忖度という言葉は何をごまかしているのか

忖度という言葉が乱用されている。もともとは2017年3月に籠池理事長が会見で使ったのが流行の発端になっているようだが、2017年3月の初めに福山哲郎議員が安倍首相に「忖度があったのではないか」と聞いたのが一人歩きのきっかけのようだ。

が、この乱用はあまり好ましくないのではないかと思う。「勝手に意思を読み取った方が悪い」という含みがあるからだ。忖度せざるをえないのは「指示が曖昧」だからである。この責任を読み手にだけ負わせるのはあまりにも無責任だ。

安倍首相は様々な忖度を部下にさせていたことがわかっている。例えば加計学園の問題では自分と加計学園の関係をほのめかし「部下になんとかしろ」と言ったようだ。首相が直接的に指示すれば問題になることはわかっていたことをうかがわせる。山口敬之氏の問題では警察に「なんとか助けてやれ」というサインを出していたのだろう。これも首相が直接警察に介入したとなれば大騒ぎになる。

忖度を生む背景には曖昧な指示があり、曖昧な指示の背景には非合法な(あるいは不適切な)意図があることがわかる。忖度は指示の不全なので、指示について分析すれば、どんな場合に忖度が生じる得るかがわかる。指示には意図・方法・リソースが含まれる。

第一は冒頭で見たようにトップが責任を逃れて部下に「泥をかぶらせる」ための忖度である。部下も最後は上司がなんとか責任逃れをしてくれると思うので、結果的に集団思考の状態に陥るだろう。

次に上司が何をしていいかわからず、解決策を部下に求めることもある。どうにかして売り上げを伸ばすべきなのだがどうしていいかわからないので「とにかく頑張れ」と言ってしまうような場合が考えられる。とにかく頑張れと言われた人は、何か不正な手段に訴えたり、とにかく長時間働いてなんとかしようとするかもしれない。

最後に、指示は与えたがリソースが明らかに足りないことがある。例えば、人手が足りないのに「なんとかしろ」というと、部下は仕事を省いたり、他人に押し付けたりするかもしれない。必要なリソースがないのに成果を要求するとどこかで無理が生じる。

指示そのものを分析すると「どんなやり取りがあったのか」という後追い出来ない問題を棚上げにすることができる。どんなリソースが足りなかったのか、結果的に市場の効率がどう歪められたのかということは外から精査できるからだ。つまり、情報が隠蔽されている安倍政権を追及する手順は、例えば下記のようになるはずなのだ。

  1. そもそもあるべき姿とはどのようなものだったのか。
  2. そのあるべき姿が曖昧な指示によってどう歪められたのか。
  3. 歪められた原因は何にあるのか
    1. 目標達成までの道筋は明確に指示されていたか。あるいは途中で検証可能だったか。
    2. 目標を達成するためのリソースは十分に与えられていたのか。
    3. 法的な責任逃れなど、そもそもの指示の意図に問題はなかったか。あったとしたら、それは何が問題だったのか。
  4. 原因が特定できたらどうやってそれを改善するのか。

森友学園の問題が一番簡単に分析できる。森友学園は学校を作るのに必要な資金がなく、結果的にゴミをでっち上げて土地を格安に譲るという方法で利益供与が行われた。実はリソースが足りなかったのだ。

加計学園の場合は少し複雑だ。銚子市の学校の場合需要がなく資金もなかったので、結果的に銚子市の財政が破綻しかけている。が、今治市の獣医学部の場合には需給予測が曖昧らしく、需要と供給を満たすのかということがよくわからない。が、作ってから「実は需要がありませんでした」となると、被害を被るのは今治市ということになるだろう。

学校の問題は実はかつての公共事業のやり方に似ているのではないだろうか。公共事業は利権の温床になっていて需給シミュレーションを歪めて利権誘導していた。しかし民主党政権が「コンクリートから人へ」というスローガンで教育へシフトしたので、教育を新しい公共事業にしようという意識が生まれたのだろう。この延長が「教育の無償化」を言い訳にした改憲議論だ。高等教育も国の予算でやるとなれば巨大な利権が転がり込むことになる。実はつながっているのである。

いずれにせよ特区を作って学校を誘致するというには考えてみれば変な話だ。需要がないから獣医学部の空白地帯ができている可能性があるわけで、そこに学校を作ったからといって需要が生まれるわけではないからだ。獣医学部ができたら、そこに養鶏場が作られ、牧畜が盛んになるだろうか。忖度があったかなかったかという不毛な議論をしていると、こういう単純なことがわからなくなる。

山口氏の問題は別で、公平さが歪められたのが問題になっている。もし首相に伝がなければ逮捕状は執行されていただろう。法律がある人には適用されある人には適用されないということになると社会秩序はめちゃくちゃになり、結果的に人は法律そのものを信頼しなくなるに違いない。少なくとも「女性の意識を奪った上で欲望を満たす」のが「運が悪くて政権に伝がなければ捕まる」程度の犯罪になってしまえば、日本はもはや法治国家とは呼べない。

そう考えると、民進党の攻め方のまずさが浮かび上がってくる。間接的に曖昧な意思疎通があったということだけを問題にして大騒ぎしているのだが、これは照明が非常に難しい。政策立案能力がないので、そもそもあるべき姿を構築することができないのだろう。本来なら、曖昧な指示が行われた過程を検証し、どのようなルール設定をすればこうした問題がなくなるのかを国民に直接提示すべきだった。安倍政権に反省を求めても無駄だということはこの数年で痛いほど理解しているのではないだろうか。

野党4党はマスコミ受けを求めて攻め手を変えているので、マスコミは忖度という言葉を使うのをやめて「曖昧な指示が意思決定を歪めた」などという言い方をすべきだろう。まずはそこから始めてみてはいかがだろうか。

ディビッド・ケイ氏はマッカーサーではない

国連の報告者であるディビッド・ケイ氏が日本のマスコミについて注文をつけた。この過程で日本の記者たちからなぜか匿名での情報を提供があったそうだ。つまり記者たちは常々報道のあり方に疑問を感じているようなのだが、それを自分たちでなんとかしようという気持ちはないようである。「誰かがなんとかしてくれないかなあ」と考えていることになる。

ディビッド・ケイ氏の注文は主に政府の規制や新しい法律に関するものだが、マスコミのインサイダーたちの中には記者クラブ制度に強い不満を持っている人もいるようだ。が、本当に記者クラブ制度は問題なのだろうか。

最近の政局はそもそも場外乱闘の形で起こることが多い。主な発信源はNHKや朝日新聞社へのリークや、週刊誌への情報提供である。記者クラブはその後追いとして、政府の言い分を取材する役にしか立っておらず、すべての報道が記者クラブによってコントロールされているとはとても言えない状態だ。

にもにもかかわらず記者クラブ「だけ」が存在感を持って見えるのはどうしてだろうか。これは記者クラブがなかったらどうなるかを想像してみればわかる。記者たちは特定の記者クラブで雑巾掛けの修行を始める。もともとは文学部とか法学部などのジャーナリズム専攻でない学部を出た人たちで、OJTで取材の仕方を学ぶわけである。この人たちがマスコミ内部で名前を売り、生き残った現場志向の強い人たちがフリーとなり、ジャーナリスを名乗るようになるという構造になっている。

つまり、記者クラブは学校の役割を果たしており、記者クラブをなくしてしまうと「どうやって官公庁の取材をしていいのか」がわからない人ばかりになってしまうということを意味する。日本にはジャーナリズムを教える学校がないので、記者クラブがなくなってしまうと記者教育ができなくなってしまうのだ。

学校ができない理由は何だろうか。第一の理由は理論的な裏打ちの不在だろう。例えば、ジャーナリストは権力から一定の距離をおくべきだというような、倫理規定が日本にはない。こうした倫理規定ができるのは、裏にジャーナリズムは権力を監視し民主主義を健全なものにする役割があるという自己認識があるはずなので、日本人にはそうした意識がないことがわかる。

さらに、現場の記者たちは後進をマネジメントしたり仲間を育てることを嫌がる。現場志向が強いからだと考えられるのだが、それだけではなく「ライバルが増える」ことを嫌がっているのだろう。獣医学部も参入規制があるそうだが、ジャーナリズムは学校を作ることさえ嫌がるのだ。

もしフリーの記者たちが本当に記者クラブ制度はいけないと考えているなら、自分たちの仲間を増やす努力をするはずだ。SNS時代なので、こうした書き手は新聞社などに入ったことがない人たちで読み手を兼ねている可能性が高い。が、ジャーナリストの人たちは優位性を保ちたいので、こうした人たちを敵視してしまうことが多い。

共通の意識もなく競合者同士で協力もできないので、ジャーナリストはまとまれない。そこで外国から来た人に匿名で告げ口することになる。政府から弾圧されているから表立って行動できないという理解は必ずしも正しくないのではないだろうか。

さて、理論的な精緻化をはからず、仲間や後進を育てないということのほかに、ウェブメディアならではの問題も出てきている。TBSのジャーナリストにレイプされたという女性ジャーナリストに対して「枕営業をしかけたのではないか」というセンセーショナルな発言をした池田信夫氏を例に説明したい。

アゴラはもともと専門家の知見を活かしてウェブならではの提言をするという名目で設立されたのだと思うが、新田氏(この人も問題のある発言で知られる)を編集長に据えたあたりから、おかしなことになってきている。

もともと池田さんはNHKの出身なのだが、メインストリームでポジションを得られなかったことでウェブに新天地を求めたのだと思う。やがてネット上でプレゼンスを得てゆくのだが、編集長の新田氏のWikipediaに面白い記述があった。民進党の蓮舫代表を叩いたことでページビューが大きく伸びたのだそうだ。

2015年10月、アゴラ研究所所長の池田信夫のオファーを受け、池田主宰の言論サイト『アゴラ』の編集長に就任[5]2016年9月に行われた民進党の代表選挙に出馬した蓮舫の二重国籍問題を、八幡和郎と池田がいち早く追及した際には編集長としてバックアップし、就任1年で、月間ページビュー数を300万から1000万に押し上げた[6]

新田さんと池田さんが女性に対する差別主義者だという見方はできるのだが、もしかしたら「ビジネスマッチョ」なのかもしれない。気が弱く女性との競争に負けつつある「サイレントマジョリティ」の男性のニーズがあるのだ。普通の人たちが言えないルサンチマンを代わりに晴らしてやるとそれだけ支持を集めるという構造がある。女性に対するヘイトスピーチにはそれなりの商品価値があり、それが「女は枕営業だからレイプされても自業自得(ただし一般論ね)」というような言説がまかり通ってしまうのである。

同じことが反体制側にもいえる。Literaなどが代表例だが、岩上安身氏のようにかなり過激に安倍政権を批判する人たちもいる。彼らもジャーナリスト業界から流れてきた人たちなのだが、民主主義を健全に保つために権力から距離をおくべきだという行動規範はない。このことが結果的に民主主義を両側から不健全なものにしている。

よく、ウェブは掃き溜めだなどというのだが、実際に掃き溜めにしているのはこうしたマスコミ崩れの人たちだ。民主主義と言論の関係について理論的に学んだわけではなく、仲間同士で研究しているわけでもないので、特に言論に品位を持とうとか、是々非々の距離で付き合おうとは思わないのだろう。

現在の安倍政権は露骨なマスコミ干渉をしてくるので、「マスコミへの弾圧」のせいで密告が増えているという感想を持ちやすいが、実際にはまとまれないことの方がより深刻なのではないかと思う。デイビッド・ケイ氏はマッカーサーではない。結局のところ自分たちでなんとかすべきなのだ。

専門バカが時代に取り残されるわけ

面白い体験をした。

「日本ではメディアに政府から圧力」国連特別報告者勧告という記事があり、それについて「どこの国でも政府からの圧力くらいあるんだよ」というつぶやきがあった。そこで「圧力と権限があるのとは違うのではないか」と引用RTしたところ「良い線を言っているがお前は真実を知らない」的な返信が来た。このジャーナリストの人によると、マスコミは自分たちに都合の悪いことは伝えないので一般人は真実を知ることはないのだという。

レポートにはメディアの独立性を強化するため、政府が干渉できないよう法律を改正すべきだと書いてあるので。現在は政府が干渉できるということになる。この報道でわかるのはここまでなので、それ以上は知りようもないわけだし、いちいち自分たちで全部を調べるのも不可能だ。

だがなんとなく「えー真実は何なんですか、マスコミに騙されてるんですかねえ」などと聞くと教えてくれそうだったし、相手も多分「えー騙されてるんですかあ」的な対応を期待しているのかなあと思った。端的にいうと「絡んで欲しいんだろうなあ」と思った。だが、なんか面倒だった。

「俺だけが知っちゃってるんだよね、フフ」的な状況に快感を得るのではないかと思う。実際に、一連のつぶやきに対して横から関わってくる人がいて「仕方がないなあ、教えてやるか」みたいな流れになったのだが、正直ちょっと面倒くさかった。村落的な田舎臭さと相互依存的な甘えの構造を感じたからだ。結局、記者クラブの談合報道がよろしくないみたいな流れに落ち着いた。

これだけでは、エントリーにならないのだが、この件について書こうと思ったのは全く別の記事を見つけたからだ。アパログにあったセミナーの宣伝的を兼ねた記事である。「アメカジも終わっている⁉︎」というタイトルで、業界では多分有名な(したがって一般には無名な)コンサルタントの方が書いている。ウィメンズ/メンズ/キッズの3884ブランドを計49ゾーン/639タイプに分類して網羅しているそうだ。確かに凄そうではあるし、経年変化を追うのは楽しそうではある。労作であることは間違いがない。

だが、よく考えてみると、実際に服を着る人には服に関する知識はほとんどない。例えば現在はメンズでもワイドパンツなどが流行っているのだが、そんなこと知らないという人がほとんどではないだろうか。ゆえに再分類して情報を精緻化してもほとんど意味がないように思える。同じ方の別の記事ではファッションにかけられる家計支出の割合は減少しつつあるようだ。

例えば、ワイドパンツをはかずにストレートのジーンズを履いている人は「表層的にファッションを理解している」ということになるのだろう。が、実際にはアパレルのほうが「普通のジーンズ」とか「普通のズボン」などに合わせなければならない。結局、表層的な知識が「真実」を駆逐してしまうのだ。ここに欠落しているのは「非顧客層」に対する理解だ。

こうした例を見るとつい日本人論で括りたくなる。だが、実際には状況はかなり変わりつつある。これもSNSの登場によるものである。

たとえば、WEARの投稿に対してアドバイスをもらったことがある。「スウェットにシャツというコーディネートではパンツはタックアウトした方がいいですよ」というアドバイスだったのだが、専門家には「当然こうである」という既成概念があっても、実際のエンドユーザーはそこまでは理解できていないということがわかる。

この人は「一般の人(あるはファッションがわからない人)の動向」について観察しているのだという。実際にものを売っている人にとっては「何が伝わっていないか」を知ることの方が、POSデータよりも重要なはずで、SNSを使った賢明なアプローチといえるだろう。いうまでもなく若い世代の方が「実は思っているほど情報は伝わっていない」ということを実感していて、それをソリューションに変えようとしているのである。

同じようなことは政治の世界でも起こっている。千葉市長選挙ではTwitterを使った政策に対する意見交換が行われた。Webマーケティング的にはかなりの先進事例なのだそうだ。投票率が低くあまり市民の関心が高くないのは確かなのだが、これまでのように一部の団体が市長の代弁者になって政治を私物化するということはなくなる。民進党が一方的な情報提供をして市民の反発を買っていることを考えるとかなり画期的だが、この市長も比較的若手である。

かつての人はなぜ「専門知識を持っている方が偉い」という感覚持っていたのだろうか。多分原型にあるのは「たくさん知識を蓄積した人がよい成績が取れる」という日本型の教育だろう。こういう人たちが、テレビのような免許制のメディアや新聞・雑誌などの限られた場所で発言権を持つという時代が長く続いたために、情報を「川上から川下に流す」という意識を持ちやすいのだろう。

若い世代の方がSNSを通じて「意外と伝わっていない」ということを実感しているので、人の話を聞くのがうまい。すると、相手のことが理解できるので、結果的に人を動かすのがうまくなる。だが、それとは異なるアプローチもある。

欧米型の教育は、プレゼンテーションをして相手を説得できなければ知識だけを持っていてもあまり意味がないと考える。そこで、アメリカ型の教育では高校あたりから(あるいはもっと早く)発表型の授業が始まる。相手に説得力があってこそ、集団で問題が解決できるのだという考えに基づいている。知識を持っているだけではダメで、それが相手の意思を変容させて初めて「有効な」知識になるのだ。

例えば、MBAの授業はプレゼン方式だ。これはビジネスが相手を説得することだという前提があるからである。相手に理解させるためにできるだけ簡潔な表現が好まれることになる。日本型の教育がお互いに干渉しない職人型だとすれば、アメリカ型の教育は相手を説得するチームプレイ型であると言える。

日本型の教育の行き詰まりは明白だ。政治を専門家に任せ、その監視も専門家に任せていた結果起きたのが、今の馴れ合い政治だと言える。専門外の人たちを相手にしているのにそのズレはかなり大きく広がっていて、忖度型の報道が横行し、ついには情報の隠蔽まで始まった。今やその弊害は明らかなのだが、かといって状況が完全に悲観的というわけでもない。ITツールが発達して「直接聞く」ということができるようになり、それを使いこなす世代がぼちぼち出てきている。

主に世代によるものという分析をしたのだが、そろそろ「できあがった」人たちの仲間入りをする年齢なので、あまり世代を言い訳にはしたくない。人の話をじっくり聞く世代ではなかったということを自覚した上で、相手の感覚を聞きながら、自分の意見を説明できるようになる訓練が重要なのではないかと思った。

ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのか

アゴラの編集長という人にブロックされている。その影響からなのか(Twitterにはブロックリストをやり取りする機能があるそうだ)関わりがないのにブロックしている人がいるらしく、ときどき引用ツイートが読めない。中身が読めないのでどういう人たちなのかはわからないのだが、安倍政権側の人が多いように思える。たいてい誰かに批判的に引用されているからだ。それにしても、ネトウヨはどうしてすぐにブロックしたがるのだろうか。

ブロックするのは、自分と違った考え方が受け入れられない人たちだと考えられる。つまり、自分の作ったシナリオ通りにことが進まないと、その意見を排除するためにブロックして「なかったこと」にしてしまうのだ。自分と同じ考えの人たちしかいなければ否定されることもないので、彼らには居心地がよいのだろう。

その意味では百田尚樹さんという人はネトウヨが高かったように思う。普段ネトウヨ系のサロンで発言を繰り返しているうちに仮想的な有能感に浸るようになり、朝生で罵倒されて帰ってきたそうである。作家さんなので知性がないということはないだろうが、知識が偏っていて議論にならなかったのだろう。

自分の意見があまりないという点ではサヨクの人たちと違いがないのだが、サヨクとネトウヨには大きな違いがあるように思える。サヨクの人たちは自分たちの意見や正義感が世間に知られていないと感じているので、異論を唱えてきた人には「布教活動」が始まる。ここでブロックしてしまうと自分が相手を説得することができなくなる訳だから、ブロックすることは少ないのではないかと考えられる。サヨクの人たちの言動で多いのは「安倍政権についてテレビ報道が増えれば人は真実に目覚める」というものである。

だが、ネトウヨの心性を考えるとよくわからない点に突き当る。他人と意見が違うことがなぜ問題になるのかということだ。心理学の類型を調べてみたいところだが、しくりくるものが探せなかった。が、相手の意見に影響されて「それに従わなければならない」という気持ちが強いのではないかと考えられる。つまり自己肯定感の低さが影響しているのだろう。つまり、ネトウヨは相手に服従しなければならないと考えており、同時にあまり自分の考えに自信がないのだろうということが予想されるのだ。だからこそ、主張を強化しなければならないわけである。

サヨクの人たちも放射能や戦争などの外部からの脅威を怖がっているように見える。つまり、不確実性に対応できないという意味では共通しているように見える。が、実際には内心というものを持っていて、それと現実が異なっていることが許せないと考えることもできるだろう。つまり、ネトウヨとは反対に過剰な自信があり、それと違っていることが許せないという可能性があるのだ。つまりネトウヨとサヨクが同根なのかそれとも対になっているのかということはよくわからない。

まとめると、ネトウヨもサヨクも、危機・脅威・不確実性に対する防御反応なのだが、一方は内面に自信がなく常に相手に影響されてしまうと考えており、一方は内面に自信がありそれが現実世界に反映されないことにいらだちを抱えているのかもしれないという仮説が立てられる。もし同根だとすれば、他人の考えや指示に恐怖心を覚えるのがネトウヨで、環境に恐怖心を持っているのがサヨクということになる。両者に共通するのは多様な考えが共存することを認められず、相手の説得もできないという点である。

両者とも、世間と自分との間に明確な境界を築けない。他人は他人でありコントロールできないと考えれば、感情的な行動にはでないのではないだろうか。相手を説得するのに戦略を立てたり、コントロールできないなら放っておこうと考えるはずである。あるいは自分の好きなことに夢中になっていれば、あまり他人の価値観は気にならないはずだ。

その意味では安倍政権はきわめてネトウヨ性が高い政権だと言える。もともと戦前に陸軍が間違った行動を取ったことを一切認めることができなかった人たちが母体になっている。南京で虐殺がなかったと主張したり、日本軍は韓国人の性奴隷を持たなかったという主張をしていた。が、こうした主張はWiLLなどの一部のネトウヨ系雑誌で行われているだけで、全体にはさして影響がなかった。

よく考えてみれば、南京で虐殺があったとしても、それは陸軍の兵士たちがやったことであって、日本人全体の犯罪ではない。ネトウヨの人たちには関係がないことだ。しかし、ネトウヨにはそれが認められない。日本軍が中国人の主張通り犯罪行為をおかしたのなら、自分が日本人を代表して中国人に屈服しなければならないと感じてしまう。これは、他人と自分の間に区別がついていないということを意味するのだろう。このように勝ち負けは彼らにとってとても重要である。

勝ち負けが重要なのだから、強いものへの妥協も安倍政権の特徴だ。プーチン大統領にすり寄ってみたかと思えば、トランプ大統領に諂ってみせたりしている。トランプ大統領に忖度して、その主張を聞くようにヨーロッパに懇願することを「強いリーダーシップ」と言い換えるあたりもネトウヨ性が高い。これは、影響力のある相手に対して自分を保てないというところからきているのではないだろうか。一方で、中国や北朝鮮という自分たちが蔑視している存在には必要以上に居丈高な態度に出る。国内では女性に対する蔑視感情が顕著で、民進党の蓮舫代表を呼びつけにしたり(国会でもたびたび呼びつけにしそうになる)社民党の福島元党首や民進党の山尾しおり議員に敵意をむき出しにしたりしている。

このネトウヨ性のせいで、自分を持っていて距離を置くヨーロッパやカナダのリーダーとは折り合わない。

ネトウヨの最大の特徴はブロックだ。自分たちの論理で憲法の解釈をねじ曲げて、アメリカ軍と協調行動がとれるようにしてしまった。これが全面的に悪いとは言わないが、本来なら国民を説得するべきだった。しかし安倍政権はそれをしないで、あの夏のデモを「一部の人がやっているだけ」と言ってブロックしてしまったのだ。さらに、批判は当たらないという紋切り型の台詞を繰り返して様々な無理な解釈を繰り返し、あったはずの資料をなかったことにした。それだけでなくマスコミにも手を伸ばし、恫喝したり取り込んだりして、自分たちに都合の良い解釈を繰り返すようになった。

あったものをなかったことにするのがブロックなのだが、権力がこれをやり始めると他人にもブロックを強要しどんどん社会がおかしくなってゆく。

例えば金融経済の世界でも「ブロック」が起きているのだが、これはやがて市場経済の法則に復讐される可能性が高い。その時巻き込まれるのがネトウヨと安倍政権だけならいいのだが、国を巻き込んだ大惨事になる可能性も否定はできない。

ネットにいるネトウヨの人たちは、大した情報は持っておらず、偏った情報から作られた理論も間違っている可能性が高いので相手にする必要はないと思う。が、こういった人たちに大事な仕事を任せてはいけない。社会全体がおかしな方向に進んでしまうからだ。

個人が報われないという実感

ウェブサイトのページビューは毎日見ているのだが、最近では安倍政権がうまくいっていないことさえ書いていればページビューが集まるという状態が続いているのであまり意味をなさなくなった。そろそろ次を探さなければならないので、フィードバックを見てみた。とはいえ直接何かを書いてくる人はほとんどいないのでエゴサーチすることになる。エゴサーチの結果わかったのは「個人が報われない」という記述に多くの反響が集まっているということだった。

このブログでは「個人が報われないという実感」いくつかの文脈で出てくる。

一つめの文脈は、利益配分に関するものだ。日本人は利益集団を通じて利益の配分と安全保障を実現しており、個人の資格でそこに参加しても交渉力が得られない。最近では集団が個人の利益を守りきれなくなっており、個人が損の受け手になることも増えてきた。つまり、利益は分けてもらえないのに責任ばかりを取らされるということになる。

最近、前川元事務次官が官邸からの攻撃にさらされているというニュースを見た。身分を明かさずにボランティアをされていたらしく、教育に携わっていた人として「子供に正しい姿を見せなければならない」と考えていた風にも受け取れる。が、ご本人はそんなことは一言もおっしゃらなかった。事務次官といえば官僚のトップだが、そういう人でさえ個人の正義感で社会を正常に保つことが難しくなっている。存在が自己目的化した集団が個人の正義感を簡単に抑圧してしまうのである。

もう一つの文脈は、日本人が関係性を重視するので個人の意見表明というものにあまり重きをおかないという点である。個人の考え、つまり内心というものもありえないので、集団の意見を個人の意見の代わりに表明することが多い。また個人で意見表明しても「取るに足らない考え」として無視される傾向がある。

個人が幸せになれないとか、集団が個人の幸福追求に役立っていないという一連のステートメントには、実はプロテストの意味合いは含まれていない。日本は西洋の個人社会と東洋の集団主義社会のちょうど真ん中に位置する少し特殊な社会で、そのことを指摘しているにすぎない。社会の変化が早くなってきており、集団が個人の利益を調整できなくなっているという事情もあり、この辺りを観察するといろいろなことが見えてくるのである。

いろいろな分析もできるし、個人が幸せを追求できるような世の中にした方がいいですよといった提言もできるのだが、今回はそれはやめておく。あることに気がついたからだ。

多分このブログの読者の多くはスマホやパソコンなどを使って個人として文章を読みながら「共感したこと」をリツイートしたりシェアしているのだと思う。こちらからはある程度まとまった動きとして見えるわけだが、読者の方は他の読者が何を考えているのかということはわからないのではないだろうか。

つまり、一人ひとりは「個人が尊重されて活躍できる世の中になってくれればいいなあ」などと思いつつそれを言い出せないということになる。

そうした状態から一歩踏み出すためには「自分の主張を自分の言葉できるようになった方がいいですよ」などと思うわけだが、これはそもそも内心に抱えている「自分らしく生きたい」という欲求を認めない限り意見表明などできない。が、それを他人に打ち出せないということは、自分の中でその欲求そのものを承認できていないのではと思うのだ。

自己が持っている欲求が承認できさえすれば、相手もそれを持っているということを認めるのは比較的簡単で、相互的な助け合いができるようになるだろう。少なくともそれを見た他人が「自分と同じ考えを持っている人は他にもいるんだなあ」と思うことができる。だが、承認できない(あるいはそういう欲求を持っていることを自覚できない)状態では、それ以上はどこにも進めないかもしれない。

ということで、今回は何の分析も提言もしないで、ただ単に「個人がもう少し尊重できる世の中になった方がいいなあ」と考えている人は多いですよ、ということだけを指摘してこの文章を終わりにしたい。自分らしくありたいという気持ちは多分それほど特殊なものではない。

臆面もなく嘘をつく人とその事情

前回、千葉市職員がトイレをきれいに管理していないという話を書いた。が、あまり興味を持たれそうにないので「日本人は嘘をつく」というような表題にした。何軒かコメントをいただいたのだが「嘘つきが多い」と考えている人は少なからずいるようだ。

問題なのはどうやったら嘘が減るかということなのだが、それについては確たる答えがない。そこで他人を非難して終わりということになってしまう。いつしかTwitterに嘘つきを糾弾するコメントが溢れるようになった。

トイレは、いったん千葉市役所から「市職員が巡回します」という回答をもらった。が実際には数ヶ月巡回しただけでやめてしまったらしい。つまり、千葉市役所は、上司と市長の名前の入った文書でその場限りの嘘をついたことになる。今回、また汚れているのを見て現場の人に「片手間でトイレの管理なんかできませんよね」と聞いたところ、若干言いにくそうに「そうだ」という返事があった。つまり、できもしないことを約束したことになる。

嘘をつかれると処罰感情が湧く。例えばTwitterではよく「政府の誰々が嘘をついた」という怒りのツイートが流れてくる。だが、嘘をせめても問題は解決しない。裏には日本人が民主的な手続きと議論の意味を理解していないという事情がある。つまり、意義があって納得できなかったとしても、その場で意義を飲み込んでしまう。できないならできないと言うべきだったのだろうが、その場で嘘をついた方が簡単だと考えてしまうのである。

市役所へのクレームは広報課で集中管理されているので、電話インタビューをした。ある部署が「できもしない約束」をしたことが露見した場合、その職員に対して注意するというパスはあるようだ。最終的には局長レベルまで行くらしい。また市長も市長への手紙を見ていて、それなりに関与しているという。

が、こうした「叱責」のパスがいつもうまく機能するとは限らない。本人が回答に納得していなかったり予算的に無理だったとしても「なんとかするように」と職員個人の責任に落とし込まれてしまう可能性があるからだ。これについて広報課に「無理を是正する仕組みがあるのか」と聞いてみたところ、広報課は黙り込んでしまった。コンセプトは理解したらしいが、個人の失敗をカバーしたり、予算的な措置をとるといった発想がそもそもないようだ。

この背景には、日本人の意思決定の仕組みがある。日本人がもともと集団の長を集めて利権を調整する集団指導体制なので、集団間で相互にカバーする仕組みがなく助け合いも行わない。実は他人には冷淡な社会でだ。何らかの理由で集団指導体制が崩れたり、実行部隊と意思決定部隊が分離してしまうとすきまにある責任が個人に落ちてきてしまうのである。

責任は個人に落ちてくるのだが、個人への権限委譲は行われない。すると結果的に個人のせいにされて終わりということになってしまう。最終的には責任を取るはずの人が「知らなかった」ことになり「責任を取る能力も資源もない個人が叱責されて終わり」になることも多い。いわゆる「トカゲの尻尾切り」という現象である。

無理が生じると、個人が嘘をつかざるをえなくなる。そのうち収集がつかなくなり、他罰感情が集まる。が、実は問題は誰かを罰しても解決しないのではないだろうか。

文部科学省は加計学園問題について内閣府から恫喝されていたようだ。恫喝された文章も残っている。が、文部科学省はそうした文章は残っていない(あるいは残っているかもしれないが見つかっていない)といわざるをえない。それをOBが「いやそんなことはないだろう」といって大騒ぎになる。いずれはバレる嘘なのだが、嘘をつかざるをえないのである。同じことは森友学園問題でも起きてる。こちらは官邸が前のめりになっていたプロジェクトのために法律を曲げて無理なロジックを作って土地の値引きをしていた。その経緯が露見しそうになったので財務省が「資料を捨てた」という嘘をついている。この場合の嘘は法律違反にまで発展している。

NHKのように思考停止状態に陥ってしまった集団もある。オリンピックの予算を開催自治体が分担することが大筋決まったと政府の見解を垂れ流しつつ、公平性を担保するために千葉、埼玉、神奈川県知事の「聞いていなかった」という声も伝えている。いったい何がどうなっているのかさっぱりわからない。ヘッドラインを読むと「大筋決まったんだな」と思えるが、文章を読むと何も決まっておらず、誰も納得していないというように読める。

東京オリンピック・パラリンピックの費用について、東京都、組織委員会、政府の3者は予備費を除いて総額を1兆3900億円とし、このうち都と組織委員会がそれぞれ6000億円、政府が1500億円を負担する方向で合意したことがわかりました。残る400億円は東京都以外の自治体が負担する案が示されていますが、最終的にどこまでの負担となるか詰めの調整が行われています。

この場合NHKは嘘をついている。内容をよく聞けばバレてしまう程度の嘘である。

もちろん千葉市と国には違いもある。千葉市は一応市長が市民への回答を見ている。これは前の市長時代の反省を踏まえたものだ。市長への手紙は前市長の代からあるのだが、形式的に運用されていた。上層部は利権の獲得に熱心で、最終的には市長が汚職容疑で逮捕されるというところまで発展する。当然、職員の士気は低かったはずだ。そうしたことは徐々に改善されつつあるようなのだが、それでもマネジメントの失敗は完全になくならない。利権の獲得ができなくなっても、相互で助け合うという文化が根付くわけではないからだ。「誰かのためにやったことが回り回って自分のトクになる」などとは誰も考えない。一方。国の場合は官邸が「役人が嘘をつく理由」になっている。明らかに官僚に嘘をつかせている。

どうやら、トップがどうであるかということとは全く別の問題として、日本型の意思決定方式に原因があり、個人が嘘をつかざるをえないというメカニズムがありそうだ。

いつまでも騒いでいたいのならこのままでもよいと思うのだが、同じことは会社や学校でも怒っているはずだ。そろそろ日本人が持っている意思決定と統治の癖について理解すべきなのではないだろうか。

 

自民党はなぜ人権にそれほどまでに敵愾心を燃やすのか

共謀罪について考えていて一つわからないことがある。菅官房長官が「人権を擁護する人たち」に関してなぜ強い敵愾心を持つのかがさっぱりわからないのだ。菅官房長官はおそらく安倍首相を忖度してああいった発言をしているのだとは思うのだが、もし自分たちに意見があればそれを主張すればいいだけの話で、感情的な文章を出すのはあまり筋がよくない。

が、全然違うところで違う話をしていて「ああ」と思うことがあった。あれは安倍首相の劣等感の表れなのだと思ったのだ。だとすると、その劣等感に国民を巻き込むのはやめてほしいものだと思う。

ある日、QUORAで質問でもしてみようと思った。できるだけ当たり障りのないものが良いと思い「外国人がインドで苦労して手で食べるのをみてどう思うか」と聞いてみた。が、回答はインド人にはあまりよく受け入れられなかったようだ。

インド料理にはそれなりのマナーがある。外国人が知らずに「ただ手で食べればいいんでしょ」などとやると実はマナー違反になることがある。つまりインド人は手づかみで料理を食べているわけではないのである。

だが、どうやらインドの人の中にも「手づかみで食べるのは文明的ではない」という気持ちがあるようだ。つまり、西洋的な伝統に対して恥ずかしさを感じているということになる。2人の回答者の一人はマギという食事をフォークで食べて苦労したと言っていた。日本の人はマギーブイヨンでよく知っているマギーだが、検索するとカップヌードルのような麺料理らしい。

非西洋人には多かれ少なかれ西洋文化に対するコンプレックスがある。西洋人のように「立派に」フォークで食べたいと思うのだが、それができずに「恥ずかしい」思いをしてしまう。そこで「馬鹿にされているのではないか」と考えて、却って強い態度に出てしまうのだ。

同じことが民主主義や議論についても言える。西洋的な社会に触れた人たちは、社会に参加するということを経験を通じて自然に学ぶ。だが、こうした経験をしない人も大勢いる。そして、それを知らないことが「西洋的なスタンダードでは恥ずかしい」とも思っている。そこで、西洋人から「あなたは民主主義を理解していない」などと言われると、却って威丈高な態度を取ってしまうのかもしれない。中国人がその典型だろう。内政干渉というのは「西洋文化の押し付け」である。

つまり、安倍政権というのは日本が民主主義を完全にはマスターできなかったという恥ずかしさの裏返しの上に立つ政権だと言える。それを支えているのも「手づかみで食事をするような」意識の人たちということになるだろう。

さて、ここで考察を終えることもできる。つまり「日本人は戦後70年を経ても民主主義を身につけることができなかった劣等な民族である」という結論になってしまうのだが、そこで終わってもよいものだろうか。

例えばインド人の食べ方にはそれなりのマナーがあり「手づかみ」ではない。左手は使わず、親指以外の指をスプーンのようにしてカレーをすくい、親指で押し込んで食べる。が「恥ずかしい」という自意識があるとマナーがあるということすら認識できないのかもしれない。

同じように日本人にもそれなりの意思決定と統治のメカニズムがある。実際には集団指導体制を取ることが多い。利益代表者が集まって、強いリーダーを作らず均衡型の意思決定をするのが普通だ。これは日本人が内心への干渉を極端に嫌い、自分の領分が侵されることを許せないという気持ちがとても強い体。こうした意思決定は様々な場所で見ることができる。が、日本人は「政治の意思決定は民主的であるべき」という思い込みがあるために、それを自覚しないことが多いのではないだろうか。

安倍政権ももともとは均衡型の政権と言える。自民党には複数の派閥があり、それが深刻な争い発展しないように「お神輿」を担いでいる。重要なことは派閥同士の話し合いによって決まる。現在、いろいろな問題が起きているが、お神輿がしゃしゃりでるとろくなことにならない。意思決定が歪められて「忖度」が横行するのである。なぜこんなことになったかというと、間違えて「西洋型の強くて決められる政党」を目指して、総裁への権力集中が起こったからだと考えることができる。

強すぎる勢力ができると日本人は裏で足を引っ張り始める。よく自民党の中で「長期政権の弊害」などと言われる諸々の現象がおこるわけである。長期政権の弊害が生まれるのは、日本人がそもそも議論に参加して決めたことには従うという気持ちが全くないからである。自分の内心とは違った結果に従わざるをえなくなると「俺は実は納得していなかった」と言い出す人が必ず出てきてしまうのである。

例えて言えば「フォークとナイフも使えない」し「かといって箸で食べるためのマナーも知らない」という状態が生まれていることになる。つまり、どっちつかずのまま混乱を迎えつつあるのが安倍政権と言えるだろう。箸を使うのは恥ずかしいので勉強もしてこなかったから、突き刺してつかうしかないということだ。

足元では様々な動きが出てきている。常に内閣府から押さえつけられ天下り利権を取り上げられ「公衆の面前で恥をかかされた」文部科学省は週刊誌に内部文書をリークした。政府が「千葉、埼玉、神奈川との間で費用負担について同意した」と発表すればNHKがそれを鵜呑みにした報道をだし、神奈川県知事がTBSのテレビにでて「いや聞いていない」という。天皇陛下が退位したいというリークが古参の職員によってなされて、安倍政権が任命した責任者が慌てて否定する。こうした動きは安倍政権と強すぎる内閣官房への意趣返しと言える。すべての人を抑えることはできないわけで、日本型の強すぎる組織はこうして内部から崩壊してゆくのだろう。

だからこそ、議論を透明にして、議論の過程で言いたいことは全て言わせてしまうのが民主主義のルールなのだが、それが守られない。それは日本人が民主主義を知らず、知っていたとしても守るつもりなどないからなのだ。

 

教育と警察の違いについて考えてみる

なんか恐ろしいTweetを見つけた。教育委員会が独自に調査することを「治外法権」と言っている。

何が恐ろしいのかを説明する前に、前提を整理しておきたい。それは教育と警察の違いだ。警察力の目的は反社会的な行為を罰してから社会復帰を目指してもらうとことにある。つまり懲罰が目的(の一つ)になっている。なぜ懲罰が必要かというと、権力に委託せずに個々人が勝手に「調停」を始めたら収拾がつかなくなる可能性があるからである。例えば、日本では果たし合いは禁止されている。日本人は殺された家族の敵をとる権利を奪われているのだが、結果的には安心して暮らすことができる。なぜなら報復的に殺された人の家族が、報復をしかえすということがないからである。

これが成り立つためにはいくつかの前提条件がある。一つは一般庶民が警察を信頼しており、懲罰権を委託した方が安心だと考えているということ。もう一つは一般庶民が、何がよくて何が悪いかと理解しているということである。

例えば小学生は何をしていいかを十分にわかっていない可能性がある。だから、何か反社会的なことをしたとしてもそれがいけないことだと思っていないかもしれない。そこで、それを未然に防いで再発を防止するというのが教育の目的の一つだということになる。

これが、普通の国で警察と教育を分離するそもそもの目的であると考えられる。

一方、治外法権というのは、ある法体系の中にそれに従わない人たちがいるという状態を意味する。例えば駐日米軍は「実質的に」治外法権状態におかれているが、これは彼らがもともと占領地であって<未開>な法体系を持つ現地警察を信頼していないからだと考えられる。戦前の中国には中国の法律が及ばない地域があったが、これも<先進国>が<未開な中国>の法律を信頼していなかったからである。

つまり教育を治外法権だと言ってしまうと、それは教育機関は一般の基準とは異なった価値体系を持っていて「勝手に判断している」と言っているのと同じことになってしまうのである。それは教育が警察を信頼していないということだ。それを平然と言えてしまうところに恐ろしさがある。民主主義に関する根本的な認識を欠いているのだが、発言権がありテレビなどで見識を欠いたままの意見を<垂れ流し>てしまうからである。それをまねてた人たちが議論をコピペする頃には何がなんだかわからなくなってしまう。

もちろん、実際には教育と警察の間にはさまざまな現実的な問題が発生している。いじめ問題を調査した結果「可愛い生徒を被害者と加害者に分けられない」などと言って教育機関としての責任を放棄してしまう教育委員会もある。さらに、教育者が実は社会的な善悪の価値基準を持っていないように見えることも多い。そこで、集団的な圧力が働き「悪いことがあったけれどもそれを隠してしまおう」と考えて隠蔽に走ることも珍しくはない。

さらに、大学のように「教育はできるだけ権力に制限されないで学術を追究できる自由が保障されるべきだ」と考えている人たちもいる。自民党の教育に関する議論を読むと「教授たちは社会主義思想に毒されて教育の自由をはき違えているから取り上げるべきだ」などという被害妄想的な議論がある。実際に、学長や理事長たちがカリキュラムをかえられるように変更が加えられ、日本の大学では今大変な問題が起きている。

つまり、教育と警察を巡る議論にはいくつかの(ここでざっとみただけで3つの)違ったレイヤーがあり、これを一緒くたにして議論するとまとまるものもまとまらなくなってしまうのではないだろうか。

この議論が専門家にどう受け取られるかはわからないのだが、高度教育の問題を別にすると、教育と警察を巡る議論についての態度はいくつかにわかれるように思える。

  • 教育の自主性は保たれるべきであり、教育者にはその資格があると考える立場。つまり、警察は教育に介入すべきではない。
  • 教育の自主性は保たれるべきだが、実際には教育者たちにはそれを守る資格や能力がないので、社会的な介入が必要という立場。が、警察が介入すべきかどうかはわからない。
  • そもそも教育の自主性などというものは絵空事であって、社会は積極的に子供たちを罰しなければならないという立場。

こうしたレイヤーを間違えると議論がめちゃくちゃになりかねないのだが、実際にはめちゃくちゃな議論が横行している。その背景には先生になる人が、教育の独立性が「なぜ重要なのか」ということを考える機会がないからなのではないかと思う。

そこに部外者たちが大量に参入することで、却って教育現場がゆがめられることになるのではないだろうか。

日本人が間違いやすい英語とその対策法

最近間違った英語の収集を始めた。間違った英語が生まれる背景には日本人特有の思考形態があると思うからだ。間違いを指摘するのは「こいつ英語も知らないのかよ」ということを揶揄したいわけではないので、ここではあえてお名前は出さない。短い文章ながら、日本人がやりそうな間違いを多く含んでおり、参考になると思ったからだ。Twitterを使えば海外の人とも簡単にやりとりができるので、間違いをあげつらうのではなく、学ぶ価値はあると思う。

文章は下記の通り。

Fans around the world please complain to the Japanese government and Tokyo Metropolitan Government. It is against the closure of Tsukiji.

最初の間違いはパンクチュエーションに関係しており、明確に間違いと言える。命令文には主語がないので「世界中のファンよ」というのを単文にするか呼びかけとして区切る必要がある。

さらに、いろいろ検索してみたが日本の政府は単なる政府を指すので小文字だが、東京都は固有名詞なのですべてキャピラタライズするのが一般的なのだろうが、小文字で政府と書くと一般名詞化する。英語はこういうところが難しい。

Fans around the world, please complain to the Japanese government and the Tokyo Metropolitan Government.

だが、一概に間違いと言えないが直したほうが良いというものもある。つまり「違和感がある」のだが、実は民主主義に対する感覚の違いに原因があるように思える。

日本人はお任せ民主主義なので「政府に文句を言いましょう」というのが文章としてなんとなく成立してしまう。文句をいうが責任は取らないよという意味であり、これは日本人の肌感覚としては間違っていないかもしれない。一方、英語圏には民主主義国が多い。当然英語話者も民主的で積極的な姿勢を身につける。文句を言うは受身的な感じがするので、もっと積極的なraise your voiceとかsend your voiceなどがふさわしいように思う。つまり「あなたの声を届けましょう」というほうが参加している感じが出るのだ。

が、ここまで来てもなんとなくしっくりこない。築地移転に文句を言ったとして、それがどう築地の保全に役立つのかがよくわからないのである。そこで最後の文章が浮いてしまうのだ。直訳すると「それは築地の閉鎖に反する」となり文法上の間違いはなさそうだが、意味が伝わらない。the closureの theをみて「その閉鎖」ってなんだという話もある。これも文法的には正しい。つまり、築地閉鎖をtheと言っているわけである。が、文章を読んでもthe closureが築地閉鎖のことかはわからない。なぜなら文章の中で築地が閉鎖されるとは言っていないからである。この辺りが英語はものすごく理屈っぽい気がする。

日本語を最大限に想像すると、みなさんが声をあげたら築地に反対することになりますというような文章が作れる。そこで、観光客の反対運動の盛り上がりは築地の閉鎖への反対を意味するというような文章は作れるのだが、これもなんだかしっくりこない。反対が盛り上がっても東京都が取り上げなければ意味がない。そこで次のような文章が考えられる。

  • みなさんの声が強まれば、東京都庁は移転を再検討するでしょう
  • 東京都庁は観光客の反対意見を真剣に受け止めるでしょうから声をあげてください。

が、これもなんとなくしっくりこない。なぜならば発信者と反対をしている人の関係がよくわからないからだ。それらを総合的に考えるとこんな文章になる。おそらく原文の日本語(つまり、伝えたかったこと)とは違ってくるのではないかと思う。もちろんこれが完全に正確かどうかはわからないのだが、とりあえず伝わるレベルにはなったと思う。Twitterは長く説明ができないので、文章を詰め込むのが意外と難しい。

みなさんが声をあげて私たちを助けてください。東京都はこれを真剣に捉えるでしょう。

  • Please raise your voice to help us. The Tokyo Met Gov will take it seriously if they know tourist are against the moving of the fish market.
  • Please support us by raising your voice. Louder voice will make the Tokyo Met Gov to reconsider the moving of Tsukiji.

当初、この文章に関して考え始めた時には、名詞や動詞は辞書を見ながら訳せるがからとかたらといった助詞の適切な変換が難しいのだという論を考えていたのだが、実際に分解して考えてみると文法以前の考え方の違いが問題になっているのではないかと思った。

この文章は(多分だが)外国人に対して築地移転に反対するように (正確には声をあげて反対運動を支持するように) 呼びかけているので、そこをダイレクトに表現したほうが良い。だから呼びかけた人はその声を集めて都庁に伝えるリーダーのような役割を持っていることになる。

しかし、日本人はインダイレクト(ほのめかすような)なコミュニケーションを好み、責任を取りたがらないので、元の文章には「私が声を届けますから助けてください」というニュアンスがないことがわかる。そこは「含んで」いるのかもしれないが、英語では伝わらない可能性が高いだろう。

このように文化的にかなり違いがあるので、最初から英語の文章を組み立てたほうが、より伝わる英語表現ができるのではないかと思う。つまり「文法的に正しい」ことと「伝わるかと」ということはちょっと違ったことなのではないかと思う。

非顧客を顧客にできないプロの人たち

ファッションについて勉強している。最近やっとトレンドというものがわかるようになってきた。といっても「俺、お洒落さんになったもんね」ということではない。トレンドって確かに存在するんだと思えるようになったのだ。

WEARというコミュニティがあり、そこに投稿すると「好き」か「そうでないか」というレスポンスが得られるのだ。どうやら全体的にゆるい方が好ましいようである。イメージは日曜日に近所のショッピングモールに行っても浮かない格好か、美容師スタイルだ。つまり、あまり男性的イメージとはいえない。

こうした「ゆる」が流行になるのは、その前に「スリム」が流行していたからだ。みんなスリムには飽きてきているのだ。つまり、ある種のトレンドが発生すると、気分が生まれ。それに飽きてきたころに新しいスタイルが好感度を上げることになるという構造があるらしい。つまり、一度まとまった集団ができると、それはある程度同じように動くので結果的に「トレンド」が生まれるのである。

そういう意識で見てみると、古着屋であっても「ゆる服」には少し高めの値段設定がしてある。オーバーサイズのTシャツやワイドパンツなどがそれにあたる。一方でブランドものが安く売られていたりする。トレンドが、実際に売れ筋に影響するということはなさそうなので(買いに来る人は流行に無縁そうな中年が多い)値付けに反映されるのだろう。

が、幾つかの問題もある。まず、いわゆるファッションジャーナリストの人たちは必ずしもこうしたトレンドとリンクしていない。どちらかといえば、ファッション業界があるべき姿にないといって嘆いている人が多い。昔に比べて服が売れなくなってきているのでそう思うのは当然なのだが、お客さんはついてこない。古着やネットが占める割合が大きくなっているのだが、ファッションジャーナリストたちの主戦場はデパートやファッションモールだからである。ユニクロさえ守備範囲外かもしれない。

こうした問題が起こるのは、彼らは発信にはなれているのだが受信ができないからだ。そもそもトレンドを可視化するツールはつい最近まではなかったし、実際に参加しないで「売れ筋トップ10」などとみても状況がよくわからないのだ。ファッションにPOSデータはあまり役に立たないのはスタイルが単体では成り立たないからである。

もう一つの問題は「素敵マーケティング」である。どうやらトップブランドの人たちは「自分たちの素敵なブランドを素人に紹介してもらいたくない」という気持ちがとても強いようである。実際には服が売れないわけだから「非顧客を顧客にする」ということが必要なはずなのだが、そうした人たちを意図的に無視してしまうのだ。素敵マーケターというのはインスタグラムで素敵な生活を見せているような人たちである。

こうした苛立ちが現れているドラマが「人は見た目が100%」である。このドラマの中では「女子もどき」と呼ばれる非顧客が、素敵な美容師に憧れて素敵女子を目指すという物語だ。劇中には女子力の高い総務課の女性陣が出てくる。彼女たちはとても努力していて、配慮もあり、ルックスも良く、知識もある。いわば、女子の鏡だ。

が、冷静に考えるとその女子像は「男性に頼っている」存在である。つまり、これが憧れの対象になり得るかという問題がある。

ゆえに、女子もどきの人たちがなぜファッションに憧れるのかという点が全く描けない。見た目でしか判断されない職場に強制的に転職させられて、素敵な女子に囲まれたから勉強を始めたということになっている。ここでは「女子力の高さ」が肯定されているのだが、なぜ肯定されるべきなのかということが全くわからないのだ。

合コンの相手はイケメン美容師だったりするわけだが、30歳前の美容師にそんな余裕があるとは思えない。彼らは、自分たちの商品価値が30歳くらいで終わることがわかっているので、独立資金をためて自分の店を出すことが目標になっていたりするのである。男性に養ってもらうというのが「女子力を目指す唯一の理由」だとしたら、それは現代ではそもそも成り立たない。

つまり、素敵マーケターたちがインスタで憧れライフを顕示しても誰もついてこないという状況が生まれてしまうことになる。が、素敵マーケターはそれに気がつかない。で服が売れないと嘆き続けるわけである。

この背景にはプロの人たちと実際のズレがある。現代においてファッションが重要なのは、アサーティブな自己表現のスキルが必要だからである。自己表現のためにはファッションに対する基礎知識が必要なのは間違いがないが、それ意外にも他の人たちがそれをどう受け取るかという知識が必要になる。ある種コミュニケーションのツールになっている。

実はファッションを楽しむためにはあまり構造的なことはわからなくても良い。単に実践しているうちになんとなく「ああ、こうかな」というのがわかってくるので、あとはそれを洗練させて行けばよいからだ。その意味では外国語の習得に似ている。

だが、例えばこういう構造を勉強することは「伝わらない」ことに悩んでいる人たちにとってはある種のヒントになるかもしれない。例えば現在、政治状況について「安倍政権はこんなにひどいことをしているのにみんなそれに気がついていない」などという人が多いわけだが、多分、非顧客を捕まえるための何かが欠けているのではないかと思う。例えば、政治に関心がない人たちのニーズだったり、彼らが情報をどう受け取っているかという知識である。