政治議論は勝たなくては意味がない?

別冊日経サイエンス「孤独と共感」を読んだ。コミュニティについて学ぶのに良いのかなと思ったのだが意外と政治関係の話題が多くびっくりした。この本はもともと経営学でいうところのハーバードビジネスレビューみたいなものなのだが、政治的な分断が進んでいるアメリカでは問題意識や危機感を持っている学者が多いのかもしれない。




この中に「勝つための議論の落とし穴」という短い論文がある。議論の仕方によって考え方が変わってしまうという話である。

議論には学ぶための議論勝つための議論がある。アカデミズムの世界では議論は学ぶために行われることが多い。ところが政治的分断が進むと勝つための議論が横行する。勝つための議論では相手を打ち負かすことが議論の目的になっていて、人々は相手から学ぶことに興味がない。以前から政治議論はネットワーク的な島を作るということは知られていたがトランプVSクリントンの時期からアメリカでは二極化した議論が目立つようになった。あまりにも生産性が低く愚かに見えるので「どうしてこうなったのだろう」と考える人も多いのだろう。TwitterやFacebookでは敵対的な議論の方が広まりやすいという。つまり、SNSは議論分断の温床になっているようだ。

数学や科学には正解があることは明確とされるが、イデオロギーはその人の意見であり客観的な正解がない可能性が高い。それでも人々はそこに客観的な正しさを求めようとする。そしてどちらが正しいかを競い合うようになるのだ。

イデオロギーに正解があると考える人は自分と意見が異なる人と生活を共有するのを好まない。「意見が間違った人とは暮らせない」と考える傾向が強いということはこれまでも知られていたようである。「客観性があるだろう」という考え方が「多様性の否認」という行動に結びついている。

  • 考え方→行動

ところが政治的議論で勝つための議論を奨励すると「政治的意見には客観性がある」と考えるようになる傾向があるということがわかったという。つまり因果関係が反転している。実験ではその議論の時間はわずか15分だった。15分で考え方が変わってしまうのだ。

  • 行動→考え方

つまり、勝つための議論は多様性の否認というフィードバックループを生むらしいということがわかる。ここまではわかりやすい。

ところがここから議論が怪しくなる。論文を書いた人は明らかに多様性を重要視している。つまりいろいろな意見を受け入れるためには決めつけを排除すべきだと言っている。これは典型的にリベラルな姿勢だろう。

だが、このあと論文の議論は迷走しているように見える。地球温暖化に懐疑的な人の意見を受け入れる議論をするのは「間違っている」のではないかと言っている。リベラルにとって環境問題は重要でありその科学的知見は明らかだが、もしかしたら科学が地球温暖化の全容を知っているという前提そのものが間違っているのかもしれない。リベラルな人はそこを認められないのだろう。すでに「勝つための議論」に汚染されているということになる。

そこで論文の筆者たちは「温暖化懐疑派を受け入れてどっちつかずの態度」をとるのは間違っているのではないかと逡巡したのち「どちらの議論モードが”最善”であるかを直接的にきめることはできない」とまとめてしまっている。

もともと「なぜSNSが介在する現在の政治議論が決めつけと分断を呼んでいるのか」ということについて何も示唆はないので、どうしたら議論を「正常化できるか」というソリューションは提供しない。知見で終わってしまうというのが経営学との一番大きな違いだろう。

ただ、この短い文章を読むと議論で勝ちたがるのは日本人だけではないということだけは明白にわかる。さらに議論で勝ちたがっている人がいたら勝たせてやったほうがいいのだろうな。洋の東西を問わずどっちみちそうした人たちからは何も学べないだろう。つまり時間の無駄なのだ。

別冊日経サイエンス「孤独と共感」は政治議論がなぜ荒れてしまうのかということを考えるために役に立つ多くの知見が掲載されている。他にもトランプ大統領のような明白な嘘つきが信頼されるのはなぜかということを扱った論文や、いじめ加害者として暴力的になる人はどんな人なのかということを扱った論文がある。

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政治の最前線はパソコンとスマホの中にあった

4月ごろからQuoraで政治系のスペースをやっているのだが、最近やたらと中国関連のポストが多くうんざりしていた。とにかくアジアの蔑視感情を持った人たちが政治ポストを荒らしたがるのだ。だが、考えてみるとこれが最前線なんだなあと思いちょっと見方が変わった。あまり人と交流するのは好きではないがこういうのもやってみると意外な発見があるものだ。




最近もっともうんざりしたのが「ウィグル虐殺などない」というポストである。中国系カナダ人が現地に行って調べてきたが、ウィグル人は平和に暮らしているから何の心配もいらないというのである。英語の元ポストをみたら「大手マスコミは嘘つきだ!」というコメントがたくさん付いていた。すべて中国系のファミリーネームである。わざわざこのように荒れることがわかっているポストする方もセンセーショナルな記事を掲出して露出を増やしたいんだろうなあと思う。

個人攻撃は禁止しているので「お前は嘘つきだ」というポストは付かないのだが、今度は黙って「中国はウィグルでこんなにひどいことをしている」というURLがシェアされた。ここで反応がないと絨毯爆撃的にシェアが増える。

後でわかったことだがこの人たちは承認欲求があるようだ。つまり自分たちが正義だと思っていることを披瀝して誰かに丁重に扱われたいのである。だから慇懃に接すると落ち着き「お前も反省したようだな」などといってくる。政治議論というよりみな「正義」について語りたいのだろう。Twitterにうんざりしている人は「承認欲求」が何か悪いことのように語られる日本社会でほとんど唯一の承認欲求の捌け口がSNSの政治議論になっているということを知っておいて損はないと思う。認めてもらいたい人は多いが人を認めようとする人は少ないという程度の話であるが、人間は誰でも認められたい。

こういうポストに腹がたつのは「政治系のポストは<中立>でないとみんなうんざりして読んでくれなくなる」と思ってしまうからである。イメージとしては池上彰式のドライな事実だけを「お店にきれいに」並べたいという感じである。承認欲求のために店を荒らす不良のお客さんに怒るのと同じ感覚だ。

だが、Twitterをみていてそういう気分が吹き飛んだ。香港に独自政府ができたというTweetが流れてきたからだ。もう「池上式」は無理なんだろうなあと思った。この変化は受け入れる必要がある。

これがどれほど確かなのかはわからないし、どう広がってゆくのか(あるいは行かないのか)もわからない。だが確実に言えるのは民意に影響を与えたいという人たちがいてそれぞれの宣伝活動に励んでいるという点である。

日本と大きく違っているのが彼らが「主権」をかけて宣伝活動をしているという点である。日本は国民主権ということになっているがおそらくそれを信じている人はそれほど多くない。誰かが何とかしてくれるとみんなが思っている。だから政治は承認欲求を満たすための道具にしかならない。だが主権者意識を持っている人たちにとってこの宣伝活動は「ガチ」だ。

我々はかつて東西冷戦というしっかりとした構造を生きていた。だから政府が作ってマスコミが「正しい」と考える情報を受け止めていればある程度のことはわかったのである。お客でも良かったのだ。あとは社会設計通りに生きていればそこそこの暮らしは保障されていた。SNSはまだなく2chなどは「感想を言い合う場所」でしかなかった。

ところが現在は状況が全く違っている。しっかりとした構造はなくなり民主主義が必ずしも絶対的な正義としては語られなくなっている。民主主義はたいていの社会では分断されており問題の解決ができなくなっている。その上で情報の流れが完全に逆になった。民意はまずSNSの上で作られそれが政治に影響を与え、最後にそれをマスコミがまとめるということになっている。

最初「荒れている」と思っていた両者がぶつかり合う世界は実は現在の正常であり何も嘆くことではなかったのだ。我々はただそれに慣れて行かなければならないし、その気になればいろいろなことが発見できるのだろうなあと思った。

ただその荒れ方の中身は見たほうがいいと思う。承認欲求のために荒れている人もいれば主権をかけてガチで争っている人もいるのだが表向きこの二つは同じ混乱にしか見えないからである。

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成田市議会エコボトルといじめの構造

成田市議会でマイボトルが禁止された。特定の人を狙い撃ちした陰湿なイジメだなあと思った。日本の閉鎖的な村落的構造がよく表れている。日本人は話し合いができないばかりか議論の空間をいじめに利用してしまうことがある。古い日本人にとっては問題解決より体面の方が重要だからだ。




発端はアエラの記事だった。記事は「市民からの苦情」でペットボトルはみっともないということになったと伝えている。ところが、結果的にペットボトルの飲み物で統一されてしまった。これは一貫性のないおかしな議論だ。途中でマイボトルの話も出てきているが「色や形が統一できない」という理由で却下されている。

この記事は中空がぽっかりと空いている。新聞は事実しか書けないので証明できないことは書けないということなのだろう。日本ではこれを「炎上」が埋める。中空が明確であるほど炎上が起きやすくなる。今回の「炎上」は「これって明らかにいじめですよね」ということだ。

まずこの議員さんは緑の党というところに所属している。マイボトル・エコボトルはこの議員にとって中核的なテーマだ。他の議員は利益誘導に興味があるのだろうからおそらく市民団体系の人とは話が合わないだろう。さらに、この議員さんはコンパニオンを呼んでお酒を注がせることを何回も注意してきたらしい。個人ブログで見るとそれがよくわかる。これが男性中心の議会の気持ちを逆なでしたんだろうなあと思う。

成田市議会の構成を見ると女性が3人しかいない。一人は与党・一人は共産党・そしてもう一人は緑の党である。共産党は仕方がないが古い男性社会で女性ができることは二つある。一つは男性のマスコットになる道で、もう一つは男性以上に男性らしく振舞って許しを請い続けることだ。つまり女性であるということはそれだけで「いけないこと」なのであり、それを払拭するためには男性以上に尽くさなければならない。

「この市民団体上がりの女性」議員が浮いていたんだろうなあということが予想できる。

こういう人に「ガツンという」にはどうしたらいいか。みんなでルールを作ってその人の大切なものを奪ってしまえばいいわけである。俺たちは認めないぞという意思を示すのだ。そして、異議を申し立ててきたらそれを無視しつづける。男性社会を賞賛する女性以外は必要ないということを見せ続けなければ大変なことになるし、相手の苦痛を見るのも楽しい。

こうした「聞こえません・異議は認めません」攻撃も政治課題と称した少数者いじめではよくあることだ。Twitterでは韓国人をいじめたり、アイヌ語などないといって批判者をあぶり出して狩るという行為が常態化している。こういうのは理不尽であればあるほどよい。

古い男性社会も「コンパニオン」のような問題に正面から反論するのは難しいということはわかっている。だからこそ政治的正しさを押し付けてくる面白くない人に対する意趣返しにいじめを利用する。ここでできる最大の防御は感情的に反論しないことだろう。

誰が考えたのかは知らないがそのプロセスは念入りだ。意思決定はできない古い日本人にとって何も決めないといういじめは得意分野である。市議たちが「あの女はけしからん」「なんだあのいけ好かないボトルは」という話になったのかもしれないのだが、そうは言えないので「市民から苦情があったということにして」「みんなで決めたことにしよう」となったのかもしれない。ルールを決めて動かさないことにしてしまえばいいのである。

こうしてどんどん何もできなくなってゆくが、それは市議たちにとってはどうでもいいことなのだろう。自分たちは選ばれた議員様なのであって、市民の問題など市が自己責任で考えればいい。この成田市議会はおそらく「女性の働き方や育児」のような問題も「環境問題」も扱えないだろう。

何も決めない議会ではわけのわからないルールだけ増えてゆく。「市が用意したペットボトルから紙コップで飲む」というルールだ。こうしたわけのわからないルールはやがて一人歩きして修正が効かなくなる。ところが我々はこうしたルールに慣れてしまう。そして自分で何かを考えようとするのをやめてしまうのである。

つまりこの成田市議会のデメリットは新しい価値観に対応できなくなり自分で考えようという気持ちを奪うという点である。そしてその結果被害を被るのはリーダーたちではなくおそらく一人ひとりの市民だろう。彼らは体面を守るために市民を犠牲にしている。

さらに議題ではなく人に注目するというのが閉鎖されて時代に取り残されつつある人たちの特徴だということもわかる。閉鎖空間に居続けたおかげで周りの価値観が受け入れられなくなり自分たちの短期的な体面の問題しか考えられなくなっている。おそらく様々な政治議論と称されるいじめが個人攻撃なのはそのせいだ。

今回はペットボトルについて扱っているように見えるが、おそらく市議たちの関心はこの「けしからん女性議員」にあるはずで、おそらくプラスチックや環境をまともな政治問題とは捉えていないだろう。彼らが気にしているのは国の補助金をどう支持者に配るということと自分たちの威厳だ。村で生きて行く以上それ以上に大切な政治問題は彼らにはない。議会という村が居心地がよいものであるならば、外の世界で何が起きているかなどどうでも良いことなのだろう。

今回は成田市の問題を見たがおそらく日本にはこうした村がいくつもある。閉鎖的な村の病は人々に取り付いて意欲や活気を奪うのだ。

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日本人は正義を語ってはいけない – トロッコ問題

毎日新聞の記事で面白い話を見つけた。ある小中学校で「トロッコ問題」が大問題になったというのである。倫理学をいい加減に扱う日本人は正義を語ってはいけないなと思った。




トロッコ問題というのは、マイケル・サンデルのこれから「正義」の話をしようでも有名になった倫理学を学ぶための問題である。多分知っている人が多いはずだ。功利主義という「得をする人が多いのが一番いい選択肢である」という考え方がある。しかし、その考え方を取ると犠牲者がでる場合がある。多数派のために少数派が犠牲になればいいという議論になるからだ。トロッコ問題はそれを考えるために出される問題なのだが、最近の「民主主義=多数決」という偏った議論を考え直すためには良いツールになる。

ところが日本人はこの問題を「面倒で厄介な問題」と考える。そこで集団で圧力をかけて「考えないように」してしまうのである。これは「悪いことを考えるとそれが起こる」のでそれが起こらないように考えないようにするという言霊信仰である。「ご迷惑をおかけしました」という呪文を唱えると問題がなかったことになる。

今回は学校の校長たちが保護者に「不安を与えて申し訳なかった」と謝罪して終わりになっており、新聞もそれについては論評していない。日本人はトロッッコ問題が扱えず、したがって多数決で出る犠牲者の問題を考えることはできない。だから日本人に正義を語らせるのはやめたほうがいい。そもそも概念的な問題を扱えないからだ。

ところがよく見て行くとこの記事にはもっと恐ろしい問題が隠れている。このスクールカウンセラーはそもそもこのトロッコ問題を「よくわからない問題」と丸めているのだ。それを不安に思ったらカウンセラーに相談して欲しいという意味で使ったと言っている。これは恐ろしい告白だ。

もともと「意思決定をめぐる難しい問題を突き詰めて考えましょう」という問題をこのカウンセラーも取り扱ってみたのだろう。だがよくわからなかった。ただ心情的に「悩んだら誰かに相談しよう」ということは理解できる。ところがこの二つが結びつくと「自分で責任が取れそうになかったら誰かに相談して責任や罪悪感を分散しましょうね」と仄めかすことになる。集団主義へ生徒を誘導しているのだが、多分スクールカウンセラーはそのことに気がついていないだろう。

例えば原子力発電所の問題は一人が決めたら独裁だが、周りの人にいろいろ相談してやったから誰も責任を取らないでもかまわないということになっている。福島の漁師は犠牲になっているがこれは東京というもっと大きな消費地を助けるために仕方がなかったことであるというのが功利主義的な考え方であり、集団主義なので誰も責任は取らない。日本は犠牲者が出たら「運が悪かった・仕方がなかった」で済ませる国だが「本当にそれでいいんですか?」という議論はしないで「みんなで考えたから仕方がなかった」と置いてしまう。実はカウンセラーがやっているのはそういうことなのだ。

カウンセラーはおそらく「よく知られている問題」だから権威があるのだろうと考えていてその理解が中途半端なまま自説「自分たちに相談してください」に結びつけている。権威を利用しようとしているわけである。

ではこのカウンセラーが知的に劣っているのかと言う疑問が出てくる。実はそうでもないのではないかと思う。例えば教育勅語は「天皇はすごいんだから従うべきだ」と言う主張を補強するために四書五経の徳目を集めてきて「天皇は父親だからなんでもいうことを聞かないとね」と結びつけている。わかっていなくても、最後の「天皇に従えだけ」がわかっていればよいわけで、それが悪用されると「片道切符で敵の戦艦に飛び込んでね」ということになってしまう。戦争はみんなで決めたことで誰かが責任を取るものでもない。でも俺たちは助かりたい。だから仕方がないからお前が犠牲になってくれということである。

最初にこの話を聞いた時「トロッコ問題」を概念的に扱えないから日本人は正義について語れないのだと思った。ところが毎日新聞の記事にはトロッコ問題に関連する議論がリンクされていた。

ところがこの問題実は「自動運転」の議論に結びついてしまっている。つまり日本人はこの問題を「概念」ではなく「具象」に注目してしまうようなのだ。つまり実際に自分がハンドルを握るという想像をしてみないとこの問題が考えられない。そしてそれを行っているのが、かなりいろいろなことを知っているはずの新聞記者たちによって行われているところに病理があると言える。経験に強くとらわれる傾向を長年教育によって刷り込まれてきた日本人はトロッコ問題を原発ではなく自動運転に結びつけて考えてしまうのである。

日本人は正義について考えることができない。ここで考えただけで三つも理由が出てきた。おそらくここから脱出することは不可能だから諦めたほうがいい。

  • 具体論に落として自分の経験の範囲でしか考えられないという、具象と経験の誤謬。
  • よく語られるとかよく知られているとか、みんなが言っているという権威に頼ってしまう、権威の誤謬。
  • 不安なことを考えるとそれが起こってしまうと考える、因果関係の誤謬。

本来この話はここから功利主義批判になりコミュニティ論になるはずだ。それが政治哲学者の考える「予定」である。4つの政治哲学で今後の働き方をひもとくという記事にはそのことが書かれている。最終的にはコミュニティや共通善という話になり、日本国憲法の「公益」に関しての議論になるはずである。the common goodは憲法第12条の原文にも書かれている概念だからだ。

もちろん「功利主義などは西洋の考え方が基礎になっているから我が国は我が国独自の哲学体系で考えるべきだ」という主張は可能だし、憲法が真面目にコミュニタリアンの考え方に沿っているのかというのは検討しても良い疑問だとは思う。

だが日本人が「独自に考えよう」とすると具象化の罠に陥ってしまい概念化に失敗することが多いように思える。経験が同じような人たちが集まっているので概念化しなくてもなんとかなってしまうという事情がある。

だから日本人は本質的に憲法批判も再構築もできない。自分たちの思想を体系化して落とし込むことができないからだ。経験則に体系はないのでこれは当然のことである。

ゆえに正義が語れない日本人は憲法を自分たちの手で作ることはできないだろう。日本人にできるのはわかっている部分を経験から得られた心情に結びつけることだけで、この先混乱と形骸化が進むはずである。一部教育の問題(これは十分改善できる)が含まれているわけだから、惜しいといえば惜しい話である。

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Twitterで絡まれたらまず3本の蛍光ペンを取り出そう

前回は政治議論のために、意見・証拠・反証・印象の4つを分析してみようという提案をしてみた。ただ、このままでは広まらないだろうなあと思う。建設的な議論をしたい日本人はそれほど多くないはずだからである。




日本人が好むのは「他人があたかもその人の意見かのように自分の意見を主張する」のを聞くことと「自分と異なる意見を持っている人がひどい目にあう」ことだけだと思う。社会が同質的な村から出発しており他者の存在を受け入れないのだ。

つまりこの3つの蛍光ペン理論を広めるために応用編を作るとすればそれは「自説を補強し」て「カラまれるのを防ぐ」ところにあるということになるだろう。特にTwitter論壇のコメンテータである我々にとって「カラみ防止」は喫緊の課題だ。なぜならばTwitterは我々の理想の村を再現してくれないし、場合によってはひどいストレスをもたらす。電車の中でスマホを読んでいて腹が立ったらまず心の中に蛍光ペンを取り出してみよう。

まず、相手の文章が「印象」なのか「エビデンスを含んでいるか」を分析する。もし印象だったら「折り合いをつけてもいいのか」「妥協できないのか」ということを決めよう。いったん飲み込んで見て数日置いてみるのも手である。反論には意外と新しい発見があるかもしれない。しかし「それでも折り合えないな」と思ったら特に相手にする必要はない。印象なので折り合うことはできないし多分説得も無理だろう。相手の経験とあなたの経験が異なっている。それだけのことなのだ。黙ってミュートボタンを押そう。

厄介なのはエビデンスを含んでいる場合である。この場合「反証」が含まれているのか、つまり批判を織り込んでいるのかということを見てみよう。もし、特定の立場を補強する証拠だけが集まっているとしたら、証拠そのものでなく取捨選択がその人の態度を表していることになる。その人の態度を変えることは難しいだろう。これは印象なので結局印象で話をしているのと同じ状況なのだ。これもミュートボタン対象だろう。

中にはわざと反論されやすい言い方をして相手を煽ってくる人がいる。その場合には「炎上商法」を問題にすべきであって、その人の歪んだ(あるいは経済的に困窮した)人格や証拠二反論しても意味がない。「嘘をついてはいけませんよ」というだけで十分なように「大切な問題をおもちゃにすべきでない」と言えばいい。これはミュートしなくてもいいかもしれない。だが、最近ではもっと派手なショーを望んでいる人がいて「裁判で訴えますよ」と一般人に脅しをかける人も出てきた。多分戦っている自分が好きなのだろう。相手するかどうかはあなた次第である。

時々、偏った情報を選択していてもそこに批判的な精神を持ち込んでいる人はいる。そういう人であれば「私とあなたの意見は違う」という地点くらいまでにはもって行くことができるかもしれない。最終的に折り合えないとしても議論ができるのはその時点からなのではないだろうか。この議論のメリットは実は相手の分析ではない。自分の意見をチェックすることである。相手の文章を分析する過程で実は自分の議論もチェックしなければならなくなる。

証拠と検討材料(法律用語では反証とは「嘘だと示すための証拠」という意味だそうなので「意見を検討するために考え直すこと」を反証と書いたのは適当でなかったのかもしれない)が含まれているとすれば導き出された意見には何らかの意味があるはずである。

あとは証拠の妥当性を評価すればいい。自分も証拠と検討材料を持っているはずなのでそれをすり合わせて行けばいいわけである。証拠そのものが重要なのであって、最終的な意見はそれほど重要ではないということと、ましてやそれを言っている人の人間性やバックグラウンドは意味がないということは覚えておいたほうがいい。

「最終的な意見」もそれほど重要ではないのはどうしてだろうか。それは議論を通して意見が変わることはお互いに十分考えられることだからである。そもそも意見が全く変わらないなら議論に意味はない。

「日本人は議論ができない」というのはこれまで諦めがちに扱ってきたテーマだった。学校教育が悪いなどと言いながらなかなかその実態がつかめなかった。だが、いったん仕掛けがわかってしまうとそれほど大した問題ではないし克服も簡単なように思える。

実は読書感想文的なアプローチ – つまり読んだものに印象をくっつけて行く – が問題なのであって、別に日本人の知性に問題があるわけではないからだ。

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四本の蛍光ペン – 日本人は議論ができないのだが解決策も簡単

4月ごろからだと思うがQuoraで政治スペースのモデレータをしている。もともとスペースというブログの後継機能を立ち上げるにあたってサンプルが必要だったということでサンプル運営を任されたのだ。多分サンプルの時期は終わっていると思うのだがそのまま居残ってしまい気がついたらフォロワーが1,200人になっていた。「フォロワーがつくのは嬉しい」と最初は思っていた。




1,200名もいるとといろんな人が出てくる。1,000名くらいから揉め事が始まった。まず表現の自由問題でカラまれた。ちょっとしたセレブ気分だななどと思っているのも束の間、先日もある人が「トリチウム水を海に放出するべき」という投稿を提出した。ずいぶん強引な記事だなと思っていたのだが、今度はそれを名指しした上でカラんでくる人がでてきた。一応モデレータなので仲裁したほうがいいのだろうか?と思い、まずは読んでみることにした。

まずカラんできた人の文章を読んだ。要するに「気に入らない」と言っている。これは簡単だなと思った。要するに読書感想文のようなもので「〇〇くんの意見はいけないと思います」と言っているのである。学級会気分と言っても良い。Twitterでよくリベラル系の人が使う形式である。「安部君はもっとまじめにやったほうがいいと思います」である。

がカラまれた人の文章はちょっと厄介だった。一応流れがあるのだが、曲がりくねっていて何を書いているのかよくわからない。論文を書いたことがない人が文章を書くとそうなる。これもTwitterでネトウヨ系保守の人が陥りがちな形式だ。読んでいていとても疲れる。

白い紙を取り出して整理してみることにした。

一応流れはあるのだが最終的にはストンと「放出するべきだ」という結論になって終わっている。その時は「何かが足りないなあ」としか思わなかった。

ここで燃料が投下されない限りどちらも沙汰止みになってしまう。これが気軽に燃料投下ができてしまうTwitterとの決定的な差である。結局この件はこれで終わってしまった。

この「足りないこと」が氷解したのは別の回答を書いていた時だった。「老人は持論を押し付けてくる人が多い」というのだ。これを解消することはできるのか?というのが質問の内容だった。無理だろうと思った。老人の極めつけは経験則が固着したものだからである。

突然、先日の疑問とつながった。経験則とはつまり印象や感想である。老人の意見を変えられないのは経験を変えられないからだ。後付けで「読書感想文」という比喩をつけたので、その例えで言うと老人は心の中で誰にも批判されないたくさんの読書感想文を書いてきたのだろう。

自分の意見を構築する文章には次の四つの要素がありうる。これを整理する訓練を人はどこでするのだろうかと思った。実はエッセイという文章形式があり英語圏の学校では多用される。日本でも始めている学校があるかもしれない。エッセイは「論文」とは違ったジャンルである。事実ではなく意見を述べるからである。随想と訳されることが多いが、元々の意味は「試論」だそうだ。

  • 意見・主張・試論(これがメイン)
  • 意見をバックアップするための事実
  • 事実を検証するための反論(反論を織り交ぜることで客観性を増す)
  • 単なる感想や印象(これはできるだけ取り除かれなければならない)

ところが日本の場合は本を読ませて「感想」を書かせる。心象の方が大切という教育を行う。そして、あまり事実や反論というものを重んじない。つまり日本人はもともと事実に心象を固着させ、それを社会の正解とすり合わせてゆくという教育を延々と行っているのだ。

これについてなぜ読書感想文が好まれるのかと聞いてみたところ「先生が出した課題図書が期待通りに読み込まれているのかをチェックするからだろう」という回答がついた。なるほどと思った。感想を書かせるがそこには正解と不正解があり成績がつくというのが日本的な世界観なのだ。つまり思い込みであっても正解(先生や社会)と合致していればOKという人を大量に効率よく育成するのが日本式の教育なのである。工場や軍隊では必要とされる人材である。

エッセーは意見構築の過程を扱うものである。ここから経験を除き意見形成過程を客観視できる人が知的エリートとして大学などに選抜されるというのが英語圏の教育である。

一方日本人は読書感想文しかやらない人と事実しか扱わない人が知的エリートとして大学教育に残る。いわゆる文系と理系である。日本の知的エリートは意見形成の過程を問われない。それはキャッチアップ型の国家には必要のないスキルだからである。

今回「トリチウム水の放出が気に入らない」と言っている人は単に心象を述べており、気に入らないといって相手にカラんでいる。読書感想文である。ところが反論された人も実は反論を検討してはいない。つまり政府がそれでいいと言っているからいいんだろうと主張しているだけなのだ。そしてそこに政府が言った論拠をもってきて無批判に当てはめている。この類型もどこかで見たことがある。これは教育要綱である。先生は教育要綱の是非は問われない。正解を読んでいるだけで「尊敬されるべき」なのである。

これまで失われた中間層という言い方をしてきたのだが、彼らが先生のステータスに憧れる理由はなんとなくわかる。先生は尊敬されなければならない。先生に逆らうなどあってはならないことである。あるいは先生になりたい意見のない生徒なのかもしれない。

例えば、大阪松井市長が処理水を(国が安全だと認めれば)大阪湾で引き受けると言っているということ(時事通信)が例示として使われてる。大阪の人たちがこれを信用するのかという点は全く検討されていないのだがそんなことはどうでもいい。それは政府の方針に書いてありしたがって正義なのである。

「老人の結論」が覆せないのは経験による印象が事実として蓄積されてしまっているからである。事実は反証があれば無効化できるが、経験は変えられないので老人は態度変容ができない。それはその老人が反証なしに意見構築してしまっているからだ。

そう考えると、保守とリベラルの議論は先生になりたい人と学級会で先生に意見している生徒、それを困惑気味に見ているその他大勢の生徒という図式に見える。そして先生の姿は教室にはない。

先生が仲裁しない日本では政治議論そのものが成り立たないことも多い。これは日本人が公共財として「話し合う」という技術を持っていないからだ。理由がわからないと「日本人は議論ができないね」で終わってしまうのだが、実はその解決はかなり簡単なことだった。

自分の文章を読む時に蛍光マーカーを取り出して「意見」「事実」「反論」「感想や印象」に分けてみればいいのだ。相手に対しても同じことをすればいい。なんだこんなに簡単なことだったんだと思った。三色(残りは地の色でいいので)の蛍光ペンさえあればことが足りてしまうのである。

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演歌の誕生 – 日本人にとって理論化とは何か

政治問題を扱っていると「保守とは何か」という疑問にぶち当たる。「だいたいあの界隈ね」ということはわかるのだが、本質を抜きだそうとしても抜き出せない。本質が抜き出せないためにそれに対抗しようとすると対抗運動も崩壊する。




「日本の保守が害悪だ」とするとそれを潰したいわけだが、それが潰れない。だからいつまでたっても我々の社会は停滞したままだというのがこのブログの考えている行き詰まりである。そしてそれを我々は野党がだらしないからだと説明している。でもそれは説明になっていないし何の解決にもならない。

こんな時にはどこか別のところからヒントが降りてくることがある。今回のそれは演歌だった。後付けだが歌謡曲の保守思想である。この演歌というジャンルは1970年にはすでに存在しており「昔からあった」ような印象がある。ピンクレディーが奇抜な歌謡曲を歌っていた時「昔からずっとやっている歌手」が「日本の伝統である演歌」を歌っていたという感じなのだ。

Quoraで回答するためにその演歌について調べた。回答そのものはいい加減なものになったが調査の読み物はとても面白かった。演歌は実は昔からあったジャンルではない。1970年代に新しく作られたジャンルなのだ。

もともと演歌の演は演説の意味だった。川上音二郎が元祖とされているそうである。ところが政府が政府批判を認めなかったこともあり政府批判を基盤とした演歌はなくなる。そして、大衆音楽の中に溶け込んだ。個人としての日本人は社会や国家などは扱わせてもらえなかった。個人で自由に表現できるのは個人の心情だけだったのである。小説の世界では自己を確立して外に打ち出すこともなく、心情を扱う私小説が流行したりしている。

大衆の歌は流行歌と呼ばれたようだが、これとは別に艶歌と呼ばれる一連の歌モノがあったようだ。楽器を使って街中で歌本を売り歩くような人たちを艶歌師と言っていたようだ。艶歌はプロモーションの一環であり歌は売り物ではなかった。

戦後、流行歌は次第に西洋音楽を取り入れて変わってゆく。基地まわりをする人たちが西洋のジャズなど取り入れて新しい流行歌を作った。高度経済成長期になると、都会に出てきた地方の人たちが望郷の念を募らせ歌を聴くようになった。ニーズを持ったユーザーの集まりも生まれた。しかし、グループサウンズやフォークなどが出てくるとこうした歌は「古臭い」として嫌われるようになってゆく。時代が急速に変化しアメリカから新しいジャンルが次から次へと出てきていたのである。

そんな中、五木寛之が1966年に「艶歌」という小説を出して「艶歌の再発見」をした。つまり西洋音楽に乗らない日本人の感情を歌ったのが「艶歌である」と言ったのである。「演歌、いつから「日本の心」に? 流行歌が伝統の象徴になった瞬間」によると、もともと西洋音楽と日本の音楽を雑多に混ぜ合わせた「流行歌」というジャンルから再構築されたのが艶歌である。そして1950年代からこうした歌を歌っていた人たちが演歌を自認するようになってゆく。春日八郎がその最初の一人であろうとWikipediaは言っている。

ここで「艶歌」という名前がなぜか「演歌」に変わっている。この「演」という言葉がどうして再び出てきたのかという説明をしている人は誰もいない。おそらく昔からあって文字が簡単だったのでプロモーションに使いやすかったのではないかと思う。この時点で演歌は昔からあったということになっているのだから、もはやもとの「演説」という意味を意識することはない。その実態は古びた望郷の歌だったのである。

まず正当化すべき内容がありそのために正当化に使えそうな箱を見つける。そしてあとはその箱の中で好き勝手にやりたいことをやる。これが日本的なジャンルの作り方なのである。ただ、これだけだと例が一つしかないことになる。J-POPについても見てみよう。

演歌を古びた地位に追いやった一連の音楽は歌謡曲と呼ばれるようになる。これも意味があるようなないような不思議な名前だ。だがやがて若者は歌謡曲に飽きて洋楽を聞き始める。昭和の終わり東京に英語で音楽を流すJ-WAVEというFM局ができた。ちょうどテレビでMTVなどをやっていた時代だ。

WikipediaのJ-POPの項目をみるとJ-WAVEがこれまでの歌謡曲と違った新しいポップスにJ-POPという名前をつけたことになっている。1988年から1989年にかけてのことだ。ちょうど平成元年頃の出来事ということになる。J-WAVEは日本の歌謡曲の中から「洋楽と一緒に(つまり英語で)紹介しても」遜色がない音楽を集めてJ-POPという箱を作ったのだ。古くさいと思われていたものをリパッケージ化したのである。

だから、あとから演歌とは何かとかJ-POPとは何かと言われると実はよくわからない。平成の最初の頃の洋楽っぽい音楽もJ-POPだが「AKB48」も「モーニング娘。」もジャニーズが歌う演歌っぽい音楽もJ-POPである。単に正当化の道具なので誰もJ-POPがなに何なのかということは考えない。

面白いのは平成元年頃に作られたJ-POPという音楽が今でも使われているということだろう。これに代わる新しい言葉はできていないわけで、それはつまり新しい音楽の聞き手が現れていないことを意味するのだろう。邦楽は30年もの間J-POPから進化しなかった。アメリカから流行を取り入れるのをやめてしまったからだろう。

音楽では演歌はただ忘れ去られてゆくだけだ。誰も演歌に不満をいう人はいない。保守に対して文句をいう人が多いのは実はそれに変わる新しいものが現れていないからなのである。

もともと保守にも実態はない。それは戦後の民主主義思想に乗り遅れた人たちがこれこそ日本の伝統であったという再評価をして自身を正当化しているに過ぎないからである。そしてそれに対抗する人たちも、社会主義・革新・リベラルという名前をつけて正当化を図っているに過ぎない。保守という実体のないものへの対抗運動なのでさらに実態がない。つまり、保守やリベラルをどんなにみつめても課題や問題点は見つけらないことになる。

音楽の流行は西洋音楽によって作られる。日本でこれが起こらないのは、多分日本人が新しいものを作ろうとはしないからである。なので、西洋から新しいものが入ってくるまで日本人は今の状態に文句を言い続けるはずだ。

面白いことに一旦箱ができてしまうとそれは人々の気持ちを縛る。多分演歌界の人たちはファンも含めて「これが演歌である」という経験的な合意がある。それに合わないものは「伝統にそっていない」として排除される。保守にせよリベラルにせよ「我々はこうあるべきだ」という思い込みがありそこから動けなくなるのだろう。

平成というのは西洋から新しいものを取り入れるのを諦めてしまった停滞と安定の時代だったということになる。停滞に文句は言っているが実はそれが日本人にとって居心地の良い状態なのだ。

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政治的対立をこれ以上激化させないためにはどうしたらいいのか

このところ日韓対立をもとに「どうしてこうなったのか?」ということを考えてきた。




もともと国内政治の矛盾を隠蔽するために「対立を利用しよう」とする動機が日本にも韓国にもあった。これがお互いに呼応する形でエスカレートして行き誰にも止められなくなってしまっている。これをどちらかだけのせいにするのは難しそうだ。お互いの政権二同じようなニーズがあったと考えるべきだろう。また、アメリカは地域の調停に興味を失っておりこれも対立に拍車をかけている。

この対立は何も日韓関係だけではない。相似形はいろいろなところにある。例えば香港と中国の間に対立があり、インドとパキスタンにも対立がある。さらにイランとイスラエルも直接対決を始めたようだ。中国とアメリカも対立しており株価や経済に影響が出始めている。局所的にはインドネシアの西部(パプア)でも地元住民との間で対立が深まっているようである。これを全てアメリカのせいにすることも難しそうだ。どういうわけか対立は連鎖する。

背景にあるのは国内の経済的な困窮や不安などがあるのだろう。この不満が仮想敵を見つけてしまうとどこまでも燃え上がる。政権側がこれを利用して気を逸らそうとする場合もあるし、民衆側が仮想敵を見つける場合もある。

香港は経済上の地位の低下が不満に結びついたようだ。インドはヒンズー主義の台頭が原因になっており、インドネシアは国粋主義的な団体がパプア系に心ない言葉を浴びせたのがきっかけのようだ。パプアはイスラム圏のインドネシアにあって唯一キリスト教が優勢であり民族構成も頭部とは大きく異なる。イスラエルは首相の進退をかけた総選挙を控えており米中対立もトランプ大統領の選挙キャンペーンが原因だろう。

こんななか対立を抑制する方法にも見通しがついた。日本人は歴史教育は受けるが歴史の分析や討論の分析は行わない。かなり教育水準が高いはずの日本で、こと歴史・政治議論が先鋭化しやすいのは政治・歴史問題が「個人の印象」以上のところに持ち上がらないからである。つまり問題を社会化すれば解決の糸口が見つかる。

政治議論を観察していると、印象から作られた自分のポジションに都合が良い材料ばかりを集めてくることがわかる。この過程で「本音と建前」という二種類のロジックを使い操作しているのではないかという仮説も作った。綿密に文脈を作れてしまうために、却って元あった形が見えにくくなってしまう。このため社会で問題を解決するのが難しくなり議論が膠着するのだ。

「議論ができない」理由がわかれば対策が立てられる。つまり日本人は解釈をあまりにも重要視するので、元あった議論の形がわからなくなると大変不快な状況におちってしまうのである。ここから脱却するためには本音も建前も実は後付けのロジックであり、物事には多面性があるということをあらためて捉えなおさなければならない。

人間が理性的になれるのは感情的にフラットな状況にある時だけである。例えば戦争責任の問題は最初から「日本は反省しろ」とか「いや反省しない」という状態になっている。確かに長年謝ってこなかったのだから相手が苛立つ気持ちもわかる。しかし、よく知りもしないことに対して「とにかく謝れ」などと言われて不愉快に思わない人はいないだろう。まずは心理的に追い詰めないことが重要なのではないかと思う。

もう一つわかったのは、今の政治的議論は偏りが大きいと考える人が意外とおおいということだった。「公平に物事を見たい」というニーズがある。ブログはどちらかに偏ったタイトルをつけないと読んでもらえないことが多いのだが、実名制の質問サイトでは必ずしもそうはならない。政治議論に参加している人たちは声が大きくどちらかの陣営にコミットしていることが多い。このため自分の意見を決めかねているサイレントマジョリティも多いのかもしれない。ただ彼らも物事には真実があると思いこでいる節がある。歴史の教科書では出来事の解釈は一つしかないのが当たり前なので、解釈と現実がごっちゃになってしまうのだ。

問題解決の糸口は「物事の単純化」と「多面性の容認」であることはわかった。しかし、世界の情勢を見ていると経済的に追い詰められている人たちが多く「理性的になれ」などと言ってみてももうどうにもならない地域も多い。

私たちができるのはこうした対立を見て、感情に任せた議論ばかりしていては取り返しがつかなくなるということを知ることだけなのかもしれない。人間はどこまでも理性的でいることはできないのである。

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本音と建前 – 日本人が歴史議論を苦手とするわけ

最近面白い発見をした。Quoraで政治議論をしてくる人に対して瞬時に議論を終わらせるワードがあるのだ。それが「ああ、そうなんですね」である。意外なことにこれで済んでしまう議論が多いのだ。




長い間、嫌韓議論が苦手だったのだが、GSOMIAの件は韓国政府の対応がひどいなあと思ったので参戦してみることにした。高評価はつかなかったが攻撃もされなかった。

まず、韓国人と日本人の間には人間関係の取り方に違いがありこれが誤解の元になっているというラインを作った。つまり攻撃対象を韓国でなく仮説にすればいいと思ったのだ。

そもそも、もともとそれほど嫌韓でない人間が韓国政府の批判にまわるというポジションはあまりない。ポジションが非典型的であるというだけで人々は攻撃の対象とは考えなくなるようだ。このブログでは「政治議論運動会仮説」と呼んでいる仮説で説明がつく。紅組でも白組でもない人は運動会には加われないということである。攻撃しても面白くないのだろう。

日本の議論は保守・リベラルに分かれている。保守の人たちには韓国人に対する差別感情と韓国人をどう扱っていいかわからないという嫌気が共存している。一方でリベラルはこの差別感情が許せない。普段から「あしらわれている」という意識があるからなのかもしれない。そこで自然と嫌韓を巡って運動会が繰り広げられる。目の前に運動会があればとにかく参加してみるのが日本人だ。

ところが実際に参加してみると、結局「私には〜という印象がある」とか「私は〜を認めるつもりはない」と言っているだけだということがわかってきた。だから相手を刺激せず「ああ、そうなんですね」というと議論が終わってしまうのだ。

典型的には「朝鮮半島経営は植民地支配だったか開放だったのか」という議論がある。これは両方の側面が整理されていないという問題なのだが、保守は開放であってほしいという前提を置いた上で補強する数字を一生懸命に集めてくる人がいる。これは「そういう資料を集めてきていらっしゃるんですね、ご苦労様」で終わってしまう。実際には両方の側面があるので開放的側面があったからといって支配の事実が消えるわけではない。

ここまでわかると次はどうしてそうなるのかという問題が出てくる。第一の理由は感情と論理の分離のようである。本音と建前などと言われている。

日本人は本音と建前を分ける。論理は「建前」が担当しているとまずは考えられる。これは皆が合意しやすく反発されにくい解釈をまとめたものである。ところが日本人は本音も漏らす。この本音の機能が謎だった。実は本音も純粋な感情ではなさそうだ。

菅官房長官は「韓国への報復」を仄めかしつつ「表向きは貿易品の管理問題ですよ」という説明の仕方をした。つまり「報復という本音をにじませた」のである。WTOのルールに違反しないよう「本音をほのめかす」ことでメッセージを伝えようとしたのだろう。この本音はメディアによって様々に再解釈されることになった。産経新聞は菅官房長官のラインにそって「日本はルールに従って正々堂々とやっているから韓国はさぞかし困るだろう」と書いた。ここで産経の読者は満足する。菅さんの作戦は成功したのだ。

ところが今度は韓国がこの本音を利用し始める。文在寅政権は朴槿恵政権の決定を覆したかった。これに気がついた日本は「あくまでもこれは貿易品の管理問題である」と建前の方を強調し始めた。本音と建前の位置を逆転させた。あとは解釈の問題なのでこれで折り合いがつかなくなった。

日本の政権は多数派をとっているので国内では「空気の解釈権」を支配することによって少数派を笑うことができる。本音をひけらかしつつ少数派が文句を言ってきたら「それはお前たちが勝手に言っていることだ」といって少数派をバカにすることができる。つまり本音と建前の分離はいじめに使える。

実は本音も建前もロジックである。日本の保守が韓国に苛立つのは韓国が日本の作ったロジック通りに動いてくれないからなのだということがわかる。だからこそリベラル側はこれに乗ろうとするのだろう。数が逆転できるかもしれないからだ。

本音も実は「感情的な論理」なのだが、一旦本音と建前を分離して二重思考の状態を作ってしまうと「実際の実際はどんな動機だったのか」がわからなくなてしまう。本音という解釈を語り続けることによって空気への帰属意識は芽生えるだろうが、深層にあったはずの本当の動機はわからなくなってしまう。これが本音と建前の危険性だ。

ところが問題はそれだけではないようだ。それが歴史教育の問題である。

日本の歴史教育は「古代から近代までをとにかく覚える」というゲームなっている。このため個々の歴史について分析したり議論したりすることはない。だから、それぞれが勝手な印象を持ったままで歴史教育が終わってしまう。現実世界でもこの方式で歴史や政治を分析したつもりになってしまうのだろう。それぞれが勝手な印象を持っているだけならいいが、それを語り出した瞬間に収拾がつかなくなる。

学校で分析のための議論をしていれば物事には両面があるということがわかる人が増えるはずだ。だが、受験に間にあわせるためには考え事などしている時間はない。とにかく限られた時間の中で近代までカバーしなければならないからだ。

よく日本人は英語ができないという。文法の細かな規則をカバーするのに忙しく、英語を話すことができない人を毎年量産し続けている。日本の英語教育が作っているのは英語が使える人ではなく、英語の細かな文法をたくさん知っている人だ。同じことが歴史でも起きているのかもしれない。年号を知っている人はたくさんいるが「歴史を話せる人」はほとんどいない。

感情と論理を人工的に分離する癖がついてしまっており、なおかつ歴史的経過を単に年号としてしか覚えないという人が大挙して歴史に語り出した結果、自分たちが本当に何を考えていたのかがわからなくなってしまった。これが日本の政治言論の正体なのだろうなあと思う。つまり、この議論は運動会としては楽しいが、何の智恵もももたらさないのだ。

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日本はもうだめだおしまいだと叫ぶ人たち

Quoraで日本はもうダメだという話が出ていたので「20兆円も海外から利子収入が入ってくるのになぜ悲観論ばかりなのか?」と書いた。もっと冷静になって次世代投資について考えるべきであるという提案だ。すると最近にになく高評価がたくさん集まった。改めて日本閉塞論に息が詰まっている人たちがたくさんいるんだなと思った。閉塞感を意識化する機会は少ないので言語化すると喜ばれるのだろう。




このエントリーには面白いコメントが2つ付いた。

一つは「でたらめをいうなやはり日本はおしまいだ!」というコメントだった。国の予算が100兆円あり20兆円を海外からの上りで穴埋めするというのはおかしいと書いてきた。国と企業の収益がごっちゃになっているのだが、ポイントは自分の観測と違った意見が出ると感情的に否定してしまうという点だろう。楽観論も悲観論も感情の領域にあり合理的な政治の問題ではない。だが、実際に政治を動かすのは感情なのでこうした声を無視していいということににはならない。ただこの意見を合理的に否定するのは難しいだろう。否定されればされるほどかたくなになってしまう。

もう一つのコメントは「政府債務が溜まっているのは確かである」という点とそれでも「教育への投資が少ないのは確かに問題だ」という点を指摘してきたものだった。実際に研究者とお話をする機会がある現役世代の方である。つまり、極度の楽観論や悲観論のどちらも正しくないということを理解している人もいるのだ。

Quoraの政治板は短い間に950名がフォローするコミュニティになったのだが、感情的なレスポンスをする人、冷静な理解をする人、とにかく議論を吹きかけて勝ちたがる人とありとあらゆる人が集まってきている。1,000人というとミニコミ紙レベルだと思うのだが、新聞はもっと大変なんだろうなあと思った。民主主義になるとさらにこれが複雑に絡み合う。

今回の「楽観論」は「国際収支発展段階説」という説に基づいている。国際収支発展段階説によると、やがて債券取り崩し状態に入るのだそうだ。今の日本の段階を成熟債権国と呼ぶそうだが、この状態があと数十年続くという。なのでポイントはこの成熟段階をいかに長引かせ、あるいは若返らせられるかという点にある。当然これといった正解はない。

お金が湯水のように入ってくると言ってもいいことばかりではなく当然代償がある。「世界最大債権国」日本、直接投資急拡大の必然には「慢性的な通貨高に悩みその度に景気が悪化する」と書かれている。何らかの理由で景気が悪化すると新興国から資金が逆流して円などの安全資産に戻ってしまう。すると急激に交易条件が悪化して日本は製造業で稼げなくなってしまうというわけである。つまり、資産が製造業を圧迫するという皮肉なことが起こる。

同じことはアメリカでも起きている。アメリカは取り崩し段階に入り赤字が続いている。これは長年製造業が圧迫され中国などの人件費が安い国に転移してしまったからである。アメリカは意識して構造転換をしなかったためにラストベルトという工業地帯が取り残されそれが問題になっているのである。背景にあるのは構造的な問題なので中国にケチをつけたりFRBに文句を言っても工場がアメリカに戻ってくることはない。先日ご紹介したアメリカの通貨切り下げ策は実は債権国を降りてサイクルの最初に戻れということなのだ。それはつまりアメリカの金融市場を爆破してしまうということである。

債権国であると言っても喜べない事情がもう一つサイクルの外にある。それが膨らみ続ける国家債務だ。

金融市場の大崩壊が近い将来に起こりうる理由という恐ろし気な記事がある。リーマンショックが起きたとき各国政府が問題を吸収した。このため「表面上危機が収まっていたように見えていた」のだが、トランプ大統領がそれをぶち壊しにしようとしていると言っている。つまり、トランプ大統領が引き起こすであろう混乱はアメリカだけでなく金融市場全体に災厄をもたらすかもしれないということだ。

  1. アメリカ株式市場がリーマンショック級の3割を超す大暴落を起こす
  2. アメリカ株に連鎖して先進国、新興国が株価暴落を引き起こす
  3. 米中貿易交渉が決裂し、米中を悪性インフレが襲う
  4. 米国債が売られて金利が上昇、世界の債券バブル崩壊で新興国の債券が紙くずになる
  5. 新興国通貨が暴落しあちこちでハイパーインフレが始まる
  6. 地政学リスクが高まり、ドルが売られて原油、金価格が高騰

実は、日本も似たような状態にある。政府が国債を発行し実質的に日銀が引き受けている。これが破裂しないのは日本は債権国であり円が安定しさんだと見なされているからである。つまり日本政府の実力が過大評価され問題が先延ばしされておりどんどん大きくなっている。これが弾けた時の痛みは相当なものだろう。

日本はかなり厄介な時期に債権国になったのだなあということがわかる。企業がお金を貯めこみ政府に働きかけて税金を支払わなくなる。法人税が下がると節税のために人件費をあげようというインセンティブも失われ消費市場が冷え込む。足元の景気が悪くなるので、政権を維持するために国債を発行して危機を乗り切ろうとする。するとインバランスが蓄積して金融市場が混乱する可能性が高まるというわけである。

面白いのは、日本にはお金が有り余っているのだからそのお金を使って将来に投資すればいいではないかという観測と、インバランスが高まっているからかつてない恐ろしいことが起こるかもしれないという観測が同時に並び立つところである。これはどちらも事実であり、どちらかが正しければどちらかが間違っているというものではない。

ここまで冷静にわかれば「今はなんとなかっているのだからどうにかしてこの恩恵を長い間享受できるようにしよう」と考えるのが自然である。コラム:英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏によるとイギリスもかつて債権成熟国の段階を経験して今も先進国なのだから、イギリスに学べばいいのではないかと書いている。

また、英国が自国の特徴を生かしてサービス収支や所得収支の黒字体質を確立したように、日本にはもともとモノづくりや技術力に優位性があるため、過去の経常黒字で積み上がった多額の対外資産を活用すると同時に、産業の競争力回復を目指し、国際収支の発展段階説で言えば第四段階と第五段階を行き来するような形になるのが理想的と考える。

英国に学ぶ「成熟した債権国」への道=山口曜一郎氏

つまり日本も上がりを国内投資する体制さえ作れればイギリスのように長い間債権国としての特権を享受できるであろうというわけである。ただ、何に使うのかは国でビジョンを作るか、ビジネスコンペの体制を整える必要がある。競争させるなら地方分権にして地方ごと競わせたほうが良いだろう。

ところが実際にはそのような話し合いの素地はできていない。そればかりか各国でポピュリズムが横行し有権者が扇情的に煽られるばかりである。どうやら日本も例外ではないようだ。欧米に比べると静かではあるがポピュリズムが蔓延している。

我々は、実は解決策があるのに、極度の楽観論と悲観論の間を揺れ動きながらさまよっているのだ。

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