政治についての記事をよく書いている。安倍政権に批判的な記事が多いので「反安倍」の人が多いのではと勝手に思っている。世の中で「リベラル」という人たちである。だが、その人たちからの声が聞こえてくることはない。リベラルは息をしているのだろうかとよく思う。
いろいろ考えると、日本人が考える政治論議というのは、西洋的な教育を身につけた人たちの考える政治て議論とは違っているのではないかと思える。しかし、その論理的な構造を当事者たちから聞くことはできない。そこで、いろいろな人の話を聞いたりする必要があるのだが、Twitterには政治的議論が溢れており、ついにはお笑いタレントもこの分野に「進出」してきている。
一方、リアルな世界で実際に政治的議論をしている人を見たことがないし、Twitterで政治議論をしている人も「文才がないからTwitterに断片的なつぶやきを書き込む意外できない」と堂々と発言する。文才がないのではなく意欲がないのだと思うのだが、意欲がないのはその議論にそれほどの意味を見出していないからだろう。そこで、さまざまな断片を切り取って、なんとなくそれらしい形を作り出してゆくしかないと思いつめることになる。
いろいろ考えを巡らせてゆくと「村落的思考」という単語が浮かび上がってゆく。なんとなくわかったように感じられるキーワードではあるのだが、何か村落的なのかということはわからない。
先日、ある市民系の団体の前を通った。ポスターに「憲法第9条を改正すると戦争になる」と書いてあったので、なぜそうなるのか聞いてみることにした。ポスターを掲示したりレターを配ったりして宣伝しているのだから「待ってました!」と言わんばかりに人が飛び出してくるのかと思いきやそうではなかった。
時々立ち寄るその事務所は、老主婦のサークルのようになっており実はあまり政治に詳しい人はいない。時々若いお母さんたちも参加しているようだが、子育てが終わると「卒業」してゆくらしい。残るのは卒業のない介護などに携わる人たちだけだ。つまり、彼女たちの主な関心事は老後の不安解消と子育ての問題解決である。その他に環境系(割り箸を集めたり、原発に反対したりしている)などをやっている。そういう現場が「護憲運動」を支えているのである。護憲運動は忘れられた彼女たちの運動なのである。
なぜ憲法第9条を改正すると戦争になるのか、その留守番の人は知らなかった。民進党が分裂した先の衆議院選挙で誰を応援するか聞いた時「知らない」と答えた人たちなので、まああまり期待はしていなかった。
ところが、知らないのはそれだけではなかった。実は憲法第9条に一項・二項があることも知らなかった。ということは当然安倍首相が何を主張しているか知らないということになる。なぜならば安倍首相の提案は現行の二つの項目にもう一つを追加しようというものだからである。
面白かったのは(いつも彼女は興味深いことを言うのだが)「この事務所に詰めているんだから、ちゃんとわかっていないとダメなんでしょうけどね」と言っていたことだ。女性がこういう時には「同調圧力はあるが」「私は興味がない」という意味であることが多い。つまり、個人としての意見はないが、護憲村に住んでいるから私は護憲であると言っているのである。
これは西洋的な政治の文脈では無知蒙昧な戯言だが、日本的な村落共同体ではむしろ当然の感覚と言える。ここで異議申し立てをすると「村八分になってしまう」かもしれないが、もともと興味もないのだから「事を荒立てる」ほどの価値を持っているわけでもない。だがこれを「よそ者にはうまく説明できない」のである。すべて漢語さえ混じらない日本語で説明ができることから、これが日本人のもともとの気性であるということがわかるのだ。
面白いなと思ったのは、誘導尋問的に質問してゆくと何にでも頷くか「うーんそれは違う」と考え込んでしまうというところである。これも「いいえ」と言わない日本人にはよく見られる態度だ。極めて同調性が高く自分の意見を持たないようにしつけられているので「福祉系のサークルに入って政治的な主張を持つためには戦争反対のポジションをとらなければならない」と思い込んでいるのではないかと思った。
このように、日本人はかなり独特な理論形成をしていると言える。一方で、政治について考えていると日本人としてはちょっと違和感のある価値体系を身につけてしまうとも言える。
憲法第9条を変えると戦争になるという理屈自体はあまり難しいものではなさそうである。つまり、安倍首相は戦争をしたがっており、彼らの策動に乗せられて憲法を変えてしまったら何かとんでもないことが起こると疑っているのだろう。これも村落的である。つまり、誰かの意見を認めてしまうことは、その人の村落上の地位を認めてしまうことなので、その他のことも受け入れなくてはいけないということだ。日本人にとって議論は「モノ」についているのではなく「ヒト」についているのだ。
だから、それから先の議論はすべて無効なのである。最近みたのは「安倍首相は対案を示せと言っているが、これは彼らの策動であって、気に入っているのだから変える必要はない」というものだった。つまり、安倍首相が気に入らないから改憲は認められないと言っている。
これはこれで理屈としては通っている。だが、この理屈は「安倍首相のような醜悪で利己的な首相が言い出しているのだから悪」という理屈である。人について判断している村落的な政治理解だ。これを裏返すと「清廉で爽やかな人が別の理屈を使って彼女たちを説得したら、彼女たちはきっと説得されてしまうだろう」ということになる。個人として意見にコミットしていないのだから当然である。子供の頃から知っていて(つまり親が政治家ということである)一生懸命福祉などで汗をかき、顔つきが爽やかなイケメンを想像してみると良い。
そこで思い浮かんだのは小泉進次郎氏だった。多分、小泉さんが首相になったら改憲議論は一気に進むだろう。「一生懸命でいい人そう」だからである。議論の中身は全く関係がないのではないだろうか。
つまり「なんとしてでも変えたくない」というのは実は別に変えてしまっても構わないというのの裏表になっているということになる。
かつては護憲派だったので、その当時ならば「これはリベラル消滅の危機である」などと思ったと思うのだが、今はそうは思わない。その程度の理解と支持しかないんだったら、自民党はおたおたしていないで国民投票を実施するべきだと思う。多分護憲派の運動は壊滅状態で、支持者はそれほど多くない。お付き合いで「戦争はいけないから」といって形の上だけで反対している人しかいないかもしれない。
ここからわかるのは護憲派リベラルは消えてしまったわけではなく、もともといなかったということだ。するとTwitter上で行われている護憲派の議論は何なのかという別の疑問が湧く。それを理解するためには、もともと村落的議論は何を目的に行われているのかということを考えなければならない。
次回ははあちゅうさんという諦めの悪い女性の「議論」について考える。