日本人が「自分の頭で考える」とどうなるのか

時々同じTweetが別の人たちから流れてくる。伊勢崎市という田舎の市議会議員さんのこれである。




すでに、このブログを読んでいらっしゃる方ならわかると思うのだが、ここで言っている主権という考え方は、多分村落共同体の入会地の権利のことであろう。イメージしやすいのは水田に水を引く水源地である。それを相続権という言い方をしており、伝統的な考え方が日本人の公共のイメージをゼロサム世界で縛っていることがわかる。既得権という意味に置き換えて使う人も多いのだが、既得権も多くの人に分け与えようとすると減ってしまうという含みがある。

この市議会議員のバックグラウンドはよくわからないのだが主権という言葉の使い方が乱雑なところから見ると政治的な教養はないと思う。主権は国家主権であって、彼らが(多分一人の意見ではないのだろう)気にしているのは新規住民の天賦人権のことだろう。なぜこの二つがごっちゃになっているのかはわからないのだが、漢字の「権」がついているから同じようなものだろうと考えているのかもしれない。

さて、「人権」や「主権」がどのような由来で生まれた言葉かということは調べればわかるはずだ。つまり、彼女たちはこの言葉を調べないままで使っていることになる。最初は興味がないからなのではないかと思ったのだが、いろいろ調べてみてちょっと考えが変わった。パニックにおちっているのではないかと思う。

このTweetが問題にしているであろう外国人の天賦人権が認められるべき理由は、移民が持つ新しい知識がその社会を成長させるからである。そもそも「成長する社会」が前提になっていて、新しい知識をマネジメントする能力がその社会に備わっている必要がある。ところが、安倍政権がすでに起こしている地方の混乱はこれとは全く異なった多様性を生み出している。そしてこの多様性は「よくわからないままによくわからない人たちが入ってくる」という状態を生み出しており、これでアレルギー反応が生まれるわけである。

このTweetを問題にする人が多いのは、天賦人権という言葉をないがしろにする人が増えているからだろう。流れとしては片山さつき(現大臣)の人権無視の発言と憲法改正議論が念頭にあるのかもしれない。伊勢崎市のこの議員も片山さんの発言を念頭においている可能性がある。

社会が複雑になると人々の権利がぶつかることが増えるうえに、見たこともなければ聞いたこともない権利を主張する人が増える。それが理解できないとついつい「異議申し立てをしている人」の口を塞ぎ、上から布団をかけて絞め殺そうとする。だから保守の人たちは天賦人権を嫌う。理解できない上にマネジメントもできないからである。ここでいう保守というのはすなわち「知っていることしか許さないし扱えない」という考え方のことである。つまり保守は歴史ではなく「私の知っている世界」のことを意味しているに過ぎない。

保守は「私が知っているものしか認めない」という知的敗北のことなので、保守理論家が自分で新しい状況に対応しようとすると大変なことが起こることがある。例えば一神教を理解できなかった明治維新の人たちは、それでも「ドイツの皇帝のように天皇も理論化しなければ」と考えたのだろう。そこで知っている道具箱を探して生まれたのが「お父さんやお母さんを大切にしてみんなで仲良くしよう」と「長い間あるものはきっとありがたい」という価値観の組み合わせだ。これが教育勅語である。彼らの時代にも情報はあったはずだが、彼らはそれを扱おうとはしなかったし、扱えなかった。

ところがこの論理ではまず「言語体系が違うアイヌの人たち」を理解できず、中国との関係の深かった同系の言葉を話す沖縄や、歴史も言語も異なる朝鮮半島も統合できなかった。日本人を定義できなかったので「日本人以外」を定義できず、ゆえに彼らをどう扱っていいかがわからなかった。それでも戦争に勝ってしまう。するといよいよ日本の統合原理としての天皇の位置付けを理論化しなければならなくなる。しかし、政争に利用され議論そのものを萎縮させてしまった。戦前の日本もまた目の前の選挙に勝つことの方が重要な社会だった。そうこうしているうちに日本は戦争に負けてしまい、天皇は日本国民の象徴ということになった。そのため、今でもアイヌや朝鮮系の日本人を「なかったことにしたい」人が多い。日本国民を彼らの気に入るように定義しようとすると多民族性が扱えなくなってしまうからである。

例えば、Twitter上でアイヌの人たちに「アイヌ人はいなかった。いると思うなら定義してみろ」という人がいる。だが、よく考えてみると日本人は三、四代すると先祖が辿れなくなってしまう人が多い。何が日本人なのか私たちは定義できないのである。

冒頭で挙げた伊勢崎市議の妄言も、よく理解できない人権や主権という概念を村落の入会地の権利のような限定されたリソースの問題に置き換えて理解している。暗記中心の教育のために途中の議論がすっかり抜けている。だから自分で考えると「主権は田畑を潤す水源地の利用権のようなもの」ということになるのだろう。これを議論して導き出したというところに痛々しさがある。

だが、彼女たちの倒錯はこれだけでは理解できない。実は複雑な問題が絡んでいる。群馬県という衰退する県の鶴の尻尾にあたる地域は外国人が増えている。ブラジル人街ができている大泉町と伊勢崎市は太田市を挟んで東西に位置するが、実はこの3市町は外国人が多い上位3つ(群馬県庁)なのだ。気がつくと周りは言葉の通じない外国人だらけだが、彼らはこの状態をどうすることもできない。多分何が起こっているのかさえ理解できていないのだろう。実は外国人労働者の数は派遣労働者をしのいでおり工場労働では置き換えが始まっている(日経新聞)ようである。これを推進しているのが安倍政権だが、保守は安倍政権は批判できないので、攻撃対象を外国人や人権を主張する人たちに向けている。

だから、彼女たちに議論をして彼女たちが勝とうが負けようが、この現実は変わらない。日本の経済は衰退しており外国人の低賃金労働に依存しなければ成り立たなくなっている。外国人労働者も人間なので、仕事がなくなったら「はい帰ってくれ」とは言えない。200万人を越える外国人を数千人(産経新聞)の職員で取り締まることなどできない。不法滞在の外国人に頼れば最低賃金も払わなくて済むのだから、これに依存する地方の産業は増えてゆくはずである。

しかし、実際に自分がこうした「不毛な戦い」を経験してみると、それにも理由があることがわかる。人格を挑発され論の不備を指摘されるとそれを正当化したいという気持ちが生まれる。目的がないままでこうした論争に「首をつっこむ」とついつい、論争の無限ループに入ってしまう。が、勝手も負けてもステータスがはっきりしない外国人はいなくならないし、地域で日本人が彼らをどう扱っていいかという議論をやらなくてすむ理由にはならない。例えば参政権を与えないということは「ルール策定に責任がない」ということでもある。非正規職員が職場を分断したのと同じことが今度は「非正規住民」という形で社会に広がる。日本人は平成の30年間で経験してきた息苦しさの意味をさらに苦い形で味わうことになるだろう。

我々は伊勢崎市議会議員の妄言をみるとついそれをたしなめたくなる。しかし、その議論に勝つことには全く意味がない。目の前にある問題は何一つ片付かないからである。

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中国はなぜ新疆ウィグル自治区を侵略したのではないのか?

Quoraで面白い質問を目にした。中国人のプログラマが新疆ウィグル自治区は昔から中国の版図なのになぜ侵略したと海外から文句を言われなければならないのだと聞いていた。ここで相手にされなかったので、さらに質問を重ねていた。これに答えたところ、彼から猛反発を食らった。




面白いなと思ったのは日本人との違いである。日本人は論が組み立てられないので、都合の良い論(つまり結果)を羅列した上で「みんなそう言っている」と逃げようとする。結果主義的な傾向が強い。一方、彼は政治の専門家ではないのだろうが、一応自分なりに論を組み立てている。日本語が極めて堪能なことから日本で生まれたか育った人なのかもしれないし、外国語としてここまで使えるとしたらかなり頭がいい人のはずである。

まず、問題になるのは国家観である。帝国主義だった清と多民族・理念国家である中国を接ぎ木している。クルド人と同じようにウィグル人は近代的国家として独立した経験がないので、これだと侵略されているという事実がなくなってしまう。が、ウィグルに異議申し立てをする人たちがたくさんいる以上「漢民族の侵略行為がない」と言い切るのは難しいだろう。ウィグル人はトルコ系のイスラム教徒だが清に服属する前はモンゴルに服属していた。

ただ、議論をしている途中で彼は「あなたの言っていることはよくわからない」などと相手を刺激することを言ってくる。よくテレビで見る中国人の議論の特徴と同じなんだなと思ったし、いわゆるネトウヨという人たちにも同じく相手を挑発してくる傾向がある。相手をイラつかせて揺さぶるのである。そこでついつい「彼の言っていること」に反論したくなってしまう。つまり、彼の論理に反論しないと議論に負けたことになるのでは?と思ってしまうのだ。なんとなく日中・日韓の問題が泥沼化する理由がわかった。テクニカルなところに入り込むと「相手の嘘を証明するのがお仕事」になってしまうので、本来解決すべき問題が見えなくなる。

しかし、よく考えてみると、1,000万人の人口しかいないウィグル人が100万人以上拘束されて「漢人支配から脱却したい」と言っているのだから、中国共産党の支配の正当性が揺らいでいるのは明から。彼が議論に勝とうが私が負けようがこれが変わることはないのである。

人々がついついこうした議論に陥りがちであるということがよくわかった。南京大虐殺、徴用工、慰安婦問題など様々な問題がこうした状況に陥っている。Quoraでの議論の途中経過を見ているとわかるのだが、こちらは「ウィグル人収容の問題」を持ち出すと相手が「スペインでカタルニア人が独立したがっているがあれも弾圧なのでは?」と言ってくるという具合である。

が、15分くらい考えて途中で「議論に負けてもいいな」と思った。まったく別のことがわかったからだ。議論の前段では民族自決の原則を持ち出して、中国共産党の非正当性を証明しようとした。だが、議論の途中でこれは無効になりつつことは明らかであるということもわかった。にもかかわらずウィグルの議論は「民族独立の問題」として扱われる。果たして、昔あった民族自決の議論と今の議論は同じ「民族問題なのか」ということを考えたのである。

普段ならこんな面倒なことは考えないのだが、異質さがぶつかる議論ではスウィッチが入るので1分くらいで議論がまとまることがある。これが本当の議論の効用なのだろう。

まったく別の現象としてアメリカの福音派の問題を思い出した。彼らはアメリカの成長について行けなかった人たちだが、実力では負けてしまうのでこれまでの民主主義では異議申し立てができなかった。成長と成果というキレイゴトを代表していたのがオバマ大統領だ。そこでトランプ大統領を祭り上げてスウィングバックが起きている。アメリカには民族はないが、プラットフォームとして福音派という宗教が使われた。内心を言語化する理論的支柱とみんなが集まる場所が「この類の運動」を支えているのである。

逆に北朝鮮ではいつまでたっても民衆暴動が起こらない。これも理由は明らかである。朝鮮半島は氏族ごとが集まって先祖崇拝する伝統はあるが教会がない。みんなが心を一つにして集まることがないと大規模な抵抗運動は起きにくい。大韓民国もそうだったのだが、国が豊かになると光州で地域暴動が起こって「新しい伝統」を獲得した。現代韓国ではここからくる流れを「革新」と呼んでおり、慶尚道と全羅道の対立という構図がある。

ここから、満人地域から共産党への異議申し立てが起こらず、チベットや新疆ウィグル自治区で民族自決の運動が消えない理由がわかる。つまり、宗教的伝統がある地域では人々が共通の価値観で集まることができるので「私たちは私たちのことを自分で決めたい」というアイデンティティが残るのである。いっけん、ウィグルの問題とアメリカの福音派の問題はまったく違っているように見えるのだが、アメリカは「民族」という概念が使えないだけで、実際には民族的固まりができていることになる。

こうした動きが起こるのはグローバル化が起こりその揺り戻しとしてのローカル化欲求があるからだろう。

加えて日本の問題ですらこれで分析できる。日本人は村落というつながりまでは獲得できたが宗教的な教会を持てないのでここから先のまとまりを作ることはできない。かといって公共も理解しないので理念国家も作れない。だから日本は未成熟な民族運動はあるが中に敵を見出せないので外に敵を作ろうとしている。かといってそれに対抗する人たちもグローバル化を推進しているわけではない。私たちは自分のことを日本民族だと思っているが、実際にあるのは日本語を話し、特定の内心を持たない、小さな孤立した村の集まりでしかないという絵が描ける。

中国共産党は様々な理屈付けで新疆ウィグル自治区の支配を正当化することはできるだろうが、それでもウィグル人の異議申し立ては消せないだろう。彼らは異議申し立てをする「少数者」を100万人も捕まえて「再教育」するしかない。ウィグル人は1000万人程度なので、1/10という割合は尋常ではない。議論や競争に勝つことはできても相手を納得させることはできないのである。

だが、多分それよりも重要な発見は、議論というのは特定の目的を持たない人たちの間に落ち込むと「言った言わない」の応酬になり膠着する可能性が高いということだ。それが楽しいならそこに止まればいいと思うのだが、抜け出したいならば、独自の視点を持たなければならない。

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コミュニティの開発にはお金がかかるのかも

いまQuoraが面白い。Twitterと違って実名(ただし明らかに偽名の人も多いのだが)なのでコミュニティの質が保たれている。よく日本人は議論ができないなどと言われるのだが、それが本当ならQuoraにいる人たちは日本人ではないことになってしまう。




Quoraが面白いのには理由がある。モデレーションがしっかりしているのである。英語版はそこそこ歴史があり、YahooのQ&A(日本では知恵袋)の失敗を参考にしているようだ。多分、炎上を呼ぶような書き込みはできないし、質問に答えていないとか短すぎるものも折りたたみの対象になってしまう。このためにTwitterのような感情的な議論の応酬にならない。割れ窓理論ではないが「見られている」となるとみんな自制的に対応するようになる。するとある程度の議論の質が保たれるというわけである。

試しに、英語版で捕鯨の質問をしてみた。環境問題は感情的になりがちなテーマである。船を沈めろという回答があったが、そのあとにノルウェーが捕鯨をしても誰も何も言わないのだからこれは人種差別なのだという書き込みがあった。つまり、感情的な対応は抑えられ、抑制的なフォローアップがつくのである。捕鯨で日本だけがターゲットになるのは人種差別なのではないかという議論があるそうだ。

もちろん問題が全くないわけではない。すでに中国や韓国に対してあまり根拠のない書き込みが始まっており「その手の人たち」が集まっている。ただ、こういう人たちに対して攻撃的なコメントはない。彼らは放置されており自分たちだけの村を作っている。「K-POPのようにくだらない音楽が人気なのはなぜか」という質問には多くのK-POP寄りの分析が寄せられ、期せずしてK-POP擁護論になってしまった。

ではTwitterにいる人たちが劣っていてQuoraが優れているのかということになるのだがもちろんそんなことはない。Twitterにも有用なコメントをする人はいるし災害時には有用なメディアになるだろう。ただ、普段はみんなが自分たちの言いたいことを叫ぶだけのメディアになっている。これはTwitterのモデレーションが自動化されている上に、運用基準が透明化されていないからだろう。つまりコミュニティの管理にお金をかけないで多くの人を集めてしまうと場が荒れる可能性が高まってしまうのだ。

場が荒れる理由は一つではない。もちろん、あからさまなヘイト発言や政権擁護の発言が場を荒らしているのは確実だ。女性がレイプ被害にあるのは女性にも隙があったからだろうとか、日本人に人権はふさわしくないというようなものである。ただ、これに対応する人たちにも学術的(あるいは常識的に)に反論するスキルがないので、次第に議論が泥沼化する。野党がだらしないために国会の論戦が泥沼化するのにも似ている。どっちもどっちなのだ。

言論の質を保とうとすればお金がかかる。だから、例えば出版が荒れているのは出版が斜陽産業だからなのだと結論付けても構わないのだと思う。最近百田尚樹の本が話題になったが、あれもWikipediaをコピペしたような文章を校閲なしで出したことがわかっている。校閲のコストをTwitterに押し付けているからあの程度の本が出せてしまうわけだが、他の出版社もそんな感じなのかもしれないし、本屋に行くような人たちもあの程度の本しか理解できない。つまり、出版界は確実に砂漠化が進んでいるから百田尚樹が歴史本を出せるのだと言える。

ただ、この「コミュニティにお金がかかる」というのは結果的には日本をリベラルにするが、リベラルには都合がよくないように思える。リベラルという政治的ポジションに立つ人たちは政府ではなく草の根の活動によってコミュニティを盛り上げたいと考えている。市民が集いさえすれば政治はもっとよくなるだろうと考えるのが一般的である。ただ、経済活動そのものにも懐疑的な人が多いので、つい「ボランティアによる自発的な」コミュニティ維持を目指しがちなのではないかと思う。戦争より経済にお金を回せといいつつも、金儲けは嫌だなどと言ってしまう。

加えて、リベラルの人たちは勉強しない。それは人権についての不毛な議論を見ているとよくわかる。Twitterだけを見ていたとき「日本人は議論ができないからこうなるのだ」と思っていたのだが、実際には単なる勉強不足だろう。だから感情的に反対したり誰かのTweetをリツイートすることしかできない。実は議論ができない人たちが議論をしているだけなのである。議論が進めば日本はもっとリベラルな政治価値を許容することができるようになるかもしれないのだが、それなりの話し合いのある空間にはリベラルは入ってこれない。

「誰もが入ってこれるコミュニティ」は誰もが民主的に発言できるがゆえに「荒れる理由・荒らされる可能性」が増えてしまう。専門知識を元に発言をするにはスキルが必要だが「それはくだらない」とか「私は絶対に認めない」というのは無料だからである。

民主的なコミュニティを作るにはお金もかかるし誰もが平等に参入できるわけではないというのは意外と受け入れるのが難しいことなのかもしれないと思う。つまり、民主的なコミュニティは民主的には作れないということになってしまうからである。

ここまで一生懸命に書いてきたが、多分リベラルを自認する人は「今日は用事があるから」明日から勉強しようと言い訳をして決して自分から質問したり回答したりするコミュニティには寄り付かないかもしれないなあと思う。

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山口真帆さんの問題に戸惑う日本人男性のなんと多いことか

NGT48のメンバーである山口真帆さんの問題で松本人志さんが炎上しそうになっている。指原莉乃さんが怒りを抑えている表情が印象的でしばらくぶりにワイドナショーを見ていたのだが、松本さんが例の問題発言をしたときに「ああこれは大変なことになるな」と思った。




女性が性的被害を受けた時社会が適切に対処できないという問題はかなり前から積み重なっている。伊藤詩織事件も未解決のままであり、今回の問題も不起訴処分になったことからうやむやに終わりそうだ。女性がリスクを抱える一方で、問題の根幹には男性の当事者意識の薄さがあるように思える。試しにQuoraで山口さんが謝ることの是非を聞いてみたのだが「世間に対して謝るのは馬鹿馬鹿しいとは思うが仕方がない」という意見が寄せられたのみだった。ここでリクエストに応じて答えてくれた人たちは普段から実名でコメントしており特に社会的な常識から外れた人たちというわけでもない。にもかかわらずやはりこのくらいの認識でしかないわけである。松本さんはある意味この意識の延長でしかこの問題が考えられていないのだということになる。

ただ、この意識のなさと無防備さは問題になりかねないなと思った。一人は「経済的にトクをするのではないか」と指摘していた。確かに仮説としては成り立つが、すでに伊藤詩織事件の時にも問題になった考え方なので、公共にこの意見を無防備に晒すのは社会にとって有害であり個人にとっても危険である。

また、「世間学」という学問を持ち出して、世間を騒がせたことは穢れになるというような言い方をしている人がいた。この議論を展開して行くと、性被害者は世間に異議申し立てをした時点で穢れたことになってしまうので黙っていろということになるので、コメントでそれを確認した。すると高評価が戻ってきた。つまり「それを是認した」ということである。ただ、実名でこうした意見を言っているところから悪気は全くないはずだ。

世間学の人は「僕自身はそうは思わない」としているので、個人としてはリスクヘッジをしているつもりなのだと思う。ワイドナショーが「芸能人が意見をいい合う」としてリスクヘッジしたつもりになっているのに似ている。

日本人は公共を理解しないので社会と個人を分離することがある。だから「私はそう思わないが」というのがリスクヘッジになるのだろう。Quoraは一見会員制のサービスに見えてしまうので(実際には公開されているわけだが)村の中にいるような安心感も得られる。

松本さんの発言にも同じような傾向が見られる。「娘がいる自分は」というようなことをおっしゃっていたと思うのだが、実際には指原さんを「いじろうとして」お得意の体を使った……などと言ってしまった。番組の性質上笑いに落とさなければならないという本能が働いたものと思われるが、明らかに処理できなくなっていることがわかるのと同時に「指原さんは同じ芸能人だから、これが笑いという約束ごとなのだと理解してくれるだろう」と甘えているのだろう。

ところが指原さんは当事者の一人であり、なおかつ女性の代表として公的に振る舞わなければならないということが理解できている。一方で松本さんが芸人として甘えてきているということも理解している。そのためにこの発言をどう処理していいかわからなくなり「この人やばい」と言っていた。ここでは明らかに指原さんのほうが賢かった。松本さんはワイドナショーがムラと公共の間にあるということが理解できていないが、指原さんはわかっているのだ。

ここに見られるムラビト意識は公共と自分たちの生活圏を意識的に分割する思考様式だ。日本人は対話を通じて親密なかばい合いの共同体を作る。問題があっても誰かがかばってくれるだろうという「あの日本人ならば誰もが感じたことがある」安心感である。

だが、燃え残りの問題が山積している地雷原のような話題の場合、これはとても危険な態度である。彼の発言は実際にはテレビを通じて「お笑いの大家であり誰もが気を使って当然」という松本さんの事情に忖度しない消費者の半分を占める女性を怒らせかねない。そしてその怒りはスポンサーへの不買運動につながりかねない。

フジテレビが今回のビデオを流してしまったのは、山口さんの問題を「芸人がいじっても良い程度の軽い問題」と考えているか、芸人が扱うのだから世間が大目に見てくれるだろうと思っているからだろう。そもそも甘えを前提にしている。一方で、企業としての社会責任は放棄している。個人の意見が蓄積して社会の意見になるとは考えていないし、視聴者が連帯して不買運動を起こしてスポンサーに害を与えかねないとも思っていない。

この手の問題を語るときによく集団としての日本人について語られる。すると「か弱い女性に対して世間は冷たい」というようなことになってしまう。だが、一人ひとりの日本人男性について見てみると必ずしも悪気があって言っているというわけではないということはわかる。問題はむしろ公共と個人の関係の希薄さである。日本人は一人ひとりの何気ない意見が世論を形成するとは思っていないのである。

日本人は今の所、自分たちの発言が集積して社会になるという意識は持てていない。それは、普通の人たちだけでなく、タレントやテレビ局まで共通しているマインドセットなのだろう。だが、テレビにしろSNSにしろこういうマインドセットでは乗り切れなくなっている。実は私たち一人ひとりの何気ない意見が社会の空気を作っており、それが思っているより多くの人に注目されてしまっているからだ。

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日本人男性はなぜセクハラ発言をやめられないのか

Quoraでまた面白い経験をした。外国人女性に「大人っぽいね」と英語で言うにはどうしたらいいのか?というのである。年に触れるのはいけないのかといっているところからなんとなく歓迎されていないことはわかっているらしい。外国人=英語としているところから少し年配の人だなと思った。この歳の人たちにとって外国人というのはアメリカの白人のことである。




Quoraが面白いのは思考過程がわかるところだろう。これが結論だけをぶつけて平行線に陥ることが多いTwitterとの違いである。この場合「ある年代の日本人のおっさん」の典型的な思考がわかる。彼らは相場を作ってその中で競って勝ちたい。そして絶対的な善悪の基準がない。そして村の経験が世界で通用すると思っている。さらに主題ではなく人格に反応する。

これについて、対象化という話を書いた。対象化というのはwikipediaのobjectificationを勝手に和訳したものである。日本語のエントリーがないところからもわかるように、英語圏では一般的に使われるものの日本ではあまり馴染みがない概念だ。この言葉は特に男性が女性を性的な対象物として従属的にみなすことを非難する文脈で用いられることが多い。

だが、回答を書いている途中に、日本人のこの男性はこの「対象化」という概念を受け入れられないだろうなと思った。これがプリンシプル(原則)概念だからである。日本人には原理・原則を受け入れない人が多い。内心がなく善悪の基準を持たないからである。が、なぜ善悪の基準を持たないのかということはよくわからなかった。

日本人は自分たちが民主主義を理解していないと言われると腹をたてる。経験上は「外国の事例を知っているからといって上から目線で反発する」とか「原理原則にこだわるお堅い人だ」といわれることが多い。原則の問題は人格の問題に置き換えられ、人格攻撃が始まるのが日本の議論の特徴だ。今回も「少しシニカルすぎるのでは?」と言われた。

理解できないと言われるとそのことに反発心を覚えるが「何が共有できていないのか」について聞き返してくることはない。日本人は個人としての相手には興味がなく集団の相場観で動きたがる。そしてその相場観はその人の経験値に過ぎない。例えば、このブログには執拗に独白的なコメントを書いてくる人がいる。感覚としてはアフリカにいるキリンの話をしているのに、想像上の麒麟について書いてくるように聞こえる。

今回もいろいろな人が「大人っぽいななどと言わないほうがいいですよ」と書いているのだが、それは全然響いていないらしい。つまり聞いたことを自分の経験でフィルターして合わないものを落としてしまうのである。しまいには、ゴージャスとかセクシーとかも言ってはいけないのかと重ねてきた。プロフィールを見ると1981年に三井物産に入社してバブル期を経験しているらしい。ちょうどバブル崩壊期に30代前半だったというような人であり男女機会均等法(1985年成立/1986年施行)以前の入社でもある。「ああ、これはダメだな」と思った。

この時代の駐在員の人たちは現地コミュニティとかかわらず村を作っていたので、現地の状態をよく知らないまま海外を理解していると思い込んでいる人が多い。また、女性がお茶汲みと呼ばれていた時代の入社なので「職場の女の子」にちょっかいを出しても構わないと思っている人たちだ。

別に釣っているわけではないのだがついに「毎回ベッドに連れ込めているわけではないが」などと言い出した。つまり俺はうまいことやったと自慢したいのだ。「これはTwitterとかで炎上するやつだろう」と思ってしまうのだが、日本人男性を相手にしているという気安さから打ち明けてきたのかもしれない。この回答が全世界に向けて公開されているということをすっかり忘れているようだが、こういうメンタリティの人はTwitterでは珍しくない。

自分の実名を出した上でベッドに連れ込んだことがあるということをほのめかしてマウンティングしているというのはどういうことだろうかと思った。大学生が女性経験を比較しようと友達に話を持ちかけるようなメンタリティがある。お前はひどい目にあったのでは?と書かれたので「素敵な武勇伝をありがとう」と返しておいた。

日本ですら女性を上から目線で評価して釣り上げたなどということは社会的に容認されなくなりつつある。ただそれは原理原則なので「抜け穴があってうまいことやっている人は大勢いるはずだ」という意識が働くのだろう。ただ行動原理はそれだけでもなさそうだ。多分、勝手に相場観を作った上で「自分はそこよりちょっと抜け出ているから偉いのだ」と自慢しているのである。競争の意識が働いているのだと思った。

日本は偏差値別に編成された学校で学び、同じくらいの実力のある人たちがちょっとした差異で競い合うという社会である。こうした経験を数十年積み重ねてしまうと外の世界のルールがわからなくなり、善悪の基準が自分で判断できなくなる。そしてちょっとした違いの中で勝つことが自己実現につながるのである。普段こうしたことを進んで開陳してくる人は少ない。その意味で彼らの思考形式がわかるというのはとても面白い。

日本は女性の社会進出が進んでいないと言われるが、それはこういうおじさんたちが社会の中枢にいるからだろう。つまりダメと言われるとそれに挑戦したくなるのである。コメントには「愛があれば問題にならない」とも書いている。よくセクハラ・パワハラの報道などでこういうセリフを聞くことがある。相手が裁判を起こすほど怒っているのに「愛のある指導のつもりだった」というのが典型例だが、あれは言い逃れではなく本当にそう思っているのだなと思った。周りがカンカンに怒っているのにそれに気がつかず、自己愛と顕示欲を満たそうと自分の愛の定義を押し付けようとするのだ。

このおじさんは「女の子をモノにしたいがどこまでだったら言っても良いのかということを知りたがっている」ということだ。日本のように集団圧力の強い国では、おじさんたちが勝手に「ここまではOK」で「ここからはダメ」だろうと決めてそれを職場の女性に押し付けても構わない。例えばインターンの女性を押し倒しても官邸とつながっていれば無罪放免になる上に武勇伝として仲間に喜んでもらえるというそんな社会である。

こうした考え方が蔓延しているので、日本では西洋式の民主主義が成り立ちにくい。民主主義とか人権というルールは西洋では守るものだが、日本では挑戦して破るものなのである。そしてルールを守って不利益を被った人には「うまいことやらなかたお前が悪い」と指摘して競争意識を満たすのだ。西洋ではカンニングは絶対悪だが、日本人は「やってもいいカンニングがある」と思っていることになる。そして、あまり悪気がなくそれを素直に披瀝してしまう。

イギリスが住民投票で決めたEUからの離脱を「決まったことだから」として進めようとしている。日本人から見るとそれは馬鹿げている。空気を読んで解釈を変えればいいじゃないかと思うからだ。だが、それは原理原則を重んじる人から見ればカンニングでしかない。

日本でセクハラがなくならず女性の社会進出が進まないのは、バブル経済を知っている世代のおじさんたちがいるからなのかもしれない。彼らは強烈な成功体験を持っていて「それが今でもなんとか成り立つのでは?」と信じつづけているのだろう。彼らは「今の時代はもうそういう時代じゃないんですよ」と言っても全く聞く耳を持たず執拗に抜け道を聞きたがる。そして周りの人を呆れさせるか怒らせてしまうのである。

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辺野古基地問題の意外な広がりに驚く

辺野古の基地の問題が面白い展開を見せている。ハワイのロブ・カジワラ(ロバート梶原)という人がホワイトハウスに請願をかけたところで相が転移したようだ。軍事問題から環境問題に変わったのである。ついに世界的ロックバンドのブライアン・メイが署名を呼びかけるところまでゆき、これまでに20万人以上が応じているそうである。(東京新聞




この問題を日米同盟と中国の軍事的脅威の話だというフレームで見ている人から見ると「環境のような感傷的な問題にダウングレードするとは何事だ」と感じるかもしれない。また搾取される沖縄の象徴のように捉える人も「単なる環境問題」に落とし込むのは抵抗があるのではないだろうか。自分で書いた過去のエントリーを見ても「環境問題」としては捉えてこなかった。ところが後述するように環境問題というのは一定の地域ではかなりプライオリティの高い問題になりつつある。

安倍首相が絡んだ問題は、森友・加計学園問題も、韓国の哨戒機レーザー照射問題もこの辺野古の問題(沖縄タイムス)もすべて「言った言わない」の泥沼になってしまう。対人関係に誠意が感じられず後先考えない発言が多いからなのだろうが、リーダーとしての資質を著しく欠いている。相手の期待や価値観を踏みにじるという共通点があり触れた問題すべての感情的なしこりが残る。今回は沖縄と本土という対立に加えて、環境対開発という別の感情にまで触れてしまったことになる。これまでは国内問題だったが、最近では海外に延焼する事例もでてきている。この辺野古の問題と一年以上続くカルロスゴーン裁判は海外の高い関心を呼ぶだろうし、現在の日本政府は海外のレピュテーション管理は苦手である。

いずれにせよ、いったんフレームが切り替わると伝達速度が変わってしまう。まず海外セレブをお手本にした活動を行っているローラさんが賛同し、今回ブライアン・メイさんも賛同した。イギリス出身の元教師であり、天文学の博士号を持った動物愛護家ということなので、環境問題にも造詣が深そうである。

どうやら我々が考える政治的な問題は「異なるステークスホルダー間の対立(利害関係)」と「みんなの環境・人権問題」の二つに分かれてきているようだ。そして、環境や人権の問題は「みんなにとって大切な問題」であり、このエリアに限っていえばセレブは積極的に影響力を行使するべきだということになってきているのだろう。政治問題と言っても一緒くたにはできないし、利害対立を環境問題に変えると広がりが大きくなる。

日本人からみると取るに足らないと思える環境問題は意外に深刻な問題に発展しかねない。例えばカリフォルニアでは新しい対立が起きている。経済的に恵まれている海岸沿いの人たちは環境問題に敏感だ。経済的に少し不利になっても環境を守りたいと考えている。一方、企業誘致が難しくなり税金も高くなることに反対の人たちもいる。このため、カリフォルニアを分割する運動やアメリカから分離する運動などに発展しているのだそうだ。(Wedge)東西対立がなくなった今、環境は大きな政治課題なのである。

当初この署名活動を見た時には「日本政府を飛び越えてアメリカに話を持っていっても仕方がないのでは?」などと思っていたのだが、予想外に健闘していると思う。タイミングとしても美しいサンゴ礁の海がブルドーザーで汚されるというわかりやすい写真の方が安倍首相の嘘よりも伝わりやすかったのかもしれない。

問題は相手にぶつけてみるまではどんな反響があるかわからない。また、相手に響く文法は相手に聞いてみないとわからない。沖縄県知事たちがアメリカを訪れて地道に訴えてきても広がらなかった運動が別の視点から広がり始めたということの持つ意味は大きい。我々は、村の中でいろいろ言い合っていても外に伝わらなければ意味がないということに気がつくべきなのかもしれない。

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もう日本人が戻れる村はなく、かといって夢想している正解も存在しない

今回は、韓国人が序列を気にしておりそれに逆らおうと「文句を言い続けているのでは」という仮説を書いた。そして、どうやら日本人も「集団の空気」を気にしており、空気と不整合があると苦痛を感じるようだ。




日本人も韓国人もこうした不整合からくる居心地の悪さを自覚していないようだ。こうした不整合を背景にした議論は人々に苦痛をもたらし出口がない。問題解決を目的としているはずの政治的議論が苦痛になるのは、そもそも人々が何を求めているのかがわかっていないからではないだろうか。

そんなことを考えてどうするのだろうという人がいるかもしれない。実際にTwitterでメンション付きで「コミュニケーションの裏側について分析してどんな意味があるのだろうか」というつぶやきを見つけた。確かに背景を分析しても問題は解決できない。が、そもそも我々は問題解決という入り口にまだ立っていないのではないだろうかと考えることでようやく前に進むことができる。解決策が見つけ出せるようになるのはその先である。

ここで重要なのは、私たちが「村全体が一つになっていて自分たちがその正義と同一化している状態」に居心地良さを見つけるということである。ところが民主主義社会において「みんなの意見が完全に一致すること」などありえない。常に意見の相違が存在する上に、二大政党制だと常に半数近い人が「正義の側ではない」可能性がある。かつてそのような村があったのかという疑問もあるのだが「もう村はないのだから後戻りはできないのではないか」という問いかけが生まれる。

いずれにせよ、もう村がないのに村の一体感を求めるという欲求は様々な問題を引き起こしている。Twitter上では常に「負けている方の半分」が文句を言っている。2009年頃には公共工事がすべて悪だとされていたので、自民党支持者の人たちは居心地の悪さを感じていた。彼らは常に攻撃的で「なぜ公共工事には良いものがあるのか」という説得力のないことを言い続けていた。そして、現在では民主党を支持していた人たちが自民党政治について文句を言い続けている。こちらは民主主義の理想が実現せず、安倍首相が戦争に向かっていると主張する。

立憲野党支持者と呼ばれる人たちはうすうす自分たちの言っていることには根拠も説得力もないということに気がついているはずである。せいぜい小沢一郎のとっくに終わった政治闘争二利用されるか、共産党の活動に使われるだけであることもわかっているのではないだろうか。しかしそれでも彼らは闘争をやめられない。

日本の場合、こうした屈折した感情は大きなものに結びつくという特徴もあるようだ。世界平和、民主主義、二千六百年の日本の伝統、家族の価値観というような「ありもしない」ものが、当然実現されるべきものだと誤認されてしまうのである。経験上それは避けられないことだと思うのだが、大きな用語を使いたくなったら少し用心してみなければならない。

家族の価値観とは家族同士が「大切にしよう」と思うから維持されるものであって、家族制度を復活させ父親である家長に大きな権限を与えたからといって実現できるものでもない。同じように日本人が自分たちで戦争を防いで行こうと思わなければ憲法第9条には何の意味もない。だが大きなものに陶酔すると日々のこうした努力が何かくだらないことのように思えてくる。

東京大学を出て家庭教師もやっていた「優秀な」平沢勝栄議員も家族がどのようにして維持されててきたのかということについて考えない。東大の教育が正解を教えることに特化しており自分の頭で考える術を与えてこなかったことを、あのLGBT発言はよく表している。彼らは単に「自分が知っている正解ではないから目の前から消したい」と感じているだけなのであり戦後教育の悲しい暴走とも言える。

我々はもう失われてしまった村をいつまでも懐かしく思い、ありもしない正解を捏造してそれに固執している。それが様々な苦しみや軋轢を生んでいるのではないかと思える。ただ、そこから脱却するのかそれともそこに止まるのかは個人の自由である。少なくとも、立ち止まらずに相手を非難し続けることには商品的な価値があり、街の本屋にはそうした類の本が溢れている。少なくとも喉の痛みや鼻水を抑える風邪薬のような効能はあり全く無駄とも言えないのである。

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どうせわかってもらえないと諦めるリベラル

Twitterで「日本がIWCを脱退したので海外から批判が集まりオリンピックが大失敗するだろう」というTweetを複数見かけた。一方、Quoraでは実際に捕鯨に対する反感が集まっており日本人に「なぜ日本人はクジラを殺すのか」という質問がぶつけられているので「日本語でちまちまとTweetするなら英語で反論してほしい」というようなことを書いて引用Tweetした。




実際には「日本人がクジラを食べたがっているわけではなく、安倍さんと二階さんの地元だと説明してほしい」と書いた。すると「自民党政権を政権につけている日本人が非難されるだけだ」という反論が戻ってきた。

この返答を見ていつかのことがわかった。まず日本人が世間とか世界を持ち出すとき実際に気にしているのは村の上下関係であって、村の外には実はあまり関心がないということだ。だが、それはすでに観察済みであってそれほど目新しいことはない。

この人は過去Tweetを見ると反自民党系の人らしい。アメリカ人に実際に説得してこういう答えが返ってきたのでなければアメリカ人がどう反応するのかは知らないはずだ。ということは、どこかから既知の「でもみんなが自民党を支持している」という答えを持ってきたはずである。つまり、普段からネトウヨに言われていることを気にしており、自分でもそう思っているのだろう。

日本のリベラルは自民党政権には勝てない。何を言っても「実は俺たちが何を言ってもみんなは賛成してくれない」と信じ込んでしまっているからだ。

前回「韓国が居丈高に対応するのは実は日本が怖いからではないか」と書いた。同じことが日本のリベラルにもいえる。つまりリベラルはすでに議論に負けているという自覚があるからより強い主張を繰り返すことになるのだろう。止まった瞬間に「自分が間違っていること」を認めてしまうことになる。

ただ、今回のリアクションを「リベラルの負け犬の遠吠え」と揶揄するつもりはない。自民党の支持者たちも2009年には同じようなメンタリティを持っていた。彼らは自分たちのどこが間違っていたのかと内省することはなく、公共工事にも良いものがあると言いつのり、天賦人権のために自分たちは政権を追われたと被害者意識を募らせてあのひどい憲法草案を作った。リベラルも「なぜ自分たちは支持されなくなったのか」と反省することなく被害者意識を募らせることになるだろう。

鬱積した気持ちという意味では韓国の「恨(ハン)」に近いのだが、日本の場合はこれが上から目線で語られる。自民党支持者は、今度はアメリカと戦争すれば負けないと思い、憲法という大きなルールを支配すれば勝てると信じる。民主党支持者は民主主義という正解にこだわる。これが負けた側の鬱積した感情を素直に表現する韓国人と大きく違っているところである。日本人は自分こそが本物の権威とつながっているという水戸黄門幻想を持っているのである。

日本人にせよ韓国人にせよ「上下関係」や「多数決」を気にする。みんなの意見が自分の意見より強い「集団主義的な」社会だからだ。自分たちの考える正義が空気に負けた時に屈折した感情として恨が生まれるのだ。だが、アメリカ人はそうではない。自分の意見や立場を伝えることが大切な社会である。そして「アメリカ人みんな」は存在しないから、言ってみないとどんな反応があるかはわからない。

実際にQuoraで「日本人がクジラを食べたがっているわけではない」などと言ってもそれにUpvote(いいね)がつくことはない。なぜならば質問をしてくるアメリカ人はもともと反捕鯨に関心がある人たちだからである。一方、アメリカ人がみんな日本人に反発しているわけでもない。人によって関心ごとが違うのだ。

反捕鯨の人たちが「日本人全体」を主語にしている間、彼らは日本全体を説得しようとするだろう。しかし、誰が原因なのかがわかればそれなりに対応するはずであり、どう行動するかは彼らの問題である。「私を捕鯨問題で説得しても仕方がないですよ」と説明することだけがこちら側の責任である。

トランプ政権で入管施設で子供が複数人亡くなっている。これに反発する人は多いだろうが、だからといってアメリカ人全体が移民の子供を殺したがっていると考える日本人はあまりいないだろう。つまり「アメリカ人全体がトランプ大統領のやっていることを全て承認している」とは思わないはずなのだ。しかし、もし仮にアメリカが日本の人権状況に文句をつけてきたら「アメリカだってこんな残酷なことをしている」と言い出すはずである。

ここからもう一つ面白いことがわかる。日本人は「自分が何かやりたくないこと」があるか、自分がやっていることに介入されて不快になると、「どうせそんなことは無駄だ」と言ったり、意見ではなく人格を否定する。「その人のいうことを聞かなくても構わない」ということを証明しようとするのである。これは、その人の人格を認めてしまうとそれは空気の一部になり「従わなければならない」と重荷に感じてしまうからだろう。つまり、人格と意見が不可分であり「人それぞれにいろいろな考え方がある」ということが理解できない上に、普段からやらない理由を探しているのである。それだけ自分の意思決定権に強いこだわりがあるのだ。

日本や韓国ではどうやら集団の雰囲気が個人の意見に大きな影響を与えているようだということがわかる。だが、言動ではなくちょっとしたリアクションを通して集団に対する恐れが時折ほの見えるだけで普段は全く意識されていない。

アメリカは自分の意見を表明し相手を説得しようとする社会である。だから合意された空気よりも合意形成のための意思決定プロセスを知りたがる。このため欧米型の異文化コミュニケーションの本は「意思決定プロセス」に強い関心がある。一方で他人の目を気にする日本人は世界で認められている日本に関心があり「日本人論」を書きたがる。最近Quoraで日本人は中国人のことをどう思っているのかということを聞かれることが増えた。その意味では他人の目を気にして承認されたがる文化は東洋に広がっているのではないかと思う。

自分の意見を述べることに慣れているアメリカ人はその人が何を言っているのかがわかれば何を目標にしているのかがわかる。しかし、集団の空気を読んで自分の意見を屈折させてしまう東洋的な人たちの政治的な意見は主張だけを聞いていても、彼らが何を気にしているのかが実はよくわからない。だから「リアクション」を観察することが重要なのである。

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ローラの政治的発言と個人主義

Quoraでまた面白い視点を発見した。ローラが政治的発言をすることの是非を聞いたところ、個人の発言をとやかくいうべきではないと叱られたのである。日本における個人主義の理解としては極めて真っ当だと思った。




これまでローラはこの問題について<正しく>理解はしておらず、西洋的な外面にしたがって政治問題に参加したのだと分析してきた。西洋的な外面とは「セレブは環境問題や人権問題について積極的に発言すべきだ」という価値体系である。実際に彼女が出演しているTBCのコマーシャルは環境問題とリンクしているので一定のマーケティング的な価値があるものと思われる。最近はインスタを経由してこうした価値体系が直接日本に入ってくる。ただこれは環境問題についての発言であって、基地の移設が国防にどう関与するかというような話ではない。最近ではBTSが人権問題で演説したことからもわかるように、アメリカを中心とした文化ではこれがトレンドなのだ。

これが日本で摩擦を起こすのは西洋の民主主義の価値観と我々の村社会の価値観が全く異なっているからである。

アメリカのセレブが環境問題で積極的に発言するのは、彼らの発言に社会的な意味があるとされているからである。もともとキリスト教文化圏には献金文化がある。社会的に成功している人はそれに応じて社会にそれを還元しなければならないという考えたかたである。なので「政治的発言」と言ってもそれは人権擁護とか環境問題のようにあまり個人の利害に関わらないものになる。そして、それは必ずしも個人の見解ではなく社会的に意味があるものとされる。社会はセレブが政治的な発言をすることを積極的に期待するのである。デモが政治的発言として社会に組み込まれているのと同じようにセレブの情報発信も社会に組み込まれている。

ところが村落性が強い日本では個人の考えが政治に生かされることはない。村落性が強い社会というのは、個人の意見が顧みられず政治的な意思は集団の利害を調整した上で集約されるという世界である。通貨になっているのはイデオロギー(個人の理想)ではなく村の利益なのである。

このため村と個人の利害関係が一致しなくなるとそれを窮屈に感じる人が出てくる。そういう人たちは相互監視的な村のあり方を嫌うので「社会は個人に干渉すべきではない」と感じるようになる。個人の理想は村から出ることはできるが、それを社会二戻す仕組みはないのである。村は村だけで利害調整を行う。だから村は過疎化し、外に出た人たちは孤立する。一人ひとりの人生をみるととても複雑なことが起きているが、構造自体は極めて簡単である。

ローラは政治的発言をすべきではないという場合それは「村を離れた人が村に干渉するなどとんでもないことだ」という意味になる。だから村人がローラの政治的な発言をすべきかということを決めるべきではないというカウンターの価値観が生まれる。

ところがこれは裏返すと、ローラの発言は個人が勝手にやっていることだから社会とは関係がないということになってしまう。しかし、日本人は窮屈な村落に慣れているのでそれに気がつかない。この主張をした人は多分自分が何を言ったのかよくわかっていないと思う。この後のコメントで延々と個人が政治について語ることの「リスク」について言及していた。

前回はアレルギー反応としての辺野古反対について見てきたのだが、実は窮屈になりすぎてしまった村落に対する反対意見の表明としての「個人主義」という考え方もあるのだなと思った。

例えば自分勝手としての個人主義は立憲民主党などのリベラル政党に見られる。みんなが好き勝手に意見表明はするがいつまでたってもまとまらず政治問題解決のために事務所をつくったり議員同士が組織的に協力しないという学級崩壊的な世界である。だがこれはリベラルでは取り立てて珍しい光景ではない。そして彼らが集団でまとまろうとすると党議拘束がかかり少数の執行部が決めたことをしぶしぶみんなが守るという集団になる。彼らはそのやり方を学校で習っているわけでもないだろうから、日本人の「村人DNA」がとても強いことを意味しているのだろう。

日本人はほぼ無意識のうちに強い村意識を受け入れている。これをいくら長々と書いたところでキリスト教文化が個人の貢献を元にした公共を作っているということを見たことがない人には、西洋的民主主義の仕組みは理解できない。

日本の民主主義が崩壊しているという不満を共有する人は多いが、実はかなり複雑な背景があると思う。村的民主主義(実際には集団そのもの)が崩壊しかけており、かといって個人主義的民主主義も理解されてこなかった。保守と呼ばれる人たちは強い国家が村を再建してくれることを望んでいる。そしてリベラルと呼ばれる人たちはその村に取り込まれたくないと思っている。しかし、国家権力は自分たちだけが快適に住めるオトモダチの村を作るだけで国民を救済してくれないし村から離散した人たちは一致団結して新しい社会を作ろうとは思わない。だから、いつまでたっても問題が解決しないというのが平成も終わろうとしている2018年の政治風景なのではないだろうか。

しかしながらこの問題の最も基礎にある問題は、自分たちの社会が何であって何を望んでいるのかということを言葉にして外形化できていないことなのではないかと思う。表面的には日本語という同じ言語を話しているのだが、お互いに意思疎通が不可能ということなので、いわば我々は現代のバベルの塔に暮らしていることになる。

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ローラの政治的発言と所有集団

モデルのローラが辺野古基地に関する反対署名を呼びかけて話題になっている。これについて芸能人は政治的発言をすべきではないという人と、テレビで政治的発言ができないのがおかしいという声がある。これについて整理したい。




前回、所属集団・所有集団という概念を作った。日本人であると宣言した時、それが単に所属先(日本国籍を持っている)を意味しているのか、それとも「俺の国」と言えるかという問題である。実際に所有していなくても、俺の国と言えた方が「所有感覚」が強いといえる。

まずは、テレビが政治的発言を禁止している理由を考えよう。アメリカなどのいわゆる民主国家は個人の理想(イデオロギー)を実現するために作られた国である。こうした国では個人が意見を持つのは当然のことであり、当然テレビもその社会思想によって「設計」されている。

ところが、日本はそうなっていない。テレビはスポンサーの意向を無視することはできず、電波は国からの免許を受けている。それぞれの利権集団は集団として集めた意見を集約してその一番大きな単位が国になっている。だから異議申し立てをするとしてもそれなりの通路を通じて決まった方法で集約していかなければならない。この意見集約を根回しや調整などと言っている。だから「芸能人が個人的に勝手に」そこから外れる発言をされると「調整ができずに困ったこと」になる。日本の芸能人は個人の意見を代表しているわけではなく、テレビ局、企業、政府といった集団で決まった決定事項を「告知する」ために雇われているいわば出入り業者なのである。

日本人は村が階層構造を持ち、最終的には中心に何もできない権力者を置いた上で少人数で意思決定するというやり方を好む。また、最小単位である村は相互に意思確認可能な少人数の集団であって、トップにいる人たちは村が何を考えているのかわからないという構造もある。かなり複雑で緻密な構造体なのだが自然発生的にできているので、日本人もこうした構造があることをあまり意識しない。

例えば、日本人は会社でも会議では賛成しかしない。会議というのは、意思決定に参加できなかった人が行き場のない感情をぶつける場になることはあっても、意思決定が覆るようなことはない。表は裏で根回しが終わったことを最終的に承認して見せる儀式の場に過ぎないのである。日本人は表で意思決定が覆ることを好まないので、野党が支持されることはないのである。だが、トップにいる人たちがトップダウンで何かを決める場所ではない。トップの人たちは情報を持っていないか、そもそもお飾りかのどちらかなので、意思決定はできない。この集団を通じたボトムアップというのが日本型の民主主義の特徴である。

芸能人が事前に打ち合わせたのと違う意見をいうというのは、そもそも会議での不規則発言のようなもので、日本のような社会ではあってはならないし、もしそんなことが起こったら日本人は意見調整ができなくなる。会議に権限がないので、会議の意思決定をボトムに流す仕組みがない。だからそれが儀式に過ぎないことがバレてしまうのである。

しかし、日本では民主主義が機能していないと感じる人びとは多いはずである。これは、村から排除されてしまい所有をしている組織も所属をしている組織もないという人が増えているからであろう。つまり、日本ではフリーの人には人権がないのだ。

デモが政治的プロセスとして組みいれられている国ではデモの結果を受けて意思決定が変えられる可能性がある。それはデモが一人ひとりの意見を反映していて、なおかつ一人ひとりの意見が国を作るからである。韓国もまた国防に国民のフルコミットが必要な戦時体制下にあり民意は大切である。こうした国ではデモが政治的に機能する。

日本でデモに参加したいという人が増えているのは、村の複雑な仕組みが日本の統治機構として機能しなくなっているからだろう。もっともわかりやすいの現象は「うちの会社では」と言える労働者が減っていることだろう。終身雇用が当たり前だった時代には、労働組合が指定した候補者に入れるなどということが当たり前に行われていた。

加えて、日本もリスク社会化しており、「嫌なこと」が増えている。いわゆるリベラルな人たちが嫌っているものは「バイキン」に置き換えられる。例えば戦争・原発・大気汚染・給食を洗浄する水に含まれる塩素・遺伝子組み換え食品などは全てバイキンである。合理的に拒否したいというわけではなく生理的に嫌なのだ。これが日本のリベラルが政治的意見に見えない理由だ。政治的発言というよりは身の回りを除菌してきれいにしておきたい欲求として捉えるとわかりやすい。だから彼らには合理的な対案などない。床に落ちた食品は捨てるしかない。そこに対案などいらないのだ。

ローラの政治的発言はその意味ではとても厄介な場所にある。ローラは個人の意見が政治の基礎にある国を真似して「国際的セレブ」という印象を与えるために政治的発言を行っているものと考えられる。これ自体は悪いことではない。問題は日本にはそうした素地が全くないという点である。

そもそもローラがどうして辺野古の基地建設に反対しているのかはわからないし、彼女のその他の価値観と辺野古がどう接続しているのかもわからない。あるいは通底するものなどないかもしれないのだが、それは個人の内心を持たないかあまり興味がない日本社会としては取り立てて珍しいことではない。

さらに、それを支持する人たちは「サンゴ礁が壊されるから嫌」とか「戦争はいけないことだから基地はダメ」と言っているだけであり、必ずしも国防に興味があるわけではない。これは沖縄の当事者たちの政治的意識とも少しずれているし、もちろん日本の政治的な意思決定とも接続していない。いわばアレルギー反応なのである。

前回は「所有がないことに対して日本人は関心を示さない」ということを見たのだが、実際には「所有がないことにも関心を示す」場合があることがわかる。これが生理的欲求である。免疫細胞が嫌だと思ったものを排除し時には過剰反応してしまう生理現象がアレルギーだ。

ここまでの考察を整理しよう。日本の芸能人がテレビで政治的意見を表明でいないのは日本の意思決定の仕組みがこうした「不規則発言」を処理できないからだ。それなのに「政治的発言をしたい」という人が増えるのは日本の統治機構が壊れかけているからである。だが、個人の内心が国を作るという認識がほとんどないので、西洋のセレブを表面的に真似てもそれは政治にはならない。しかし、もともとそうした政治意識がないのでそれに違和感を感じる人はそれほどいないということになる。

このため、日本人はこの問題をきっかけに辺野古や日本の国防といった政治課題について考えることはない。ただただ、芸能人が政治的発言をすべきなのか、そして今回の意見を無視しても構わないのではないかという議論だけがひたすら行われるのである。

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