テレビで岩崎隆一容疑者の話を延々としている。テレビ局は明らかに動揺しているようだ。
局によって対応の違いはあった。テレビ朝日は政治的正しさから抜けられないようでどっちつかずになっていたし、フジテレビ(実際にやっていたのは安藤優子さんだったが)は決めつけ報道を行いつつも「あれ、叩きがいがないな」と戸惑いを見せていた。
彼らは解決策を持っていないし解決するつもりもないが、報道というある種のお話の上に乗っているのだから解決策を提示するフリをしなければならない。そこでもがくわけだが、もがけばもがくほど沼にはまってしまう。ここに「何も要求しない人」の恐ろしさがある。日本型のムラは取引関係から抜け出せない閉鎖空間なので、何も要求しない人を処理できない。
社会は忘れ去られた人たちに何の関心も持ってこなかったし、これからも持たないだろう。さらにこうした人たちを抵抗してこない弱者と考えて侮ってきた。今回の件で恐怖を感じた人たちはなんらかの取引を求めるだろうが、その取引はもう叶わない。
彼らは戸惑いつつもなんとか枠を埋めていたのだが、関心は別のところに向かいつつある。ワイドショーの関心はすでに自分の知っている枠に引きこもり始めているのだ。
ちょうどDVを働くお嫁さんを息子が殺し母親が一緒に手伝って埋めたという事件が起こっている。まるでテレビドラマのような事件である。背景にはまるで無関心な父親の存在もある。裁判では当事者の発言が取れるので、叩く材料が継続的に手に入るのである。フジテレビはこちらにシフトし「母親が自分をかばうために嘘をついている」と決めたうえで「彼女をより重い罪にするにはどうしたらいいか」ということを延々と話し合っている。安藤優子の無駄遣いにも思えるし、もともとこういう人だったのかなとも思う。いずれにせよこの問題はワイドショーで扱える。この母親は裁判を通じて社会と取引しようとしているからである。
ワイドショーを見ていると日本人には二つの取引があるのがわかる。一つは恫喝系の取引で、これは「厳罰化」である。今回のもう一つの取引は「包摂系」である。この取引は「いい子にしていたら飴をあげる」か「悪い子にしたら叩く」である。自分で考えてどうすべきか決めなさいという考え方を日本人はしない。
「元エリート銀行員の弥谷鷹仁」の犯罪は「もっと罪を重くしろ」と叫ぶことで裁判をエンターティンメントとして利用している。道徳の遊戯化・娯楽化が見られる。つまり叩くというしつけのための行為を娯楽に利用しているということだ。よくDV加害者が「しつけのつもりで叩いた」ということがある。コーチも指導不足を隠すために運動部員に手をあげる。これと同じことが社会的にもごく日常的に起こるのである。
登戸の事件が「面白くない」のは厳罰化は何の役にも立たないからなのだろう。その人からうばえる最大のものは命だが、それはすでに差し出されてしまったし、何よりも社会参加もできていなかったわけだから社会的に抹殺すべきいわゆる生命もない。彼にはPCや携帯電話もなかったようで、こうなると暴ける内面もない。せいぜい卒業文集を見つけてきて叩くくらいしかできない。
では優しさを見せつけるというアプローチはどうだろうか。いわば包摂系取引なのだがこれはもっと惨めな結果に終わる。社会にそんな余裕がないからである。
日本には最低の生活すら維持できないような給料で働かされている人がたくさんいて、そういう人たちに依存しないと普通の暮らしが成り立たなくなっている。例えばAmazonのような配送に依存する小売形態もコンビニも搾取型労働なしでは成り立たない。つまり「今の経済活動から撤退する」動きを認めてしまうと、奴隷から見えない牢獄を取り払うことになってしまうのである。搾取構造は社会に完全に内包されてしまっていてその癒着を引き剥がすことはもうできそうにない。そんな中他人に優しくしましょうなど無理な話である。
それでも我々はまだ旧来のスキームから抜け出せない。「罰を与える」とか「認めてあげる」とか「社会が用意してあげる」という解決策しか出てこない。ぜんぶ「上から目線」なのである。さらに犯罪そのものにしても「防ぐ」という点ばかりが強調されている。これは「自分たちは変わるつもりはないが相手が変わることに期待する」ということだ。
取引はできないしそれも認められないのだから、やがてこの件は「なかったこと」になるのではないかと思う。
ただ、そのような国は日本だけではない。
安心安全のないアメリカでは、子供を一人にしないというのは法律で決められた親の義務である。アメリカ人はすでに「絶対的な安心安全などない」ということがわかっていて自分たちの行動を変えている。これはかなり窮屈な社会である。日本もそういう社会になってしまったのだと認めるのは辛いことかもしれないのだが、もうそういう前提で動くしかないのではないだろうか。