神様は何にもしてくれない、かもしれない

話を聞いた人から「意図が正しく伝わっていない」という旨のコメントを頂いた。現在反論を載せていただけるように調整しているところだが反論を公開する形にするのは心理的にしんどいということなので、ここに注記だけを入れさせていただいた。 

反論がある場合はコメント欄に記入していただくことをお勧めする。コメントにはTwitterやDisqusなどのアカウントが必要だ。スパムや誹謗中傷の場合はこちらで差し止めることもあるが「事実誤認なのではないか」という指摘はそのまま掲載したいと思っている。過去にいじめについて書いた記事で事実と異なる受け取り方をしているのではないかという指摘を第三者から頂いたことがある。

ただし「身元が露見する」ことを恐れる人が多いのも事実なのでその場合は何らかの形でお知らせいただければできる限りの範囲で調整したいと思う。「反論」に心理的な壁があることも理解しているつもりである。

いずれにせよ印刷物ではなくブログなので書き換えや加筆を前提にしている。つまり最終成果物ではないということだ。ただし、反論して頂いたからといって100%満足できる結果にはならないかもしれない。お互いに聞いた話には誤解が生じるので「完全に分かり合う」ということはかなり難しいと考えているからだ。そこで受け取り方に相違があったという記録をできるだけ残したいと考えているが、もちろんそれだけでは満足感は得られないかもしれない。

最近は気楽な政治ネタが多いのだが、そもそもは分かり合えないことを前提にしたコミュニケーションの研究ブログなので、そのあたりのスタンスはご理解くださいとお願いするしかない。

2017/3/13


またショックなことがあった。スコッセッシの沈黙をベースにした映画を見て「それでも信仰を捨てなかったのは素晴らしい」という話を聞いたのだ。以前「肝っ玉おっかあと……」について書いたときに演劇空間が作り出す感情の強力さを書いたことがある(ブレヒトは感情に溺れずに第三者の視点から状況を見て欲しいと言っているのだが大竹しのぶの演技に感動したという人が出てくるのだ)のだが、やっぱり映画は怖いなあと思った。

もちろん、言ってくれた人は「キリスト教にゆかりがある」相手と考えて、良かれと思って言ってくれているのだと思うのだが、やっぱり違うんだよなあと思った。それを書くのは大人気ないなあと思ったのだが、この感覚は現在の日本人にとって重要だと思うのであえて書くことにする。

映画は見ていないので、慌ててスコセッシの映画評を探してみたのだが、やはり信仰と疑念というのがテーマだと捉えられているようだ。原作者の遠藤周作も「沈黙」を書いたときに自身の信仰に悩んでいたという話を読んだことがある。

子供の頃は結構神様を信じていて、神様にすがっていい子にしていれば苦しみから逃れられるのではないかと思ったことがあった。しかし、神様はいるんだかいないんだかよくわからないし、苦境から救ってくれることもない。シスターもいい子にしていれば神様が救ってくれるみたいなことは言わない。その後の人生でも神様は助けてくれなかった。見ることもできないし、いるかどうかもわからないものを「ただ信じる」というのは、実はかなりしんどいことではないかと思う。

一方で、恩寵を感じることがある。もうどうしようもない経験をした後でも、回復は訪れるし、最悪の時期は決して永遠には続かない。人には忘れたり回復したりという力があり、これは、努力をして得られるものではない。さらに、最悪の時期の体験が実は得難い実感を持っているということもある。毎日甘いものを食べても美味しくもなんともないのだが、灰色の時間に一雫たらされたような甘みは一生忘れられない。沈んだ気持ちで本を読んだ経験が後になって蓄積されるということもあるのだ。つまり冬を冬でいさせてくれるというのも恩寵なのかもしれない。

つまり、神様はいるともいえないし、かといっていないとも言い切れない。少なくともカトリック教会に通っていないので、キリスト教世界では信仰ではないということになる。

さて「沈黙」に出てくる隠れキリシタンはその後どうなっただろうか。実は彼らはそのままの形でカトリック教会に認められることはなかった。多分、日本流にアレンジされたキリスト教を信じていたことが理由で、背景にはうっすらとしたアジア人差別もあるのではないかと思う。このあたりの事情を書いた熊日ドットコムの記事があるが、正直事情がわからない人にはさっぱりだと思う。隠れキリシタンはその後明治維新期にカトリック教会と再接触して一部はカトリック教会に復帰したが、一部は独自の信仰を続けたということだ。

日本はヨーロッパの影響力が強いユネスコで、隠れキリシタンの世界文化遺産登録を目指しているそうなのだが、隠れキリシタンはカトリック世界では「亜流」とみなされることが多い。記事を読むと隠れキリシタンを「潜伏キリシタン」と区別して概念整理が行われているようだ。一方、宣教師と接触があった時代に入信した高山右近などは最近福者認定されたようだ。中には殉教者扱いされて列福したりした方もいると思う。

多分、あの映画を見た人は「あれほどの過酷な体験をしたのにカトリックに認められなかった」ことを知るとショックを受けるかもしれない。日本流の見方をすると「彼らは報われなかった」ことになってしまう。

カトリック教会にも権威主義的なところがあり、準備に20年かけたというスコセッシはそのことを知っていたはずである。もし、隠れキリシタンが西洋世界で英雄視されていれば、資金集めに苦労することなどなかったはずである。やはり白人の宗教であって有色人種が独自に発展させた宗派というのは認められない。だが、西洋世界の人たちは自分たちが蔑視感情を持っていることは認めたがらないのではないだろうか。

さて、なぜ今ことのことが重要だと思うのかについて書きたい。日本の宗教はご利益化することが多い。信じるからには効能がないといけないと思うのだ。例えば花粉症が治るお札を売っている宗教もあるし、立派に先祖供養すれば霊障が取り除かれるという宗教もある。

真面目な宗教もあるのだろうがお金儲けも多く、被害者も出ている。特にオウム真理教のように、あれほど頭の良かった人たちがインチキな教祖に騙されてテロ事件を起こすなどということは再びあってはいけないことだと思う。

ただ、そうなる気持ちもわかる。何かにすがりたいという気持ちは誰にでもあるが、いったん通り過ぎてしまえば耐性がつく。しかし幼少期に経験がないと「ころっと騙される」ことがあると思うのだ。神秘体験などさせられて「神を感じたり」などするとひとたまりもないだろう。

さらに現在では国家神道が一部の人々を熱狂させている。彼らの目的は2600年という歴史と天皇の存在を傘にきて人々を平服させるということだが、政治家を巻き込んで「人々から人権を取り上げてしまおう」と言うところまで来ている。実はこれも耐性がない人が大人になってから「すばらしい大義」に触れてしまったところに問題があるように思える。三原じゅん子参議院議員のように日本書記を歴史的事実だと信じ込んでしまっている人もいる。

国家神道は、自然崇拝だった神道にキリスト教的なエッセンスをまぶした新興宗教だが、日頃、宗教に触れる機会がない人には「とてつもなく素晴らしいもの」に見えるのかもしれない。もし神道がすばらしいとしたらその基礎にあるのは教義を持たず他者を排除せずに取り込む包摂だと思う。仏教のように苦境を前提にしないし、キリスト教やイスラム教のように他者を排除することはない。だが、これが中国人や韓国人の排除につながっていることに矛盾を感じる人はすくないようだ。

「愛国教育の問題」は人間の中に存在する善の存在を信じておらず、子供は調教されなければならないという理念を持っているところだ。つまり恩寵を感じていないのだ。だが、なぜか優れた理念を教え込めるのは自分自身しかいないという信じ込みがあるのだが、結果的にはこれは虐待的な調教につながっている。さらにその理念はかなりゆがんでいて大義のためには法を曲げてもかまわず、いんちきをして国からお金を巻き上げてもかまわないと思い込んでいる。つまり「社会の中で善くあろう」という気持ちが全く存在せず、他社の権利への尊敬もない。

籠池元理事長が強烈なキャラだったのでそれだけが大きく取り上げられ勝ちなのだと思うが、同じような考え方を持っている人は多いのではないだろうか。つまり他人の善性は信じられないが、自分の善性は絶対だと考えていることになる。

これはまず自分の中にある善性や恩寵を感じたことがなく、その後得た信仰や大義について疑問を持ったことがないからこそ起こるのではないかと考えられる。こうしたことは世界中で起きている。白人だからキリストに絶対的に愛されているが、イスラム教徒は神の愛の対象外だと感じる人もいるし、イスラムこそが絶対でキリストこそ堕落した悪の根源だと思っている人もいる。そして自分の中にある善い性質に頼れば調和が得られるだろうとは考えず、他者を悪として排除すべきだという考えにつながってしまう。

信仰への疑いは現在社会ではきわめて重要な感覚であり、多くの人がそれを体感できなかったとしても理解すべきなのではないかと思う。

新しい籠池理事長は何度でも出てくるだろう

ちょっとショックな話を耳にした。前回、小学校では自分を大切にすることを教える前に大義だけを教えると自我が肥大した子供が育つのではないかと書いた。だがこれに対して「日本の小学校は自分を大切にしなさいとは教えない」という人がいたのだ。

結露だけを書くと、これからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろう。また、民主主義を理解しない安倍首相の出現は当然の帰結ということになる。それは民主主義の基本がこの国では全く教えられていないからだ。

にわかには信じがたいのだが、これを教えてくれた人は、日本の学校では自分を抑えて相手に合わせろとしか習わなかったという。いくらなんでもそれは極端なのではと思って他の人の意見を募ったのだが、誰も応じる人はいなかった。黙っているのは意見がないか、言いにくいが概ね賛同していることを意味しているはずだ。従って日本の小学校では「自分を大切に」とは習っていない可能性が高いことになってしまう。ということは家庭で習わなければ一生習わないということになる。

例えば、一人ひとりの大切さを象徴する歌に「ビューティフルネーム」がある。だがこれも英語に堪能なタケカワユキヒデが作り、外国人が参加したバンドが歌っている。そのあとに出てくるのは「世界で一つだけの花」だが、こちらは性的マイノリティの人が作ったどちらかといえば多様性をテーマにした曲だ。つまり自尊心とは外来概念なのだ。

だが、「日本人は自分が大切だということを学ばない」という意見を受け入れると腑に落ちることが多いのもまた確かだ。まずネトウヨの言っていることがよくわかる。他人の権利を尊重することは「自分が我慢すること」につながる。確かに、自分が大切にされないのに、他人の権利ばかりを守れと言われても反発して当たり前である。だからネトウヨの人が言っていることは正しいということになる。

さらに籠池理事長や日本会議が言っていることももっともだ。

自分を大切にするから自ずと相手のことも尊重するというのは西洋式の民主主義の基本になっている。これを天賦人権という。だがこの基本をすっ飛ばしたままで民主主義を受け入れているということは、GHQが天皇に変わる権威だから受け入れたということになってしまう。であれば、選挙という戦いに勝てば自分たちが作った権威の方が正しいということになる。現在の安倍政権は選挙で民主的に選ばれているのだからこれが最高権威なわけで、権威側について都合のよいルールを(自分たちが押し付けられたように)押し付けても構わないという図式がなりたつ。

民主主義を権威主義的に受け入れたという可能性を考えたことがなかったので、かなりショッキングだったが、これでいろいろなことに説明がついてしまうのも確かだ。憲法や平和主義も権威主義的に受け入れている可能性があり、憲法第9条が聖典のように扱われているというのも説明がつく。国連第一主義という権威主義の一種なのだろうということになってしまうが、小沢一郎のいうことなどを思い返すとそれも納得できる。アメリカ中心主義と違う基軸を作るのに国連を持ち出しているのだ。

普通の人は「学校で先生から民主主義だと習ったから民主主義を採用している」ということになる。であれば学校で教育勅語を習えば天皇のために死ぬことを選ぶということになる。権威をめぐる争いなので誰かが正しいということは誰かが間違いということになる。闘争であって議論ではないので、折り合うことなどありえない。

さらにショックなことに日本型民主主義が話し合いでなく、誰が多数派かということで決まってしまうというのも説明できてしまう。数が権威だと考えられているのだろう。

じゃああんたは自分を大切にしろと小学校で習ったのかと反論されそうだが、実は習った。ミッションスクールなので状況が特殊だ。キリスト教では人間は神様に許されて存在しているということになっている。神という概念が受け入れられなければ「自然があるから生きていられる」という理解でも構わないと思う。つまり神の恩寵があるから人間は存在していられるわけだ。同じように他人も神から許されて存在するので大切にしましょうということになる。

ただ、ミッションスクールは聖書の価値観を押し付けない。自発的に信仰心を持たなければ意味がないと考えるからだと思う。聖書研究みたいな課外授業もあるのだが、信徒になれとは言われない。同級生の中には神社の息子もいたので、信仰による差別もないはずだ。実際に特に洗礼を受けようという気にはならなかった。

自分を大切にしましょうと教える宗教はキリスト教だけではない。仏教でも「どんな人にも仏性(ぶっせいではなくぶっしょうと読む)がある」というような教え方をするはずで(調べてみると原始仏教にはなかった概念だそうだが)、仏性を個人から大衆に広げてゆくというような考え方があるはずだ。

このようにするするといろいろなことがわかってくるのだが、分からない点もある。日本人が自尊心を持たないという理論が正しければ日本人は他者に盲従して相手に常に従うはずである。だが実際にはそうなっておらずTwitterに人の話を聞く人はいない。あるいは他人が書いたことの筋を無視して自分のいいように勝手に解釈する人がとても多い。つまり、これほど自分好きな人たちもいないという印象がある。自尊心がないのにどうしてこれほどまでに自分好きなのか、それが何によって裏打ちされているのかがさっぱりわからないのだ。

いずれにせよ「自分を大切にしない」限り天賦人権が理解できるはずはないので、日本人には民主主義が理解できないことになる。接木をしたバラみたいなもので根元からノイバラのように出てくるのが、教育勅語に代表される権威主義的な考え方なのかもしれない。

もしこれが正しいとすると、自分自身で剪定はできないはずで、誰かに刈り取ってもらわなければならないということになる。つまり、西洋世界の指導と監視がないと世界で振る舞えないということで(国際村ではそれがルールだから従っておこうかくらいの気持ちなのかもしれない)、それがなくなれば民主主義は容易に崩壊するだろう。

ということでこれからも籠池理事長みたいな人は出てくるだろうし、日本会議が多数派工作をして、これといってやりたいことがない二世の政治家を担いで日本の民主主義を骨抜きにするということは起こるだろうという結論になる

籠池理事長に伝える教育勅語が悪い理由

籠池理事長がカメラの面前で「教育勅語がなぜ悪い」と開き直っていた。現代社会を生きる大人ならなぜ悪いかをきっちり説明できるべきだと思う。あなたは、なぜ教育勅語が良くないか説明できるだろうか。この際、戦後GHQが教育勅語を否定したとか憲法に違反するからという説明は脇においておく。憲法は人間が決めたものなのでいくらでも変えられるからだ。

籠池理事長によると教育勅語には12の徳目が並べられているそうである。この徳目は悪くない。問題はそれが安易に天皇崇拝につながる点である。親を敬いなさいというのは否定できないわけだが、天皇は親だとなり、だから親のために死ぬべきだとつながる。

だが、天皇が悪いというわけでは必ずしもない。

実際には教育勅語を持ち出す人は必ずしも天皇を崇拝しているわけではない。ここには隠れたもう一つの論理がある。彼らは「自分たちは天皇の代理だから自分たちのために命をかけなければならない」といっている。

戦前の軍隊は「天皇のために命をかけて戦え」と言いながら、実際には自分たちの失敗を糊塗するために多くの兵隊を見殺しにした。もし本当に「兄弟を大切にしなければならない」のなら多くの兵隊を餓死させることはなかったはずである。沖縄などはさらに悲惨で大本営の自己保身のために捨て石にされた。実際には準植民地のような扱いをされていたからだ。

なぜこのようなことが起こるのか。それは、大きなもののために身を捧げろといいながら、その大きなものを自分たちが勝手に決めているからである。自分がまず身を捧げるなどという人はまずいないのだ。

しかしこれ以上のことは西洋流の教育原理を見てみないと分からない。西洋流では自分の欲望は大切だと教わる。と同時に相手も自分と同じ欲望を持っている。自分も大切なのだから相手も大切であるとなる。そこで初めて相手への尊敬へとつながるのである。さらに協力し合うことでより大きな目標を達成することができるということになり、大義へとつながってゆく。

ここから分かるのは「自分を大切にすること」という概念で、これを自尊心と呼んでいる。健全な自尊心を持っているからこそ相手や社会を大切に思うことができるわけである。

ところが最初に教育勅語や大学を教えてしまうとこうした自尊心を育てる前に「大義のために身を捧げる」ことを覚える。そこで自己犠牲の精神を発揮すればよいのだがそうはならない。

普通の子供は、自分の意思が必ずしも社会に通らないことを学ぶ。自分も相手も一人の個であって等しく尊重されなければならないし、主張してみたところで実力が伴わないかもしれない。このようにして自分というものが形成される。これを仮に自我と呼んでおこう。

ところがいきなり大義に触れてしまうと自我を制限なしに肥大させることが可能になる。自分は省みられる価値もないつまらない存在だが、大義の代理人となることで相手を平伏させることができると考えてしまうのだ。肥大する自我の背景には自分のことが尊敬できないという気持ちがあるわけで、自尊心がないのに相手を尊敬できるはずなどないのだ。

いわゆるネトウヨという人たちが匿名で他人の権利を侵害したがるのはこの自尊心のなさの現われだといえるわけだが、籠池理事長の場合、経歴の「ちょっとした」変更や名前の変更にそれが現れている。大学卒の立派な学歴で県庁に就職できたにも関わらず、自分を大きく見せるために自治省出身だといっていたそうだ。これは自分ががんばったことを否定しているのと同じことなのだが、本人も周囲もそれをあまり分かっていないのだろうか。

籠池さんは、つまらない自分を大きく見せないと相手にしてもらえないと感じてしまったようなのだが、有力政治家の名前をちらつかせることで役人を平伏させることができたのだから、本来の自分自身として振舞うことなどできなくなってしまった点は理解できる。つまり、実力ではなく経歴や所属などの背景を重視する日本は自尊心が育ちにくい社会なのだろう。

その背景には「自分は大切なのですよ」とか「努力は尊いのですよ」ということを教わる機会を逸したまま、権威によって自我を膨らませてきた哀れな社会の姿があるように思える。

教育勅語を現代教育に取り入れたいと考える人は、その権威を背景に相手を平伏させることができるという見込みを持っているのだろう。だがそれは間違いなのではないだろうか。実際には、自尊心を持たないまま大義に触れて、自分を見せびらかしたり、相手を従わせようとする大人が増殖する可能性が高い。

複数の籠池さんが「俺こそが天皇の使いである」と言いながら罵り合っている姿を想像すると実感が得やすい。実際に高齢になっても平和への思いから突き動かされるように行動される天皇を尻目に、私利私欲のためにアフリカの難民の苦境や自衛隊の苦悩を省みない政治家を見ていると、実際にはもうそのような世界を生きているのかもしれないとさえ思うのだ。

 

若者はなぜ嘘をつくようになったのか

今回はよくあるバブル親父の若者バッシングなので気分を害する人は読まないほうがいいと思う。

マクドナルドのアルバイトは平気で嘘をつく

今月からdポイントが使えるようになったのでマクドナルドでポイントカードを使おうとした。ただしポイントが少し足りない。レジの子は「現金かポイントしか使えません」と言う。

もちろん100円のことなので出してもよいのだが「前回はポイントが足りない時だけ現金で補填できるとそこのおばさんに言われたよ」と言ってみた。実際にはポイントが足りない分の補填ができるのだが、バイトの子はそれを知らなかったのだ。

最近の子は「知らない」と言わずに「できない」という。だからこちら側に知識があるときには「それは違うのではないか」と指摘したほうが良い。バブル世代から見るとこれは「嘘」なのだが、この年代の人には悪びれた様子がない。

おじさんはなぜそれを嘘だと思うのか

おじさんがこれを嘘だと思って腹をたてる裏には「企業は全体として顧客に奉仕しているのであって、今対応している人はその代表者だ」という思い込みがある。一方、現在の労働者は「自分は時給で言われたことをやっているだけ」という気分があるのだろう。この差が非常に大きい。しかし、腹を立てたところでこれが現在の労働者(いわゆる若者)に通じるはずはない。

嘘の裏には何があるのか

どうしてこのようなことが起こるのだろうか。これを説明するのは少々難しい。短く言うと「成果だけを求められるのだが組織のサポートがない」状況にあり「自分のやったことが組織の評判に影響する」ことが実感できないからではないかと思う。つまり、かつてはそうではなかったのである。ただこれを言い立てても「俺の若い頃はなあ」的な話になってしまう。

バブルが崩壊して以降、人々は(労働者だけでなく学生も)有能であることを求められるようになった。基本的には選別型の「成果主義」で失敗が許されないからだ。さらに努力しないと脱落するという恐怖心も大きい。これがバブル期以前に育った人との決定的な違いだ。

つまりサポートもないのに有能さを求められるという状況に置かれている。そこで「学習」ができなくなってしまうのだ。つまりスキルがないというのは地頭が悪くて無能ということではなく必要な知識を身につけられないということなのである。知らないことはバカであると思い込んでしまうのだが、実際には学んでゆけば良い。これがわからないということになる。

人を育てている余裕がない

この背景には組織に人を育てる時間はなくなったという事情がありそうだ。バブル期以前に育った人を馬鹿にする風潮もあるのでわからないことを聞こうという気持ちになれない。バブル入社組が馬鹿にされるのは、彼らが大学でほんわかとした生活を送っていてもそこそこの企業に入れたからだ。その直後の就職氷河期には、留学して英語を身につけたのにそれでも採用されなかったというような人がゴロゴロいる。そこでバブル組は努力しないバカと思われるのだろう。

バブル入社組と呼ばれる人は上がつまっていたために人を育てる管理職経験ができなかった。余裕もないし、気持ちもないし、スキルもないという状況は、労働者ばかりが悪いというわけではないのだろう。

スキル信仰とドラマ

こうした状況をよく表しているのがドラマ『ドクターX』だ。組織に縛られずに生きてゆくためには超絶スキルを持っていなければならず、絶対に失敗もしない。そうでない人は組織に使い倒されて、バブル入社組のように上司にペコペコするだけの情けない組織人にならざるをえないという世界観である。だが、大門未知子がどうやって技能を習得したかということは語られない。どうやら組織からスキル教育されたという形跡がないということがわかるのみである。さらに大門未知子の口ぶりはかなり失礼なものだが、これは組織というものが基本的に自己保身だけを目的にした労働者には全く意味がない集団だという含みがある。

この前進になっているドラマは資格をたくさん持った篠原涼子(派遣社員でお時給の範囲でしか仕事をしないが、仕事内容だけは誰にも文句のつけようがないというキャラクターである)だ。彼女も組織を信じず、ある意味破綻した性格に描かれている。

両者に共通するのは、スキルは求められるがどうやって身につけて良いか組織が全く教えてくれないという世界だ。

根深い有能神話

こうしたキャラクターが受けるのは「有能神話」があるからなのだと思うのだが、実際の人はそれほど有能にはなれない。そこであたかも「自分が知っていることがすべてである」と言い張ることで有能さをアピールしてしまうのではないだろうか。

若者は嘘をつくが、こうした「嘘つき」はかなり蔓延している。最近のコールセンターは「私どもでサポートできるのはここまででございます」といって会話を打ち切ろうとする。あくまでも丁寧な口ぶりであり、さらにスキルを攻撃されることをとても嫌がる。自分たちに電話をしてくる客ではなかったと考えることで体面を守ろうとしているのではないかと考えられる。

ただ、この人たちが「親身になって客の話を聞き」「わからないことを聞く」社員(あるいは非正規労働者)になろうとしたら何が起こるだろうか。多分上席から「もっと効率よく接客しろ」と言われるかもしれないし「一度教えたはずなのに聞いていなかったのか」と責められるのではないだろうか。ひどい場合には契約打ち切りも覚悟しなければならないかもしれない。そもそも組織が成長しても労働者には何の得もないわけで、だったら自分のできる範囲で仕事をしたほうがよいというのは自然な成り行きだ。

組織は個人にスキルを与えてくれないし、育てる時間もないのだ。

有能神話が切り捨ててゆくもの

このように「労働者が間違えるのは自己責任だ」という論がまかり通っている。これはバブル世代が人の育て方を知らないし育てるつもりがないということであり、一概に「若者が悪い」とばかりは言い切れない。

一度言われたことができなかったということはよくあることで、何回か間違えながら育ってゆくというのが本来の姿だ。そもそもそうやって人を育てるのが組織だったはずである。一連の流れを通じて組織として知識が循環して育ってゆく。これが組織が学習するということである。人員に余裕があった時にはこうした輪が回っていたのだが、余裕がなくなるとこうした余裕は「無駄」として切り捨てられた。さらに正規社員と非正規社員の分断もあり、知識が流通しない学習ができない組織ができたものと考えられる。

労働者は今持っているスキルが100%だと思い込むことで何が起こるだろうか。これ以上成長することはできないということだ。今回体験した例では「若いアルバイトがおばちゃんに聞かない」という世界である。個人としての損失というのもあるだろうが、ロスはそれだけではない。

通常は黙っていても年に数パーセントは生産性が上がりGDPが成長してゆくそうなのだが、日本はそれが見られない。学者の中にも定説はないそうなのだが、組織が「必要な無駄」をなくしてしまったために、組織が全体で学習することができなくなってしまったことに原因があるのではないかと思う。

社会を全く信用しない社会

この有能神話はかなり浸透しているのではないだろうか。最近気になった(が、全く見なかった)ドラマに『嫌われる勇気」というものがある。アドラーは全くそんなことを言っていないはずなのだが「感情を遮断して社会と分離しないと目的を達成できない」という思い込みが、アドラー心理学をかなりゆがめている。しかし、このドラマのようにアドラー心理学をとった人は多いはずだし、だからこそドラマになったのだろう。

もはや組織のことを慮ってしまうと組織に取り殺されてしまうという思い込みがかなり定着しているのではないかと思う。

こうした気持ちは社会全体に蔓延している。<議論>と称して攻撃してくる人に「お前の知識は足りない」と罵倒する人を時々見かける。これは若者だけではなく、かなり年配の人にまで見られる傾向だ。社会全体が「知識不足を善導し」てゆけばまともな議論空間ができると思うのだが、基本的にすべての人は不愉快な競争相手にすぎないなので、協力して公共空間を作ろうという気分になれないのだろう。

さらには国のトップリーダーまでが破綻した論理を振りかざすような状況になっている。これで「社会を信頼しろ」などというのが無理な注文なのかもしれない。

奥野総一郎議員の辻立ち

愛生町の道端で民進党衆議院議員奥野総一郎さんが辻立ちしていた。先週も殿台のローソンの前で拝見したので多分週末にはやっているのだろう。こういうことでしか日本は変わらないんだろうなあと思いながら通り過ぎた。

この話、当初は「希望はないけど、だったら気持ちが大切なんだよな」という筋で話を考えていたのだが、一晩寝かせてみて「意外とチャンスなのでは」と考え直した。ポジティブなアイディアというのはとても重要なように思える。

さて、話を元に戻す。正直言って民進党には全く期待していない。信号待ちの間の一分くらいで聞いた内容は「明治期に戻って人に投資すべき」という内容だったのだが、ぱっとしない内容だ。民進党のこの「人に投資しろ」はその後消費税の増税議論につながる。しかも自分たちで言い出すつもりもなく自民党にやらせてがっかりした有権者の票をもらおうというさもしささえ感じさせる作戦なのだ。日教組がバックの議員もいるので、教育現場に利益誘導するつもりではなどと考えてしまう。

にも関わらずこの辻立ちがいいなと思ったのは、多分誰にも知られないような活動だからだ。多分、駅(田舎とはいえ、駅くらいはある)とかショッピングモールみたいなところで演説したほうが効率的なわけだし、場所を決めて予め告知するともっと集客ができるだろう。人気がある議員や著名人を呼んでくるという方法もある。

ではなぜそういう演説会がつまらないのか。それは「安部打倒デモ」みたいな内容になることが大いに予想されるからである。この「安倍倒せ」は一部では猛烈に盛り上がっているが一般的な広がりは一切ない。つまり、予めトピックを決めてしまうと、想定の範囲にしか話が広がらない。

であれば「国会議員なのに、こんなところにも来るんだ」という驚きがある。一回や二回では変わらないかもしれないのだが、続けているうちに少しづつ印象が変わるかもしれない。

今の民進党には「何も期待しない」という人が大半だろう。蓮舫代表になってから「民進党って口先だけだよね」感は増した。多分テレビ的なパフォーマンスはできるんだろうが、全く驚きがない。テレビ慣れしすぎた人を起用したのはよくなかった。「地道さ」とか「実直さ」は今の民進党にもっとも足りない資質だろう。

Twitterを使って民情を煽るという方法ももちろん考えられるし、これは有効に使ったほうがいい。しかしTwitterは破壊行為には向いているが建設的な議論はできない。それは人々が「予め想定された範囲」でしか発信もリアクションもしないからだ。

さて、ここまでが寝る前に考えた話の筋である。驚きと実直さのアピールからはじめるのがよいのではないかというものだ。しかし一晩寝て考えがちょっと変わった。

これに車載(自転車で回っているのだが)カメラとPCと通信装置をつければライブ配信ができるわけだ。これをYouTubeなどで流しておいて人を集めるという手があるよなと思ったのだ。国家議員YouTuberという人はいないと思うのだが、国会議員に言いたいことがあるやつはここに集まれなどとやれば、ライブイベントの出来上がりである。

この国会議員YouTuberのメリットは、今までにないアイディアや不満などが直接聴取できるというところだろう。民進党は「言いたいことだけいう」という一方通行的な政党なのだが、彼らがいうことを誰も聞いてくれないという状態にある。

Twitterに欠けているのは「話を聞いたり、読んだりしてくれる」受け手だ。辻立ちは人の話を聞くよいチャンスなのだが、単にのぼりをもって演説している人に話しかけるのはなかなかハードルが高い。ライブ配信はイベントとして楽しそうだし、話しかけるきっかけになるのではないか。

意外と地道で地味な活動が最先端に近いのだなあと妙に感心した。まあ、民進党の議員がやるかどうかはわからないが、街頭演説をやっている議員は多いので、そのうち誰かが始めるだろう。

 

もう着るものに迷わないシステムの構築

もともとは 「向こう一週間の最低気温が5度を超えたら植物を外に出す」というようなシステムを作りたかったのだが、ライブドアのAPIでは最低気温・最高気温も今日と明日のものしか分からない。そこで今日の気温をもとに何を着ればいいのかを薦めてくれるというシステムを作ることにした。

まず下準備として写真にコートやジャケットなどというタグ情報を追加しておく。気温が7度以下になったらコートを着るなどというように決めておくのだ。ポイントになるのは10度近辺だとコートもジャケットも着られるが、7度くらいになるとコートしか着られないというように条件が細かく変わる点だ。

次にライブドアのWeather Hackからお天気情報を引っ張ってくる。今回は千葉市(120010)を選んだ。リクエスト結果がJSONで戻ってくる。PHPの受け取りは意外と簡単でfile_get_content($url)で受け取り、エンコーディングを整えた(多分UTF-8なのでそのままでもよいと思うのだが)うえで、 json_decode($json,true)する。すると配列に情報が入るのであとはprint_rで中身を確認しつつ必要なデータを取り出すだけ。意外と簡単だ。

お天気情報配信はRSSが多いようでこれだと少し使いにくい。Yahoo! はこのタイプ。

さて、個人的に使うものを世界中に発信するわけにもいかないので、いつものようにログイン情報がないと「使えない」旨の表示を出す。ただしお天気情報そのものは商用利用しなければ使っていいですよという仕組みのようなのでそのまま表示する。

ログインすると写真が表示される。例えば気温が7度以上で10度未満だと、コートは表示されないがセーターとジャケットが表示されるようにする。if($max < 7){コート}elseif{ジャケットとセーター}のようになる。とても簡単。

気に入らないコーディネートが表示されたら、ボタンを押して別のイメージをランダムに表示する。データベースをもう一度読むことはなく、予め該当する写真のURLをブラウザ側で蓄積しておく。JavaScriptを利用している。

同じことを、ファッション雑誌でやろうとすると朝起きたときに雑誌をひっくり返して、好みのコーディネートを確認するということになり現実性がない。例によってスマホで見てみたのだが、お天気とコーディネートを一覧するのには明らかに不向きだった。ただ、画像そのものをボタンにするなど工夫をして、とりあえずコーディネートを表示するようなシステムを作ることは可能だ。

このようにファッション雑誌もオンライン化すれば工夫によって様々な再利用ができることがわかる。

やりたいことをやって他人に迷惑をかける人たち

つい最近「やりたいことをやったほうが世の中よくなるんじゃないか」というようなエントリーを何回か書いた。で、森友学園の件が騒がしくなり、ちょっと考え込んでしまった。やりたいことをやって「ああ、これなのか」と思ったからだ。

森友学園は「愛国ごっこ」がやりたかったらしいのだが、周囲にかなり迷惑をかけている。とりあえずほかに選択肢がない地域の子供たちに変な考えを吹き込んでいるらしいし、保護者の中には罵倒されたり辞めさせられたりした人もいるようだ。土地を格安で斡旋した政治家や役人の何人かも無傷ではすまないかもしれない。

森友学園はやりたいことをやった。だが、その中身はスカスカだった。「中国と韓国はけしからん」とか「子供のオムツがいつまでも取れないのは親が子供を甘やかすからだ」とか「コーラを飲むのは韓国人だ」みたいなことが政治的なメッセージだった。それを軍服や教育勅語で水増ししていた。

それだけでは飽き足らず、多くの人を巻き込んで、「憲法も変えなければダメだ」というような運動まで始めた。しかし、憲法を変えて何をしたかったんだろうということを改めて考えると、何もなかったんじゃないかと思えてくる。

森友学園の愛国教育は単なる戦前コスプレになっていた。これは出来が悪い二次創作である。二次創作が悪いとは思わないのだが、最近は二次創作でもそれなりの競争がある。読んでもらうためには中身を工夫しなければならない。続けてゆくには愛や研究心が必要だ。

森友の愛国コスプレとコミケの違いは何だろうか。例えて言えば、漫画が好きな子が「一番尊敬される漫画家って誰だろうか」と考えて手塚治虫のアトムのコスプレをしているうちに「俺は漫画がうまい」と思ってしまったということになる。そしてその漫画を読ませようとしたが誰も振り向いてくれないので誰も幼稚園を作らないような場所に幼稚園を作って観客を集めてアトムごっこをし、さらに自分の漫画が気に入らないやつを罵倒し、それには飽き足らず小学校まで作ろうとしたがお金がないので、政治家と役人を巻き込んで国の土地を安価で掠め取ったという図式だ。

これは観客にも問題があるだろう。コミケの客は目が肥えているのでつまらない同人誌は読んでもらえない。しかし「愛国」とか「二千六百年の歴史」というのには陶酔感があるわりに誰も原典を読んでいなかったのではないかと思える。

かつて保守を名乗るためには、少なくとも中国から入ってきた哲学体系などを学んだ上でそれなりの見識を持たなければならなかった。見識だけではダメで「行動」もそれなりのものでなければならなかった。儒教は形骸化した歴史があり「やはり実践が大切」ということになっているからだ。しかし、観客も含めてそうした研鑽を積んでいるような形跡はない。

安倍首相などが典型だろうが、この人もやりたいことがなく首相になってみんなからちやほやされたいということだけが行動原理になっている。政治には困った人を救うというような役割もあるのだが、政治そのものが自分の願望を充足させるための道具に過ぎないのでこうした人たちの声は聞こえない。

すべてをオリジナルで作ることなど不可能なので、二次創作はかまわないと思うのだが、それでも内面から出てくるものを加えてあげないと、自我が肥大して周りを巻き込んだ上で、周囲を混乱や不安に陥れたり、大きな間違いを犯す可能性があるということが分かる。

やりたいことは追求すべきだと思うのだが、心から好きだと思えるものじゃないと、このように壮大にやらかしてしまう可能性が強い。愛国はかなり毒性が強い。三島由紀夫は文学の世界では最高峰といえるような才能だったが、おもちゃの軍隊を作り、自衛隊で嘲笑された挙句自殺してしまった。

いずれにせよ今後、コミケで三年くらい修行したあとではないと「愛国者」と呼ばないようにしてはどうだろうか。国会でできの悪いコスプレを披露されては困るからだ。

安倍晋三の悪い友達と大阪の荒廃

昨日の国会は森友学園祭りだった。大阪に新しく作られるという「安倍晋三」小学校がかなりめちゃくちゃなことになっていたからだ。Twitterから流れてくる話をまじめに読んでいると気分が悪くなる。

政治家が介入しないとあんなに不自然な取引は行われないはずだという声があるのだが、もしかしたらそういう話でもないかもしれない。NHKは安倍首相が「勝手に名前を使われて迷惑している」と態度を表明してからおずおずとこの件について報道しはじめた。それまでは「森友学園は支持者だ」などと言っていたので「なんか触るとやばいんじゃないか」と考えて調査していなかったのだろう。NHKは報道機関という名前を広報機関に変更したほうがよいと思うが、直接働きかけを受けたというよりも「官邸に脅されたらやばいな」と思っていたのかもしれない。

つまり官邸は、普段からやくざまがいの恫喝を行っていたことがわかるのだが、「森友学園」という安倍首相のお友達もかなりのタマだったようだ。俺のバックには首相がいるんだぞと嘯(うそぶ)きながら、土地を借り、それを原資にして各種補助金を引き出していた。途中から「ごみが出てきている」と難癖をつけて安い価格で土地を買い叩いた。政治家の斡旋があったかどうかは各機関が調査すればいいと思うのだが、本当に斡旋はなく「やばい人みたいだけど首相ににらまれたら厄介だから」と考えて言いなりになった可能性もある。「もう土地は要らないから後から難癖をつけてこないでね」という契約になっているようだ。

森友学園は安倍首相のお友達だ。安倍さんがおなかを壊して首相を辞めてから年寄りしか読まない右翼系の雑誌で「安倍さんが悪いんじゃなく、安倍さんを否定した世間が悪いんだ」などと盛り上げていた。「見かけは不良なのだが実はいいやつ」という評価なのだろう。しかしやっていることは怪しかったので、自分は合おうとせず奥さんをお使いに出していた。最終的には「私は知りません」と言えるからだ。安倍さんの国会でのあわてぶりをみていると「予想はしていたんだろうなあ」と思えてくる。

しかし安倍首相の愉快なお友達は「ワシは安倍首相と友達やねんで」と雑誌などで吹聴し、寄付金を集めていた。民進党が調査したところでは、森友にはお金がなく、当局もそれを知っていたようだ。そもそも学校が作れるかどうかすら怪しい団体だったのだ。

このように学校を補助金ビジネスにしようとしていた森友だが、運営している幼稚園はさらにひどかった。教育勅語を暗唱させ……などと言われていたが、実際には「右翼コスプレ」だったようだ。天皇・皇后の写真がぞんざいに飾られていて敬意などなかったのではという記事があった。

また「中国韓国に謝罪させるぞ」と幼稚園児に宣言させる一方で、子供がトイレに行かせるのが面倒なので時間にならないとトイレにいかせなかったそうである。汚物に腹を立てて子供のバッグにお弁当箱と一緒に突っ込んでいたそうだ。さらに、汚染物質が出てくるといっていた土も「お金がないから」という理由で敷地に埋め戻していたそうである。子供が遊ぶ土地だからきれいにしてやろうという気持ちは一切なかったようだ。

つまり子供は彼らの政治的な主張を刷り込む道具であって、子供の世話なんかどうでもよかったということになる。

ではさぞかし複雑な政治的主張があるかといえばそういうわけでもない。「中国と韓国はダメ」というような全く中身がないもので、中には「コーラは韓国人が飲むものだからダメ」というようなものもあったようだ。この理屈だとアメリカ人は韓国人ということになってしまう。

つまり「現在の愛国主義者」というのは俺の言うことを聞かせるための道具として天皇の権威や子供を利用するだけの人ということになる。安倍首相はそういうやばい人たちを「でも俺のファンだからだなあ(永田町用語では「私の考え方に非常に共鳴している方」)」といって放置していた。いつもマスコミや役所を恫喝していたので「安倍のお友達」を放置していた。

さて、ここまでは「森友学園ってひどいね」という話だがもう一つ驚いたことがある。かなりひどいことが知られていた塚本幼稚園だが「淀川区にはほかに通わせる幼稚園がない」という理由で通わせていた親が一定数いたそうだ。市立幼稚園がない地域もあるという。

さすがに「幼稚園がまったくない区」というのは関東圏では考えられないような気がする。淀川区がどんな地域かは知らないが、よほどの貧困が進んでいるのだろう。維新の党は国会でも全く中身のない質問を繰り広げているが、経済が荒廃するとこういう人たちが沸いてくるのだ。

もともと大阪は政治に信頼感がなく昔からテレビタレントなどを市長や府知事にしていた。これが貧困を生み、貧困がさらに中身のない政治家を増殖させるという構図があるのかもしれない。これを「日本の大阪化」と呼びたい。

日本が大阪化すれば憲法レベルで森友学園みたいな存在を容認することになるかもしれない。当然子供は単なる道具のように使われることになる。国家レベルで推進しなければならない事業なんかあるわけはないので、国の私物化が始まるのだろう。

ヤマト運輸の人が楽になるかもしれない工夫

ヤマト運輸が「もうこれ以上荷物が運べません」と悲鳴を上げているらしい。Amazonなどの通販が発達したので業務が逼迫しているという事情があるのだろうが、再配達が減れば運転手の負担も軽減できるのではないかと思った。

事前に「いつ荷物が着くか」が分かれば再配達の手間は減らせる。

ヤマト運輸には荷物のトラッキングサービスがある。これを利用すればかなり細かく荷物の現在地が分かる。福岡から千葉まで荷物を送る場合、千葉に着いた時点で「大体何時ごろに到着するか」はわかるので、そのときに千葉の最寄営業所に「今日は午後でかける」などと言って置けば再配達の手間は減らせる。

精度は劣るが郵便局も同じようなトラッキングサービスをやっている。雑誌を注文したときに「今日は午前中はいるが、午後雨が降るのでどうしましょう」と相談したところ、午前中に手渡ししますと言ってくれた。ただし郵便局の場合、局の手元に届いてからではないと検索ができないようだったので、タイミングを図る必要はあるものと思われる。それでもこういうサービスをやってくれるのは、二度手間のほうが大変だからではないだろうか。

もちろん、電話で確認というような面倒な手段をとらなくても、オンラインで調整ができるサービスがある。ヤマト運輸はクロネコメンバーズというサービスを展開しており、ウェブ上から配送時間の変更もできるようだ。クロネコメンバーズは意外と使えるサービスで、送り状の発行やポイントシステムもあり使い勝手が良い。手書きが苦手な人は一回試してみてもよいのではないだろうか。

今のところ、受け取り手にはインセンティブがないので、配送日時を指定したらポイントを付加するなどのインセンティブをつけても良いかもしれない。再配達の手間が省ければ人件費が減らせるので、ポイントの原資にはなるのではないだろうか。

再配達を減らすためにはポストを作るなどの工夫もできるのだろうが、お金がかかることなので、なかなか一筋縄では行かないだろう。誰でもマメに到着日時をチェックするくらいのことはできるわけで、ちょっとした協力があれば少しは労働環境の改善につながるかもしれない。

通販のように自分で注文したものは番号が予め分かるわけだが、それ以外の品物がいつくるかは分からないわけで、品物を送る場合には予めトラッキングナンバーを相手に伝えてあげるのも手かもしれない。今そういうことをすると???みたいに思われるはずだが「荷物送りましたよ」コールをはやらせてもいいんじゃないだろうか。

巷では再配達にペナルティをとればいいんじゃないかという声もあるが、そうなると「じゃあ受け取らない」ということになりかねないわけで、それであればトラッキングに協力してくれた人にインセンティブを渡したほうがみんなハッピーになれる気がする。

好きなことをしよう

ということで、Twitterに渦巻く不満の1/10でも生産的な活動に充てれば日本はもっとよくなるだろうシリーズの最終回。今回は好きなことをしようというものだが、サブタイトルは「狭き門より入れ」だ。

これまでの考察をまとめる。経済が成長しない理由はいくつかあるのだが、経済が複雑になりすぎていることが要因の一つになっている。このため単純で簡単なソリューションが求められているのだが、それは今までの経済の延長線上にあるものではないだろう。

組織が大きくなるとオペレーションが複雑になるだけでなく、労働者がコントロールできる領域が減る。労働者は自分の興味のあることにしか一生懸命になれない。成長とは余剰の蓄積なので、自分のやりたいことを通してしか経済成長はできないということになる。やる気を外から操作することはできないし、できたとしても持ち出しになる。人が自治できるのは自分が影響を及ぼせる範囲だけなので、影響を及ぼせない範囲では努力を控えるか、あるいは奪い合いが始まることになるだろう。

つまり自分がコントロールできる範囲で「やりたいことを追求したほうが」みんなが幸せになれる可能性が高いということになる。いろいろ遠回りしたのだが、市場経済のもっとも基本的な価値観を再学習しただけなのかもしれない。自分が得意なことをやって、相手の得意なものと交換するというのが市場主義経済であり、これを国レベルまで拡張したのが自由貿易構想だ。

ところが、これがなかなか難しいのではないかと思う。

第一に日本人は自分の意見を持たない。自分の考えに固執せずに回りにあわせるほうがよいことが多い。例えば「あなたはどんな政治的な意見を持っていますか」といわれても「みんなが受け入れられるようなふわっとしたこと」しかいえない。そのため、そもそもやりたいことがないかあったとしても言語化できない人が多いはずだ。この現象は子供のころにはすでに始まっているらしい。日本人はSNSで創造的な発信が世界一低いという国際的な調査すらある。

次にやりたいことを実現するために必要なスキルがない人が多い。文章を書いたり、絵を描いたり、プログラミングをしたりなどするためにはある程度の技術の蓄積が必要だが、「嫌なことをこなせてこそ仕事でそれ以外は単なるお遊びに過ぎない」ということを言う人がおり、そういう人たちが暗黙のルール(文脈依存でしか使えないことも多い)を押し付けてくる。すると、やっていることがなんとなくつまらなくなってしまうのである。

これを超えても、誰か他人のために何かがしたくなる傾向がある。いわゆる「大義のために」何かがやりたくなるわけだ。この大義がなかなか厄介だ。自分の願望を混ぜ込んだ大義はたやすく暴走する。それぞれの道には伝統からくる自律性があるはずなのだが、伝統から切り離された大義はその自律性を欠いていることが多い。これを原理主義という。

まとめると、意識化・技術・自発性という3つもの関門をくぐる必要がある。その関門を越えてやっと、私はやりたいことがあるからあなたのやりたいことも協力してあげるというミューチュアル(お互い様)の関係ができるのだろう。

ということで、今一度「自分のやりたいことって何だろうか」ということを考えてみるのがよいのではないだろうか。議論がはじまるのはずっとその先だと思う。