左右対立は実はイデオロギーの対立ではないかもしれない

本日は政治の左右対立について考える。この対立はイデオロギー対立のように見えるのだが、実は年代対立ではないかというお話である。

この文章は、最初に対立が年齢対立であるということを示した上で、なぜそうなったかを書き、最終的に日本人のものの見方について短く考える。全部で3000文字程度あるので、途中で読むのをやめても一向に構わない。

先日来「自衛隊を国軍にしてもよいのでは」という文章と「安倍首相がサンドバッグのように叩かれている」という記事を二日続けて書いた。するとアクセスする人たちの年齢構成に変化があった。前者を書いた時に18歳から34歳くらいまでの読者が顕著に増えた。ページごとの年齢構成まではわからない(多分ページビューが足りないのだと思う)のだが、多分「自衛隊を国軍に」という主張が右派的な主張に見えたのだろう。

いわゆる「ニュースジャンキー」と分類される人たちは自分の主張と合致した記事を次から次へと読みたがる。だから、この傾向はしばらく続くものと思われる。だが、次の日にはまた34歳より上の人たちが伸びていた。彼らは「安倍首相が叩かれている」という記事に反応したのだろう。それぞれの年齢で読みたがる記事が違うのだ。

このことから、いっけんイデオロギー対立に見えているのはたんにデモグラフィー上の対立なのだかもしれないと思った。普段、日本人はイデオロギーなどの対象物には興味を持たず、人間に興味を持つのではないかと書いているのだが、その仮説がまた補強されたことになる。

実際に若年層の政治動向について調べている人たちの間でも、若年ほど安倍政権の支持率が高いことが観測されているようだ。イミダスの「若年層の内閣支持率はなぜ高い?」は次のように分析する。

まず、年長世代とは違い、若年世代は安倍内閣という政治的光景が標準的なものになった、言い換えれば、他の政治状況を少なくとも経験的には知らない世代と見なすことができるということです。安倍首相は戦後の歴代首相の中でも、長期の政権維持を続けていることは紛れもない事実です。この層には、安倍政権こそが日常の光景であり、安倍内閣になれ親しんでいる世代であるということです。

東洋経済も「若者の自民党支持率が高くなってきた理由」という分析記事を書いている。この記事で特筆すべきなのは、それぞれの世代が最初に見た失敗を強烈に覚えていて、それだけで「あの政権はダメだ」と考えているということだ。自民党政権が不安定だった時のことを覚えている人と小沢一郎が民主党政権をかき回したことを覚えている人で政治に対する見方が全く違っており、日本人の減点主義をよく表している。日本では、一度失敗したものが再び浮かび上がることはない。

バブルの最終期に就職した人たちが子供の頃、日本をよく言う人はあまりいなかった。戦後第一世代の親を持っている世代で「日本式」というのはつまり脱却すべき戦時体制を意味したからである。親からそう聞かされいたという人もいたかもしれないが、テレビの子供向け番組でも旧弊で時代遅れの日本を脱して豊かで進んだ西洋流の個人主義を受け入れるべきだというようなメッセージが流れていた。

面白いことに当時の日本人は外国人からダメ出しされることをとても喜んでいた。「イザヤ・ベダサン」という自称ユダヤ人の書いた「日本人とユダヤ人」という本が300万部を超えるベストセラーになったこともある。この筆名をよく読むといささか下品な日本語になっている。著者は著名な日本人の評論家だった。

いずれにせよ、多くの人は「日本人」はだめな存在だと信じてるのに、自分たちはそのだめな日本人に含まれるとは考えていなかった。つまり日本人というのは自己像ならぬ他己像だったのだ。

なぜ、中高齢者にとっての日本人が他己像なのかというのは興味深いテーマだ。個人で追求したい理想と集団での現実が乖離しているせいなのかもしれないと思う。実際にバブル期に入社した人たちは、内心では個人主義に憧れを持っていても、どちらかというと個人を抑圧する側に回っているのではないだろうか。一方で若年層では集団そのものが壊れていて、いざ帰属集団を求めると日本人という漠然とした集団しか思い浮かばないのだろう。

政治状況は日を追うごとに劣化している。確かに昔の政治家が全て立派だったとは言わないが、今の安倍政権ほどひどくはなかった。先に引用したイミダスのコラムでは「若い人には安倍政権はデフォルト」と書かれているのだが、高齢の世代にとってはかなり劣化した政権であることは間違いがない。しかし、若年世代にとっては先行きが見えないのに内紛が続く民主党政権こそ不安の象徴なのだ。

このように、ポストバブル期のあとの就職氷河期世代とゆとり世代は全く異なった世界観を持っている。若年層といっても自民党末期のゴタゴタと民主党末期のゴタゴタを覚えている人たちの差は数年しかない。こうして細かい違いが積みかさなっている上に他世代への反発もあり、政治的な意見が形成されているのだろう。だから、政治的な諸課題について相手を説得しようとしても無駄なのだ。

戦後生まれた「日本を脱却して西洋基準に従おう」という運動は屈折した形で「ダメな日本を攻撃する人たち」という民主党政権に行き着く。民主党は「ダメな日本人」という他己像を自民党に重ねてテレビで宣伝することで支持された政党である。いったんはこれが受け入れられたものの民主とは統治に失敗する。あくまでも他己像なので詳細に日本人性を分析せず、同じ罠にはまってしまったのであろう。そしてそれを今度は次の世代が攻撃する。言語化してみるととても不毛な論争だ。

さて、このくらいの文字数で若年層は脱落しているのではないかと思う。あくまでも統計的にみればだが、「国軍化」の滞留時間は2分程度であり「反安倍」の人たちの滞留時間は4分だった。じっくりと長い文章が読めていた時代の人たちと比べると、若い人たちはもはや長くて複雑な文章は読めない。これは能力差というより環境の差ではないだろうか。かつては図書館にこもってじっくり本を読んだ人が多かったが、現在ではスマホがあり注意力は普段から分散している。

安倍政権は短いフレーズを連発しヘッドライン作りを得意としている。一方で立憲民主党の主張は文章を読まなければわからない。政治的経験だけでなくリテラシの問題も両者の乖離を大きなものにしている。いずれにせよ、中堅の域に入った人は若い人に何かを伝えたければ1分以内に読める文章を箇条書きで書くくらいでないと伝わらないと考えた方が良さそうだ。「説明すればわかってもらえる」などと考えてはいけないのだろう。

そもそも世代間対立なのでトピックはそれほど重要ではない上に情報処理の仕方も違っているのだから、両者が折り合うことはなさそうだ。

日本人がかつて語っていた日本人論は「自己像」ではなく他己像なのではないかと書いた。これが揺り戻しを受けているのが過剰な日本擁護なのだが、これも自分たちのことではなく、実は上の世代への反発を投影したものにすぎないということになる。

こうした対立に魅せられてしまうと、そこから「利点と欠点」を洗い出して冷静に見ることができない。我々のような一般の庶民もそうだが、分泌を生業にしている人たちの中にも対立に溺れている人たちが少なくない。自転車操業的に思索を繰り返しているうちに対立に取り込まれてしまうのだろう。

ここまでで3100文字程度なのだが、ここまで読むことができた人たちは、こうした心地の良い不毛な対立構造から抜け出して行く努力をし、できればそれを自分の周りに伝えて行くべきなのではないかと思う。

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これは何かおかしいぞと思うことの大切さ

このところ、日本の村落構造と不安社会について考えることが多くなった。数年前に危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)という本を読んだ時には、これからは市民レベルでリスク対応がくるなどと思っていたのだが、日本の場合どちらかというと「よくわからない漠然とした不安」に苛まれているのではないかと思える。人間はいつまでも不安な状態でいることはできないのだから、これを解消する方法を探さなければならない。

不安の原因はどこにあるのだろうか。いろいろなニュースを見ていて思うのは「あれ、何かおかしいぞ」とは思うものの、それが言語化できないことが多いという事実である。すぐに解決策が見つかるというわけでもないのだが、こうした言語化できない問題をあれこれと転がしているうちに、なんとなくいとぐちが見つかるケースも多い。

泰明小学校問題の場合には「地域にとって小学校とは何なのか」ということを考えると良いいうことがわかった。コミュニティは現在の繁栄だけを問題にすべきではない。未来に向けて投資しなければやがて縮小していってしまうからだ。この縮小の予感は不安の原因になる。泰明小学校を抱える銀座は次世代に対する寛容性を失っており、背景は銀座の社会的没落も関係しているようだ。これまでの繁栄の理由がわからないので、銀座の価値が「ブランド物のお店が多いこと」になり、高価な服装を子供に着せれば銀座っぽくなるという狂ったソリューションが出てくるのである。

佐賀のヘリコプター墜落事故は、本来国を守るはずの自衛隊が住民の財産を壊しているという問題である。一人の住民の財産が守れないのに国全体が守れるはずはないので、何かおかしいということがわかる。その背景には「機材の老朽化」という問題があり、そのまた背景には防衛省の人たちがまともに器材選定ができていないという事情があった。そしてこの構造は在沖縄アメリカ軍の問題とも共通している。アメリカ軍もまた予算の縮小と士気の低下に悩んでいるのである。

この二つの事例からわかるのは「本来の目的」に着目すれば、答えは見つからないかもしれないが、問題そのものはある程度分析できるということだ。問題が見つかればあとは解決して行けば良いだけである。これを裏返しに展開すると「本来の目的がわからなければ、問題が分析できない」ということを意味している。こうした事件・事故・騒ぎの報道を目にして「なんだかおかしそうだ」とは思いつつも、なんとなく「よくわからない」と感じるのは「本来の目的」がわからなくなっているからなのかもしれない。

もちろん相撲協会のように「本来の目的がわからない」問題もある。相撲はスポーツなのか神事なのか興行なのかがわからなくなっており、それに伴った混乱が見られるようだ。しかし、その背景を見てゆくと、相撲が興行として成り立たなくなるにつれて、いろいろな目的を「でっち上げて」きたことがわかる。もともと相撲はラジオの勃興とともにメジャーになったようなのだが、他のエンターティンメントやスポーツとの競争に勝てなくなり経済的に行き詰まった。しかしそこで相撲を面白くする努力ではなく「公益法人化」を目指すようになり、後からガバナンスの問題が出てきているということになる。

組織は経年劣化する過程で本来の目的を見失う。すると組織や社会は暴走する。この本来の目的を「本分」などと言ったりする。泰明小学校の本分は地域に向けて開かれた教育を提供してコミュニティの維持発展に寄与することであって、おしゃれな小学生を集めて街の飾り物にすることではない。自衛隊の本分は地域を守るということであって他国を威圧して尊大な気分に浸るものであってはならない。また相撲の本分は伝統神事を模した真剣勝負を見せることによって観客を楽しませてお金をもらうということであるはずなのだ。

しかしながらニュースを受け取っている人も「何が本分」なのかがわからなくなっていることが多いようだ。そのために議論が迷走することがある。相撲の場合は特に顕著でテレビに相撲ファンと称する人たちが出てきてそれぞれの質問に自分たちが満足できる答えを出してゆく。しかしそれはその場その場の反応でしかないので、全体として像を結ばない。テレビのワイドショーはCMを売るためにこれを延々と流している。

自衛隊の問題ではこれは部族間闘争に発展している。自衛隊は「地域を守る」という本分を持っているのだが、自衛隊そのものが自己目的化すると「大義を守るためには一人くらい犠牲になっても構わない」などと考える人が出てくる。実際に家を破壊された人は心ない中傷にさらされているとも聞く。このニュースに関心を持つ人の多くは、特に日本の防衛には興味がない。単に左翼・右翼の部族に別れて相手を叩きのめすことが目的になっている。当事者同士の闘争なら「勝手にやってくれ」と言えるのだが、「辺野古を二度蹂躙するな」で書いたように、当事者になった人たちは彼らの抗争に巻き込まれて二次被害を被る。辺野古もそうだったし、今回家を焼かれた人もそうなりつつある。

こうした現状を見ていると暗澹たる気持ちになるのだが、救いもある。本分がわからなくなったことからくるニュースを見て「なんだかわからないけれどもおかしいぞ」と考える人は多いようだ。こうした人たちが検索をしてニュースについて考えることが増えている。「あれ、おかしいぞ」という洞察や直感は最初のレベルでは正しいことが多いのではないだろうか。もちろん、そのあとでいろいろな物語を「まとう」ことでおかしくなったりもするし、抗争に参加することでいったい何を話あっていたのかがわからなくなる場合もあるのだろうが、少なくとも最初の洞察というものは信頼しても良いのではないかと思う。

「あれ、これは何かおかしいぞ」という気持ちを持つことは社会にとって意外と重要度が高い。不安を解消するための第一歩はこの「あれ?」という違和感を大切にすることなのだろう。

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日本の村落構造に関する一応のまとめ

これまで日本の村落構造について書いてきた。最初にこのタグがあらわれるのは2017年12月なのだが、ページビューを稼ぐために時事ネタを含めこともあり

かなり複雑化している。本人も何を書いたのかわからなくなっているので、過去に考えたことをまとめた。

そもそも村落とは何で村落の何が問題なのか

日本人は社会を村落として理解している。村落は空間的に閉じられた自明の空間であり、村人は個人ではなく集団で利益の獲得を目指す。村落構造では序列がはっきりしないので、常に影響力を誇示するための競争と緊張関係がある。

実は村落構造で序列がはっきりしない理油は書いていなかった。後述するように日本人は個人を嫌うので強いリーダーシップを持った指導者が出てこない。このため中心が空白になり、そのために権力抗争が横行すると考えられる。これは中空理論として知られており、ロラン・バルトと河合隼雄がそれぞれ別に考察しているとのことである。

村落のメリットはその中に安住していれば経済的な見通しが立ち安心感が得られるというものである。この安心感は代えがたい。村を出た人がこれを再構築することは難しいほどだ。

村落の欠点は変化に耐えられないということである。村落が外部からの変化にさらされて経年劣化を起こすと村人に利益を分配できなくなりいろいろな問題が起こる(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)ことがある。さらに村落を出てしまった人のマインドが変わらないと村落で得られていた安心感が得られなくなり、個人が言葉では表現できない不安に直面することもある。

この安心感が得られないことは日本人にとって問題が大きいのだが、この問題もあまり中心課題としては触れてこなかった。もともと全く意思疎通が不可能な他者や急激な変化に対応してこなかったため、日本人はリスクを極端に嫌う。不確実性を避ける傾向はG.ホフステードによって観察されている。しかしながら、どうしてもリスクを受け入れなければならなくなると、今度は「安全神話」を作ってリスクについて考えなくなってしまう。日本人が美しい山や川の代わりに作る理論は多かれ少なかれ安全神話を含んで硬直化する。

もう一つのデメリットは個人のなさである。村落で個人が立ち現れるのは村八分にされた時(貴乃花親方事件小室哲哉不倫報道問題)だけである。つまり、個人というのは罰なのである。個人の意見が取り入れられることはなく、社会的な制裁の対象になる。今回の考察の中ではこの個人のなさを問題視している。なぜならば西部邁の自裁権問題で考えたように個人で考えることは創造性の第一歩になっているので、個人がいないということは社会から創造性が奪われるということを意味するからである。さらに、社会を作るための起点も個人なので、個人が意見を持たないということは社会が作られないことを意味するからである。

最後のデメリットは権力構造が安定しないために起こる恒常的な闘争だ。最近では「マウンティング」と呼ばれることも多く、窮屈な人間関係やいじめの原因になっている。

村落とマウンティング

村落内部の序列は意思決定に関わる声の大きさで決まる。そして序列を決めるのは当人同士ではなく周囲で見ている人たちである。このため村人は当事者同士だけではなく他の村人からどう見えているのかということをいつも意識している。こうしたことが起こるのは村にリーダーがいないからである。例えば、クラスでいじめが横行するのは強い規範意識でクラスを引っ張るほどのリーダーシップがある生徒がいないか、先生が監視者・仲裁者としての役割を果たさないからなのだ。

ときには、村人に自分の影響力を誇示するために合理的ではない要求を出して人々を罰したりすることがある。これを序列構造の下方から見たのがいじめである。こうしたいじめは例えば主婦や学生の間でも恒常的に行われている本質的な行為だし、職場では権能を利用したセクハラやパワハラがなくならない。現在ではこれを「マウンティング」と呼ぶことがある。学校は学問を教える場ではなくいじめを通じたマウンティングを学ぶ場所になっている。(いじめをなくすにはどうしたらいいか)いじめをなくすためにはこうしたマウンティング構造そのものを解体する必要がある。

しかし、はあちゅうさんの童貞いじりで見たように村落構造もその行為の意味も当事者には意識されないので、日本人はそこから抜け出すことが本質的にできない。はあちゅうさんは女性としてこうしたマウンティング社会の被害者だといいつつ、一方では性的魅力や経験に欠ける男性をいじめていたのだが、それを意識して同じ問題であると捉えることはできなかった。いじめの構造は社会を勝ち抜いてきたはあちゅうさんの中に完全に内在化されていたのである。

言語化して意識されないならいじめをなくすためには社会構造そのものを解体するしかない。つまり、パワハラをなくすためには会社を解体しなければならず、クラスのいじめをなくすためにはクラスそのものをなくさなければならないということになる。

新しい村落の構築

村落は所与のものであり、日本人は価値を提示して新しい社会集団を作ってこなかった。そもそも個人がないので新しい価値観が提示できない。つまり、村落の価値観や安心感の源は言語化されない。

安心感を無理に作ろうとすると原理主義的な極端な物語が生まれる可能性がある。不確実性を無視した物語を作ろうとするからだ。さらに、物語は自分の中から生まれてきたものではなく、貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題で見たように過去の主張から大きな物語を作るか、創価学会と共産党で見たように外国の先端の思想から表面的な部分だけを持ってきて自分たちの物語に付け加えることになるからだ。

もちろん物語の構築にはメリットもある。例えば個人が好き勝手に解釈すればいいのでコンフリクトが表面化しない。さらに矛盾したものを糊のように含むこともできる。例えば、憲法改正議論で見たようにアメリカへの軍事的依存を前提としつつも自分たちで憲法を書き換えたから独立国であるということも言えてしまうのである。つまり、全く同じ内容をコピーして書いたとしても「アメリカに言われて書いたのと自分で書いたのでは違う文章だ」といえてしまう。

一方で、本質的な理解を伴わないので村人の理解を伴わない。だから複雑な問題を扱えないという問題も抱えている。安全神話によって物語を構築してしまうと、扱えない問題を全て排除しなければならない。現在の日本には安全保障問題だけを見ても「日本は神の国だから絶対に勝てる」「憲法第9条があるから外国は攻めてこない」「アメリカが背後にいるから中国には絶対に負けない」という三つの安全神話がある。これは、北朝鮮が「核兵器さえ持てばもう安心」だと思うのに似ている。「地震の可能性を排除してしまえば原発事故は絶対に起きない」と考えるのにも似ている。また安倍首相が「アンダーコントロールだ」と宣言したから福島の廃炉作業がうまく行かなくても特に気にならない。日本人は福島の事故からは何も学ばなかったが、これは私たちが持っている基本的なリスク対処方法だからである。

仮説を先に立ててしまい現実をそこに合わせようとするのだから現実にうまく対応できない場合がある。例えば、他者との区別のために「自分たちで決める」ということを優先すると、自分たちだけが決められるのは結局滅びることだけなので、三島事件および西部邁と自裁権利で見たように急速な崩壊に向けた欲求が現れることにもなりかねない。

議論の関心と焦点

村落でそもそも所与のものである環境と利益分配構造が関心を集めることはない。しかし、議論のオブジェクティブ(対象物)は環境の規定と利益の確保と分配なのだから意識にずれが起こる場合がある。意識がずれると当事者同士が何を話し合っているのかということがわからなくなり、他者からも理解されないので議論がますます錯綜する。

例えば、議論が村落的なマウンティングに使われることがある。つまり吉田茂と岸信介の憲法議論TPP論争で見たように「自分たちは聞いていないからそれには反対だ」などと言い出すのだ。しかし、こうした論争も対象物に対する議論を偽装するのでますます本質がわからくなる。

日韓の慰安婦問題とアメリカの存在で見たように、村落の争いは実は当事者に向けて行われているのではなく村の衆に向けて行われていることもある。()こうした村落的議論は村ではなく例えば国際的コミュニティでも行われることがある。そのため、何について争っているのかよくわからないことがある。

落とし所のない議論の中には議論の本当の関心と対象物の間にずれがあることがある場合が多い。

集団と個人

価値観による社会統合ができない日本人には損得勘定をめぐる集団しか作れないのだが、利益追求は集団を通じて行われる。利益追求は時間的空間的に個人が得られる利益を最大限にしようということになる。これが崩れると組織の統制がとれなくなる。利益還元には時間的に幅があるので変化に耐えられない(貴乃花親方事件と日馬富士暴行問題)のだ。また、利害に関係がないとなると、集団に関心を寄せなくなる。するとプロジェクトから人が逃げ出すか(東京オリンピック豊洲移転問題)冷笑とバッシングが起こる(荒れるTwitter)ことになり議論がますます起こりにくくなる。もともと議論の目的が問題解決ではなくマウンティングと利益確保だからである。

日本人は集団を通じた利己主義によって組織統制を行っているのに、利己主義が非難されるのは、集団が経年劣化すると集団を通じた利益追求ができなくなり誰かを犠牲にしなければ存続できなくなるからだ。

村落のガバナンスを取り戻すためにはガバナンスができるように集団を縮小して利害関係を単純化するか、個人が価値観をすり合わせて集団を作る「社会」へと移行しななければならない。このときに硬直的な原理を取り入れてその場しのぎの対応をすると変化への対応はますます難しくなり場合によっては集団が破綻することがある。

出口の一つは個人が価値観を言語化して集団で共有することだが、日本人は本質的に個人を社会に向けて打ち出すことを嫌う。

例えば、日本人は社会の一員になるときに個人を捨てなければならない。Twitterを匿名化するか一切の政治的な意見をつぶやかないようにするというのが普通だ。このため日本人は表に出る人に対する潜在的な恨みを持っている。

経済的に利益をもたらしてくれる間はちやほやするが、一旦気に入らないことがあると集団で圧力をかけて社会的に葬るか潰してしまう(小室哲哉の不倫騒動)ことになる。またテレビでもいじめがエンターティンメントの一部になっており(浜田雅功の黒人フェイス問題ベッキーの不倫いじり問題)こうした集団的な圧力には商品的な価値がある。日本は集団に同化して言葉を失った代わりに集団で無言の圧力をかけて個人を潰してしまう。

すると、個人が村落構造を変えるための議論ができなくなり、村民はますます不安にさらされることになる。不安の正体は先行きが見えないことではなく不安を言語化して客観的に捉えることができないという点にある。

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日本人の政治的議論が折り合わないわけ

噛み合わない議論に巻き込まれた

先日書いたアイヌ民族についての文章に反論が来た。読んでみたのだが何が言いたいのかさっぱりわからない。最終的にはTwitterで返信をもらったのだが要領を得ない。引用はやめてほしいと言われたので、まとめると次のようになる。

「アイヌ民族などいないという文章は気に入らない」「読んでみると合意できる点も多いのだが」「やはりアイヌ民族などいないという文章は世間に悪用される可能性がある」

実際にはもっと長い文章で、散発的に二時間くらいかけて送られてきたので「こんなに短くまとめる」ことに対して反発はあるかもしれないのだが、実際の論理構成はこんな感じなのである。

最初は理解しようと思ったのだが、散発的に送られてくることもあり、途中で読むのが面倒になってきた。文章を書いた以上は話を聞く義務があると思うと反面、もうちょっと効率的に反論してくれればいいのにとも思った。

だが同時に、日本人特有のある構造がわかって面白いなとも感じた。

この人が問題にしているのは文章ではなく「周囲の評判」のようだ。この人は普段から「アイヌ民族などいないから補助金は返すべきだ」という主張について反論している。だから、このブログのタイトルにも反応したのだろう。

だが、冷静に考えてみるとこの文章を否定しても周囲にいる「アイヌ民族などない」という人たちの意見を変えることはできない。このように、対話をしている当事者と実際に問題になっている人が違うというのは実は日本人の政治議論を考える上でかなり重要なポイントなのではないかと思った。

日本人の会話が噛み合わない独特の構造

これがこの人特有の問題なのであれば特に文章を起こそうとは思わなかったと思うのだが、同じような特性は左翼リベラル系の人たちに多く見られる。

憲法第9条の<改悪>に反対している人たちに、例えば「あなたが想定する戦争とは何か」とか「憲法第9条には項目がいくつあるか」などと聞いてもまともな答えが戻ってこない。同じように共産党の支持者に「現在の労働者は株を買って資本家になれるし、正規労働者の組合はむしろ非正規を搾取する立場なのでは」などと聞いても同じような曖昧な答えが返ってくる。

どうやら彼らは対象物についてはさして興味がなさそうだ。最初は自分が部外者でリベラル村の住人ではないから「相手にされていないのだな」と思っていた。

  • まともに返事をくれないのだから、部外者扱いされてまともに取り合ってもらえない。
  • 相手に質問を理解する能力がない。
  • 実は相手は対象となっている項目に関心がない。

しかし、今回の場合、反論してきた人はトピックについて勉強はしているわけだし、まとまった文章を書いて反論してきたのだから意欲はあることになる。にもかかわらず同じような特性が見られるのはどうしてだろうか。

この人と話をしていて思ったのは、実は「あなた」ではなく「世間」が問題なのだということだ。つまり話を聞いてあげているつもりになっていても、実は最初から問題にされていないのである。

同じように憲法問題について話を聞いても、護憲派は実は話を聞いてくれない人に向けて語りかけているので、僕の顔など見えていなかったことになる。と同時に、話を聞きに来た人を説得しないのだから、いつまでたっても状況は変わらない。だから、日本のリベラル左翼の運動はあらかじめ失敗することが約束されているのではないだろうか。

何重にも世間に絡め取られている日本人

ここまでがワンフォールド(一折)である。これだけでも十分ややこしいのだがここにもう一折入る。それが日本人は個人の意見はなかったものとして考えるという特性である。例えば、人権や平和主義について考える時「私はお互いに思いやりのある国に住みたいから、人権を蹂躙するような発言には憤りを感じるのです」と言えばよいのだが、日本人は個人が意見を持つことを徹底的に嫌うので「世間はこうあるべきである」という風に課題をおいてしまう。

論の根拠というか出発点が「世間」に置かれており、さらに説得するのも「世間」なので、当事者同士で話をしても全く折り合いようがない。「世間」の意見が変容するとしても意見を変えるのは個人なので、意見変容が起こらないからだ。「Twitterの議論は無駄」という話はよく聞くが、その理由は当事者がそこにいないからなのではないだろうか。

今回も「アイヌ問題があなたにとってどう大切なのか」ということを聞いてみたのだが、やはり世間を主語にした言葉が返ってきた。さらに「何かの団体に属しているわけではなく」「世間にどんな波紋があるかわからない」ので自分の意見を発信する意味はないという言葉までが戻ってきた。

普段から「日本人は個人を徹底的に否定する」などと書いているのだから、こうしたことはわかっているつもりなのだが、実際に自発的に徹底して個人を排除しようとする姿をみるとやはり異様に思えてしまう。政治的にあるポジションにかなり強力にコミットしているのに、なぜここまで個人を消したがるのかということがさっぱりわからない。

この徹底的に個人を排除するという姿勢は「意見表明」や「情報発信」では顕著である。これは表面的に見えるのでわかりやすい。しかしその裏には意見訴求の相手としての個人も受け入れられないという側面が隠されているようだ。これが今回の一番の発見だった。

ところがここでさらにもう一折入る。個人の意見が何もないのにポジションにこだわるのは「自分の主張がどの程度受け入れられるか」ということが社会でのポジションの誇示につながるからだろう。だから、根拠が個人にない意見を表明してポジションにコミットするとそれを変えられなくなってしまう。社会ポジションを認知するのも当事者ではなく「世間」である。

さらにこの世間は個人の価値観の中にも入り込んでいる。主婦には社会的な価値はないという世間の評価を一番内在的に持っているのは主婦当事者だ。そこで「子育てをしている女は無価値である」という評判を聞くと「全てが否定された」気持ちになる。

ここまで考えてきただけでも、日本人は四重に「世間」に絡め取られていることになる。実際には個人の価値観と世間の評価の間には反響があるのではないかと思う。このようにして、世間はある蜘蛛の巣のように個人をからめとっているのではないだろうか。

憲法議論の錯綜

さて、この個人の徹底的な排除は政治議論にどのような影響を与えるのだろうか。ここではいくつか例をあげて見て行きたい。

まず手始めに憲法議論について考えてみよう。実利的な問題には落とし所があるが憲法問題は自由に決められるので却って落とし所が見つからなくなるという特性がある。

安倍首相はどうやら憲法を変えたいと思っているようだ。だが彼の成育歴を紐解くと「おじいさんのため」あるいは「お母さんから言われたから」憲法が問題になっているということがわかってくる。つまり人から言われたからそうしたいと考えていることになる。

やっとのところでそれを自分の問題だと消化したところで、今度は周囲から「勝手に憲法を変えようとしている」と言われる。そしてそれを言っているのは主に身内である。

だが、自民党の人たちが憲法を大切に考えているようには思えない。支持者を得るために急進的な人たちに近づいた形跡のある人もいるようであり、安倍首相の人気が高いから従っておこうと考えている人たちもいる。

そこで、集団でなんとなく何か変えればいいのではないかということになる。あるいは野党時代に作ったように誰が主導したのかはわからないが徹底的なルサンチマンによって成り立ったドラフトもある。この結果、自民党の憲法議論は、誰も最終的な責任を取らず撤回もされなければそれを元に議論するでもないというとても中途半端なアイディアが次から次へと浮上してくる。

さらにこれに反対する方も「議論の中身はよくわからないが」とにかく「自民党が言い出したことが気に入らない」という人たちがいて「自分の意見ではないが」「別に実質何も変わらないのなら憲法を変えなくてもよいという空気がある」などと言っている。

ここまででも十分複雑なのだが、この二つのパーティーの間の議論は実は当事者間のものではない。憲法に興味がなくなんとなくその場の雰囲気に飲み込まれて判断しそうな「一般有権者」が問題になっている。賛成派はタレントを巻き込んで宣伝すれば世間が流されるだろうと考えており、反対派は有権者は馬鹿だから軽々な判断をしないように釘をさしておこうとする。

つまり、皆が重要だと言っている憲法を本気で変えたいと思っている人は誰もいない。興味がない人がいかに自分に都合が良い判断をしてくれるかということを期待しているという人ばかりが議論に参加しているのである。

日本人が無駄な議論を繰り返しているうちに、憲法第9条の議論だけを見ても、前提条件になる東アジアの勢力図は急速に変わりつつある。ここ一年だけを見ても数ヶ月の間に北朝鮮を封じ込めるという姿勢から対話路線へと急速に転換しつつあるのだが、国内の議論がそれを織り込んだ様子はない。

「国際世論への訴求」という不毛

この「実際のキーパーソンが議論の中にいない」問題は国際問題にも波及している。例えば慰安婦問題も韓国と日本の問題のように思えて、実は当事者は「アメリカ」だろう。日本政府は、韓国や慰安婦の人たちにはさほど関心はない。このために、謝罪がとてもおざなりになものになり「日本は金で口封じをしている」という印象が韓国人の態度を硬化させる。

ここまでは主語を日本人と置いてきたのだが、実は韓国の方も日本を問題視しているわけではなさそうだ。だからサンフランシスコに銅像が立つ。韓国人の目的もまた「被害者としてのかわいそうな姿勢を世界(特にアメリカ)にアピールして「日本人の顔に泥を塗ること」なのだろう。

そう考えるとなぜ日韓合意にアメリカが関与したのかがわかってくる。どちらもアメリカに対して自分たちの立場を認めさせたいのではないだろうか。

このことから「世間を問題にする」というアプローチをとるのは何も日本人だけではないということがわかる。極めて東アジア的とも言えるしもしかしたらアメリカなどの個人主義の国にも同じようなことが起こり得るのかもしれない。

アメリカなどの個人主義の国には、世間の態度を変容させるために個人の意見を変えるというブレーキがある。日本や韓国のような集団志向が強い国ではこうしたブレーキが効きにくいのではないかと考えられる。多分アメリカは「当事者間で話し合ってくれ」というのだろうから、この慰安婦の問題が解決することはないのかもしれない。

解決策を個人を大切にすること、なのだが……

ここまで見てくると「個人の意見を重要視すれば政治的な問題は解決する可能性が高い」ということがわかる。一人ひとりの意見を変えて行けば、やがて世間も変わるからだ。だが、実際に政治的議論をやってみるとそもそも個人として問題提起するのも難しく個人としての意見を貰うのも困難だということがわかる。

もちろん、適切なモデレーションがあればそれなりに意見交換することはできるのだが、それはとても疲れる作業でもある。このためついつい「問題をなかったこと」にして異なる意見をブロックしたり、相手を人格攻撃したり嘘を並べてたりして議論そのものを無効化しようとする態度が横行するのではないかと思った。社会からはじっくり腰を据えて議論をする余裕や時間はなくなっており、気に障る意見は次から次へと流れてくる。

個人にアクセスしないかぎり政治的な問題は何も解決しない。そのうちに年収が200万円以下というアンダークラスや、政治的議論に参加する時間的余裕も精神的余裕もない中間層などが生まれて、どんどん政治や社会問題に対する関心が薄らいで行く。さらに、それがアンダークラスを増加させるという悪循環が生まれるように思えてならない。

個人の意見を大切にしないということは、実は我々の社会に大きな弊害をもたらしているのではないかと思う。

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反論の技術

ブログを書いていると時々反論がくることがある。だが、反論の中身を読んでみてもよくわからないことが多い。最初のうちは少し忖度して「こういう意味ですか」などとやっていたのだが、これはあまりよいやり方ではないようだ。たいていの場合相手は怒っているので、さらに「お前はわかっていない」とやられてしまう。だが、これはまだ良い方で本当に何を言っているのかわからない人も多い。

このような経験を積み重ねるうちに反論する技術がないと相手に反論していることすら伝わらず、単に不毛な言葉のやりとりになってしまうのだなと思うようになった。

そこで改めて反論の技術について考えてみたい。いろいろと書いているのだが、読んでもらえなさそうなので、短くまとめた。


  • 一晩置く
  • パーソナルに取らない
  • Twitterは使わず、適切なメディアを使う
  • 構成を考える

リアクティブな反応は一晩置く

第一の技術は「技術」というほど大げさなものではない。自分の考えと違ったものを見ると即座に反論したくなるのだが、それはまとまりを欠く場合が多い。つまり、一晩置いてよく考えた方がよいと思う。もちろん、ニュースのコメンテータのように瞬発力で生きている人もいる。同じように即座に反論を書いてもそれなりに通用する文章が作れる人もいるのだろうが、こうした才能に恵まれていない人や経験の乏しい人が真似するのは難しいと思う。少なくとも僕にはできそうにない。

さらに、いったん反論を書いたら相手の論を見直してみるのも重要かもしれない。意外と「あれ、本当はそんなこと言ってないな」というものも多い。

もちろん、すべてのテーマについて冷静で居られるわけではないのだろうが、本当に大切で伝えたいと思うならできるだけ冷静になった方が良い。

パーソナルに取らない

次のコツは個人的に取らないということである。これには日本人独特の難しさがあり、別にエントリーを立てて今回の事例とともに考えたいと思う。個人的に取ってしまうと「否定されたらどうしよう」と思ってしまい、なかなか思い切った文章が書けない。練習するなら、あまり自分とは関係がないトピックについて意見を書く練習をすればよいと思う。

中には個人攻撃を仕掛けてくる人もいるが、少なくとも学術的には反則行為だし、そもそも合意するつもりもないのだろうから放置しても構わないと思う。「反論がないということは負けを認めるということなんだ」なと言いたがる人もいるが、そもそも勝ち負けではない。

議論の対象になるのは、例えば「日本は核武装するべきか」とか「アイヌ人は存在するか」というトピックであって、その議論を行っている人の品評会ではないということは覚えておくべきだろう。

Twitterは使わない

Twitterは便利なメディアだが討論に向かない要素がいくつかある。試しに今回の人はTwitterで書いてきたが途中でまとまりがなくなり、論が最初に戻ってしまった。どうやら、論の途中はあまり主張とは関係がなかったようである。

このことから、できればTwitter意外の効果的なツールを使った方が良いのではないかと思う。ここであらためてTwitterの不便な点をまとめてみよう。

  • 文章が細切れになる → まとめて書くことができるツールを使う
  • 書き直しができない → 自分に編集権限があり推敲できるツールを使う
  • リアクションが追いにくい → コメント欄、ピンバック、いいね、リツイート数を使ってリアクションが追えるようにしておく

Twitterはレスポンスがすぐに戻ってくるのでサウンディングのツールとしては使いやすいと思う。情報収集には向いたツールだ。実際に、政治家の中にはサウンディングのツールとして利用している人もいる。少し無茶なことをつぶやいてみて反応を見ているのだ。

オンラインには無料で使えるツールがいくつもある。Wordpressも無料版があるし、Tumblrも利用できる。オウンドメディアであっても月々ワンコイン程度で利用できるものは多い。特に社会運動的な要素のあるものなら同じ興味関心を持った人たちを集めて情報発信すべきだろう。

なお、このブログについているDisqusもミニブログのように使える。単にコメント欄だと思われていることが多いようなのだが、実際には作者ごとの発言が追跡できるし、もちろん気に入らなければ書き直しもできる。つまりオウンドメディア(自前のメディア)がなくても自分の意見が書けるようになっている。ただし、Disqusは他人のブログを使っているので、掲載権はブログの持ち主にある。まとまった意見があるなら自分のメディアを持つべきではないだろうか。

構成を考える

構成を考えることは重要である。今回は反論なので立場を提示してそれに対してどのような意見を持っているかということを最初に書くべきだろう。そのあとに理由を付け加えて行くと良いのではないかと思う。

反論の場合はわかりやすいのだが、実は賛同に見える方が実は厄介だったりする。賛同しているように見えても勘違いをしているのではないか思える意見に遭遇することがある。重要なのは前提条件である。つまり、ポジションは対象物に対する仮定(たいていの場合事実と呼ばれる)によって成り立つのだから、その仮定も同時に明示してやるべきなのだ。

反論および賛同に必要な要素を挙げてみよう。

  • トピックの提示
  • 相手の意見の再確認
  • 相手の意見に対する自分の意見(立論)
  • 前提条件や理解の提示
  • 立論をサポートする論拠を複数
  • 結果の再確認とまとめ

意外と自分が考えている世界観は相手と共有できていない。自分がどう解釈したのかということを提示したり仮説について再提示するのは意外と重要なのではないかと思う。仮説や価値観が違うなら結論が違っても止むをえないのだから、たとえ答えが違っていてもそれを結論を許容する理由になる。

文章を書き始めた当時には何にでも使える魔法のようなルールがあるのではないかと思っていたのだが、そのようなものはないようである。文章の構成にはいろいろな形があり、それを使い分けることになる。

もちろん、俳句の型のような簡単な構成というものはある。ポジションを提示した上で理由を3つ付けて補強し最後にもう一度自分のポジションを提示するというものだ。

  • 立論とその背景
  • 理由
  • 理由
  • 理由
  • 結論

確かに、このやり方をとると簡単に論をまとめることができるのだが、実際にはこのようにはいかないことも多い。相手の言い分からも学べるところがあったり、討論の対立構造に再考の余地がある場合があるのだ。小池百合子東京都知事が流行らせた「アウフヘーベン」である。実は枠組みが思考を支配しているということが多く、枠組みを変えてみることでもっと自由な思考が得られたりすることもあるということだ。

構成を考えるのに特別なツールはいらない。白い紙を出してきて思いつく要素を並べてゆくのがよい。どうしてもパソコンが使いたい場合にはマインドマップアプリを利用すると良いだろう。その場ではまとまらなくてもしばらく時間が置くと再構成ができていることが多い。いったん形にしてしまうとそのあとでも脳が「裏で計算」してくれているようである。

反論はなぜ重要なのか

以上で反論の技術についての考察は終わりである。ここでまとめに代えて、なぜ反論が重要なのかということについて考えてみたい。理由は三つある。

まず、反論の第一の目的は相手に自分のポジションをわかってもらうことである。閉鎖された村のようにみんなが同じ価値観を持っているのならその必要はないが、価値観が多様化した現在では自分の立場を理解してもらうことは重要である。

加えて、反論には相手に知らない知識を与えるという役割もある。もちろん職業的な言論人の中には生活のためにわざと複雑な事情を無視して単純化している議論を繰り広げている人もいるわけだが、そうでない場合には情報を与えることで意見を変えたり同居ができる程度に折り合いがつく可能性もあるのである。

この二つは相手や社会のための行為なのだが、実は反論は自分のためにも役立つ。ある程度構成のある文章を書こうとすると調べ物をしたり言葉の定義を整えたりする必要が出てくる。すると、自分が考えていたトピックについてさらに詳しく知ることができる。

例えば「憲法第9条を守るべきだ」という文章を書くならば、その前提になる戦争について調べるはずである。自然と「自分が考えている戦争というのは一体何なのか」ということを考えざるをえなくなるはずだ。単に勉強会に参加して他人の意見を鵜呑みにしているだけでは前提に踏み込んで物事を考えることはないだろう。

このように反論にはいくつもの利点がある。何か自分にとって大切な問題があるなら、建設的に反論をする技術を身につけるべきだと思う。

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ネトウヨは弱さ

ネトウヨというのは何かとイライラさせられる存在なのだが、近すぎて冷静に判断ができない。だが、海外の同種の人を見ていると少し冷静に観察することができる。

Quoraで「日本人には銃の所有を認められているのか」という質問があり、ちょっとした皮肉も含めて刀狩りについて取り上げた。日本では1600年までに民衆の武装解除があったので今では安全な国になっていますよと書いたのだ。書きはしなかったがアメリカは400年遅れていますねという含みがある。

すると反論が来た。めちゃくちゃな反論を見ると少しイラっとするのだが、同時に「ああ、ネタができたな」などと思ってしまう。

この反論はところどころはあっているのだが何かが間違っている。完全な空想によってできた話ではない。事実がパッチワークのように散りばめられているのだが、それが空想というパテによって埋められている。この反論の筋書きは、刀狩りで武器を取り上げられたから日本はファシストの国になり今では自殺大国になったというものだ。

安全な国でないのに武装解除をするとその国は野蛮で抑圧的になる。日本の農民たち激しく怒っており、武器をあきらめたわけではなかった。銃器が禁止されたのは支配していた将軍が危険を感じたからだ。農民は抑圧され個人の自由はなかった。

この圧政は第二次世界大戦まで続き、暴力的なファシスト制度になった。結果的に何百万人もの日本人が殺される大惨事を招いた。

今日では政府とヤクザだけが武装している。組織化された犯罪者が多くの人を殺しているがこれは警察により隠蔽されている。

日本人が抑圧に満足していないのは明白だ。個人の自由がないので創造力が欠如している。さらに、銃を必要としない自殺が蔓延している。

日本が第二次世界大戦に突入したのは日本人が抑圧されていたからではない。仮に戦前の政権がファシスト政権だったとしてもそれは不完全な民主主義制度の結果である。なんとなく、スターウォーズの最初の最初の三部作の世界を想起させるが、これがアメリカ人が考える個人の自由のない国の姿なのだろう。

実はこの反論は「自分たちの国で銃犯罪が蔓延しているのにそれを止められない」という無力さの裏返しになっているのではないかとも考えられる。それを正当化するために「それでも自分たちには自由がある」と思い込みたがっている。だが、それだけで不安が払拭できるわけでもないので、普段見聞きしている断片から「日本は抑圧されていて惨めな国だ」として相手を落とそうとしているのである。

この姿は日本のネトウヨに通じるものがある。ネトウヨが信じたがっている中国人は共産党政権に抑圧されているかわいそうで貧しい人民だろう。最近の中国でこうした画を撮ることは難しいので北朝鮮の画が代わりに使われたりする。

高度経済成長きにも同じような思い込みはあったが、中国や北朝鮮を攻撃するということはなかった。なぜならば、高度経済成長期の日本人は成長だけを見ていたので、ヨーロッパやアメリカの先進性にばかり目が行っており、中国を気にすることなどなかったからである。

いずれにせよ、アメリカ人が日本を貶めたところで(もしそれが真実であったとしても)問題は解決しない。

確かに日本人は人生にあまり満足しておらず、自殺が多いのも確かである。だが、それは我々の問題なので外国人には関係がない。と同時にアメリカに蔓延する銃で大量殺人に苦しんでいるのもアメリカ人の問題なので関係がないといえば関係がない。

一つこちらが間違っていたとすれば、他人の問題に首を突っ込んだことなのかもしれない。

こうした我々とは今後関わることがないであろう人の書き込みを見てもあまり苦痛に感じることはない。さらに日本の歴史について教えるのも時間の無駄にしかならない。そもそも日本には興味がないだろうからだ。

同じことがネトウヨにも言えるので、相手にしないのが一番なのだが、ネトウヨの書き込みをみるとイライラして反論したくなるのだろうか。それは「みんなが同じように感じているのではないか」という焦りを感じるからではないかと思う。例えば、中国が攻めてくるから日本も軍隊を作って先に攻撃しなければならないなどという話を聞くと「みんながそう思ったらどうしよう」などと感じてしまうのである。

だが、実際に問題なのは実はこの人たちではない。普段から政治を見ていて思うのは、実際の敵はこうした人たちではないのではないかということである。むしろ、興味も関心もないから動かないという人たちの方が問題なのではないかと思う。ネトウヨにいくら反論しても無知からくる思い込みを変えることはできない。

例えば「低所得になるのは自己責任だ」という話があるのだが、実際に問題になるのは漠然とこうした話を信じており自分たちの思考の枠組みを変えない人たちである。いくら憲法がすべての人に文化的な生活を保証してもこうした人たちの思い込みを変えないかぎり憲法の精神は生きてこないのだ。

ネトウヨというのは自分たちが解決できない問題を直視する代わりに相手を貶めたいだけなのだということがわかる。こうした「ネトウヨ性」は日本だけのものではなく、アメリカでもヨーロッパでも観測できる。Twitterを見るとこの手の<議論>が蔓延しているので、なんとなく相手にしたくなるが本来の敵はそこにはいないのではないかと思う。

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はあちゅうさんの議論とマウンティング社会

はあちゅうさんという女性がTwitter上で<議論>を展開している。全く無駄な議論でとても不快な気分になる。その一方で、いったい何が不快なのかということを考えてみてもよくわからない。

彼女は過去に受けた性的被害を告発し、相手もそれを大筋で認めている。しかし、過去に「童貞いじり」をしていたことを暴露されて「返り討ち」にあってしまった。性的被害の告発運動である#MeTooがしぼむことを恐れた支援者たちは、性的被害と童貞いじりを別に考えるべきであるというデカップリング論を唱えたというのが、大体のことの経緯である。

このことからまず日本人は「それはそれ、これはこれ」という議論を好むことがわかる。つまり対象物が動く。これは西洋流の議論では邪道だが、日本ではそうは見なされない。つまり、日本流の<議論>は人物が固定されており、事象が動くのだと言える。これは、はあちゅうさんは「女性の味方」だし「男性が性的な経験を元にいじられても特に問題にならない」だろうということであり、はあちゅうさんを正当化することで同じ属性である女性の権利が拡大するだろうという理屈であり、構造としては筋が通っている。

しかしはあちゅうさんは、極めて擬似近代人的な自意識を持っているので「これは議論を展開しようとしているのだ」と開き直った。多分、ここが不愉快さと違和感の原点なのではないか。この擬似近代人的な自意識を作ったのは田原総一郎だが、彼の「議論ができる社会」は西洋型の問題解決を前提としたものではない。はあちゅうさんはこれを見事に引き継いでいる。

田原総一郎は今でも徹夜で<議論>を戦わせる番組をやっている。これが人気なのは日本の村落的な話し合いの空間に近代的な意識を組み合わせることに成功したからだろう。

この番組は実は問題解決を前提としたものではなく、保守村とリベラル村の人たちの村落内での位置をめぐる小競り合いであり、課題には意味がなく、’参加することに意味がある。つまり、日本にはまず集団があり、どの集団に属してどれほどの発言力を持つのかということを延々と競っているのである。ここから降りることは領土を失うことなのだが<議論>にさえ参加していれば、ニッチが得られ、全く問題解決ができなくても言論界で食べて行けるということである。その証拠にこれだけ議論が白熱しても日本が抱える政治的な問題は何一つ解決していない。

同じようにはあちゅうさんがやろうとしているのは<議論>を歓喜することでマスコミに取り上げてもらうことだ。実際に朝日新聞が#MeToo運動についての記事を書いている。つまり議論そのものを継続する必要があり「童貞いじりがどこまで許されるのか」を決めようと提案している。これがいかにめちゃくちゃな議論なのかということは、問題をずらしてみるとよくわかる。

例えば「ハゲいじり」はどこまで許されるのか<議論>することを考えてみよう。高橋克実のようにハゲを隠していない人ならいじってもいいのか、それとも本人が認めるまで黙認すべきなのかを熱く語り合うことはできるだろう。また、西洋人のようにイケメンならハゲてもよいのかというディスカッションもできる。当事者たちのインタビュー記事を交えて面白く構成すればそれなりに社会的に有用な読み物ができるだろう。だが、それは何かを解決するのには全く役に立たない。

また光浦靖子のように不美人を売りにしている人をいじっていいのか、それともそれは人権侵害なのかということを<議論>してもよいかもしれない。指をさして笑うのはいいが、叩くのはダメというルールブックを作ることも可能である。光浦さんも洗練されてきてしまっており、彼女の「商品性」が損なわれていることが是か非かを話あうこともできるだろう。これも同様に何の役にも立たないし、教室や職場で不美人であることを理由にいじめられている人たちにとっては何の救いにもならない話し合いだ。だが、本は売れ「不美人評論家」の仕事は増えるかもしれない。

議論として意味があるのは、女性の社会進出に伴って性的な被害が増えてきているということである。実際に女性たちは問題に直面しており、これを社会的に解決することで彼女たちが社会貢献できるチャンスを増やすことができる。つまり、西洋的な議論というのはなんらかの目的意識を持っている。だが、日本の議論にはそれがない。なぜならば話し合うことそのものに意味があるからである。強いて重要な点をあげるとすれば、誰が何をいい、誰とつながっており、どの程度受け入れられているかということである。

ここから翻ると、はあちゅうさんの<議論>は、群れの内部での彼女の地位を上げるための行為であり、西洋的な議論とは言えない。これがはあちゅうさんの議論が極めて「村落的である」という理由である。 しかしながら、何が「村落的」なのかというのは、感覚的にはわかってもまだその輪郭がぼんやりしている。

いずれにせよ、群れの序列を上げるために大騒ぎしてみせるという行為は、実は日本人にとっては極めて自然なものだと言える。これが学校内で行われているのが「スクールカースト」である。スクールカーストは教室という閉じられた空間の中で行われる地位をめぐる争いである。地位をめぐる争いが行われるのは、地位そのものの基準が曖昧であってなおかつ不安定なものだからだ。地位を確保するためには常に相手を監視し、カーストをあげる戦いであるマウンティングに参加していなければならない。

ここで、前回みたはフィントンポストの高校生の「いじめは楽しい」という記事を思い出してみよう。いじめに参加している人たちはみなその行為を楽しんでいるように見えたからいじめはなくならないだろうと言っていた。彼はそれを遊戯のように見ていたのかもしれないが、実は日本人にとってこのマウンティングこそが本当に大切なことなのかもしれない。つまり、学校はいじめというマウンティングを習得するための場であり、学問というのはそのマウンティングの一要素でしかないということになる。

この狂った認識からすると、学生の本分はいじめということになる。もっと詳細にいうと、実際に行われているのはいじめではなくマウンティングによる地位の獲得闘争である。つまり、いじめには犠牲者もいるが、カーストを勝ち取った勝者もいるということだ。だから、学校をなくすか、集団行動をなくさない限りいじめはなくならないし、闘争に負けた人には逃げ場がないのだから、人生そのものから脱落するしかない。

はあちゅうさんのような「キラキラ女子」はこのマウンティングの勝者であると言える。だから議論も「問題を解決する」ものではなく、自分のコミュニティでの地位を確認し、できれば上に上がるためのツールなのであり、そのために童貞をいじめても何の罪悪感も持たないのだ。

このマウンティング理論を使うと、例えばネトウヨがリベラルをいじめて喜ぶのはどうしてなのかとか、護憲派リベラルの担い手であるべき人が実は憲法第9条が何項あるのかを知らなかったこともよくわかる。つまり、日本人にとってロゴスは立場をあげるための道具でしかない、ロゴスそのものには大した意味はないのである。

ここまで見てくると「村落的」という言葉が何を意味しているのかだいぶはっきり見えてきたのではないだろう。

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護憲派リベラルは息をしているのだろうか?

政治についての記事をよく書いている。安倍政権に批判的な記事が多いので「反安倍」の人が多いのではと勝手に思っている。世の中で「リベラル」という人たちである。だが、その人たちからの声が聞こえてくることはない。リベラルは息をしているのだろうかとよく思う。

いろいろ考えると、日本人が考える政治論議というのは、西洋的な教育を身につけた人たちの考える政治て議論とは違っているのではないかと思える。しかし、その論理的な構造を当事者たちから聞くことはできない。そこで、いろいろな人の話を聞いたりする必要があるのだが、Twitterには政治的議論が溢れており、ついにはお笑いタレントもこの分野に「進出」してきている。

一方、リアルな世界で実際に政治的議論をしている人を見たことがないし、Twitterで政治議論をしている人も「文才がないからTwitterに断片的なつぶやきを書き込む意外できない」と堂々と発言する。文才がないのではなく意欲がないのだと思うのだが、意欲がないのはその議論にそれほどの意味を見出していないからだろう。そこで、さまざまな断片を切り取って、なんとなくそれらしい形を作り出してゆくしかないと思いつめることになる。

いろいろ考えを巡らせてゆくと「村落的思考」という単語が浮かび上がってゆく。なんとなくわかったように感じられるキーワードではあるのだが、何か村落的なのかということはわからない。

先日、ある市民系の団体の前を通った。ポスターに「憲法第9条を改正すると戦争になる」と書いてあったので、なぜそうなるのか聞いてみることにした。ポスターを掲示したりレターを配ったりして宣伝しているのだから「待ってました!」と言わんばかりに人が飛び出してくるのかと思いきやそうではなかった。

時々立ち寄るその事務所は、老主婦のサークルのようになっており実はあまり政治に詳しい人はいない。時々若いお母さんたちも参加しているようだが、子育てが終わると「卒業」してゆくらしい。残るのは卒業のない介護などに携わる人たちだけだ。つまり、彼女たちの主な関心事は老後の不安解消と子育ての問題解決である。その他に環境系(割り箸を集めたり、原発に反対したりしている)などをやっている。そういう現場が「護憲運動」を支えているのである。護憲運動は忘れられた彼女たちの運動なのである。

なぜ憲法第9条を改正すると戦争になるのか、その留守番の人は知らなかった。民進党が分裂した先の衆議院選挙で誰を応援するか聞いた時「知らない」と答えた人たちなので、まああまり期待はしていなかった。

ところが、知らないのはそれだけではなかった。実は憲法第9条に一項・二項があることも知らなかった。ということは当然安倍首相が何を主張しているか知らないということになる。なぜならば安倍首相の提案は現行の二つの項目にもう一つを追加しようというものだからである。

面白かったのは(いつも彼女は興味深いことを言うのだが)「この事務所に詰めているんだから、ちゃんとわかっていないとダメなんでしょうけどね」と言っていたことだ。女性がこういう時には「同調圧力はあるが」「私は興味がない」という意味であることが多い。つまり、個人としての意見はないが、護憲村に住んでいるから私は護憲であると言っているのである。

これは西洋的な政治の文脈では無知蒙昧な戯言だが、日本的な村落共同体ではむしろ当然の感覚と言える。ここで異議申し立てをすると「村八分になってしまう」かもしれないが、もともと興味もないのだから「事を荒立てる」ほどの価値を持っているわけでもない。だがこれを「よそ者にはうまく説明できない」のである。すべて漢語さえ混じらない日本語で説明ができることから、これが日本人のもともとの気性であるということがわかるのだ。

面白いなと思ったのは、誘導尋問的に質問してゆくと何にでも頷くか「うーんそれは違う」と考え込んでしまうというところである。これも「いいえ」と言わない日本人にはよく見られる態度だ。極めて同調性が高く自分の意見を持たないようにしつけられているので「福祉系のサークルに入って政治的な主張を持つためには戦争反対のポジションをとらなければならない」と思い込んでいるのではないかと思った。

このように、日本人はかなり独特な理論形成をしていると言える。一方で、政治について考えていると日本人としてはちょっと違和感のある価値体系を身につけてしまうとも言える。

憲法第9条を変えると戦争になるという理屈自体はあまり難しいものではなさそうである。つまり、安倍首相は戦争をしたがっており、彼らの策動に乗せられて憲法を変えてしまったら何かとんでもないことが起こると疑っているのだろう。これも村落的である。つまり、誰かの意見を認めてしまうことは、その人の村落上の地位を認めてしまうことなので、その他のことも受け入れなくてはいけないということだ。日本人にとって議論は「モノ」についているのではなく「ヒト」についているのだ。

だから、それから先の議論はすべて無効なのである。最近みたのは「安倍首相は対案を示せと言っているが、これは彼らの策動であって、気に入っているのだから変える必要はない」というものだった。つまり、安倍首相が気に入らないから改憲は認められないと言っている。

これはこれで理屈としては通っている。だが、この理屈は「安倍首相のような醜悪で利己的な首相が言い出しているのだから悪」という理屈である。人について判断している村落的な政治理解だ。これを裏返すと「清廉で爽やかな人が別の理屈を使って彼女たちを説得したら、彼女たちはきっと説得されてしまうだろう」ということになる。個人として意見にコミットしていないのだから当然である。子供の頃から知っていて(つまり親が政治家ということである)一生懸命福祉などで汗をかき、顔つきが爽やかなイケメンを想像してみると良い。

そこで思い浮かんだのは小泉進次郎氏だった。多分、小泉さんが首相になったら改憲議論は一気に進むだろう。「一生懸命でいい人そう」だからである。議論の中身は全く関係がないのではないだろうか。

つまり「なんとしてでも変えたくない」というのは実は別に変えてしまっても構わないというのの裏表になっているということになる。

かつては護憲派だったので、その当時ならば「これはリベラル消滅の危機である」などと思ったと思うのだが、今はそうは思わない。その程度の理解と支持しかないんだったら、自民党はおたおたしていないで国民投票を実施するべきだと思う。多分護憲派の運動は壊滅状態で、支持者はそれほど多くない。お付き合いで「戦争はいけないから」といって形の上だけで反対している人しかいないかもしれない。

ここからわかるのは護憲派リベラルは消えてしまったわけではなく、もともといなかったということだ。するとTwitter上で行われている護憲派の議論は何なのかという別の疑問が湧く。それを理解するためには、もともと村落的議論は何を目的に行われているのかということを考えなければならない。

次回ははあちゅうさんという諦めの悪い女性の「議論」について考える。

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日本人が政治議論ができない意外な理由

質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。

日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。

問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。

今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。

糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。

もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。

日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。

それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。

質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。

ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。

と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。

これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。

このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。

もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。

これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。

今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。

このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。

多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。

現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。

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異文化理解力

先日Twitterで教えてもらった本を読んだ。「異文化理解力」というタイトルがついている。Twitterで何かを教えてもらうというのはとても珍しい。

多国籍企業で働くと、誰でも自分の意思が相手に通じないと思ったり、相手が自分の思った通りに行動してくれないという経験をしたことがあるはずだ。文化が違うと行き違いが起こりやすいのである。外国に行くときにはガイドブックを持って行くのだから、当然相手の地図のようなものがひつようになってくる。エリンメイヤーはこれを「カルチャーマップ」と呼んでいる。つまり、この本は外国の人と仕事をするためのガイドブックのような本である。

2017年の新刊ではないのだがこの本はとても人気が高いようだ。それだけ海外赴任を命じられたり、外資系の会社で働く人が増えているのだろう。最近、建設現場で中国語などが飛び交うようになっているので、もしかしたら日本の会社に勤めていても外国人と働くことになる人もいるのかもしれない。

地図を作るにあたってエリン・メイヤーは8つの指標を用いて文化の間にある違いを研究した。8つの指標には名前が付いているがここでは詳しい説明ができないので簡単な説明をつけた。

  1. コミュニケーションがどれくらい文脈に依存するか
  2. 評価を直接伝えるかほのめかすか
  3. 物事をどう説明して相手にやる気を出させるか
  4. みんなで協力するのが好きかそれとも誰かがリードする方が好まれるか
  5. だれが意思決定するか
  6. 信頼の対象はものなのか人なのか
  7. 見解の相違をどう解決するか
  8. スケジューリングは柔軟か

メイヤーはどちらかというと実用的な側面からこれらの指標を抽出しているようで、指標を一通り読めば日々のビジネスシーンに役に立つティップスが身につく仕組みになっている。

同じような研究にホフステードの文化指標がある。どちらかといえばこちらは文法書のようなもので、全ての傾向を限られた指標で点数化している。ホフステードは様々な質問の傾向を抽出して違いが出やすい指標を抽出しているのだが、メイヤーは実務書として書いているので、指標の中にはお互いに関連しているようなものがある。メイヤーは会話書のようなものなのかもしれない。

例えば「説得」は全ての文化の指標になっていない。理由を説明して相手を説得しようとする文化と具体的なやり方を示す文化があるとされているのだが、これは欧米文化の違いを記述している。東洋人はこのようなやり方は好まず「包括的に」問題に対処するとされている。そして、これが対象物に注目する西洋人と背景を含めてものを見る東洋人という図式で説明されるといった具合に展開してしまう。東洋人の視点からは、この包括性と文脈依存は関係しているように思えるのだが、西洋人にはそれぞれが別のものに見えるのかもしれない。会話書なので本自体がある程度印象に左右されているように思える。

この本はインターナショナルマネジメントについて書かれている本なので、日本人だけの会社に勤めている人にはあまり役立たないのではないかと考えられるのかもしれないのだが、そうとも言い切れない。むしろ外国人と接したことがない日本人こそ読むべきではないかと思われる。それは日本人が外国人の作った文化をそのまま日本に取り入れて失敗することが多いからである。

この本を読むと、ほぼ全ての指標について日本人はかなり極端な位置に置かれている。極めて文脈依存的で婉曲なコミュニケーションを好みきっちりしたスケジューリングが好きであると言った具合だ。ある意味「ユニーク」なのだが「極端でわかりにくい」文化と言えるだろう。だが、こうした極端さは当たり前すぎて日本に住んでいるとあまり実感できない。

例えば、稟議システムは独特のものだと考えられているようである。ほとんどの文化はトップリーダーが決めたことに従い、その決定が覆らないか、平等な人たちがその都度必要なことを決めて行くというどちらかにプロットされるようなのだが、日本人だけはみんなで決めたことが覆らないという独自の文化を持っている。

これを「稟議システム」と呼ぶ。具体的には「持ち帰り検討します」といってなかなか返事がない(ものによっては数年かかることさえあり、誰が何を決めているかよくわからない)のだが、いったん「社の決定である」というコンセンサスが得られるとその後はとてもスムーズに物事が進むのが稟議システムである。いったん合意が形成されると、あとからそれが合理的な決定ではなかったということがわかってからも覆すのはとても難しい。

日本人には当たり前に思えるシステムなのだが、こうしたシステムを持っている国は少ないのできちんと説明しないとわかってもらえない。それどころか、日本人の中にもコンセンサスシステムについて理解していない人がいる。

最近の例で言うとトップダウンで物事を決めてしまったために全てが大混乱してしまった小池百合子の例がある。小池さんがこの稟議システムについて理解していればこのような混乱は起こらなかったのかもしれない。だが、海外でのトップリーダーを見よう見まねで模倣するうちに、日本でもトップダウン型の合意形成ができるだろうと誤解してしまったのだろう。

特に民進党のように「いつまでも何も決められない」人たちとトップダウン型の相性はとても悪かった。小池さんは文章による明確な意思決定を行ったのだが(これはメイヤーの本の中にも出てくるが、コンテクストに依存しない文化では明文化が好まれるとされている)あとから「やはりこれには従えない」とか「いや、実はこういうつもりではなかった」という人たちが大勢現れた。つまり、文脈を作ることで影響力を保持しようとした人や、いったん支持者たちとの間で稟議された暗黙の取り決めを破れない人が続出したのである。

もし、小池さんが強いリーダーになりたいのであれば、文脈依存はやめて西洋型の意思決定をしますとせんげんしなければならなかった。が、そのためには希望の党に入る人たちが自分たちは文脈依存で合議型の意思決定をしているということを知らなければならないという具合である。

文化というものがいかに大きな力を持っているのかがわかるとともに、それが普段は全く意識されていないということもわかる。つまり我々は文化に支配されているわけだが、その文化を知ることである程度その支配から自由になることができるのではないかと思う。

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