何が分からないのかすら分からない人たち

Twitterで政界再編と政権交代を熱望している人を見かけた。政界再編を望むはいいのだが、何も重要な法案の成立前にやらなくてもいいだろうと思って突っ込んだところ、返事が返って来た。政界は「ガラガラポン」が必要なのだそうだ。

政界再編は結局のところ邪魔者はずしだ。維新の党は大阪系が邪魔だと考えており、民主党の中には旧社会党系や帰化外国人(あるいはハーフ)が邪魔だと思っている議員がいるのではないかと思う。そこで「誰を排除すべきなのか」と聞いてみた。

返って来た答えは意外なものだった。名目経済・リフレ・マクロ経済がいけないのだという。「名目経済」という用語はないので、学生かなんかだろうと思った。「金融緩和を起してもインフレ率だけが上がるだけで、国民は豊かにならない」くらいの意味なんだろうなあと解釈した。

しばらくすると、各党の平和と経済に関する採点表が送られてきた。経済の項目で合格点のついた政党はなく、民主党と共産党だけが空欄になっていた。多分、実体経済に直接働きかける政策を持つ政党がないのがお気に召さないのだろう。

ここで気になるのは、現在の政党が実体経済に直接働きかける政策を持っていないのに、どうして政界再編するとそうした政策が出てくるのかという問題だ。尋ねてみた。

するとまた意外な答えが返って来た。小泉・竹中路線がいけないというのだ。実体経済を無視し、資本経済に走ったことを責めていた。

この人は明らかに質問に答えることを避けている。つまり、どうしたら自分の考える理想の経済状態を作ることができるのかが分からないのだ。そこで、政党さえ組み替えれば、そうした状態が出てくると思っているのだろう。合理的に考えれば、政党が組み変わっても議員は同じなので、新しいアイディアが出てくる可能性はないことが分かる。例えていうならば、大吉が入っていないおみくじを引き続けるようなものだ。

そもそも経済政策理論についての理解がないようだ。リフレ政策は名目経済成長率をあげる政策だが、小泉・竹中路線は(少なくともこの人の考えに基づけば)資本経済に働きかけている。それぞれ対義語は実質経済成長率と実体経済だ。この2つ(実質と実質)がごっちゃになっているのだろう。

政府が直接働きかけて給与や需要を決定する経済を「計画経済」という。つまり、この人が指向しているのは多分共産主義だろう。だが、自分が共産主義者という自覚はないに違いない。日本では戦時中に革新官僚のもとで実施された戦時経済がそれに近い。野口悠紀雄は「1940年体制」と呼んでいる。

問題は、この人が何が分からないか分かっていないという点だ。にも関わらず豊富に情報が流れてくる(しかも新規情報探索には中毒性がある)ので情報に溺れてしまうのだろう。

もしこの手の人たちの目の前に「速効性のあり」「誰もが分かる」経済政策が出てきたらどうなるだろうか、と考えてみた。多分、多くの人がこうした政策に飛びつくに違いない。しかし、こうした「分かりやすい」政策はおそらく詐欺だし、国民を騙してでも政権につきたい政党は独裁政権に違いない。

気になってこの人のプロフィールを見たところ、学生ではなく経験豊富な経営コンサルタントということだった。たくさん本を読んでいそうな人でも、こういう考え方をするんだなあと考えた。そして、心底恐ろしくなった。

スマホ脳 – あなたとあなたの子供に起こっていること

前回、 LINEはずしといういじめについて考えた。組織や集団の失敗という分析だった。閉鎖的な集団に非自発的に参加させられると集団内に緊張が起き、それを緩和するためにいじめが起こるというような筋書きだ。しかし、このアプローチだとスマートフォンがどのようにいじめに影響しているのかは分からない。そこで、Why the modern world is bad for your brainという記事をガーディアンで見つけた。以下は全文ではなく抜粋だ。

マルチタスクはコルチゾールとアドレナリンを増やし、脳に霧がかかったような状態を作り出す。ドーパミン中毒の状態も作られ、外部刺激を求める続けるようになる。前頭葉には新しい刺激を求め続けるクセがあり、注意力が犠牲になる。新寄刺激は脳内麻薬を増やす。何かに集中するよりも新しい刺激に興味を向ける方が楽しいのだ。続けざまにマルチタスクをやっているとコルチゾールが分泌されて不安な気分になる。攻撃的な気分になり衝動性が増す。

マルチタスクは認知力に悪い影響を与える。これをインフォマニアと指摘する学者もいる。未読のe-mailが横にあるだけでIQが10ポイント落ちるという研究がある。マリファナの成分カンナビノイドには記憶と集中力を阻害する働きがあるが、マルチタスキングの害はマリファナを吸うよりも大きいという。

テレビを見ながら勉強をすると記憶情報は長期記憶を形成する海馬には送られず線条体に入ってしまう。線条体は新しい技術や手続きを学ぶ場所だ。人間の脳はマルチタスクをこなすのは慣れていないのだ。

メールに返事を返すたびに、ほんの小さな達成感が得られる。TwitterやFacebookに新しい記事を見つけるたびに社会的につながっている感覚が得られて、またちょっとした報酬ホルモンが得られる。しかし、こうした刺激は快楽を司る大脳辺縁系を刺激しているだけで、前頭前皮質による高度な思考領域が刺激されているわけではない。Twitter、Facebook、e-maiなどによってもたらされるのは単なる神経性の中毒なのだ。

スマホを持っていると、常に仲間からの連絡を気にしなければならない。メールを読みながらニュースをチェックしたりするので、マルチタスク化が進行する。マルチタスクは脳の認知機能に悪影響を与えるだけでなく、中毒性もある。これは英国の記事なので LINEについては扱っていないが、情報交換の頻度はメールよりも多いのではないだろうか。

LINEそのものが緊張感を増すことは確かなようだが、このことだけでスマホやLINEがいじめを誘発するとは言えない。他人が苦しむ姿を見ると社会的報酬が得られるのではないかと思って調べたところ、ニューヨークタイムズのThe Brains of a bullyという記事を見つけた。この記事によると他人が苦しむのを見て楽しむ人がいることは確かだが、全員がそうというわけではないらしい。小人数を集めた調査であり、原因や割合などは分からない。LINEいじめの参加者は意外と「ちょっとしたイベント」の一つとしてターゲットの言動を楽しんでいるだけかもしれない。社会学的な考察だけでなく、科学的な解明が待たれる。

いずれにせよ、スマホを24時間持ったまま生活するのは脳には良くないらしい。スマホを使わない(つまりつながらない)時間を作り「いつでも連絡が取れるわけではないのだ」ということを学ばせるもの手かもしれない。

しかし、慢性スマホ中毒に陥っているのは子供ばかりではない。大人たちも出先や電車の中で常に「情報収集」に勤しんでいる。新しいニュースに接しているだけで、脳に報酬が得られるらしい。しかし、それはネコが獲物を追っているような状態で、じっくり考えることとは違っている。ニュースの目的は意思決定するための情報を得ることだが、ニュースハンティングが自己目的化していることになる。

より多様な意見に触れることにより、より良い判断ができるものと期待されたインターネットだが、使い方を考えないと、単なる「バカ製造装置」になってしまう。

LINEはずし- 中心のない共同体はどうなるか

LINEはずしを解決するにはいくつかの方法がある。一つは密室で起きているコミュニケーションを表沙汰にすることである。中学男女24人『集団LINEいじめ』解決に立ち向かった父の奮闘実話が参考になる。

このところ、日本人と中心について考えている。日本人はまとまるために空白の中心を作るという古典的な考え方である。これを考えているうちに、なぜLINEではずしが起きるかという問題を考えてみたくなった。LINEはずしとはLINEのグループから1人を除外するいじめのことである。ネット言論には、いかにも中心がないように見えるからである。

そもそも「いじめ」にはいろいろな要素や形態があり、完全には理論化されていないらしい。したがってLINEいじめに関する理論的な考察はない。しかしながら、ヒントになるモデルはいくつか存在するようだ。

formation「いじめ」が発生するのは、閉ざされた入れ替わりのない空間だ。空間に自由意志で入ることはできず、出る事もできない。公立学校のクラスなどがこれに当たる。そして、その空間では「みんなで仲良くする」ことが求められる。突出したボスを作ってはいけないし、派閥を作って対立することも許されない。いわば平等型の空間でいじめが起こるのだ。

非自発的な集団ではの平等型の維持は困難なようだ。集団がまとまるためには、それなりの大義名分がいる。しかし、自発的に作られたわけではない集団では大義名分を見つけることは困難だ。誰かボスがいればボスの下でまとまることができるが、誰かが突出することは許されない。また、党派に別れて競争することも考えられるが、表立った競争はよくないことだと考えられている。そこで潜在的な緊張関係が生まれる。

そこで考え出されるのは、誰かを仲間はずれにすることだ。いっけん、仲間はずしをしているように見えるのだが、見方を変えるとそれは仲間はずれのメンバーを中心に置いていることになる。空白の中心を据えているわけである。空白の中心を置く事で仲間同士を牽制しているともいえる。

インターネットの恐ろしいところは、こうした仲間はずしがボタン一つでできてしまうところだ。スマホの普及によりこうした緊張が24時間維持されるようになってしまった。いじめが発生する要件の一つは空間が閉じられていることだから、閉じた人間関係が24時間持続することになる。すると、正のフィードバックが働いて究極の事態が起こるまで止まらなくなる。また、リーダーがいないので「これくらいで止めておけ」ということもできない。究極の事態とは対象者の自殺や完全排除だったりするのだ。

LINEはずしで空白の中心を作って組織が安定すればよいのだが、さほどの安定性はないのではないかと思う。そこで常に中心を攻撃しつづけていなければならず、攻撃がエスカレートするのではないかと考えられる。

いじめる側を教育すればいじめが解決するだろうと考える人もいる。しかし、現実には主婦が仲間はずれにされた上で自殺するという事件も起こっている。つまりいくら「みんなで仲良くしろ」と教育しても、自発性のない集団ではこうしたいじめが起こるのを止められないことが分かる。そもそも教師が暗黙の関係者として関与する(関与しないことで、間接的にいじめを黙認する)という事も起きているので「教育レベル」はいじめとは関係がないだろう。

社会学者の内藤朝雄はこうした閉鎖的な空間で起こる息苦しさを中間集団全体主義と呼んでいる。内藤が提案する解決策は閉鎖的な空間 – つまり学級をなくしてしまうことだ。

しかし、現実には学級をなくす事は不可能だ。現実的な解決方法は閉ざされた空間で行われている行為を「表沙汰」にすることだそうだ。学校は閉ざされた空間の一部であることが多いので、教育委員会に訴えて「警察」や「マスコミ」に相談しますよというと抑止力がある場合があるのだという。

非自発的な空間でなぜ平等型が機能しないのかは分からない。ひとつ考えられるのは結びつきの複雑さである。5人のネットワークには10の結びつきがある。n個の点のネットワークの数はn=(n*(n-1)/2)で示される。50人のクラスでは1,225の関係を管理しなればならない。人間の脳は150人分ほどの関係性(約10,000程になる)までは管理できるものとされているが、何らかの構造を作らないと維持管理は難しいということなのかもしれない。中心を作ると関係性の数が減るのだ。関係性を緊張関係だと考えると、いじめは緊張緩和のために行われているのだということになる。ただし、いじめられる側は緊張関係をすべて一人で引き受けなければならない。その苛烈さは想像に固くない。

もともと、人間には数千人規模の人間関係を把握する能力はない。だから、学級より大きなレベルである社会では直接民主主義的な統治方法は機能しない。

アメリカ人は強力なリーダーを作る事で規模の問題を解決した。代わりにリーダーに権力が集中しないように、リーダーを任期制にしている。ところが日本人は強力なリーダーシップを嫌う傾向があるので、祭り上げたリーダーを空白化することにした。空白のリーダーを頂くことで、平等を実現するのである。吉田松陰が唱えた一君万民論は多くの支持を集め、戦前のデモクラシー導入の大義としても掲げられた。

ネットでの情報伝達を観察する

昨日無党派層に関する記事を書いた。あまり一般受けする話題ではないのだが、意外な程流入が多かった。ソーシャルメディアを通じて広がる。どのように広がるのか、またソーシャルメディアによって違いがあるのかを調べてみた。

広がった原因は分かっている。テレビに取り上げられた話題で田崎史郎さんという人名が入っているからだ。過去の投稿でも「山本太郎」とか「麻生くん」のような人名での検索が多いことが分かっている。呼び込み文で使った文面を読むと「SEALDsの若者に狼狽する田崎史郎さん」というように読める。テレビ番組名(みんなのニュース)と「奥田愛基」という名前は入っていない。

毎回のお約束としてFacebookとTwitterで呼び込みをすることに決めている。最初に流入したのはTwitterではなくYahooだった。Twitterの投稿がそのままYahooで表示されるらしい。あとで見るとほとんどがモバイルユーザーだった。年齢層は比較的若年に偏っているが、全てが若年層というわけではない。わざわざ「田崎史郎」で検索しているらしい。どうやらYahooユーザーは時間単位で情報を追っているようだ。1時間程でピークはおさまった。

最初のピークがYahooで、そのあとしばらくしてFacebookからの流入が始まった。
最初のピークがYahooで、そのあとしばらくしてFacebookからの流入が始まった。

しばらく時間を置いて今度はFacebookユーザーが流入し始めた。比較的緩やかなのだが、Yahooに比べると長時間続くので全体で75%を占めるまでになった。Facebookは少し工夫がいる。通常の呼び込みは60名程度に流れるだけなのだ。ハッシュタグ(#付きの単語)をクリックすると関連したニュースを閲覧することができる。そこで関連する記事が目にとまるのだ。今回はSEALDsにハッシュタグを付けたので、この人たちはSEALDsに興味があるのだろう。この流入は日付を越えても続いた。パソコン経由の閲覧が多いので、眠れずにパソコンで情報収集している人が多いのかもしれない。

全体のモバイル比率は55%だった。このうちの半数がiPhoneだ。また、男性が75%、女性25%だった。細かな数字は下記の通り。年齢層は意外と高い。

  • Facebook (PC) 45%
  • Facebook (Moblie) 18%
  • Twitter 5% (PCが70%)
  • Yahoo 25%
  • 18-24 6%
  • 25-34 20%
  • 35-44 31%
  • 45-54 27%
  • 55-64 16%

この流入者が、田崎さんを応援しているのか、SEALDsを応援しているのかは分からない。なお、本文はどちらかを味方する形式にはなっていないので、その後シェアされることはなかった。平均滞在時間は1分30秒ほどもある(ただし、1ページのみで退出した人がどれくらいの時間滞在したかどうかは仕組み上分からない)のが意外だった。

どちらかに乗るとバイラルで広がる可能性は広がっただろうと思われる。安保法制を巡る議論は二極化が進んでいるのだが、少しでも閲覧数を多くしたい全てのメディアが二極化に加担したくなる気持ちがよく分かった。特に人名を入れると人々の関心が高まるのだから、広まりやすい文章は自ずから誰かに味方し、誰かを悪者にして罵倒することになるだろう。

出先(まさか職場では見ていないと思うのだが)でモバイルフォンを見ながら、じっくりと考察できるとは思えない。時間単位で情報ハンティングを行っているのだから、1分程度で分かる「エレベータートーク」でなければ、アイディアは伝わらないだろうし、容易に誤解されるだろう。

TED2のコマーシャルは何を言っているのか

テレビを見ていると突然ヒワイなコマーシャルが流れてくる。聞いていて恥ずかしくなるが、誰も問題にしない。ちなみに内容を翻訳するとこんな感じらしい。最近は英語ができる子供もいるので「お母さん、これどういう意味?」と聞かれないとも限らない。

テッド;ノートPC借りてもいい?
ジョニー:いいよ、どうぞ
テッド:なんてこった!
ジョニー:どうした?
テッド:ポルノばっかりだ!
ジョニー:そのうちキレイにするつもりだったんだ。
テッド:なんて整理方法なんだ。時計回りのリムジョブ(※1)、反時計回りのリムジョブ?
ジョニー:別の方向から舌を回したいときもあるだろ。
テッド:男性器のあるカワイコちゃん(※2)?
ジョニー:オーマイゴッド! 俺は病気だ。だろ? 助けが必要なんだ。
テッド:ジョニー、男性器のあるカワイコちゃんなんていないの、これはオッパイの大きな男なの。

※1 リムジョブとは、オーラルセックスの一つの方法らしい。グーグルで画像検索するとどんなものか分かるが、気持ち悪い画像がたくさん出てくるので、やめたほうがいいと思う。
※2 チックとはひよこの事だがかわいい女性を意味する。グーグルで画像検索するとたくさんのひよこの絵が出てくる。ディックは人名だが、男性器の俗語でもある。

Ted2のCMはYouTubeにたくさんアップされている。早口なので聞き取れない部分もあったが、検索すると文字起しをしている人もいた。

韓国には未来永劫謝罪しつづけよ

韓国と北朝鮮が「一発即発」の事態に陥った。すわ朝鮮戦争の再開かと思ったのもつかの間、対立はおさまった。北朝鮮が謝罪したからだ。これには拍子抜けした。「ゴメンですむなら警察は要らない」という言い方があるが、朝鮮半島では「ゴメンですむから戦争しない」わけだ。

日本人は形式上の謝罪ではなく本当の気持ちが大切だと考える傾向がある。心がこもっていない謝罪は屈辱である。だから、軽々しく謝罪してしまうとますます誠意を見せなければならなくなるかもしれないと警戒する。どこまでも譲歩をしなければならないと覚悟するのだ。だから、日本人は軽々しく謝らない。

ところが、韓国や朝鮮の人はそうは考えないらしい。彼らにとって大切なのは「体裁」と「体面」である。どのように処遇してもらうかが大切で、相手から謝罪を勝ち取らなければ「弱腰だ」と非難されるのだろう。韓国の民衆は力の強い相手に対しては強くでられずに、屈折した気持ちを持つ。これを「恨(ハン)」と言う。指導者が「謝罪」を勝ち取ることにより、民衆は溜飲を下げることができるのだ。

だったら、日本の政治家や外交官は韓国政府の首脳に会うたびに、挨拶の代わりに謝罪すればいい。身振り手振りなどを交えてできるだけ大げさに謝罪するのが良いだろう。だからといって、何もする必要はないし、罪悪感を感じる必要もない。謝罪は彼らの体裁を満足させてあげているだけなのだ。

70年談話については、日本国内で様々な議論が交わされた。これは、日本人が戦争についてとても真面目に考えているという点では好ましいのだが、実際には「謝罪」という言葉が入っていれば、そこにたいした裏打ちがなくても良かったのだ。また、これは指導者に対する民衆の感情なので、日本国民が韓国人に謝る必要はない。

これは「韓国人をあげつらっているのだろう」とか「蔑視だ」と考える人もいるかもしれないが、単なる文化差によるもので、どちらが正しいというわけではない。もう少し例を挙げてみよう。

ドナルド・トランプ氏は「日本はタフな交渉者だ」と主張し、アメリカ人の歓声を浴びた。日本人はこれを聞いて「日本はアメリカにこれだけ遠慮しているのに、なぜ非難されるのだろうか」と思うかもしれない。

これには理由がある。日本人は遠慮がちで相手に慮った言い方をしがちだ。また、会談の席では表情を表に出さずにいるのが礼儀だとされる。そこでアメリカ人は「表情はよく分からないが、自分の言い分は認められているのだろう」と推測しがちである。ところが、日本人は「自分の一存だけでは決められない」と言い結論を持ち帰ることが多い。その結果、結論が覆ることも多い。それを見たアメリカ人は「日本人はポーカーフェイスで相手を騙そうとしている」とか「良い条件を引き出そうとしている」とか「タフな交渉者だ」と感じるのだ。

こうした文化差には注意が必要だ。安倍首相は4月に訪米し「日本はアメリカを防衛できるようにします」と言って喝采を浴びた。ところが、国内では「日本が攻撃されない限り、他国防衛はしません」と説明している。持ち帰りの結果、結論が変わりつつあるわけである。

安倍首相は相手に配慮して、日本の細かい事情を説明しなかっただけのかもしれない。しかし、相手にしてみれば「約束が違う」ということになりかねない。アメリカ人は率直さを好み不正直をとても嫌うので、彼らを怒らせることになるだろう。

日本人として謙譲の美徳を持ち、相手に誠意を示すのはとても大切なことだ。しかし、その誠意がそのまま伝わるとは限らないのだ。

個人主義は利己的でわがままなのか

現行憲法はアメリカから押しつけられた個人主義をもとにしているから、日本人は戦後利己的でわがままになったと主張する人がいる。つまり、個人主義は利己的でわがままだというわけだ。これは本当だろうか。

中国人と仕事をしたことがある人はよく「中国人はわがままで個人主義的だ」という。ところが国際的な企業文化を調べたオランダの学者ホフステードによると中国は集団主義の国なのだという。集団主義社会では自己は「我々」と表現され、集団に忠誠を尽くす傾向があるとされる。確かに中国人は自分の集団には忠誠を誓うが、会社は単なる金儲けの場に過ぎないと考える。そこで、企業にいる中国人がわがままに感じられるのだろう、と考えられる。

公共の概念が発達しにくいのも集団主義の国の特徴だ。街中で行儀が悪いと言われる中国人観光客だが、これは公共圏を自分たちで管理しなければならないという感覚が薄いからだろう。韓国も集団主義的な社会だが、電車の中に読み終わった新聞紙をくしゃくしゃに丸めて捨てて行く「わがまま」な社会だ。

中国人や韓国人は血族が集団の基礎になっている。そこで権力者が血縁者に利益誘導を図ったり、血族単位で蓄財をしたりすることがある。日本人から見ると「わがまま」な行為だが、家族は安全保障の単位なので、彼らの論理に従えば当たり前のことだ。

これらの事例を読んでも、それは単に中国と韓国が文化的に劣っていて「民度が低い」のでわがままなだけなのではないかと思う人がいるかもしれない。

個人主義のアメリカ人も日本人が「わがままだな」と思うことがよくあるそうだ。現代の日本人は横に忙しい人がいても手伝わない。これがアメリカ人から見るとわがままに見えるそうである。いわゆる「縦割り」が進んでいて、自分と違うチームに属している人に協力しようという気持ちにならないのだ。この傾向は今に始まった事ではない。戦時中の日本人を観察したアメリカ軍の記録の中にも「隣の部隊が忙しそうに仕事をしていても暇な部隊が手伝うことはない」という記述があるそうである。(現代ビジネス

個人主義でわがままに見えるアメリカ人だが、代わりに「チームワーク」や「リーダーシップ」を発達させた。さらに個人主義の度合いが高まるほど、公共圏を自発的に維持する仕組みが整う。どうしてこのような傾向が生まれるのかはよく分からないが、一人ひとりの考えで動く事ができる社会の方が自律的な調整機構が働きやすいからではないかと思われる。

もし本来の日本人が強度の集団主義者だったら、日本人は時代にあった集団を自らの手で作り出す事はできなかったはずだ。すると、長州や土佐から脱けだした人たちが主の意思に背いて独自の同盟を築くことはできなかっただろう。また、企業のような仮想的家族システムも作られなかったかもしれない。

日本がアジアで唯一自力での近代化に成功したのは、この国が中庸な個人主義社会だったからだということになる。

集団的自衛権と有権者の意思形成

無関心期

長らく、アメリカの保守派やジャパンハンドラーは日本政府に対して集団的自衛権の行使容認を訴えてきた。安倍晋三は第一次政権時代から集団的自衛権の行使容認に意欲を見せていた。当初は憲法を改正して、集団的自衛権の行使を容認する計画を持っていたものと思われる。その後、民主党の野田政権が集団的自衛権行使容認を議論した。

一方、集団的自衛権に関する国民の関心は強くなかった。一部の右派系雑誌が中国の脅威と絡めて日本の軍事的プレゼンス強化を訴えるのみだったが、雑誌の部数が少なく、議論の広がりはなかった。

その後、第二次安倍政権が発足し、2014年7月1日に憲法解釈を変えて集団的自衛権の行使容認を決定する。しかし、国民の関心は必ずしも高くなかった。安倍政権は2014年12月に「アベノミクスの成否と消費税増税の延長」を争点として衆議院議員選挙を行った。自民党のマニフェストには小さな字で集団的自衛権について書いてあったが、大きな争点にはならなかった。

コンテクストの不在

第三次安倍政権は2015年になって、アメリカの議会で集団的自衛権の行使容認を含む約束をした。公の場でコミットメントしたために、その後妥協の余地はなくなった。

その後、10の安保法案に1つの新しい法律を加えて国会に提出した。この頃から新聞での報道が多くなったが、国民の大半は「分からない」と考えていた。支持率は25%から30%といったところだ。

安倍政権は、中国の脅威とアメリカの依頼という重要な2つの文脈を国民に説明しないままで安保法制の説明をした。コンテクストが不明だったので、多くの国民が唐突な感じを持ったのではないかと考えられる。安倍首相は「敵に手のうちを明かす」という理由で、国民への説明を拒んだ。

権威ある第三者の登場

「潮目が変わった」のは、6月4日の憲法審査会だった。安保法制とは関係のない審査会で、自民党が推薦した憲法学者を含む3人が、安保法制は違憲だと表明した。これをきっかけに、安倍政権が秩序に挑戦しているのではないかという疑念が広まった。これを表現するのに「立憲主義に違反する」とか「憲法違反だ」という表現が使われるようになった。安保法制の内容に反対しているのか、安倍政権の態度に反対しているのかは判然としない。

態度を決めかねている有権者は、意思決定のために党派性のある意見を使わなかった。憲法学者は政治的に中立なポジションにいるものと信じられており、権威もあったので、態度を決めるのに役に立ったのだろう。

その後も「賛成派」や「反対派」の立場の人が国会の内外で自説を述べたが、世論には大きな影響を与えることはなかった。そもそも安倍首相が「敵に手のうちを明かすから」という理由で説明を拒んだために、賛成派も反対派もそれぞれの理由付けをして自説を補強しただけだった。

新聞とNHK

長い間日本では新聞は中立だと考えられてきたが、今回の安保法制では意見が別れた。政権に好意的な新聞(読売、産経)と批判的な新聞(朝日、毎日)である。態度が決まっている人は、同じ意見を持っているメディアを紹介する可能性が高い。故に、中立を装うよりも、ポジションを明確にした方が一定の読者にアピールする可能性が高まるのだろうと思われる。

NHKの評価は芳しくない。中立を装いつつ安倍政権を擁護しているのだという見方が一般的だ。NHKへの「言論封殺」が直接指示されたわけではないものの、結果的にNHKは萎縮した。安保関連の企画が通らなくなったという声もある。このため、政府にとって有用な説明もなされず、賛成派にとっては必ずしもよい結果をもたらさなかった。

これまでの観察から類推すると、メディアには党派性があるために、態度強化の役には立つが、態度変容のためには役に立っていないのではないかと思われる。

政党離れ

安保法制への反対が増えるに従って、反対表明をしている共産党や民主党への支持が増えてもよさそうだが、支持は広がらなかった。60%程度が無党派になっている調査もある。この点についての調査や分析は行われていない。

民主党は野田政権時に集団的自衛権行使容認を目指したのだが、現在は反対を表明している。また、民主党の中にも「反対派」と「実は賛成派」が混在しており、ツイッター上で自説を述べ合っている。対案が出せないのは民主党内の意思が表明されていないためと思われる。

安保法制を「戦争法案だ」と考える主婦や学生が「戦争反対」のデモを開始した。賛成派はこれを「共産党の影響を受けている」と攻撃したが、デモを主催する人たちは「共産党とは関係がない」と反論した。

一連の出来事から、既存の政党への拒否反応が広がっている様子が感じられる。政治的なイシューと政党が必ずしも結びつけて考えられていないのである。特にデモを起こして反対する人たちにとって「党派から独立していること」が重要だと考えられている。

ツイッター上の部族とニュースイーター

安保法制の議論がエキサイトするにつれ、ツイッター上では「賛成派」「反対派」が明確になり、相手を攻撃するような光景も目にするようになった。このことから、ツイッターのフォロワーは必ずしも賛意を意味するものではないことが分かる。反対の意見を持った人を監視し、攻撃するためにフォローする人が少なからずいるのである。

一方で、態度を決めるためにツイッターを利用している人も多くはなさそうだ。むしろ、ツイッターは態度強化の為に利用されている。賛成派と反対派では、もともとのストーリー構成が違っている。このため、部族が異なると、相手の言っていることがよく分からないのだろう。いったん意見表明してしまうと自分の発信に対するコミットメントを深めてしまうので、態度変容が難しくなる様子も分かる。

一方で、態度を折り合わせるために共通のストーリー作りを目指すという声は聞かれなかった。

ごく少数ではあるが「事実はどこにあるのだ」という当惑の声も聞かれる。ここでも「中立性」が求められている。ストーリーによって見方が異なるので「ただ一つの真実」というものはないのだという見方をする人は少ない。つまり、比較が重要だということ を考える人はほとんどいない。

もう一つの顕著な層は「ニュースイーター」と呼ばれる人たちである。この人たちは、折々のニュースをフォローすることに興味があるが、自身の意見を持っているかどうかは分からないし、態度強化や態度変容を目指して情報収集しているかどうかも分からない。ニュースはタイムラインを流れて行くものなのだ。

Faceboookはニュースイーターを多く抱えているものと思われる。サイト解析から見ると、年代は30歳代より上が多い。今回の場合「安倍君と麻生君の例え話」や「火事と生肉の例」など、テレビで話題になった事案に引きつけられることが多く、必ずしもニュースの本質的な議論に興味があるわけではなさそうである。

「強行採決」

支持率が急落し、賛否が逆転したのは、法案が衆議院議会で採決された7月15日前後だった。法案の中身よりも「世論が納得していないにも関わらず」法案を押し通したという点が、反発されたのではないかと思われる。

この時期になっても賛成派は約25%とそれほど変わっていない。安倍首相自身がテレビに出て安保法制について説明したが、火事になった家の例は国民を困惑させただけで、視聴者に態度変容をもたらすことはなかった。

ヤノマミ – 殺し合う人たち

ホッブスの万人の万人に対する闘争という言葉がある。この言葉を地で行く部族がいる。「5万年前」にはアマゾンに住むヤノマミ族に関する記述がある。彼らには殺し合いをしてはいけないという掟はないようだ。逆に人殺しの経験がある男性は、妻の数が2.5倍ほど多いのだという。アフリカ南部に住むサン族にもプライバシーや私有財産という概念がない。権力者がいないので、調停の方法は、話し合い→決闘→殺し合いというように進むのだそうだ。

よく、人殺しをした人はすべて死刑にすべきだという議論がある。人の命と命を対価交換しようという理屈だ。この等価交換理論を突き詰めてゆくと、欲望を満たす為に自分の命をリスクにさらしてもいいと思うのであれば、人を殺してもよいということになる。現代社会に住んでいる人たちはこの可能性を排除するために「人はもともと人殺しなどできないようにできている」とか「人の本性は善だ」と言ったりするのだが、サン族やヤノマミ族の事例はそれが本当ではないことを示唆する。

それではなぜ「人殺しをしてはいけないのか」という答えも彼らが教えてくれる。ヤノマミ族の集団はこの社会構造のためにある一定以上の数を越えることができない。争いが深刻になると群れは分裂し、別の場所に移動せざるを得なくなる。財産は蓄積できないかもしれないし、知識も溜まってゆかないだろう。結果として大きな差が広がってしまうことになる。

争いが人殺しに至る前に調停ができるということは人間の社会が安定化するためには有利だ。権力者が裁定するというのが考えられる。また、宗教的な権威(正しさ)も調停原理として働くだろう。そして権力が民衆の手にゆだねられた社会では人々が歴史的に蓄積した「法律」によって調停することになる。

ここで疑問に感じるのは原初の社会にはなかったかもしれない殺人のあり方だ。例えば、イライラが募り何の対価もないのに人殺しを実行するというのは、一つの逸脱だと考えられるだろう。こうした殺人が頻発し、防ぐための有効な手段がみつからなければ、群れは滅んでしまうかもしれない。

社会がここまで発展する経路はひとつではなかったようで、それぞれの社会がバランスを取りながらなんとか発展してきた。「協力」と「闘争」もその一つだ。生き残っていることを見ると、我々はなんとかそのバランスを崩さずにここまで発達することができた人々の子孫だということがいえる。しかし、今生き残っているということは、これからもこのバランスが取れるかどうかを保証するものではない。

殺人と厳罰化を議論する前に、どうして人殺しの代償として命を奪ってしまう社会が多数派でないのかを考えてみるとよいだろう。そこにはやはり何らかの理由があるのだ。

ヤノマミ族についての観察がある。
http://www.ne.jp/asahi/wepjapan/net/sekinoyoshiharusan3.htm

集団的自衛権 – アメリカは何を求めていたか

集団的自衛権の議論は分かりにくい。国内議論では元々のリクエストが隠蔽されているからだ。そこで、アメリカの要求を検討することで、本当は何が求められていたのかを考えてみたい。

アメリカのリクエスト

そもそも、これは陰謀ではない。例えば、アメリカのヘリテージ財団は、野田政権の末期に次のように書いている。(クリングナー論文

米国政府は長きにわたって、日本が自国の防衛により大きな役割を担うこと、さらに海外の安全保障についてもその軍事力・経済力に見合う責任を負担することを求めてきた。日本が防衛費支出を増大させ、集団的自衛権行使を可能にし、海外平和維持活動への部隊派遣に関する法規を緩和し、沖縄における米海兵隊航空基地代替施設の建設を推進することになるとすれば、米国にとって有益なことである。

その上で、日本の海外権益を守る為にシーレーン防衛を実行すること、自衛隊海外派遣隊が自力で自己防衛できる能力を備えるようにすること、日米韓で連携することなどを求めている。

ここからいくつかのことが分かる。第一にアメリカは「日本が集団的自衛権を行使できない」ということを認識している。故に、小川和久さんの主張にあったように「日米同盟は集団的自衛権の行使が前提である」という論は成り立たない。

次にアメリカは日本が防衛費支出を増大させることを期待している。これは安倍首相の主張とは異なっている。安倍さんは「納税者の負担は増えない」と言い切っているのだが、これはアメリカ政府のリクエストを満たさない。

さらに、アメリカは自衛隊を軍隊へ格上げして、日米同盟を日本防衛のスキームから海外でも活動できる軍事同盟に格上げすることを期待している。このためには憲法改正が必要であり、憲法改正には国民の理解が必要だ。そもそも、そのためには国民の意識変革が必要だろう。

アメリカのシナリオと誤算

このレポートは、日本に政策転換を促すために、中国の脅威を強調して民族意識を刺激しろと言っている。この戦略は当たった。

一方で誤算もある。中国の脅威やアメリカ政府のプレッシャーでは日本人の意識を変えられなかった。

日本は第二次世界大戦で海外権益を失ってしまったために、権益を防衛しようという意識を失った。さらに、自衛隊はアメリカ軍のサポートであるという意識があり、規模(世界第九位)の割に軍事的大国であるという自己認識がない。さらに70年前の戦争が大きな失敗体験になっていて、戦争に拒絶反応がある。

両国間にある「防衛観」の違いも大きかった。アメリカ人が考える防衛は「多国籍・積極的介入主義」だが日本人にとっての防衛は「一国・専守防衛主義」である。このため「集団的自衛権」と「個別的自衛権」が選べる場合「個別で対処すればいいのでは」という意識がある。

さらに、国民レベルで見ても防衛観は異なっている。アメリカ人にとって銃で武装することは自己防衛だ。市内にある危ない地域を車で通る時に銃を持ってでかけることもある。だが、銃武装が禁止されている日本人はそうは考えない。銃を持つということは人殺しが前提であり、それは防衛と呼ぶには過剰なのである。

安倍さんの失敗、ネトウヨの失敗

安保法制賛成派の立場から安倍政権の行ったことを評価してみよう。賛成派の最終目標はアメリカの主張を日本人に受け入れさせて実際に実行させることだ。

安倍晋三に期待されていたのは、リーダーとして日本人の意識改革をすることだった。中国の脅威を強調しつつ、民族意識を刺激し、大国としての自負心を植え付けることだ。

ところが、安倍晋三は「お友達」と呼ばれる価値観を同じくするもの同士でメッセージを共有するだけで、他者の意識を変革する努力を放棄した。そればかりか、立憲主義を無視して憲法に違反する法律を制定しようとしている。このため、安倍首相の行動は憲法クーデターだと呼ばれるようになった。

また、ネトウヨがやるべきだったのは、匿名のネット上で中国人や韓国人をバカにしたり、民主党をこき下ろすことではなかった。職場や友達などに「日本人は大国意識を持つべきだ」と主張し、実際に行動を変えることである。消費者であってはならず、生産者になるべきだったのだ。

アメリカの反応

衆議院の法案通過を受けて、ヘリテージ財団のブルース・クリングナー上級研究員は「変化は哀れな程小さい」と評価した(時事)。さらに、フォーリンポリシーは安倍首相の今回の行動を「憲法クーデターだ」と呼んでいる。過去の政策と整合性がないが、国民の支持も得られていないという含みがあるものと思われる。

アメリカ政府は明確なコメントを出していない。民主主義を擁護するという名目で他国に介入するアメリカとしては、非民主的なプロセスで送り出される軍隊を表立って賞賛することはできないのかもしれない。

矮小化された議論と自民党の限界

レポートの是非はともかく、ここから分かるのは、アメリカの保守派が日本政府と日本人に「多国籍・積極的介入主義」を受け入れさせたかったということだ。集団的自衛権の行使はそのためのツールに過ぎず、憲法改正ですら単なる途中経過なのである。

意識を変えるのは難しい。極端に言えば、主婦や学生に「銃を持って海外に行くことは、防衛である」と信じさせなければならないのだ。安倍政権のやろうとしたことは、戦後イデオロギーの大胆な転換だった。しかし、安倍政権は自民党をイデオロギー政党に変革することに失敗した。

自民党は戦後長い間「経済政党」だった。経済成長を実現しその果実を分配する装置として機能してきた。ところが、シーレーンを防衛しても新しく分配できる利益は増えないばかりか新たな負担を抱えてしまうことになる。故に、旧来のスキームで安保法制を国民に受け入れさせることはできなかったのである。