大麻と共謀罪

共謀罪は政権に悪用されるだろう、が

テレビでニュースを見た。共謀罪法案への反対を訴える学生っぽい女性が「このままでは日本はめちゃくちゃになる」と言っていた。顔が歪んでいたので本当に心配しているのだろう。政治家が一般の市民にここまでの不安を与えるというのはとても罪深いことだなと思った。と、同時に日本が共謀罪で無茶苦茶になることはないだろうとも思う。

日本人には独特の政治的姿勢を持っている。まず、理論や理屈などにはあまり関心を持たない。しかし、利益を独り占めすることだけは「絶対に許さない」ので「自分の利益を削っても相手を困らせよう」とする。もしかしたら(というよりかなり確実に)共謀罪法案は政権によって悪用されるだろうが、多分大方の日本人は法的安定性などというものはそれほど気にかけておらず、誰がが捕まったとしても「何か悪いことをしたに違いない」と思うだけだろう。

日本人はあまり論理を気にしないといわれても「自虐的だ」と思われるだけかもしれない。ここで極端な事例について考えてみたい。

絶対に吸ってはいけない大麻

田中聖という歌手が大麻取り締まり法違反容疑で捕まった。捕まった途端に「大麻は絶対にいけない」とテレビで連呼するいわゆる「識者」の人たちが多かった。しかし、のちに「あれは自分の車ではないから所持していたかどうかは証明できない」ということになり、無罪放免となり、拳を振り上げていた識者たちは「なんだかがっかりだ」というようなコメントを出した。一つだけ言えるのは、彼らは大麻がなぜ悪いかを知らずに、田中さんを叩いていたのだということである。

スポニチによると松本人志は次のように言っている。

松本は田中の逮捕について「警察の勇み足的な部分もあったのかな」と感想を述べたうえで、「このニュースで、大麻って吸っていいんだ!と思わせてしまった。変な暮らしの豆知識を与えてしまった」と指摘。「(極端に言えば)後輩とかマネジャーとか知り合いに大麻を持たせておいて、吸わせてもらったらいいわけでしょ?そんなことを教えてしまったなと。逆に、吸ってなくても自分の指紋なりが付いた袋から大麻が出てきたら、俺逮捕されちゃうんだ!っていう、何とでも落とし込めるのもちょっと怖い」と法律の抜け穴に首をひねり、「おかしい、矛盾してるわ」と納得いかない様子。「大麻はあかん!って言っていた我々がアホみたい」と釈然としない表情だった。

もともと日本では大麻は禁止されていなかった。これが禁止されたのはGHQの要請によるものと言われている。理由は単純で、アメリカでは大麻が禁止されていたからである。ではなぜアメリカで禁止されたのかということなのだが、タバコ産業のロビーイングの成果であるという説がある。さらに日本の輸出産業を壊滅させる目的だったと指摘する人さえいる。これらの説の真偽のほどはともかく、常習性のある薬物のうちで大麻だけが禁止されてしまった。

一方、同じ有害植物であるタバコは政治家に守られている。健康への被害が深刻だということはわかっていて、西欧先進国では軒並み厳しい規制がかかっている。ハフィントンポストのこの記事を読むと、自民党の及び腰や世界標準のズレがわかる。

内心の自由ならぬ「内肺の」自由

いずれにせよ、日本で大麻を吸っていいのは、日本では麻はありふれた植物だったからだ。つまり、どこにでも自生する可能性がある。ということでわざわざ吸う人はいないにしても、雑草として燃やした時に空気を吸い込んでしまうことがあり得るのだ。つまり大麻は吸っても罪にはならないことになっているのにはそれなりの理由がある。共謀罪風にいうと「普通の人が共謀罪の対象にならない」というのが嘘なら「普通の人が大麻を吸うことは絶対にない」というのも嘘なのだ。松本さんが「大麻って吸っていいんだ」という認識を持ったとしたら、それはとても正しい。大麻は誰の肺からも検出される可能性があるが、表沙汰にならないのは大麻の抜き打ち検査が行われることなどないからである。

大麻は自生している。北海道が90%を占めるそうで、もともとは国策によって広まったそうだ。国策だったのは、大麻が有効な輸出品だったからである。つまり、絹などと同じ位置付けだったのだ。アメリカはナイロンなどの化学繊維を生産していたので、日本から輸出される安い自然繊維を脅威と感じていたのは間違いがない。いずせにせよ、北海道には今でも大麻が自生しており、これを刈り取って捕まる人が時折いるという。

大麻、タバコ、酒のうちなにが一番罪が重いのか

大麻が健康に被害をもたらすことは間違いがない。が、これはお酒も同じである。もしお酒が禁止されていたとしたら、みんな隠れて飲むことになるだろう。当然質の悪い密造酒ばかりになるだろうし、密売ルートに関わるうちにもっと「ヤバいもの」に手を出す可能性も高い。さらに、中毒症状を起こしても医者にかかることはできず(かかると捕まるので)中毒症状は増して行くことになるに違いない。実際にアルコール中毒というのはかなり深刻な状態なのだが、禁止しろという人は誰もいない。管理したほうが、結果的には健康被害が抑えられることがわかっているからだ。

タバコ・酒・大麻の中でどれが一番罪が重いだろうか。大麻で健康が蝕まれるとしても(健康によいという主張をする人もいるようだが)それは自分だけの問題である。鎮静効果があるので「ダウンした」気分になるそうだ。お酒の場合には気分が高揚して相手に乱暴を働くことがある、家庭内暴力の多くにお酒が絡んでいるのはそのためだ。周りに迷惑をかけるという意味ではお酒の方が罪が重い。さらに、タバコも周囲を巻き込む。副流煙被害によって健康を害する人が出てくるのだ。ゆえに他人に迷惑をかけるという意味ではお酒やタバコの方が罪が重いと言える。

にもかかわらず、大麻がこれだけ厳しく規制され、タバコは年齢制限こそあるものの野放し状態になっている。論理的にはまったく説明ができないが、それを気にする人はいない。日本人は論理をそれほど重要視せず「法律違反だから悪いことだ」と考えてしまい、単純に「悪い人は排除しよう」と思ってしまうからである。

大麻の場合には警察のお仕事になっているので、これを解禁すると警察で仕事をなくす人がでてくる。だから、解禁できないのだという説さえまことしやかに囁かれている。一方で、タバコが野放しになっている理由も中小の飲食店がタバコを吸う場所を提供するということで成り立っているからだろう。結局、現状が誰かの利権につながっていて、それを変えることが難しいというだけの話なのだ。

政治について語ることが悪いことになる時代がやってくるかもしれない

共謀罪もこれと同じようなことになるだろう。警察にしょっ引かれたからあの人は何か悪いことをしたに違いないということになるだけで、一般の人たちはさほど関心を持たないはずである。なぜならば、そもそも政治に参加しようなどという気持ちはないからである。

多分、共謀罪の一番の問題は、内心に踏み込んでしまい法的体系をめちゃくちゃにしてしまうということだと思うのだが、多分国民にとって一番大きな問題は「政治について話すことは悪いことだ」という意識が定着することだと思う。それは大麻を吸うような場所に出入りするのは悪いというのと同じ話だ。タバコを吸う喫茶店に出入りしても社会的に抹殺されることはないが、大麻を吸う場所に出入りするのは「ヤバい」ことなのだ。と同じことが政治にも起こりかねない。

これはいっけん政権にとって都合がよさそうに思えるが、日本人は誰かが利権を独り占めすることだけは絶対に許さないので、誰も政治に関心を持たないが、バッシングだけはひどくなるという状態が生まれるのではないだろうか。誰も政治については表立って話さないが、バッシングの時だけは一致団結するというような社会になるのかもしれない。

 

Twitter民はなぜいつもイライラしているの?

ある「フリーランスの作家だか他称自称ジャーナリスト」氏が民進党が参考に呼んだ人が筋悪だったと書いていた。「嫌な予感しかしない」と書いたのだが「どうして俺のあのツイートを読んで、民進党の議員が何かをしでかすと思い込むのかわからん」というような内容でキレ気味に返ってきた。

面白いなと思ったのは、その返事が全く的外れだったことだ。僕は前回民進党の掲載しているPDFに改ざんの後があるのではないかと書いた。どうも筋の悪い情報や人が民進党に集まってきているなあという疑念を持っているのである。つまり、民進党の議員が何かするに違いないというのは、作家さんの脳内補正の結果であって、コミュニケーションの結果ではないということになる。

日本人は党派性に反応しているだけで、事実は特に重要視しないことはわかっているので「民進党には頑張って欲しいから心配しているんですよね」というようなことを書いた。返事はこなかったので納得したか、その他の炎上しそうな何かに突入していったのだろう。

普段から喧嘩腰のひとなので特に驚きはしないのだが、面白いのはこの人に「情報が役に立たないと思うんだったら自分で調査しろや」というような喧嘩を売っている人がたくさんいるということだ。つまり、わざわざ喧嘩をふっかける人がいて、自分が言っていることが100%理解されないと怒り出すという人がいることになる。結果<議論>が荒れるわけだが、どうしてこういうことが起こるのだろうか。

一つにはこの作家氏がどうも「自分が考えている通りにことが進まない」ことに大変イライラしているという点だ。自分の判断基準がありそれに沿わない人がいることが許せないのではないかと思う。こういう人はよく見かけるが、議論には向いていない。議論とは誤解や知識のなさを埋めて、相手を説得するための技術だからである。そもそも成功するかがわからない上に、人と自分は意見が異なるということが前提なっている。村落的な状態で育った人たちはそもそも議論に向いていない。

ということは裏を返せば「知らない」ことが前提になっているソーシャルネットワーキングサイトは荒れないということである。

さて、最近新しいSNSを二つ始めた。一つは外国人の疑問に答えるQUORAというものだ。何回か答えを書いたが、普段当たり前と思っていることを改めて調べるといろいろな発見ができて面白い。例えば「日本のレストランに箸を持ち込んでも怒られないか」という疑問について調べていて、割り箸をやめてマイ箸を持ち込もうという運動があるのを知った。さらには割り箸は間伐材だから特に環境を破壊していないという意見もある。

次にWEARの投稿もやっている。こちらはみんな自分の服を褒めて欲しいわけだから、あえて他人の服を悪し様にいうことはないし、そのような仕組みもない。興味がなければそのままスルーすれば良いという仕組みになっている。実践が中心のSNSは荒れることが少ないわけだが、知らない人が知っている人を参考にするという仕組みがあり、うまく機能していると言えるだろう。

Twitterが荒れがちなのは、参加している人が答えを知っていると思っているからだろう。例えば、反安倍の人にとっては、日本の政治がよくなるためには安倍首相が今すぐ退陣しなければならない。これがなかなか起こらないからみんなイライラしているわけである。

これを打破する方法はいろいろあるのだろうが、SNSの例からみちびきだせる答えは2つあるように思える。一つは新しい視点を取り入れてゆくことで、もう一つは実践を伴うということである。新鮮な視点を得ることには喜びがあり、その分イライラが軽減される。

そう考えると、日本語のTwitterで議論が成り立たないのは、日本人のメンタリティや言語の構造などとは全く関係がなく、単に新しい情報や視点が入ってこないことの裏返しなのかもしれない。いつも同じような人たちが同じようなことを言っている環境というのは、改めて考えてみるとかなりフラストレーションが溜まる状態なのではないかと考えられる。つまり、新しい視点や知識は酸素のようなものなのだ。

だが、それを打開するのは極めて簡単だ。最近では様々なSNSがあり、特に海外旅行したり、繁華街に出かけて行かなくても様々な体験をすることができる。例えばかつて流行を知ろうと思ったら街に出て写真を撮影するしかなかったわけだが、これは一歩間違えると「俺を撮るな」と通報されかねない行為だった。だが、今では自分から進んでコーディネートを紹介して、アイテムを買う場所まで教えてくれるのだから、つづづく便利な時代になったものだと思う。

やはりネットというのはうまくつかえばとてつもなく便利な場所なのである。

マスコミは政治を二度殺す

「自公」ではなく「維公」で大阪が壊れる?〈AERA〉という記事を読んだ。大阪が維新によってめちゃくちゃにされ、それを公明党が支えているということが書かれている。これを読んでマスコミの罪について考えた。

大阪市と千葉市には共通点がある。自民党を中心にした翼賛政治を放置したおかげで財政的にかなり苦しい状況になった。違いはいくつかある。大阪市は過去に発展していた歴史があるので、収奪できる資産がある。一方、千葉市は東京の近郊として発展した歴史があり、農地を住宅地に変更する以外の財産を持っていなかった。

もう一つの違いがマスコミだ。大阪には在阪のマスコミがあるのだが、千葉にはそれほど顕著なマスコミがない。千葉日報と千葉テレビがあるのだが、大した存在感はない。千葉市民も千葉の動向にはたいして興味がないので、地元の政治ニュースというものが存在しないのだ。

大阪でマスコミが果たした役割は大きいはずだ。地元がうまくいっていないというニュースが広がり、それがマスコミによって拡大する。するとあまり政治に興味がなかった人が受動的に「大阪がうまくいっていない」というニュースを受け取る。しかし、中には判断能力がない人もいる。そこでインスタントソリューションに飛びつくことになる。例えば「民営化したら全てがよくなる」とか「大阪市職員が怠けているせいで大阪は発展しない」とか「非効率的な二重行政が問題だ」といった具合である。大抵は誰かを指差して非難するのだ。

一方、千葉にはマスコミがほとんどないので、こうした増幅は起こらなかった。結局市政を改善するためにやったことはとても細かい。例えばゴミをできるだけ減らすとか、今まで業者に委託していた事業を住民に委託するといった類のことである。つまり、うまくいっていない原因ではなく、何をやるのかに注目したのが千葉市と言える。こうした地味な取り組みはマスコミの注目を集めない。最近かろうじてニュースになったことといえば、中心部からデパートが消えたことと、ドローンを使った配送特区ができたことくらいだ。もう少ししたら駅ビルができたことがニュースになるだろう。

もちろん、全てが完璧によくなったわけではないのだが、職員の意識は少しづつ変わってきたと思う。財政はいくらかマシになり、住民の中には協力する人もでてきている。もちろん、興味がない人がほとんどなので、直近の市長選挙の投票率はあまり高くなかった。低い投票率があまり問題にならないのは(意地悪な味方かもしれないが)それほど潤沢な利権がないので「独り占め」のインセンティブが高くならないからだろう。つまり、今後市が財産を蓄積すると、それを利権化したい人たちがでてくるかもしれない。その時には注目度の低さは裏目にでるかもしれない。

一方、インスタントソリューションに飛びついた人たちは数年経って何も改善しないと文句を言い始める。しかし、それでも変わらないと「やっぱりダメだったんだ」ということになり、やがて関心を失ってしまうだろう。現在、国がそのような状態にあると言える。民主党政権のインスタントソリューションに飛びついた人たちがやがて離反し、安倍政権が放置されるようになった。今はめちゃくちゃな状態だが「もう何をやってもダメ」という気持ちが強いのではないだろうか。大阪市でも民営化が進んだおかげでかなりひどいことが起きているようである。それでも、自民党はダメだし、民進党は全く当てにならないと市民が考え続ければ、さほど政権担当能力のない維新が政権に居座り続けることになるかもしれず、それは衰退を一層加速させるだろう。

このように考えると、政治にはいろいろな関わり方があることがわかる。

  1. 政治に興味があり、政権を支える人たち。彼らはほっておいても政権を支持してくれるので特に何もする必要はない。これでうまくいっているのなら、特にいうことはないし、参加して社会をよくしてくれる分には特に問題もない。
  2. 政治に興味があり、政権に反発する人たち。何をやっても反発するだけなので、こちらも実はあまり気にする必要なはない。実際には社会を作るのに参加したりはしないからだ。
  3. 政治に興味はなかったが、積極的に参加する意欲を持った人たち。参加することによって、協力の面白さを知ることができるかもしれない。
  4. 政治に興味はなかったし、積極的に参加する意欲もないのだが、マスコミが提供するインスタントソリューションに飛びつき、効果がでないと離反してしまう人たち。大騒ぎして、反発する人たちを叩いたりする。社会参加には興味がなく、誰かを叩きたいだけなのだろう。

マスコミは第4カテゴリーの人たちを刺激し、間違った政策をチョイスさせた挙句、彼らを離反させることで、うまく行かない政権を放置することになるのではないかと考えられる。一方ソーシャルメディアは使いようによっては第3カテゴリーの人を刺激することができる。個人でも情報発信ができるので、市長なり政治家が一人で支持組織を作ることも可能だからである。

つまり、マスコミはまず極端なインスタントソリューションをあおることによって政治を殺し、次に失望によってもう一度殺す。そう考えると、あるいは政治報道から手を引くべきなのかもしれない。

日本語は特別に速い言語なのか

外国の人が日本語はなぜそんなに早いのかという質問をしていた。面白いなあと思って調べてみた。




倍速言語という考え方があって、それなりに引用されている。倍速言語の理屈は次のようなものである。

  1. 言語は、音節の複雑さと音節を送り出すスピードで、情報量が決まる。
  2. 音節が単純だと音節を送り出すスピードを早くする必要がある。日本語は子音と母音を1つづつしか使わないので、音節が単純と言える。
  3. 難しい音節があるとスピードが落ちるので音節はより単純化し、速度が最大化される。

この文章は「日本語は特殊である」という自己意識に基づいている。が、英語でDouble Speed Languageで調べてみても記事は検索できない。見つかったのはTIMEのこの記事だった。

データが圧縮されている(原文ではdense 濃い・密集しているとなっている)とスピードが遅くなる。

  • 英語の密度は0.91で一秒間に6.19音節が話される。
  • 中国語はもっと密度が高く0.94で一秒間あたりの音節数は5.18になる。
  • スペイン語は密度が0.63であり一秒間あたりに7.82音節を話す。
  • 日本語は密度が0.49しかなく、したがって一秒間に7.84音節が話される。

これを読むと、日本語が「速い言語」であることは間違いがなさそうだが、倍速というのは言い過ぎのような気もする。が、言語というのは、音節を複雑にするか、速度をあげるかで二極化されているのかもしれない。

だが、これは日本語話者の実感とは若干違っている。英語が苦手な人がよく「英語が早すぎて聞き取れない」というからである。しかし、この「英語は速い」というのは間違いで、実は英語の音節が複雑すぎてよくわからないということなのではないだろうか。英語に慣れるためには英語の音節を丁寧に聞き取ることが必要になってくるのだろう。

もともと複雑なものをカタカナに変換して聞き取ろうとしても「難しくてよくわからない」ということになるだろう。一つわからない音節が出てくるとそこでつまづいてしまい、そこから先がついて行けないという感覚になるだろう。

この記事によると日本語の情報伝達効率はそれほどよくないらしい。文中にグラフが出てくるが、英語が最も総体的な伝送速度が高く、日本語は伝送速度が低いということが示されている。

なお書き言葉については別の観測がある。日本語は漢字のおかげもあり、少ない文字数に多くの情報を詰め込むことができる。しかし、Twitterを分析したところあまり長いツイートは見られないようだ。情報量が多すぎると処理しきれなくなるのかもしれない。確かに、あまり長いツイートをみると疲れてしまうし、長々と書いたものより短くスパンと言い切った方が反応もいくらか良い。

ということで、どの言語でも処理できる情報量にはそれほどの差はないと言えるのかもしれないが、どのように効率をよくするのかというのは、言語によってそれぞれ工夫されていると言えるだろう。

Google Recommendation Advertisement



日本人を褒められますか?

最近、毎日のようにQUORAに投稿している。日本関係のことだとあまり調べ物をしなくても書ける。レコメンデーションシステムがあり、書き込んだのと同じトピックの質問が送られてくる仕組みになっているので、同じようなものを回答し続けることになる。Upvoteというシステムがあり「良い答えだ」とおもったらupvoteしてもらえるので、ちょっとした励みにもなる、また、英語でこれは何というのだろうということも調べられるので、ノンネイティブとしては英語の勉強にもなる。割といいことが多い。

外国人の日本についての質問には幾つかの特徴があるのだが、韓国人や中国人と比較して日本人はどう優れているかという質問が多い。どうやら三カ国がお互いに対抗意識を持っているということはうっすら知られているようだ。だが、外国人から見るとみんな同じに見えるので、対抗しているのが不思議に思えるのかもしれない。

日本の膠着しているシステムについて愚痴っている投稿などもあるが、わざわざ外国人に愚痴っても仕方がない。こうなると日本人を褒めたいわけだが、日本人を褒めるのはなかなか難しい。三ヶ国の違いがわからないと褒めたり貶したりということができないからだ。いろいろなやり方があるだろうが、日本人の特徴として次のような項目を利用している。

  • 人間関係が比較的フラットである。
  • 優しくて穏やかで相手の気持ちを思いやる。
  • ものの言い方が控えめである。

さて、これを使って日本人を褒めるわけだが、日本人を褒めて韓国人をけなすのは大人気(おとなげ)ないので「どちらもいいところがありますよね」などということになる。ポリティカル・コレクトな答えだが公共空間では無難な線だろうし、説得力が増す。

つまり、日本人は控えめな言い方をするが、韓国人は開けっぴろげで正直であると書くと受け入れてもらいやすいように思える。これは、日本人と韓国人には違いがあるがどちらが優れているというわけではありませんよということだ。つまり、どちらにもいいことがあるわけだが、同時に日本人の美点はよくない出方をすることがありますよということでもある。

日本人は直接的な言い方を好まず、あまり自分の本心も打ち明けない。これを控えめという言い方もできるが、友達になっても距離があるという言い方もある。これに悩んでいる外国人は多いらしい。つまり、日本生まれで日本人の血統を持っていないと「日本人扱いしてもらえない」と感じている人はかなり多いらしいのだ。アニメやその他の日本文化が好きで日本にやってきたのにいつまでもお客様扱いされているという不満を抱えている人もいるし、アジア人の中には外人扱いすらしてもらえないと嘆く人もいる。

いずれにしても、もし「日本素晴らしい!」と思うのだったら、外国語で日本について説明できるようにしておいたほうがよいだろうし、そのためにはある程度仕組みを理解する必要がある。そのためには、日本人は近隣諸国の人たちとどう違っているのかということを知らなければならない。

日本人の中で日本すごいと言っているうちは「四季がきれい」とか「民度が高い」とか言っていればいいのだが、例えば四季がある国は多いし、民度って一体何なんだということになる。民度が高いというのは結局「中国人がお行儀が悪い」と言っているにすぎないので、厳密にいうと日本人の利点ではない。

結局「美点」というのは比較で成り立っているので、日本が好きといいたい人たちは中国や韓国のいいところを学ぶべきなのだということになる。

なぜ政府批判は封じてはいけないのか

最近、政府の記者会見などでは記者がキーボードを打つカタカタという音だけが聞こえるのだそうだ。忙しい記者たちが仕事を早く片付けたいからだと思うのだが、多分自分たちが何をやっているのかという意味が見出せていないのではないだろうか。これは民主主義がじわじわと自殺しつつあるサインだと言える。

最近、政府と反政府の人たちの間の対立が激しくなり、政府批判は自民党の追い落としを意味するようになった。「安倍政権もうなんでもいいから消えろよ」というわけだ。この極端なゼロイチ思考は様々なところで見られる。最近では不倫疑惑を持たれたカップルのうち有名な方を晒し者にして社会的な死を求める運動も見られる。覚せい剤を使った息子を持った有名な俳優に仕事をやめさせるという圧力も働く。批判に慣れていない分、一度批判が噴出すると誰にも止められなくなる。そこで、社会的な死をもたらすまで晒し者にし続けるという悪い習慣ができた。

そもそも批判とは何だろうか。いろいろな考え方があるだろうが、ここではプログラミングのバグ取りだと考えてみよう。つまりより良いプロダクトを作るためにみんなで協力するという作業がジャーナリズムなのだ。

誰かが作ったプログラムにはミスが起こり得る。これを防ぐために何回も見直してから出すことは可能だが、時間がかかりすぎ効率的ではない上に、完全に問題を取り切ることはできないかもしれない。ちょっとしたミスが出る前提でβテスト版を出せれば、それが一番効率が良い。民主主義も同じで、人が作ったコードである以上間違いを含んでいる、だから、モニターしてチェックするわけである。

誰も間違いを犯さないという前提はなんとなく権力者には都合が良いように思えるわけだけれど、実は検証のコストが極めて高い。間違ってもその間違いを認められなくなる。だから、周りの人たちが間違いを指摘してくれた方が楽なのだ。

安倍政権の中の人たちは「俺たちは絶対に間違えない」という前提でいるようだが、これは自分たちの責任を軽視しており、何かあっても責任を取らないからなのだと思う。が、実はそれを批判する側も批判することの役割を放棄している。右から左に情報を流し、あからさまな間違いがあった時だけ大騒ぎした方が楽だからだ。

間違えるつもりがなくても間違えるということはある。例えば、地元の千葉市では財政再建が行われる過程で人件費の抑制が行われているようである。いろいろと無理が生じているらしいが、お互いの職域を侵犯しないという不文律があるようで、問題を是正したりお互いにカバーすることができない。評価に絡むことなので、市長に指摘して睨まれたら大変だと思っている人もいるようだ。このため、些細な問題が積み重なっている。

そこで通報制度を使って「どうなっているんですか」という問い合わせをすることがあるのだが、決まって担当者が「責められている」と感じるようである。直接電話がかかってきて「説明したい」という人もいる。公式ルートで上がると文書として記録が残る上、市長にも見られてしまうので、それを避けたいのかもしれない。

特に誰かが私服を肥やしたいと思っているわけではなくてもこうしたことは起こるのだ。それを放置することもできるのだが、結果的には恒常的な不満につながるか、大きな事故に発展することになると思う。が、普通市民が関わるのは選挙の時だけである。

これに対応していると、思い込みの強さを感じる。誰かに問題を指摘されると「その人の人格が否定された」という気分に陥るようだ。さらに、問題を対処する側も「誰が犯人なのかを特定して、その人にバッテンをつけて終わり」ということが多いらしい。組織が責められていると感じ、それを個人に転嫁したくなるのだろう。日本の社会に特有の「個人のせいにして終わりにする」という悪い癖が抜けないようなのだ。だから、問題は隠蔽されることになり、公の場に持ち出して改善して行こうという動きにつながらないのだろう。

さらに、関係者が問題を表に出して、検討しようという文化がそもそもないらしい。何人かの人に「この機会を利用して、みんなで話し合ってはいかがですか」と言ってみたが、全くピンときていないようだった。すべて個人の能力に帰結させてしまうのだ。昨日電話をかけてきた人は、自分は責められていると思い込み「直接会って説明したい」と言っていたが、責めているわけではなく、問題がどこにあるのかを探す機会にしていただきたいというと黙り込んでしまった。多分、何を言われたのかはよくわかっていないと思う。日本の組織にはそれくらい「自分たちで考えて、仲間同士で助け合う」という文化が欠落している。

民主主義にとって批判はバグ取りにすぎないと考えてみるのはとても大切だと思うのだが、現場の記者たちがその気になれないのは、受験勉強が個人競技であって、そのあと「絶対に間違えない(何も実行しないのだから当然だ)」マスコミに入ってしまったからかもしれない。QAのつもりで行動するという気持ちになれないのだろう。その上、日本の組織にもお互いに助け合うという文化はないので、それを他の組織にも応用してしまうわけだ。

菅官房長官の「批判は当たらない」は、プログラマーが「俺の作ったプログラムには絶対バグがないから、動作不良に見えてもそれは気のせいだ」と言っているのと同じだ。自動車に言い換えれば「俺の作った自動車は完璧にプログラミングされているから、事故を起こしたらすべてユーザーのせいである」というようなことになるだろう。誰も、そんな人の作った製品は買わなくなるだろう。にもかかわらず、それしか選択肢がないというのがこの国の抱えている不幸なのかもしれないのだが、実は政府の側だけでなく、それを見ている人たちにも問題はあるのだと思う。

 

表現の自由について説教する

百田尚樹さんという人が一橋大学の学園祭への出演をキャンセルされたようで、これについて局所的な議論が起こっているらしい。これを「表現の自由の圧殺」と言って擁護する人がいるとのことである。左翼の謀略だと騒いでいる人もいるらしい。

とても不毛な議論だが、なぜこれは不毛なのか整理してみたい。表現の自由が重要なのは。民主主義が一人ひとりの参加を前提にしているという前提が受け入れられているからである。特定の人だけしか意見が表明できないと、結果的に決まったことが歪んでしまう可能性があり、歪んだ決定は大抵なんらかの間違いを含んでいるのだろうというのが基本的な線である。

表現の自由を気にしない人は「俺の方が賢いから、相手の意見なんか聞かなくても正しい判断ができる」と考えている。しかし、安倍政権やトランプ政権を見ていると、その決定には穴がとても多い。トランプ政権は目の前にいる人にウケるために言ったことが、そこにいない人を怒らせている。本来なら他人の意見を入れて、その意思決定を間違いのないものにしなければならない。安倍首相に至っては批判や検証もすべて「印象操作」で片付けている。自分だけが正しくて相手は間違っているという確信があるのだろう。

ここで重要なのは、表現の自由が「言うこと」だけを指しているわけではないということである。つまり、聞くことも「表現の自由」に含まれているのだ。とにかく、表現の自由は「自分の言いたいことを一方的に捲(まく)したてる」ことではないということがわかる。

百田尚樹さんといえば、過去に特定の新聞社が潰れてしまえばいいといったことで知られている。自分が聞きたくないことは聞きたくないが、言いたいことは言いたいという人である。ということで、特定の人たちを集めて自分の考えを一方的に捲し立てても構わないわけだが、公の場に出てきて自分の表現の自由を主張してもあまり説得力がない。ということで、一橋大学の有志の判断は正しかったと言える。

さて、これについて百田さんを批判して終わりにすることもできるのだが、我々は何を学ばなければならないのだろうかについて考えてみたい。それは表現の自由を標榜する以上は「聞くための窓は開けておかなければならない」ということである。政治のような大きな問題に直面すると意見が固まってしまいがちだし、よく考えている問題ほど、自分の意見は変えにくくなる。が、時には努力して考えを変えることも必要なのではないだろうか。

表現の自由が大切なのは、多分我々は間違えることがあるからなのだ。つまり、自分が何を話すかというのは表現の自由のほんの一部にしか過ぎないのだろう。

逆に表現の自由を否定するということは、自分の意見をより良いものにするチャンスを逃すということになる。自分の考えが機能しているかどうかを検証する機会を失ってしまうのは、実はとてももったいないことなのかもしれない。

安倍首相はなぜ嘘をついてはいけないのか

東洋経済ONLINEを見ていたら中島義道という人が人は嘘をつくのになぜ政治家は嘘をついてはいけないのかというような疑問を提していた。有名な雑誌のWeb版なので有名な哲学者の方なのだと思うが、答案を書いてみる。

まず、民主主義を、話し合いによってできるだけ多くの人が幸せに暮らすことができる社会を作ることだと定義する。社会は一人ひとりの貢献によって成り立っているので、納得感が得られなければ社会そのものへの信頼がなくなる。信頼がなくなると人々は努力を出し惜しみすることになるはずだ。幸せという言葉が気に入らなければ「できるだけ嫌な思いをしない」と言い換えても良い。

そのためには、話し合ってみんなが納得するように物事を決めて行くことが必要だ。話し合うためには「今はどういう状況で」「こう決めたらどうなるか」ということをできるだけ正しく提示する必要がある。完全に読み切ることは難しいので「できるだけ正確に」ということになる。話し合いの過程を記録しておけばあとで見直せるので、間違えたとしても見直すことができる。

ところが、人は嘘をつくことができるし嘘もついている。ということで、判断を自分に都合の良いように誘導することも可能だろう。が、嘘をついて話し合いの過程を歪めてしまうと、人々はやがて「あ、これはおかしいぞ」と考えて、社会への関心を失ってしまうかもしれない。嘘をついて得する人は嘘をつくだろうし、得がない人たちは話し合いに参加しなくなる。さらに人には自分が納得して決めたことには従おうという特性がある。決めるのに参加しない人は、公然と逆らうと何かと面倒なのでこっそりと従わないことになるかもしれない。

つまり、嘘が横行すると、決めたことへの信頼性が失われ、結果としてみんながいろいろと大変な思いをする。が、現実としては嘘はつける。だから、信頼性を損なわないようにするために「嘘をつかない」というタテマエが必要だということになる。嘘をつけるのだが、嘘をつかないようにしようということである。嘘をつかないようにしようというのはキレイゴトなのである。

人は嘘がつけるから「嘘をつかない」としないと話し合いがうまく進まないというのは、スポーツのルールと同じようなものだ。ゴルフでは誰も見ていない時にボールを穴に入れてしまえば優勝することができるが、誰もそんなことをしない。そんなことを許せばゴルフではなくなってしまうからだ。

こうしたことが哲学の考察対象になるのは日本人の特性によるものと思われる。なお中島さんが本気で「嘘をついてはいけない」というのを考察の対象にしているのか、それともわざと言っているのかはこの東洋経済ONLINEの記事からはよくわからない。

年配の日本人は終戦を経験している。そもそも民主主義ではない時代を記憶していて、急に民主主義が入ってきた。またアメリカに上から頭を抑えられていて民主主義以外の選択肢がなかった。中島さんは1946年の生まれということで、物心ついた頃にはみんなが「なんだかよくわからないが民主主義はすごい」と言っていた時代の人なのだろう。自分たちで民主主義を獲得した国では「タテマエ」の大切さを理解しているのだが、民主主義が上から降ってきた日本では、その重要性が理解されなかったのかもしれない。例えばトランプ政権下のアメリカは場合によっては独裁体制になってもよいわけだから、その切実さにも違いがあるだろう。できるけどやらない、のだ。

次に日本人は個人の話し合いで物事を決めてこなかった。いろいろと裏で話し合いをした結果が全体に承認されるという形態を取る。一人ひとりの話し合いがあまり重要な意味を持たないから、表向きの議論で嘘をついても大した影響がなかったのかもしれない。だが、最近では裏での話し合いがうまくゆかないことが増えてきているので、嘘が影響を与えるようになってきているといえるのではないだろうか。

この論の一番の弱点は「そもそも話し合いなんか必要ないのではないか」というものである。完全な個人がすべてを間違いがないように決めてくれればそれでよいはずだ。だが、実際にはそうした試みはおおかた失敗している。完全独裁のままの国はそれほど多くないし「優秀な共産党がみんなの代わりに決めてあげる」という共産主義はほぼ絶滅した。

なぜ、話し合い型の社会の方がうまく行くのかはよくわからない。もともと類人猿として脆弱だったので助け合いが発達したという学説すらある。こんなことを科学で証明したいと考えるのは「話し合い」や「助け合い」の効用が自明ではないからだろう。

理論がわからないので過去の事例を参照するということもできる。

例えば北朝鮮と韓国は北朝鮮の方が進んだ工業国だったのだが、長い間に大きな差がついてしまった。西ドイツと東ドイツも同様だった。東ドイツは反逆者を押さえつけるの大掛かりな秘密警察を作ったがすべて徒労に終わった。長い間「気に入らなければ出て行っても良い」と言っていたのだが、ある時期多くの国民が「じゃあ、出て行きます」ということになった。どちらも同じ民族なので社会的には似通っているはずだから、体制の違いが結果に現れているとしかいいようがない。限られた人が決めるより、みんなで決めた方が成功する可能性が高い。

一方で、サウジアラビアのように独裁的な政権が比較的うまくいっている国もある。が、石油資源を抱えていて国民に不満が出ないように富が分配できるから成り立っている。ロシアも天然資源を抱えているので、ある程度反対勢力を懐柔することができる。こうした「何をすれば幸せになれるか」ということがわかっている国では、ある程度の独裁もうまく行くのかもしれない。

ということで、よくはわからないが話し合いや助け合いは大切らしいということがわかる。

だが、もう一つの欠点は少し答えを出すのが難しい。みんなで一生懸命に話し合ってもすべての人が納得できる答えなど見つからないという可能性があるのだ。この場合は「優しい嘘」をついて、決して満足できない人たちにかりそめの満足感を与えるか、犠牲にするほうがよいということになる。民主主義の発達した先進国は、実は周辺国から資源を安い価格で買い入れて高く売ることで成り立っていた。国境という区切りがなくなったので、今かなりの混乱が起きている。この問題は多分、政治学の世界では「グローバリズムをどの程度展開するのか」という問題になっているのだろう。そもそも「話し合いでみんな仲良く」というのが壮大な嘘だったという可能性はあることになる。

この可能性を考えると、実は政治家は嘘をつかざるをえなくなっているのではないかという可能性が浮かんでくる。かつては見なくて済んだものを直視せざるをえなくなっているというわけだ。つまり「政治家は嘘をついて良いのか悪いのか」という疑問の立て方が間違っていて、なぜ嘘をつかざるをえなくなっているのかということを考えなければならないのかもしれない。

ダイエットについて真面目に考える

しばらく運動ができない時期があり67kgくらいあった体重がピーク時には84kgくらいいった。しばらく「もういいや」と思っていたのだが、写真を撮影するとあまりにもひどかったので、再びダイエットしてみることにした。

以前に食事を変えて(炭水化物を抜く)三ヶ月程度で10kgほど痩せたことがあった。炭水化物を抜いて1kmくらい歩くというのをしばらく続けたのだ。だが、今回は食事を変えたりということはできなかった。

やってみたこと

まずは体重計に乗ることから

太ってくるとそもそも体重計に乗るのが嫌になる。まずは現状の把握が重要だが、体重計に乗ろうと思うまでに数日かかったと思う。が、とりあえず乗ってみた。これまでの最高が80kgくらいだったのでそれを少しオーバーしている。ちょっと絶望する。

とりあえず最初の一歩を踏み出すことが大切

時間がないとか食事を自分でコントロールできないなど、制約がある人も多いと思うのだが、まず開始してみることが大切だと思う。とりあえず1時間くらい歩くことにした。ガラケーにある万歩計を使う。計測してみるとだいたい7000歩という値が出る。これでだいたい一ヶ月に1kgくらい減らすことができた。この状態が半年くらい続くと6kgくらい痩せることができる。

しかし、1kgくらい減っても体型にそれほどの変化は見られない。あまり成果を気にしないことにする。

内臓脂肪を減らすためにお酢を飲む

内臓脂肪を減らすという触れ込みのお酢を飲むことした。知っている人がお酢を飲んで胃を荒らしたという話を聞いていたので、りんごなどで調整されているものを買ってきた。だいたい一週間くらいで一本飲むのだが価格は近所のスーパーで265円(Amazonで買うとちょっと高い)である。体重は減っているものの、それほど劇的に変化がわかるわけではない。

もともと一番右側の穴で締めていたベルトが一番左の穴になった。半年でこれを左から3番目まで縮めたのだが、最後の1つが落ちなくなった。

よく見ると右の穴の隣に筋がついているが、無理して締めていて付いた筋だ。締められるけど、ちょっときついみたいな状態である。

どうも「内臓脂肪大作戦」はここで効果が落ちついてしまったわけだ。お酢を飲んで運動するというのに効果がないわけではないのだが、作戦を切り替えなければならない。

停滞してからやったこと

体重の減少そのものは76kg近辺で止まった。半年強で8kgくらい痩せたことになるが、まだ少し腹が出ているという状態だ。

筋トレする

ちょっと体が動くようになってきたので、筋トレを始めた。しかし、あまり張り切り過ぎると続かないことは容易に予測できるので、腕立て伏せ3回(胸の両側、上、下と部位が3つある)で10回づつ行うことにした。あと腹筋を3種類やる。普通の腹筋(足を上げることで腰を床につける)、足を上げ下げして下腹を刺激する、ひねるというものをやることにする。スクワットをやっていたが面倒なのでやめた。時間にして10分もかからないので、やっててもあまり意味がないのかなあと思う。

行ける人は時間を作ってジムに行ったほうが良いと思う。スウィッチが切り替わるのでまとまった運動ができるからだ。が、マシーントレーニングも考えものだなあと思った。とりあえず重りを動かしているだけだと「どの筋肉に効いているのか」をわざわざ考えない。

写真を撮影する

ダイエットというのはなかなか思うように効果が出ないので、写真を撮影することにした。ちょうどファッションに興味があったのでファッション投稿サイトで反応を見ながらやってみることにした。しかしやってみると、頭が大きく脚が短い。これを補正するために画角を調整する人もいるようだが、ポージングでなんとかやってみることにした。ファッション雑誌を真似てみるわけだ。

気がついたこと

世の中にあるダイエット本にはさまざまなアプローチがあるのだが、それぞれこうした要素について言及はしていても全体については書いていない。だから、あるダイエット法をやったからといって、それがすぐさま劇的な効果を生むということはないわけだ。最初はベルトの穴が減ったりして嬉しいわけだが、だんだん数字が動かなくなると「もうやめちゃおうかなあ」という気持ちになる。そこで数ヶ月でやめてしまうと「効果がなかった」ということになってしまうのだと思う。

だが、実際には8kgほど痩せている。これの効果を実感したのは4kgの荷物を背負った時だ。背中にずっしりくるわけだが、これの倍を身につけていたことになるわけで、かなり大きな負担だったことがわかる。だから、諦めずに続けることが重要だ。

体重が減ることとスタイルが改善することは実は似ているが違う

停滞を破ったのは実はあまり脂肪燃焼とは関係がない行動だった。ということである程度守備範囲を広げておくのは重要である。

写真撮影をしているうちに姿勢が気になりだした。脚が短く、頭が大きいからだ。日本人だしモデル体型でもないから仕方がないよなと思ったのだが、サイズなどを計測してみる。すると実はそれほどひどいものでもないのである。姿勢が悪いんだなあと思った。

そこで最初は脚と胸で姿勢を維持しようとした。すると腰に無理がかかったようで左腰を痛めた。痛くてしゃがめないほどである。左腰に負担をかけないようにして(というよりかけられない)姿勢を補正するためにはどうしたらいいかを考えた。

そこで上半身を持ち上げてみる。するとウエストが細くなる。さらに下腹部に力を入れて下腹部を引っ込めた。これで下腹が凹む。さらに年齢が行っても太っていない人の肩甲骨がTシャツ越しにわかることに気がついた。これを真似てみると胸をかなり反り返した感じになる。その状態で入らなかったパンツを履いてみたところすんなりと着ることができた。つまり知らず知らずの間に体が緩んでいたのである。

下腹部を出したり引っ込めたりすると腹式呼吸になるのだが、これをしばらくやるとさらに2kg弱痩せた。さらに最後の一穴が無理なく締められるようになった。

そういえばこれを利用したロングブレスというダイエットもあったなあと思った。ロングブレスダイエットは「息を吐き切る」という点に特徴があり、きつければきついほどいいという印象があったのだが、実はそれは本質ではなかったようである。下腹で呼吸するということがよくわかっていなかったのだ。そう考えると丹田呼吸という本も幾つか出ていて「いろいろつながっているんだなあ」などと思う。

体脂肪率が減ったわけではないので、排水がよくなっただけという可能性もあるが実際に体重が減ったし、ベルトも縮まった。これでいいんじゃないだろうか。

最初の行動が無駄になったわけでもなさそう

このように三段階でダイエットしてみた。最初にやっていたことが無駄になったのではと思える、しかし、第二段階以降を実行するためには、そもそもある程度内臓脂肪が減っている必要があり、なおかつ姿勢を保つための体力も必要である。体力がないにしても、少なくとも筋肉がどう動いているのかという意識を持たなければならない。つまり「無駄だなあ」と思ってやってきたことが実は効果があったということが後になってわかるのだ。

ジムで急激に体重を減らしてもやみくもにマシーンを引っ張っているだけでは「単に痩せた」だけで後には何も残らない。何をどう動かしているのかという意識付けが実は重要なようである。

例えば「お腹を引っ込めたい」と思っていても、実はお腹がどうなっているのかをよく知らない。実は腹筋は幾つかのブロックにわかれていて横にも広がっている。どこに何があるかわからないと力を入れることもできない。さらに腹部の上と下では効果的な運動すら違っている。このように筋トレはトレーニングそのものが目的なのではなく「そもそも筋肉ってどこについているの」かを確認するためにもできるわけだ。GQには次のような記述がある。

腹凹エクササイズは、腹直筋、内外腹斜筋、インナーマッスルである腹横筋をそれぞれターゲットごとに鍛えるメニュー。回数は各20回1~3セットを目標に、週2回からスタートしよう。まずは全メニューにトライを。続かない人は、各10回、週1回からでもいい。とにかく、挫折することは避けてほしい。

まとめると

  • 無理なく続けられることが重要。5分の筋トレだと特にやめる気にならない。歩くのも習慣にしてしまえば楽だ。これをライフスタイル化すると言ったりする。成果と結びつけてしまうと、
  • ダイエットにはいくつかのプロセスがある。停滞したらアプローチを変えてみるといいのだが、何をしていいのかよくわからない。しかし、体脂肪を減らすことから姿勢を正しくすることに変えてみるなどのやり方があるので、いろいろ手をつけることは重要なようだ。
  • すぐに効果がでない場合に備えて記録を取ってみる。体重計のように数字で測ってもいいが、ベルトの穴だったり、昔のスーツだったりといろいろな計測方法がある。複数の指標を持つことが重要なようだ。

有能感に苛まれる人たちと意味の盗人

江川紹子さんが池田信夫さんに反論しているのを見つけてかなり気分が悪くなった。池田さんは獣医師さんについて書いているのだが、これはいったい何のための議論なのだろう。ひどい言葉が並んでいるが、中でも衝撃を受けたのは「ペットは単なる愛玩品だ」という発言である。

池田さんはネットで挑みかかってくる人たちを論破して有能感に浸っているようだ。たしかに筋は通っているように思える。が、そこには実感がない。

個人的なことになるが、最近犬が倒れた。池田さんに言わせれば単なる愛玩品でお人形などと変わりはないのだろう。つまり捨てるか安楽死させてしまうのが「合理的」なのかもしれない。しかし、家族の悲嘆は大変なものだった。倒れて食事ができなくなった犬にスプーンで砕いた餌を与え、倒れるのは痛かろうと周りにカーペットを敷き詰めた。散歩に行けなくなると糞尿の世話もしなければならない。

好きで犬を飼ったわけだから自己責任だし、人間より寿命が短いのでやがてはこういうことになるのはわかっている。が、動物はやはり単なる愛玩品ではない。それが理屈で説明できるかと言われるとできないし、その検診や犠牲が何か合理的な役に立つかと言われればそれも疑問だ。例えば牛や豚は食べるのに犬は救いたいと思うのかと言われると合理的には対応できない。実際に餌は食べなかったが、牛の缶詰などは喜んで食べていた。食べるということで「動きたい」という意思が生まれ少しばかりよくなったりするのだが、やはり他の動物を犠牲にしているという見方はできるだろう。

さらに獣医師さんはお休みの日にも診察をしてくれた。「金をとっているから当然だろう」という考え方もできるわけだが、1日病気の犬に付き添ってくれたようで本来ならそれなりの対価を支払わなければならない。休診日にも見てもらったが、猫の薬を求めてくる別の人にも親切に対応していた。経営の能力は必要だと思うが、それだけではやって行けない仕事だと思った。動物が好きなんだろうなとも思うが、好きだけでも続かないだろう。

確かに、獣医の供給に関して利権があることは認めるし、それは「抵抗勢力」だということはわかる。獣医と言っても畜産関係が多く、ペットドクターが全てではないということも学んだ。だが、それは集団としての獣医学会と業界の構造的な問題であって、個人の問題ではない。つまり、獣医学会のあり方を批判するのは良いのだが、それを一人ひとりの獣医の否定に繋げるのはとても乱暴な考え方だ。

議論が複雑なのは命を扱っているからである。政治は単なる理論家のお遊びではなく、生活につながっており、人はそれを合理性だけで判断ことはできない。問題解決のために、努めて理性的になる必要はあるだろうが、人々の暮らしは理性の奴隷ではない。それは問題を解決するための手段に鹿すぎない。

多分池田さんの過激な発言の裏には2つの動機があるのだろう。1つは安倍政権の擁護である。政権を擁護することでさまざまな優遇が期待でき、ついでに自分の有能さをひけらかすことができる。そのためのポジションをとって議論を楽しんでいるのだろう。本来は倫理的に許されない行為だが、日本のトップリーダーが進んで意味を破壊しているのでこうした行為が可能になる。ものを盗めば犯罪だが、意味を盗んでも犯罪にはならない。

もう1つの動機は少し複雑だ。安倍首相を擁護する立場の人たちは単に利権を求めているわけではなく、言葉にできない感情のはけ口として安倍政権を支持しているようだ。例えば、動機の一つには女性蔑視があるようで、小池百合子都知事や蓮舫民進党代表などはかなり嫌われている。女が自分たちの両部を侵犯することに反発心を持っているが、それを主張する力がない。だから、池田さんが女性を蔑視しているというわけではなく、そういう満たされない人たちの代弁をすることに需要があるのではないだろうか。が、彼らのルサンチマンを満たしてやったところで、彼らの境遇が改善することはない。

結局、商売と利得のためにやっていてついでに有能感を満たしていることになる。コミュニティについて特に貢献しているわけではないし、他人の問題を一緒になって解決しようという気持ちもない。

これは、本来問題を解決し人々を救うはずだった議論の空間に入り込んで、盗みを繰り広げているようなものだ。法律と違って、問題を解決しようという人々の了解だけが空間を支えているので、いったんそれが崩れてしまうと元に戻すのは容易ではない。

こうした議論のための議論が行われる背景には安倍首相の抗弁がある。もはや問題を解決することには興味はなく、理屈を弄び、言葉の解釈を無効化して、議論の空間を無茶苦茶にしている。こういう政権は今すぐ消え去るべきだと思う。

安倍政権が破壊しているのは、人々が助け合って解決策を見出して行こうという人々の熱意と意思なのだ。