ダイエットして少しスリムになったので「このまま腹筋が割れるのかな?」と思った。最初はベッドの中でちょっとした腹筋をやっていたのだが、15分くらいの運動にまとまった。最近腕立て伏せを加えたら体つきがちょっとだけ変わってきた。だいたい1年くらいかかっていると思う。変化はとてもわずかなのだが確実に変わっているという実感がある。
「やれば変わるんだな」という達成感は嬉しいものだ。体つきが変わるとちゃんと変化として実感ができるので自分の体をコントロールできているという実感が生まれる。だが、逆に言うとちゃんとやらないと変化が感じられないということでもある。体に気に入らない部分はきちんと努力していない部分なのである。
「毎日コツコツやっていると変化は現れる」のが実感できるということは「やらないと変化が現れない」ということがわかってしまうということでもある。つまり、今まで変われなかったのは誰のせいでもなく「何もやらない自分がいけなかったのだ」ということになる。いわば「自己責任」の世界である。ただし、他人が協力を拒むために使う自己責任ではない。あの自己責任は困っている人の眼の前で扉を「バタン」と閉める拒絶の音である。
前置きが長くなった。今回は虐待やネトウヨという病について見ている。他人を操作したいのにどうしていいかわからないという人たちが増えているのではないかという前提を置いた。ネトウヨや虐待者はその極端な例だが、潜在的にはもっとたくさんの「他人が思い通りにならずイライライしている」人たちが多いのかもしれないと思った。それは裏返せば自分が変われない、変わるために動き出せないということなのかもしれない。
「自分は変えられる」とキレイゴトをいうのは簡単なのだが、ダイエットで一番難しいのは自分の食事のコントロールだ。忙しくて健康に良いものが食べられないとか、子供の頃から習慣で食べているものがやめられないというのが最大の障壁になってくる。中には栄養知識のない人もいて「炭水化物まみれ」の食事が出てくることもあるだろう。コンビニ飯も外食も油と調味料に「まみれて」いる。ストレスがたまるとどうしてもビールを買ってスナック菓子と一緒に流し込みたくなるかもしれない。つまり、こうしたしがらみを断ち切って一人で始めないとダイエットそのものに着手できないという難しさがある。
ネトウヨはそもそも自分の意見を構築するまとまった時間が取れない。情報を集めようとするとすでに極端な思考で炎上商法に走る人たちが大勢いて容易に引っかかってしまう。さらにそれを社会に確かめようとしてうっかり何かを発信すると「それは人権侵害だ」という非難にさらされるかもしれない。食事を見直そうというところまでは良かったが探せたのがコンビニ飯だけだったというような状態だ。
こうして人々は実名で何かを発信するのを諦め、集団になって暴走する道を選ぶ。ただ、これは今に始まったことではなくバブルが崩壊した1990年代からはじまっている。サラリーマン雑誌がLight Right(軽右翼)的なコンテンツを取り上げるようになってきたのがその頃なのだ。
日本社会は、変わりたいのに変われない人たちが持った素朴な政治感情を社会化するのに失敗した。代わりに蔓延しているのが、人権が悪い・憲法が悪い・中国と韓国が悪いという恨みである。政権交代によって政治を変えたいという運動は3年で挫折してしまったので、結果的にこれだけが残った。そしてそれが政権内部にまで浸透してしまったというのが平成末期の政治状況だった。考えてみれば悲惨な話である。
日本は1990年代から経済停滞が始まっていて、それ以降「成功体験」が持ちにくくなっている。ダイエットの例でいうと「やれば痩せるんだな」というのはすなわち「やらないとダメなんだな」ということに気がつくことだ。だが、そういう成功体験そのものがサラリーマン社会にはない。というより成功体験を目指すことすら許されていない。彼らにできるのは現状の維持だけである。買い替えが必要な車をもっと早く安全に走らせろと脅迫されているのだ。
こうした中で変化を望む気持ちだけは大きく膨らんでいるようである。最近気になっているのが、テレビのビジネス向け番組で盛んに語られる「なんとか革命」の類である。政権が使い始めたのが浸透したのだろうが、安倍首相が自力でこんな言葉を発明できるはずもない。大河ドラマと日曜劇場が好きなおじさんたちが考えたのだろう。努力したり話し合ったりして変化をもたらすことが苦手な日本人が「なんか世の中がガラッと変わってくれないかなあ」と思い始めているのかもしれない。例によってQuoraで聞いてみたが「大阪都構想の時にはサラリーマンの支持者が多かったですよ」と教えてくれた人がいた。なるほどなと思った。
自分はどうせ変われないし周囲も動いてくれない。相手を非難しても状況は変わらない。中には弱いものをいじめてうさを晴らす人も出てくる。内に篭ればいじめになり、外に出ればネトウヨ的言動になる。だが、それでも何も変えられないとなると「一発逆転」を狙うようになってくる。状況はそこまで積み上がっている。
革命志向が大きくなり、地道な議論のプロセスを信じられなくなった社会はやがて、全体主義やポピュリズムという政治的機能不全に侵されてゆく。それを防げるのは実は個人の継続的な変化だけなのだと思うのだが、そのためにはしがらみを断ち切って一人で何かを始めるしかない。今の道を降りたらよりひどい選択肢しか残っていないことがわかっているのだから、多くの人たちにとってこれは単なるキレイゴトにしか聞こえないのだろうなということもよくわかる。