朝鮮は植民地だったのかという<議論>

本来は日本人が議論をしたがらないしできないということを調べているので、朝鮮についての言及は最小限に止めておくべきだ。しかし、ついつい面白くで4,000文字を越えてしまった。

趣旨としては答えがないということがわかっている問題で「議論」ができるということは、議論自体には取り立てて興味がないということなのだということを書いている。

だが、調べているうちに、この朝鮮併合という事業そのものが日本人が意思決定できないというよい事例になっていることがわかった。自分自身は党派間対立には興味がなく、こうした構造を調べるのが好きなので、議論好きの日本人以外にも一人で調べ物をしている「オタク系」の人がいるのではないかと思う。ただ、そうした人たちはTwitterではあまり目立たないのかもしれない。


先日ネットで面白い議論を見かけた。それは朝鮮は植民地かという議論である。友利新というタレント医師がネットの番組で「日本は朝鮮を統治したのであって植民地化したわけではない」と主張したのをきっかけに、朝鮮は明らかに植民地だったという反発が起きている。香山リカはこう憤る。

この話を観察するポイントは朝鮮が植民地であったかという議論そのものにはない。その議論がなぜ人々を惹きつけるのかという点にある。しかしそのためにはそもそも朝鮮は植民地出会ったかという議論そのものに答えがないのだということを納得してもらう必要がある。

文字どおりの意味での植民地は資源の収奪を通じてある地域を搾取することを意味している。資源には、土地・資源・人間がある。土地を搾取して自国民を植民させたり、資源を収奪して貿易に使ったり、地元の人たちを奴隷として使役することがあるのである。だが、その他に「保護国」という全く違ったカテゴリもある。これは帝国と帝国の境目として利用する。攻撃を受けるのはこの保護国であって、保護国を盾にすることで自国の安定を保全しようとするのだ。この二つは搾取するために別の地域として区別するのだが、その他に自分の国の一部に編入してしまうこともある。北海道などがその事例である。もともと北海道の北部は日本の領域ではなかったのだが、内地と同じ法律を適用し、北海道に移住した人を戸籍上区別することはなかった。

日本は明治維新で近代化してすぐ「帝国主義」について学ぶ。清やロシアに勝ったことで幾つかの海外利権を獲得し、朝鮮半島の実質的な宗主権もその時に獲得した。正確には清が宗主権を放棄し、朝鮮半島を独立させた上で実質的な監督権を得た。のちに総督府を通じて外交を主管することになり、保護国化が進行した。

ところが、日本人は帝国主義諸国がどのような目的で海外領土を持つのかをよくわかっていなかったようだ。

日本は北海道や樺太をロシアとの緩衝地帯と考えていた。日本の内地は松前半島までで、その向こうはアイヌ民族などが住む「蝦夷地」と認識されていた。日本は南クリル(北方領土)を含む北海道全域を領土化して日本と同じ法律を適用した。つまり、日本は北海道を日本に編入したのだ。アイヌ人はその過程で1871年に日本の戸籍に平民として編入された。しかし、行政的には旧土人という区分があり、旧土人保護法が廃止される昭和時代までこの概念が存在した。

日本人は保護という美名のもとでアイヌ民族を差別してきたのだが、アメリカ先住民に習って先住民としての権利を主張するようになると今度は一転して「アイヌ人などなかったからアイヌ利権はない」と言い出す人が現れる。このように日本人の態度は一定しないことが多い。差別できるときは差別するが、その現実は認めたくないので「保護」という。しかし権利を主張し始めると一転して「そもそもアイヌ人などいないのだから差別も利権もないのだ」などと言い出すのである。

このように曖昧な態度をとるに日本人にとって、人口が多い朝鮮はさらに厄介な問題だった。当初形式上は独立国だったが、実質的には保護国だった。しかし大韓帝国の皇帝がロシアに接近を繰り返していたこともあり、大韓帝国から外交権を奪い保護国化した。それでも安心できずに日本に併合して朝鮮半島の既得権を維持すべきだという議論が生まれ、やがて実行される。

もし、朝鮮半島事情についてよく知っている人ならばこの間に起こった国内の論争を知っているはずである。これは単に朝鮮人だけの問題ではなく日本人の意識にも幾らかの動揺を与える。この過程は小熊英二の「単一民族国家神話の起源」という本にもまとめられている。朝鮮を日本に組み込むべきだという人の他に、朝鮮半島を日本に組み込むことで日本が純血でなくなり劣化してしまうという議論もあった。伊東博文ですら意見がぶれていた。併合派に反対しなかったという<事実>が語られる一方で、いずれは独立させるべきだというメモが見つかったという指摘もある。

ここから、日本が朝鮮という大きな領域を組み込むにあたって、単一民族国家であることを捨てて帝国になるのか、それとも朝鮮を搾取の対象である植民地として内地とは切り離した上で搾取するのか、それともロシアとの緩衝国として押さえつけておくのかを決めかねていたということがわかる。北海道を併合する時に曖昧にしていた問題に直面するのである。ゆえにその<統治>は中途半端なものになった。

前回日本人は意思決定ができないと書いたのだが、状況に振り回されて意思決定を先延ばしにしたままで事態だけが進行した。北海道を併合した時にはっきりと理論化しておけば良かったのだが、日本人はそれをやらなかった。大韓帝国の中にも、ロシアに接近すべきという人たちと近代化を進めるためには一度日本と併合されても構わないという人たちがいた。併合の請願が現地の一進会からなされれたのもまた<事実>である。

朝鮮半島がなし崩し的に帝国の一部に加えられたために日本は帝国として何を統合原理にするのかということを大急ぎで考えなければならなくなった。これまでのような「日本人」という民族意識は帝国の統合原理にはなりえないからである。議論の結果「天皇をお父さんにする家族なのだ」というとってつけたような議論に修練して行き、やがて第二次世界大戦で破綻した。

朝鮮半島の法整備を急ぎ朝鮮人を「平民」化して解放し。ある程度のインフラ整備も行われた。これが<統治的>側面である。それまでの朝鮮半島には奴婢制度が残っており、現地の治安を安定させるためにも彼らを解放して識字率を向上させる必要もあった。実際に学校を整備させたのは伊東博文総督で最後には帝国大学まで作られたとされる。

朝鮮半島の人たちも日本に移住しており朴春琴という衆議院議員が民族名のままで当選し二期つとめたりしている。驚くべきことにハングルによる投票すら認められていたそうだ。日本の政治に日本語以外の言語の関与があったのである。とはいえ完全に内地化されたわけでもなく、朝鮮は内地政府とは異なる総督府が管理し朝鮮戸籍という別個の戸籍もあった。(この項一部「★誰が朝鮮人なのか (朝鮮戸籍と日本国籍との関係ノート)からの」抜粋あり)

選挙権についてであるが、戦前の内地に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があった。1920の衆議院選挙では所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使し、1925の普通選挙法成立後には納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになった。また1930131日の内務省法令審議会はハングル投票有効とし、ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には諺文字(ハングル)書が配布された。32年と37年の衆議院議員選挙で東京4区から当選した朴春琴など、地方議会でも立候補した朝鮮人は当選していた。

日本には朝鮮半島出身者に対する差別感情もあり「朝鮮人に恨まれているのではないか」と考える人がいた。関東大震災で治安が混乱した時に「この機に乗じて復讐されるのではないか」という恐れもあり朝鮮人やそれに誤認された人たちを殺傷する騒ぎが起きた。

朝鮮半島を解放したというのも間違っている。東洋拓殖が現地の農民から土地を奪い取り日本人に分け与えたとしている。東洋拓殖は移民事業に失敗したが地主となり朝鮮半島が日本から解放されるまで土地を所有し続けた。土地を奪われた朝鮮人は数百万人にもなったという話もある。

両班から農民を解放したという図式を作り朝鮮人による間接統治をすれば日本人がこれほど恨まれることはなかったかもしれない。むしろ解放者として扱われていた可能性もある。しかし、直接乗り込んで土地を接収して「両班にかわる新たな吸血鬼」とさえ認識されていたとなると話は全く違ってくる。イギリスの狡猾なやり方と比べるとその稚拙さや戦略のなさが際立つ。イギリスはもっとおおっぴらに搾取したが今でもコモンウェルスという共同体を持っていて定期的に会議やスポーツ大会などを開催している。

いずれにせよ、朝鮮は内地として統治されたのかそれとも植民地として搾取されたのかという議論にはそもそも答えがない。当時の日本人もよくわかっていなかったし、朝鮮半島にも様々な認識を持った人がいた。ここから自分の好きな論拠を<事実>として抜き出すと好きな議論をいくらでも展開できる。

しかし、この稚拙さを無視して独自議論を展開してみたところで全く意味がない。その後国際的な議論があり「統治」と「植民地支配」の議論自体が無効化されてしまったからである。

それまでの帝国主義は「民族自決」の原則で解放されるべき地域と植民地として「善導」されるべき地域に区分されていたが、第二次世界大戦までの間に整理しきれなくなっていた。それが行き着いた先が核戦争の可能性だった。つまり、これ以上植民地獲得合戦を繰り返していると人類全体が広島・長崎化しかねないということになったわけだ。

しかし、帝国主義諸国がはそれを率先して整理できなかったので、日本とドイツを戦争犯罪と断罪した上でなし崩し的に帝国主義を解消しようとした。イギリスがコモンウェルスを持っており未だにイギリス王室のリーダーシップを認めているのは変異の仕方がうまかったからだろう。

いずれにせよ帝国主義そのものが否定されたのだから、民族自決の原則がすべての地域に適用されることになる。すなわち「統治だったから良いこともした」という議論は、朝鮮半島の人たちが自分たちを独自の民族だと主張する限りそもそも成り立たたない。国際的には主張できないのだから、インターネットテレビでのやり取りは単なる自己満足にすぎない。

しかし、こうした<議論>に熱中する人が多いことから、日本人が仲間をまとめ上げるためにうちわでわざわざ倫理に挑戦して喜びを見い出したり、それにわざわざ反発することに熱中する人たちがいることがわかる。保守が「スカートめくりをする男子」だとしたら、リベラルは学級会でそれを問題にする「女子」である。男子はAbemaTVで大騒ぎしているのが関の山で、その議論を国際的に展開しようという意欲はない。

こうした議論に参加するとすればそれは遊戯の範疇であり実質的な意味はない。楽しみとして参加するのはよいが、もし「こうしためちゃくちゃな意見を説得しないと今に大変なことになる」と考えているのであればそれはやめたほうが良い。その悩みに全く意味はないからである。

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日本人が政治的議論をしないしできないのはなぜか – 文化が衝突するとき

日本の村落共同体について調べている。今回はTwitterで横行する人権無視の政治議論について特に取り上げる。

これまで、既存の村落共同体が時代から取り残される現象、Twitterで人々が不毛な論争に惹きつけられる様子、「病的要素が混入した村落共同体が嘘と機能不全に侵される経過などを観察した。ただ、観察しているだけでは考察が偏ってしまう。これまでホフステードの指標などを利用してきたのだが、別の考察を入れようと考えた。そこで目をつけたのがリチャード・ルイスの「文化が衝突するとき」である。国際マネージメントを研究する時によく引き合いに出される人で「日本人の意思決定はなぜ遅いか」などと検索すると、たいてい一度は検索結果に含まれてくる。

このリチャード・ルイスというイギリス人は日本に5年間滞在して美智子皇后など皇室メンバーにレクチャーしたことでも知られているそうで日本語を含む12ヶ国語を話すことができるそうである。なので、例えば韓国に対する記述は限定的だが、日本に対する考察はかなり詳しく書かれている。

まず問題点を指摘しておきたい。リチャード・ルイスの観察対象は主にバブル期以前のビジネスマンだ。集団に守られた正社員集団を相手にしているので「日本人の調和的な態度」だという印象があるようである。ホフステードは日本人が集団で競争に没頭する様子などを客観的に観察しているのだが、ルイスには日本人の二面性についての考察はない。また対話のやり方や時間の使い方についての類型化はあるが、必ずしも全てが指標化されているわけではない。

バブル期には現在のTwitter議論のようなものはなかったので、問題を考察する上では情報を足す必要がありそうだ。

しかしながら、様々な文化に分け隔てなく触れており、膨大な量の知見が含まれている。例えばイギリス人とアメリカ人の違いなどの考察はとても面白い。

この本では日本を相手の会話の様子を見てから自分の態度を調整する反応型の文化だとしている。これはアジアとフィンランドに見られる態度なのだそうだ。日本の言葉そのものには意味がなく、そのときの表情や敬語の使い方などに本当の意味が隠れていると指摘する。これもフィンランドと共通性が高いそうである。日本人は協調型であり対立を極力避ける傾向があるとされる。このため表立って「ノー」をいうことはほとんどないのだが、実際には日本語のイエスは外国ではノーになることが多いという指摘もある。また非人称型でほのめかすような指示が行われるので、言葉だけを取ると何を言っているのかはよくわからないが、それでも必要な指示は伝わるとしている。

この点からルイスが見ているのは古い日本だということがわかる。BEAMSの若者で見たように現在の若者は相手のメンタルモデルを類推してほのめかしに近い指示を理解することはない。つまり、この傾向は崩れているものと思われる。一方で、安倍政権の「忖度」のように指示が曖昧でも必要なことは首相の顔色や人間関係から読み取ることが出世の絶対条件になっているような組織も残っている。若者社会は雇用の不安定化によりいち早く変質したが、官僚組織は古い日本を温存しているのである。

日本人は秩序だった階層型の組織を作るがアジアの他の文化圏との違いもある。中国や韓国は階級による格差がある。特に中国では強いリーダーシップが好まれる。つまり、日本社会は階層型ではあるが階級的ではない。このため根回しに時間がかかるコンセンサス型の社会とされている。このため、目の前で誰かが何かを即決することはほとんどなく、重要な項目が変わってしまうと意思決定は最初からやり直しになる場合すらある。これを稟議システムなどと言っている。

前回、安倍政権や日大アメフト部が「力強いリーダーシップ」を偽装していると書いたのはそのためである。日本人はそもそも力強いリーダーによって全体の意思決定が歪められることを極端に嫌う社会であり、誰かがコンセンサスを歪めると内部で大混乱が起きる。現在の混乱は文書管理の問題ではなく意思決定システムの混乱であるといえるだろう。

日本人のコミュニケーションに意味があるとしたらそれは表情と敬語の使い方に現れており、文章を言葉通りに読み取っても何もわからない。

もう一つ指摘しているのがウェブ型社会である。日本は蜘蛛の巣のように様々な情報網があり、表情、敬語の他に背後情報も重要な役割を持っている。これらを含めて「文脈」とすることもある。常に幾重にも重なった集団の中で過ごしており個人が露出することはほとんどない。先に書いたように企業社会を主に観察しているのでこの傾向は顕著だったのだろう。個人は集団に守られておりその内部では相互依存の関係がある。土居健郎の甘えの構造などが有名である。だから個人が「責任」や「意思決定」に直面することはほとんどない。トップの意思決定はその意味では儀式的なものである。

この意味で自民党と民主党はそれぞれ違った崩壊の仕方をした。自民党は儀式的な取りまとめ役に過ぎないトップが「力強いリーダー」を自認することで混乱し、民主党は儀式的な取りまとめ役を持たないためにいつまでも内部議論を繰り返し崩壊した。儀式的意思決定というと「後進的」という印象を持つ人もいるかもしれないが、日本の組織は儀式的意思決定なしには成り立たないのである。

このウェブ社会を読んでいて「これは現在でも成り立つのだろうか」と思った。可能性は二つある。終身型雇用と地域社会が「崩壊」して個人が所属集団を持たない<孤人>になったと考えることができる。その一方で、日本人は独自の組織力の高さからTwitterの中にネトウヨ・パヨクという仮想集団を作ってその質を変えたのだと考えることもできるだろう。自己責任が横行して普通から脱落した人を追い立てるところから<孤人化>も進んでいる一方で仮想集団も広がっているものと思われる。

「日本人は議論ができない」という問題に着目すると一つの知見が得られる。対立を好まない日本人は個人としては政治議論には参加しない。もし参加するとしたら集団による議論だが、重層的な集団に依存する日本人は政治的集団を作れない。例えばプライベートで政治集団を作ってしまうと職場の人間関係に対立的要素を持ち込みかねないからである。

であれば「匿名性が確保された」Twitterが政治議論のプラットフォームなったと見ることもできる。しかしこれも成り立たない。日本人にとっては言語によるコミュニケーションはさほど重要でないので問題が客観視できず、言葉だけのコミュニケーションに依存するTwitterでは議論ができない。

もしそれが政治議論に見えているとしたら、それは政治議論に偽装した運動会のようなもののはずだ。運動会に参加する人たちは「なぜ赤組と白組に分かれて争うのだろう」と疑問に思うことはない。同じようにTwitterの議論は政権側(ネトウヨ)と反政権側(パヨク)の争いだとされている。いったん対立形式ができると、人々は政治問題を解決するのではなく「議論に勝つこと」に重点をおくことになるのだろう。

そもそもTwitterが始まった時には「個人として情報発信したいがその手段がない」人たちを惹きつけていたはずだ。だからこそTwitterの人気は日本では突出して高い。しかし、実際には個人として発信するスキルがなくまたその意欲もないのでいつのまにか仮想的な集団を組んで相手を攻撃することになった。個人の情報発信をしたい人はInstagramなど別のメディアに流れてゆく。日本のネット言論はこれのサイクルを繰り返している。

ゆえにTwitterでのいわゆる政治論議には実質的な意味はほどんどないものと思われる。そもそも対話がないのだから解決策が見つかるはずはない。ただし日本人は集団による競争に居心地の良さを求めてしまうので、娯楽として人種差別や人権無視を含んだ会話とその反発が「楽しまれている」のだろうということになる。

現在横行している人権無視の会話は、日本人の内心が表に露出しているに過ぎない。人権を無視する意識に付け込んで支持者層の拡大を狙う政治家が出たことには問題があるのだが、よく考えてみるとこうした人権無視発言を繰り返す政治家は選挙区を持たないことが多い。選挙区では良識派の発言が好まれ、ネットや内輪では「本音」と称して人権を無視するような発言が使い分けられているのだろうが、維新のように良識のある地域では嫌われて大阪の南部の一部にしか指示を広げられなくなった政党もある。

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日大アメフト部から考える日本人が議論も会話もできない理由

これまで二回にわたって日本人は議論も会話もできないということを書いてきた。今回は「主語を日本人としてもよいのか」について検討しようと考えて、日大アメフト部と日本ハムファイターズの比較を行うつもりだった。結論だけを書いておくと、日本人でも議論や会話はできる。問題になっているのは古いマネジメントスタイルなのだ。

ただ、調べて行くうちに、もともと日本型のマネジメントスタイルは日大アメフト部のような問題を防ぐように<設計>されているということもわかってきた。今回、ところどころにそのことが出てくるのだが、最終的な結論には至っていない。答えが出てこないのでちょっとした消化不良感が残るのではないかと思う。

さて、本論に戻る。今回特に注目したいのは、集団が個人を成長させられるのかという問題と、集団が個人を成長させられなくなった時に何が起こるかという問題だ。前回ご紹介したホフステードによると「日本人は集団を通して<勝てる競争>に没頭する」のだった。この文章には二つの知見がある。一つは日本人にとって競争は自己目的であるということと、勝てる競争を好むということだ。端的に言うと日本人はとにかく勝ちたいのである。

先日来ワイドショーでは「日本大学のアメフト部」の問題が面白おかしく取り扱われている。かつて名将とされていた内田正人という監督が将来有望なトップ選手を追い詰めて使い潰したという話だ。当該選手はネットで名前がさらされ退部の意向を持っているという。一方で内田監督は9月になったらほとぼりが覚めるだろうからこのまま監督を続けるつもりのようだ。トップが無責任な命令をだしてプレイヤーが使い潰されるという図式が現在の政治状況と重なるので多くの人が批判しているのだろう。

内田監督は「試合に出たければ相手のクオーターバックを潰してこい」と指示をした結果、この選手は油断している相手選手に後ろから飛びかかり怪我を負わせた。幸い後遺症は残らないようだが、一歩間違えれば半身不随になりかねないというような危険な行為だったとされており、一部では刑事罰を科すべきではないかという議論すらある。

これがネットに乗って拡散した。すると監督側はバッシングを恐れて「あれは自分の指示を勘違いした選手が悪い」と取られかねない主張を始める。それが反発されて大騒ぎになっている。これが炎上していると気がついた日大側は最初は「勘違いだ」といい、それが言い逃れに取られかねないということがわかってから「直接謝罪する」と切り替えつつあるようだ。この「反応を見て小出しに譲歩する」というのも現在の政治状況に似ている。

ワイドショーではこの人が「日大の常務理事」だったために、学校ぐるみで隠蔽しているというようなストーリーが語られている。ところがWikipediaに出ている情報をみると別な側面も見えてくる。選手を発見して「濃密なコミュニケーション」で育て上げてチームを立派に育成するのが得意な監督だったようである。仲間内からは「温情的な」監督だと思われていたかもしれない。似たような指導者に栄和人志学館レスリング部監督がいる。栄監督も選手を発見して育成するのが得意な人だった。

こうした指導法がまかり通っていたのは日本人がマネジメントの科学をよく知らなかったためだろう。現在では国際的な<近代スポーツマネジメント>が浸透しつつあり、トップ選手は直接外国人指導者から教えを受けることもできる。このズレが表面化しているのだと考えることができるだろう。

彼ら二人の共通点は自分が見つけた弟子に対する並々ならぬ執着心だ。栄さんは吉田沙保里ら愛弟子を優遇していた一方で自分から離れて強くなろうとした伊調馨を排除しようとした。日大の内田監督もどうやら身贔屓が激しかったようだ。最近監督に復帰したことからわかるように、自分が発見したか目をかけている選手がおり、才能のあった当該選手を外そうとしたのかもしれない。あるいは前の監督を否定する意味で前の監督が集めてきた才能のある選手を代替え的に潰そうとした可能性もある。

こうしたことが起こる理由は二つ考えられる。ここではいろいろな<容疑>をかけているのだが、監督らがこれを客観的に自己分析することはできないものと考えられる。それは日本人が親密な関係に耽溺して言語による意識付けを怠る傾向にあるからだ。相手に説明できないだけではなく、自分が何をしているのかが本当にはよくわかっていないのである。

もう一つの問題は「自分が目をかけた選手を通して監督コーチとしての自己実現を図ろうとしていた」という点だ。集団と個人の意志が癒着しているのだ。個人の支配欲を集団に埋没させてしまうとこのような暴走が起こる。選手に無理難題を提示して忠誠心を試そうとしていたようである。「後ろからタックル」というのはアメフトではかなり重いタブーのようだ。これを吹きかけることによって「自分が支配できる人物か」ということを試していたのかもしれない。

このように日本人は集団になると個人で持っていた倫理観が吹き飛び指導者のためになんでもしなければならないと思い込むようになることがある。これが、日本人が持っている「集団主義」のよくある一つの例として認知されたために社会から批判されることになった。

ところがここで一つ大きな疑問が浮かび上がってくる。日本のマネジメントシステムを勉強したことがある人は「稟議システム」という用語を聞いたことがあるはずだ。アイディアは末端が持っており、末端から出た儀式的なリーダーが形式上の意思決定を司るという形である。この方法だとトップは実質的には意思決定をしないので、内田監督のような暴走行為は起こらないはずなのだ。つまり内田監督は名将である必要はないことになる。

決定的なことは言えないまでも、日大にもかつてチームを強くする仕組みのようなものがあったのかもしれない。結果的に内田監督が名将ということになる。そして、言語化が苦手な内田監督はそれを「自分の才能だ」と思い込むようになったのかもしれない。しかし、実質的にはリーダーとしての才能を持っていなかったので、今回のような暴走行為に出てしまったということになる。

「内田監督や日大のアメフト部は言語化が苦手」というのはかなり確度が高い。相手側の関西学院大学の小野宏ディレクターはもともと朝日新聞社の出身なので、問題点を言語化し謝罪文の矛盾点を整理している。つまり謝罪相手に言語化してもらわないと自分たちが何をやっていたのかということすらわからないというかなり深刻な状態にあることがわかる。

さて、ここまで安易に「日本人が」という言葉を使ってきた。集団での言語を介在させない親密さを重んじるあまり個人が無批判に集団に埋没してしまうというのは確かによく見られる光景だ。このために個人としての日本人は批判的な内心を持てず、個人どうしの会話が成立しないことも多い。だが、本当に主語に「日本人」を設定してもよいのだろうか。

ホフステードは日本社会のかの解説の中で次のように集団による競争を解説する。

At 95, Japan is one of the most Masculine societies in the world. However, in combination with their mild collectivism, you do not see assertive and competitive individual behaviors which we often associate with Masculine culture. What you see is a severe competition between groups. From very young age at kindergartens, children learn to compete on sports day for their groups (traditionally red team against white team).

日本は95ポイントという世界でももっとも高い男性性を持った社会である。穏やかな集団主義と合わせられているので、男性的な社会に見られがちな打ち出しの強さ(アサーティブさ)や個人での競争的な姿勢は見られず、競争は集団間で行われる。幼稚園から運動の日に集団(伝統的には白組と赤組に分かれている)で競い合うことを学ぶ。

ところが、集団による自己実現を図らないスポーツチームも出てきている。つまり、日本人は個人による自己実現や自己表出が全くできないということはないということになる。それが大谷翔平を生み出した日本ハムである。調べると栗山英樹監督のインタビューが複数見つかった。栗山は、監督はリーダーではなくマネージャーだと表現している。調べてみても栗山監督の話が出てくるだけなのだが、企業としての集団マネジメントそのものが「近代化」しているのではないかと思う。監督だけがこのように主張しても企業体がその理念を理解しなければ機能しないからだ。

日本ハムファイターズの特徴は個人のモチベーションと企業のモチベーションを「言語化」した上ですり合わせているという点である。インタビュー記事を読んですぐにわかるのは、栗山監督の頭の中では、集団ではなく個人が前に来ているという点だ。いちど成功した栄監督や内田監督は「集団への埋没」を自己への支配欲と執着に転嫁してゆくのだが、日本ハムのマネジメントにはそれがない。内田監督は「排除」と「恫喝」により選手の理性を奪ってゆくというアプローチをとるのだが、栗山監督らが相手を説得するためには数字を使う。

大リーグしか頭になった大谷翔平選手に対して「いったんチームを通った方が成功率が高い」ことを合理的に説明した上で「二刀流」という新しいビジョンを提示したというのは有名な話である。

数字は単なる統計として使われているわけではなく、内的な動機とリンクしている。大谷選手のビジョンを整理した上でそれを具体的な数値に落とし込んで行くという作業が行われていることがわかる。当時学生だった大谷選手がそこまでできていたかは疑問なので「マネジメントの最初の仕事」として可視化を行ったとも解釈できる。

さてm個人を客観的な指標で動機づけた上でそれを集団の目標をと重ね合わせるためには集団も「勝つ以外」の目標が必要だ。日本ハムファイターズはこれをスポーツコミュニティという理念にまとめている。

スポーツは人々の健康に貢献し、人と人が触れ合う交流の機会となり、人と人との心がつながるコミュニティを創造する力となる。ファイターズは「スポーツと生活が近くにある社会=Sports Community」の実現に寄与したい。

この企業理念と選手の個人的目標が合致している時には「協力」すれば良いし、それが終わればまた離脱しても構わないというアプローチを取っている。幸い国際野球には育成した選手に値札をつけてバイアウトする仕組みがあり、日本ハムファイターズのマネジメントスキルには市場的な意味がある。

日本ハムのアプローチを見て初めて見えてくる内田監督の問題点がわかる。日本の旧来のマネジメントは親密な信頼関係を構築できない人とは一切の人間関係を結べない。日本ハムファイターズが「個人の理念」と「集団理念」を言語化して結びつけるスキルを持っていることから、日本にいる日本人にもこれが学べるというのは明らかである。つまり、内田監督は「かつて成功してしまったがために、新しいマネジメントスタイルを学ぶの機会を放棄してしまった」監督なのである。これがSNSで新しい価値観とぶつかることで今回の大騒ぎが起きたということになる。

コメントの全文が朝日新聞に出ている。これをみると日本大学に問題の客観視ができていないことがわかる。例えば、謝罪と言い訳が交互に出てきて、誰が誰に何を謝るべきなのかの整理が全くできていない。さらに当事者意識もなく、文中で「起きてしまった」と言っている箇所もある。謝罪に関する部分を抜き出してみよう。

平成30年5月6日に行われました定期戦において発生した弊部選手の反則行為について、負傷された貴部選手にお見舞い申し上げますとともに心より謝罪いたします。そして、一日も早い回復をお祈り申し上げます。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫(わ)び申し上げます。

[中略]

弊部選手による反則行為を受けました貴部選手及び保護者の方に心よりお詫び申し上げます。

[中略]

当該事案が発生したことについて、ご迷惑をおかけしました関係者の皆様に指導者として謝罪いたします。

[中略]

重ねてではございますが、このたびの反則行為により負傷された貴部選手並びに保護者の方に対し、心より謝罪いたします。また、ご迷惑をおかけしました貴部関係者の皆様に深くお詫び申し上げます。

混乱している「日大指導者」は内省しないままで「結果的に意思疎通に齟齬があった」と原因をまとめてしまっている。これが自動的に「勘違いした生徒が悪い」と受け取られることになったが、指導部にそうした明確な自覚があったかはわからない。さらに別の段落では「そのつもりではなかったが世間が誤解するといけないので発言はなかったことにする」とも説明している。

弊部の指導方針は、ルールに基づいた「厳しさ」を求めるものでありますが、今回、指導者による指導と選手の受け取り方に乖離(かいり)が起きていたことが問題の本質と認識しており、指導方法に関し、深く反省しております。

[中略]

しかし、真意が伝わらず反則行為を容認する発言と受け取られかねないものであり、本意ではありませんため、ここに、試合終了直後にメディアに対して発した弊部監督のコメントは、撤回させていただきます。

言語化能力の低さと個人の徹底的な無視が問題の根底にあることがわかるのだが、日本ハムファイターズが大谷翔平をメジャーリーグに送り出したことからわかるように、必ずしもこれがすべての日本人の本質ではないということもわかる。ここから得られる仮の結論は、かつてあった成功を言語化しないままで再現しようとすると、このような失敗が起きてしまうのではないかというものだ。

こうした混乱やあからさまな嘘はスポーツマネジメントの世界だけでなく政治の世界でも起きている。しかし、ニュースを通じて知り得る情報は言語情報だけなので「なぜこんな理不尽で誰が考えても嘘と分かるようなことを平気でやるのか」というような感覚になってしまうのかもしれない。

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日本人は会話をしていないし、それを気にしていない

面白い議論を読んだ。議論の元になったと思われる投稿によるとBBS世代の人が文章を書き込んでいるのに比べてSNS世代の人は頭の中の会話をそのまま書いていると分析している。この人は「SNS世代の人とは話がかみ合わない」と言っているのだが、そもそも日本人と議論が噛み合ったと思ったことはないなと思った。

この説によるとBBS世代の人は推敲をしてから文章を書くので会話が呼応するということになるのだが、推敲しても会話が呼応しない人もいるし、そもそも答えるつもりがなくコメントをよこす人もいる。思い返せばフェイストゥフェイスでも噛み合わない会話というものはいくらでもある。

例えば先日こんな経験をした。ある人が「お金があっても買えるものがなければ景気はよくならないのではないか」とTwitterに書いていた。多分Twitterというのは個人メモのような側面があり答えは期待していないと思うのだが、構わずに「サービスが交換できるので物資がなくても大丈夫」ということと「それよりも流通に障害があることが問題だ」と書いた。

少し戸惑われたのかもしれないが、しばらく時間があって「ふと思って書いただけなのでとりとめもないのだが……」として返答が戻ってきた。戻ってきた回答はこちらの問いかけには呼応していないのだが、それは特に問題がない。なぜならばそもそも会話を発起した人が特定のフレームに依拠して書いてあるわけではない上に、こちらの思考フレームは伝わらずに結果だけが転送されてしまうからである。さらに日本人は相手が特定の思考フレームを持っているということやフレーム合わせをやらないと会話が成立しないとは思わないのだと思う。

もし真面目に会話をするならばフレームを伝えた上で会話を続行すべきだが、そもそも思いつきをメモにしているだけであり、特に仕事として取り組んでいるわけではないのだから、そこまでやるのは大人気ない。ここでまた重ねてしまうと会話が延々と続くことになるので、よくわからなくても「いいね」で〆ることにしている。すると次の会話に移れるからだ。

だが、もう一回返ってきた。しかし、その答えはある種の正解に固着してゆく。今回のそれは「マーケティング先行で本当に必要なものが少ない」というような認識だった。これを真面目に考察するとすれば、以下のような反論ができる。

例えば自動車の本質は「移動する」ことであり、それ以外の全ては「マーケティング的に捏造された本質でない部分」ということになる。もし本質だけだと車は今でもフォードT型かトラバントのようなものになっていたはずだし、用事もないのに海辺に出かけて行ってわざわざバーベキューを楽しむなどというような需要もなかったことだろう。

最初の人はモノがないのに信用だけが増しても景気はよくならないだろうという疑問を呈しているのだが、製造業から抜ける過程でこのフレームワークから抜ける必要がある。それは農業主体の社会が家電を思いつかないのと同じことである。例えば家をきれいにするという仕事のためにわざわざ電力網を張り巡らせた上で掃除機を稼働させようなどとは思わないのである。

しかし、そう答えることに何か意味があるだろうか。そもそも我々の年代は「浮ついた」1990年代のマーケティングを知っているので「真面目なものづくりを通して真の需要を追求すべき」というような一種の<正解>を持っている。だから「そうですね」という共感を示して会話を〆るのが良い。そうすればお互いに気持ちよく次の話題に移ることができるだろう。そもそもTwitterは娯楽なのだから、わざわざ気分を損ねるような会話を行う必要はないのだと思う。

日本人は集団の理論と個人の理論を分ける。こうして、個人の思い込みが社会にぶつけられないまま固着することが多い。「ものづくりをしている人は真面目に仕事をしているが、商売をしている事務屋がめちゃくちゃにする」という世界観もこうやって形成されるのではないかと思う。戦中・戦後すぐに生まれた世代だと「職人は真面目だが、商売人は全て金儲けをして人を騙そうとしている」と思っている人も多い。実際にこの投稿にはいいねが2つほど付いたことからこれが社会の中で一種の正解化していることと、その正解が言語化・社会化されないままで内心を漂っていることがわかる。

このことから二つのことがわかる。そもそも日本人は思考をまとめてから発信することはないし、まとめようとすると「ある種の正解」に固着してゆく。もともと不定形なので外的な刺激によって変形する。今回も「サービス業」というワードを投げかけてしまったために影響を受けて当初の思考が変更された可能性は高い。しかし、オリジナルの思考は不定形なのだから「もともと何を考えていたのか」を正確に復元することは難しいかもしれない。

逆にまとめてから発信するということは「ある種の正解に固着してしまった後」ということになることが多い。根拠が外部にあるので、それを議論で修正したり介入することはほとんど不可能だ。個人の態度が外部と一体化しているので変われないからである。このために日本人の政治議論は極端に二極対立することが多い。いわゆる「保守」も「リベラル」も経緯によって作られた特殊なものだがそれがコピペされて広がる。しかし例えば保守の人がオリジナルの主張を理解した上で意見をコピペしているかどうかはわからない。例えば最近起きた「弁護士の懲戒請求騒ぎ」では、訴える弁護士が何をしている人なのか何がいけなかったのかを論理的に説明できた人はほとんどいなかったそうである。

アメリカ人の場合は異なった経路を通る。アメリカ人は個人の意見を持っている。根拠が外部にある可能性は高いが、賛成・反対は内的なので態度変容が可能である。そもそも最初から「興味のある話題について」「賛成か反対か」を表明するので、賛成するか反対するかは別にして対話が成立しやすい。英語のQUORAには日本人がいるが彼らは会話を成立させている。また初期の日本語のQUORAにも会話はあった。しかしこの会話は日本人の参加者が広がることで心情の吐露に変化しつつあるようである。

日本人でも英語だとこの「賛成・反対」による会話が成立するところから、これが日本語文化特有の問題であるということがわかる。英語では個人として「論拠を納得した上で」賛成か反対かを決めるのだが、日本人は「社会化させないままで固着する」か「論拠を持たないままで賛成して一体化したり反発したり」するので、いったん態度が決まってしまうと後で態度を変えることができない。

こうしたとりとめのなさと固着した正解は人によって様々な現れ方をする。例えば日本で流行した私小説は自分のとりとめもない心情をそのまま記述したものである。これが娯楽として受け入れられていた。

「社会に共感すべきだ」とされている女性が集まると「そうだよね」とか「それでね」などと言いって相手に相槌を打ちながら全く関係ない話を始めることが多いという話を聞いたことがある。話を理解していなくても「わかる」といえば満足なのだそうだ。会話が成立しているという雰囲気は残しつつ自分の意見は共感してもらいたいという気持ちが強いのだろう。相手の歌は聞いていないのに拍手をするという意味ではカラオケに似ている。会話は論理を記述しているのではなく「共感を得るための道具」に過ぎない。

一方で、政治家や先生のように地位を保障されたと感じる人は、他人の共感を気にしないで正解や心情を垂れ流すスタイルを取ることが多い。現在では麻生副総理がそれに当たる。麻生副総理が何を披瀝しようとしているのかは定かではないが、とにかく「自分は意見を発信する側で、言い聞かされる側ではない」という気持ちだけは伝わってくる。この麻生副総理を見ていると福岡の県立高校の高校の校長先生を思い出す。文集委員として校長先生が生徒に贈る言葉を取りに行ったところ、それとは全く関係がない旅行エッセーを渡されたことがある。「自分はこれを載せたい」の一点張りであり、それを悪いと考えてい様子はなかった。この類の人たちにとって「相手を理解した上で会話を進める」ことは負けなのである。

共感を求める人たちはとりとめもない思考をそのまま表現し、正解に固着した人はもはや相手のいうことを聞かない。このためギャップは広がるばかりでついには世代間に大きな溝ができている。

最後にBEAMSの若者で見たように、スマホで情報検索する人たちはそもそもメンタルモデルが立てられない。だから相手のメンタルモデルを類推してソリューションを提案するということがない。

会話が成立しているように見せるためには相手がどうプログラミングされているかということをこちらが認識した上でこなせるタスクに分解して与えてやらなければならない。しかしこれは若者がバカだからではない。ソリューションを組み立てて調整する「総合職」的機能が社会から消えてしまったためである。

ただしメンタルモデルを持たない方は「指示が明確ではない」というフラストレーションを感じているようである。この日経ビジネスの記事ではタイプとなっているが、つまり相手のメンタルモデルを構成した上で調整しようという提案だ。この裏にはそもそも中高年の側がメンタルモデルを「話せばわかる」として提示してこなかったからである。

冒頭の文章を提示した人はアスベルガーの診断を受けているそうで「自分は普通ではない」という認識を持っていると思うのだが、そもそも日本人は会話を通じて情報交換をしたいなどとは思っていないのでそれほど心配する必要はないのではないかと思える。「会話が成立しないで好きなことをいい合う」のが日本人の定常状態なのである。

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BEAMSの店員にムカついたという話

今日の話は若者バッシングなので「自分が若いな」と思う人は読まないほうがいいと思う。その若さの判断基準だが、今回の定義ではスマホで情報を得ている人は年齢が55歳でも「若い」と思って間違いがない。

今回の話はBEAMSに行って店員の態度にムカついたというただそれだけのものである。最後に安倍政権批判が入っているがこれはおまけである。

BEAMSのジャケットを持っている。麻が入っておりボタンをとめるとちょっとタイトになる感じのものだ。今シーズンもこれを着ていいものかどうか悩んだ。カジュアルものはシルエットの変更が大きいというイメージがあるからだ。そこで、オンラインで見てみたのだがどうもよくわからない。ウェブのカタログをみてもピンとこない。カスタマーサポートに相談したところ「お店に行ってもらわないとわからない」という。カスタマーサポートはやたらと店に行けと言ってくる。よほど来店が少ないのかなと思ったのだが話の種に行ってみることにした。

そもそも近くに店がない上に、最近では店が細分化されていて「ここに行けばたいていのことはわかる」という状態ではなくなっている。近くだと千葉駅前に店があるのだがカジュアルしか置いていないという。本格的なジャケットを手に入れるためには東京に出る必要があるのだそうだ。仕方がなく千葉の店に行ってみたが、案の定会話が全くかみ合わなかった。

だが、会話がかみ合わない理由がわからない。最初に目につくのは「自分の知識体系を明文化も体系化もできない」という点だ。自分の知識体系も明文化できないので、顧客の曖昧な探索態度も明文化できない。つまり「コンサルテーション」ができなくなっているのである。ここまでを感想にすると「先生のいうことを聞いているだけの教育が悪いのだな」などと思ってしまう。「最近の若者は」的な愚痴である。

日本人は先生のいうことだけを聞いているので正解がある場合にはすぐに答えが見つけられる。しかし、正解がなくなるとコミュニケーションそのものが成立しなくなる。そこで出てくるのが「自己責任」である。「お客様の好きなものを選んでくださればいいですよ」ということになるわけだ。

何が欲しいのかを明確にしてくれればお探ししますよというのだが、それが掴みたいからお店に来ているということは理解されない。そのうち「オンラインショップでもっと見てみたい」となった。何か勧めなければならないと思ったのだろう。定番のチノパンを押してきた。これがユニクロだと普段着ているから出来上がりが想定できるのだが、高い上に「なんか違っていたらイヤ」なので、だったらユニクロで見ようかなという気持ちになった。

BEAMSが神宮前にあった頃は「自分たちがトレンドを作っている」という気持ちがあったのか、聞かなくても洋服についてのうんちくを持っていた。銀座の店にも「店の方針はともかく自分はこんな洋服が好き」という人がいてそれなりに話が楽しかった。しかし、千葉店に勤めている人たちはそれほど洋服は好きではないのかもしれないし、本部から「これを売りなさい」というプレッシャーが強いのかもしれない。

あまりにも話がかみ合わないので、何が違っているのだろうと思い始めた。例えば今年のトレンドについて聞いている時にもそれを感じた。今年の流行は90年代風らしいなのだが、それは彼に言わせると90年代にはやったとされているフレッドペリーやチャンピオンズのアイテムを取り入れることを意味しているらしい。だが、それをどう「全体に位置付けるのか」ということを聞いてみても答えは返ってこない。

最初は「この人はめんどくさがっているのだな」と思っていたのだが、帰り道に別の可能性を考えて恐ろしくなった。冒頭に「若い人は読むな」と書いたのはこれが中高年固有の問題であって若者には関係がないからである。

かつてのトレンドはある程度構造化されていた。例えばバブル期のインポートもののスーツは少し大きめだったので国内のブランドもなんとなくそれに合わせていたし、渋カジと呼ばれる流派の人たちが「着るべきブランド」が決まっており、全体のシルエットがなんとなく規定されていた。つまり構造化された傾向を一つかみにして「トレンド」と言っていた。さらに情報の経路にも構造があった。BEAMSは例えば情報ソースであって、それが下流の消費者に流れていたのである。

だが、むかつくBEAMSの店員にとってのトレンドというのはアイテムの売り文句に過ぎない。いわば今期のマーケティングキャンペーンであり、本部に言われたことをコピペして行っているに過ぎない。これを雑誌に流して顧客を捕まえているのである。だから単なる独立してそれぞれに関係がないマーケティングキャンペーンが彼にとっては「トレンド」なのだろう。

その証拠に商品知識そのものは豊富に持っていた。「カナダ産のアウトドアアイテムが置いてあってこのラインナップは流行に左右されない」などというように一つひとつの知識は決して浅くない。気分としてはwikipediaで情報検索している感じだ。一つひとつにはそれなりに深い答えが帰ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。

「全体的な傾向」を聞こうとしてもそもそもそんなものは存在しないのだろう。「今の若い人たちに全体的な傾向を聞いても要領をえない」などと愚痴ること自体が不毛だということになる。なぜならば全体像がない世界を生きており、かつてのように物事が有機的な意味を持って結びついた場外をそもそも知らないからである。

この仮説を確かめるとすれば、雑誌などで聞いたキーワードをそのまま店員にぶつけてみるのがよいのだろう。お互いに関連がないなりに情報は豊富なのだからそれなりに話ができるはずだ。実際に帰ってオンラインショップを調べてみると「Begin掲載商品」と書かれていた。つまり断片的なコンテクストは雑誌が作っており、店頭は商品の受け渡しポイントに過ぎないのだ。「雑誌の知識は断片的なので全体像がつかみたい」などと思って店頭に行くということ自体がナンセンスだったということになる。

そうなるとWEARで気に入ったモデルを見つけてその評判を見た上で似たものを商品検索したほうが効率的だ。BEAMSがやたらと来店を勧めていたのはそもそも時代に乗り遅れ始めているからなのかもしれない。メーカー別にみるとファーストリティリングには遠く及ばない。ではファーストリテイリングの従業員が「楽しく洋服をお勧めしている」かというとそんなことは全くない。彼らはとにかく忙しく走り回っており接客という概念はなくなりつつある。

アパレルを離れて「コンテクストのない世界」について想像すると、現在の政治的な状況が違って見える。安倍政権を支持している人たちを見ていると項目が別々の語られていて全体像がぼやけている。これまでの文脈で政治を見ていると「デタラメでイライラ」してしまう。それは我々が全体のコンテクストを通じて構造的に政治を理解しようとしているからだ。

まとまりのないTwitter政治論評は、この脱構造化で説明ができる。安倍政権は加計学園の選定過程について整合した説明はしないが、部分だけを取り出すと「その都度問題がない」ことになっている。これはその時々の出来事について「その場限りの理解をしている」からということになる。つまり構造を持たずその場限りでわかりやすいことをいうから受けるということだ。文脈に支配されてしまうと柔軟な判断ができなくなり「全てがうまくいっている」などとは言えなくなってしまう。

現在、立憲民主党などの野党は「立憲主義」という構造を元にしてあるべき政治を提示した上で有権者に訴えかけている。これは立憲主義や民主主義という「お作法」を学んだ人たちには訴求するだろうが、その場その場で良し悪しを考えている人たち何の意味も持たないのかもしれない。

こうした情報の受け取り方の違いはブラウジングという概念で説明ができる。私たちがセレクトショップに行くのが楽しかったのは「お店がセレクトしてくれる」からである。だから用事がなくても「時代の気分」を観察するために定期的にお店に行っていた。しかし、もはやそのような意味でのトレンドはないのだからセレクトショップ自体が成り立たない。

「世の中で何が起きているのかな」と思いつつ新聞を一面から順番に眺めるのもブラウジンだ。しかし、新聞は「反日」か「政権べったり」という批判のための指標に過ぎなくなっている。全体的な社会合意(つまりトレンド)がなくなり、自分たちの好きな情報だけをやりとりするようになっているからである。

政治の文脈で見ると、少なくとも若者に訴求するためには「文脈の認知」とか「サポーターの醸成」みたいなことは意味がなく、その場限りの成功をみんながわかる形で主張するやり方のほうがふさわしいということになる。失敗したらもう人生終了で情報だけがたくさんあるという縮小型情報社会では「すべての結果がうまくいっている」と主張して全体の整合性を犠牲にしたほうが訴求しやすい。

トランプ大統領はその場その場の「ディール」に夢中になり、安倍首相は知的な能力の限界から文脈を形成する能力がないのだと思うが、これが意外と現在にマッチしているのかもしれない。するとその場その場の失敗について揚げ足を取り上げてそれを批判するのがベストのアプローチということになる。そう考えるとTwitterの政治批判は「政治を知らない人たちのバカな衆愚行動」ではなく割と本質的な政治議論だということになる。政治への理解というリテラシーそのものが意味をなさないからだ。

こうした世界がどうなるのかを考えてみたのだが、なんとなく一つの流行に人々が殺到するか、あるいは細かいコミュニティにわかれて相互理解が不能になる世界だろう。それは意外と現在の状況を正しく描写しているように思える。

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私利私欲と公益性の間で

先日、投げ銭をいただいた。投げ銭システムを導入した時「この人もお金が欲しいのか」と見られるのではないかとちょっと躊躇した。また、いただいたらいただいたでお礼をすべきかなどと迷っている。今のところこちらから連絡はしないでお気持ちだけいただこうと思っているのだが、これはおいおい考えることにしたいと思う。

「お金が欲しい」と思われて何が悪いのかということを改めて考えてみると「無私・公平」とか「私利・私欲」という言葉にある印象があることがわかる。どちらかというとお金をもらうことは悪いことで、お金とは関係なしに正義を追求するのは良いことだと感じられる。これが正しいのかどうかについての答えはすぐに出ないので、疑問を持ったまま先に進みたい。

今回、投げ銭システムについて書こうと思ったのは、一緒にコメントをいただいたからである。PayPalのコメントは130文字近くしか入らないらしいのだが最後の方に「やるせない気持ちに……」と書いてあったので、少し申し訳ないと思った。扱っている様々な問題について解決策が見つからないことでがっかりすることは少ないのだが、読んでいる人がそう思っているとしたらそれは少し申し訳ない。

解決策をあまり書かないのには理由がある。

もともと、このブログを書く前に「世の中はこうなるべきだ」というようなことを書いたことがあるのだがその文章は全く読まれなかった。そこでそれをやめて読んだ本のことを書き始めたのがこちらのブログのはじまりになっている。

その時には、日本人は個人の意見を受け入れないから影響力のない個人の解決策は読まれないのだと思っていた。日本人にとっては影響力のある組織に属している人とか、名前のある人の意見を好む傾向がある。その他に外国人を連れて行って「アメリカでは」とか「スウェーデンでは」などというと話を聞いてくれる人もおり、実際にそういうアドバイスがお金になることもある。「東大を出た人の意見」や「MIT卒業の人の意見」などというものもあり、意見よりも人間関係などの背後にある文脈を見られることが多い。

影響力を保つためにページビューを集めれば良いのだろうかと思ったのだが、それも違うようだ。ページビューを集めること自体は実はそれほど難しくはない。最も簡単なのは人格に注目することである。誰かを批評するか同調するのが一番簡単だ。だが、それは個人の意見ではなく誰かの意見だ。そしてその誰かの意見も別の人の意見だったりする。玉ねぎの皮を剥くようにどこまでも個人の意見というものが存在しないし、有名人がメンションしたコンテンツは2日程度で読まれなくなる。ページビューを集めてある程度のプレゼンスを維持するのも重要なので、時々安倍政権の悪口を書いたりもするが、問題の解決にはあまり役に立たないし、ブランド構築にも役に立たない。

しかし、解決策を書かないからといって、解決策が見つからないというわけではない。

例えば森友学園を巡る文章改竄事件について見ていると、その動機はさておき、改竄自体は村落の際で起きていることがわかる。問題を解決しようと思えば関係者をひとところに集めて、実際に何が起きているのかを聞けば良いはずだ。そこで本来力を発揮するはずなのが情報ハブである官邸である。官邸は省庁間の調整機能なので中立な立場でものを見ることができるはずだからである。

ご存知のように問題になっているのは実は官邸そのものである。司令塔であるという役割を放棄してプレイヤーになっている。これは日本人が村落の共同体として社会を認識し、リーダーとは何かということを教育されてこなかったからだと考えられる。つまり、官邸も村になってしまっており、力の強い村として近隣を押さえつけているのである。

一方で、野党も安倍政権打倒に夢中になっている。こちらは安倍村を潰そうとしているまとまりに欠ける村々の集まりである。だから安倍村は影響のある村に命じて「情報を出さないように」と指令して問題は隠蔽されつつある。

だから、問題を解決するためには野党が「民主主義にとって記録は大切なので、政権に関する議論は棚上げにいたします」と言ってしまえばよいことになる。すると国民は「野党は本当に日本のことを考えているのだろうな」と思うだろう。何が起きているのかがわからなくなってしまえば民主主義国家としての体裁をなさなくなってしまう。政府が恣意的に法律を運用する国に投資をする人はいないだろうから、経済的な打撃も大きい。

だがこんなことは起こりそうにない。それで「日本終了」かとか「絶望だ」などと思ったりもするわけだが、自分の意見をあえて持たないことであることに気がつく。つまり、与党は問題を隠すことで問題を大きくしており、野党は政権奪取の口実に森友問題を利用しようとすることで積極的に「問題を解決しないこと」を選んでいる。つまり、問題を解決できないわけではなく、積極的に解決しない道を選んでいるということになる。そして、政治に関心がある人はたいていどちらかの立場で積極的に問題を解決しないことに加担している。

もし、その気になったなら政権選択という村同士の小競り合いをやめて問題を解決するためのプロジェクトチームを作れば良い。それがリーダーシップというものである。だが、積極的に解決しない道を選んでいるのだから、それも民主主義というものだということになるだろう。

人間が党派性に夢中になる気持ちもよくわかる。例えばマクドナルドのwi-fiの問題について調べている時にカスタマーサポートや店長と話していると「彼らはこんな簡単な問題」についてなぜ非を認めないのかという気分になる。逃げると追いかけたくなるのだ。だが、よく考えてみるとwi-fiがつながらないで困るのは彼らであって、自分は別の店に行けば良いだけだ。だが、その問題に直面しているとつい「相手に自分の正しさを認めさせたい」という気持ちになる。

日本人が個人の意見を聞かない理由の一つには、相手に支配されたくないという気持ちが強くあるからではないかと思う。強い党派対立の世界を生きているので、相手の言うことを一度受け入れてしまうともっと無理難題を聞かなければならないのではないかと思うのだろう。また、個人が情報を受け取っても組織の説得という問題が出てくる。日本人はリーダーシップを嫌うので問題意識を持つことすら拒否するということになる。だから、問題をなかったことにする方が楽なのだ。だが、このような気持ちを持てば持つほど「隠蔽している」と怒り出す人が出てきて炎上案件が増える。でもやりたくてやっているのだから、それも通らなければならない道なのだと認めるしかない。

公益を追求しているつもりで自分だけの正義を押し付けることもあれば、逆に自分が面白いと思うことが他人の役に立つこともある。また、解決策を探そうとすると問題そのものが見えなくなることもあれば、答えを出さないと決めると答えが見えてくることもある。この辺りの頃合いは試行錯誤しながら見つけて行くしかないのかなと思う。

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小池晃さんの質問はデタラメだった、が……

今テレビで、小池晃参議院議員が高度プロフェッショナル制度について吠えている。裁量労働制の撤回という勝利を勝ち取ったので、この勢いのままで次に行きたいのだろう。

残念ながら、小池さんの頭の中では時間給・月給型のモデルと裁量労働型のモデルが頭の中でごっちゃになっているようで、言っていることがデタラメである。例えて言えば小作農の代表が自営農という制度を理解できないのに似ている。

裁量労働制にせよ高度プロフェッショナル制度にせよ企業からの独立度合いが高い働き方なので、言われたことをやるだけの労働しか経験したことがない人にはわかりにくい働き方なのは確かだろう。

かつて日本は西洋の正解を模倣するだけで成功できたので「言われた通りに働いて細かい改善を提案する」というやり方がうまく機能してきた。つまり、小作農が高度化することで成功した国なのである。しかし、正解がなくなった今、小作農がいくら頑張っても作物の収穫量は二倍にはならない。前回大塚さんが言った通り「レジ打ちが二倍早くなっても売り上げは上がらない」のである。

だからこそ小作農は自ら可能性を追及できる自営農にならなければならない。自民党と経済団体が推奨する制度は基本的にはこの認識が出発点になっており、発想自体は間違っていない。

だが、素直に自民党を応援する気持ちには到底なれない。

経済界は本来は裁量企画型の人たちをうまく使えなかった。その好例が電通の高橋まつりさんである。高橋さんは東京大学を卒業後、電通でデジタルの分野に配属された。この分野での電通の知見がほとんどないので「地頭のいい人」に探索させようとしたのだろう。

成長が止まってしまった企業は新しい知見を求めて裁量型の人を雇う。これ自体は間違っていない。しかし、電通は高橋さんを支援しなかった。現場にはたくさんの「小作農」がいて、高橋さんにパワハラやセクハラまがいの行為を繰り返したようだ。そのうち、自由農は小作として働かざるをえなくなり、かといって小作農を殺さないために作られた制度も活用できなければ、小作農向けの正解もない。最終的に何も考えられなくなり、最後には逃亡を図った。

電通の事例が深刻なのは、彼らが決してデジタル分野での経験を積んでいないとは言えないからである。海外の多くの会社と合弁して人を送り出している。それを本社に持ち帰っても再現ができないのだから企業文化に問題があると考えても不思議ではないのだが、電通は未だにそれが理解できないでいる。企業文化を変えるのはそれほど難しい。

実際の企業ですらそうなのだから、共産党の議員が「月給型」と「成果型」の社員を弁別できないのは当たり前である。経営者も理解できていないことが労働者が理解できるはずもない。

そこで不毛な議論が繰り返されることになる。さらに自民党の政治家にいたっては、それを理解させようともせず、壇上から「ヘラヘラと笑って」見ているだけである。彼らはさらに当事者意識がない。

ニュースでしかこの件を見ていない人にはわからないかもしれないが、今回の議論では安倍首相をはじめとする閣僚たちはいきりたつ野党をヘラヘラと笑いながら見ている。自分たちは特権階級であり「能力の低い小作的従業員のことなど知らない」という意識があるのだろう。ついて行けない人はついて行けなくても良いという認識がかなりあけすけに見受けられ、テレビ中怪が入っていてもそれを隠すそぶりもないのだ。

小作農が東アジアにおいて共産化の原動力になったという歴史を踏まえて、GHQは小作を自営農化させた。しかし、単に小作を放出することはせず、農協などの組織を整えて相互協力ができるようにした。つまり、高度プロフェッショナル制度なり裁量労働制を導入するにあたっても社会化が必要だということになる。だが、現在の自民党は過去の事例や数的モデルを利用した概念化ができないのでこのことがわからない。安倍さんがレクチャーされた内容をやみくもに暗記しているのと同じように、いろいろな成功事例が整理されないまま頭の中にあるのだろう。

抽象モデルが作れない自民党は新しい小作農を作ろうとしている。従来型の小作農は一旦抱えると一生面倒をみなければならなかった。荘園の経営者はそれは嫌だと言っている。そこで、自民党は非正規雇用をなし崩し的に拡大し続けてきた。特に派遣労働は派遣労働者に対するフリーライドである。派遣会社は雇用調整をしているだけで何ら生産的な付加価値を提供してはいないが、その存在が政治的であればあるほど政治への関与が増える。現在、彼らは外国人労働者を導入しようとして各地に経済特区を作っている。

マスコミにもモデルを作って全体を俯瞰するという習慣がないので、こうした正反対の政策が相互に矛盾するのではないかという議論は起こらない。全体像がないのだから労働者は当座の正解を求めて自己防衛的な反応をとらざるをえない。だから、自由農的な働き方をする人が出てきたら妨害して潰してしまい、身分が変わりそうな提案が出たらそれを潰してしまう。

こうしたマインドセットはTwitterにも現れている。裁量労働に対する興味・関心はそれほど高くないようで「最低賃金が重要」という声が強いようだ。生産性が高い国は物価が上がるから最低賃金も上がるのだが「相関性があるからこれは最低賃金をあげれば生産性が上がるという意味に違いない」などと言い出す記事もあり、状況は混乱している。

つまり「自分たちはたいした才能があるわけではないから高い賃金は望めない」と考えており「であれば、働いた分だけ最低賃金が欲しい」と考えているわけである。あれこれ指図してくれればそれが間違っていて成果が上がらなくても自分の給料分だけは働きますよという主張だ。

古い土地は地力を失い収量が落ちているのだが、誰も新しい土地を開墾しない。お互いに罵り合ったり嘲りあったりしながら、もう作物が育ちそうにない土地を耕している。収量が上がらなくても耕した時間の分だけ給料がもらえるので、やめられないのかもしれない。

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議論について行けなかった安倍首相

安倍内閣が裁量労働制の法案を提出しないことを決めた。これはこれでホッとする話ではあるのだが、このブログでは「労働についての議論が全くなされていない」のは与野党ともに責任があるのではないかと、比較的野党に厳しい姿勢で指摘してきた。しかし。どうもこれは正しくなかったようだ。

今回、参議院での大塚耕平参議院議員と安倍首相とのやり取りを聞いて「やはりバカなのは安倍さんなのだな」と思った。このバカぶりは深刻で、そのためにこの国の労働法制の議論が前進できなくなっているようなのだ。

よく「〜はバカだ」という議論がTwitterで繰り広げられている。これは人格否定であり、やみくもに使うべきではないと思う。しかし、この「バカ」には明確な害悪がある。一つ目は議論が進まなくなることなのだが、もう一つは「バカ」な人たちがバカなままでも政治に参加して良いと思うようになるという点にある。安倍首相を見て「初めて政治がわかった」という人も多いのではないかと思う。

wikipediaによると、大塚さんは日銀にいる間に大学院に通ってマクロ経済を研究したようである。つまり経済の専門家である。しかし、大塚さんは国会で専門知識を使って安倍さんをねじ伏せるようなことはしなかった。しかし、これが却って深刻さを浮き彫りにしている。大塚さんは「バカ」がどのように議論を理解するのかということがわからなかったのではないかと思う。

大塚さんの議論はこうだ。

そもそも裁量労働制が政府案として採用されるに至ったのは経済界が生産性を先進国並みに上げるためには労働法を帰るべきだと考えているからである。実際には経済界の「お友達」の間の約束事であり厚生労働省は関わっていないようである。厚生労働省が「エビデンス」を見つけられなかったのは当然だ。普段の現場を見ている人たちからは「裁量労働を増やせば生産性が上がる」などという議論は出てこないのである。

いずれにせよ、日本の労働生産性が低いというのが認識になっている。我々はこの数字を当たり前のことと考えており、このブログでもそのように取り上げてきた。

大塚さんは、そこで日本の統計数字の取り方は必ずしも正しくないのではないのかと疑問を呈した。失業率を下げるために広く労働人口を捉えることになっているようなのである。このためにたくさんの人が働いているのになぜか労働生産性が低いという数字が出ているのだと指摘したのである。

細かいことは理解できなかったのだが、つまり「分母と分子」の話であり、つまり割り算の問題でしかない。他の大臣はこの議論についてきていたが一人だけわかっていない人がいた。それが安倍首相なのだ。つまり、彼はこの問題が割り算の問題だということがわからない。だから、議論について行けないというわけである。そこでそれまでのレクチャーから聞き及んだ様々な単語を抜き出して、それを議論の中に出てきている言葉に当てはめてわけのわからない答弁をしていた。

冒頭で安倍首相はバカだと書いたので、多分ネトウヨの人は読むのをやめていると思うのだが、実際の問題は「概念的なモデルが作れない」という点にあるようだ。記憶力に問題はないようで、そのあとの議論でも過去に読んだ本の話をしている。

大塚さんが到達したかったのは、これは「日本の労働生産性が低い」という前提で始まった議論だが、その認識が正しいかどうかはわからないので、統計そのものを見直した上で議論しませんかという提案だった。

日銀と関係省庁はどう調整していいかがわからないのか、それとも野党の議員風情に指摘されたくなかったのか、うやむやな答弁をしていた。これについて大臣と日銀総裁が正しいと思えばそういえば良いし、そうでなければ「検討しましょう」といえば良い。しかし安倍さんはそもそも議論がよくわかっていないので、何もいえないでいたのだ。割り算がわからないというのは正確ではない。多分「モデル」が作れないのだろう。

大塚さんは、この先に労働生産性を上げるためには売り上げが上がらなければならないということを安倍さんに理解させようとしていた。ここでパートの従業員がレジ打ちの速度を二倍にしてもスーパーの売り上げが上がらなければ生産性は上がらないという誰にでもわかりそうな議論を展開した。

だが、これはまずかった。

茂木大臣と黒田総裁は「給料が上がらない」ということを認めてしまうと彼らの施策が効果がなかったことが露見してしまう。だから、大塚さんの仄めかしを避けようとする。しかし、そこには奇妙な空白が生まれる。だが、安倍さんにはそのことがわからない。大塚さんがどこに話を向かわようとしているかがわからないからだ。

安倍首相はパートの話は理解できたようだ。だが、結局大塚さんが何を意図しているのかがわからなかったようで「いい例えだった」と言って話をまとめてしまった。黒田さんは「給料が上がれば直近の経済成長は望めるかもしれないが、それ以上の成長を望もうとすれば供給側の構造改革をしなければならないのだから、政府のやろうとしていることは正しいはず」と主張したのだが、多分安倍さんは黒田さんが何を言おうとしたのかもよくわからなかったはずである。

モデルが作れない人がこれまでの議論をどう理解してたのかと考えると、かなり暗い気持ちになる。専門家が繰り出す様々な言葉が次から次へと頭の中に入ってくるのだが、それが決して一つの像を結ぶことはない。それは永遠に続く混乱と呼べる状態なのではないだろうか。その意味では「かわいそうな状態にある」と言える。政治家の家にさえ生まれていなければ、もっと安倍さんにあった仕事が見つかったはずだ。

例えば、今回の議論では労働生産性は成果(付加価値)と投入時間の議論から始まり、実は付加価値をつけるためには給与が上がらなければならないという関係があった。大塚さんは多分頭が良い人なのだろう。だからこの理屈を「簡単に説明してあげればきっと経済の専門家でない人にも理解が可能であろう」と考えたのではないかと思う。ところが安倍さんにはこれがわからない。それどころか映像のあるたとえ話は「なんとなくわかった」印象を与えるので却って危険なのだ。

自民党にとってはバカを中心に置くことにはメリットがある。安倍さんの下で働いている人たちは「決して安倍さんは理解ができない」ことがわかっているので、自分のやりたいことができる。安倍さんには美辞麗句を並べ立てて都合の良い話だけをしていればよい。また、失敗したとしても安倍さんから責任を追及されることはない。

さらに、モデルが作れない人たちは、安倍さんの話を聞いて初めて「政治がわかった」と感じたのではないかと思う。これが安倍首相が広く支持を集める理由になっているのではないかと思う。これは選挙に強いことを意味している。

つまり、有権者と好き勝手にしたい人たちの間に「バカ」を置くことですべての矛盾が吸収される。野党が理詰めで追及しても「バカ」が吸い取ってくれるのである。

これをIQと結びつけて考える人もいるかもしれないのだが、抽象モデルを作れない人は記憶力の優れた人の中にも多くいるのではないかと思う。彼らは正解を記憶することはできるがモデルを使って未来を予測することはできない。つまり、探索型の行動が取れないことになる。皮肉なことに、これは日本の生産性を下げる一つの要因になっている。経済界が「アメリカのように時間賃金型でない給与体系を入れれば日本も成長するだろう」と考えているのはその一つの表れである。

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憲法とハードコーディング

どこにでも頭が悪い人というのはいるものだが、そういう人に「あなた頭が悪いですね」と言ってはいけない。なぜならば感情的になってあとにひかなくなってしまうからだ。

しかし、こと憲法の議論においては頭が悪い人が多いという印象がある。特に、安倍晋三という人は頭が悪いと思う。

ここでいう頭の悪さとはなにか。それは「あれ何か変だぞ」と気づく力のなさである。言語化するのに時間がかかるのは構わないのだが、そもそも、最初の「あれ」がないと途方もなく長い時間を無駄に過ごすことになる。

憲法の問題は頭が悪い人が始めたせいで、明後日の方向に向かっている。それは政治リソースを食い尽くし、その質を悪化させる。

もっともおかしな議論が自衛隊を憲法に明記するという提案である。もともと日本の憲法は成立時に軍隊をあり方が変化している。だから、自衛隊を明記しただけでは不具合はなくならない。根本のアルゴリズムが間違っているからである。一方で、下手なプログラマほどアルゴリズムを無視して目につく問題点をプログラムで直接操作したがる。こういう方法を「ハードコーディング」という。アルゴリズムが間違っている上に例外処理が書き込まれるので、場合によってはひどいバグを引き起こすことになる。

しかし、下手なプログラマに「ハードコーディングはダメ」というと感情的にキレられることがある。ハードコーディングがまずいということが直感的に理解できないのだ。そういう人ほどめちゃくちゃな議論で人を困らせてなんとか自説を押し通そうとする。

こういう頭の悪い人が議論の起点になっているので、反対する方もなんだかおかしなことをいっている。野党は憲法を「権力者を縛るものだ」と言っている。確かに気持ちはよいだろうが、それは必ずしも正しいものの見方とは言えない。権力者と国民を別のものとしておいているからだ。日本は民主主義国家なので「権力者」という階層の人はいない。もしいるとしたら、その人たちは「自分は決して権力者にはなれない」と思っていることになる。

民主国家における憲法は「国と国民の間の契約」と言った方が正確だ。全てを国民全体の話し合いで決めることができればよいのだが、それはできない。だから誰かに委託する。委託するときに「このような手続きでこれとこれを任せるからあとはよろしくね」というのである。権限を委託された人たちのことを権力者と言っている。そして契約に基づく権限なので説明責任が生じるし、結果責任も取らなくてはならない。憲法は契約書であると同時に手順も決めてる。だから、憲法はプログラミングにも似ているのである。手順や付与する権限に設計上の問題があると、運用者が苦労することになる。

今までも自衛隊の問題では政府は運用に苦労してきた。日本は軍事力を持たないという建前があり、かといってアメリカが全部面倒見切れないという現実もあった。またアメリカは同盟国だという建前になっているが実は日本が軍事的に暴発するのを抑える役割がある。このために憲法第9条には問題が多く、それを解釈で乗り切ってきた。しかし、昨今の議論を見ているとこれが限界だろう。あまりにも運用に頼りすぎてきたために正当なジャッジができないので司法は国防に関する諸問題を無視し続けている。

だから、不具合に対処しようというのが正しい姿勢なのだが、なかなかそうはいかない。なぜならば起点が間違っているからだ。安倍首相は「日本がアメリカの仲間になって戦える国にしたい」と考えているようだ。そうすれば「今度は戦争に勝てる」からである。こういう人に向かって「国際情勢が変化しているので柔軟に対応できるようにしましょう」などと言っても無駄である。物事の複雑さが扱えないので、単純化して理解してしまう。だから議論が成り立たない。

その意味では護憲派は安倍首相に感謝しなければならない。安倍晋三が首相をしている限り憲法第9条のまともな議論はできないだろう。しかし、それがよいことなのかもわからない。護憲派はいつまでも国際情勢を無視したままで思考停止していられる。だから彼らは「権力者を縛るものだから権力者は変える提案をしてはダメ」などと言って平気な顔をしていられるのだ。

では、安倍晋三が首相の座を降りれば憲法議論は前に進むのだろうか。とてもそうとは思えない。それは現在の国会議論が堕落しているからである。堕落というと批判しているように聞こえるかもしれない。確かに不愉快な現実だが、決してどちらか一方を批判しているわけではない。

例としてあげられるのが労働法制の議論である。日本の生産性は低いのでこれをなんとかしなければならないという問題意識は誰でも持っている。しかしながら「個人が努力したところでどうしようもない」という諦めもある。すると、自分が頑張ってもどうしようもないのだから、せめて得点を得ようという気分の人が出てくる。

現在の労働法制の議論は経団連と連合の代理戦争になっている。経団連は製品やサービスによって経済をリードすることができないということがわかっているので、人件費を下げて生き残ることしか考えられなくなった。そこで生まれたのが派遣社員、残業代がつかない正社員、福祉給付をしなくても構わない外国人労働者への欲求だ。経団連は昔からこれを繰り返し訴えている。一方で、連合の方も「経団連の要求を排除できたら自分たちの得点だ」というマインドセットがある。

政治はこの問題を打開できないので「飴と鞭」を使って取引をしようとしている。野党が目指すのは飴だけを取り上げて鞭を回避したい。これができれば野党の勝ちで、飴が手に入れられなくても鞭を取り上げることができなければまずまずと考えているのだろう。裁量労働制は鞭にあたる。だから8本の法案のうち裁量労働制だけを取り下げろと言っているのである。

この「取引マインド」は政治全体を支配しているようだ。もはや全体設計ができなくなった人たちは意欲を失い取引を求めるようになる。例えば、維新の党は「教育の無償化」という取引材料を求めている。しかし、財源が確保できそうにないので、自民とはこれを「努力目標」にしたいという。

もし、自民党の人たちが憲法は契約であるということを正しく理解していれば「努力目標」などという発想は生まれなかったはずだ。なぜならば相互契約において一方が努力目標になればもう一方も努力目標になってしまう。つまり、国民も普段は権力を国会議員に委託しているが嫌になったら必ずしも従わなくてもよいということになってしまうからである。これでは憲法どころか法律すら守る必要はなくなる。これを法律の専門家がどう評価するかはわからないが、直感的におかしなことになってしまうのである。

そもそも「とにかく憲法を変えたい」という人が始めた議論なので、議論の目的が極めて曖昧である。そこで「憲法は美しい国柄を規定する」とか「権力者を縛る」とか「努力目標」だとか「議席を得るためのバラマキの根拠だ」などといったさまざまな倒錯した議論が起こるのである。

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日本人論と反日は実は同じもの

先日、日本には左右のイデオロギー対立は存在せず、実際には世代間対立なのではないかと書いた。この考察を進めるに当たって出てきたのが他己像という表現だ。もちろんそのような言葉は辞書にはないのだが、漢字なので意味は伝わるのではないかと思う。

驚いたのはこれについてコメントがあったという点である。政治的な諸課題よりも緊急性が高いのかもしれない。ちょうどこの文章の下書きを終えたところなのでどこまでが共通認識になっているのかがわからずに中途半端な返信になった。いずれにせよ、今回出てくる「他己像」という言葉で説明できることが多い。

日本人の間に埋めがたい思想的なギャップがあり、それを説明するためには「相手がバカだから」という前提を置かなければならないということだと思う。さらに年代ごとの軋轢もかなり深刻なことになっているようだ。この文章ではバブル世代とその後の世代の対立について扱うのだが、終身雇用世代と非正規雇用世代の間にも埋めがたい深刻な対立があるようである。今回の課題はこれが正当なものなのかという点にある。

昭和の時代には日本人論というジャンルがあった。前回例として挙げたのは「日本人とユダヤ人」で、これは300万部以上のヒットとなったそうである。1970年代に流行した日本人論は主に日本人は遅れているので西洋化しなければならないという筋で書かれている。今風にいえば日本をdisっていたのである。

これらの本を書いた人たちは、日本が戦争に負けた理由は「遅れた日本性」にあると考えたのだろう。これ自体が一種の揺り戻しであるということがわかる。そしてそこからいち早く脱却したものが成功を掴めるという認識があったのだ。

日本人論にはいろいろな要素が含まれている。感覚的に挙げると次のような感じになる。

  • 日本人は個が確立されておらず集団主義的である。中には「甘え」という概念でこれをポジティブに捉えたもの(甘えの構造)もあったが、たいていはネガティブに捉えられている。前回までの議論で「村落論」を書いたが、これは典型的な日本人論である。
  • 日本文化は辺境文化に過ぎず普遍性がない。これは中華文明との比較によるものなのだが、のちにアメリカ方式=グローバリズムという図式にも影響を受けているのではないかと思う。世界に通用しない日本文化という図式だ。
  • 哲学に興味のある人は、中心に空白があり責任の所在があいまいであり、意図的な意味のなさを伴っているという論に惹かれた。(河合隼雄の中空構造日本の深層)(ロラン・バルトの表徴の帝国

しかし、この後、日本人論は極端に揺れ動く。1980年代の高度経済成長を受けて、日本企業は西洋の経営論の研究対象になる。そこで日本の企業はなぜ優れているのかという論が展開された。70万部も売れたジャパン・アズ・ナンバーワンが書かれたのは1979年だそうだ。

しかし、バブルが崩壊すると、今度は決められないダメな日本という面が強調されるようになった。日本人は集団主義なので何も決められないから、決められる政治が求められるというような具合である。これが政界再編騒動に結びつくのだが、結局野党はまとまることができなかった。そこで小泉純一郎という人が「自民党をぶっ壊しますから」と言って、こうした人たちを再び自民党に集めた。

いずれにせよ、この中で語られる日本人というのは自分たちのことではなかった。博物館でガラスケースに入った「日本」を鑑賞するような感覚で日本人が捉えられていたのである。

しかしながら、この日本人論は小泉後に別の展開を見せる。それが「反日」である。日本の遅れた精神性や文化などを攻撃する人たちを見て「自分たちが攻撃されている」と考える人が出てきたのである。中心にいたのは「ダメな日本人」ということで粛清されてしまったポスト小泉の政権だった。

安倍晋三は二重の意味で「日本」から排除されている。まずは吉田茂の時代に岸信介がGHQから排除されて戦後の意思決定の枠組みに参加できなかった。岸は日米安保には関わることができたが、憲法を自らの手に取り戻すことはできなかった。そして孫の安倍晋三はダメな日本の象徴としてテレビで民主党系の議員たちに叩かれた。彼の系統が見ている日本人というのは「日本性を脱却しよう」とするダメな日本人だった。そして、この動きに共鳴したのが高齢者と中堅以下のサラリーマン世代だ。彼らは「尊敬され優遇されるべき日本の男」なのだが、男女平等や機会均等という言葉の元に排除されていると考えたのだろう。

安倍晋三の答弁を見ていると、彼が政治について何一つ理解していないことがわかる。つまり能力がないから否定されたのであって、決して彼の「日本性」が否定されたわけではない。しかしながら、能力がない分だけ自分の力量を正確に見ることができないので、それを何か別のものに転移させようとしている。

彼の力量のなさは日本の政治をさらなる混乱に陥れようとしている。彼が憲法改正にこだわり日米安安保や地位協定にこだわらないのは、おじいさんが憲法からは排除されたが日米安保では当事者だったからである。しかし、日米安保を見直さなければ「日本がアメリカから精神的に独立」することはありえない。この堕落した精神は憲法議論を堕落にと追い込んでいる。

自衛隊が自分の意のままに動かせないならそれを「直接書いてしまえばいいじゃないか」というのは、アルゴリズムが破綻したプログラムを書いている人が、例外処置をそのままハードコーディングするようなものである。これは別のバグの原因になるだろうが、もっと深刻なのは同じようなことが常態化すれば、憲法は「スパゲッティコーディング」に陥ってしまうという点にある。

さらに自民党の人たちは「自分たちの選挙区を復活させるために参議院議員を県選出にしょう」と言い出している。安倍さんが自衛隊を憲法に書き込みたいのなら「取引として入れよう」というのだ。教育も「維新や公明党との取引」として入れなければならないが、お金がないので「努力目標にしよう」などと言い出している。野党時代の自民党は自分たちが否定されたルサンチマンをぶつける形で人権を否定する草案を書いたのだが、政権側につくと「取引材料として憲法を利用しよう」と考えるようになった。

一般支持者たちはさらに歪んだ精神を持っている。韓国人や中国人への差別と結びつける形で「日本を侵略しようとしている人たちが日本の中にいる一部の不心得な人や帰化政治家を使って日本を攻撃している」というストーリーを作りあげその中に逃げ込んでしまった。

戦前は戦後世代によって否定された。その戦後世代がポストバブルの「経済敗戦期」に生まれた人たちによって排斥されようとしているというのが今の状態だ。その中で何を自己を捉え、何を他己と捉えるかで出方が全く変わってしまうのである。

日本人を自分と他人という二つの極端な層にわけて考えてきた結果、日本人像は極めてあいまいなものになっている。ネトウヨの考える歴史は戦前に国家がでっち上げた神話を元にした歴史が多く含まれる。政治家の中には2600年前に樫原神宮が存在したと真顔で信じている人もいるらしい。

恵方巻きと大して変わらないものを日本の伝統だと捉える人も多い。鉄道会社のマーケティングから生まれた初詣を日本の伝統だと考える人も多い。正月はもっとも日本人らしさが感じられる季節だが、年賀状は郵便局が作った伝統だし、おせち料理ももともとはデパートが作った伝統がテレビに乗って広まったものである。全て企業のマーケティングなのである。

では、我々が排斥しようとしている日本や反日とは一体何なのだろうか。これが次の課題になるのかもしれない。例えば個人として生きなければならないという理想を持って大学を卒業したバブル世代の人たちが企業の中では何も決められない典型的な集団主義の大人になり、それ以下の人たちに嫌われるという現象がある。また、主体性を持って未来を切りひらけという老人に何かを提案してもあれこれ理由をつけて否定されてしまう。つまり、個人として言っていることと、集団で行っていることについての乖離がとても大きい。実は、私たちは自分たちの中にある個人としての私と集団としての私を収束させられずに、二つに分解して捉えているのかもしれない。

これが日本人論を「他己像」とした理由である。つまり、他人に見える己の像を嫌悪しているにすぎないのかもしれない。

つまり、日本人は個人としての考えを持ってはいても、集団になるとその振る舞いが大きく変わってしまうということである。戦前の日本人の中にも戦争は嫌だなと思っていた人たちは多かったのだが、それでも集団としては戦争に向かっていった。戦後人々は伝統的な生活から抜け出して個人主義的な生き方が理想だと考えたが、集団としての無責任な企業文化を変えることはできなかった。そして、それに反発する世代も偉大な日本民族は一致団結すべきだと考えていても、実際の政治論議をまとめることはできないという具合である。

振り返って考えてみると「個人として持っている理想」と「集団としての振る舞い」が違っているだけなので、日本人論も反日も、個人の日本人が集団としての日本人を攻撃しているだけだ。世代によって見え方が全く異なっており、これが不毛な相互対立につながっているということがわかる。

この仮説が正しいのかどうかはわからないが、このように見ていると差別発言を繰り返す人たちにそれほど腹が立たなくなる。彼らは戦う相手を間違えているだけであって、決して何かを信じて行動しているわけではなさそうだからである。免疫が暴走して自己を攻撃するという、いわばアレルギー症状のようなものなのだ。

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