懐風館高校の髪染め事件について調べている。この件についての世間のリアクションは固まってきたようだ。「人権やマイノリティの問題だ」とする人が多い一方で、規則なんだから守って当然だという人も多い。マスコミは係争中の事件ということもあり「ネットで人が騒いでいた」という話と「芸能人も苦労したようだ」ということを伝えるのみである。
確かに人権の問題にするのは簡単なのだがどうも違和感がある。何か言ったつもりになるのだが、かといってそれに納得していない人も多い。最近では人権というと自動的に集団に意を唱える人は排除してしまえというようなカウンターがくる。だからいつまで経っても議論が収束せず、従って問題は何も解決しないのである。
この両者を統合するともう一つ別の問題が見えてくる。それは「価値の体系の根本的な混乱」である。価値の体系という概念を説明するのは難しいけれども、これを導入すると最近の日本型ポピュリズムが何なのか見えてくる。また、保守が実は保守ではないということもある程度はわかる。
価値の体系の混乱はわかりにくいので、まず基本的な価値をおいてみよう。学校は何かを勉強するところであるべきであるという価値観だ。
もちろん全ての正解を暗記することができればいいのだが、それは不可能だ。いつも教師がいて指導してくれればいいのだが、そうもいかない。だから、大人になる前にある程度自分で考えて自分なりの正解が導き出せるようになるために必要なものを学ぶのが学校である。これも価値観である。
つまり、学校のゴールはある程度自立した人を育てる場所であるべきだということになる。特に、この価値を受け入れる必要はない。ここで「これに賛成か反対か」を考えていただきたい。そして反対であるなら何に反対なのかを考えておくと良いだろう。
この価値を受け入れると、学校の規則というのは、こうした判断基準を教えるための教材であるべきであるということになる。もちろん、一人ひとりが生きたいように生きて行ければいいが、社会生活を円滑に送るためには他人と折り合う方法も身につけなければならない。そのためにはある程度の規則は必要である。ここで重要なのは「ある程度の」という点である。つまり、優先されるべき課題があり、学校の規則というのはその下位に位置付けられる。
ここで重要なのは「教育は生きてゆくための手段である」ということである。だから生存が脅かされるような規則はあってはならないということになる。こうやって価値の体系ができてゆく。
これを整理したい。
- 生きてゆくこと。
- 生きてゆくための知恵を学ぶこと。
- 知恵を獲得する一環として社会と折合うために規則を守ることを学ぶこと。
ゆえに、規則のために生存が脅かされることがあってはならないのだということになる。さらに規則は教育なのだから「契約」という側面がある。つまり、社会に受け入れてもらうためには前提になる約束事があるので事前にそれについて合意を結ぶべきである。学校の場合、校則はある程度決まっているはずなので、それが守れるかどうかを決めた上で入学すべきだし、そこに抵触する可能性があるのであれば、何らかの調整がなされるべきであるということになる。
さて、ここまでを考慮した上で実際に何が起きたのかを見てみよう。
- まず女子生徒は入学前に「中学校でも同じ問題があったので考慮してほしい」と言っているようだ。つまり校則については知っているが守れそうにないのでなんらかの配慮をしてほしいとお願いしている。学校がこれにどう返事したのかはわからない。
- 口コミサイトを見ると髪の色には厳しいがその基準がどこにあるのかよくわからないという話が複数出ている。つまり、恣意的な運用がなされていて教育以外の目的に乱用される余地があるということになる。
- 髪の毛の色を黒に保つために4日に一度髪染めを強要されておりそのために健康被害が出ている。しかも行きすぎた指導の結果過呼吸を起こしており、精神的にも追い詰められているようである。つまり、当初の目的を逸脱している。
- 学校は生徒との調停に失敗したようで不登校が起きている。しかしながらそれを正直に申告せず「生徒は退学した」と嘘をついている。学校は教育機関であり、生徒に善悪を教えるべきだと考えると、これは学校本来の目的を逸脱している。
つまり、懐風館高校ではまず規則が優先されており、そのために生徒の生存が脅かされている。さらに、規則を守らせることを優先するあまり、生徒や保護者に対して嘘の申告をしている。つまり、規則が守られるなら嘘をついても構わないということである。規則がすべての上位に来ている。
こうしたことが起こるのはどうしてなのだろうか。それは規則の運用の裏に「本当の価値体系」があるからだと思われる。それは、学校というのは少ない予算で効率的に社会に部品を供給する工場であり、規格外品があればそれは排除しても構わないという価値観である。
ところが、実際には日本には憲法というものがあり生徒の人権は守られなければならないと考えられており、さらに教育機関であるという建前もある。しかし、大阪府からは学校のリストラという別のメッセージが来ている。この2つの異なる価値観がコンフリクトすることで、価値体系に本質的な揺らぎが出ている。
しかしながら、大阪府当局はほのめかしによる恫喝は行うが、具体的な行動規範は示さない。そこで、それぞれの執行は校長に一任される。しかし、校長は具体的な行動規範を示さず、現場教師に丸投げする。そこで「好き勝手な」執行が行われて現場が混乱するわけである。
前回のエントリーではこうした価値の焼け野原を作ったのは、維新流のパフォーマンスの延長にある新自由主義的政策なのではないかということを考えた。維新の党は「学校の統廃合」という危機感を煽ることで下位校をパニックに陥れて、価値の体系を撹乱したということになる。しかし、さらにその背景にあるのは有権者側にある価値体系の混乱であると考えられる。
価値の体系が崩れ去ったところで生産される人材は、すなわち自分自身で善悪を判断する基準を持たない人たちである。つまり、価値体系の混乱は今始まった問題ではなく、すでに進行していたものと考えられる。これが政治を通じて社会に影響することになり、拡大再生産のループが完成したということになるだろう。
この話を人権や少数派の話にしたくないのは、実際には価値体系の破壊はかなり広範囲で起こっており、決して少数派だけの問題ではないからだ。しかも一旦始まってしまうと拡大再生産されてしまい歯止めが利かなくなる。
面白いのは、維新の党は保守政党を名乗っているという点である。保守とは民族集団が持っている価値体系が大きく揺るがないように緩やかな変化を目指すという立場である。しかしながら、実際には価値体系を大きく揺るがすような政策をとっており、府民もそれを黙認している。
維新の党が保守だと見なされるのは、共産党や社民党のような左翼政党ではないからなのだろう。だが、実際には新しい価値を提示せず、単に価値体系を破壊しているだけで保守とは言いにくい。かといって革新とも言えないので、単なる破壊的簒奪者だとみなすのが良いのではないかと考えらえる。革新ならば、ある程度の行動規範を持っており、価値変化がスムーズに行われるように措置するはずだからである。
このことからわかるのは、価値を提示しない保守政党というのはとても危険だということだ。