政治的中立性とは

先日「Quoraは政治的に中立か」という質問を見つけてずっと気になっていた。似たような質問に「中立な新聞が読みたい」というものがある。前提として政治情報というのは中立でなければならないという思い込みがあるらしいのだが、この「中立」にどうにも違和感がある。最近、早稲田大学の近藤孝弘教授が書いた「日本の若者の「政治ぎらい」と〈政治教育〉の深い関係」というエントリーを読んで違和感の一部が解けたような気がした。中立ではなく正解だとわかったのだ。つまり「どの新聞が正解ですか」と聞いているわけである。




ワイマール共和国は民主主義を受け入れない人たちに支えられた民主主義国家だった。その失敗から学んだ西ドイツの教育現場では政治に意見を持って議論参加することが要求されるようになった。つまり西ドイツでは民主主義という制度を学ぶだけでは民主主義は機能しないと考える。また、政治について学ぶ政治教育と政治議論は分けて考えられる。

そんな中で生まれたのが、対立する問題は対立する問題として扱うべきだという「ボイテルスバッハ・コンセンサス」である。Wikipediaから参照した。

  1. 圧倒の禁止の原則。教員は、期待される見解をもって生徒を圧倒し、生徒自らの判断の獲得を妨げることがあってはならない。
  2. 論争性の原則。学問政治の世界において論争がある事柄は、授業においても議論があるものとして扱う。
  3. 生徒志向の原則。生徒は、自らの利害関心に基づいて政治的状況を分析し、政治参加の方法と手段を追求できるようにならなければならない。

この二番目と三番目にあるように「教師は対立点を紹介し生徒に意見を持つべきだと促す」というのがドイツ流だそうだ。教師が自分の意見をいう場合もあり、意見が片方に傾いたとき対立意見を言ってみることもあり、対立点を提示するファシリテータとして機能することもある。先生がどう対処するかは場合によって異なるのだが、先生もまた意見を持っている。つまりそれぞれが意見を持っていることが期待されそれらの意見を公平にあつかおうとするわけである。

ところがこうした伝統がない東ドイツではAfD(ドイツのための選択肢)のようないわゆる右翼ポピュリスト政党が「教員が自分たちの政党に批判的な政治的意見を持つこと」に対して否定的な見解を示すことがあるという。先生は偏っていて「政治的な中立性を損なっている」というのである。

この文章から読み取れるのは、政治的な中立性はドイツでも期待されてはいるが、それは日本とは異なっているということである。日本では意見が分かれる問題は「あえて触れない」という同調性が重んじられることが多い。つまり中立な意見というのが「みんなと同じ意見だ」と理解されている可能性がある。つまり世間一般の正解を中立と言っているのである。

西ドイツ領域ではそれぞれが意見を持っているのは当然であり、それは偏りではなく主体性と位置付けられる。一方AfDに代表される東ドイツでは日本と同じように自分たちの意見が中立でありそれに逆らう意見が「偏っている」とみなされることがある。東ドイツは長く社会主義を経験している。指導政党の意見が「ドイツの正解」だった時代が長い。

日本人が「政治的に中立な意見が聞きたい」という場合、正解が知りたいと考えることが多いのではないかと思う。例えば、原発設置には反対の声も強いが実際に存在している。そこで日本人は「どっちが正解か」ということを知りたがる。中立な意見が読みたいというのは誰かが決めてくれた正解が読みたいというのと同じことだ。世の中の趨勢が原発維持であればそれに従っておくのが無難である。逆に原発反対を表明してしまうと「変わった人」と見なされて世間から浮いてしまう可能性がある。

現在の新聞は右と左にわかれていてお互いに対立しているように見える。正解がないという状況に戸惑いが生まれて「みんなの正解が知りたい」と考え「政治的に中立なメディアはどこですか?」と聞いくるのだろうと理解できる。正解のメディアがあればそれを読んでそれと同じことが言いたいのだろう。

これはおそらく「世の中が戦争礼賛に傾けば自らも戦争を礼賛する」という態度につながる。毎日新聞が戦争を礼賛し朝日が戦争支持に転じる。そこでみんなが戦争を支持しているということになり、日本は第二次世界大戦に突入していった。

ドイツにも同じような経験があり民族の虐殺にまで発展している。ドイツは「みんなの意見に従うこと」は危険だと考え政治議論を教育の一環に取り入れているのだろう。主体的な意見を持つと偏っていると罰せられる傾向が強い日本では、自分で考えた意見を持っている人ほど「自分は孤立した少数派なのでは」と考え萎縮してしまうかもしれない。ネトウヨは自分で意見を考えられないがゆえに「自分は正解の側にいる」と考えてしまう。極めて不当なことだが政治的リテラシが低い方が却って自信を持ってしまうといういびつな環境だ。

一方、自分で考えた意見を固着させた人は過度な攻撃性を身につけてしまうことになるだろう。自分の意見に予防線をはり少しでもそれに異議を申し立てる人がいればアレルギー的に攻撃する。護憲派や原発反対派にはその傾向が強いように思える。いわゆる世間が見る攻撃的なリベラルの姿だが、そこにあるのはある種の病化した被害者意識だろう。少数派だが正解と信じる人たちの末路である。

すべての人間は偏っていて政治な正解などないということに気がつくまで、日本では誰かが正解を提示してくれるまで日本は三層に分かれたままだろう。

  • 政治に関わるのはやめておこうと考え、正解に飛びつく人
  • 被害者意識を募らせる少数派
  • 多数派の意見をコピペして少数派を攻撃する人

誰も主体者として関与する人がいない政治は魂が死んだ巨大な生き物に過ぎない。ただ単に食べ物を求めて右往左往するようなグロテスクな姿を晒して、他人を批判する咆哮を上げ続けるのである。

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日本人はどんな具合に議論が苦手なのか – シンクライアント方式の場合

日本人は議論ができない。これを読んでいるあなたも私も議論ができない。あなたはダメ人間だ。そんな話を書いている。




今回はシンクライアントについて考える。いまや「シンクライアント」と言われると多くの日本人は「証拠が隠してしまえる怪しいシステム」と思っているはずである。私もそう思った。「安倍政権が情報隠蔽のためにシンクライアント方式を画策したのだ」と……

ところが、テレビのワイドショーに文書管理を担当していた元総務相の官僚が出ていて、彼の説明を聞いて考えが変わった。どうもそうではないらしいということと、導入が始まったばかりなので内閣府が全部このシステムに移行したのかというのも実は確かではないようだ。

私がシンクライアント方式は悪だと思ったのが、私の嫌いな安倍首相がそういう説明をしているからだ。これは正確にはシンクライアントシステムに対するある一つの印象なのだが、日本では多くの人に同じ情報が共有されるとそれが事実として扱われることがある。つまりシンクライアント=情報隠蔽は私に取っても事実だし、Twitterのみんなもそう言っている。だから悪いに違いない。

ではなぜそういう印象がついたのか。それは安倍首相やその取り巻きの人たちが文書管理の実業務に興味を持っていないからだろう。設計思想がわからないのでシンクライアント導入の意図を説明できない。安倍保守というのはおそらく仲間内の認識を優先して他者を理解しないという現象だからこれは当然のことだ。議論をするためにはその辺りを忖度して自分で問題意識を持った上で調べる必要があるが「問題意識」を日本人は持てないのだろう。

シンクライアントは悪いシステムなのだろうか?

シンクライアントシステムは大手ITベンダーが長い間官公庁に売り込もうとしていたシステムである。2006年のThinkITに記事を見つけた。随分と古い記事だ。

NECのマーケティングページにはシンクライアントシステムのメリットが4つ書いてある。このうち今回関係があるのはその2つである。「評価」という観点から要点を2つに刈り込んだ。

  • 情報漏洩が防げる
  • 運営コストが低減できる

官公庁のメリットはおそらく「情報漏洩が防げる」ことである。情報の持ち出しが難しくなるのだ。これは国家機密管理という意味では妥当な判断だし住民情報を扱う地方公共団体にとってもメリットだろう。問題は安倍首相がこれを理解しているかどうかである。

ここまで刈り込むと、今回の問題は本来の利点を「安倍政権のために私物化」したことが問題になっているということもわかる。つまり議論が最初からねじれているのである。だから安倍政権の言い訳を聞いていても議論ができない。実際には「もともとはこういう意図だったのにその説明は違いますよね」と言ってあげなければならないのだ。実に面倒だが議論するならそうする必要がある。

つまり、本来なら国の情報やあなたの大切な情報が他人に盗まれないために導入したシステムを「あなたに代わって行政を監視する」はずの野党議員から隠したのが今回の問題の一つですよねということだ。シンクライアントシステムの利点を悪用しているのが問題であるということで、問題が一つ解決した。

問題意識を持てば情報を刈り込むことができる。情報を限定すれば考察がしやすくなる。すると問題が一つ解決する。あとは「国家機密を守りつつ情報の透明性を高めるにはどうすればいいのですか?」と質問して、問題意識を共有する人たちで話し合えばいい。実に簡単なことなのだ。

ところが日本人は「安倍=シンクライアント=隠蔽」と思ってしまうので、シンクライアントシステムに「後ろ暗い印象」をつける。あるいは安倍首相が推進する最新鋭のシステムだからいいことに決まっているという印象で話す。お互いに違った印象を持っているからあとは河原で合戦してもらうしかない。我々はそれを遠巻きに見物するだけだ。

2009年当時の民主党政権は公共事業が悪いという単純化を行い、多くの国民もこの単純な図式を支持した。今後野党が支持されれば「シンクライアント導入計画を止めて政府情報透明性確保」というような過度の単純化が行われるはずである。こうして印象ベースの議論はどんどん「いいか悪いか」の議論に落ちてゆく。

ここまでが本筋なのだが、今回シンクライアントシステムを調べていて別の懸念も見つけた。おそらく運用側の大手ベンダーにとってみればシンクライアントシステムは「都合の良い」システムであった。次の問題意識は「これは果たして利用者にも都合のよいシステムだったのだろうか」というものだ。2006年の文章を再び読んでみる。

私が知る限り、シンクライアントという言葉が世に出たのは1990年初頭であり、シトリックス社がマイクロソフト社のシングルユーザOSであるWindowsをマルチユーザで利用するために、Windows上で動作するサーバソフトウェア(WinFrame)とマルチユーザにアクセスするためのクライアントソフトウェア(ICAクライアント:Independent Computing Architectureクライアント)を開発しました。

シンクライアントの歴史

今度は少し追加調査が必要なようだ。実はシンクライアントというのは平成初期に考えられた仕組みである。昭和の大手ベンダーは大きなホストコンピュータを社内で運営しそのリソースを貸し付けるというビジネスモデルを持っていた。Windows95が出るちょっと前の話である。レガシー(古びた遺産)と揶揄されていたIBMはそれを新しいビジョンで転用しようとしたのだろう。汎用機を持っていた国内メーカーはおそらくその流れに乗ったのだ。

平成前期はパソコン全盛時代だった。OSはMicrosoftのものであり日本の大手ベンダーには旨みがない上に客先のパソコンにすべてOSをインストールしなければならないので極めて効率が悪い。本来なら組織的学習をやり直さなければならないがそれをやらずに「楽に売り込める先」を探したのだろう。

日本の大手ベンダーは家庭やビジネスへの浸透を諦めてすでにパイプを持っていた官公庁に取り入る戦略に転じたのではないだろうか。シンクライアントならホストコンピュータ型のビジネスがそのまま展開できて「ベンダーにとってコスト効率が高い」。ベンダーのメリットなのだ。

家庭やビジネスがこれを導入しないのはおそらく使い勝手が悪く割高だからだろう。そのあと、平成後期に入ると家庭や企業はパソコンを使ってクラウドにデータを預けるという、スマホとクラウドコンピューティング型の事業が一般的になる。国際スタンダードが英語圏に握られていて日本のベンダーが苦手な分野だ。

シンクライアントもクラウドも同じ「サーバー」を使うのだが、小さなコンピュータに分散できるクラウドのほうがシンクライアント(正体はホストコンピュータ)よりもコスト効率が高くまた使い勝手も良いだろう。多くの開発業者が参加して便利なシステム作りを競っている。

つまり、政府はガラパゴスなシステムを押し付けられている可能性が高いのだが、おそらく日本の世論がここにたどり着くことはないと思う。そもそもシンクライアントすら満足に説明が出来ていない。

ガラパゴスなシステムであるということが評価できない人たちが官僚や政治家として日本のIT行政を支配しているのは明らかに弊害である。例えば教育も「世界では通用しない日本独自のシステム」を押し付けられる可能性が高い。そしてそんな教育を受けても世界では使い物にならない。

ただ、かつての日本の政権はこの辺りをわきまえていて実務は評価ができる官僚に任せ、自分たちは説明だけを担当していた。だが、これが安倍政権に入って破壊されてしまったようだ。

テレビのワイドショーでは未だにこのお花見問題を扱っているのだが、ジャパンライフとの絡みで出演を見合わせている(と一部で噂される)田崎史郎さんの枠が空き、総務省で文書管理をしていた元官僚が頭を抱えながらシンクライアントシステムについて説明していた。業務に精通していた官僚は遠ざけられ安倍政権に取り入った政治的には強いが実知識がない人たちが残っているようである。つまり日本にも「評価できる」官僚はいたが遠ざけられてしまっているのだろう。

もともと全体として議論が苦手な上に知識があった人たちが排除されてしまったとしたら、政治には「損か得か」か「いいか悪いか」という乱暴な議論しか残らないだろう。

安倍政権の後の政権が問題意識を持って官僚機構を立て直せば物事は再びスムーズに動き出すだろうが、次が安倍政権が利用した仕組みを使って専制に走れば事態はさらに悪化するように思える。おそらく民主党系の政権の方が「安倍政権の独断」を引き継ぐ可能性が高いのではないかと思える。知識に乏しく政権運営経験がないので官僚との協力関係を構築できないからだ。

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日本人はIT時代の読解力を持っていない

テレビで「日本人の読解力が急落して文部科学省が重く受け止めている」というようなニュースをやっていた。日本人の日本語力が急に悪化するわけはないのだからテストの内容が変わったんだろうと思った。つまり騒ぎすぎだと思ったのである。




これについてQuoraでいろいろ聞きまわってみて、日本人に議論ができない理由がよくわかった。そして、おそらくそれが改善することもないだろう。事態は極めて深刻だが問題を深く受け止める人はおそらく多くない。原因は「自分で考える教育」を見たことも聞いたこともないという点にある。

読解力調査では、インターネットで情報が行き交う現状を反映し、ブログなどを読んで解答を選んだり記述したりする内容が出された。文科省によると、日本の生徒は、書いてある内容を理解する力は安定して高かったが、文章の中から必要な情報を探し出す問題が苦手だった。情報が正しいかを評価したり、根拠を示して自分の考えを説明する問題も低迷した。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

教科書は読めるがネットは読めないということらしい。つまり書いてある内容をそのまま覚えることはできるのだが、それを応用することができないのである。急落については端的に指摘が出ているので、これをそのまま読み解けばいい。

OECDのシュライヒャー教育・スキル局長は「日本の生徒はデジタル時代の複雑な文章を読むのに慣れていない」とみる。

日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

ここでいう複雑な文章とは何だろうか。それは教科書のない世界のことである。教科書がないので自分で情報を取捨選択して刈り込む必要がある。そしてそれを人と共有しなければならない。日本人はその基礎となる刈り込みそのものができないのである。

教科書がないにもかかわらずSNSが発達しているので情報が飛び交っている。情報の取捨選択ができないということは教科書が作れないということなのだが、なぜか巷には「俺が言っていることが正解だ」と叫ぶ人が大勢いる。だがそれを共有しようという人は誰もいない。自分の教科書こそが正しいと主張し、相手の言い分を聞かないのである。おそらく日本人は誰か外国人が新しい正解を提示するまでこの教科書闘争を続けることだろう。ことによったら数世代の間そんな状況が続くかもしれない。

日経の記事は明後日の方向に行っている。シュライヒャー教育・スキル局長の言葉をスルーして「ITを活用ができていない」と言っているのだ。これは日経新聞が経済界の意向を忖度しているからだろう。先行して「学校パソコン、1人1台に」と言っている。家庭用パソコンで負けてしまったので世論の力を使って学校に売り込みたいのだろう。

産経新聞はさらに深刻だ。ITではなく本を読まないのがいけないのではという結論にしてしまっている。道徳的に「本を読む=賢い」というレベルに落とさなければ産経新聞の読者への「わかりみ」が深くならないのかもしれない。

新聞であっても日本人は情報の刈り込みができないのだから質問サイトで聞き回ったくらいで刈り込み賢者に会えるはずはない。この場合は「取捨選択ができないことが問題だ」と具体的な指摘が提示されているのだが「実際に触れるもの」を媒介させないと思考ができないのである。おそらく日本が製造業からサービス業に移行できなかったのは思考力に限界があるからなのだとさえ思ってしまう。

つまり、日本人の読解力のなさというのは子供に限ったことではない。Twitterには因果関係がめちゃくちゃな政権批判が並んでいる。情報は豊富にあるのだがここから必要な情報を「たとえ」や「実体の媒介」なしに抜き出せない。一般有権者だけでなくマスコミも政治家もこのような調子である。

問題意識を持って質問をするととてもわかりにくい長い文章が返ってくることがある。常々「何かが足りない」と感じていたのだが、考え直してみると彼らは教科書を書いているということがわかる。日本人は問題意識を共有できないので、人に何かを教える時に「全般的に使えるような」教科書を書く。万人向けだが誰にも帯に短し襷に長しになってしまうのである。

例えば歴史で重要なのはそこからどんな教訓を学ぶかということなのだが日本人はそれができない。だから年表を覚えることを歴史を学ぶことだと思い込んでしまう。一事が万事そんな具合だ。

全く訓練を受けていない人は印象に流れてしまうし専門家は教科書を書きたがる。問題意識を抽出して概念的なビジョンを作って共有ができない。今までもしてこなかったしこれからもやらないだろう。そしてそれは実は「訓練された人」ほど重症なのだ。つまり教育者が一番危ないという厄介な状況になっている。

日本人がバカだからということではなく「考えて掻い摘む」教育を見たことがないからだろう。像やキリンを口だけで説明できないのと同じように日本人に「考えさせる教育」は説明できない。

このことから、豊富にある情報の中から必要なものを抽出する「IT時代の読解力」の基礎になっているのは「問題意識」だということがわかる。これはパソコンを1人1台あてがってもどうこうなる問題ではないだろうし、英語教育を施しても使い物になる英語は身につかないだろう。道具立の問題ではない。考え方が違うのだ。

今回はいろいろ聞きまわってみて「日本人には理解が不可能なんだろうな」ということがわかった。説明不能なのだから「どうやったら成長に結びつく思考が身につくだろうか」などといちいち考察するのは時間の無駄だと思った。適当に相槌を打っておく方が楽である。

よく日本人は議論ができないなどというのだが、実際にはそれ以前の問題なのかもしれない。

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うちらの世界の強みと限界 – なぜ安倍支持者はヤンキー化するのか

日米防衛について考えているとき、安倍政権退陣と絡めた感情的なリアクションが多かった。なぜこうなるのかと考えていて「安倍信者がヤンキー化する理由」というタイトルにまとめることにした。




多分きっかけは、多分「桜を見る会」だ。お花見の私物化で安倍政権が危ないかもしれないという背景に過敏に反応したものと思われる。彼らは攻撃には強いが防衛力は弱いのでキレてしまうのである。いつもは政権が提案していることを「正しいのだ」と言い張っていればいいのだが、弁護はそうはいかない。自分なりのロジックを組み立てる必要がある。彼らにはそれができないのだろう。

そこにトランプ大統領が在日米軍駐留経費を4倍にしたというニュースが重なったことで彼らはそれを同一のニュースだとみなした。彼らは心理的に米軍に依存してしまっているので米軍は無謬でなければならない。「このままでいい」という彼らにとってトランプ大統領は不都合な存在である。なかったことにしたいのではないかと思う。今回河野太郎大臣が否定発言を出したので「NHKと時事通信社発のフェイクニュースだ」というコメントがついた。トランプ大統領にも見られるリアクションである。

よく考えてみれば在日米軍経費の件は合理的に交渉すべき問題であって特にすぐさま安倍政権の転覆には結びつかないし、トランプ大統領の気まぐれでいちいち政権が代わってもらっても困る。

この「力関係には敏感」で「現状を好み」なおかつ「自分の言葉で語れない」というような気質はよく「ヤンキー気質」と言われる。「うちらの世界」が好きな人たちなのだが、実際のそのうちらの世界はコンビニの前だったりするというニュアンスである。つまり、彼らはうちらの世界は作れないのである。ただ心情的にそれがあるふりをしなければならない。ヤンキー気質にはそうした遊離がある。

しかし、かつての自民党支持者はそんな人たちではなかった。例えば、麻生政権時代の支持者たちは建設など特定の業界の人が多かった。当時は公共事業悪玉説が出ていて「世間の風当たりが強かった」ので彼らが機嫌が悪かったが、一般の人たちと空気を共有していたわけではなかった。

だが、どういうわけか今の支持者は安倍政権と自分たちの心情をリンクさせている。理由はわからないが、自分たちが築き上げた村のようなものが「インテリ(彼らから見ると何もしない人たちである)」に屈辱され・否定され・傷つけられるのが嫌なのであろう。実際にはそんなものは最初からなかったのかもしれない。意外と安倍政権の危うさがヤンキーたちの支持を集めている理由なのかもしれない。そこはかとない不安である。

ヤンキーたちは自分たちの自尊心を「俺らルール」で守っているような人たちであるが、その自尊心は世間からは相手にしてもらえない。コンビニの前にたむろしていてもそれは「彼らの場所」にはならない。この「相手にしてもらえない」という感じが支持者たちの心情と重なるのかもしれないとも思った。

今回、たまたま沢尻エリカ騒動が起きている。繰り返し「別に」発言が流されているのだが、これは周りの大人なインテリたちが沢尻の苛立ちをなかったことにしょうとして納めてしまったという事件である。また沢尻の側も「自分が置かれている状況に関する違和感」を口にできないことで子供じみた攻撃性を露出してしまっている。このいなされた感じはいなされる側から見ると「まじむかつく」かもしれないのである。

おそらく、安倍支持者の主張というのも「別に」程度の話なのだろう。つまり、状況が変わってしまえばまた相手にされなくなってしまう。しかし、彼らの違和感を丸く収めようとしても、論破しようとしてもそれは無駄なことである。苛立っているのがわかっていてもスルーするしかない。合理的に説得しようとしても彼らはそれを理解しないからである。

重要なのは安倍支持者たちの別に発言にはそれほど意味がないということだろう。実際の問題の所在は提案能力を失っている議会や、「政治をはどうせ変わらない」という諦めにあるのだろう。つまり、安倍支持者に苛立つ時間があるのなら、自分たちの提案を検証してみたほうが良いのだと思う。

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SNSで「お前は政治の本質がわかっていない」といって他人に説教する人たち

Quoraで政治ネタを書いていると高評価が得られるものとそうでないものがある。「外国の民主主義の形状」について書いているものは割と高評価が得やすい。一方で、香港デモや中国の新疆ウィグル自治区のエスニッククレンジングについて書いている人もいるのだがこれは評判が得にくいようだ。個人のポジションが乗るとダメらしい。




日本語のTwitterでは政治的立場によってバイアスのかかった情報が飛び交っている。そんな中で「できるだけ科学的に見えて中立な」政治情報を欲しがる人が多いのは理解できる。例えば外国の通信社(ロイター・BBCなど)やマスコミが出している記事は信頼性が高いと思われるようだ。

ヨーロッパや中南米の出来事は受け入れやすいようだが日本と関係が深い中国とアメリカはそうはいかない。アメリカのことはよく「宗主国」などと揶揄して書くことがあるのだが、やはり心情的に近いと「公正さ」が失われると感じる人が増えるのではないかと思う。情報が多い分、感度が高くなっているのだ。

実際に中国政府や香港のデモ参加者をバッシングするような投稿を「無視」して進行しているのだが、彼らは確信犯的な闘争を深めることになる。逆にエビデンスを示せ!などと挑発的に書くと多分Twitterのような状態になるのだろう予想される。つまり、勝つ議論に移行してしまうのだ。勝つ議論は攻撃性が高く公正な情報を欲しがる人はそれを嫌う。

例えば「朝鮮は植民地だったのか」という<議論>がある。これは二つの意味で無意味な議論だ。第一に第二次世界大戦以前は植民地も侵略戦争もある程度大目に見られてきた。つまり、第二次世界大戦前に植民地や殖民地と書かれていてもそれ自体が犯罪行為ということにはならない。第二に日本人は朝鮮を内地として扱うか経済搾取の対象にするのかを決めておらず曖昧な立場をとっていたために、過去のドキュメントを見ても何もわからないのである。だが、これが議論として成り立ってしまうのは人々が勝つために争っているからである。

人々は情報を求めてはいる。これが面白いのはこの「知るための議論」が決して個人の領域を出ないことである。人々は公正な新聞は読みたい。しかし、その人々が語る政治論はどれも偏っている。つまり自分で判断を下したらそれが検証されることはなく、その意見の押し付け合いが始まる。なのでSNSには大多数のROM(読むだけの人)と自分の意見を押し付けあう兵士で溢れている。言論空間は闘争か黙秘かの二択なのだ。これがとても不自然に感じられる。

日本人は公正な情報はあると考えているがそれは必ず個人の心象と合致する。おそらくは社会常識を知らず知らず自分の常識に合致させてきた人が多いのだろう。そしてそれはおそらく自発的に行われてきたに違いない。そして、日本は「常識をいえば褒めてもらえる」という単純な社会だったのだろう。ところが世間というものがなくなってしまい常識も消失した。だがそれでも人々は公正な新聞を読みたがっている。多くの人が政治情報で彷徨うのはそのような理由からではないかと思える。常識を言えばみんなに褒めてもらえるはずなのだが、それが見当たらないのだ。戸惑っても当然である。

こんな状況で「話し合ってみては」などと言ってみても何の意味もない。そんな経験はしたことがないからである。

恐ろしいのは彼らが或る日突然「自分の心情に合致した」情報に触れてしまう可能性である。いわゆる目から鱗的感覚である。実に危険だ。

先日、何気なく「第9条の会」についての個人的な経験を書いたのだが、これがシェアされることが多かった。どうやら、憲法第9条は共産党が新人勧誘の入り口商品として使ってきた歴史があるようだ。「戦争はいけない」というのは誰もが反対できない心情に合致するテーマなので、これをきっかけに勉強会に誘い次第に共産主義(といっても彼らが考える日本流のものだと思うのだが)を教え込むという方法が取られてきたようだ。

こうしたことが成り立つのはすでに出来上がった体系と組織があるからだろう。つまりムラがあるからだ。まずは誰にも反対できないような心情を与えてイエスと言わせてから徐々に自分たちの教えに導いてゆく。こうすれば受け手の「自分は公正中立である」という心情を維持したままで組織の色をつけて行ける。

だがこれは随分回りくどいやり方で、したがって今ではこうしたやり方を維持して行ける人たちは少ない。「ムラ」に閉じ込めて強化学習を繰り返さなければならないからだ。共産党や公明党では新聞が役に立っているようだが、これを一生維持するにはお金と労力がかかる。

このムラを失った日本人は今ではSNSを彷徨い歩いており「なんの偏りもない自分」の心情を反映してくれる<信頼できる>情報ソースを探している。そんなものはどこにもないのだから人々はSNSで「あなたは本質がわかっていない」と言って他人を攻撃するのだろう。

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おっさんの国家観と全体主義

ボランティアでQuoraで毎日「スペース」という政治ブログを勝手に担当している。Quoraはそもそもは質問・回答サービスなのだが、ROM好きな読者が「簡単に国際情勢を知ったように思える」というような読み物を目指していて、同じテーマを扱って吐いてもこのブログよりはずいぶん大人しめだ。そこに「ちゃんとした国家観がないのに政治を語るな」というクレームが入った。クレームなのだが「本当は話を聞いて欲しいんだろなあ」と思った。




経歴を見ると「一部上場企業でたくさん部下がいた」と書かれている。こういう人が引退して家にこもるようになると誰も話を聞いてくれない。小さなクレーム風のコメントをいろいろなところに書いているようだ。

以前同じようなクレームに「色々とご存知なんですねえ」というコメントをつけたことがあるが、その後で様々なクレームをつけてくるようになった人がいる。社会的認知には報酬系に働きかけるので麻薬のような効果がある。報酬が切れた時にもっと辛くなるだろう。孤独と共感という本を読んで高すぎる自我は攻撃性を助長するだけだということがわかったので、今回は「彼が答えを書ける場所を用意してあげることくらい」しかできないんだろうなあと思った。

「ちゃんとした」が翻訳しにくかったので「あるべき」として質問を立ててみた。案の定「日本は神武以来の歴史がある国」であるから日本はもっと世界から賞賛されるべきであるという長文の回答が返ってきた。これが「この人にとっての当たり前」なのだろう。会社では賞賛されるがSNSでは黙殺される程度の話でしかない。

こういう大人がたくさん組織の中に囲われているというのが日本社会の残酷さだ。おじさんたちは定年間際になると肥大した自我で問題を黙殺し「自分たちの当たり前」を他人に押し付けるようになる。これが社会と決定的にずれていて日本社会や組織を死滅させるのだ。

SNSでクレームを言われると「自分が攻撃されている」という気分になる。つまり、いわゆる「くそリプ」の類なのだが、くそリプにも有用性はある。これに対してリプライを書いた。そこで考えたのが「全体性の話」である。この方に響くことはないだろうが普段考えていることの良いまとめになった。

国家にしろ社会にしろ健全な状態では特に違和感は感じられない。ところがある部分が痛むとそこが全体から切り離されているように感じられることがある。これが全体性が損なわれた状態なのだが、日本語にはこの健やかな全体性を表す言葉がない。この感じを伝えるにはどうしたらいいのか?ということを考えて思いついたのが昔学校でシスターに教えてもらった小指の話だった。小指に怪我をするといつもの素指のことが気になる。神様はそのようにしてあなたのことを気にかけているのですよという話につながっている。

この話は子供に「全体性」を伝える話である。キリスト教において神は人格ではなく原理なのだろう。

健康な時に我々は小指の存在を忘れている。しかし怪我をするとそれが部分として切り離されて意識される。それが全体性が損なわれたという感覚である。切り離された側はおそらく孤独を感じ周囲に痛みを伝える。

この全体性を取り戻すことを英語では健康(healthy)と言っている。英語にはwhole/heath/healという一連の言葉がある。このブログではハイル・ヒトラーの意味という記事で取り上げたことがあるが、ドイツ語にも同根の言葉があるのだ。いわゆる哲学用語ではなく割と一般的な感じである。wholeという全体性が保たれた状態があり、それを回復するのがhealなのだ。そしてhealが保たれたのがhealthyなのである。

ところがこの全体性の話を日本人はしない。おそらくはだが恵まれた自然環境に囲まれていて「村に全体性がある」ということが意識されないからだろう。あまりにも当たり前すぎてこれまで意識する必要すらなかった感覚ではないだろうか。

西洋には全体性を示す哲学体系とそれを表す言葉がある。ところが日本ではあまりにもありふれているので「里村」のような全体性がある環境をいいあらわす言葉そのものがない。そして村を失った多くの日本人がこのことについて悩んでいる。

ある人たちは反日という言葉を使って小指を切り離そうとしている。痛みを攻撃と捉えているのだろう。逆に小指側には「全体主義」という反発の用語がある。「健全な全体」という感覚を知らない人は小指だけで生きてゆこうとするのである。

この全体としての一体感がどうやって生まれるのだろうかと考えてみたのだが、それはおそらく将来に対しての見通しや安心感という主観似寄るのではないかと思う。主観なのだから政体のようなシステムや法律を語ってもそこから全体性を再現することはできない。

全体性が失われるとどんな政体でも痛みが出てくる。ヨーロッパでもアメリカでも政治の分断が起きていて「世界から全体性が失われていること」がわかる。特に民主主義というのは違いを乗り越えて同じ運命共同体として生きて行こうということなので、全体性が損なわれると民主主義そのものが失われる。

だが、全体性が損なわれた状態で議論を始めてしまった人は最初から危機感に彩られていて自分の意見に固執するだろう。いわば溺れている状態なので、全体性をもう一度考えてみませんか?という声は届かないのだろうなあと思った。

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英語を話せない「自称英語専門家」が議論をめちゃくちゃにしているのではないだろうか

英語外部試験について大騒ぎでいろいろ聞いて回った。長年安倍政権にうんざりしていて「政権の終わり」がどうなるのかなと思っていたせいだと思う。調べているうちにとんでもないことに気がついた。日本には「あるべき英語試験」の姿がそもそもない。にもかかわらず制度改革が進んでいる。ここで話し合いを進めても英語試験の議論はますます錯綜するだろう。議論そのものをストップする必要がある。




最初は安倍政権が教育改革と称して英語試験に手を出し、失敗を文部科学省のせいにしたというような構図を考えていた。それだけでも良かったのだが、いろいろ話を聞いているうちに「あ、そんな単純な話でもないんだな」と思った。このまま英語試験の議論を展開したらさらにめちゃくちゃなことになるのではないかと思う。

英語のテストは本来単純なものだ。使える人と使えない人を分ければいいのだ。点数にはあまり意味がない。アメリカの学校に入るためには英語が理解できなければならない。専門学校だと授業が理解できないといけないし、大学院レベルだと論文まで書けないと卒業ができない。TOEFLはその実力を計測するために設計されている。

就職にTOEFLは使わない。志望動機を聞かれる面接がありの実力がわかるからである。就職でも「これくらいの仕事にはこの程度の英語力」というのは明確に決まっている。そもそも試験官は英語が理解できるのだから試験のスコアに頼る必要がない。

これが当たり前だと思っていたので英語の試験でここまで迷走することの意味を全く考えていなかった。

ところが面白いもので、他人に質問をしてみてこれに気がついた。どうやら最近の入試は「共通テスト組」の他に「AO入試組」などがいるようである。つまり複数の経路からバラバラの実力を持った人が入ってくる。そして大学では英語が必須科目になっていて授業を受けないと卒業できない。回答者はここで「低い方に合わせている」と不満を持っていた。

つまり、最初から英語の能力にばらつきがあり、さらに授業では英語は使わないので授業に必要な水準もなく、将来進路もバラバラなのでどの程度の英語力を持っている人を卒業させるべきかという基準もない。にもかかわらず「それらをすべて測る尺度を作れ」と言っているわけだ。水準がわからないふわふわした状態で入試をどう設定するのかという議論ができるはずはない。

お菓子を作る学校であればメレンゲを立ててケーキを焼けなければ卒業できない。だが英語にはそれがないのである。

何回かやりとりするうちに、この人が英語ができる人なんだということがわかってきた。帰国子女らしい。こうした人が実用的でない学校英語に不満を持ったり、英語学習にモチベーションを持たない人を苦々しく思う気持ちはよくわかる。と同時に英語ができる人は攻撃されやすい。発音はきれいなのに日本の重箱の隅をつつくような文法問題ができなかったりするからだ。つまり英語が実用的に使える人が日本社会に復帰すると英語ができるということを隠すようになる場合があるのである。この人も表面的には自分はできるとは言わなかった。

本来単純だったはずの英語能力の計測なのだが、実は「日本で独自に発展した使えないけど学問として成立している英語」というものがある。これが英語試験の問題をさらに複雑にする。

これは憲法議論でもあることだ。日本の憲法には明らかな問題がある。だが日本の憲法専門家はなんとなく独自の理論化をしていて「憲法第9条で自衛隊は合憲(だから今のままでも大丈夫)」というような話をしたがる。そのために憲法第13条を持ち出したりするという解釈には無理がある。憲法ができたときに自衛隊はなかったからである。これが、ガラパコス専門家の議論だ。

同じように英語は話せなくても大丈夫というような漢籍学者(中国語は話せない)風の人が英語教育を牛耳っている可能性があるのかもしれない。つまり日本の議論は英文解析系の人たちが実用英語を駆逐してしまう可能性があるのだ。

  • 中国語:英会話
  • 漢籍:英文解析

ここまでを整理すると実用英語がどんなものかわからない人たちが英語テストについてあれこれ議論しお互いを計測しあっており、英語が話せる人たちが口をつぐんでいるという悪夢のような世界があることがわかる。

例えば漢籍学者は中国語が話せない。だが「実用中国語の使い手」に対して「そんなものはちゃんとした中国語ではない」などと言い出す可能性もある。普通の人が欲しているのは実用中国語の方だろうがそれがバレてしまうと漢籍学者は地位と面目を失う。憲法議論にも英語議論にも同じような可能性があるのだろう。そしてそこに利権をめがけてやってくる政治家が加わり議論を混乱させるのだ。

かつては文献を読んでいれば良かったのだが、最近では外国に出かけて行って勉強できる機会が増えた。日本の英語学習はそのあたりについて行けていないのだろう。海外からの帰国組が増えるとさらに議論が錯綜する。「こんな試験はおかしいのでは?」と気がつく人が増えるからである。

漢籍学者は中国語を話せないと定義すると、結局できない人たち同士で議論が延々と続いていることになる。高校生は将来使うための英語と受験勉強のための使えない英語を勉強する負担を強いられるばかりか、余計な経済的負担、制度がころころ変わる不安などを抱えることになるだろう。

同じようなことは多分社会保障や雇用などについても行われているのだろうなと思う。何が実用に耐えるのかということを無視した議論が専門家とフリーライダーによってめちゃくちゃにされるという光景はいたるところに広がっているのだろう。

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あいちトリエンナーレの表現の自由をめぐる議論はなぜ空転したのか

あいちトリエンナーレの「表現の自由問題」が話題になってからしばらくたった。Twitterでは未だにこの話が政治的対立としてくすぶっている。だが、今思い返してみるととても不思議な点が多い。これを考えて行くと「日本はもう芸術は扱えない国になったのだな」ということがわかる。芸術をやるなら海外に出るかYouTubeなど外資の入ったプラットフォームで展開するのが良い。




この話はもともと見向きもされてこなかった現代芸術の話だった。なぜこれに火がついたのかがそもそもわからない。

おそらく、韓国のテレビ局に「天皇が燃やされた」というビデオと慰安婦像が組み合わせて表現されたために文脈ができたのが問題視されたのだろう。だが、議論を追ってみてもそのことが語られることはなく、あくまでも作品と主催者の「政治性」に焦点が当たっているように見えてしまう。ところが、芸術監督の津田大介も愛知県大村県知事も特に反天皇的な政治スタンスを持っているわけではなさそうだ。すると「この問題は一体何を解決したいのか」が見えなくなる。だからいつまでも落としどころがなくくすぶり続ける。そもそもなぜ慰安婦像が問題なったかといえば、その前の徴用工裁判で韓国が日本企業を「挑発したから」という流れがある。つまり、冷静に考えてみるとこの問題には流れだけがあって核がない。

もともとは「天皇は自分の内面の一つである」というメッセージだったのだが、そのことは顧みられることはなく、ひたすら自分たちのアイデンティティをめぐる戦いになっている。ところがよく考えてみるとそのアイデンティティは自分のものではない。お互いに「日本」という大きな殻を被っているだけである。一方は「伝統と私」という肥大化した自己意識を持っていて、もう一方は民主的な私という肥大化した自己意識を持っている。保守の方がグロテスクさは際立って見えるが、国から補助金が出るビッグプロジェクトで遊んでやろうという「火遊び精神」を感じる。

さらに考えを進めて行くと、どちら側も「このアリーナであれば自分たちの自己実現ができる」と考えているということがわかってくる。観客がたくさんいるからそこで何か叫べば振り向いてもらえるのだ。その観客とは実は「保守と左翼」なので、つまり彼らは依存状態に陥っていることになる。お互いに罵倒し合っているように見えて慰めあっているのだ。

表面上は「何が表現の自由なのか」ということが話し合われているので念のために、何が表現の自由なのかを見て行く。例によってWikipediaから英文を拾った。

Freedom of assembly, speech and press and all other forms of expression are guaranteed. No censorship shall be maintained, nor shall the secrecy of any means of communication be violated.

難しいことは書かれていない。憲法に書かれているのは検閲がされないことと信書の自由が侵されないことで、隠れた主語は権力者である。つまり権力者に邪魔されずに協力ができる自由を保証しますよと言っている。つまり表現の自由の前提は協力なのである。協力による社会建設を政治だと定義すれば、政治のために表現の自由がある。ゆえに、協力する意図がない表現の自由には意味がない。

まずリベラルの方から批評してしまうと、手続きの問題があったにせよ補助金を出さないということを決めたからといって表現の自由が侵されたことにはならない。民間でやればいいからだ。民間でやろうとした時に会場を貸さないように圧力をかけたり禁止したりすればそれは検閲になるだろう。

さらにこれまで商業的に成功するための努力をしてこなかったという点も見逃されている。補助金付きの芸術展の機会があるために自助努力が阻害されたのだろう。社会に余裕がなくなり補助金打ち切りということになり芸術家が慌てだしたという側面がある。

さらに、主催者側に「自分たちの意図を理解してもらおう」という熱意はない。もし芸術監督以下のスタッフレベルに意欲があったとしたら津田大介さんを芸術監督に選んだのは失敗だった。東某という人と「燃えちゃうやつですねえ」などと言っておりとても真剣だったとは思えない。

ところが保守側にも当然問題はあり、実は捕手側の方が問題が大きい。保守といっても日本の保守は公共には興味がない。ところが今回彼らは韓国から屈辱されたということに怒っている。しかし、今になっても何に怒っているのかが自己分析できないので「天皇の写真を燃やすとは親の写真を燃やすことだ」などとキレてしまう。彼らはケシカランサヨクを叩くことが社会的正義だと信じているようだが、そう信じている間は何が問題なのかを考えずに済む。

保守にとっては、自分たちのおそらく肥大した高すぎる自己評価が毀損していることが問題なのだろう。つまり自分たちでもうすうす衰退に気がついていてそれを指摘されるたびにキレて見せることになるのだ。自己評価が高まらない限り今後も同じ問題は起こり続けることだろう。彼らにとって一連の運動は防御的反応に過ぎない。彼らは鏡をみれば全部壊して回る必要がある。愛知トリエンナーレの件はたまたま韓国のテレビ局から扱われなければ問題にならなかっただろう。その証拠にいろいろな現代美術展ではもっと過激で不快な表現も出てきているようだが、それがTwitterで問題になったりすることはない。彼らの鏡には映っていないのである。

事前に基準を示さず後付けで補助金を削減したことが問題視されているが、原理的に事前に基準を示すことはできない。何かが映り込むまで鏡そのものを叩くことはできないのである。だから、鏡にお気に入りのものだけを写し込むことはできるだろう。

だから、政府を礼賛する表現だけを集めた芸術祭を開くことはできるだろう。だが、それは例えて言えば朝鮮民主主義人民共和国のマスゲームやナチスの芸術展みたいなものだ。あれは見世物としては面白くても芸術とは認められないはずである。逆に「芸術による自由な自己発展を扱えなくなりましたよ」という自白行為に過ぎない。だが、肥大化した自我を持ってしまったがゆえに攻撃に耐えられない人たちはそのことを自ら自覚することはできない。そして周りを巻き込んで何も映すなと叫び続けることになるのだ。

今回、ここまで声が大きくなってしまったということは、日本では傷ついた自己像を持ってしまった人がそれほど多かったということである。ゆえに日本では今後大掛かりな公共芸術展はできなくなるだろう。

このように考えてみると、保守の側はそもそも公共に関心がなく、リベラルと言われている人たちも人々が協力し合って何かの理解が得られるとは思っていないようだ。協力という文化がない日本では表現の自由という表現は成り立たない。ゆえにあいちトリエンナーレの「表現の自由論」は空回りし続けたのである。

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嘘つきが信頼される時

今回は安倍政権やトランプ政権が嘘をついているのに支持がなくならないのはどうしてなのかという話である。




孤独と共感」を読んでいる。これまで勝つための議論について読み、次に自己愛と攻撃性について読んだ。次は嘘についてである。今回は嘘つきの方が正直な人より信頼される可能性があるという結論なのだが、科学論文は一読しただけではよくわからない。そのため書きながら整理している。

まずは、American Sociological Review 2018年2月号に掲載されたという実験の話が出てくる。424人を被験者としたオンライン調査である。架空の大学の自治会の選挙の話を紹介して反応を聞いている。

最終的な質問は「現職に対抗する自治経験が全くない新人を支持しますか?」である。

まず、二つの異なるストーリーを与える。前者では新人は正直だが、後者では新人は嘘つきである。したがって普通に考えると新人は信頼されないであろう。

  • 新人が現職が提示したデータが「査読付き学術誌に掲載されていない」と指摘した。
  • 新人が査読付き学術誌に掲載されているのに掲載されていないと嘘をついた。新人は研究チームのメンバーに性差別的な発言をしていたこともわかった。

次に、これらの2群にそれぞれ違う評価を与えた。全部で4グループになる。

  • 現職には正当性に疑問がある。
  • 現職は立派な人間である。

さらに無作為に二つの異なる条件を与えた。全部で8通りの組み合わせができる。

  • あなたは現職と特性が近い。
  • あなたは新人と特性が近い。

現職に問題があり新人候補と性格が近いとされた人は、新人が正直である時よりも嘘つきで女性蔑視であるとした時のほうが支持率が高かったそうだ。つまり「自分を守ってくれる嘘は良い嘘であり、嘘をつかない人よりも頼れる」と考える傾向があったということだ。ただこの調査はインターネット調査でありこれをそのまま信頼していいのかがわからない。

次に、ペンシルバニア大学の政治学者Diana Mutzが「自分の過去の研究と合致する」と指摘したということが書かれている。ムッツの研究チームはトランプ大統領の地球温暖化がデタラメだという主張が虚偽であると示し、402名の被験者を調べた。

トランプ大統領支持者はこれをエリートへの挑戦と捉えたそうだ。つまり、トランプ大統領支持者はこれが嘘であると示されてもなおトランプ大統領を支持したことになる。トランプ大統領を信頼したのか多少の嘘は構わないと思ったのかはわからない。最初の実験と合わせて考えると「トランプ大統領は良い嘘つきであり自分たちの役に立つ」と考えていたことになるが、独立した実験なので関連付けて良いかはわからない。

前回「人が勝つための議論に耽溺することがある」という研究を紹介した。ここから勝つためには手段を選ばなくなるだろうなというくらいのことはわかる。相手が信頼できなくなると「こちら側も防衛のために嘘をついてもいいのだ」と考えるようになるということである。

人々は協力するためにも議論するのだが、協力関係が成り立たないとなると相が変わるのだろう。人々は勝つため相手の話を聞かなくなるばかりか嘘をついても構わないと思うようになるのである。ただ、協力すればより良い成果が得られるが嘘と競争からは何も生まれない。つまり、コミュニティが崩壊しかけているからこそ議論が競争的になり、さらにそれがコミュニティを崩壊させるということになる。まさに割窓的な社会である。

実際にトランプ大統領には岩盤支持層と呼ばれる人たちいる。アメリカのメディアはトランプ大統領の嘘を暴き続けているのだがそれを自分たちへの攻撃と受け止めているのかもしれない。つまりトランプ大統領は自分たちを守るために良い嘘をついていると受け止めて、それ以外の声に耳を傾けなくなってしまうのである。ただ、そこにはエリートが自分たちを搾取しているという被害者意識がある。

Twitterで野党は安倍政権の嘘を攻撃し続けている。野党は実はこれも無意味かもしれないということにそろそろ気がついた方がいい。安倍政権は嘘をついたり情報を隠蔽しているからこそ支持されているかもしれない。これが成り立つのはつまり有権者たちが「野党は自分たちを傷つけて貶めようとしている」と考えているからなのである。野党が信頼されていないことがそもそもの原因なのだ。

今回は協力と競争というテーマで3つのお話をご紹介した。複雑で理不尽そうに見えるネット言論なのだが実は割と簡単で合理的なルールの組み合わせで成り立っているのかもしれない。

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自己愛に潜む暴力

孤独と共感」に「自己愛に潜む暴力」という記事があった。人はなぜ虐待や言葉による暴力を繰り返すのかについて考察している。つまりTwitterで意見が異なる人を攻撃するのはどんな人なのかというような話である。




相手に暴力を振るう人は自己評価の低さに悩んでいると教科書には書いてある。だが、カウンセラーなどの実務家はそれには当てはまりそうにない事例があるとうすうすは知っている。心理学では有名な「自己評価の低さが暴力につながる」という周知の事実を科学的に解明した人は誰もいないのだそうだ。

この論文の著者R.F. バウマイスターは自己評価が脅かされた人が暴力を振るうようになるというegotism(脅かされた自己中心主義)という仮説を考えて実験してみることにした。自己評価が高い人が下方修正を迫らると防衛のために相手に殴りかかることがあるという仮説である。

ジョージア大学のカーニス教授が1980年代に行った研究では自己評価が高くなおかつ変動がある人に高い攻撃性が見られたという。高くて安定している人は攻撃性が最も低く、もともと低い自己評価の人は中間の攻撃性を持つという。犯罪者の中にも自己評価が高い人たちがいるし、チャイロットの著作「Modern Tyrants」は誇りが高く当然受けるべき敬意が払われていないと考える国の間で戦争が多発すると指摘している。さらに今まで培ってきた高い自己評価が破産やスキャンダルなどによって損なわれると自殺(これは自分に対する攻撃である)を選ぶ人もいる。

経験的に自己評価の危機が攻撃性をうむという事例はあるが、対照実験がないのでこれをもって「高い自己評価が攻撃性を生む」という仮説を証明することはできないだろう。

そこでR.F. バウマイスターはまずナルシシズムのある人と攻撃性について調べてみることにした。ナルシシストは極めて高い自己評価を持っている。自己愛(ナルシシズム)は肥大した根拠のない自己評価と言ってよく、したがって他人から「正当に」評価されないことがある。ナルシシズムについてはタルサ行動研究所のラスキンの指標を用いた。

  1. 肥大した誇大な自己観を持つ。
  2. 偉大さを示す幻想にとらわれる。
  3. 自分は特別なので特別な人間しか自分を理解できないと考えている。
  4. 過剰な賞賛を求める。
  5. 根拠のない過剰な権利意識を持つ。
  6. 他人を自分の目的のために利用する。
  7. 他人の感情に共感できない。
  8. 嫉妬しやすく、嫉妬されていると思い込んでいる。
  9. 傲慢で尊大。

自己評価と自己愛(ここでいう自己愛というのはナルシシズムのことである)は別の指標なので二つとも調べた。自分が得意分野を持っていてそれを自覚していても傲慢にならない人もいるからである。そのあとで小論文を書かせ「他人が評価した」という触れ込みの良い評価と悪い評価を渡す。さらにその評価をしたちいう人に会わせる。そのあと「反応時間を調べる」と嘘の説明をして大音量を聞かせる実験をした。大きな音を出すと相手はひるむので攻撃性の指標になるのだが、実験者には「反応時間を調べているのだ」と行動を正当化する説明が与えられている。

予想通り低い評価を聞かされたナルシシストがもっとも攻撃的になった。ナルシスストでない人の攻撃性は低かった。さらにナルシシストに別の相手(評価をした相手ではない)を当てると彼らは攻撃的にならなかった。つまり、ナルシシストは自分の評価を低めた人を攻撃するが誰でも攻撃するわけではないのだ。

ナルシシストはいつでも攻撃的になるわけではない。それが脅かされていると考えている時だけ暴力的になるのである。

ナルシシズムが条件付きで暴力を生むとすれば、自己評価が低い人を無理に褒めるのは危険かもしれない。自己評価を肥大させ自己愛的な傾向を強める可能性があるからである。根拠がない自己評価を与え続けられた人は常に承認を求め続けるようになるだろうし、そのバブルが弾けた時相手に対して攻撃性を向けるであろうということになる。

自己評価を肥大させるのは親などの周りの大人かもしれないし集団なのかもしれない。

いじめなどいろいろな分析に使えそうな実験だが、例えば日韓の関係に当てはめるのは簡単だ。日本人は東洋唯一の優等生として高すぎる自己評価を持っていたのだがバブル崩壊後その自尊心が傷つけられた。しかしそのままでは自己愛が満たせない。そこでそれを攻撃してくる韓国に対して過度の攻撃性を見せるようになったという説明ができる。また、「日本すごいですね」という番組も自己愛の確認である。日本人は自分たちが経済的に成功しているというよりも西洋から注目されちやほやされる存在でいたいのである。

さらにトランプ大統領を支持している白人も、もともと国内の有色人種を見下しておりさらに経済的な成功を手にしていたと考えることができる。彼らが没落したのはAIやオートメーション化のせいかもしれないが、そうとは認められない。だから自己評価が傷つけられた結果として中国やメキシコに攻撃性を向けているのだという説明をすることができる。トランプ大統領のように肥大した自己評価を持っている自己愛の強い人間が彼らの王となり「多少の嘘はやむをえない」として賞賛されているのは実は当然のことなのかもしれない。

こうした議論をどうやって沈静化させられるのかを考えるのは面白いが、彼らを褒めれば自己愛が肥大化するだけだ。かと言って否定すれば攻撃される。そうなると「彼らが求めている餌(賞賛)」はここにはありませんよとするのが一番良い方法に思える。だが、そのためにはスルーする側が安定した自己評価を持っていなければならない。

SNSは脅かされた自己中心主義同士が接触する危険性をはらんでいる。彼らが攻撃性を帯びた競争を始めた時、その議論は全て戦争状態に突入してしまうのである。その議論には落としどころがなくしたがって延々と続くだろう。

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