DeNA – パクリサイトより怖いのは何か

DeNAがパクリサイト疑惑でまとめサイトを閉鎖して謝罪会見を開いたらしい。ネットではいろいろ話題になったようだが(ネットの人たちがDeNAの経営陣について詳しい情報を持っているのにはちょっと感心した)、改めて調べてみようという気にはならなかった。

メディアが存続するためには信頼を維持しなければならない。しかしDeNAをはじめとしたネットメディアには信頼維持のための仕組みがなかったようだ。その場で儲けることができればそれでよいと考えているからだろう。

パクリが悪いかどうかは議論が分かれるところだ。最近は「引用」という体裁でコンテンツを持ってくることが横行している。これが許されてしまうのは引用がトラフィックを作る可能性があるからだ。例えば、Pinterestは全てが「パクリ」なのだが画像の引用元にトラフィックを返す仕組みがある。こうした行為はキュレーションと呼ばれる。

DeNAが炎上したのは、トラフィックを返す仕組みがなく、かつ信頼性も担保されていなかったからだろう。なかには勝手に情報を改ざんされた上に引用元としてクレジットされていた人もいるそうだ。情報を盗まれた上に信用まで傷つけられ、それを改善する仕組みもなかった。だから炎上迄止まらなかったのである。

ということで、炎上しなければ同じようなことが続いていたことになる。ネット企業で怖いのはビッグデータだ。ビッグデータは統計的データなのだが、一つひとつはプライバシーの塊といえる。プライバシーを保護しつつ、新しい知見の創出につなげるのがビッグデータのよいところだ。

新しい知見が必要なのは、暮らしをよりよくしたいという意欲があるからだろう。もし、それがないとしたら「今稼げればよい」ということになってしまう。一番手っ取り早いのがビッグデータに加工しないでリストを売り払うことだ。個人情報保護法ができて以降、リストの取得は難しくなっている。例えばベネッセは長期凋落傾向にある。ベネッセは住民票からのデータで成功した会社だが役所が情報をださなくなった結果新一年生にリーチできなくなってしまった。こうした会社はリストを欲しがっている。「リスト開拓にネットがつかえないか」とか「ただでリストをもらえないか」などとかなり真顔で考えている。

DeNAは今日が儲かれば良い会社だということがわかった。多分、ばれなければ個人情報を売り渡すことでもなんでもするだろう。バレれば企業の信頼は崩れるかもしれないのだが、日銭が稼げる。上が「やれ」といえば下はやるだろうし、実際に手を下すのは社員ではなく、契約アナリストのような人だろう。

今回はライターが社員でなかったことも問題を悪化させた。契約ライターなので、会社がなくなっても別に困らないからだ。持続可能性には関心がない。謝罪会見では次のように語られた。仕組みがあっても利用する人がいなかったのは会社を維持可能にしなければならないという動機を持った人がいなかったからだろう。

「今回、キュレーションメディア事業のみが取りざたされているが、他の事業部において不適切な運営や業務があったら是正される仕組みは整えている。それなのに今回なぜ、外部からの指摘やお叱りを受けるまで是正できなかったのか、その点は改善しなくてはいけない」(南場会長)

この件の怖いところは、一般(NHKくらいしか見ない人)レベルには全く露出がなかったという点だろう。「ネットはうさんくさい」ということにしかならないのだ。第三者機関を作ると言っているがこの結果も大きくは報じられないだろう。

第三者委員会の調査はパクリ問題に矮小化されるのだろうが、実際には儲かりそうな事業に投資して、社の成長にコミットしない契約業者に事業を実施させるという構造自体に問題がある。会社が成長したら分配する仕組みがないと事業は衰退するのである。それが分析できないと改善もできないわけで、同じような問題は再発するだろう。ただこれはDeNAの儲けの仕組みに関わっており、直ちに改善するのは難しそうだ。

DeNAはショッピングデータや医療データ(遺伝子情報)などを扱っているようだ。だから、こういった企業には近づかないに限る。

 

 

金持ちほどSNSを使うという事実

sns_income
グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

昨日、Twitter経由でリクエストをもらったので調べ物をした。「見栄を張るのに画像系SNSを使う」というのが確かなら、画像系SNSをは所得の関係はどうなっているのかという疑問だった。調査結果はこちら

実際にはSNSによってばらつきがあった。所得が高いほどSNSを使う率が高いというのは確かだが、その傾向はバラバラだった。例えばインスタグラムは所得が低い人の方が多く使っているという傾向があるのだそうだ。

ここから言えそうなのは弱い紐帯を持っている人ほど収入が高そうだということだ。弱い紐帯というのは聞きなれない言葉だが、もともと「転職―ネットワークとキャリアの研究 (MINERVA社会学叢書)」という研究に出てくる用語だ。転職に成功した人はあまり強くないつながりを多数持っているということがわかったという内容である。

この傾向は現在でも生きているらしい。つまり、経済的に成功する人は、単に弱いつながりを多数持っているだけではなく、それを絶えずメンテナンスしているということになる。ここでいうSNSというのは、単に政治的な発言を一方的に主張し合う「破綻したカラオケ」や「セレブを一方的にフォローする」というものではなく「承認し承認される」という相互的なつながりである。

実際に高い階層にあればあるほど「パブリシティ」を意識して暮らしているのではないだろうか。パブリシティというと広告費を支払わない広告というような印象があるが、実際には自己のブランド化である。例えばヘルス企業であれば「人々の健康増進に貢献する」という印象を与えるために努力するのがパブリシティだ。高い階層の人は自分が承認されるためには他人も承認すべきだということを理解しているから、ネットワークは「破綻したカラオケ」にはならない。自己のブランド化というといやらしい響きがあるが、実際にはコミュニティの中でどう自分を位置付けるかという作業だ。

日本ではLINEとFacebookの間に違いが見られる。LINEは閉じたネットワークであり承認をめぐる争いが起こりやすい。無視されたから排除したなどというような「LINEいじめ」が頻繁に起こる。これはLINE参加者の社会的な地位が低く、閉じることによってしか環境をコントロールできないからだ。

一方、Facebookは外資系企業に勤めていた人たちや留学生を通じて広まったために「Facebookいじめ」のようなことは起こらなかった。Facebook参加者は「コミュニティに影響力を与える」ためにはどうすればいいのかを知っているのだ。つまりリテラシが高いのである。このためリテラシの低い人が間違って参加して起こる「Facebook疲れ」が起きている。身の丈に合わない生活を維持しなければならず疲れてしまうのだろう。

ただし、世界的に見ると(冒頭のグラフ)Facebookは所得が高いほど多く使われているということはないらしい。

さて、ここまで見てくると「よりよい暮らしをしたいならミューチュアルな関係性構築の方法を身に付けよ」という結論が出せる。これは最近荒れてきたといわれるTwitterでも見られる。一方的に他人を罵倒するようなつぶやきもあるし、コントリビューション(そもそもコントリビューションということすら理解できない人もいるだろう)なしにRTする人もいる。が、情報の交換を心がけている人もいて、一概に荒れているとはいえない。情報交換はコミュニティに対する貢献で、そのコミュニティは「通りすがり」程度の弱いものかもしれないのである。

唯一心配なのが欧米で起こっている動きである。成功した人の中にはより多くのサイコパスが含まれているという研究が幾つか出ているらしい。こうした人たちにとってはSNSはよい狩り場のように映るだろう。他人が自分の生活や価値観を晒しているので、利用できるからだ。逆に共感が必要な仕事は収入が低く抑えられるという傾向もある。つまり、コミュニティへの共感がいつも収入に結びつくとはいえないのだ。

 

 

ソーシャルメディアと収入の関係

面白い感想を見つけたので軽くまとめてみた。

まず、所得階層とソーシャルメディアの利用率を比べたレポートを見てみる。複数の調査を集めているので母数が調査によって異なるそうだ。

  • 学歴が低いほどソーシャルメディア利用率が下がる。
  • 収入が上がるほどSNSを使う。
  • 都市にいる人の方がSNSを使う。

お金持ちほどソーシャルメディアの利用率が高い理由は幾つか考えられる。いわゆる「弱い結びつき」が多いほど「顔が広く」なり、収入が増えるのではないかというものだ。多様性が収入と結びついているということである。プロフェッショナルほど人脈を作りたがるのだから、Linkedinなどはこうした傾向が強いかもしれない。

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グラフ下の数字が間違っている。実際には-75(年収75,000ドル以上)と30-(年収30,000ドル以下)だ。右の方が所得が低い。

Facebookももともと大学のネットワークからスタートしているので、ネットワークに偏りがあることが予想されるのだが、2015年の別の調査では違った結論が出た。収入が低い人はFacebookをよく使っているらしい。この調査は世界各国のユーザーをまとめたもののようだ。

インスタグラムについてはこれほどまとまった調査はない。たまたま見つけたものでは全く異なる結果が出た。収入の高さとは逆相関があるという。つまり貧しい人ほどインスタグラムを使っていることになる。これは2015年の調査結果とは異なる。インスタグラムを画像系と定義するなら、顕示性と画像系SNSには相関は見られないという結論が得られそうだ。むしろセレブ達の生活に憧れた人たちがインスタでセレブをフォローしているのかもしれないが、調査結果ごとにやや違った結果が出ているの詳しいことはわからない。インスタグラムは大学生レベルが使っている率が高いという結論も出ている。

日本の場合には労働環境が異なるので人脈作りが収入に結びつくかどうかはわからない。ただ、日このような記事が見つかった。やや古い記事なので外資系のサラリーマンなどを中心にFacebookが浸透したという経緯も考慮に入れるべきなのかもしれない。世界調査とは異なっていたことになる。

同じ画像系でもPinterestは収入が高い人ほどよく使われていることがわかる。ただ漫然と画像を集めただけでは面白くないサービスだし、クリエイティブな人ほど使い勝手が良さそうなサービスだ。Linkedinを合わせて考えると、目的を持ってSNSを使っている人ほど収入が高いのではないかという仮説が得られる。この延長として自己演出の一貫と捉えればよいのかもしれない。

ファッションでも「自分が着たい服」と「人からの視線を意識した服」は違っているはずで、こうした質はSNSの利用率だけでは測ることはできない。さらに「見る専門」の人と「情報発信する人」は異なっているはずだ。こうしたことは調査からはわからないので、有料のレポートを買うか、実感を足して推し量る必要があるのだろう。

今回は30分ほどGoogle検索しただけなので、全体像を掴むことはできない。もし、何かご存知の人がいれば何らかの手段でお知らせいただきたい。

 

Grammarly – 英語の宿題が楽になる?

ぼーっとYouTubeを見ていたらいきなり英語のコマーシャルが流れてきた。ちょっと見ていて「これはすごいぞ」と思った。Grammarlyというサービスで、単語の間違いや文法のエラーをチェックしてくれるのだ。

試しに一文書いてみた。英語は苦手な理由は2つある。冠詞が苦手でボキャブラリが貧弱なのだ。英語に文句を言っても仕方がないのだが、英語の冠詞には明確なルールがない。試しに書いた文章では、solutionは a solutionでなければならないのだという。

試しにThis has been a question for a long time. という文章を書いた。これをisに直しても文法が間違っているとは言われない。wasも大丈夫だった。時制もよくわからなくなる。だが本当にすごいのはここからで、isをダブルクリックすると言い換えを準備してくれる。アカデミック英語では必要ないのだが、クリエイティブライティングになるとボキャブラリが豊富だとポイントが高いとされる。この場合はremainなどが良いそうである。文脈も見ているんだなあと思った。疑問だったという代わりに、疑問として残っていると言えというのだ。

YouTubeのコマーシャルでは、履歴書の文法をチェックしたり、ボスにメールを送る前にチェックしてみようという提案になっている。つまり英語圏でも文法の間違いに悩んでいる人は大勢いるということになる。

だが、日本で英語を使う人は少ないので、学生の間で広まるんじゃないかと思う。英語の宿題やレポートをチェックすればボキャブラリが豊富で文法的な間違いがない文章が(本人がわかっているかどうかはともかく)書けてしまう。いわば機械を使ったカンニングだ。英語の先生が間違いを指摘されるようなことっもありそうだ。

GrammarlyはWebブラウザーでWebサービスとして使えるが、Chromeのプラグインとしても動作する。テキスト欄の英語もチェックしてくれるようである。アプリケーションもあるが手元の環境では動かなかった。

 

問題がおきたらマメに通報しておこう

日々の暮らしの潤いの一環としてTwitteで国政について愚痴るのも楽しいのだが、それにも飽きたら次は地域の問題に関心を持ってみましょうという話をしたい。

先日、公園を歩いていると、チェーンソーで草刈をしている人に出くわした。手に小石が当たったのだが、担当者は作業を止めるつもりはないらしい。そこで、担当者の会社名を聞きだしたうえで責任者に話を聞いた。

本来は安全義務があるのだが、作業者にそのことを伝えておらず、監督者も置いていなかった。なぜ、そうなるのかを聞いたところ「予算がないから監督者を置けない」という。

そこで市の担当者を聞き出してメールを送った。最近ではホームページにメールアドレスがある。すると「私は担当じゃない」との返事が返ってきた。市役所の関心事は市民の安全にはなく、誰の担当かとういうことだ。役所はバツが付くことを恐れるのである。

一週間ほどしてメールが来た。もともと業者は事業計画書の提出が求められている。事業計画書には安全管理者を置いて、従業員にも安全教育をすると書かれているのだという。

ただし、市としては事業計画を検証することはない。表向きは「対応をしている」としているのだが、実際には放置しているのである。つまり、事業計画とは建前を書いたものなのだということが分かる。予算が足りないということはないとも書き添えてあった。

面白いのは、こうした構造は草刈のような小さな公共事業から国立競技場の建設のような大きな問題にも共通だという点だろう。つまり、誰も関心を持たないことを前提に安い見積もりが立てられるのだが、国民の関心が集まると「ではもっと予算をくれ」ということになってしまうのである。最初から実施するつもりがないことを書いておいて、実際にやれということになってはじめて「その予算は組み込まれていませんでした」という話になるのだ。

市役所からの回答には「今後は気をつけます」と書いてあったのだが、これは過去に起きたことについては何もしませんという役所用語である。

ポイントになるのは「文書による回答を得た」ということだ。こうしたヒヤリの裏には同種の事故が隠れている。それが深刻になると表出し「炎上」が起きる。炎上が起きるほどの事故が起きたときには誰かの命が失われるということを意味する。すると事業者側は「想定外」だというはずだ。

だが、こうした文書が残っていれば「想定外」ではなかったということが分かる。結局、役所というのは監視がないと堕落してしまう運命にある。役所が堕落するのは成果を挙げることを求められていないからである。

よく「なぜいちいちなんでもTwitterで炎上するのか」という疑問を目にするが。基本的に日本の行政や企業は炎上を起こす運命にある。安全対策をとらず、自浄作用も働かないので、大騒ぎになって初めて問題化するからである。

ただし、いくつかのコツもありそうだ。第一のコツは消してパーソナルに取らないことである。小石が当たってムカッとしたのだが、多分担当者と言い争いをしても問題は解決しないだろう。背景にありそうな問題に当たる必要がある。

次のコツは「建前」を見つけることだ。この場合は、「市民の安心安全」というのが建前になる。法律は建前ベースで作られており、担当者がアサインされている。だから、建前をベースに責任者を見つけ出すべきなのである。

建前にならないことは「意見が分かれる」ということで政治家マターになってしまう。また地域間競争(どこの小学校を耐震化するかなどといった問題がある)なども政治家マターだ。こうした問題について興味があるのなら最寄の市議会議員に伝を付けるしかない。市議会議員に個人で当たるのは得策ではない。彼らは票のとりまとめをしてくれる人たちを期待している。多分、予算の使い方というような問題も政治家マターだろう。情報は公開されているが専門家でないと読み込めないからだ。

最後のコツは解決を求めないことだろう。どうしても「お前のためを思って言ってやっている」という気分になりがちなのだが(実際に僕はそう思った)こうした正義感が満たされることはない。解決を求めないのだから、忙しいのにわざわざ時間を潰す必要はない。できる範囲でやればいいのだ。

何回かやり取りをすると「役所ってこんなもんだなあ」と思える。まあ、Twitterで国政に対する愚痴を言うときにも新しい洞察が得られるかもしれないくらいの気持ちで取り組めば少しくらいはすみやすい世の中になるかもしれない。

かつてはたらい回しにされると、役所で何時間も待たなければならなかった。今ではメールでやり取りができるので、たらい回しもそれほど苦痛にならない。

ASKA報道は単なるいじめです

先日来ASKA容疑者が再び覚せい剤を使ったということで大騒ぎになっている。とても不思議な気持ちで見ていた。

全体の論調としては「再び使うのはバカだ」ということになっているようである。

しかし、覚せい剤をめぐる制度には問題がありそうだ。初犯は執行猶予がつくらしいのだが、実質的にはそのまま野放しになってしまう。そして覚せい剤を使うと自力で止めることはおろか、自分が中毒になっていることを認めらることすらできないらしい報道されているブログなどを読むと、そもそも現状認識ができなくなっているらしく「自分で正しい判断ができなかった」可能性が高い。

だから問題を解決するためには、法的に拘束した上で収容施設を作って治療するしかない。そのためには刑務所ではない施設が必要になる。

それではなぜASKA容疑者はそのまま実質的に放免されてしまったのか。それは国が対策費用を削減したいからだろう。刑務所に送り込めば、刑務所を新たに建設する必要がある。社会で監視する人も足りないようだ。ASKA容疑者には家族がいたので「家族に面倒を押し付けた」のだ。つまり、これは認知症の家族介護と同じ状態なのである。

これを「極論だ」という人はいるだろう。だが、認知症と言っても本人に意識が全くなくなるわけではない。中には車の運転ができる人(ただし家には帰れない)もいるし、PCデポに出かけて行って契約を結ぶことができる人もいる。この対処を専門性のない家族に丸投げしているのが現在の制度である。

となるとこの問題には「国と家族の関係」という根本問題がある。自民党の憲法草案にある「家族の相互扶助義務」の憲法条文化だ。だから「安倍がなんかやると(どうでもよい)芸能人の覚せい剤報道が増える」などと被害妄想丸出しのツイートをしている場合ではないのだ。

もちろん認知症の介護と覚せい剤患者は異なる。だから認知症の人を刑務所のような施設に入れろと言っているわけではない。認知症の場合は環境を変えてしまうと症状が悪化する場合があるはずなので、家で見守りが必要になるだろう。つまり、集中的に「管理可能」な覚せい剤使用者以上に高額の費用がかかることになる。

確かに「覚せい剤使用者の面倒は社会でしっかりみるべきだ」などというと、自分の責任で薬に手を出したのに、なぜ俺の税金が使われなければならないのかなどという人がいるかもしれない。確かに論としてはあり得る。で、あれば「他人の問題」なのだから、ほっておけばいい。あなたには関係のないことだ。

確かに覚せい剤患者は事故責任かもしれないのだが、家族はどうなのだろうか。彼らは専門知識も法的拘束力もなく、専門家に相談すれば家族を刑務所に追いやることになる状態で一体何ができたのか。

にもかかわらず、社会的な問題を絡めてこの問題が語られるのだろうか。そもそも他人の転落を見るのは楽しいが、それではあけすけすぎるので、ニュースのような体裁をとっているのだろう。

遠巻きに誰かが苦しんでいるのを冷ややかにみて何もしないのはいじめにすぎない。つまり、あの一連の報道はニュースのような体裁の、家族に対するいじめなのだ。

刺青とタトゥー – 伝播と歴史

NHKで海外からの観光客の呼び込みについてのプレゼンテーションを見た。その中に、銭湯でタトゥーが入っている人たちを一律に排除するという話が出てきた。観光客が来ただけでこれだけ大騒ぎになるのだから、移民の受け入れなんか絶対に無理だろうなあと思った。

その中にオセアニアの女性が顔の刺青で差別されたという話が出てきた。その民族の間ではタトゥーには家紋としての役割りがあるそうだ。こうした伝統は太平洋沿岸に広がっており、かつての日本も例外ではなかった。中国の古い書物には倭人が刺青をしていたという記述があるという。台湾の原住民は今でも刺青が通過儀礼になっており、日本もこうした太平洋世界の一員だったということがわかる。

だが、日本での刺青はその後廃れてしまう。代わりに刑罰として刺青を入れるという伝統が生まれた。太平洋原住民の伝統がなぜ消えたのかはわからないが、刑罰としての刺青には「犯罪者は真っ当な人には戻れない」という意味合いがあり、大衆に対しての抑止力としての効果が期待されたのだろう。

ところがこれはいささか浅はかな考え方だったようだ。犯罪者たちは社会に受け入れてもらえないので、自分たちで集団を作るようになった。社会復帰を許さず犯罪者に差別感情を向けると、犯罪組織が定着してしまうのである。ならずものの集団は刺青を様式化して仲間のシンボルとした。日本人は自分のドメインに関しては真面目なので、刺青の様式は精緻化し芸術の域まで高められることになった。

こうした犯罪者を社会から排除する」という意味合いの刺青は西洋にも見られる。ドイツ人はユダヤ人を収容所に入れる前に番号を書いた刺青をした。家畜に焼印を押すような感覚だったものと思われる。きわめて残虐な行為だ。

だが、西洋の刺青は太平洋経由で持ち込まれた。タトゥーという言葉は太平洋語(もともとは台湾あたりが発祥とされる)由来だ。このように、西洋のタトゥーは冒険や蛮勇の印と考えられている。イギリス王ジョージ五世は日本人に刺青を入れさせたことで知られている。軍人として諸国を訪れたさいの「お土産」と考えられたようだ。ジョージ五世は横須賀でスカジャンを買うような感覚で刺青をいれたのかもしれない。アメリカでも軍人が海外赴任する前に勇気を鼓舞したり、愛国心を確かめるためにタトゥーを入れる伝統があったようである。

このように限定された人たちの間の流行りだったタトゥーが西洋で一般化するようになった経緯はあまりよくわかっていないようだが、一時の流行ではなく定着しており、アメリカでは5人に1人が刺青をしているという調査もあるそうだ。

思い浮かぶのはサッカー選手だ。もともと下層階級のスポーツだったサッカーが世界に広まる過程でタトゥーも広がったものと考えられる。今ではベッカムのような白人や日本人の間にも広まっている。ベッカムがファッションアイコンになる過程で若者にも影響を与えている。

日本の銭湯や地方自治体が刺青を一律に禁止するのは、個人で責任を負いたくないからだろう。「〜ということになっている」とすれば、個人の責任が減免されると考えるのだろう。確かに犯罪者の印である刺青の入った人たちが集まれば、普通の人たちは怖がって入らなくなるだろう。だが実際には刺青は多様化しているので一律にルールを作って解決することはできない。

これを解決するためには「担当者に権限を与えて現場で判断させる」必要があるのだが、権限移譲して責任を持たせるのは日本人が苦手とする作業である。現場の判断は「仕事を楽にする」ほうに働きがちで、現場の風紀の緩みや安全性の低下につながる。これは日本人が成果を末端の構成員には渡さないので、組織の責任を果たそうという気持ちが生まれにくいからだろう。日本人は自分のドメイン以外のことには極めて無関心なのだ。

だが、タトゥーと刺青が区別されないのも当然のことである。各地の歴史は結ばれており、複雑に反響し合いながら変化し続けている。太平洋の文化が西洋に広まり、日本の犯罪者組織の間で芸術の域にまで高められた刺青はイギリスの王様に影響を与える。それがサッカー選手を通じて日本に逆輸入されるという事態になっている。もう一つのルールだけで全てを規定することはできないのである。

なぜ日本の政治は歌舞伎化してしまったのか

さて、先日来政治の演劇化について考えている。

アメリカでは、現状を打破してくれそうなトランプ候補に人気が集まった。プロレスやリアリティーショウで大衆の心を煽る手法を身につけたトランプ候補は当初「政治でなくリアリティーショウ」などと揶揄されていたわけだが、実際には、実際の政治は信頼できないと考える有権者を掘り起こし、従来の誠治参加層を離反させた。念入りに作り込まれたドラマが忌避されてリアリティーショウに人気が集まるのに似ている。旧来からのテレビの視聴者は離れてしまう。

一方、日本の政治は歌舞伎化している。実際には外国の状況や衰退してゆく人口動態に振り回されているだけなのだが、自民党は力強い統治者を演じ民進党がそれに反対するという図式である。問題解決ではなくテレビが入った時にいかに悲壮な顔をして反対して見せられるかというのが、野党政治家の一番の腕の見せ所になっている。問題解決は出来ないが、何か問題提起をしてそれがテレビニュースに乗れば一躍「朝生討論会」メンバー入りである。政治家はひな壇芸人化しているわけで、政治のバラエティー化と言える。

両国の現状は、政治が普段の生活から遊離してしまっていることを意味している。

アメリカの場合はそれでも選挙キャンペーンに有権者が参加することができる。有権者は対話を通じて目の前の問題について学ぶことになる。一方日本にも自分たちの問題に目を向けるチャンスはある。こうした問題は地域の自治会などで取り扱われている。自治会が扱う問題は国の規制の問題に行き着く。つまり地域と国は連動しているのだ。

これとは別に住民相談室を作っている地域政党もあり一定の支持者がいる。たいていの場合には「消費者のネットワーク」が母体になっているようだ。

しかしながら、自治会や消費者組織は一般化することがない。いろいろな問題がある。

第一に日本人の有権者が消費者化している。日本の政治はもともとは臣民型と呼ばれていたそうだが、アメリカに解体された。その後、紆余曲折を経て有権者は税金を払ってサービスを受益する消費者になった。これは皮肉な例えでもなんでもなく、市役所などでは有権者のことを「お客様」と呼ぶことがある。

もともと自民党は地域の生産者団体を組織してできている。地域生産者とは農家や地域の中傷零細企業だ。もともと政治は生産と結びついていた。しかし、長い歴史の中で有権者は生産者ではなくなり、ついには正規従業員でもなくなりつつある。それを受け入れる政治団体はないので、国民の政治離れが進むのである。

非生産者が政治に参入しないのはどうしてなのだろうか。

バブルを知っているくらいの世代の人たちは、左翼がもっと暴力的だった時のことを知っている。大学にはアジトがあり、普通の学生は「政治とは過激なものだから近づいてはいけない」ということを学ぶ。彼らは勉強もしないで7年間も闘争するドロップアウトであった。普通の知識人(といっても都心の大学生くらいのレベルだが)にとっては、政治はテレビで見るものであり参加する(といっても角棒を持ってデモに参加することだが)ものではないのだ。

自治会に入るのも敷居が高い。地域には「仕切り屋」がいる。仕切り屋たちにはいろいろな流儀があり、それ以外のやり方は許容しない。日本人は村落を作って落ち着くのを好むので、多様性を受容するのに慣れていないのだ。地域の中には退職前の職業が違うために、やり方が合わないという人たちが必ずいる。こうしたところに新規参入者が入ると大変なことが起こる。「どちらの味方になるのか」ということになってしまうのだ。

バブル期の大学のアジトと自治会は違っているように思えるのだが、実際には多様性を許容しないという点では似通ったところがある。違いは血の気の多さくらいだ。大学のアジトは闘争を繰り返し、小さな集団に分裂した。これは決め方を闘争によって決めようとしたからだ。国会が「プロレス」だとしたらこちらはストリートファイトのようなもので、実際に死人も出ている。

自治会の場合は気軽に引っ越せないので、そのまま耐え忍ぶしかない。集合住宅の中には「お金で解決する」人たちもいる。管理会社が自治会に入り、居住者は管理費を払うという形式だ。これは自治会が単なる「お掃除当番」だと見なされているからである。

日本の地域政治に消費者団体と自治会組織の二本立てになっているのは、お母さんが政治参加しようとしても自治会では主役になれないからだ。「お前は世の中のことは何もわかっていない」と決めつけられてしまうので、消費者団体などに避難してしまうのだ。

政党も自治組織や消費者組織を活かし切れているとは言えない。政治家は「仕切りたがる」人たちなので、こうした団体を自分たちのファンクラブだとしか考えていないからだ。そのため、独自の候補者を立てない消費者団体(現在では高齢化の問題に対処いている人たちも多い)は各所からくる応援要請を「どれにしようかな」と選び、付かず離れずの態度を取ることがある。取り込まれてしまうのを恐れているのだろう。実際に話を聞いてみるとその態度はかなり冷ややかである。

地域の団体は生存を危機にさらすような闘争を避け、ニッチを獲得するとそこで場を支配したがる。素人の「政治家」は人を利用して自分の利益を追求しようというずるさを持たないので、たいてい協力者がいない。

まとめると、日本では多様性のなさとリーダーシップの欠如から政治の演劇化が進んでいるものと思われる。これが政治の演劇化を加速しているのではないかと考えられる。

政治的な相互依存状態を確認するには

最初に政治的相互依存という概念に気がついたのは軍事アナリストの小川和久さんという人のツイートを見た時だった。ということで、偉大な洞察を与えてくださった小川さんには感謝したい。

さて、日本の防衛政策は行き詰っている。アメリカが国力を維持できず、アジア地域からの暫時撤退を希望しているからだ。安倍首相はアメリカをつなぎとめるために、憲法を無視した安保法案を成立させた。今でも南スーダンに行くのは現地の邦人保護ということになっているそうだが、実際には多国籍軍事活動への参加だ。

ここまで無理をしたのに潮流は変えられず、トランプ大統領時代にはこのトレンドはもっと顕著なものになりそうだ。安倍さんはアメリカにフリーライドして中国に対抗しようとしたわけだが、アメリカ人はその意欲を共有してはくれなかった。

安保法案が一部の国民のアレルギー的な反対にあっている時に小川さんがやったのは2つのことだった。「日本が独自で防衛するととんでもない出費になりますよ」といって国民を恫喝することと「実は日本はアメリカの大阪本社である」という仮想万能感を鼓舞することだ。

これはアメリカ人の実感とは異なっているだろう。第一に日本はキリスト教文化圏に属していないためにヨーロッパのようにアメリカのパートナーにはなりえない。次に沖縄はアメリカの利権であって、日本が協力して提供しているわけではない。最後に兵器の改良や長距離化が進んでいるので、無理をしてまで日本に基地をおく必要は無くなっている。

だからこの「大阪本社論」には小川さんを支持している人たちの気分を少しマシにするくらいの効果しかない。例えていえば朝鮮王朝は「朝鮮は小中華なのだ」と言っているのと同じことである。属国の中でも特別な属国なのだと言っているのだが、清が体調すると最終的には日本に占領されてしまった。

さらに「独自試算」は日米同盟をつなぎとめたい防衛省コミュニティから出てきているようだ。具合の悪いことに日本の軍事費はGDPの1%という低率であり諸外国からは「もっと出してもよいのでは」と言われかねない。現実的に「フリーライド」状態にあるものと考えられる。かといって、防衛省の言い値で軍事費を調達するととんでもない額になりそうだ。これは防衛省に調達能力がなく、防衛産業が寡占だからだろう。ある意味オリンピックに似ている。

考えてみればわかることだが、外国が3%程度の軍事費を使っているのに日本だけが10%などになるとは思えない。よっぽどの買い物下手ということになってしまう。かといって2%になっても、今の2倍のコストとイニシャルコストがかかる。日本は海が広域な上に軍事上の同盟関係を作ってこなかったのでヨーロッパのような集団防衛(もちろんこれは憲法改正が必要なのだが……)ができないのである。

つまり、日本の防衛政策はとても難しい判断を迫られている。

しかし、小川さんたちは新しいスキームを提供しようという努力をしない。その能力がないのだろう。着想はできるかもしれないが、政治的なリーダーシップは発揮し得ない。日米同盟に頼りきりになり、何も準備をしてこなかったからだ。

安倍首相も基本的人権の否定という政治的には無意味なキャンペーンには政治的リソースを使っているが、日米同盟後をどうするかということについては無関心だ。同盟関係の見直しは政権基盤を揺るがしかねないわけで、リスクを避けているのだろう。

代わりに彼らがやっていることは何だろうか。それは、軍事費などには興味がなく、単に「戦争のような汚いことには手を染めたくない」と言っている人たちが繰り出す無知な批判を「科学的な批判ではない」といって逆批判することだけである。不都合な現実には目を背けることができるし、馬鹿な左翼をいじっている時だけは優越感に浸ることができるからである。

つまり、彼らは相互依存状態にあるということになる。新しい提案をし得ない左翼が批判する人たちを必要としているのは明白だが、実は批判される人たちも左翼を必要としているのだ。

だが、自分が依存状態にいるかどうかということは自分ではよくわからないのではないだろうか。これを確かめるためにはなにかを作ってみるとよいのではないかと思う。何かと忙しくなるので、ぴったりと張り付いて批判者を見つけるのに時間を使うのがバカバカしくなる。

つまりは、相互依存は実は不安の裏返しだったということがわかるのである。「建設的な議論をしろ」とは思わないのだが、結局一人ひとりの意識が変わることによってしか状況は動かせない。

と、同時に何かを作るためにはリソースが必要だ。相互依存的な批判合戦と炎上が蔓延するのは、実は創造的な活動に使う時間やお金といった資源が不足しているということなのだろう。

デザイナーが引き出しを増やすためにできる便利なPinterestの使い方

ファッションについて調べている。現在のファッションは定番化と部族化が進んでいる。だから、普通の人がファッションデザインについて調べると、自分の半径500mくらいで「定番」が決まってしまうことになる。だが、たとえば、定番のカジュアル服と言ってもアメリカと日本ではかなり違っているし、日本でもMens Non-noとBitterでは異なっている。だから、選択肢が狭まるのはちょっと危険なことなのかもしれない。

最近、Pinterestの面白い使い方を見つけた。例として作ったのがアバンギャルドというコレクションだ。多分、正式な名前ではないと思う。アバンギャルドには幾つかの特徴がある。

  • 概ねモノトーンである。
  • ドレープを使っていて芯がない。
  • 形はアシンメトリーなものが多い。
  • パンツが太いことが多く、フードを使ったものもある。

アバンギャルドといっても、全く革新的なものではない。もともとは砂漠の遊牧民と着物からインスピレーションを受けているのだろう。つまり「巻きつける系」の衣服を洋服として再アレンジしたものである。最近ではD Squared2が日本をモチーフにしたようなショーを展開したことからわかるようにメインストリームでもちょくちょくと取り入れられている。

さて、ここまでは普通のコレクションなのだが、Pinterestはコレクションから同じような形のものをお勧めしてくれる。タイムラインに表示されたり、メールでのお知らせが来る。ポイントは「最初のキーワード」と違っても、なんとなく似たようなものがレコメンドされると言うことだ。そこからキーワードを拾って行けば、それがそもそも何のコレクションなのか分かるのである。

アバンギャルドと名づけたコレクションは、もともとパリコレに着物のデザインが導入されたことが源流にあるのではないかと思われる。これがSF映画に乗って広まり「未来風の」デザインという印象が生まれたのではないだろうか。