白鵬バッシングに邁進する愚かな日本人について考える

白鵬バッシングが強まっている。万歳がいけないと言われ、日馬富士と貴ノ岩を土俵に戻したいといったことがいけないと言われた。Twitterをみると貴乃花親方の下では巡業に出たくないと言ったということが咎められ「嫌ならモンゴルに帰ればいい」などとバッシングされている。

どうしてこのような問題が起き、どうしたら解決できるのかということを考えてみたい。しかし、相撲界だけで考えるのは難しいので、全く別の事例を考えてみる。それが日系企業の中国進出である。全く別の状況を当てることでその異常さがよくわかる。

日本市場が先細りした企業が中国への進出を考える。そこで日本語が堪能な現地人の留学生を採用する。彼らは日本の特殊な企業文化を学び必死に同化しようとする。偉くなれば自分たちの地位が向上すると考えるからだ。彼らは期待通りに成長し、現地市場を開拓する。その成果が上がり、中国市場はこの企業の稼ぎ頭になった。

モンゴル人が最初に直面するのは「可愛がり」という常軌を逸した暴力である。日本のジャーナリズムは相撲界と経済的・心情的な癒着関係にあり何も伝えないがBBCは白鵬が経験したかわいがりの感想を掲載している。

白鵬は、私の顔は今幸せそうな顔をしているように見えるかもしれないが、(かわいがりを受けいていた)当時は毎日泣いていた、と語った。力士は、最初の20分はただただすごく痛いが、殴られても痛みが感じにくくなってくるので、それまでよりは楽になる、と話した。

白鵬は当然泣いたと言うが、兄弟子に「お前のためだ』と言われてまた泣けた、と振り返った。

中国人が日本の婉曲な企業文化を学ぶように、モンゴル人もこのように混乱したメッセージを受け取る。表向きは「日本人のように尊敬されるような人になりなさい」と言われるのだが、裏では容赦ない暴力があり、これを抜け出してまともな生活ができるようになるためには番付で上に上がるしかない。この文章には、番付が下の力士は配偶者と一緒に住むことすら許されないという「成果主義的な」状況についても言及がある。

さて、中国人の話に戻る。彼らは本社での待遇向上を期待するが、いつまでたっても重役以上にはなれない。重役たちに聞いてみると「日本国籍が必要であり」「中国人には日本の難しい文化は理解できないからだ」と言われるばかりである。では日本の難しい文化とは何かと質問しても明快な答えはない。最初は深淵すぎてわかりにくいのだろうかと思っていたのだが、どうやら日本人にもよくわかっていないのではないかと思えてくる。

モンゴル人力士はいつまでたっても日本人らしく振る舞わなければならないし、何かあれば「やはりモンゴル人だから」などと言われる。国籍をとって親方になれたとしても「二級市民扱い」は一生続く。日本のしきたりだからと言われて理不尽な暴力にも耐えてきたし、日本文化についてよく勉強した。しかし、だんだん様子がわかりトップである横綱にまで上り詰めたところで白鵬は「この理不尽さには一貫した思想などない」ということに気がついたのだろう。

中国人の話に戻ろう。ある日本人のプロパーが理不尽な要求を持って重役たちを振り回し始める。しかしながら、重役たちは彼のいうことを聞いているようである。そこで中国人たちは「自分たちが改革を要求しても聞き入れられないのに、日本人が重役を振りまわせるのは「差別があるからだ」ということに気がつく。

これが貴乃花親方である。貴乃花親方は「日本の伝統」という言葉を振りかざして改革を要求する。改革自体にはそれなりに根拠があるかもしれないが、周囲と協力しようなどという姿勢は見せない。「品格」には強くなっても威張らずに周りと協調してやって行くという価値観を含んでいるはずなのだが、どうやら貴乃花親方はおかまいなしらしい。それどころか貴乃花親方には同調者すらいるようである。そこで初めてモンゴル人たちは「部屋に分離されてバラバラにある状態」は不利であり自分たちも固まってプレゼンスを持つべきだということに気がついたのだろう。しかし、彼らにとってみればそれは当然の要求である。

そもそも相撲界はモンゴル人に依存している。相撲に強い日本人が入ってこないのはなぜだかはわからないが、前近代的な仕組みが日本人に嫌われているのかもしれない。体力に恵まれているのなら柔道やレスリングの方が栄誉が得られる可能性が高い。オリンピック種目であり金メダルをもらえればその後の生活には困らないし、選手の裾野も広いので指導者としての道も立ちやすいからだ。

そこで白鵬は自己主張をするようになる。巡業が多すぎると言って親方に注文をつける。バスの中では良い席を実際に働いている力士に譲るべきだと言って巡業の責任者である貴乃花親方の席に座る。バスの時間に遅れてやってくるなどの示威行為である。日本の伝統からみると「親方を敬っていない」と感じられるかもしれないが「商品である力士を大切にせよ」というのは実は当然の行動だとも言える。親方だけで相撲巡業を行うことはできないし、巡業がいくら増えても給料は変わらないのだろう。

もちろん貴乃花親方を責めることはできない。中学校を卒業してから親方が威張るのは当たり前だという世界で過ごしてきたのだから自分が親方になり巡業部長になったのだからその世界に君臨するのは当たり前だと考えるだろう。

Twitterの心ないコメントに見られるように「気に入らないならモンゴルに帰ればいい」と日本人は気軽に言うが、実際にはモンゴル人なしに日本の相撲はもはや成立しない。これを単に品格の問題だけで片付けることはできない。これは労働組合と経営者の間の対立でもある。貴乃花親方が土俵に上がるわけではないのに、なぜ威張るのだろう。

これは、例えばプログラマが「なぜ自分でプログラムを組みもしない部長にペコペコしなければならないのだろうか」と思うのにも似ている。さらに、プロジェクトマネージャーがクライアントを説得できなかったせいで時間が足りなくなり土日も犠牲にせざるをえなくなったというようなことがあればプロジェクトマネージャーに一言ガツンと言ってやりたくなるはずだ。そこで「プロマネに楯つくとはお前には品格というものがない」と言われたらどんな気分になるだろうか。しかもどんなに尽くしてもプロマネはエンジニアに感謝などしない。「お前らが無能だから赤字になったじゃないか」などと毒付いて「もっと優秀で土日も休まないエンジニアが欲しい」というのである。

日本人はこれに耐えるかもしれないが、他の国の人は別の企業に行くだろう。しかしこのような状態が続けば日本人ですら英語を覚えて外国企業に就職するかもしれない。

実はこの問題を見ていると、日本企業が国際化できなかった理由がよくわかる。原因はいくつもあるのだろうが意思決定が特殊なため異質な人たちを受け入れられないという事情がある。また、若い頃に「いじめられていた」のを「後には良いことがあるから」と我慢させていたという事情もある。だから、貴乃花親方のように全てを捨てて相撲に没頭してきた人に「これからは力士を労働者として普通に処遇しなさい」とは言えない。

さらに都合が悪くなると「労働者と経営者は親子同然なのだから、親を敬わないのは品格がない」と言い切れる。その場はなんとか取り繕うことができるのだが状況が改善するわけではないので、人はどんどん逃げて行ってしまうのだ。

つまり、日本企業が過剰な日本人らしさを求めて衰退して行くのと同じことが相撲で起きているということになる。「国技」という小さなプライドを持ちながらゆっくりと衰退して行くことになり、これは製造業が「日本の誇り」と言われているがゆえに衰退し、品質偽装を繰り返すようになったのと実はとてもよく似ている。

Google Recommendation Advertisement



日本とアメリカの笑いの違いについて

日本語版のQuoraに「日本とアメリカの笑いは何が違いますか」という質問があった。特に学術論文ではなく無責任にかけるので、書いてみると以外と面白かった。そこでこちらにも載せることにした。

いったん、答えを書いてみて「一番顕著だな」と思ったのは場の構成の違いだった。つまり、アメリカと日本の笑いの一番の違いは笑いの輪の中に観客が入るか入らないかということではないかと思ったのだ。これを平たく説明するのはなかなか難しいが、日本人が抱える「公共空間」への不信感というか恐怖心のようなものが現れていると思う。つまり、なんらかの同質さが確認できない限り日本人は他人を信頼しないのだ。これが泥だんごを投げ合うTwitterの政治議論にも影響を与えていると思う。

よく考えてみると、日本人は人前では感情を表に出さない。日本人は「おとなしい」とか「何を考えているのかわからない」と言われるのはそのためである。西洋文化圏の人は慎ましいと言って終わりにすることも多いようだが、東洋系の人たちは日本人が閉鎖的で差別的だということも知っているので、Quoraでは「日本人は本当に礼儀正しい人たちなのか」というような質問が時々出てくる。

一方、アメリカ人は笑いたければ笑う。その上笑いには社会的な機能もある。

例えば日本人は映画館で笑わないで黙って映画を見ている。アメリカ人は面白ければ笑うし、解放感が得られるシーンでは全員で拍手をしたりする。アメリカ人はこうやって社会的な一体感を感じるのに笑いを使うわけだ。

笑いは緊張感の緩和にも用いられる。ある政治家が真面目な集会で言い間違いをする。みんな言い間違いだとわかっているが指摘できない。この時誰かが「笑う」とみんなもつられて笑う。そこで政治家が気がついてそれをジョークにして笑うということがある。結果的には誰も傷つかないし、一体感を得ることもできる。むしろ、政治家にはジョークの才能が必要であるとされる。そしてそのジョークは必ず「ボケ」である。

しかし日本人は誰も笑っていないのに自分だけ笑うわけには行かないと考えるし、そもそも大衆の面前で笑うのも恥ずかしいので笑わない。さらに、えらい政治家を嘲笑することには侮蔑以上の意味はないし、笑われたえらい人もジョークで返すスキルがない。つまり、日本人は笑いによって緊張を緩和することはない。

日本人は笑うのに相手の許可を必要とする。つまり「笑ってもいいですよ」という許可がない限り笑えない。日本語が堪能なアメリカ人のジョークを聞いていると「ボケ」なのか「無知」なのかわからないことがある。例えば今回答えを書くのにパックンの外国人記者クラブでのインタビューを読んだ。パックンは政治的なジョークで何回かボケていたが、日本人向けなのか「これは冗談です」という情報を挟んでいた。しかしながら、アメリカでは「これは冗談です」とは言わない。日本人は「これは笑っていいことなのだろうか」と考えるが、アメリカ人は「笑いたければ笑う」のである。

このため日本には「ツッコミ」と呼ばれる人がいて、その人が「なぜおかしいのか」を指摘する。つまり、ツッコミは観客に笑う許可を与えているのである。かなり回りくどい仕組みだが、そもそもこの構造に気がついている人はそれほど多くないのではないだろうか。

このようなことを改めて考えていると、アメリカ人はスタンドアップ・コメディアンと個人の観客がいて笑いの世界を構成していることがわかる。つまり観客は笑いの当事者になっている。しかし日本では笑う人と笑われる人が目の前におり、観客はそれを第三者的な視点で眺めているということがわかる。その場に入って感情的に巻き込まれてしまうことは日本人にとっては危険なことであり、距離をとって初めて安心感が得られるのだろう。

アメリカでは政治的な笑いというものが存在する。「やっぱりあれは間違っているよね」という感情を共有することができる。これは笑いだけではなく様々な政治的判断に用いられる。判断基準は内在化していて、この違いを「イデオロギー」と言っている。

しかしながら、日本だとそれを笑っていいかということはいろいろな条件によって複雑に決められるし、笑うことによって社会的な避難を受けかねないなどと考える。つまり「個人の資格で笑っていいかどうかは判断できない」ということになる。だから日本人は政治を判断しない。周りをみてどうするか決めるし、周りが無関心なら何もしない。つまり日本人には内在化したイデオロギーはない。一見、リベラルな人は「平和主義者」であり、保守の人たちは「拡張主義者」のような気がするが、必ずしも態度は一貫しない。自分の立場の権威付けのためにポジションを利用しているだけであって、特に一貫性を求めてはいないからである。

イデオロギーがないので政治的なことは笑えないが、社会的な序列には敏感である。そして、この序列を守るためには暴力も許容されている。このことは相撲を見ているとよくわかる。外からきて日本文化の良い学び手であった日馬富士は素直にこの価値観を取り入れて、貴ノ岩をカラオケのリモコンで殴りつけたと言われている。

このため、例えば美貌に恵まれていない女性の容姿や体型を笑うとかのろまな人を笑うことは比較的おおらかに許容されるし、序列上弱者だと見なした人を嘲笑したり頭を叩いたりするのは文化的にはよいことであるとさえされる。

相手の頭を小突くことは多くの文化では暴力であるが日本人は「ツッコミ」を暴力とは見なさない。日本人には社会的に許容された弱者への暴力というものがあり、相撲の世界ではかわいがりと呼ばれ、学校では生活指導と呼ばれる。

どれも暴力なのだが、生贄を作って社会が緊張のはけ口を持ったり、秩序維持のための見せしめにするのは日本では許容されたコードだ。つまり、いじめは公衆の面前で自分の考えを明確にしたり、感情によって表現することを許されない日本人にとっての「安心できる」緊張の解決策であり安全対策なのだろう。

しかしながら、自ら容姿に恵まれていない女性を嘲笑するのは憚られるので彼女たちがいたぶられているのを外から見て楽しむのである。

Google Recommendation Advertisement



日馬富士の引退

このエントリーは記録のために書いている。暴行問題が取りざたされていた日馬富士が引退した。貴ノ岩に暴力を振るったことは認めたが「指導の一環だった」し「これまでお酒を飲んで暴力を振るったことはない」と言っていた。

今までの同じようなことがあったかどうかはわからない。もしあったとしても「お酒を飲んで暴力を振るったことはありますか」と聞かれても「はい」とは言わないんじゃないだろうかと思った。これまでも「指導の一環として頭蓋骨が陥没するほど人を叱ったことがあるか」と聞けば、あるいは結果が違っていたかもしれない。

日馬富士の言葉の端々には「お世話になった」とか「育ててくださった」などというようなニュアンスが入っており表面上は日本の伝統である「謙譲さ」が身についているようだった。たまたま、安藤優子のコメントを見たのだが「日本精神をよく理解している」というようなことを言っていた。彼女としては善意なのだろうが、この人は本当は馬鹿なのかもしれないと思った。すでに国際化してしまった上に暴力行為が蔓延している相撲界で日本精神が押し付けられているのをみて何が楽しいのかと思ったからだ。が、普通の日本人ならば「ガイジンなのに日本のことがわかっていてえらいね」と思うのが。普通なのかもしれない。

足を怪我したらしくしばらく出てこれなかったデーモン小暮は「相撲界では指導のための暴力が必要だと考えている人が多い」というような意味のことを言っていた。つまり暴力は蔓延しているが、それを改めるつもりなどないということである。いわゆる「会友」と呼ばれる御用記者や自らも暴力に手を染めてきたであろう力士出身者には決して言えないコメントだったと思う。

ここで日本社会が発信しているメッセージは極めて単純だ。つまり、表面上日本の精神がわかったようなことを言っていれば、裏では何をしても構わないということであろう。その意味では日馬富士は相撲界が彼に対して持っている期待をうまく理解したがために、引退に追い込まれたのかもしれないなどと思った。

日馬富士が本当に「反省」していないことは、東京に戻って記者に対して「何もいうことはない」と言い放ったことで明らかになったと思う。しかし、国籍差別がある相撲界には残れないようなので、もう日本精神を遵守する義理はない。にもかかわらず彼を追いかけ回して「反省」を迫る記者たちに異様なものを感じた。彼らは読者の「日本にいるときには俺たちの文化に従い、集団リンチを受けても黙って耐え忍ぶべきだ」という、全く根拠のない期待に答えているだけなのだろう。これもとても気持ちが悪い。

今後の焦点は、これが当初から言われてきたように相撲界の権力闘争につながるかどうかである。もともと貴乃花親方は現在の相撲協会のやり方に反発しておりクーデターを企てたなどという憶測が飛び交っている。貴闘力が賭博問題で解雇されたことを恨みに思っているなどという憶測記事も読んだ。

表面上誰かを犠牲にして「更生した」ふりをしていると、それを恨みに思った人が報復に出る可能性があるということだ。もし今回の反省が形だけのことに終われば、今度は伊勢ヶ濱部屋が貴乃花親方に報復するということにもなりかねない。合理的な理由のある権力闘争だと思っていたのだが、もしかしたら狭い村の単なる遺恨合戦を村人根性が抜けない日本人が見ているというのが本当のところなのかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



学校はみなさんがいじめられても飛び降りるまで何もしないですからね

いじめの話がなくならない。今度は神戸でおきた自殺未遂事件だそうだ。机が悪口を書いた紙切れで覆い尽くされていたのだが、当事者は写真を撮影しただけで何もいわずに授業を受け続け、そのあと公園の石垣から飛び降りたのだという。

この話が拡散したのは、机の写真があまりにも非日常的でインパクトがあったからだろう。これを「生徒同士のじゃれあい」と感じていたそうだから、感覚がかなり麻痺していたことがわかる。

この事件には2つの問題がある。一つは学校側が「学校に何か物申すなら命を捧げよ」というかなり明確なメッセージを出しているという点で、もうひとつはそれを敏感に感じ取った学生が「学校は何もしてくれないのだから身を守るためにはいじめに加担しなければならない」と感じているという点だ。

学校は何もしないことで「もし深刻ないじめだと感じるならそれなりの行動を起こせ」と言っている。「それなり」というのは命を賭けて抗議をしろということである。学校のような神聖な秩序にチャレンジするのだから、それなりの対価を支払うべきだと言っているのだ。いったん自殺や自殺未遂が起こると今度はプロトコルに従って「調査委員会」が作られるが、それまでの間紛争を処理する仕組みはない。先生は秩序に反して仕組みを作ろうとは思わないので、自動的に放置されるというわけだ。

このプロトコルは日本人を考える上で重要な概念だ。例えば家庭内のいじめの対応には社会的な二つのプロトコルがある。一つは児童虐待でこれは児童相談書で「処理」される。もう一つはドメスティックバイオレンスでこちらにも専門の仕組みが用意されている。つまり、それ以外の暴力(例えば親子間とか兄弟とか)には適切な仕組みがないので、例えば高齢の親を子供が殴ったなどというケースには行政は介入しない。制度がないのに動くと調整が面倒だからだ。

同じように学校には生徒間の紛争を事前に処理する仕組みがない。法律に従って重大インシデントに対応する仕組みはある。これに合わせるには飛び降りるしかないのである。カフカの「城」を思い出させるような話だが、実際には学校も「お役所」の一つになっていると考えられる。

もう一つの問題は相撲や企業不正について観察した時に見た「世間を騒がせる」罪である。本来平和であるはずの教室にいじめが起こっているということを告発することは、担任教師のマネジメント能力に対する疑問なので慎まなければならないし、同僚の教科教師が疑問を挟むこともできない。さらに生徒がこうした秩序を「飛び越えて」教育委員会や第三者委員会に強訴することは決して許されないという学校内封建秩序である。

この話を聞いて思い出したのは佐原惣五郎の話である。「伝説だ」という話も多いようだが基本的な路線は次のようなものである。

佐倉藩の農民は重税に苦しんでいたのだが聞き入れられず家綱に直訴した。願いは聞き入れられたのだが、佐原惣五郎は処刑されてしまう。本人だけではなく妻も男子の子供も処刑されたという。つまり、一家根絶やしになってしまったのである。

この背景にあるのは、個人が体制に文句をいうことは決して許されないのだが、もしやるとしたら一家が根絶やしになっても構わない覚悟でやりなさいということである。直訴を許してしまうと、気に入らない時には直接幕府に訴えればよいということになってしまい、幕藩体制が揺らいでしまうからだ。

学校を一種の封建社会だとみなすと、生徒の人権というのはそれほど大切なものではなく、学校の秩序維持が重要だということになる。もし訴えたいことがあるならば、命をとしてやりなさいということで、飛び降りる生徒というのはその仕組みに従っただけということになる。こうした社会秩序が前提にあるのに「命は大切だから」などと訴えても全く説得力はない。

このブログで自殺や死にたい人について考える時に、常に「訴える手段として自分の命を使うな」と言っている。時には「訴える側にも意地になっている側面があるのではないか」といって反感を買ったりすることがある。つまり、自分がいじめられているということを社会に認知させるためには死ねば良いという「正解」が出てくると、そのことで頭がいっぱいになり、自分が何を犠牲にしているのかということがわからなくなっているのではないかと思うのだ。

このような問題を防ぐためには、第三者の恒常的な介入は欠かせないのではないだろうか。また、生徒が気軽にノーコストで「直訴」できるような仕組みを作り、それが当然の権利であるということを丁寧に教えこまなければ、似たような問題はなくならないだろう。結局のところ「死ぬほど悩んでいるのか」ということは当人にしかわからないからだ。

その意味で、この学校と教育委員会のやり方は許容されるべきではないと思う。

Google Recommendation Advertisement



大変な中で万歳というのはおかしいという横審がおかしいよ

白鵬の千秋楽での振る舞いが波紋を広げているようだ。一つは「日馬富士と貴ノ岩を土俵に上げてあげたい」という発言だ。これは暴力事件なのでどちらも無事で終わるということはないだろうが、同胞を守りたいという気持ちはよくわかる。

もう一つの問題は「万歳」である。これに横綱審議委員会の委員長が噛み付いた。しかしこの発言を聞いて「おかしいのは横審の方だろう」と思った。以下理由を説明する。

確かに日本人としてあの万歳を見たときに「何やってるんだ」と思った。では、万歳がおかしい理由は何だろうか。これを説明するのは実はなかなか難しい。

日本は一つの巨大な村である。だから村で問題が起こると問題そのものよりも「村の平穏が乱された」ということが非難の対象になる。村は平穏無事であるべきだからだ。今回の問題でも協会は「日馬富士が暴行してごめんなさい」とは謝罪しないが「皆様をおさわがせして申し訳ない」とはいう。

相撲協会のいうガバナンスとは何か。ファンは相撲は日本の国技だと主張したい。自分たちは相撲をよく知っているので「日本の伝統をよく知っている人」として威張れるからである。これがプロレスだとそうはならない。プロレスでは威張れないのだ。何か問題が起きると威張れなくなるので、ちゃんとブランド価値を守るために何も起こらないようにしておけよと言っているわけである。

日本人は言葉を信頼しないので、下を向いて反省をしているように見せて村が問題を忘れてくれるまで待つ。もしここで下を向いて反省しているポーズを取らないと大変なことが起こる。日本人は反省しない人には何をしても構わないという極めて他罰的な文化コードをもっている。つまり、反省したフリをしていないとバッシングの嵐にさらされてしまうのである。

だから、問題について実際に反省していなくても構わない。重要なのは体裁と周りの評価である。そして善悪はそのときの周りの反応によってなんとなくふわっと決まる。

よく考えてみると、これはとても複雑な文化的パッケージである。しかし、日本人はこれを外国人に説明できない。そもそも意識していない上に「とりあえず頭を下げておいてほとぼりが冷めるのを待つんだよ」などとは格好悪くていえないからである。言えないから「品格」という格好の良い言葉で包むのである。

白鵬がどのような気持ちで万歳したのかはわからない。本人に聞いても理路整然とした説明は難しいかもしれない。モンゴルにも似たような行動があるのかもしれない。「モンゴル・万歳」で検索するとモンゴルには「フラー」という兵士の士気を高める万歳のような掛け声があり、これがロシアとドイツ経由で英語化したという説があった。本当はモンゴル人らしく「フラー」をしたかった可能性はある。

しかし大方の日本人は田舎者なので「神聖な相撲の土俵でモンゴル人らしさを出すなどとんでもない」などということを平気で口にする。これを説明するのに「大リーグで日本の選手が日本人らしさを出したらきっと大変なことになるに違いない」などという説明をしている識者がいた。大リーグでジャパンデイなどのイベントがあるのを知らないのだろう。民族アイデンティティの発揚は人権の一部なので、これを制限するのは厳密には人権侵害なのである。

もしくは日本人が気持ちを一つにするときに「万歳をしている」のだから「万歳をすれば気持ちが一つになるだろう」という思い込みがあったのかもしれない。つまり、表層的な行動は模倣できるが、その裏にある行動原理をコピーするのはなかなか大変なのである。

モンゴル人を見ていると、強いときには強さをアピールし、喜んでいるときには喜びをアピールしたいという素直な心情が垣間見られることがある。ある意味人としてはこちらの方がストレートな対応だろう。しかしながら日本人はそもそも権力格差を極端に嫌うので待遇が得られるようになればなるほど、その待遇を行使することを嫌がる。「待遇は与えたがそれは表向きのことであって、自分に向けて使うのは許さない」とか「お前が待遇されているのは、その権威を利用して俺たちの気分を高揚させるためなんだよ」などと考えたりする。極めて集団制が高く、集団の中での格差が少ないという独特の精神世界がある。

そこで「強い人には品格が必要」という。品格というのはいわばブレーキの役割を持っていると考えるわけである。

しかしよく考えてみると「強くなればよい待遇が得られる」という表面的な文化コードと「待遇が得られたらそれを使ってはいけない」というその裏にあるコードを理解するのはなかなか難しい。普通の日本人ならば「どうせ責任が増えるだけだし、そこそこ長く稼げた方がいいや」と考えるはずで、余程の物好きではないと頑張って横綱になりたいなどとは思わないだろう。

横綱審議員がおかしいのは、自分たちが異文化からきた人たちに何を求めているのかということがわかっていないのにもかかわらず、問題があったときだけ「違っている」といって騒ぎ立てているということである。説明しないことがわかるはずはないのだが、それを怒っている。これは身勝手この上ない。

モンゴル人なしには相撲は成り立たないのだから、これを相手に合理的に説明するか、モンゴル人に頼らずに相撲好評を成立させるべきだ。しかし、若い次世代の日本人にさえ「品格」を説明するのは難しいのではないだろうか。自己実現が容易で個人が評価してもらえる格闘スポーツは他にもたくさんあり、何も封建的で遅れた相撲を選ぶ理由などない。

この苦しさが横審委員長の次の発言に現れている。

負傷のため4場所連続休場した稀勢の里、鶴竜の両横綱については、万全にして奮起を求める声が出た。北村委員長は「稀勢の里はこの状態が続いていくと横綱としての地位の保全をできるのかという問題にならざるを得ないので、しっかり体を治して次の場所に備えてほしい」と話した。2人の進退を問う意見はなかったという。

鶴竜についても触れられているのだが、本音では品格について説明する必要のない稀勢の里に頑張って欲しいのだろう。しかし、稀勢の里は「横綱の品格」を意識するあまり無理を重ねて怪我がなくならない。やはり品格で全てを説明するのはもはや不可能なのだ。

Google Recommendation Advertisement



日本人が政治議論ができない意外な理由

質問サイトQuoraに日本語版ができたので利用している。英語版ではオバマ元大統領が参加したこともあり有名になったということである。ここに参加してみて日本人が政治議論ができない意外な理由について考えた。

日本人が政治議論ができない理由としてよく挙げられるのは、日本語が非論理的な言語であってそもそも議論に向かないというものと、日本人には臣民根性があるので主権者意識がないという二つの理由だ。しかしながらQuoraは今の所あまり知られていないのでユーザーは英語が書ける人が中心なのではないかと思う。では、そういう人たちなら政治的議論がすぐにできるのかというとそうでもないようだ。

問題になるのは文法でも政治意識でもない。日本人なら誰でも持っている警戒心である。これを説明するのが、しかしながらとても難しい。以下事例をあげて説明してゆく。

今回質問したのは「憲法改正に賛成なのか反対なのか」という政治的な質問と「糸井重里氏の炎上事件についてどう思うか」という政治とはあまり関係がない質問だった。

糸井さんの件はTwitterではかなり周知されておりこのブログの閲覧数も増えた。しかし、まだまだTwitter村の出来事に過ぎなかったようで「糸井さんについては知らないけれど、他人が首を突っ込むような話ではない」という書き込みがあった。

もう一つの回答は「あなたはこの質問である結論に世論を誘導しようとしており、そのような態度ではあなたが炎上する側に回りかねませんよ」というものだった。「初対面の相手を呪うなよ」と思った一方で、なかなか面白い指摘だと思った。

日本語にはネガティブ・ポジティブのどちらかの印象がついた単語が多い。できるだけニュートラルにしようと心がけるわけだが、それでも人は「印象操作」の匂いを嗅ぎとってしまうらしい。しかしなぜそもそもニュートラルさを心がけなければならないのだろうか。

それは、ある一定のポジションの匂いを嗅ぎとられてしまうとそれのカウンターばかりがくることを恐れるからである。例えば護憲というポジションで何かを書くと、それに同調する意見がくるか、反対に「お前は馬鹿か」という意見ばかりがくることが予想される。日本人は党派性が強く、所与の党派によって意見が決まるので、却って自由な個人の意見がなくなるからだ。日本人は自らを村に押し込めているとも言える。

質問には「なんとなく嫌われている」という無意識の裏にあるメカニズムが知りたいので多くの意見が聞きたかったのだが、この人は「なんとなく嫌うのがどうしていけないのか」と怒っていた。それは「他人をバカにしており、価値観の押し付けである」というのである。多分、なんとなくというのは非合理的であり、日本人は非合理的で馬鹿だと思っているのではないかというところまで類推が進んだのではないだろうか。

ここからわかるのは、日本語でのコミュニケーションから党派性をひきはがすのは多分不可能なのではないかということである。言語構造の違いではなく文化によってコンテキストを補強するようにしつけられているということになる。

と同時に「他人に操作されたくない」とか「騒ぎに乗って利用されたくない」という警戒心がとても強いのかもしれない。相手の意見を聞いたら「同調する」か「反論するか」しないと、飲み込まれてしまうという意識があるのではないだろうか。

これは都市と農村の違いで説明できると思う。都市にはいろいろな人がおり隣同士であって名前と顔は知っていてもそれ以上の関わりを持たないという関係がありふれている。しかしながら農村では隣り合ってしまったら一生の間好きでも嫌いでも関わり続けなければならない。話は聞いたれどもそこを通り過ぎるという都市的な関係がないということになる。これも言語に由来するものではなく、日本人の文化的な特性だと言える。

このことは憲法議論にも言えた。もっとも冷静な対応は「案が出ていないのでなんとも言えない」というものだった。つまりもっとコンテクストを寄越せというのである。気になったのはこのコンテクストがなにかというものだが、そこまでは聞けなかった。もしかしたら、党派性を意識して「自民党だったらOKだが、同じ提案を野党が行えば反対する」のかもしれないし、人権を尊重したいというイデオロギーがありそれに基づいて判断するのかもしれない。いずれにせよ「いろいろなことを見て総合的に判断する」のが日本人なのだろう。国会の憲法議論では具体的な提案が出始めているので「情報が足りない」ということはないのだが、日本人はいつまでも情報が足りないと言い続ける。そして、周囲の反応を見つつ自分の態度が決まると今度は頑なにそれが変わらなくなってしまう。文脈は様々なものが包括的に含まれた複雑なパッケージであり、その中からイデオロギーや関係性を取り出すことは難しいのかもしれない。

もう一つの回答は「悪文トラップだ」という指摘がついて非表示になっていた。賛成か反対かを聞いているだけなのだが「手続きや前提が書いていない」ので悪文だと言って怒っていた。こちらもコンテクスト要求型だが、トラップだと書く裏には、この人は「憲法改正賛成派」か「憲法改正反対派」のどちらかに決まっており、世論を誘導するという悪い企みがあるという疑惑を持っているのだろう。わからないのは多分前提条件ではなく「お前が誰かわからないので判断できない」ということだろう。

これを払拭するのはなかなか難しい。質問の他に回答も書けるので、政治的にニュートラルであり特に世論を誘導する意図はないのだという答えをいつか書いた。それをフォローした人が「まあ、誘導されないなら何か書いてやろう」といって答えを書いてくれた。つまり、コンテクストの中には「その人のプロフィール」が含まれるので、やはりトピックだけを取り出してそれについて自分の意見をいうということは難しいようである。

今回、実名のQuoraでは政治的議論がおずおずとしか進まず、Twitterでは逆にお互いの政治的ポジションを罵倒しあうような言論空間になっているのはどうしてだろうかと考えていたのだが、どうやらTwitterは他人の問題に首を突っ込み自分と意見が異なる人たちを罵倒しても良い空間だということが包括的に理解されているのではないだろうか。例えばネトウヨの人たちはアイコンに日の丸をいれて意思表示をしたうえで、識者のかいた文書をコピペするという様式が作られている。これらは包括的な「村の文化」だと言える。つまり「匿名だからこうなる」というわけではなく、包括的なコンテクストを意識して動いているのだということになるのかもしれない。

このような問題は文化コードに依存するのであって言語の問題ではない。文化の問題なのでそれを変えるのはなかなか難しそうである。英語での議論に慣れた人が多そうなQuoraさえこの状態なのだから、これを普通の環境(学校や職場)などで再現するのはほぼ不可能だろう。

多分、日本で憲法議論が進まないのは、政治的な問題は個人の名前を出して話すべき問題ではないという思い込みがあるせいではないかと思われる。では学校で教えれば良いのではないかとも思うのだが、今度は教科書的に正解を暗記するようになるのではないだろうか。

現在の状況だと「体制に迎合的なことを言っておけば安心」という人が増えそうな気がするが、それ以前には民主主義や平和主義というのはすでに整った体制でありおのずから実現すると思い込んでいる人が多いようなので、どちらにしても状況を更新するような議論というのは起こりにくい気がする。

Google Recommendation Advertisement



いつも怒っている人ではなく、なんとなく動く人になる

「糸井重里的なもの」と感動マーケティングの終焉について考えている。

いろいろ考えるうちに、左派リベラルと呼ばれている実際には社会主義とはなにの関係もない人たちが何に苛立っているのかということを考えるようになった。もともとは反原発・護憲の人たちなのだが、それにまつわるさまざまなものに反対しているようだ。その底流には「人間は平等であるべき」という社会主義的な思想や、これまでの既成概念に縛られてはいけないというリベラルな思想があるというわけでもなさそうだ。

彼らには「自分たちが希求する正義が全く実現していない」ということに対する苛立ちがあるのではないかと考えている。左派リベラルの意見は政治的には全て無視されている。これまで政治的意見を表明する場所がなかったので、自分の理想が実現しなくても「まあ、そんなものか」と諦められるのだが、いったん口に出した以上「無視されている」ということが明らかにわかってしまう。にもかかわらず、自民党政権は次から次へとカンにさわることを提案し続けているので、それにいちいち怒らなければならない。だから常に怒り続けているという気持ちはよくわかる。

しかしながら「糸井重里的なもの」の崩壊を考える上で、社会主義とは関係がないあの界隈である「左派リベラル層」の反発はあまり参考にならなかった。むしろ参考になったのは「あの人はなんとなく嫌いだ」という人たちの声だ。実は普段からなんにでも反対している人の動向はあまり当てにならない。むしろ、あまり関心がなく「説明もできない」人たちが「なんとなく」動いた時に、ああこれは風向きが変わったんだなと思うわけである。

「あの人たちは常に怒っているんだな」と見られてしまうことには弊害が多い。

第一に「対象は別に良いんだな」と見なされてしまい社会への影響力がなくなる。第二に雛形が明確なために「あの人たちを対象にして煽り立てるようなことを言えば一定時間は評価してもらえるんだな」という人たちを惹きつける。その意味では<商売左派リベラル>的な人も一定数いる。第三に左派リベラルを攻撃することで支持が得られる人というのが出てくる。最近では名前を聞いたこともない落語家の名前を覚えてしまったが、多分認知を得るために左派リベラル叩きをやっているのだろう。

確かに「自分と同じ考えを持っている人がいるのだな」という「つながっている感覚」は心地よいのだが、それなりのデメリットも覚悟しなければならない。さらに、もし本当に世の中を変えたいなら、いろいろなことに「とりあえず」怒り続けるのはあまり得策ではないと思う。

つまり、群衆であっても「常に怒り続ける人」と「たまに動く人」では「たまに怒る人」の方が社会的な影響力が強い。政治は常にこの「たまに動く人」の動向を気にしているので、もし社会的に影響力を行使したいなら「いつも怒る人」ではなく「たまに動く人」のように見えていた方が都合がよいということになる。

では「なんとなく動く人」に見えるためにはどうしたらいいのだろうか。

ネットには様々な声が溢れておりいろいろなことをしている人がいる。例えばTwitterで毎日のようにイラストを発表している人とか、煙突の写真をひたすらアップしている人とか、Facebookで何かのキャラクターの像を制作している人もいる。何気なくやっていることが集積することはないので、なんらかの意志を持って継続的に行っているのだろうと思われる。

ネットはこういう人たちをとがめ立てしない。世の中にはいろいろなことをいう人がいるんだなあで終わってしまうからだ。彼らがたまに政治課題に反応してそれが複数のルートから来たとき「ああ、なんとなく動くのかな」というような印象が得られる。

ソーシャルメディアが台頭すると「誰にも気にされないで何かやっている人」風な人が増えてくる。すると「この人は自分の意見を押し付けているわけではなさそう」と考え、「本当に好きなことをやっている純粋な人なのだろうな」と考えてついついその人そのものが気になってしまう。一貫性がある人をみると自動的に好ましい印象を持つという効果もある。インプレッションの回数と長さである程度の評価が自動的に決まってしまうからだ。さらにその人たちが空気を作り出しており、実際に大きな影響力を持っていると言える。実は「何気ない(風の)自己発信」にはメリットがたくさんあるのだ。

ネトウヨの人が日本国旗をTwitterのプロフィール画像に使うのをとがめ立てするつもりはない。彼らは特に自分の言動で何かを変えたいなどとは思っておらず、さらに「日本人である」という帰属意識の他に依存できるものはないから、あのような自己表現をしているだけだからである。

ネットのプロフィールに「立憲主義を守る」とか「原発のない綺麗な世の中を作る」とか「戦争反対」と書くとつながりを得ることができるので、それはそれで悪いことではない。ただし、本当に世の中を変えたいなら、それはあまりよい作戦ではないかもしれない。

Google Recommendation Advertisement



「糸井重里」と感動マーケティングの終焉

このブログは政治ネタが多い。有権者はあまり政治に興味がないようだが、特定の人たちがおり熱心に政治課題について研究しているからだ。しかし、その中身は建設的な提案というよりは政権への批判である。この数年は安倍首相と自民党について書けばそれなりにページビューが集まり、それを止めると流入が止まるという状態が続いていた。




安倍政権はアメリカとの関係を強化することに腐心しており国会を無視して法案を通してきた。特定機密の件から集団的自衛権までがそれにあたる。オバマ政権下の出来事だったことを考えると、オバマ政権は大統領のクリーンなイメージとは裏腹に日本政府にかなりえげつない圧力をかけていたのではないかと思われる。これが一段落し正直なトランプ政権になったこともあり、安倍首相が矢面に立たなくても済むようになっているのだろう。

こうした客層の人たちは主にTwitter経由で流入してくるのだが徐々に別のターゲットを見つけつつあるようだ。その一つが糸井重里さんの炎上である。神戸のクリスマスツリーが発端になっているのだが、この炎上の中身をみていると少し様相が違っている。どうやら怒りというよりは静かに燃えているようである。

もともとこの問題は、西畠清順という人が発端になっている。園芸界ではプラントハンターとして知られた人なのだが一般の認知度は高くなかったはずである。にもかかわらず派手に燃えたのは背景に糸井重里さんのエンドースメントがあったからのようである。

150年も山奥で生きて生きた木を切り刻んで金儲けの道具にするのがけしからんというのが表面的な非難の理由だ。当初は、山間地域の人たちは林業で生計を立てることができないから山間地の人たちの声を説明すれば合理的に騒ぎは収まるだろうと思っていたのだが、そのレベルを超えてしまっているようである。

西畠さんが山間地の事情と植林事業について説明している媒体も見つけた。しかし、これはマガジンハウスのものであり、多分逆効果なのだろうなと思った。マガジンハウスはなんとなくふんわりとした感性を全面に押し出して価値観を演出していた会社だ。これがSNS時代に合わなくなっていることがわかる。

全く同じに見える現在のインフルエンサーマーケティングとかつてのおしゃれ系感性マーケティングだが、実際には全く異なっている。インフルエンサーは街の声の集積なのだが、おしゃれ系感性マーケティングは、最初に売りたいものがあり「みんながいいと言っていますよ」とか「銀座に通ってい人たちの間では人気ですよ」などと主張して消費者を納得させる手法だったからである。

SNSが発達し、実は「銀座に通っている人たちの声」というのが血の通わない作り物だということがバレてしまったせいでおしゃれ系感性マーケティングは終了してしまった。しかし、マガジンハウスの人たちはそれに気がつかずに、お互いを褒めあっている。これが上からで痛々しいと感じられるのだろう。

しかし、糸井さんに反対する識者たちの声をツイッターで聞いてみると、どうもそれだけではなさそうである。加えて、この声も実は一様ではない。

第一に糸井さんに反対している人たちは「あの界隈」の人たちである。世間では左派リベラルと呼ばれているのだが、実際には社会主義とは全く関係がない人たちなのだ。彼らは原発に反対し、憲法第9条は守られるべきだと考えている。また金儲けに懐疑的で、東京オリンピックにも反対している。これらは「連想」でつないでゆくことはできるのだろうが、彼らが反対しているものに対して改めて共通項を探そうとしても「よくわからない」としか言いようがない。これはネット右翼とも共通している。つまり、彼らにはなんらかの共通の文脈があり、それに引っかかったものは全て好きだったり嫌いだったりするのだ。

既得権益層が自分たちの利権を確保するために広告代理店(これはなぜか博報堂ではなく電通のことだ)を使って民意をコントロールしている。だから民衆は騙されており本当にあるべき姿に気がつかない。だから私たちの正義が実現しない。このままでは戦争になる。このコンテクストに当てはまるものはすべて左派リベラルの人たちに憎悪される。

やっかいなのは、彼らのいう「陰謀」がなんとなく当たっているという点である。電通がコンサルタントを通じてオリンピックの票を買ったのは間違いがないらしい。フランスでは捜査が始まっているが、日本の捜査当局は政府が嫌うようなことはやらないだろう。これがわかっていても誰も動かないので、似たようなものは全て攻撃されるということになってしまっている。つまり、実はクリスマスツリーに反対しているわけではなく、感動マーケティングそのものにアレルギー反応を持っているのだから、合理的に説明を試みても納得感が得られないのだ。

では糸井さんもこの線で反発を受けているのだろうかと思って見てみた。しかし、このような批判はあまり多くなかった。代わりに多かったのが「なぜか糸井さんは昔から嫌いだった」という声だ。理由がよくわからないようである。

そこで試しにTwitterでフォロー・被フォロー関係にある人に「なぜ嫌われるのか」を聞いてみた。「上から正しそうなことをいう」というような意見と「いつも正しいことを言っているが、ときどきとんでもないものをぶっこんでくる」という意見があった。

この「正しさへの反発」はインスタマーケティングなどの台頭で説明ができる。現在の商品をおすすめしている人は普通の生活を露出している。ゆえに完全に正しいということはない。むしろ、ちょっと抜けたところを配信して「気が抜けた瞬間」を演出している人もいるだろう。常に正しいのはポーズであり演技であるということがバレているのである。

だが、それだけでも説明ができない。「騙された経験があるが誰も騙されたことを言わないだけだ」という意見を教えてもらったのだが、糸井さんに騙されて何かを買った経験はない。だが「別にいいとは思わないのに嫌に自信たっぷりにおすすめしてくるな」と思ったことはある。

つまり、別にいいとは思わないし、いいと思う理屈もよくわからないけれど、みんながいいと言っているから、まあきっといいんだろうなという理解をしている人が多かったのではないかと思った。つまり、よくわからないのに「ああこれっていいんだよね」と取り繕っていた人は多いのではないだろうか。

糸井さんは好景気が終わって「なんとなく」ものが売れなくなると、インターネットに移って「ネット文化ってこういうものですよ」と言って生き残っていた人である。感想の中には「いろいろと逃げ切ってきた、糸井さんがついに逃げきれなくなった」というようなことを言っている人がいて「なるほどな」と思った。つまり、「銀座ではみんながいいよと言っているよ」と言っていた人が「ネット文化ではこうなんだよ」と主張して生き残ってきたということだ。

いずれにせよ今回の件で「実はみんななんとなく納得していなかった」ということがバレてしまったのかもしれない。それが違和感の正体ではないかと思う。その意味で今回の炎上は他とはちょっと違っている。

Google Recommendation Advertisement



政治から相撲まで – 崩壊過程を観察する

各種の崩壊過程について調べてみた。中の人たちからみると「こんなに単純化はできない」のだろうが、あえて単純化した。さらにあるパターンを作り、それにストーリーをあてはめた。だからこの文章は「すべての崩壊過程には必ずパターンがある」というものではない。

これらのストーリーには、ある成功体験に特化した組織が、変化を察知できないくなるという基本パターンがある。しかし、集団には閉鎖性が強く新しい知識が入ってこないので問題が解決できなくなるという図式である。しかし、実際に崩壊するのは「組織」ではなく「社会」である。社会が成り立つためには信頼という通貨が必要なのだが、組織防衛を優先すると失われてしまうのだ。そのコストは計り知れないがいったん社会が崩壊すると信頼を回復する手立てがなくなる。そこで組織だけが残り構成員がコストを支払い続けるということになる。

政治

高度経済成長期に入り、自民党は企業の儲けを地方に還元するという利益分配型の政治を行うようになった。高度経済成長の中身はブラックボックスだったが政党はそれを気にかけなかった。しかし経済は変質しており、大蔵省の通達で資産バブルが崩壊する。これは資産バブルについて大蔵省が意識していなかったことを意味している。しかし、自民党は利益分配に特化しており経済の諸課題を解決できなかった。そこで動揺と権力闘争が広がり、それがマスコミを通じて伝わるようになった。政党は集団を組み替えたり新しい党首を求めたが戦略の変更はできなかった。世襲化が進んでおり新しい知識は入ってこなかったからである。最終的に民主党政権が誕生するのだが、政権交代で世間から否定されたことに耐えられなくなった自民党は民主主義そのものを憎悪することになり、戦略を立て直したり外部から新しい人材を迎え入れることはせず、民主主義を否定する憲法草案を作り有権者に対するルサンチマンを晴らそうとする。しかし相手を非難するだけで建設的な提案ができなかった民主党も国民から飽きられてしまった。この結果、かたくなになった自民党が政権に復帰した。この政権は民主主義に懐疑的で、どうやれば有権者を騙せるかということが政権運営の基本方針になった。有権者も政権交代での混乱が怖くなり目の前の矛盾を意図的に見過ごすようになった。そのようにして日本の議会制民主主義は壊死してしまう。

人材

資産バブルが弾けると人件費調整の必要が生まれたが、企業は終身雇用を前提として雇われた人たちを雇い止めることができなかった。そこで企業は人件費さえ削減できれば問題は解決できるのにと考えるようになり、非正規雇用に依存することで人件費削減策を採用するようになった人件費はしばらく高止まりしたのちに下落を始めたが、直ちに企業活動に影響は出なかった。しかし、この頃から経済が成長しなくなり一時は「デフレ」と呼ばれる物価の低下すら観測されるようになった。企業はデフレ対応を強めて低価格商品を市場に提供する一方で、政治的な圧力を加えて非正規雇用を拡大させた。日本は再び経済成長することがなくなり、政府は金融緩和などでその場しのぎの対応を行うほかなくなった。非正規雇用の通路は、正規雇用から転落した人、そもそも就職氷河期で正社員になれなかった人、年満退社後非正規雇用に転換した人というという正規から非正規への一方通行だったので、新しい知識は入ってこなかったし人材の流動化も起こらなかった。経済が再び成長する見込みがないので、人件費が低く抑えられており、海外に人材が流れることになった。この結果、企業内では知識が継承されなくなり、残った知的資産が外国に流れるようになった。地方では人材が調達できないからという理由で潰れる企業も出てきたが、企業収益は過去最高を記録しているため、企業がこの方針を変えることはあまり期待できそうにない。

金融機関

とにかく土地さえ購入していれば経常利益が黒字になるという時代が続き、金融機関は企業の価値を正しく測れなくなっていた。企業に資金を貸し出して土地を買わせて利ざやを稼ぐというのが金融機関のやり方になった。しだいに、必要な土地を買うという状態からとにかくみんなが買うから土地を買うのだというような状態になっていたが銀行は気がつかなかった。資産バブルが崩壊すると今度は一斉に貸しはがしが起こりその結果企業は金融機関を信じなくなり自己資金の蓄積を始める。経済が上向かないことに苛立った政府は紙幣を増刷して市中にばらまいた。その結果、利息が下がり金融機関は利息によって儲けることができなくなった。しばらくは国債を購入させてその利ざやで経営を支えていたがそれも難しくなる。かといって企業は潤沢な自己資金を持っているので金融機関には頼らなくなった。新しいフィンテックなども始まっていたが自前の社員でなんとかしようという気持ちが強く外資系の人たちを採用しなかったこともあり、新しいサービスへの適応は限定的なものだった。金融機関はリストラを進めざるをえなくなり、中期的に人材の数を減らし、支店も閉鎖する見込みである。合併した銀行は残ったが、一般消費者は近隣に支店が見つけられないという状態になっている。しばらくはコンビニのATMに頼っていたが、これも維持費が稼げなくなり削減の方向だという。

相撲

かつて困窮する農村部の人材の受け皿として発展した相撲部屋だが、高度経済成長期に入ると農村部から人材を引き受けられなくなった。しかしながら、相撲は近代スポーツに転換することはできず、相撲部屋という利益集団もなくならなかった。そこで、日本の農村部と変わらないだろうと考えられたモンゴルなどの発展途上国から人材を調達することになる。調達先が変質しており、当然ながら担い手の文化も変わっていた。しかしながら、当初はパスポートを取り上げて逃げられなくしていたが、やがて横綱が出てくると「品格」という曖昧な基準でしばり、モンゴル的な変質を受け入れなくなった。しかしながら、モンゴルでも高度経済成長が起こりいつのまにか世代間で考え方のずれが生まれた。これが軋轢となり問題が起こるが、一方的に価値観を押し付けていただけの日本人にはモンゴル人が理解できず、したがって危機管理もできなかった。それどころか、相撲協会の中にも考え方の違いがあり「協会が信用できないから危機管理はやらせない」と宣言する親方まで出てきた。相撲経験者だけが相撲協会の理事になるという形態なので特殊な文化が温存され、世間の常識が入ってくることはなかった。その軋轢が疑心暗鬼になりモンゴル人横綱がその場でジャッジに抗議するという「品格の面からはあってはならないこと」が起こり、品格という曖昧な基準は崩壊した。モンゴルでは日本の相撲界は揺れているという懐疑論が生まれており人材の調達は難しくなるだろう。

相撲は、政治経済とは比較的離れて固有な位置にあるので文化の変質が追いやすい。相撲は基本的に興行なのでお互いに完全な潰し合いをせず選手生命を長く保った方が良い。しかし、それが外に見えてしまうと競技性が失われ単に「プロレス化」してしまう。そこで、表向きは競い合っているような体で相互調整をする。これが貴乃花親方が嫌っている「馴れ合い」である。貴乃花親方が馴れ合いを嫌うのは相撲にすべてを捧げて健康を失い家族も崩壊しているからだ。しかし、すべての力士が親方になり雇用が保証されるわけではないのだから、特定のチャンピオン以外はすべて失ってしまうというような競技に人が集まるはずもない。つまり、相撲が現在のような体制である限り馴れ合いはなくせない。一方、この馴れ合いは選手間・部屋間で暗黙のうちの行われる。つまり、ハイコンテクストなのでモンゴル人が入れなかったのだろう。モンゴル人社会にも強くなれば認めてもらえるだろうという期待があり、それが頑張りにつながっていたのだが、最高位になっても二級市民扱いされるという状態が続いている。モンゴル人は穏やかな人たちだが、強さを誇示したいという気持ちもあるようで日本人とは強さの表現がかなり違っている。平成になって成功したチャンピオンは貴乃花のようにすべてを失ってしまったひとかモンゴル人しかいない。つまり馴れ合っているとチャンピオンにはなれないが、かといって馴れ合いなしには雇用が維持できないという状態になっている。だからすべての人を満足させる回答が決して見つけられないということになる。

Google Recommendation Advertisement



異文化理解力

先日Twitterで教えてもらった本を読んだ。「異文化理解力」というタイトルがついている。Twitterで何かを教えてもらうというのはとても珍しい。

多国籍企業で働くと、誰でも自分の意思が相手に通じないと思ったり、相手が自分の思った通りに行動してくれないという経験をしたことがあるはずだ。文化が違うと行き違いが起こりやすいのである。外国に行くときにはガイドブックを持って行くのだから、当然相手の地図のようなものがひつようになってくる。エリンメイヤーはこれを「カルチャーマップ」と呼んでいる。つまり、この本は外国の人と仕事をするためのガイドブックのような本である。

2017年の新刊ではないのだがこの本はとても人気が高いようだ。それだけ海外赴任を命じられたり、外資系の会社で働く人が増えているのだろう。最近、建設現場で中国語などが飛び交うようになっているので、もしかしたら日本の会社に勤めていても外国人と働くことになる人もいるのかもしれない。

地図を作るにあたってエリン・メイヤーは8つの指標を用いて文化の間にある違いを研究した。8つの指標には名前が付いているがここでは詳しい説明ができないので簡単な説明をつけた。

  1. コミュニケーションがどれくらい文脈に依存するか
  2. 評価を直接伝えるかほのめかすか
  3. 物事をどう説明して相手にやる気を出させるか
  4. みんなで協力するのが好きかそれとも誰かがリードする方が好まれるか
  5. だれが意思決定するか
  6. 信頼の対象はものなのか人なのか
  7. 見解の相違をどう解決するか
  8. スケジューリングは柔軟か

メイヤーはどちらかというと実用的な側面からこれらの指標を抽出しているようで、指標を一通り読めば日々のビジネスシーンに役に立つティップスが身につく仕組みになっている。

同じような研究にホフステードの文化指標がある。どちらかといえばこちらは文法書のようなもので、全ての傾向を限られた指標で点数化している。ホフステードは様々な質問の傾向を抽出して違いが出やすい指標を抽出しているのだが、メイヤーは実務書として書いているので、指標の中にはお互いに関連しているようなものがある。メイヤーは会話書のようなものなのかもしれない。

例えば「説得」は全ての文化の指標になっていない。理由を説明して相手を説得しようとする文化と具体的なやり方を示す文化があるとされているのだが、これは欧米文化の違いを記述している。東洋人はこのようなやり方は好まず「包括的に」問題に対処するとされている。そして、これが対象物に注目する西洋人と背景を含めてものを見る東洋人という図式で説明されるといった具合に展開してしまう。東洋人の視点からは、この包括性と文脈依存は関係しているように思えるのだが、西洋人にはそれぞれが別のものに見えるのかもしれない。会話書なので本自体がある程度印象に左右されているように思える。

この本はインターナショナルマネジメントについて書かれている本なので、日本人だけの会社に勤めている人にはあまり役立たないのではないかと考えられるのかもしれないのだが、そうとも言い切れない。むしろ外国人と接したことがない日本人こそ読むべきではないかと思われる。それは日本人が外国人の作った文化をそのまま日本に取り入れて失敗することが多いからである。

この本を読むと、ほぼ全ての指標について日本人はかなり極端な位置に置かれている。極めて文脈依存的で婉曲なコミュニケーションを好みきっちりしたスケジューリングが好きであると言った具合だ。ある意味「ユニーク」なのだが「極端でわかりにくい」文化と言えるだろう。だが、こうした極端さは当たり前すぎて日本に住んでいるとあまり実感できない。

例えば、稟議システムは独特のものだと考えられているようである。ほとんどの文化はトップリーダーが決めたことに従い、その決定が覆らないか、平等な人たちがその都度必要なことを決めて行くというどちらかにプロットされるようなのだが、日本人だけはみんなで決めたことが覆らないという独自の文化を持っている。

これを「稟議システム」と呼ぶ。具体的には「持ち帰り検討します」といってなかなか返事がない(ものによっては数年かかることさえあり、誰が何を決めているかよくわからない)のだが、いったん「社の決定である」というコンセンサスが得られるとその後はとてもスムーズに物事が進むのが稟議システムである。いったん合意が形成されると、あとからそれが合理的な決定ではなかったということがわかってからも覆すのはとても難しい。

日本人には当たり前に思えるシステムなのだが、こうしたシステムを持っている国は少ないのできちんと説明しないとわかってもらえない。それどころか、日本人の中にもコンセンサスシステムについて理解していない人がいる。

最近の例で言うとトップダウンで物事を決めてしまったために全てが大混乱してしまった小池百合子の例がある。小池さんがこの稟議システムについて理解していればこのような混乱は起こらなかったのかもしれない。だが、海外でのトップリーダーを見よう見まねで模倣するうちに、日本でもトップダウン型の合意形成ができるだろうと誤解してしまったのだろう。

特に民進党のように「いつまでも何も決められない」人たちとトップダウン型の相性はとても悪かった。小池さんは文章による明確な意思決定を行ったのだが(これはメイヤーの本の中にも出てくるが、コンテクストに依存しない文化では明文化が好まれるとされている)あとから「やはりこれには従えない」とか「いや、実はこういうつもりではなかった」という人たちが大勢現れた。つまり、文脈を作ることで影響力を保持しようとした人や、いったん支持者たちとの間で稟議された暗黙の取り決めを破れない人が続出したのである。

もし、小池さんが強いリーダーになりたいのであれば、文脈依存はやめて西洋型の意思決定をしますとせんげんしなければならなかった。が、そのためには希望の党に入る人たちが自分たちは文脈依存で合議型の意思決定をしているということを知らなければならないという具合である。

文化というものがいかに大きな力を持っているのかがわかるとともに、それが普段は全く意識されていないということもわかる。つまり我々は文化に支配されているわけだが、その文化を知ることである程度その支配から自由になることができるのではないかと思う。

Google Recommendation Advertisement