その人に構ってはいけない

さて、職場や近所に口うるさい人がいる。いろいろと不満があるらしくいろいろ言ってくる。「うるさい」とは思ったが、邪険にするわけにも行かないから、手みやげを持って挨拶に行く。いろいろ話をすると笑顔が戻った。

あなたはそこで「良かった、丸く収まった」と思うだろう。だが、それは間違いだったということに気がつくはずだ。その人は、また何か別のことを見つけてやってきて、あなたの仕事を邪魔するのである。何が悪かったのか。分かり合えたのではなかったのか。また、おみやげを持ってゆくべきなのだろうか。

こうした誤解が生じるのは人間の行動原理についての理解が不足しているからだろう。その人は問題の解決を求めているわけではない。代わりに求めているのは「社会的待遇」なのだ。平たく言えば、相手にしてもらうことを望んでいるのである。文句を言うことで、社会的待遇が得られることを学習してしまったことになる。またおみやげを上げれば次を要求してくるだろう。頻繁に報告や連絡するのもやめたほうがいい。「うるさく言うと待遇が得られる」ということを学習してしまうからだ。火に油を注ぐ結果になってしまうのだ。

この手のクレームを防ぐのはなかなか難しい。そもそも目をつけられた時点で「この人にはフリーライドできる」と思われていることになる。期待に応えないとますます逆上する。唯一考えられるのは「その人が何を要求しているか」ということを明確にすることだ。実際に被害を被っている場合はそれを改善してやる必要がある。しかし、それ以上のことを聞いてやってはいけない。

また、その人の言う通りにしてやってはいけない。代わりにその人に自分で問題を解決するように促すべきである。できないことはできないことが分かるので、意外と文句を言わなくなる。手助けをするのは良くないし、関心を持つのも好ましくない。親切のつもり(あるいは問題を早く片付けたいと考えて)手助けすると「あなたのやり方が悪い」などと言い出す。そうすることで相手の傾聴を引き出すことを覚えてしまっているのだ。

こういう面倒な人はどこにでもいる。決して罰しようと思ってはいけない。その人が受ける罰は「誰からも手助けしてもらえなくなる」ことである。結局「自分だけが課題をうまくやり抜くことができる」と確信している。たいていの場合、周りに同じように思っているはずで、距離を置かれているはずである。

こういう人が上司になると厄介だ。できるだけ傍観者に徹して、自分の達成すべき問題に集中すべきだろう。

違法ではないが一部不適切なチャールズ皇太子

アメリカのタブロイド紙グローブが5月にチャールズ皇太子のキス写真を掲載した。チャールズ皇太子はダイアナ妃と結婚していた間、カミラ夫人と不倫関係にあったことで知られている。また、浮気をしたのかとうんざりさせられる写真だ。

エリザベス女王はたいへん立腹しており、ウィリアム王子に王位を継がせたいと考えており、カミラ夫人は離婚して多額の慰謝料を請求したいと考えている、とグローブは伝えている。

ただ、この写真には別の問題もある。チャールズ皇太子がキスをしている相手は、女性ではなく男性なのだ。この写真が本当だとすると、チャールズ皇太子は「同性愛者」もしくは「バイセクシャル」ということになる。

こうなると話は一気に複雑になる。ヨーロッパでは同性愛者が結婚する権利というものが認められつつある。パワーゲイと呼ばれる経済的に成功している人たちがいる。「王様にはゲイはふさわしくない」というのは、主張としては受け入れがたい。しかし、自分たちの王様としてゲイを尊敬できるのかという問題もある。他人の家庭がどうであろうと知ったことではないが、自分たちの問題となると心情的に受け入れられないと考える人もいるということになる。

タブロイド紙が伝えているだけであり、日本では大きな問題とは見なされていないようだ。

SNSとは何か

SNSはソーシャルネットワーキングの略。SNSをうまく使うとその場にいなくても友達関係を維持できる。この友達関係を維持することを「ソーシャルネットワーキング」と呼んでいる。ITツールを使うことで、年賀状のやり取りをしなくても、昔の郷里の友達が今どこで何をしているのかが分かるようになった。中には何年も音沙汰がなかった人が見つかり交際が復活することもある。また、学校の友達と学校の外でもお話ができる。SNSを使うと場所を選ばずにいろいろな人とおつきあいができる。

SNSとはパソコンやスマートフォンを使っていつでもどこでもおつきあいが継続できるようにする道具のことである、ということになる。

黙っているとおつきあいにならないので何かを話す必要がある。SNSを使うようになったら、時々近況(今何をしているか)を報告するべきだ。年賀状のようにかしこまったことではなく、毎日のちょっとしたことを記録するとSNSを続けられるだろう。難しいことのように思えるが、友達とおしゃべりするのと同じことだ。

また、友達の近況を見るためには、接続するための住所を知らなければならない。この住所のことを「アカウント」と言っている。SNSを始めるためには、どんな道具を使っているかを知り、相手のアカウントを教えてもらう必要がある。

SNSには様々な種類がある。Facebook、Twitter、Lineなどが有名だ。パソコンでもできるがスマホを利用する人の方が多いようだ。それぞれの道具の使い方は異なっている。例えば、Twitterは自社のサービスをSNSとは定義していない。かしこまって発表するまでもない小さな考えをこまめに発表する道具だった。だが、使う人たちがおつきあいの道具として使うようになり、SNSの一つとして認識されることになった。Facebookはもともと大学生が近況を報告するために作られた。LINEは文字でのやり取りができる無料通話がもとになっている。他にもInstagramという写真を投稿できるSNSもある。多くの人が食べたものや行ったところを記録して友達に見せるのに使っている。

「友達関係を結ぶこと」にはいくつかの呼び名がある。FacebookやLINEでは友達申請と呼ぶ。一方、TwitterやInstagramは一方的にフォローすることになる。お互いがフォローしあったら友達申請と同じことになる。Facebookは実名が前提だが、LINE、Twitter、Instagramは実名である必要はないなど違いがある。

知っている友達だけでやり取りをしていると問題は起りそうにないのだが、いくつかの原因で問題が起ることがある。まず、宣伝の為に不特定多数の人を「友達」として接続することがある。また、顔が見えないことで感情のすれ違いが起ることも多い。さらに、大人の監視がないためにいじめが横行する可能性があることである。大人でもいじめに発展することがあるので、子供の場合には家族の人が使い方を教える必要がある。子供の方がスマホを使いこなしているからといって放置するのは危険だ。自宅で楽しむことが多いために「誰にも見られていない」気分になることが多いのだが、おつきあいにも礼儀があることを覚えておくべきだろう。

普通のソーシャルネットワーキング(つまりおつきあいのことだ)では、気まずくなったらそこに行かなければよい。関係は徐々になくなってゆくだろう。ところが、SNSは場所を選ばないので気まずくなっても関係を断ち切ることができない。それを防ぐために「ブロック」という拒絶する機能がついているものがある。しかし、ブロックされてしまうと人によっては突然拒絶されたように受け取ってしまうだろう。すると実生活で嫌がらせをする人が出てくる訳だ。

SNSは楽しく使えば便利におつきあいを楽しむことができる。中には知らない人と仲良くなれるチャンスもある。しかし、法律が追いついていないことも確かだ。ストーカー規制はメールだけを対象にしており、SNSによるつきまといには対応してくれないとのことである。早急な対応が求められる。それまでは、気をつけて使った方が良いかもしれない。

Googleのツールでサイトのモバイル対応度を計測する

Googleがモバイルサイトの使いやすさを計測するツールを公開した。早速、自作のテンプレートなどを試してみた。

現在では多くのユーザーがモバイルに依存している。モバイルユーザーの注意力は散漫で、ロード時間が3秒以上だと約半数のユーザーがドロップしてしまうのだという。スコアは3つある。モバイルの使いやすさ・モバイルのスピード・デスクトップのスピードである。

サーバーのスペックが低ければスピードは遅いだろうという仮説を立てた。現在低価格のサーバーで運用しているのでスピードには自信がなかったのだ。だが、これは間違っていた。

自分のサーバーのWordpress 95 59 71
WordPress.com上のWordpress 99 64 79
X Domain上のWordpress 95  60 70
自作固定長 72 74 90
自作可変長 96 97 98
自作可変長・jQueryあり 100 64 81

意外なことにWordpressでもサーバーによる違いはあまり見られなかった。広告の有無も関係なさそうだ。つまり、wordpress自体が速度低下の原因になっているようなのだ。一方でスクリプトがないサイトは成績が良い。CSSだけで組んだ可変長対応のサイトは良いスコアだった。いろいろな要因はありそうだが、特にjQueryはGoogleからは嫌われているらしい。モバイル対応としてよかれと思いやっていること(折りたたみ式メニューなど)がスピード上で悪影響を及ぼしていることもありそうだ。これを防ぐためにはナビゲーション構造をできるだけシンプルにするなど、設計上の工夫も必要なのではないかと思う。

ゴッタルド基底トンネル

青函連絡トンネルが世界一でなくなったということに焦点が当たったゴッタルド基底トンネルのニュース。だが、知りたいことが欠けていたので調べてみた。それは「どうやったら通れるのか」というものだ。

チューリッヒからミラノに抜けるのがスイスからイタリアへのメインルートだ。この途中にアルプスがある。どうやら全ての列車がゴッタルド基底トンネルを通るようだ。乗客を乗せた本格的な営業運転が始まるのは2016年12月ということだ。営業運転が始まると3時間40分程度で抜けることができるようになるらしい。ヨーロッパの鉄道は日本から日本語で予約することができる。ただし、予約ができるのは秋頃になるらしい。

日本から行く場合には、飛行機でチューリッヒまで行き、ミラノから日本に戻る必要がある。そのような航空券をオープンジョー(開いたアゴ)といい、日本で予約できる。格安なものだと60,000万円くらいからあるのだが、アラブ首長国連邦のどこかの都市で乗り換える必要があるらしい。ヨーロッパに行くのに丸一日かかる。

とはいえ、よく考えてみるとトンネルを通っても景観がよいわけではないので、別にうれしくもなんともない。スイスの鉄道旅行といえば、ユングフラウ鉄道とかベルニナエクスプレスなどの観光列車だ。ところがこの2つはスイスの東西に離れていて、全部をうまく回るのはなかなか大変そうである。チューリッヒからサンモリッツに行きベルニナエクスプレスに乗りイタリアのティラノに行き、そこからスイスのルガーノに戻り、ルツェルンまで戻りインターラーケンを目指すという行程が考えられる。

ただ、観光列車が発達していて、ツェルマットからサンモリッツへ抜ける急行列車などを利用することができる。

swiss

スイスは東西南北ヨーロッパの要衝になっているので、鉄道を使うと、フランス、ドイツ、ベルギー、イタリア、オーストリアに抜けることができる。リヒテンシュタインのファドーツに行くにはバスに乗り換える。

ニュースの中にはゴッタルドトンネルと言っているところもあったのだが、ゴッタルドトンネルは既に開通している。今回はさらにその深いところを通るトンネルを作ったのだそうだ。それで「基底トンネル」という名前が付いている。総延長距離57キロメートルで20年の歳月と1兆3000億円をかけたビッグプロジェクトである。そこまでしてトンネルを通したかったのは、この地域が交通の障害になっていたからだということだ。イタリアからスイスに抜けるルートはドイツやフランスまで続いている。物流上のボトルネックになっていて、トラック渋滞が慢性化しているのだそうだ。地域の環境保全にも良くくないためにトンネルの掘削を選択したのだという。

ドイツからスイスを通りイタリアに抜ける鉄道が構想されているが開通は早くとも2020年の見通しということだ。

安倍首相が嘘をついても誰も気にしないのはなぜなのだろうか

松田公太さんという参議院議員が怒っている。文章を読んでもよく事情が分からないのだが、原発政策に反対していた同僚議員が、そのサブセットである核燃料サイクルスキームを維持する法律に賛成していて「支離滅裂だ」というのだ。

この主張は普通の日本人にはなぜか奇異に見えるはずだ。では何が奇異なのかと考えてみてもよく分からない。いろいろ考えを巡らせると、日本人の「はい」の使い方と英語の「Yes」の使い方の違いという点に行き着いた。

「あなたは学生ではありませんか」と聞かれると、日本人は「はい、私は学生ではありません」と答える。当たり前だ。あなたの言うことが「正しいか」ということが問題なのであって、私が学生かという事実はその次になる。ところが英語では「私が学生かどうか」という点に焦点があるので「いいえ、私は学生ではありません」となる。単に事実が問題になっているからであり、それ以上の意味はない。

しかしこれを日本人が聞くと「私が否定された」と感じる。「お前は間違っている」と言われたように思うのだ。実際にこれで立腹する人が出てくる。

英語話者は「事実」を中心にコミュニケーションを組み立てているのに対して、日本語話者は「あなたが正しいかどうか」という関係性を中心にコミュニケーションを組み立てていることになる。松田氏が怒っているのはそこだ。多分、対象物を見ているのっだろう。ところが同僚議員は「どのように対応すれば、ノーと言わずにすむか」ということを基準に意思決定している。これがお互いに「デタラメ」に見えるのだろう。

安倍首相は有権者や支持者たちに「ノー」を言わない。有権者や企業が税金が払いたくないと言えば「そうですよね」と言い、財務官僚が財政規律が大変だと言うと「そうですよね」と言う。そこで全体の論理が破綻し、立腹する人が出てくる。だがそれは「敵」なので言うことを聞く必要はない。頂点がそうなのだからフォロワーである議員たちの言っていることもめまぐるしく変わる。その場に応じて都合のよい「事実」をパッチワーク的に当てはめてゆく。

英語でいうアカウンタビリティ(日本語では説明責任と呼ばれる)という言葉が日本で成り立たないのは、そもそも説明する事実が存在しないからである。あるのは関係性だけなのだ。

厄介なのはそれに反対している人も状況に応じて「ノー」を言っているだけということだ。消費税増税に賛成だった民進党が「増税延期せよ」と言い出すのは、それは敵対者が「増税を実行する」と言っていたからであり、それ以上の意味はない。つまり両者は全く違うようで、実は車の両輪なのだ。関係が変われば「何がイエスか」も違ってきてしまうのである。

両陣営はお互いに「整合性がない」と罵り合っているが、それはお互いの文脈から外れているからだ。

では、日本にいる人たちは全て「関係性重視」のコミュニケーションを目指すべきなのだろうか。それはそうとは言い切れない。二つの明らかなデメリットがある。

一つ目のデメリットは状況をフォローしていないと、何が賛成すべきで何に反対すべきかが分からなくなってしまう。松田さんの文章では、なぜ野党側が今回の法案に「反対しなかったのか」がよく分からない。透明性がなくなり多様な意見が受け入れられなくなる。それはつまり解決策が限られるということになる。

明らかに間違った進路を進んでいる場合にお互いを忖度して進路を変えなければどうなるだろうか。最終的には崖にぶつかるか、海に落ちてしまうだろう。このような態度は「グループシンキング」の状況を生み出しやすい。いわゆる「集団無責任体制」という奴である。日本の歴史で一番顕著なグループシンキングは大量の餓死者と都市空爆を許した第二次世界大戦である。

ここから我々は何かを学ぶことができるだろうか。それはもし問題解決したければ「コンテクストベース」の議論をやめて「事実ベースの議論」に集中すべきだということになる。つまり、人格と事象を切り離して考えるべきなのだ。コンテクストベースの現場で状況を変えるのは不可能に近いし、残念ながら日本人は訓練や強い危機感なしに事実ベースの議論ができない。

次善の策は何もしないで、帰結を受け入れることだ。日本人の最大の防御策は意見の対立があり、状況が膠着することだ。意思決定や変更ができないのだから、動かないことが最大の防衛策なのだ。状況が破綻するのは「強いリーダーシップ」とやらを発揮して無理に動いてしまった時だろう。

経済学者も政治家も問題を解決するつもりはないらしい

先日来「言葉の使い方」が妙に気になっている。いつもの通り安倍首相のおかげだ。安倍首相は常々「リーマンショック級」という言葉を使っていた。リーマンショックとは金融機関の信用機能が毀損され、経済が疑心暗鬼に落ちいた上で、大規模なリセッションが起きたという事例だ。にも関わらず安倍首相はこれを「景気悪化」と単純化した上で、G7の首脳にプレゼンしてしまった。これに加担したのは外務省なのではないかと言われ始めているらしい。経済の専門家ではなさそうだ。炎上しはじめると一転して「自分はそんなことは言っていない(官僚が勝手にやった)」と申し開きをした。

これは問題だ。問題を解決したり意思決定しようと思えば現状を分析する必要がある。しかし、安倍首相の頭の中には選挙のことしかなく、外務省は滞りなくG7を進行したかった。どちらも経済の問題を解決するつもりがなかったわけである。

だが、政治家たちは「リーマンショック級か」ということをしきりに議論している。物事の定義などどうでもよいらしい。すなわち、政治家たちにはそもそも問題を解決しようというつもりはないということになる。彼らは状況を利用することで頭がいっぱいなのだろう。

気になり始めると他の事例も気になる。別の議員は「日本の問題は供給サイドの問題に集約できる」と言っている。ただ、その中身を見ると「労働慣行」や「企業の構造的な問題」を意味しているらしい。もともとケインズの「需要サイド」という問題の建て方があり、それに対抗する形で供給サイドという言葉がうまれたということである。それぞれの考え方から処方箋のようなものが作られ、それを需要サイドの経済学とか供給サイドの経済学と呼んでいたのだろう。

どうやら政治家たちはそれぞれの処方箋を丸暗記しており、理屈をつけるためにこれは「供給サイドの問題だ」などと言っているらしい。Wikipediaを丸ごとコピペしたのだが、ソリューションは次の通り。減税して小さな政府を目指すということらしい。市場経済の調整メカニズム(つまり供給メカニズム)を政府が阻害していると考えるようだ。つまり供給サイドの制約要件は政府と社会主義的な政策なのだ。

  • 民間投資を活性化させるような企業減税
  • 貯蓄を増加させ民間投資を活性化させるような家計減税
  • 民間投資を阻害したり非効率な経済活動を強いたりする規制の、緩和・撤廃(規制緩和
  • 財政投資から民間投資へのシフトを目的にした「小さな政府」化

しかし、消費者=生産者でもあるので、需要サイドとか供給サイドという言い方はなじまない。にも関わらずこういう言い方が通用するというのは、すなわち誰も問題を解決するつもりがなく、従って現状を分析する意欲がないということである。社会主義的な政策に反対しているのである。面白いのはその政治家が所属する政党は民共共闘を唄い、一般的には左派政党だと認識されているということだ。

別の経済評論家はもっと悲惨だ。アベノミクスは成功しつつあると主張している。労働人口が伸びているというグラフを出してどや顔である。実際には非正規雇用が増えており、給与総額は減っている。それを指摘されると今度は「経済が分からないやつは、そのうち正規雇用転換が始まるという経済の基本が分かっていないのだ」と言う。もちろん、過去にそのような事例もあったのだろうが、理論には前提条件があるはずだ。だが、それは無視する。

日本の場合は終身雇用を支えきれなくなっており、これが非正規雇用への転換を促進しているものと(少なくとも直感的には)予想される。社会保障の費用分担が正規と非正規で違っている点がこれを後押ししているのではないかと考えられる。この構造転換は社会保障システムの破綻を予想させるのだが、政権をたたえてその日の生活を支える必要がある人には、10年後のことなどどうでもよいのだろう。

感じるのはドメスティックな教育とグローバルな教育の違いだ。少なくともアメリカ式の教育に触れている人は、予断なく状況を分析して、プロセスを明確にした上で、結論を出して、人に説明すべきと考えているように思える。ところが、ドメスティックな教育しか経験していない人たちは、こうした手続きをすべて「効率が悪く無駄だ」と考えるようだ。それは東大を出ていても、成蹊大学レベルでも同じらしい。

いずれにせよ、誰も「用語の定義をちゃんとしよう」とか「前提条件を明確にしよう」などと言い出す人はいない。自分の思い込みで情報発信し、好き勝手に論評している。首相のようなエライ人、新聞社、経済学者、一般庶民に至るまで、それでもなんとなく議論めいたものが進行してゆくのである。

「個人資産」が負債と化すまで

完全に私的な話。

日本では家は一生かけて蓄積する資産だと考えられている。建物には価値がなく、土地のみが価値を持っているとの認識が一般的である。ところが人口縮小が始まり近郊圏を含めた地方の土地需要は減少している。そこで家を人に貸したり、売ったりということが必要になるわけだ。売る場合には持ち主の負担で解体しなければならない。つまり「資産管理」というプロジェクトが発生するのだ。

不動産契約はトラブルになりやすい。最近では敷金・礼金に関するトラブルが多発している。法的な取り決めがなく小額裁判を起こされるケースもあるという。現状をめちゃくちゃにされたあげく「敷金・礼金を返せ」と裁判を起こされることがあるのだ。負けると裁判費用を払う必要がある。こうしたトラブルを防ぐためには契約書をきっちりと整備する必要があるが個人の貸し主にそんなノウハウはない。仲介業者もひな形を持っているのだろうが、細かな紛争には対応していない。

壊すときには解体屋を頼むのだが、建築業界は重層構造になっているので指揮命令系統が把握しずらい。土地境界というのは隣との境が意外と曖昧な物だ。共同で塀などを立てていることもある。そこで隣家の所有物を壊したという問題が起る。重層的で責任の所在が曖昧だから、トラブルの解決にオーナーが巻き込まれるケースがある。監督していないことについて責任を取らされるのだ。不動産屋はいろいろと入知恵してくるが何も解決してくれない。それどころか隣の家との交渉に入り話を複雑化させることがある。第三者が入ることで関係が悪化するのだ。

こうした費用は自己負担となるが後日土地代から回収されるはずである。しかし、それは土地が売れたらの話だ。土地が売れなければ税金を支払い続けることになる。何の収益もうます、住んでもない家や土地は単なる負債でしかない。

リバースモーゲッジという手もあるが、それは土地が売れたらの話。不動産屋も売れる見込みのない土地は引き受けないだろう。在庫を抱えたくないからである。単に「管理料」が欲しいだけなのだ。

「善意の人」であればあるほど毟られる可能性が高くなる。プロジェクト管理などしたことがない人が、いきなり各種のトラブルに巻き込まれるのだ。お金が絡むと人は善意を失う。みんな自分の生活を守ることで手一杯なのだ。

こうして持て余した「財産」はやがて放棄されるか放置されることになるだろう。例えば、相続放棄してしまえば負債から解放される。すると困るのは問題を放置してきた地方自治体である。空き家や売れない土地が残ってしまうのだ。国や地方自治体の管理している土地の草刈りや管理をするだけという商売もうまれるかもしれない。虫食い状態になった小さな区画が売れ残ったまま地域住民の負担になる将来が容易に想像できる。

本来なら国に対策を講じてもらいたいところだが、今の政治状況を見るとそんなことは期待できそうにない。問題が顕在化してから大騒ぎするが、結局誰も責任を取らないのだ。

「リーマンショック」を最初に使い始めたのは誰か

民進党の議員が日本語文書に入っていた「リーマンショック」という言葉が英語文書にない、印象操作だと息巻いている。知らなかったのだが、この用語は和製英語なのだそうだ。政府は英語にはない表現なので使えなかったのだろう。wikipediaの対応する英語項目は「リーマンブラザーズの倒産」で、重要ではあるが金融危機の一部にしか過ぎない。

まあ、それだけの話なのだが、別の疑問が湧く。この和製英語は誰が使いだしたのだろうか。これも今回始めて知ったのだが、Google Newsにはニュースのアーカイブ記事を日付付きで検索する機能がある。調べてみたところ、ロイターの記事が見つかった。リーマンブラザーズが破綻した翌日に銀行の株を中心に値を下げた。これを金融業界の人が「リーマンショック」と呼んだのだろう。当初は鍵括弧付きで報道したのだが、そのうち一人歩きをすることになったようだ。今では2008年金融危機のこととして一般に通用している。

要は株価急落がリーマンショックだったことになる。日本人にとって経済危機とはすなわち株価が下がることなのだろう。欧米では住宅ローンの破綻が相次ぎ、全体的な金融危機になっていた。リーマンブラザーズの問題だけでもなかったわけだ。また、リーマン・ブラザーズが破綻したから金融危機が起った訳でもない。だから金融危機をリーマンブラザーズの破綻で代表させることはできないのだ。

このショックという言葉の元祖はニクソンショックだろう。一般的には、アメリカがドルを金に交換するのを停止したことを指す。ニクソンショックは英語だった。その後オイルショックという言葉が生まれたが、オイルショックも和製英語なのだそうだ。その後「〜ショック」という言葉は使われなくなったのだが、2000年代後半のITバブル崩壊の頃から株価急落の意味で頻繁に使われるようになった。英語ではショックと呼ばずにクライシスというのが一般的なようである。

リーマンショック(2008年金融危機)は100年に一度の未曾有の状態と言われた。それが8年で再来するというのは、1000年に一度の東日本大震災がもうじき起るというのに似ている。とはいえ、翻訳文書に「リーマンショック」という言葉がないから「印象操作だ」というのも滑稽な話だ。そもそも国内でしか通用しない和製英語なのだ。

Nuke is Cool!

昔、アメリカでマルチメディアタイトルの制作に携わったことがある。インターンとして学校からアサインされたのだ。多分、選ばれたのは日本人だったからだろう。そのマルチメディアタイトルは原爆に関する物だったのだ。そのときに驚いたのは、同世代の人たちが「Nuke is cool」だと考えていたことだ。核カッコイイくらいの意味合いだと思う。かなり感情的に反抗したのだが、英語がつたないせいもあったのか全く分かってもらえなかった。

ポイントになるのは、この人たちが特段強い反日感情を持っているわけではないということである。もし反日感情があればそもそも日本人など雇わない(インターンではあるがアルバイト程度のお金はもらっていたので)だろう。また、彼らはユダヤ系だったので、戦争に対する知識は平均のアメリカ人以上には持っている。さらに、マルチメディアタイトルを作るためにそれなりに勉強もしている。それでも放射能のあのマークをクールなシンボルとして扱い、ロック音楽に合わせたグラフィックスを作り「核カッコイイ」と日本人に悪気なく言ってしまうのだ。つまり、この言葉が日本人の心情を傷つけるなどとは考えていないことになる。彼らはかなり驚いたようで日本人を加えてしまったことに当惑していた。

今回オバマ大統領が広島を訪問したとき「アメリカは原爆投下を正当化している」と考える人が多かったようだが、若い世代はそこまでの知識を持っている訳ではない。どちらかといえば、スターウォーズのようなノリで捉えているのではないかと思う。日本人は広島・長崎を「悲惨な現実」と刷り込まれているので、そこに大きな文化的摩擦がうまれる。海外に出ている人は日の丸を背負っているような気分になりがちだ。

今回の件は「オバマ大統領が広島を訪問したことでアメリカ人の意識が変わった」などと捉えない方がよいと思う。アメリカは銃を所持する権利が認められている国なので「自衛のためには核を持つ」と考えることに抵抗感が少ないだろう。そもそも、覚えていないとか意識していない人も多い。殴った方は殴ったことを忘れてしまうものなのだ。日本人もアジア各国で行ったことを覚えていないが、被占領国はいつまでも覚えている。

あまりショックを受けないように、一般的なアメリカ人が原爆に対してそれほど強い意識を持っていないことは知っておいた方がよいのではないかと思う。それでも相手を変えたいと思うなら、なぜ原爆が馬鹿げていて危険な兵器なのかということを「日本語で」説明できるようにしておいた方がよいと思う。だが、これはなかなか難しい。日本はアメリカの核兵器に頼った自国防衛を行っている。被害だけをクローズアップしたり、一方的に「悲しいお話」にすることもできないのだ。

もっとも、公の場で日本人にあえて「原爆は正当だった」などという人は多くないと思う。唐突に政治の話をしたり過去の諍いを蒸し返したりはするべきではないというのが、ポリティカル・コレクトネスだからである。