100円均一のリーディンググラスと老眼鏡の違い

年齢がいくと近くの小さな字が読みにくくなる。図書館など公共の場所では老眼鏡を借りることができるのだが「え、そんなに若いのに老眼鏡なんか使うんですか」などと真顔で言われることがある。さらに小さい字が読めないからカードの裏面の注意書きを読んでくれなどというと露骨に嫌な顔をされたりする。老眼というのは老人のものだと思われているのだと思うが、とても傷つく。

そこで老眼鏡を使ってみようということになるわけだが、最近では100円均一でもリーディンググラスと呼ばれるものを売っている。老眼という言葉に抵抗がある人でも気軽に手に取れるようになっているのだろう。だが、100円のものを使うと却って目に悪いのではないかなどと思える。

100円均一のものには明らかな欠点が2つあった。一つは焦点距離だ。目に問題がない時にはあまり気にしなかったが眼鏡には焦点距離というものがある。今は普通の老眼鏡を使ってパソコンに向かっているのだが焦点距離の幅が広く30cmから70cmくらいまでは対応している。別のものを試したところ50cmはきつかった。ものによって焦点距離に違いがあるようだ。

ということなので、老眼鏡なりリーディンググラスを買う時にはあらかじめパソコンや読書の環境などでどれくらいの距離で文字を読んでいるかを知っておいた方が良いと思う。

いずれにせよ100円均一のものは焦点距離が狭めに設定してあるようで50cmだとちょっとつらい。リーディンググラスということで読書の距離に特化しているのだろうがパソコン画面などだと30cmは少し近すぎる。例えば21インチモニタだと50cmは離れている。

もう一つの問題点はフレームの問題だ。100円均一はつるが安い作りになっているようで耳に当たる感覚がある。が、これは安いので仕方がないなという感じだ。

100円均一の老眼鏡はポリカーボネートでできているので傷がつきやすいのだと思う。だが普通の老眼鏡でもガラスに傷が入ったりすると見にくくなる。だが傷が入ったとしても100円なので気軽に交換することができる。さらに、店員に邪魔されることがないので、自分の度数がどれくらいなのかということを心ゆくまで試すことができる。眼鏡屋さんに入ると検眼されたり、たかそうなものを押し付けられそうな懸念があるので、自分で勝手に眼鏡が探せる気楽さは捨てがたい。

なお、本格的な老眼鏡は5000円くらいから手に入るようだ。1500円くらいで遠近両用のものを売っているのだが、レビューを読む限りでは境目が不自然で使いにくさもあるらしい。

いずれにせよ頻繁に着脱が必要になるので、できれば100円均一にはリーディンググラスチェーンのようなものをおいて欲しいと思う。

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日本人と古代の朝鮮半島利権

沖ノ島について冗談めいたエントリーを書いたことがある。沖ノ島は朝鮮半島(釜山)との直線距離にあったので、利権化されていたのではないかという他愛もない説である。世界遺産登録された結果検索が増え、このブログの中でも多く読まれる記事になってしまった。

いい加減な記事なのだが、本当に日本人はまっすぐに朝鮮半島を目指したのかという疑問がある。そもそもなぜ日本人は朝鮮半島にどんな用事があったのだろうか。

実は日本人は古くから朝鮮半島との間を行き来していた。3世紀の魏書弁辰伝には、弁韓は鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していたという記述があるという。記述を読むと倭人が朝鮮半島に住み着いて鉄を採掘していた可能性すらあるという。

一般的に「倭」が日本だとされているので、日本人がわざわざ半島に渡って鉄を採掘していたということになる。

鉄を持っていると、農業生産が上がり武器も作ることができる。つまり、国力が増して周囲の国よりも大きくなることができる。つまり、当時の勢力にとって、鉄は必要不可欠な戦略物資だった。

ただ、この弁韓は巨済島の奥にあたる地域で釜山からは離れている。対馬からは巨済島が近いので、対馬・壱岐・松浦郡・糸島郡・那の津がメインストリートだったことがわかる。魏志倭人伝でもこのルートを通って邪馬台国に渡っている。いずれにせよ沖ノ島を通るルートはせいぜい秘密の裏ルートくらいの意味合いしかなかったのかもしれない。

最初「日本人が朝鮮半島に鉄を取りに行った」と書いたのだが、この認識は正しいのだろうか。

中国大陸には華夏と呼ばれる集団と越と呼ばれる集団があり、それぞれ別の言語を話していたとされる。これらの民族が混成されて漢族と中国語という概念ができてゆくのだが、今でも北京の人と広州の人たちはお互いに理解ができず、遺伝子的にもばらつきが多い。越の人たちが住んでいる地域を百越と呼ぶ。この百越の人たちのことを倭と呼んでいたようだ。

倭人はもともと長江周辺で稲作をしていたのだが、華夏の人たちに押し出されるように南下し、その一部が朝鮮半島から日本列島にやってきたと考える人たちがいる。DNA解析をするとこの説が裏付けられるそうだ。百越は中国南部からベトナムにかけて広がっていて、オーストロネシア系の言語を話していたと考えられている。

この説をとると倭人は中国人だということになってしまう。つまり中国人が日本にも住み着いたということになってしまうのである。これがおかしな話なのはなぜだろうか。それは倭人が列島にきた時代には中国という国もなければ、日本という国も存在しなかったからである。

面白いのは中国から見た文明や国という考え方である。倭人はどうにか意思疎通が可能な人たちだったらしい。が、その外側には全く意思疎通ができない人たちが住んでいる。そして意思疎通が可能な人たちは時々中国の都にやってきて地方の文物をお土産に面倒な挨拶をしている。例えば外国人がいきなりやってきて「朝貢」という概念を説明しても笑われるだけだろう。つまり、当時の北部九州の支配者たちは、中華圏の文明をある程度理解していたということになる。

つまりある程度文明化してから列島に渡ったと考えた方が自然なのである。

いずれにせよ、日本人というのはかなり曖昧な概念で、あとから作られた可能性が高い。このことは日本人の後進性を表しているというわけではない。朝鮮半島も似たような状態だった。

魏書弁辰伝には韓と濊という2つの概念がある。このうち濊は北部からやってきたツングース系かツングース系とモンゴル系の混成民族だという説が一般的なようだ。現在の韓国人はツングース系とは言えないのだから、残りの韓が現在の朝鮮民族なのかという風に思いたくなるのだが、実は朝鮮民族がどのように成立したのかということもよくわかっていないようである。中国が京畿道あたりまでを支配していた時代にはその南にある漢に服属しない地域を韓と呼んでいた。が、北部にも服属していない領域がありそこにはツングース系の人たちがいた。これらが混成して現在の朝鮮人・韓国人ができたと考えるのが自然なのだろう。

韓の南に倭があったとされていて、この倭の領域が半島の最南端を含んでいるという説がある。つまり倭人は対馬海峡と朝鮮海峡を挟んで北部九州と朝鮮半島南部を領域にしていた可能性がある。そうなると、今の日本と倭の領域はずれていたということになる。今の日本は東日本から北部の旧蝦夷地を含んでいるが、倭人がそこまで進出していたのかはよくわからない。少なくとも九州南部にはクマソとかハヤトなどと呼ばれる人たちがいがいたことがわかっており、倭人の領域ではなかった。

中国の人たちにとって意思疎通が可能だったのは邪馬台国までだ。今どこにあったのかよくわかっていない邪馬台国より向こうは「何があるのかよくわからないし、記述する価値もない」ということになっている。だから日本列島の人たちの祖先が倭人だったのか、それとも倭人と地元民の混成だったのかということはよくわからないし、仮に地元の人たちがいたとしても彼らが何系統の言語を話していたのかということもよくわからない。

いずれにせよ、この時代には中国という枠組みもなかったし、朝鮮・韓国という枠組みもなかった。日本という枠組みもなかった。だから、誰が日本人なのかということを考えても無意味なのである。

では、日本人はいつからどのような理由で日本という枠組みを自明のものとして捉えることになったのだろうか。弥生時代の倭人は稲作と鉄文化を持っていた。稲は種籾として持ってきて日本列島で育てることができたが、鉄がどこにあるのかわからなかったために朝鮮半島南部に権益を持ち採掘していた。ところが5世紀か6世紀ごろになると日本でも鉄が作れるようになった。日立金属のウェブサイトに次のような記述がある。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

九州に接続する地域で国産の鉄が取れるようになった。それでも貨幣は中国から輸入する必要があったが、秩父地方で胴が発見される。国産の和同開珎が発行されたのは708年だそうだ。このようにして日本の経済は徐々に大陸から独立してゆく。

さらに、外交戦略上の失敗もあった。朝鮮半島南部には新羅と百済という2つの国ができるのだが、ヤマト王権は百済に肩入れする。だが、百済は新羅との競争に負けてしまったので、ヤマト王権は半島への足がかりを失ってしまった。

すると、半島や大陸との交易は外交の一環ということになるのだが、朝貢していた国が傾くと外交も途絶えがちになった。さらに、航海技術が発展し民間貿易をする人たちが出てくると、わざわざ偉い人たちが危険な海を超えて物資を持ち帰る必要がなくなった。こうした事情から日本の政治は内向的になり、半島の事情にも疎くなってゆく。このようにして次第に列島の西部を版図とする日本という枠組みが作られたのではないかと思われる。当時の東部はまだ未開の地で国という概念はなかった。

日本史が混乱するのは、明治時代に西洋から国民国家という概念を輸入したからだろう。国民国家という概念が自明に成り立つためには、もとから国の領域に単一のまとまりを持った人たちが住んでいなければならない。日本人はそもそも単一のルーツを持った血によってまとまった民族集団だという幻想が生まれることになったのだろう。国会議員の中には神話を基に日本人意識を高めるべきだなどと発言する人もいる。

皮肉なことにこの考え方は日本に支配された朝鮮半島にも持ち込まれた。日本列島にいる人たちが単一民族だとすれば、そこから独立するためには朝鮮民族も単一のルーツを持つべきであるという理由から、半島の南部にいた系統不明の人たちとツングース系と思われる北部の人たちの混成だったというような学説が支持される余地はない。代わりに朝鮮民族は5000年の歴史を持っているという自意識が作られた。

韓国人にとってみれば、北部の歴史は満州と同じツングース系の民族が住んでいたということは中国の一部だったということを認めることになりかねない。この議論は高句麗論争と呼ばれているそうだ。また、南部に倭人の拠点があったということは日本の支配権を正当化することになりかねない。代わりに対馬はもともと朝鮮の領土だったなどと言っている。

いずれにせよ、中国大陸から朝鮮半島を経て日本列島まで、なんとか意思疎通ができる人たちとそうでない人たちがいたのだということはわかる。これらの人たちが同一言語を話していたとは考えにくく、今よりも緩やかで多言語的な共同体があったのではないだろうか。

現在の感覚で見ると、韓国は飛行機でゆくちょっと遠い場所だが、距離だけで見ると実はそれほど離れていない。佐賀県の唐津市から距離をとってみるとこんな感じになる。

感覚的には佐賀から宮崎や鹿児島に旅行するのと同じような感じなのだが、言葉が通じない人たちが住んでいた可能性を考えると九州南部の方が危険だった可能性すらある。地図感覚も現代になって作られたものだということがわかる。

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憲法第9条はなぜ変わらなければならないのか

さて、今回は憲法第9条について考えたい。意外に思われるかもしれないが、憲法第9条は改正されなければならないと考えている。もともとは護憲だったし、人権に関する条項などはそのまま守られるべきだと考えているので広い意味では護憲派なのだが、憲法第9条だけは例外である。

なぜ憲法第9条は変わらなければならないのか。それは、設計思想が変わってしまった唯一の条項だからだ。

日本国憲法の設計思想は侵略戦争の禁止だ。戦勝国から受け入れてもらえるために日本が侵略戦争を行うことを禁止し、植民地を放棄させられた。当時はまだ国家の主権に「戦争をする権利」が入っていた時代だった。

その後、戦勝国は現在の体制を固定するために、戦争そのものを禁止した。日本は戦争に負けて主権が制限されていたので、憲法レベルでこうした操作ができる数少ない国の一つだった。もう一つの例外がドイツだったがこちらはヨーロッパの集団的自衛体制に組み込まれる。こちらの方はスキームがあったためにより新しい設計思想を取り入れることができたのである。

戦勝国にとって計算外だったのは、戦勝国が2つの大きなグループに別れてしまったことだったのだろう。このため二つの大きな国が自衛を名目にして戦争をするというスキームができてしまった。日本ではこれに合わせて後付けで自衛隊が作られた。自衛隊は東西冷戦を前提にした集団的自衛の一翼を担っているのだが、日本はあまり信用されていなかったので、日本の領域だけに活動領域が限定された。

設計思想が変わってしまったのだから、ここで憲法と自衛隊の役割は見直されるされるべきだった。が、日本はそれをやらずに乗り切った。大きかったのは岸信介総理が国民を説得するのに失敗し第反発を招いてしまったことだろう。国民を騙すような形で日米安保を改正し現在の状況を作った。のちの政権は国民の反発を恐れてこの件には触れられなくなった。司法も砂川事件で介入された歴史があり、この件については判断しなくなった。こうして岸信介の孫が首相になって憲法解釈をかき乱すまで、触れなくなってしまったのだ。

横道にそれて安倍晋三の功績を考えてみよう。安倍は無理やり理屈をつけて集団的自衛を解禁した。その他の私物化スキャンダルもあったので、集団的自衛は「ごまかし」ということになってしまい、今後また何十年も議論すらできない話題になってしまうかもしれない。祖父と孫は同じような禍根を日本の歴史に残そうとしているのではないだろうか。

ところが設計の前提はさらに変わってしまう。東西対立という図式がなくなってしまったのだ。だが、同時に核になる国もなくなった。「Gゼロ世界」などという人もいる。つまり、大きな巨大領域の中で反乱勢力が動くという状態になっているのだ。領域は統合されたが、中には主権国家が残っていて、国連は政治的には主権国家への干渉はできないという仕組みが残っているウエストファーレン体制というそうだが、1648年にできたスキームである。これが現在の矛盾のもとになっている。

例えばアフリカの状態を見てみるとこのことがよくわかる。国内政治が失敗すると抵抗勢力が現れるのだが、抵抗勢力は軽々と国境を超えて「国際紛争化」する。さらに混乱の結果、難民が流出し、周辺諸国やヨーロッパが混乱するのである。この抵抗勢力を戦争主体として位置付けるかというのは大きな問題になっている。

70年前の世界はそれぞれの国が国益のために行動すればよかった。つながりは限定的だったので、適当な相手と組んで軍事同盟を作ることもできた。ところが現在は、曖昧な枠組みの下で一つにつながったとても過渡的な世界になってしまっている。

こうした経緯があるから「戦争」と聞いて思い浮かぶことが人によって全く違ってしまっている。ある人は日本という国の栄光のために近隣国を武力で圧倒することが戦争だと思っているだろうし、別の人はアメリカが経済的利益を追求するために弱小国を傀儡化する手伝いをするのが戦争だと考えているのだろう。これが議論が曖昧になる原因である。

防衛で一番大きな説得材料は「中国が攻めてくる」というものだが、中国のような大国が日本のような大きな国に直接侵攻した事例は戦後70年の間起きていない。世界が緊密に連携しているために直接対決するリスクの方が大きいからだ。現在こうしたスキームに依存するのはもう失うものがない北朝鮮くらいだろう。周辺国に代理戦争させるというスキームはあったがこれすら過去のものになりつつある。

一方でアフリカ情勢などに興味がある人はほとんどいないので、現在型の戦争と呼べるかどうかがわからない状態について議論する人は少ない。アフリカでは南スーダンのほかにも中央アフリカで戦乱があるそうだ。

もちろん、アフリカは遠い地域なので、日本にはこうした厄介ごとから引きこもって、自国の防衛だけに専念するというオプションもあり、これは極めて合理的な選択だろう。あとは災害救助などに活躍する軍隊の装備を持った別の何かを作るという方向性もあるわけだ。

が、ここで考えるべきなのが日本国憲法のもともとの設計思想である。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

旧世代の戦争という概念を残しつつ、実はかなり国際協調を念頭において書かれていることがわかる。つまり、この憲法前文を尊重するという前提に立つのであれば、日本がどういう貢献ができるかということを考えて行かなければならない。今日言いたいのはこのことだけだ。

護憲派であろうとすれば憲法第9条を見直さざるをえなくなるのである。

国際的な経済協力についての憲法の規定はないので、皮肉なことだが軍事貢献だけがこの世界情勢の変化に影響を受けてしまう。外に開かれた唯一の条文なのである。

安倍首相の「積極的平和主義」という言葉はそれ自体は間違っていないということになる。彼が悪質なのは、こうした誰も否定できない題目を利用して憲法を私物化しようとしているという点である。そればかりか無能な防衛大臣を放置することを通じて、PKOを通じた国際貢献すらタブーになってしまうかもしれないという状態を作り出してしまった。

安倍首相は多分憲法前文を気に留めていないのだろう。韓国や中国を挑発して東アジアで協調関係をとるのを邪魔しているし、南スーダンに武器が流れ込むのを抑止する枠組みも黙殺した。さらに原子力爆弾を禁止して行こうという条約も無視したままである。

しかし、憲法第9条の擁護をしている人も日本国憲法前文をきちんと理解した上で世界情勢を見ているとは言えない。確かにすべての人たちがおとなしく現在の国際秩序に従ってくれればいいのだが、現実問題として紛争が頻発しており、何らかの対策が必要である。だから、戦争や争いごとという厄介な問題から目をそらしてはいけない。憲法第9条を守って前文の精神をないがしろにするということはあってはならないのではないだろうか。

憲法改正議論で重要なのは、国民が理解納得した上で憲法を変えてゆくということである。だから日本人が国際貢献をして憲法前文の精神を世界に広げて行こうという意欲がないなら、憲法第9条だけを変えても仕方がない。

現在、日報を隠したとか、報告を受けていたというようなことが問題になっている。これも元を正せば、設計思想が曖昧な上に法律を作ったことのツケなのだろう。稲田大臣はあまり質のよくない法律家なので、法律の設計思想が実は曖昧でそのまま実行するとエラーが起こるということを想定していなかったのではないだろうか。プログラムも法律も人間が作ったものにはバグがつきものなので、バグ取りはユーザーが行わなければならない。

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ついに情報汚染に手を染めたNHK

NHKがAIを使って凄まじい数の統計を処理して「これが日本の問題を解決する」とやった。さらに40歳代の一人暮らしを名指ししたために、多くの人の反発を買う事になった。前半だけ見て後半は見なかったのだが、少なくとも、因果関係を無視した番組構成になっていた。そして因果関係が無視されているという事は、多分参加者たちも築いているようだった。

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安倍政権は今度は何に負けたのか

稲田防衛大臣の件が大炎上している。巷では日報問題というそうだ。背景には安倍政権が政府の掌握に失敗したという事情がある。さて、安倍政権はなぜ政府の掌握に失敗したのだろうか。そもそも政府とは何なのだろうか。

このブログではこのところ、日本人は競い合いが大好きで、競い合いは集団の形をとるという仮説を展開している。つまり、個人ではなく集団単位で動くのが日本人で、その行動原理は競い合いだ。つまり日本人は毎日が運動会なのである。

この問題を解く鍵は「自衛隊」と「政府」の関係である。実は自衛隊は一体ではなく、統合幕僚監部と陸上自衛隊に分かれていることもわかる。PKOを指揮命令するのは統合幕僚監部だが、実際に行動して命を落とすのは陸上自衛隊だ。今回の情報リークには陸上自衛隊が関わっているという説が濃厚なのだそうだ。この事から防衛省の分断が問題視されている。

この件を自衛隊による神のクーデターだなどとわけ知り顔で言う人がいるのだが、そういう見方をすると状況がわからなくなる。PKOが成功して褒められるのは統合幕僚監部と稲田防衛大臣だが、実際に犠牲になるのは陸上自衛隊である。つまり、自衛隊も防衛省も一体ではないのだ。陸上自衛隊は現場から「もうこれは戦闘状態で命が危ない」というSOSを受けていた。しかし、これが報告されると統合幕僚監部と稲田防衛大臣が困る。だからこれを「なかったことにした」のだろう。

つまり内部リークがなければ「ジュバは平和でした」で終わってしまうことになってしまい、統合幕僚本部がいい思いをするので、情報がリークされたのだ。しかし、集団が組織の論理によって動くという事を知らない稲田大臣は自分がスターになろうとして「私が状況を掌握する」と大見得を切ってさらにポイントを稼ごうとする。だから、さらに炎上したのだ。

このような観測がある。

つまり、現場としてはせっかく警告を発したにもかかわらずそれが無視されたばかりではなく、一方的な悪者として処分されようとした。これで得をするのが誰かという話になり、それだけは許せないということになった。そこで「今回の監査は納得ができない」とマスコミに告げ口したのだろう。

日本人は何かの目的のために手段が正しく行使されているということには全く興味を持たないのだが、組織の競い合いにはとても敏感なのである。

安倍政権は組織を動機付けるのがとても苦手だ。この動機付けに関するスキルのなさこそが「ネトウヨ」性の本質なのではないかとさえ思う。そこで、組織の中の誰かに取引を持ちかけて組織を動かそうとする。「私もえこひいきされたい」という個人が協力を申し出る。

当初、やり方はとてもうまくいっているように見えていた。人事権を握って役職を差配すれば組織は動かせなくても個人は動かせる。日本の組織もこすればチートできるんだなあなどと思っていたのだが、とんでもない誤解だったようだ。誰かをえこひいきするということは当然悪者が出てくる。すると、その人たちはたまりかねて最終的には怒り出してしまうのである。

文部科学省の場合も組織防衛が前川蜂起の動機になっている。特区に反対した腹いせに天下り利権を取り上げたことで、文部科学省が「悪者にされた」と感じたのだろう。特区は安倍政権のお友達を優遇するための制度なので、これも集団と集団の争いということになる。

この件を見ていて面白いのは日本人が事実をどう扱うかということである。先の布施さんのツイートでは「真実」と言われているものだ。まず最初に集団という視点があり、その集団の利益が最大化されるようなファクトが事実として認定される。だが、別の集団には別の利益と視点があり、従って事実も異なっている。今回は、稲田防衛大臣と統合幕僚監部から見たファクトだけが事実として編集されて国会で固定化されようとしていたのだが、噂レベルで陸上自衛隊からの情報が入ることで事実が確定しなくなってしまった。

もう一つ重要なのが、個人の位置づけである。第一に集団をかばうための行動は美化されるが、個人の利益を確保する行動はわがままだと一蹴される。

さらに、事実の固定化も集団のフィルターを通して行われる。今回、日報の一つひとつのデータは「単なる個人の主観」として片付けられてしまう。毎日新聞は次のように書いている。

2月15日には岡部俊哉陸幕長から説明を受けた黒江哲郎事務次官らが、公文書ではない「個人のデータ」として非公表とする方針を決定したとされている。

つまり、個人がファクトを捕捉したとしても、個人の意見だというだけで簡単に切り捨てられてしまうということである。が、よく考えてみると現場を見ているのは自衛官だけなので、東京のオフィスで冷房にあたってパソコンのキーボードを叩いているだけの人のほうが事実をよく知っているなどということはありえないはずだ。つまり、日本人が言っている事実というのはデータの解釈であって、データそのものではないということだ。これを事実と呼んで良いのかというのはとても疑問である。

この事は、実は現場の自衛官にとって切実な問題をはらんでいる。南スーダンで死んでも戦闘で死んだとは絶対に言えない。統合幕僚本部と内閣の失敗だということになってしまうからである。だから彼らの死は事故死ということになるだろう。これは「靖国なき戦死」のようなもので日本人には許せないことなのだ。第二次世界大戦の戦死者の多くは餓死者なのだが、それでも祖国のために戦って死んだということにしてもらえれば、それが事実として定着する。日本人にとっては解釈だけが重要なのである。

ここから導き出されるのは、与野党の攻防も「言った言わない」の水掛け論になってしまうという予想だ。民進党も自分たちの利害に沿ってファクトを編集して事実を作り出してしまうので、視点が違うということが明らかになるだけで、誰かの言っていることが正しいということにはならない。これは日本という国家が分断されていて、日本にとっての解釈が定まらないからだ。

そして日本人はこうしたどっちつかずの状態をとても嫌う。これは内閣を不信任する理由になるだろう。自衛隊を送り出すリスクを永田町は扱えなくなる。つまり、今のままの状態で今後平和安全法によってPKOを派遣するのは難しくなったのではないだろうか。

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為末大さんはなぜリベラルから叩かれたのか

為末大という人がリベラル界隈の人から叩かれている。進化論を持ち出して競争に負けた人は淘汰されても構わないと「言い放った」からだ。この人バカだなと思った。

Twitterだけではコンテクストがわからないので、過去の発言やブログなどを読んでみた。彼のいう競争とは多分スポーツなどの競い合いが元になっているものと思われる。そして、これを進展させた上で「福祉予算が膨らんで国がそのまま衰退して行くからなんとかしなければならない」という問題を解決に結びつけようとしているようだ。

面白いなと思ったのは、為末さんが「弱者に足を取られて国が沈んでゆく」と感じているという点である。にもかかわらず国民にはやる気がないというのだ。

しかし、この認識は多分為末さんだけのものではないのかもしれない。この世代の人たちは、国が成長する様子を見たことがないのだろう。高度経済成長期にある人は競争と成長を結びつけるのだろうが、ポストバブルの人たちは弱者の除外を前提にする。これが「為末さんがバカ」である第一の理由だ。つまり情報が偏っているのである。

為末さんがバカである理由の第二は、彼が競争に参加するように人々を動機付けするスキルを持っていないという点だ。だから脱落をほのめかして、関係のない外野の人たちを巻き込んでしまっている。主に「左側の人たち」が強く反応しているのだが、為末さんの目的である「人々を競争に参加させ」「強い社会を作る」ことには全く関係がない。どちらかといえば排除された経験があるか、その可能性に怯えて拒否反応を持っている人である。

さらに、為末さんがそもそも目的意識を明確に持っているようには思えなかった。何のために議論しているかがわかっていないまま論を組み立ててしまったために、不用意に進化論や淘汰などを持ち出してしまったのではないだろうか。歴史を知っていれば、このような理屈がナチスのユダヤ人淘汰に用いられたということがわかったのだろうが、そこまでの知的な広がりはなかったのかもしれない。

「競争」が定義されていないのに、彼が認知しうる「競争」についてのみの考察しているために話が迷走しているということになる。バカは途中経過なのでバカであっても構わない。だが、そこから脱却できないのは少しもったいない気もする。

多くの人がスポーツの競い合いに参加するのは、競争を通じて自分の能力を伸ばすことができるからだ。例えば合唱や吹奏楽にもコンクールはある。芸術に競い合いがあるのは不思議なのだが、目的を持つことで技能を磨くことができる。コンテストにはいくつかの種類があるのだから、吹奏楽が嫌いな人はロックミュージックのコンテストに出ても構わない。

が、これを少し加工してハードル競争に負けた人は殺されても構わないのかと置くと話が全く違ってきてしまう。加工されたのは「競争の目的」だ。つまり、成長から生存競争へと目的が変わっている。しかし、これを変えるだけで意味合いが全く変わってくる。

例えば吹奏楽競争に負けた人がフルートを折って二度と音楽を演奏してはいけないなどと言われれば、その異常さがわかるはずだ。コンクールは技能を磨くためにあるのであって生き残り競争ではない。

人は競争を通じて個人的にまたは集団的に成長することができる。競争は成長という目的を達成するための手段だ。だから、スポーツは管理された競争になっている。だが人が競争するのは成長のためだけではない。人は限られたリソースのを巡って生き残り競争をすることがある。

いずれにせよ、成長のための競争が是認されるからといって、自動的に生き残りのために相手を犠牲することが是認されるわけではない。つまり、ボクシングが是認されるからといって、殴り合いが是認されるということではない。

為末さんは文章の中で「世界は競争を前提にしている」と決めつけているのだが、この競争が生き残りの闘争を意味しているのか、成長のための競い合いを意味しているのかがわからない上に、世界がどの範囲を意味しているのかがよくわからない。

世界の中には競争を是認する競争型の社会と包摂性を是認する非競争型の社会があり、すべての社会が競争を前提としているわけではない。アメリカを念頭に置いているのかもしれないが、アメリカは個人が競争の結果を受け入れる社会なので「負けた人がどうするのか」ということがある程度社会化されている。つまり、負けた人が次に再チャレンジすることが認められている。つまり、競争を前提にすることと負けた人は滅びても構わないというのも実は同じことではない。

為末さんが「競争」の目的について考えずにいきなり競争を是認した上で、歴史的に大いに悪用されてきたダーウィニズムまで持ち出してしまうのは、日本人が競争そのものを自己目的化してしまう傾向が強いからかもしれない。日本の競争が集団化しやすく個人の力でコントロールするのが難しい。このため、競争に参加しないと集団的な圧力にさらされやすい上に、個人が競争に意義を感じられないということが起こり得るし、実際にいろいろなところで起きている。

例えば、組体操はチームで身体のコントロール力を高めるためのトレーニングだ。だから、管理されたぎりぎりの範囲で人間ピラミッドを作るという手段はぎりぎり正当化されるかもしれない。実際には競争のための競争が横行する。多分、十段ピラミッドを作るような人は「何のために競争をするのか」ということは考えないで、とにかく隣の学校よりも高いピラミッドを作らなければならないと考えるのだろうし、自分ではやらずに人にやらせるのだろう。

競争の目的が失われてもそこから抜け出すのは難しい。下にいる人たちは意味もわからず支えられるはずもない荷重をかけられたうえで半身不随になるような事故を起こす可能性がある。が、とにかく競わなければならないという空気があると足抜けすることも許されず、「どうしてもやりたくない」というと「わがままで例外的なのだ」とみなされて村八分にされる。

このような極端な競争の裏返しが「競争そのものがいけないのだ」というような競争の全否定だ。つまり、意味もなく競争したがる為末さんのような人と、意味もなく競争を嫌がる人たちは実は裏表になっているのではないだろうか。どちらにも、競争には目的があるという当たり前の認識が失われているという共通点がある。

戦争は制度化された殺し合いだが、すべての人が司令官になることはできない。トップが、戦争の目的を管理し、下士官レベルの人はとにかく勝つことだけを考えることになる。役割分担があるから下士官レベルは何かを考える必要はなかった。これが日本で<バカ>が量産される理由なのかもしれない。将校レベルがいなくなり下士官だけが暴走しているのが今の日本の現状と言えるだろう。為末さんはバカではなく青年将校なのだ。

例えば人間ピラミッドで将校に当たるのは校長や教育委員会だか、彼らの関心は別のところにあり、現場には無関心だ。そこで一部の先生が暴走してとにかく高いピラミッドを作ることになる。例えて言えば、中央軍司令部が壊滅したのに、現場では戦争が続いているようなことになる。こうした青年将校たちが一生懸命に働いた結果「とにかく競争が好き」という人と「とにかく競争が嫌い」という二極端の社会を生み出す。

この為末議論の一番の問題は、日本人が一体何のために戦っているのかがわからなくなっており、だからどのように勝つのかということもわからなくなっているということなのかもしれない。

にもかかわらず日本人は目的の振り返りをしなかった。とにかく社会を維持したかったので「競争に参加しなければ社会的に抹殺しますよ」とか「あなたの価値はなくなるのですよ」と脅すことで負の動機付けを続けた。一方、個人主義のアメリカでは個人が競争に参加するためにはしっかりとした意味づけをしなければならなかった。例えば、アメリカにはコーチングの技術として勇気づけのための「ペップトーク」などという手法があるそうだ。

個人社会は一見バラバラで弱そうなのだが、動機付けられた個人がコミットメントしたほうが競争には勝ちやすくなる。こうしたコーチングの手法が日本で発達しなかったのは、集団により圧力を加えたほうが簡単だったからだろう。

が、このことが「とにかく競争が好きな人」「とにかく競争が嫌いな人」そして「やる気がなく単に競争に参加するだけ」というバラバラな個人を生み出している。つまり青年将校たちが日本を弱くしているのだ。

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「日本人はメディアを信頼しているから洗脳されやすい」のか

日本人はメディアを信頼しすぎているから洗脳されやすいというような記事が流れてきた。例によってソースが明らかにされていないのが気になった。原典は明らかではないが、元を辿って行くとNewsweekのこの記事にたどり着くらしい。記事には原典が掲載されている。この元ソースのWorld Values Survayはデータをウェブ上で見ることができる。

同じようなことはままある。例えば「アメリカが日本の選挙に干渉していたとCNNが伝えた」というようなツイートが流れてきたことがある。これもCNNという名前がよく知られているので利用されたのかもしれないが、CNNで検索しても元記事が見つからない。どうやらカーネギーメロン大学の研究が元になっているようだが、カーネギーメロン大学と聞いても知らない人が多く、CNNが権威付けのために利用されたのではないかと思う。本研究は閲覧が有料なので中は見ていないのだが、1946年からの統計なので、過去の反共対策が掲載されていたのではないかと思う。だが、見た人は「今での干渉しているのかな」などと感じてしまうのではないだろうか。

確かに日本人はあまり原典を参照せず「なんとなくそうだろうな」などと思うとニュースに飛びつく傾向にある。そして、リツイートするとそのことを忘れてしまう。後に残るのは漠然とした思い込みだけだろう。これは確かに洗脳されやすそうだ。

最初は、日本人は集団主義的だからマスコミを信じやすいのだなどという仮説を立てた。であれば他の国の集団主義度合いと比較することで傾向が見えるはずである。しかし、実際には集団主義的な国ほどマスコミなどの権威を信じやすいという傾向はないようで、この仮説は棄却せざるをえなかった。

データベースの統計を眺めていると面白いことがわかった。日本人はマスコミは信頼しているが、政府も政党もそれほど信頼していない。日本の政治は金権政治と揶揄されていた歴史がある。これを記憶している人たちが政治家を信用していないのかと思ったのだが年齢による信任度の違いはそれほど見られない。

一方で、民主主義は大切だと考える人が多く、民主主義が守られているとも考えているようである。つまり、政治家はあまり信頼できないが、暴走すればマスコミが警鐘を鳴らしてくれるので大丈夫だと考えている可能性も高い。

ここから、日本人は手放しでマスコミを信頼しているわけでもなさそうだということがわかる。自分には平均以上のリテラシーがあるので、正しいメディアを選ぶことができると信じているのだろう。これが、実力通りなのか過剰な地震なのかということはわからない。

ここから考えてみると、Twitterにいる人たちは自分たちが「正しい情報」を持っているということを確信している人たちが多いように思える。ある人は蓮舫代表の二重国籍問題がNHKのトップ項目にならないことがおかしいといい、別の人は稲田防衛大臣の件が取り上げられないのがおかしいと考える。新聞社の論調も各社違っているので「俺だけが真実を知っていて、他の人たちは騙されているに違いない」と考えてしまうのだろう。だから「メディアが信頼されている」と聞くと「洗脳されやすい」と感じてしまうのだろう。

だが、政府を手放しで信任しているわけではないので、メディアが明らかに政権よりになれば、そのメディアは見放されてしまうことになるのではないかと思われる。

それより怖いのは、日本人があまり原典を気にしないという点である。メディアが言っていることを信頼しているというわけではなく、誰が言ったかということを気にしている。そしてみんなが同じようなことをいうと「本当にそうなのだろうか」などとは疑わずにその結論に流されてゆく。いわゆる空気が醸成されてしまうと、その空気に乗ってしまう傾向にあるように思える。

日々ブログを書いていると日本人が空気に流されやすいのがよくわかる。テレビで何かが報道されるとそれについて検索する人が急激に増えたりすることがある。これは周りの人が話題にしているのだから自分も知らなければならないと考える人が多いことを意味している。

政府による洗脳が怖いというよりは、集団による思い込みで、ろくな情報精査しないままで空気に流される方が怖いのではないかと考えられる。とはいえ日本人は過去に起こったことは忘れたがる傾向があり、特に反省はしない。

なお、韓国や中国も同じような傾向があるが、韓国は政府への信頼が半分程度あり日本よりも高い。政治への関与度が高いので「自分で選んでいる」という感覚があるのかもしれない。日本の場合は新聞は選べても、政権与党は選べないのでそれが信頼度に反映しているという仮説が立てられる。しかし、同じように政権選択ができるアメリカは政府もメディアも信頼していないという人が多い。ただ、アメリカには全国紙があまり発展しておらず、地方紙も選択できないことがあるので、自分でメディアを選んでいるという感覚はあまりないのかもしれない。

なお、日本ではTwitterで騒いでいるのは一部の人たちだけだなどという人がいるのだが、月刊アクティブユーザーは4000万人もいるという統計がある。災害時の情報インフラとして利用されているということもあり認知度が高いのだろう。政治的にはやや極端な意見が多いように思えるが、実はこれは日本人が内心持っていた「自分だけが正しい意見を知っている」というような見込みを反映している可能性も高い。

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現代版「二つの祖国」は悲劇なのか喜劇なのか

小野田紀美という自民党の議員が左派の人たちから攻撃されている。父親がアメリカ人でありなおかつアメリカで生まれているためにアメリカ国籍を持っていた。選挙に出るまでアメリカ国籍を保持しており二重国籍状態にあったという。この人が自分は二重国籍を捨てたが、捨てていない議員はスパイなのではないかと言っているのだ。

この発言は彼女の政治的センスのなさをよく表している。と同時に自民党の閉塞感をかなりよく示す指標になっていると思う。

戸籍開示の問題は実は出自を知られたくない人たちの問題と意味合いが大きく、二つ以上の国の伝統を引き継いでいる人たちの問題はそれほど大きなものではない。ゆえに、この議論を二重国籍の問題だとすると本質を見誤る可能性が極めて高い。つまり小野田議員が提起した問題は実はそれほど本質的なものではない。

蓮舫さんはアジア系なので黙っていれば日本人とそれほど区別はつかない。が、小野田さんのように外見が違っていると日本人としては認められにくいかもしれない。安倍自民党は「内と外」を明確に区別するようになってきているので、小野田さんの属性(女性でハーフ)はあまり有利には働かないだろう。だからこそ、小野田さんはことさらに日本人性を強調する必要があるのだろう。

この件を見ていて、山崎豊子の『二つの祖国』を思い出した。正確にはNHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』として知られている。日系アメリカ人がテーマになっている。アメリカはドイツとも戦ったのだが、ドイツ系のアメリカ人が敵性人種として扱われることはなかった。なぜならばドイツ系のアメリカ人は大勢いて、なおかつ顔がメインストリームの白人系だったからだ。例えば、アイルランド人とドイツ人を外見から見分けることはできないし、ある程度混血も進んでいるのだから、ドイツ人だけを分離することはできない。しかしながら、日系アメリカ人は顔が他の人たちと違っていたために、他の人たちとは違った境遇に置かれた。

彼らは財産を奪われて劣悪な環境に収容された。さらに愛国心のテストなども行われて、パスしなければさらに苛烈な環境に追いやられたのだそうだ。つまり、容姿が違っているためにスパイ扱いされて、人権を抑圧されたのだ。このように扱われたのは日本からの移民だけだった。

小野田さんはこうした日系の人たちと直接つながりがあるわけではないのだが、日米の両方の文化を受け継ぐ人が軽々しく「スパイ」と言ったのは実はとても軽率なことだったのである。実際にスパイ扱いされて人権を抑圧された同胞が、日本人にはとても多いのだ。保守の人たちが血を大切に思うのなら、海外同胞の歴史にも興味を持つべきだろう。

日米は敵対していたので、日系人には日本人であることを選んだ人たちとアメリカ人であることを選んだ人たちがいる。アメリカ人であることを選んだ人の中にも、血のつながりがある人を人間として扱うべきだと考える人と新しい統治者として振る舞った人たちがいる。ドラマはこうした人たちを丁寧に描いているのだが、そのうちの何人かは悲劇的な最後を迎える。内面と外見が必ずしも一致しないことが登場人物たちを終生苦しめ続けたということになっている。

だが、当時と現在では状況がまるで違っている。日本とアメリカは戦争をしているわけではない。台湾と日本も戦争はしていない。にもかかわらず、なぜ小野田議員はことさらに日本人であることを強調しなければならなかったのだろうかということをずっと考えていた。それは、実は日本人が外国に囲まれていないからなのではないかと思った。

つまり「今ここに危機があるから」スパイを懸念しているわけではなく日本人としてまとまれるものがないから、ことさらに外国を警戒するような発言が出るのではないかと思うのだ。つまり、外国人は蔑視の対象として存在するわけで、平民の下に被差別階層をおいたのと同じような構図なのではないだろうか。

例えば、ドイツとフランスは国境を接しているので、ドイツ領内に「自分たちはフランスの影響を受けた外見を持っている」と考える住民が多くいる。東側はポーランドと国境を接しているのでスラブ系の影響を受けたドイツ人がおり、さらにその東方には支配階級だったドイツ人という人たちもいる。。つまり、ドイツ話者という自己意識は必ずしもドイツへの忠誠にはつながらないのだが、それが特に大きな問題になることはない。Wikipediaにはこのような記述がある。

  • 「ドイツ人、それがどこにいるのか私にはわからない」(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)
  • 「我々をドイツ人として纏めようとする事は無駄な努力である」(フリードリヒ・フォン・シラー)

ドイツ人ですらドイツ人の定義がわからないのだが、厳然として隣の国と違った言葉を話すまとまった人たちがいる。つまりドイツ人は存在するのである。これが本来の民族意識なのだ。

国家の存亡という点だけに着目すると、多分ヨーロッパの方が切実なはずだ。国境を接していて領土の取り合いもあった。

一方、日本は外国と国境を接していないので、いったん純化欲求が起こると仮想的な分だけ競争が苛烈になるのだろう。まずは、外見が外国人風の人がはじかれれ、さらに血統の良い人が残るという感じなのかもしれない。

そもそも、日本の保守が何を保守するのかということが曖昧だ。保守の人たちが考える日本の伝統はm明治維新期に海外から入ってきた一神教の要素に「汚染」されているのだが、これを日本の伝統だと信じている人も多い。が、本当の伝統を知りたいなどとは思わないようである。本来の関心事は集団ないの序列であり、その序列に都合が良いように物語を作っているだけなのだろう。

アメリカは日本と戦争をしていたからこそ日本的なものを排除しようとした。だから日系人はことさらアメリカに忠誠を誓う必要があった。ところが日本はどことも戦争はしていないし、外国から今すぐ侵略されるという懸念があるわけでもない。にもかかわらず、なぜこうした純化欲求が起こるのかよくわからない。

外国に囲まれておらず、日本性というものが漠然としているからこそ純化欲求が起こるのではないかと思うが、政治がその役割を見失っておりまとまりを持つためにありもしない日本性というものが妄想されているのかもしれない。もともとの目的意識がない運動なのだから、当然その純化欲求は迷走するだろう。その迷走ぶりは外から見ると喜劇でしかないわけだが、必死でしがみつこうとする当事者たちはある種の必死さや悲劇性を感じているかもしれない。

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情報を鵜呑みにする人々の漠然とした不安

先日、Twitterで加計学園問題について言及したところ絡まれた。かなりムッとしてサディスティックな気持ちがよぎったのだが、ネガティブな感情は自分にはねかえってくる可能性が高いので、事情を聞いてみることにした。なぜ絡んでくるのだろうか。

そもそもの問題は何に怒っているのかがわからないということだった。これがこの手の人たちの特徴になっている。概して言葉足らずで特攻してくるのである。

こういうのは「私の話を聞け」という叫びなので、まずは整理する必要がある。どうやら、加計学園の問題について、加戸前県知事の言いぶんが取り上げられなかったのが悔しかったということらしい。一部、マスコミが取り上げてくれなかったという言説が飛び交っており、それを鵜呑みにしたのだろう。

問題はこの人がなぜ加計学園問題で安倍首相を応援しなければならないほど、心理的にアタッチしてしまったかということなのだが、いずれにせよ止むに止まれぬ気持ちがあるのは間違いないだろう。

加計学園を安倍首相が呼び込んで戦略特区にねじ込んだと思っている人も多いのだろうが、それは違っている。今治市が随分古くから獣医学部を誘致しようとしていたことは広く知られており、そこに応じたのは加計学園だけだった。だから、安倍首相がお友達を連れてきて今治市に「よろしく」といったわけではない。

しかし、だからといって安倍無罪ということにはならない。多分、加計学園には獣医学部を作るような実力はなかったし、そもそも永続的に学校を経営しようとしていた意欲があったかも怪しい。様々な無理を重ねる中で安倍首相が関与したことは間違いがないだろう。このことが様々な歪みを生じさせている。

さらに特区構想にも問題がある。諮問機関が自ら提案したプロジェクトを審査するというのも珍しくないようだ。その審査には関係する省庁の大臣が関与できない仕組みになっている。民主党政権時代の制度を悪用したのかと思っていたのだが、どうやらこれは安倍政権独自の仕組みのようである。首相がほぼ独断で利権を囲い込めるようなっているのだ。

いずれにせよ、野党の追求の見込みも正しくないし、かといって自民党の説明も正しくない。しかし、両陣営ともそれぞれのストーリーを持っている。反自民の人たちは安倍首相がすべてを指揮していたというシナリオにしたいようで、朝日新聞などはそのストーリーにとって夾雑物になる加戸前知事の発言を削除してニュースを伝えたという。一方、自民党の側も岩盤規制を突破しようとしただけだという無理筋のストーリーを押し通そうとしている。そのために、岩盤規制になんども跳ね返されてきたかわいそうな老人というストーリーを作ったのだろう。

実際には、いろいろな情報が出回っているので、その気になればそれを集めてきて自分で判断することは十分に可能だ。例えば銚子の事例から加計学園の実績を調べることもできるし、加計学園が安倍首相に近い政治家たちを支援してきたこともわかる。今治市の土地開発が行き詰まっていて、高速道路網から取り残された結果として地盤沈下が起こっていると訴えている人たちもいる。多分一時間もあれば、与野党のストーリーに無理があることはわかるのだ。

話を聞いてみると、絡んできた人は、どうやら「地方が衰退しているのに都市だけが優遇されている」ということに怒っているらしかった。つまり、自分が主張したいことがあり、それを主張するためにストーリーに乗っかろうとしている。しかし、今治の住人というわけでもなく、瀬戸内海の土地開発の事情や高速道路の状態などについては全く知識がなく、興味もないようだった。

そのことを指摘すると一転して「正解を教えて欲しい」と言い出した。考えてみるとこれは不思議なことだ。まずフォローもしていないのに検索ワードだけを頼りに「こいつは加戸前県知事の話を知らないに違いない」と思い込みいきなり突っかかってきて、話を聞いてもらっただけで「この人は正解を知っているに違いない」と思い込んでしまったのだ。

普段ないがしろにされている人はちょっと話を聞いてもらっただけで簡単に相手を信頼してしまうのかもしれない。だからこそ、ニュースで飛び交っているストーリーにいとも簡単に乗せられてしまうのだろう。

この背景には、自分が何に苛立っているかということが言語化できず、したがって相手にもそれを伝えることができないという事情がありそうだ。そうした状態で党派対立を見てしまうと、どちらかの陣営に簡単にアタッチされてしまうのだろう。あとは、パソコンかスマホの前に張り付いて、それとは違う発言をする人を叩いて、それを政治的議論だと思い込んでしまうのだ。

いずれにせよ、こうした人たちは簡単に騙されてしまう。多分、地方の衰退に苛立ちを感じていて「なんでも都市に持って行かれてしまう」と思い込んでいるこの人は、実は地方の窮状に漬け込んで補助金などを獲得しようとする人を応援するというような皮肉なことが起こるのだ。

自分で判断できないと悪意を持った人たちに先導されやすいのではないかと思うが、そもそも原因は、自分の欲求を言語化できないことにあるように思える。言語化できないとそれを分離して行動に変えられないので、集団の扇動に乗ってしまうのだろう。

背景には学校教育の問題があるのかもしれない。正解を次から次へと詰め込んで行くので、何にでもオーソライズされた正解があると思い込んでしまうのだ。例えば高校程度の授業で「先生の言うことや教科書に書いてあることは正しくないかもしれない」と疑うような授業はない。

日本人は今正解のない時間を生きていて、自らで何が正解なのかを考えなければならない。多分、与党も野党の正解は知らないのだが、他人のストーリーを振りかざしているだけでは、なんとなく不安な気持ちを抱えたままになってしまうのではないかと思う。

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