個人が炎上したら……

先日来「一般人同士が議論することは難しい」ということについて考えている。これについて考えるようになったにはあるTwitterの@ツイートがきっかけだ。どうやら「言葉の使い方が間違っている」という指摘をされた人が逆上し、ことあるごとに指摘した人につっかかるようになったということらしい。その突っかかり方は尋常ではなく、2ちゃんねる(もしくはそれに似た掲示板)では職業が特定された上で「障碍者枠で採用された知的障害者」ということになっていた。攻撃されたTwitterアカウントは実名で、攻撃した人のアカウントは凍結されていた。

Twitterで他人と話すときには街で話すのと同じようにしたほうがよいとは思う。街で通りすがりの人に「あなた間違っている」というようなことは言わない。かといって通りすがりの人と会話を交わしていると仲良くなったりもするわけだから、そうやって関係をつめてゆくのがよさそうだ。

しかし、だからといって炎上が防げるわけではない。その2ちゃんねるはもともと反政府系の主張をする人をこき下ろす場だったのだが、それが拡大して対象になった有名人に絡んだ人たちを巻き込んでいったらしい。2ちゃんねるは一般に認知されるわけではない。吹きだまり化が進展し、発言がどんどん過激になり、最終的には妄想に似た決めつけになっている。こうした書き込みでは社会的報酬は得られないので、書き込みがどんどんと過激化するのだろう。多分社会的報酬が得られないことにも腹を立てているのではないか。

一般人が「住所や職業などを特定される」と生活の脅威を感じかねない。刑事事件として取り上げてもらうようにスクリーンショットを取って警察に訴えるという手があるらしいのだが、警察は特定の要件が整わないと取り合ってくれないそうだ。例えば「あいつは殺人犯だ」とか「あいつを殺してやる」などといった書き込みであれば警察は動くが「女とみれば見境なしだ」などといった程度では事件化できないのだという。親告罪なので告訴する意思が必要である。

警察が取り上げてくれないと民事事件にして弁護士に頼むという手があるようなのだ。これには数十万円の費用がかかる。いくつか弁護士事務所のページを見つけたので、お金を払ってでもやめさせたいという人が多いのかもしれない。それだけ中傷が多いということである。有名人や企業の場合、書き込みは商品価値に直結するので、お金を出してでもやめさせるということになる。ただしIPの開示請求に応じる必要はなく、技術的には「ログが削除された」と言われればそこでストップだ。

となると「悪口を言われる実害は何だろうか」と考えるのが一つの手かもしれない。2ちゃんねるは社会的な影響力のない中高年の集まりなので、実害は少ない物と思われる。言葉は過激かもしれないが、行動に出る人は少ないのだ。ただし、その書き込みをみて誰かが襲撃をかけてきたり、あるいは悪い風評で経済的な実害が出れば、それは犯罪行為ということになる。それまでは放置するべきなのかもしれない。逆に普段から「書き込みを監視すべきだ」という意見を持ちたくなるが、却って政府の監視が強まる結果になるだろう。

最近では大分県で野党系の事務所の敷地に無断で監視カメラを設置したとして警察官が書類送検された。大分は民進党や社民党が強い地域なので、警察が暴走したものと思われる。多分、ネットの監視ができるようになれば違法なアクセスは増えるのではないだろうか。

2ちゃんねる(あるいはそれに類する掲示板)に書き込んでいるのは、多分40歳代から50歳代の人たちだろう。中身の傾向を分析しようかなあと思った。一応データマイニングみたいなことはできるわけだが、読んでいてあまりにも気分が悪くなったので途中までしか読めなかった。普段の生活で理路整然と考える習慣がないまま大人になるとこんなにもグロテスクな思想を溜め込むのかという意味ではかなりの驚きがある。

少なくとも高校の過程で、自分の考えを短い文章で述べさせるという教育をしたほうがよいと思う。現在は体制側がこうした人たちを抱き込んでいるのだが、多分過激思想にも簡単にはまってしまうだろう。まさか「国語教育は国の安全保障に直結する」などという結論に至るとは思っていなかった。

小池都知事の帯の位置

今回は保守とはなにかについて考えたい。今回はかなり差別的な発言が並ぶ。

小池都知事がリオオリンピックの閉会式に登場した。これを見ていて「女性が大股で旗を振りかざすのはおかしい」と思った。あと思ったのは「あの着物濡れたら高そうだな」というのと「帯の位置がヘン」というものだった。

「帯の位置が変だ」というのに理屈はない。多分、地方の法事かなにかに出かけてゆけば「あなたおかしいわよ」と言われそうな感じだが、なぜおかしいのかという理由は「昔からそう決まっているから」しかない。男性でもやせていると「着物が似合わなくて可哀想だなあ」と思う。これも理屈はない。ある程度大人になると恰幅がよくなる(単に太るということだが)のがスタンダードだと見なされているというのが唯一の理由だろう。スタイルを保っている人が着物を着ると差別されるのだ。

同じようなことはいろいろとある。最近「天皇を楽にしてあげたい」という人が増殖した。いわゆる「保守」を名乗る人たちだが、NHKのアナウンサー(か、解説員)が同じようなことを言っていて唖然とした。目上に「〜してあげてたい」などとは言わない。言葉が適切でないというわけではなく、そもそも「目下が目上に何かしてやれる」と考える時点で不遜なのだ。

本来「保守的」というのはこのくらい融通が利かない。さらに厄介なことにクラス意識が背景がある。着物を見慣れているとか、階級意識の中で生活するというのは、自分のクラスを肯定的に捉えていて、そうでない人を見下す態度なのだ。生まれ育ちは変えられないからである。同じように「日本語がへん」な人を見下したりするのも同じようなことだ。

しかしながら、園差敬語を知らない人が表立ってその間違いを指摘されることはない。心の中で「あの人の言葉は変だから、生まれが粗野なのだろう」と思う訳だ。同じように「小池百合子都知事が女なのに旗を踏ん張ってみっともない」などとは表立っては言わない。それは「男性」の特権を振りかざす行為だと考えられているからである。だが、厳然として「表に経つような仕事は男の物なのだ」という意識はある。生まれも性別も変えられないのだから、これは差別意識である。しかし、自分の属性や出自を誇るということは裏返しの差別感情を抱えているものなのだ。

少し本題から離れて「差別は何故いけないのか」ということを考えてみたい。一つの経験は海外での生活だ。英語ができない人や非白人に対する差別というものは厳然として存在する。厄介なことに教育やスキルのような能力と関連するので、その差別意識は根深い。こういう「自分の力ではどうしようもない」ことを体験すると、人にされて嫌なことはやめようという気になる。日本でヘイトスピーチがなくならないのは、当事者たちが外にでて差別を体感しないからだろうと思う。

また、日本人男性は「女性を蔑視して従わせる」というようなステレオタイプがあるので、ことさらその種類の発言には気を使うことになる。インドのようなアレンジメント・マリッジ(見合いのこと)があり、渋谷でジョシコーセイを買うのが日本人男性だと思われている。SAYURIという映画では忍従するゲイシャ・ガールの女性を中国人のチャン・ツィイーが演じた。日本人は女性を寒村から買ってくる人身売買が行われているとい考えられている。これはアメリカで白人が「レイシスト」でないとことさらに強調するのと同じ緊張を与える。

最後の要素は自分が差別されかねない状態に陥ったときに生じる感情だ。その境遇を認められないのは他人ではなく自分自身なのだが、意外と自分が苦しむのだ。逆に一生安泰なのは、何もしなかった人だけだが、それでも人は老いて行く訳で、いずれは何らかの差別意識に遭遇することになる。一番ひどい経験は、銀行などで老眼鏡をお願いしただけで「鼻で笑われる」ということだ。多分老眼鏡というのは70歳以上の人がかけるものという意識があるのだと思う。意外と誰でも経験することなのだ。

さて、いわゆる「ネトウヨ」とそれに連なる人たちを見ていると、伝統から切り離されている感じがある。過激なイスラム原理主義の人たちがヨーロッパに多いのは、彼らが本来の伝統から切り離されているからである。本来の保守は差別的だが、ラディカルな思想を排除するメカニズムがある。いわゆる「原理主義」というのは伝統から切り離されたところで生じる暴走なので、差別的な意識が役に立つのだ。本来の伝統から切り離されている「くせ」に弱者を差別して保守を気取る人に「お前は何も知らないだろう」と攻撃するのにも一定の機能はあるかもしれないと思う。

逆に保守を気取る人たちは「自分たちが伝統から切り離されて見当違いなことを言っている」可能性を考えた方がよいとは思うのだが、それに気がつかないからこそ、あのようにラディカルなことが言えるのかなとも思える。

本来保守思想というのは分かりにくいものだ。同じコンテクストを共有した人以上に広がらないからである。現在「保守」とか「ネトウヨ」と呼ばれる人が増えているのは、その大元にいる安倍首相を支える「右翼雑誌系右翼」が劣化したからだろう。劣化したおかげで却って大衆が「ああ、分かる」というようところにおりて来たからではないだろうか。保守が持っていた「階層を保存する」という要素が抜けて、その差別意識だけが生き残ったのかもしれない。

例えて言えば「武士」がなくなったら、農民が刀の代わりに竹刀を振りかざして弱い人たちをいじめはじめたみたいな図式が見える。

東浩紀さんの思い出と日本の言論界

さきほどのエントリーで「日本人が発言すること」について考えた。一般人は発言するべきではないという認識があり、意思決定に関わる発言は特権と考えられるのではないかというのが結論だ。しかし、日本が脱開発途上国化する上で、一般人が自分の意見を形成するのは大切だと思う。モデルのない先進世界には正解はなく、模索が必要とされるからだ。しかし、意見形成するために考えをまとめるのはなかなか難しい。

これについて考えていて東浩紀さんの名前を思い出した。過去に投瓶通信という記事を書いたことがあるのだが、Twitterでご本人から「くだらない」という呟きを頂いた。それにつれてページビューが伸びた。たくさんのフォロワーがいるのだろう。なぜくだらないと言われたのかはよくわからない。

「投瓶通信」は浅田彰さんというバブル期に流行った方について述べている。浅田さんと言えば、学生時代に流行した(多分ちょっと前に流行していた)「ニューアカ」の騎手だが、全く読んだことはなかった。その界隈の人たちを怒らせる内容を含んでいるのかもしれないが、読んだことがないのでよく分からない。ただ、大人になっても「デリダ」や「吉本隆明」などを引き合いに出す人は結構いたので、当時流行っていたのは間違いないだろう。

東さんの呟きにはいっさい理由付けがなかった。ただ「素人は黙っていろ」という上からの呟きだった。当時Twitterは今ほど流行っていなかったので、多分ソーシャルメディアでシロウトがうかうかと論評するというのが耐えられなかったのではないかと思った。論評というのは限られた人たちができる特権だという意識は一般庶民だけではなく言論人の間にもあるのだろうと思う。

言論マスターにならないと意見を発表できないのだが、他人の目に触れないで、なぜマスターになれるのだろうか。よく分からない。

日本の言論界は長い間意思決定からは排除されていた。意思決定は言論ではなく複雑なグループダイナミズムで決められ、「そのコンテクストにいる」ということが重要だったからだ。そこで言論界は「プロレス」的な状況に活路を見いだした。

子供の時代に北杜夫、遠藤周作、筒井康隆などを読んだが、そこには文壇バー(銀座にあるらしい)の様子が書かれている。「野坂昭如が暴れている場所」みたいな感じだ。私小説を脱却した日本の出版界では、文壇バーで夜な夜な作家同士が殴り合うことでコンテンツを作っていた。野坂昭如がテレビカメラの前で大島渚監督を殴る(あるいは逆だったかもしれない)というのがニュースになったりした。

北杜夫のように躁鬱病を煩っている人がその様子を面白おかしく書いたりする読み物もあった。最近相模原で障害者施設が教われる事件があったが、政治家に手紙を書いて主張を伝えたりするのは北杜夫の本を読んでいるようだった。あれで「ピンと来た」人も多かったのではないかと思う。後の分析で津久井の容疑者も「双極性障害なのではないか」という見立てをする人が表れたりしている。北杜夫はマンボウ・マブゼ共和国を設立し、借金して家族を困らせていた。そのように日常生活に収まらない騒ぎを起こすことが作家として重要な資質だと思われていたわけである。

これをテレビ的に仕立てたのが田原総一郎だ。言論空間で殴り合いをやらせたのが「朝まで生テレビ!」である。この後の世代に「ケンカをしかけて見せる」行為が言論なのだという印象を与えることになったのではないかと思う。

ショーマンはけんかしてなんぼという姿勢は今でも残っている。SMAPは解散騒動についてケンカしろという人がいるが、これも「言葉は嘘をつけるがケンカには嘘がない」という認識があるからだろう。ただし、ケンカは感情を発散させる効果はあるが、問題解決には役に立たない。

「朝まで生テレビ!」が残した悪いレガシーは、言論が合意を形成し、問題解決のためには時には妥協するという文化を阻害した点にあると思う。ここから出て来た政治家が「TVタックル」などで自民党を叩いたことが民主党躍進の原動力になった。「コンクリートから人へ」というスローガンが破綻することは最初から分かっていた。藤井元財務大臣が「財源が出なければ謝れば良い」と言っていたことからも明らかだろう。

「相手をなぐって聴衆の耳目を集める」というのは日本の言論界の習い性になっていると考えないと東さんが全く無名である人のブログに背景についての説明を省いたまま「くだらない」などというコメントを寄せる理由が分からない。

前回のエントリーでは「先生と生徒型」の言論空間ができると、生徒に属する人たちが意見表明ができず、合意形成が成り立たないという予測を立てた。これが人民裁判的な状況を生み出している。まとまった意見が形成できないから、さらに乱暴な形で発散されるのだ。さらに「一般人は黙っておけ」という圧力が働くことも予想される。「仕事でくたくたになって帰ってきた人が、堂々と意見を述べる他人」を疎ましく思うという姿勢だ。

一方でそのような空気を抜け出した人の中にも特権意識があったようだ。Twitterが普及した現在ではこういう特権意識はなくなったように見えるが「プロによる論評のみを載せた」とか「識者だけを集めた」というネット言論空間が生きている。なんとなく、江戸時代の水利関係や共有地を巡る論争が未だに生きているのではないかと感じられる。しかし、よく見てみると紙媒体やテレビから排除された人だったり、政治の意思決定から離脱した人だったりする。なかなか屈折した思いがあるのかもしれない。そういう人たちは「上」を叩きつつ、後続が出ないように「下」も排除するのだ。

 

なぜオタクはTwitterでドヤ顔をするのか

2016/10/14: 記事全体を削除しろという要請がありましたが、引用していたTweetのみを削除して全体を遂行しなおしました。


今日の問題はこのツイートから考えたい。

オタクはどうして毎日ツイッターしてるだけの自分の意見が正しいと思えるのだろうか。

このツイートには面白い問題がいくつも隠れていると思う。

日本人は「普通の人」は意見をいうべきではないと考えている。例えば、生徒は教師のいうことを黙って聞くべきだ。

次に意見表明に「正しい」という言葉が使われている。英語でRightという言葉を多用すると、皮肉まじりの反応が返ってくることがある。多様性が前提にあるので「何が正しいか」は受け手が最終的に判断するという意識が強いからではないかと思われる。だが、日本ではそもそも何かを言うということは特権であり言われたことは拝聴しなければならないという強い意識が働く。つまり発言権があるということは正解を決める権利があるということと同じ意味なのだ。

するとこのツイートが持っている意識が分析できる。ピア(同僚)か目下(このツイートでは毎日ツイッターしているだけのヒマなおたくという言葉が使われている)が意見表明するなどということはあってはならないという意識があるのではないだろうか。

なぜ、それはあってはならないことなのだろうか。例えば、表明された意見が空気のように場を支配するからという仮説は立てられる。だから誰かが何かをいうのを牽制しなければならないという意識が働くのかもしれない。

居酒屋談義には「物を言わない」階層の人たちが集まる。上司の愚痴を言っても「プレゼンして社長に掛け合おう」というような結論にはならない。毎日集まって「他のメンバーがなにも言わない」ように監視し合っているという見方もできる。意見表明せずに相手を探りながら空気を醸成しようとするところに要点があるのかもしれない。リーダーシップは重荷なので、半匿名で発言するのだ。

なぜ日本人が「リーダーシップ」を嫌うのか。「決める政治家」には必ずアンチが現れる。安倍晋三、橋下徹、舛添要一郎などが思い浮かぶ。一方強いリーダーに見えても利権を調整しているだけの石原元都知事はそれほど嫌われなかった。そしてアンチの考える「責任」は「視界からいなくなる」ことを指している。日本人は巧みに個人による意思決定を避けているのだ。

一方で、最初のツイートの「普段の仕事に埋没すべきで、意見表明はするな」というのは、明らかな同調圧力だ。意見表明と意思決定は特権のある人たちだけの特別な行為であり、市井の人間は黙っ手だけ動かすべきという意識がありそうだ。だが、それはピアだけでなくリーダーにも及ぶ。そもそも特権的なリーダーは許容されないのかもしれない。

相手に意見を伝えて尊重されたいというのは間違った感情ではないが、自分がまとまった考えを主張できないからといって相手の口を封じるのは間違っている。先日ツイッターで野口悠紀雄が口述筆記を紹介していた。歩いているときにスマホに話かけると文章になって残るという技術があるそうだ。自分の考えをまとめて伝えることができるようになれば、とにかく相手の口を封じてやろうという風潮はなくなるのかもしれない。

ここで「日本人」という言葉が多用されているので反発心を持った人もいるかもしれないが、「先生が一人でしゃべる」という方式はアメリカでは見られない。もちろん教壇は尊重されるのだが、ディスカッション形式の授業も多い。他の国はどうかはわからないが、蓮舫氏を見ていると中華圏でも自分の主張をはっきり伝えるという教育が浸透しているのではないかと思える。学校は一貫して青山学院なのだそうだが、台湾のエリート層には意見形成の教育があるのかもしれない。

先生が一括して教えるというやり方には「正解を効率よく教えることができる」という捨てがたいメリットがある。かつての寺子屋には職業別の手習い本がありその職業に必要な知識と漢字だけを教わるというシステムがあったそうである。このために江戸時代の識字率は高かったそうだ。

日本は世界に類を見ない高齢化社会になったのだから「正解はない」ということ自覚して、社会全体で正解を探る方法を学ぶのはとても重要なのではないだろうか。

PCデポ問題 – 隠れた焦点

PCデポの件は大炎上している。株価が下げ止まらないようで、数百億円が吹き飛んだという話を読んだ。さて、この件に関しての経緯を読んだのだが、ちょっと衝撃を受けたことがあった。騙されたという父親は実は認知症だったようだ。

この件について語る人は少ない。認知症は関わると面倒だと思われているのだろう。多分、テレビでも話題に上らないのではないだろうか。

しかし、この件はかなり深刻な問題を抱えていると思う。この経緯から分かるのは認知症になってもPCデポに出かけて行きパソコンを使うための契約ができてしまうということだ。つまり、行動力は衰えないということなのだ。

PCデポの件が「人民裁判」によってのみ裁かれてしまうと、認知症が疑われる人には物を売るなということになりかねない。高齢者と契約するときに「あなたの精神が正常かどうかを証明してくれ」というような話になりかねないのだ。PCデポはこれから「70歳以上は相手にするな」ということになるだろう。無料解約に応じなければならなくなるからである。企業文化からして「丁寧に対応しろ」ということにはならないように思える。

認知症だという診断は得られるが、そうでないという診断をしてくれる病院はない。しかし、下手に認知症の人に物を売ってしまうと、契約が無効になるばかりか、株価に重大な影響がでかねないとなると「コンプライアンス」の名前のもとに極端な商慣習が広がりかねない。これは高齢者の人権を著しく侵害するだろう。

一方で、家族は二十四時間認知症患者を見ておけないのも事実だ。その間も出かけていって何らかの契約を結びかねない。どうやら、認知症程度であっても、本人が結んだ契約を無効にするのはそれほど簡単なことではないらしい。裁判を起こして、不当な契約だったということを証明しなければならないようだ。そもそも「誰に相談するのか」ということもよく分からない。弁護士の知り合いがいるという人は多くないのではないだろうか。禁治産状態にするということもできるのだろうが、いっさいの契約が結べなくなるということだから、同居が前提になるはずだ。また、本人にそれを了承させるのも極めて難しいだろう。

ある日突然認知症になって何も分からなくなるということではなく、症状は徐々に進む。本人はもちろん分からないし、家族も気づくのが遅れることが多いようだ。どこまで契約が有効で、どこから無効になるのかというのは、多分誰にも分からないはずだ。

PCデポのような「どう考えてもひどい」というようなケースですら、企業との交渉にはかなりの労力がかかる。これからこういうことが増えて行くのだ。

これが10年前ならまだ企業に余裕があり「年寄りを騙してでも成功してやろう」などと考える企業は多くなかった。30年前なら地域に時間に余裕がある人も多く見守りのようなことができたはずである。しかし、現在ではみな忙しく、心理的な余裕もない。

このケースを「政治がなんとかしなければならない」とか「痴呆症患者は高齢化が進むと増える傾向になる。社会の対応が急がれる」と結ぶことは簡単だ。しかし、それよりも「こういう事案に遭遇したら、個人的にどうすべきなのか」ということを考えるのが重要なのではないかと思う。意外とどうしてよいか分からないと思う人が多いのではないだろうか。

ジャニーズ事務所と五社協定

あるTweetへの返信。

ジャニーズ事務所が退団した人たちを競演NGで潰しているというような引用ツィートがあった。それを暴いてほしいというような意味合いだと思う。実際にそういうことは、ジャニーズ事務所でなくてもよく行われているし、逆に抱き合わせで競演させるということもある。だから、あまり新鮮な驚きはない。10年ほど前だったら業界に入って間もない人たちがドヤ顔で「芸能界って汚いところなんだぜ」などと知識を披瀝していたものだが、最近はバーター(束)という言葉が一般にまで認知されるようになった。ネットのおかげなんだろうと思う。

さて、この慣行だが、過去にも事例があった。映画会社は専属システムを取っており、自社の俳優が他社の映画に出ることを禁止していた。だから、映画会社を辞めたことで干された人も多かったのだ。これを五社協定システムという。

ところがこのシステムは面白い形で潰れることになる。映画会社を干された人たちがテレビに流れるようになったのだ。テレビ局は制作会社も持たないので、中小のプロダクションを使わざるを得なくなった。だが、かつての銀幕のスターがテレビに出るようになると、視聴者はテレビを差別しなくなった。それどころか「映画館に行かなくても、無料で楽しめる娯楽」ということになり、映画館への集客が激減した。これがもとに戻ったのはテレビドラマの続編を映画でやるようになってからだ。その間、映画会社はテレビの下請けに転落した。

それは遠い将来の話のように思えるかもしれないのだが、私たちは既に同じような潮流を目の当たりにしている。小林幸子が「芸能界を干された」時に頼ったのがニコ生だった。そこでメガ幸子が生まれ、ボーカロイドの曲を歌い、ついには紅白歌合戦に復帰した。NHKはニコ生を見るような人たちにも紅白歌合戦を見てほしかったのだ。

オリエンタルラジオはインスタグラムやTwtterでかなり入念に仕込んでパーフェクトヒューマンを流行らせ、ネットの人気にあやかりたいテレビ局はこぞって追随した。いつもならテレビ局のやる気なく仕込んだいじめまがいのバラエティー番組のひな壇に甘んじている人たちでも、自分たちの好きなことができるということを証明したのだ。

つまり、ジャニーズを干された人たちは、ジャニーズを出てネットに出ればいいということになる。一人では大した潮流にはならないかもしれないのだが、ネットの番組は「好きなときに見られる」というオンデマンド性があり、テレビよりは優れている。テレビは家族でみなければならないが、ネットはスマホでも見ることができる。家族と一緒に過ごしたくない人たちは、多分スマホの方を好むだろう。

ジャニーズ事務所はグループを囲い込もうとして、グループそのものを破壊してしまった。経済損出は数百億という話だ。スターの発掘をジャニー喜多川氏に依存しているので、後継者がいなければ、事務所は衰退してしまうだろう。実際にはグループを外に出して過去の権利とネーミングライツなどを徴収すべきだったのだが、そのような知恵は働かなかったらしい。しかし、それは時代の趨勢なので「どうでもいい」話だ。

一番危険なのは、未だに事務所とテレビ局に頼りたい木村拓哉さんだろう。かつてのようなお客はテレビを見ていないのだが、その枠組みから離れられない。テレビが映画のように衰退してゆくとは思えないのだが、それでも数あるメディアの一つになるだろう。

映画が衰退すると、かつて「往年の銀幕スター」と呼ばれていた人たちはある時期から化石扱いされるようになった。内村光良がパロディーにするような(キャラの名前は忘れたが)大御所と呼ばれる人たちだ。彼らは一時代を築きはしたが、やがて中身のない笑われるだけの存在になってしまったのである。残念ながら、木村さんがたどりつつあるのはそういう道なのだ。

ある信仰告白

リベラルとか左翼とかいろいろな呼び方があるのだが、あの界隈の人たちの運動が一つの転換期を迎えたと思った。#生活苦しいヤツは声あげろ というTwitterのタグだ。

これまでの左翼運動は「戦争」や「原発」などの穢れに対しての反対運動だった。根底には何らかの別の不満や不安があるのだが、あくまでも穢れが外部からやってくることに対する反対運動の形をとっていた。自分たちの問題だと考えたくなかったのだと思われる。

確かに「普通」を抜けることには抵抗がある。通常、それは脱落を意味するように思われるからだ。だが、そうした運動はクローゼットのなかから叫び声を挙げるようなもので、たいしたインパクトを与えない。自分の問題として認識してはじめて運動体として前進しはじめるのだ。

この動きを考えだしたのが誰だかは分からないが、現状への意義の申し立てだと考えることができる。

キリスト教社会では、こうした「異議の申し立て」を信仰告白という。もともとキリスト教は異端の宗教だったので、信者間以外で信仰告白がされることはなかった。後に信仰告白はローマ教会に対しての異議申し立てという意味合いを帯び、公然となされるようになった。信仰告白は宗教改革期に多く見られ、最終的に国際的な戦争に発展する。プロテスタント運動以前には信仰告白はなかったものと考えられる。「自分が信仰を選び取った」という認識がなかったわけだ。

イスラム教では「アラーの他に神はなく、ムハンマドはアラーの使徒である」というのが信仰告白になっている。証人2名の前で宣誓すると、共同体に迎え入れられるそうだ。キリスト教のような異議申し立てのという意味合いはなく、共同体のメンバーシップが強調される。

ともに、自分が特定の心情を持っているということを世間に向けて発表することを信仰告白と呼んでいる。それは心情なので厳密なファクト(事実)である必要はない。いずれにせよ「自分が選択したから信仰がある」という意識があることが重要だ。#生活苦しい……は何を告白しているのかというと「自分たちの暮らしはもっとよくなりうる」ということだろう。

そもそもこの運動がすぐさま教義を持ち得るかというのはかなり疑問だし、安倍政権が「生活を苦しくした」原因だとも思えない。だから過剰な意味付けはしたくないしかし、安倍政権が支持されているのは「日本人の生活が全体的に苦しくなりつつある」ということを否定したい人が多いからだと思われる。

しかし安倍政権を支持する人たちが信仰しているのは「私たちのくらしはこれ以上良くなりようがないし、我々には豊かになる資格はない」という世界観だ。異議申し立ては「良くする手段はあるはずだし、幸せになりたい」という宣言だということが言える。

21世紀の左翼運動は「現在の政権がうまく行っていない」ということを証明しようと長い時間を浪費した。世間に不調を認めさせてコンセンサスにしようとしたのだが、その度に「自己責任だ」と考える人たちに阻まれてきた。だが、そんなことは必要がなかった。「自分たちはそう考えている」というだけで十分だったのだ。

日本人はバブルが崩壊してから長い間、国として衰えて行くことは認めても、一人ひとりの暮らしが先細って行くことは認めてこなかった。現状認識を改めるのに一世代もかかったのだ。

対価を払わない客 – 日本人のフリーライダー気質

先日来、セブンイレブン「事件」について考えている。セブンイレブン事件とは個人的に体験した問題でネットを騒がせたものではない。この事件を処理するなかでいろいろな人と話をした。共通するのは、異常を見て見ぬ振りをしたいという感情だ。何かの間違いであればよいのだが、10000万に1つくらいは本当にまずい案件が含まれているかもしれない。いったんそれが露見すると、マクドナルドのケースのようにかなり取り返しのつかない問題が起るのだろう。

中の人たちはなぜ異常を見て見ぬ振りをするのだろうか。アルバイトの人たちにはそもそも権限がないし、責任を取る筋合いもない。社員たちの管理が行き届かないので、シフトリーダーが実質的に店を仕切る「無責任体制」で店を回していることが多いようだ。

しかし、社員側はもっと複雑だ。1時間ほど店にいたのだが、お客というものがこんなに横柄だとは思わなかった。一方で近所の顔なじみの客というのもいるようだ。「営業さん」の飯塚さんはこういっている。

経営相談員の仕事はお客とお店側の調整なのですが、たいていの店のクレームは店に処理してもらっています。それはたいていの場合店のオーナーのポリシーによるものだからです。

クレームの内容についてはよくわからないのだが、お客の要求に対して店が応じられないということがよくあるのだろう。安心・安全に関わる問題ばかりではなく「店の態度が気に入らない」とか「ちょっとしたサービスに応じてくれなかった」というクレームが始終寄せられているのではないかと想像した。

中にはアルバイトの人たちがちょっと目配りしていればよかったということもあるのだろうが、権限がないのでそうしたことはできない。しかし、かつてあった万屋のような近所との台頭な付き合いもないので対等に話もできない。「客だったらこれくらいやってもらって当たり前」という人が多いのだろう。

セブンイレブンは商品ラインナップしか決められないが、クレームの多くはサービスに関するものなのかもしれない。こうした「解決するはずのない」問題に振り回されるうちに「もう、どうでもよくなってしまう」のではないかと考えることができる。

消費者は「サービスは無料で提供されるもの」という意識を根強く持っている。それにうんざりしていた企業側がPCデポのような「サービスを有料にして提供する」という姿勢に共感したものと思われる。しかし、それは日本人が持っているような「誠心誠意尽くしてお客様に喜んで頂く」というような類いのものではなかった。やはり、堕落した社員とあまりやる気のないアルバイトによって運営される詐欺まがいの行為に堕してしまったわけである。

しかし、PCデポが人件費(彼らが勤務している空き時間の人件費を含む)を賄うためには「ショートカットを3つつくって3,000円」というような価格でなければ維持できないのも確かだ。PCデポの客はできるだけ安いお金でパソコンを買いたい人たちなので、そもそも成り立たない商売だったのだろう。アップルのように「最新のサービスにはお金を惜しまないし数年で新しいものに買い替える」という人たち向けの並のプレミアムサービスをプレハブだてでやっているのだ。

このように考えてくると、背景には、日本人の複雑な貸し借りと助け合いに基づいた地域共同体が「サービス産業」によって代替されつつあるという姿が見える。しかし、サービスと支出のバランスがとても悪い。同じような問題は福祉政策でも起っている。地域や家族が支えてきた介護や保育が「サービス産業化」することによって様々な問題が出て来た。

国はなんとかして地域や家族をサービスの担い手として使いたい方針なのだが、これは2つの理由でうまくいっていない。1つは全産業が人を使い倒す方向(いわゆるブラック化だ)に動いており、かつての担い手にボランティアの余力がないこと。もう1つはかつての無料の労働が当たり前すぎて、その構造を誰も研究していないということである。知らない物は復活させることができないのだ。

で、あれば「サービスとその対価」のバランスを取って行くしかないと思える。それは多くの日本人にとっては苦手な分野ではないかと考えられる。

西日本新聞の倒錯した感覚

悲しい記事を読んだ。子園の応援を優先させて、吹奏楽コンテストの上位大会への出場ができなくなってしまったという話だ。美談と捉える人たちもいるのだが、それはおかしいのではないかと考える人もいて、ちょっとした議論になった。バズフィードの追加取材では校長の恫喝もあったらしい。

だが、西日本新聞は明らかに美談として捉えている。同調圧力をかけるのにマスコミが加担したのだ。

 「県予選で全力を出し切り吹っ切れた」。部員の田畑史也さん(16)は16日、スタンドでドラムを打ち鳴らした。樋口さんは「最高に気持ちが良い。僕たちも全力で戦います」。頂点を目指すナインとともに「熱い夏」を過ごすつもりだ。

三年生は涙ながらにコンクールを諦めたようだし、先生たちも参加させたかったようだ。「諦めさせられた」という側面があるのではないかと考えられる。そう言わざるを得なかったのだろうし、諦めてしまったという気持ちを正当化するためにはそう言わざるを得ない。日本人の同調圧力の恐ろしさをまざまざと見せつけられるし、「言わせている新聞」の無言の圧力には暴力性さえも感じられる。三年生にとっては一生に一度の夏だったのだ。

高校野球は、暑い中に生徒を走らせるいわば虐待のようなものである。日本人は他人が苦しむのを見るのが大好きだ。甲子園では丸坊主の学生が苦しむのを見て倒錯的な喜びを得るし、正月に学生を峠道で走らせるのを見るのも好きである。

オリンピックにもいえるのだが、日本人は「4年間みんなに感動を与えるために歯を食いしばり、人生を犠牲にしてがんばった」という図式が好きなのかもしれない。他人が犠牲になっているのを見るとどこかほっとするのだろう。ローマ人が奴隷を戦わせて熱狂するというのと似た心情がある。

それでも野球選手はマゾヒスティックな倒錯に浸って好きにやれば良いと思うのだが、それに他人を巻き込むのは受け入れがたい。「吹奏楽は高校野球の花」などと言っている記事もあるが、高校野球に来る人たちが、音楽を尊重しているとはとても思えない。球場の音響環境は劣悪で、木管楽器は響かない。聞こえるのはせいぜいトランペット・チューバ・大太鼓くらいだ。それも絶叫調の音楽でなければならない。甲子園でおなじみの曲はコンクールの曲だったりするのだが、一本調子に改変されている。太陽に晒される劣悪な環境は楽器にもダメージを与える。ひどい場合には水が飛んできたり雨が降ったりする。楽器は湿気には弱いのだが、お構いなしである。

夏になると悲しい気分になる。例えて言えば、コンサートに出場する歌手を真夏の平原に立たせてマイクなしで一日中叫ばせているのと同じことが行われている。それをお客が「音楽」として聞いているとは言えない。あれは本来なら音楽になり得たものを騒音としてまき散らしているのである。

例として有名なアフリカンシンフォニーを置いておく。最初が音楽としてのアフリカンシンフォニーだ。

次がブツ切れになったアフリカンシンフォニーである。有名な曲なので一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

ノイズでいいのだから、巨大なスピーカーで音楽を流しておけばいいのだ。一本調子の曲が数曲あればいいのだから、楽隊などを置く必要は全くない。

にも関わらず、吹奏楽部員は「コンクールを優先させたい」とは言えない。日本人は野球に異常な関心がある。サッカーですら応援がつかないことがあるが、野球だけは全校挙げてやらなければならないと思い込んでいる。そこで同調圧力が働くのだろうと思われる。本当は自分たちの活動を優先させたいと思っているのに、涙ながらに違うことを言わされることになる。自発的に参加するという形を取らされ、魂を殺されるのだ。

差別される側とする側の落差を考える場合「普門館(今あるのかはわからないが)」のために甲子園をあきらめるかというのに置き換えるとわかりやすい。そんなことはありえないだろう。

同調圧力のおぞましさみたいなものはあるのだが、賞を取らなければならないのかというのもある。今回問題になったのは南九州大会に出場が決まっていたからだ。もし、優秀な成績を取らなければ「当然野球だろう」ということになったのだろう。「金メダルを取らなければ意味がない」というのと同じような、へんな成果主義を感じる。

この件がネットで反発されたのは「同調圧力で嫌々ながらやりたいことを諦めさせられた」という人が多いからではないかと考えられる。予め不合理な形で序列が作られており、それに従わないと責めを負うという窮屈な社会である。

西日本新聞はそれを読み解けず「汗と涙と感動のためにやりたいことを諦めたからあれは美談だ」と持ち上げた。安っぽい感動を得るために生徒の気持ちを踏みにじり商品として利用した。同調圧力どころか先生が圧力をかけていたことも取材しなかった。マスコミとして恥ずべき行為だ。

このような人たちがいるから、日本がどんどんダメになって行くのである。自由意志を同調圧力で曲げるというのは、極論すれば「特攻隊はお国のために進んで死んでいったのだのは、あれは美談だ」というのを同じ構造の話なのだ。第二の戦前はもう始まっているのかもしれない。

セブンイレブン – 問題を悪化させる構造

今回は、セブンイレブンで経験した個人的な問題から、組織がなぜ問題を解決できないかを考える。いろいろな要素があり整理ができないのだが、一週間程度経って思ったのは「持たれ合いになった集団では問題は悪化するのだなあ」ということだった。誰も最終的な責任を追わないという姿勢があるので、最終的には炎上させないと問題が解決しないのだ。

たいていの問題はローカルで燃えるだけなのだが、たまにネット全体を巻き込んだ炎上につながる。対応がなされるが、既に多くの人をうんざりさせている程度の解決策に過ぎないので「では燃やしてしまえ」ということになってしまうのだろう。

  • 非正規雇用を中心とした現場の知識不足とミス。
  • 忙しすぎる現場マネージャーの隠蔽。
  • 解決されない問題になれてしまって当事者意識を失ったカスタマーセンター。
  • 当然フィードバックが得られないので同じ失敗が繰り返される。問題を防ぐためのIT投資もされない。
  • 短い間にも伝言ゲームが起きている。

セブンイレブンで買い物をして91円をデビットカードで支払った。普段ならすぐにオンラインバンキングで買い物の記録がつくはずなのだが、今回はつかなかった。まあ、そういうこともあるだろうと考えて放置していた。

こちら側のミスは売り上げ伝票(レシート)を捨ててしまったことだった。買い物をした日付が曖昧になってしまった。

だが、しばらく待っても記録がつかなかった。この時点で「海外の場合には時間がかかることがある」が「追跡調査はできるのでご安心ください」となっていれば、問題にはしなかっただろうと思う。

サポートはないが、忙しい現場

そこで、15日にセブンイレブンジャパンに連絡をした。するとアルバイトらしいオペレータが「私どもでは分かりません」という。さらに店舗にも連絡してみたが「忙しいから記録は調べられない」という。漠然とした日付をもとにしてレジの記録をチェックする仕組みがないのだという。後になって分かったことだが、問題がおこるとわざわざレジに出かけていって伝票を手作業でチェックするしかないそうだ。

それでは困るので8月16日に銀行に連絡をした。どうやら「与信」はされたが、買い物の記録がつかなかったという。伝票の日付は8月11日だという。

「分からない」では困るのでセブンイレブンのカスタマーセンターで「上の人」を呼んでもらった。コールセンターのアルバイトの人はクレジットカードがどのような仕組みで決済されているのかを考えたことがないようだった。英語では「インクワイヤリー」と呼ぶのだが inquiry was made but not processed の意味(これを日本語に訳して言った)が分からないようだった。だが、アルバイトの人は自分から上司に電話を変わってくれとは言えない仕組みになっている。そこで、形式上客がクレームしてエスカレーションせざるをえなかったという形を作らなければならないのだ。

スキルによってエスカレーションする仕組みにはなっていないのだ。清水さんという担当者が出て来た。

隠蔽しようとする下部マネージメント

「上の人」が社員なのかコールセンターの従業員かは分からないのだが、とりあえず「inquiry (与信)」と「実際のプロセス」の違いは分かっているようだった。しかし、話を聞いているうちに、この人が「エラーがなく通常に処理された」という形を作りたがっているのがわかった。するとケースをクローズできるのだ。なかったことにして「91円をオゴる」という形にしてもよいような口ぶりだった。そこで「それでは問題は解決しない」旨を伝えた。清水さん的には「ケースがクローズできない」ということを意味する。コールセンターの目的は顧客に満足してもらうことでない。ケースをできるだけ早くクローズすることなのだ。

そもそもの問題はレジにありそうだと思った。何らかのオペレーションエラーがあったのだろう。建前上はお店は独立していることになっているので、調査するかしないかというのは店側の判断になるようだ。最終的にどのような処理をするのか(つまり客からの回収をしないのか)というのも店側の責任になるようだ。本部はリスク(つまり責任)を追わない仕組みになっているらしい。

ポイントになったのは、クレジットカードのインフラを誰が請け負っているかという点だった。「お店側は仕組みを理解して問題解決できますか」と聞いたら、清水さんは黙り込んでしまった。

レジはアルバイトなので当然間違いは起こりうる。店側は忙しすぎてイレギュラーケースついて判断したり、エラーを処理したりする余裕はないだろうと思った。店と本部をつなぐ経営相談員という人がいる。ネットでは「指導員たちの役割は店側を搾り取ったり無理に仕入れをさせる」ことだなどと書いてあるが、名目上は経営相談員だ。お店の人は「営業さん」と呼んでいるらしい。

IT投資が生産性向上に寄与しない

今回は、100円に満たない金額だが、こうした間違いは頻発しているのではないかと思われる。合わない勘定を普段どう処理しているのかということが気になった。もしかしたら、店長が補填するということが行われているのではないだろうか。

これを防ぐためには記録システムを作って、イレギュラーな処理にアラートを入れるようにすればよい。多分、コンビニは発注システムではシステムを作っているのではないかと思う。「品切れ・欠品」は本部の売り上げに影響を与えるからである。しかし、金銭的なインセンティブが働かないとIT投資をしないことになっているのだろう。

海外ATMカードの不正引き出しにも対応しきれていないらしいので、セブンイレブンはこの点では遅れているのだろうことが想像された。

お店で聞いたところ分かったことは2つある。現金の間違いはしょっちゅう起きていて、店長かバイトが補填しているそうだ。銀行のように1円まで探し出すということは行われていないらしい。シフトリーダーさんが前に努めていたスーパー(もしくはデパート)では500円を上限として、それ以上では従業員が補填していたということだ。

問題はなかったことになる

一日の終わりに問題が解決しなかったようで担当者から「今日はできなかった」「明日は私は休みである」という連絡が入った。休みならしょうがないなと思った。

だが、次の日に銀行口座をチェックすると、伝票が発行されていた。日付は8月15日になっていた。遅れて処理したのかもしれないし、ミスに気がついて何かをしたのかもしれない。もし、先日の買い物データが処理されていれば伝票の日付は8月11日になっているはずである。アメリカ西海岸時間の8月15日は日本時間の8月16日だなどとの疑問を持った。ただ、問題そのものは解決された。この時点で気は楽になった。

結局、報告はなかった

3日経っても連絡がなかったので、本部に問い合わせたところ「店が対応することになった」と言われた。16日中に連絡するということだったようだ。しかし、連絡はなかった。本部で責任を持って対応してほしいと依頼した。カスタマーサポートの担当清水氏は状況を把握していなかったらしく、店側に確認を入れたらしい。これは店に聞いてわかった。

思い立って店に行ってみたのだ。そこで、シフトリーダーと呼ばれるパートの人からいろいろな話を聞けた。

  • 店側はカードをスワイプしてレシートが出た時点で作業が完了するのでエラーは起りようがないようだ。お店側のオペレーションエラーを疑っていたがそれはなかったらしい。
  • 店側としては何も聞いていないという。
  • 人繰りがつかないので店長は夜通し勤務をしている。今頃は疲れて寝ており、連絡が取れない。

「店長さんは大変ですね」というと「コンビニはブラック企業ですよ」と笑っていた。

オーナーと連絡が取れたのだが「本部が責任を持って対応する」と言われたらしい。再びカスタマーサポートと話が食い違っている。そこでカスタマーサポートに連絡したところ、営業指導員が対応することになっているという。今朝と言っていることが違う。

伝言ゲーム

結局経営相談員のところにボールが飛んできたらしい。シフトリーダーは「顧客とのやり取りを聞いて報告しろ」と言われたというので、少しカッとなった。カスタマーセンターでは16日中に連絡しろと言っているのに、営業相談員が放置した上に「何があったかオレに報告しろ」と言っているように思えたからである。そこで「客が怒っているから今すぐ電話を寄越せと言ってくれ」とお願いした。

実際には営業指導員飯塚氏の言い分は異なっていた。経営相談員の飯塚氏は直接伝票を確認しなければならないが、今朝になってはじめて確認ができたというのである。で、あれば清水氏の「今日は休みだが責任を持って明後日には報告する」は何だったんだという話になってしまうという。その場で言い繕ったのだろう。

飯塚氏によると、11日に伝票は見つからなかったという。炭酸水とデビットカードだという情報は渡っているのだが、伝票を調べるためには全てのレコードを見て行かなければならないらしい。しかも、データはオーナーと社員(唯一店長だけ)しか分からないそうだ。あとは営業相談員がサポートすることができる。

面白いのは伝言ゲームが分かったことだっただった。飯塚氏は「11日には8時から9時に炭酸水が出た」と言ったらしいのだが、シフトリーダーさんは「11日の8時から9時のデータだけを調べた」と言ったのだ。つまり、短い間にも伝言ゲームが起きている。これが積み重なって状況が悪化していたらしい。飯塚氏は本部に対して「今朝やっと確認ができた」と言う報告をしたらしいが、サポートセンターはそれを記録に残していなかった。清水氏は「あとは店に丸投げ」と思っているので、忘れてしまっていた訳だ。

責任を取るのは誰なのか

経営相談員によると本来は客との折衝は店側の仕事なのだそうだ。しかし、お店側はクレジットカードシステムは理解していない。その上、店長は忙しすぎて昼間は寝ており、飯塚氏によるとオーナーも体調を崩しているのだそうだ。そこで結局、本部の人が出てきてやり取りを引き取り調査もせざるを得なくなったようだ。笑顔のコンビニ業界の裏にはこのような事情もあるのだなあと思った。

カスタマーサポートの清水氏によれば、カスタマーサポートには指導員を指導する権限はなく、プロジェクトをドライブするという部署でもないということだ。あくまでも「他人ごと」というスタンスなのである。それを会社の代表だと思っていると嫌な思いをするわけだ。話をしていて「ああ、この人は実際は死んでいるのだな」と思った。すでに処理しきれない問題を複数か買えているのだろう。

事故につながりそうだが……

こうした体制では小さな事故は無数に起りそうだが、直ちに大きな事故にはつながらないのだろう。ただ、一度重大な事件が起れば、それを防ぐのは難しいだろうなあと思う。たいていは、本部は状況を正しく把握しているのだから、現場を教育するという対策が取られるのだろうが、実際の現場は「本部は何も分かっていない」と感じるのではないだろうか。

問題の本質には搾取構造がある。本社はあらゆるリスクを店側に押し付けて安定した収入が得られるようにしている。だが、実際には店側にはリスクに対応するリソースは与えられていない。問題の解決能力もないし、意欲も余裕もない。黙っていてもお客さんが来るので、客を喜ばせようという気分もない。

だが、実際のブランドイメージは現場のオペレーションに依存している。これが破壊されてしまうと、リスクを現場に押し付けていた本部には解決手段がなくなるということになる。

結局問題は解決しなかった

飯塚さんがどこまで調べたかは分からないが(調べていない可能性もあるわけだが)買い物をした記録が見つからないと言っている。実際に買ったのがなかったことになっているのだ。セブンイレブンは誰が何を買ったかという記録を取っていないので、トラブルを避けるためにはクレジットカードのレシートを取っておくか、セブンイレブンを使わないに限るということになる。