護憲派リベラルは息をしているのだろうか?

政治についての記事をよく書いている。安倍政権に批判的な記事が多いので「反安倍」の人が多いのではと勝手に思っている。世の中で「リベラル」という人たちである。だが、その人たちからの声が聞こえてくることはない。リベラルは息をしているのだろうかとよく思う。

いろいろ考えると、日本人が考える政治論議というのは、西洋的な教育を身につけた人たちの考える政治て議論とは違っているのではないかと思える。しかし、その論理的な構造を当事者たちから聞くことはできない。そこで、いろいろな人の話を聞いたりする必要があるのだが、Twitterには政治的議論が溢れており、ついにはお笑いタレントもこの分野に「進出」してきている。

一方、リアルな世界で実際に政治的議論をしている人を見たことがないし、Twitterで政治議論をしている人も「文才がないからTwitterに断片的なつぶやきを書き込む意外できない」と堂々と発言する。文才がないのではなく意欲がないのだと思うのだが、意欲がないのはその議論にそれほどの意味を見出していないからだろう。そこで、さまざまな断片を切り取って、なんとなくそれらしい形を作り出してゆくしかないと思いつめることになる。

いろいろ考えを巡らせてゆくと「村落的思考」という単語が浮かび上がってゆく。なんとなくわかったように感じられるキーワードではあるのだが、何か村落的なのかということはわからない。

先日、ある市民系の団体の前を通った。ポスターに「憲法第9条を改正すると戦争になる」と書いてあったので、なぜそうなるのか聞いてみることにした。ポスターを掲示したりレターを配ったりして宣伝しているのだから「待ってました!」と言わんばかりに人が飛び出してくるのかと思いきやそうではなかった。

時々立ち寄るその事務所は、老主婦のサークルのようになっており実はあまり政治に詳しい人はいない。時々若いお母さんたちも参加しているようだが、子育てが終わると「卒業」してゆくらしい。残るのは卒業のない介護などに携わる人たちだけだ。つまり、彼女たちの主な関心事は老後の不安解消と子育ての問題解決である。その他に環境系(割り箸を集めたり、原発に反対したりしている)などをやっている。そういう現場が「護憲運動」を支えているのである。護憲運動は忘れられた彼女たちの運動なのである。

なぜ憲法第9条を改正すると戦争になるのか、その留守番の人は知らなかった。民進党が分裂した先の衆議院選挙で誰を応援するか聞いた時「知らない」と答えた人たちなので、まああまり期待はしていなかった。

ところが、知らないのはそれだけではなかった。実は憲法第9条に一項・二項があることも知らなかった。ということは当然安倍首相が何を主張しているか知らないということになる。なぜならば安倍首相の提案は現行の二つの項目にもう一つを追加しようというものだからである。

面白かったのは(いつも彼女は興味深いことを言うのだが)「この事務所に詰めているんだから、ちゃんとわかっていないとダメなんでしょうけどね」と言っていたことだ。女性がこういう時には「同調圧力はあるが」「私は興味がない」という意味であることが多い。つまり、個人としての意見はないが、護憲村に住んでいるから私は護憲であると言っているのである。

これは西洋的な政治の文脈では無知蒙昧な戯言だが、日本的な村落共同体ではむしろ当然の感覚と言える。ここで異議申し立てをすると「村八分になってしまう」かもしれないが、もともと興味もないのだから「事を荒立てる」ほどの価値を持っているわけでもない。だがこれを「よそ者にはうまく説明できない」のである。すべて漢語さえ混じらない日本語で説明ができることから、これが日本人のもともとの気性であるということがわかるのだ。

面白いなと思ったのは、誘導尋問的に質問してゆくと何にでも頷くか「うーんそれは違う」と考え込んでしまうというところである。これも「いいえ」と言わない日本人にはよく見られる態度だ。極めて同調性が高く自分の意見を持たないようにしつけられているので「福祉系のサークルに入って政治的な主張を持つためには戦争反対のポジションをとらなければならない」と思い込んでいるのではないかと思った。

このように、日本人はかなり独特な理論形成をしていると言える。一方で、政治について考えていると日本人としてはちょっと違和感のある価値体系を身につけてしまうとも言える。

憲法第9条を変えると戦争になるという理屈自体はあまり難しいものではなさそうである。つまり、安倍首相は戦争をしたがっており、彼らの策動に乗せられて憲法を変えてしまったら何かとんでもないことが起こると疑っているのだろう。これも村落的である。つまり、誰かの意見を認めてしまうことは、その人の村落上の地位を認めてしまうことなので、その他のことも受け入れなくてはいけないということだ。日本人にとって議論は「モノ」についているのではなく「ヒト」についているのだ。

だから、それから先の議論はすべて無効なのである。最近みたのは「安倍首相は対案を示せと言っているが、これは彼らの策動であって、気に入っているのだから変える必要はない」というものだった。つまり、安倍首相が気に入らないから改憲は認められないと言っている。

これはこれで理屈としては通っている。だが、この理屈は「安倍首相のような醜悪で利己的な首相が言い出しているのだから悪」という理屈である。人について判断している村落的な政治理解だ。これを裏返すと「清廉で爽やかな人が別の理屈を使って彼女たちを説得したら、彼女たちはきっと説得されてしまうだろう」ということになる。個人として意見にコミットしていないのだから当然である。子供の頃から知っていて(つまり親が政治家ということである)一生懸命福祉などで汗をかき、顔つきが爽やかなイケメンを想像してみると良い。

そこで思い浮かんだのは小泉進次郎氏だった。多分、小泉さんが首相になったら改憲議論は一気に進むだろう。「一生懸命でいい人そう」だからである。議論の中身は全く関係がないのではないだろうか。

つまり「なんとしてでも変えたくない」というのは実は別に変えてしまっても構わないというのの裏表になっているということになる。

かつては護憲派だったので、その当時ならば「これはリベラル消滅の危機である」などと思ったと思うのだが、今はそうは思わない。その程度の理解と支持しかないんだったら、自民党はおたおたしていないで国民投票を実施するべきだと思う。多分護憲派の運動は壊滅状態で、支持者はそれほど多くない。お付き合いで「戦争はいけないから」といって形の上だけで反対している人しかいないかもしれない。

ここからわかるのは護憲派リベラルは消えてしまったわけではなく、もともといなかったということだ。するとTwitter上で行われている護憲派の議論は何なのかという別の疑問が湧く。それを理解するためには、もともと村落的議論は何を目的に行われているのかということを考えなければならない。

次回ははあちゅうさんという諦めの悪い女性の「議論」について考える。

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はあちゅうさんがしでかしたこと

はあちゅうという女性が、彼女の性的搾取の経験を実名で告発した。これをきっかけに日本でも#metooムーブメントが起きているのだとマスコミは伝えている。これだけを見ると、はあちゅうさんはいいことをしたように思える。日本で同じような被害にあっている人はたくさんおり、彼女たちに勇気を与えたからだ。しかしながら、このあとがよくなかった。はあちゅうさんは攻撃を受けており、後に続くはずだった女性たちは告発をためらうかもしれない。

この問題の背景には日本の人権教育の貧しさと社会の不安があると思う。このためはあちゅうさんのやったことは差別をなくす方向ではなく差別の激化につながりかねない。つまり、はあちゅうさんは性差別のない社会を作るどころか、日本をますます息苦しく不安定な社会にするかもしれない。

いわゆるリベラルな人たちの中には、はちゅうさんの童貞いじりと性的な搾取の告発を「分けて考えるべきだ」という人たちがいる。しかし、これは到底容認できない。

はあちゅうさんが<勇気ある告発>をしたあと、実は彼女自身も童貞を馬鹿にする発言をしていたということがわかった。これに関して、彼女とその支援者たちは「被害を受けた女性は立派な被害者として振舞わなければならないのか」とういう開き直りに近い弁明をしている。童貞いじりは、男性は性行為を経験しないと一人前になれないという価値観に乗っているという批判があり、童貞いじりの有害性に関してはこれ以上付け加えることはない。しかし、この文章は「問題を切り離して考えるべきだし、はあちゅうさんの謝罪は評価できる」と言っており、この部分はあまり評価できない。

こうした問題を考える上で大切なのは、問題を少しずらして考えてみることだろう。例えば人種差別を経験した黒人が黒人社会のようなものを作り組織的に白人を差別していたとしたらどう見えるかを想像してみると良い。きっとそれは人種間の対立を激化する方向に向いてゆくことになる。白人と黒人は、差別する側とされる側を示している。

差別されていた黒人が差別する側に回るというのは実はそれほど珍しいことではない。ご存知の方も多いかもしれないが、アパルトヘイト後の南アフリカにはそのような動きがあった。実は黒人の間にもさまざまな部族間対立があり、白人が支配権を失ったあとに黒人の間で権力争いが起こりかねなかった。このような複雑な事情があったために、ネルソン・マンデラは全勢力が融和するように常に心を砕いた。

ここで、ネルソン・マンデラは「立派な人」とされているが、実は当たり前のことを実現しようとしているだけだった。しかし、それは当たり前ではあっても27年もの間投獄されていた彼にとっては極めて難しいことだったであろう。マンデラは人生の失った時間を取り戻すために白人に復讐したいと考えても当然だった。だが、そうはしなかった。だからこそ彼はアパルトヘイト後の指導者になりえたのである。

はあちゅうさんたちは「ネルソン・マンデラみたいになれなくてもよい」と思うかもしれない。しかし、アラブ人との間に差別があった南スーダン人の事例を見ているとそれが必ずしも正しくないことがわかる。共通の的であるアラブ人がいなくなると、今度は南スーダン人同士で殺し合いを始めた。つまり、差別構造を残してしまうと、今度は別の争いが起こる。だから差別構造そのものから抜け出す努力をしなければならないのである。

はあちゅうさんがいた広告業界は「もてる女性ともてない女性」とか「クリエイティブな女性とつまらない仕事しかできない女性」などを分けている。生存をかけた生き残りに性的な経験やルックスなどを絡めているのである。だからはあちゅうさんが女性のルッキズムを男性に転用して話題作りをしたのは広告屋さんとしては極めて自然なことなのだ。

同じようなことはいたるところで行われている。例えば小池百合子東京都知事を見ていると、表向きは差別されているかわいそうな女性という演技をするが、その一方で男性たちを「排除いたします」と言っていた。全く違和感がなかったところを見るとそれが政治のあるべき姿だと思い込んでいるのだと思う。もし女性として「排除されることの苦しみ」を本当に知っていたならあんなことは言わなかったはずである。

はあちゅうさんは童貞をいじって話題づくりをしていた。そしてそれが社会的に非難されると「童貞は素敵な響きを持った言葉なので悪気なく使っていたのだが、結果的に傷つけたなら申し訳ない」と申し開きをした。これは男性が「私は好意を示すためにやったが、結果的にセクハラになっている」と捉えられているとしたら申し訳ないというのと同じであり、男性社会の醜悪な伝統を見事なまでに引き継いでいる。つまり、彼女も闘争の中に組み込まれているのだ。

彼女たちに共通するのはマウンティング意識である。つまり、差別でもなんでも利用してのし上がってやろうという気持ちで、差別されているという出自さえも利用しようと考えてしまうのである。これはいっけん正しく聞こえるかもしれないが、差別の構造を変えただけであり、差別の容認である。差別が悪だとすればサーロー流にいうと「絶対悪」であり実は彼女たちは「加害者」なのだ。

女性を容姿で差別しないというのと男性を性的経験で差別しないというのは同じことである。そしてそれは立派な行いではなく、当たり前のことなのだ。だが、その当たり前さを実現するのはとても難しい。

実際に日本では「性的搾取を多めに見る」ということが司法の場でもおおっぴらに行われている。TBSという権威を振りかざして女性に乱暴しようとした自称ジャーナリストが無罪放免になったり、慶応大学の広告サークルも結局不起訴だった。このように、法的に「この程度ならいいのではないか」とお咎めなしになってしまうケースが後を絶たない。これをなくすためには組織的で政治的な運動が必要だ。こうした運動を単なるトレンドとして話題づくりに利用しようとしたならそれはとても罪深いことである。

その背景にある差別の構造から抜け出さなければ同じことが繰り返されるだけだという認識を持つ必要がある。そのためには人種差別やその他の属性差別についてきちんと学校で教える必要があるのではないかと思う。

ハフィントンポストの記事で正直な高校生がいじめについて書いている。高校生の頃からルッキズムを含む序列付けは始まっていて、しかも笑いを絡めてごく自然に行われるそうである。

たった30人程度のクラスで、気付かぬほどの速さで「1軍」「2軍」「3軍」と身分が決まっていき、序列の中で卒業まで生きなければならない。序列は容姿、キャラ、得意の運動、頭の良さ、家庭のお金持ち具合など様々な要素で決まる。

クラスでこのようなカースト化が進行するのは、それが極めて不安定な閉鎖空間だからだ。そしてその不安定さや閉鎖性は大人になっても続く。こうした中で人々はカースト付けをごく自然なこととして認識してしまうのだろう。

たまたまアメリカで#metooムーブメントが起こり、海外から聞こえてくる性差別排除運動とごく自然に(多分加害者として)行っているカースト付けを別の枠で捉えたくなる気持ちはわかるのだが、実はこれは同じものだ。

はあちゅうさんの一番大きな間違いは、自分が置かれているカースト文化を温存したまま、ブームに乗って認知をあげようとしたところなのだろう。カースト文化を温存しているからこそ「道程いじりはちょっとしたユーモア」で「自分が岸さんにされたことは重大な暴力だ」などと言えたのであろう。これは小池百合子東京都知事が自分は笑って排除をほのめかしつつ、ガラスの天井があって男性たちに邪魔されているとパリで訴えたのととても似ている。

彼女たちは賢く世渡りしているつもりなのだろうが、それが却ってあとに続く人たちの機会を狭めていることに気がついた方が良い。

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我慢という公害

先日珍しい体験をした。カートを持った店員が「どうぞ」といって道を開けてくれたのだ。とても驚いた。

何のことかわからないという人もいるかもしれない。最近の店員たちはとても忙しそうにしており、カートを押して走り回っている光景をよく見かける。当然客がいても御構いなしである。実際に彼らは忙しいのだろう。少ない人件費で余裕なく働かされているからだ。かといって、それを責める気にはならない。価格だけで行く店を決めているこちらも悪いのだ。

このように忙しく働く彼らには援助がない。例えばユニクロでは悲惨な顔をした店員さんたちが忙しく駆けずり回るのが名物になっている。ここで在庫を聞こうものなら大変なことになる。システムがうまく作られておらず在庫が確認できないのか、バックヤードを走り回ることになる。一度、ユニクロに潜入したライターの記事をネットで読んだことがあるが、システム対応がうまくなされておらず、店員は疲弊しきっているらしい。

店員が疲弊していても店側は容赦がない。不機嫌な店員が増えるとお客から「対応してもらえなかった」というクレームが来る。すると店側はシステムを作ったり人を増やしたりといった援助をしないで、単に「お客さんを場所まで案内するように」という指示を出して終わりにするのである。

ところが、不機嫌な店員たちもそのままで済まさない。「忙しそうに、不機嫌そうに」対応してみせる。不機嫌にカートを押してお客の前を横切って見せたり、店の決まりで棚のある場所まで案内しなければならないからいやいややってるんだよという表情をあらわにしたりするのである。

今回珍しい体験をした店は、この近辺では珍しいファッション雑誌の取材が入ったりするおしゃれ園芸ショップだ。扱っている植物も鉢も高価なものが多い。つまり高付加価値のお店なのである。さらにインスタ映えを意識して「写真撮影してもよい」としている。つまり、ある程度体裁を気にしている「劇場型」のお店である。店員だけでなくお客さんもこざっぱりした格好をしており「キャスト」のように振舞っている。

こうした店は地域にいくつも作れないのだから、店員が機嫌が悪いのは仕方がないことだ。たいていの場合、お客は値段で品物を選んでいてサービスなどどうでも良いと考えている。おしゃれ園芸ショップは例外的にしか作れない。そこで働いている人も企業の言う通りに働かなければ雇ってもらえるないのだから我慢するしかない。いったんこうした空気が醸成されると、今度は愛想のいい店員が周りから攻撃されることになる。「自分だけがいい格好をしているのだろう」というわけである。

日本人は「我慢することが美徳だ」という教育を受けているので、我慢してお客に仕えることが良いことだと考えがちである。しかしながら、我慢する人がそのまま我慢し続けることはない。たいていの場合、こっそりと誰かに付け回している。露骨にすると問題になるので、普段から不機嫌にしてみたり、お客が困っているのに気がつかないふりをしたり、私にはわからないなどと突き放してみる。

この時に人は少しづづ「利子」を付ける。

一人ひとりがかける利子はほんの少しなのだろうが、これが社会全体に蓄積するとどんなことになるのかを考えてみると良い。誰かの我慢は利子をつけて別の人に付け回され、それを受け入れた人がまた別の人に利子をつけて返す。このようにして社会全体では不機嫌さが回収されないまま蓄積され続けることになる。これが現在の社会を覆っている「不機嫌さ」の原因なのではないかと思う。

もちろん、誰かが自分の欲求を伝えてやりたいようにやればこの利子を回収することは可能だ。しかしながら、みんなが我慢しており、なおかつ我慢するのが唯一の解決策だと言われて育ってきているのだから、いまさらやりたいようにやるというのも難しいだろうし、自分だけがやりたいようにやれば、周りから総攻撃されるのも間違いがないところである。だから、不機嫌は利子付きでどんどん増えてゆく。不機嫌さを汚れた大気だとすると、これはもはや不機嫌の公害である。

であれば自分が我慢しても相手に八つ当たりしないようにすればよいようにも思える。しかし、今度は我慢という人間ピラミッドの最底辺に置かれることになるかもしれない。一億総不機嫌社会では常に犠牲者が求められるからである。

ということで、防衛上不機嫌に利子をつけて返すのは仕方がないことだと思う。せめて、我慢は社会を悪くすることなのだという意識を持つのが大切なのではないかと思う。つまり、間違っても自分が我慢強い人だというのを自慢してはいけないのである。

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国力の衰退と外国人に対する不寛容

アメリカにある銀行口座を閉めることになった。留学から帰国するときに閉めようと思っていたのだが「なぜ閉めるんだ」と聞かれて放置しておいた口座だった。その時は外国人でも口座が維持できるなんてオープンでいい国だなと思った。9.11前のアメリカはまだ寛容な大国だった。

しかし、それも終わりを迎えたようだ。その経緯はかなり乱暴なものだった。

最初はe-bankingがなくなるというお知らせが来た。e-bankingはインターネットだけで利用するアカウントで支店で銀行員と話をしただけでチャージされてしまう。あまりよいサービスとは言えないが、これをなくして1,500ドル以上の預金がないと毎月12ドルをチャージする口座に再編成するという。

アメリカの銀行は金融危機以降手数料商売になっている。そこで給与の出し入れをする口座かある程度の預金残高がある口座でないと、維持管理手数料を取るというところが多い。e-bankingはその例外だった。

どうしようかと思っていたところ今度は「お前はどこに住んでいるのか」という質問をされ、おかしいなと思っていたら12月の初頭に「photo IDを持って支店に行け」という。 来年の1月3日までに持ってこないと口座を閉めるということである。猶予は一ヶ月しかない。支店はアメリカにしかないので、つまり海外にいる人を追い出そうとしているのである。しかもコールセンターの人はそれを知らず、専用のコンプライアンスセンターで処理するという。日本のお役所仕事もひどいが、アメリカのセクショナリズムもそれ以上にひどい。オペレータは会社に雇われているだけなので企業の評判を全く気にしない。

そのあと、手紙でも同じ通知がきたのだが「photo IDを持参しろ(郵送は不可)」と書いている裏に「指定がない限りは郵送しても良い」と書いてある。つまりアカウントによって違う文面を印刷していて、アカウントを選別しているということになる。投資の手数料などが支払われている儲かりそうなアカウントを逃すわけには行かないのでそのようにしているのだろう。

ずいぶんひどい話だが、あまり驚かなかった。2008年の金融危機のあと手数料なしの口座が整理されたという話を知っていたからである。もともと小切手社会なので銀行口座を持てないというのは生活ができなくなるほどのインパクトがあるのだが、それでも「口座にお金がない人は銀行口座を持たなくても結構だ」となり困っている人が少なからずいるのである。中には持たない選択をしている人もいるらしい。

しかし、その裏には「企業のモラルの低下」以外の事情もありそうだ。外国人に対しての規制が強化されているのではないかと思う。運用実態のない口座は資金洗浄に利用されやすいが、いちいちチェックするのは面倒なので一括で潰してしまうことにしたのではないかと思う。

アメリカの安全が脅かされると、いろいろな法律を作ってチェックを行うことになる。そのコストは全て企業にしわ寄せされるわけだから、企業は消費者に添加しているのではないだろうか。金融機関だけでなく、例えば航空会社などもチェックが厳しくなっているのかもしれない。

そもそも、昔はSSIDを持たない学生でも口座を開くことができていたし、SSIDを取得するのもそれほど難しくなかった。規パスポートを見せた覚えがないので身分証明を十分にしていなかったということになるのだが、それでもよかったわけだ。このゆるさは徐々にになくなっており留学生たちを大いに苦しめている。規則が頻繁に変わるので情報が錯綜して、小切手を作れず、したがって家が決められないという人が出ているらしいという話を読んだことがある。

外国人に対して寛容ではなくなってゆくアメリカを見ていると「国の力が衰退したんだなあ」と思える。

かつてアメリカには、多くの学生を惹きつける自由の国という輝かしいイメージがあった。好きできている人が多いのだから、治安に悪影響を与えることもなかったし、生活水準も高く留学生たちは概ね満足していたはずだ。しかし、9.11以降この印象は徐々に崩れてゆく。徐々に安全対策にお金をかけて、外国人を警戒する国になった。

かといってこれを「衰退」と結びつけるには根拠が足りないという人もいるかもしれない。経済的にはまだまだ豊かな国だからだ。しかし、やはりかつてのように「圧倒的にすごい国」というレベルではなくなりつつある。それとはまた別に、アメリカは自国こそが自由と平等を守る規範二なる国であるべきだという理想を失いつつある。

まだソ連などの共産圏があった頃は、自分たちは自由と平等を守る国であるという自負があり、外国人に対しての寛容性が発揮されてきた。また、世界各国の治安を守るためにアメリカが率先してリーダーシップを取るべきだという政策に多くの人が共鳴していた。先日読んだイアン・ブレマーの本によると各種のアンケートでも「自国優先主義」が台頭してきているのだという。

かつては、外国人も日常生活に困らないように銀行口座を作ってもらったり、移民を受け入れたりしていた。アメリカにはベトナム人やイラン人のコミュニティがあるのだが、南ベトナムから逃れてきた人たちやイラン革命から逃れて「自由を求めてきた人たち」を保護していた。もちろん、アメリカが仕掛けた戦争の犠牲者としての側面があるのだが、表向きは「自由を保護する」という理想主義に基づいているのである。

しかしながら、国力が減退するとこうした理想を守る余裕はなくなる。自国内に格差があり、彼らが社会的に成功する見込みはなくなっている。その上不満を持った移民たちを大勢抱えており、治安を悪化させる。

このことからわかることはいくつかある。いつも「日本はひどい国になった」というようなことを書いているが、実際にはひどくなったのは日本だけではないということだ。それぞれの国にはそれぞれの問題があるのだが、一国の事情だけを集中的に見ているとあたかも自分たちの国だけが悪くなったように感じるかもしれない。

かといって日本がアメリカよりましな国だとも言えない。例えば海外からくる技能実習生を奴隷のようにこき使っているのも実は国力の衰退である。アジアで唯一の先進国だった頃にはそれなりの優越感もありアジア圏からくる人たちを大切に扱っていたのではないだろうか。自分たちの国にはそれなりの豊かさがあるということを見せつけたい気持ちもあったかもしれない。しかし、もはやそんなことには構っていられない。労働力が枯渇しつつあり、外国人を騙して連れてくるしかないのである。

多様性に対する不寛容を見るとどうしても人権侵害という視点で分析したくなるのだが、その裏には実は国力の衰退があるのかもしれない。

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今や存在そのものが麻薬になりつつあるNHK

テレビを設置すると自動的にNHKと契約したと見なされて受信料を支払う必要がある。一部には「裁判をするまでは払わなくて良い」という人がいるのだが、裁判をすると負けてしまうのだから、実質契約の義務を負っていると言っても良いだろう。この裁判の結果を見て「NHKを見たくない人もいるのに不公正だ」と感じた人も多いのではないかと思う。

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共立てのケーキと別立てのケーキはどちらが作りやすくかつおいしいのか

共立てのケーキと別立てのケーキはどちらがおいしいのかが議論になる。初心者向きには別立ての方がよいとか、パティシエは共立てが多いなどの情報が錯綜しており定説がない。

結論からいうと「共立てができるなら共立てにした方が良い」と思う。共立だとコツさえ覚えれば簡単に泡だつ。ハンドミキサーも不要で意外と簡単なのだ。

今回は卵一個を使ってケーキを焼いた。最初はスポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚えるの指示通りに焼こうと思っていた。

「スポンジケーキLESSON―卵1個でちゃんと覚える」は共立てである。まず卵液を温めた上でハンドミキサーでかき混ぜてシロップを混ぜる。さらに小麦粉を入れて独特のやり方でよく混ぜるのある。実は卵液を温めるというのがポイントだ。鍋でお湯を沸かせて沸騰させてその上で卵をかき混ぜればよい。このやり方だとハンドミキサーを使わなくても十分に泡立てることができる。

あとは本に書いてある通りに「小麦粉を入れてからツヤが出るまで混ぜる」のを実践した。こねないで「の」の字になるように混ぜる。実はここでしっかり混ぜないと焼き上がりが硬くなり気泡が出る。バターは入れても構わないが入れなくても膨らむ。

手順さえ守ればきちんと膨らむ。要するに卵をよく温めて混ぜればよいのである。

後日同じ分量で別立てを作ってみた。卵黄だけでは水分が足りない。そこで卵白を入れるのだがこの泡は犠牲になってしまう。ということで共立ての1/2くらいしか膨らまなかった。過去の経験からべちゃっとしたケーキになるのかなと思ったのだが、口当たりはふんわりしていて口どけも悪くない。もし膨らませたいなら卵黄を入れた側に牛乳などの水分を足さなければならないのではないかと思う。

卵白だけの場合には砂糖さえ入れれば簡単にメレンゲのできぐあいがわかるので(力強く混ぜてボウルをひっくり返しても垂れてこないようにすれば終わりである)別立ての方が分かりやすいのだと思う。

卵液をきちんと混ぜることさえできれば、コーンスターチを入れたり、ベーキングパウダーなどを加える必要はない。別のウェブサイトにはレモンを入れろと書いてあった。この方が泡立ち易いのだそうだ。しっとりさせるためにはシロップを入れた方が良いようだが、これもふわふわなケーキを作る要件ではない。

スポンジケーキは単純な材料だけでできているのだが意外と奥が深い。いったんできてしまえば単純で簡単な作業の連続なのだが、そこに行き着くまでが意外と難しいようだ。

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手っ取り早くインスタ映えできる方法を比較的真面目に研究する

Twitterにケーキの写真をアップしたところ「こんな写真私には撮れない」と言われた。褒めているというのだが、多分褒められていないと思う。そこで、最低限の工夫でなんとなくインスタ映えしてみえる方法について研究してみた。今回はケーキではなく寄せ植えを使った。

寄せ植えは、上に伸びるものを背景に置き、主役の花を入れ、最後に垂らしてまとめるというお決まりがある。だからこれでバッチリのはずなのだが。普通に撮影しても何かが足りない。なんとなく「置いてあるだけ」に見える。

この写真の唯一良いところは光の当たり方だと思う。自然のものなので陰影ができた方がきれいに見える。食べ物を自然光で撮影するのは難しいと思うので、できればライトなどを気にすると良いのだろう。

そこで背景を足してステージを準備してやる。ステージを作ると、何が主役かはわかるわけだが、それでも何かが足りない。露骨に「並べてみました」感が出るのは美しくない。

まずアングルを変える。もう少し研究したい人は「黄金比」などを考慮すると良いと思うのだが、今回はそこまではやらない。が、多分主役を画面の中央に置くのはやめた方がよさそうだ。ここまで作るとなんとなく見られる形になった。

今回、12ヶ月の寄せ植えレシピという本を参考にしたのだが、プロが撮影する説明用の写真とブログ用に撮影する写真とではやり方が違うようだ。プロの撮影は正面や横から全体がわかるように撮影するのだが、ブログ用は「どこで」ということがわかるように撮影する。つまり背景はとても大切なようである。良く見ると背景にある小物にまで気を配っているのがわかる。

しかし、これでも何かが足りないような気がする。せっかく主役を作り背景も準備したのだから全部をフレームに収めたくなるのだが、多分それがいけないのだと思う。思い切って見せたいものを見せると良くなった。

今回は一眼レフカメラを使っているので背景をぼかして主役を目立たせることができる。しかし、そのためには奥行きが必要である。

説明写真は全体が綺麗に見えなければならない。たとえば、寄せ植えは枝垂れるものと立つものを配置するのですよなどと言いたいときには全体が見えないと何がなんだかわからなくなる。しかし、ぱっと見の印象を優先するならクローズアップの方が良い。

こうなるとインスタ映えを目指すためには、一眼レフを使って写真撮影した上でスマホに戻してやるのがよいということになる。しかし、それはかなり面倒な作業なので全てパソコンで処理したい。そこで検索したところ、ユーザーエージェントを変えてやるとパソコンのブラウザー経由でもアップロードできるのだそうである。Macを使っているのでSafariからアップした。開発メニューを表示するとユーザーエージェントが切り替えられる。するとスマホのふりをしてアップロードができるのである。

まとめると次のようになる。

  1. 日当たりやライティングを意識する。
  2. 正面だけではなく、面白いアングルを探す。
  3. 主役を明確にして、テイストを合わせた背景と台を用意する。
  4. 主役を明確にするためにクローズアップを試してみる。

ということで、料理の絵を作るときには紙ナプキンだったり背景の他の料理とか「見せるつもりがないもの」に時間をかけた方がよいのだろう。

ということでおさらいに、もう一つ作ってみる。

もちろん、これでインスタ映えを極めたなどというつもりはないのだが、手間をかけずにとりあえず「見られる程度」の写真を撮影するためには利用できるのではないかと思う。

自己肯定感と人権意識

不思議なTweetを見かけた。そのまま引用するのは憚られるので要約すると次のようになる。

自己肯定感は「自分をすごい人間だ」と思うことではない。自己肯定感とは「自分はすごい人間ではないが、それでも自分を肯定できる感覚」のことだ。だから自己肯定感が高い人は他人に寛容だ。

このTweetを見て「あれ?」と思った。前段で「他人と比較しない」と言っているのだが、中段で「他人と比較して」いる。そして最後の「だから」の理由にはなっていない。

そもそも「自己肯定感の高い人」はいないのではないか。自己肯定感の高い状態とそうでない状態がある。自己肯定感の高い状態では他人に寛容になれるだろうが、そうでないときには他人に寛容にはなれないかもしれない。いわゆる「自己肯定感の高い人」というのは、この状態になりやすいということだから「自己肯定感が他人より高い個人」はいないはずで自己肯定感がある状態を保ちやすい人がいるだけなのではないかと思う。

このつぶやきの肝は「比較から逃れようとしているのに逃れきれていない」という点だ。論理的な構造が破綻しており、そこにこの文章の面白みがある。そこで「競争から逃れようとしても逃れられないんだなあ」と書いた。

ところがこのつぶやきは面白い展開を見せる。別の人が「他人と比較しないと伝わらない」というのである。そもそもこの二番目のつぶやきがどういう意図のもとで発せられたのかはわからないので、反論したり同意したりはしなかったのだが「競争や比較なしで自己肯定感を感じるのが難しい」ということであれば、自己肯定感以外の何かを自己肯定感の代替物として使っている可能性がある。それは優越感や劣等感という他人との比較によって生まれる感情である。これは自己肯定感と関係があるかもしれないが、自己肯定感そのものではない。

と同時に、日本人には自己肯定感がなく比較優位しかないと考えるといろいろなことがよくわかるなあとも思った。自己肯定感野本になっているのは、キリスト教的な概念ではないかと思う。これが発展して人権意識の元になっている。

キリスト教では「私がここにあるのは神様に祝福されているからだ」と考える。自分が祝福されているのだから当然相手も祝福されている。だからこそお互いに尊敬しなければならない考えるのと同時に、この祝福は天賦のものであり人間が裁いたり侵害することはできない。これが多分、天賦人権のもっとも基本的な説明ではないだろうか。

ところが、日本人が自己肯定感を持たず、代わりに比較優位によって肯定感を得ているとすると、日本人には天賦人権が理解できないということになる。比較優位は条件付きのものなので、人権も条件つきのものになる。

その証拠に「日本人には天賦人権は合わない」などと言い出す人がいる。これが神道系の日本会議で展開されると、日本人が傲慢になるのは天賦人権のせいだから取り上げてしまえということになり、自民党憲法案に反映されるという具合になっている。しかし、これが「狂っている」という人はごくわずかであり、たいていの人は「そうかもな」とか「よくわからない」などと言っている。

どうやら、神道には「自分を大切にしなければならない」とか「人生は肯定されるべきである」という教義理念がないようだ。最近富岡八幡宮の宮司が殺害された。兄弟間の争いだったらしい。宮司のブログには愚痴めいた言葉が並んでおり、神道がそもそも人の幸せや人生の肯定感についてなんら教義を持っていないことがわかる。さらに容疑者の男性も「宮司になれなければ人生には意味がない」と感じたようである。さらに、神社本庁は兄弟間の争いに付け入ることで天下り先を探していたと言われており、こちらも「信徒たちのの苦悩を取り除こう」という意欲は全く感じられない。

伝統を守るべきだとか男性でなければ指導者になれないといったような村の掟に関する概念は豊富に持っているが、日本の神道には普通の宗教に見られるような「人生の苦痛を取り除くために助けになる」という意識はあまりないようだ。容疑者は「地獄に堕ちろ」とか「怨霊になって祟ってやる」などと言って相手を呪っているのだが、これは日本人の根幹にあるメンタリティだと言える。この呪詛の裏にあるのは、自分が「宮司家の祖先にならなければ人生に意味がない」という思い込みと、宮司になった姉が羨ましいという他人に対する羨望である。村落は他人との関係で成り立っている狭い共同体のことである。

西洋の教育は「人生は最初から祝福されている」と教える。特にキリスト教系の学校では「神様」が持ち出されて、神様が全ての人を祝福していると教える。しかし、日本では宗教の代わりに道徳が用いられるようである。道徳というのは、立派な人間になれとか周囲に迷惑をかけるなというように、集団の中でどう見られるかということが問題になっているのではないかと思う。日本人は狭い村落で生きて行かなければならないので、掟を刻み込むのだ。問題はすでに日本人が寄って立つ何世紀も変わらない村落などないということだけである。

さてここで「祝福されている」という言葉すら問題になるということに思い至った。キリスト教の伝統のない人はこの「祝福」を「特に恵まれた」という意味で受け取るのかもしれないと思い問題の深刻さに気がついた。恵まれている人がいるということは恵まれていない人もいるということになるからだ。ここにも比較の概念が出てくる。例えばお金持ちとか美人とかいうのは「祝福された人」ということになるのではないだろうか。

試しに英語版のwikipediaを見てみると「祝福」はラテン語の「benedīcere」という概念がもとになっているそうだ。多分「よく言う」ということで「肯定されている」ということになる。つまり、その人やものの存在が肯定されているというくらいの意味であり、特に他人との比較によってどうなるというものではない。

では存在が肯定されているというのはどういう意味なのだろうか。キリスト教もイスラム教ももともと砂漠の宗教なので人間が生きて行ける土地は限られている。明日雨が降らなければ作物が取れず死んでしまう。つまり、生きているだけの環境がないということがありうる。だから生存ができているだけで「祝福されている」という感覚が得られるということになる。

日本で「祝福」のような概念が作られなかったのは当然かもしれない。なぜならば、春になったら暖かくなることは決まっているし水も潤沢にある。だから真面目にやってさえいれば「生きて行けない」ということはない。その意味では日本人は極めて恵まれていると言えるのではないだろうか。「生きてゆくだけの環境があって当たり前」なのだから、それに取り立てて感謝する気分になれなくても当然である。

一方で、日本では人が生活できる空間は限られていている。嫌になったとしても同じメンバーでやって行かなければならないのだから、他人に迷惑をかけず脅かさないことが美徳とされるようになっても不思議ではない。常に他人との関係が問題になるのはこうした自然環境が影響しているのかもしれない。

無条件の肯定感がない育たない土地に「天賦人権」という種を植えるのは無理なのかもしれない。これは「日本人には天賦人権はいらない」と言っている人の場合にはわかりやすいが「人権を守れ」と言っている人にも等しく言えることだ。そうなると「西洋では当たり前なのだから」と他者を持ち出さざるをえない。

なんとなく「人権を守れ」と言っている人たちがどのようなメカニズムで天賦人権を肯定しているのか聞いてみたい気がするのだが、これを理路整然とした形で聞くのは難しいのではないかと思う。そもそも教わったり考えたりしたことがない問題について語ることはできないからだ。

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NHKの受信料を払いたくない人が大勢いるらしい

NHKの受信料を支払いたくない人がたくさんいるらしい。最高裁判所が「NHK受信料の支払い契約は違憲ではない」という判断を示したことでTwitter上では反発の声がでている。一部の人が反対しているんだろうとも思えるが、実はかなり重要な変化の表れなのではないかと思う。それは「公共放送」への不信感だ。

普通に考えると、裁判所が「受信料支払いは違憲だ」という判断を出す可能性はほとんどなかった。そのような判決が出た瞬間に不払いが増えて大騒ぎになるからだ。にもかかわらず裁判所はけしからんという人が多い。

月2000円という金額をどう見るかは人それぞれだが、できれば払いたくないと思う人がいる一方で、それほど無理な金額とも言えない。にもかかわらず、NHKが反発されるのはこれが「押し付け」になっているからだろう。さらには「お金を払って支えているのに、自分たちの意見が全く反映されていない」と思う人も多いのではないだろうか。つまり、公共に参加しているというような満足感が得られないことが反発の背景にあるように思える。

ポストバブルの20年を見ると「できるだけ公共のようなものには参加したり貢献したりせずに、自分たちの部屋でくつろぎたい」という気分が年々強まっているのを感じる。20年前の通勤電車では不機嫌な顔をして携帯電話に没入するというような景色はなかったのだが、今では「公共空間には決して関わるまい」という強い意志さえ感じる。用事のある人たちはそれでも構わないのかもしれないが、なかったとしても必死でゲームなどをして自分の時間と空間を守ろうとしている。それほどまでに公共とか「みんなで一緒に」というのは嫌われている。

にもかかわらず日本人は「みんなで一緒に」の呪縛から解放されない。

日本ではみんなが見ているものや使っているものを使いたいという気分が強い。新聞の購読者数が減ったりしているようだが、それでも全国紙を購読している割合はアメリカと比べるととても高く、3/4の世帯が新聞を読んでいる。ナショナルブランドも人気が強く「自分だけのお気に入りを見つけたい」という人も増えない。つまり、公共には関与したくないという気分は強いものの、かといってそれを離れる勇気はないのである。

NHK問題への反発の裏には実はこうしたジレンマがあるのだと思う。例えばテレビがなかったとしても時流に取り残されることはない。光ケーブルさえあればTVerでドラマとバラエティーを見て、Yahoo!ニュースの動画配信サービスをみればたいていのことはわかる。まとめてニュースをみたいという人がいるかもしれないが、時間を埋めるためにくだらないコンテンツを集積しておりストレートニュースを流す時間はそれほど多くない。にもかかわらず日本人はテレビを捨てられない。

一方で、こうした公共への不信感は忘却へとつながってもいる。例えば「糸井重里的なものの終わり」を見たときに、怒っていたのは大衆文化とつながっていたい人たちだった。彼らは自分たちの意志が反映されず、いつまでも原宿でタートルネックを着ていい格好をしている文化人の人たちのいうことを聞かなければならないという反発芯がある。つまり「お前らだけがいい格好するために、俺たちを利用するな」ということである。しかし、実際にはこういうブンカジンはもはや流行を生み出してはいない。むしろ流行はインスタグラムの動向によってしたから決まっており、押し付けられた運動は無視されるだけである。

NHKを滅ぼすのは最高裁判所ではないし、最高裁判所が違憲判決を出してれば逆に言論への司法への介入ということになってしまう。むしろNHKは人々の無関心と忘却によって滅ぼされることになるだろう。それは政治家が公共空間を私物化してNHKがそれに乗っているからだ。国民はバカではないので、例えばオリンピックの馬鹿騒ぎが国民のための運動ではなく、一部の人たちが生き残るために利用されているのだということに気がついている。公共を私物化することは怒りを生み出すが、実際に公共を滅ぼすのは怒りではなく無関心と忘却である。

今の高齢者はテレビが必需品なのだが、若い人たちはそうではなくなりつつある。中高年にとって固定電話がない状態を想像するのはむずかしいが、今の若い人たちの中には「固定電話など意味がわからない」という人もいる。地上波のドラマとバラエティーの一部はTVerで見ることできるし、ニュースはYahoo!で民放のニュースを見ることができる。だから「パソコンやスマホ」さえあればテレビはいらないという時代がもう来ている。

むしろ問題なのは公共の押し付けに怒っている人たちがその公共から逃れられないという点なのかもしれない。必要なのは今ある公共に過度に期待せずに適当にお付き合いすることと、自分たちの公共を新しく作り出すことだろう。我々は自分たちに優しい公共を作り出すための方法をあまり知らない。ソーシャルメディアに飛び込んで誰かとつながるためのスキルを学ぶか、一人で生きてゆく方法を今より積極的に学ぶべきなのかもしれない。

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日馬富士暴行問題から日本人が学べること

テレビを見ていたらまだ日馬富士暴行事件を扱っていた。当初からちょっと変わってきたのは在日モンゴル人に取材が入るようになったことである。これを見ていて、日本人として学べるところがあるなと思った。

どうやらモンゴル人特有の事情があり、日馬富士は貴ノ岩に謝れなかったようだ。年上の人が年下の人に誤ってしまうと、年下の人の運気を下げてしまうという。東洋的な面子の問題かもしれないし、別の行動原理があるのかもしれない。その代わりに非言語的な謝罪表現があり、それもモンゴル人から見ているとわかるということであった。

この「非言語的表現」は他の文化からみると違う意味に取られるか無視されることが多い。多分日本人は「日馬富士は言葉に出して謝るべきだ」というのだろうが、これは彼らの非言語的なシグナルが読めないからである。

そして、同じことは日本人にも起こる。日本人は誰かに指名されるまで会議の席ではおとなしくしているのが礼儀だと考える。これは教室で先生のいうことを聞くのが良い生徒だと見なされるという事情があると思うのだが、アメリカでは「会議に非協力的」か「無能である」と取られることが多い。日本人が会議に非協力的ではないことは、盛んに司会者にうなずいたりすることを見ればわかるのだが、このような非言語的なサインはアメリカ人には見逃される。

さらにアメリカ人が「日本人は会議の時おとなしいから積極的に話すように」などと指示をして、日本人がニコニコとうなずいたのに、結局会議では話さなかったということがあると、中には怒り出すアメリカ人もいる。わかっていなかったのかというわけだ。だが日本人は相手を遮ってまで自分の主張を話すことが「会議への貢献であり、自信の表れである」などとは思わない。

ところがアメリカ人が怒り出しても、普通の日本人は申しひらきができない。第一に自分たちが特殊であるということを知らないし、知っていたとしても「自分たちが会議に消極的に参加する文化を持っている」ということを言語的に説明できないからである。日本人を会議に参加させるためには会議の時に指名するか、発言者を遮って発言する練習をさせるべきなのだ。

さらに、白鵬らモンゴル人力士は極めて特殊な立場にある。彼らは確かに「モンゴル人性」を持っているのだが、その上に日本の文化を受容するような社会的・組織的圧力がかかっている。この日本性には表向きの「品格を持ちなさい」という言語的・意識的ものと「先輩から後輩への可愛がりという名前の暴力があたりまえにある」という非言語的・無意識的な側面がある。

実はモンゴル人力士が置かれた状況は、極めて現代の日本人に似ている。日本人にも意思決定やコミュニケーションにおいて「日本人性」があるはずなのだが、戦後アメリカ式の自己主張型民主主義を受け入れたためにかなりミックスされた状態になっている。どちらかを意識して身につけたのであればまだ整理ができるのだが、実際にはごちゃごちゃになっていて「何が日本人的で何がそうでないのか」がよくわからない。

ここから類推すると白鵬らモンゴル人力士も「何がモンゴル的であるか」ということが明確にはわからなくなっている可能性が高い。だから文化的な軋轢があってもそれを理論的に説明できないので、誤解されることになってしまうわけだ。

日本人とモンゴル人はコンテクストを共有していないので、日本人がこれを知ることは不可能であり、従って日本人の文化コードによって一方的に「裁かれる」ことになる。だから正当な判断のためには文化コードをモンゴル人に説明してもらう必要がある。しかし、当のモンゴル人がこれを整理できないということは、誤解が解けることがないということを意味している。

モンゴル人が日本人に申しひらきができないということは彼らの問題なのだから、彼ら自身が解決すべき問題だとは思う。だが、同じことが日本人にも起こりうる。日本人が考えている民主主義は西洋人が考えるところの民主主義でない可能性が高い。だが、日本人はそもそも元になった日本性をうまく説明できないのだから、その上に乗っている西洋性もうまく説明できないはずだ。さらに、この二つはケーキのスポンジとクリームのように層になっているわけではなく、混ざり合っているはずである。

つまり、外国文化に対して自分たちの立場を説明し弁護できないということは、日本人にも起こり得る。白鵬から学ぶのはこの点で、つまり日本人もその日本性が何なのか言語的に説明できるようにしておいた方が良いということになる。

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