今日は確かめようがない仮説の話。財務省が森友学園に勝手に安い価格で国有財産を売っぱらっていたことが明確になった。誰が入れ知恵しているのかはわからないが、籠池理事長は財務省を泳がせておいて、持っている材料を小出しに攻めてくる。すると「財務省は今度も嘘をついていたよね」ということが明らかになる。非常にうまいやり方だといえるだろう。
もう国民の中に財務省を信用する人は誰もいないだろうし、安倍昭恵も関わっていたのだから(少なくとも名前が使われるのを黙認していた)安倍首相の宣言が確かなら首相退任は避けられない。
が、世論は全く盛り上がらない。なぜなのだろうか。3つの仮説を考えてみた。
1つ目の仮説は攻め手の問題だ。民進党に信頼がないという理由がありそうだ。しかし、そもそもなぜ民進党が信頼されないのかということがわからない、これを解くためには別の「盛り上がっている」事例を引き合いに出す必要がある。豊洲の問題があれだけ盛り上がっているのは、都政に携わる人たちがなんらかの利権を獲得しているからだと考えられる。つまり「相手の得」が「自分たちの損」であるという理解があり、得をした人を罰するために小池都知事と都民ファースとの会があると考えるとうまく行く。「民進党」が盛り上がらない理由は、自民党に誰も私服を肥やした人がおらず、さらに民進党は国民の他罰感情を利用して政権をかすめとろうとしているという理解があるからではないかと思われる。
このようなコンフィギュレーションは日本人には説明不要だが、実はかなり複雑な情報がないと理解されないのではないかと思う。敵味方という文脈の方が、適当か不適当かという対象物よりも重要視されているからである。
民進党が有権者の支持を得られない理由だけはわかる。「俺たちにやらせてくれたら消費税増税はしない(つまり損はしない)」といって政権を奪取したが、消費税増税を押し付けた「嘘つき」だからである。つまり彼らは嘘で有権者の貴重な票を簒奪した悪人であり、日本の村落的なルールでは決して許されない裏切り行為なのだ。
一方で、日本人は納税者感覚を持っておらず、財務省が自分の財産が勝手に処分したという考えを持っていないのではないかという仮説も立つ。つまり、日本人は大局的な観点から損得を計算しておらず、目先に取引関係に強い関心を持っているのではないかという仮説につながる。もし財務省が籠池さんからなんらかのキックバックを受けており「おいしい思い」をしていたら違うリアクションがあったのかもしれない。
そもそも、日本人は最初から民主主義というものを信じておらず、自分も安倍首相たちとお近づきになれば、いい目をみることができるかもしれないと考えていたという可能性もある。これが最後の仮説だ。かつて国民が政府の不正に怒っていたのは政治というものが自分たちとは遠く離れたところで行われていて、自分たちのあずかり知らぬところでおいしい思いをしている人たちが多いと考えていたからなのかもしれない。が、安倍首相はネットを通じて国民に直接働きかけたために「俺もうまくやったら籠池のおっさんみたいになれるかもしれない」と感じているのではないだろうか。安倍政権を擁護する人の中には「大企業が傾けば俺たちの暮らしがダメになる」という人が多い。例えば東京電力が原子力発電をやめれば不況になって給料が下がるというような考え方だ。裏返せば普段からTwitterなどで安倍政権を擁護しておけば、悪いようにはされないという意識があるのかもしれない。
ここから日本人は、自分のところに得が回ってこないのに、別の人だけが得をするのがとても嫌なのではないかという大きな仮説が浮かんでくる。これを確かめる術はないのだが、この視点を持つといろいろなことがうまく説明できる。今回は籠池さんも学校をなくしており、最終的に「得」はしていない。ということで籠池さんへのバッシングにはならない。財務省は振り回されているだけであって特に得はしていない。安倍昭恵さんも特に得はしていない。さらに安倍総理も特にはキックバックなどを受けているわけではない。すると、国民の多くが向かう「敵」が作られないのだ。
多分、加計学園の件も、学園関係者が私服を肥やして豪勢な生活をしていて、一方で関連自治体が困窮しているという絵を作らない限りそれほど盛り上がらないのではないか。少なくとも銚子市は大変困窮しているわけだが、特に同情は集まっていない。他人の損にはあまり同情は集まらず「自己責任でしょ」ということになる。やはり「誰かが得をしている」という絵が重要なのではないだろうか。
もし、これを盛り上げたければ「加計学園の件を追求すれば嫌なこと(消費税が上がるとか財政が破綻するとか)」が避けられるという絵を描かなければならない。これは小泉首相がやったやり口だ。なんとなく納得されれば国民はそれほど深く考えずそのアイディアに乗るだろう。が、民進党は一度それに失敗しているので、誰か別のプレイヤーが必要ということになる。
日本人は民主主義のような内面化されたルールが一人ひとりを自制するなどということは信じておらず、絶え間ない相互監視を通じて相手を縛り付けることだけが損を回避する唯一の手段なのだと考えているのではないだろうか。民主主義は一流国として海外とお付き合いするためのドレスのようなものであって、決して物事の本質ではないということになる。