もはやデフレではないのにデフレ対策が必要なのはなぜか

当初、参議院の代表質問を聞いて当初「どうやったら安倍首相のように答弁できるか」ということを研究しようと思った。大塚民進党代表が「論理的に説明せよ」と迫るのに対して、安倍首相は全く無茶苦茶な答弁をしていたのだが、聞いているとそれほど無茶苦茶には聞こえないのである。これは相当なテクニックがあるだろうと思ったのだ。

注意深く聞いていると、いくつかの戦略があるようだ。全体を見ると整合性がないのだが、パーツごとを見ているとそれほど破綻しては見えない。安倍首相はこれを「やっている感」と呼んでいるそうである。全体像を見せずに、個別のことだけを答え続けていれば良いということになる。

わかりにくいので営業社員を例にあげて「やっている感」を説明したい。「売り上げが上がらないのはなぜか」と聞かれても全体については答えず個々の活動を拾い出して「これだけ一生懸命にやっています」といえばやっている感が演出できる。営業は数字が出てしまうのでこのテクニックはあまり使えそうにないが、それでも事務所に戻ってこずコンビニの駐車場で時間を潰して「やっている感」を演出する人はいる。つまり、安倍首相は売り上げに貢献しないダメな社員ということになる。

だが、これが結果が数字に出ないマーケティング部員だと意外と使えるテクニックなのかもしれない。それぞれのチャネルで整合性のないことをやっていても「効果は出そうだったがマーケティング予算がつかないからうまくゆかなかった」から「もっと予算をくれ」と言えば良い。いずれはクビになるだろうが、その時にはやったことのリストを携えて別の会社に移れば良い。外資のマーケティングにはこうやって渡り歩いている人はたくさんいるのではないだろうか。

だが、やっている感だけではさすがにどうしようもない。そこで、北朝鮮のような危機を煽り「外にこんな脅威がある」といえば良い。さらに最近では国難という言葉を使っている。これは少子高齢かがあたかも外からやってくる敵のように思えるという意味で優れた言い換えの発明と言える。自分たちが克服しなければならない課題だとしてしまうと、国民は責められているように思うのだが、よそからやってくるとするだけで、自分たちは悪くないと思えるのだ。この言い換えに気がついていない人は意外と多いと思うのだが、実は自称保守には多いメンタリティである。

例えば小池百合子東京都知事は立派な保守政治家だが、自分の言動が築地豊洲問題を混乱させたり、希望の党を大惨敗に陥れても一切責任を取ろうとしない。それは全て「彼女が女性差別にさらされているからだ」という被害者意識に変えてしまう。つまり、それは憎むべき敵のせいであり、決して自分が悪いわけではないのである。

しかし、安倍首相の子供騙しのような<国会対策>がうまく行く理由は実はこれだけではない。質問をしている方も戦略を間違えている。この顕著な例が「デフレ対策」である。

この中で大塚代表が面白いことを聞いていた。安倍首相はもはやデフレではないと言っているのだが、実際にはデフレ対策を続けている。これはアベノミクスがうまくいっていないということなので、それを自ら証明してみせろと質問していた。

多分安倍首相はよくわかっていない。このよくわかっていないというのはかなり強烈なパワーを持っている。だから、これまでの主張を繰り返し、さらに「日銀を信頼しているから日銀に任せている」などと言って終わらせていた。急場がしのげているので「これでいいじゃないか」と思っているようだが、出口戦略が失敗すると悲惨なことが起こるとわかっていれば、とても怖くてあんな答弁はできないだろう。子供が日に触るまで「火傷するよ」という言葉の意味がわからないのと同じことである。

だが、聞いている大塚さんがこの質問の答えをわかっているかというのにも疑問があるし、さらにそのやりとりを聞いている国民もよくわかっていないかもしれない。

そもそもデフレは二つの意味で使われている。一つは、経済学的な定義である。不景気になりものが売れなくなる。すると企業は良い製品を作って売り上げを伸ばすか、コストを下げて売り上げのい低下を埋めあわせる。後者を選ぶと、価格の下落は賃金の下降につながる。賃金が下降するとさらに物が売れなくなる。こうして生まれるのがデフレで「デフレスパイラル」と呼んだりする。

では、いつからがデフレなのだろうか。物価をグラフにしたものがあるので自分で見て調べてみていただきたい。だいたいの人は「あれ、それほど価格が下がっていないな」と感じるだろう。もう少し細かくグラフが読める人は1996年と2009年ごろから価格が低下しているのでこれがデフレなのではないかと考えるかもしれない。しかし、もっとリテラシのある人がグラフを見ると日本はなんらかの理由で経済が成長しなくなっており、上がったり下がったりしていてもそれは誤差の範囲なのではないかと気がつくかもしれない。つまり、日本はデフレではなく、成長が極めて低い(あるいはまったく成長していない)ということになるのである。

このデフレという言葉はいつ頃から使われるようになったのか、時期を限って検索してみたい。

2003年に榊原英資という人が世界経済は低成長に入ったので世界規模のデフレであると言っている記事が見つかる。だがその後、消費者物価指数はわずかに上昇し、榊原さんもこうした主張をあまりしなくなった。

その後、リーマンショックをきっかけに物価の下落が起きた。2009年の民主党政権になった瞬間にデフレが起きたのではないかと思えるのだが、実際には欧米の大規模な金融不安が原因である。誰もが疑心暗鬼に陥り日本は輸出が大幅に落ち込んでいる。さらに2011年には東日本大震災で東北を中心に生産施設が被害を受けたので、これも(民主党のせいで日本列島が天罰を下したというオカルト説を信じるならば別だのだが)民主党とは関係がない。

だが、印象という意味では、民主党政権にも大きな責任がありそうだ。2009年11月に「デフレ」の検索が大幅に増えた期間がある。政府があまり配慮しないで「現在はデフレである」と宣言してしまったようだ。これで不安に思った人が多かったのだろう。だが、実際にはこれは初めてのことではなかった。文中には次のようにある。

政府は2001年3月に物価下落が2年以上続いていたことから、月例経済報告で初めて「日本経済は緩やかなデフレにある」と認定した。2006年6月を最後に、月例経済報告から経済が「デフレにある」との文言は消えたが、その後もデフレに後戻りする可能性が払しょくできないとの判断から「デフレ脱却」宣言を見送ってきた。

つまり、自民党政権はこれをあまり大げさに書かなかったが民主党政権は国民の不安を大幅に煽ったのではないかと思われる。

さて、景気が低迷しているだけなのにそれを「デフレ」と呼び出したのは誰なのだろうか。資産バブルが弾けたときこれをデフレと呼ぶ人はいなかった。金融不安はあったが終身雇用が完全にきれなかったので賃金は高止まりしていた。だから物価にはそれほど影響が出なかった。

しかし、政府が経済政策に失敗したために物価の上昇が止まり現在のようなほとんど成長がない時代がやってくる。さらにそれに追随して非正規雇用を増やしたために物価の上昇が止まってしまった。日本人は現在の稼ぎだけでなく将来の予測も加味して消費する「長期志向」が強いことも原因の一つになっているのだろう。

その過程で価格破壊が起こった分野があった。最初に影響を受けたのは外食などの分野のようだ。1996年ごろには、価格があげられないことを「デフレ不況」と呼ぶようになっていた。この頃の文書を検索すると「デフレ不況でモノが売れない」という文章が散見される。だが実際にこの時期にも物価はわずかながら上がっているので実は定義としては「デフレ」とは言えないのである。

つまりこの頃は「景気が悪くなること」や「高度経済成長(と、それに続く資産バブル)」が起こらないことを指してデフレと言っていたことになる。

そこで、どの経済学者がデフレという言葉を「低成長・無成長」の意味で使い出したのかということが気になって調べてみた。検索上見つかったもっとも古い記録は1994年の稲垣武というジャーナリストが書いた「デフレ不況」だった。稲垣はもともと共産主義に傾倒し朝日新聞に入り最終的には週刊朝日に移った。その過程で共産主義に大いに失望したらしく今度は反共に転じたというような経歴の人らしい。

つまり、週刊誌の記者崩れの人があまり経済について理解しないで「すごい不況」という意味でデフレというパワーワードを見つけてきた可能性が高い。週刊誌などではよく使われる手法だが、新聞で「ポリティカルコレクトネス」に疲れた人が「自由な週刊誌」で好き勝手書けるようになったことからこうした無責任な姿勢が生まれたのではないかと推測した。なお稲垣さんはすでに亡くなっているので当時どんな気持ちでこれを書いたのかを尋ねることはできない。

つまり、そもそも日本経済は定常的な無成長の時代にあり本当の意味ではデフレではないのだが、無成長をデフレと呼ぶことが広まり、政府も物価が少し下振れするたびに「これはデフレになるのではないか」と言い続けていたことになる。そこで国民はなんだかよくわからないがデフレとはとても悪いもので、日本はなんとなく大変なことになるのではないかと重ようになったのだ。

さらにモノが売れないのはこのデフレというオバケのせいであると考えることになった。企業努力をしていないとか怠けているとか言われると腹がたつが、デフレが悪いのだから仕方がない。これがデフレの二番目の意味である。

つまり、安倍首相は「無成長をデフレと呼んでいたが、それをやめた」ことで「もはやデフレではない」となんとなく印象操作している。さらに低成長・無成長の原因である少子高齢化も「国難」と呼んで北朝鮮と並べることで、なんとなく「自民党がそれらを成敗してくれる」という印象を生み出しているのではないだろうか。

一旦この事情がわかると「どっちが正しい」という話ではなく、マスコミや当事者である政治家がふわっとした理解をもとに印象だけで話をしているだけだということがわかる。つまり、安倍首相が言い逃れできてしまう原因は実は聞き手である国民にあるのだ。

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「アイヌ語は日本語の方言です」の破壊力

Twitterで「アイヌ語は日本語の方言ですがなにか?」というつぶやきを見つけた。日本では民主主義や議論の空間とというものは徹底的に破壊されているのだなと思った。

議論が成り立つためには「お互いに気持ちの良い空間を作って行こう」という双方の合意が必要だ。政治の世界ではこれを「統合」などというようだが、この統合がまったくなくなっているのではないかと思う。その裏には「今まで協力して何かをなしとげたことがない」人たちが大勢いるという事情があるのだと思う。

この<議論>の裏にはアイヌ振興予算の存在がある。かなりの額が支出されているので「アイヌはおいしい思いをしている」という嫉妬を呼んでいるのだが、実際には博物館建設のような箱物にも支出されている。アイヌ系のデヴェロッパがいるという話は聞いたことがないので、実は仕事のなくなった和人系の人たちへの対策になっているのである。

もちろんアイヌ語は日本語の方言ではないのだが、これを言語学に興味がない人に説明するのは実は難しい。言語と方言というものの境界に曖昧さがあるからである。

琉球諸語と日本語には語彙に関連性がある。また文法もほぼ同じで単語にも関連がある。つまり、日本語と琉球諸語には強い類縁関係が認められる。ゆえに琉球諸語と日本語を同じ言語とみなして、お互いを方言関係にあるのか日本語族の中に琉球諸語が含まれるのかというのには議論の余地があるものと考えられる。沖縄の言葉と本土の言葉の関係が方言なのか言語なのかというのは歩い程度政治的に裁量の余地がある。

しかし。アイヌ語と日本語の間には類縁関係は認められない。統語方法も単語も発音も全く異なるからだ。日本語や朝鮮語は膠着語であり文法は似通っているのだが、日本語と朝鮮語には語彙の違いがあり発音も異なり同じ言語とはみなせない。アイヌ語には縫合語という日本語にはない統語法があり、なおかつ語彙もほとんどが違っており発音も異なる。ゆえに、朝鮮語、日本語、アイヌ語を方言関係にあるという人はほぼいないはずである。日本語と朝鮮語は同じ語族であるという人がいたが、アイヌ語と日本語が同じ語族にあるという人はほぼいないのではないだろうか。

何が言語で何が方言かという議論には幅がある。例えば琉球諸語と日本語を言語として呼ぶという立場は極めて政治的なものであり、朝鮮語と日本語が別の言語であるという立場はそれほど政治的ではない。だが、議論するためにはそれを相手に理解してもらう必要があり、理解のためには相互で意思疎通をして共通の問題を解決したいという意欲が必要である。

だが、実はこの議論の基本にあるのは、では「日本語とは何なのか」という認識なのだ。つまり、我々の源とと周辺諸言語の比較によってしか「日本語の位置」はわからない。だから「アイヌ語は日本語の方言」と言い切ってしまうと、実は自分たちのことがわからなくなる。そして、実際に日本人は自分たちのことがわからなくなっており、他者に説明できないがゆえに様々な問題が引き起こされている。

ここまで考えて「この議論には価値があるのか」という問題が出てくる。議論する余地がないなら別に放置しておいてもよいのではないかということだ。そこで「民主主義について無茶苦茶なことを言っていた人たちを放置した結果、今の惨状がある」のではないかと考える。大勢で無理をいうとそれが多数派になり<事実>として受け入れられるという見込みがあるのだろうが、そのような人たちが蔓延しているのでついついいろいろなものに対して防衛しなければならないのではないかと思ってしまうのだ。

アイヌを民族として保護しようという立場に立つと、いろいろな方法でアイヌがなぜ民族なのかということを説明せざるをえない。だが、アイヌは民族ではないという人はいろいろ勉強する必要はない。単に「民族ではない」といえばいいだけである。これはイスラム過激派がシリアやアフガニスタンの遺産を壊して回るのと同じことだ。建設と保全には長い時間がかかるが、壊すのは一瞬で、それが気持ちよかったりする。

本来ならば消えてゆくアイヌ語をどうやって守るかという点に力を尽くさなければならないはずなのだが「なぜアイヌ語は日本語ではないのか」ということに力を使わなければならなくなる。

この背景にはアイヌ振興予算に対する嫉妬のようなものがあるようだ。かなりの予算が振り向けられておりこれを「ずるい」と考える人がいるのだろう。そこでアイヌ語は日本語の方言であるとか、アイヌ料理などというものは存在しないのだなどという話が出てくることになる。しかし、予算の中身を見てみると「博物館や公園を作る」というものが含まれている。アイヌ系デベロッパという話は聞かないので、多分和人が公園を作る言い訳に使われているのだろう。

本来ならば「議論を有益なものにするためにはオブジェクティブに戻って考えてみよう」などと言いたいところなのだが、そもそも何のために議論をするのかということが幾重にもわからなくなっており、単にそんな議論はそもそも存在しないのであるなどと言っても構わない状況になっている。

この惨状のもとを辿ると今の国会議論に行き着く。その原因は安倍政権であることは間違いがない。では安倍政権の源流はどこにあるのかといえば、時代に取り残された人たちが暴論を振りかざしていたいわゆる「ネトウヨ系」の雑誌に行き着く。

もともと自民党は甘やかされた政治二世・三世が政権を担当していたのだが、2009年の政権交代の民意を受け止められなかった。政権交代など先進国ではよくあることなのだから「否定されたら次はもっと良いものを出してやろう」と思えばいいのだ。だが、彼らは甘やかされているがゆえに政治姿勢を変えたり政策を磨いたりということはせず「政権を失ったのは国民が馬鹿だからだ」と考えるようになった。そこで詭弁術を学んで政権に復帰すると、徹底的に議論を無効化することになった。

彼らは留学経験もあり議論のやり方はわかっている。しかし、彼らに影響を受けた若い人たちは<政治議論>というのはこのようなものだと感がているのではないだろうか。これはイスラム過激派の元で育った戦争しか知らない人たちがその後の平和な時代になってもそれが受け入れられないという状況に似ている。現在はこうした過激派の人たちが大量生産されている。Twitterを通じて我々はその現場を見ているのではないだろうか。

単に甘やかされた政治家のルサンチマンから始まったことなのかもしれないが、今後の日本の言論に大きな影を落とすことになるだろう。

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全体主義と「言論圧殺」そして安倍さんの罪

アーレントの全体主義の起源についての番組を見ている。今回はいよいよヒトラーが大衆の被害者意識に形を与えるというところまで来た。アーレントの定義では、大衆は何にも所属せず、どうしたら幸せになれるのかということがよくわからない人たちを指すそうだ。それは物質を形成することができない原子のようなものである。経済がうまく回っている時にはこれを苦痛に考えることはないのだが、一度苦境に陥ると陰謀や物語などを容易に受け入れる母体になるというようなことが語られていた。

しかし、今回は少し別の実感を持った。現在、安倍首相が日本に与えている形のない不安について実感したからである。これは全体主義者やポピュリストが与える物語とは別の形で社会を蝕むのだが、その帰結は同じようなもので、人々は信じたい物語を捏造し、別の意味での全体主義へと突き進む可能性があるのではないかと考えて、少しおびえた。

菅野完という人がTwitterのアカウントを凍結されたという「事件」があった。人々はTwitter社はなぜ人種差別主義者を放置しているのに菅野さんだけをアカウント凍結するのだと文句を言い始めた。

いろいろな指摘を読むと全く別の指摘もある。菅野さんは最近、性的暴行事件の裁判に負けていた。毎日新聞によるとその後控訴しているが、好ましくない行為があったこと自体は認めている。しかしながらその後もこれに関係する言論を続けており女性側が苦痛を感じて「Twitterをやめるべきだ」と要望したのではないかというのだ。

もし、これが事実だったとすると、Twitter社が「この事件のせいでアカウント停止したんですよ」などとは言わない方がよいことになる。菅野さんが余計恨みを募らせて言論活動を活発化させる可能性が排除できないからである。

もちろんこのせいでアカウントが停止されたかどうかということはわからないのだが、安倍首相らがわざわざTwitter社に手を回したり、電通が忖度したという込み入ったストーリーと少なくとも同程度には信憑性がある。問題はそれをツイッター社以外の人は誰も知らないということだ。第三者委員会のようなところに判断を委託した方が公平性は確保できるのだろう。

しかし、この件を批判する側が選んだストーリーは、日本の言論は圧迫が進んでおり、そのうち政権が「言論弾圧を行うようになるだろう」というものであった。そして、それを阻止するためにTwitter社に乗り込むべきだなどという人まで現れた。

この件の裏側には何があるのかと考えた。第一に被害者意識を持っている側のTwitter依存が挙げられる。Twitterは確かに便利な道具ではあるが唯一のプラットフォームではない。言論に対する攻撃ということを考えると、複数の言論装置を持っているべきで、1つの言論装置に執着するのはかえって危険である。だが、依存している立場からすると他にも使えるプラットフォームがあるという知識がなく、さらにそこに人々を動員する技術もないのだろう。だから人が多くいるところで騒ぐようになるのだ。


本題からは脱線するがミニコラムとしてネットワークの脆弱性について考えてみよう。

これが現在の状態。Twitter依存になっているので「悪の帝国」がTwitterを支配するとすべてのネットワークが切断されてしまうことになる。

プライベートなネットワークを混ぜたもの。一つひとつのネットワークは脆弱でも全体のつながりは維持されるので「攻撃」に強くなる。

実際のコミュニティは細かく分散している。ここで同質な人たちどうしがつながっているだけのネットワークは広がりに欠けるが、異文化間の交流(緑の線)があるとネットワークが強くなる。こうしたつながりを持ったネットワークは緊密さが増すのだが、これを「スモールワールド現象」と呼んでいる。だが、政治的なネットワークの場合「右翼の島」や「左翼の島」ができるので、それぞれのネットワークだけを見ているとあたかも自分の意見が世界の中心のように見えてしまう。

実際のネットワークは島を形成している。スモールワールド性がなく広がりに欠ける。

こうしたことを行っているのは左翼活動家だけではない。著名なジャーナリスト、脳科学者、政治学者などもいて「疑わしい」と騒ぎ立てている。もし本気で言論弾圧を心配するなら、今の装置も維持したうえで、自前のプラットフォーム「も」作り人々をそこに誘導した方がよい。

しかし、彼らが過剰に心配するのにも根拠はある。安倍首相は控えめに言っても大嘘つきでありその態度は曖昧だ。さらにマスコミの人事に介入したり抗議したりすることにより言論に圧力を加えているというのも確かである。さらに犯罪を犯したのではないかと疑われる人たちを野放しにし、国会審議を避けている。そのうち本当に人権が抑圧されるのではないかという人々の不安には根拠がある。

その上「解散を検討している」と言い残して渡米してしまった。マスコミでは解散が決まったなどと言っているのだが、実際には本人は理由も時期も説明していない。帰ってきて「いつ解散するって言いました」などと言いかねない。このように人々を宙ぶらりんな状態にして混乱するのを楽しんでいる。国民を1つにして安堵させるのが良い政治なのだとしたら、安倍首相の姿勢は悪い政治そのものである。不安を煽り対立を激化させているのだから。

このように考えると、戦うべき相手はTwitter社ではないということがわかる。実際には安倍首相を排除しない限りこうした不安定な状況はいつまでも続くだろう。ここで冷静さを失うのは得策とは言えないのではないだろうか。

Twitter社は日本の言論がサスペンデッドな状態に陥っており、政治プラットフォームとして利用されている現実を受け入れるべきだ。しかし、個人的にはあまり期待できないのではないかと思っている。

このように考えるには理由がある。個人的にアカウントを凍結された経験がある。もともとTwitterにはそれほど期待していなかったので自動で発言を飛ばすツールを利用していたのだが、これが規約に引っかかったらしい。「らしい」としかわからないのは、Twitterがなぜアカウントを凍結したのかということを言わないからである。ということで、機械ツイートを避けて時々関係のないつぶやきを混ぜることにしている。

最初は「面白い騒動だな」などと思って見ていたのだが、人々の根強い不安感を見て少し考えが変わった。本来なら政治が変わり、ツイッターが心を入れ替えるべきではあるのだが、他人を変えるのは難しい。できるのは正しいITの知識を持ち重層的なプラットフォームを構築することではないだろうか。人々はそのために自ら行動し、お互いに助け合う必要がある。

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人がブロックしたりブロックされたりするのを楽しむのはなぜか

前回、ある人のツイートを引き合いにして、北朝鮮と核についての一文書いた。が、ちょっと長めの文章なので、その人からは何の反応もなかった。今のところはブロックもされていないようである。だが、中には反論してブロックされた人もいるみたいだ。その人の名前をTwitterで検索するとブロックという用語が候補として出てくる。

何が違うのだろうかと考えたのだが、党派性が関係しているのではないかと考えた。この人のツイートを見てゆくと、社会党に対する強い反発心を感じる。これはコンテクストの集積になっていて一つの物語というか概念の塊を作っている。だからここに触れるものに対してアレルジックな対応が起こり、それを理性で包むとあのような対応になるのだろうと思われる。

もう一つの可能性は、ストーリーの一貫性にこだわる人がいて、社会党の主張がそれに対してノイズとして働いているというものである。実際の物語は多面体になっているので認知するためには複雑な知性が必要なのだが、多面体を扱えない人というのもいるのだろう。もっとも単純なのは陰謀のせいにして夾雑物を取り除くことだが、ある程度の知性が残っていると「理性的に夾雑物を取り除こう」とするのだろう。

どうやら、議論と対話は二重通信になっているようである。一つは論題そのもので、もう一つは待遇と関係性に関する通信だ。つまり、論題そのものは反対意見であっても、党派性は同じですよといえばこうした対立は起きないだろうし、待遇表現をつけてやれば相手は攻撃する材料を失ってしまうということになる。どちらにせよ、複雑な多面体は扱えないので、こうした要素は「ないもの」としてキャンセルされてしまうからである。

それでは複雑さとはなになのだろうか。それは認知力ではないかと思う。つまり、ある事象があったとして、それを自分の立場と相手の立場から検討した上でその関係性を把握しなければならない。だが相手は自分とは違う認知をしているということがそもそもわからないか、相手の立場から状況がどのような思考を与えるかということがわからなければ、そもそもそのような検討をすることはできない。

これは「努力していないからわからない」のではなく、そもそも最初からそのような認知力がないのだろうと思われる。

少なくともこのことから、北朝鮮ミサイル問題というのは別に彼らにとってはどうでもよいことなのだということになる。そこで改めてスレッドを見てみると、反論してきた人を諭したり論破してみせたりしていることがわかった。つまり、関係性をうまく結べないために、反論という形で相手を煽っているのだ。論題は一種の承認欲求を満たすための道具なので、利用できないとわかるとブロックしてしまうのではないだろうか。だが、それがコミュニケーションの稚拙さなのか、先天的な認知の問題なのかはよくわからない。

しかし、考えてみるとこれは異常な事態だ。なぜならば北朝鮮という隣国が核兵器を開発して日本に打ち込むことが可能なのだ。国連を中心にして経済的に結びついた世界では、主権国家が過剰な被害者意識を募らせて勝手に武装を始めるというのは想定していない状況であり、全体の秩序にとっては大きな脅威である。にもかかわらず、これを<議論>している人たちは、それよりも自分がどのように待遇されているかということの方が重要なのである。

いずれにせよ、こういう人はそもそも議論というものに意味があるとは思っておらず、単に「自分が承認してもらえるか」ということにしか興味がない。しかしそれは当たり前だ。そもそも相手が違う立場を持っているということがわからないからだ。議論というのは立場のすり合わせなのでそもそも議論は成立しない。

相手と一緒にアウトプットを作ろうとは思っていないのだから、こういう人たちと関わるのは問題解決という意味では時間の無駄である。ただし、関係を結んでおくと「トク」になる人もいるので、そういう場合には、逆らわずに頷いておくと良いのかもしれない。裏返しにすると論題についての態度は意思決定になんら影響を与えないからである。だから賛成しようと反対しようとアウトプットには影響がないのだ。

こうした事態に問題があるとしたら、それは別のところにある。それが絶望感である。

組織や集団に無力感が進行すると、すべての人たちが待遇をもとめて、問題解決をそっちのけにして議論を繰り広げるということになる。ここから生まれるのが党派の細分化である。コミュニケーションの稚拙さと絶望感がないまぜになった状態の例として昔の左翼運動がある。過激な左翼運動はやがていくつものセクトに分裂し、世間から見放されながら権力闘争を繰り広げた。「自分たちは世界を帰ることができない」という絶望感が内部に向かうと、つぶしあいが始まるのである。最近では民進党が自滅への道を歩み始めたが、実際に政権を担当してみて何もできなかったという絶望感が根底にあるのだろう。

 

 

Twitterにおいてブロックというのは自分がコントロールできる唯一の表現なので、待遇にこだわる人はブロックを多用するのだろう。が、こういう人が増えるのは問題解決によって状況をコントロールするのを諦めた人であるとも言える。

安倍首相は国際コミュニティを無視して、自分の方が北朝鮮よりえらいということを一生懸命になって証明しようとしている。かといって、自分で軍隊を持っているわけではないので、彼ができることは、国連安保理に泣きつき、北朝鮮を挑発し、アメリカをけしかけるだけである。

多分、ヨーロッパのリーダーたちは世界の秩序を維持することが自国の安定に重要であるということがわかっており、中国やロシアのリーダーたちはアメリカを牽制することで自国のプレゼンスを高めようという意識があるのだろう。だが、安倍首相は自分の政府すらコントロールできていないので、世界の秩序を維持するために日本がどう貢献するかということにまで頭が回らないのだろう。目的意識を失ったリーダーというのは恐ろしいもので、核不拡散条約を批准していないインドに原子力技術を売り込みにゆき、北朝鮮には核不拡散条約に従うべきだなどという主張をしている。

そのように考えるとこうした「自分たちは状況を変えられない」という気分は国のトップからかなり下の方にまで蔓延しているのではないかと思う。考えてみると、バブル崩壊以降何をやっても状況が変えられなかったわけで、こうした絶望感が深く根付いているのかもしれない。

高須克弥さんが<血迷っている>理由に関する考察

いつのころからか高須克弥さんのtwitterをミュートしていた。不快だからだ。だが最近頼みもしないのにいろいろな人が高須さんのTweetをRetweetしてくれる。ミュートしているので隠れているのだが、アカウントまで行くと読むことができる。きになるのでいくつか読んでみたのだが、やはり気持ちが悪くなった。

中でも気持ちが悪かったのが、香山リカという人に対して「日本人の名誉を回復してくれる人なら誰でも歓迎だ」というようなコメントを返していた部分だった。日本人は原爆が落とされて反省しているのにユダヤ人は虐殺されて反省していないのかなどというようなことを言っている。なお気持ちが悪いというのは「グロテスク」という意味ではない。論理的な整合性がなくても人は気持ちの悪さを感じるのである。

そこでこの人をどうやったら説得できるのかということを考えてみた。説得できないにしてもメンタリティがわかれば整理はできるかもしんない。だが、戦争の壊滅的な破壊行為のいくつかを比較してあれこれ並べてみても何も整理はできない。加えて「名誉」とか「反省」とはどういうことだろうか。日本人はそもそも第二次世界大戦について「俺たちが悪かったなあ」などとは思っていないのではないかなどと思った。いずれにせよ、この人の言っていることは「自分の意見が絶対的に通るべきなのだ」ということであり、論理的な裏付けや事実関係などどうでもいいのだろうと思った。

ただ唯一面白いなと思ったのは第二次世界大戦に関する日本人の被害者意識である。一方的に悪者にされているという意識があるのかもしれない。が、これは本当なのだろうか。

先日Quoraで第二次世界大戦について書いた。だいたいこんな筋である。

日本は遅れて植民地獲得に乗り出したがアメリカなどと対決することになった。アメリカは日本包囲網を作って日本の石油資源を枯渇させる作戦に出た。日本は外交と軍事の双方のパスを使って問題を解決しようとしたが最終的に軍事的な解決を選択した。官僚のシミュレーションでは、日本がアメリカと対決するとソ連の参加などもあり負けることがわかっていたが、官僚や政治家は戦争を止めることはできなかった。

こういう書き方をしても「日本人は戦争について反省していないのか」とは言われない。概ね事実であり日本にも事情はあった。また当時の国際社会では植民地獲得は犯罪行為ではなく、主権国家(これは欧米の独立国の特権だったのだが)の当然の権利とみなされていた。ここにアジアの国が挑戦することは国際社会への挑戦だと見なされてしまう恐れがあった。アジア人はタイのように自国に止まるか、中国やインドのように植民地を差し出すかの選択しかないと見なされており、キリスト教が世界を支配すべきだと真面目に考えられてきたのである。

しかし、これだけでは考察は不十分だ、日本は憲法に欠陥があり実質的に権限を持たない天皇が軍事組織と政治組織をそれぞれ別々にマネジメントする建前になっていた。さらに、総理大臣の権限が小さかったので、大臣たちが「閣内不一致」を宣言すれば辞職するしかなかった。政治勢力はまとまることができず経済問題の解決に失敗し、成果を挙げていた軍に対する期待も高かった。さらに日本人には集団思考に陥りやすいい傾向があり、主導者がいないままで「空気のように」戦争への関与がエスカレートしてしまった。つまり、日本だけが悪いわけではないが、システム上の欠陥やマインドセットの問題などもあり、戦争を止めることができなかった。

さらにそもそも戦争が持続可能でなかったのに加えて、植民地経営も下手だったようだ。満州国は日本と同等の国だということになっていたが、実際には日本人が満州国皇帝を指導監督し、現地経済を搾取するという露骨な植民地経営が行われたようだ。

つまり、日本が絶対的に悪者であって第二次世界大戦が引き起こされたというのは世界的に共通した視点ではない。しかし、やり方に稚拙な点が多く完全に弁護できるような状態でもなさそうである。にもかかわらず「日本の名誉が傷つけられた」と感じる人がいるのはなぜなのだろうか。

一つは東京裁判を通じて「日本の行為は戦争犯罪であって、これは絶対に受け入れなければならない」という占領国側のプロパガンダがある。これを植民地を持っていた国だけでやってしまうと価値の押し付けになるので、アジアの非独立国(フィリピンとインド)を巻き込んで「公平な」裁判を演出しようとした。だが、当時植民地だったインドの判事がこの一方的な歴史観に反発したことが記録に残っている。

しかし、これも結果的に先進国側が植民地を放棄して世界的な経済圏を作るという方向に進んだ。さらに賠償金の請求も手控えられた。つまり「ドイツや日本が悪かった」というメッセージとは裏腹に、誰かを一方的に悪者にすると戦争が終わらなくなるという認識があったのである。つまり、価値判断と実際に行われたことは少し違っているので、高須さんのいうような「名誉回復」は特に必要がない。

もう一つは中国と韓国が日本の抑圧から独立したという事情がある。彼らの支配の正当性を国民に説明するためには明確な敵が必要であり、日本の植民地支配にも良い点があったなどと言えるはずはない。親日と言われる台湾だが、とても特殊な地域だ。日本支配から脱した後に中国本土から逃げてきた人が現地人を抑圧した歴史があり、国民党の抗日プロパガンダがそのまま受け入れられるようなことはなかった。かといって「台湾は日本の支配に感謝している」というのは言い過ぎであり、よりまともだったくらいの印象だろう。

高須さんの話に戻る。そもそもあの戦争を冷静にみつめると、日本人の名誉が一方的に毀損されるというような事態にはなっていない。だが、中国と韓国の話ばかりを見ているとあたかも「日本だけが悪者である」というような印象を持ってしまうのだろう。サンプルが偏っているので地図が歪んでしまっているのだ。

その上地位が高くなると「俺が言ったことが正解になる」と思いたくなるのかもしれない。日本人は内的な規範を持たないので、相対的に地位が高かったり数が多いことで正解を操作できると考えている節がある。チャレンジするものが大きければ大きいほど自分の偉大さを仲間に誇示できるのだ。安倍首相が右翼雑誌で押し付け憲法感を披瀝し、麻生元首相が派閥の勉強会でヒトラーの動機は正しかったというのも同じようなメンタリティによるものだろう。これがソーシャルメディアに乗って流れることで海外からの批判を招くのだ。

欧米人は当然「内的規範に基づいて自説を開陳しているのだろう」と思う。つまり「この人たちは心底それを信じているのだ」と考えてしまう。そこで日本は戦前に回帰しようとしているのではないかというような感想を持つのだろうが、実際にはヤンキーが仲間内でタバコを吸ってイキがっているというような心情なのではないかと想像する。

高須さんの県で重要なのは実はカウンターのリアクションだ。加山さんのようにヒトラーは絶対悪なのだから反省しつづけろというと、なぜヒトラーのような人が生み出されたのかがわからなくなってしまう。同じように日本は絶対的に悪いことをしたのだから謝り続けるべきであるなどと言ってしまうと、集団思考の問題や統治機構の欠陥などに目が行かなくなる。

実際に集団思考によってなんとなくプロジェクトが止められないということは現代でも頻発しているので、実は第二次世界大戦の問題は現在とは無関係ではないのではないかと思う。

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憲法第9条はなぜ変わらなければならないのか

さて、今回は憲法第9条について考えたい。意外に思われるかもしれないが、憲法第9条は改正されなければならないと考えている。もともとは護憲だったし、人権に関する条項などはそのまま守られるべきだと考えているので広い意味では護憲派なのだが、憲法第9条だけは例外である。

なぜ憲法第9条は変わらなければならないのか。それは、設計思想が変わってしまった唯一の条項だからだ。

日本国憲法の設計思想は侵略戦争の禁止だ。戦勝国から受け入れてもらえるために日本が侵略戦争を行うことを禁止し、植民地を放棄させられた。当時はまだ国家の主権に「戦争をする権利」が入っていた時代だった。

その後、戦勝国は現在の体制を固定するために、戦争そのものを禁止した。日本は戦争に負けて主権が制限されていたので、憲法レベルでこうした操作ができる数少ない国の一つだった。もう一つの例外がドイツだったがこちらはヨーロッパの集団的自衛体制に組み込まれる。こちらの方はスキームがあったためにより新しい設計思想を取り入れることができたのである。

戦勝国にとって計算外だったのは、戦勝国が2つの大きなグループに別れてしまったことだったのだろう。このため二つの大きな国が自衛を名目にして戦争をするというスキームができてしまった。日本ではこれに合わせて後付けで自衛隊が作られた。自衛隊は東西冷戦を前提にした集団的自衛の一翼を担っているのだが、日本はあまり信用されていなかったので、日本の領域だけに活動領域が限定された。

設計思想が変わってしまったのだから、ここで憲法と自衛隊の役割は見直されるされるべきだった。が、日本はそれをやらずに乗り切った。大きかったのは岸信介総理が国民を説得するのに失敗し第反発を招いてしまったことだろう。国民を騙すような形で日米安保を改正し現在の状況を作った。のちの政権は国民の反発を恐れてこの件には触れられなくなった。司法も砂川事件で介入された歴史があり、この件については判断しなくなった。こうして岸信介の孫が首相になって憲法解釈をかき乱すまで、触れなくなってしまったのだ。

横道にそれて安倍晋三の功績を考えてみよう。安倍は無理やり理屈をつけて集団的自衛を解禁した。その他の私物化スキャンダルもあったので、集団的自衛は「ごまかし」ということになってしまい、今後また何十年も議論すらできない話題になってしまうかもしれない。祖父と孫は同じような禍根を日本の歴史に残そうとしているのではないだろうか。

ところが設計の前提はさらに変わってしまう。東西対立という図式がなくなってしまったのだ。だが、同時に核になる国もなくなった。「Gゼロ世界」などという人もいる。つまり、大きな巨大領域の中で反乱勢力が動くという状態になっているのだ。領域は統合されたが、中には主権国家が残っていて、国連は政治的には主権国家への干渉はできないという仕組みが残っているウエストファーレン体制というそうだが、1648年にできたスキームである。これが現在の矛盾のもとになっている。

例えばアフリカの状態を見てみるとこのことがよくわかる。国内政治が失敗すると抵抗勢力が現れるのだが、抵抗勢力は軽々と国境を超えて「国際紛争化」する。さらに混乱の結果、難民が流出し、周辺諸国やヨーロッパが混乱するのである。この抵抗勢力を戦争主体として位置付けるかというのは大きな問題になっている。

70年前の世界はそれぞれの国が国益のために行動すればよかった。つながりは限定的だったので、適当な相手と組んで軍事同盟を作ることもできた。ところが現在は、曖昧な枠組みの下で一つにつながったとても過渡的な世界になってしまっている。

こうした経緯があるから「戦争」と聞いて思い浮かぶことが人によって全く違ってしまっている。ある人は日本という国の栄光のために近隣国を武力で圧倒することが戦争だと思っているだろうし、別の人はアメリカが経済的利益を追求するために弱小国を傀儡化する手伝いをするのが戦争だと考えているのだろう。これが議論が曖昧になる原因である。

防衛で一番大きな説得材料は「中国が攻めてくる」というものだが、中国のような大国が日本のような大きな国に直接侵攻した事例は戦後70年の間起きていない。世界が緊密に連携しているために直接対決するリスクの方が大きいからだ。現在こうしたスキームに依存するのはもう失うものがない北朝鮮くらいだろう。周辺国に代理戦争させるというスキームはあったがこれすら過去のものになりつつある。

一方でアフリカ情勢などに興味がある人はほとんどいないので、現在型の戦争と呼べるかどうかがわからない状態について議論する人は少ない。アフリカでは南スーダンのほかにも中央アフリカで戦乱があるそうだ。

もちろん、アフリカは遠い地域なので、日本にはこうした厄介ごとから引きこもって、自国の防衛だけに専念するというオプションもあり、これは極めて合理的な選択だろう。あとは災害救助などに活躍する軍隊の装備を持った別の何かを作るという方向性もあるわけだ。

が、ここで考えるべきなのが日本国憲法のもともとの設計思想である。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

旧世代の戦争という概念を残しつつ、実はかなり国際協調を念頭において書かれていることがわかる。つまり、この憲法前文を尊重するという前提に立つのであれば、日本がどういう貢献ができるかということを考えて行かなければならない。今日言いたいのはこのことだけだ。

護憲派であろうとすれば憲法第9条を見直さざるをえなくなるのである。

国際的な経済協力についての憲法の規定はないので、皮肉なことだが軍事貢献だけがこの世界情勢の変化に影響を受けてしまう。外に開かれた唯一の条文なのである。

安倍首相の「積極的平和主義」という言葉はそれ自体は間違っていないということになる。彼が悪質なのは、こうした誰も否定できない題目を利用して憲法を私物化しようとしているという点である。そればかりか無能な防衛大臣を放置することを通じて、PKOを通じた国際貢献すらタブーになってしまうかもしれないという状態を作り出してしまった。

安倍首相は多分憲法前文を気に留めていないのだろう。韓国や中国を挑発して東アジアで協調関係をとるのを邪魔しているし、南スーダンに武器が流れ込むのを抑止する枠組みも黙殺した。さらに原子力爆弾を禁止して行こうという条約も無視したままである。

しかし、憲法第9条の擁護をしている人も日本国憲法前文をきちんと理解した上で世界情勢を見ているとは言えない。確かにすべての人たちがおとなしく現在の国際秩序に従ってくれればいいのだが、現実問題として紛争が頻発しており、何らかの対策が必要である。だから、戦争や争いごとという厄介な問題から目をそらしてはいけない。憲法第9条を守って前文の精神をないがしろにするということはあってはならないのではないだろうか。

憲法改正議論で重要なのは、国民が理解納得した上で憲法を変えてゆくということである。だから日本人が国際貢献をして憲法前文の精神を世界に広げて行こうという意欲がないなら、憲法第9条だけを変えても仕方がない。

現在、日報を隠したとか、報告を受けていたというようなことが問題になっている。これも元を正せば、設計思想が曖昧な上に法律を作ったことのツケなのだろう。稲田大臣はあまり質のよくない法律家なので、法律の設計思想が実は曖昧でそのまま実行するとエラーが起こるということを想定していなかったのではないだろうか。プログラムも法律も人間が作ったものにはバグがつきものなので、バグ取りはユーザーが行わなければならない。

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安倍政権は今度は何に負けたのか

稲田防衛大臣の件が大炎上している。巷では日報問題というそうだ。背景には安倍政権が政府の掌握に失敗したという事情がある。さて、安倍政権はなぜ政府の掌握に失敗したのだろうか。そもそも政府とは何なのだろうか。

このブログではこのところ、日本人は競い合いが大好きで、競い合いは集団の形をとるという仮説を展開している。つまり、個人ではなく集団単位で動くのが日本人で、その行動原理は競い合いだ。つまり日本人は毎日が運動会なのである。

この問題を解く鍵は「自衛隊」と「政府」の関係である。実は自衛隊は一体ではなく、統合幕僚監部と陸上自衛隊に分かれていることもわかる。PKOを指揮命令するのは統合幕僚監部だが、実際に行動して命を落とすのは陸上自衛隊だ。今回の情報リークには陸上自衛隊が関わっているという説が濃厚なのだそうだ。この事から防衛省の分断が問題視されている。

この件を自衛隊による神のクーデターだなどとわけ知り顔で言う人がいるのだが、そういう見方をすると状況がわからなくなる。PKOが成功して褒められるのは統合幕僚監部と稲田防衛大臣だが、実際に犠牲になるのは陸上自衛隊である。つまり、自衛隊も防衛省も一体ではないのだ。陸上自衛隊は現場から「もうこれは戦闘状態で命が危ない」というSOSを受けていた。しかし、これが報告されると統合幕僚監部と稲田防衛大臣が困る。だからこれを「なかったことにした」のだろう。

つまり内部リークがなければ「ジュバは平和でした」で終わってしまうことになってしまい、統合幕僚本部がいい思いをするので、情報がリークされたのだ。しかし、集団が組織の論理によって動くという事を知らない稲田大臣は自分がスターになろうとして「私が状況を掌握する」と大見得を切ってさらにポイントを稼ごうとする。だから、さらに炎上したのだ。

このような観測がある。

つまり、現場としてはせっかく警告を発したにもかかわらずそれが無視されたばかりではなく、一方的な悪者として処分されようとした。これで得をするのが誰かという話になり、それだけは許せないということになった。そこで「今回の監査は納得ができない」とマスコミに告げ口したのだろう。

日本人は何かの目的のために手段が正しく行使されているということには全く興味を持たないのだが、組織の競い合いにはとても敏感なのである。

安倍政権は組織を動機付けるのがとても苦手だ。この動機付けに関するスキルのなさこそが「ネトウヨ」性の本質なのではないかとさえ思う。そこで、組織の中の誰かに取引を持ちかけて組織を動かそうとする。「私もえこひいきされたい」という個人が協力を申し出る。

当初、やり方はとてもうまくいっているように見えていた。人事権を握って役職を差配すれば組織は動かせなくても個人は動かせる。日本の組織もこすればチートできるんだなあなどと思っていたのだが、とんでもない誤解だったようだ。誰かをえこひいきするということは当然悪者が出てくる。すると、その人たちはたまりかねて最終的には怒り出してしまうのである。

文部科学省の場合も組織防衛が前川蜂起の動機になっている。特区に反対した腹いせに天下り利権を取り上げたことで、文部科学省が「悪者にされた」と感じたのだろう。特区は安倍政権のお友達を優遇するための制度なので、これも集団と集団の争いということになる。

この件を見ていて面白いのは日本人が事実をどう扱うかということである。先の布施さんのツイートでは「真実」と言われているものだ。まず最初に集団という視点があり、その集団の利益が最大化されるようなファクトが事実として認定される。だが、別の集団には別の利益と視点があり、従って事実も異なっている。今回は、稲田防衛大臣と統合幕僚監部から見たファクトだけが事実として編集されて国会で固定化されようとしていたのだが、噂レベルで陸上自衛隊からの情報が入ることで事実が確定しなくなってしまった。

もう一つ重要なのが、個人の位置づけである。第一に集団をかばうための行動は美化されるが、個人の利益を確保する行動はわがままだと一蹴される。

さらに、事実の固定化も集団のフィルターを通して行われる。今回、日報の一つひとつのデータは「単なる個人の主観」として片付けられてしまう。毎日新聞は次のように書いている。

2月15日には岡部俊哉陸幕長から説明を受けた黒江哲郎事務次官らが、公文書ではない「個人のデータ」として非公表とする方針を決定したとされている。

つまり、個人がファクトを捕捉したとしても、個人の意見だというだけで簡単に切り捨てられてしまうということである。が、よく考えてみると現場を見ているのは自衛官だけなので、東京のオフィスで冷房にあたってパソコンのキーボードを叩いているだけの人のほうが事実をよく知っているなどということはありえないはずだ。つまり、日本人が言っている事実というのはデータの解釈であって、データそのものではないということだ。これを事実と呼んで良いのかというのはとても疑問である。

この事は、実は現場の自衛官にとって切実な問題をはらんでいる。南スーダンで死んでも戦闘で死んだとは絶対に言えない。統合幕僚本部と内閣の失敗だということになってしまうからである。だから彼らの死は事故死ということになるだろう。これは「靖国なき戦死」のようなもので日本人には許せないことなのだ。第二次世界大戦の戦死者の多くは餓死者なのだが、それでも祖国のために戦って死んだということにしてもらえれば、それが事実として定着する。日本人にとっては解釈だけが重要なのである。

ここから導き出されるのは、与野党の攻防も「言った言わない」の水掛け論になってしまうという予想だ。民進党も自分たちの利害に沿ってファクトを編集して事実を作り出してしまうので、視点が違うということが明らかになるだけで、誰かの言っていることが正しいということにはならない。これは日本という国家が分断されていて、日本にとっての解釈が定まらないからだ。

そして日本人はこうしたどっちつかずの状態をとても嫌う。これは内閣を不信任する理由になるだろう。自衛隊を送り出すリスクを永田町は扱えなくなる。つまり、今のままの状態で今後平和安全法によってPKOを派遣するのは難しくなったのではないだろうか。

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情報を鵜呑みにする人々の漠然とした不安

先日、Twitterで加計学園問題について言及したところ絡まれた。かなりムッとしてサディスティックな気持ちがよぎったのだが、ネガティブな感情は自分にはねかえってくる可能性が高いので、事情を聞いてみることにした。なぜ絡んでくるのだろうか。

そもそもの問題は何に怒っているのかがわからないということだった。これがこの手の人たちの特徴になっている。概して言葉足らずで特攻してくるのである。

こういうのは「私の話を聞け」という叫びなので、まずは整理する必要がある。どうやら、加計学園の問題について、加戸前県知事の言いぶんが取り上げられなかったのが悔しかったということらしい。一部、マスコミが取り上げてくれなかったという言説が飛び交っており、それを鵜呑みにしたのだろう。

問題はこの人がなぜ加計学園問題で安倍首相を応援しなければならないほど、心理的にアタッチしてしまったかということなのだが、いずれにせよ止むに止まれぬ気持ちがあるのは間違いないだろう。

加計学園を安倍首相が呼び込んで戦略特区にねじ込んだと思っている人も多いのだろうが、それは違っている。今治市が随分古くから獣医学部を誘致しようとしていたことは広く知られており、そこに応じたのは加計学園だけだった。だから、安倍首相がお友達を連れてきて今治市に「よろしく」といったわけではない。

しかし、だからといって安倍無罪ということにはならない。多分、加計学園には獣医学部を作るような実力はなかったし、そもそも永続的に学校を経営しようとしていた意欲があったかも怪しい。様々な無理を重ねる中で安倍首相が関与したことは間違いがないだろう。このことが様々な歪みを生じさせている。

さらに特区構想にも問題がある。諮問機関が自ら提案したプロジェクトを審査するというのも珍しくないようだ。その審査には関係する省庁の大臣が関与できない仕組みになっている。民主党政権時代の制度を悪用したのかと思っていたのだが、どうやらこれは安倍政権独自の仕組みのようである。首相がほぼ独断で利権を囲い込めるようなっているのだ。

いずれにせよ、野党の追求の見込みも正しくないし、かといって自民党の説明も正しくない。しかし、両陣営ともそれぞれのストーリーを持っている。反自民の人たちは安倍首相がすべてを指揮していたというシナリオにしたいようで、朝日新聞などはそのストーリーにとって夾雑物になる加戸前知事の発言を削除してニュースを伝えたという。一方、自民党の側も岩盤規制を突破しようとしただけだという無理筋のストーリーを押し通そうとしている。そのために、岩盤規制になんども跳ね返されてきたかわいそうな老人というストーリーを作ったのだろう。

実際には、いろいろな情報が出回っているので、その気になればそれを集めてきて自分で判断することは十分に可能だ。例えば銚子の事例から加計学園の実績を調べることもできるし、加計学園が安倍首相に近い政治家たちを支援してきたこともわかる。今治市の土地開発が行き詰まっていて、高速道路網から取り残された結果として地盤沈下が起こっていると訴えている人たちもいる。多分一時間もあれば、与野党のストーリーに無理があることはわかるのだ。

話を聞いてみると、絡んできた人は、どうやら「地方が衰退しているのに都市だけが優遇されている」ということに怒っているらしかった。つまり、自分が主張したいことがあり、それを主張するためにストーリーに乗っかろうとしている。しかし、今治の住人というわけでもなく、瀬戸内海の土地開発の事情や高速道路の状態などについては全く知識がなく、興味もないようだった。

そのことを指摘すると一転して「正解を教えて欲しい」と言い出した。考えてみるとこれは不思議なことだ。まずフォローもしていないのに検索ワードだけを頼りに「こいつは加戸前県知事の話を知らないに違いない」と思い込みいきなり突っかかってきて、話を聞いてもらっただけで「この人は正解を知っているに違いない」と思い込んでしまったのだ。

普段ないがしろにされている人はちょっと話を聞いてもらっただけで簡単に相手を信頼してしまうのかもしれない。だからこそ、ニュースで飛び交っているストーリーにいとも簡単に乗せられてしまうのだろう。

この背景には、自分が何に苛立っているかということが言語化できず、したがって相手にもそれを伝えることができないという事情がありそうだ。そうした状態で党派対立を見てしまうと、どちらかの陣営に簡単にアタッチされてしまうのだろう。あとは、パソコンかスマホの前に張り付いて、それとは違う発言をする人を叩いて、それを政治的議論だと思い込んでしまうのだ。

いずれにせよ、こうした人たちは簡単に騙されてしまう。多分、地方の衰退に苛立ちを感じていて「なんでも都市に持って行かれてしまう」と思い込んでいるこの人は、実は地方の窮状に漬け込んで補助金などを獲得しようとする人を応援するというような皮肉なことが起こるのだ。

自分で判断できないと悪意を持った人たちに先導されやすいのではないかと思うが、そもそも原因は、自分の欲求を言語化できないことにあるように思える。言語化できないとそれを分離して行動に変えられないので、集団の扇動に乗ってしまうのだろう。

背景には学校教育の問題があるのかもしれない。正解を次から次へと詰め込んで行くので、何にでもオーソライズされた正解があると思い込んでしまうのだ。例えば高校程度の授業で「先生の言うことや教科書に書いてあることは正しくないかもしれない」と疑うような授業はない。

日本人は今正解のない時間を生きていて、自らで何が正解なのかを考えなければならない。多分、与党も野党の正解は知らないのだが、他人のストーリーを振りかざしているだけでは、なんとなく不安な気持ちを抱えたままになってしまうのではないかと思う。

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説明責任と言論コミュニティの質

先日Quoraで説明責任について考えさせられるできごとがあった。説明責任をきちんと果たせば心地の良い言論空間が作れる。だが、それを維持するのが難しい。

韓国人は外国にものを売り込むのが得意だが日本がダメなのはどうしてかという質問があった。この違いが出るのは、韓国人が英語を話せるからなのだが、実は国内のマーケットの大きさが関係しているのではないかと思う。韓国は人口が少ない上に同じ言語を話せるマーケットがほとんどないので、海外に出たのだろうと書いた。

その時に、1970年代の人口を使って説明した。韓国は現在5000万人ほどの人口があるのだが、当時は3000万人に満たない程度だった。が、これにたいして「韓国の人口は5000万人なのに、なぜわざわざ1970年代の人口を使うんだ」というクレームが入った。

ネトウヨ系の韓国人だと面倒だなあと思った。これはつまり日本は韓国より大きいということを言っており、であるから日本のほうがえらいというようにも取れるからだ。

だが、一応説明を書いておいた。説明責任というのとはちょっと違うのだが、一応書いたから製造者責任くらいはあるだろう。多分、現在の人口よりも産業が起こった時代の人口の方が関係があるだろうと説明し、さらにGoogleで調べて書いているので(人口を調べるとグラフが出るのだ)変化はわかっていますよと書き加えた。

ほどなくしてupvoteされた。どうやら納得してもらえたようである。少し拍子抜けした。

拍子抜けしたのは日本語での(主にTwitterだが)の議論に慣れすぎているのだと思う。Twitterの議論は一方的な賛同か、敵意をむき出しにするものが多い。両極端のように思えるのだがどちらも人の話はあまり聞いていないという共通点がある。みんな「自分はすでに十分に知っている」と考えているので、説明などは求めておらず、自分の主張を一方的に展開するものになりがちなのだ。

一方、Quoraは「説明を聞いてから納得できなければ反論しよう」という文化が維持されている。議論が建設的になるというメリットがあるばかりか「何かあったら説明しなければならない」というよく説がかかり、書き手もいい加減なことを書けなくなる。さらに、システム側のモデレーションがあり本名でなければならないという規定もある。ただし、名前をチェックされるわけではないので、偽名にしても露見はしないかもしれない。

だが、一番大きいのは、質問者の質だろう。Quoraは英語なので、外国人の場合はある程度アカデミックなバックグラウンドがないと、情報そのものにアクセスができない。日本人が英語で書いているものもあるが、中には「英語がわかりにくい」という理由で後ろに表示されているものもある。つまり、論証した上である程度順序立てて書くことに慣れた人が書き込んでいる可能性が高いのだ。

ただし、こうしたサイトをいつまでも無料で続けるのはかなり難しいのではないかと思う。もでレーションが聞かなくなり、政治的に極端な意見が溢れるようになれば崩壊してしまう可能性もありそうである。

一方、Twitterは誰でも書き込める短文投稿なので、敷居が低き簡単だと思われがちだ。が、実際には詳細な情報を書き込めないので、誤解を生じないように書くのは極めて難しい。そもそも「どう誤解されるか」を予想しないと、誤解されないようには書けない。

さらに、日本人は公の場で発言をすることに慣れていないので、相手を説得するのに不利だなあと思うことがある。いくつかの点で劣っている。

  • 最初から立場を決めているので、客観性にかけると判断されやすい。
  • 敬語の距離関係を間違えている。
  • 議論ではなく一方的な主張になっている。

例えば、こういうツイートをいただいた。安倍首相に帰ってきてほしくないというのは同意見なのだが、こういう書き方をすると、あらぬ反感を持たれかねない。

絶叫調になっている上に、文脈が破綻して途中から自分の言いたいことを言っている。日本人は普段締め付けられている(自粛しているだけなのかもしれないのだが)ので、匿名になると、こういうことになりがちだ。左翼系の人にこういう人が多いのは、自分たちのやっていることが正義であり、当然受け入れられるべきだと思っているからなのだろう。しかし、こうしたコミュニケーション技術の欠如によって、政治にあまり興味がない人たちがいつまでたっても同調しない。そこで結果的に安倍政権が何年も続くという悪循環が生まれている。

さらに不幸なことに、こうした言い切り型のツイートは、実は今の政権中枢にいる人たちに影響を受けている。

どうやら「ぞんざいに書いたほうがえらい」という思い込みがあるのではないかと思われる。こうした「ぞんざい教」は意外と深く広がっている。例えば経済的にあまり豊かでない層の女性たちが子供達にこうした言葉遣いで接しているのをよく見る。一方ある程度教養のある人たちはそれなりの言葉で話すので、言葉の使用方法を聞いただけである程度教養がわかってしまい、乱暴な人たちのいうことはあまり聞いてもらえなくなるのだ。

この「ぞんざい教」の教祖は麻生太郎氏と安倍晋三氏だろう。麻生さんは多分育ちの良さを隠すために偽悪的に使っていると思う。一方、安倍首相は社会主義者や女性といった「弱者」を人間とは思っておらず乱暴な言葉遣いをする。そこで「地位の高い人たちは人の話を聞かず乱暴だ」という思い込みが生まれるのではないかと思う。

こうしたぞんざいで一方的な言葉遣いは教養のなさを示すスティグマになる。安倍首相が説明責任を果たさないのは、そもそも自分が何を議論しているかよくわかっていないからだと思う。つまり、知的に劣っているというスティグマになっていて、これが教養のある人たちに嫌われる原因なのだと思う。

つまり、使っている人たちは気がつかないが、たいていの人はこうした言葉遣いからは距離をおいてしまうか反発を強めてしまうのだ。社会的差別の一種なのだが、そういう差別は存在する。

議論の空間を作るためにはある程度のモデレーションとロールモデルが必要になり、トレーニングも欠かせない。そうしたトレーニングを受けるためにはお金と時間もかかる。日本語で生活しているとそうしたロールモデルすら得られない上に、悪い手本はいくらでもあるという状況があるようだ。それがさらに日常的な議論の質を下げ、悪い政治状況が変わらない原因になってしまっているのだ。

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「プロ障害者」を非難する人がいなくならないのはなぜなのか

先日来、Twitterに「車椅子は社会の迷惑だからすっこんでろ」という人がいなくならないのはどうしてなのかということを考えていた。最終的には、彼らは社会に愛されている実感がないんだろうという結論に達した。

社会には、なんのために生きているのかわからない人たちが大勢いる。会社に行けば部品のように扱われ流上に、やっていることの意味も社会のルールの意味もわからない。かといって、自分で社会を変えた経験もなければ、その意思決定にどう参加していいかもわからない。かといって理不尽なルールに反抗する勇気もない。いろいろな人に気をつかうが、自分に気をつかってくれる人はいない。かといってその苛立ちを誰かにぶつけることもできないし、その機会もない。

そんなときに別の誰かが社会から同情されていたらいったいどんな気持ちになるだろうか。それは車椅子の男性かもしれないし、子供を抱えたおかあさんかもしれない。彼らや彼女たちは社会に同情してもらっている上に、ルールまで変更される。

すると「自分は誰にも顧みられないのに、この人たちが愛されるのはどうしてか」と思うのではないだろうか。おまけにルールまで変わっているわけで、それはとてつもない特権に見えるだろう。

実際には不都合なルールがあればみんなで協力して変えて行けばいい。ルールは人を縛るためにあるわけではなく、できるだけ多くの人が幸せになるために存在するからだ。しかし、よく考えてみたら誰かもそんなことは教わらなかった。我々が学校で習うのは「規則だから守れ、それ以上は考えるな」ということだけだ。

自分はルールの奴隷なのだから、相手もそうなるべきだと匿名で主張してみる。なんとなく社会的に意義があることを言ったような気分になるし、ジンケンヤにひと泡吹かせることで自分にも影響力があるということが確認できる。

多分キーになっているのは社会的認知だろう。社会的に顧みられることには多分快感が伴っている。こうした仕組みは、人という動物が群れで暮らすに当たって協力関係を維持するために発達させたのではないかと考えられる。だが、社会に建設的な影響を与えられなければ、それが破壊につながることもあるということだ。

本来ならば、議論をすることで他人の人権を抑圧する人たちの態度を変容させることができるはずなのだが、これはあまり意味がないのではないかと考えられる。それはそもそも論題が「俺はなぜ愛されないか」だからだ。車椅子などどうでもよいわけだから、車椅子について議論しても仕方がないわけである。

そればかりか、彼らに対して反論すればするほど、彼らに餌を与えていることになる。だから、本来ならば、彼らに愛を向けてやるべきだし、そのような義理はないと考えるなら無視するのが一番よいのではないかと思われる。無視すれば社会認知による快感は得られないからだ。彼らは思ったような回考えられないから「都合が悪くなればだんまりですか」などというだろうが、それはアルコール依存症の患者がお酒をもらえないで暴れているのと同じような反応なのではないだろうか。

多分、他人の人権を制限したい人たちに躍起になって反論する人が多いのは、そうした人たちが社会の空気を支配することで、世の中が悪い方向に進むということを懸念するからだろう。

ここで、彼らが障害者の人と同じ飛行機に乗っっていたと仮定してみよう。障害者の搭乗に手間取って出発が遅れたとしても、彼らは文句を言わないはずである。彼らは名前と顔を晒して公共の場で「障害者よりも俺を優先しろ」などという度胸はないだろう。

だからといって、この状況に全く問題がないというわけではない。多分、一番深刻な問題は、社会から顧みられているという実感がない人が世の中に溢れていて、社会的認知を熱望しつつ、どうしていいかわからないという気分になっているということだろう。

第一の懸念は、社会に納得感がない人たちの生産性は多分それほど高くないだろうということだ。もしかするとかなり優秀な人の中にも、何のために働いているのかわからないと考えている人がいるかもしれない。それは現在の官僚機構をみればよくわかる。彼らがやっているのは、安倍政権の辻褄合わせだが、社会的には全く無意味である。石を積むようにして安倍政権を弁護するわけだが、その石を政治家が崩すという徒労を延々と繰り返している。ルールを作レル立場にいる人でさえそのような状況なのだから、普通の市民が徒労を感じるのも無理はない。

もう一つの問題は、こういう人たちを扇動するのはそれほど難しいことではないだろうということだ。冷静な判断力がなくなっているので、相手が困った顔をするような政策に簡単に賛成するだろう。実際にそうやって権力を得たいと考える政治家は出てくるはずだし、すでに現れているのかもしれない。こうした人たちがある程度のボリュームをもって可視化された時、それが社会に悪影響を与えないとは言い切れない。

こうした人たちが変わるためには「もっと社会から省みてもらいたい」というネガティブな感情も含めたアサーティブさを身につけることだろう。つまり「自分も社会に顧みてもらいたい」ということを社会にむかって押し出すことができて初めて、他人を大切にするということができるようになるのではないかと思う。が、これは日本人にとってはかなり難しいことなのかもしれない。

つまり、この社会に対して「もう疲れた」とか「やっていられない」と思っている人よりも、頑張って「やりがいがある自分」を演じている人の方が、実は「障害者はルールを守っておとなしくしていろ」とか「社会に迷惑をかけるな」などと言っているかもしれないのだ。

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