると沈む。今の日本では多分、原因を内側に向けて情報発信してはいけないのだ。これはいいことなのか、悪いことなのか?

Quoraの質問を見ていてもそれがわかる。例えば安倍首相批判やトランプ大統領批判はそこそこ盛り上がるし、日本の学校は「全体主義的で画一的である」というような主張にも支持が集まりやすい。「韓国はなぜダメなのか」という質問もよく出てくる。これは他国を貶めることにより「色々言われているが日本はマシだ」というような気分になれるからなのだろう。こうした情報発信には引きがある。

だが、誰かを非難してもそれが問題解決につながることはない。新潮45の廃刊や民主党政治の失敗を見ていてもわかるように、やがては飽きられて支持を失う。

民主党政治を見ていると誰かを叩くことの意味がもう少し見えてくる。彼らが支持を集めたのはそれが閉塞感の打破につながると考えらえていたからである。今の野党の問題点は明らかだ。問題点にばかり注目しているので、野党の言説を聞いていると「日本には夢や希望がない」ような気分になり、なんとなく気分がアガらない。つまり、民主党が支持されていたのは問題を追求していたからではなくそれが「お手軽な開放感につながる」という期待があったからだ。この期待感が失せてしまったために民主党は<オワコン>になってしまった。気がついていないのは当事者たちだけである。

では人々はなぜ誰かが「一発逆転」のを待ち続けてしまうのか。またそうしたチャンスがないと知ると下を向いて黙り込んでしまうのか?

日本では公共という概念がない。自分たちで社会の問題解決をしようとは思わない。このため日本人は政治について語りたがらない。なぜ政治について語りたがらないのかということすら語りたがらない。日本人が語りたがらないことは二つあるようだ。

一つは自分たちで社会を変えられるというようなことは決して語りたがらない。同じように創造力というトピックにも全く人気がない。この想像力やクリエイティブを語りたがらないという傾向はこの10年程度変わっていないように思える。日本人は自分たちの村を自分で変えられるとは思っていない。だから勝っている村は勝負に熱中し、負けている村は他の村と比べて「自分たちの方がマシだ」と思いたがる。

このほかに、個人で情報を発信するということに恐怖心を持っているということも語りたがらない。なんとなく漠然とした不安はあるようだが、それが具体的に何なのかということを聞いてみると答えがかえってこないのだ。これについては少し考えた。多分「普段個人として突出した人たち」を攻撃しているからだろう。内面に他者に対するやっかみの気持ちがあるので、自分もそうなりかねないということに気がついているのである。無力感とやっかみを感じているのである。

このように日本人には「私」がなく「我々」と「それ以外の奴らあるいは奴」という背景文脈を強く意識して生活しているのだが、決してそれを認めたがらない。それだけソトに対する苛烈な差別意識と攻撃性を持っているということなのだろう。そして個人ではそれを決して表出しない。日本人は群衆になった状態でソトを攻撃することを好み、ウチでは好ましい個人でいようとする。

このウチとソトには大きな問題がある。ウチで解決すべき問題を「ソト」に排出して処理をしないというのは実は空気を汚す公害と同じ図式である。攻撃性という毒を持っていてそれが「他人から見たソト」つまり「誰かのウチ」を攻撃するのだ。公害処理は国の役割だが情報公害を処理する人は誰もいない。

自己と呼ぶか自我と呼ぶかは別として、日本人の自己意識が社会化されていないというような論評は探せばいくつかあるようだ。ウチとソトを分けるという話もよく聞くし、集団で意思決定をして中心を持たないという社会学的な論評も多い。日本人は概念的な村を意識して生活していることは間違いがなさそうだが、これがまとまった理論にまではなっていないし、それを国際比較したような研究もない。

社会化・公共化の原点は「個人の考え」(このブログでは内心と言っている)なのだが、この内心という考え方そのものも全く理解が得られないところをみると、そもそも日本人は文脈なしに個人が考えを持つということそのものを想定していないのかもしれない。つまり、日本人の規範はもともと内向けと外向けのダブルスタンダードであり、コンテクスト抜きの公共も内心もありえないのである。

日本には公共がなく、公共のなさを突き詰めてゆくと内心のなさに行き着く。だが、この短いステートメントが日本人に理解されることはないだろう。「社会の中の私」がないのだから、公共も内心もそもそも「絶対に」理解されえないからである。ところがその上に西洋的な価値観に従うべきだという規範意識がありもともとのアジア的・島国的なものをどこか恥ずかしい「裸の意識」と感じているのかもしれない。他人に聞かれて裸の自分を見せる人はいないだろうし、鏡で正視してみることもできないだろう。だから、日本人にこの手の質問をしても絶対に答えは返ってこない。が面白いことに海外で生活している日本人はこれを意識している人が多いようだ。ゆえに多分主語は「日本人」ではなく「日本社会」だろう。

社会化はされていないのだが、マスコミという大きな塊はあるので、これがときどき「あたかも意思を持っているように」動くことある。ところがこの動きはいつまでも続かない。このように日本にはいくつかの出来損ないの村がある。ワイドショーは幻想の村だ。

このため、多くの人が「マスコミがうわーっと動けば物事が劇的に変わるのに」と思いながら実は何も動いて行かないことに対してフラストレーションを持つのだと考えられる。軍隊が否定され、官僚が多様性と複雑さに耐えられなくなり、政党政治が改革に失敗した今、我々が希望を抱くのは世論がいつか目を覚まして自分の思い通りの理想社会が作られることなのかもしれない。だが、それは多分幻想に過ぎない。そんな集合自我はないからである。

こうして思考は最初の点に戻る。こうした炎上型の言論にはニーズがあるために情報を発信する人はこの炎上を利用した注目を浴び続けなればならない。こうして、情報を発信し続ければし続けるほど問題解決は難しくなり、行動者としての支持は得られなくなってしまう。だが、時々それが画像を結んだように見えてしまうので人々は幻想を抱き続けるのだ。

このループが回路となって「閉塞状況」を作っている。

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全体主義教育・刑罰としての個人・泥状社会

全体主義教育についてのエントリーのページビューがよかった。Quoraの質問にも閲覧者がたくさん集まっているので、学校教育や社会のあり方について息苦しさを感じている日本人は意外と多いのかもしれないと思った。




前回にも書いたように、実際に問題になっているのは全体主義ではなくそのバラバラさなのではないかと思うのでもう少し考えてみたい。これはちょっと癖がある独特のバラバラさである。バラバラなのだが「相手を縛りたい」という気持ちだけはみんなが持っているように思える。砂つぶなのだがベトベトとした砂と言って良いだろう。ベトベトとした砂といえばそれは泥である。日本は泥状社会なのかもしれない。では何がベトついているのだろうか。

考える材料はちょっと断片的である。まず、多くの人が学校に抑圧的なものを感じているというのを出発点にしたい。よくわからないルールとかとにかくお仕着せられている教育課程などというものだ。これが社会に出ても続くので、全体主義に感じられてしまう。会社には誰が決めたかよく分からない昔からのルールがあってみんなの上にべっとりとのしかかっている。だが、この<全体主義>には核がない。つまり、誰が声をあげて「私はおかしいと思う」と言っても絶対に賛同者が出てこない。みんなおかしいことはわかっているのだが、個人が声を上げたというだけでは無視されてしまうのである。

もう一つの断片はワイドショーだ。みんなが見たいものがなくなり、唯一残ったのが有名人のリンチという社会である。視聴率が取れるのは確かなようだが、見てみても何も残らない。正月のめでたい時期を除いて誰かが血祭りにあげられ次々に捨てられてゆくだけなのである。誰が叩いているのかと思っても首謀者は出てこない。司会者は世間が許さないといい、コメンテータに賛同を求める。だが、コメンテータも言われたことに応えているだけで、自分の意見というわけでもなさそうだ。

叩く側に顔がない一方で、叩かれる側には顔がある。芸能人として突出した人には公的人格という刺青が与えられる。このブランドを使ってビジネスもできるのだが、何か間違いを犯すと容赦なく叩かれて文句は言えない。みんながまとまって知りたいものがない社会ではこのリンチだけが唯一の娯楽とされている。ワイドショーは現在のコロッセオなのだ。

もう一つヒントになったものがある。それが「子供の顔を隠した写真を撮影する」という親である。こんなことをする人は見たことがないのだが、Quoraの質問からヒントをもらった。いろいろ考えたのだが、セレブの親を真似しているのだと思う。日本でのセレブは自分が顔を晒して「有名人という刺青」をつけることでビジネスをしている人のことを言う。ママタレともなると子供も商売の道具にしなければならない。が、子供の顔を晒してしまうと特定されていじめられる可能性があるので、子供の顔だけを隠すのだろう。この質問でわからないのは一般人の親は顔出しをしているのかという点だ。おそらく顔出しはしていないのではないだろうか。

実は同じようなことがWEARでも行われてる。WEARはファッションSNSなのだが、アプリで顔を隠すのが流行っている。シールで隠す人もいるのだが、顔をぐちゃぐちゃに潰す人がいる。中には子供を顔出しさせて自分は写らないという親もいるのだ。作品としてのファッションや子供は自慢したいのだが、特定されないために顔を潰しているのを見ると、どうしても個人の尊厳を否定しているように見える。つまり、個性を出したいのにそれを罰しているように見えてしまうのである。

多くの日本人が「個人としてStand outしたいのだが、それをリスクとも感じている」ということがわかる。確かに、ネットで個人情報が特定されると何が起こるかわからない危機管理意識はあるのだろうが、目立つと何をされるとわからないという漠然とした不安感もあるのではないかと思う。

こうした断片的な情報を集めると、どうやら「個人として存在する」ということは日本ではリスク要因なのだということがわかるのだが、どうしてそうなるのだろう。それは、自分もまた個人を攻撃することがあるからではないだろうか。

学校で、個人の名前を出すことがいじめになることがある。たいていの場合SNSなどで本人に知られないように噂話を言い合っているらしいのだが、そもそも名前が出た時点でそれは「刑罰」になる。学校は村なので、個人というのはすなわち「仲間はずれとして追放された」ことを意味するのだ。

最近のネットいじめは「24時間経つと消えてしまう」メッセージなどが利用されるらしい。つまりいじめられている本人は何が書かれてあるかわからないのに「対象とされている」だけでいじめられたと感じそのまま自殺してしまう人もいるのだ。リンクされた記事では「友達が教えてくれて気がついたという人が多い」と言っているが、この友達が本当に親切心で言っているのかは疑わしい。本人が村八分にあっているということがわからないとつまらないと感じている人がいるはずである。つまり刑罰を与えたらそれを知らしめたい。罰を与えられた子が苦しむのがその他大勢の人たちには報酬になるのである。

ここまで考えてくると日本人が考えている個人というのは村に属さない「村八分」の人だということになる。つまり、日本の個人というのはなんらかの目的があって村八分にされているか、特に優れが業績がある人かどちらかのだということになるのだが。それは村が持ち上げるか貶めるかのどちらかであり、本質的には同じことなのである。村にいる人には個人を叩く権利が付随しているということがいえる。そこにいるだけで満足できなくなった村では、村人であるだけではダメで、常に「村人である理由」が必要なのだ。「村を出たら叩かれる」から出て行かないのである。

日本には公共がないので人々は公共のニュースには興味がない。政治や公共は単に自分には関係がないことである。このため日本人の政治感には独特のものがある。質問サイトでいくつか質問してみると特によくわかるのだが、誰も自分に付帯する政治のことは語りたがらない。特に自分が弱者認定される可能性があったり、組織に問題があるというような話題は意識して避けるところがある。が、誰かを叩くための政治についてはみんなが統治者目線で語りたがる。

だが、同時にこれは村人を縛り付けている。つまり自分も個人として発言すれば叩かれる側に回るということである。公共に興味がないので、ルールが環境に合わなくても自分たちで変えることはできない。出たら叩かれると思い込むことで実は自分を村の中に縛り付けている。

こうして泥の中で窒息しそうになっている人たちが感じるのが「全体主義」という言葉の響きによって刺激されるのではないだろうか。だが、実は自分たちが自分たちを縛って溺れさせようとしているということには気がつかない。実は鎖などどこにもない。単にそういうものがあるとみんなが思い込んでいるのだ。

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日本の教育は全体主義化しているのか?

少し前の記事だが、ネットでいじめの原因は学校の「全体主義」にあるという評論を読んだ。ちょっと乱暴な記事だなと思ったのでQuoraで聞いてみたのだが、これが割と感情的な議論になった。政治議論は意外と抑制的なQuoraなのだが、学校という共通体験が入ると感情が露出するというのは少し意外な気がする。政治は多くの人にとってはもはや中核的なテーマではないのかもしれない。




もう一つわかったのは日本でコミュニティの問題が解決しない理由である。リンク先を読んでいただけるとそれぞれが真剣な気持ちで書き込みをしていることはわかるのだが、それが一つの像を結んでいない。というよりお互いに一つの像を結ぼうという意思が全く感じられない。日本には公共という概念がないので、自分たちで社会を作ろうという気持ちにはなれないのだろう。例えば議会政治が暴走する過程において「いやこれはまずいのではないか?」と言い出す人が誰も出てこないのに似ている。

この内藤朝雄の短い論評の中で「全体主義」という用語はかなり特殊な使われ方をしている。外世界から孤立した集団が社会とは違った歪んだ規範を獲得してゆく様子を全体主義と言っており、それを学校に当てはめている。その目的は学校教育の断罪であり不満の表明だ。インサイダーとして教育を変えようという意欲はない。

内藤が挙げてのは、日本陸軍・オウム真理教・連合赤軍である。これは全て外への攻撃性を持った集団であり最終的には犯罪集団と認定されている。が、学校は外への攻撃性を目的とした集団ではない。犯罪集団の中に学校を混ぜ込むことによって、あたかもそれが犯罪集団であるかのように誘導しようとしているのだ。

このような決めつけは本や新聞を売るのには有効だが、問題解決には有害である。学校で本当に何が起こっているのかが分析できなくなるからだ。学校で苛烈で陰湿ないじめが横行しそれが自殺にまでつながっていることは明白なのだが、そうした問題は学校の閉鎖的体質を非難しただけでは解決できない。

Quoraの回答を読んでみたのだが意見は二極化していた。学校・教育関係者は「学校が機能不全を起こしている」ということを認めたがらない上に、学校を失敗していると決めつける評論に否定的な態度を取っていた。一人は楽観的な統計を持ち出して「これは事実とは違う」と言っていたのだが、最終的には持論に誘導しようとしている。つまり、いじめのような「暗い問題」には興味がない。もう一人の学校の先生は「これは不幸な事例であるが、研究者の決めつけこそが全体主義である」との姿勢である。これも学校の正当化である。村が攻撃されたから「代表して」それを守るというのも日本人としては普通の感覚だろう。

一方の側の人たちも「全体主義」という言葉には反応しているが実は学校にはそれほど興味を持っていない。社会になんらかの閉塞感があることは確かなようだが、いじめという「他人の問題」にはそれほど興味がないのだ。別にふざけているわけではないし、彼らには彼らの課題がある。日本人の「公共のなさ」がわかる。公共というよりお互いに関心がない。

ある人は反安倍デモのプラカードの写真を掲載し政権批判を繰り広げそうな勢いだった。社会に問題があるのか政権に問題があるのかと聞いてみたのだが明確な返答はない。つまりとにかく苛立っていて「教育というお題」でそれを表明したがっていると。別のトピックがあっても同じ回答をするだろう。

「このブログを読んでくださっている」という人はいいところまでは行っているのだが、やはり学校には十分に言及していないように思えた。村と全体主義を比べている。Wikipediaの全体主義の項目には「充実した全体主義」という言葉が出てくるのだが、これは村落が全体主義的に異分子を自ら進んで排除するというようなコンセプトである。あとは、これを学校に当てはめて、学校という村が「充実した全体主義なのか」ということを論じればよかった。いじめが横行し自殺によって裁判騒ぎや炎上が起きているところから、学校教育が「充実した状態」にないことは明らかなので、学校は機能している村とまでは言えない。かといって、学校が全体として異分子を排除し一つの反社会的な方向に向かっているとも言えないので、機能不全を起こした全体主義とも言い切れない。そこで初めて「では閉塞感のある学校はどのような状態に陥っているのだろう?」という疑問が出てくるのだと思う。

あとは「お役所仕事だから」と「農耕民族だから」という理由付けになっている人たちがいた。これはマジックワードだ。つまり。これをいうとそこから先は考えずに済むのである。農耕民族さんも自分が言いたいことの宣伝につなげていた。日本型の農村は明確なリーダーがいないのに自律的に集団を維持するのだから、これがいわゆるリーダーが他者を抑圧するような「全体主義」につながるとは思いにくい。でも、そんなことは彼の主張の宣伝には関係がない。

良い悪いは別にして、これは日本の<議論空間>をよく表している。日本には公共がないので「社会の宝である次世代を育てる教育」という概念がない。そのため誰も教育やいじめ問題には関心がない。関心を持っているのは自分の教育理念を売り込みたい人と学校関係の当事者だけである。つまり、語りたい人はたくさんいるが、聞いてくれる人はいないし、全体をまとめようとする人はもっといないという社会なのである。ある意味「全体主義」とは真逆の「バラバラ主義」の社会なのだ。そして、どうしてこうなるかも明確である。日本人は学校で討論をしたことがない。教育の問題というより社会に討論のニーズがないのだろう。

討論の授業というと人は勝つことや話すことについては知りたがる。しかし考えてみれば、60分の授業に6名がいたとしたら、一人が話せるのは10分未満で、あとは人の話を聞いたりまとめたりする時間である。つまり討論というのは人の話を聞くことを学ぶ時間であり、人の話を聞くからこそ自分の話も聞いてもらえるのである。日本人が興味があるのは問題解決のための討論ではなく、相手を従わせるスキルとしての議論である。この議論は勝たなければ意味がない。

日本型の教育は誰が先生になるかを決める。つまり、役割を固定して意見を押しつけるのが教育であり躾なのである。だから生徒の「場を掌握したい」という欲求が満たされることは決してない。生徒は意味がわからなくても英語の授業を受け、理由がわからない校則に縛られながら大人になる。

こうしたいびつな教育空間で「先生になりたい」という欲求を満たすのは実は簡単だ。生徒役を一人決めて支配すればいいのだ。一人にその役割を押し付けてしまえばあとはみんな「話す側」に回れる。それぞれの<先生役>にとってそれは単なる小さな欲求の発散なのだろうし「単なるいじり」なのかもしれない。そしてそもそも支配する側が支配される側に意見を押しつけるのは日本の教育現場では当たり前のことなのだ。

だが、やられた方にとってはそれは「決して個人の人格が認められることがない」という地獄だろう。が、それをクラスメイトたちが聞き入れることは決してない。彼らもまた「聞いてもらった」経験がないからである。

つまり日本の教室は99人が先生で1人が生徒という空間になりつつある。そしてその不幸な1人は決して教育を受けているとは感じない。いじめられているという感覚を持つのである。

ただ、残りの99人も同じように感じているかもしれない。何かはわからないが誰かに従わさせられていると感じている人は確かに多いようだ。それが何だかはわからないので「全体」という言葉を使うのだろう。日本の教育現場は静かに破綻していて、それが時々「いじめの犠牲者」という形で社会に突きつけられるのだ。

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もう誰にも止められない日本の劇場型政治

これまで劇場型政治を見てきた。小西議員のように国会をクイズ番組にしてしまおうというやり方は、それだけを見るとたいして害がないように見える。だが、こうした手法はエスカレートする。




では、我々が心を入れ替えたらこうした劇場型の政治から脱却し「まともな」政治体制に戻すことができるのだろうか。改めて劇場型政治を振り返ってみたい。

近年になってシングルイシューの劇場型政治を始めたのは郵政民営化の小泉純一郎だが、この時は選挙のためだけの劇場だった。この敵を作る手法を選択したのにはいくつかの理由があったのだろう。一つは自民党に集まった批判をそらすためだった。もう一つは古い体制に慣れきった中の人たちにたいする「このままでは大変なことになりますよ」という警告だったはずである。

しかし、いったん劇場に引きつけてしまうと、そのあとも演目が続かないと観客が飽きてしまう。さらに劇場によって危機を乗り切ったと安心してしまった人たちは内部改革の必要性を忘れてしまった。実際に「小泉劇場によって救われた」と感じた人たちが失言を繰り返し三年後に政権を失ってしまった。

特に麻生内閣の末期はひどかった。一旦担ぎ上げた総裁首相を降ろす動きがあり、失言や不祥事による閣僚の辞任も止まらなかった。ネトウヨ発言(当時はそんな言葉はなかったが)を繰り返して辞任した大臣や酔っぱらったままで会見に望んだ大臣もいた。つまり、小泉劇場は内閣を延命させるのには成功したが、自民党の意識改革には失敗してしまったのだ。前回ご紹介した「昭和戦前期の政党政治」にも危機感を持たずに内輪もめに没頭する政党政治家たちの様子が紹介されているが、集団思考状態に陥った日本人は状況を客観的に判断することはない。ましてや、中側から改革することなどはできない。麻生政権の末期をみるとそのことがよくわかる。

小泉型政治は「党内を説得して体質変換をしなくても、マーケティングキャンペーンで選挙にさえ勝てれば問題がない」という楽観思考を生み出した。だが、シングルイシューの劇場はそれが成功してしまうとごまかしがきかなくなる。これが露呈して飽きられるまでが3年だったのだろう。自民党は小泉総裁を選んだ時点で「演技し続けなければ国民の支持が得られない」政党になってしまったのだといえる。

これを引き継いだのはテレビで派手なショーを繰り返した民主党政権だった。彼らのスローガンは「コンクリートから人へ」だった。つまり公共事業を無駄とみなしこれを潰してしまえば全てが解決するとやったのだ。だが、彼らには政策実現力がなく、財源の見通しも裏打ちもなかった。そのため、消費税を増税せざるをえなくなり国民の信頼を失った。マスコミも改革に浮かれ、「本当にそんなことができるのか?」などと確かめる記者はいなかった。

小泉選挙に学んだ民主党は「簡単なスローガンさえ掲げて政権さえ取ってしまえばあとはどうにでもなる」という楽観思考は学んだのだろうが、政権運営について教えてくれる人は誰もいなかったのだろう。こちらも3年で嘘がバレてしまい、結局野田政権を最後に退陣することになった。

そのあとの安倍政権はまともな政権運営をするようになったと感じている人が多いかもしれない。が、彼の2012年のスローガンは実は「日本を取り戻す」だった。Make America Great Againのように「失われた」とか「誰かに盗まれた」という被害者感情を利用している。安倍首相が学んだのは、閉塞感は漂っているが誰も問題を解決しようとしない日本では、まともな政権運営をしようとすると3年程度しか持たないということなのだろう。

安倍首相が作った敵はもっと大きなものになっていた。戦後レジームに縛られているから中国に負けるとほのめかし、内政では「悪夢の民主党から日本を取り戻す」とやった。言っていることは無茶苦茶だが、いい続けるうちに「ああ本当なのかな」と思えてくる。そして徐々にネトウヨ発言を露出して行けばそれは「新しい標準」担ってしまうのである。麻生政権下の中山成彬発言くらいで辞任する大臣はもう一人もいない。

安倍政権が準備した政策は3年ほどはうまくいったようだが、2015年には景気はピークアウトしてしまった。だが、敵を指差し続けている間はそれがバレることはない。つまり、安倍政権は小泉政権と民主党政権から「嘘は吐き続けなければならない」ということを学んだのだ。

そのあとは、特区を作って政権が安倍首相に近い人たちを優遇しているのではとか統計がごまかされているのではなどと小さな攻撃が続いているのだが、これは実は政権側からみると「野党勢力が体制転覆を図っている」という嘘理論の正当化に使える。小西さんの小さなクイズ大会もそのうちの一つである。

野党勢力が立憲民主主義について騒いでいる間は「政府は景気が良くなったというのに、なぜ我々の暮らしはよくならないだろう」と疑問について深く考えなくてもすむ。実は政権攻撃は安倍政治が存続するための手助けにしかなっていないのだ。

だが、劇場型政治は確実に自民党を破壊しつつある。都市部を中心に自民党は政権維持能力を失いつつあるようだ。この間、大阪では「東京のように特別区を作ったら大阪は再び発展する」という約束をした維新が躍進し、東京では「自民党型の旧弊な政治をなくせば問題は全て解決する」とした都民ファーストが躍進している。どちらも自民党は「悪者」扱いされており、安倍政治がなければ国政でも同じようなことが起きていたことが予想される。その他の地方はもっと悲惨で、対抗軸すら作れず翼賛体制を作って中央から支援を引っ張らざるをえなくなっている。

民主党は多くの地域で翼賛体制に組み込まれている。大阪で躍進しているのは維新であり、東京は都民ファーストだった。どちらも現実的な政権維持能力は持っていないが先導能力には長けた人たちである。つまり、ここで政治家だけが冷静になっても自民党よりもっとひどい劇場型に特化した政党が躍進する可能性が高い。それは政治家が現状維持を望んでおり、国民は「勝利」を望んでいるからだ。このままでは大変なことになると思っている人は一人もいない。

だから、外敵から攻撃されるか状況が劇的に変わるまで、政治は現実的な問題解決能力を持つことはなく、いつまでも劇場型の政治を続けざるをえないということになる。劇場型をやめるともっとひどい劇場型政治がやってくる。この国でリーダーシップといえば嘘を吐き続ける能力であり、成長とは途切れることのない闘争という意味でしかない。いったん始まった集団思考的な興奮状態を中から止めることができる人は誰もいないように見える。

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