マーケティングとは何かという夢の話

マーケティングとは何かを考える夢をみた。物語としてはわりと記憶しやすい夢だったがそれでも十分に混乱している。

マーケティングとは何かというシンボルマークを決めなければならないことになった。いろいろ考えた結論はピラミッドに入った一つの目だった。だが、意味がわからない。実態を見に行こうという事で隣のビルに行くと大勢の人たちが夜学に集まっていた。コピーライターを目指しているそうだが、大抵はエリートと呼ばれる人たちが発表の場を独占しており、後ろの方で立っている人たちには出番がないそうだ。うまく行けば電通に非正規で雇ってもらえるそうである。

一人のエリートでない女性がサババッテンについてアイディアを出しているのだが、長くて回りくどかった。サババッテンの歴史や栄養学的考察を一つの文章にまとめようとしている。同行していた人が「これだからアマチュアは困る」と困惑した表情を浮かべた。

彼のアイディアは簡単で、可愛いアイドルにサババッテンダンスを躍らせるというものだった。大衆は難しい事はわからないのだからサババッテンという言葉を連呼した方がよいのだという。みんなでつぶやいてみたらなんだか興奮した。

そもそもサババッテンという言葉が何を意味するのか同行していた人たちは知らないらしい。多分、長崎あたりのサバを使った料理なのだが、きっと醤油と生姜が入っているのだろうという。それではインパクトがないから、刺激を与えるためにカレー粉をたくさん入れないと売れないなという話になった。それをサババッテンというのかはわからないのだが、そんなことはマーケティングにとってはどうでもよいことなのだそうである。

注1:Wikipediaによると、三角の中に入った一つの目は「プロビデンスの目」と呼ばれるそうだ。全知全能を示し、日本ではフリーメイソンの陰謀論と合わせて語られる事も多い。太陽、月、金星の三位一体の姿とされるが、安定した状態では存在しえないという説があるそうだ。

注2:ばってんはよく考えると長崎の方言ではないように思える。熊本が本場である。ちなみにそんな料理はない。

テレビや新聞に接すると不安になるだけじゃないだろうか

田崎史郎という人がTBSやフジテレビにでて「安倍首相は意外とトランプとうまく行っている」とか「パイプがあったからこそ電話会談ができたのだろう」などと言いまくっている。安倍首相が外務省のいうことを鵜呑みにしてクリントンに賭けていたというのは有名な話だし、安倍支持者が「アメリカ様が承認してくれなかったらどうしよう」とおびえているのは想像に難くないわけで、この人ジャーナリストというよりは電波芸人だなあと思った。

でも、まあ電波芸人を信じているうちは「ああ、これまでどおりで安心できるのだ」と思えるわけで、電波芸人さんにはそれなりの需要があるのだと言える。その需要とは「何も考えないこと」だ。

同じく日米同盟維持派の人たちも必死だ。軍事アナリストの小川和久さんは盛んに23兆円という数字を出して日米同盟のほうが安くつくと繰り返し、賛同する人のコメントをRTしていた。

しかし、彼が後に明らかにしたところによるとこの見積もりは防衛大学校の教授の試算なのだそうだ。防衛省には競争がなく現在でも高い資材を調達しているのではないだろうか。オリンピック関係者が夢のオリンピックをやるとすればこれくらいかかりますよと計算しているみたいなもので、まったく当てにならないだろう。その上、防衛省は日米同盟維持派のはずで、独自調達コストを高めに設定していることが疑われる。

しかし、多くの日本人は日本語しかできない上に、できるだけ何も考えたくないわけだから、こうした「識者」の言うことを聞いておけばよいと思う。日本のジャーナリズムの存在意義は精神安定剤なのだろう。トランプ大統領が決まってから「意外とできる人だ」などという論評が飛び交うのを見ているとそう感じる。一方で、日米同盟がそれほど磐石でないという潜在的な不安があるのかもしれない。

今朝方見たイアンブレマー氏のビデオでは(早口なので間違っているところがあるかもしれないのだが)おおむね次のようなことを言っている。

NATOは国防費を増やすだろうがリスク分散のために使うのでアメリカへの支払いは増えそうにない。日本は支払う。韓国は大統領の支持率がああいう感じなので……

合理的に考えればリスクヘッジは当たり前である。だが、日本は近隣に同盟国がないのでヘッジのしようがない。防衛省は役に立たない。国を守ろうという気概はなくせいぜい予算が出たら省益を拡大しようくらいの気持ちしかないのではないか。おまけに安倍首相は中国や韓国を挑発しまくっているので彼らと組んで地域の安全保障を担保することもできない。台湾は国ではないし、フィリピンには船をせびられた。アメリカしか頼る国はないから、言い値を支払うしかないわけだ。

アメリカは世界に軍隊を派遣し、それなりに犠牲者も出している。ヨーロッパはロシアと対峙していて移民も問題になっている。それに比べると日本には大きな問題はなく「金くらいもっと出せるんじゃないの」というのは素直な感情なのではないだろうか。

そもそも右派メディアはトランプ大統領の過去の発言に動揺しているようだし、左派メディアは人権の危機だとかガラスの天井が破れなかったみたいな分析しかしないわけで、まったく役に立たない。

小川さんの発言を見ていると日米同盟に依存せざるをえず、まともな分析もしてこなかったので、不確定な要素登場に耐えられない人たちの末路というものを感じる。パラダイムが変わると知見がすべて覆ってしまうのだ。

あとは自分で考えるしかないわけだ。幸い英語で取れる情報は多くあるので、情報ソースには困らない。多分日本語オンリーでテレビを見たり新聞を読んだりするよりはマシな気分になれるのではないだろうか。

「馬鹿」が変えたアメリカ政治

トランプ大統領が誕生したことでTwitterの役割が見直されているらしい。

トランプの手法は暴言で注目を集めるというものだ。これをテレビや新聞が否定的に伝える。しかしTwitterには半匿名の人がたくさんいて、多くは発言せずに閲覧だけをしている。そしてトランプの暴言はこの半匿名の人の気持ちを代表しているのだ。

この結果、トランプがかけたキャンペーン費用はヒラリークリントンを大きく下回るといわれている。逆にクリントンは多額のキャンペーン費用をポケットにしまったのではという疑念を持つ人が出る始末だ。

キャンペーン費用の安さはトランプ大統領の今後の政策に影響する可能性があるという。これまでの大統領はすべて「紐付き」政権だった。ところがトランプ大統領は安くて効率的なキャンペーンができたのでこうした「紐」がない。そのため大衆が喜びそうな政策を自由に展開することができることができると考えられている。

Twitterのようなソーシャルメディアにはいくつかの特徴がある。

  • 興味が短期的にしか持続しない。
  • 因果関係が単純化される。
  • 「隠された」情報に人が集まる。

Twitterのトピックは深く考えられることはなく、何か隠された情報があると瞬間的に人が群がる。「隠れた」といってもそれを作るのは簡単だ。たいていは二次情報なのでテレビなどのマスメディアを使って不完全な情報を流すと大衆が勝手に穴を埋めてくれるわけだ。これが特定の人に向いたのが炎上である。

Twitter向けの才能があるとすれば、それは決して自分が攻撃対象にならないことと、絶えずどのように注目を集めることができるかを考え続けることだ。あるいはベッドの中で何か考え付いたら、後先考えずに発信できるほどにしておかねばならない。これを365日繰り返せば、Twitterでスターになることができるかもしれない。

Twitterは「馬鹿発見器」と呼ばれることがある。見落としがちなのはこの「馬鹿」が集まってしまえば正義になるのが民主主義だということである。

ではどんな馬鹿が政治を動かしたのだろうか。今回の投票率は実は50%ちょっとしかなかったそうだ。前回よりも400万票ほど低いそうだが、それでも大きくは変わっていない。しかし電話調査で調査しても浮かび上がらなかった。支持を表明することが恥ずかしいと思っているのである。だが結局のところ「行動する馬鹿」が政治を変えてしまったのだ。

自分で考えることができる人は「経済界と癒着する政治家」と「ワイドショーで有名になった素人」という二者択一に嫌気がさして投票に行かなかったのだろう。この人たちは政治から排除されてしまうことになる。

今回トランプに先導された人たちに利益が還元されれば「馬鹿こそ正義」ということになるのだが、実際には搾取されて終わりになるのではないかと思う。トランプの政策は減税で政府を小さくすることなのだが、これで排除されるのは実は貧困層だ。

しかし、代わりに外国などが攻撃されている限り、この人たちは搾取されていることにすら気がつかないかもしれない。これが「トランプ大統領になると戦争になる」といわれるわけである。争いを仕掛けて自分だけは安全なところにいられると考える人だけが、大統領になれる国になってしまったのだ。

トランプ大統領の誕生と安倍政権の崩壊の始まり

落日ってこんなもんかと思う。安部政権のことだ。

マスコミの事前予測と異なり、トランプがアメリカの大統領になりそうだ。このシナリオは安倍政権にとっては悪夢ではないだろうか。政策がどうという問題ではなく、事前に予測ができないからだ。これまでのアメリカの政策というのは大体決まっていて、日本はそれを忖度しながら政権運営をしていればよかった。これができなくなる。

直近の影響は2つある。ひとつは防衛予算の増額だ。トランプ大統領は東アジア撤退を仄めかしつつ、防衛費の負担を求めるだろう。日本はこれに応じざるを得ないがどの程度の負担増になるかは誰にも分からない。これが日本の財政を圧迫するだろう。

このことは間接的に日本には防衛戦略がなかったという事実を露呈するはずだ。力強い日本という虚像がガラガラと崩れてしまうのである。

次の懸念は株価だ。今日株価は800円ほど下がったがこれはプレビューに過ぎないのではないだろうか。アメリカは保護主義的な政策を取るはずなので、日本の企業にとっては大きな痛手となるだろう。輸出企業中心で成立している日本の株式市場にとってよい影響はないだろう。

安倍政権は株価連動政権だ。というより、安倍を支持している人たちは経済について難しいことは分からず、株価=経済だと考えているようだ。だから、株価が下がれば心理的な動揺が広がるだろう。これは年金のパフォーマンスに影響を与えるだろうが、それよりも、メンタルな部分が大きいはずだ。そのほかの「経済政策」はすべて撤退戦に入っているので、安倍政権には打ち手がない。

一方で「ロシアとの間でバランスを取っている」というポジティブな意見もある。トランプ大統領を見越してロシアとのパイプを作ろうとしているという人がいるのだ。だが、これは単なる希望的観測に過ぎないのではないか。

安倍政権は総合的な政策を持たず、分野分野で都合のよいディールを模索しているに過ぎないと思えることが多い。ロシア利権のようなものがあり、それを推進するのに4島返還論が邪魔になっている。これを棚上げして、エネルギーや鉄道に関する利権を得たいという人がいるだけなのではないかと思う。つまりロシア外交と防衛政策とはリンクしていない。防衛政策ではアメリカにフリーライドするつもりだったのではないかと思える。

さんざん「アメリカ追随」と批判を受けてきた安保法制も実はアメリカと関係なさそうだ。南スーダンでは、中国に近隣国を加えた国連部隊が展開しているだけでアメリカのプレゼンスはないようだ。中国軍は統制が取れていないらしく、南スーダン政府軍と衝突したりもしている。安倍政権は、国策として総合的な判断をしたというよりは、単に「国際的な役割を拡大させたかった」だけか「中国に乗り遅れたくなかっただけ」のように見える。石油関係の利権があるからだ。中国との対抗心は安倍政権のキーになっている。だが、南スーダンは泥沼化しつつあり、死者が出れば「違憲判断」のリスクにさらされる。

多分、日本人は安倍政権をよく理解していないし、積極的に支持もしていない。オバマ大統領が「よいアメリカ」という顔を持っていたので「大勢についてゆけばまあ大丈夫だ」と考えていたのだろう。

ところがトランプ大統領は嫌われ者であり日本に対する過激な発言でも知られている。「これまでのようにアメリカについて行っても大丈夫か」と考える人は増えるだろう。

唯一の請っていた「成長戦略」であるTPPでは完全にはしごをはずされた形になった。自民党は不人気を覚悟でTPPを推進してきたが、国民がこれを容認したのは「それでもアメリカについてゆけばまあ大丈夫だろう」と思っていたためだろう。

しかし、今後は「トランプランドに追随して大丈夫か」という疑念が出てくるに違いない。安倍政権はTPP=農家にダメージがあるだけという図式を作ってきたようだが、これで製造業国としてのアメリカと対峙するという形に変わってしまった。かといって、ここで批准手続きを止めてしまえば「アメリカに忖度しようとしただけ」ということになってしまうので、このままコミットせざるを得ない。

さらに悪いのは民進党が崩壊寸前ということだ。このため自民党の議員には危機感がない。日米同盟の動揺という党の基幹にかかわる危機が訪れているわけだが、そのような危機感は持っていないのではないかと考えられる。民進党は単に現在の政策に自民党をコミットさせるというダチョウクラブのような役割を果たしている。

彼らがプラカードを出して大騒ぎすることで、自民党は安保法制やTPPを積極的に推進したという印象になり、失敗したらすべて自民党のせいということになってしまうのだ。この対立構造を作ったのも安倍晋三なのだ。

加えて安倍政権は当初の目的である長期政権の維持を達成してしまったために、リスクを犯して思い切った政策を取ろうという意欲はないのではないだろうか。このまま危機を迎える。フリーライドしたいという周辺議員を抱え、誰もリスクをとって変化しようというリーダーシップも新しいアイディアもないまま、なし崩し的に自壊の道を走るという時代になったのだ。

「フィーチャーフォンがなくなる」問題

先日、ガラケーがなくなるというようなニュースを耳にした。スマホに変えるつもりはないのでちょっと慌てたのが情報がなく自分の使っているサービスがどうなるのかよくわからない。

結論からいうとすぐに何かをする必要はないのだが、日本人が他人に情報を伝えるのがいかに下手なのかがよくわかるので、詳しく書くことにした。コミュニケーションが混乱する原因は用語の混乱にある。短く言うと「ドコモはバカ」なのだ。ではどのようにバカなのだろうか。

きっかけはこのリリースだ。

ドコモ ケータイ(iモード)出荷終了について

2016年11月2日

平素は、弊社商品・サービスをご利用いただき、誠にありがとうございます。

  • ドコモ ケータイ(iモード)は2016年11月~12月を目途に出荷終了し、在庫限りで販売終了いたします。ドコモ ケータイをお求めのお客様にはドコモ ケータイ(spモード)をご用意しております。
  • ドコモ らくらくホン(iモード)については当面出荷継続いたします。
  • iモードサービスは今までと変わらず引き続きご利用いただけます。

弊社は今後もお客様への一層のサービス向上に取り組んでまいりますので、何卒ご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

これ、意味がわからなかった。わかったのはiモードはすぐにはなくならないので、情報はスルーしてもよいということだけだった。

情報が混乱する直接の原因はこのほかにいくつかの定義が曖昧な言葉があるからだ。それは「ガラケー」「二つ折り電話」「フィーチャーフォン」という言葉だ。

  • FOMA – 電波の名前(古い)。
  • Xi – 電波の名前(新しい)。
  • iモード – FOMAに乗るネットサービスの名前。
  • spモード – Xiに乗るネットサービスの名前。
  • ドコモスマホ – パソコンのように使える新しいタイプの電話機でXIとspモードで使う。iPhoneを含む。実際には明確な定義はなく、アンドロイドとiOSを基幹ソフトとして使っている電話機の総称である。
  • ドコモケータイ – スマホではない電話機をケータイと言っている。一般にはスマホもケータイなので混乱する。フィーチャーフォンとかガラケーなどと呼ばれることが多いのだが、実はspモードが使える二つ折りの電話を含んでいる。また、旧来型のドコモケータイもXIが使えるものがある。スマホに定義がないので、ドコモケータイにも定義がない。
  • ガラケー – 国産電話のうちOSも自前のものを使った機種を示す俗称。ゆえにドコモケータイとらくらくフォンを含むものと思われる。ガラケーのなかにもspモード対応(もしくは専用)のものがある。
  • ドコモらくらくフォン – 高齢者や障害者向けに作られたスマホに似た電話機なのだが、spモードとiモードを含む。

つまり、ドコモケータイ=ガラケーではないわけで、ガラケーには明確な定義がない。二つ折りの中にもガラケーでないものがあるのだが、ドコモのURLはfeaturephoneという名前になっている。この中には、iモードでないものも含まれている。リリースの第一項でわざわざドコモケータイ(spモード)と書かれているのはそのためなのだが、知らないと読み飛ばしてしまうだろう。

わかっている人(ドコモの広報、オペレータ、マスメディア)はこの言葉の定義がなんとなく分かっている(だが説明はできない)ので、違いをなんとなく感じながら使い分けている。しかし、それを知らない一般の人と話をするとなんだかわけがわからなくなってしまう。オペレータになんども「それはどこに書いてあるのか」と聞いたが、誰も答えられなかった。

わからないのだが「バカにもわかりやすく話してやろう」という気持ちがあるようだ。そこで「二つ折り電話がなくなる」という新たな定義をぶち込んできて話を複雑にしていた。スマホは二つに折れないのでわかりやすいと思ったのだろう。実際には二つ折り電話の中にもなくならないものがあるし、そもそも二つ折りという概念は形態による区分けだ。概念がわからない人に別の区分けをぶつけるから喧嘩になるのだ。

日本人はすべての人が同じコンテクストを共有しているという前提で話をする。多様性を前提としていないので、コミュニティの外の人とは基本的に会話ができないし、相手がどのような概念マップを持っているのかということが想像できない。そしてコンテクストを共有しない人を「バカ」だと思う。だが、顧客のほとんどは彼らからすると「バカ」ということになるので、顧客をバカにする奴は「バカ」ということになる。

さて、混乱の原因は実はNTTの広報の情報操作の結果のようだ。日経新聞の記事を読んでみよう。

「iモード」ガラケー出荷終了へ NTTドコモ

 NTTドコモは2日、ネット接続サービス「iモード」の機能を搭載した従来型携帯電話(ガラケー)の出荷を年内で終えると発表した。対応機の部材の調達が難しくなってきたため、在庫がなくなり次第、販売を終える。iモードは一世を風靡したが、スマートフォン(スマホ)の普及に押されて利用者が最盛期の3分の1に減っていた。今後のガラケーはスマホ向けのネット接続サービス「spモード」に対応した機種に統一する。

 iモードのサービス提供は続ける。高齢者向けの「らくらくホン」や法人向けの一部機種はiモード搭載機の出荷を当面は維持する。

 iモードはドコモが1999年に始めた。携帯電話で銀行の振り込みや飛行機の座席予約など様々なサービスを手軽に使える利便性が受け、2010年3月には契約者が4899万に達した。

 しかしスマホの普及でここ数年は利用者が減少。9月末時点で1742万契約に減っていた。

この記事を「正しく読んだ」人は、ガラケーのうちiモードを使ったものがなくなるということが理解できるのだろうが、「iモード」がガラケーのあだ名であるという理解もあり得るということを想定していない。またガラケーはスマホの対立概念だと考える人も多いのはずなのだが「ガラケーはスマホ向けの」という記述が出てきた時点でわけが分からなくなる。らくらくフォンが継続するというのは結局iモード対応機種はなくなりませんよという意味なのだが補足情報になっているので関係性がよくわからない。

わけのわからない情報はスルーされる。

多分、NTTの広報は「スマホだけになる」という印象をつけたかったがクレームも怖いのでいろいろ補足情報を入れたのだろう。それを忖度した日経の記者もその筋で記事を書いたものと思われる。そのためiモードは時代遅れというニュアンスを含んだものになっている。だが、実際にはiモード対応機種はなくならないので、単なる印象操作にすぎないのだ。

混乱の原因はドコモの広報が、業務上のお知らせをプロパガンダに利用しようとしたことに起因しているらしい。かといってスマホしにろとも言い切れないので、結果的にわけのわからないことになったのだろう。

オペレータと話をして思ったのは、ドコモはしばらくiモードを止められないだろうなあということだった。らくらくフォンは障害者対策という意味合いがあるようで、これをなくすと困る人が出てきそうだからだ。そもそも、ガラケーユーザーは情報にさほど関心がないわけで、このような広報の職人芸的なニュアンスが理解できるとも思えない。多分、iモードがなくなるとか安い通話サービスい対応する電話がないと聞いたときにはじめて騒ぎだすのではないだろうか。

サザエさんと憲法

日本会議がサザエさんを理想の家族だと持ち上げたことで、ネットでは批判が噴出した。そこで、もともと母系の家族を父系派の日本会議が押すのはおかしいという話を書いたのだが、世間のリアクションは「世田谷の一軒屋」は勝ち組だというものだった。中流階級の没落を感じさせる話だ。

そこで考えたのはサブちゃんをめぐる話だ。

サブちゃんを殺したのは誰か

サザエさんの中にはいろいろと説明が難しいものがでてくる。御用聞きはその最たるものだろう。磯野家では三河屋さんにお酒を持ってこさせている。三河屋は割引でビールを売っておらず、そもそも安い第三のビールも扱っていないようだ。

そもそも御用聞きが成立したのはなぜなのだろうか。それはサブちゃん(ちなみに10代なのだそうだ)を安いお金で雇う代わりに、ご飯を食べさせたり、家に住まわせたりしているのだろう。サブちゃんも自分のペースで(時々サボりながら)仕事ができているようだ。

サブちゃんは店を継げないかもしれないが、新しい店をだすことができるだろう。地域でのれんわけしてもらいお客さんを分けてもらえたかもしれない。酒屋に必要なスキルくらいは身につけることができただろうし、地方に帰ってお嫁さんをもらって新しい酒屋を作ることもできるかもしれない。

これがすべてできなくなったのはコンビニが生まれたからだ。サブちゃんは時給で使われ、マニュアルですべてが規定された「非正規労働力」になり、将来の独立もかなわなくなった。自分で稼ぐ手段がもてないので、将来の保障が得られない。かといってコンビニもいつまでも雇ってはくれない。

しかし、問題はこれだけではない。サザエさんとフネさんが家にいるので、サブちゃんは自分のペースで家を回ることができた。現在の佐川急便はそういうわけには行かない。届け先が在宅かは分からないし、人によってタイムスケジュールが違っているので、常に街にはりついておかねばならない。だから現代のサブちゃんたちは24時間対応を迫られる。現在のサブちゃんには将来もなければ、余暇もない。サブちゃんは日本のサービス産業がおかれた「ブラックさ」の象徴になってしまうのだ。

波平の父母問題

波平の介護という点も問題になったようだ。現在のスタンダードでは高齢者のように考えられている波平だが実際には定年前なので60歳前だと考えられる。今の常識でいうと、地元に高齢の父親と母親を抱えているような世代である。波平は福岡出身で、海平という双子の兄弟がいる。しかし、父母はストーリーに登場しない。漫画だからだろう。

同じことはフネにも言える。フネの実家は静岡でみかん農家を営んでいる。フネは女学校を出ているので、家はそこそこ裕福だったはずだ。みかん農家はそれなりにうまく行っているようだ。

マスオの母親は存命で大阪で暮らしているが、マスオには兄がおり、兄が面倒を見ていることになっている。もっともマスオはまだ20代なので母親の老後を心配する必要はないかもしれない。父親はマスオが小さいときに亡くなっているそうだ。

このように磯野家、が東京で幸せに暮らせるのは、実は地方の経済が磐石だからなのだ。

タラちゃんの教育問題

タラちゃんはぐうたらな叔父であるカツオを見て育っている。カツオがぐうたらしていられるのは公立小学校でそこそこ勉強しても大学くらいには行くことができ、会社には入れば正社員になれたからである。ところが現在では、カツオのような子供は正社員にはなれないかもしれない。

それを危惧したマスオは、タラちゃんを塾に入れたいと考えるはずである。マスオは早稲田大学を出ている。公的教育だけでは足りず、余計な出費が生まれるはずだ。当然、サザエはパートに出る必要が出てくるのではないかと考えられる。

サザエの自己実現

だが、サザエさんが働きに出る理由はそれだけではないだろう。サザエさんはフネさんと一緒に家でのほほんと過ごしており、たまの日曜日に都心のデパートに出かけてゆく。それはサザエさん一家が、消費や職業生活を通じて「私らしさ」を追及すべきだという考えを持っていないからだと考えられる。

もしサザエさんが消費生活を通じて「私らしさ」を追及したいと考えれば、サザエさんは一家でデパートにはでかけて行かないだろう。同じようにワカメもそろそろ家族での行動を嫌がるはずだ。サザエの時代とワカメの時代では消費動向が異なっており、姉妹といえども共通の基盤を持たないからだ。当然、フネとは話が通じるはずもない。

仮にサザエが男女機会均等法時代の女性だったとすれば、職業を通じて私らしさというものを追及したがったはずである。単なるお茶汲みでは自己実現できないので、職業婦人を志向していたかもしれない。当然、家で家事などもせずに、タラちゃんは保育園に預けていたはずだ。もしくは学歴があれば「私らしく」生きられたかも知れないと考えて、ワカメをけしかけていた可能性もある。

そもそも「個人が幸福を追求すべきだ」という考え方はどこから生まれたのだろうか。それは憲法第十三条に書いてある幸福追求権だろう。条文を挙げる。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

憲法条文には「国は国民を尊重すべき」とは書いてあるが「国民は幸せにならないと負けである」とは書いていない。戦後すぐの日本人は素直にこの条文を喜んでいたが、高度経済成長が終わることに「幸せってなんだっけ」という疑問を抱くようになる。

日本人は基本的に「個人が幸福を追求する」という考え方を持たなかったのではなかったのではないだろうか。そこでそれを「経済的な豊かさ」に置き換えて理解した。それでも幸福というものがよく分からずに、他人との比較が出てきた。そこから生まれたのが「脱落」とか「自己責任」である。

話がややこしくなっているのは、もともとなかった権利が生まれてしまったせいで、それを追求できないと負けだとか、逆にそれを抑制するべきだという話が出てきたところだ。それが「公益」とか「家」などの集団規定だ。

故に問題があるとしたら、それは「幸福が何なのか考えてこなかった」ことであり、憲法の問題ではないのだ。それが日本人を苦しめているのだろう。

日本会議がサザエさんを理想の家族だと考えるのはなぜなのだろう。それはテレビアニメ版のサザエさんに社会問題が出てこないからだろう。地方経済はうまく行っており、親は兄弟が面倒を見ている。仕事にもそこそこ余裕があり、終身雇用制度が充実している。カツオには将来の不安もなく、家族間で価値観や情報の相違もない。さらに誰も年を取らず、自己実現などという面倒なことを考える登場人物もいない。

これを「リアルだ」と考える人がいるとすれば、その人は家庭というものにさほど関心を払っていないのだろう。家族は政治の基本だと考えると、その人たちが考える政治というものもずいぶん空疎なものなのではないかと推論することができる。

 

これからも若者が過労死する理由

  1. アメリカとの圧倒的な国力の差を感じ、アメリカの品質改善運動を模倣しようという動きができた。
  2. 品質改善に成功し製造業が発展した。しかし、国外との競合のなかった分野では合理化がおきなかった。また、出せば売れたので、小売り現場の合理化も起こらなかった。
  3. 80年代にアメリカ人が日本の製造業を研究しはじめたので「日本すごい」と勘違いする人が増えた。
  4. 資産バブルが起こり土地を売り買いすると自動的に儲かるようになったので、本業が疎かになった。
  5. 流行に乗ってMBAブームが起きた。海外留学が増えたが、帰ってきてもオペレーションが変えられず、結局MBAは役に立たないということになった。
  6. マネジメント手法を知らないまま管理職になる人が増えた。そもそも日本の会社はプレイヤーからの生え抜きだったので、専門の管理職教育を行うべきだという伝統がなかった。
  7. 資産バブルが崩壊して本業が圧迫されたが、終身雇用なのですぐには人を減らすことができなかった。そこで新しく入ってくる人を非正規に置き換えた。
  8. 新人研修ができなくなり、業務に必要な知識が社内で共有できなくなった。
  9. それでもマネジメント教育をしなかったので、人件費削減だけがマネジメント知識として残った。
  10. 小泉・竹中路線が引かれて、安い労働力がを調達しやすくなったので、ますます、人件費削減がマネジメントだということになった。
  11. 非正規雇用には知識ベースの業務を任せられないので、正規層の最下層にいる人たち「名ばかり店長」の負担が強まった。彼らはマネジメントの知識も裁量もないまま管理職とされた。成果ではなく、不成果の責任を押し付けるという慣行が生まれた。
  12. イノベーションが重要ということになり、新規事業開発に乗り出すようになったが、イノベーションをマネージするという教育も発想もないので、根性で新しいビジネスを見つけろということになった。ここに「正解を効率よく学んできた人」が投入されるようになったが、答えを見つけるという教育は受けていないのでひたすら長時間労働をするようになった。
  13. 長時間労働で疲弊すると、生産性が上がらなくなった。定型業務を効率化するとに特化されたIT投資は、探索型の業務には適用されなかった。また流通などの業界にはそもそもコンピュータすら導入されなかった。市場で何が売れているのかますますわからなくなり、数ヶ月おきにとりあえず新しい商品を作って売るいうことが起こった。市場には情報が溢れ、消費者は新製品情報に見向きもしなくなった。
  14. 遅まきながら市場調査が行われ、今度は定番品ばかりが作られるようになった。
  15. IT投資を行わなかったので製造業の現場では未だにNECの旧型パソコンが使われていることがある。また場当たり的にコーディングした内容を解析してどのような業務が行われているかというルールを抽出するというサービスが提供されるようになった。もはやどのように仕事をしていたのかすら思い出せなくなっている。
  16. IT分野では製造業の成功に倣って、既知の問題を徹底的に潰すために長時間労働するようになった。例えば、年に数回も起こらない問題を潰すためにエンジニアが投入された。だがこれはβ版を出してから問題を修正する方式に駆逐された。新しいサービスが投入できないからだ。
  17. 不効率な長時間労働が蔓延しているので、それに応えるサービス産業も24時間化している。1日になんども同じ家を訪問しても留守なので、なんども訪問しなければならないのだ。
  18. 安い労働力の調達だけがマネジメントなので、今は海外から安い労働力を調達するかという議論が行われている。また、ホワイトカラーを安く使えるように残業代をなくす法案が準備されるようになった。今後海外から入ってきた安い労働力と最初から奨学金という借金を抱えた人たちが競合するような社会になることが予想されている。日本の現場は10年前にはどうやって仕事をやっていたのかすら思い出せなくなるだろう。

憲法第24条とサザエさん

右翼系の団体がサザエさんを引き合いに出して、憲法第24条の改正を訴えているらしい。ちなみに第24条の条文は次の通り。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

改正論者は父権の回復を訴えているのだと思うのだが、サザエさんは果たして適当な例だったのだろうか。もともと、サザエさんを書いた長谷川町子の家には父親がいなかった。早くに病死してしまったそうだ。このため、サザエさんには父性が希薄である。そのため、磯野波平にはそれほどの威厳はないし、マスオさんに至ってはほとんど存在感がない。彼らは外から収入を持ってくるための記号として機能しているにすぎない。

これが修正されたのはお茶の間の苦情によるものと思われる。例えば、漫画の中でのワカメちゃんはあけすけな性格だったが「女の子らしくない」ということになり、カツオとの間で役割交換があったという話もあるそうだ。このようにキャラが修正されてゆき、ついには時代も止まり(サザエさんができた当時にはテレビも炊飯器もなかったので、アニメのサザエさんはある程度変化していた)今の形が出来上がる。

長谷川家で大黒柱として機能していたのは母親であり、のちに姉妹は夫に頼ることなく出版社を設立した。

つまり、第24条否定派の人たちが本気でサザエさんを理想の家庭だと考えているのだとすると、その意味するところは簡単だ。彼らはサザエさんを理解していないのである。もしサザエさんの家を模倣するとしたら、日本のモデル家庭は母系家族でなければならないということになる。

確かに母系家族にはメリットがある。サザエさん一家には女性の間に主従関係がない。それはフネとサザエが本当の親子だからである。これが嫁姑の話になるとすると、物語は暗転するだろう。フネは無神経な嫁であるサザエに嫌味をいい、サザエはそれを耐える。そして、疲れて帰ってきたマスオにサザエさんが姑の愚痴をこぼすのだ。早く出て行きたいがあなたの稼ぎがないせいでそれが叶わない。それはあなたの稼ぎが悪いせいだということになるだろう。

ここでは考えなければならないことがいくつもある。サザエさん一家が生まれた背景が「戦争による混乱の結果」なのか、そもそも日本の家構造が母系的だったからなのかという問題である。この類の議論が錯綜するのは日本の伝統の模範が武家にあるという前提が置かれるためなのだが、実際には農村はもっと母系的だった可能性もある。

そう考えてみると「権威的な父親の元でまとまる」というような物語は日本では全く見られない。橋田寿賀子ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」でも父性は機能しておらず、実質的に取り仕切っているのは母親(母親が死んでからは血族ですらないお手伝いさんが代行している)である。父親が紛争解決に出てくる場合はたいていお金で解決している。橋田寿賀子にとって父性とは経済力(つまりはお財布)なのだろう。あのお父さんは大企業に勤めていたという設定なのだが、それにしてもいくら貯金を持っていたのだろうなどと考えてしまう。

もし、憲法第24条が家の規定であるとして、それを日本風に変えるとすれば、母系に改めるべきかもしれないと思ったりもする。

さて、今回例に出したのはどちらも女性の書き手による。一方の男性は家庭にほとんど興味を持たなかった。それは家が事業の主体でなくなってしまったからだろう。

一連の考察から、憲法を新しくするとしたら、事業や安全保障の主体としての家をどのように位置付けるかという議論が必要になることがわかる。だが、日本人は観念的なことにほとんど興味を持たないので、そもそもの議論が起らない。

普段の家庭を観察すると、子育てのために嫁が実家との結びつきを重視するという傾向が見られるはずで、父系の関係はむしろトラブルの元になっているのではないかと思う。つまり、経済的な裏打ちのないままで父系中心にまとめると、日本の家庭は相当混乱するだろう。

韓国と日本の集団社会の違い

韓国の大統領がまた炎上している。韓国の大統領は地域や血族を優遇して炎上するのが常なのだが、今回の大統領は血族とは疎遠だった。しかし、お友達を優遇していたようだ。最初は情報を漏らしたことが問題視されていたようだが、企業からのお金も流れていたようだという話に発展しているようだ。

なぜ、韓国ではこの手の話題がなくならないのだろうか。それは韓国が氏族社会だからである。氏族は安全保障の単位として機能している。だから、何かあれば集団を頼るのは当然なのである。

もう一つの韓国の特徴は強いリーダーシップだろう。裏には権力格差を意識する社会構造がありそうだ。このために大統領には強い権限が集中し、周りの人たちもそれを是認する傾向がある。しかし、権力は天賦のものではないので人気が終わりに近づくと周りが騒乱状態に置かれるのだ。

「韓国は民度が低い」と笑うのも一興なのだが、ここで興味深いのは日本との関係だ。日本には氏族はなく、強いリーダーシップも見られない。氏族がないので身内への贔屓のようなことは少なくとも国レベルでは起こらない。またリーダーシップも強くない。

安部政権は安倍晋三の強いリーダーシップの元にまとまっているように見えるが、実際には党首と地方領主の相互契約に基づいている。このため、いろいろな問題が起きている。

例えば小池百合子は未だに自民党を離脱していない。都の組織から見れば若狭勝とともに造反者なのだが、領地を自力で獲得してしまったために、安倍晋三が小池百合子を応援し、小池百合子が若狭勝を応援するという奇妙な構図が生まれた。

さらに福岡では麻生太郎が応援する一派と鳩山邦夫の支持者が激突し、勝った側が領地を獲得した上で自民党の公認を得るということが起きてしまった。

もっとも懸念されているのがTPPをめぐる混乱である。もし安倍晋三が強いリーダーシップを持っていれば山本農林水産大臣を黙らせることができたはずなのだが、山本大臣は「失言」を繰り返している。

TPPというのは旗の役割を果たしており、実際にはそれ以上の意味合いを持っていない。野党がTPPに反対しているのは、自民党が賛成しているからにすぎない。と同じように「どうせ勝てる戦争」だと考えた自民党の兵士たちも本気では戦わないのである。強行採決という言い方が嫌いならば、「議会などリチュアル」なのだと言い換えてもよいだろう。山本大臣の領地は高知にあるそうだ。

日本がこのような契約社会になったのは、大きな敵がいなかったからだろうと考えられる。強いリーダーを立てて、弱くなったら捨てるという行動様式が生まれたのは、韓国が基本的に中国の脅威にさらされた小国だったからだろう。

ここまで整理できるとアメリカとの関係が見えてくる。日本は移動が少ない社会なので共通言語ができやすい。このため全てを形にする必要がない。一方、アメリカは移動の多い社会なので共通言語ができにくく、全てを明文化する必要がある。このため英語で契約というと明文化されたものを指すはずである。つまり、日本は非言語型の契約に基づく分散型の社会なのだとまとめることができる。

TPPが厚い文書になったのは「紛争解決の際には双方が真摯に解決を図る」という一文が使えないからなのだが、自民党の関係者はさほど問題視していないようだ。アメリカに忠義を尽くしていれば「悪いようにはされないだろう」という期待があるからだろう。さらにその裏には政府と国民の間には緩やかな調整機能があり、システムが崩壊するような大きなことは起こらないだろうという仮定があるのではないかと考えられる。

日本は小さな利益集団の合邦体なのでそれ以外の集団は全て仮想のものだと言える。

欅坂46がオタクに謝罪すべきかもしれない理由

欅坂46というグループがハロウィーンのコスプレにナチス風の軍服を採用し、ユダヤ人団体から謝罪を要求されているそうだ。これがハフィントンポストに掲載され、逆に欅坂46を擁護する動きが広がった。だが、秋元康はまず日本のオタクに謝罪すべきかもしれない。

欅坂46がナチスの軍服だと気がつかずにあのコスチュームを着用した可能性はある。では、そもそもなぜ、ナチスの軍服=カッコいいと考えられるようになったかを考えてみたい。

ナチスの軍服はアニメの中で何度も登場している。有名なのは「宇宙戦艦ヤマト」と「機動戦士ガンダム」だ。どちらも悪役なのだが、日本人のクリエータはこれを絶対悪としては描かなかった。これは日本が第二次世界大戦で敗戦したというのと関係しているだろう。つまり「絶対悪」とされた側にもそれなりの事情があるということが理解されていたわけである。

ガミラスは惑星が荒廃してしまい生き残りのために地球型惑星を探していた。ジオンはもう少し複雑で被差別階層が選民思想に目覚めたということになっている。ただし、その中から旧人類を凌駕する人々が生まれたというモチーフがあり、実は敵味方ではないのではないかという可能性が提示されている。

そこでデスラー総統やシャー・アズナブルにはアンチヒーローという位置づけが生まれることになった。デスラーは帝国そのものを代表しているが、シャーの存在はもっと屈折している。いずれにせよかつてのオタクはこうした葛藤を理解していた。

ところが、こうした設定がオタク世界に正しく受け継がれなかった可能性がある。単にあのような軍服がなんとなくかっこいいという評価だけが残ったのかもしれない。つまり善悪が作り出す葛藤という側面が抜け落ちているのだ。

欅坂46のクリエーターが「オタクはこれくらいやっておけば受けるだろう」という安易な発想を持っていることが分かる。あくまでもオタクは彼らから見ると対象物であって、その背景にあるコンテクストはまったく理解されていない。かわいい女の子にかっこいい制服を着させれば彼らは喜ぶだろうという安直な姿勢が見える。つまりオタクの劣化を前提にしており、それゆえに稼げると考えているのだ。

この背景にあるのは「悪とされた人たち」の葛藤の物語である。ガミラスですら絶対悪のようには描かれず地球と人類が迎えるかもしれない未来が提示されている。ガミラスとイスカンダルは選択できる未来である。運命を受け入れて滅びるか、他者を犠牲にして生き残るかということである。

ここで、議論になっているのは「なぜナチの軍服だけが悪者扱いされるか」という点かもしれない。たとえばMA1やチノパンももともと米軍由来だが、圧制者のシンボルとしてタブー視することにはならなかった。最近では単にアーカイブ化され街着として流通している。そこには葛藤はないのでハローウィーンの衣装としては面白みに欠ける。

このことからやはり過去の物語性を消費していることは分かる。うっすらとした葛藤の記憶はあるのだが、それは風化しているのだ。

ユダヤ人団体が恐れるのはユダヤ人迫害の記憶の風化なので、彼らが抗議するのは当たり前のことである。クリエーターは彼らに対して「なぜ、こうした格好をさせたのか」ということを説明すべきなのだが、多分「日本のオタクにはこの程度の理解力しかないから」としか言えないのではないかと思う。もし、そうでないならクリエーターは堂々と説明すべきだろう。

また、クリエーターたちは「欅坂46というのはドメスティックでとてもヨーロッパなんかで展開なんかできるグループじゃないんですよ」といっていることになる。だからこそ、海外展開の際のコンプライアンスまでは意識しなかったのだろう。ここでも「日本のオタクはこの程度の似たような女の子ををあてがって置けば十分なんですよね」と言っているということになる。

つまり、演者に意図があったかが問題なのではなく、この程度で十分なんだと考えている点が問題だということになる。愚弄されているのは実はファンなのではないだろうか。

この件に関して一番気持ちが悪いのは当の本人たちがどう考えているかが伝わってこないところだ。アイドルは秋元先生が着ろといったものを着るというのが前提になっているからかもしれない。

意思のないアイドルというのは西洋世界では考えれられないが、日本人男性は意思を持たないお人形のような女性を好むということになり、それそのものが人権侵害だということになってしまう。

ただ、西洋ではスカーフで女性の顔を覆うのも人権侵害だと考えられているのだが、これについては民族的な伝統の問題があり、彼女たちに人権が侵害されているとは一概に言い切れないという微妙な問題がある。ゆえに西洋で人権侵害的だとされるからといって日本人を非難するのはやめたほうがよい。

「フレンズ」というアメリカドラマのエピソードに「スタバで何を頼むかという意見すらない人間は人扱いされない」というようなエピソードがある。一般的な知能を持っている人は意見を持っているはずだというプレッシャーを風刺したものだ。つまり、政治的な意見を持たない人間というのはお人形だと考えられてしまい、それを強要するのも人権侵害だという理屈になる。

ただ、欅坂46のメンバーの中に歴史やオタク文化に詳しい人などいるはずがないという前提を置くのはやめたほうがいいかもしれない。