橋と情報の島

Facebookのタイムラインに「モノが売れない」とか「不景気だ」と言っている人たちがいる。モノが売れないのは確からしいが、いつも同じメンバーで情報を交換し合っていても結論は変わらないのではないだろうか。

こうした一群を「クラスター」と呼ぶ。だいたい、同じような人たちで形成されている集団だ。ところが、実際のネットワークを見ていると、クラスターとクラスターの間に線が伸びている様子が分かる。こうしたネットワークを再現するためには「似た者同士」の集まりの他に「ランダムな線」を加えてやるとよいことが知られている。

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島と島を結ぶ橋(5)と情報のコネクタになっている橋(8)

橋はバイパスの役割を果たしていて、世界をより小さくて緊密なものにしている。こうしてできたネットワークの性質を「スモールワールド性」と呼ぶ。世界が小さくなると、異質な接触が増えて新しいアイディアが集りやすくなる。

だから、ランダムな結びつきの果たす役割は大きい。ランダムな結びつきがなければ、人々のアイディアはどれも似たようなものになってしまうだろう。

ここではクラスターを「島」と呼び、それを結ぶランダムな存在を「橋」と呼びたい。

有名なグラノベッターの説(『転職 – ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)』など)によると、弱い紐帯(ちゅうたいと読むのだそうだ)ほど、新しい転職先を探すのに有利なのだという。弱い紐帯は「橋」や「ランダムリンク」と同じような意味合いだと考えてよい。これは新しい機会が異質なところにあるという前提があって成り立つ話である。ただ、日本は同質性の高い社会なので、弱い紐帯が転職活動に有利なのかという点については合意がないそうだ。

「ランダムリンクを増やしてイノベーションの機会を増やそう」という論はあまり人気がないようだ。代わりに集団内の統制を強めたり、樹状の組織を再編成して効率的な運用を目指そうという論が多い。マネージャからみると、この方が効率的に見えるからだろう。ただしこうした組織が効率的なのは、集団が同じ目的を共有しており、なおかつ適当なインセンティブを与えて操作できる場合だけだ。インセンティブを与えるということは望ましい結果が分かっている場合だけなので、そもそも正解を探索する必要のある組織に向いた形状ではない。

均質すぎる集団は「正解探索行動が取れない」ので、「閉塞して答えが見つからない」状況を作り出す。

実際に日本の組織は下部組織に自発的なリンクがあり、それが組織を活性化させていた。自発的なリンクは家族的な経営が作り出したものだった。しかし、終身雇用は過去のものになり、同じ組織の中に正社員と契約社員が混じり合うようになった。故にこうした自発的なリンクはなくなりつつあるのではないかと思う。これは、1980年代にアメリカ人が日本型経営を観察した結果得られた知見だが、日本人は自分たちのことをあまりよく知らないのかもしれない。さらに最近社会人になった人たちは、そもそも家族的な組織を知らないのではないかと思う。

ソーシャルネットワークでも異なる価値観を持った人たちとつながるネットワークは作成可能なのだが、それを実践する人は少ない。

隣の島に渡る人が少ない最大の原因は「島の地図がない」ことにあるのかもしれない。それぞれのメンバーは「個々人」に見える。実際には紹介者のネットワークのようなものがあるのだが、これは解析してみないと分からない。ただ、この障壁は「地図を作るために島を渡ろう」と思いさえすれば乗り越えることができるだろう。

もう一つの原因はメディアに対する人々の固定観念だ。テレビ型のメディアに慣れているせいか「受け手は聞きっぱなし」という姿勢が身に付いている。ここから選択的に好きな情報をピックアップする。これはお茶の間でテレビを見ているような状態だ。寝そべっていようが、裸であろうが関係ない。だから、メディアの方から働きかけがあると「恥ずかしい」と感じるのではないだろうか。テレビ型のメディアは一方通行なので、橋の役割は果たさない。ソーシャルメディアと放送の違いはこの「双方向性」にあるのだが、双方向のメディアのあり方に慣れていないのかもしれない。

さらに集団に対する警戒心や疲れのようなものもあるだろう。たいてい誰かが積極的に働きかけてくるのは「何かを売り込みたい」ときか「損を押し付けたいとき」だ。故に働きかけられると「何か裏があるのではないか」と思ってしまうのかもしれない。組織はしがらみだと感じているのである。

ジャーナリズムと場

ジャーナリズムの衰退が語られている。もう新聞の需要がなくなったという人もいれば、ジャーナリズムは民主主義の要であり新聞は重要だという人もいる。そもそも、新聞はどのように始まり、どういった読者に受け入れられたのだろうか。

ヨーロッパにおける新聞の祖先には二つの説がある。政治パンフレットと商業出版物だ。政治パンフレットの歴史は国民の知る権利を巡る闘争の歴史だ。ヨーロッパでは国が出版を管理する時代が長く続き、政治パンフレットの発行を理由に死刑になる人もいた。一方、商業出版の歴史では広告宣伝とニュースの間の線引きが問題になる。

イギリスのアン女王時代に出版された最初の日刊新聞デイリー・クーラント(リンクはwikipedia)の出版部数は1,000部以下だった。特定の政治信条を主張するパンフレットと違い「ニュース編集者の主観を入れない」という方針で知られていた。

この時代1712年に新聞税が課税されたのだが、人々はそれでも新聞を読みたがった。その読者はどのような人たちだったのだろうか。

イギリスではトルコから入ってきた流行の飲み物であるコーヒーを楽しみながら新聞や雑誌を読むコーヒーハウスが人気だった。ここで議論が交わされ、世論が形成された。商人たちは情報を交換し合い、ビジネスも生まれた。新聞はコーヒー・ハウスで読まれていたから、1,000部以下の部数でも世論に対する影響を持つ事ができたのだ。

仲間と一緒に新しいビジネスに取り組むとき、海外から入ってきた新しい事物に関する情報には需要があった。デイリー・クーラントが「ニュースに編集者の主観を入れない」と宣言したのは、読者ができるだけ中立な情報を望んでいたからだろう。

残念なことに、現在の新聞が特定の場にいる読者を想定して記事を記事を書くのは不可能だ。だから、現実や読者はこうあるはずだという像を作り上げるしかない。しかし、新聞が態度を変えない一方で、読者を取り巻く環境は大きく変化し続けている。ネットが台頭し広告収入が減った影響で、大規模なリストラを行う新聞やネット版への完全移行を決めた雑誌もある。

ジャーナリストの多くは、ジャーナリズムの伝統を所与のものとして捉えており「ジャーナリズムがどうやって成立したのか」という歴史に思いを馳せる人は少ない。日本ではジャーナリズムの崩壊は民主主義の危機だというような本が出版されているのだが、そもそも伝統がどう作られたのかを研究している人もほとんどいないようだ。

場の成り立ちがそれに相応しいメディアを生むのであって、メディアが場を作るわけではない。基本的なところだが、ジャーナリズムの危機を考える上では重要な視点ではないかと思う。

アフガンに小麦を実らせる

テレビで、アフガニスタンで小麦農家を支援する日本人を紹介していた。

内戦が始まる前、アフガニスタンは小麦が豊かに実る土地だった。しかし、内戦で小麦農業は完全に破壊されてしまった。アメリカは復興支援として小麦を送ったのだが、この小麦は乾燥したアフガニスタンの気候には馴染まず、収穫は従来の2割程度にしかならない。日本の研究機関は、50年前のアーカイブからアフガニスタンで小麦を見つけ出して故郷に送りかえした。8か月かけて小麦を育てて、確かに収穫があったことも確認できた。これを出発点にして、品種改良をして行こうという計画である。

アフガニスタン復興にとって小麦農家の支援はとても重要な意味がある。現在は輸入に頼っている小麦を国内で栽培できれば、貧しい人にも行き渡るだろう。次に小麦が栽培できなければ農家は麻薬の材料になるケシなどを育てざるをえなくなる。さらに、援助依存に陥っているアフガニスタン経済を復活させるためにも産業を根付かせることはとても重要だ。経済活動が滞れば不満分子があらわれて治安を悪化させる可能性が高い。

内戦の結果、国内に張り巡らせていた灌漑施設も大きな被害を受けた。こちらの復興も急がれる。日本は農業支援に関して豊富なノウハウがあり、こちらの支援も期待されている。

さて、このニュースを見て気になったことがあった。なぜ、アメリカはアフガニスタンの気候に向かない小麦を送り、その後平気だったのかという点だ。アメリカはアフガニスタンから撤退できずにいて、そのために多額の出費を強いられている。つまり、アフガニスタンに農業を定着させて「トクする」のはアメリカの側なのだ。

ニュースではその点についての言及はない。

援助は援助にしかすぎず、それがどう活かされているのかということはあまり気にならないのかもしれない。その意味で「アメリカ人はおおざっぱだから」支援がうまく行かないといえる。アメリカの小麦農家も自分たちの小麦の「販路」さえできればそれで満足なのだろう。さらに「自分たちの国のものは無条件に世界最高なのだ」と考える人もいるかもしれない。つまりアメリカで実っている小麦がアフガニスタンで栽培できないのは「アフガニスタン人がうまくやっていない」からなのだ。

一方で、日本がこうした支援に熱心になるのは、それが「国策」だからではない。アフガニスタンの高齢の人たちは、幼い頃に農作業の手伝いをしたことを覚えているらしい。これを長年の内乱ですっかり荒れ果ててしまった田園風景に重ね合わせれば、彼らの心情がよくわかる。水田もしばらく耕作しないで置くと荒廃する。つまりアフガニスタンと日本は「灌漑農業」体験を共有しているのである。

そもそも、日本人がアフガニスタンの小麦のアーカイブをしていた点にも、農業に対する執念のようなものを感じる。50年前 – まだ日本がそれほど豊かではなく、海外旅行もそれほど一般的でなかっただろう時代だ -に小麦の由来地調査のためにアフガニスタン以外の国からも多数の小麦を集めている。日本が「米作を国の基」と考えているように、アフガニスタンにとって小麦は重要な産業だ。国旗にも小麦があしらわれているくらいなのだ。

キリスト教文化圏とイスラムはお互いに対抗意識があり、両国に深刻な対立を引き起こす。しかし日本はキリスト教国ではないのでこうした対立もない。さらに「日本の農業のやり方が優れているから」といっておしつけたりもしていない。あくまでも「一緒に作って行きましょう」という姿勢で臨んでいるようだ。これはアフガニスタンと日本がそこそこ離れているから成り立つ関係性なのではないかと考えられる。

「アメリカより日本の援助の方が優れている」ということを意味しないが、その国が持っている「文化」はとても重要な意味を持っているようだ。

日本は、国際社会の要請に対してアフガニスタン支援をしてきたのだが、実際にはアフガニスタンに駐留している国際部隊の支援をしていると言ってよい。そしてその方法は西洋人の文化や考え方に基づいた軍事的な支援だった。西洋諸国は被支援国が独自のやり方で安定するかという点にはあまり興味はなさそうだ。自分たちと同じような民主主義国ができて、同じような資本主義経済圏が根付けば、それでおおむね満足なのだ。そして「うまくやりさえすれば」こうした社会が定着するのだと無条件に考えている。

このように「援助する側」に非西洋圏の国が入っているということには大きな意味がある。それがあまりにも自然なので、改めて考えるまでその重要性に気がつくのが難しいくらいなのだ。

『最後の授業』の誤解

『最後の授業』という感動的な短編がある。

アルザス地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやらフランス語の先生が、プロシア人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。フランス語の先生は「フランス語は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年はフランス語を習得できなかったことを恥るが、もう二度とフランス語を勉強することはできないだろう。小説は「フランス万歳!(Vive la France)」という言葉で締めくくられる。

この話の教訓は「国語というものの力強さと素晴らしさ」で、一時期、国語の授業では必ず教えられていた。今40歳代の日本人であれば誰でも知っている話だろう。勉強する機会は充分にあったのに、勉強させなかった、という先生の後悔の念が語られ、フランス語をろくに習得できなかった(動詞の活用ができない)生徒も悔しさをにじませる。

これを日本語と中国語の関係に置き換えてみよう。もちろんこんな史実はない。だから中国語を英語に置き換えてもらっても構わない。しかし何語に置き換えても「かなりショッキング」に聞こえるのではないかと思う。どちらも異民族支配をにおわせるからだ。

沖縄地方に住む少年が学校に遅刻して行ったところ、大人たちが深刻そうな様子で集っている。どうやら中国語(あるいは英語)の先生が東京人たちによって辞めさせられるらしい。今日が最後の授業だというのだ。中国語(あるいは英語)の先生は「中国語(あるいは英語)は世界で一番の言語である」ことを強調する。少年は中国語を習得できなかったことを恥じる。小説は「中国万歳!(あるいは英語万歳!)」という言葉で締めくくられる。

アルザス地方に住んでいるから、この人たちは「フランス人だろう」と、私達はついそう思ってしまうのだが、実際に住んでいるのは「アルザス人」だ。アルザス語はドイツ語の一派である。(Wikipediaにはドイツ語の方言と書かれているのだが、これはことの本質に影響する問題だ)小説の中に「フランス人だと言い張っているが、フランス語もろくにしゃべれないじゃないか」という言葉が出てくるのだが、これは当たり前である。アルザス人にとって、フランス語は学校で習わなければ覚えることができない「外国語」(という言葉が適当でなければ、別系統の言葉)なのである。

この状態は実は現在でも続いている。フランスにはバイリンガルな人たちが相当数存在する。
この話のもう一つのポイントは「アルザス人」と「プロシア人」の関係だ。この頃にはまだ「ドイツ人」という概念はなかった。例え話の中で「沖縄」を出したのはそのためだ。現在の沖縄人は標準語をきれいに話すし、琉球方言が日本語と同系統にあるのは間違いがない。しかし、これを「琉球方言」と呼ぶか「沖縄語」と見なすかは、実は大きな問題だ。「独立したアイデンティティ」と見なすことも可能だし「日本人とは違う」という差別の温床にもなる。日本人としてのアイデンティティを持っている大阪府在住の沖縄人(例えば金城さんや仲村さん)を「差別するのか」という問題になりかねない。

フランス留学時にこの話に接した日本人は「ああ、民族にとって言葉は大切なのだなあ」と純粋に感動してこの話を持ち帰ったのだろう。しかし、実際には複雑な背景持ったお話なのだ。だから、最近ではこの話は教科書では教えられなくなってしまった。

アルザス地方にはこうした複雑な背景があり、天然資源や軍事拠点の問題からドイツとフランスの間で領土争いが続けられてきた。現在フランスでは「地方語」を大切にしようという運動があり、アルザス語の他にも南フランスのラテン語、サルジニア語、カタロニア語、バスク語、ケルト系の言語などを保存しようという動きが起きている。フランス語は大言語なのでこうした複雑なことが起こるのだろう、と思いがちだが、フランスの人口は6500万人だ。母語としてフランス語を話すのは7200万人なのだという。

アルザス語話者は「書き言葉としてドイツ語を使い、日常言語としてはアルザス語を話す」ことがあり、その意味では「ドイツ語の方言」ともいえる。これは九州地方の人が日常会話で九州方言を使い、学校で標準語の習うのに似ている。

日本人は「日本語は一つしかないに決まっている」と考える傾向がありそうだが、1億人以上が話す言語なので、それなりの多様性がある。しかも学校では方言の文法を教えないので、扱いが曖昧になることがある。

例えば、西日本方言には共通語にない特徴があるのだが、学校できちんと習わないために、使い方が曖昧になる傾向がある。例えば「買いよー(今、買っている)」と「買っとー(既に買ってある)」は違う意味なのだが、きちんと説明できる人は少ないのではないかと思う。「雨が降りよー(今降っている)」と「雨が降っとー(雨が降ったあとがある)」も違う状態だ。

また「しゃべれる(この人は英語がしゃべれん)」「しゃべりきる(外人とはようしゃべりきらん)(この原稿は長すぎるけん、時間内にすべてしゃべりきらんばい)」は同じ能力を現す表現なのだが、能力的に可能なのか、その意欲や余裕があるのかという違いがある。つまり方言は文化的に下位にあるからといって機能的に劣った言葉であるとは言えないし、日本語の各方言が同じ文法的構造を完全に共有しているわけでもない。

定義や独立した政治意識がないので「九州方言を九州語と呼ぼう」という動きもなければ、どこからどこまでが「九州語」なのかも分からない。例えば瀬戸内海沿岸で話される言語が「九州語を基底にしているのか」「中国地方の言葉を基底にしているのか」「そもそも西日本諸語は一つの言葉なのか」はそれぞれ議論の余地がありそうだ。

琉球方言を例に挙げたので、それだけが特別なように見えてしまうのだが、実は日本語の中にもそれぞれ特徴が異なった言語層がある。それを意識しないで使い分けている。

この「民族の問題」は、頭の体操レベルなのだが、実際の問題を考えるうえで役に立つのではないかと思う。

現在、尖閣諸島、竹島、北方領土など「辺境地域にあるのに、国家や民族のアイデンティティにとって大切な」地域の問題がクローズアップされている。大抵の場合「中国」「日本」「韓国」「ロシア」という国家領域の問題なのだが、ついつい民族問題として捉えてしまいがちだ。民族というのは複雑な概念だ。『最後の授業』では、フランス=フランス人と捉えることで、ドイツとの競争を有利にしようとした。このように、対外的に団結するために「民族=国家」という人工的な概念を作り上げることがある。

よく「我が国固有の領土」という言い方がされる。「北方領土は我が国固有の領土」という言い方は、確かに合理的な正統性があるのだろう。しかし、実際には「アイヌなどの北方民族の地」なのではないかという見方もできる。できるだけドライに「政府が合法的に手に入れたか」を問うべきだと思うのだが、ウエットな感情なしにこれらの問題に肩入れできる国民が果たしてどれくらいいるのか、少し疑問に思ったりもする。つい「日本人の土地を返せ」と感じてしまうのである。

日本国=日本人=日本列島という国に住んでいると「民族」「国家」といった問題はかなり自明のものに映る。しかし「日本語」や「日本人が何なのか」という概念は、実は私達が考えるように自明のものではない。そして対峙している国の中には、ロシアや中国のように多民族の国もある。また韓国のように、1つの言語を共有する民族なのに、3か国によって呼び方が異なる人たちもいる。

「爪はぎ魔女」の正体

北九州市八幡東区の病院で、認知症の老人の爪を剥ぐ「残忍」な看護士が捕まった。告発状がきっかけだった。彼女は裁判にかけられる。関係者やマスコミは「どうしてそんなことをする必要があったのか」とに関心を持った。警察の捜査で浮かび上がったのは、彼女がストレスを抱え込んでおり、そのストレスをはらすために、老人の爪を剥いでいたということだっだ。告発状のおかげで、虐待を訴えることができない「かわいそうな」お年寄りは救われたが、ストレスの多い現場環境の改善が望まれる。
これだけを聞けば、この看護士を糾弾し、ストレスが多そうな介護現場の改善を訴えたくなるのではないだろうか。しかし、この看護士は第二審で無罪判決を勝ち取った。第一審の頃から「爪はぎ」という事実すらなかったのではないかという証言も多く集った。専門家たちによれば、これは「爪はぎ」ではなく「フットケア」だったからだ。
つまり問題は、なぜこの看護士が訴えられ、第一審で「執行猶予付きの有罪判決」を受けてしまったのかということだ。
看護課長がいた部署は、短い間に何回か責任者が変わっている。訴えられた看護課長は、その任についたばかりだった。彼女の行為が「ケアではない」と考えたスタッフもいたようだが、意識が低かったのはスタッフの方だった。老人の爪は折れやすく、処置の際に血がにじむ事もある。むしろ放置しておいた方が危険ということもあるのだった。この「意識の低い現場」と現場を改革したいと考えるマネージャーの対立は時に深刻化することがあるだろう。特にトップマネジメントの関心が薄ければ、問題はカプセル化され、内部では軋轢が生まれるのではないかと想像できる。
病院トップマネジメントの関心の薄さと専門知識のなさが魔女裁判の最初のきっかけになった。多分、市の担当者は細かな介護現場の事情は知らなかったのだろう。そして、市の側も「調査に時間をかけていて、身内をかばおうとしているのではないか」と批判されたくなかったのではないかと言われている。この「事件」の前に京都である事件があった。派遣の看護助手が患者の爪を剥いでいたのだ。
この「仕事には厳しいが、同時によき母親でもある」看護課長を取り調べた側は、ギャップを埋めるために「ストレスが溜まって、弱者いじめに走った」というストーリーを創り出す事になる。いわゆる認知的不協和を埋める必要があったのだろう。取り調べて疲れ果てた看護課長はふらふらと取り調べ調書にサインしてしまった。「サインしなければ一日が終らない」からなのだと説明している。地裁はこの調書に従って判決を出したのだった。
裁判が始まってから、看護課長の無実を訴えかける証言が相次ぎ、日本看護協会も「これはケアであって虐待ではない」という支援表明をした。にも関わらず、地裁は「執行猶予付き」の判決を出した。調書を否定すれば「取り調べが間違っていた」ことになってしまうからだ。この「事件」を防ぐためには、調査委員会が早くから専門家の意見を求めていればよかったのだろう。また、医師が「看護士にケアを依頼」していれば、「ケアか虐待か」という疑念も生まれなかったに違いない。看護の現場にとって、この「事件」の影響は少なからずあったのではないかと思う。「ケアか虐待か」という極端に判断が別れるケースが頻発すれば、多忙な看護現場は回らなくなってしまうだろう。
誰が告発したかはよく分かっていないのだが、現場のやっかみから始まったのかもしれない。これにマネージメントの知識のなさと「事なかれ主義」が加わる。さらに、警察、検察、裁判所が作った物語が加わると、簡単に「現在の魔女裁判」ができ上がってしまう。(※この構造分析も「想像による」ということを、念のために付け加えておく。)
マスコミはこれをセンセーショナルに報道するだけで、関係者の言い分を取材したりはしなかった。「事実」が報道されたのは、第二審で看護課長が無罪判決を受けた後だった。「爪はぎ魔女」は実はシゴト熱心なよい母親だったと申し訳程度の追加報道がなされた。テレビ局の中には、今度は「えん罪事件」として、警察・検察当局を批判する番組を流したところもあった。この裁判は3年以上かかり、無罪判決が出たあとしばらくの間北九州市はこれを「虐待」だと認定したままになっていた。
私たちは、最初の「爪はぎ事件」について短くコメントした後、この事件を忘れてしまった。センセーショナルな事件は次から次へと報道されて「視聴者を飽きさせない」ことになっている。私たちが持っている「社会正義」とは多くの場合「エンターティンメントのスパイス」のようなものだということは知っておいても良いだろう。

TPPについて考える

2011.11.03: かなり反響があったので、すこしだけ書き直しました。
試しに、Googleで「TPP Obama」と入力してみると良くわかる。20ページ目まで見たが、英語のエントリーは1つもなかった。多分、米国ではあまり話題になっていないのではないだろうか。(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementで検索するとニュージーランドとオーストラリアのページがいくつか検索できた)ということで、この話「アメリカとの貿易協定」と考えるなら、結論は簡単だ。「やめた方がいい」
議論を聞いていると、識者たちのアタマの中がわかっておもしろい。重要なのはほとんどの人が相手の言い分を全く聞いていないということだ。例えば、前提になる自由貿易のメリットすら理解されていないようだ。
「関税をかけずに貿易したほうがいい」という考え方の基礎にあるのは「得意なものは得意な人が作ろう」という前提だ。これを比較優位と呼ぶ。比較優位が依然有効かについては議論がある。資本流動が簡単に国境を越えるのに、人材はそれほど国際流動せず、財政は国ごとにバランスさせなければならない。だから、こうした比較優位が未だに成り立つかどうかという議論もある。しかし、たいていの議論は、単純な比較優位の原理さえ理解していないようだ。
例えば、米にかかる700%の関税の対価を支払っているのは日本人だ。つまり、日本人は高い米を買わされている。米の市場が解放されれば、確かに日本人にとっては「いい事」なのだ。このように自由貿易理論は経済学を学ぶ上で常識のように扱われている。故に経済を学んだ人は、域内の貿易を自由にすれば産業が活性化するだろうという前提を自明のことと考えて、TPPについて議論する。
しかし、これは枠組みの問題だ。域外に対しては排他協定になり得る。よく言われるのが中国やEUとの関係だ。フレームを「日本」にすると自由貿易になるのだが、もう少し引いてみると「保護主義」に映る。この事を指摘している人は少なからずいる。フレームを変化させると、推進者たちの議論がすべてオセロゲームのようにひっくり返る。なぜならTPPは域外に対して保護主義的だからだ。
しかし、それよりもおもしろいのは、議論を通じて、日本人のアメリカに対する屈折した思いが透けて見える点だ。まず第一に、アメリカはもう時代遅れの国だとみなされているらしい。アメリカは、イラクやアフガニスタンの経営に失敗し、イスラエルを暴走させ(国際社会はアメリカのイスラエルに対する態度を承認しているとはいえないようだ。最近、パレスティナがユネスコに加盟した。一歩間違えば国際的に孤立するのは実はアメリカの方かもしれない)、北アフリカでこっそり支援していた国々では革命が起こった。アメリカ国内では失業率が上昇、足元ではデモまで起こっている。「TPPのおかげで、日本がアメリカ市場に参入できる」と読み取る事も可能なのだが、誰もアメリカ市場には期待していないらしい。
それよりも深刻なのは、アメリカは不平等条約を押し付ける国と見なされていることだろう。アメリカが誘ってくる「deal(取引)」には必ずやアメリカが一方的に優位になる条件が盛り込まれていると信じられているようだ。韓国と結んだ協定が「不平等だ」と話題になっている。韓国国会では野党が大反対して国会が荒れているのだが、日本では大きく報道されなかった。TPPとは関係ないが、Amazonが出版者に送りつけたとされる契約書が話題になっている。東洋圏は「体面」と「関係性」を大切にする文化圏だ。だから、こうしたやり方は、少なくともアジア圏では嫌われる。このように、アメリカは中東圏だけではなくアジアとも文化摩擦を起こしている。
この協定をアメリカ側の立場から見ると次のようになる。最近失敗続きのアメリカの行政府が、起死回生を狙って既存の自由貿易協定に目をつけた。しかし空気を読まない(ある意味それだけ必死といえるのだが)強引な手法と、これまでの強気の姿勢が祟って、日本側から警戒されているということだ。これほど不信感が高まっている相手との協約を、国論を二分してまで議論する必要はないのではないか。
さて、このTPPを推進している新浪さんという人がおもしろいことを言っていた。曰く「普段、お客様と接している立場から、日本人は高くてもおいしい日本の米を買い続けるだろう」とのことだ。たしかに、日本の消費者の中にはこういう人たちもいるだろう。緊急輸入したタイ米が大量に余ったのは記憶に新しい。しかし、例えば牛丼のように味付けを濃くしてご飯を大量に食べるというタイプの商品はどうだろうか。独身のサラリーマンのように、コメの品質や産地にはあまりこだわらないという人はたくさんいる。新浪さんは、一般のサラリーマンのように、290円弁当を食べたり、牛丼屋さんには行かないのかもしれない。
この方、商社経由でサービス産業の社長になった方なのだが、多分市場開放の打撃が最も大きいのは、農業ではなくサービス産業だろう。生産効率があまりよくないのだ。
さて、ここまで書いて来ておもしろいニュースを読んだ。そもそもアメリカが言い出したことではなく、菅直人さんが「僕もTPPに参加したい」と言ったのだという毎日新聞のニュースだ。「対米従属」いう疑念の裏側には、戦後長い間、失敗した政策、性急な改革などを、すべて「アメリカの圧力だ」と説明してきた政府の態度もあるのかもしれない。推進論者が自明の事として、市場開放=善としているのと同じように、アメリカのイニシアティブ=悪と考えた人も多かったのではないだろうか。
菅直人さんがどうして参加したいと思ったのかはまったくわからない。情報の空白は「アメリカに利益供与することで…」という憶測で埋められるようだ。なぜ、アメリカに利益供与しないと日本の首相になれないのか、合理的な説明が求められる。
さて、これを当事国の立場から見てみよう。もはや本当のところが何なのかさっぱりわからないのだが、オーストラリアなど「本当に参加したかった」国は、落ち目のアメリカに議論をかき回された上に、ただでさえ議論が鈍いので有名な日本が参加するかしないかで結論を先延ばしにさせられていることになる。一方、オーストラリアがアメリカと結んで日本市場を狙っているという憶測もある。
秘密協議なので、こうした国々の不満は表面化しないわけだが、これ以上外国に嫌われないうちに、こうしたドタバタはやめた方がいい。「人様に迷惑をかけない」のも東洋的な美徳だ。

コンランとモリス

Terence Conran on design – テレンス・コンランデザインを語るを読んだ。コンランはデザイナが製造・販売・マーケティングなどに深く関与すべきだと主張している。これはコンランの個人的な体験から来ているようだ。

コンランは仕事を探すがなかなか認めてもらえない。デザインは選ばれた人たちだけのものであってはならないと考え、手軽に手に入るデザイン家具を作る。手軽に買える代わりにお客が自分で組み立てるというコンセプトは販売店には受け入れられなかったので、自分たちで店を作った。1964年のことだそうだ。コンランはデザイナは単にデザインするだけの存在ではなく、社会的に重要な役割があると考えている。

コンランがこう考えるのはイギリスが階級社会だからかもしれない。職人階層は自分たちの役割を明確にしておく必要があるわけだ。

ウィリアム・モリスはコンランよりも100年前に同じようなことをやったデザイナー出身の実業家だ。出身も同じような実業者階層だった。有名なのはテキスタイルや壁紙のデザインだが、それだけでは飽き足らずフォントまでデザインした。モリスの知識は多岐にわたる。庭を観察してイギリスならではの植物をデザインに取り入れる。染色に精通し、限られたコストで効果的に染色する方法も知っていた。ウィリアム・モリスも自分たちで会社を作りデザイン論を語り、アート・アンド・クラフトという運動を起こした。モリスはフリーランスのデザイナを起用したことでも知られているとのことである。

モリスは晩年には社会主義運動に傾倒する。しかし、実務の人らしく、マルクスの理論には関心を示さなかったようだ。しかし、デザインは限られたエリートたちだけのものではなく、幅広く大衆に受け入れられるべきだと考えていた。この主張はコンランと共通する。(ウィリアム・モリスとアーツ・アンド・クラフツ運動 – 146枚の図版によるデザインの原典決定版 ウィリアム・モリス)

20世紀は一般に科学と消費の世紀だと考えられている。社会主義運動が起こり、一部の国では地主階級やエリート層が解体かされた。エリートのものだったデザインもこうした人たちの努力によりまた大衆化され、消費の対象になった。

近頃話題になったスティーブ・ジョブスはデザイン教育を受けたが自身はデザイナーではなかった。結果的に優れたデザインを数多く送り出した実業家として位置づけられることになった。評論家たちが主張するのは、ヒッピー文化との関連だ。これが、コンピュータの大衆化という主張に発展し、紆余曲折を経て携帯型の端末が作られた。

コンランやモリスは自身がデザイナーであり、かつ経営者としても成功した。このようにデザイナーはただ、デザインをするだけではないことを知るのは大切だし、経営やコンセプトメーキングとデザインは必ずしも無縁のものではない。人によっては政治的なムーブメントとのつながりさえ感じられる。世の中のトレンドを読むというレベルではなく、根源的な欲求を実現するための手段としてプロダクトのデザインを位置づけている。

一方、デザインをまったく無視した起業家もいる。例えばヘンリー・フォードは自動車の製造工程からデザインをまったく排除することで、量産化を図った。おかげで自動車は大衆に広まるのだが、やがてフォードTモデルは飽きられてしまうのだが、それでも無機質で「デザインのない」ものが無意味だとは言えない。その証拠にTモデルは、ある時代を表現するアイコンとして頻繁に用いられる。

このようにデザイナはただ単にできあがったものの見栄えを「ちょちょっと」良くするための職人ではないし、広告の色付け屋でもない。製品の価値そのものを決定する力を持っている。しかし、だからといって自動的にそういった地位が得られるというものでもない。先人たちの努力の上で社会的役割を自覚しなければ、便利な職人で終ってしまうかもしれない

リスク社会とは皆様のNHKが正解を提示できなくなった社会のことだ

木曜日のあさイチは面白かった。室井佑月さんが政府の御用学者とみなされている中川恵一氏の見解にかみついたのだ。詳細はコチラから。そもそも20msvという値に対する学識者の対応がばらばらなのに加えて、食べ物から入る被爆量は考慮されていない。各官庁が縦割りで基準値を出しているからだ。だから室井さんは「福島県では郷土愛から子供たちに地元の農産品を食べさせているようだが、せめて食事だけは地域外のものを」と発言したのだろう。

ここでNHKはジレンマに悩まされる。「みなさまのNHK」としては、福島の野菜や魚の安全を疑問視されては困る。風評被害につながるからだ。

ここで色々な人の思いの思いが錯綜する。ここで飛び出したのが柳沢秀夫解説委員である。他の出演者の話を遮って話を進める。いっけん、中川さんを批判しているような調子で「火消し」に走った。これがどきどきした理由である。そして、テレビって面白いなあと思った。声の調子や表情からかなり明確に場の葛藤が伝わる。

原子力発電所の問題は科学技術に属することなので正解がわかりそうだが、実際はそうではない。なぜならば、今後20年になにが起こるかは誰にも分からないからである。今、原子炉の中でなにが起こっているかすら分からない。セシウムの挙動についてもよく分かっていないようだ。

番組の途中から中川さんも、口に出しては言わないものの「俺もどうなるか分からないもんね」的な態度を見せ始める。そして、お得意の「野菜を食べない人」と「受動喫煙」を持ち出して、話をそらそうとした。しかし、2か月以上こういうお話に付き合わされて来たNHK側の人たちは、もはやこの手法には反応しない。

室井さんが主張するように厳しく基準を当てはめると、避難区域はさらに広がるだろう。もしかしたら福島県全域に人が住めなくなるかもしれない。そして福島県の農産物や水産物は深刻な風評被害に晒されるだろう。財界と株主は負担しないことを決めたようなので、そのコストを支払うのは国民と東京電力圏内の人たちだ。

誰も正解がわからないのだから、この問題に関してNHKは「みなさまの」(つまり万人が満足して、良かったよかったと喜び合える)ポジションを取りえない。「情報をお伝えする事によって視聴者に安心していただく」こともできない。もしNHKが「みなさまの」ポジションを取るならば、NHKは最初からこの問題を扱ってはいけなかったことになる。

新しいことに踏み込む前に、西洋文化では、確率を計算する。中央に「起こりそうなこと」の山ができ、左右両端に「起こりそうもないこと」が位置する。起こりそうもないことを過度に心配しても仕方がないので、リスクを考慮しつつ両端を排除する。これを信頼水準と呼ぶ。「過去の統計上95%の信頼水準で健康に被害は出ない」というような言い方をするけだ。これが「確率は0でない」の正体だ。

大竹まことのラジオで、ウルリヒ・ベックが朝日新聞に書いたというエッセー(インタビューかもしれない)が紹介されていた。どうやら起こる可能性は低いが、いったん起こるととんでもない事態を引き起こす事象にあたると言っているようだ。意思決定の際に捨てさるのが「テールリスク」だ。テールリスクとは数学的には正規分布に従うと仮定して、0.03%エラーが起きる可能性をさすのだそうだ

大竹さんは、テールリスクについて肌感覚では分からないようだった。日本人の「安全確実」は100%安心だからだ。が求められる。NHKが目指しているのは「正しい情報を伝えれば、確実に安心安全に行き着くだろう」という地点だったのだと思う。ところがこの件に関しては、正しい情報はなく、確実な安心安全も担保できない。日本人は貴重で豊かな国土を失うという経験をしてはじめてこの「リスクの世界」に踏み込んだといえる。

家庭によって受け入れられるリスクは違うので、一律に提供する給食システムは崩壊するだろう。

そのあとの雰囲気はさらに気まずかった。有働アナウンサーが「さらメシが何の意味か、レギュラーの室井さんだったら分かりますよね」と質問すると室井さんが「サランラップ」と叫んだのだ。NHKでは商標は使ってはいけないとされる。人ごとながら背筋が凍った。

社会の不確実性が増すと、誰でも不安になる。やがてこれは行動につながるだろう。

俳優の山本太郎さんがドラマのキャストを外されたということでTwitterが盛り上がっている。20msvを撤回させようという運動に発展するかも知れない。彼が政治家ではないところが求心力を生んでいるように思える。

日本はいきなりリスクのある世界に放り出されたのだが、日本人はリスクについて理解できない。したがって根本的な解決はできず、怒りは他のところに転移するだろう。

日本ではソーシャルメディアを通したジャスミン革命のようなことは起きないと思っていた。しかし政府や財界のあり方に疑問を持っている人は多い。自分の利害のためには声を上げない彼らが「大義」を見つけたとき、事態は思わぬ方向に向かうのではないか。

こうした運動体を甘く見ない方がいいだろう。

計画停電と混乱

一日街を歩いた。計画停電があるかないかで街中びくびくしている。役所も報道情報とウェブサイトから情報を作っている。当の報道は、紙面や画面の都合で部分的な情報しか流していない。停電を前提としてガソリンや食料の不足(これはデマから来ている買いだめなのかもしれないが…)もある。電気が止まれば水道も止まる。下水道も止まるかもしれない。故に東京電力の責任は重大だ。
まず、最終的に分かった事実は「うちは計画停電実施地域」には含まれていないということである。これは「丁目」単位では分からない。契約番号を告げた上でどこのネットワークに入っているかを調べる必要がある。そして現場は情報を持っている。僕は契約番号を持っておらず、現地事務所で調べてもらったのだが、住所と近所の目印になる建物名を教えたら3分程で出て来た。それくらいの情報なのだ。

対応してくれた技術者によると、うちが地域に入っていない理由は次の通りである。送電ネットワークには階層がある。階層があるだけでなく、中継回路になっているものもある。今回の「計画停電」は途中でブレーカーを落とすようなものなのだが、中継回路のブレーカーを落とすと、末端まで全てが止まってしまう。故に中継点は階層の下位にあったとしても止められないそうだ。故に止まるのは「ネットワークの末端にある」地域だけだということになる。うちはたまたま中継点にあり、東京電力の公式発表ではグループ2に入っているのだが、いずれのグループにも入っていないのだそうだ。家の根元にあるブレーカーを止めると影響が大きいので、各部屋のブレーカーを落としているような感じです、と図式を使って教えてくれた。今回は(あとで分かることなのだが、この区は夕方から夜間にかけて停電が実施されたので、多分裏では準備していたのだと思う)入っていないということかと聞くと、この家は地域ではないですねえという。「グループの組み替えをしないかぎり計画停電はない」ということですかと聞くと、「そうだ」という。

2011/03/18追記:その後情報はさらに錯綜している。本当のことは市民生活がもとに戻るまで分からないのではと思う。この後、千葉県は多くの地域が災害地域なので計画停電の区域から「外した」という情報が出た。Googleが協力して地図が出た。東京電力はデータだけ管理し、プレゼンテーションをGoogleに任せたのは良かったと思う。
千葉市内では稲毛区の西千葉から若葉区の愛生町あたりが計画停電区域に入っており、Twitterによると西千葉は実際に停電したようだ。花見川流域(八千代など)も停電区域に入っていようだ。都賀駅周辺は区域から外れている。実際にいままでのところ停電していない。
ところが、実際に被災(液状化して水道もやられているらしい)している浦安の情報が錯綜している。「停電区域から外せず」「交渉の余地がない」という記事がありTwitter上で非難が集りそうだった。しかしGoogleの地図では浦安は停電区域から外れたようだった。良かったなあと思ったのだが、文化放送によると「停電した」というリスナーからのメッセージが読まれた。隣の市川でも連絡なく停電したそうだ。
技術者は「ブレーカーを落とすように」と説明してくれたが、機械的にそんなブレーカーがあるわけではないのだろう。極めて機械的な操作に政治的な配慮が入るとオペレーション(つまり現場)が混乱する。かといって、被災地の停電は社会的に非難されるだろう。
多分「情報が錯綜」しているわけではないと思う。現場そのものが少なからず混乱しているように思えるのである。
このエントリーは多く読まれているようだ。しかしここで東京電力の非難で終ってはいけないということを改めて強調しておきたい。(いま読み直してみても随分感情的に思えるのだが、一応このまま残しておく)
最初の情報にほとんど無意識であっても恣意を加えると、その後そのストーリーを維持しなければならなくなる。情報発信側にあったのは「受け手は状況を理解してくれないだろう」という不信だったのではないかと個人的には考えている。
緊急時には情報がもたらすインパクトを考えて情報を操作してはいけないし、コントロールできているフリをしてはいけないというのがこの件の教訓だ。

ここまでが技術者から聞いた話。あとは発電ネットワークと送電ネットワークは区切られているということを教えてもらった。停電が戻って(復電というのか?)も「ブレーカーを落として上げたときに壊れないのであれば」機器に余分な電気が流れることはないのだそうだ。(この技術者の話を念頭に新聞広告を読む。分かりにくさに愕然とした。これ言いたいのは「事前にいろいろ言ったから壊れても文句言うなよ」にしか思えない)多分発電側のネットワークを守るために送電側を調整してるんでしょうねえと聞くと「ええそうですね」といっていた。
報道されているリストはすでに「サマリー」情報で、実際は地番単位で確認しないと本当のことは分からない。その晩見える範囲からは停電は確認できなかった。テレビはこのサマリー情報をまたサマリーする。故に「区域全体が停電します」となるわけだ。情報が根元から下流に来るに従って、どんどん大雑把になってゆくのがわかる。
地方自治体はかなり末端で情報を取得している。しかも、それぞれ独自に情報を収集しているようだ。区役所を2つ、政令指定都市の市役所、県庁を回ったのだが、2の区はそれぞれ違うリストを使って停電情報を把握していた。市役所(というよりは市民情報センターみたいなところだが)も独自で資料を作る。これはどうして一本化できないのか。なぜ、この期に及んでも情報を共有しようとしないのか。普段からこうした非効率なやり方をしているのだろうか。
ここからは推測。中継点にあたるネットワークがどれくらいの割合あるかは分からない。しかし、今回計画停電するのは、電気ネットワークの末端ばかりのはずだ。今回の区分けを変えるとは思えない。それは物理的なネットワークに依存しているはずだからである。故に「止まる地点は何回も止まる」ことになるだろう。しかしこんなことは発表できないだろう。なぜならばたまたま作られた電気ネットワークの構成に依存して地域に著しい不公平が生じるからで、土地の値段にすら反映する可能性がある。今回の計画停電に文句がでないのは「大抵の家が停電する」と考えられているからだ。もし「うちだけが止まります」だったらどう感じるだろうか。
故に今回発表されたあのリストが真実を反映しているかどうかは分からないのではないかと思える。良く類推すると時間内に技術者からの情報をまとめ切れなかったということだ。しかし、表面上の平等を保つために全ての地域(23区は入っていないわけだが)が掲載されたリストが作られたのかもしれない。そもそもこうした「大人の事情」が含まれていたとすれば、効率的な広報などできないだろう。加えて社会保険事務所と同じように「電気を作ってやっているのだから、お前が聞きにこい」という姿勢も見られる。計画停電が実施される地域への通報はなかったのだが、これは社会保険庁が「年金については受給予定者が問い合わせて来てください」と言っているのに似ている。実際には戸別に「お宅はどこに入っている」と周知しなければ情報は伝達できない。多分、電気代の請求書に書いて送ることはできるはずであるが…受付電話すら増設しないところを見ると、あまり費用はかけたくないのだろう。
どうやら今回使われている(そうして全く電話がつながらない)電話番号は普段から使われている受付電話のようだ。実際に計画停電が始まってからはNTT側が制限をかけている。止まってから初めて「うちはいつ復電するのか」と問い合わせする人が多かったのかもしれない。そもそも「自宅が対象になっているか」が分かれば不安は解消されたはずで、契約番号だけ教えてくれと事前にガイドした上で電話を増やせばこうした混乱は起こらなかったはずだ。
Twitterを見ると「千葉と茨城は被災地なので全県が対象外になった」と誤解している人がいる一方、予告なしに電気が止まったと言っている人もいる。自治体の問い合わせ窓口はパンクして、徹夜で対応をした地域もあったそうだ。ニュースによると3/15の計画停電実施区域は500万世帯だ。(そもそも、どのリストをもとにした情報かは分からない。第2グループの世帯数を独自集計しているのであれば、実際の停電世帯はもっと少ないはずである)日本の世帯数は5000万弱なので、1/10の家で停電したということになる。
事前に一生懸命システムを作り東京電力の情報を見やすくした人もいる。こうした事実を知り類推すると、こうした努力が「バカみたい」に見える。メディアの制限で記載できる情報が限られている。新聞ではXX区は「〜グループに入る」とされている。ウェブサイトは「X丁目」は「〜グループだ」という。でも実際には地番単位で分かれているわけだ。丁目別の情報を見てもそもそも意味がないのである。Twitterではこの時間も「情報はここ」のようなつぶやきが展開している。彼らの善意を返してあげてほしい。そして自分たちの地域が停電しないと分かれば無駄な買いだめをしなかった人も多いのではないか。
多分、発電ネットワークの過負荷を避けるために、ありもののネットワークをそのまま使い「落とせるところを落としましょうよ」という話になったのだろう。そもそもそこで情報のスキミングが起きている。対応電話回線はすぐに増やせるはずもない。ブース増設にはお金がかかる。社会保険庁の例でもわかるように臨時に電話オペレータを雇っても教育して、対応できるようになるまで何日かはかかるはずだ。彼らはこれを「まあ、いいか」と思ったに違いない。これがフォールバック(つまりあふれたものが外に行く事だ)する。フォールバックした先は地方自治体で、復旧対策を行う必要がある旭市も含まれており、情報伝達もできない。人々は諦めて自前で情報を共有しようとしているわけだ。これをそのままテレビが伝え、さらに混乱した。地震は国難と言っている人がいるが、首都圏の混乱は人災だ。
このエントリーの現実的な教訓は「情報は最も根元で入手しろ」だ。この場合、送電側の部署に聞くのが一番手っ取り早い。しかし、それでいいのだろうか。彼らは実務を行っている。問い合わせが殺到すれば実作業に影響が出るだろう。
東京電力は潰れない。地域の電力供給事業は独占されているからだ。故に彼らにはこうした失敗を未然に防ぐインセンティブはないのである。福島の件で、菅直人さんが100%潰れますよと言っているが潰れない。そしてそのことは彼自身も知っているはずである。社会主義体制は一長一短だが、これは最も悪い側面の一つだろう。
さて、ここまで書いて来て「結局東京電力の事務方の悪口」を書いて終わりにしていいのかと考えた。そこで、どうすべきだったかを考えてみる事にする。情報の流れを見ると、技術者から伝わった情報は、いったん本部に上がる。そこでいろいろな大人の事情による制約を受ける。またメディア上の制限もあり細かな情報がながせない。その限られた情報は無数の人たちの努力で見やすく加工される。しかしもともとの情報が限られているので正確にならない上に、変更がかかっているらしい。変更の理由は定かではないが、送電ネットワークの物理的事情に依存するのであればこれが組み替えられる可能性は少ない。すると、急いで発表した文書の間違いを修正しているのかもしれない。
情報的な問題点は明確だ。つまり途中で人の手がかかるとエラーが増えるのである。ということは解決策も簡単に見つかる。情報はあるわけだから、これを公開してしまえばいいわけである。東京電力はプレゼンテーションをしてはいけない。つまりHTMLやPDFに加工しない。彼らの役割は2つだ。1つは元データを一括して管理すること。できればバージョン情報を付ける。技術側の停電情報をメンテナンスしたら元データとヒモづける。これをボランティアが加工し見やすくする。もう1つは元データの配信が滞らないようにすることだ。こうした情報共有のやり方は、インターネットでは普通に行われる。例えばIPアドレスとURLを結びつけるネームサーバーはこのモデルで情報を管理しているのだ。
実際に歩いてみて感じた問題点は、この期に及んでも情報を他部署と共有しない行政と、「情報が欲しければ取りにこい」といいつつ情報を発信のキャパシティを確保しない企業に集約できる。「正確な情報が分からない」し、「発信もできない」のに全て自前でコントロールしようと考えてしまう。これに情報に関するリテラシー不足が重なると混乱が生じるわけだ。

緊急災害時とネットメディア

地震から1日経った。人間は情報量が多くなると適切な行動ができなくなるというNewsweekの記事を読んだばかりで、テレビから一日中流れてくる被災情報とテロップに圧倒されながらちょっと怖くなった。情報に圧倒されていて「情報疲れ」を起こしているのが実感できたからだ。地震の経験は2分くらいしかないわけだから、そのあとは「〜が来るかもしれない」という情報に圧倒されることになる。そうした中「多分デマだろう」という情報に接した。ということで、地震後の雑感をまとめたい。

情報は錯綜する

どうやら、いろいろな情報が流れてくると、テレビで聞いた事・実際に見た事・人から聞いた事などが区別できなくなるようだ。これには著しい個人差がある。故に情報は錯綜すると考えたほうがいい。多分「情報」よりも「行動指針」を示したほうが、情報弱者には優しい。情報に強い人は「何らかの事態を想定し」「それに対する情報を探し」「関係ある情報を選択している」のに対して、情報弱者は「とにかく来る情報をすべて受け入れ」「それを感情的に処理し」「圧倒される」というプロセスを踏んでいるのと思う。感情的に処理とは「かわいそう」とか「こわい」とかだ。そして、いざ何か行動を取らなければならなくなったときに「なんだか分からない」ということになる。そして情報強者も情報量が増えるのに従って判断力を失って行く。
しかし情報の収集に慣れている人は「何か隠しているのではないか」と考えてしまうかもしれず、これらを整理して流すのはなかなか大変そうだ。情報リテラシーが低下すると、漢字の見た目で「これはひどい事になっているに違いない」と感じるらしい。テレビは情報を蓄積できない。何時間かごとに「高速道路が止まった」とか「動いた」という情報が出て来たり、1日前の情報がテロップで出ると判断に必要な情報が取り出せなくなる。次回のために文字情報のルールを作っておいたほうがいい。死者数を流すときと、高速道路の情報を流すときに背景色を変えるとか、できることはいろいろあるはずだ。少なくとも「起こったこと」と「現在の行動指針のための情報」は明確に区別したほうがいいだろう。

人は情報を交換するがその通路は様々

最初に地震が起きたとき、年配は積極的に声をかけてきた。「地震がありましたね」とかその程度だ。僕は40歳代なのだが「何か崩れましたか」とか「震源はどこですか」とか「余震が続いていますね」とか声を返す。これが安心を生み出す。後は近所の人に声をかけたりする。しかし、いわゆるロスジェネの人たちは、年齢で固まって内輪で情報交換をするようだ。家に帰りつくとTwitterなどでは情報を交換しあっている様子が分かった。年配者はネットメディアに接していないので、あたかも異なった二つのメディア空間があるような状態になる。「何かをやって協力したい」「いても立ってもいられない」という人たちもおり、助け合いたいという気持ちはどちらともに強いらしい。ある年齢を境に情報交換に対する態度がかなり違うようである。こうした断層はどうして生まれたのかと思った。この「情報断層」は後で説明するようにデマの震源になる可能性があるように思える。

ネットメディアは役に立った

Facebookで海外と安否確認ができた。携帯電話はまったく使えないのにSkypeやTwitterはつながった。これは携帯電話が緻密に組まれているのに比べて、ネットはもともと軍事利用だったからだ。つまり品質を犠牲にしてでも安定性を確保するのである。携帯電話はシステム的には見直した方がいいのではと思う。災害時には品質を落としてもつながり具合を確保するようなことはできないのではないかと思う。これをきっかけにSkpyeの利用は増えるのではないかとも思った。備えとして平時にアカウントを取っておいたほうがいいかもしれない。特に災害時に電気が切れてしまった(いまも切れている)東北地方の事例は研究されるべきだろう。

ネットメディアが危ないのではなかった

今回、噂話が流れた。市原のコスモ石油で火災があり、その浮遊物が降ってくるというのだ。僕が聞いたのは「空気中に有害物質が俟っているので傘をさして歩け」というもので「厚生労働省に勤める兄嫁から聞いた」となっていた。これを「この人の兄嫁が厚生労働省に勤めているのだろう」と受け取ったのだが、どうも曖昧だ。ということで「元ネタを調べないと」と考えた。この時点でTwitterには二通りの話が出ていた。「厚生労働省発表」というやつと「コスモ石油に勤めている人に聞いた所によると」というもの。そして、千葉市長は「そうした可能性は少ない」とTweetしていた。やはりデマの可能性が高いようだ。
既にWikipediaに地震についてのまとめができている。それによれば、コスモ石油で火災があったときにチリが核になり雨が降ったという記述があった。(これも本当に雨なのかは確認されていないのだが…)この話が伝わったのではないかと思える。
既にTweetしたように「噂が広がる」要件を満たしている。以下、列記する。

  • このとき、テレビは福島の原発についてのニュースばかりを流していて、千葉には情報空白ができている。災害時の不安な気持ちがあり、ちょっとした情報は「悪いほうに流れる」傾向がある。
  • 多分、雲も出ていないのに地面が濡れていたね→雨だったね→なんか混じってないか心配→なんか千葉市に雨が降ってくるんだってよというように拡大した可能性がある。(これは検証してみてもいいのではないか)これが文章になってTwitterで伝わり、Twitterをやっていなさそうな人に伝聞で伝わったわけだ。豊田信用金庫事件で無線マニアが果たした役割を電話した人が担っていたのではないかと思う。(近所の人は相模原の人から聞いたのだそうだ)ちなみに電車での噂話がTwitterにあたる。
  • よく考えてみると、ある古典的な下敷きがある。それは井伏鱒二の「黒い雨」である。広島の原爆についての小説だ。もしこの推測がただしいとすると、福島の件が影響していることになる。噂が単純化する時、あるプロトタイプを取ることがあるようだ。意図的に噂を流すときにも使われる手法だが、自然発生的にもこうしたことが起こりうるのではないかと思われる。

よく考えてみると千葉市には雨の予報はない。市原は平気で千葉は危ないというのもおかしい。そもそも情報が曖昧である。こうした曖昧さを補完するために、雨で有毒物質が降ってくる→空気中に俟っているになったのかもしれない。情報は単純化しながら悪いほうに傾いて行くのである。千葉市でも火災が起きているのだが、これがごっちゃになったのかもしれない。
この近所の人に「確かにこういうことはないとは言い切れないが」「ネット上でも騒ぎになっているので」「用心しつつも冷静になったほうがいいのでは」と教えてあげた。否定すると躍起になって反論するかもしれない。すでに近所には一通り伝え終わっていたらしいのだが、それで落ち着いたようだ。しかし、家族の一人が、神奈川にいる家族に「毒ガスのデマが出た」と電話する。これが「千葉はデマが出る程混乱している」という心象を与える可能性もあるし「デマ」が消え去り「毒ガス」に変わる恐れがある。情報は単純化するからである。
ネットメディアでは「これはデマなのでは」という自省的なTweetが出始めた。厄介なのは伝聞を聞いた人たちだ。情報修正は行われないなかで、テレビではまったくこれを伝えていない。そしてCMなしで不安な映像が流れ続けている。かなり不安だったのではないかと思われる。

日本人は冷静だった、が

地震後、略奪が全く起きている様子がない。これがとても驚異的だという話は至る所で語られているようである。これは日本人が社会や地域コミュニティを信用しているということだろうと思われる。この時点で怖いのは、我々が政府を信じられなくなっているという点だ。これを書いている時点では目が泳いでいる枝野さんの発言を保安院発表と「一致しない」という分析がなされている。こうした不安はパニックを引き起こす可能性がある。
先ほどの「噂話」が最悪の結末を生まなかったのは、誰もこの情報を元に行動を起こさなかったからだろう。それは我々が社会を信用しているからで、つまり噂話が広がる要件の最後の一つを満たしていなかったのである。噂がパニックになるのは、複数の不確かなソースから同じような情報を取得し(例えば携帯電話ですでに話を聞いていて、そういえば私もそういう情報を聞いたと話し合い)、誰かが何かをしている(例えばとなりの人が血相を変えて逃げて行く)のを目撃した時である。銀行の取り付け騒ぎやトイレットペーパー騒動などはこうした情報が行動に変化した時点で、デマからパニックになった。報道によると、「避難所に食料があるといいね」が「食料がある」に変わっている可能性があるようだ。実際に着いた所、食べ物のない避難所があったそうだ。
ネットメディアを知っている人とそうでない人に断層がある。ここが構造的な弱点になっている。だから、ここが刺激されていれば、パニックが発生する可能性も否定できなかったのではないか。危ないのは携帯電話のチェーンメールではなく、こうした伝聞情報を複数ソースで確認できない人たちだ。故に社会とつながっていて、なおかつネットでの情報収集能力がある人の役割は大きいのである。しかし、こうした冷静な対応も「みんなが走り出した」ら無力になるだろう。