安倍首相はなぜ国民を怒らせたのか

ひっかかりのない思考的議論

ツイッターで安保法制の議論を読んだ。アメリカ政治の専門家によるテクニカルなもので、とても退屈だった。もし、政府の議論がこのようなものだったら、国民を二分する議論にはならなかったのではないかと思った。感情に訴えかける余地がないからだ。

価値判断に重きをおく安倍首相

一方、安倍首相の説明はよくも悪くも国民の感情に訴えかけた。結果的に、安倍首相は集団的自衛権の議論を混乱させた。

安倍首相は「価値観の人」だ。価値観の人は特定の価値を共有して理解を深めようとする。安倍首相は同盟関係を評価するのに「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」という言葉を使う。一方韓国は「民主主義、法の支配など普遍的価値観を共有する国」ではない。敵味方がはっきりしているのも価値観の人の特徴の一つだ。

安倍さんの主張は仲間内で大きな賞賛を集めた。雑誌WILLなどを読むとこのことが分かる。彼らは安倍さんと価値観を共有しており「そもそも、美しい国を守るのに、面倒な理論は要らない」という主張を持っている。自民党が下野している間も信頼関係は揺らがなかったので、必ずしも利権などの損得で結びついているわけではなさそうだ。

価値判断と損得判断の遭遇

集団的自衛権行使容認派の中には「戦略的思考」を持つ人たちがいた。戦略的な人はいろいろな検討をしたあとで、どのアプローチが得か考える人たちである。彼らは自分たちの主張を通すために「価値観の人」を取り込むことにした。知恵を授け理論構築と整理を行った。アメリカからの要望はおそらく戦略的思考に基づいて発せられたものだろう。外務省にも戦略的な人たちがいて、アメリカの要望を理解したに違いない。

オバマ大統領は様々な意見を聞いた上でどちらがアメリカの国益に叶うかを考える戦略的指向を持っている。時には双方の主張を折り合わせることも検討するバランス型でもある。ところが、安倍首相は価値観の人で「どちらが正しいか」は最初から決まっている。オバマ大統領が当初安倍首相と距離を置いたのは、性格に大きな違いがあったからではないかと考えられる。

直観と感覚の相違

ここで行き違いが起こる。安倍さんが「感覚的」な人だったからだろう。感覚的な人は、背景にある論理を直感的に捉えるのではなく、興味がディテールに向く。戦略的思考の人たちが論理から例示を導いたのに、例示だけが印象に残ったのだろう。

戦略的な人が直感的に捉えれば、個々の例示から背景にある論理を読み取ったに違いない。戦略的思考を共有している外務官僚に任せていれば、それなりの答案が出たはずだ。ところが、細かな例示にばかり気を取られる政治家は「あれもこれも」実現しなければならないと思い込む。政治主導が発揮しているうちに、例外のある複雑な理論が構築されてしまったのではないかと考えられる。

価値観の人が秩序の人を怒らせる

安倍さんが次に困惑させたのは、憲法学者や元法制局長官などの「秩序の人」たちである。秩序の人は損得や正しさよりも論理的な秩序を優先する。彼らにとって正しいのは「法的な整合性が整っている」ことである。安倍首相の「正しければ、整合性はどうにでもなる」という考えが彼らの反発を生み「立憲政治の危機」という発言につながった。

皮肉なことに、安倍さんの憲法無視の行動は、アメリカさえ刺激しかねない。フォーリン・ポリシーは「憲法クーデター」という用語を使っている。「民主主義、法の支配など普遍的価値観」への挑戦だと見なされているのだ。「憲法クーデター」を根拠に動く軍をアメリカが利用するわけにはいかない。アメリカは、少なくとも表向きは「民主主義という価値観」を守るために行動しているからだ。

価値観のぶつかり合いは感情的な議論に火を付ける

秩序の人たちは、価値観の人たちから「合憲であれば正しくなくてもよいのか」と非難され、戦略的な人たちからも「合憲であれば損をしても良いのか」と攻撃された。加えて「平和憲法こそが美しい日本の根幹をなす」という価値観を持っている護憲派の人たちも加わり、議論は思考のレベルを越えて感情のレベルで火がついた。

感情的なぶつかり合いは戦略的思考を持っている人たちに利用されることになる。民主党の枝野さんたちは、戦略的にこの混乱を利用することを考えた。そこで「いつかは徴兵制になる」という感情的な議論をわざと持ち出して護憲派を刺激した。感情的議論はついに主婦にまで飛び火した。

稚拙な論理が聴衆を困惑させる

この時期になって、良識ある人たちは遅まきながら「法案の内容を理解しなければ」と考えるようになった。しかし、最初から理論が複雑な上、安倍首相の意図の全体像も明らかにならなかったので、当惑されるだけだった。

遅まきながら安倍さんはインターネットテレビに登場し「麻生君と安倍君」の例を使って集団的自衛権を説明しようとしたが、理論構築があまりにも稚拙なため失笑を買った。

価値観を中心に議論している人たちにとって「仲間を助けるのは当たり前だ」という単純な議論が伝わらないのは不思議に思えるかもしれない。丁寧に話せば分かってもらえると考えるのも無理のないところだろう。ところが、相手が聞きたがっているのは「彼らの価値観」ではないかもしれないのだ。

リーダーにとってコミュニケーション戦略は重要

「理解」の質は様々だ。価値観の人たちは「どちらが正しいか」を考え、戦略的思考の人は「どちらが得か」を評価したがる。大枠で理解したいと思う人もいれば、細かな状況に注目する人もいるのである。

安保法制の是非はともかくとして、このケースは多様なコミュニケーションを理解することの大切さを教えてくれる。コミュニケーションスキルのないリーダーを選ぶと国益さえ損ねかねないのである。

2号さん更迭

ツイッターNHK PRで「中の人」として活躍していた2号さんが担当を外れることになった。本人から説明はなかったものの、あるツイートが問題になったものと思われる。

当初、NHKは衆議院での安保法制の委員会採決(7月15日)と本会議採決(7月16日)を報じる予定はなかった。これが「強行採決」という印象を国民に与えないためにNHKが配慮しているのだとして批判を浴びる。ツイッター上では「コールセンターに電話しよう」という運動が起き、NHK PRのアカウントにも抗議が殺到した。

そこでNHK PRは「国会中継がないことについて抗議が来ている旨を担当に伝える」というツイートを出した。

結局、NHKは採決の場面だけは報じた。世論がNHKを動かしたのか、最初から予定があったのかは分からない。一方で、NHK PRの「伝えます」ツイートは削除され、ツイートした2号さんはツイッターの担当を外れることになったのだ。

背景にNHKの配慮があるのは間違いないだろうが、政府の「国民にはなるべく知らせないでおきたい」という思惑も感じる。

このNHKの姿勢は「中の人」たちを萎縮させるだろう。自分たちの持ち場で職業的道義心を発揮すると持ち場を外されてしまう可能性があるということになるからだ。職員たちはただ機械のように行動すればよいという暗黙の圧力である。

職業的道義心は大切だ。組織も社会も間違った危険な方向に進むことがある。リーダーが意図して間違った方向に進める場合もあるだろうし、誰も指導する人がいないのに危険な水域に進むこともあるだろう。このとき歯止めになるのは、現場メンバーの良心だけだ。

一方で、政府はNHKの萎縮が自分たちの首を締めていることも自覚すべきだろう。

賛成派の言い分に従うと集団的自衛権の放棄は、憲法上の制約ではなく、時の政権の「政策的判断」だ。そのことは、歴史を検証すれば分かるはずである。

確かに、ベトナム戦争時に沖縄の米軍基地を使用させたことも「後方支援」だと解釈できる。日米安保を維持しながら集団的自衛権の行使を容認しようと言わないのはねじれた対応であり、政府がどうしてねじれた対応をすることになったのかを検証する価値は充分にあるだろう。

しかしNHKは「政府を刺激したくない」と萎縮しており、こうした取り組みを一切してこなかった。その為に、賛成派は安倍政権や外務省の主張も一切知らされていない。だから賛成派のコメントは「自国防衛を強化するためには議論は要らない」の一点張りで、説得力のある議論が展開できなくなってしまった。

議論が噛み合ないせいで、国民の間には集団的自衛権や安保法制はなんとなくうさんくさいものだという印象だけが残った。このため、正義の使者であるはずの自衛隊は、当分の間こっそりと行動することを余儀なくされるだろう。

バターが足りない

関東のスーパーマーケットの中には売り場からバターが消えた所がある。どうやらバターが足りないらしい。調べてみるとわからない点が多い。

バター不足の直接の原因は生乳の不足だ。生乳が足りなくなると本来バター作りに回すはずだった分が使われる。故に生乳が少なくなれば真っ先になくなるのがバターなのだそうだ。

生乳が不足しているのは、後継者不足が原因で北海道の酪農家が減っているからである。酪農家の減少は酪農の大規模化により補完されているのだが、それでも補いきれなくなっているらしい。また大規模化にも適正レベルがあり、ある程度以上大きくなると「スケールデメリット」が生じるのだという。

これを「酪農の構造的問題」と指摘する人たちがいる。(「バターが不足〜岐路に立つ酪農〜」)構造的問題とは、酪農家の減少、円安によるエサ代や電気代の高騰などが含まれる。後者はいわゆる「アベノミクスの副作用」である。

では、輸入すればよいのではないかと思われるが、バターには高い関税が課せられているのでそのままでは海外からバターが入ってこない。このため農林水産省は2014年度に2回もバターを緊急輸入せざるを得なかった。

バター不足の原因を見ると、自由貿易の問題が含まれることがわかる。自由貿易環境下では、円安が進めば「自動的に」国内の酪農家が淘汰されてしまうはずだが、海外の代替品が流入するのでバターの取引量と価格そのものは適正水準に維持されるはずだ。TPPのような自由貿易協定は「アベノミクスの第三の矢」である「構造改革」「規制の撤廃」に含まれる。

週刊ダイヤモンドによると、バターの値段は乱高下を繰り返しているという。単純に自由化すればよいというものでもないらしい。

お砂糖“真”時代推進協議会

お砂糖“真”時代推進協議会」がCMを流している。古めかしい作りのコマーシャルで「脳の栄養はお砂糖だけ」と主張する。その古めかしさから悪目立ちをしているようで、ネット上のでは違和感を訴える声が少なくない。

お砂糖“真”時代推進協議会に問い合わせたところ「10年以上前のコマーシャルらしいが、詳しい事は分からない」という。日本食料新聞の「お砂糖“新時代”協議会キャンペーン概要決定(1998/05/11)」は8年目のキャンペーンだと書いており、一番古ければ1990年のコマーシャルである可能性がある。

このコマーシャルの違和感の原因は「意図が不明確」な割に頻繁に流されているという点だろう。何か特定の商品を売ろうとしているわけではない。そこで気持ち悪さが残り、解説を求めて検索してしまう。だが、コマーシャルを受けるウェブサイトがあるわけではない。「かゆいのにかけない」みたいな感じである。

調べてみるといろいろな事が分かる。糖尿病患者のように砂糖を控えなければならない人たちや医師が「コマーシャルは有害だ」と指摘している。そもそも、砂糖を取らなくても脂肪分から栄養を作り出して脳に栄養を送ることができるのだそうだ。中にはJAROに訴えた人もいるらしい。その結果、CMには読めそうもないような小さな字で「ケトン体も栄養になり得る」と書かれている。いずれにせよ門外漢には何のことだかさっぱり分からない。

さらに検索すると、ある独立行政法人が菓子ならびに砂糖需要喚起対策についてという文章を出しているのを見つけた。世の中にはお菓子があふれているように思えるのだが、なぜ、さらに需要を喚起する必要があるのかはよく分からない。「お砂糖“真”時代推進協議会」にはお菓子メーカーなども加盟していて、日本人がさらにお菓子を食べるようにキャンペーンをやっているようだ。

こうしたことから「原子力村」のように「お砂糖村」が作られて、税金が投入されているのでは?などと思ったのだが、その点については検索では確認できなかった。砂糖はいわゆる「聖域」の一つで、TPPが成立しても関税がまもられることが決まっている。「コメ・砂糖・麦は関税維持 TPP日米きょう閣僚折衝」によると、砂糖の関税は328%だそうだ。国内のサトウキビや甜菜業者を守る為に関税が設定されているわけで、砂糖は意外にも政治的な作物なのである。故にこのコマーシャルは間接的に「国内生産のお砂糖を使いましょう」と言っていることになる。

日本語の母音交替

日本語には不思議な現象がある。例えば稲(いね)は別の言葉(例:穂)を付けると、なぜか「いねほ」とは読まずに「いなほ」と言葉の形が変わる。これを母音交替と呼ぶ。特に多いのが、名詞の語尾の「え」が「あ」に変わるものだ。「あめ」と「あま」のどちらが原形なのかは議論があるそうだ。

  • 雨 => 天の川、雨雲、雨足、雨傘、雨乞い、雨ざらし
  • 風 => 風向き、風上
  • 眼 => 瞼、目の当たり
  • 手 => 掌
  • 胸 => 胸騒ぎ、胸元
  • 声(こゑ) => 声色、声高
  • 金 => 金気、金物
  • 稲 => 稲穂、稲妻
  • 上(うへ) => 上着
  • 酒 => 酒樽
  • 家=>家並、家捜し

このように名詞を足して新しい名詞を作る場合には連濁という現象を伴うものも多い。例えば「あまのかわ」とは読まずに「あまのがわ」とよむ。「か」が濁って「が」になる。声色のようになぜ「わ」が出てくるのか分からないものもあるが、旧かな遣いではこゑ(we)なのだそうだ。

なぜこのような事が起こるかは定かではない。なんとなく読みやすいからそうなると言いたいところなのだが、例えば「稲刈り(いねかり)」のように変わらないものがある。稲刈りは連濁も起さない。また腕(前)、店(先)、壁(際)のように、全く変わらない単語もある。「かべぎわ」のように母音交替はないが、連濁はあるものもある。つまり、ルールらしきものが見当たらない。専門家の間でも意見の相違があるらしく、全ては仮説の域を出ない。

さらに、不思議ものに海原がある。「うなばら」なので、原形は「うね」になりそうだが、実際の原形は「うみ」だ。

普段から普通にしゃべっている日本語だが「これはなぜ」と聞かれると分からないことは意外と多いものだ。

4000人のユダヤ人とNHK解説委員の自殺

ネット上にはさまざまな噂話が流れている。その中の有名なものにダヤの謀略というものがある。世の中がうまくゆかないのはユダヤ人のせいなのだが、それも近々崩壊するだろうというような説だ。この某略説を取るサイトの多くで出回っている4,000人のユダヤ人とNHK解説委員の自殺という有名な話がある。「4000人のユダヤ人」でGoogle検索すると多くのサイトがヒットする。

9.11の際ワールドトレードセンターに勤務する4000人のユダヤ人はすべて病欠していた。これを伝えたNHKの解説委員が5日後に自殺した。多分、ユダヤ人資本に殺されたに違いない。NHKはこれに加担したか、わざと見過ごした。

この話のうち解説委員の自殺は事実らしい。この解説委員が4,000人のユダヤ人の話を伝えたかどうかは確認できない。一部のサイトには『10月10日深夜23時の総合テレビ「特集/あすを読む」』と特定しているものもあるが、情報ソースが単一である可能性もある。

実際にユダヤの謀略があるかどうかは分からない。ただ、この「4000人のユダヤ人」の話はデマらしい。4,000 Jews, 1 Lieによると、イスラエル国籍のニューヨーク在住者(貿易センタービルで働いていたユダヤ人ではない)の数が4,000人だった。情報が錯綜していた当時、「あのような事件を起こすのはユダヤ人に違いないということから、まず中東で伝えられたものがアメリカの新聞に伝わり、ネットからメールで拡散したようだ。

よく、情報の間違いを防ぐ為には引用元を表示すべきといわれるのだが、ユダヤ陰謀説を唱えるサイトの多くが引用元を表示しているが、あまり役には立っていないようである。全く同じ文章が多くのサイトでコピペされている。

インターネットでは多くのページが書かれたまま残り続ける。それを検索するといつまでも間違った情報があたかも真実であるかのように人々の眼に触れることになる。

最後にあやふやな情報を一つ。この解説委員がなぜ亡くなったのかはよく分からないのだが、アメリカで流行っていた噂に流されて全国放送で噂を流布してしまったのでは、などと考えてしまった。この話の真偽はもはや確かめようがない。

「やらさせていただく」という間違った敬語について考える

最近「やらさせていただく」という敬語が多く聞かれるようになった。この言葉はEXILE関係の人たちがよく使っているところから、私はEXILE敬語と名付けている。だが、これを間違っていると感じる人たちもいるのである。




この敬語表現はまず芸能人が使い始めたように思える。俳優やタレントは自主公演を除けばオファーがあってはじめて何かができる受け身な存在なので「〜する」よりも「〜させられる」ことが多い。彼らにとっては「(〜の役)をさせていただく」というのは自然な表現だろう。例えばダンサーのMABUさんという人はダンサーに抜擢された喜びを次のように表現している。

まさかATSUSHIさんが僕の楽曲に参加してくれる日が来るなんて、、、2014年にATSUSHIさんの”MUSIC”ツアーダンサーをやらさせて頂いてた頃には想像もしてなかったです!ストリートインディーズの僕と、メジャーシーンのトップアーティストのコラボは国内でも今まで類を見ないと思いますし、個人的にも日本の音楽シーンにとっても歴史的な楽曲だと思います!そんな特別な楽曲を僕の大切なアニキと作れた事を心から嬉しく思いますし、本当に感謝の気持ちでいっぱいです!聴いて下さった皆さんの夏が最高な思い出になる事を願っています!

https://dews365.com/newpost/150771.html

これが、テレビを通じて敬語空白の人たちに広まったのだろう。

ところがこれを敬語として正しいかと聞くと多くの人が間違っていてこれはないと答えるのだ。質問サイトQUORAでの答えはこんな感じである。概ね否定派である。つまり面接やビジネスシーンで使うと「これはないよね」と言われてしまうことがあるということになる。

「させていただく」は意思決定ができる範囲の差を示している。「〜させていただく」人には自由意志はなく、つねに相手の許可が必要で、間接的に地位が低いことを表現している。させていただくが増殖するのは自身で意思決定できない人が増えたからなのかもしれない。ダンサーのように指名されて仕事が入るような人にはぴったりの言葉である。

しかし、就職活動のインタビューでは「部長をやらさせていただいた」はいろいろと問題がある。この表現には「受身だった」含みがある。自分が積極意的にやったわけではない。周りからやらされたことになる。過剰敬語を防ぐためにも「部長をやりました」もしくは「部長を務めました」くらいがよい。

さらに丁寧語のインフレもある。旧来、取りあえず丁寧にしておきたい場合には、普通「です、ます」などを使っていた。「させていただく」系を使う人たちにとっては「です、ます」では丁寧な感じがせず不安なのかもしれない。だが、「させていただく」は、旧来の敬語を話す人たちには「過剰」だと考えられている(好感をもたれる敬語入門 第5回 「させていただく」の多用は耳障り)ので、ビジネスシーンでは使わない方が無難だ。

させていただくは「する」の使役形だ。これに動詞「やる」を付けると問題が複雑化する。どちらも英語に訳すと「do」になるが、使い方は微妙の異なる。「やらさせていただく」は、「やる」+「する(使役)」+「いただく」となり重複ができる。「やるする」という言葉はないので「やらせていただく」が正しい。ところが形が複雑になると、正しいのか間違っているのかよく分からなくなる。

この分かりにくさが「さ入り言葉」が慣用的になんとなく使われてしまう背景にあるのだろう。例えば「書くする」という言葉はないので「書かさせていただく」は間違いだ。「食べする」という言葉もないので「食べささせていただく」もない。しかし「動詞+させていただく」で覚えるとついつい使ってしまう。伝統的な日本語では五段活用には「せていただく」を使い、それ以外の動詞には「させていただく」を使うののだそうだが、それが曖昧になってきているようだ。

「〜させていだたく」は、敬語として新しい形であるだけで、厳密には間違っているわけではないのかもしれない。言語学的には「言葉は生き物である」と考えられており、ある社会方言的な敬語を間違っているというのは正しい態度とはみなされない。だから、今後正しい用法として受け入れられる可能性はある。しかし、過剰敬語でありビジネスシーンではなんとなく間違っているという印象があるのでビジネスの現場で使うのは避けた方がよいだろう。

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集団的自衛権と解釈改憲

7月1日6時、安倍首相は集団的自衛権の行使容認をする閣議決定を受けてについて記者会見を行い、各テレビ局が中継した。

これを受けてある新聞は「積極的平和に貢献する」と安倍首相を後押しした。一方、別の新聞は「将来戦争に巻き込まれる」と主張している。視聴者アンケートによっては「よく分からない」が最多数のものもある。最終的には「なんだかもやもやした」印象が残った。

「よく分からない」のは当然といえる。もともと「改憲」するつもりだったが、改憲に必要な大多数の賛成は得られなかった。そこで解釈改憲することに決めたのだが、これも公明党の反対を考慮して表現をすこし和らげた。

そもそも、説明から注意深く取り除かれている単語もある。

「密接な関係を持つ国」とはアメリカ合衆国(東洋経済オンライン「集団的自衛権、黒幕の米国が考えていること – 日米安保体制はますます米国の思うまま」)のことだ。だが、安倍首相の説明では最後まで特定の国名がでることはなかった。テレビや新聞は安倍政権のことばかりを伝えるが、アメリカについてはあまり触れられない。そもそも表面上、アメリカが日本にプレッシャーをかけたという事実もない。これがもっとも議論を難しくしている要因だろう。

この「よく分からない」はどのような影響を与えるのだろうか。原発についての議論を見てみるとわかる。日本には原発についての根強い反発がありデモも起きているが、政権には届いていないようだ。

では、推進派が勝利したかといえばそうでもない。日本中で原子力発電所は停止している。補償の問題で立地近隣の自治体が反対しており、手続きが滞っているからだ。近隣自治体は政府発信の情報を信用せず、わずかなリスクも許されないと考えているらしい。そもそも政府は信頼されていない。

政権は「よく分からない」という印象を残してしまったが故に、原発を推進することができなくなってしまったと考える事ができる。情報を隠したのは民主党政権だが、実際に影響を受けるのは自民党である。

このように「よく分からない」という印象はリスクに対する懸念をうみ、政策の実現に害をなすだろう。

集団的自衛権も同じようなルートをたどるだろう。軍事行動に参加したり、実際に自衛隊員の死傷者が出た時点で、支持率が急降下することが考えられる。それは安倍内閣かどうかは分からない。支持率急降下のリスクを怖れた政権は行使に対して慎重になるのではないかと思われる。

その時に拠り所になる憲法はない。明文化された憲法は「解釈やその時の事情でなんとでもなる」単なる文学作品に過ぎないからだ。

豊川信用金庫事件

1973年12月、愛知県の豊川信用金庫に大勢の預金者が押し掛けた。「豊川信金が危ないらしい」というニセ情報を聞きつけたからである。ウィキペディアによるとわずかの間に26億円が引き出された。この事件は日本におけるデマの研究でよく引き合いに出される。警察が捜査を行ったので詳細が知られているのだ。

事件の経緯は次の通りだ。電車の中で女子高生が「豊川信金は危ない」という話をしていた。これが口づてに広がる。この中に情報のハブになる人(美容院やクリーニング店)がおり、主婦の間で評判になった。たまたま「豊川信金からお金をおろせ」と言った人がおり「やはり危ないのか」ということになる。ここまでは豊川市とは離れた土地での出来事だった。

これがアマチュア無線愛好家に伝わり、噂が広範囲に広がる。実際に預金を引き出す人があらわれた。これを見た人たちの間で噂は「危ないらしい」から「今日潰れる」とエスカレートしてゆき、実際の取り付け騒ぎが起きた。

「口伝えの情報はデマになりやすい」と言われているが他にも理由はある。

第一に1973年にはトイレットペーパー騒動があり消費者の間に潜在的な不安があった。次に、噂は離れたところで発生し情報のハブを経由してアマチュア無線で遠隔地に広まったので、情報の多くは曖昧なものだった。曖昧だからこそ情報を埋めるように聞きかじりや空想が練り込まれた。と、同時に単純化も起きる。「〜らしい」は「〜だ」になった。

噂が広がる背景には曖昧さと単純化がある。

噂には構造がある。ハブ、遠隔地への伝播、曖昧さ、単純さ、潜在的な不安などである。

ネットジャーナリズムと新宿焼身自殺未遂

6月29日の午後2時頃新宿南口で集団的自衛権行使容認に反対の演説をしていた男性がガソリンのようなものをかぶり焼身自殺を図った。行使容認への抗議と見られるが詳細は不明だ。このニュースからネットおよびテレビのジャーナリズムの距離感が分かる。

テレビはストレートニュースで伝えたが、その後東京・埼玉・千葉などでゲリラ雷雨のニュースに置き換わった。逆に反応したのはハフィントンポストやTwitter・YouTubeといったネット系だ。検索するといくつもの画像やビデオが閲覧できる。YouTubeにはわざわざCGで作りこんだものもある。

この人の政治的背景が分からないとテレビではうまく伝えられないようだ。右翼や左翼の可能性もあるし、「単なる自殺」なのかもしれない。テレビのような公共性の高いメディアでは男の背景が分からないとうまく伝えられないようだ。

興味深いのは取り上げ方によって全く違って見えるという点だ。「繁華街で焼身自殺するのは迷惑だ」という伝え方と「集団的自衛権行使容認は焼死自殺者が出る程のひどいものだ」という伝え方では、行為の意味が全く違って見える。テレビでは短く伝えられただけなので「全く知らない」という人もいるだろう。

ネットメディアは発信者の責任で好きなように情報を流すことができる。また記録として残る「アーカイブ性」もある。このような利点がある一方、欠点もある。SNS人口は約5,000万人程度と言われており、それ以外の人たちには伝わりにくい。また、最初から発信者の主義主張と結びついており、その人のたち位置によってまったく違った情報として伝わる可能性がある。異なった意見が集らないので問題解決に結びつきにくい。

最も危険性が高いのはこれが噂やデマを引き込みやすいという点だろう。改めて日経新聞の記事を読むと、男の身元や動機などが分からない。曖昧な情報は拡散されやすい(豊川信金事件を参照のこと)ので、元々の意図とは異なったデマになりやすいのである。

一部ではあるが海外のニュースには三島由紀夫や切腹文化を引き合いに出したものもある(New York Post)。