豊洲移転問題と我慢の民主主義の崩壊

まだ、築地残留か豊洲移転でもめているらしい。この問題は不思議と部外者が大勢参加している。そのため、議論がなにを解決すべきなのかがわからず、いつまでもくすぶり続けている。ではなぜそのようなことになったのか。考えているうちに日本流の「我慢の民主主義」が崩壊しているのかもしれないなと思った。

問題を整理したいならまず何を解決するかを明快にしなければならない。それは誰のどんな課題を解決するのかということだ。この議論は、実は豊洲か築地かということだけが議論されており「誰の問題を解決するか」が棚上げになっている。

豊洲問題を離れて寿司屋について考えてみよう。寿司屋にはいろいろな種類がある。銀座久兵衛のような高級寿司店も寿司屋だが、すしざんまいのような回転寿司店のほうが数は多い。ここで数の原理で「寿司屋はすしざんまいしか認められない」と言い出したらどう思うだろうか。多分「銀材の高級な寿司屋は日本の伝統的な文化だし」と考えるのではあるまいか。実は築地か豊洲の議論はこれに似ているのだ。

高級寿司屋は細かな流通仕入れルートに支えられており、目利きが重要だ。一方で、すしざんまいのような回転寿司店は全国に効率的に同じ魚を届ける必要があり「効率的な」流通が必要になる。つまり、すしと言っても全く違う業態だと言える。だから、提供すべきソリューションも違ってきて当たり前なのである。

効率化を追求するためには規模の経済を働かせる必要がある。すると高級寿司店を支える零細業者は同じルールでは立ち行かなくなる可能性が高い。一方で細い伝統的な人たちに合わせると規模の経済が追求できないので大規模業者は営利が追求できない。が、普段は「共存してやって行きましょう」ということになっている。

実際の日本の魚食文化は大規模化・集約化が進んでいる。これは消費者が面倒な魚から離れてパックで買える切り身や外食を好むようになっているからだと言われているそうだ。つまり、ほったらかしにすると大規模流通だけが生き残る可能性が高い。どんな魚が大量流通に向いているかを見たければ西友とかコストコに行けば良いと思う。コストコでは外国産のサーモン(鮭ではなくトラウトの一種が多いようだが)が売られていたりする。が、西友しかしらない人は「こんなものだろう」と思うかもしれないが、大衆魚はもっと調理に手間がかかっていた。鯖を買ってきて背骨と身を分離したり(三枚におろすとかいう)、小さなアジをあげて酢につけて食べたりしていた。

大衆魚を食べる文化は高齢者世帯にしか残っていないと思うが、観光資源としての役割もある。接待で寿司を食べる人が減った代わりに観光客を惹きつけているのだ。国や都は一方で「クールジャパン」などといって外国人を引きつけようとしている。

現実には「流通に乗る安くて手軽な魚」志向があり、小規模事業者は経営的に危機にあるのは確からしい。豊洲推進派の人にこんなTweetがある。

確かにそこまでは事実なのだが、これをどう読み解くかはどんな意識を持つかによって全く違ってきてしまう。彼がほのめかすように言っているのは「苦しいから都から金をせびり取ろうとしているのだ」ということなのだと思う。確かに議論としては成り立つので堂々と「小さいところは滅びればいいし、高級寿司屋だけ残ればいいんだ」と主張すればいい。

が、伝統を大切にして観光資源を守るのだということになれば「経営危機にある魚屋が多いのだから税金で保護すべきだ」となる。つまり「どんなオブジェクティブを設定するか」で同じ事実から得られる結論は全く違ってきてしまう。

問題を提示して決めてもらうのは政治の役割である。その意味ではオブジェクティブがないのに議論が進むはずはなく、政治は役割を放棄していると言える。小池都知事のオブジェクティブは都議会の制覇であり「みなさんがお好きな方に決めますよ」と考えているからまとまらないのだ。

そもそもこの豊洲推進派のマインドは問題だ。多分彼らが「民主的には多数派」であり、力が弱い人たちをねじ伏せてきたのだろう。それどころか「経済的に苦しく、経営者が無能だ」という別紙感情さえほのめかされている。我慢を強いられる人を否定して追い込めば、一部が過激化するのは当たり前だ。だから早く豊洲に移転したいなら、零細業者をどう保護すべきかを考えるべきだった。

そもそもなぜ当初から議論に参加していた築地移転派の人たちは今になって騒ぎ出したのか。彼らは仕様策定の段階から議論に参加していたのではないか。議論の最中に豊洲移転への「空気」があり、我慢を強いられていたのではないかと考えられる。もし、この段階で議論に透明性があり、問題点が出尽くしていれば「後でグダグダ」いう人は出なかったはずだ。日本人は空気に負けて我慢することがある。ずっと我慢していればいいのだが、状況が変わると「やはり私はこう思っていた」と言い出すことになる。

これに「よくわからないが大勢に従っておこう」という人が加わる。彼らは「実は盛り土をされていませんでした」ということを知ってから騒ぎ始めた。

推進派の人たちは建物さえ立ててしまえば(つまり既成事実さえ作れば)みんな黙って従うだろうと考えて、嘘をついたり相手を恫喝して黙らせてきたのだろう。が、そうはならないのだ。それどころか後になって「みんなが騒いでいるのだから議論い参加できて当然」という空気になると、もはや収集がつかなくなってしまうのである。「あの時実は納得していなかった」とか「俺は騙された」という人が増える。

その意味では現在の政府の動きは危険だ。都合の悪い状況を隠してとりあえず既成事実を作るような動きが増えている。すると「議論にはコミットしないが後で文句をいう」人が増えることになる。議論がティッピングポントを超えると収集がつかなくなるので、日本人はますます何も決められなくなってゆくだろうことが予想される。それを利用しようという政治家が現れて議論を煽るようなことになれば、政治はますます機能不全に陥ることになるだろう。

ということで豊洲移転問題は今後日本の民主主義が機能不全に陥った最初の事例になるのかもしれない。

日本はのび太ではなくジャイアン

NHKの朝の番組でトランプ大統領の機嫌を損ねることなくNOという方法について真剣に話し合われているのを見た。これを見て危険だなと思った。

多くの人は「日本はアメリカに逆らえない」という前提を持っているようだ。だからTPPではアジアの国を引き込んで交渉力を得るべきであるという結論になる。日本が先導してアメリカがアジア各国の市場に参入できるように手助けすればアメリカも納得するだろうという主張が展開されていた。アメリカはジャイアンに例えられ、日本はのび太の地位にあるという認識も共有されていたようだ。

ところが冷静に考えてみると日本の経済力は世界第3位である。つまりのび太だとしても、とてつもなく太ったのび太なのである。では力の方はどうだろうか。実は日本の軍事力は世界第9位程度なのだ。これより上には西ヨーロッパ諸国、ロシア、中国、アメリカ、韓国しかいないという実力である。つまりとてつもなく力が強いのび太だということになる。

つまり、諸外国としてみたら「ジャイアンが近づいてきている」ようにしか見えない。いくら「他国を攻撃するための武器は持っていません」と言っても、実際に実弾が発射できる装備(自衛隊は装備品などと言っているようだが)を見たら「それって人を殺せますよね」ということになって当たり前だ。

日本としてはアメリカに逆らえないからいうことを聞いて、それを他国にもお願いするだけという意識を持つかもしれないのだが、実はジャイアン同士が手を組んでのび太を襲っているようにしか見えていないということである。

こうした自己認識は他国への潜在的脅威になりかねず改めなければならないとは思うのだが、賢い解説委員がたくさんいるNHKでもアメリカが出てくると70年前の感覚を引きずってしまうんだなと思った。思い込みは恐ろしいものだ。

豊洲移転問題を解決する3つの処方箋

昨日の減価償却についてのつぶやきを見たあとで、錯綜した議論の原因を探そうとおもいいろいろと調べてみた。簡単におさらいすると、豊洲市場移転問題の議論で「減価償却はサンクコストだから考えなくて良い」という話があり、それに対して築地存続派の人たちが「どんなのデタラメだ」と言っていたというのを見かけたという話だ。

これを例えるとこういう話になる。

バカ息子が突然訪ねてきて「築地の家は汚いし補修も大変だ。で豊洲に家を買っちゃったんだけど、ローンが払えなさそうなので代わりに払って欲しい。」と申し出る。豊洲のタワーマンションの景色が気に入ったらしい。

で、バカ息子は続けてこう説明する。でも、もう豊洲の家を買っちゃったし、これってサンクコストでしょ。サンクコストはネグっていいんだよ。築地は維持費がかかるけど、豊洲はそういうの(しばらくの間は)無視できるから、豊洲のキレイなマンションに住んだ方が生活が楽になるんだよね。

僕だったらバカ息子をぶん殴って<議論>は終わりだ。が、経済用語が出てくると「あれ、これってバカ息子の方が正しいんでは」という疑念がでてきてしまうのだ。

この議論はそもそも、豊洲移転について試算をやり直したところ「移転は難しい」という報告書が出たというのが端緒になっているようだ。移転ができる(つまり豊洲移転プロジェクトが正当化される)条件はいくつかあるのだが、利用料金を二倍にする(収益を増やす)か、初期投資費用を税金で賄う(負債を減らす)か、他の儲かっている市場と会計を合一にする(枠を変える)必要があるらしい。その中に「減価償却」という用語が使われており、それが一人歩きしたようだ。減価償却はイニシャルコストと追加でかかる補修費を指しているらしい。

この議論が混乱した最初のきっかけは小池さんだったようだ。カタカナ語が多いことで知られているのだが、付け焼き刃的な知識も多いのかもしれない。小池百合子都知事は「無駄な投資」の意味でサンクコストを使ったのではないかと思う。どうやら「私が介入した結果豊洲は安全になった」というシナリオがあり、豊洲の投資が無駄にならないようにという意味で「サンクコスト」という言葉を使ったのかもしれない。それを聞いた経済学の専門家(多分わかっていて)が議論をまぜっかえし、お調子者の政治家が追随した。そこで「それはおかしい」と直感的に考えた人が騒ぎ出したようだ。

減価償却がサンクコストかどうかが問題になるのは、キャッシュアウトしているにもかかわらず、会計上の支出はあとで起こるからだ。つまり、お金の出入りと会計上の処理が時間的にずれるために錯誤が生じるのだ。プロジェクト計算をする時に「あれ、キャッシュベースで考えるんだっけ、会計ベースなんだっけ」と迷うことがあるので「減価償却はサンクコストですよ」と暗記するわけである。過去の投資の失敗をなかったことにするために使う魔法の言葉ではない。

もともと豊洲の収支計画は議会に提出されており、工事も終わっているわけだから、何らかの形で支出は終わっているはずだ。つまり、議会が承認した結果キャッシュは外に出ている。だから今更「費用の負担をどうしましょうか」という議論が出てくること自体「あれ、何かおかしいな」という気がする。

その上、実務はもっとややこしいことになっているようだ。つまりキャッシュアウトと会計処理に時期的な違いがあるだけでなく、ローンの話が絡んでいるのではないだろうか。豊洲が失敗したと仮定して「無駄金」を払い続けることになっても、過去の承認がなかったことになるはずはない。つまり議論としては簡単で「あてにしていた収支計画がデタラメだったから、それを税金で補填しなければならない」というだけの話なのだ。移転しなければお金は全く入ってこないし、移転してしても期待ほどのお金は得られないということになる。

いずれにせよ「どうお金を工面するのか」という問題は「A/Bプロジェクトのバリュエーション」と分けて考えなければならない。それを一緒くたにするとわけがわからなくなるのは当然じゃないかと思うのだが、この一連の議論を追ってみると、それを気にしている人はいないように思える。

ではなぜそんなことが起こったのか。気にしてテレビを見ているとコンテンツビジネスに詳しい国際弁護士を名乗るコメンテーターが「イニシャルコスト」の意味で「減価償却」を使っているのを見つけた。わかって使っているのかもしれないが、これは議論をややこしくするだろうなあと思った。

ここで豊洲がいいのか築地がいいのかという議論をするつもりは一切ないし、そのような情報も会計知識もない。一つだけ言えるのは、議論の参加者に会計の基本的な知識がないために、いろいろな人がそれぞれの勝手な思い込みで議論を理解して問題を複雑化しているということである。その上雪だるま式に様々な問題が一緒くたになるのでいったい何を議論しているのかということがわからなくなっているようだ。

この状況を改善するためにはどうしたらいいのだろうか。3つほど処方箋を考えた。

一つは外野を黙らせることだ。誰が何を決めているかが明確になればこの問題は解決する。この原因を作っているのは小池都知事である。小池さんは「いつまでに何を決めたいのか」がさっぱりわからない。従って、誰が責任を持って何をどこまで決めるかが明確にならない。

次にやることは、何を議論しているのかというスコープを明確にすることである。政治問題なので実行は難しそうだが、いつまでも揉めているよりは楽になりそうである。この場合は「リスク要因の確定」「投資のバリュエーション」「政治的な責任問題」などに分けられる。多分予算の話ができるのはそれ以降ではないだろうか。不確定要素が多い上に単純な意思決定もできていないのに、総合的な意思決定などできるはずがない。

最後にやることは共通言語の獲得である。が、これはすぐには難しい。今回の議論では会計用語の基礎と倫理問題(持続性や安心安全に関わる)の基礎を知っていないと議論に参加できない。アメリカでこういう不毛な議論が起こりにくいのは、マネージメントを行う人が、修士レベルで経営の基礎知識を学んでいるからだ。一つひとつは実務レベルの知識ではないので「こんなの勉強してどうするんだろう」などと思うわけだが、よく考えてみると、基本的な知識の粒を揃えておかないと議論すらできなくなってしまうのだなあと思う。その意味では日本人はバベルの塔に住んでいる。同じ言語を話しているつもりで全く相手のいうことがわかっていないのである。

民主党政権は売国政権だったのか

先日、かなり年齢のいった大人の人と話をした。バックグラウンドはややエンジニアよりだ。そこで民主党政権の話になった。民主党は中国に機密情報を売り渡したのだという。2ch的な話題でちょっとびっくりしたのだが「真実だ」という。今回はこの件が本当かということを(つまり民主党が売国政権だったか)ということではなく情報リテラシーについて書きたい。先日自尊心について「学校で習わないのでは」と書いたのだが、そういえば情報リテラシーについても小学校レベルでは習わない。

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神様は何にもしてくれない、かもしれない

話を聞いた人から「意図が正しく伝わっていない」という旨のコメントを頂いた。現在反論を載せていただけるように調整しているところだが反論を公開する形にするのは心理的にしんどいということなので、ここに注記だけを入れさせていただいた。 

反論がある場合はコメント欄に記入していただくことをお勧めする。コメントにはTwitterやDisqusなどのアカウントが必要だ。スパムや誹謗中傷の場合はこちらで差し止めることもあるが「事実誤認なのではないか」という指摘はそのまま掲載したいと思っている。過去にいじめについて書いた記事で事実と異なる受け取り方をしているのではないかという指摘を第三者から頂いたことがある。

ただし「身元が露見する」ことを恐れる人が多いのも事実なのでその場合は何らかの形でお知らせいただければできる限りの範囲で調整したいと思う。「反論」に心理的な壁があることも理解しているつもりである。

いずれにせよ印刷物ではなくブログなので書き換えや加筆を前提にしている。つまり最終成果物ではないということだ。ただし、反論して頂いたからといって100%満足できる結果にはならないかもしれない。お互いに聞いた話には誤解が生じるので「完全に分かり合う」ということはかなり難しいと考えているからだ。そこで受け取り方に相違があったという記録をできるだけ残したいと考えているが、もちろんそれだけでは満足感は得られないかもしれない。

最近は気楽な政治ネタが多いのだが、そもそもは分かり合えないことを前提にしたコミュニケーションの研究ブログなので、そのあたりのスタンスはご理解くださいとお願いするしかない。

2017/3/13


またショックなことがあった。スコッセッシの沈黙をベースにした映画を見て「それでも信仰を捨てなかったのは素晴らしい」という話を聞いたのだ。以前「肝っ玉おっかあと……」について書いたときに演劇空間が作り出す感情の強力さを書いたことがある(ブレヒトは感情に溺れずに第三者の視点から状況を見て欲しいと言っているのだが大竹しのぶの演技に感動したという人が出てくるのだ)のだが、やっぱり映画は怖いなあと思った。

もちろん、言ってくれた人は「キリスト教にゆかりがある」相手と考えて、良かれと思って言ってくれているのだと思うのだが、やっぱり違うんだよなあと思った。それを書くのは大人気ないなあと思ったのだが、この感覚は現在の日本人にとって重要だと思うのであえて書くことにする。

映画は見ていないので、慌ててスコセッシの映画評を探してみたのだが、やはり信仰と疑念というのがテーマだと捉えられているようだ。原作者の遠藤周作も「沈黙」を書いたときに自身の信仰に悩んでいたという話を読んだことがある。

子供の頃は結構神様を信じていて、神様にすがっていい子にしていれば苦しみから逃れられるのではないかと思ったことがあった。しかし、神様はいるんだかいないんだかよくわからないし、苦境から救ってくれることもない。シスターもいい子にしていれば神様が救ってくれるみたいなことは言わない。その後の人生でも神様は助けてくれなかった。見ることもできないし、いるかどうかもわからないものを「ただ信じる」というのは、実はかなりしんどいことではないかと思う。

一方で、恩寵を感じることがある。もうどうしようもない経験をした後でも、回復は訪れるし、最悪の時期は決して永遠には続かない。人には忘れたり回復したりという力があり、これは、努力をして得られるものではない。さらに、最悪の時期の体験が実は得難い実感を持っているということもある。毎日甘いものを食べても美味しくもなんともないのだが、灰色の時間に一雫たらされたような甘みは一生忘れられない。沈んだ気持ちで本を読んだ経験が後になって蓄積されるということもあるのだ。つまり冬を冬でいさせてくれるというのも恩寵なのかもしれない。

つまり、神様はいるともいえないし、かといっていないとも言い切れない。少なくともカトリック教会に通っていないので、キリスト教世界では信仰ではないということになる。

さて「沈黙」に出てくる隠れキリシタンはその後どうなっただろうか。実は彼らはそのままの形でカトリック教会に認められることはなかった。多分、日本流にアレンジされたキリスト教を信じていたことが理由で、背景にはうっすらとしたアジア人差別もあるのではないかと思う。このあたりの事情を書いた熊日ドットコムの記事があるが、正直事情がわからない人にはさっぱりだと思う。隠れキリシタンはその後明治維新期にカトリック教会と再接触して一部はカトリック教会に復帰したが、一部は独自の信仰を続けたということだ。

日本はヨーロッパの影響力が強いユネスコで、隠れキリシタンの世界文化遺産登録を目指しているそうなのだが、隠れキリシタンはカトリック世界では「亜流」とみなされることが多い。記事を読むと隠れキリシタンを「潜伏キリシタン」と区別して概念整理が行われているようだ。一方、宣教師と接触があった時代に入信した高山右近などは最近福者認定されたようだ。中には殉教者扱いされて列福したりした方もいると思う。

多分、あの映画を見た人は「あれほどの過酷な体験をしたのにカトリックに認められなかった」ことを知るとショックを受けるかもしれない。日本流の見方をすると「彼らは報われなかった」ことになってしまう。

カトリック教会にも権威主義的なところがあり、準備に20年かけたというスコセッシはそのことを知っていたはずである。もし、隠れキリシタンが西洋世界で英雄視されていれば、資金集めに苦労することなどなかったはずである。やはり白人の宗教であって有色人種が独自に発展させた宗派というのは認められない。だが、西洋世界の人たちは自分たちが蔑視感情を持っていることは認めたがらないのではないだろうか。

さて、なぜ今ことのことが重要だと思うのかについて書きたい。日本の宗教はご利益化することが多い。信じるからには効能がないといけないと思うのだ。例えば花粉症が治るお札を売っている宗教もあるし、立派に先祖供養すれば霊障が取り除かれるという宗教もある。

真面目な宗教もあるのだろうがお金儲けも多く、被害者も出ている。特にオウム真理教のように、あれほど頭の良かった人たちがインチキな教祖に騙されてテロ事件を起こすなどということは再びあってはいけないことだと思う。

ただ、そうなる気持ちもわかる。何かにすがりたいという気持ちは誰にでもあるが、いったん通り過ぎてしまえば耐性がつく。しかし幼少期に経験がないと「ころっと騙される」ことがあると思うのだ。神秘体験などさせられて「神を感じたり」などするとひとたまりもないだろう。

さらに現在では国家神道が一部の人々を熱狂させている。彼らの目的は2600年という歴史と天皇の存在を傘にきて人々を平服させるということだが、政治家を巻き込んで「人々から人権を取り上げてしまおう」と言うところまで来ている。実はこれも耐性がない人が大人になってから「すばらしい大義」に触れてしまったところに問題があるように思える。三原じゅん子参議院議員のように日本書記を歴史的事実だと信じ込んでしまっている人もいる。

国家神道は、自然崇拝だった神道にキリスト教的なエッセンスをまぶした新興宗教だが、日頃、宗教に触れる機会がない人には「とてつもなく素晴らしいもの」に見えるのかもしれない。もし神道がすばらしいとしたらその基礎にあるのは教義を持たず他者を排除せずに取り込む包摂だと思う。仏教のように苦境を前提にしないし、キリスト教やイスラム教のように他者を排除することはない。だが、これが中国人や韓国人の排除につながっていることに矛盾を感じる人はすくないようだ。

「愛国教育の問題」は人間の中に存在する善の存在を信じておらず、子供は調教されなければならないという理念を持っているところだ。つまり恩寵を感じていないのだ。だが、なぜか優れた理念を教え込めるのは自分自身しかいないという信じ込みがあるのだが、結果的にはこれは虐待的な調教につながっている。さらにその理念はかなりゆがんでいて大義のためには法を曲げてもかまわず、いんちきをして国からお金を巻き上げてもかまわないと思い込んでいる。つまり「社会の中で善くあろう」という気持ちが全く存在せず、他社の権利への尊敬もない。

籠池元理事長が強烈なキャラだったのでそれだけが大きく取り上げられ勝ちなのだと思うが、同じような考え方を持っている人は多いのではないだろうか。つまり他人の善性は信じられないが、自分の善性は絶対だと考えていることになる。

これはまず自分の中にある善性や恩寵を感じたことがなく、その後得た信仰や大義について疑問を持ったことがないからこそ起こるのではないかと考えられる。こうしたことは世界中で起きている。白人だからキリストに絶対的に愛されているが、イスラム教徒は神の愛の対象外だと感じる人もいるし、イスラムこそが絶対でキリストこそ堕落した悪の根源だと思っている人もいる。そして自分の中にある善い性質に頼れば調和が得られるだろうとは考えず、他者を悪として排除すべきだという考えにつながってしまう。

信仰への疑いは現在社会ではきわめて重要な感覚であり、多くの人がそれを体感できなかったとしても理解すべきなのではないかと思う。

新しい籠池理事長は何度でも出てくるだろう

ちょっとショックな話を耳にした。前回、小学校では自分を大切にすることを教える前に大義だけを教えると自我が肥大した子供が育つのではないかと書いた。だがこれに対して「日本の小学校は自分を大切にしなさいとは教えない」という人がいたのだ。

結露だけを書くと、これからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろう。また、民主主義を理解しない安倍首相の出現は当然の帰結ということになる。それは民主主義の基本がこの国では全く教えられていないからだ。

にわかには信じがたいのだが、これを教えてくれた人は、日本の学校では自分を抑えて相手に合わせろとしか習わなかったという。いくらなんでもそれは極端なのではと思って他の人の意見を募ったのだが、誰も応じる人はいなかった。黙っているのは意見がないか、言いにくいが概ね賛同していることを意味しているはずだ。従って日本の小学校では「自分を大切に」とは習っていない可能性が高いことになってしまう。ということは家庭で習わなければ一生習わないということになる。

例えば、一人ひとりの大切さを象徴する歌に「ビューティフルネーム」がある。だがこれも英語に堪能なタケカワユキヒデが作り、外国人が参加したバンドが歌っている。そのあとに出てくるのは「世界で一つだけの花」だが、こちらは性的マイノリティの人が作ったどちらかといえば多様性をテーマにした曲だ。つまり自尊心とは外来概念なのだ。

だが、「日本人は自分が大切だということを学ばない」という意見を受け入れると腑に落ちることが多いのもまた確かだ。まずネトウヨの言っていることがよくわかる。他人の権利を尊重することは「自分が我慢すること」につながる。確かに、自分が大切にされないのに、他人の権利ばかりを守れと言われても反発して当たり前である。だからネトウヨの人が言っていることは正しいということになる。

さらに籠池理事長や日本会議が言っていることももっともだ。

自分を大切にするから自ずと相手のことも尊重するというのは西洋式の民主主義の基本になっている。これを天賦人権という。だがこの基本をすっ飛ばしたままで民主主義を受け入れているということは、GHQが天皇に変わる権威だから受け入れたということになってしまう。であれば、選挙という戦いに勝てば自分たちが作った権威の方が正しいということになる。現在の安倍政権は選挙で民主的に選ばれているのだからこれが最高権威なわけで、権威側について都合のよいルールを(自分たちが押し付けられたように)押し付けても構わないという図式がなりたつ。

民主主義を権威主義的に受け入れたという可能性を考えたことがなかったので、かなりショッキングだったが、これでいろいろなことに説明がついてしまうのも確かだ。憲法や平和主義も権威主義的に受け入れている可能性があり、憲法第9条が聖典のように扱われているというのも説明がつく。国連第一主義という権威主義の一種なのだろうということになってしまうが、小沢一郎のいうことなどを思い返すとそれも納得できる。アメリカ中心主義と違う基軸を作るのに国連を持ち出しているのだ。

普通の人は「学校で先生から民主主義だと習ったから民主主義を採用している」ということになる。であれば学校で教育勅語を習えば天皇のために死ぬことを選ぶということになる。権威をめぐる争いなので誰かが正しいということは誰かが間違いということになる。闘争であって議論ではないので、折り合うことなどありえない。

さらにショックなことに日本型民主主義が話し合いでなく、誰が多数派かということで決まってしまうというのも説明できてしまう。数が権威だと考えられているのだろう。

じゃああんたは自分を大切にしろと小学校で習ったのかと反論されそうだが、実は習った。ミッションスクールなので状況が特殊だ。キリスト教では人間は神様に許されて存在しているということになっている。神という概念が受け入れられなければ「自然があるから生きていられる」という理解でも構わないと思う。つまり神の恩寵があるから人間は存在していられるわけだ。同じように他人も神から許されて存在するので大切にしましょうということになる。

ただ、ミッションスクールは聖書の価値観を押し付けない。自発的に信仰心を持たなければ意味がないと考えるからだと思う。聖書研究みたいな課外授業もあるのだが、信徒になれとは言われない。同級生の中には神社の息子もいたので、信仰による差別もないはずだ。実際に特に洗礼を受けようという気にはならなかった。

自分を大切にしましょうと教える宗教はキリスト教だけではない。仏教でも「どんな人にも仏性(ぶっせいではなくぶっしょうと読む)がある」というような教え方をするはずで(調べてみると原始仏教にはなかった概念だそうだが)、仏性を個人から大衆に広げてゆくというような考え方があるはずだ。

このようにするするといろいろなことがわかってくるのだが、分からない点もある。日本人が自尊心を持たないという理論が正しければ日本人は他者に盲従して相手に常に従うはずである。だが実際にはそうなっておらずTwitterに人の話を聞く人はいない。あるいは他人が書いたことの筋を無視して自分のいいように勝手に解釈する人がとても多い。つまり、これほど自分好きな人たちもいないという印象がある。自尊心がないのにどうしてこれほどまでに自分好きなのか、それが何によって裏打ちされているのかがさっぱりわからないのだ。

いずれにせよ「自分を大切にしない」限り天賦人権が理解できるはずはないので、日本人には民主主義が理解できないことになる。接木をしたバラみたいなもので根元からノイバラのように出てくるのが、教育勅語に代表される権威主義的な考え方なのかもしれない。

もしこれが正しいとすると、自分自身で剪定はできないはずで、誰かに刈り取ってもらわなければならないということになる。つまり、西洋世界の指導と監視がないと世界で振る舞えないということで(国際村ではそれがルールだから従っておこうかくらいの気持ちなのかもしれない)、それがなくなれば民主主義は容易に崩壊するだろう。

ということでこれからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろうし、日本会議が多数派工作をして、これといってやりたいことがない二世の政治家を担いで日本の民主主義を骨抜きにするということは起こるだろうという結論になる

若者はなぜ嘘をつくようになったのか

今回はよくあるバブル親父の若者バッシングなので気分を害する人は読まないほうがいいと思う。

マクドナルドのアルバイトは平気で嘘をつく

今月からdポイントが使えるようになったのでマクドナルドでポイントカードを使おうとした。ただしポイントが少し足りない。レジの子は「現金かポイントしか使えません」と言う。

もちろん100円のことなので出してもよいのだが「前回はポイントが足りない時だけ現金で補填できるとそこのおばさんに言われたよ」と言ってみた。実際にはポイントが足りない分の補填ができるのだが、バイトの子はそれを知らなかったのだ。

最近の子は「知らない」と言わずに「できない」という。だからこちら側に知識があるときには「それは違うのではないか」と指摘したほうが良い。バブル世代から見るとこれは「嘘」なのだが、この年代の人には悪びれた様子がない。

おじさんはなぜそれを嘘だと思うのか

おじさんがこれを嘘だと思って腹をたてる裏には「企業は全体として顧客に奉仕しているのであって、今対応している人はその代表者だ」という思い込みがある。一方、現在の労働者は「自分は時給で言われたことをやっているだけ」という気分があるのだろう。この差が非常に大きい。しかし、腹を立てたところでこれが現在の労働者(いわゆる若者)に通じるはずはない。

嘘の裏には何があるのか

どうしてこのようなことが起こるのだろうか。これを説明するのは少々難しい。短く言うと「成果だけを求められるのだが組織のサポートがない」状況にあり「自分のやったことが組織の評判に影響する」ことが実感できないからではないかと思う。つまり、かつてはそうではなかったのである。ただこれを言い立てても「俺の若い頃はなあ」的な話になってしまう。

バブルが崩壊して以降、人々は(労働者だけでなく学生も)有能であることを求められるようになった。基本的には選別型の「成果主義」で失敗が許されないからだ。さらに努力しないと脱落するという恐怖心も大きい。これがバブル期以前に育った人との決定的な違いだ。

つまりサポートもないのに有能さを求められるという状況に置かれている。そこで「学習」ができなくなってしまうのだ。つまりスキルがないというのは地頭が悪くて無能ということではなく必要な知識を身につけられないということなのである。知らないことはバカであると思い込んでしまうのだが、実際には学んでゆけば良い。これがわからないということになる。

人を育てている余裕がない

この背景には組織に人を育てる時間はなくなったという事情がありそうだ。バブル期以前に育った人を馬鹿にする風潮もあるのでわからないことを聞こうという気持ちになれない。バブル入社組が馬鹿にされるのは、彼らが大学でほんわかとした生活を送っていてもそこそこの企業に入れたからだ。その直後の就職氷河期には、留学して英語を身につけたのにそれでも採用されなかったというような人がゴロゴロいる。そこでバブル組は努力しないバカと思われるのだろう。

バブル入社組と呼ばれる人は上がつまっていたために人を育てる管理職経験ができなかった。余裕もないし、気持ちもないし、スキルもないという状況は、労働者ばかりが悪いというわけではないのだろう。

スキル信仰とドラマ

こうした状況をよく表しているのがドラマ『ドクターX』だ。組織に縛られずに生きてゆくためには超絶スキルを持っていなければならず、絶対に失敗もしない。そうでない人は組織に使い倒されて、バブル入社組のように上司にペコペコするだけの情けない組織人にならざるをえないという世界観である。だが、大門未知子がどうやって技能を習得したかということは語られない。どうやら組織からスキル教育されたという形跡がないということがわかるのみである。さらに大門未知子の口ぶりはかなり失礼なものだが、これは組織というものが基本的に自己保身だけを目的にした労働者には全く意味がない集団だという含みがある。

この前進になっているドラマは資格をたくさん持った篠原涼子(派遣社員でお時給の範囲でしか仕事をしないが、仕事内容だけは誰にも文句のつけようがないというキャラクターである)だ。彼女も組織を信じず、ある意味破綻した性格に描かれている。

両者に共通するのは、スキルは求められるがどうやって身につけて良いか組織が全く教えてくれないという世界だ。

根深い有能神話

こうしたキャラクターが受けるのは「有能神話」があるからなのだと思うのだが、実際の人はそれほど有能にはなれない。そこであたかも「自分が知っていることがすべてである」と言い張ることで有能さをアピールしてしまうのではないだろうか。

若者は嘘をつくが、こうした「嘘つき」はかなり蔓延している。最近のコールセンターは「私どもでサポートできるのはここまででございます」といって会話を打ち切ろうとする。あくまでも丁寧な口ぶりであり、さらにスキルを攻撃されることをとても嫌がる。自分たちに電話をしてくる客ではなかったと考えることで体面を守ろうとしているのではないかと考えられる。

ただ、この人たちが「親身になって客の話を聞き」「わからないことを聞く」社員(あるいは非正規労働者)になろうとしたら何が起こるだろうか。多分上席から「もっと効率よく接客しろ」と言われるかもしれないし「一度教えたはずなのに聞いていなかったのか」と責められるのではないだろうか。ひどい場合には契約打ち切りも覚悟しなければならないかもしれない。そもそも組織が成長しても労働者には何の得もないわけで、だったら自分のできる範囲で仕事をしたほうがよいというのは自然な成り行きだ。

組織は個人にスキルを与えてくれないし、育てる時間もないのだ。

有能神話が切り捨ててゆくもの

このように「労働者が間違えるのは自己責任だ」という論がまかり通っている。これはバブル世代が人の育て方を知らないし育てるつもりがないということであり、一概に「若者が悪い」とばかりは言い切れない。

一度言われたことができなかったということはよくあることで、何回か間違えながら育ってゆくというのが本来の姿だ。そもそもそうやって人を育てるのが組織だったはずである。一連の流れを通じて組織として知識が循環して育ってゆく。これが組織が学習するということである。人員に余裕があった時にはこうした輪が回っていたのだが、余裕がなくなるとこうした余裕は「無駄」として切り捨てられた。さらに正規社員と非正規社員の分断もあり、知識が流通しない学習ができない組織ができたものと考えられる。

労働者は今持っているスキルが100%だと思い込むことで何が起こるだろうか。これ以上成長することはできないということだ。今回体験した例では「若いアルバイトがおばちゃんに聞かない」という世界である。個人としての損失というのもあるだろうが、ロスはそれだけではない。

通常は黙っていても年に数パーセントは生産性が上がりGDPが成長してゆくそうなのだが、日本はそれが見られない。学者の中にも定説はないそうなのだが、組織が「必要な無駄」をなくしてしまったために、組織が全体で学習することができなくなってしまったことに原因があるのではないかと思う。

社会を全く信用しない社会

この有能神話はかなり浸透しているのではないだろうか。最近気になった(が、全く見なかった)ドラマに『嫌われる勇気」というものがある。アドラーは全くそんなことを言っていないはずなのだが「感情を遮断して社会と分離しないと目的を達成できない」という思い込みが、アドラー心理学をかなりゆがめている。しかし、このドラマのようにアドラー心理学をとった人は多いはずだし、だからこそドラマになったのだろう。

もはや組織のことを慮ってしまうと組織に取り殺されてしまうという思い込みがかなり定着しているのではないかと思う。

こうした気持ちは社会全体に蔓延している。<議論>と称して攻撃してくる人に「お前の知識は足りない」と罵倒する人を時々見かける。これは若者だけではなく、かなり年配の人にまで見られる傾向だ。社会全体が「知識不足を善導し」てゆけばまともな議論空間ができると思うのだが、基本的にすべての人は不愉快な競争相手にすぎないなので、協力して公共空間を作ろうという気分になれないのだろう。

さらには国のトップリーダーまでが破綻した論理を振りかざすような状況になっている。これで「社会を信頼しろ」などというのが無理な注文なのかもしれない。

好きなことをしよう

ということで、Twitterに渦巻く不満の1/10でも生産的な活動に充てれば日本はもっとよくなるだろうシリーズの最終回。今回は好きなことをしようというものだが、サブタイトルは「狭き門より入れ」だ。

これまでの考察をまとめる。経済が成長しない理由はいくつかあるのだが、経済が複雑になりすぎていることが要因の一つになっている。このため単純で簡単なソリューションが求められているのだが、それは今までの経済の延長線上にあるものではないだろう。

組織が大きくなるとオペレーションが複雑になるだけでなく、労働者がコントロールできる領域が減る。労働者は自分の興味のあることにしか一生懸命になれない。成長とは余剰の蓄積なので、自分のやりたいことを通してしか経済成長はできないということになる。やる気を外から操作することはできないし、できたとしても持ち出しになる。人が自治できるのは自分が影響を及ぼせる範囲だけなので、影響を及ぼせない範囲では努力を控えるか、あるいは奪い合いが始まることになるだろう。

つまり自分がコントロールできる範囲で「やりたいことを追求したほうが」みんなが幸せになれる可能性が高いということになる。いろいろ遠回りしたのだが、市場経済のもっとも基本的な価値観を再学習しただけなのかもしれない。自分が得意なことをやって、相手の得意なものと交換するというのが市場主義経済であり、これを国レベルまで拡張したのが自由貿易構想だ。

ところが、これがなかなか難しいのではないかと思う。

第一に日本人は自分の意見を持たない。自分の考えに固執せずに回りにあわせるほうがよいことが多い。例えば「あなたはどんな政治的な意見を持っていますか」といわれても「みんなが受け入れられるようなふわっとしたこと」しかいえない。そのため、そもそもやりたいことがないかあったとしても言語化できない人が多いはずだ。この現象は子供のころにはすでに始まっているらしい。日本人はSNSで創造的な発信が世界一低いという国際的な調査すらある。

次にやりたいことを実現するために必要なスキルがない人が多い。文章を書いたり、絵を描いたり、プログラミングをしたりなどするためにはある程度の技術の蓄積が必要だが、「嫌なことをこなせてこそ仕事でそれ以外は単なるお遊びに過ぎない」ということを言う人がおり、そういう人たちが暗黙のルール(文脈依存でしか使えないことも多い)を押し付けてくる。すると、やっていることがなんとなくつまらなくなってしまうのである。

これを超えても、誰か他人のために何かがしたくなる傾向がある。いわゆる「大義のために」何かがやりたくなるわけだ。この大義がなかなか厄介だ。自分の願望を混ぜ込んだ大義はたやすく暴走する。それぞれの道には伝統からくる自律性があるはずなのだが、伝統から切り離された大義はその自律性を欠いていることが多い。これを原理主義という。

まとめると、意識化・技術・自発性という3つもの関門をくぐる必要がある。その関門を越えてやっと、私はやりたいことがあるからあなたのやりたいことも協力してあげるというミューチュアル(お互い様)の関係ができるのだろう。

ということで、今一度「自分のやりたいことって何だろうか」ということを考えてみるのがよいのではないだろうか。議論がはじまるのはずっとその先だと思う。

NHK大阪とオルタナティブファクト

べっぴんさんを見ている。大して面白いわけではないが、なんとなく時計代わりというかつなぎになっている。嘘もあるのだが、嘘ではなくファンタジーだと思えば気にならない。

これについて面白い感想を持っている人がいた。時代設定と学生活動家の扮装が合わないと言うのだ。単に設定ミスともいえるが、意味づけまで考えてみるとちょっと見逃せない点もある。

もともと日本の学生運動家はそれなりの意識を持って活動していたはずだが、時代が経つにしたがって「ファッション化」してゆく。専門的なことは分からないが、まだ切実さがあった時代を扱っているはずなのに、ファッション化しつつあった時代の学生運動家を扱っている点に違和感を感じているのではないかと拝察した。さらにひどいことに「冒険したいから一生懸命バイトする」などと言い出しており、大して反体制の意欲はないことになってしまっている。

ある意味これは普通の人たちが学生運動にもっている感想なのだと思うが(ヘルメットと角棒でなんかしてはるわ)やはり専門的に見ている人たちから見ると失礼なのかもしれない。

ただ、NHK大阪が<蹂躙>しているのはこれだけではない。ヴァン・ヂャケットの創業者について、闇市でふらふらしていた若者が十年経って戻ってきたらトレンドセッターになっていたみたいな話にしている。モデルになっている人物はもともと裕福な家の出で大学でもいろいろな遊びを経験した人だ。これが戦後アメリカの上流階級と接触しそのライフスタイルを日本に紹介した。その途中でアメリカ流のマーケティングが日本に持ち込まれることになった。つまりアパレル業界から見ると、この人物設定はかなり乱暴な改変なのだ。いまだに信者も多い人なので、NHKは誰がモデルになったか明かしていないはずである。

さらに今朝は使用人だった2名が「二人で冒険に出る」ことになっているが、これは使用人の死を扱わずに捌けさせるためだろうが、冷静に考えてみるとかなり乱暴だ。「最後まで面倒見ろよ」などとつっこんでしまった。

このようにかなり乱暴なドラマなのだが、NHK大阪が考証に手抜きをしているわけではないだろう。例えば「ごちそうさん」では食べ物に並々ならぬ関心があり念入りに時代考証もされていたはずだ。つまり専門的なことに対してはとても大きな関心があり、それ以外のことにはまったく関心がないということが伺える。

昭和の暮らしを描くということは、本来ならば専門家集団の考証が必要なはずなのだが、自分の守備範囲以外の点にはまるで興味がない。それだけではなく、自分の印象でいとも簡単に情報を操作してしまうのである。見ている人もアパレルとか活動かとか老人の行く末などには興味がないのでそれほど違和感を感じないのだろう。

ただし、学生運動に興味があった人もアパレルにはそれほど関心がないわけで「ほかの設定もめちゃくちゃですよね(笑)」みたいなことを指摘すると面倒になったのか「朝ドラには興味がありません」と返信してきた。まあ、専門分野には興味があるが、それ以外のことが分からないというのは特に珍しい現象でもないのだろう。

こうした視野の狭さは日本ではあまり非難されないし「専門的だ」として賞賛されたりするのだが、さまざまな弊害を生み出す素地にもなっている。例えばプログラマはプログラミングにしか興味がなく操作性の悪い仕様を運用側に押し付けたりする。営業もプログラミングに関心がなく「できますよ」などと気軽に言う。かつての日本の企業はこれを防ぐために正社員をローテーションしたりしていたのだが、正社員を削減した結果知識のサイロ化が急速に進むことになった。

専門性のわなについての事例には事欠かない。例えば大本営などはさらに悲惨で、現場で何が起きていても「よく分からないから」という理由で、仲間内の都合のよいストーリーを押し付けてしまうだけでなく、作戦が失敗すると現実を曲げ始めた。悪意を持って騙そうとしたわけではなく、当事者たちは「仕方がなかった」と思っているのではないだろうか。

NHKの朝ドラは「女の人が仕事をするのはとっても大変」ということを描きたいドラマだ。そこで受け手が興味を持つ点については念入りに考証するのだが、それ以外ことにはたいして時間をかけない。多分、日本型のオルトファクトというのは人を騙そうと言う悪意から生まれるわけではないのだろうが、結果として生じることがありえるのだろうし、多くの場合にはそれほど害もないものなのだろう。

山本一郎騒動とフジテレビの凋落

山本一郎氏が炎上している。知っている人は知っていると思うのだが、ぜんぜん知らないと言う人もいるのではないだろうか。つまり、騒ぎは局地的に起きている。

「山本一郎氏はIT関連の投資をしているみたいだけど、本当は何をしている人なんだろうね」という人だ。もともと別のハンドルネームで知られていたのだが、いつのまにかフジテレビのコメンテータになっていた。コンテンツ業界のどろどろを面白おかしく書く作風はなかなか面白かったのだが、最近Twitterでおかしな言動を繰り返すようになった。

山本一郎氏はTwitter界隈ではとにかく評判が悪い。例えば豊洲では大方が「豊洲移転は無理だろう」という見方をしているのだが、それに逆らっている。のんさんが改名騒ぎを起こしたときも事務所は悪くないという側についた。体制側の弁護を買って出ることで1%の代弁をし、99%の不興を買うのである。

この山本氏に経歴詐称疑惑が持ち上がった。映画評論家の町山智浩氏が「追い込み」をかけたからだ。過去のプロジェクトや留学先を「盛っていた」らしい。これに小田嶋隆氏が参入した。ネット上ではすでに「病的なうそつき」とういう評判になっている。ネットにはこの手の揉め事のウォッチャーがおり頼みもしないのにこれを拡散する。山本氏本人は反論せずスルーしようとしている。今回の件について本人のコメントはこちら。訴訟をほのめかしていると言う話もある。しかし、いつもの作風だと「ああいえばこういう」はずで、スルーはちょっと不自然な印象だ。

この揉め事自体は言論プロレスの一種なので特に興味はないのだが、この人がフジテレビのコメンテータをしているのは問題だなあと思う。フジテレビはショーンK氏を司会にしようとした報道番組が頓挫したばかりだ。ショーンK氏は華やかな経歴を持ったイケメンハーフだったが、実際には整形した日本人で経歴も大方が嘘だった。

どうして山本氏が経歴を詐称したのかと考えてみたのだが、テレビではそっちのほうが受けがよかったからだろう。しかし、テレビの視聴者に受け企画を立てる人は企画書にインパクトのある経歴が書きたいのではないだろうか。だが、実際に企画書が通ってしまうとそれを確かめる必要はなくなってしまう。

そう考えるとフジテレビが凋落していった意味が分かる。フジテレビは何が受けるかより社内でどのような企画書が受けるかということを基準に番組を作っているのではないだろうか。受け手が何を求めているのかが分からないのに視聴率が取れるはずはないわけで、これが全体的な凋落につながっているのだろう。

こうしたことは経営コンサルの世界でも起きているのではないだろうか。経営コンサルの中には経営者向けの芸者さんが混じっている。重用されるのは美貌ではなく経歴書の美しさだ。多分、本当にアメリカの有名大学のMBAを持っている人もいるだろうし、そうでないのに偽装している人もいるかもしれない。しかし経営コンサルをありがたがるような会社の社長がMBAの知識を持っているとは思えない。本物と偽者の区別がつかないわけだ。そうしたコンサルを導入した会社の中には社員の意向や現実を無視して経営者に受けそうな「改革」を実行するところが出てくる。そういう会社は経営が傾いてゆくことになるだろうが、社長は気にしない。その痛みは一時的なものだと思い込んでいるからだ。

山本氏のキャリアが本物か偽者かは分からないのだが、そもそも自由を目指してフリーランスや経営者になったはずなのにテレビの要請に応えて自分の経歴をつまびらかにできないのだとすると本末転倒と言えるだろう。と同時に、昼間の世界にのこのこと出てこない限りは芸者さんの化粧を剥いではいけない気もする。

多分、もうテレビはまともな世界ではないのだ。