マイナンバーカードの?が教えてくれること

「マイナンバーカードが配達されない」とか「詐欺に使われている」というニュースを見た。この中で特に深刻だと思えるのが、配送ラベルに印刷されている?の問題だ。今の日本のダメなところが凝縮している。

ガラパゴス化した組織は全体でミスをなかった事にする。なかったことにするから、いつまでも失敗から学べないのだ。

住所ラベルに?が印刷されたのは、全角スペースにすべきところを半角スペースにしたからなのだそうだ。これをプログラムが処理しきれず?が印刷されてしまったのだという。

なぜ、半角スペースを入れると?が印字されてしまうのだろうか。報道では詳しく説明されないのだが、多分COBOLを利用しているからではないかと思われる。ビジネス分野でよく使われるCOBOLは全角と半角の取り扱いが苦手なのだという。これを「克服」するためには、予め半角になりやすい文字種を決めておいて、手作業で対照表を作って置き換えるのだという。この処理を失敗すると、文字コードが半角分(全角を基準にすると0.5文字になる)ずれてて、全体が文字化けを起すはずだ。

文字化けを防ぐために、エラーとして「手作業で」?を印字しているのではないかと思われる。?は当てはまる文字が有りませんよとか「データが間違っていますよ」いう意味の「エラーコード」なのだ。プログラマが意図して組み込んでいるのだ。そういう「仕様」なのだろう。

ここまで書いても「だからどうしたの」と言う人が多そうだ。

第一に「なぜ未だに、日本語処理が苦手なCOBOLを使っているのか」という問題がある。1959年に仕様が統一されたCOBOLはもう50年以上もの歴史のあるプログラミング言語だ。多分、役所関係の仕事だけをやっていれば済む(他に仕事がない)会社や部署が使い続けているのだろう。こうした会社では、他の言語を習得する意欲がないはずだ。ガラパゴス化しているのだ。

もし、MicrosoftやAppleのように家庭用機器を作っている会社であればそんな製品を放置する事はなかっただろう。COBOL言語そのものの問題というよりは、改良されたCOBOLが使えないコンピュータを使っている人たちが多いということなのかもしれない。メーカーは古いアーキテクチャに無駄なリソースを割くよりも新しいアーキテクチャに移って欲しいと思うはずだ。いわば、MS-DOSあたりを使っている感覚だといえば分かりやすいかもしれない。

こうした世界では、倒錯した価値観が支配することになる。不完全な状態を「改善しよう」とは思わない。それを使いこなす事に不思議な快感を覚え、それを「職人技」だと賞賛することになるのだ。目的を達成するよりも、職人技を磨く事が尊敬される不毛な世界だ。

しかし、これは問題の半分だ。もしこれがエラーコードだったとしたら、どこかで抽出ができたはずだ。?が印刷されたら、ログを吐いて出荷を止めるようなことができたのではないかと思う。しかし、システムインテグレータはそれをしなかった。これは推測になるが「納期の問題」があったのかもしれない。「納期に間に合わせる為には絶対に半角スペースは入れないでくださいね」というわけだ。

役所の方も納品物をチェックしなかったのだろう。役所側(あるいは業者の営業)が、納品する住所録にある半角スペースを一括で全角に変換してやればよかった。また、納入したものを目視確認すれば問題は表面化しなかったはずである。プログラマは半角スペースをイレギュラーとする仕様で書いているのだから、チームメンバーは(それがクライアントや営業であっても)イレギュラーなデータが流れ込まないようにする責任がある。

「時間がないからミスはあってはならない」が「ミスはあってはならないから、ないはずだ」に変わってしまう。最後には「ミスはないはずだから、これはミスではない」になる。だから、誰も学習しないのだ。そして学習しないから「これをどうにかしよう」とは思わないのだ。

このように考えると、マイナンバーが外部に流出するのも時間の問題だといえる。?で収まっているうちに問題を解決すれば良かったと思う日が来るだろう。

残念なことに、これを伝えるマスコミ側にもコンピュータのことが分かる人がいなかったようだ。政治部や社会部に専門家がいなかったのかもしれない。だから、深刻な問題が起きたとき、初めて専門家を呼んで大騒ぎして「責任者を首にしろ」などと叫ぶわけである。

まあ、問題が起きた時に多額の税金で処理をするのもいいかもしれないし、何度でも叫び続ければいい。何回でも同じ間違いを繰り返せば、そのうち学習するだろう。

県はなぜPrefectureなのか

英語圏で、日本の行政単位はPrefectureだというと変な顔をされる。Prefectという言葉には学校の風紀委員という意味がある。監督官というようなニュアンスかもしれない。英語のウィキペディアによると、日本の小さな行政単位をPrefectureと呼び始めたのは江戸時代のポルトガル人なのだそうだ。ポルトガル人がPrefectureと呼んだ組織は国(今でいう県)よりももっと小さな単位だったとのことである。

Prefectはラテン語圏では地方の行政長官の意味があるそうだ。風紀委員とニュアンスは似ている。監督者の名称なのだ。その歴史はローマ帝国に遡るという。ラテン語圏では、地方の行政長官がいる役所をPrefectureと呼び、そのうち、地域の主府(いわゆる県庁所在地)をPrefectureと呼ぶようになった。つまり、Prefectureは行政単位の名前ではなく、役所の名前なのである。地域名はProvinceと呼ばれる事が多い。Provinceは日本語では州(ローマの場合は属州)と訳される。

そもそも、県はどのような行政単位だったのだろうか。これもWikipediaによると、県の起源は古代中国に遡る。地方の人口稀薄地を郡と呼び、面積は小さいが人口の多い地域を県と呼んだ。もとは地方官庁を示していたという。秦の時代になり、郡の下に県が置かれるようになった。

日本の県は明治政府の直轄地のうち都市部でない地域の呼称だった。都市部の直轄地は府と呼ばれた。正確には行政単位の名前ではなく、その行政単位を治める役所の名前だ。小さな単位に過ぎなかった県だが、明治政府が藩を廃止して直轄地として編入したために、県の相対的な地位は高くなった。さらに都市に置いた府を廃止(東京、大阪、京都を除く)したために、地方の役所の名前に過ぎなかった県はいつのまにか行政単位の一般的な名前になったのだ。

現在、英語版のWikipediaではPrefectureは「県」という字の訳語として使われている。歴史的に見ると、日本で結びつけられ、後に同じ漢字で現す単位をPrefectureと呼ぶようになったのではないかと考えられる。少なくとも英語ではPrefectureを行政単位としては使う人がいないので、このラテン語由来の語をなんとなく(あるいは恭しく)受け入れてしまったものと思われる。

明治時代には地方の行政長官や役所の名前をPrefectureと呼ぶのは自然なことだったのかもしれない。中央政府が地方に設置する管理役所が県だからだ。知事も県令も官職であり、地方自治とは関係がなかった。この状態が戦後の昭和22年まで続いた。戦中まで知事は公選で選ばれる政治家ではなく官僚だったのである。

ところが、戦後になり県知事が公選になっても、県をPrefectureと呼んでいる。一方、県の責任者の名前はPrefectとかPrefectureとは呼ばれずアメリカの州知事と同じGovernorである。中央から任命されるわけではないから、当然と言えば当然だ。

それでは県の訳語として正しいのは何なのだろうか。

イギリスでは国(Country)の下の単位をCountyと呼んでいる。一般的に、Countyは郡と訳されるが、イギリスの行政単位は州と訳することが多いようだ。しかし、これは例外的だ。

大抵の国では、国の下の行政単位はProvinceと呼ばれる。カナダの州もProvinceだ。ベルギーは3地域(Region)の下に10州(Province)がある。中国の省や韓国の道もProvinceである。フランスはProvinceを廃止してDepartmentと呼ばれる固まりを作った。今ではDepartmentの上にRegion(地域)というまとまりあるそうだ。そして、県の主府のことをPrefectureと呼んでいる。イタリアの州は英語ではRegionと呼ばれ、その主府がPrefectureである。

このように考えると、県の訳語も、Provinceが妥当なのではないかと思える。もっと正確に言うと地域名称がProvinceであり、県庁所在地がPrefectureだ。これを当てはめると、今「県」と呼んでいるものは「州」と呼んだ方が良さそうだ。西洋的な伝統に従うと県庁所在地を県と呼ばねばならず、東洋的な伝統に従うと郡の下部組織が県ということになる。

そうなると九州や東海などの単位はRegionと呼ぶのが相応しいということになる。Regionは一般的には州ではなく地域と呼ばれる。だから道州制は正しくは地域再編とでも呼ぶのが相応しいことになる。最初に道州制を名付けた人は、アメリカのようになりたいという含みがあったのかもしれない。しかし、アメリカの州はProvinceではなく、State(国)なので、そもそも訳語が間違っていることになる。

不思議な事に、誰が地域の固まりを県と呼ぶことを決め、その訳語をPrefectureにしたのかは分からなかった。文献を調べて行けばわかるのかもしれないが、そうした史料をまとめた人はいないらしい。今となっては、誰がどのような意図で行政単位を県と呼び、それにPrefectureという訳を当てたのかは分からないのである。

パリとブリュッセルはどれくらい近いのか

まずは基準になる日本のマップから。東京を中心とすると仙台から名古屋を経て大阪までが地図に収まる。だいたい新幹線で2時間から3時間くらいの距離で、海外旅行の行き先としてセットで語られることが多い。

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ブリュッセルを起点にした同縮尺のマップにはロンドン、アムステルダム、ケルン、ドルトムント、フランクフルト、パリが入る。ブリュッセルからパリまでは特急タリスで2時間かかる。パリからロンドンまではユーロスターで2時間程度だ。つまり、ブリュッセルとパリの間は感覚的に東京から名古屋あたりの距離であることが分かる。

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この地域は国境を越えての交流が盛んだが、国境に対する意識も違うかもしれない。この狭い地域に言葉が全く通じない諸民族がひしめき合っていて、何百年も戦争を繰り返していた。このように狭い国同士で国境を設けていては通商の邪魔になるとは分かっていても、それをなくす事ができないという歴史が長かったのである。

さて、アメリカだとどのような距離感なのだろうか。ニューヨークを中心にすると、ボストン、フィラデルフィア、ワシントンあたりまでが射程になる。北東回廊という高速鉄道路線が引かれている地域に該当する。こちらも1回の観光で訪れることができるエリアなのかもしれない。北西部にカナダ国境が少しだけ見える。ロングアイランドは小さな島にしか見えないが、横断すると鉄道で2時間45分かかるのだそうだ。距離も東京-浜松くらいある。

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アメリカといっても東と西では状況が異なる。ロスアンジェルスを起点にするとサンフランシスコとラスベガスが射程に入る。ほとんどがカリフォルニア州だ。こちらも1回の観光で訪れることができるぎりぎりの広さかもしれない。ロスアンジェルスとサンディエゴの間には鉄道が走っているが、サンフランシスコに行くのには飛行機を利用する人の方が多いのではないだろうか。北カリフォルニアは感覚としては別の州に近い。一方、メキシコが近い。スペイン語系の住民も多く、ファストフード店などに行くと「英語が通じないのでは」と思う事も多い。カリフォルニアの家庭の40%以上が英語以外の言語を話すという統計もある。

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デリーを中心にすると、ジャイプールとアグラ(タージマハルなどが有名)が近いことが分かる。1回の観光旅行でセットになる典型的な3都市である。北東に見えるのは中国だが、直接行き来することはできない。この3都市の間はそれほど離れていないように見えるが、鉄道で移動するとそれぞれ4時間以上かかる上に遅延も多い。

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一方、同じ都市圏と言ってもよい程近いのに遠く離れているのが朝鮮と韓国だ。ソウルを中心にすると、韓国全土と朝鮮のほとんどが同じ地図に収まる。この狭い地域で戦争状態が50年以上も続いている上に、ソウルは休戦ラインに近い。ソウルから釜山までの所要時間はKTXで2時間50分だそうだ。昔ながらのセマウル号で5時間の所要時間だ。平壌から丹東の手前にある新義州までは3時間45分かかるとのことである。

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戦争状態といえば、シリアの首都ダマスカスはどうなっているのだろうか。驚く事にレバノンやヨルダンとは目と鼻の先といった近さにある。シリア北部からだとトルコが近い。内戦が長い間続いているのだから、多くの国民が逃れて行くのも当たり前なのかもしれない。ヨーロッパに多くの難民が流れて大騒ぎになったのだが、トルコ、レバノン、ヨルダンにはそれ以上の人数の人たちが逃れているのだという情報もある。

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これを見ると東京という都市がいかに外国から離れているのかということがよく分かる。地図の中に国境が引かれていないのは東京の地図だけだ。同じ日本でも福岡を中心にすると違った図が見える。韓国が射程に入るからだ。東京に住んでいる人たちが、移民とか外国人というものに実感がないのもある意味当たり前なのかもしれない。

障害者は生まれるべきではない、について考える

茨城県の教育委員の女性が「障害者は生まれると大変なので、堕胎できる早期に発見できた方がいい」と発言し「炎上」した。女性は発言を撤回し、教育委員も辞めると言っているらしい。これに対して橋本知事は何が起きているのか分かっていないらしい。この無自覚さは一種の罪だろう。多くの他人の人生に影響を与えるという意味では、重い類いの罪といえるかもしれない。

「炎上」したのはこれがナチスの主張に通じるとされたからだ。ナチスの主張とは「自分の持っている価値観を外れた他人は死んでも(あるいは殺しても)いいのだ」というものだ。堕胎は合法的に認められた数少ない殺人行為だ。だから、長谷川さんは「役に立たない子供は殺してしまえ」と言っているということになる。

ナチスばかりではなく、イスラム原理主義の首謀者たちもそう信じている。首謀者たちはパリ市民の命をなんとも思っていないばかりか、犯人たちの命も利用して構わないと思っている。ナチスは「合法的に」他人の命を奪ったのだが、イスラム原理主義者は違法に行っている。とはいえ、彼らは「国家格」を主張している。彼らの「法」に従えば、それは合法的な行為なのだろう。

長谷川さんの言動に対して「いや、障害者も役に立っている」とか「意義のある人生を送れるはずだ」という人がいる。さて、それはどうだろうかと思う。

そもそもそうした論法が成り立つ為には、その話し手が「自分の人生には意義があり、人の役に立っている」という視点を持たなければならない。しかし、障害の有無にかかわらず、人の人生に意義はあるのだろうか。

多分、県知事や画廊の経営者というように名を成した人は「自分の人生は意義があり、自分は人の役に立っているのだ」と考えているのかもしれない。70年も生きていて「そもそも人生というのは無為なものなのではないか」という疑問を持った事が一度としてなかったのだろう。時に人生に立ち現れる不条理に遭遇したこともなければ、そうした境遇に立ち会った人に共感したこともなかったのだということになる。

そういう人が教育行政を差配しているということに対して、深い闇を感じる。教育とは「役に立つことだけを教える」ことではないはずだ。不意にぶち当たる不条理に対しての準備をさせる事も教育だろう。

「人生には意義がない」が「意義がない」ということを受け入れることは難しい。そこであえて、何かを見いだそうとするのが人生なのかもしれない。生きて行く事に何の意味がなかったとしても、新しい朝は訪れる。

不条理に対する準備がないことは何を招くのだろうか。

「意義のある人生」と「意義のない人生」を切り分けることが、地獄の入り口になることがある。無為に苦しむ人もいるが、さらに危険なのは、無為を感じた人が「何か大きくて意義深いもの」に触れた時に感じる高揚感だ。

イスラム原理主義の人たちはそれを神と呼ぶ。神に祝福される世界を作るのが「ジハード」だ。天国に行ける事が保証されているのだから、他人の人生を奪ってもよいのだ。同じように「目覚めた人」が「目覚めていない人」を善導してやるのが、オウム真理教の「ポア」だった。この場合、善導とは相手を殺してしまうことである。無為を感じたまま「偉大なもの」に触れた人たちは、いとも簡単に、他人の人生を踏みにじってしまうのだ。

無為を教えない現代の日本にも無為を感じる人たちは大勢いる。宗教はヤバいということになっているので、代わりに目をつけられたのが「連綿と続く日本の伝統」だ。「国体原理主義」といえる。こうした人たちは「日本の伝統」を盾に他人の権利を踏みにじろうとする。ただ、実際には伝統とは切り離されているので、歴史的な経緯というものには、驚く程興味がない。

彼らの思想も「ナチス」や「イスラム原理主義」に通底するものがある。「意義のあるもの」と「意義のないもの」を分けた上で「意義のないもの」を奪おうとするのだ。しかし、その裏には「自分たちの意義」への疑いがある。だからこそ「意義のないもの」を作り出して、自分たちの人生に意味を与えようとしているのだ。奪う事でしか生きていけないのである。

日本の政治家はこうした人たちを単なる確実に票が読める集票マシーンくらいにしか考えていないのかもしれない。しかし、これは危険な状態だ。なぜならば、意義に飢えた人は少し奪うだけで満足する事はできないからだ。奪っても奪っても満足する事はできないのではないだろうか。

今回の件を原理主義と重ねるのは、いくらなんでも極端だという批判はあるかもしれないが、底を流れる構造は似通っている。このように人の人生を「意味の重さ」で計ることは危険なことなのだ。無自覚であるからこそ、罪が深いのだとも言える。

もっとも「人生に意義などないなら、他人の人生を奪ってもよいのではないか」という疑問は残る。確かにそうなのかもしれない。しかし、飢餓感情から他人の人生を奪い続け、いくら奪っても満たされないというのはどういう状態なのだろうかと考えてみたい。人はそれを「地獄」と呼ぶのではないだろうか。

イスラム教徒の思い出

パリでイスラム教徒が自爆テロ事件を起した。ニュースでこれを見た人たちはいろいろな感想を持ったようだ。「だから移民はダメだ」という人や「この際、日本にも非常事態法が必要だ(だから憲法改正して……)」という人もいるだろう。一方「一般のイスラム教徒は平和な人たちのはずだ」と主張するリベラル寄りの人もいるかもしれない。双方とも実感がこもっているとは思えない。移民と接したことがないからだろう。

イラン系のイスラムの人と住んだことがある。最初は普通の学生のように見えたが、次第にイスラム教徒の友達を連れてくるようになった。そのうち雰囲気が怪しくなり「お前の国では複数の神様を信仰しているのだろう」と言い出した。そしてそれを理由に「一緒に住めない」ということになった。多分、イスラム教徒のルームメイトを住まわせたかったのだろう。

さらに仲間とつるんで「お前の乗っている車は良さそうだから置いて行け」とまで主張しはじめた。恐喝だが、さほど罪悪感はなかったのではないかと思う。裏返せば「車を持っている」ことがうらやましかったのだと思う。彼らは車を持てる程には裕福ではなかったのだ。

結局、部屋を出て行かざるを得なくなった。

「差別」というのを実感した初めての経験だった。上の階に住んでいたイスファハン出身者に聞くと「国の中でも南北差別がある」ということだった。肌の色が若干違うのだそうだ。そして、同じ国の出身者が「何かに染まって行く」ことに戸惑っているようでもあった。

彼らは幼い頃に英語を習得しているので、日常生活上差別されることはないはずだ。しかし、マイノリティには「見えない壁」のようなものがある。いくら上手に英語が話せるようになっても「白人と同じ」にはなれない。そこで、同じような人たちとつるみ、下を探すようになるのだ。それが同じ国の人だったり、英語があまりできない外国人だったりするのだ。

決して教育がないわけではない。他の大学の学生や医者のような専門職の人たちともつながりがあった。比較的高学歴のムスリムのネットワークがあったのだと思う。一方で、国の伝統的な宗教からは離れており、穏健なイスラム教に触れる機会はなかったかもしれない。伝統から切り離されているというのは大きな要素だと思う。

日本にも同じような例があった。「オウム真理教」だ。信者たちは比較的高学歴なのに「なぜ生きているのだろう」というような疑問を持った。しかし、日本は伝統的に「無宗教」なので宗教やコミュニティによる救いない。伝統的な仏教(オウム真理教が仏教だと仮定するとだが)から切り離されているからこそ、ラディカルな教義を持った自信ありげな教祖に「イカれて」しまうのだろう。

差別に敏感だからこそ「下に見た相手」を差別するという構造がある。そこで「万能感」のようなものを感じるのだが、それが虚飾だということに気がつくのは時間の問題だ。「世の中は間違っている」と感じてもおかしくはない。自爆テロ犯のように「天国にしか自分の居場所はない」と感じる人は極端な例だと思うが、その裏には「自爆テロ犯を利用してでも、世の中に一泡吹かせてやろう」と考える人がいる。その周辺には「そういった思想を応援しよう」と考える比較的裕福で(おそらくは教育もある)人たちがいるのだ。

だから「移民は不遇で貧しい人々」というラベリングは間違っている。

「オウム真理教」の人たちが「自分たちこそが目覚めている」と感じていたように、こうした過激なイスラム教徒は、自分たちこそが「祝福されるべきだ」と感じているのかもしれない。自分たちが祝福されないのは社会が邪悪だからなのだ。だから、伝統から切り離された人たちが、こうした闘争を「ジハードだ」と考えるようになっても不思議ではない。

かといって、これが移民問題だと考えるのも正しくないだろう。もし、欧米にイスラムの移民がいなければ、ラディカルなキリスト教徒が「世直し」と称して過激な運動を起したかもしれない。現に移民の少ない日本でも「オウム事件」が起きた。社会転覆を狙ったテロ事件だったが、移民とは何の関係もない。ジハードの代わりに「ポア」という言葉が使われた。殺人を正当化して「邪悪な人たちを救済している」と言い放ったのだ。

アメリカでは、9.11事件の後イスラム系移民が危険だということになったのだが、「ホームグローンテロリスト」という言葉ができ、マイノリティが危険視されるようになった。しかし、実際には白人の男性が頻繁に銃乱射事件を起すようになった。白人の大量殺人は「テロ」とすら呼ばれず、ありふれた殺人事件だと見なされている。

格差や差別はいけないことだ。しかし、それは「差別される人がかわいそうだから」ではない。差別は徐々に社会を破壊するのだその事が分かるのは状況が悪化した時だが、その時には個人の力ではどうしようもなくなってしまっている。もう後戻りはできない。

「外交や話し合いで解決すべきだ」という人もいる。しかし「ポア」を正当だと考えていた教祖に対して「外交が有効だ」などという人がいるだろうか。「ポア」とは他人が間違っていると感じたら命を奪っても良いという思想だ。お互いの立場が違うことが前提の「お話し合い」は通用しないのだ。

さて、こうした文章を読んで「個人の感想でイスラム系のイラン人を断定的に扱っている」という批判めいた感想を持つ人もいるかもしれない。しかし、状況はそれほど単純でもない。

前述のようにイラン人と言っても「肌の色の白さ」による区別があるようだ。さらに、トルコ系の少数民族(アゼリ人)が同居している。同じ言語の話し手の間にも差別がある。隣国にまたがって同系の言語を話すクルド人が住んでいるが、少数民族扱いになっている。アフガニスタンにもダリー語というペルシャ語系の方言を話す人たちがおり、ペルシャ人からは差別されているのだという。

一方、イラン系にもユダヤ人が存在する。イラン・イスラム革命の際にアメリカに亡命した人たちが多く、比較的裕福な住宅地に住んでいる人が多い。ユダヤ系はやっかみの対象にもなっているのだ。一方、イラン国内にもユダヤ系が残っているということである。アフマディネジャド前大統領は改宗ユダヤ系の出自だという説があり、同時にイスラエルに敵対的なことで知られていた。

つまり、イラン人やイスラム教徒だからといって、常に弱者で「差別される側」の人とは限らないということになる。

2015年にはどのくらいのテロ事件が起きていたのか

パリで連続爆破事件が起きた。たいへん痛ましい事件なので、インターネット上ではフランスに連帯を示す人たちがあふれた。Amazonはフランス国旗を掲げ、Facebookにはフランス国旗と自分の顔写真を重ね合わせるアイコンを表示する人たちがいた。

一方、なかなか事件を取り上げない日本のマスコミに対して「特別放送を流さないとは何事だ」というようないらだちを表明する人たちも多かった。中にはTwitter上でコメントを出した著名なジャーナリストに対して「事実誤認」を指摘する人まで表れた。普段から「これだから日本のマスコミは……」というような気持ちを持っている人たちが多いのかもしれない。

この騒ぎは普段私達が持っている小さな差別意識を表面化させたように思う。先進国の事件を自分たちの状況と重ね合わせて「平和な暮らしが脅かされるかもしれない」という恐怖心を感じることはよく分かる。一方、中進国で同じような事件が起きても「対岸の火事だ」という認識しか持たない。「ああ、貧しくてかわいそうに」くらいにしか思わないのだ。

同じような事実認識は難民騒ぎでも起きている。トルコ・レバノン・ヨルダンには350万人以上の難民がいるが特に大きく報道されることはなかったが、ヨーロッパに難民が流れてきたころから「国際問題」として認知されるようになった。

試しに今年起きたテロを並べようと思ったのだが、多すぎてすべてを列挙することはできなかった。興味のある人は公安調査庁のページを閲覧するとよいだろう。

もちろん知らなかったものもあるが、テレビで報道されたものもある。にも関わらずこうした一連のテロで「通常放送を止めろ」という指摘が出なかったのはなぜなのだろうか。今一度考えてみた方がよいと思う。本当に国際情勢に関心があるのであれば、CNNやBBCなどの導入を検討した方がよいだろう。テロのたびに放送を止めるより、ニュー寸専門チャンネルを見た方がいい。テロはそれほど頻繁に起きているのだ。

  • イエメンでは恒常的にテロや軍への攻撃があり、多くの人が殺されている。内戦化しているため、個別の事件が取り上げられることはない。アフガニスタンでもタリバンの事件が多発しているが、こちらも混乱状態が定着しているため特に報道されることはなくなった。
  • アフリカ(サブサハラ)では恒常的に自爆テロが起きている。ナイジェリアではイスラム過激派ボコハラムが数十名単位の殺戮を複数回行っているが、特にニュースになることはない。子供に爆弾を括り付けて自爆テロ犯に仕立てることもある。人道的に見るとパリの事件より何倍ももむごたらしい。カメルーン、チャドでも自爆テロが起きているが特に報道されることはない。マリではホテルが襲撃され外国人が殺された。
  • アメリカでは銃乱射事件が多発している。あまりにも頻繁に起こるので「大事件だ」という報道は見られなくなっている。こうした虐殺は「通常の」殺人事件だと見なされていて、特にテロだという人はいない。
  • インド・パキスタン・バングラディシュでも事件が起きている。安保関連法案の審議途中には「法人保護」が題目になっていたのだが、バングラディシュで邦人が殺された時、政府は無反応だった。マスコミも特に大きく報じることはなかった。
  • 3月18日に、チュニジアのバルド国立博物館で銃乱射事件が起きた。22名が亡くなった。政府の重要な収入源である観光業へのダメージを狙ったものと考えられている。6月にはプライベートビーチが襲撃され38名が亡くなった。8月にも警官1名が死亡する事件が起きている。
  • 4月5日にカイロで爆弾テロがあった。警察関係者1名が亡くなった。2月にも連続爆破騒ぎがあり、1名が死亡していた。6月にもテロがあり検事総長が亡くなった。
  • 7月にはソマリアで中国大使館関係者1名を含む13名以上が殺された。イスラム過激派組織アル・シャバブが犯行声明を出した。アル・シャバブはケニアでも14名を殺害した。
  • 8月17日にバンコクでテロがあった。20名が亡くなった。ウィグル独立派の犯行が疑われたが、真偽はよく分からなかった。9月にも爆弾テロがあり2名が亡くなったが、こちらは報道されなかった。
  • 8月7日、アフガニスタンの首都カブールで爆弾テロがあり、警察学校の政党など50人以上が亡くなった。米軍兵士1名が含まれていた。アフガニスタンでは不安定な状況が続いており、タリバンの関与が疑われている。
  • 10月10日にアンカラでテロが起きた。20人以上が亡くなった。背景にはクルド人とトルコ人との間にある民族的な軋轢があると考えられている。
  • 8月6日にサウジアラビアで治安部隊員15人が死亡する自爆テロが起きた。10月16日にはモスクで銃撃事件が起き5人が亡くなった。こちらはISILの支部が犯行声明を出した。
  • 11月13日、パリとその郊外で同時多発的に爆弾テロがあり、129人が亡くなった。イスラム国(IS)の関与が疑われている。1月7日にもシャルリー・エブドが襲われる事件が起きていた。シャルリー・エブド事件では12人が殺された。

Windows XPでYahooにアクセスできなくなる!?

現在、Yahoo!にXPパソコンで接続すると「もうじきほとんどのサービスが使えなくなる」という注意書きを目にする。10月から12月にかけて「セキュリティ関連の改良が施される」のだそうだ。何の対策が行われるのかという詳しい説明はない。

もう少し調べてみると、Yahoo!が SHA-1証明書をSHA-2証明書に切り替えるのだということが分かった。7月頃まではYahoo!もこのように説明していたのだそうだ。この説明が正しければ、XPがSP3になっていれば、従来通り接続ができるのだということになる。Yahoo!がなぜ説明を変えたのかは分かっていない。「この機会にXPを排除してしまうのだろう」という人もいれば「とりあえず、大丈夫だ」という人もいる。

中にはYahoo!さえ使わなければ大丈夫だという人もいる。ところが、話はそれほど簡単ではないようだ。もともとこの話はSHA-1証明書の暗号が破られることがわかったところから始まる。これを危胎化というそうだ。SHA-1はアメリカの国立標準技術研究所(NIST)で1995年に作られたのだそうだが、2005年に「このように計算すれば、いずれは破られるだろう」というアルゴリズムが開発された。(JPNIC)そこでNISTは2010年にSHA-1の使用を停止するべきだという勧告を出した。

そのために、MicrosoftとGoogleが「自社製品は今後 SHA-1を信頼しない事にする」と決めた。これを受けてシマンテックなどの証明書発行機関が、2015年限りでサーバーサイドのSHA-1証明書を発行を打ち切ることを決定したのだ。そのため、サーバーサイドではもうじきSHA-1が使えなくなる。となると、サポートが打ち切られたOSがSHA-2に対応していなければ、そのまま使えなくなってしまうというわけだ。例えばApacheもSHA-2に対応していなければ使えなくなるので、古いサーバーOSも入れ替えが必要だ。つまり、Yahoo!だけの問題ではなさそうなのである。

シマンテックの書いたものを読むと、どうやらSHA-1対応かそうでないかはOSではなくブラウザーが決めるのだということが分かる。シマンテックの調査によるとほとんどのブラウザーがすでにSHA-2対応している。もう一つのソースであるwikipediaにはそれとは異なる対応表があったが、どちらともXP SP-3は対応したことになっている。

Yahoo!がどのような情報と意図に基づいて今のような注意書きを変えたのかはよく分からない。話を分かりやすくしようとして混乱の原因を作った可能性もあるし、別の意図を持っているのかもしれない。少なくとも、今日現在、Yahoo!は古い証明書を使っているので、話の真偽は確かめようがない。年内に突然ログインができなくなる可能性も捨てきれない。

この話を調べていて疑問に思ったのは、ブラウザーとサーバー以外の製品の対応だ。SSLは例えばメールソフト、iTunes、メッセンジャーなどで使われている。こうした製品がどの程度影響を受けるのかについては情報が集められなかった。もっとも、切り替えは進んでいるのかもしれない。Gmailが古いガラケーからアクセスできなくなっているのだそうだ。Googleは明確なアナウンスをしていないので、これがSHA-2対応によるものなのかは不明だ。Gmailの証明書を見ると、署名アルゴリズムがSHA256になっていた。これはSHA-2の一種なので、Gmailは既にSHA-2化が進んでいることになる。で、あればGmailを見る事ができるブラウザーは引き続きYahoo!の機能を使えることになる。

GlobalSignの対応表によると、XP SP3はSHA256に対応していることになっている。一方、MacOSの対応は10.5以降なので、10.4や10.3では使えないサービスも出ているものと思われる。

もっとも「古いOS」の利用率はそれほど高くない。このブログに接続する人を調べたところ、XPの利用率は3%に満たなかった。最もメジャーなバージョンはWindows 7だ。Windows 10やiOS9.1といった最新OSを利用している人たちも少数派で、アップデートの難しさを感じる。Mac OS 10.4を使っている人もごく少数派なので、今回のアナウンスによって影響を受ける人はそれほど多くないのかもしれない。

ネット上にはWindows XPパソコンはWindows 10には対応できないといった書き込みも多く見られる。しかし、これは必ずしも正しくない。後期に作られたXPパソコンの中にはWindows 10の導入要件を満たしたものがある。検索すると「アップデートに成功した」という記事が見つかる事もあるので、一度検索してみることをお勧めする。ただ、パソコンの価格も下がっている。10000円のWindows 10パソコンも発売されている。一方、PowerPCは10.5を例外としてそろそろオフライン限定にした方がよさそうだ。

シマンテックによると、日本政府は2019年までにSHA-2への切り替えを行うのだそうだ。すでに解読が進んでいる暗号であり、いつ破られてもおかしくはない。加えて、日本政府や自治体の情報リテラシーはかなり遅れていることが知られている。政府は「マイナンバーのセキュリティ対策は万全だ」と胸を張るだろうが、本当に大丈夫なのか改めて検証した方がよいように思える。そもそも民間のレベルでは2016年末ごろまでにアクセスができなくなってしまうのだ。

古いXPパソコンをできるだけ安全に使う

中古屋でWindows XPの搭載されたパソコンを買った。4,000円だった。インテルの「非力」とされるCPUであるATOMを積み、2009年頃に作られた「ネットブック」と呼ばれるタイプだ。

安いパソコンは気安く使える。折り畳んでそこらへんに転がしておけばよい。高いノートパソコンだと壊れそうで、そんな扱い方はできない。薄いノートパソコンはハードディスク交換をするためには、複雑な手順を踏んで分解をする必要があるが、このネットブックは裏のラッチを外すだけでハードディスク交換ができるらしい。

さて、問題はこれが「使えるか」どうかだ。もちろん、きっちり動くのだが、Windows XPはサポートが終っている。セキュリティホールがあっても塞がれないために、ネットにつないで使うのは「犯罪行為」だとさえ考えられている。

ウィルスは外部からやってくる。具体的にはメールとブラウザーである。ということで、標準メールソフトは使えなさそうだ。ブラウザーも備え付けのインターネット・エクスプローラー(ちなみに、悪名高いあのバージョン6が付いてくる)を使ってはいけないだろう。危険すぎる。

幸いなことに、Google Chromeはまだ最新版が使えるようだ。Chromeを導入すると、文書作成、スプレッドシート、写真の保管、メールの管理、映像の閲覧(YouTube)などができる。これらはすべてGmailのアカウントにヒモづいていて、15GBの容量が利用可能だ。細い回線では使い物にならないのではないかと思ったが、とても軽い。なんとか実用に耐えるくらいの速度は確保できているようだ。テレビ画面にフルサイズの映像を映すと、裁定レベル(144p)で再生された。CPUの影響というより回線が細いのが影響しているのかもしれない。

「Googleの世界」にファイルをアップロードするとウィルスチェックが実施される。ファイルは各地のデー多センターにバラバラに保存されるそうだ。ユーザーは自前でウイルス駆除ソフトを動かす必要がない。ブラウザーさえ最新版にしておけば、セキュリティ的には問題がなさそうである。

セキュリティのことを考慮するとXP上でできる作業はほとんどないのだが、実はそれほど必要でもない。Microsoft PCが Googleに乗っ取られたような形になっているのだ。

「乗っ取られた側」のMicorosoftはGoogleのウェブストアで無料版のExcelとWordを配布している。複雑なのは無料版ExcelとWordを使う為には、Microsoftのアカウントを取らなければならないという点だ。また、新しいパスワードが必要になるのだ。Googleのメールアカウントでログインすることになり、エリアスという形でoutlook.comのアドレスを取得する。Microsoftも様々なIDを統合しているために。Appleで見た以上の「ID問題」が起こる。このアカウントはWindows8あたりでは標準で取得しなければならないらしい。今後「IDをなくした」とか「実名が晒される」などという苦情が蔓延するのは目に見えている。職場でパソコンを使う人はたいへんだろうなと思う。

また、Microsoftを相手にするためには、Microsoft語を解読する必要がある。「Microsoftアカウントで、すべての無料サービスが解除されます」という不可解なメッセージがあるのだが「登録したら、無料のサービスが使えなくなるの?」という疑問が湧く。そもそも使っていないサービスを解除するというのはどういうことなのだろうか。多分、無料で使えるようになるくらいの意味なのだろうが、よく分からない。

いずれにせよ、MicrosoftのパソコンがGoogleに乗っ取られ、その上でまたMicrosoftが領域を作るというとても不思議なパソコンができ上がった。クライアントとして使うぶんには「十分使い物になる」というのが結論だ。パソコンが壊れてもデータはすべてサーバー上にある。写真のようなデータは、古いパソコン(こちらはインターネットには接続しないことにする)を転用したサーバーなどに入れておいてもよいかもしれない。

もちろん、問題もある。Googleドライブにアップするファイルを不正に読み込むウィルスというものが存在するそうである。こうしたウィルスに感染すると、サポートされていないOS上の駆除は「システムのクリーンインストール」しか手はなくなるだろう。Andoroid端末ではバイドゥが「正規流通するマルウェア」でユーザーの情報を盗み見していたことが話題になったばかりだ。つまり「Googleの世界」がセキュリティ的に万全ということはなさそうなのだ。

ブラウザのパスワード管理機能もどうやらかなり怪しい。Firefox経由で貯め込まれたユーザーIDとパスワードはしっかりChromeに引き継がれた。ということは、ブラウザーのデータはクライアントレベルでは「引き抜く」ことができるのだ。

それより怖いのは、Googleのパスワードが他から流出してしまうことだろう。試しにチェックしたところ、しっかり流出していた。今は変えてしまった古いパスワードが他サービス経由で流れたようだ。Googleのパスワードが流出すると、ほとんどのサービスのパスワードがリセットできる。データがすべて乗っ取られるということが起こるだろう。

Microsoftアカウントは「実名がばれて怖い」という書き込みが多い。しかし、よく考えてみるとオンライン上の活動の多くがGoogleに依存するようになると、実はGoogleアカウントが「実名」で、戸籍上の本名は「エリアス」みたいなものだという考え方もできる。Googleは、チャットやメールの内容、ドキュメント、見た映像の履歴、サイトの検索結果などすべてを握っている。プライバシーの侵害を気にし出すと何もできなくなる。

もちろん、古いOSを使い続けるということが安全とは言えないのだから「古いままでも使い続けられますよ」という結論にはできない。一方、新しいOSを使っているからといって安心とは言い切れない。パスワードは盗まれる前提で管理しないと、いざというときにたいへんなことになりそうだ。

多分、古い概念でパソコンを捉えている人は、パソコン教育というと、BASICのような教育用プログラミングや、OSやMicrosoft Officeの操作を教えるというようなイメージを持つのだと思う。しかし、それよりも重要なのはアカウントの管理の方法を教えて、セキュリティ教育をするということなのだろう。

Apple IDの利便性と危険性

Apple IDを使うとデバイス間で様々な情報を共有・管理できる。たいへん便利な側面がある一方で弊害もある。




Apple IDの発展

もともとApple IDはAppleの直販サイトからコンピュータを買ったりするのに用いられていた。その後、Apppleはmac.comというフリーメールアドレスを作り、Apple IDとヒモづけた。さらに、iTunesで何かを買う為にも使われるようになった。著作権の都合上、購入した音楽は3台までのハードウェアで作成されるので、iTunesユーザーは購入後もApple IDを使う必要がある。この時点ではApple IDは限られた人が持つものだった。

Apple IDが普及したのは、iPhoneやiPadなどのモバイルデバイスで使われるようになったからだ。アプリケーションのダウンロードに使うので、ほとんどの人が IDを持つようになった。iPhoneが爆発的に広まると、コンピュータに詳しくない人もApple IDを使うことになった。さらに、IDはファイル共有システムiCloudでも使われるようになり、利用の幅が広がった。

メリット – デバイス依存からの脱却

Apple IDを使うと様々な情報をデバイス間で共有できる。OSのバージョンによって違いはあるが、ブラウザーの設定、メール、メモ、住所録、予定、音楽、写真、クレジットカード番号、パスワードなどが挙げられる。共有するデバイスには、アップル社製のパソコン、スマホ、タブレットの他にWindowsパソコンも含まれる。

例えばこんな使い方ができる。情報を共有するとiPhone上で取ったメモをMacに転送しなくてもよい。Mailを開いてメモを見ると同期されている。情報はIMAPという仕組みを通じてサーバー上に蓄積されるようになっているのだ。同じメールを見ているので「メールがどこにあるか分からなくなった」という心配もない。カレンダーもwebcalという仕組みで共有可能だ。これらの仕組みには汎用性があり、Googleなどとも連携することができる。

iTunesで購入した音楽も共有できる。新しいiPhoneを買ってApple IDを入力するとそのデバイスでも同じ音楽を聴ける。もちろん、WindowsパソコンにiTunesをインストールすると同じように音楽がセットされている。認証さえ整えば、購入した音楽は新しいデバイスにも引き継がれる。最近では定額制の音楽サービスもあり、家族で共有することもできるのだという。

デメリット1 – 管理が複雑

Apple IDは便利な反面、デメリットもある。一台のデバイスには複数のアカウントをヒモづけることができる。例えば、iPadは家族の複数アカウントをヒモづけられるので、住所録も複数のアカウントのものが混じることになる。このため、息子がiPhoneで入力した友達の住所が家族のiPadに筒抜けになるということも起こる。家族全体の住所録は1つに統合され、どのアカウントでも編集が可能だ。さらに、アカウントは切り離すこともできるので、バージョンが違う情報が複数出回るということも考えられる。

設計者は想定していなかったと思うのだが、新しいIDを作るのが面倒だという理由(アプリを人数分買うのが嫌だという人もいるらしい)でApple IDを家族で使い回す人もいる。こうなると複数デバイスで住所が入り交じり、分離も不可能ということになってしまう。ヘルプサイトには「どうにかして欲しい」という要望があるが、同じアカウントの情報なので、どうしようもない。新しくApple IDを作り直すことはできるだろうが、住所録は最初から作り直しである。

また、携帯のアドレスを変更するノリでストアのApple IDを変更してしまい、過去にダウンロードしたアプリが使えなくなったという人も多い。Apple Musicなどの継続型のサービスを利用していて、古いアカウントにアクセスできなくなり、そのままお金だけ取られ続けるという人もいるようだ。

かつての携帯電話(ガラケー)のように、電話を買い替えたら住所録や写真が全部消えてしまうということがなくなった反面「情報設計」をきちんとしておかないと面倒な事態も引き起こしかねない。なお、ソフトウエアの更新が頻繁になったせいで「アップデートしたら連絡先が消えた」という事態も起こっているらしい。バックアップは取っておいた方がよいようだ。

デメリット2 – 実は制度が複雑

さらに面倒なのは、実はApple IDが複数のIDの共同体であるという点である。Apple IDにはいくつかの前身がある。mac.comのメールアドレス、ストアのアカウント、iTunes(Appストア)のアカウントなどだ。これにiPhoneで作ったアカウントが加わった。このため、メールアドレス(Gmailなどの他サービス)と同じApple ID、メールアドレスのないApple ID(これはiCloudに使えない)、クレジットカード情報のあるApple ID、クレジットカード情報のない Apple ID(これは iTunesに使えない)と様々なバリエーショんができる。

この他、iCloudのIDとApple IDの混同も見られる。 iCloudのメールアドレスで Apple IDを作る事もできるし、 Apple IDに iCloudのメールアドレスを加える事もできる。ヘルプサイトにもこの2つを混同している人が多くいて、混乱の原因になっている。

iTunesのメールアドレスは登録時にクレジットカードの情報を入力したものしか使えない。支払い情報が正しく入っていないと「iTunesで使われた事がない」という謎のメッセージがでて登録ができない。UIがあまりよくないので「何が理由なのか分からないがとにかく入力ができない」という声が多い。これといったサポートもなくヘルプコミュニティでは情報が錯綜している。

最新のiTunesやiOSからはクレジットカード情報の入力ができるのだが、少し古いiTunesからでは登録ができない(OSの制限から最新版のiTunesが更新できないのだ)ので、お手上げ状態となる。これを回避するためにはブラウザーでストア(Appleの製品を買うところ)に行き、別途クレジットカード情報を入力すればよいのだが、これに気がつく人は少ないだろう。同じAppleでもストアとアップストアは別立てのシステムになっていて、情報だけが共有されている。これに加えて、IDそのものを管理するシステム(id.apple.com)がありなかなかに複雑だ。

このため、デバイスを管理するApple ID、そのApple IDにヒモづけられたiCloud.comのアカウント、さらに別の(入力ができず、やむを得ず家族のIDを使い回した)iTunes用のApple IDと複雑な構成になることもあり得る。iTunesのアカウントは一度入力すると90日間は変えられないそうなので、間違っても回復ができない。

古くなったシステムからは、Itunesストアにはアクセスできなくなる。このため、将来的には買い貯めた音楽を聴く為にデバイスを買い替えなければならないという本末転倒なことも起こりかねない。

デメリット3 – セキュリティ

Apple IDは拡張を続け、最新のOSではついにはパスワードまで管理できるようになった。暗号対策も施されており、もちろんセキュリティ対応は万全だと考えられるのだが、使う側はコンピュータの専門家ばかりとは限らない。家族でIDやデバイスを共有したり、パスワードを他サービス(特にメールサービス)と使い回したりすると、情報漏洩の可能性が高くなる。 これとは逆に「秘密の質問」を忘れてしまい、アカウントが回復できなくなる可能性もある。嫌がらせで他人の Apple IDを使ってわざとパスワードを間違えるという人もいるらしい。するとアカウントがロックされてしまう。何も悪い事をしていないのに、アカウントが使えなくなったという人がでてくるのだ。

改めて思うのだが、スマホは鍵束のようなものだ。一度落とすと、銀行口座やソーシャルネットワークなどをすべて乗っ取られるということも起こりえる。パソコンを持っていれば、リモートでIPhoneをロックするということもできるのだが、スマホしか持っていない人はこうした対応も取れないだろう。便利な反面「個人情報を持ち歩いている」という危険性もあるようだ。

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ネット上の人種差別発言と本物の差別

アメリカ人が作った日本人を題材にした映画を見た。ここにでてくる日系の人たちのお辞儀が変だと思った。彼らはいつも相手の目を見ている。目を見ていないと不安なのだろう。そこで改めて思ったのだが、日本人はお辞儀をするときに相手の顔を見ない。

アメリカ人(それが例え日系人であっても)は、相手を対象物として捉えている。考えてみると当たり前のことだ。そこには「私」と「あなた」の関係がある。裏返せば、日本人は会話をしているとき相手を意識していないということになる。そこには「我々」という拡張された私がいるのみだ。主語を特定しなくても話が進むのは「我々」が主題を共有しているからだろう。

日本人は拡張された私(我々)としか会話をしていないということは、つねに価値観が共有されているということを意味する。故に日本人の会話には「いいえ」とか「私はそうは思わない」はあり得ない。「我々」が複数になり、ちょっと人と違ったことを言うと吊るし上げられることがある。こうした「私」を共有することを「空気」と呼ぶのだと思う。日本人は「私達」に埋没することに居心地の良さを感じるのだ。

故に、人を「あなた化」することは懲罰になり得る。最近こんなことが起きた。難民を差別するひどいイラストを描いた、はすみとしこ氏という無名のイラストレーターを応援する人たちの個人情報が晒されたのだ。晒した人がセキュリティ会社の社員だったことで騒ぎが広がった。

これはとても不思議だ。晒された「個人情報」はFacebookあたりから流れた公開情報らしいのだ。どうして公開情報をリスト化すると「個人を暴いた」ことになるのだろうか。

一つ考えられるのは「職場の情報」と「個人の意見」が結びつくことによって「その人個人の意見」が「職場の意見」だと混同されることがあり得る。つまり、そこには「私」というものはあり得ず「xx会社の社員」とか「教員」という「我々」として扱われるという事情があるのだろう。しかし、そのことを差し置いても「個人情報が晒された」ということが懲罰になり得るのは、その人が「個人として認知される」のが罰としての意意味合いを持っているからだろう。これを「アイデンティティの確立は懲罰だ」と英語で説明しても、きっと分かってもらえないのではないかと思う。

皮肉なことに「個人を暴いた」ことの懲罰も、暴いた個人の情報を暴き返すというものだった。反安倍 闇のあざらし隊氏の職場が特定され、それがセキュリティ会社だったことで、騒ぎが大きくなった。

さてこの「私のない日本人」という分析を見て「自分には当てはまらない」と思った方も多いのではないかと思う。職業経験が長いと「私」と「お客様」とか「私」と「利害が重ならない相手」などと接する機会が増える。つまり徐々に「私」と「あなた」として話す経験を積むわけである。こうした「私」の意識は地位が高くなるほど高くなるだろう。地位の高い日本人の仕事は主に利害調整だからだ。これが家庭に持ち込まれ、その子女も「私」意識を学習してゆくということになる。社会的地位は世代間で引き継がれるのだ。

逆に職場で個々の仕事に携わっている人は、調整作業をすることは少ないだろう。故に「私」意識を持たないままで職業人生を過ごすことになる。つまり「私意識のなさ」は職場での地位が低いことを意味する。これが家庭に引き継がれると「私意識のなさ」が社会的に地位が低いことのスティグマになってしまうのだ。当人たちは平気かもしれないが、地位の高い(あるいはそうした家庭に生まれた人)たちからは蔑視の対象になってしまうかもしれない。しかし、それを指摘されることはないだろう。本物の差別というのは過酷で、決して表沙汰になることはないのだ。

ネットで差別発言を繰り返している人というのは「回りの人が言っているから自分も安心だ」と考えているのではないかと考えられる。そこでアイデンティティを晒されることで「罰せられた」と感じる。もし、普段から「私」として過ごしていれば、そもそも過激な差別発言は行わなかっただろうと思われる。その人のブランド価値を下げてしまうからだ。(もっとも、職業的に浮かび上がることを目的に「炎上マーケティング」を試みる人もいるだろうが……)

公共空間で人種差別をするということ自体がその人の社会的地位の低さを暴き出してしまうのである。本物の差別というのはもっと過酷だ。表沙汰になることは決してないにも関わらず、人々の間に共有されており、無意識に立ち現れるのだ。