なぜ日本人はインフルエンザの予防にマスクが必要だと信じているのか

面白い質問を見つけた。なぜ日本人はあんなにマスクをするのだろうかというのだ。海外ではマスクは病気を連想させるので嫌われることがあるのだが、日本では多用されている。中には特に理由もないのに外出するときはマスクと決めている人もいるのではないだろうか。

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Don’t take it personally. 批判と人格攻撃は違う

最近、若い人たちが批判をされるのを極端に嫌う、という話をよく見かけるようになった。ははてなの匿名ブログが発端になっているのだと思うがよくわからない。いずれにせよ、大学教育の現場などで批判をすると怒り出してしまう学生がいるという話も読んだ。

が、この問題は実は昔からあったのかもしれない。以前、英語でマスターのコースを受ける機会があった。アメリカの学校なのだが校舎は日本にあるので日本人が半分くらい通っていた。そこで最初に言われたのが「Don’t take it personally」である。つまり、議論というのは論の否定であって、人格の否定のように受け取ってはいけませんよというのだ。

こんなことを言われる背景には、やはり日本人が論争を人格攻撃のように取って怒り出したという経緯があったのかもしれない。マスターコースなのでプレゼンと議論をしないと何も始まらないのだが、批判を恐れてシャイになったり、逆に人格攻撃を始めてしまうと、議論が成立しなくなり、授業そのものが成り立たなくなるのだろう。

しかし、ここから誰でも議論と人格攻撃の区別はつかなくなる可能性があり、お約束として「人格攻撃はしない」し「人格攻撃と受け取らない」ということを明確にしておく必要があるということがわかる。言ってみれば「ボクシングは喧嘩と違いますからね」というのと同じことである。実際に授業ではかなりムッとすることを言われるし、調査が足りなかったりすると全否定されることも珍しくはない。

このことから「最近の若い子は打たれ弱い」などと批判するのではなく、議論のときには人格を否定してはいけませんよと教えるべきなのではないかと思う。アンダーグラデュエイトだとまだ討論中心の授業はないだろうから、発表の講評も人格攻撃ではないということを明確にすべきだろう。

もう一つ思うのは、支持するトピックについて全人格を乗せてはいけないのではないかということだ。例えば、全人格を乗せて原子力発電所はいけないとか自民党はけしからんなどと言ってしまうと、それを否定された時にかなり感情的になってしまう。ということで、いったん別の立場から考え直してみることはとても重要である。

例えばこういう引用ツイートをいただいたことがある。

「思うと断言されていないですし、自身の考えに自信がないのでは」と言及されているのだが、Twitterの議論には全人格をかけないと論拠が弱いように思われてしまうということの裏返しなのかもしれないと思う。自分でも批判的に見るような癖をつけないと、間違えてしまう危険性があるように思えるのだが、それではダメなのだろう。が、こうした議論が殴り合いに発展するのも容易に予想できる。

何かを発言するためには全人格を乗せなければならないと考えるのはなぜなのだろうか。日本人は表向きでは和を保たなければならないという圧力を常に受けているので、意思表明自体がある種、人格をかけた最後の叫びのようになってしまうのかもしれない。いわば「殿に物申す時には切腹覚悟」という考え方があるのだろう。

ということは、普段から小出しに政治的議論をしていれば、全人格をかけた殴りをを防ぐことができるということになる。いわば、芸能人の結婚や今日のお天気について話をするのと一緒だから、いちいち全人格をかけるのは疲れるし馬鹿馬鹿しいと思えるのではないだろうか。

感情的にならないためのテクニックとして、最近メタ認知ということが言われるようになった。いったん議論を俯瞰してみることによって、別の視点が生まれ、トピックや論の構造自体を客観的に見ることができるようになるということだ。論の客観視は、自説の弱点を潰すのに役に立つということもあるのだが、客観的になった方が感情的に楽であるということも言える。

このメタ認知は例えばクソリプをもらった時にも使える。つまりこの人は論を攻撃しているのではなく、生活の中でつまらないことがあり、誰か攻撃する対象を探しているのではと考えるわけである。実際にそのことを指摘することで、相手の攻撃をかわすというテクニックもあるそうなのだが、Twitterなどだと別に関わらなければいいだけの話だし「ああ、これはネタに使えるなあ」などと思えば気分が楽になる。

この件で一番の懸念は、政治家が人格攻撃を多用するということだろう。彼らは議論のロールモデルとされているのだが自分たちの立場が弱くなると、議論をやめて殴り合いを始めることが多くある。

例えば、最近では獣医師の需要と供給の問題が、前川前事務次官の人格攻撃の議論にシフトされかけたという事例があったばかりだ。最近では戦略特区自体が否定されかねないという恐れから、前川さんを討論会に呼んでみんなで吊るしあげようという話になっているようだ。このように、政治や言論の現場でいじめまがいの人格攻撃が大手を降って横行している。罪深いのは、この人たちの中にアメリカなどで大学院レベルの授業を受けた人が混じっているということである。つまりアメリカではお行儀よく振る舞うし、そう振る舞うべきだと知っているのに、日本では殴り合いをしていることになる。

だから大学生だけに「議論は人格攻撃ではありませんよ」などと言ってもあまり説得力はないかもしれない。

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くそリプを処理する

このような引用Tweetをいただいた。あまりカラまれたことがない(それだけ取るに足らないことしか書いていないのだろう)のでちょっと有名人になった気分で嬉しかった。お前は考えに自信がないのだろうと書かれているが、それはその通りだ。決め込んで間違えるとろくなことはないので、考察や再考の機会は残しておくべきだと考えている。

ということで元ツイートを吟味して行こう。


維新の足立議員という方が「豊洲市場は選択と集中をしろ」と言っている。もともと選択と集中という言葉は大企業問題を扱うための理論だ。企業が大きくなるといろいろな周辺事業に手を出してしまい、企業効率が悪くなる。そこでコアコンピタンスを見直して、それが実現できる分野に経営資源を集中しろという使われ方をする。

維新の党は民営化を推進する立場なので、らしいといえばらしいなと思う。確かに、都は色々な事業に手を出しているので、例えば市場の観光的な側面などは民営化した方がいいのかもしれない。

考えるべき点はいくつかある。

最初の論点は「東京都のコアコンピタンスって何だろうか」ということではないだろうか。企業はいろいろなコアコンピタンスを持っているので、すべてのことに得意である必要はない。が、東京都は公益事業体なので、市場にない機能を補完する必要がある、かならずしも得意なことばかりをやっていればいいということにはならないはずだ。

得意なことばかりやっているのは危険ではないのかという視点もある。コアコンピタンス経営は1990年代にもてはやされた<理論>なのだが、その後批判にさらされることになる。学習を通じて新しいスキルを身につけて「変化に対応すべきではないのか」という批判や、自分でコンピタンスを得られないなら外部からM&Aなどを通じて獲得すべきではないのかという批判が出てきた。1990年代よりも企業環境の変化が早まってしまったからだ。

これは面白い視点だ。つまり都庁という官僚組織も学習機能を持って、現代にあった能力を身につけるべきではないかという批判が考えられる。例えば持っていた土地を活用する能力や有毒物質をコントロールする能力、さらに複雑化する技術にキャッチアップして見積もりを評価する能力などを身につけて行かなければならないのではないかということになるだろう。

さらに企業のコンピタンスとは切り離してとにかく儲かるものだけをやればいいという考え方もあるだろう。つまり、選択と集中をコンピタンス経営とは分けて考えるわけだ。実際にこうした経営は色々なところで行われていて、大抵は惨敗している。得意なことをやるから他の企業より安くて良いサービスが提供できるわけで、そうでなければ割高で質の悪いサービスを後発で出すことにしかならないからである。

維新の党のいう「民営化」は、中央政府の成功体験をトレースしたものであると考えられる。具体的にはJRと郵政民営化あたりが念頭にあるのだろう。民営化するとまとまったお金が入る。これで傷んだ会計を癒すことができる。が、その効果は一時的なものにしかすぎないのではないだろうか。確かに、企業が育てた事業をキャッシュにして次の事業に投資するということはあり得るだろうが、同じことをそのまま公共事業体に当てはめるというのはいささか乱暴な議論であるように思える。

豊洲の場合、集中と選択をすると「みんな魚なんか食べないから肉と野菜の流通だけして、あとはパックのマグロとサーモンだけ流通させればいいよね」という話になるだろうが、これが受け入れられるとは思えない。が、論題としては面白い、元になっている理論を紐解くことによって様々な視点を得ることはできるからである。

が、Twitterの<議論>はこうした背景理論を無視して党派性だけで繰り広げられることが多い。今回いただいたくそリプも「わかりやすい表現」だと言っている。これは集中と選択というのが一般的な単語なので、わかりやすいと考えたのではないかと思うし、多分コアコンピタンス経営というような元の考え方に興味があるとも思えない。さらに言えば豊洲にもさほどの興味はないのではないだろうか。

今回のリプ(厳密には引用ツイートだが)に興味を惹かれたのは、明らかに利益集団の一員ではない人が、特定の政党にこれほどまでにアタッチされるのはなぜなのだろうかということがわからなかったからだ。政党と個人の契約としては明らかに何かが欠損しているのだが、それが何かということがよくわからない。

ある議員に個人的に惹きつけられたのか、誰か仮想的な敵を想定しているのかもわからないが、周囲にこうした人がいないので、どうもよくわからない。その上、喧嘩をしたとしても経済的なベネフィットが得られるとは思えないし、心理的な承認欲求が満たされるとも考えられない。

アカウントを見ると色々な人に喧嘩を売っているようである。テストステロンの過剰な分泌によるものなのかななどと仮説を考えてみたが、本人から言語化された説明は見込めないだろうから、よくわからないままだろう。

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Twitter民はなぜいつもイライラしているの?

ある「フリーランスの作家だか他称自称ジャーナリスト」氏が民進党が参考に呼んだ人が筋悪だったと書いていた。「嫌な予感しかしない」と書いたのだが「どうして俺のあのツイートを読んで、民進党の議員が何かをしでかすと思い込むのかわからん」というような内容でキレ気味に返ってきた。

面白いなと思ったのは、その返事が全く的外れだったことだ。僕は前回民進党の掲載しているPDFに改ざんの後があるのではないかと書いた。どうも筋の悪い情報や人が民進党に集まってきているなあという疑念を持っているのである。つまり、民進党の議員が何かするに違いないというのは、作家さんの脳内補正の結果であって、コミュニケーションの結果ではないということになる。

日本人は党派性に反応しているだけで、事実は特に重要視しないことはわかっているので「民進党には頑張って欲しいから心配しているんですよね」というようなことを書いた。返事はこなかったので納得したか、その他の炎上しそうな何かに突入していったのだろう。

普段から喧嘩腰のひとなので特に驚きはしないのだが、面白いのはこの人に「情報が役に立たないと思うんだったら自分で調査しろや」というような喧嘩を売っている人がたくさんいるということだ。つまり、わざわざ喧嘩をふっかける人がいて、自分が言っていることが100%理解されないと怒り出すという人がいることになる。結果<議論>が荒れるわけだが、どうしてこういうことが起こるのだろうか。

一つにはこの作家氏がどうも「自分が考えている通りにことが進まない」ことに大変イライラしているという点だ。自分の判断基準がありそれに沿わない人がいることが許せないのではないかと思う。こういう人はよく見かけるが、議論には向いていない。議論とは誤解や知識のなさを埋めて、相手を説得するための技術だからである。そもそも成功するかがわからない上に、人と自分は意見が異なるということが前提なっている。村落的な状態で育った人たちはそもそも議論に向いていない。

ということは裏を返せば「知らない」ことが前提になっているソーシャルネットワーキングサイトは荒れないということである。

さて、最近新しいSNSを二つ始めた。一つは外国人の疑問に答えるQUORAというものだ。何回か答えを書いたが、普段当たり前と思っていることを改めて調べるといろいろな発見ができて面白い。例えば「日本のレストランに箸を持ち込んでも怒られないか」という疑問について調べていて、割り箸をやめてマイ箸を持ち込もうという運動があるのを知った。さらには割り箸は間伐材だから特に環境を破壊していないという意見もある。

次にWEARの投稿もやっている。こちらはみんな自分の服を褒めて欲しいわけだから、あえて他人の服を悪し様にいうことはないし、そのような仕組みもない。興味がなければそのままスルーすれば良いという仕組みになっている。実践が中心のSNSは荒れることが少ないわけだが、知らない人が知っている人を参考にするという仕組みがあり、うまく機能していると言えるだろう。

Twitterが荒れがちなのは、参加している人が答えを知っていると思っているからだろう。例えば、反安倍の人にとっては、日本の政治がよくなるためには安倍首相が今すぐ退陣しなければならない。これがなかなか起こらないからみんなイライラしているわけである。

これを打破する方法はいろいろあるのだろうが、SNSの例からみちびきだせる答えは2つあるように思える。一つは新しい視点を取り入れてゆくことで、もう一つは実践を伴うということである。新鮮な視点を得ることには喜びがあり、その分イライラが軽減される。

そう考えると、日本語のTwitterで議論が成り立たないのは、日本人のメンタリティや言語の構造などとは全く関係がなく、単に新しい情報や視点が入ってこないことの裏返しなのかもしれない。いつも同じような人たちが同じようなことを言っている環境というのは、改めて考えてみるとかなりフラストレーションが溜まる状態なのではないかと考えられる。つまり、新しい視点や知識は酸素のようなものなのだ。

だが、それを打開するのは極めて簡単だ。最近では様々なSNSがあり、特に海外旅行したり、繁華街に出かけて行かなくても様々な体験をすることができる。例えばかつて流行を知ろうと思ったら街に出て写真を撮影するしかなかったわけだが、これは一歩間違えると「俺を撮るな」と通報されかねない行為だった。だが、今では自分から進んでコーディネートを紹介して、アイテムを買う場所まで教えてくれるのだから、つづづく便利な時代になったものだと思う。

やはりネットというのはうまくつかえばとてつもなく便利な場所なのである。

なぜ政府批判は封じてはいけないのか

最近、政府の記者会見などでは記者がキーボードを打つカタカタという音だけが聞こえるのだそうだ。忙しい記者たちが仕事を早く片付けたいからだと思うのだが、多分自分たちが何をやっているのかという意味が見出せていないのではないだろうか。これは民主主義がじわじわと自殺しつつあるサインだと言える。

最近、政府と反政府の人たちの間の対立が激しくなり、政府批判は自民党の追い落としを意味するようになった。「安倍政権もうなんでもいいから消えろよ」というわけだ。この極端なゼロイチ思考は様々なところで見られる。最近では不倫疑惑を持たれたカップルのうち有名な方を晒し者にして社会的な死を求める運動も見られる。覚せい剤を使った息子を持った有名な俳優に仕事をやめさせるという圧力も働く。批判に慣れていない分、一度批判が噴出すると誰にも止められなくなる。そこで、社会的な死をもたらすまで晒し者にし続けるという悪い習慣ができた。

そもそも批判とは何だろうか。いろいろな考え方があるだろうが、ここではプログラミングのバグ取りだと考えてみよう。つまりより良いプロダクトを作るためにみんなで協力するという作業がジャーナリズムなのだ。

誰かが作ったプログラムにはミスが起こり得る。これを防ぐために何回も見直してから出すことは可能だが、時間がかかりすぎ効率的ではない上に、完全に問題を取り切ることはできないかもしれない。ちょっとしたミスが出る前提でβテスト版を出せれば、それが一番効率が良い。民主主義も同じで、人が作ったコードである以上間違いを含んでいる、だから、モニターしてチェックするわけである。

誰も間違いを犯さないという前提はなんとなく権力者には都合が良いように思えるわけだけれど、実は検証のコストが極めて高い。間違ってもその間違いを認められなくなる。だから、周りの人たちが間違いを指摘してくれた方が楽なのだ。

安倍政権の中の人たちは「俺たちは絶対に間違えない」という前提でいるようだが、これは自分たちの責任を軽視しており、何かあっても責任を取らないからなのだと思う。が、実はそれを批判する側も批判することの役割を放棄している。右から左に情報を流し、あからさまな間違いがあった時だけ大騒ぎした方が楽だからだ。

間違えるつもりがなくても間違えるということはある。例えば、地元の千葉市では財政再建が行われる過程で人件費の抑制が行われているようである。いろいろと無理が生じているらしいが、お互いの職域を侵犯しないという不文律があるようで、問題を是正したりお互いにカバーすることができない。評価に絡むことなので、市長に指摘して睨まれたら大変だと思っている人もいるようだ。このため、些細な問題が積み重なっている。

そこで通報制度を使って「どうなっているんですか」という問い合わせをすることがあるのだが、決まって担当者が「責められている」と感じるようである。直接電話がかかってきて「説明したい」という人もいる。公式ルートで上がると文書として記録が残る上、市長にも見られてしまうので、それを避けたいのかもしれない。

特に誰かが私服を肥やしたいと思っているわけではなくてもこうしたことは起こるのだ。それを放置することもできるのだが、結果的には恒常的な不満につながるか、大きな事故に発展することになると思う。が、普通市民が関わるのは選挙の時だけである。

これに対応していると、思い込みの強さを感じる。誰かに問題を指摘されると「その人の人格が否定された」という気分に陥るようだ。さらに、問題を対処する側も「誰が犯人なのかを特定して、その人にバッテンをつけて終わり」ということが多いらしい。組織が責められていると感じ、それを個人に転嫁したくなるのだろう。日本の社会に特有の「個人のせいにして終わりにする」という悪い癖が抜けないようなのだ。だから、問題は隠蔽されることになり、公の場に持ち出して改善して行こうという動きにつながらないのだろう。

さらに、関係者が問題を表に出して、検討しようという文化がそもそもないらしい。何人かの人に「この機会を利用して、みんなで話し合ってはいかがですか」と言ってみたが、全くピンときていないようだった。すべて個人の能力に帰結させてしまうのだ。昨日電話をかけてきた人は、自分は責められていると思い込み「直接会って説明したい」と言っていたが、責めているわけではなく、問題がどこにあるのかを探す機会にしていただきたいというと黙り込んでしまった。多分、何を言われたのかはよくわかっていないと思う。日本の組織にはそれくらい「自分たちで考えて、仲間同士で助け合う」という文化が欠落している。

民主主義にとって批判はバグ取りにすぎないと考えてみるのはとても大切だと思うのだが、現場の記者たちがその気になれないのは、受験勉強が個人競技であって、そのあと「絶対に間違えない(何も実行しないのだから当然だ)」マスコミに入ってしまったからかもしれない。QAのつもりで行動するという気持ちになれないのだろう。その上、日本の組織にもお互いに助け合うという文化はないので、それを他の組織にも応用してしまうわけだ。

菅官房長官の「批判は当たらない」は、プログラマーが「俺の作ったプログラムには絶対バグがないから、動作不良に見えてもそれは気のせいだ」と言っているのと同じだ。自動車に言い換えれば「俺の作った自動車は完璧にプログラミングされているから、事故を起こしたらすべてユーザーのせいである」というようなことになるだろう。誰も、そんな人の作った製品は買わなくなるだろう。にもかかわらず、それしか選択肢がないというのがこの国の抱えている不幸なのかもしれないのだが、実は政府の側だけでなく、それを見ている人たちにも問題はあるのだと思う。

 

表現の自由について説教する

百田尚樹さんという人が一橋大学の学園祭への出演をキャンセルされたようで、これについて局所的な議論が起こっているらしい。これを「表現の自由の圧殺」と言って擁護する人がいるとのことである。左翼の謀略だと騒いでいる人もいるらしい。

とても不毛な議論だが、なぜこれは不毛なのか整理してみたい。表現の自由が重要なのは。民主主義が一人ひとりの参加を前提にしているという前提が受け入れられているからである。特定の人だけしか意見が表明できないと、結果的に決まったことが歪んでしまう可能性があり、歪んだ決定は大抵なんらかの間違いを含んでいるのだろうというのが基本的な線である。

表現の自由を気にしない人は「俺の方が賢いから、相手の意見なんか聞かなくても正しい判断ができる」と考えている。しかし、安倍政権やトランプ政権を見ていると、その決定には穴がとても多い。トランプ政権は目の前にいる人にウケるために言ったことが、そこにいない人を怒らせている。本来なら他人の意見を入れて、その意思決定を間違いのないものにしなければならない。安倍首相に至っては批判や検証もすべて「印象操作」で片付けている。自分だけが正しくて相手は間違っているという確信があるのだろう。

ここで重要なのは、表現の自由が「言うこと」だけを指しているわけではないということである。つまり、聞くことも「表現の自由」に含まれているのだ。とにかく、表現の自由は「自分の言いたいことを一方的に捲(まく)したてる」ことではないということがわかる。

百田尚樹さんといえば、過去に特定の新聞社が潰れてしまえばいいといったことで知られている。自分が聞きたくないことは聞きたくないが、言いたいことは言いたいという人である。ということで、特定の人たちを集めて自分の考えを一方的に捲し立てても構わないわけだが、公の場に出てきて自分の表現の自由を主張してもあまり説得力がない。ということで、一橋大学の有志の判断は正しかったと言える。

さて、これについて百田さんを批判して終わりにすることもできるのだが、我々は何を学ばなければならないのだろうかについて考えてみたい。それは表現の自由を標榜する以上は「聞くための窓は開けておかなければならない」ということである。政治のような大きな問題に直面すると意見が固まってしまいがちだし、よく考えている問題ほど、自分の意見は変えにくくなる。が、時には努力して考えを変えることも必要なのではないだろうか。

表現の自由が大切なのは、多分我々は間違えることがあるからなのだ。つまり、自分が何を話すかというのは表現の自由のほんの一部にしか過ぎないのだろう。

逆に表現の自由を否定するということは、自分の意見をより良いものにするチャンスを逃すということになる。自分の考えが機能しているかどうかを検証する機会を失ってしまうのは、実はとてももったいないことなのかもしれない。

安倍首相はなぜ嘘をついてはいけないのか

東洋経済ONLINEを見ていたら中島義道という人が人は嘘をつくのになぜ政治家は嘘をついてはいけないのかというような疑問を提していた。有名な雑誌のWeb版なので有名な哲学者の方なのだと思うが、答案を書いてみる。

まず、民主主義を、話し合いによってできるだけ多くの人が幸せに暮らすことができる社会を作ることだと定義する。社会は一人ひとりの貢献によって成り立っているので、納得感が得られなければ社会そのものへの信頼がなくなる。信頼がなくなると人々は努力を出し惜しみすることになるはずだ。幸せという言葉が気に入らなければ「できるだけ嫌な思いをしない」と言い換えても良い。

そのためには、話し合ってみんなが納得するように物事を決めて行くことが必要だ。話し合うためには「今はどういう状況で」「こう決めたらどうなるか」ということをできるだけ正しく提示する必要がある。完全に読み切ることは難しいので「できるだけ正確に」ということになる。話し合いの過程を記録しておけばあとで見直せるので、間違えたとしても見直すことができる。

ところが、人は嘘をつくことができるし嘘もついている。ということで、判断を自分に都合の良いように誘導することも可能だろう。が、嘘をついて話し合いの過程を歪めてしまうと、人々はやがて「あ、これはおかしいぞ」と考えて、社会への関心を失ってしまうかもしれない。嘘をついて得する人は嘘をつくだろうし、得がない人たちは話し合いに参加しなくなる。さらに人には自分が納得して決めたことには従おうという特性がある。決めるのに参加しない人は、公然と逆らうと何かと面倒なのでこっそりと従わないことになるかもしれない。

つまり、嘘が横行すると、決めたことへの信頼性が失われ、結果としてみんながいろいろと大変な思いをする。が、現実としては嘘はつける。だから、信頼性を損なわないようにするために「嘘をつかない」というタテマエが必要だということになる。嘘をつけるのだが、嘘をつかないようにしようということである。嘘をつかないようにしようというのはキレイゴトなのである。

人は嘘がつけるから「嘘をつかない」としないと話し合いがうまく進まないというのは、スポーツのルールと同じようなものだ。ゴルフでは誰も見ていない時にボールを穴に入れてしまえば優勝することができるが、誰もそんなことをしない。そんなことを許せばゴルフではなくなってしまうからだ。

こうしたことが哲学の考察対象になるのは日本人の特性によるものと思われる。なお中島さんが本気で「嘘をついてはいけない」というのを考察の対象にしているのか、それともわざと言っているのかはこの東洋経済ONLINEの記事からはよくわからない。

年配の日本人は終戦を経験している。そもそも民主主義ではない時代を記憶していて、急に民主主義が入ってきた。またアメリカに上から頭を抑えられていて民主主義以外の選択肢がなかった。中島さんは1946年の生まれということで、物心ついた頃にはみんなが「なんだかよくわからないが民主主義はすごい」と言っていた時代の人なのだろう。自分たちで民主主義を獲得した国では「タテマエ」の大切さを理解しているのだが、民主主義が上から降ってきた日本では、その重要性が理解されなかったのかもしれない。例えばトランプ政権下のアメリカは場合によっては独裁体制になってもよいわけだから、その切実さにも違いがあるだろう。できるけどやらない、のだ。

次に日本人は個人の話し合いで物事を決めてこなかった。いろいろと裏で話し合いをした結果が全体に承認されるという形態を取る。一人ひとりの話し合いがあまり重要な意味を持たないから、表向きの議論で嘘をついても大した影響がなかったのかもしれない。だが、最近では裏での話し合いがうまくゆかないことが増えてきているので、嘘が影響を与えるようになってきているといえるのではないだろうか。

この論の一番の弱点は「そもそも話し合いなんか必要ないのではないか」というものである。完全な個人がすべてを間違いがないように決めてくれればそれでよいはずだ。だが、実際にはそうした試みはおおかた失敗している。完全独裁のままの国はそれほど多くないし「優秀な共産党がみんなの代わりに決めてあげる」という共産主義はほぼ絶滅した。

なぜ、話し合い型の社会の方がうまく行くのかはよくわからない。もともと類人猿として脆弱だったので助け合いが発達したという学説すらある。こんなことを科学で証明したいと考えるのは「話し合い」や「助け合い」の効用が自明ではないからだろう。

理論がわからないので過去の事例を参照するということもできる。

例えば北朝鮮と韓国は北朝鮮の方が進んだ工業国だったのだが、長い間に大きな差がついてしまった。西ドイツと東ドイツも同様だった。東ドイツは反逆者を押さえつけるの大掛かりな秘密警察を作ったがすべて徒労に終わった。長い間「気に入らなければ出て行っても良い」と言っていたのだが、ある時期多くの国民が「じゃあ、出て行きます」ということになった。どちらも同じ民族なので社会的には似通っているはずだから、体制の違いが結果に現れているとしかいいようがない。限られた人が決めるより、みんなで決めた方が成功する可能性が高い。

一方で、サウジアラビアのように独裁的な政権が比較的うまくいっている国もある。が、石油資源を抱えていて国民に不満が出ないように富が分配できるから成り立っている。ロシアも天然資源を抱えているので、ある程度反対勢力を懐柔することができる。こうした「何をすれば幸せになれるか」ということがわかっている国では、ある程度の独裁もうまく行くのかもしれない。

ということで、よくはわからないが話し合いや助け合いは大切らしいということがわかる。

だが、もう一つの欠点は少し答えを出すのが難しい。みんなで一生懸命に話し合ってもすべての人が納得できる答えなど見つからないという可能性があるのだ。この場合は「優しい嘘」をついて、決して満足できない人たちにかりそめの満足感を与えるか、犠牲にするほうがよいということになる。民主主義の発達した先進国は、実は周辺国から資源を安い価格で買い入れて高く売ることで成り立っていた。国境という区切りがなくなったので、今かなりの混乱が起きている。この問題は多分、政治学の世界では「グローバリズムをどの程度展開するのか」という問題になっているのだろう。そもそも「話し合いでみんな仲良く」というのが壮大な嘘だったという可能性はあることになる。

この可能性を考えると、実は政治家は嘘をつかざるをえなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。かつては見なくて済んだものを直視せざるをえなくなっているというわけだ。つまり「政治家は嘘をついて良いのか悪いのか」という疑問の立て方が間違っていて、なぜ嘘をつかざるをえなくなっているのかということを考えなければならないのかもしれない。

有能感に苛まれる人たちと意味の盗人

江川紹子さんが池田信夫さんに反論しているのを見つけてかなり気分が悪くなった。池田さんは獣医師さんについて書いているのだが、これはいったい何のための議論なのだろう。ひどい言葉が並んでいるが、中でも衝撃を受けたのは「ペットは単なる愛玩品だ」という発言である。

池田さんはネットで挑みかかってくる人たちを論破して有能感に浸っているようだ。たしかに筋は通っているように思える。が、そこには実感がない。

個人的なことになるが、最近犬が倒れた。池田さんに言わせれば単なる愛玩品でお人形などと変わりはないのだろう。つまり捨てるか安楽死させてしまうのが「合理的」なのかもしれない。しかし、家族の悲嘆は大変なものだった。倒れて食事ができなくなった犬にスプーンで砕いた餌を与え、倒れるのは痛かろうと周りにカーペットを敷き詰めた。散歩に行けなくなると糞尿の世話もしなければならない。

好きで犬を飼ったわけだから自己責任だし、人間より寿命が短いのでやがてはこういうことになるのはわかっている。が、動物はやはり単なる愛玩品ではない。それが理屈で説明できるかと言われるとできないし、その検診や犠牲が何か合理的な役に立つかと言われればそれも疑問だ。例えば牛や豚は食べるのに犬は救いたいと思うのかと言われると合理的には対応できない。実際に餌は食べなかったが、牛の缶詰などは喜んで食べていた。食べるということで「動きたい」という意思が生まれ少しばかりよくなったりするのだが、やはり他の動物を犠牲にしているという見方はできるだろう。

さらに獣医師さんはお休みの日にも診察をしてくれた。「金をとっているから当然だろう」という考え方もできるわけだが、1日病気の犬に付き添ってくれたようで本来ならそれなりの対価を支払わなければならない。休診日にも見てもらったが、猫の薬を求めてくる別の人にも親切に対応していた。経営の能力は必要だと思うが、それだけではやって行けない仕事だと思った。動物が好きなんだろうなとも思うが、好きだけでも続かないだろう。

確かに、獣医の供給に関して利権があることは認めるし、それは「抵抗勢力」だということはわかる。獣医と言っても畜産関係が多く、ペットドクターが全てではないということも学んだ。だが、それは集団としての獣医学会と業界の構造的な問題であって、個人の問題ではない。つまり、獣医学会のあり方を批判するのは良いのだが、それを一人ひとりの獣医の否定に繋げるのはとても乱暴な考え方だ。

議論が複雑なのは命を扱っているからである。政治は単なる理論家のお遊びではなく、生活につながっており、人はそれを合理性だけで判断ことはできない。問題解決のために、努めて理性的になる必要はあるだろうが、人々の暮らしは理性の奴隷ではない。それは問題を解決するための手段に鹿すぎない。

多分池田さんの過激な発言の裏には2つの動機があるのだろう。1つは安倍政権の擁護である。政権を擁護することでさまざまな優遇が期待でき、ついでに自分の有能さをひけらかすことができる。そのためのポジションをとって議論を楽しんでいるのだろう。本来は倫理的に許されない行為だが、日本のトップリーダーが進んで意味を破壊しているのでこうした行為が可能になる。ものを盗めば犯罪だが、意味を盗んでも犯罪にはならない。

もう1つの動機は少し複雑だ。安倍首相を擁護する立場の人たちは単に利権を求めているわけではなく、言葉にできない感情のはけ口として安倍政権を支持しているようだ。例えば、動機の一つには女性蔑視があるようで、小池百合子都知事や蓮舫民進党代表などはかなり嫌われている。女が自分たちの両部を侵犯することに反発心を持っているが、それを主張する力がない。だから、池田さんが女性を蔑視しているというわけではなく、そういう満たされない人たちの代弁をすることに需要があるのではないだろうか。が、彼らのルサンチマンを満たしてやったところで、彼らの境遇が改善することはない。

結局、商売と利得のためにやっていてついでに有能感を満たしていることになる。コミュニティについて特に貢献しているわけではないし、他人の問題を一緒になって解決しようという気持ちもない。

これは、本来問題を解決し人々を救うはずだった議論の空間に入り込んで、盗みを繰り広げているようなものだ。法律と違って、問題を解決しようという人々の了解だけが空間を支えているので、いったんそれが崩れてしまうと元に戻すのは容易ではない。

こうした議論のための議論が行われる背景には安倍首相の抗弁がある。もはや問題を解決することには興味はなく、理屈を弄び、言葉の解釈を無効化して、議論の空間を無茶苦茶にしている。こういう政権は今すぐ消え去るべきだと思う。

安倍政権が破壊しているのは、人々が助け合って解決策を見出して行こうという人々の熱意と意思なのだ。

専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。

ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのか

アゴラの編集長という人にブロックされている。その影響からなのか(Twitterにはブロックリストをやり取りする機能があるそうだ)関わりがないのにブロックしている人がいるらしく、ときどき引用ツイートが読めない。中身が読めないのでどういう人たちなのかはわからないのだが、安倍政権側の人が多いように思える。たいてい誰かに批判的に引用されているからだ。それにしても、ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのだろうか。

ブロックするのは、自分と違った考え方が受け入れられない人たちだと考えられる。つまり、自分の作ったシナリオ通りにことが進まないと、その意見を排除するためにブロックして「なかったこと」にしてしまうのだ。自分と同じ考えの人たちしかいなければ否定されることもないので、彼らには居心地がよいのだろう。

その意味では百田尚樹さんという人はネトウヨが高かったように思う。普段ネトウヨ系のサロンで発言を繰り返しているうちに仮想的な有能感に浸るようになり、朝生で罵倒されて帰ってきたそうである。作家さんなので知性がないということはないだろうが、知識が偏っていて議論にならなかったのだろう。

自分の意見があまりないという点ではサヨクの人たちと違いがないのだが、サヨクとネトウヨには大きな違いがあるように思える。サヨクの人たちは自分たちの意見や正義感が世間に知られていないと感じているので、異論を唱えてきた人には「布教活動」が始まる。ここでブロックしてしまうと自分が相手を説得することができなくなる訳だから、ブロックすることは少ないのではないかと考えられる。サヨクの人たちの言動で多いのは「安倍政権についてテレビ報道が増えれば人は真実に目覚める」というものである。

だが、ネトウヨの心性を考えるとよくわからない点に突き当る。他人と意見が違うことがなぜ問題になるのかということだ。心理学の類型を調べてみたいところだが、しくりくるものが探せなかった。が、相手の意見に影響されて「それに従わなければならない」という気持ちが強いのではないかと考えられる。つまり自己肯定感の低さが影響しているのだろう。つまり、ネトウヨは相手に服従しなければならないと考えており、同時にあまり自分の考えに自信がないのだろうということが予想されるのだ。だからこそ、主張を強化しなければならないわけである。

サヨクの人たちも放射能や戦争などの外部からの脅威を怖がっているように見える。つまり、不確実性に対応できないという意味では共通しているように見える。が、実際には内心というものを持っていて、それと現実が異なっていることが許せないと考えることもできるだろう。つまり、ネトウヨとは反対に過剰な自信があり、それと違っていることが許せないという可能性があるのだ。つまりネトウヨとサヨクが同根なのかそれとも対になっているのかということはよくわからない。

まとめると、ネトウヨもサヨクも、危機・脅威・不確実性に対する防御反応なのだが、一方は内面に自信がなく常に相手に影響されてしまうと考えており、一方は内面に自信がありそれが現実世界に反映されないことにいらだちを抱えているのかもしれないという仮説が立てられる。もし同根だとすれば、他人の考えや指示に恐怖心を覚えるのがネトウヨで、環境に恐怖心を持っているのがサヨクということになる。両者に共通するのは多様な考えが共存することを認められず、相手の説得もできないという点である。

両者とも、世間と自分との間に明確な境界を築けない。他人は他人でありコントロールできないと考えれば、感情的な行動にはでないのではないだろうか。相手を説得するのに戦略を立てたり、コントロールできないなら放っておこうと考えるはずである。あるいは自分の好きなことに夢中になっていれば、あまり他人の価値観は気にならないはずだ。

その意味では安倍政権はきわめてネトウヨ性が高い政権だと言える。もともと戦前に陸軍が間違った行動を取ったことを一切認めることができなかった人たちが母体になっている。南京で虐殺がなかったと主張したり、日本軍は韓国人の性奴隷を持たなかったという主張をしていた。が、こうした主張はWiLLなどの一部のネトウヨ系雑誌で行われているだけで、全体にはさして影響がなかった。

よく考えてみれば、南京で虐殺があったとしても、それは陸軍の兵士たちがやったことであって、日本人全体の犯罪ではない。ネトウヨの人たちには関係がないことだ。しかし、ネトウヨにはそれが認められない。日本軍が中国人の主張通り犯罪行為をおかしたのなら、自分が日本人を代表して中国人に屈服しなければならないと感じてしまう。これは、他人と自分の間に区別がついていないということを意味するのだろう。このように勝ち負けは彼らにとってとても重要である。

勝ち負けが重要なのだから、強いものへの妥協も安倍政権の特徴だ。プーチン大統領にすり寄ってみたかと思えば、トランプ大統領に諂ってみせたりしている。トランプ大統領に忖度して、その主張を聞くようにヨーロッパに懇願することを「強いリーダーシップ」と言い換えるあたりもネトウヨ性が高い。これは、影響力のある相手に対して自分を保てないというところからきているのではないだろうか。一方で、中国や北朝鮮という自分たちが蔑視している存在には必要以上に居丈高な態度に出る。国内では女性に対する蔑視感情が顕著で、民進党の蓮舫代表を呼びつけにしたり(国会でもたびたび呼びつけにしそうになる)社民党の福島元党首や民進党の山尾しおり議員に敵意をむき出しにしたりしている。

このネトウヨ性のせいで、自分を持っていて距離を置くヨーロッパやカナダのリーダーとは折り合わない。

ネトウヨの最大の特徴はブロックだ。自分たちの論理で憲法の解釈をねじ曲げて、アメリカ軍と協調行動がとれるようにしてしまった。これが全面的に悪いとは言わないが、本来なら国民を説得するべきだった。しかし安倍政権はそれをしないで、あの夏のデモを「一部の人がやっているだけ」と言ってブロックしてしまったのだ。さらに、批判は当たらないという紋切り型の台詞を繰り返して様々な無理な解釈を繰り返し、あったはずの資料をなかったことにした。それだけでなくマスコミにも手を伸ばし、恫喝したり取り込んだりして、自分たちに都合の良い解釈を繰り返すようになった。

あったものをなかったことにするのがブロックなのだが、権力がこれをやり始めると他人にもブロックを強要しどんどん社会がおかしくなってゆく。

例えば金融経済の世界でも「ブロック」が起きているのだが、これはやがて市場経済の法則に復讐される可能性が高い。その時巻き込まれるのがネトウヨと安倍政権だけならいいのだが、国を巻き込んだ大惨事になる可能性も否定はできない。

ネットにいるネトウヨの人たちは、大した情報は持っておらず、偏った情報から作られた理論も間違っている可能性が高いので相手にする必要はないと思う。が、こういった人たちに大事な仕事を任せてはいけない。社会全体がおかしな方向に進んでしまうからだ。