フリーランスが協力するということ

不思議な文章を読んだ。ブログで食べている人がいたが、Googleでの検索順位が下がってしまって食べられなくなったという話だ。ブログはGoogleがつくったエコシステムにあるので、収益がGoogleに依存してしまうのだ。つまりブログで食べて行くのはリスクが高い生き方でありお勧めできないという結論になっていた。

確かにブログで文章を書いても大した収入が得られるわけではないし、Googleが作ったプラットフォームに依存していただけでは不安定だ。だから活動を何らかの形でリアルに結びつけることが必要だという結論は容易に得られる。だが、どうもそうはならずに「やっぱりやめておこう」というのは、やめる理由を探すのが得意な日本人らしいなと思った。

リアルに拡張する方法はいくつもある。例えば、ブログ発信のスキルがあれば、オンラインコミュニケーションのプラットフォームが作れるようになる。Wordpressを使う技術やサーバーの管理方法の基礎などが学べるからだ。

また別の何かを紹介するブログも作れる。例えばおもちゃのコレクションが好きな人はそれを成果物にしても良いのではないだろうか。収入が得られたら個人的な趣味の分野の資金に使える。サーバー費用+趣味の費用くらいだったらそれほど無理なハードルにはならないだろう。いきなり「生計を立てよう」とするととてつもなく高いハードルになるが、月にワンコインくらい稼ぐのは「なんとか頑張ればできる」範囲だろう。

た海外の人たちは自分の知識をためておいてレジュメ(職務経歴書)のようにして使っているようだ。日本では弁護士などが専門知識の解説をやっていることがあり、IT技術者が技術文書をまとめておくポータルサイトもある。ただ、日本の会社はジョブディスクリプションがはっきりしないことが多く、専門分野を持っていることが疎んじられたりすることはある。なおかつ会社が知識を持っているという意識が強いので会社が専門的な情報発信を嫌うのかもしれない。これは社員のネットワーキングを阻害し、知識の陳腐化を招く大変危険な行為だがなかなか気がつけないのだろう。

また、アメリカではフリーランスの労働人口が1/2に達するという統計もあり、専門知識を開示するニーズが高いのかもしれない。

ブログを書いている人とプラットフォームを提供しているGoogleやYouTubeはサプライヤーとバイヤーの関係にあるのだから、同じ分野の人たちと協力してより良いニッチを作ることも可能だ。お互いの文章を紹介しあったりするだけでもよいはずである。特に政治的なブログを書いている人たちは専門家を集めてネットワークを作り、お金を出し合ってディレクトリサービスを立ち上げたり、腐敗した政治家の調査を分担してまとまったレポートを書いたりできるはずである。

ところがいくつかの理由でこれは難しい。日本人のフリーランスはコンサルタント商売が多い。企業の下請けとして何でもやるが、自分では何も作れないという人たちだ。おのずからフリーライダー志向が強くなりボランタリーなネットワーキングを私物化したり、客を奪おうと考える人が増える。そこまでの悪意がなくても専門知識(デザインやプログラミングなどが多い)を無料でもらおうとする人も多く見かける。これは自分たちがそのような使われ方をしているからだろう。形にならないものはタダというもっとも悪い文化を継承しているのだ。

次に社会人的スキルがないことがある。いったんフリーとして成功してしまうと「俺は周りに気を使わなくても生きていけるのだ」というような気分になってしまうようだ。さらに成果主義にたいする間違った考え方があるので、アフィリエイト収入を自慢してみたり、企業で真面目に働いている人をバカにするような発言を目にすることも多い。フリーランスの専門職が当たり前のアメリカと違って、やはりフリーでも生きて行けるのは特別すごい人に違いないという思い込みがあるのかもしれない。個人の能力に対する過度な自信があると、確かに協力してニッチを作ろうという気持ちにはなれないかもしれない。

さらにパイが限られているという幻想もある。例えば総放送時間が限られているテレビで俳優がやてゆくためにはテレビ局に気に入られる必要があり、結果的に労働環境が悪化する。そこで組合を作ればよいのだが「非組合員が優先して使われるのではないか」という恐怖心からなかなか協力関係に踏み出せない。ネットには総放送時間の縛りはないはずなのだが、どうしても同じような発想から抜け出せないのかもしれない。

バブル崩壊の過程でITバブルが起きた時、パートナー企業やフリーランスが台頭するのではないかという期待があったが、それはうまく行かなかった。結果的に非正規雇用が発展し、企業は労働者を囲い込みつつ、必要がなくなったら切るというような雇用慣行が横行することになった。結果的には知識が停滞するという現象が起きており、経済自体が縮小を始めた。本来なら普通にやっていても少しづつは成長するはずなのだが(日本人は優秀なので先進国と同じレベルで成長しないはずはない)それが起こらない。そこで現実を見渡すと「疲れているからもうどうでもいいよ」という人たちを多く見かける。

つまり、組織に属さない人たちがどのように協力してゆくかというのは個人の問題だけではなく社会にとても大切なテーマなのだが、意外と見過ごされているのではないだろうか。

石原慎太郎氏をバカにすることは脳梗塞の方々をバカするということだという言説について思うこと

石原慎太郎氏が証人喚問された。冒頭に「脳梗塞を患っているから過去の記憶が曖昧である」というようなことをおっしゃった。その時「海馬が不調なので」というような説明をしていた。とても胸が痛んだ。

胸が痛んだのは海馬の働きを知っていたからだ。人は何かを体験すると情報が海馬にゆき、必要な情報を洗い出したあと、大脳新皮質でファイリングする。海馬は入力装置と記憶装置をつなぐ場所にある。だから海馬が壊れてしまうと新しいことが覚えられなくなるが、古い記憶は残る。ハードディスクは残っているので情報そのものは残っているからだ。なお、情報が残っているということと取り出せるかということは違うのだが、情報を取り出すのは海馬ではない。

ここから理屈ではなく即座に分かることは、石原さんが「知っている人が聞けばすぐに嘘と分かることを言っている」ということである。多分、自分の症状を医者から聞いてよく理解できていないのではないだろうか。字が書けないというのは本当かもしれない。すると、ファイルそのものが壊れているか、ファイルを取り出すところが壊れている可能性はある。しかしそれは「海馬」ではない。

ここからさらに、この人は自分にとって重要である症状についてさえ、科学的知識を理解しておらず、専門家(つまり医者)が言っていることもわからないということになる。従って豊洲問題についても核心部分については理解していないであろうという見込みが立つ。つまり専門家や市場長などが専門的なことを伝えても「右から左に聞き流して」いたんだろうなあということがわかってしまうのだ。彼にとって重要なのは土地の移動が子飼いの部下や協力者に何をもたらすかということだけなのだろう。

さらに胸が痛んだのは、かつては一世を風靡した作家が、その一番大切であるはずの言葉を歪めてまでいろいろなことを隠蔽しなければならなかったという点である。政治家でいるというのはそういうことなのかもしれないが、であったとしてもそれは隠し通して欲しかった。

確かに発語のしにくさはあるようで声が嗄れていた。歩き方が不自然だったという感想を持った方もいらっしゃったようだ。だから、石原さんが全く健康体と主張するつもりはない。ある程度の配慮が必要なことはいうまでもないだろう。そもそも先のエントリーで観察したように尋問する側も「グル」のようなので、尋問が儀式に終わることも容易に想像できてしまう。

石原さんはペラペラと過去の自分の業績を開陳していたのだが「自分に都合が良いことはよく覚えており」「都合の悪いことを合理的に判断して隠す」ほどの知性を維持していることは明らかだった。仮に記憶の一部が欠落してたとしても、記憶が選択的であるということを意味している。パリの街で誰と食事をしたかとか隅田川を誰と歩いたとか記憶はかなりのディテールを持っているようだ。つまり記憶の取り出し機能が障害しているというのもかなり疑わしいように思える。

つまり、質疑が進むにつれて「病気を利用したんだ」ということが明らかになってゆく。これは同じ症状に苦しむ方にとってはとても不誠実な態度と言えるのだが、そんなことにかまってはいられないほどの事情を抱えているのだろうということがうかがえる。

さらに小池百合子都知事を糾弾するためにいろいろな勉強をされたのだろう。これは新規記憶だから海馬に影響があるなら難しい作業だが、難なくこなしていた。

唯一「障害」を感じさせるのは、自分と意見の異なる相手の言っていることは全く理解できていないという様子を見せたところだ。複雑な文節は理解不能のようだ。だが、これは脳梗塞の影響ではなく、そもそも自分と異なる相手のいうことを聞けないのではないだろうか。相手の意見を聞いてこなかった人が老年になって相手を理解できなくなることは珍しくない。こういう人たちには特徴がある。相手から話を聞いたあとワンポーズあって、表情に「?マーク」が浮かび、自説を騰々と述べるということだ。つまり、人の話を聞いてこなかったので、相手の会話を理解する能力を失っているのか、そもそも相手を理解する共感能力を持ち合わせずそれを隠蔽する能力を失っているのだ。

ついには精神科医まで動員され「傲慢症候群」という診断さえ下されてしまった。

「自分の言いたいことだけを言いたい。都合の悪いことには答えたくない。批判は受けたくない。特権意識が強く、自分勝手です。石原さんは、イギリスの政治家で神経科医のデービッド・オーエン氏が『傲慢症候群』と名づけた典型のように見えます。権力の座に長くいるとなる人格障害の一種です」

ここからわかるのはかつて一世を風靡した作家が、ちやほやされた挙句に相手への共感能力を失い、身内においしい思いをさせるために無茶をした結果、世間から叩かれているという構図だ。確かに石原さんは自分たちの仲間のためにとても一生懸命に働いたのかもしれないのだが、その結果は都政に様々な混乱をもたらしている。

石原さんは右派のスターだったので擁護したい気持ちはわかるのだが、彼の「愛国」が実は単なる身びいきに過ぎなかったということを認めるべきだろう。さらに、時々自分と違う意見を聞いて理解する訓練をしないと、最終的には石原さんのようになってしまうということも記憶しておくべきかもしれない。

日常を演じる人たち

デフレが進むロードサイドがいやでたまらない……のだが

家の近所にショッピングセンターがある。GUとハードオフと100円ショップがメインの典型的なロードサイドだ。常々「都心のおしゃれなところに行きたいなあ」とか「デフレ嫌だなあ」などと不満に思っている。ファミリー層がメインであり、当然なんとなく都心に出るのではない普段着のスタイルの人が多い。東京が羨ましいとまでは言わないが、美浜区いいなあ位は思う。

なんとなく変な日常

コンビニという名のコンビニの前に咲く早咲きの桜

早咲きの桜が咲き始めた暖かい三連休ということもあり、中央部にあるガーデニングショップでイベントをやっている。ピザとかマフィンなどの屋台が並び、家族連れが来ていた。その様子をなんとなく眺めていて、あることに気がついた。

ファミリー層に帽子着用率が高い。ぷらっと買い物に行くのに帽子を着用することなどないわけで「見られることを意識しているんだなあ」と思った。子供を撮影するカメラが一眼レフだったりもする。報道の人みたいだ。で、認識が180度変わってしまった。彼らは都市のアクターとして見られることを意識した上でわざとリラックスした格好をしているのではないかと思ったのだ。つまり、ゆるい日常がトレンドなのだ。

情報発信されることを意識した店が増えている

このガーデニングショップはちょっと変わっていてスマホで店内を撮影していいことになっておりインスタ映えする植物が飾られていたりする。右にある花の寄せ上は特に見るべきところがなく「花がたくさん咲いているね」くらいで終わりそうだが、実は中央に植わっている葉っぱが高い。ガーデニング好きはこれをみて「うわーいいなあ」などと思ったりするのだ。

つまり「見られることを意識する」作りになっているわけだ。そこに見られることを意識した客がやってきて子供を遊ばせることになる。いわゆる「顕示行動」だが、それはとてもさりげない。SNSが発展し「見られること」が一般化してきているのだが、その中でさりげなさを演じるという組み立てになっている。昔のトレンディードラマの主人公が「ナチュラルな演技」をしていたのと同じことが郊外のショッピングモールで起きているともいえる。つまり、店は品物を提供しているわけではない。これらは単に舞台装置に過ぎないのである。

本当の日常は緊張に満ちている

なぜ彼らはリラックスした格好をしたがるのかということはすぐにわかった。帰ってきてTwitterをチェックすると安倍政権打倒のツイートが途切れることなく流れてくる。ワイドショーは森友ネタで埋め尽くされる。知らず知らずのうちにかなり緊張した毎日を送っていることが分かる。トレンドは一般層とは違う方向を目指すのだから、当然普段通りの暮らしとか、リラックスして緊張がない状態というのが嗜好されることになる。

トレンドと非トレンドの逆転現象

バブル世代にとって「おしゃれをする」というのはちょっと頑張って私鉄に乗って渋谷あたりに繰り出すことを意味した。住んでいる地域では浮いてしまいそうな「ちょっと頑張った格好」をすることがおしゃれなのである。これを「格上げ」などと言ったりする。そういう頭があるので「ファッション=頑張ること」になりがちで、個人的にも「ああ、リラックスがトレンドなのかあ」と思うまで、その図式を疑うことはなかった。

しばらく観察していたのだが、体型が崩れていたり、ポイントがなくだらしなく着こなしている人もいる。つまり汚く見えないようにリラックスした格好をするのは実はかなり難しい。そもそも普段考えるおしゃれとベクトルが180度真逆なので、どうしていいのかが全くわからない。つまりリラックスして「気を使ってませんよ」という格好をするのはかなり難しいのだ。そのちょっとした差異に使われるのが帽子なのかもしれない。

ここから類推するとあからさまな「トレンド」は忌避される傾向にあるのではないだろうか。つまり、足が長く見えるとかモテるいう触れ込みのデニムなどは好まれそうもない。一番トレンドと離れたところにあるとさえ言えるのかもしれない。かといって古着屋で安い服を寄せ集めましたなどというスタイルは嫌われるだろう。実際にここから程近いホームセンターはそういう人たち(主に高齢者だが)であふれている。

普段から青山や銀座あたりで生活して、トレンドを扱っている人たちは「普通の人たちはトレンドには興味がないのではないか」などと思うかもしれない。だが、それは必ずしも正しくないかもしれない。憧れのために一歩格上げすること自体がダサいのだ。

体験というよりは演技に近いのかもしれない

こうした行為は体験型として一括りにすることができるのだが、一つだけ違いがある。それは誰かに見られることを意識しているという点だ。仲間内のおしゃべりが楽しいわけではなく、それを誰かに見て欲しいのである。

それは、おしゃれな屋台などで食べ物を買って愛らしい子どもと芝生で食べるというような体験だ。もしそうだとすると、いろいろなものを提案しても「ふーん」と思われるだけで見向きもされないだろう。

植物そのものが欲しいならずっと安いものがホームセンターで買える。そうしたところには高齢者が押し寄せて値段を厳しく吟味して買い物をしてゆく。戦後のもののない時代から急速にものが満たされてゆくという経験をした人たちである。彼らにとって劇場体験というと海外旅行だ。ちょっと無理をして非日常空間を味わい、お土産と一緒に写真を渡すというような行動である。

こうした人たちは「世の中ユニクロとニトリばかりになってものが売れなくなった」と嘆いている。実際には「何を買うか」ではなく「何をするか」ということに視点は移っているのかもしれない。いわゆる産業のサービス化だが、サービスを受けるというよりは日常を演じる演劇に近い。

企画書を書く人こそTwitterをオフにしてリラックスを求めて街に出るべきなのかもしれないと思った。一生懸命ものやサービスを押し付けると消費者は逃げてゆくだろう。消費者ではなくアクターだと再定義した上で、舞台を整えて脚本を書いてあげるのはどうだろうか。

菅野完氏はなぜうさんくさいジャーナリストと呼ばれるのか

立派なジャーナリストの田崎史郎さんがさまざまなワイドショーで菅野さんのことを「あの人の信頼性は……」と揶揄している。田崎さんは安倍さんの寿司トモとして知られており、安倍さんをかばっていることはかなり明白である。だが、報道機関の出身なので立派なジャーナリストとして通る。だが今日は田崎史郎さんのうさんくささではなく、菅野さんのうさんくさについて考えたい。

菅野さんは自分で情報の入手過程などを実況している。普通のジャーナリストは情報の入手過程をつまびらかにすることはなく、あくまでも第三者的な立場で情報の信頼性を確保する。「伝える側」と「伝えられる側」の間に線を引いているのだ。線が引けるのはジャーナリストの生活が確保されているからだろう。ジャーナリストは専業でやってゆけるから、政治のような面倒なことに関わらなくても済む。

菅野さんが自身をどう定義付けているのかはわからないのだが、政権の存続に関わるようになったので自動的にジャーナリストという文脈で語られることになった。しかし、彼は客観的な伝え手ではなく、信条がありアクターという側面も持っている。故に「伝える」役割のジャーナリストの範疇には入らない。これが、伝統的なジャーナリストである田崎さんから見て菅野さんが「うさんくさく」見える原因だ。もちろん、見ている我々も「菅野さんは嘘をついているかもしれない」と思う。それは菅野さんが客観的な語り手ではなく、意図を持っているからである。可能性としては嘘をつく動機がある。

さて、ここで疑問が湧く。田崎さんは報道機関出身という肩書きを持っており「解説」という立場から第三者的なコメントができるキャリアがある。ではなぜ一線を踏み越えて安倍首相のエージェントとして機能しなければならないのかという疑問だ。

なぜこうなってしまったのかと考えるのは興味深い。報道機関の収入源が先細りリタイア後の収入が確保できなくなってしまったのではないかと考えた。同じことは東京新聞内で闘争を繰り広げられる長谷川氏にも言える。自分のポジションを持って組織と対立している。これは組織を忖度する日本社会ではなかなか考えられないことである。

はっきりとはわからないものの、デフレがジャーナリストをアクターにしてしまっているのではないかと考えられる。裏で政権と繋がっていると噂されるマスコミの実力者は多いが、表舞台にしゃしゃり出てくることはなかった。NHKなどは政権との影響が出るのを恐れてか、同じく寿司トモの島田敏男解説委員を日曜討論の政治の回から外しているようだ。

つまり「うさんくさいジャーナリスト」が出てくる裏には、ジャーナリズムの弱体化があると考えてよく、フリーランス化という背景があるのではないかと思えてくる。つまり(たいていの二極化と同じように)これも同じ現象の表と裏なのだ。

だが、こうした動きは他でも起きている。それがYouTuberの台頭だ。もともとブログライターは顔出しせずに記事を書いていたが、最近ではブログライターさえ「タレント化」することが求められているようだ。切り込み隊長のように本当にタレントになった挙句にネタになってしまうこともある。スタティックな文章ではなく動画の方が好まれるのだ。その内容を見てみるとバラエティー番組にもできそうにないような身近なネタが多い。

テレビ局はYouTubeコンテンツをバラエティの出来損ないだと考えるのだろうし、YouTuberたちはタレントになれなかった胡散臭い人たちに思えるかもしれない。しかし、小学生くらいになるとバラエティ番組は退屈で見ていられないと考えるようだ。彼らにとってはスタジオで制作されるのは退屈な作り物で、番組ができるところまでを含めてリアルで見ていたいのだろう。また視聴者のフィードバックが番組に影響を与えることもある。つまり視聴者も制作スタッフ化している。

「既存の番組がくだらなくなったからYouTubeが受けるんだ」という見方もできるわけだが、視聴者の習熟度が上がり、なおかつインタラクティビティが増したからこそ、新しい形態のタレントが生まれ、今までジャーナリストとみなされなかった人が政権に影響を与えるようなことすら起きていると考えることもできる。視聴者が生産技術(安価なビデオカメラや映像編集機材)を持つことで、世代交代が広がっているのである。イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)で書かれたことが現実に起きているわけだが、日本では組織的なイノベーションが起きないという思い込みがある。意外と何が創造的破壊なのかというのはわかりにくいように思える。

つまりうさんくさいのではなく次世代なのである。これは映画から見てテレビがうさんくさかったのとおなじような見え方なのだろう。田崎史郎さんは伝統的なやり方で「大きな組織」を頼ってフリーランス化したのだが、別のやり方でフリーランス化した人もいるということなんだろう。

ただし、菅野さんの存在が無条件に賞賛されるということもないだろう。新しい形態は倫理的な問題を抱えてもブレーキが効かない。YouTubeでは著作権を無視してネットを炎上させたり、おでんに指を突っ込んで訴えられるというような事例が出ている。報道に必要な基本的な知識がないわけだから、これも当然と言える。

常々、日本人は変化を拒んでいると書いているのだが、変化は意外なところで起きているのかもしれない。

森友事件と政権の死 – 日本型組織は誰が動かしているか

昨日は森友学園問題でワイドショーは1日大にぎわいだった。「安倍を倒せ」と息巻く人も多かった。これだけ盛り上がった背景には安倍政権を取り巻くもやもやとした雰囲気があるのだろう。ドラマが盛り上がるためにはその前段にもやもやがなければならない。

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菅野完さんに学ぶ「人を動かす」方法

菅野完さんがワイドショーの主役になった。事件そのものは冷静に考えると今後どう転ぶかはわからないのだが、フリーランスとして幾つか学べる点があるなと思った。一番印象に残ったのは「人を動かす」手法である。

「人を動かす」は、戦前に書かれて高度経済成長期にベストセラーになった本だ。今でも文庫版(人を動かす 文庫版)で読むことができる。肝になっているのは「相手のほしいものを与えてやる」ことで影響力を与えることだ。盗人にさえもそれなりの理があり、話を聞いてやるだけでなく相手に必要なものを与えることが重要であるということが語られる。作者のデール・カーネギーは貧しい農家に生まれ、紆余曲折を経てコーチングの講師として成功した。

古い本なので複雑な現代社会には有効でないと思いがちなのだが、意外と現在でも通用するようだ。多くの人が(マスコミによると怪しいジャーナリスト・ノンフィクションライターであるところの)菅野さんの主張に動かされて右往左往している。

人を動かすというと相手を説得したり強制したりすることを思い浮かべる。自民党の右派にはこうした考え方を持つ人が多いようで、憲法に国民を訓示する要素を加えたいなどと真顔で語る人もいる。他人に影響力を与えたいから政治家になるのだ。だがカーネギーは「相手を変えることはできない」という。変えられるのは自分だけだという主張だ。

菅野さんは立場としては籠池さんを追い詰める側にいたのだが、インサイダーになって話を聞く方が自分の仕事に有利だと思ったのだろう。そこで取った行動は「相手にじっくりと話を聞く」というものだった。つまり、自分の欲しいものを手に入れるために、自分を変えて相手が欲しているものを与えたのだ。それが結果的に籠池理事長の信頼を得ることになる。

これはなんでもないことのように思えるのだがマスコミから悪者として追いかけ回されて、細かい話のつじつまを突かれることに辟易していた籠池理事長がもっとも欲しがっているものだったのだろう。だから数日で籠池さん一家の「籠絡」に成功してしまった。

もう一つのポイントは、多分菅野さんがお金儲けを目的にしていたことではないだろうか。ご本人も含めて「政府に狙われる可能性があり危険でリスクがあるから儲けにはならない」と否定されるかもしれないしwikipediaを読むと政治運動に傾倒しているようだが、実際の菅野さんには(本人の自覚はともかく)政治的なこだわりはなさそうだ。左右の振れ幅が大きい。

実はこれが良かったのではないかと思う。大義や信条にとらわれてしまうと「敵か味方か」に分かれてしまうことが多い。すると、自分の考えや立場に固執して自分を変えることができなくなってしまう。相手を動かすためにはこれは有利ではないのかもしれない。

菅野さんにはこのような「守るべきポジション」がなく、相手に合わせて変わることができたようだ。つまり政治的信条ではなくお金儲け(あるいは生きてゆくこと)にフォーカスしているからこそ、柔軟な態度を取ることができた。

もちろん、籠池・菅野両氏が嘘をついているかもしれないし、今後「証拠が出てこない」ことで両者が嘘つきとしてワイドショーで消費されてしまう可能性はある。さらにあまり好ましくない行状もTwitterでは指摘もなされている。つまり、人格的に信頼できるかということは全く未知数だ。だからといって人に影響力を与えるという菅野さんの技術が無効ということにはならない。学べるところは学ぶべきだろう。

菅野氏は単なるお人好しではなく「ティザー」という手法を使うことでマスコミやTwitterの耳目を集めることに成功している。情報を一元管理して小出しにすることで期待感を煽って注意を引きつけるという手法を使っている。これがティザー(じらし)だ。なんとなく調べ物をすると「知っていること」や「考えたこと」などを全部言ってしまいたい衝動にかられるから、情報発信者がティザー手法を使うのはなかなか難しいことなのではないかと思う。だが人々は隠されるとより知りたくなる。ポジションや組織がない人は相手が何を欲しがるのかを知っている必要があるが、情報をを全部出してはいけないのだ

さらに菅野さんはマスコミを分断することに成功した。NHKにだけ情報を与えたといい横並びで情報を欲しがるマスコミに「いい子にしていたらあなたにだけ情報をあげますよ」と言っている。すると相手は競って言うことをきくようになるかもしれない。分断するだけでなく餌をもらうにはどうしたらいいかという条件を提示しているのだ

さらに情報ソースは1つしかないにもかかわらず、事前に聞いたことを小出しにしてあとで本人から語らせることによって、あたかも複数ソースから情報が出たように見せかけている。いろいろなところで情報を聞くと「第三者に裏打ちされている」ような印象が残るので信頼性が増すわけだが、実際には一人の話を聞いているだけな。籠池理事長は当初「言うことは全部言ってしまいたい」と思っていたのだろうが、それだと反発されるだけなので「言わない」ことを決めたのだろう。すると不思議と人は聞きたくなってしまう。籠池理事長もまた変わることで相手に影響を与える方法を学んでいるのかもしれない。

さらに貧しいライターがやっとありついたネタを(淀川を電車で渡るお金がなく十三大橋を歩いたそうだ)高給取りだか何もしないマスコミに手柄を横取りされかけているというストーリーを作ることで同情を引きつけるような演出も行っている。田崎史郎氏が早速「菅野さんは信頼できない」という発言をしていたが、これは却って菅野さんの同情論につながった。マスコミは明らかに劣位におり菅野さんから情報をもらいたがっている。菅野さんは勝っているのだがそこでガッツポーズをしてはいけないのである。

このように幾つかのテクニックは使っていらっしゃるようだが、かといって「人に影響力を与える」という手法の技術と価値が失われるわけではない。組織の裏打ちを持たない人は、菅野さんの手法に学ぶべきだろう。

相手が欲しいものにフォーカスするのは重要らしい。個人的には、このところ特に自分が書いたものに関して、相手の言うことを聞かないで言いたいことばかりを押し付けがちだったなあと大いに反省した。実はみんな作者の言いたいことには関心がなく、それをどう読んだかということを伝えたいと思っているだけなのだ。多分、自分が書いたものでさえ自分のものであり、読みたいと思った相手の動機がすべてなのだろう。

政治的議論がTwitterで成熟しないわけ

最近、ちょっとうんざりするような出来事があった。頂いたコメントをこちらが勘違いしたようなのだが、ダイレクトメッセージで縷々「私が言ったことと違う」ということをつづられた。確かに間違えたのはこちらが悪かったのかもしれないのだが、記録として出したいと申し出ると「もう、心理的にしんどいから嫌だ」となった。

ブログは活字のように見えてしまうので、議論の結果を残すのは「最終的な結論や事実ではなく、途中結果なのですよ」ということを示したいという意図がある。そういう作業をしておかないと、ここに書いてあることを鵜呑みにする人が出てくる。だが、これを申し出るときに「典型的な日本人は受けてくれないだろうなあ」と思っていた。案の定そうなったのでちょっとうんざりしたのだ。

なぜ、公開で意見を表明するのがしんどいのかということを取材するいい機会かなあと思ったのだが、それを普通の日本人に考えさせるのは不可能だろうとも思った。そこで勝手に想像するしかない。理由を三つ考えた。

第一の理由は日本人が異質なものに囲まれた経験がなく、他人に自分を分からせるという経験してこなかったことが挙げられる。さらに同調圧力が強く「同じ」であることが暗黙の前提になっている。つまりそもそも自分と完全に考えが一致しない人と接するのが苦手なのだ。

第二の理由は個人が持っている「見られたい自分像」がある。たいていの人は「周りに合わせる調和的な自分」が美しいと考えており、反論することで「反抗的だ」という印象を与えることを極端に嫌う。反抗的だと思われないにしても「言い出したんだからあなたが責任を取ってね」といわれるのが嫌なのだろう。このように「言っていること」よりも「誰が言ったか」という文脈が大切な文化でありなおかつ「誰も言わないのにそうなった」ということが好まれるので反論がしづらいのだ。

最後の理由は文脈だ。Twitterは多くの人が読んでおりどう解釈されるか分からない。これがもう一つの文脈である。なので「大切になればなるほど」「自分の人格の確信に近ければ近いほど」非公開の議論を求める傾向がある。ある意味告白に近いので「完璧に全く誤解がないように」伝えなければという気持ちになり、何回も推敲を重ねた挙句「やっぱり理解されないかもしれない」となってしまうのではないだろうか。

つまり事実を取り扱えない文脈依存と同質性のおかげで自分の意見が言えない。そこで「とてもしんどい」ということになってしまうのだろう。

ここまで「普通の日本人は」と書いてきた。ずいぶんと鼻に付く表現なのだがこれには理由がある。過去に付き合った日本人の中にも自分をうまく伝えられる人たちがいる。彼らの特徴は外国文化(といっても主にアメリカ文化になってしまうのだが)に接したことがあるという点である。だが、中国人やインド人のエンジニアにもある傾向なので、外国文化を知っていると、他人に自分を伝える技術を身に付けられるのではないかと思う。これを「アサーティブネス」と言っている。

アサーティブジャパンは、アサーティブとは自己主張を意味するが、自分の意見を押し通すことではないと説明している。日本語の訳語はないようだ。つまりわがままにならない自己主張だ。

海外経験のないビジネスマンでも、プレゼンテーションを担う企画職がアサーティブさを持っている場合がある。プレゼンターは自分たちのサービスを知らない相手に売り込むというミッションがあるので「相手にわからせる」訓練が行われるのではないかと考えることができる。

つまり日本人も自己主張ができるようになるということだ。日本人が自分を分からせる技術を持たないのは、単に家庭や学校で習わず職業的にも訓練されないからに過ぎないのではないだろうか。

誰もがアサーティブさを習うべきだとは思わないのだが、少なくとも誰かの意見を読んでそれが100%自分と同じだと思い込まないほうが良いと思うし、だれかが全くの誤読なしに自分の意見を受け入れてくれるとは思わないほうがよい。「それが自分と必ずしも同じではない」と分かると心理的なしんどさが生まれてストレスになるからである。だが、自分と全く同じ考えを持った人などいないわけで、そもそも誤読される可能性を前提に何かを言うべきだということになる。

さてTwitterで議論がかみ合わないことが多いのは、そもそも同質でない上に、異質なものと情報交換したり議論ができないことによるのかもしれない。日本人は公共空間では極力他人を当てにしないで生きている。これは異質なものとうまくやってゆく訓練を一切受けずに街を歩くからだろう。例えばコンビニでドアを開けると嫌な顔をされることが多い。それは「私にかまうな」ということである。異質なものはすべて敵なのでちょっとした親切も受けられないのだ。だが、Twitterはたまたまパーソナルなスマホ空間でやり取りされることが多いのでパーソナル空間に他者が土足で踏み込んでくるというような経験になるのではないだろうか。そこに不快さが生まれる。

さて現在日本には右と左という2つの極端な政治的流派があるとされているのだが、実は同質なのではないかと思うことがある。どちらも自分の中にある考えをまとめて他人に説明することができない。そこに不愉快な他者が入り込み「しんどくて不安」な気分になる。一方、不愉快な他人を排除したいという気持ちはみんなが共通で持っているので、敵を設定して争っている限りは同調圧力のない一体感を感じることができるのではないだろうか。

もっとも、アサーティブさというのは現在足りていない技術なので、ここをうまく突けば需要のある文章が書けるなあとは思う。実際に大衆扇動家というのはこのあたりの技術に長けているのではないだろうか。

NHKはどのような気持ちで連合の猿芝居を伝えたのか

NHKがひどいニュースを伝えていた。印象として思ったのはNHKスタッフが抱えているだろう無力感だ。

ニュースは安倍首相の力強いリーダーシップを讃える内容である。面子にこだわる経団連は繁忙期の労働時間100時間を基準にするという表現にこだわっていた。一方、連合は100時間未満にするという表現を主張した。そこで力強い領導様である我らが安倍首相が調停なさり連合の主張を支持なさったというのだ。

実はこの話いくつもの食い違いがある。連合が勝ったということになっているのだが、連合の代表は「100時間が目安になるのは困る」と言っているだけで実際は押し切られている。本来は労働者がすり減ってしまわないもっと短い時間を主張すべきだったのだが、それをやらずに(あるいはできずに)経営者と政府に押し切られてしまったのである。つまり連合は交渉に負けてしまったのである。これで民進党は100時間には反対できないので、高橋まつりさんを例に挙げて政府の無策を追求することもできなくなる。つまり民進党も負けた。

経営者は勝った側なのだが相撲と同じようにガッツポーズはしない。神妙な顔で「持ち帰ります」と言った。彼らは交渉には勝ったのだが「労働者を使い倒す以外に有効な経営手法を知らない」と言っているだけなので、経営者としては負けているというか終わっている。これは栄光ある大日本帝国陸軍が兵站は維持できないので兵士は飢えて死ぬだけだが戦線は維持できていると言っているのと同じことなのである。

さらにNHKも嘘をついている。ロイターは次のように伝えている。

[東京 13日 ロイター] – 政府が導入を検討する残業時間の上限規制を巡る経団連と連合の交渉が100時間を基準とすることで決着したことについて、安倍晋三首相は13日、「画期的」と評価した。

また安倍首相は「100時間を基準としつつ、なるべく100時間未満とするようお願いした」ことを明らかにした。

実は安倍首相は100時間を基準にと経団連を支持しており「なるべく〜お願いした」だけで決めすらなしなかった。時事通信はもっとめちゃくちゃなことになっている。首相の裁定を強調しつつ、結果は「玉虫色」と認めている。つまり政権が事実上過労死ラインを許容しているのだ。

つまり、この交渉は安倍首相のいうように「画期的」なものではない。誰も勝った人がいないだけでなく、伝えた人まで負け組になるというひどい内容だった。

しかし、NHKは「俺たちは報道機関だ」という気持ちが残っていたのだろう。過労死した家族の声を複数伝えて「到底納得できない」と言う声を伝えている。NHKはエリートなので今の地位を失うわけに行かず、したがって偉大な領導様のよき宣伝機関でいなければならない。そこで、過労死の犠牲者を表に出しておずおずと抵抗して見せたのだろう。

このようにこのニュースは受け手のリテラシーによってどのようにも取れるようになっている。つまり、騙されたい人は安倍首相の力強いリーダーシップを信じられるいうになっているし、そうでない人はそれなりの見方ができる。さらに複数ソースに当たれる人はそもそもこれが事実を調理したフェイクニュースだということがわかるのだ。フェイクと言うのが屈辱にあたるとすれば元の料理を子供の口にもあうように仕上げたインスタント食品と言って良いかもしれない。

NHKは主な受け手が子供ニュースすら理解に苦しむリテラシーしか持っていないことを知っていながら「隠れたメッセージ」を受け取ってくれることを祈っているように思える。

日本のマスコミってジャーナリズムの歴史とか教えないんだろうかという話

不思議なコラムを読んだ。長谷川幸洋さんという自称ジャーナリストさんが怒っている。どうも会社ともめているらしい。だがこれを読んでもさっぱり意味がわからない。いろいろ考えているうちに2つ不思議な点が浮かんだ。東京新聞ってジャーナリズムの基本的な歴史を社員に教えないんだなという感想を持ったという点と、日本の組織らしく職掌の文章化がされていないんだなという感想だ。

まず疑問に思ったのは東京新聞では一記者が会社を批判する記事を書いてそれが掲載されなかった時に「言論の自由」を盾にして掲載を迫る文化があるのかという点だ。もちろん内部での議論はするだろうが最終的には責任のある人が決めるのではないだろうか。そもそも紙面が限られているのですべての意見は載せられない。

もし記者がジャーナリストの良心として会社の方針に従いたくない場合には自分で発言の場を作るべきかもしれないし、そもそも新聞は記者の意見を発表する場所ですらない。新聞は経営的な判断から新聞の論調を決めなければならない。東京新聞のような後発は既存の新聞が持っていないニッチを探さざるをえないのでその傾向は強いだろう。

すると長谷川さんの特異性が浮かび上がってくる。論説委員という特殊な立場なので個人名で発言ができ、かつ新聞の論調を形作ることができる。さらに外部にも発言の場を持っており東京新聞の名前を使って個人的に収入が得られるはずだ。これらは特権的な地位と言える。そしてそれは個人の言論の自由の範囲を超えて東京新聞という組織を前提にしている。人々が長谷川さんの話に耳を傾けるのは「この人が東京新聞の論調を作っていて影響力がある人なのだな」と思うからだ。

もちろん社外でのプレゼンスを作ったのは長谷川さん個人の努力なのだろうから、それは最大限尊敬されるべきかもしれない。東京新聞が長谷川さんに社の名前を使うことを許しているのは東京新聞の宣伝になるからであろう。ゆえに長谷川さんが東京新聞の想定する読者が気に入らないことを言って東京新聞の商業的価値を毀損しようとした場合、新聞社はそれを差し止める権利は持っているはずである。

もちろん東京新聞が想定する読者を変えることもできるわけだが、それは内部で議論すればいい話であって、読者には関係がない。ここで「俺が正しい」とか「俺は正しくない」という価値判断が持ち込まれても外からは判断のしようがない。読者は「好きか嫌いか」しか言えないだろう。もちろんなんらかのイシューがあり、それが合理的かそうでないかということなら判断ができるわけだが、沖縄に基地を作るべきかなど言う問題は価値判断を含んでおり一概には決められない。

あるいは、東京新聞は末端の記者が黙々と記事を書き、偉くなった人たちがバラバラな意見を戦わせる言論プロレス的な見世物にするということはできるわけだが、それは言論の自由ではないし、読者も興味を持たないだろう。同じようなことを政党ベースでやっているのが民進党だが、有権者はもう民進党には興味を持たない。「決まってからお知らせしてね」と思うのみである。

ジャーナリズムはお金儲けなんかじゃないなどと思う人がいるかもしれないが、実は重要な要素だ。もともとは政党のビラのようだった新聞は、広告収入などを得ることで徐々に言論の自由を獲得してゆく。もし読者やスポンサーがジャーナリズムを支えるという文化がイギリスで発明されなければ、日本人は北朝鮮のように政府広報と自民党の機関紙だけを読まされていたかもしれない。

政党パンフレットが新聞になる過程ではできるだけ意見を偏らせないという方針が採られたようだが、それは貿易のために政治に影響されたくないという実利的な理由だったようである。

つまり「想定読者を決めて意見を整える」というのは言論の自由に大きく貢献しており、長谷川さんは知ってか知らずかそれを逸脱して騒いでいるように見える。自分の意見が同僚に否定されて頭に血が上っているのかもしれないし、体制に沿った意見のほうが儲かるのに、わざわざ儲からない反体制側にいる新聞社にいらいらしているのかもしれない。

もちろん、長谷川さんが外で意見を言うことに対して箝口令がひかれたりなんかすれば、それは言論の自由の侵害になるだろうが、東京新聞はそうは言っていない。もしそれに類することをすれば長谷川さんが大いに騒ぐことは明白だ。できるだけ刺激したくないのが本音なのではないか。

さて、ここまで書いてもやっぱり東京新聞は長谷川さんの言論の自由を侵害しているという人がいるかもしれない。長谷川さんは東京新聞の人なのだとすれば、東京新聞が東京新聞の言論の自由を侵害しているということになる。実際には東京新聞の中の人(仮に鈴木さんとしようか)と長谷川さんが対立しているわけで、東京新聞が長谷川さんを侵害することはできない。ということで「東京新聞の長谷川さん」は主語を巧みに使い分けて、あたかも集団が個人の自由を侵害しているような印象を与えているが、実際には新聞社内部の権力闘争に過ぎないのではないだろうか。

この件は「誰が悪いんだろう」と考えたのだが、東京新聞が悪いとしかいいようがない。下記のようなことが取り決められていないことで問題が起きているからだ。

  • 社員にどのような範囲で社外活動を認めるか。
  • 論説はどの範囲で個人の意見を伝えるか。あるいは個人が意見を言うのか、集団で論調を決めてから個人が請け負う形にするのか。
  • 最終的な経営判断と新聞論調は誰がどのように決めて兼ね合いをとるのか。
  • 論説委員というステータスはどのよう(定年とか規約違反とか)に獲得され、どのようになくなるのか。

責任と権利が曖昧なのでこうした問題が起きている。社の内部に闊達な議論がないと言論が萎縮してしまうという気持ちがあり、あまり明文化したくなかったという理由があるのではないかと思うのだが、やはり経営が危うくなり社員を処遇できなくなると、名前をつかって稼ぎたいという人が出てくる。現在の言論空間にはプロレス化欲求(一暴れするとお客が集まる)があるのでそれに巻き込まれたのかもしれない。

そして東京新聞が悪いというときには当然「東京新聞の長谷川さん」もその中に含まれることになる。

民主党政権は売国政権だったのか

先日、かなり年齢のいった大人の人と話をした。バックグラウンドはややエンジニアよりだ。そこで民主党政権の話になった。民主党は中国に機密情報を売り渡したのだという。2ch的な話題でちょっとびっくりしたのだが「真実だ」という。今回はこの件が本当かということを(つまり民主党が売国政権だったか)ということではなく情報リテラシーについて書きたい。先日自尊心について「学校で習わないのでは」と書いたのだが、そういえば情報リテラシーについても小学校レベルでは習わない。

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